山口昌男 『文化人類学への招待』 (岩波新書)

「とにかくヴィトケヴィッチは、日常生活に対して徹底的な侮蔑の念をもっていたために、同時代の人には非常にエキセントリックに見え、道楽息子よ、気違い息子よ、とののしられていました。」
(山口昌男 『文化人類学への招待』 より)


山口昌男 
『文化人類学への招待』

岩波新書 黄版 204

岩波書店 
1982年9月20日 第1刷発行
1988年7月15日 第12刷発行
x 222p 
新書判 並装 カバー 
定価480円
挿画: 著者



1981年11月、多摩市の市民講座における連続講演。
本文中図版(モノクロ)多数。


山口昌男 文化人類学への招待 01


カバーそで文:

「ポーランドの知的風土に始まり、交換という経済行為の背後に見えがくれする宇宙論的構図、女性が開示する文化のルーツ、政治の演劇的解釈など、現実の多義性を読みとき文化の全体像を回復しようと試みる。文化人類学が内包する知の挑発的部分のありかを示し、学問の形式を使って知の深層にふみこもうとする人のための好著。」


目次:

はじめに

Ⅰ 文化人類学とポーランド
 1 マリノフスキーのポーランド的背景
 2 マリノフスキーとヴィトケヴィッチ
 3 人類学は何を明らかにするのか
 4 経済的交換と象徴的交換
Ⅱ 「交換」の経済人類学
 1 マリノフスキー評価をめぐって
 2 トロブリアンド諸島のクラ交易の実際
 3 クラによって日常生活を超える
 4 中入り・備中神楽のコスモロジー――パフォーマンスとは何か
 5 マリノフスキーとモース

Ⅲ 構造論人類学の流れとリオ族の交換
 1 構造論人類学の流れ
 2 象徴的二元論の世界
 3 レヴィ=ストロースの交換論
 4 フローレス島リオ族の交換
 5 伝統的社会にとって「交換」とは何か

Ⅳ 女性の宇宙論的位相
 1 女性の神話的原イメージ
 2 収穫の儀礼と女性
 3 排除されつつ依拠される女性
 4 両義的な仲介者としての女性
 5 恐怖の存在としての女性

Ⅴ 政治の象徴人類学
 1 政治を演劇的にとらえ直す
 2 魔の喚起力

Ⅵ 再びポーランドへ――ヴィトケヴィッチの現代性

はい、山口さん、私はこのように聞きました。 (大江健三郎)
あとがき



山口昌男 文化人類学への招待 02



◆本書より◆


「結局、我々とほかの社会との関係を考えてみると、ヨーロッパが対象である場合には「ああいうふうになりたい」といって真似しようとし、違っているところは自ら直そうとする。それを「近代化」という言葉で呼び慣わしてきた。ところが、ヨーロッパ以外の社会が対象である場合には「あんなのバカバカしくて見ていられない」というようなことになる。しかし、人類学の考え方では、非ヨーロッパ的社会にもそれぞれ固有の論理があって、我々の眼には一見奇妙に見えても、それは我々が子細に検討してみると我々の内側にあるかもしれない原理が、別の形で表面化しているものだというふうに考えることができる。そういう違った社会もおもしろいと思った瞬間、我々は自分たちの社会が絶対ではないことに気がつく。」

「野兎はジュクンの昔話の中では大へんないたずら者で、王がするなと言うことにさからうのもしばしばでした。しかし、ある時、この兎が怠けて木の洞の中で昼寝しているうちに、都が怪獣に襲われて全滅してしまいました。夜になって目を醒ました野兎は、都をあとにして神の住んでいる所へ山を越え大河を苦労して渡り、神の棲家の守衛である鶏の口頭試問を通り、神から三つの魔法の卵を授かりました。この三つの卵で野兎は危難を克服して都を占拠していた怪獣も退治して、その死体から、前王を除いた住民を救出しました。住民たちは卵の一つの殻の中に閉じ籠った野兎に要請して王位についてもらいました。」

「男は心の底では女性が社会の真の中心的な価値の担い手であるということを意識しているのだけれども、同時に女性が男のコントロールできない力をもっているという恐怖感を抱いている。だから根源的な力に対する恐怖をコントロールするために、その力に近い存在を排除するための機構をつくろうとする。このようなことこそが権力の起源であるということがだんだんわかってきた。つまりジュクン族において、男たちが血をおそれるということは、結局は女性のもっているものすごい豊穣の力、血というもののもっている多義的なイメージに対する恐怖感があることを示している。日常生活をはみ出るようなイメージをもっているものをおとしめるとともに、恐怖感を抱く。結局それをコントロールするために発達させる記号システムこそが権力であるわけです。この点については(中略)日本にやってきたフランスの女性哲学者であるジュリア・クリステヴァと話したときにも全く意見が一致したのです。クリステヴァも『恐怖の権力』というタイトルの本を書いています。彼女自身がやはり女性差別の問題をそういう視角でとらえており、同じように、おぞましきものを排除するという形での差別の問題は、女性差別以外でもいろいろあらわれてくる。だから日本のさまざまな差別の問題も、ある意味ではそういう視角から見直すことができるかもしれない。
 要するに、女性的なものは、日常生活でコントロールできないものと置きかえることができるかもしれません。」

「善神バロンがまったく性善な、人間が完全に神の力を借りて飼いならすことのできる理想を実現した存在であるとすると、ランダは、人間が神のポジティブな面だけではコントロールできない部分を表現したものです。」
「このようにランダというものはまさに秩序と反対のエントロピーそのもの、カオスの持主、象徴です。」
「バロン劇は死と再生のイニシエーション・セレモニーの部分を含んでいますから、この劇に参加している若者たちは、ときには意識を失って憑依状態に入りランダに飛びかかっていくこともある。しかしそれより先に、自分がランダを媒介にして自分の非常に潜在的な精神の深い底にあるものを表面化させるものとして、カタルシス的なポゼッション(憑依)の行為が行なわれるわけですね。ですから、人間的なコントロールを超えたところへ意識が及び、自分の体に刀を突き立てたり、ヒヨコなどを手でむしって食べてしまうこともありますが、このようなのは憑依状態にはよくあることです。(中略)とにかくそのようにして最終的にはバロンの秩序に立ち返っていくために、ランダをステップ・ストーンにする。ランダによって、自分が潜在的に持っている力を、全部表面に出す。そのようにして、バロンの秩序のほうに向って最終的には救済されていく。
 人々は、魔女ランダの持っている周縁的な力とネガティブな宇宙的な力、闇と混沌とエントロピーをバネにすることによってもっと大きな宇宙に達しようとする。(中略)バロンはまさに中心化の儀礼のいちばん頂点にある中心の価値を、ランダはまったく周縁的な反価値的なものを、同じ空間において表わすことによって両者は結びつけられる。その結びつけが憑依状態において行なわれるというところに、この演劇的行為のほんとうに根源的な意味を見出すことができるわけですね。ある意味ではバロンとランダの劇は、王権をめぐる秩序の体系をより包括的な宇宙論の枠組の中で示していると言えます。ですからアントナン・アルトーなどのヨーロッパの演劇のラジカルな理論家たちがバリ島の演劇に憧れたというのは、まさに十九世紀末のヨーロッパの演劇がそのような力を欠いていたゆえにほかならないということになるわけです。」

「ヴィトケヴィッチは非常に早くから、この世界がけっして一つの現実に覆われているものではなく、その人のかかわり方によっていろいろな現実の姿を多様に示すのであるということ――いわばその後、現象学がどんどん議論を展開するようになった観点――を作品のなかで示しました。」
「ヴィトケヴィッチにとって理想的な人物像は何かというと、これは両性具有的な人物なのです。(中略)それから、自分の小さい自我を破壊するために自殺するという話が非常に多い。ところがそこで終わるのではなくて、ほとんどの作品では、自殺した人間は必ずいろんな形で帰ってくる。たとえば、息を吹き返したとか、完全に死んでいなかったとか、いろんなきっかけで帰ってきて、世の中をひっくり返してごちゃまぜにしてしまう。そして最後はいままで秩序の中心にいた者がひっくり返ってさかさまになり、だいたい道化芝居といわれていいようなほんとうにさかしまの芝居になって終わる。精神病院の監督をやっていた人間が、実は全部精神病であったというふうに、どんどん大転換が行なわれる、そのような意味での役割りの交換が、死を契機にして噴出してくるということがテーマになっているわけです。」
「とにかくヴィトケヴィッチは、日常生活に対して徹底的な侮蔑の念をもっていたために、同時代の人には非常にエキセントリックに見え、道楽息子よ、気違い息子よ、とののしられていました。
 彼自身もたとえば自分のアパートの前に細かいスケジュール表を貼り出して、肉屋さんはいつ集金に来るべきだとか、いろいろな仕事の時刻表を張ってあった。だれもそんなものは見なかったけれども、自分の非常に私的なリアリティーに対する考え方を、時刻表として外部に押しつけるということを彼は試みたわけです。
 また、風呂からあがってきて平気で裸のまま人の前に出ることを厭わなかったり、有名人のステッキを集めるといったことを、突如としてやり始めたりする。(中略)それからフォーマルな場所で芸術・哲学・文学の話をするときに、酔っぱらって現われた。(中略)その他にも友人の点数表をいつもつくっていて、点数表の上がり下がりを友人に報告してはいやがられていた。(中略)徹底的な意地悪で、わけのわからない冗談、人にはぜったい通じない冗談を言って戸惑わせた。(中略)だから彼自身がちょうど十九世紀末のフランスの劇作家のアルフレッド・ジャリみたいなエキセントリック(奇矯)な存在であったのです。(中略)そういう意味では、まさにジャリと直結するような形の人物がポーランドに現われていて、それが人類学の背後に姿をちらつかせているわけですね。マリノフスキーという、後世から見るとお堅い一方の社会人類学の始祖も、少し遠近法をずらして精神史のアルケオロジーのレベルにおきかえてみると、ヴィトケヴィッチという知的怪物とのスリルに満ちた友情と格闘の中から、自らの人類学を創り出していった。(中略)こういった可能性を忘れなければ人類学にまだスリルに満ちた部分が残っていることの一つの例だと思うのです。」
















































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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