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ガストン・バシュラール 『水と夢』 及川馥 訳 (叢書・ウニベルシタス)

「このように水はひとつの完璧な存在としてわれわれの前に現れるであろう。それはひとつの身体、ひとつのたましい、ひとつの声をもつ。おそらく他のどの元素よりも、水は完全な詩的現実なのである。」
(ガストン・バシュラール 『水と夢』 より)


ガストン・バシュラール 
『水と夢
― 物質的想像力試論』 
及川馥 訳
 
叢書・ウニベルシタス 898 


法政大学出版局 
2008年9月22日 初版第1刷発行
2016年1月15日 新装版第1刷発行
363p 索引5p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,400円+税



本書「凡例」より:

「本書は Gaston Bachelard, *L'Eau et les Rêves: Essai sur l'imagination de la matière*, José Corti, 1942 の翻訳である。」



本書はまえに国文社刊の別の訳でもっていたのですが、それは日本語としてよめたものではなかったので及川さんによる新訳がでたときに買おうとおもってうっかりしてわすれていたのをおもいだしたので購入してよんでみました。やはりわかりにくいところがありますが今回のわかりにくさは訳文のわかりにくさというよりはバシュラール自身の文章のわかりにくさでありましょう。



バシュラール 水と夢



目次:

序 想像力と物質
第1章 明るい水、春の水と流れる水 ナルシシスムの客観的条件、恋する水
第2章 深い水――眠る水――死んだ水 エドガー・ポーの夢想における〈重い水〉
第3章 カロン・コンプレックス オフィーリア・コンプレックス
第4章 複合的な水
第5章 母性的水と女性的水
第6章 純粋と浄化、水の倫理
第7章 淡水の優位
第8章 荒れる水
むすび 水のことば

原註・訳註
訳者あとがき
人名索引




◆本書より◆


「序」より:

「しかしながら本書においてわれわれがなによりも注目したいのは、あの植物のように成長する物質的な力のもつ内密な想像力なのである。ひとり偶像破壊的な哲学者だけが、この困難な仕事、つまり美からあらゆる接尾辞を引き剝がし、目の前に姿を現しているイマージュの背後に、姿を隠しているイマージュを見いだすようにつとめ、想像する力の根源に到るという仕事を企てることができるのである。
 物質の根底には謎の植物が生育しており、物質の夜には黒い花が咲きみだれている。その花々はすでにビロードの感触と芳香の秘法をそなえているのだ。」

「詩のイマージュもまたひとつの物質をもつのである。」

「あるひとつの夢想が、束の間の単なる暇つぶしに終わらないように、作品に書かれるに足る安定したかたちで追求されるためには、夢想はそれみずからの物質〔材料・素材〕を見つけねばならない。つまりひとつの物質的元素が固有の実体や、それ独自の規則や、それにふさわしいぴったりした詩学を、夢想にあたえねばならないのである。」

「私は眠る水を前にするといつも同じわびしさ(メランコリー)を感じる。それは雨に濡れた森の中にある沼の色をしたきわめて特別なメランコリーで、息苦しくはなく、夢心地の、ゆったりした、穏やかなメランコリーである。さまざまな水のいのち、その取るにたらぬつまらぬ部分が、私にとっては本質的な心理的象徴となることが多い。たとえば薄荷水の香りが、私の中に存在論的照応のようなものを呼び起こし、そしてそれがいのちはひとつのただの芳香にすぎず、あたかも実体がひとつの匂いを発散するように、いのちは存在から発散されるのだ、そして小川の水草がきっと水のたましいを発散するに違いない……と思わせるのである。」

「私は川のほとりで夢想にふけり、私の想像を水に、青く澄んだ水に、牧場を緑に染める水にゆだねたのである。私は小川のそばに座れば決まって深い夢想におち、私の幸せと再会する……それがわが故郷の小川、私の故郷の水であることは必要ではない。無名の水が私のすべての秘密を知っている。あらゆる泉から同じ思い出が湧き出すのである。」

「深い水の中に姿を消すこと、あるいは遥か彼方の水平線の下に消えること、深さあるいは無限と合体すること、これが水の運命にみずからのイマージュを見る人間の運命なのである。」

「想像力とは、語源が暗示するような、現実のイマージュを形成する能力ではなく、現実を超え、現実を歌う(引用者注:「歌う」に傍点)イマージュを形成する能力である。それは超人間性の能力である。(中略)人間に課された条件(引用者注:「人間に課された条件」に傍点) l'humaine condition を超えるように人間を押しやるいくつもの傾向をたばねた総体として、ひとりの人間を定義しなければならない。」

「さまざまの物質的元素に対応する幻想は、それぞれの物質に忠実である限り、力を宿している、あるいは、ほとんど同じことになるが、原初の夢に忠実である限り幻想は力を保持するのである。」

「文学的夢想とは、みずからを記述する奇妙な夢想、記述しながらみずからを秩序立て、当初の夢を徹底的に超えて行きながらも、なおかつ元素的な夢の現実には忠実であり続けるものなのである。一篇の詩をあたえる夢のこの恒常性をもつには、目の前の現実的なイマージュ以上のものをもたねばならない。われわれのなかで生まれ、われわれの夢の中で生きているこのイマージュ、物質的想像力にとって尽きることのない糧である豊かで密度の高い夢の物質を積んだこのイマージュを追求しなければならないのである。」



「第1章」より:

「人間は見ることを意欲する。見ることはひとつの直接要求である。(中略)しかしもっともよく熟視するのは泉であろうか、それとも目であろうか。(中略)池は静かな大きな目だ。池はすべての光を奪い、そしてそれでもってひとつの世界を作る。池によってすでに世界は熟視され、世界は再現されている。」


「第2章」より:

「水はこのように死ぬことへの招待なのだ。元素的な物質の隠れ家に合流することを許す特別な死への招待である。(中略)留意すべきことは、いわば連続的誘惑が、ポーを一種の間断なき自殺、死の依存症ともいうべきものにみちびいていることである。」

「やがて終末がおとずれ、暗黒がこころにもたましいにも行き渡り、愛する人々がわれわれから去り、喜びのあらゆる太陽が地上から消え去ったとき、黒檀の川は影に溢れ、暗い悔恨と呵責の念に重くなり、そのゆるやかな無音の生を始める。それは今や死者たちを思い出す元素なのである。知らないでいるうちに、エドガー・ポーはその天才的な夢の力で、ヘラクレイトスの直観、水の生成の中に死を見たあの直観を再発見する。エペソスのヘラクレイトスは、すでに眠りの中でたましいが、宇宙的な生命の火の源泉から離れて、「一時的に湿度のある状態に変身する傾向がある」と想像していた。そのとき、ヘラクレイトスにとって、死とは水そのものなのである。「たましいにとって水になることは死である」(『ヘラクレイトス』『断片』六八〔田中美知太郎訳〕)。」

「豊かになるものは重くなる。こんなに多くの反映と影とで豊かになった水は、重い水である。それはエドガー・ポーのメタポエティックのまさに特徴的な水である。それはあらゆる種類の水のうちでもっとも重い水である。」

「ポーにおいて、谷と水の死はロマンティックな秋ではない。それは枯葉で作られてはいない。木々は紅葉しない。木の葉はただ明るい緑から、暗い緑へ、物質的な緑へ、肉厚の緑へと移る。その緑はエドガー・ポーのメタポエティックの基本的な色彩ではないかとわれわれは思う。ポーのヴィジョンでは暗闇そのものもしばしばこの緑の色彩をもっている。「熾天使(セラフ)の眼は/この世界の暗さを見てとってしまっていた。あの黒ずんだ緑の色(that grayish green)、/自然が 美しいものの墓のために 何よりも好む色が」(「アル・アーラーフ」〔入沢康夫訳。原書はムーレー訳〕)」

「水だけが、動かずに、反映を保ちつつ死ぬことができる。(中略)水はすべての影に美をあたえ、あらゆる思い出をよみがえらせる。」

「沈黙した水がふたたびわれわれに話しかけるには、夕べの風がそよそよと吹くだけでよかろう……ひたすら優しく、ほの白く月の光がさせば、波の上にまた幻影が渡るであろう。」



「第3章」より:

「〈死〉はひとつの旅であり、また旅はひとつの死である。「去り行くは、死に似たり〔少し死ぬことなり〕」。死ぬことは本当に去り行くことであり、だからひとは水の流れ、滔々たる川の流れに従ってのみ、勇気をふるって、いさぎよく見事に出発できるのである。すべての川は死者の〈大河〉に合流する。」

「火と戯れるものは、自己を燃やしていて、自己を焼き尽くしたいと願い、他者を焼きたいと願う。陰険な水と戯れるものは、溺れるし、溺れたいのである。」

「死は水の中にある。ここまで葬送の航海のイマージュをとくに喚起してきた。水は遠方まで運び、水は歳月のように過ぎ去る。しかし別の夢想が取りつき、われわれの存在が喪失して完全に分散することを教えるのだ。大地は埃を、火は煙をというように、各要素はそれぞれ独自の分解物をもっている。水はもっと完全に分解する。水はわれわれが完全に死ぬことを助ける。」

「まず分解するものは雨の中の風景である。線と形が溶解する。」



「第5章」より:

「いったい夢想家を支えている本当の物質はなんであろうか。それは雲でもなければ柔らかな芝生でもなく、それは水なのである。雲や芝生は表出 expression である。水は印象 impression である。ノヴァーリスの夢の中では、水が経験の中心にあるのだ。夢想家が土手で休んでいるときでも、水はかれを揺さぶり続ける。これは夢の物質的元素の恒常的活動の一例なのである。」


「むすび」より:

「〈世界(ユニヴェール)〉においてはすべてがこだまである。もし鳥たちが、ある夢想的な言語学者の意見のように、人間にヒントをあたえた最初の発声体 phonateur だとすれば、鳥たちはみずから自然の声を模倣したのだ。エドガール・キネはブルゴーニュ地方とブレス地方の鳥の声にかなり長い間耳を傾け、「水鳥の鼻にかかった鳴き声の中に葦のそよぐ音を、グンカンドリの鳴き声の中に嵐の叫びを」聞き分けている。夜の鳥たちは、廃墟における地下のこだまの反響そっくりの、トレモロ風の戦慄する音を、どこで獲得したのだろうか。「このように、自然の情景――静物であろうと動きのあるものであろうと――のすべての音調は、生きている自然の中にそれぞれのこだまと協和音を有するのである」。」
「水はまた広大な統一体(ユニテ)である。」








こちらもご参照ください:

吉田敦彦 『水の神話』
川村二郎 『白山の水 鏡花をめぐる』 (講談社文芸文庫)





































































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ガストン・バシュラール 『火の精神分析』 前田耕作 訳

「夢は経験よりも遙かに強力なのだ。」
(ガストン・バシュラール 『火の精神分析』 より)


ガストン・バシュラール 
『火の精神分析』 
前田耕作 訳



せりか書房 
1987年1月5日 発行
301p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円
装幀: 工藤強勝



本書「あとがき」より:

「併録した『バシュラール抄』は、『火の精神分析』から展開される彼の批評の姿勢が少しでもかい間みることができるように、ジャンルをひろげてそこ、ここから拾い集められたものです。」


改訳版。「バシュラール抄」に図版(モノクロ)7点、「年譜」に図版(モノクロ)12点。



バシュラール 火の精神分析



カバー文:

「そのとき、そうだ、わたしは火を食べていたのだ。わたしは黄金、
その香りを、また焼けたワッフルがわたしの歯の下でカリカリと音をたてている間は、
そのカリカリという音まで食べていたのだ。いつもこのようにして、
デザートのような一種の奢侈の喜びによって火はその人間性を表わすのである。
火は焼くだけにとどまらず、それはカリカリと音をたてる。
それはパンケーキを狐色にこがす。それは人間の祭りを物質化する。
どんなに時代を遡ってみようが美食学の価値は
やはり栄養価値に優先しているのだ。
つまり人間がその精神を発見したのは
喜びの中にであって苦しみの中にではない。
余剰の征服は必要の征服よりも
大きい心的興奮を与える。
人間は慾望を創造するものであっても、
必要を創造するものでは断じてない。
●本書第二章より」



目次:

火の精神分析
 序論 
 第一章 火と尊崇 プロメテウス・コンプレックス
 第二章 火と夢想 エンペドクレス・コンプレックス
 第三章 精神分析と先史 ノヴァリス・コンプレックス
 第四章 性化された火
 第五章 火の化学 虚偽の問題の歴史
 第六章 アルコール=燃える水 ポンス=ホフマン・コンプレックス 自然燃焼
 第七章 理念化された火 火と純粋性
 結論
 『火の精神分析』序文(英訳) (ノースロップ・フライ/樋渡雅弘 訳)

バシュラール抄
 睡蓮――クロード・モネ
 『寓話』――マルク・シャガール
 火のイメージ――アルベール・フロコン『風景』Ⅳ
 『セラフィタ』
 マラルメの夢想
 神話とはなにか――ポール・ディールの著書へのまえがき

文献目録
バシュラールの生涯〈年譜〉
あとがき




◆本書より◆


「第一章」より:

「火は超-生命(ultra-vivant)である。火は内的であり、かつ普遍的である。それはわれわれの心のうちに生きる。それは天空のうちに生きる。それは実体(substance)の内奥からたちのぼり、愛のように身を捧げる。それは物の中にふたたび降ってゆき、憎しみと復讐の心のように潜み、抑えられて身をかくす。すべての諸現象のうちで、それは実に相異なる二つの価値づけ、すなわち善と悪とを同時に断固として受け入れることのできる唯ひとつのものである。それは楽園で光り輝き、地獄に燃える。それは優しさであり、責苦である。それは煮炊きする火であり、黙示(アポカリプス)の火でもある。それは爐端に賢くすわる子供にとっては喜びである。それは、にもかかわらず、子供が図に乗ってあまりにも間近でその焰とたわむれようとするときには、どんな不従順さをも懲罰するだろう。それは安楽であり、尊崇である。それは守護と威嚇、正と邪の神である。それは己れ自身と矛盾することが可能なのだ。だからこそ、それは普遍的な説明原理のひとつとなるのである。」

「火についてわれわれがまず最初に学ぶことは火に触れてはならないということである。子供が大きくなるに従って、禁止は内面化される。戒めの鞭は叱り声におきかえられ、叱り声は恐ろしい火事の物語りに、天上の火に関する伝説にとりかえられる。こうして、自然現象は急速に、偏見のない知識獲得の余地など殆んど残さない、社会的な、複合的な、そして混乱した知識の中へと組みこまれていくのである。
 したがって、制止とはなによりもまず社会的禁止であってみれば、火に関する個人的知識を入手するという問題は「巧妙な不服従」という問題となるだろう。子供というものは父の目のとどかぬところで、父親のやることをやってみたいと思うものだ。そこで、小さなプロメテウスは同じように火つけを盗みとる。それから野良に駆けだし、仲間たちと小さな谷あいの凹地に学校をさぼったときに暖をとるための秘密の爐を築く。町の子供は三つの石の間で燃えあがるあの火を殆んど知らないだろう。彼は、焼いた燐木(りんぼく)の実の味も、赤い燠(おき)火にのせられてとろりとなった蝸牛の味もあじわったことがないだろう。彼はわたしもしばしばその働きを経験したあの「プロメテウス・コンプレックス」から当然のことながらまぬかれてはいるだろう。だがこのコンプレックスだけがわれわれに、それ自体としては陳腐ではあるが、火の父の伝説によってつねによびさまされる関心を理解することを可能にする。」

「爐端での夢想はさらに哲学的な軸をもっている。火はそれを観想する人間にとっては急変する生成の一例であり、また偶発的な生成の一例である。流れる水ほど単調でもなく、抽象的でもなく、叢みの中で毎日われわれが見張る雛鳥よりもすこやかに育ち、変ってゆきもする火とは、時間を変え、駆りたてる慾望の、全生命をその終末へ、その彼岸へとつれゆかんとする慾望の暗示なのだ。そのときだ、夢想が真に魅惑的になり、劇的となるのは。それは人間の運命を押しひろげる。それは小さなものを大きなものに、爐を火山に、一本の薪の生命をひとつの世界の生命に結びつける。魅せられたる者は「焚焼の招き声」に耳を傾ける。彼にとって破滅とはひとつの変化以上のもの、まさしく再生なのである。
 このきわめて特殊であるにもかかわらずきわめて一般的でもある夢想は、火に対する愛と尊崇とを、生の本能と死に向う本能とを互いに結びつけるひとつの真のコンプレックスを導き出す。とりあえず、それを「エンペドクレス・コンプレックス」とでも呼んでおこう。」



「第三章」より:

「「奥」、これこそ人が隠すものなのであり、人が黙して語らぬものなのである。人は常にそれに想いをめぐらす十分な理由があるのだ。」

「確かに、火は天界から掠め取られるよりも前に、われわれの内部で見つけだされたのである。」

「もう一度いおう「有用さ」ということによる説明は「快さ」ということによる説明に譲歩しなければならないし、合理的説明は精神分析的説明に譲歩しなければならないと。」

「「滲みいる」こと、事物の「内部」にまで、存在の「内部」にまでたち入らんとするこの希求は内奥の熱の直観のひとつの牽引作用なのである。眼のとどかぬところ、手で触れることのできないところ、そこに熱は秘かに忍び込む。内部でのこの交感、この熱の共感は、ノヴァリスの作品中で、山の滌み、洞穴、鉱山への下降においてその象徴を見出すだろう。熱が拡散し、均等となり、夢の輪郭のように朧になるのはそこにおいてなのである。ノディエがきわめて適切に認めたように、地獄への失墜のどんな記述でも夢の構造をもっているのである。ノヴァリスは、他のものたちが空の冷たい燦然たる広がりを夢見るように、大地の熱い内奥を夢見たのだ。彼にとって、鉱夫は「倒立した占星学者」なのだ。ノヴァリスは光の放射でというよりも、むしろ集中された熱で生きる。どんなに度々彼は「無明の深淵の際(きわ)で」瞑想したことか。彼は鉱山技師であったがゆえに、鉱山の詩人ではないのである。彼は詩人ではあったけれども、地中の呼び声に服するために、「内に溢れる温さ(カリドム・インナツム)」にたち帰るために技師となったのである。彼がいうように、鉱夫は「神の贈り物を受け取り、世界とその悲惨さの彼方へと快活に自己を昂揚させるべく」身構えた深奥の英雄である。(中略)「人々は、鉱夫は彼をして大地を掘り進むべくかりたてる大地の内なる火を彼の血脈の中にもっているというだろう。」」



「第六章」より:

「アルコールは際立って可燃的なので、酒精飲料に溺れる人はいわば火のつきやすい物質が「滲み込んでいる」人だということはとても簡単に想像されよう。(中略)すなわち、アルコールを飲む者は誰でも、アルコールのように燃えることができる。(中略)当時評判の高かった著者、ソッケによって一八〇一年に出版された『熱素論』の中に正鵠をえているものとして再録されている若干の諸例を次に挙げるが、これらの例はすべて啓蒙時代のものから借用されているということをついでながら指摘しておこう。
 「われわれはコペンハーゲンの公用記録の中に、一六九二年にその栄養摂取といったら殆んどもっぱら酒精飲料を無節制に用いることにあった下流階級の一婦人が、ある朝、指の最後の関節と頭蓋骨を除いては完全に燃えつきていたという事項を読んだ……。」
 「一七六三年ごろ、ロンドンの『記録年鑑』(十八巻七八頁)は、一年半の間、ずっと毎日一パイントのラム酒或いは火酒(ブランデー)を飲んでいたアルコール中毒気味の五十歳の一夫人の例を報告している。彼女はベッド・カバーやその他の調度品が殆んど痛んでいないのに、暖爐と寝台の間で殆んど灰となって見出された。注目に価する事実である。」」
「「われわれは『体系百科辞典』(人間病理解剖学の章)の中に、酒精飲料を絶えず濫用して、数時間のうちに同じように燃え果てた約五十歳ぐらいの一夫人の話を見出すだろう。この事実を引用しているヴィック・ダジュルはそれを否認するどころか、同じような例は他にもたくさんあると保証しさえしている。」」
「「ドイツの年鑑の中にも次のような事項が読まれるだろう。〈北部の地方においてはしばしば、焰が、やたらに強い酒を飲む人達の胃からたち昇る。〉その執筆者はいう、〈十七年前にクールランドの三人の紳士が、(中略)競争して強い酒を飲んだところ、そのうちの二人は、自分の胃から吹きでる焰によって焼かれ、窒息して死んでしまった〉と。」
 電気現象の通として一番頻繁に引き合いにだされる著者のひとりであるジャラベルは、一七四九年に人体による電気的火の産出を説明するために、同じような「事実」を拠り所とした。リューマチにかかったひとりの女性は、毎日、長時間にわたって樟脳を含んだ酒精で自分の体をこすった。ところが彼女はある朝ついに灰となり果てていた。(中略)「このことは、摩擦によって大いに掻き立てられ、樟脳を含んだ酒精の実に微細な粒子と掻き混ぜられた身体の硫黄のもっとも繊細な部分はきわめて火を呼びやすくなるという事実にのみ帰すことができよう。」」
「彼らはあえて「自然発生的燃焼」を口にするほど肉体の中のアルコールの物質的集中作用がとても強力なものだと考えているのである。だから、酔っぱらいが自分を燃えあがらせるのには、燐寸の必要は全然ないのだ。ビュッフォンの好敵手であったポンスレ師は、一七六六年に依然としていっている。「生命原理としての熱は動物組織の活動を開始させ、それを維持する。しかし、それが火の段階にまで高められると、不思議な憔悴を惹きおこす。われわれは強い酒の習慣的喫飲と飲み過ぎとによって、その体にいやというほど酒精が滲み込んでいる酔っぱらいが、突然、ひとりで火をふき、この自然発生的燃焼によって燃え尽きてしまったという、そんな例を見かけたことがなかっただろうか。」」








こちらもご参照ください:

ガストン・バシュラール 『火の詩学』 本間邦雄 訳
『エリアーデ著作集 第四巻 イメージとシンボル』 前田耕作 訳
G・H・シューベルト 『夢の象徴学』 深田甫 訳
『ノヴァーリス作品集Ⅰ サイスの弟子たち・断章』 今泉文子 訳 (ちくま文庫)
















































ガストン・バシュラール 『火の詩学』 本間邦雄 訳

「フェニックスは、全時代にわたる一つの元型である。それは生きられる火である。」
(ガストン・バシュラール 『火の詩学』 より)


ガストン・バシュラール 
『火の詩学』 
本間邦雄 訳



せりか書房 
1990年9月5日 第1刷発行
290p 別丁口絵(モノクロ)8p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,575円(本体2,500円)
装幀: 工藤強勝



本書「凡例」より:

「本書は、Gaston Bachelard: *Fragments d'une Poétique du Feu*, Etablissement du Texte, Avant-Propos et Notes par Suzanne Bachelard, Presses Universitaires de France, 1988. の全訳である。」


口絵にバシュラール草稿(モノクロ)8点。扉裏にバシュラール肖像(モノクロ)1点。「訳者あとがき」中に図版(モノクロ)3点。

本書は出たときに買おうとおもってうっかりしてわすれていたのをおもいだしたのでアマゾンマケプレで713円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



バシュラール 火の詩学 01



帯文:

「フェニックス、プロメテウス、エンペドクレス
『火の精神分析』に始まる四元素(火、水、空気、大地)を基盤とする物質的想像力の探究は、最後にまた、死と再生の瞬間を集約する《火》のイマージュに向かった。」



帯背:

「バシュラール
最後の作品」



目次:

緒言――生きられる書物 (シュザンヌ・バシュラール)
序文――物書きの日々の仕事を手短に振り返って
第一章 フェニックス、言語活動(ランガージュ)の現象
第二章 プロメテウス
第三章 エンペドクレス

訳註
訳者あとがき




バシュラール 火の詩学 02



◆本書より◆


「序文」より:

「詩的イマージュに心を委ねると、言語の活動が書きとめられることを望んでいる瞬間をとらえることができる。書くことの幸せを知るとき、身も心も、手も作業も、書くことにうちこまなければならない。ジョルジュ・サンドはその点をよく心得ていて、「書きながら考えても何もならない。そうすれば思考と言葉(パロール)はたがいに損なわれてしまう」と言っていた。(中略)文学的イマージュは、語られた言語、意味作用に拘束されている言語の上に張り出す、まさに浮き彫りというにふさわしいものであろう。(中略)詩的価値のおかげで、空想の噴出としてしか出現できないような超越的存在が堅固な構築物になるのである。詩的価値による文学的イマージュの補強を人が体験するやいなや、今まで戯れていた文学的イマージュが詩的イマージュになるやいなや、《詩》(Poésie)が言語活動のかたちづくる一つの《世界》(Règne)である(引用者注:「詩が言語活動の~」に傍点)ということを人は確信するのだ。詩的《世界(レーニュ)》はもはや意味作用の《世界(レーニュ)》とはつながりをもたない。(中略)ときには、詩的イマージュは意味作用をねじふせることもある。シュールレアリストは、この暴力の多くの例を提供したものだ。それは想像することの自由を喚起するために必要な挑戦だったのだ。が、今や、詩が垂直性への自らの権利を獲得したからには、言語活動の大気のようにのびやかな高揚そのものが、われわれにそうした自由を与えてくれるのである。」

「燃え立つ言葉(パロール)の力動性そのものが――そして言葉の熱源に生まれる詩的イマージュの数々が――活動しているのであり、そのような力動性が、安定した言語を奉じる人々に対して、運動と爆発をもって応じるのだ。もし、詩的イマージュの中では生の過剰、言葉の過剰が燃え拡がっていることを、のちに本文で示すことができるとしたら、われわれは、熱い言語活動(引用者注:「熱い言語活動」に傍点)について語ることに意味があることを、すなわち、なんらかの過剰な存在ないしは存在以上のものを推進しようとするほとんど狂った野望の中で存在が燃え尽くされるような、規律のない言葉の群の大いなる熱源について語ることに意味があるということを、一つ一つ詳しく証明したことになるはずである。」

「われわれの最初の使命は、多彩な事例を挙げることを通じて、イマージュの言語活動、詩人たちの言語活動というものが、どんな教訓主義も放棄しているがゆえにいっそう溌剌とした言語活動の《世界(レーニュ)》を築いている点を証明することである。」

「私は、私の議論の成否のすべてを、絶対的昇華(引用者注:「絶対的昇華」に傍点)が現実に成り立つかどうかに賭けたいと思う。詩人たちは、「上昇しつつ、自己の基(もとい)」を見出すと、パトリス・ド・ラ・トゥール・デュ・パンは語った。その基(もとい)は、絶対的昇華の出発点そのものである。」

「少なくとも本書によって、一つの明確な問題に対処することができると信じている。ただ一つのイマージュをめぐって、一つの詩学が構成されるということをわれわれは証明しなければならないのだ。(中略)詩的言語を日常言語の観点から説明することは、固有の諸価値に対する認識不足を意味する。その整合性に感応できるようになるためには、詩的世界の中に参入しなければならないのである。」

「詩人にとってフェニックスは美の飛躍であり、詩的世界の一つの誕生(引用者注:「誕生」に傍点)なのである。そしてフェニックスに死が訪れるのは、ひとえに新しい誕生を、詩的にいっそう美しい存在の誕生を準備するためにほかならないのだ。」

「今日の《フェニックスたち》は、今日の詩人たちのフェニックスは、祖先をもたないのだ。それは象徴のきらびやかな衣装を引き摺ってはいない。それは古い諸観念の説明はしない。それは純粋な文学的イマージュであって、生気に満ちて溌剌としているのである。このようなイマージュ群は、シュールレアリスムの革命の恩恵に浴するものであった。それらはありのままのシュールレアリスムの産み出す、すぐれた現実なのである。分別臭い文芸批評家なら、それらが度はずれのイマージュであると容易に非難するところであろう。彼は、詩的言語活動が、永続的なシュールレアリスムの活動のおかげで、今や、あらゆる過剰に対する権利を有していることを認めようとはしまい。だが、われわれの博物館に収められるあまたのイマージュのうちのいくつかは、それらが少しでもなにかの論評によって煽られたりするならば、きっと新たに登場するシュールレアリストが修辞学者の要塞に対して用いることのできるような、フェニックス的爆弾となることであろう。」



「第一章 フェニックス、言語活動の現象」より:

「まず最初に、古来のイマージュにあっては、奔放であるということが規範となっている点に驚かされる。想像力は一気に架空の存在を見出す。フェニックスは二つの架空を重ね合わせた存在とすら言えるのである。つまりフェニックスは、自分自身の火によって燃え上がり、自分自身の灰から甦えるのだ。(中略)人々はフェニックスの存在を信じていたのであるから、それが以前知られていた通りに知るためには、その存在をいくらかは信じなければならないということである。(中略)詩人たちが、イマージュの微妙な変化によって、その伝説上の鳥を活性化するのを手伝ってくれるだろう。(中略)人は言語活動のかたちづくる一つの存在、高められた言語活動による一つの存在を、つまり一つの詩的存在(引用者注:「詩的存在」に傍点)を信じるのである。詩人によって想像されたフェニックスとともに、人は純粋な《詩的なるものの王国》に入ったのだ。」

「もしフェニクスの驚くべき物語の数々に反響したいという思いに駆られたら、あなたがたの中に、自分の思い出の中に、空想に耽る日々折々の夢想の中に、火の鳥というイマージュの胚種を見出さねばならない。もしその胚種があなたがたに見出されなければ、民間伝承と神話の厖大な領野をただ学者として横切るだけとなろう。そのとき知識を身につけることはできよう。しかし、知識を身につければつけるほど、信じることは少なくなるだろう。考古学者や宗教史家や神話学者によって集められ、どんどん増えてゆく諸事実のため、人はますます考古学の的確な規則に従って、客観的(引用者注:「客観的」に傍点)になりもしよう。だが、しかるべく分類される事実が増えるにつれて増大するこうした客観性に反比例するかたちで、あなたがたに対して夢想の次元が次第に閉ざされてゆくおそれもあるのである。(中略)忘れられたフェニックスたちは、自分たちを養う夢想の環境の中に置き戻され、一羽の太陽の鳥に出会う詩人の驚嘆においてふたたび見出されるとき、一篇の詩の美しさの中にその姿を甦えらせることができるのだ。考古学によってもたらされる資料はそのとき、詩的想像力の活動の糸口となる。詩人たちは学者の著作を読みつつ、無数の個人的な喜びを享受する。詩人たちは、彼らのイマージュの中でもっとも幻想的なものが、原初的と評価されるイマージュであったという証拠をここに手にしているのである。」
「初源の純真さ(引用者注:「初源の純真さ」に傍点)においてこそ、幻想的イマージュは考察されねばならない。」

「生きられる火のイマージュの過剰の中でこそ、われわれはフェニックスの紛れもない現象学的意味を、つまり燃え上がろうとして燃え立つ欲望の中で、根源的意識において形成される意味を見つけることができるのである。私が心底からフェニックスの伝説を想像するためには、常に私は私自身のフェニックスにならなければならないだろう。」

「存在の燃焼のこの崇高な極致においては、もはや時間性はないのだ。自らの巣の上で翼をはばたかせるフェニックスは、すでに火の翼であり、飛び立つ火であり、空翔ぶ焰であり、その火を盛んに掻き立て煽る風のざわめきなのである。人は夢想に沈潜するとき、火が翼をもち、太陽に輝く翼は、生きている焰であることを確信するのである。また、伝説の中には、火が不燃性のものとして、つまり自分自身に抵抗するものとして設定されているイマージュが数多く見うけられる。自分自身のエネルギーに抵抗すること、自分自身の中に一つの反-火を宿していること、それが火の翼のあり方である。こうして、もろもろの隠喩は凝縮し、互いに入れ替わる。もろもろの詩的イマージュの合流するしかるべき結び目が、《詩的なるもの》の一つの現実となるのである。」

「からっぽの頭の中で、音節がそれだけによって一つの語を、ふだんの生活に基盤をもたないはるか昔の語を、思いもつかなかった(引用者注:「思いもつかなかった」に傍点)一つの語をひとりでに形づくるような時間があることを、経験しなかった人がいるだろうか。われわれの中には、それ自身夢想している語(モ)があるのである。」

「詩人は、もろもろの伝説的な力をまったく斬新にとらえ直しているのである。詩人は好意的な直観により、かの鳥が宇宙的存在であり、地上の道に沿ってはるかに広がる異郷よりも、さらに広大な彼方の異郷に棲む存在であることを知っている。この拡大された異郷は、増幅された生(引用者注:「増幅された生」に傍点)の地平を開く。自在に飛翔するかの鳥は、詩的空間の一つの中心なのだ。」

「フェニックス、この生と死の大いなる矛盾の存在は、矛盾をはらむいっさいの美に感応するのである。フェニックスのイマージュのおかげで、われわれは情念の矛盾を正当化できるようになるのだ。それゆえに、古代の神話の助けを借りなくとも、フェニックスはたえず詩作品の中に甦えるのである。フェニックスは、全時代にわたる一つの元型である。それは生きられる火である。」



「第二章 プロメテウス」より:

「われわれは断片を通してしか、詩の衝撃を受け入れることができないのである。断片だけがわれわれに見合っている。あのノヴァーリスやフリードリッヒ・シュレーゲルのような詩人、作家の時代に、断片主義者(引用者注:「断片主義者」に傍点)(fragmentistes)の流派全体が、よきめぐり合わせとして神話的過去のイマージュと詩的夢想との直接の接触を受け入れたのだった。人々は知というものを夢みていた。人々は過去の信仰についての知識を得ながら、詩の美しさを夢みる権利を自分たちに認めていたのである。実を言えば、夢想の滲透していない信仰などありはしないのだ。」

「火をもたらす者は、光を、精神の光――隠喩的な意味での明るさ――すなわち意識というものをもたらすのだ。神々から、プロメテウスが人間たちに与えるために盗んだのは意識なのである。火-光-意識の賜物は、人間に新しい運命の途を開く。この意識という宿命、この精神性という宿命の中で自らを維持するのはなんと辛い務めであろう。」



「第三章 エンペドクレス」より:

「エトナ山上のエンペドクレスの死について瞑想することは、《火の詩学》の推進をうながす一つの原動力となっている。《行為》というものが《イマージュ》によって乗り超えられる。しかもこの乗り超えは、永続的な詩的行為の本質をなすものである。」

「エンペドクレスは、無化(anéantissement)の詩学(引用者注:「無化の詩学」に傍点)のもっとも偉大なイマージュの一つなのである。エンペドクレス的な行為においては、人間は火と同じように偉大となる。人間は真の宇宙劇の偉大な俳優となるのだ。」
「火に身を捧げることは火になることではないだろうか。さもなければ、火に身を捧げることは《無(リヤン)》になることに成功することではないだろうか。焰の荘厳から《無(リヤン)》の荘厳への大いなる移り行き。あるいはまた、この荘厳な火、この全体的な火は、全面的浄化のあかしではあるまいか。それにしても浄化されることは、再生することの保証ではないだろうか。」

「哲学者は《火山》に呼び寄せられるのであって、人間生活のとるに足らない不幸によって追いやられるのではないのである。《火山》は単なる生贄、なにがしかの人間の犠牲が欲しいのではない。《火山》はエンペドクレスその人を求めるのだ。そしてこの宇宙劇によって、今後、エンペドクレスの名とエトナ山の名は永久に結び合わされるのである。」

「焰の中に飛び込んでゆく蛾は、おそらく屈光性の犠牲者である。それが、動物心理学の研究者の直接の結論である。けれども夢想家にとってはどうであろうか。」

「エンペドクレスの運命は破壊の運命であり、日常生活の流れとあいいれない運命である。」

「エンペドクレスの死とは、存在が、それが生きたものすべて、生きたと信じたものすべてから解放される極点である。《火》はそこにある。人間の存在というその小さな存在点は、火の無限の拡がりになろうと望む。」

「生と死の夢想家にとって、宇宙的元素はどれも解放をもたらすものである。しかし《火山》の焰以前に、思考の焰が生ける者の心を荒廃させてしまった。思考は火に返さなければならない。」
「元素的な死は、《宇宙(コスモス)》による《宇宙(コスモス)》のための死である。」
「しかも、人は死そのものにおいて、その人自身となる。地獄で生きるためには焰とならねばならず、エトナ山に身を投じるためには焰でなければならない。エンペドクレスはそこに身を投じる以前に、火山に属していたのである。」

「もしわれわれが今、イマージュ化された生を前に、つまり、さまざまな劇的行為の生を復元する夢想家の詩的な生になぞらえられる生を前にしているとすれば、なにごとも忘却してはならない。とりわけ、エンペドクレスがエトナ山の火口に身を投じた(引用者注:「身を投じた」に傍点)ということを。

  焰の中に身を投じること
  海の中に身を投じること
  深淵に身を投じること

 このように、ただ一つの行為において、火、水、重力のどれに身を委ねるかで、欲求する存在が自己の意志のすべてをあげて非-意志に身を委ねる瞬間にとられる意志決定が明らかになる。」
「詩人たちはイマージュの中に身を投じる(引用者注:「イマージュの中に~」に傍点)のだ。
 宇宙的イマージュの中に身を投じることは、まさしく《詩的なるもの》の世界にもっとも全面的に参入することである。」
「宇宙的イマージュに身を投じることは、世界に開かれること、世界を開くことではないだろうか。人が全面的に参入するイマージュは拡大し、それは世界の中心となる。(中略)哲学的瞑想は哲学者を世界というものの前に(引用者注:「の前に」に傍点)置く。詩的活動は夢想家を一つの世界の中に(引用者注:「の中に」に傍点)投げ入れるのだ。」

「詩人たちはわれわれの孤独コンプレックスを勢いづける。読者がエンペドクレスの死をめぐる詩作品を読むとき、読者は詩人と同様に、孤独な英雄である(引用者注:「である」に傍点)。」
「ここにわれわれはイマージュの世界に送り返され、まさにイマージュ過剰の動力学(ダイナミスム)の渦中にいる。詩の世界に転位されたエンペドクレス・コンプレックスによって、われわれ自身も、言ってみれば転位されている。読書の孤独がわれわれにとり戻される。われわれはそのとき、精神分析学者による社会化された調査活動からはのがれている。われわれは卑俗な経験とはなんのつながりもない詩学を生きることができる。ジュヌヴィエーヴ・ビアンキの言うように、「それらの瞬間が不滅であるならば、それらが束の間であってもかまわない」のである。そしてエンペドクレス・コンプレックスが一つの詩となって成就するとき、それはわれわれに比喩的な死の、つまり《宇宙》の中の死のこのような不滅の瞬間を体験させてくれるのである。」

「それらのイマージュが充足しているのは、それらが雄大だからである。イマージュは人間を世界の尺度に合わせて拡大する。《火の詩学》は物語を必要としない。」

「雄弁なイマージュはなにごとも描写しはしないが、それは精神を想像的なものにまで高める(引用者注:「高める」に傍点)のである。」

「イマージュというものは輝かしくなればなるほど、その多義性がますます人を惑わすものとなる。なぜなら、それは深遠の多義性だからである。」

「空と大地は、いずれもイマージュにその垂直性を与えるのだ。上昇するものはすべて、深遠の活力を蔵しているのである。」






こちらもご参照ください:

ガストン・バシュラール 『火の精神分析』 前田耕作 訳
ガストン・バシュラール 『蝋燭の焔』 澁澤孝輔 訳
『ヘルダーリン全集 3 ヒュペーリオン・エムペドクレス』 責任編集: 手塚富雄
ミッシェル・セール 『生成』 及川馥 訳 (叢書・ウニベルシタス)













































ガストン・バシュラール 『蝋燭の焔』 澁澤孝輔 訳

「存在の夢想家には、焰は、彼岸の方、エーテル的な非存在の方に身を伸ばしていると見えるほど、本質的に垂直である。」
(ガストン・バシュラール 『蝋燭の焔』 より)


ガストン・バシュラール 
『蠟燭の焰』 
澁澤孝輔 訳


現代思潮社 
1983年10月10日 第8刷発行
226p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円



本書「解説」より:

「本書は Gaston Bachelard : La flamme d'une chandelle, Presses universitaires de France, Paris, 1961 の翻訳である。この本は遺稿を別にすればバシュラールの最後の著作で、彼の死の前年に発表された。小著ながら、詩のイマージュに関する透徹した哲学者として多くの労作を残したバシュラールの究極の到達点を示すとともに、その探求方法の簡潔な総決算の書ともいうべきものである。」


奥付には初版刊行年月日の記載がありません。訳者解説の日付は「1966年5月」です。


バシュラール 蝋燭の焔


目次:

緒言

第一章 蝋燭の過去
第二章 蝋燭の夢想家の孤独
第三章 焔の垂直性
第四章 植物的生命における焔の詩的イマージュ
第五章 ランプの光
エピローグ 私のランプと私の白紙

訳注
解説 (訳者)




◆本書より◆


「第一章 蠟燭の過去」より:

「昔、夢によってさえ忘れられてしまっている大昔、蠟燭の焰は賢者たちを思索させたものだった。それは孤独な哲学者に数知れぬ夢想をあたえていた。哲学者のテーブルの上、おのれの形態のうちに囚われている物たち、緩慢な教化を果たす書物たちのかたわらにあって、蠟燭の焰は、はかり知れぬ思想を呼び起し、際限もなくイマージュを発生させた。焰は、当時、諸世界の夢想家にとって、世界の現象であった。人々は部厚い書物のなかに世界の組織を研究していたが、なんと単なるひとつの焰が――おお、知識へのなんたる愚弄!――やってきてじかにその固有の謎を課するのだ。ひとつの焰のなかに、世界が生きているのではないか。焰はひとつの生命をもつものなのではないか。それはある内的存在の眼に見える表徴であり、隠れた力の表徴なのではないか。それは、この焰は、元素的形而上学に力動性をあたえる内部的矛盾をすべてかかえているのではないか。単純なひとつの現象の只中に事実の弁証法があるというのに、なぜ観念の弁証法を求めるのか。焰は質量をもたない存在でありながら、しかもなお強力な存在なのだ。
 われわれは、どんな隠喩の領域を調査すればよいのだろうか、もしわれわれが、生命と焰とを結びつける諸々のイマージュの二重化のうちに、生命の火の「物理学」と同時に、焰の「心理学」を書きたいと望むなら! 隠喩だって? 焰が賢者たちを考えさせていたはるか遠い知識の時代には、隠喩が思想であった。」






















































































ガストン・バシュラール 『夢想の詩学』 (及川馥 訳)

「夢想もせずどうして成熟することなどできようか。」
(ガストン・バシュラール 『夢想の詩学』 より)


ガストン・バシュラール 
『夢想の詩学』 
及川馥 訳


思潮社 1976年6月20日初版第1刷発行/1977年6月1日第2刷発行
290p
A5判 角背クロス装上製本 函
定価2,800円
装幀: 田辺輝男
Gaston Bachelard : La poétique de la rêverie, 1960



バシュラール


目次:


第一章 夢想についての夢想 語をめぐる夢想家
第二章 夢想についての夢想 〈アニムス〉―〈アニマ〉
第三章 幼少時代へ向う夢想
第四章 夢想家の〈コギト〉
第五章 夢想と宇宙(コスモス)

註(原註・訳註)
あとがき (訳者)




◆本書より◆


「宇宙的な夢想は計画的夢想からわたしたちを遠ざける。この夢想はわたしたちを世界のなかにおくのであって、社会のなかにおくのではない。一種の安定、平穏さが宇宙的な夢想にともなっている。それはわたしたちに手をかし、時間から脱出させてくれる。それはひとつの状態である。この際その本質の奥底まで行ってしまおう。それはたましいの状態である。」

「わたしたちは、幼少時代の持続的な特色をひきだすような幼少時代の存在論的哲学を、圧縮したかたちで提供してみたい。幼少時代の特徴のいくつかにより、幼少時代は生涯持続する。幼少時代はたちかえっては成人の生活の大きな分野を活気づける。まず幼少時代はその夜のすみかを離れることはない。わたしたちの内部で、ひとりの子供がときおりわたしたちの眠りのなかに、目をさましては訪れる。しかし目ざめた生のなかでさえ、夢想がわたしたち自身の歴史についてなされるとき、わたしたちのうちなる子供は、わたしたちにその恩恵をもたらす。ひとはかつて自分がそうであった子供とともに生きなければならず、(中略)ひとはそれから根源的な意識を受ける。存在の幹全体はそれによって活力を受ける。詩人たちは、わたしたちのなかにこの生きいきした幼少時代、この恒久的、持続的、不動の幼少時代を再発見することを助けるのである。」

「美しいことばはそれだけでもう薬なのだ。」

「現代精神分析の全流派のうち、人間の心的作用が原始的状態では男女両性(アンドロジーヌ)をそなえていることを、もっとも明快に証明したのはC・G・ユングである。ユングによれば、無意識は、抑圧された意識ではなく、忘却された記憶によって作られたものでもなく、第一の本性なのである。無意識はしたがってわたしたちの内部で男女両性を具備した力を支持するものである。」
「たとえば、なぜニーチェは「エンペドクレスはかつて……少年であり少女であったことを思いだした」と伝えているのだろうか。」

「「夢想はアニマの作用の下にある」」
「夢想が本当に深層にあるならば、わたしたちの内部で夢想している存在は、わたしたちのアニマなのである。」
「夢想の詩学とはアニマの詩学である。」

「結局、読書には二種類あることを認めねばならない。アニムスにおける読書とアニマにおける読書である。アニムスがおさおさ警戒おこたりない思想書、なにもかもが批判にそなえ、すべてが反撃にそなえている思想書を読むときと、あるいはまた、イマージュが才能の超越論的な歓迎とでもいった具合に受け入れられるべき、詩人の本を読むときとでは、わたしは同一の人間ではないのである。」

「〈植物の安定した生き方〉とは、アニマの真相をみごとにいいえており、想念にふさわしい世界に憩うたましいの休息のすばらしい象徴といえるのではあるまいか。」

「アニマはつねに単純な、静謐な、連続的生の隠れ家である。「わたしはアニマをごく単純に生命の原型 Archétype と定義した」とユングはいうことができた。不動で、安定して、統一された生、しかもドラマのない生活の基本的なリズムにぴったりと一致した生の原型。知識を求めず生を、単純な生を想像する人は、女性の方に傾く。夢想はアニマをめぐって集中しながら、休息におもむくことを助ける。夢想の最良のものは男であれ女であれ、自己の内なる女性的なものから生じる。」

「わたしたちはたったひとりになり、少し長く夢想にふけっていると、現在から遠く過去へと運ばれていき、人生の最初の頃の時間をふたたび生き始める。」
「そういう夢想がわたしたちを自己のなかのきわめて深いところに運んでいき、わたしたちを自己の歴史から解放する。これらの夢想はわたしたちを自分の名前から自由にする。これらの夢想はわたしたちの現在の孤独を人生の最初の孤独へとつれていく。最初の孤独、つまりあの幼少時代の孤独は、あるひとたちのたましいに消しがたい刻印を残している。かれらは生涯を通じて詩的夢想に敏感になる、つまり、孤独の価値を知っている夢想にたいし敏感になるのである。子供が幼少時代に知る不幸は大人たちによってもたらされる。その苦痛を幼少時代は孤独のなかでやわらげることができる。(中略)このようにして子供は孤独な状態で夢想に意のままにふけるようになるや、夢想の幸福を知るのであり、のちにその幸福は詩人の幸福となるであろう。いったい、夢想家としての現在のわたしたちの孤独と、幼い頃の孤独とのあいだに相通じるものがないなどと考えられるだろうか。だから、静かな夢想のなかで、しばしばわたしたちが幼い頃の孤独へと導く坂道を降りていくことは、偶然として片づけられることではないのである。」
「これから、この章で主張したい主題は、人間のたましいのなかにある幼少時代(アンファンス)の核の永遠性を認識する、ということにつきるであろう。幼少時代とは、不動でしかもつねに生きいきしており、歴史の外側にあり、他人の目から隠れていて、それが物語られるときには歴史を装っているが、しかし輝きだす瞬間、つまり詩的実存の瞬間といっても同じことだが、その瞬間にしか現実の存在とならないものである。
 子供はひとりぽっちで夢想にふけっているとき、際限のないひとつの実存と親しくなる。子供の夢想は単なる逃避の夢想ではない。それは飛翔の夢想なのであった。」

「幼い頃を夢想しながら、わたしたちはふたたび夢想のすまい、世界を開いてくれた夢想のもとへと戻っていく。わたしたちを孤独の世界に最初に住まわせるのは夢想なのである。そして孤独な子供がイマージュのなかに棲むように、わたしたちが世界に住めば、それだけ楽しく世界に住むことになる。子供の夢想のなかではイマージュはすべてにまさっている。経験はその後にやってくる。経験はあらゆる夢想の飛翔の抑制物となる。」
「世界は今もなお同じように美しいだろうか。最初の美へのわたしたちの執着は非常に強いので、もし夢想がわたしたちの一番大事にしている思い出のもとにつれていくなら、現実の世界はまったく色あせてしまうであろう。」

「夢想にふける子供は、ひとりぽっちだ、本当に孤独なのである。かれは夢想の世界で生きている。かれの孤独は成人の孤独にくらべ、非社会的であり、しかも社会とは対立していない。(中略)この幸福な孤独のなかで夢想する子供は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に結びつける夢想を知っているのである。
 わたしの意見では、人間のプシケの中心にとどまっている幼少時代の核を見つけだせるのは、この宇宙的な孤独の思い出のなかである。そこでは想像力と記憶がもっとも密接に結合している。そのとき幼少時代の存在は現実と想像とを結合し、全想像力を駆使して現実のイマージュを生きている。これらの宇宙的で孤独なあらゆるイマージュは、子供の存在の深層で反応する。すなわち人間のための存在から身を遠ざけ、世界から暗示を受け、世界のための存在を創造する。これが宇宙論的な幼少時代の存在である。人間は過ぎ去っていく。宇宙はとどまる。その宇宙はいつも原初の宇宙であり、この世のどんな大きな見世物でさえ生涯にわたって消すことのない宇宙なのである。わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大さはわたしたちの内面に残されている。それは孤独な夢想のなかにまた出現する。この宇宙的な幼少時代の核はこのときわたしたちの内部で見せかけの記憶のような働きをする。(中略)わたしたちの幼少時代の夢想へと向う夢想は、わたしたちの存在に先行する存在、存在する以前の存在の全展望をもたらしてくれるのである。
 わたしたちは存在していたのか、存在することを夢想していたのか、そして今、幼少時代を夢想しているわたしたちは自分自身なのであろうか。」

「かくしてわたしたちは、わたしたちのなかに不動の幼少時代、生成のない幼少時代、暦を動かす歯車から自由になった幼少時代を発見するのである。
 そのとき、記憶を支配するのはもはや大人たちの時間ではない。(中略)存在するのは四つの偉大な天の神話である。すなわち季節である。純粋な思い出は日付けをもたない。それは季節をもつ。季節が思い出の基本的なしるしである。」
「季節は世界を開く、夢想家たちのそれぞれの存在が開花するのが見られる、そういう世界を開くのである。(中略)わたしたちの子供の頃のあらゆる夏は、〈永遠の夏〉の証しである。思い出の季節は永遠である。なぜなら、それは第一回目の色彩と変らぬまったく同じ色彩をもつからである。(中略)わたしたちの夢想のなかでわたしたちは幼少時代の色彩で彩られた世界をふたたび見るのである。」

「何と多くの固有名詞が、孤独な無名の子供を傷つけ、いじめ、くじきにくることか。」
「子供のわたしたちに、ひとびとはたくさんのものを見せ、そのためわたしたちは見ることの深い感覚を失ってしまう。」
「大人は(中略)知っていると信じている。(中略)大人は子供に地球が丸くて、太陽のまわりを回っていると証明する。夢みるかわいそうな子供は、それを聞かないわけにはいかないのだ。おまえが教室を出て、丘に、おまえの丘にのぼっていくとき、おまえの夢想はほっとして解放感を味わうことだろう。」

「わたしの研究は、出来事のない生を、他人の生に入りこまない生をとりあげる。わたしたちの人生に出来事をもたらすのは他人の生である。平穏な生、出来事のない生にくらべると、あらゆる出来事は〈精神的外傷(トローマ)〉となりかねない。それはわたしたちのアニマの、くりかえしていうが、わたしたちの内面にあって、夢想のなかでしかよく生きられない女性的存在の、自然的平和をかき乱す男性的残忍さとなりかねないのである。」

「水、つねに水がわたしたちを鎮めにくる。いずれにせよ、平安な夢想は休息の実体をみつけだすはずである。」

「こうしてみると、幼少時代の夢想の方へとわたしたちをいざなうものは、一種のノスタルジィのノスタルジィであるということが分かる。蒼ざめて動かない水の詩人、ジョルジュ・ロダンバッハはこの二重のノスタルジィを知っている。」
「ロダンバッハの詩はしずかに夢想し、心変りせずに夢想することをまた教えてくれる。幼少時代への夢想とは心変らざるものへのノスタルジィである。
 このようにして、『故郷の空の鏡』(一八九八)の十四番目の詩はその詩節ごとに、人生の最初のメランコリィを蘇えらせている。

  ひとびとが思い出すなつかしい過去
  時間の霧をこえ
  記憶の霧をこえ。

  ふたたび自分を子供として見るなつかしさ
  黒々とした古い石の家のなかで
  ……………………
  窓に額をおしつけ物思いにふける子供の
  細っそりした姿を見いだすなつかしさ。」

「  わたしはあそこにいるあの子供だったのだろうか
  決して笑わない
  おしだまった哀しい幼少時代よ。」

「  あこがれに身をこがしそして哀しさを身にしみて感じていた子供
  ……………………
  決して遊ばない子供、おとなしすぎる子供、
  その子供のたましいはあまりに北方にとりつかれていた
  ああ、高貴な、無垢な子供
  かつてひとがそうだったのだ
  そしてひとは思いだすことだろう
  生きているかぎり。」

「時計のないこのひとときは今なおわたしたちのなかに存在する。夢想がそのひとときをなだめ鎮めてくれる。そのひとときは単純であるがしかし気高く人間的である。」
「わたしたちのなかで、今なおわたしたちの内部で、つねにわたしたちの内面で、幼少時代はひとつのたましいの状態でありつづけるのである。」

「子供の神話素はケレニイによれば「本質的には孤児である子供の孤独な状態、しかしあらゆる事情にもかかわらず、かれの家は本源的な世界のなかにあり、神々から愛されるものなのだ、」とエルヴェ・ルッソーは述べている。」

「幼少時代の植物のような力は、わたしたちの内部に一生涯残っているのだ。わたしたちの内奥の植物的生命力の秘密がそこにある。フランツ・ヘレンスはつぎのように記している。「幼少時代はその周期を終えてしまうと、涸れて死んでしまうものではない。それはたんなる思い出ではない。それはこの上なく生きいきした宝庫であり、わたしたちの知らないうちにわたしたちを豊かにしつづけている。……みずからの幼少時代を、思い出すことのできないひと、自己自身のなかでそれをちょうどわが身のなかの肉体、古い血のなかの新しい血として捉えることができないひとは不幸である。幼少時代がそのひとから去ってしまうや、そのひとは死んでしまっているのだから。」
 そしてヘレンスはヘルダーリンを引用する。「人間を子供時代をすごした小屋からあまり早く追い出すな。」」
「ひとりの人生のあらゆる年齢をこえて続く、幼少時代の堅固な植物的生にはどんなに深い意味があることだろう。」

「匂い。それはわたしたちと世界の融合の最初の証拠である。昔の匂いの思い出をひとは目を閉じて思い起こす。」
「記憶が息づくとき、あらゆる匂いはよい匂いだ。大夢想家たちはこのように過去を吸うすべを心得ている。」
「失われた家の部屋、廊下、地下室、屋根裏部屋は夢想家が自分だけのものだと知っている匂い、忠実な匂いの棲家である。」

「しかし世界の存在は夢想するのであろうか。ああ、かつて、(中略)だれがそれを疑ったであろうか。鉱山では金属がゆっくりと成熟したことはだれでも知っていた。そしてまた夢想もせずどうして成熟することなどできようか。世界の美しい物体のなかに夢を集めずして、善も力も香も集めることができようか。また地球は――それが回転しなかったとき――夢なくしてその四季をどうして成熟させえたろうか。宇宙の雄大な夢は大地の不死性の保証なのである。たとえ理性が長い労苦のあと、地球が回ることを証明したところで、そんな宣言は夢像的に不合理だということに変りはない。地球がみずからの上で急回転し、空中を飛んでいることを、いったいだれが宇宙の夢想家に納得させることができよう。教育された観念によって夢想するものはいないのである。
 たしかに、文化以前の世界は大いに夢想していたのであった。神話が大地から出て、大地を開き、湖の目で大地が空を眺めるようにした。高さの運命は深淵を上昇していった。神話はこうしてただちに人間の声、みずからの夢によって世界を夢みている人間の声を発見した。人間は地、天、水を表現した。人間とは、大地というものすごい身体をもつ巨大人間の発するパロールなのであった。原始的宇宙の夢想のなかで、世界は人間の身体であり、人間の視線であり、人間の息であり、人間の声であった。」
「こういう時代はまた戻ってくるであろうか。夢想の根底に下降するひとは自然な夢想、原初の宇宙、原初の夢想家の夢想をまた発見する。そのとき世界はもはや沈黙してはいない。詩的夢想は世界を原初のパロールによって甦えらせる。」

「時間の外で、空間の外で、火の前で、わたしたちの存在はもはや世俗的存在 être-là に縛られない。(中略)統一された夢想がわたしたちに統一した実存をとりもどしてくれた。(中略)夢想は存在の本質とは安楽さであり、太古の存在のなかに根をおろした安楽さであることを教える。(中略)太古の存在はわたし自身とぴったり同じ寸法の存在の仕方をわたしに教える。」

「眠れる水の前の夢想は、これもまた、たましいの大いなる安息をもたらす。(中略)それは夢想家を単純化する。こういう夢想はいともやすやすと非時間的になる。(中略)少し夢想してみれば、一切の静謐さは眠れる水である、ということを知るにいたるであろう。だれの記憶の奥にも眠れる水があるのだ。宇宙のなかでも眠れる水は静寂さのひろがり、不動のひろがりである。眠れる水のなかで世界が休息する。眠れる水の前で夢想家は世界の休息と一体化する。」


























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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