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モーリス・ブランショ 『明かしえぬ共同体』 西谷修 訳 (ちくま学芸文庫)

「なぜなら社会的存在たることは、全体化の一歩であり、権力の関係の中にみずからを権力として構成することであるが、ブランショの歩みはまさしくその社会的存在の解体に向けられてきたのである。」
(西谷修 「ブランショと共同体――あとがきに代えて」より)


モーリス・ブランショ 
『明かしえぬ共同体』 
西谷修 訳
 
ちくま学芸文庫 フ-10-1 


筑摩書房 
1997年6月10日 第1刷発行
2012年4月30日 第7刷発行
252p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価940円+税
装幀: 安野光雅
カバー写真: 1968年フランス5月革命
カバーデザイン: 間村俊一


「本書は一九八四年十月二十五日、朝日出版社より刊行された。」



本書「あとがきに代えて」より:

「この本は Maurice Blanchot: *La Communauté inavouable*, Editions de Minuit, 1983. の全訳であるが、関連する若干のテクストを資料として巻末に付した。」


「文庫版訳者あとがき」より:

「改版にあたって、わずかに字句を整えたが、基本的な変更はない。」



ブランショ 明かしえぬ共同体



カバー裏文:

「共産主義を鼓舞しながら、その裏切りや挫折のうちに潰えていったものは何だったのか? 今世紀を貫く政治的文学的体験における「共同体」をめぐる思考を根底から問い直し、「共に存在する」ことの裸形の相に肉薄する。それはいっさいの社会的関係の外でこそ生きられる出来事であり、そこで分かち合われるのは逆説的にも複数の生の「絶対的分離」である。ハイデガーの「共存在」を換骨奪胎し、バタイユの共同体の試みやデュラスの愛の作品、そして「六八年五月」の意味を問いながら、「共同体の企て」やその政治化の厄々しい倒錯を照らし出し、「共同体」を開放系へと転じる20世紀のオルフェウス、ブランショの思想的遺言ともいうべき書。」


目次:

Ⅰ 否定的共同体
Ⅱ 恋人たちの共同体

訳註
ブランショと共同体――あとがきに代えて

付録
Ⅰ 遺産なき共産主義
Ⅱ ビラ・ステッカー・パンフレット

文庫版訳者あとがき




◆本書より◆


「否定的共同体」より:

「存在者が求めているのは承認されることではなく、異議提起されることである。彼は現存すべく他者へと向い、他者によって異議にさらされ、ときには否認される。彼に自分自身であることの不可能性、イプセ〔自己性〕(引用者注:「イプセ」に傍点)あるいはそう言ってよければ、分断された個人としての在り方に固執し続けることの不可能性を意識させるのは〔異議にさらされ否認をうける〕この剝奪状態なのだが(そこに存在者の意識の起源がある)、彼が他者に向うのはまさしくそうした不可能性を意識するためであり、この剝奪状態の中ではじめて彼は存在しはじめるのである。こうしておそらく彼は、外に-置かれるというかたちで現存し(ex-ister)、自分をつねにとりあえずの外部性として、あるいはそこかしこに破綻をきたした現存として体験しながら、ただ、荒あらしい沈黙のうちで不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆくことになる。」

「「私がそれに宛てて書いている者」とは、私の知ることのできない者であり、未知の者である。そして未知の者との関係は、それが書くことによってつくられる関係であるとしても、私を死あるいは有限性へとさらけ出すが、この死の中には死を鎮める何ものも存在しない」
「私というものが生きている特異性だとすれば、それは低劣さの極みにまで、いいかえればその侮蔑を私にふさわしいものとする唯一の卑劣さを体験するところまで、降り下って行くべきなのだろう。それはある意味で悪の至高性でもあるだろうし、あるいは、もはや分かち合われることもなく、そして侮蔑によっておのれを表明しながら、人を生かすあるいは生き延びさせる見下(くだ)しにまで達する。廃位された至高性でもあるだろう。」
「そしてそれは未知の者との関係によって、ジョルジュ・バタイユが「否定的共同体、すなわち共同体をもたない人びとの共同体」と呼ぶことになる(中略)ものをうち立てるのである。」

「「コミュニケーションの基盤」とは必ずしもことばではない。いわんやその背景でもあり節目でもある沈黙ではない。それは、おのれを死にさらすこと、それも自分自身の死にではなく、他人の死に、その生々しい至近の現前そのものがすでにして永遠のものであり、いかなる喪の営みも和げることのできない耐え難い不在であるような他人の死におのれをさらすことである。そしてこの他人の不在は、生そのもののうちにあって出会われるべきものである。この不在――いつもあらかじめの消滅に脅かされているこの異様な現前――とともに友愛は戯れ、そして一瞬ごとに消滅してゆく。それは関係のない関係、あるいは無際限な関係以外の関係をもたない関係である(こうした関係にとって、真摯であるべきか否か、真実であるいは忠実であるべきか否かを問う余地はない。何故ならこの関係はあらかじめ絆の不在を、あるいは放棄の無限性を表現しているからだ)。私たち自身がそうである未知のものを露呈させ、厳密にいって私たちが自分ひとりでは体験することのできない私たち自身の孤独との出会い(「私ひとりでは果ての果てまで行くことはできない」)を顕現する、友愛とはそうしたものである、あるいはそうしたものなのであろう。
 「放棄の無限性」、「共同体をもたない人びとの共同体」。おそらく私たちはそこで、共同体体験の窮極的な形態に触れている。その後にはもはや言うべきことはないだろう、なぜなら、その体験は、おのれ自身に無知であるそのことによっておのれを知るはずのものなのだから。無名性と秘密のうちに引き籠ろうというのではない。ジョルジュ・バタイユは確かに、友人たちから見捨てられたという思いを抱きもした(とくに戦前)し、後には何ヵ月かにわたって(『息子』)病いのために蟄居を余儀なくされもした。またある意味では彼は孤独に耐えるに無力であったがためにいっそう孤独を生きたとも言えるのだが、そうしたことのゆえにこそ彼は、共同体が彼を孤独から癒やすためにあるのでもなければまた彼を孤独から保護するためにあるのでもなく、共同体とは、それが偶然によってではなく親愛の心として――心あるいは法――彼を孤独にさらすその在り方なのだということをいっそうよく知っていたのである。」



「恋人たちの共同体」より:

「この共同体はたとえそれが存在したとしても、崩壊するときには何ひとつありはしなかったのだという印象しか残さないのである。」

「明かしえぬ共同体(引用者注:「明かしえぬ共同体」に傍点)、これははたして、この共同体がそれ自身を明らかにすることはないということを意味しているのか、それともこの共同体には、その実態を明らかにするいかなる告白もありえないということを意味しているのだろうか――少なくとも、ここでこれまで共同体の在り方が語られるたびに、把握されたのはただ、欠如によってそれを存在させるものばかりだと感じられるからには。」



「ブランショと共同体――あとがきに代えて」(西谷修)より:

「この本によって〈共同体〉というテーマを改めて論じるにあたって、ブランショは二つの話題を取り上げている。ひとつは、ジョルジュ・バタイユが一九三〇年代に、政治や文学の周辺に形成されたいくつかのグループのうちに求めて見失い、孤独な内的体験の探求のうちにむしろ失うという形で見出した〈共同体〉、もうひとつは、社会的つながりのいっさいを唯一の契約によって排除したかのような、マルグリット・デュラスによって描かれた奇妙な男女の不可能な愛の世界。そうして、現実の社会から限りなく離反し、いかなる共同性の根拠をも失った世界であるように思われるこの事例の中に〈共同体〉を見出そうとするブランショは、その二つの考察を共にあからさまな政治的挿話から語り起こしている。それは、ブランショ自身が生きた時代、いいかえれば全体主義(共産主義とファシズム)を生み出しそれに全世界が規定されることになった二〇世紀という時代の政治的状況であり、また、街頭を埋め尽くした無数の大衆の海にまぎれてブランショ自身が体験した、六二年春のシャロンヌ事件と、「六八年五月」という二つの具体的な政治的出来事である。(中略)とはいえ、もちろんこの本を語の通常の意味で言われる政治的著作と呼ぶことはできない。彼はこの本の中で、現実に生きたひとりの人間の軌跡と、ある作品のうちに読みとられた世界とを語りながら、彼の従来の思考を織りなしてきた一連のテーマ、書くこと、読むこと、それらを貫く〈無為〉、そして〈死〉、労働と行為と時間とがつくり出すこの世の流れが霧散するもはや把握するすべもない〈外〉、あるいは〈異議提起〉、他者との関係、〈友愛〉等々といったことがらを、それらの織り目に潜在した〈共同体〉というテーマを浮上させることによって再びつむぎ直している。そしてこの〈共同体〉という語は好むと好まざるとに関わらず一定の政治的意味を帯びており、時代の文脈を形づくるその意味をそのまま引き受けることによってブランショは、文学あるいは更に一般的な思考の問題として展開されてきた彼の考察のもつ政治的意味を、逸れえぬものとして改めて明示しているのだといえるだろう。」

「さてこの本は、バタイユの一九三〇年代の歩みと、デュラスの『死の病い』とを考察の直接の対象としているが、全体としては、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に呼応して書かれたものだということができる。」
「ナンシーの論文は、バタイユにおける共同体の問題を検討の素材としているが、単なるバタイユ論でもなければ、既存の、あるいはありうべき共同体の原理や実態について論じるいわゆる共同体論ではない。共同体、共同性といった言葉で通常想定されるのは、個を超えた価値や権威、あるいはそのまわりに形成される具体的、観念的な個の集合である。そのような共同体は、ひとつの「領域学」の対象として論じられるものだろうが、ナンシーは共同体を、おそらくは人と人との関係にまつわる一切の思考を根底から改編せずにはおかないひとつの決定的な問いとして、もはや一「領域学」の対象たりえず、「普遍学」「領域学」の階層秩序そのものの改編を迫るものとして提起している。」
「ナンシーによれば〈共同体〉とは、近代の成立によって失われた過去の何ものかでもなければ、個の止揚としての全体的国家(あるいはそれに似た組織、集団)のうちに実現されるものでもなく、そのような弁証法的歴史的展望の外で、社会が排除している当のものとして、社会から発しわれわれに生起する出来事なのである。〈共同体〉は、有為の人間、生産する主体としての人間が構成する社会の外、その社会の解体のうちに限界として現出する。そしてその契機は〈死〉である。」
「しかしその死は、おのれ一個の生を共同体において永続させるための、そして個と集団との深淵を一挙に廃棄するための、可能な自己の(引用者注:「自己の」に傍点)死ではなく、自分が臨在する他人の(引用者注:「他人の」に傍点)死である。他人の死に臨在してひとは、死んでゆく者が自分ひとりでその死を生きることができず――死は近づくと同時に無限に彼の手を離れてゆき、彼の死はわたしに受け渡される――また、その死を受けとりながらわたしは彼にとって替わることができないという事態を体験する。そこに、完結を奪われたまま有限であるという人間の有限性が露呈するのだが、〈共同体〉とはまさしくこの「ひとがひとりで死ぬことができない」という事実のうちにあるのである。そこで露わになる自己と他者との非相互的な関係は、両者を対称的な個として措定する可能性を奪い去り、ただたがいの差異をさらし合うだけの〈特異な〉者同士として両者を隔てる。人間の有限性はこのように〈分割〉として現われるが、この〈分割〉、両者を有限なものとして分かつこの限界が、あるいはそれを分かちもち共に支えることが〈共同体〉の逆説的実相なのだとナンシーは言う。」
「彼は、近代の基本的要素のひとつである生産者としての人間という概念――これは近代に顕在化したものだとしても、実は西欧形而上学の必然的帰結である――を否定する。何故なら、労働を通して世界と自己とを生産する人間、そして自己を〈内在〉として形成する人間という概念が、共同体を、国家、あるいは民族へとつまりはある全体へと収斂させ、そこにひとを従属させる全体主義の原理となるとみなすからである。彼が提示する共同体とはいかなる意味でも全体を構成するものではなく相互の分割そのものによって関係づけられ、内在に還ることなく〈外〉に向って開かれる、そして個の有限性から出発してそれを補償するものではなく、有限なものとしての特異な主体を可能にするそのようなものである。そしてこの共同体は、生産する者としての人間の、生産の営みのための共同体ではなく、むしろそうした営みを失い、何がしかの目的に従う組織となりうる可能性も失って、無為の中で接し合う存在者たちのコミュニケーションによってのみ存在しうる共同体である。」

「人間が自分ひとりでは完結しえない有限な存在であるということ、そのこと自体がすでにひとを他者へと、共同体へと運命づけているのだが、共同体はこの有限性を贖うべき超越として、あるいはそこに帰属すべき内在として求められるのではない。未完了で有限な存在としての人間が、みずからの条件を(あるいは病いを)そのままに担い、自分自身の有限性にさらされるとき、そこにすでに〈共同体〉がある。なぜなら、彼を有限性にさらすのは他の存在者、それもおのれの権利を主張する社会的な一個人ではなく、死んでゆくときにそうであるように〈無権力〉に身を委ねる存在者であり、この二つの無権力の存在者はたがいに未完了なまま、たがいによってはじめて有限性にさらされるというかたちで、その限界を分かちもっている。しかしそこには、たがいを分かつこの限界(あるいは差異)以外共有すべきなにものもなく、ただこの差異を通してたがいに身をさらし、たがいに身を投げ出し与える〈贈与〉とも呼ぶべき関係だけがある。そしてこの〈贈与〉こそ、言語をも含めていっさいの媒介を必要とせず、超越を生み出すこともない直かの交流、存在が交わり通う〈コミュニケーション〉なのである。」








こちらもご参照ください:

ジャン=リュック・ナンシー 『無為の共同体』 西谷修・安原伸一朗 訳
西谷修 『不死のワンダーランド』













































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「現代詩手帖」 1978年10月 臨時増刊 ブランショ

「トマは、死そのものの中で、死を奪われていた」
(モーリス・ブランショ)


「現代詩手帖」 10月臨時増刊 第21巻第11号
ブランショ

Maurice Blanchot

思潮社 1978年10月20日発行
280p 21×14.8cm 並装 定価980円
編集人: 山木光久
発行人: 小田久郎
表紙/目次・扉: 中西夏之
本文カット: 中西夏之/ジゼル・ツェラン・レストランジュ



現代詩手帖ブランショ特集号。


ブランショ1


ブランショ2


ブランショ3


ブランショ4


ブランショ5

ブランショ6


ブランショ7


内容:

ブランショ 「友愛」(清水徹訳)
ブランショ 「「爆発とてはただ……」」(豊崎光一訳)
ブランショ 「最後に語る人」(飯吉光夫訳)
ブランショ 「芸術の誕生」(粟津則雄訳)

◆人称・非人称
バタイユ 「モーリス・ブランショ……」(清水徹訳)
レヴィナス 「詩人のまなざし」(白井健三郎訳)
ラポルト 「パッション」(小林康夫訳)

◆対談
白井健三郎・篠沢秀夫 「不可能性の彼方へ――ブランショをめぐる法・国家・言語」

◆〈作品〉読解
豊崎光一 「ナルシスとは何か」
高橋康也 「ブランショとメタ・ノンセンス」
長谷川宏 「文学空間の現象学」
中山真彦 「ユリシーズの奸策について」
立仙順朗 「ブランショによるマラルメ」
足立和浩 「戯れのレクチュール」
弓彰 「ブランショ(以降)のマラルメ」

◆革命と状況
鈴木道彦 「同時代人としてのブランショとサルトル」
鈴木道彦 「ブランショと自由の行動委員会」
篠田浩一郎 「たった一人の革命」
神戸仁彦 「ブランショの情況参加」

◆研究
篠沢秀夫 「『トマ』四十一年本の特異性」
佐藤渉 「『謎のひとトマ』初稿・新稿比較」

◆死・小説
天沢退二郎 「死の作家と作家の死」
与謝野文子 「人物から記号へ、さらに主体へ」

◆引用・資料
富山太佳夫 「ブランショのいない風景」
佐藤渉 編 「ブランショ語彙集」
編集部 編 主要著作・参考文献抄

◆形象・作品
加納光於 「『B』――その雲形の」
若林奮 「境川の氾濫――M. Blanchot について」



ブランショ8


モーリス・ブランショ「友愛」より:

「なにか本質的なものでわれわれに結びつけられている人びとを知る、そんなことはわれわれは断念すべきなのである。つまりわれわれは、未知のものとの関係において、彼らを迎え入れるべきなのだ、――彼らは、その未知のもののなかにあって、われわれの遠ざかりにおいて、われわれのことも迎え入れているのであるから。友愛、従属関係も逸話ももたず、しかし、人生の単純さの全体が入りこんでいるこの関係、それは共通の外異性の認知を経てゆく、この認知ゆえにわれわれは友人たちについて語ることができず、ただ、友人たちに話しかけることができるだけだ。」


ブランショ9


モーリス・ブランショ「最後に語る人――パウル・ツェラン追悼」より:

「詩、言葉。ツェランが自らの詩観――彼は決してはっきりと詩観を放棄したことがなかった――を確認した散文断片、つまりブレーメンにおける文学賞受賞講演の中で――「詩はつねに途上にあるものです。いつもなにかにつながっていて、なにかに向って進んでいます。なにに向って? なにか開かれているもの、所有することのできるもの、もしかすると話かけることができるかもしれない《あなた》に向って、言葉の間近にある現実に向って」。この同じ小さな講演の中で、極度の簡潔さと節度をもって、ツェランはかれにとってそしてかれを通してわれわれにとっても――証しとなる事柄、つまりかれ自身、かれの身近なものたち、いく百万というユダヤ人そして非ユダヤ人たちの上を通ってきた死を、返事のなかった出来事をぬってきた言葉で詩を書くことをやめない理由をほのめかしたのだった。「数々の損失の中でただそれだけが――言葉だけが――手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。しかし、その言葉にしても、それ自身の答えのなさの中を、恐しい沈黙の中を、死をもたらす弁説の千もの暗闇の中を通ってこなければなりませんでした。そのようなものの中を通ってきて、しかも、起ったことを言いあらわすただの一言(ひとこと)も生み出しはしませんでした。しかしそれはこの出来事の場を通ってきました、通ってきて、あらたに、陽のあたるところに、そのような事柄の分だけ豊かになって帰り着くことができました。この言葉によって、この年月の間、そしてそのあとも、わたしは詩を書くことを試みてきました――。語るために、自分の方角を確かめ、自分の居場所と、自分のためになんらかの現実がかたちづくられていくためにはどこに自分が行かなければならないかを知るために。このようなことは、いま見ると、出来事であり、進行であり、道のりでした、ある方向を得るための試みでした。」
「語れ、おまえも、最後に語るものであっても」。これはひとつの詩が――そしてたぶん今われわれはさらによく聞きとる用意ができていることだろう――われわれに読むべく与えている一節、生きるべく与えている一節である。ツェランがほとんど皮肉まじりにわれわれに語っているような詩のはたらき――「詩、みなさま、――空虚な死やまったくの空無についてのこの果しない語りつづけ。」――を再確認することをわれわれに可能にするような一節である。いまわれわれが閉されている痛みの思いの中で、この詩を読んでみよう――

 語れ、おまえも、最後に語るものとして、おまえの語りたいことを述べよ。

 語れ……
 しかし否(ナイン)を諾(ヤー)からわけるな
 おまえの語りたいことにもまた意味を与えよ――それに翳りを与えよ。

 それに十分に翳りを与えよ。
 きみが、真夜中と真昼と真夜中
 の間のきみのまわりにそれがちりばめられる
 ほどおおくの翳りを与えよ。

 まわりを見まわせ……
 見よ、まわりが息づきはじめるのを――
 死にさいして! 息づきはじめる!

 翳りを語るものは、真実を語る。

 しかしいま、きみの立っている場所は収縮しはじめる………
 いま、どこに、翳りを失っていくものよ、どこに?
 のぼれ。まさぐりながら高く。
 薄くきみはなっていく、見えないほどに、繊(かす)かに!
 繊かに………ひとすじの糸。

 その糸をつたわってそれは降りようとする、石は………
 下で泳ぐために、下で。そこに仄めくおのれの姿が見える
 その場所………さまよう言葉たちの砂丘の中に。」





















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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