高野文子 『ドミトリーともきんす』

2014年10月19日。


「ぼく、お伽話って好きだけどなあ。」
(高野文子 「ナカヤ君 お手紙です」 より)


高野文子 『ドミトリーともきんす』

中央公論新社 2014年9月25日初版発行
125p 初出1p 25×18.2cm 並装 カバー 定価1,200円+税
ブックデザイン: 服部一成
編集、構成・文: 田中祥子



本書より:

「単行本化にあたり、大幅な加筆・修正を行いました。」
「本書は、著作者によって学校教育のための非営利目的での利用が認められています。」



20世紀の日本の自然科学者たち――朝永振一郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹、牧野富太郎――が、21世紀の親子――寮母の「とも子」さんとその娘の「きん子」さん――が管理するドミトリー(学生寮)「ドミトリーともきんす」で時空を超えて生活を共にし、「とも子」さん親子と日常生活のなかの些細な出来事をきっかけに架空の会話をする本です。一般向け科学解説本の古典であり昭和の子どもの愛読書となったジョージ・ガモフの「トムキンス」シリーズにあやかって、「とも子」さんと「きん子」さんの「ともきんす」コンビが狂言回しをつとめています。ガモフの本が「科学」の面白さを教える本であったとすれば、本書は「科学の本」と付き合うことのたのしさを教える本であるといえます。
各章にはテーマとなったそれぞれの科学者の著作からの引用と、田中祥子氏による解説的文章が付されています。


ドミトリーともきんす


帯裏:

「科学の本ってヒンヤリして気持ちがいい
20世紀に活躍した日本の科学者たちは
専門書のみならず、一般向けに多くの随筆を残しました。
21世紀のいま、ひと組の親子が時空を超えて彼等と出合う。
読書の道案内として、一冊どうぞ。(作者より)」



内容(初出):

球面世界 (「トムキンスさん、ケーキをありがとう。」を解題/「真夜中」 No. 12 2011 Early Spring)

ドミトリーともきんす (プロローグ: 書き下ろし/1~11: Webメディア 「マトグロッソ」 2012年11月8日~2014年2月20日)
 プロローグ
 1 トモナガ君 おうどんです 朝永振一郎 「鏡のなかの物理学」
 2 トモナガ君 泣かないで 朝永振一郎 「滞独日記」
 3 マキノ君 お正月です 牧野富太郎 「松竹梅」
 4 ナカヤ君 お手紙です 中谷宇吉郎 「簪を挿した蛇」
 5 ナカヤ君 コタツです 中谷宇吉郎 「天地創造の話」
 6 マキノ君 蝶々です 牧野富太郎 「なぜ花は匂うか?」
 7 ユカワ君 お豆です 湯川秀樹 「数と図形のなぞ」
 8 ユカワ君 松ボックリです 湯川秀樹 『「湯川秀樹 物理講義」を読む』
 9 ユカワ君 ハゴロモです 湯川秀樹 「自然と人間」
 10 ようこそ、ガモフさん ジョージ・ガモフ 『G・ガモフ コレクション① トムキンスの冒険』
 11 詩の朗読 湯川秀樹 「詩と科学――子どもたちのために――」

ともきんすと白銀荘について
参考資料
あとがき

Tさん(東京在住)は、この夏、盆踊りが、おどりたい。 (「真夜中」 No. 14 2011 Early Autumn)




「ユカワ君の話は
むずかしいけれども聞いていると心が平らになるわ。」

(本書 「ユカワ君 松ボックリです」 より)


本書で交される架空の会話は、実際のところ、「科学」のわかりやすい解説でも、お手本となるべき科学者たちの伝記物語でもありません。ここにあるのは、昭和の子どもたちが「科学」に対して抱いていた、未知なるものへの予感としての「ノスタルジア」、そしてまだ「科学」にそのような憧憬を抱くことができた時代へのノスタルジアです。そういう意味で、本書は、古き良き「科学」への反時代的オマージュの書であるともいえます。

「たぶん私が本当に言いたいことは、過去の偉大な科学者たちの多くは詩人であり、そのうちの幾人かは神秘思想家だったということなのである。彼らの最も偉大な諸発見は、詩人にとっても容易に理解しうるようなプロセスによって行なわれた。私たちの祖先が、人間を大宇宙の縮図そして神の写しだと信じていた時代に、詩と科学が共通に用いていた言語を、それらの科学者たちはなお語り続けていたからである。」
(M・H・ニコルソン 『円環の破壊――17世紀英詩と〈新科学〉』 小黒和子訳、みすず書房 より)


「ドミトリーともきんす」の最終章「詩の朗読」では、「詩と科学」と題する湯川秀樹の「詩」が紹介されています。

「バラの香をかぎ、その美しさをたたえる気持ちと、
花の形状をしらべようとする気持ちのあいだには、大きなへだたりはない。

しかしバラの詩をつくるのと
顕微鏡をもちだすのとでは
もう方向がちがっている。

科学はどんどん
進歩して、
たくさんの専門に
わかれてしまった。」

「もうそこには詩の影も形も
見えない。
科学者とはつまり
詩をわすれた
人である。
詩を失った
人である。」

「いずれにしても、詩と科学とは同じ場所から出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。」

「どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすれば、だんだんちかよってくるのではなかろうか。」



宮澤賢治やシュタイナーが提唱した「芸術と科学と宗教の統一」こそ、古き良き「科学」の求めたものだったのではなかろうか。
ところで、宮澤賢治でいえば生産体操、シュタイナーでいえばオイリュトミー舞踏に、「芸術と科学と宗教の統一」の一端が窺われるのですが、著者にとって、というか、「東京在住のTさん」にとって、「芸術と科学と宗教の統一」とは他でもない、「盆踊り」です。
生者と死者が分け隔てなく、みんなで輪になっておどる「盆踊り」こそは、M・H・ニコルソンのいう、破壊され、失われた「円環」の回復の試みであるといえましょう。


























































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高野文子 『黄色い本 ― ジャック・チボーという名の友人』

高野文子 
『黄色い本
― ジャック・チボーという名の友人』

アフタヌーンKCデラックス 1488

講談社 2002年2月22日第1刷発行/2014年5月2日第17刷発行
152p A5判 並装 カバー 定価800円(税別)



「黄色い本」とは、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』のことです。黄色い装幀だったのです。


黄色い本1


内容(初出):

黄色い本 (1999年 アフタヌーン 10月号 講談社)
CLOUDY WEDNESDAY (1996年 コミック・キュー Vol. 2 イースト・プレス)
マヨネーズ (1996年5月 コミック・アレ 臨時増刊号 マガジンハウス)
二の二の六 (2001年 アフタヌーン 7月号 講談社)



黄色い本2

「二の二の六」より。


権力の網目はいたるところに張りめぐらされている。それはほとんど無意識のうちに作動する。家族や友人との日常会話にさえ、見えない権力による差別と排除の言説が浸透している。

「実(み)ッつぁんて
ときどき
難しい言葉
使うよね」


「黄色い本」の主人公・実地子は、友人にそう指摘され、「そうだかなぁ」と受け流す。
実地子の家にある絵本「子リスのモッコちゃん」の文章にはバツじるしがつけられている。実地子の父親が「印刷まちがい」を直した跡だ。このエピソードは32頁と74頁に二度にわたって登場する。
難しい言葉、まちがった言葉、それらは排除の対象になる。「バツ」をつけられた文章とは、「黄色い本」が、ある意味で「弾圧」への「抵抗」の物語である以上、権力による統制を仄めかしていると受け取られる。それゆえ、一度目にこのエピソードが描かれた直後に父親から編み機の腕前を褒められた実地子は、「あったりまえさぁ」と受け入れながらも、心のなかで「ほめられたらいかれ」「よろこんだらはじろ」と、図書館で借りて読んでいる『チボー家の人々』の一節を思い浮かべる。その前日、実地子が読んでいた頁には、「今日、ぼくは学校で先生に誉められた。だけど君にわかるかしら。ぼくはそのことを恥かしいと思ったんだ。誉められたことを恥かしいと。つまりぼくは何よりも彼らに審判されたということが恥かしい」と書かれていた。
小説の中のジャック・チボーは革命に命をかけるアウトサイダーだが、実地子は平凡な日常を生きる普通の女学生である。
父親との会話、

「おめでねば
編めねえような
セーターを編む人に
なれば
いいがなぁ

俺(おら)は
思うんだ」
「創造性のある?」
「おう」
「そうだね」


は、「セーター」を「漫画」と読みかえたくなるが、しかしセーターは実用品である。工場で実用的なセーターを編む人になるならいいが、漫画家ならどうか。漫画家ならいいとしても、革命家ならどうか。しかしもちろん、本からの影響は机上の幻にすぎない。実地子の革命は「気持ち」の問題にすぎない。
答案用紙に、

「真に意欲する者は
憎まれなければ
いけないんだ」


などとラクガキしてみたところで、見えない権力の網目にゆるやかに巻かれて波風立てずに生きていく道を選んだ実地子が、人に憎まれるような者になれる見込みなどありそうにない。
そしてもう一度、「バツ」をつけられた本のエピソードが回想される。「印刷まちがい」をなおす父親と、子どものころの実地子。
もうすぐ大人になる実地子に父親が言う、

「実ッコ
本はな
ためになるぞう
本はな
いっぺえ読め」


本は、「まちがい」をなおしながら読めば、ためになる。ジャックの革命を、実地子なりの革命に書きなおして、読めばよい、そういうことなのかもしれない。
本の中の革命家たちと別れて堅実に就職した実地子が、ふたたび「メーゾン・ラフィット」を訪ねることは、ないのではないか、という気がする。だが、読み終わった『チボー家の人々』の最終巻の奥付には、

「一九五六年九月五日初版
一九六六年五月一〇日三八版発行」


とある。第五巻が十年で三八版ならベストセラーだ。たくさんの読者がいるにちがいない。ということは少なくとも、実地子には、それだけの数の未知の「同志たち」と「団結」する可能性が開かれているわけだ。


「CLOUDY WEDNESDAY」は、冬野さほさんという人の作品を再作品化したものだということですが、そこそこいいとこの家庭の、クリスマスをひかえた日常生活の断片を、イマジズムというか、モダニズムというか、気取った手法で描いていて、まったく共感できませんでした。

「二の二の六」は、主人公のヘルパーさんが「るきさん」に似ているし、わたしも長いあいだ介護をしていたので、共感できました。でもちょっとストーリーが生々しいです。



















































































高野文子 『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』 (新装版)

高野文子 『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』

マガジンハウス 1998年2月19日第1刷発行
261p A5判 並装 カバー 定価950円
装丁: 南伸坊

「この作品は『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』(小学館より1987年8月10日発行)を新しい装丁の上、再刊行したものです。」



初出: 月刊プチフラワー(小学館) 1986年11月号~1987年4月号


ラッキー1


賢くて勇気があってデパートが大好きなメイドのラッキー=ランタンタンは、ひょんなことからデパートを舞台にした政治的陰謀に巻き込まれてしまうのでした。

本書にはジミー・スチュワートみたいな相手役が出てきます。そういえばマルクス兄弟の「デパート騒動」なんて映画もありました。とはいえ戦前のアメリカ映画というよりは、ヌーヴェル・ヴァーグの監督が古き良き時代のハリウッド映画ふうの娯楽作品を撮ると、こういうふうになるのではないでしょうか。「オルタンス」とか「ランタンタン」とかフランス語っぽいです。

もちろん、マンガ的手法を縦横に駆使して、仕掛けもあって、作者の個人的「内面」など微塵もうかがわせない、作り物としての夢物語の世界に徹底した、楽しい冒険活劇になっています。
(仕掛けということでいえば、たとえば冒頭で会話を交わしている二人が誰なのかがわかるのは23頁になってからだし、どっちがどのセリフを言っていたのかがわかるのはようやく258頁になってからです。)

この作品が連載された1986~87年というのは、いわゆる「レトロブーム」で、ピチカート・ファイヴなんかがデビューした頃でした。


ラッキー2


カバーを外してみました。

ラッキーが仕えるお嬢さま役で「るきさん」も出演しています。











































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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