ケレーニイ/ユング 『神話学入門』 杉浦忠夫 訳 (晶文全書)

「神話的な根拠の説明には、このように自己の内部に引っ込む者が自己をあらわに示す、というパラドクスがある。あるいは逆にいうなら、古代人の大らかな開放性は自己を自己の根底に退かせ、自己本来の根源においてアルケー・カテクソケーン αρχη κατ' εξοχην、すなわち根源そのものを認識させる。」
(カール・ケレーニイ)


カール・ケレーニイ
カール・グスタフ・ユング 
『神話学入門』 
杉浦忠夫 訳

晶文全書

晶文社 
1975年5月30日 初版
1978年2月28日 4刷
267p 索引vi 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,900円
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、カール・ケレーニイ(一八九七―一九七三)とカール・グスタフ・ユング(一八七五―一九六一)の共著『ミュトロギーの本質への入門』第四版(C.G. Jung und K. Kerényi : Einführung in das Wesen der Mythologie - Das göttliche Kind/Das göttliche Mädchen. 4. Auflage, 1951 Zürich)の全訳である。」
「原著にはビブリオグラフィーも索引もないが、本訳書では書肆の希望に従って、「文献一覧」と「索引」をつけた。」
「本書の構成は、ユングとケレーニイの共著という体裁をとっているものの、全篇に占める頁数の割合から言っても、その内容から言っても、断然ケレーニイの方が重きをなしている。(中略)原著の著者名ユング、ケレーニイを本訳書ではケレーニイ、ユングと入れ換えたのも内容の比重関係による。」



ケレーニイ 神話学入門 01


帯文:

「神話とは何か
20世紀屈指の碩学、神話学者ケレーニイと心理学者ユングが「童児神」・「少女神」の典型的な神話像を手がかりに、神話の本質と根源を明かした「開かれた神話学」のための白眉の入門書」



カバーそで文:

「神話――それは始まりへのたえざる回帰である。古代の人びとにとって、神話とは、美化された幻想でも神々についての作り話でもなく、日常の思考や表現の形式であり、あらゆる不条理や残酷さを秘めた生きる営為そのものであった。
 今日われわれにとって、古代の神話物語は幻の世界にしかすぎないのか。われわれはいかにして、神話的始原に関わりえるのか。そして神話学とは何か。
 本書は、20世紀屈指の碩学カール・ケレーニイが、「童児神」と「少女神」の二つの典型的な神話像を手がかりに、ギリシア・ローマ古典から現代文学にいたる深い学殖を傾け、卓抜な想像力と透徹した思考を駆使して、神話の本質と根源を解明し、現代のもっとも独創的な心理学者ユングが独自の分析を付してなった。人間の生と死のドラマへの根底的な問いに貫ぬかれた「開かれた神話学」のための白眉の入門書。待望の邦訳。」



目次:

新版〔第四版〕まえがき
第二版・第三版まえがき

序説 神話の根源と根拠の創設について (カール・ケレーニイ)

Ⅰ/A 童児神 (カール・ケレーニイ)
 1 童児神たち
 2 孤児
 3 ヴォグール族の神
 4 クッレルヴォ
 5 ナーラーヤナ〔那羅延夫〕
 6 アポローン
 7 ヘルメース
 8 ゼウス
 9 ディオニューソス
Ⅰ/B 幼児元型の心理学のために (C・G・ユング)
 序論
 A 幼児元型の心理学
  1 過去状態としての元型
  2 元型の機能
  3 元型の未来性
  4 幼児モチーフの単一性と多様性
  5 童児神と英雄児
 B 幼児元型の特殊現象学
  1 「幼児」の遺棄
  2 幼児の無敵さ
  3 幼児の両性具有性
  4 初めと終りとしての幼児
 まとめ

Ⅱ/A 少女神 (カール・ケレーニイ)
 1 アナデュオメネー
 2 神話的観念の逆説
 3 神々しい少女像
 4 ヘカテー
 5 デーメーテール
 6 ペルセポネー
 7 インドネシアの娘神(コレー)
 8 エレウシースのコレー
 9 エレウシースの逆説
Ⅱ/B コレー像の心理学的位相について (C・G・ユング)

結び エレウシースの奇蹟について (カール・ケレーニイ)

原註
文献一覧
訳者あとがき
索引



ケレーニイ 神話学入門 02



◆本書より◆


「序説」(ケレーニイ)より:

「神話において重要なのは(中略)問うことではなく、アルカイ(αρκαι)へのためらうことなき直線的な回帰、つまり「根拠」への無意識的な後退としての根拠の説明である。闘牛士のように一歩後退したり、潜水器にもぐり込むように過去にすべり込んだりするのは、与えられた神話を体験し、それに従って行動する者だけではない。真の神話作者も神話素の創造者、あるいは再創造者でもこの点では同様である。何が「真実である」かを語るためには、哲学者なら自己を取り巻く現象世界に押しいるであろうが、「神話の語り手」は、何が「原初的であった」かを伝えるために太古へと回帰する。神話の語り手にとっては太古の世界が本来の実相にほかならないのである。本来の実相、すなわち主体と客体との真の直接性が、このようにして現実に獲得されるかどうかについてあえて語らずとも、われわれは神話的な根拠の説明の手段と方法を理解する。
 神話は、神話の語り手が物語を身をもって体験しながら、太古への帰路を見出すことによって根拠を説明する。事実、神話の語り手は、周辺をうろついたり嗅ぎ回ったりすることなく、調査したり緊張したりすることもなしに、自分の関わり合うあの太古に、彼の語り伝えている始原世界のただ中に、突如として現われる。人間は現実にどんな始原世界のなかに存在し得るのか。どの始原世界に直接もぐり込めるのか。人間には人間独自の始原世界がある。すなわち人間の不断の自己形成を可能にする人間の有機的存在という始原世界がある。人間は人間自身の根源を発達した有機的存在として経験する、――あたかも人間が一千倍も増幅された一つの反響音であるとともに、人間の根源が最初の響音であるかのような、ある種の同一性に基づいて経験する。人間はこの根源を彼自身の絶対的な始原(アルケー)として体験する。それ以来人間が人間の未来の存在と生命のあらゆる対立物を自己の内部に融和させる一個の統一体となるところの、あの始まりとして経験する。一つの新しい宇宙統一の始まりとして理解されるこの根源は、童児神の神話素によって示される。同じように自己の根源として経験されるもう一つの根源、同時にそれに前後する無数の存在物のアルケーでもあるあの根源を示すのは、少女神の神話素である。個体はこの根源によってすでにその萌芽のうちに無限性を与えられる。
 本書で一括される二つの神話素は、さながら道標のように人間的な成長と植物的な成長という比喩を借りることによって、ある軌道をわれわれに暗示する。すなわち、この軌道の上で始原世界への通路としての根拠の説明が始まり、発展の道を再びあの比喩形式で歩むことになる。比喩的に語ることが許されるなら、われわの全体性の生命ある萌芽に通ずるのは、われわれ自身への一種の沈潜なのである。この沈潜の習慣が神話的な根拠の説明であり、このような習慣の結果は、われわれが根底から流れ出る比喩に開眼したことによって、さきに挙げた二つの始原世界が一致する場所にわれわれが戻ったということである。萌芽の始原、あるいはゲーテの精神に従って表現するなら、「核心(ケルン)の深淵」はそこにつながり、そこにあの中心点が――われわれの全存在全生命がそれをめぐって形成され、またそれによって形成されるあの中心点が仮定されねばならない。われわれの生命におけるこうした全く内面的な相を空間的な概念の中で考えれば、起因と根源の認知とが同一である理想的な場所は、この起点と中心点でしかありえない。このようにして自己の内部に引っ込んでこれについて報告する者が、われわれの存在の根拠を経験し、これを告知する、すなわち根拠を明示するのである。
 神話的な根拠の説明には、このように自己の内部に引っ込む者が自己をあらわに示す、というパラドクスがある。あるいは逆にいうなら、古代人の大らかな開放性は自己を自己の根底に退かせ、自己本来の根源においてアルケー・カテクソケーン αρχη κατ' εξοχην、すなわち根源そのものを認識させる。神話は太古の初出児――「始原」は最初ここにあった――である童児神の姿を借りて語るが、そこで語るのは人間存在の発生などではなく、神的な宇宙、あるいは全能なる神の発生についてである。誕生と日の出は、あの普遍的な始原に肉体的特徴と金色の色彩を与えているに過ぎない。われわれが人間の観念的な中心点という空間的概念のなかにとどまるならば、萌芽の底知れずに深い始原が始まるところにこそ世界そのものが始まる、と言わざるをえない。世界そのものは鮮明な比喩を用いて根源について語る。自己に沈潜しながら自己本来の根拠にまでもぐり込む根拠の説明者は自己の世界の根拠を説明する。彼はこの世界を一つの基盤の上に立って自力で築き上げる。そこではすべてが一つの湧出、発生、発芽であり、言葉の完全な意味において根源的、従って神的でさえある。神話の中に現われるすべてのものの神的性格は、一切の神的なるものの根源性と同じく自明である。」

「世界をある一点から再構成すること、すなわち、根拠の説明者そのものがそれをめぐって組織され、それを起点として組織されているところの点、彼がその中で根源的に(中略)存在しているところの点、――そういう点をもとにして世界を再構成すること、これこそ神話学の最大にして最も重要なテーマ、すなわち根拠の説明そのものである。大宇宙の写しである一つの新しい小世界の建設と同時に、神話的な根拠の説明が行動に移されはじめる。すなわち根拠の説明 Begründung が根拠の創設 Gründung となるのである。」



「童児神」(ケレーニイ)より:

「ゼウスが生まれたとき、ゼウスの母は――わが子の命を救うために――彼を捨て子にした。ゼウス神話に現われる神々や野獣による幼児の養育と、幼児ディオニューソスの神話と礼拝儀式に見られるこのような育児の模倣には、つぎの二通りのことがらが示されている。すなわち童児神の孤独と、それにもかかわらずその子は結局原始世界に住みついているという事実――この二つである。二重の相貌をもったひとつの状況、すなわちそれは、孤児であるという状況であると同時に、神々の寵児であるという状況である。」

「アルタイ山脈の森林地帯に住むタタール人たちのある童話は次のように始まる。

 むかしむかしのことでした。
 神より生まれ
 パヤナから生まれた
 一人のみなし児の少年がおりました。
 食べるべき食事もなく
 着るべき着物もなく
 そんな毎日でした。
 結婚相手の女性もいません。
 一匹の狐がやって来て、
 少年に話しかけました。
 「どうすりゃ、お前は大人になるんだろうね」
 狐は少年にこうたずねたのです。
 少年は答えていいました。
 「どうすれば大人になるのか
 ぼく自身わからないんだよ」」

「童話や英雄伝説におけるこうした場面の出現は(中略)次のような問いを投げかける。すなわち、孤児というのは童児神の先駆ではなかったか。孤児は、どんな多様な文化の中でも見られるようなある種の人間的な運命類型の表現から神話の中に引き継がれ、そして神的な地位に高められたのではないか。」

「始原要素の孤独の中に定着している童児神、すなわち魔力をもった孤児の原像は、その顕現の場所が水であるとき、そこに完璧な意味を表わす。」
「賢い隠者が大海原の上をさまよい歩いているうちに、とあるニャグロダの木(インドのイチジクの樹)のところにたどりついた。その木の枝の上に一人の幼童が静かに休んでいた。童児はここで休んでいくよう隠者に勧めた。これに続いて起こったことがらについて、マールカンデヤはつぎのように述べている。「神が私のために神の内奥に安らぎの場を提供して下さるのである。おりしも、私は自分の長い人生と人間としての生活に嫌悪を感ずる。神は口を開く。そして私はあらがい難い力でもって彼の内部に引きずりこまれる。彼の腹中に私は全世界を見る。世界中の国々と都市、ガンジス河と他の河川、そして海を見る。(中略)私が現世で見たことのあるすべてを、私は彼の腹中をさまよい歩いている間に見る。こうして百年以上もの間、私は彼の腹中を彷徨しつづけるが、体の末端には行きつかない。そこで私は神を呼び出し、ただちに風の力を借りて彼の口から外へ出させてもらう。ふたたび私はニャグロダの木の枝に、神々しさの証しを身におび、黄衣をまとって彼が坐っているのを見る」。宇宙の神たるこの童児神がナーラーヤナ(中略)――インド語源にしたがえば「水を住処(すみか)とする者」である。」

「卵から生れたエロースの有翼の姿は、同じように有翼のアルカイク期の原女神たちと切り離して考えることはできないであろう。そしてこの姿の意味は、儀式的で宇宙発生論的なヘルマプロディートス礼拝の意味があるところにこそある。翼をもっていることと両性であるという、この二つの要素は、始原の水を自己の表現形態とする同一の前人間的、いな前童児的な、いまだ完全に分化していない始原状態にさかのぼる。エロースはイルカに乗った少年たちの間で最初の位置を占める。ここでわれわれはこの独特な状況をつぎのように表現してよかろうかと思う。――烏賊(いか)のような原始世界的に異様な動物を手にしながらイルカに乗っている有翼の少年は、始原の水を故郷とするあの童児神――始原児――であって、この童児神の数ある名称のうち、唯一最もよく知られているのが「エロース」であると。」
「始原児が手に竪琴を持って現われる姿は、宇宙のこの音楽的性質を(中略)描き出している。それが何よりもまずヘルメース自身の特徴を示している。ホメーロスの詩人は、宇宙内容の音楽的性質が本質的にヘルメース的であると感じ取り、それを宇宙スペクトルのヘルメース色彩で定着させた。(中略)もしイルカにまたがった少年(中略)も手に竪琴を持っているのであれば、われわれは(中略)どんな個別的な呼称にも先んずるもっと普遍的な原始世界的関係、すなわち、水と幼児と音楽との関係をも考えないわけにはいかない。」

「ディオニューソスはそもそものはじめから両性的であった。」

「死者の霊を導く神ヘルメース・プシュコポンポス Hermes Psychopompos の霊的な相貌もこれまた明らかである。彼は子供らしい神であるとともに、それに劣らず幽鬼のごとき神である。(中略)われわれが――幼児の形象に目を通しながら――次のような言葉で述べた状態、つまり非存在(ニヒト・ザイン)からはいまだ分離されてはいないが、しかもすでに存在(ザイン)するといった状態は、以下のように書き換えることもできよう。すなわち、現存在(ダーザイン)からはまだ分離されてはいないが、しかもまだ存在していない状態、というようにである。頭巾つきの外套を着た童児、すなわち守護神ククラトゥスや、無数のキューピッドたちのような、あの神々しい幼童たちの形姿が古典的様式の墓碑に表現しているのは、他ならぬ死者たちのこのような状態なのである。墓標や石棺に描かれた海神たちやイルカどもも同一の状態を暗示している。そしてこの墓穴の世界に触れることによって、同時にわれわれはディオニューソスの暗い色彩のもっとも深い陰影に到達したことになる。彼を象徴するものは、すべてこれ陰気に描かれている。古典期の人間がディオニューソスのこの陰気な姿を通して描き出したものは、単に二つの方向が揺れ動くあの状態の不安定な均衡――幼児や死者たちが存在と非存在との間を浮遊する状態――だけではなく、下なる冥界へと下降する方向が上なる神々に向かって確実に転換すること、すなわち、至高なる者への発展、最も強きものは最も弱きものから生まれるという確信であった。」

「問題の本質は曖昧、かつ未決定のままにしておこう。なぜなら、始原児という根源的に未決定的なるもの、それがわれわれの対象であったのだから。」























































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カール・ケレーニイ 『ギリシアの神話 ― 英雄の時代』 (植田兼義 訳/中公文庫)

「テイレシアスの盲目についてもう一つの説があるが、これも同じく、彼は見ることの許されないものを見てしまったものである。彼は若い羊飼いとして、(中略)三叉路で二匹の蛇が交尾しているところを見たと語り伝えられている。こんなことはギリシアの牧人の生活のなかで別にめずらしいことではなかったし(中略)、後代の人々には神々のわるふざけの始まりぐらいにしか解されないが、古い時代には何か特別な意味をもっていたにちがいない。」
(カール・ケレーニイ 『ギリシアの神話――英雄の時代』 より)


カール・ケレーニイ 
『ギリシアの神話 ― 英雄の時代』 
植田兼義 訳

中公文庫 D25-2

中央公論社 昭和60年3月25日印刷/同年4月10日発行
516p 目次5p 地図2p 文庫判 並装 カバー
定価660円
表紙・扉: 白井晟一
カバーデザイン: 丸山邦彦
カバー: アキレウス(古代ギリシア壺絵)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Karl Kerényi: Die Mythologie der Griechen, (Rhein-Verlag, Zürich, 1951) と Die Heroen der Griechen, (1958) の翻訳であるが、序論と、地名、事物の索引は割愛した。本書は二巻から成り、ギリシアの神々と英雄の物語を網羅し、神話辞典としても十分活用できるものである。」
「本書はすでに単行本で共訳の形で刊行されたものであるが、文庫に入れられるにあたり今回は訳者が全面的に改訳を試み、可能な限り事実に正確な訳を期した。まえがきや序論をのぞいたのでケレーニイの意図が損なわれるのではないかと問われるかもしれない。この序論は難解で明晰を欠いた文章で、専門家でない読者は、この文章を読んだだけで読み進めることを敬遠してしまうかもしれないという懸念から、編集者と相談のうえ省略した。」



ギリシアの神話2-1


カバー裏文:

「ヘラクレスの十二の冒険と悲劇を中心に、アガメムノンや俊足のアキレウス、オデュッセウスが活躍するトロイア戦争に至る、英雄の物語を収録。テバイやスパルタの都市の起源、種族や家系の始祖、数多の英雄達の雄勁な悲劇物語集。」


目次:

第一部
 第一章 カドモスとハルモニア
 第二章 テバイのディオスクロイ
 第三章 ダナオスとその娘たち
 第四章 ペルセウス
 第五章 タンタロス
 第六章 ペロプスとヒッポダメイア
 第七章 サルモネウス、メラニッペ、テュロ
 第八章 シシュポスとベレロポンテス
 第九章 プリクソスとヘレ
 第十章 オイディプス
 第十一章 スパルタのディオスクロイと従兄弟たち
 第十二章 メレアグロスとアタランテ
第二部 ヘラクレス
 序
 第一章 テバイの物語
  1 系譜物語
  2 英雄の誕生
  3 若き英雄物語
 第二章 十二の功業
  1 ネメアのライオン
  2 レルネの水蛇ヒュドラ
  3 ケリュネイアの雌鹿
  4 エリュマントスの猪の生捕り
  5 ステュンパロス湖畔の鳥
  6 アウゲイアスの家畜小屋
  7 トラキアのディオメデスの雌馬
  8 ミノスの雄牛
  9 アマゾンの女王の帯
  10 ゲリュオネウスの牛
  11 ヘスペリスたち(ヘスペリデス)の園の黄金のりんご
  12 ハデスの犬
 第三章 十二の功業後の偉業と受難
  1 カリニコス
  2 狂える人
  3 兇徒
  4 女性の奉仕者
  5 ヘラとデイアネイラの助け人
  6 この世の終わり
第三部
 第一章 ケクロプス、エレクテウス、テセウス
 第二章 イアソンとメディア
 第三章 オルペウスとエウリュディケ
 第四章 テレウス、エウモルポス、ケパロス
 第五章 アンピアラオスとテバイ戦争の英雄たち
 第六章 アトレウスとその王朝
 第七章 トロイア戦争の序曲
 第八章 トロイア戦争の英雄たち
 第九章 イピゲネイアとその兄弟姉妹
 第十章 テレポス
 第十一章 プロテシラオスとラオダメイア
 第十二章 アキレウスとトロイア戦争の終熄

訳者あとがき
原注
索引
地図



ギリシアの神話2-2



◆本書より◆


「トロイア戦争の英雄たち」より:

「ある異説によると、ヘラクレスは赤児のアイアスを不死身にするために、自分のライオンの皮にくるんだが、その子が皮に触れなかったわきの下だけは不死身にならなかったという。強欲なことでも気前のよいことでも、限りを知らず抑制のきかない性格のアイアスは、たいへん傷つきやすかった。アキレウスの葬礼競技で、彼は最悪の事態に陥ったという。テtィスは、ヘパイストスが製作した息子アキレウスの鎧(よろい)を、トロイア戦争で最大の手柄をたてた英雄に賞として差し出したが、それはオデュッセウスとアイアスのあいだで決めねばならず、その判定はむずかしかった。結局、パラス・アテナの意思に従い、判定はずる賢い男(オデュッセウス)に幸いし、強者(アイアス)に負けが下されて、アイアスは狂気になり、自殺してしまった。彼は、神々が抑制しない思い上がりを罰した気味の悪い見本となった。彼の奔放さは罪深いというより、むしろ幼稚っぽくわれわれには見えるし、また、いかにも長い槍と塔のような大きな楯によって巨人の特徴を示しており、英雄たちのなかで彼と比べられるものは誰もいない。冥界に下ってからも、彼はまだオデュッセウスに対して怒っており、彼のなだめる言葉にも答えなかった。しかし、サラミスの人々は自分たちの広場(アゴラ)に彼のために神殿を建て、そこに黒檀(こくたん)で作った立像を安置した。アテナイ人たちもその崇拝に参加したし、ギリシア人は誰もが、サラミスの戦いの前にアイアスとその父に祈りを捧げた。」


「オイディプス」より:

「テイレシアスの盲目についてもう一つの説があるが、これも同じく、彼は見ることの許されないものを見てしまったものである。彼は若い羊飼いとして、キタイロン山の――あるいはキュレネ山の、ヘルメスが彼の杖に二匹の蛇をからませて住んでいたところともいうが――三叉路で二匹の蛇が交尾しているところを見たと語り伝えられている。こんなことはギリシアの牧人の生活のなかで別にめずらしいことではなかったし当り前と思われていた出来事で、後代の人々には神々のわるふざけの始まりぐらいにしか解されないが、古い時代には何か特別な意味をもっていたにちがいない。」


ギリシアの神話
















































































カール・ケレーニイ 『ギリシアの神話 ― 神々の時代』 (植田兼義 訳/中公文庫)

「夜の女神に対してはゼウスですら怖れかしこんでいたという。(中略)運命の三女神モイライはこの夜の子供たちであった。(中略)モイライの力はひょっとしたらゼウスの支配権よりずっと古い時代のものかもしれない。」
(カール・ケレーニイ 『ギリシアの神話――神々の時代』 より)


カール・ケレーニイ 
『ギリシアの神話 ― 神々の時代』 
植田兼義 訳
 
中公文庫 ケ-2-1

中央公論社 1985年4月10日初版/1992年9月20日10版
370p 目次8p 地図2p 文庫判 並装 カバー 
定価600円(本体583円)
表紙・扉: 白井晟一
カバーデザイン: 丸山邦彦
カバー: ディオニュソス(古代ギリシア壺絵)



『ギリシアの神話――英雄の時代』所収「訳者あとがき」より:

「本書は Karl Kerényi: Die Mythologie der Griechen, (Rhein-Verlag, Zürich, 1951) と Die Heroen der Griechen, (1958) の翻訳であるが、序論と、地名、事物の索引は割愛した。本書は二巻から成り、ギリシアの神々と英雄の物語を網羅し、神話辞典としても十分活用できるものである。」


ギリシアの神話1-1


カバー裏文:

「西欧の理解に不可欠なギリシア神話の森――天上の神ゼウス、愛の女神アプロディテから、アポロン、冥界の神ハデス、ディオニュソスまで、膨大な説話を異説を含めて体系的に収集。図版多数とともに収める、おおらかな神々の物語篇。」


目次:

第一章 万物の始め
 1 オケアノスとテテュス
 2 夜、卵、エロス
 3 カオス、ガイア、エロス
第二章 ティタン神族の物語
 1 ウラノス、ガイア、クロノス
 2 クロノス、レア、ゼウス
 3 神々とティタン神族の戦い
 4 テュポエウス(またはテュポン)、ゼウス、アイギパン
 5 巨人族(ギガンテス)との戦い
第三章 モイライ、ヘカテ、オリュンポス神族以前の他の神々
 1 運命の女神たち(モイライ)
 2 女神エウリュビア、ステュクス、ヘカテ
 3 スキュラ、ラミア、エンプサ、およびその他の妖怪変化
 4 テテュスとオケアノスの年上の娘たち
 5 「海の老人たち」、ポルキュス、プロテウス、ネレウス
 6 女神老婆たち(グライアイ)
 7 エリニュスたち、またはエウメニスたち
 8 ゴルゴンたち(ステンノ、エウリュアレ、メドゥサ)
 9 エキドナ、ヘスペリスたちの蛇、ヘスペリスたち
 10 アケロオスとセイレンたち
 11 タウマス、イリス、ハルピュイアたち
 12 ネレウスの娘たち
第四章 愛の大女神
 1 アプロディテの誕生
 2 アプロディテとネリテス
 3 アプロディテ、アレス、ヘパイストス
 4 ピュグマリオンの物語
 5 アドニスの物語
 6 アプロディテとアンキセス
 7 アプロディテの異名
第五章 神々の大母神とそのお供たち
 1 イデ山のダクテュロスたちとクレスたち
 2 カベイロスたちとテルキネス
 3 アッティスの物語
第六章 ゼウスとその妻たち
 1 ゼウスの誕生と幼年時代
 2 ゼウスとヘラ
 3 ゼウス、エウリュノメ、カリスたち
 4 ゼウス、テミス、ホーライ
 5 ゼウス、ムネモシュネ、ムーサイ(ミューズたち)
 6 ゼウス、ネメシス、レダ
 7 クレタ島の物語
 8 オルペウスの物語
 9 ゼウスとヘラの異名
第七章 メティスとパラス・アテナ
 1 アテナの誕生
 2 アテナの父たちと養育者たち
 3 アテナとヘパイストス
 4 ケクロプスの娘たち
 5 アテナの異名
第八章 レト、アポロン、アルテミス
 1 レトのさすらい
 2 レトとアステリア
 3 アポロンの誕生
 4 アポロンとその敵たち
 5 アポロンとその恋人たち
 6 アスクレピオスの誕生と死
 7 アルテミスの物語
 8 ブリトマルティスの物語
 9 アポロンとアルテミスの異名
第九章 ヘラ、アレス、ヘパイストス
 1 ヘラの受胎
 2 アレスとアロアダイ
 3 ヘパイストスの墜落と教育
 4 縛られたヘラ
 5 ヘラ、イクシオン、ケンタウロイ
第十章 マイア、ヘルメス、パン、ニンフたち
 1 ヘルメスの誕生と事始め
 2 ヘルメス、アプロディテ、ヘルマプロディトス
 3 パンの誕生と情事
 4 プリアポスについて
 5 ニンフたちとサテュロスたち
第十一章 ポセイドンとその妻たち
 1 ポセイドンの誕生と雄羊の結婚
 2 ポセイドンとテルキネス
 3 デメテル、ポセイドンの雄馬の毛紺
 4 ポセイドンとアンピトリテ
 5 アンピトリテの子供たち
第十二章 太陽、月、その一族
 1 パエトンの物語
 2 セレネとエンデュミオン
 3 エオスとその恋人たち
 4 オリオンの物語
 5 風の神々について
第十三章 プロメテウスと人類
 1 人類の起源
 2 プロメテウスとゼウスの争い、火の盗み
 3 パンドラの物語
 4 プロメテウスの罰と解放
 5 ニオベの物語
 6 テティスと世界の未来の支配者
 7 人類の運命
第十四章 ハデスとペルセポネ
 1 ペルセポネの掠奪
 2 誘拐、慰め、地上回帰の物語
 3 冥界の物語
第十五章 ディオニュソスと彼に従う女たち
 1 ディオニュソス、デメテル、ペルセポネ
 2 ディオニュソスとセメレ
 3 ディオニュソスの供の女と敵対する女
 4 ディオニュソス、イノ、メリケルテス
 5 海上のディオニュソス
 6 ディオニュソスとアリアドネ
 7 ディオニュソスの異名

原注
索引
地図



ギリシアの神話1-2



◆本書より◆


「運命の女神たち(モイライ)」より:

「夜の女神に対してはゼウスですら怖れかしこんでいたという。(中略)オルペウス教徒の物語によれば、ニュクス(夜の女神)そのものが三身一体の女神であったといわれる。運命の三女神モイライはこの夜の子供たちであった。(中略)オルペウス教徒によると、彼女らは天にある池のほとりの洞窟に住んでいて、その池の白い水は、この洞窟からほとばしっていたという。これは月光の明るい光景である。モイライ(単数はモイラ、複数はモイライ)という名前は「分け前」を意味し、そしてその三という数は――オルペウス教徒の主張によれば――月の三つの「分け前」に一致する。そのために、オルペウスは「白い衣を着たモイライ」を歌うのである、といわれている。
 そのほか、モイライは、第一のモイラだけがクロトと呼ばれるだけであるが、クロテス、つまり「紡ぎ女」として知られている。第二のモイラはラケシスで「分け前をはかる女」であり、第三のモイラはアトロポスで「免れがたい女」であった。ホメロスの語るモイラはたいていただ一人のモイラであって、それも「強い」「耐えがたい」「破壊的な」糸を紡ぐ女でしかない。モイライの紡ぐ糸は、われわれの人生の長さであって、そのうちの一日はのがれられない死の日となる。人間のそれぞれにどれくらいの長さの糸を分け与えるかは、モイライ次第で、ゼウスですらその決定を変えることはできない。(中略)モイライの力はひょっとしたらゼウスの支配権よりずっと古い時代のものかもしれない。」
「さて、夜の女神ニュクスの子供たちの名を簡単に数え上げておこう。この子供たちはその一部だけが神々からなる暗い一族であり、おそらくヘシオドスも、万物の系譜を物語ったついでに名を挙げたものであろう。彼によれば、死は三つの名で呼ばれ、モロス、ケル、タナトスである――これらの名のはじめの名はモイラの男性形である――。死のほかにその兄弟ヒュプノス(「眠り」)と夢たち(オネイロイ)のすべての族(やから)がいる。モモス(「非難」)、オイジュス(「苦悩」)、オケアノスの彼方で黄金のりんごの番をするヘスペリスたち(「黄昏(たそがれ)の娘たち」)、女神ネメシス(中略)、アパテ(「欺瞞」)、プロテス(「愛着」)、ゲラス(「老齢」)、エリス(「争い」)、など、みな夜の子供である。エリスの子供たちは神々の物語には加えられない。彼らはのちに冥界の入口に住むことになる。」



「スキュラ、ラミア、エンプサ、およびその他の妖怪変化」より:

「ヘカテは、天、地、海に力の分け前をもっていたが、けっしてオリュンポスの女神にはならなかった。(中略)彼女は、路上を歩きまわらないときは、自分の洞窟にこもっていた。彼女の娘である海の妖怪スキュラも洞窟に住んでいた。」
「船乗りの語るところによれば(中略)、そこに二つの絶壁があって、その一方はなめらかな石でできた高く空にそびえる岩で、その頂きは見えない。そしてその中央にスキュラの洞窟があった。この洞窟は西方のエレボスの、はかり知れない闇に向かって開いている。そのなかに、若い雌犬のように、おそろしげに吠えるスキュラが棲んでいたといわれる。彼女の十二の足は(中略)発育不全で奇形であった。おそろしい六つの顔がそれぞれ長い首に坐っている。(中略)彼女は洞窟の奥から首をのばし、岩のあいだにいる、いるか、あざらし、もっと大きい海の怪獣を捜し求めては捕えていた。」
「もう一方の岩の絶壁の下にはカリュプディスが棲んでいた。(中略)カリュプディスは、日に三度海水をすすっては、日に三度海水を吐き出していた。向かいあっている絶壁スキュラほどには高くない絶壁の上に、野生のいちじくの木が一本生えていた。カリュプディス自身には見えなかった。」
「ラミアあるいはラモとは、名前の意味からすれば、「呑みこむ女」のことである。(中略)ある物語によれば、ラミアは女王で、リビアを支配していたといわれている。それどころか、リビアには彼女の洞窟があって、人々はそこを訪れたのである。ゼウスは彼女を愛し(中略)、二人のあいだに子供が生まれた。この子供たちは嫉妬するヘラの犠牲になってしまった。それ以来ラミアは、悲しみのため醜くなり、そねみから他の母親たちの子供を奪った。ラミアは自分が眠っている間も見張れるように、自分の眼をはずすことができた。それにどんな姿にも変身することができた。もし彼女をとらえることができれば、ラミアが奪った子供たちをその腹のなかから生きた姿で取り返すことができたのである。」



ギリシアの神話






















































































カール・ケレーニイ 『神話と古代宗教』 (高橋英夫 訳)

「古代宗教的視点から見て、根源的であり中心的であったのは、死のリアリティの把握と、その全面的な承認であって、恐ろしかったり快適だったりする彼岸のイメージによって先走りして、急いで死を隠蔽することではなかった。古代における死の神の祭祀において行われていたのはそういう承認なのである。」
(カール・ケレーニイ 「宗教的観念としての非存在」 より)


カール・ケレーニイ 
『神話と古代宗教』 高橋英夫 訳


新潮社 昭和47年5月30日発行/平成4年10月5日3刷
342p(うち口絵56p) A5判 丸背布装上製本 貼函
定価4,500円(本体4,369円)
Karl Kerényi : Die Religion der Griechen und Römer



訳者による「あとがき」より:

「この『神話と古代宗教』は、当代屈指のギリシア神話学者で、同時に宗教史学者でもあるカール・ケレーニイの代表的著書『ギリシア人とローマ人の宗教』の全訳である。」


口絵図版(モノクロ)90点。


神話と古代宗教1


帯文:

「東京国際ブックフェア記念復刊
現代ヨーロッパ最高の古代学者ケレーニイによる画期的な神話の解釈学!…
二十世紀屈指の碩学、ハンガリー生れの神話学者ケレーニイがギリシア・ローマの神話、祝祭、彫像、建築の鋭い解釈学的分析から抉りだした古代人の実存――その神話と融合した生のリアリティを原点に、古代宗教における〈生〉の様式と本質、〈観ること〉〈慎しむこと〉などの根本的意味を解明した名著の完訳。
■口絵写真56頁・90葉」



帯裏:

「ケレーニイは本書で、ギリシア・ローマ宗教の本質的要素として、古代人の生の原型として、神話を承認し、古代宗教の神話的位相を解明している。神話(ミュートス)は荒唐無稽な作り話などではなく、古代人は神話を生きていた。古代的生の中では、神話を物語るのも、祭祀をいとなむのも、彫像、建物などを作るのも、すべて同等の同じ意味をもつ生(ビオス)の行為であった。祝祭、遊戯、芸術、学問、宗教、神話のなかに生(ビオス)を閃めかせ、輝きを放つ精神的態度、特定の生の様式――彼が何よりも重視し、解明しようとしたのが、この様式、態度なのである。古代を見つめるわれわれのなかの古代と現代の関係という問題に直接的な驚きと新鮮さで愬(うった)えてくるのは、古代人の「観られる」と補完的関係にある「観ること(テオーリアー)」であり、同様に両義的な意味内容での「慎しみ(レリギオー)」である。この問題は現代における宗教という問題意識、更に現代人の本質に欠けているものは何かという反省に大きな光を投げかけるだろうと思う。
〈「あとがき」より〉」



神話と古代宗教2


目次:

図版
 オリュムピア
  およびゼウスとヘーラーの祭祀
 アテーナイのアクロポリス
  およびアテーネーの祭祀
 ディオニューソスの祭祀より
 デーロス、ブラウローン
  およびアポローンとアルテミスの祭祀
 デルポイ
  およびアポローンとアルテミスの祭祀
 ローマとその祭祀

まえがき

序説
第一章 ギリシア宗教の神話的特性
第二章 祝祭の本質
第三章 宗教的経験の二様式
第四章 ギリシアおよびローマの宗教的経験の頂点
 一 〈観(テオーリアー)〉 theoria
 二 〈慎しみ(レリギオー)〉 religio
第五章 ホメーロス、ヘーシオドスにおける人間と神
 一 奉献のギリシア的観念
 二 神々の笑いについて
第六章 ローマ的理解における人間と神
 一 〈ユーピテル神官〉 Flamen Dialis の生活
 二 総括
結語 宗教的観念としての非存在

原注

あとがき (訳者)
索引



神話と古代宗教3



◆本書より◆


「宗教的観念としての非存在」より:

「生物の死において実現された客観的な非存在は、古代人にとって必然的にそうならざるを得なかったのと同じで、われわれにとっても、二つの位相にあらわれた。すなわちそれは、まず恐れられた死であり、次にあらゆる生物の枠、周辺であった。生物はそこではじまり、また同様にそこでいわば快適な傾斜をすべって目標に達するような具合に、自然におわるのである。とまれ古代人にとって、非存在は、われわれに親しい位相とは異なる特性をもっていた。非存在についての現代的観念は、完全な空虚ということである。しかし古代の宗教的人間にとっては、非存在は有機的な生の枠、および周辺として、空虚であると同時に充たされたものでもあった。
 それは哲学者の非存在のように、論理的にはっきりと規定され、厳密に定義づけられた観念ではなくて、すべて生あるものが境を接している一つの現実なのである。この現実はそもそも限界領域においてどうにか把握できるものにすぎないのだが、そのわけは、その真の核心が依然として捉えられないからである。しかし限界領域においては、その捉えられないものに近づくことができる。この接近は、非存在に近づいてゆくにつれて、中間の諸段階を飛びこえて行われる。昼の光と、ギリシア人がエレボスという名称を与えていた完全な光の欠如とのあいだに、夜が存在しているのだ。有機体が形づくられる状態の前に、萌芽がある。すべての動く生の根拠として、やすらう大地がある。しかし、夜、萌芽状態、母のようにやすらう大地と、光なく、萌芽なく、完全に死んでいると考えられる非存在の領域とのあいだの境界はどこにあるのだろうか。
 いわば全くネガティヴな、純粋な非存在の領域と、すべての段階や可能性内包した完全な存在の領域との中央に、現実の領域と名附けることのできるものが存在しているのだ。闇のなかにうごめいているすべての小さな生命が属しているこの中間領域が、生の大いなる領域のなかの一番底辺の層である。完了していないもの、母のように庇護するものの領域として、それは非存在の領域に対しても閉ざされてはいない。その上、古代人にとっては、それは非存在とも大きく結びついていて、単なる空虚として口をあけていただけではなかった。それは母なる大地という観念と完全に分ちがたく結び合わされて、大地の一つの位相としてあらわれていた。こうして萌芽状態にある充溢も、それなりに非存在の一つの位相になったのである。
 こういう意味の関聯において、われわれは存在の根の位相ということを語るのを許されるだろう。〈大地と海の根〉――これは二つとも萌芽を出し、うごめいている存在領域であるが――これはヘーシオドスによれば、エレボスという完全な闇さえ存在していなければ、タルタロスに棲むティーターン神族の眼には見えるのだという。迷路の無限の生命線という観念の方から見ると、これは世界を産み、世界を孕み、さらに幾度でも新たに産む能力のある母の世界である。すなわちこれは生の前の段階であり、生の後の段階である。ギリシア哲学者にいたってはじめて、純粋な〈非存在〉 me on が〈存在〉 on から分離したのである。古典古代の宗教は天上の神々と冥界の神々、すなわちオリュムポス神族とクトニオス神族とを崇拝していた。後世の汎神論的哲学の世界以上に、彼らの世界は一つの全体だった。非存在さえも、心にとって現実として存在し、人間にとって別の存在として存在していたという限りでは、存在と非存在とは、古代宗教にとって同じくらい強力なものであった。いわば、それは輝きと意味をもって万有を取り囲み、万有に浸透していった神々の輪舞のうちにも、あらわれることができたのである。」



























































カール・ケレーニイ 『ディオニューソス ― 破壊されざる生の根源像』 (岡田素之 訳)

「われわれが〈ゼウス〉とか〈ディオニューソス〉というギリシア名を放棄するならば、そのあとには巨大な蛇の姿をした無名の神格が残り、この神格は、のちのヒーメリオスの証言によれば、〈クレータ島の洞窟で〉婚礼を挙げたのだった。」
(カール・ケレーニイ 『ディオニューソス』 より)


カール・ケレーニイ 著/岡田素之 訳 
『ディオニューソス ― 破壊されざる生の根源像』


白水社 1993年6月5日印刷/同25日発行
524p 索引39p 
A5判 丸背布装上製本 カバー
定価7,800円(本体7,573円)
表見返し: 関連地図 : 地中海
裏見返し: 巻聯地図 : ギリシア・小アジア



「凡例」より:

「本書は Karl Kerényi : Dionysos. Urbild des unzerstörbaren Lebens. München/Wien (Langen-Müller) 1976 の全訳である。」
「図版は原書では一か所にまとめて掲げられているが、本書では読者の便宜を考えて、図版と記述箇所をなるべく対応させるかたちで掲載した。」



ディオニューソス1


帯文:

「今世紀有数の神話学者の主著にして遺著の完訳。死と再生の迷宮へといざない、謎多き神の根源像に迫る神話物語。図版197枚」


ディオニューソス2


目次:

まえがき

序章 ギリシア語にみられる有限の生と無限の生

第一部 クレータ島の前奏曲
 第一章 ミノア期の幻視
  1 ミノア芸術の精神
  2 ミノアの身振り
  3 幻視のクレータ島
  4 自然における超越
  5 人工的に生み出された超越
 第二章 光と蜜蜂
  1 炎をあげる一年の始まり
  2 セイリオスが明け方の空に昇る時期に蜂蜜飲料を準備すること
  3 蜜蜂の蘇生
  4 オーリーオーンの誕生
  5 革袋の神話物語
 第三章 ディオニューソス神話のクレータ的核心
  1 牡牛、蛇、木蔦、葡萄酒
  2 ディオニューソス的名前
  3 イアカルとイアッコス
  4 ザグレウス
  5 アリアドネー

第二部 ギリシア期の神話と祭祀
 第一章 到来の神話
  1 この学問の歴史から
  2 到来の諸形式
  3 アッティカ地方の到来
  4 都市アテーナイの到来
  5 アッティカ地方、テーバイ、デルポイ以外の到来神話と古い儀礼
 第二章 ディオニューソス・トリエテーリコス――二年周期の神
  1 トリエテーリスによる祭祀の古さとその連続性
  2 二年周期の弁証法
  3 デルポイのディオニューソス
  4 神秘的な生贄の儀式
  5 即位礼
 第三章 アテーナイ人のディオニューソスとギリシアの秘儀参入者が崇拝するディオニューソス
  1 太股からの誕生と仮面を被った偶像
  2 アテーナイのディオニューシア祭
  3 アッティカ悲劇の初期段階
  4 アテーナイにおける喜劇の誕生とその変容
  5 古代後期におけるギリシアのディオニューソス宗教

編纂者あとがき (マクダ・ケレーニイ)

原注

訳者あとがき
索引



ディオニューソス4



◆本書より◆


「無限なる生と制約された生の区別は、ギリシア語ではゾーエー(zoé)とビオス(bios)という二つの異なる単語によって行われる。」
「プローティーノスはゾーエーを〈魂の時間〉と読んだが、その時間のなかでは、魂は自分が幾度も再生する過程で一方のビオスから他方のビオスに移ってゆく。プローティーノスにこのような見解が述べられたのも、ギリシア語にゾーエーとビオス、この二つのことばが、それぞれ特別な〈ひびき〉を伴ってすでに存在していたからである。一方は特徴のない生を表すことばであって、(中略)他方、ビオスの方は特徴のある生を表している。(中略)もし比喩的に表現することが許されるならば、ゾーエーはビオスの一つひとつが真珠のように通して並べられる糸であり、この糸はビオスとちがって、ひたすら無限に連続するものだと考えられる。」

「クレータ島で児童神の誕生が語られたとするなら、その児童神のギリシア的解釈が〈ゼウス〉であった。こうした出来事に役立つように、この島にはいくつもの聖なる洞窟が存在した。クレータ人にとって神の誕生は、暗い深みから何かが光り輝くことであったのであり、しかもそれは、より精神的な、純粋な光が輝くというよりも、むしろ生がほとばしり出てくることであった。」

「人類は石器時代のかなり古いむかしから蜂蜜を常食にしてきた。スペインのピコル村付近にあるアラニァ洞窟で発見された暗赤色の岩壁画には、〈蜂蜜泥棒〉の遠い祖先が描かれている。泥棒たちは高い木に登って蜜蜂から蜜を盗もうとしている。蜂蜜を採るいろいろな方法は、それが花から直接だろうと、野生の蜂からだろうと、あるいは養蜂によるものだろうと、それぞれの国と民族ごとに独特の年代記を形成するだろう。それらの共通項、生物学的に共通の根をもつ原型的なものは、ゾーエーが栄養を摂取するばかりでなく、甘味を求め、甘味を取ったのちに気分をふたたび高揚させたことである。さらに別の高揚感をもたらすのが、蜂蜜から作られる酒類であった。だが、その効果は酩酊というより、むしろ幸福感と呼ぶ方がはるかに正確だろう。(中略)のちに葡萄の木から手にいれるようになったものが、蜜蜂から人間に初めてもたらされたのである。」

「ある生の崇拝が〈幻視〉の徴表と〈蜂蜜〉の徴表のもとにディオニューソス崇拝を準備した。だが、ディオニューソス宗教はこの二つの徴表だけに支配されていたのでもなければ、また三番目の、葡萄酒の徴表だけに支配されていたのでもなかった。ディオニューソス宗教の現前は、これらいくつもの徴表が結合し、宗教として告知されるという点に認めなければならない。(中略)ディオニューソスは、ギリシア人にはとくに葡萄酒の神、牡牛の神、また女性の神だと思われていた。四番目の要素だった蛇は、ミノア文化の女神ないし女神官のテラコッタ像が、動きはずっと少ないながらもその身体に蛇をつけていたように、バッコスに憑かれた女たちが身につけている。さらに葡萄酒と牡牛、女性と蛇は、ギリシアの医師たちに由来する医学的表現を使うならば、小規模で特別な〈症候群〉を形成する。それらはいわばゾーエーが自分のために作り出し、そして急性症状に転じたディオニューソス的状態の諸徴候である。ゾーエーが症候群と化して語り出したのである。これらの症候群はゾーエーの大きな神話にみられる基本的なコンテクストである。ギリシア文化ではこの神話がディオニューソス神話であり、ギリシア人が到来する以前のミノア文化の神話は、それとは異なる名前の神格、だが醗酵する蜂蜜に認められた神格よりも陰影豊かで包括的な神格を祀る神話だったにちがいない!」

異教古代の末期に創作されたノンノスの叙事詩『ディオニューソス讃』には、(中略)葡萄酒文化の発明に関する非常に古い神話が語られている。野生の葡萄の木と蛇とが、この発明で重要な役割を果たし、同時にまたレアーとの関連が強調される。この女神の神託に応えてディオニューソスは蛇から葡萄の房を食べることを学んだのだ。そのあとでかれは、葡萄酒製造の最も原始的なやり方、つまりくり抜いた岩盤のなかで葡萄を踏むことによる製造方法を発明した。こうしたことが行われたのは、大いなる母神が幼いディオニューソスを自分のキュベレー山の洞窟で育てていた時期であった。」

「ディオニューソス宗教では、この蛇との親密な関係が特別な意味をもっていた。蛇は生の独特な現象であり、そこでは生き生きした生命感そのものが、冷たさ、滑べらかさ、敏捷さ、そしてしばしば死の危険と結合することで、極度に両義的な効果を惹き起すのである。ミノア人とギリシア人の祭祀を司る女たちは蛇を手にしていた。われわれは、豊かに実った葡萄の木と一緒に蛇が神話物語のコンテクストを形づくる実例を、いま見たばかりである。」

「ミノア期の壁面に好んで描かれた渦巻き曲線の装飾は、その他のミノア芸術に見られる表現と少しも変わらず、あらゆるものに浸透し、いかなる中断も甘受しないゾーエーと明らかに関連していたように考えられる。」

「レアー崇拝、またミノア期の宗教における蛇の独特な役割、そしてペルセポネーによるディオニューソスの受胎と出産の神話がクレータ島で信じられていた確かな証拠――これらのものがクレータ島に通じる三つの伝承要件である。(中略)神々の名前にみられる曖昧さはその信憑性をさらに高めてくれる。(中略)これらの名前は決定的なものではない。名前はミノア宗教史の後期には別の名前に変わることもあったからである。」
「われわれが〈ゼウス〉とか〈ディオニューソス〉というギリシア名を放棄するならば、そのあとには巨大な蛇の姿をした無名の神格が残り、この神格は、のちのヒーメリオスの証言によれば、〈クレータ島の洞窟で〉婚礼を挙げたのだった。」
「神は洞窟に隠された自分の娘のもとを訪れ、娘は神と交わり、この神自身を神の息子として産んだのである。ディオニューソスとアリアドネーの関係で考えられたあの〈神秘的なもの〉に、われわれはこの蒼古な神話でもまた出会うのであって、ここでは生殖と出産が同じ一組の男女を越えて出てゆくことが決してない。息子にして夫だった者が、自分の母にして娘である妻と交わって神秘的な子供をつくり、この子供がさらにまた自分の母とだけ結婚することになる。そのようなもつれ合った関係には、蛇の姿が何よりもふさわしい。蛇の姿は、極端に自分自身に退縮したゾーエーの最もあからさまな形態である。大いなる母レアーは、自分の息子と始原の性交を行うときに、この蛇の姿をとった。しかしながら、蛇の姿は男の子と伴侶に、つまり息子と夫にとくに似つかわしく、この男性は母と娘のもろもろの世代、すなわち生きた存在者の全世代を貫いて途切れることなく突き進み、みずからのたえざる連続性を、ゾーエーと同じように示すのである。蛇の一匹一匹が儀礼的に引き裂かれたとしても、蛇は種の全体としては破壊されずに生き残るのであり、いわば最下位の形態に保たれた破壊されざる生を証言していたのである。
 ここにいたってわれわれは、ミノア期のクレータ島に振り当てられた、そして宮殿文化よりはるかに古い様式を具える神秘劇の第一幕に、ふたたび帰り着いたことになる。この幕の終わりに生まれた子供には角が生えている。第二幕を支配するのは牡牛の姿であるが、それは牡牛そのものであったり、人間の姿と混合していたりする。この幕の儀礼形式、つまり牡牛なり、その他の、とくに牡山羊のように角のある生贄の動物を、引き裂き切り刻むことが、ディオニューソスの手向けの儀式になる。この儀式は、生が破壊できないことを破壊行為そのもので具体的に示す個々の事例全体から再構成できる。そしてこれこそがギリシア悲劇を生み出し、また古代全体を通じて、たとえ目立たずとも、最も普遍的なディオニューソスの儀礼として存続するのである。」
「そこでは生贄の動物が切り刻まれて苦しむ神の身代りになったのである。」

「蛇と牡牛、つまり最も次元の低い動物界とそれより次元の高い動物界に共有されるゾーエーの同一性が、多分に秘密にされた神話に保存される一方で、神話の内容の方は、その神話の秘儀に参加した者たちが歌の文句としてたぶんうたい、また合言葉や信仰の証しであるシュムボロンの役目も果たした神秘的文言に組みこまれていったのである。」
「〈牡牛は蛇の息子であり蛇は牡牛の父である〉。
 半ば人間で半ば牡牛のミーノータウロスが生まれることになったパーシパエーと牡牛との情事は、蛇と牡牛とが交互に産み合い、あるいは蛇だけが牡牛を産んだ神話と比較すれば、すでに大幅な〈人間化が行われて〉いる。古い神話のミーノータウロスは、同時に牡牛であり星でもあった。ミーノータウロスがラビュリントスに棲んでいたとすれば、かれは〈ラビュリントスの女主人〉、つまりかれの母である冥界の女王と一緒に棲んでいたのだ。」
「洞窟で行われる光の祭典は秘儀の祝祭であった。(中略)クノッソスでこの祝祭が行われた舞踏の広場では、人びとの見物する目の前で、〈ラビュリントスの女主人〉のもとに通じる往還の道が舞踏によって描かれた。女主人は真のラビュリントスの中心、つまり冥界におり、神秘的な息子を産み、光へと回帰する可能性を認めていた。」

「ギリシアのディオニューソス宗教を構成する本質的要素、女たちとオルペウス教徒が行う大いなる生贄の儀式は、われわれには今日までごく部分的にしか知られていない。この祭祀の、ある細部はこれまで解明されることがなかったが、それはキリスト教とじつに決定的に対立するものである。生贄の動物を切り分けるときに、あるものを別に取り分け、そして保存したのである。この部分が最大の秘密事項となった。」
「しかしながら、神秘の匣であろうと、神秘の箕(ミュスティカ・ウアヌス)であろうと、それにいれて持ち運ばれたものは、完全に秘密にされることはなかった。これは心臓ではなく、男根であった。」
「それが牡牛であれ、牡羊であれ、あるいは別の牡の動物であろうと、その切断された男性性器は、男性の誕生が無限に繰り返されるように大いなる母神のもとに返されなければならなかった。このように女性が中心になる印象が、小アジアの母権的宗教では支配的だった。ギリシアの女たちは、男性器官を彼女らに委ねられたゾーエーのように手もとに置いて大切に世話した。」



ディオニューソス3


本書より:

「罌粟から阿片を製造するためには特別な処理技術が要求される。ある薬草学の専門家は、ガズィの女神の頭部に認められる蒴果には、不自然な切りこみが、すなわち他より目立つように黒く着色された刻み目がついているのを発見した。阿片はこのような刻み目から採られるのである。この点に発見の重要な意味がある。女神の贈り物はこのようなやり方で崇拝者たちの眼前にはっきり示されたのだ。かれらは自分たちが女神に負う経験を想い起こした。(中略)女神が阿片を通して贈ってくれたものは、後期ミノア期においても、今日と本質的にちがうものではあり得なかった。」
「コクトーによれば、阿片は〈われわれに植物の状態を仲介する唯一の植物物質〉である。自然の限界の突破ではなく、その限界を拡げることが肝要になることは、ボードレールの『悪の華』に収められた一篇の詩〈毒〉(Le poison)がこう述べている。

 L'opium agrandit ce qui n'a pas de bornes,
 Allonge l'illimité,
 Approfondit le temps...

 阿片は、限界なきものを拡げ、
 無限なるものを引き延ばし、
 時間を深きものとする……

 阿片が、後期ミノア期の終わりごろ、むかしの幻視の能力を活性化し、以前には阿片の助けがなくても現れた種々の幻視を呼び起こしたことは充分に考えられる。自然における超越を人工的に生み出す経験は、しばらくのあいだ根源的な経験の代わりを務めることがまだ可能だった。強力な薬物を使う時代は、宗教史では通常、これまでの安直な手段を使うだけではもう間に合わなくなった時期に現れる。このような経過を観察できる北アメリカのインディアンの場合、かれらが幻視を見るためには、もともとただ絶食するだけで充分だった。インディアン文化の退廃期になってはじめて、ウバタマサボテンの使用、すなわちメスカリンが使われるようになった。以前には、そのようなものは必要ではなかった。強力な薬物はむかしからインディアンの生活様式に必要だったものではないが、この生活様式を維持する助けに使われるようになったのである。後期ミノア期の阿片と生の関係についても事情は変わらなかった。」
























































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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