川崎寿彦 『イギリス文学史』

「しかしシェイクスピアには今さら彼らと世間の人気を争う気持はなかったようだ。彼は功成り名遂げていた。故郷ストラトフォードには家も財産も手に入れてある。いつ隠居してもよかったのだろうが、ごくおだやかな気持で、リラックスした劇をさらに3つ書いた。」
「いずれもリアリズムとは程遠い。むしろおとぎ話の世界である。第3期〈悲劇の時代〉に人間性の暗い深淵をのぞきこんだシェイクスピアが、ふと目を上げて、新しいおだやかな秋の日ざしに目を細め、「しかし人生は夢であってもいいのだ」と1人つぶやくような、そんな喜劇群であった。」

(川崎寿彦 『イギリス文学史』 より)


川崎寿彦 
『イギリス文学史』
 

成美堂
1988年1月20日 初版発行
1997年12月20日 重版発行
vii 204p
A5判 丸背クロス装上製本 カバー
定価2,100円(税別)



本書はアマゾンマケプレで最安値で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。
英文学史でチョーサー、シェイクスピア、ディケンズが大きくとりあげられるのは常套ですが、その他の人物の取り扱い方をみれば、著者の文学観がわかります。本書だと、「世間から遊離した存在」であったオスカー・ワイルドが1ページ半なのに、「人間らしい生き方とは〈義務〉をはたす生き方である」という思想の持主であったジョージ・エリオットには2ページも費やされています。著者は庭園(=自閉的トポス)愛好家のくせに(というか、それゆえに)「成長」とか社会的「義務」とか「世間」とかを重視しているのが興味深いです。そしてまた、英文学史が『ベオウルフ』(語られる=歌われる詩)ではじまるのは常套ですが、本文掉尾で「ビートルズやボブ・ディランの歌詞」などの「ポピュラー・カルチャー」への言及があるのは、初めと終わりが円環的に連結していて興味深いです。さくさくっとたのしくよめる英文学史でしたが、わたしの好きなイーディス・シットウェルが出てこなかったので残念です。それは当然だとしてもチェスタートンも出てこなかったので残念です。

横組。本文中図版(モノクロ)多数。


川崎寿彦 イギリス文学史 01


目次:

はしがき

第1章 古英語・中英語の文学――15世紀まで
 文学以前のイギリス
 そして文学が生まれる
 〈中英語〉とその文学
 チョーサーは中世文学の華

第2章 ルネサンスの散文と詩――15世紀末―16世紀末
 15世紀は夜明前の暗さ
 ヘンリー8世の宮廷とサー・トマス・モア
 宮廷の抒情詩人たち
 エリザベスは栄光女王と呼ばれた
 シドニーと文芸運動
 スペンサー――牧歌から叙事詩へ
 シェイクスピアの抒情詩

第3章 演劇が起こる――1550―1600
 ルネサンスは演劇の時代
 英国演劇発生の2段階
 劇場が生まれた
 劇作家登場
 マーロゥの力強き詩行

第4章 シェイクスピア――1590―1613
 彼はロンドンに出た
 第1期――新進作家(1590―5)
 第2期――天馬空を行く(1595―1600)
 第3期――深淵をのぞきこむ(1601―9)
 第4期――おだやかな秋の日ざし(1609―12)

第5章 清教徒革命まで――17世紀前半
 時代は暗さを増す
 ジェイムズ王聖書
 ベイコンの散文と思想
 ベン・ジョンソンの気質喜劇
 ジャコビアン・ドラマティストたち
 ダンと形而上派詩人たち
 ジョンソンと王党派詩人たち

第6章 王政回復期――17世紀後半
 〈熱狂〉への反動
 レストレイション・ドラマ
 孤独な巨人ミルトン
 大叙事詩『失楽園』の完成
 晩年の2大作
 バニヤン――もう1人の清教徒作家
 ドライデンの文学が時代を代表した

第7章 18世紀の散文、詩、劇
 イギリスという巨木が根を降ろす
 ジャーナリズムが起こる
 風刺文学の王者、スウィフト
 〈オーガスタン〉すなわちポープの時代
 ジョンソン博士の時代が続く
 ロマン主義の足音が聞こえはじめる
 喜劇が復活し、束の間の華やぎを見せる

第8章 小説の誕生、そして成長――18世紀初期から19世紀初期まで
 新しい市民社会の文学
 リチャードソンの書簡体小説
 フィールディングと〈男の小説〉
 スターンの〈反小説〉的小説
 スモレットとピカレスク小説
 ゴシック小説、またはゴシック・ロマンス
 オースティンと小説の成熟

第9章 ロマン主義時代――1798―1836
 〈自然〉と〈自由〉の主張
 ワーズワスと、いわゆる〈ロマン主義革命〉
 コールリッジ、およびその友人たち
 ロマン派第2世代――まずバイロン
 シェリー――もう1人の反逆のロマン派詩人
 キーツ――純粋美の探求
 スコット――物語(ロマンス)性とロマン派性

第10章 ヴィクトリア朝期の詩と散文――1837―1901
 時代を叱るカーライルの声
 テニソン――時代の詩人
 ブラウニング――もう1人の時代の詩人
 アーノルド――深まる懐疑、そして転進
 ラスキンとペイター――美の新しい主張
 ラファエロ前派
 ワイルド――世紀末の栄光と汚辱

第11章 ヴィクトリア朝の小説―1837―1901
 ヴィクトリア朝こそ小説の時代であった
 ディケンズ――19世紀のエンタテイナー
 ディケンズ――社会を導く声
 サッカレーと『虚栄の市』
 ブロンテ姉妹――牧師館に残ったロマン主義
 ジョージ・エリオットは男名前で勝負した
 ダーウィン思想とヴィクトリア朝後期の文学
 ハーディ――そのペシミズムの文学
 キプリング――大英帝国への挽歌

第12章 第2次大戦までの小説――1902―1939
 ヘンリー・ジェイムズ――小説創作の自意識
 コンラッドは人間の魂の奥底まで降りた
 エドワード王朝期の3人の作家
 ウルフと〈意識の流れ〉の小説
 ジョイスはさらに革新的であった
 教養と知性の作家たち――フォースター、モーム、ハクスリー
 ロレンス――〈生〉と〈性〉の哲学

第13章 第2次大戦までの詩と劇―1902―1939
 エドワーディアンとジョージアン
 ホプキンズと新しい詩の言語
 イマジズムとパウンド
 イエイツ――「今世紀最大」の詩人
 エリオット――「今世紀最大」の影響力
 バーナード・ショー――もう1人の巨人
 オーデンと30年代の詩人たち

第14章 戦後の文学――1939年以後
 戦時中の詩人・作家たち
 40年代の詩人たち
 50年代と〈ムーヴメント〉、そしてそれ以後
 カトリック作家たち
 逆ユートピア小説
 〈新大学才人〉たち
 〈怒れる世代〉の作家たち
 女流作家たち
 ベケット、そして……

文学年表
地図
人名索引
作品・事項索引



川崎寿彦 イギリス文学史 02


川崎寿彦 イギリス文学史 03



◆本書より◆


「第1章」より:

「そして言語が変った。ノルマン系フランス語(Norman French)がアングロ・サクソン語にとってかわった――すくなくとも宮廷を中心とする上層部において。これが古英語にかわる中英語(Middle English 略して ME)のはじまりである。以後、支配階級の持ちこんだノルマン系フランス語と、被支配階級がずっと使い続けているアングロ・サクソン語が、ゆっくりと混ざりあって、中英語、そして近世英語へと成長していく。それはゲルマン系言語要素とラテン系言語要素の混交の過程であった。
 これはずっと後世、19世紀になってからのスコットの小説『アイヴァンホー』(Sir Walter Scott, Ivanhoe, 1819)の一節だが、森陰で宮廷の道化と村の豚飼が話し合っている。時代は13世紀はじめ。宮廷人はフランス語、村人たちはサクソン語を話すわけだが、2人が気にするのは家畜類の呼び名――同じ牛、仔牛、豚、羊などが、野にあるあいだは ox, calf, swine, sheep とゲルマン語系の名前で呼ばれるのに、なぜ食卓に上れば beef, veal, pork, mutton とフランス語系の名前に変るのか。答えは簡単、飼うのはサクソン人、食べるのはノルマン人だからだ。中世英国社会の支配―被支配の構造が、そのまま英語の2重構造に反映されたことになる。」



「第10章」より:

「ラスキンはヴィクトリア朝期の俗悪な物質万能主義を、美のメッセージによって矯正できると信じ、また矯正すべく奮闘した。そして俗悪な世間からは嘲笑された。これに対しペイターは、俗悪な世間をもはや矯正不能と信じ、最初から無視したようなところがある。世間はこれに憤激したが、彼は彼自身の美の世界に生きた。そして限られた読者層に強い影響を残した。」


「第12章」より:

「それにしてもウルフの書く小説は、題といい、舞台設定といい、イメジといい、水と関連するものが多く、いかに彼女の意識の底辺が絶えず水にひたされていたかにおどろかされる。そして第2次大戦が始まって間もなく、彼女は水に身を投げてみずからの命を絶ったのであった。」




















































































































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川崎寿彦 『薔薇をして語らしめよ』

「人類は同じ祖型をわけもつ。しかも人類のなかで同一文明に属する者は、同じ象徴の言語を語るのだ。」
(川崎寿彦 「バラをして語らしめよ」 より)


川崎寿彦 
『薔薇をして語らしめよ
― 空間表象の文学』


名古屋大学出版会
1991年6月25日 初版第1刷発行
iii 348p 人名索引iv
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価5,665円(本体5,500円)
デザイン: 石川九楊
カバー表: 『バラ物語』挿絵(大英博物館蔵)
カバー裏: ミスター・リンカーン(二口善雄画『ばら花譜』平凡社、1983年より)



本書「編者あとがき」より:

「本書は、故川崎寿彦教授の多くの論文のなかから主に〈鍵暗喩(キー・メタファー)〉の分析によって作品の意味を想像力との関係から解明しようとした一二篇を収録したものである。」


本書は買い忘れていたのでアマゾンマケプレで最安値(600円+送料)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。冒頭の「バラをして語らしめよ」はフォークナー「A Rose for Emily」における「Rose (バラ)」の象徴的な意味について論じています。

本文中(「静止点としての一七世紀カントリー・ハウス」)図版(モノクロ)9点。


川崎寿彦 薔薇をして語らしめよ


目次 (初出):

第Ⅰ部 空間表象の文学
 バラをして語らしめよ (『名古屋大学文学部研究論集』73 1978年)
 静止点としての一七世紀カントリー・ハウス (『名古屋大学文学部研究論集』103 1989年)

第Ⅱ部 一七世紀形而上詩人論
 ダンの『第一、第二周年追悼詩』――Occasional Poetry としての考察 (原題「Donne の Anniversaries - Occasional Poetry としての考察」/『名古屋大学教養部紀要』第4輯 1960年)
 マーヴェルの「囲われた庭」 (原題「MARVELL の「囲われた庭」/『英文学研究』第37巻第2 1961年)
 一七世紀の〈小さな世界〉――ある崩壊の過程 (『名古屋大学教養部紀要』第8輯 1964年)
 形而上詩と錬金術――ジョンソンとダンを比較して (原題「形而上詩と錬金術――Jonson と Donne を比較して」/『英文学研究』第43巻第1 1966年)
 ヘンリー・ヴォーンの自然神秘主義 (ピーター・ミルワード/石井正之助監修『形而上詩と瞑想詩(ルネッサンス双書3)』 荒竹出版、1976年)
 形而上詩人とミルトン (『名古屋大学文学部論集』82 1982年)

第Ⅲ部 比較のなかの日本文学
 世界詩のなかの芭蕉俳句 (小西甚一編『風雅のまこと(芭蕉の本 第7巻)』 角川書店、1970年)
 漱石における東洋と西洋 (『東洋文化』第20号 1976年)
 あいまいさの効果――『雪国』についての一考察 (林大/林四郎/森岡健二編『作文の条件(現代作文講座3)』 明治書院、1977年)
 『山の音』の〈家〉と〈人〉――『ハワーズ・エンド邸』との比較から始めて (平川祐弘/鶴田欣也編『川端康成『山の音』研究』 明治書院、1985年)

編者あとがき (山田耕士/磯野守彦/神尾美津雄/鈴木俊次)
初出一覧
人名索引




◆本書より◆


「バラをして語らしめよ」より:

「アダムとイヴはエデンという名の〈庭〉から追放されて〈荒野〉をさまよう身となった。以来人類は、始源の至福の〈庭〉への絶えざるノスタルジアと、終末に期待される天国という名の新しい〈庭〉へのはげしい渇仰との間に揺れ動きながら、〈荒野〉に生きてきたといえる。〈庭〉と〈荒野〉とは、だから、人類の全体験にかかわる根源的なタイプとアンチタイプだった。
 エリオットが『荒地』を発表したのが一九二二年、『四つの四重奏』を完成したのが一九四三年である。その二〇年余の思索の歩みは、大まかにいえば〈荒地〉から〈バラ園〉への歩みであったといえよう。しかしわれわれはその〈荒地〉の前にあった始源の〈バラ園〉が、有した意味、果した機能についても、忘れてはならない。すなわちエリオットは自分の幼児期性体験の空間を、彼個人にとってのエデン的〈バラ園〉として把握し、その「経験」を「新しいかたちで回復する」ことをもって、〈荒野〉脱出のための踏切り板にしようとこころみたからである。
 これは深くダンテ的なことでもあった。(中略)〈暗い森〉が、〈荒地〉と並んで、〈バラ園〉のアンチタイプであったことは、象徴言語の体系の全体を見渡しつつ理解しておいてよい事柄であろう。」



「ヘンリー・ヴォーンの自然神秘主義」より:

「ヴォーンの自然神秘主義には、一七世紀瞑想詩の一つの中心であった、聖ボナヴェントゥーラ以来の〈自然の本〉(the Book of Nature)または〈被造物の本〉(the Book of Creatures)の伝統が流れている。そこでは被造物は「神の聖なる象形文字」すなわち神の人間に対する啓示の手段とみなされ、したがって〈被造物の本〉は〈聖書〉と並んで、キリスト教徒が敬虔に読まねばならぬ二冊の本となるのである。なかんずく一七世紀中期にあっては、清教徒が「聖書のみ」(sola scriptura)を主張する立場をとったことと対照的に、被造物の本を熟視しようとする立場は、英国国教徒の瞑想の重要な特徴となったのであった。
 ヴォーンの詩の多くは、この被造物の本の伝統と、直接、間接にかかわっているのであるが、なかでも彼の瞑想詩の代表作の一つである「ある日、時間つぶしに散歩をしたら」(“I walkt the other day (to spend my hour)”)などは、自然の事物の一つ一つを見て回る詩人の歩みが、被造物の本を一ページずつ読んでいく読者の行為を暗示するように書かれている。」





こちらもご参照下さい:

ヤコブセン 『ここに薔薇ありせば 他五篇』 矢崎源九郎 訳 (岩波文庫)
W・B・イェイツ 『神秘の薔薇』 井村君江+大久保直幹 訳 (新装版)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『永遠の薔薇・鉄の貨幣』 鼓直・他 訳
佐藤春夫 『病める薔薇』 天佑社版 (複刻)
中井英夫 『薔薇幻視』 (平凡社カラー新書)
アレクサンドル・ブローク 『薔薇と十字架』 小平武・鷲巣繁男 訳 (平凡社ライブラリー)
フランセス・イエイツ 『薔薇十字の覚醒』 山下知夫 訳
若桑みどり 『薔薇のイコノロジー』
葛原妙子 第四歌集 『薔薇窓』
ルイージ・マレルバ 『皇帝のバラ』 千種堅 訳
大場秀章 『バラの誕生』 (中公新書)
Pierre-Joseph Redoute 『The Roses : The Complete Plates』 (Taschen)
















































































川崎寿彦 『マーヴェルの庭』

「〈囲われた庭〉についても、その背後にはかなり広汎な心理的要因がひそんでいると推測するのが至当であろう。そしてそれは、(中略)十七世紀の一部の作家たちに共通する、あの広場恐怖症的 agoraphobic な心理傾向であったように思われる。」
(川崎寿彦 『マーヴェルの庭』 より)


川崎寿彦 
『マーヴェルの庭』


研究社
1974年3月10日 初版発行
340p 目次3p
A5判 丸背クロス装上製本 
機械函
定価2,300円



本書はまだよんでいなかったので、アマゾンマケプレでよさそうなのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。送料込で1,400円でした。
本書は要するに引きこもりの心理と世界観を英詩の伝統に探った本であります。
欧米的労働尊重的世界観からすると引きこもりは「悪」であり、あらかじめ失われた楽園は地上に求むべくもないですが、東洋的無為自然の世界観からすれば引きこもりは「徳」であり、仙境はいま・ここにあります。引きこもらずに外へ出る「成長」好きの欧米人は植民地主義者や侵略者、環境破壊者にならざるを得ないです。近代日本はある意味欧米なので引きこもりへのバッシングはとてつもなく熾烈であるゆえ、高度経済成長期の日本人である川崎氏は十八世紀英国形而上詩人の庭=小世界(ミクロコスモス)へのアンビヴァレントな愛憎(引きこもりたいけれどうしろめたいから外に出なければならない)に共感するのでありましょう。


川崎寿彦 マーヴェルの庭


帯文:

「近代思想史の大分水嶺である十七世紀の英国にあって、その精神風土が象徴的に表われた〈庭〉を秀抜に歌い上げたマーヴェルの驚嘆すべき詩才を、気鋭の著者が繊細な詩的感受性に裏打ちされた明敏な批評眼でとらえる。」


目次:

序章 ホモ・ホルトゥラーヌスからクロムウェルまで

第一章 マーヴェルと十七世紀の庭
 庭狂い(フュロール・ホルテンシス)
 清教徒たちの庭
 王党派の庭
 両派の対比
 そしてマーヴェル……
 囲われる心理
 〈庭〉と〈小世界〉

第二章 庭に自閉する――「子鹿の死を悲しむニンフの歌」
 ポリフォニック・イントロダクション
 政治世界との照応
 子鹿と小羊
 小羊派の系譜
 鹿狩りの儀式
 ピエタ
 〈庭〉と聖母
 処女と一角獣
 ニンフの純潔
 傷心と自閉と白昼夢
 投射と補償
 庭の侵入者
 イデアの世界へ
 彫像と永遠化

第三章 庭を賛える――「庭」
 家庭教師
 〈庭〉の喚喩法
 創作年代推定の問題点
 花時計のなぞ
 第一連――安息の庭
 第二連――美味なる孤独
 第三連――女嫌いの庭
 第四連――愛欲と変身
 第五連――樹木性愛(デンドロエロチシズム)
 その暗喩性の評価
 第六連――緑蔭緑想
 第七連――銀の翼に紅の光
 第八連――アンドロギュノス・アダム
 最終連――かぐわしき花時計
 庭のなかの時間
 花のカイロス
 〈庭〉の隙間風

第四章 庭を責める――「庭を責める草刈人」
 〈反〉の英雄
 〈反〉の庭
 Art 対 Natura
 Nature 対 Nurture
 「接ぎ木」は是か、否か?
 「自然児」は自然か?
 政治と自然
 草刈人の正体は?
 庭のメフィスト

第五章 庭でためらう――「アプルトン屋敷を歌う」
 作品の構成
 つつましい家
 誇張の調子(トーン)
 仮の宿
 尼僧院という〈庭〉
 蛇の雄弁
 行動の人ウィリアム
 英雄像の曖昧さ
 花園の人工性
 賞賛のアンビヴァレンス
 不思議の国のマーヴェル
 草刈人の恐怖
 草刈人への賛美
 鏡さまざま
 草地から森へ
 心の森(シルウァ・メンティス)
 鳥類寓意画
 キツツキの寓意
 森のヘルメス性
 あまりに快い場所
 水辺有閑
 デミウルゴス登場
 夕闇に飛ぶカワセミ
 マリーア・ハイメン
 〈小世界〉の力業
 形而上詩の宿命
 素性を隠した苦い道化(ビター・フール・インコグニトー)

第六章 庭から歩み去る――「バーミューダ島」そのほか
 定住性と流動性
 〈小世界〉対〈新世界〉
 〈エミグレ〉と〈ピルグリム〉
 洋上楽園の秘密
 文脈の混乱
 〈時〉さまざま
 クロムウェル的〈時間〉
 クロノス対クロムウェル
 〈エデン〉から〈新エルサレム〉へ
 〈ユートピア〉から〈千年王国〉へ
 第三の〈時間〉

結章 〈世界〉から〈歴史〉へ

あとがき
主要文献
索引




◆本書より◆


「序章」より:

「庭が人間に与える喜びは、自己の手で、自己の尺度に合うように、自然を再生産し支配しえているという、象徴的満足感であろう。いいかえれば庭とは、それを作る人にとって世界の模像(イマーゴ・ムンディ)であり、小宇宙(ミクロコスモス)なのである。(中略)人間とはまさしく「庭を作る動物」と呼ばれるべきである。ホモ・サピエンスはホモ・ホルトゥラーヌスなのだ。」
「そもそも詩を書くことが象徴的行為であり、いままた庭を作ることが象徴的行為であるとすれば、庭をめぐって書かれた詩というものには、かならずや濃密で根元的な象徴性がこめられているに違いない。本書はマーヴェル Andrew marvell (一六二一―七八)の詩のなかで、〈庭〉の象徴心象が果たす機能を分析追求し、それによって彼の文学の本質に迫ろうとこころみるものである。それはこれまで私がダン John Donne (一五七二―一六三一)の文学のなかで、〈小世界(マイクロコズム)〉のイメジャリーが果たす機能を追ってきたのと、発想および方法において豊富な共通点をもつことになるだろう。そしてもしわれわれが、ダンとマーヴェルこそあの形而上詩と呼ばれる十七世紀英詩の伝統の最初と最後を飾った詩人であるという事実に注目するとすれば、この両者に共通する、類似の象徴心象の機能の分析は、形而上詩の本質に向けてのある種の洞察にわれわれを導くかもしれないのである。」



「第一章」より:

「この種の清教徒的な庭を、伝統的なホモ・ホルトゥラーヌスの庭と比較するとすれば、実体の懸隔はいかんともなしがたい。清教徒の庭は、やはり清教徒の世界の模像(イマーゴ・ムンディ)であり、それ以外の何物でもなかった。まずそれは、なによりも生産を目的とした空間なのだから、(中略)〈庭〉の根本に横たわる象徴化衝動からは、数歩遠のいた場所に位置している。」

「共和制下に王党派の人びとが作り、あるいはそれについて書いた庭が、(中略)「遊びのための庭」の伝統をつぐものであったろうことは、容易に推測できるであろう。その特徴の第一は「装飾性」であった。そして第二は(これが意外に重要な意味をもつことになるのだが)、「秘密性」といおうか、つまりは人目から守られていること privacy なのであった。」

「ヴォーンやペンロゥズの詩が都市を嫌悪し田園を賛美する強い傾向をもっていたことはすでに述べたが、クーリーの(中略)つぎの一行は同じ心情をエピグラマティックに集約している。

  God the first Garden made, and the first City, Cain.
  神は最初の庭を作り、カインは最初の都市を作った。

なお、“Cain”の語源が「鍛冶屋」であり、その子孫が「文明」の担い手となったという伝承を、想起すべきであろう。」

「十七世紀中期の〈庭〉は、すくなくとも精神的・心理的には、「囲われ」ていたのである。」
「すでに私は、十七世紀の〈庭〉が世界の代わり(スロガートゥス・ムンディ)であったであろうという推測を語った。〈囲われた庭〉がまさしくそれであったことを、いまやわれわれは疑うことができない。そもそも、なんらかの理由で世界が自分の手に負えなくなったとき、故意に自分の周囲に囲いを立てめぐらせ、扱いやすい小空間を作ってそこに自閉しようとする衝動は、人間にとってごく自然な衝動なのであろう。それはまさしく、バシュラールのいう「トポフィリ」(場所への愛)を生み出す衝動である。そしてこのようにして作られる空間は、バシュラールが「幸福な空間」、「所有している空間」、「敵の力に対して守られた空間」、「ほめ賛えられた空間」などの言葉で呼ぶところのものであろう。われわれは〈囲われた庭〉をその種の小空間の一つだったと解釈すべきである。そしてそれが十七世紀中期にとくに必要とされた理由は、あの清教徒革命を頂点とする政治・宗教・思想的緊張にほかならなかった。」
「ただし十七世紀の世界の代わり(スロガート・ムンディ)は、〈囲われた庭〉のほかにもあった。たとえばダンの部屋とか小世界のイメジャリーは、まさしくそれなのである。そして、いうまでもなく、ダンのこれらのイメジャリーは清教徒革命と直接のつながりをもたない。 
 とすれば〈囲われた庭〉についても、その背後にはかなり広汎な心理的要因がひそんでいると推測するのが至当であろう。そしてそれは、(中略)十七世紀の一部の作家たちに共通する、あの広場恐怖症的 agoraphobic な心理傾向であったように思われる。」



「第六章」より:

「マーヴェルが美しいアプルトン屋敷に「後ろ髪をひかれ」たのは、じつは彼が清教徒によって代表される新興商工業階級に最終的に身柄をあずけようとして、なおかつ定住的領主階級へのあこがれを断ち切れなかったという、相反感情(アンビヴァレンス)にほかならなかったともいえるのである。」


「終章」より:

「かつて私は、ダンのさまざまな〈小世界〉イメージが解体していく過程を論じた。いま、マーヴェルの〈庭〉という、〈小世界〉イメージの崩壊を論じ終えたところである。あとの、醒めたマーヴェルに、何が残ったか? それはあのバーミュダ島の水夫たちが、黙々と、規則正しいリズムで、オールを漕ぎ続けるような、そんな詩風であった。また彼が、凡庸なる世の為政者たちに期待したような、「規則正しい歩調で謙虚に」歩み続ける、そんな詩風であった。規範からはずれるものをきびしく責める冷厳さはあっても、それはもはや、静的恍惚とも、激動の陶酔とも、無縁であった。「ダンの息子」は、こうして、「ドライデンの父」――それも、かなり見劣りのする父――として、つつましい文学的生涯を終えるのである。」























































































川崎寿彦 『ダンの世界』

「このような逃亡の姿勢はすべての形而上派詩人たちになんらかの形で共通するものだが、とくにダンと、この伝統の最後を飾ったサー・トマス・ブラウンとの類似はいちじるしい。」
「ブラウンは、ひそかなもの、かくされたものにこそ、真実と永遠性の保証を見るのだし、小さく目立たぬものの至福を讃美するのである。(中略)ブラウンは言っている――「知られずにあることこそ永続の手段であり、めだたぬことこそ守りである」と。」

(川崎寿彦 『ダンの世界』 より)


川崎寿彦 
『ダンの世界
― 天上の女と地上の神』
 

研究社
1967年6月1日 初版発行
1972年7月20日 三版発行
274p まえがき・目次7p
18.6×13.4cm 
丸背クロス装上製本 カバー
定価1,000円



本書「むすび」より:

「私はダンを、若くして〈天上の女〉を求め、老いて〈地上の神〉を追った詩人である、と考えたい。」
「なぜなら人間は、若いころ(中略)は、みんな大なり小なりアイデアリスト・パーフェクショニストであり、のちに社会人として人生を生きるようになってはじめて、妥協と不純を学ぶのだから。ただ、このおなじ経過が、その人にとって成長を意味する場合もあれば、退歩を意味する場合もある――それだけの違いはあるわけだが。」



本書はアマゾンマケプレで最安値のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。
そういうわけで、前半(非社会人=「孤島」であったころのダンを論じた部分)はたいへん興味深いですが、後半(その後の「孤島」でなくなった社会人としてのダンを論じた部分)はたいへん退屈でした。「社会人」とか「人生を生きる」とか「成長」とかにはまったく興味がないからです。
しかしそれはそれでよいです。


川崎寿彦 ダンの世界 01


目次:

まえがき

序――方法について

第一章 なぞのダン
 1 懐疑的な主任弁護人
  〈分裂〉の神話
  証言の要約
  証言をひるがえす
  回心の実態
  〈主観的〉批評と〈客観的〉批評
2 さまざまな証言(占星術師から宇宙飛行士まで)
  アウグスチヌスからハムレットへ
  二十世紀のファンタジー

第二章 その恋愛詩
 1 恋愛への逃避?
  宇宙迷亡
  「お早よう」
  居心地よい小さな世界
  反社会性
  シニカルな詩
  パーフェクショニスト
 2 恋愛からの逃避?
  アイデアリズム
  〈一〉に向かう姿勢
  弁証法的単性生殖
  新プラトン主義
 3 天使的愛についての仮説
  非行為者の恋
  「遊離」の態度
  女性のイデア
  イデアとシャドーボクシング

第三章 イメジャリー分析
 1 イメジャリーの奥ゆき
  底になにかがある
  ふたたび〈なぞのダン〉
  傍証――「列聖」の比喩
 2 あるイメジャリーの系譜
  〈照応〉の原理
  〈巨大な鎖〉
  〈秩序〉への願望
  〈象徴主義〉の伝統
  ルネッサンスとプラトン主義
  近世のマイクロコズム
 3 そしてダンはそれを……
  正統的な象徴主義
  より広く〈象徴的〉に
  逆説・誇張・行きあたりばったり
  涙の〈マイクロ・マイクロコズム〉
  より小さく、より奥まって
  そしてイデアへむかう

第四章 天国は汝のうちにあり
 逃避者の天国
 宗教的恋愛詩
 エゴチスト
 あこがれは自我の喪失
 プラトン主義者
 プラトニック・リアリスト
 「恍惚」
 ペトラルキスト・ダン
 天国の所在

第五章 時代背景
 1 分裂の時代
  危険な次代
  ダンと時代不安
  何を、なぜ、おそれたか
  逃亡の姿勢(サー・トマス・ブラウン)
  拡大する宇宙と考える葦
  アゴラフォービア(広場恐怖症)
  小さいものへの偏愛
  その他の詩人たちも
 2 融合の願望
  意味づけ
  調和の原型
  ダンのばあいも
  宗教的奥ゆき
  ノミの歌
  分裂の時代なればこそ
 3 美しすぎる〈囲われた庭〉
  〈メタフィジカル〉という意味
  クーリーとダン
  形而上的逃避
  マーヴェルの「庭」
  楽園脱出

第六章 その後の足どり
 1 純粋観客
  エラスムスとダン
  〈小さな部屋〉の現実
  苦悩と成長
  行動への欲求
  屈折・ゴスの推理
  神の道・人の道
  二転・三転
  不決断・行動からの逃避
 2 ためらいながらも
  家賃の詩
  その構造
  「第一周年追悼詩」――悲嘆のエレジー
  「第二周年追悼詩」――なぐさめのエレジー
  進歩
  伝道者意識の誕生

第七章 ヨルダンを渡れば……
 1 雲より語る天使
  スター牧師
  不純と妥協
  プリムローズの教え
  〈小世界〉のゆくえ
 2 〈自〉と〈他〉――〈一〉と〈多〉
  観客から役者へ
  〈他〉の意識
  聴衆への伝達
  〈働きかけ〉の神学
  〈多〉の主張
  もうひとりのプラトン
 3 ヨルダンを渡っても……
  ぶきみなナルチス
  スーパーデラックスの元祖
  神への溶解
 4 誰のために鐘は鳴ったか?
  二人のダンがいた
  島と大陸
  鐘は鳴る

第八章 天国は汝らのあいだにあり
 文体の変遷とダン
 英国国教会とダン
 プロテスタンティズムとダン
 宗教の二つの面とダン

むすび――天上の女、地上の神

参考文献
索引



川崎寿彦 ダンの世界 02



◆本書より◆


「序」より:

「もしかりにダンを山にたとえるとすれば、妙義山のような山ではないだろうか。突兀峨々(とっこつがが)として奇抜ではあるが、ひじょうに品位ある山容とはおもえない。」
「時代によって、また個人によって、ダンに対する好みが極端にちがうのも、こんなところに原因があるのかもしれない。すくなくとも私は、どちらかといえば伊吹山のような山が好きなのである。それはとくに高くはないが、裾野からのゆったりした稜線がいつ見ても美しい。おなじ十七世紀の作家でも、サー・トマス・ブラウンなどはこの感じである。」



「第二章」より:

「たしかにエンプソンのいうように、ダンがその恋愛詩の多くを書いたと考えられる一五九〇年代のロンドンでは、若いインテリのあいだに異端的風潮がうずまいていた。そしてそのいくらかの部分が新しい天文学に関係していたこともまちがいない。つぎつぎに発見された「新星」が、古い宇宙秩序の崩潰を不吉に予言していたし、そのような現象とそれまでに達成されていた地球上の新大陸発見との当然と言えば当然すぎる連想から、「新しい世界」「新しい人種」が宇宙のかなたの惑星上に空想されるようになったことも、自然の勢いであったといえよう。この間の事情については、エンプソンのような無責任(?)なニュークリティックだけでなく、博学無類な概念史派の学者ニコルソン教授によって充分に語りつくされていることを、つけくわえておこう。」
「ところでエンプソンはここから出発して、当時のインテリの最尖端を行っていたダンが、「惑星移住」のひそかな願望を彼の恋愛詩にこめたと推断するのである。」



「第二章」より:

「ダンとその後継者たちについてもっとも初期に語られたもっとも有名なことばは、ドライデンのつぎのことばだろう。

  ダンは、サタイアのなかだけでなく、自然の感情のみが支配すべき恋愛詩のなかでさえ、メタフィジックスをてらう。そして、彼が女性たちのこころをとらえ彼女らを愛のやさしさでたのしませるべきときに、哲学のややこしい思弁でもって女性の頭を混乱させる。

 またこれに続いて十八世紀のジョンソン博士が、クーリー(Abraham Cowley)を形而上派詩人の代表に立てて批判した評論も有名である。これも論旨を簡単にまとめれば、これらの詩人たちが「自然を逸脱して形而上学をてらった」ということである。」
「私は、この二人の言っていることはまことにもっともだとおもう。たとえばジョンソン博士がこれらの詩人たちを評して「遊離した」(“detached”)傍観者であると評したことばは、彼ら文学のある一面をついてまさにこれ以上を望めない洞察だとおもう。」
「エリオットも、さすがにすぐれた洞察力を示している。ダンはたいした恋愛はしなかったろう、というのだ。」
「ただわれわれにとって重要なのは、ダンは「たいした恋愛」をしていなくってもたいした恋愛詩が書ける詩人だった、ということである。(中略)つまり、やはり詩的想像力の問題である。
 そしてもうひとつ、さらに重要なのは、その「たいした恋愛詩」が、たえずなにか純粋な恋愛以外のもの、なにかダンにとってもっと切実であるらしいもの、を表しているような印象を与えることである(中略)。つまり、詩的想像力の偏向の問題とでもいえるだろうか。」
「つまり本質的に恋愛に身をゆだねていないということである。」

「私はダンが典型的な〈アイデアリスト・パーフェクショニスト(つまり、イデア的存在に執着しているため、地上の妥協に満足できないタイプ)であったことが、その全般的に〈非行為者的〉姿勢の原因だとおもっている。その意味でダンはハムレットに似ているのだ。そしてダンがごくまれに示すほとんど突発的ともおもえるほどの行動力(中略)も、やはりいくぶん、カーテンのかげのポロニアスを刺殺したハムレットのそれと似かよっていないだろうか。」



「第三章」より:

「〈マイクロコズム〉はけっして思想史上の一時的な気まぐれではなく、西欧の思想体系のなかにがっちりと組みこまれたものだった。たとえば、ライプニッツの〈モナド〉はやはり一箇のマイクロコズムではなかったろうか。私はライプニッツをよく知らないから、『ブリタニカ』第八版がまとめたところを引用しておきたい。

  多を一にあらわすのがモナドの性質であり、そしてこのあらわす行為はすなわち、外界の事象が内部に映されるところの知覚である。それ自体の活動によってモナドは宇宙を映し出すが、それぞれのモナドがそれぞれの方法でそれぞれの視点からそれをおこなうのである。」

「だが私の目的はけっしてダンを新プラトン主義者と定義することではない。彼に出来あいのレッテルをはろうとするこころみは、たいていの場合、こっけいな失敗に終わるだろう。たとえば、このマイクロコズム概念のとりあつかいにしても、ダンの特徴はけっして正統性のなかには発見されない。たとえどれだけ伝統的な概念でも、彼の手にかかれば、特異な、きわめて個性的な機能を発揮するものに変えられてしまう。」



「第四章」より:

「ここで私は、かつてなされた二つの重大な発言を想起する。第一は、ラヴジョイが〈存在の鎖〉について語った「〈一〉への指向は、中世キリスト教会が教えた contemptus mundi (現世の軽蔑・天への渇仰)の方向にほかならない」という正確な指摘である。ダンの恋愛詩にはたしかにそれがある。」
「もう一つは、リーシュマンが「ベン・ジョンソンとダンの詩の相違は、public な詩と private な詩の違いだ」と定義したことである。引用してみよう。

  ホワイトヘッドがかつて宗教を定義して「個人が孤独をどう扱うかということだ」と書いたことがある。ダンのまじめな詩のほとんどすべて――宗教詩におとらず恋愛詩も――は(中略)詩人が孤独をどう扱っていたかの記録である。この孤独性(solitariness)この私的性格(privateness)この自己充足性(self-containedness)、これこそが、しばしば弁証法的で劇的な表現もとるが、ダンおよびいわゆる形而上派と、ジョンソンおよび古典派またはホラチウス派とのあいだのもっとも重要な差違であるようにおもわれる。」

「また、よく言われるダンに自然描写がないという事実も、すこし比喩を延長すれば、窓際に立ったダンが、外の景色は見ずに窓ガラスに映る自分の姿に見とれているからだ、といえなくもない。ある批評家はいみじくも言っている――「ダンは、一生、自分自身の姿を反射しないような窓を知らない男だった」と。」

「ダンの恋愛詩は、〈一〉へ、絶対的な〈イデア〉へと向かう衝動を顕著に示すものであり、その意味で本質的に宗教的性格を帯びたものであった。
 しかもその〈一〉への圧倒的な指向は、彼の内部の強烈な自我の渇望を満たすためのものであった。その意味で、彼の天国は、エンプソンのいう宇宙の涯(はて)の新惑星にあったのではなく、彼自身の内部にあったのである。」



「第五章」より:

「このような逃亡の姿勢はすべての形而上派詩人たちになんらかの形で共通するものだが、とくにダンと、この伝統の最後を飾ったサー・トマス・ブラウンとの類似はいちじるしい。」
「ブラウンは、ひそかなもの、かくされたものにこそ、真実と永遠性の保証を見るのだし、小さく目立たぬものの至福を讃美するのである。ダンの恋人たちが「半エーカーの墓地」よりも「美しく作られた骨壺」におさめられたいとねがったのと、まったく一致するわけだ。ブラウンは言っている――「知られずにあることこそ永続の手段であり、めだたぬことこそ守りである」と。また、「ひそやかにひとりいることにより罪を知らぬものはさいわいなるかな」と。」

「ブラウンは、つぎのような忘れがたく印象的なことばを語るのである。

  私が見つめる世界は私自身であり、私が目をやるのは私自身の体というマイクロコズムである。もう一方〔すなわち大宇宙〕はといえば、それを私は私の地球儀のように用い、自分のたのしみにくるくる廻してみるのだ。(中略)地球がわずか一点にすぎないのは、われらの頭上の天と比較した場合だけでなく、われらの内部の天国のごとく霊的な部分と比較してもそうなのである。(中略)私は自分自身がどのようにマイクロコズムまたは小世界であるかと研究してみても、自分が大世界より以上のものであることに気づくのだ。たしかにわれわれの内部には神性の一片が存在する。(『医家の信仰』第二部十一節)
 
 大世界がじつは小世界にすぎず、小世界こそがじつは真の大世界なのだという逆説は、ダンのお得意であったことをわれわれは知っている。しかも大世界を一箇の地球儀にみたてる比喩も、ダンがすでに用いている。ただダンの場合にはそれらの逆説が、説教者としての修辞的効果を最大限に発揮することを第一の目的にしているのにくらべ、ブラウンの場合、彼の生活全体が、科学者としての自然観察をじつは科学と自然からの逃避の手段として利用していたという逆説になっている。その意味でこのおだやかな新プラトン主義者の文学は、ダンの場合よりもさらにいっそう切実になった時代精神の苦悩の象徴とみなされるのである。」

「こうして、いわゆる形而上派の詩のもっともそれらしい表現のかなりな数は、〈大〉と〈小〉の象徴関係をもって代表されるような〈照応〉の原理に対するさまざまな働きかけを示し、しかもそこになんらかの全価値的意義を信じたいという姿勢を示すものであることがおわかりいただけたとおもう。それは、現実の世界――大世界――が膨脹し、拡大し、自己崩潰の危険にさらされるにつれて、すくなくともそれに対する詩の世界には、美しく緊張した統一と照応の原理があることを信じようとする態度であったといえないだろうか。」





こちらもご参照下さい:

M・H・ニコルソン 『円環の破壊』 (小黒和子 訳)
オリバー・サックス 『妻を帽子とまちがえた男』 高見幸郎・金沢泰子訳 (サックス・コレクション)
岡谷公二 『島 ― 水平線に棲む幻たち』 (日本風景論)


















































































































































川崎寿彦 『鏡のマニエリスム』 (研究社選書)

「人間がこの地上に生をうけるとは、光の国であるイデア界から追放されることにほかならず、彼は数十年の苦難の生の後、ようやく元の光の国に回帰する。」
(川崎寿彦 『鏡のマニエリスム』 より)


川崎寿彦 
『鏡のマニエリスム
― ルネッサンス想像力の側面』
 
研究社選書

研究社
昭和53年9月10日 初版発行
227p 
18×11.8cm 
紙装上製本(薄表紙) カバー
定価980円
装幀: 熊谷博人



冒頭に引用した「光の国」うんぬんはネオプラトニズムの死生観の説明ですが、かんがみるに、わが国「物語の出で来はじめの祖(おや)」であるところの「竹取物語」こそまさにエイリアン少女が主人公のネオプラトニズム小説であったわけで、カグヤ姫の鏡はマニエリスム的な自閉症の月の鏡でありました。
それはともかく、本書はうっかりしてまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。

本文中図版(モノクロ)多数。


川崎寿彦 鏡のマニエリスム 01


目次:

プロローグ――エリザベス女王と浴室の鏡

1 鏡の歴史相と普遍相
 古代の鏡は人間的欲望の万華鏡であった
 比喩としての鏡はいっそう重要である
 明晰な近代リアリズムの鏡
 魔法の鏡もあった……
 鏡像体験は分身体験でもある
 『雪国』の鏡もドッペルゲンガーを生む
 鏡面呪術は今日にも生きている

2 ダンとマニエリスムの鏡
 ベイコンは鏡の比喩をどう用いたか
 マニエリスムの鏡は新プラトン主義につらなる
 ベイコンと同時代のダンの鏡は……
 ダンは鏡の眩暈を知っていた
 恋人の瞳も鏡であった
 涙の凸面鏡と触覚型イメジ
 涙は地球儀に変わる
 「恍惚」の瞳と視覚の原理
 新しい世界が新しい視覚の原理を生む
 シェイクスピアにとって眼は何であったか
 眼の〈マニエラ〉
 瞳の凸面鏡は子を孕む
 奇想(コンシート)とは妊娠(コンシーヴ)することである
 凹面鏡はきらわれ、凸面鏡は好かれた
 絵画史のなかの凸面鏡
 聖パウロの鏡と眼鏡の比喩
 ハーバートの鏡とステンドグラス

3 望遠鏡からマーヴェルの鏡まで
 ヴォーンと聖パウロと望遠鏡
 ダンの宗教詩と望遠鏡
 望遠鏡は宇宙の歪みを教える
 でも、まだ凸レンズはタブーであった
 顕微鏡とともにタブーは消える
 パスカルにおける極大と極小
 ガラスと鏡の両義性
 形而上詩は鏡の両義性を愛した
 〈感性の分裂〉は魔法の鏡を割る
 マーヴェルの緑の鏡
 マーヴェルは時代の最後の鏡をかざす
 だがマーヴェルの新しい鏡はスウィフトを占う

エピローグ――無限級数の戦慄

あとがき



川崎寿彦 鏡のマニエリスム 02



◆本書より◆


「鏡の歴史相と普遍相」より:

「鏡が「映す」ものでありながら「顕す」ものであるという二面性は、おそらくそのままイメジというものの二面性とつながっているのだろう。そもそも〈イメジ〉という概念が、二つのまったく違った方向を指し示す。その語が一つには「外界の模像」を意味し、もう一つには「内界の反映」を意味するからである。心理学における〈イメジ〉の重要性は、その概念が後者の意味で理解される場合に高まるといえるだろう。
 鏡の奥をのぞきこむ行為は、自己の心理の深層をのぞきこむような、畏怖に満ちた体験である。心象としてのイメジの問題は、鏡を軸にして、肖像(にすがた)としてのイメジの問題とからんでいく。
 水面にしろ、なにか磨かれた物の表面にしろ、そこに自分の影が映し出されるのを認めた瞬間のわれらの祖先の狼狽、畏怖、感動、不安は、おそらくわれらの内部に祖型的な体験として残っているだろう。それは自己の実在性の確認であるとともに、その分裂、稀薄化の体験であったと思われる。(中略)「映す」とは「移す」ことにほかならなかった。鏡の向う側に自己の実体が移動し、こちらを見つめているという眩暈に似た体験、鏡の向う側にもう一つ世界があるという認識がもたらす恍惚たる分裂感覚は、人間心理のある局面とつねに深くかかわってきたのである。」

「わが国の能舞台の奥にある〈鏡の間〉とは、舞台に歩み出る前の能役者が自己の姿を鏡に映しつつしばしたたずむための空間であるが、その行為の目的は、たんに衣装や面を整えるという実用的なことでなく、着衣着面のおのれの姿を見つめることによって、そのペルソーナを獲得することにある。きわめて厳粛な呪術空間と呼ぶべきである。」



「ダンとマニエリスムの鏡」より:

「グロテスクにゆがんだ映像を与える種類の鏡、あるいはその種の鏡を何枚か組み合わせた遊戯的な光学器械は、当時のヨーロッパでかなり出回り、話題になったものであるらしい。皮肉なことだが、これも鏡の製造技術の進歩の副産物であったのだろう。つまり、物を明るく正しく映す鏡をたくみに作れるようになった職人たちの、いささかよこしまな手すさびの結果だったのである。
 これはすぐれてマニエリスティックなことではなかっただろうか。なぜならマニエリスムとは、実用性よりは遊戯性が、自然よりは術(アート)が、表現よりは手法(マニエラ)が、そして理性よりは想像力が、優位に立ったときに生まれるものにほかならないから。」

「芸術家は、外に実在するものを模写するだけでなく、外には実在しなくても彼自身の内部で着想(コンシーヴ)されたものを外部へ投射する存在となる。」
「時代はあきらかにプラトン主義的な模倣の反射鏡から、新プラトン主義的な創造の映射機に、鍵暗喩(キー・メタファー)を移しかけていたようである。」

「外の世界で科学的認識構造がコペルニクスの転回を達成しつつあったとき、内の世界ではそれをもう一度裏返す奇想の手づまが演じられていた。それは拡散に対する収縮の主張であり、宇宙論的中心喪失(コズミック・アセントリシズム)にあえて拮抗して、自分自身またはその密室を〈中心〉として再主張しようとする挑戦的意志であり、あるいは足元をすくわれて宇宙の暗闇に投げ出され塵と化する運命を拒否して、密室のベッドのぬくもりに自己の存在を確認し合おうとする退行的情熱である。」

「そもそも一六世紀には地球儀や天球儀の類が普及しはじめ、次第に紳士の書斎の必需備品となってきた。(中略)しかし詩人たちがこれらの地球儀・天球儀にかけたさまざまの想いには、複雑に屈折した反動的感性が垣間見られることが多いように感じられる。彼らのある者は、宇宙像が急速に拡大してゆくことに純粋な知的興奮を感じたかもしれないが、他の者はむしろ自己の書斎(ストゥディオーロ)に愛玩可能なサイズの宇宙を閉じこめようとこころみていたのではなかったろうか。トマス・ブラウン卿(一六〇五―八二)はつぎのように意味深い述懐をしている。
   私が本気で考える世界は私自身であり、見つめるのは私の身体という小宇宙である。もう一つの世界のほうは、地球儀のように使って、ときどき暇つぶしの楽しみにくるくる回して見るだけだ。(『医家の信仰』 Religio medici 第二部)」

「古代から中世をつうじルネサンスまで、視覚についての多くの仮説があったが、それらに大なり小なり共通しているのは、視覚をある種の触覚として理解しているという点である。たとえばピタゴラス学派は、物体が粒子を放射し、それが眼に当たることによって視覚が生じるとする、放射理論の立場をとった。プラトン学派はもうすこし複雑で、光源から放出された光線と、物体から放出された粒子と、そして眼との間の相互作用として視覚を説明している。」
「中世を支配したスコラ哲学も、視覚についての理論においては、古代の理論を継承していたといえるだろう。すなわち古代の原子論におけるアトムと同じく、物体から放出される〈志向的形質(エスペケス・インテンチオネレス)〉が空中を飛来し、眼球の触覚を押して視覚を生ぜしめる。こうして受けとめられたのが感性的形質であり、これを能動的理性が抽象して知性的形質(本質)をとらえるのだと説明された。とくにわれわれとしては、この〈志向的形質〉の別名が〈形象(イマーゴ)〉すなわちイメジであったことに、興味をひかれるのである。」

「人類にとって眼とはそもそも強い呪力を有するものであった。(中略)邪眼(イーヴル・アイ)といういみじき言葉も忘れがたい。さらには暴力社会で「眼(がん)をつける」という行為がおそろしいタブーである理由もそこにあるだろう。そのうえどうやらその呪力は、たんに破壊的な作用を有しただけでなく、生殖の作用ともかかわり得たらしいのである。わが国の古語において「目合(まぐはひ)」が性的結合を意味したのは、けっしてたんなる婉曲語法(ユーフィミズム)ではない。(中略)ダンの恋人が目で子を孕ませたとしても、すこしも不思議ではない。彼らは互いの視線を「二重の縒り糸」にするほど、ひたと見つめ合うことによって、まさに祖型的に「目合(まぐわ)」っていたのである。」



「エピローグ」より:

「さてわれわれは、レオナルドとスウィフトの間にはさまった時代の文学を考察し、そこにたとえば、ダンの瞳や涙の凸面鏡が自己の映像を無限に反映するのを見た。またパスカルのダニが宇宙を含み、さらにその宇宙がダニを含むのを見た。あるいはマーヴェルの緑の牧場が鏡に変じ、人の肉に変じ、人の心に変じて、自然のたたずまいをさまざまに映すのを見た。映像(イメジ)が、また想像力(イマジネーション)が、分裂し、交錯し、自己増殖を続けつつ、最後のきわどい人工的な統一を保持していた時代だったと思われる。そしてそこに各種の鏡の乱反射が多様な光芒を添えていたことが、とりわけて注目を惹くのである。」




こちらもご参照下さい:

多田智満子 『鏡のテオーリア』
宮川淳 『鏡・空間・イマージュ』
由水常雄 『鏡の魔術』 (中公文庫)
谷川渥 『鏡と皮膚 ― 芸術のミュトロギア』
































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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