ガストン・バシュラール 『蝋燭の焔』 (澁澤孝輔 訳)

「存在の夢想家には、焔は、彼岸の方、エーテル的な非存在の方に身を伸ばしていると見えるほど、本質的に垂直である。」
(ガストン・バシュラール 『蝋燭の焔』 より)


ガストン・バシュラール 
『蝋燭の焔』 
澁澤孝輔 訳


現代思潮社 1983年10月10日第8刷発行
226p 四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円
Gaston Bachelard : La flamme d'une chandelle, 1961



奥付には初版刊行年月日の記載がありません。訳者解説の日付は「1966年5月」です。


バシュラール 蝋燭の焔


目次:

緒言

第一章 蝋燭の過去
第二章 蝋燭の夢想家の孤独
第三章 焔の垂直性
第四章 植物的生命における焔の詩的イマージュ
第五章 ランプの光
エピローグ 私のランプと私の白紙

訳注
解説 (訳者)




◆本書より◆


「昔、夢によってさえ忘れられてしまっている大昔、蝋燭の焔は賢者たちを思索させたものだった。それは孤独な哲学者に数知れぬ夢想をあたえていた。哲学者のテーブルの上、おのれの形態のうちに囚われている物たち、緩慢な教化を果たす書物たちのかたわらにあって、蝋燭の焔は、はかり知れぬ思想を呼び起し、際限もなくイマージュを発生させた。焔は、当時、諸世界の夢想家にとって、世界の現象であった。人々は部厚い書物のなかに世界の組織を研究していたが、なんと単なるひとつの焔が――おお、知識へのなんたる愚弄!――やってきてじかにその固有の謎を課するのだ。ひとつの焔のなかに、世界が生きているのではないか。焔はひとつの生命をもつものなのではないか。それはある内的存在の眼に見える表徴であり、隠れた力の表徴なのではないか。それは、この焔は、元素的形而上学に力動性をあたえる内部的矛盾をすべてかかえているのではないか。単純なひとつの現象の只中に事実の弁証法があるというのに、なぜ観念の弁証法を求めるのか。焔は質量をもたない存在でありながら、しかもなお強力な存在なのだ。
 われわれは、どんな隠喩の領域を調査すればよいのだろうか、もしわれわれが、生命と焔とを結びつける諸々のイマージュの二重化のうちに、生命の火の「物理学」と同時に、焔の「心理学」を書きたいと望むなら! 隠喩だって? 焔が賢者たちを考えさせていたはるか遠い知識の時代には、隠喩が思想であった。」






















































































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ガストン・バシュラール 『夢想の詩学』 (及川馥 訳)

「夢想もせずどうして成熟することなどできようか。」
(ガストン・バシュラール 『夢想の詩学』 より)


ガストン・バシュラール 
『夢想の詩学』 
及川馥 訳


思潮社 1976年6月20日初版第1刷発行/1977年6月1日第2刷発行
290p
A5判 角背クロス装上製本 函
定価2,800円
装幀: 田辺輝男
Gaston Bachelard : La poétique de la rêverie, 1960



バシュラール


目次:


第一章 夢想についての夢想 語をめぐる夢想家
第二章 夢想についての夢想 〈アニムス〉―〈アニマ〉
第三章 幼少時代へ向う夢想
第四章 夢想家の〈コギト〉
第五章 夢想と宇宙(コスモス)

註(原註・訳註)
あとがき (訳者)




◆本書より◆


「宇宙的な夢想は計画的夢想からわたしたちを遠ざける。この夢想はわたしたちを世界のなかにおくのであって、社会のなかにおくのではない。一種の安定、平穏さが宇宙的な夢想にともなっている。それはわたしたちに手をかし、時間から脱出させてくれる。それはひとつの状態である。この際その本質の奥底まで行ってしまおう。それはたましいの状態である。」

「わたしたちは、幼少時代の持続的な特色をひきだすような幼少時代の存在論的哲学を、圧縮したかたちで提供してみたい。幼少時代の特徴のいくつかにより、幼少時代は生涯持続する。幼少時代はたちかえっては成人の生活の大きな分野を活気づける。まず幼少時代はその夜のすみかを離れることはない。わたしたちの内部で、ひとりの子供がときおりわたしたちの眠りのなかに、目をさましては訪れる。しかし目ざめた生のなかでさえ、夢想がわたしたち自身の歴史についてなされるとき、わたしたちのうちなる子供は、わたしたちにその恩恵をもたらす。ひとはかつて自分がそうであった子供とともに生きなければならず、(中略)ひとはそれから根源的な意識を受ける。存在の幹全体はそれによって活力を受ける。詩人たちは、わたしたちのなかにこの生きいきした幼少時代、この恒久的、持続的、不動の幼少時代を再発見することを助けるのである。」

「美しいことばはそれだけでもう薬なのだ。」

「現代精神分析の全流派のうち、人間の心的作用が原始的状態では男女両性(アンドロジーヌ)をそなえていることを、もっとも明快に証明したのはC・G・ユングである。ユングによれば、無意識は、抑圧された意識ではなく、忘却された記憶によって作られたものでもなく、第一の本性なのである。無意識はしたがってわたしたちの内部で男女両性を具備した力を支持するものである。」
「たとえば、なぜニーチェは「エンペドクレスはかつて……少年であり少女であったことを思いだした」と伝えているのだろうか。」

「「夢想はアニマの作用の下にある」」
「夢想が本当に深層にあるならば、わたしたちの内部で夢想している存在は、わたしたちのアニマなのである。」
「夢想の詩学とはアニマの詩学である。」

「結局、読書には二種類あることを認めねばならない。アニムスにおける読書とアニマにおける読書である。アニムスがおさおさ警戒おこたりない思想書、なにもかもが批判にそなえ、すべてが反撃にそなえている思想書を読むときと、あるいはまた、イマージュが才能の超越論的な歓迎とでもいった具合に受け入れられるべき、詩人の本を読むときとでは、わたしは同一の人間ではないのである。」

「〈植物の安定した生き方〉とは、アニマの真相をみごとにいいえており、想念にふさわしい世界に憩うたましいの休息のすばらしい象徴といえるのではあるまいか。」

「アニマはつねに単純な、静謐な、連続的生の隠れ家である。「わたしはアニマをごく単純に生命の原型 Archétype と定義した」とユングはいうことができた。不動で、安定して、統一された生、しかもドラマのない生活の基本的なリズムにぴったりと一致した生の原型。知識を求めず生を、単純な生を想像する人は、女性の方に傾く。夢想はアニマをめぐって集中しながら、休息におもむくことを助ける。夢想の最良のものは男であれ女であれ、自己の内なる女性的なものから生じる。」

「わたしたちはたったひとりになり、少し長く夢想にふけっていると、現在から遠く過去へと運ばれていき、人生の最初の頃の時間をふたたび生き始める。」
「そういう夢想がわたしたちを自己のなかのきわめて深いところに運んでいき、わたしたちを自己の歴史から解放する。これらの夢想はわたしたちを自分の名前から自由にする。これらの夢想はわたしたちの現在の孤独を人生の最初の孤独へとつれていく。最初の孤独、つまりあの幼少時代の孤独は、あるひとたちのたましいに消しがたい刻印を残している。かれらは生涯を通じて詩的夢想に敏感になる、つまり、孤独の価値を知っている夢想にたいし敏感になるのである。子供が幼少時代に知る不幸は大人たちによってもたらされる。その苦痛を幼少時代は孤独のなかでやわらげることができる。(中略)このようにして子供は孤独な状態で夢想に意のままにふけるようになるや、夢想の幸福を知るのであり、のちにその幸福は詩人の幸福となるであろう。いったい、夢想家としての現在のわたしたちの孤独と、幼い頃の孤独とのあいだに相通じるものがないなどと考えられるだろうか。だから、静かな夢想のなかで、しばしばわたしたちが幼い頃の孤独へと導く坂道を降りていくことは、偶然として片づけられることではないのである。」
「これから、この章で主張したい主題は、人間のたましいのなかにある幼少時代(アンファンス)の核の永遠性を認識する、ということにつきるであろう。幼少時代とは、不動でしかもつねに生きいきしており、歴史の外側にあり、他人の目から隠れていて、それが物語られるときには歴史を装っているが、しかし輝きだす瞬間、つまり詩的実存の瞬間といっても同じことだが、その瞬間にしか現実の存在とならないものである。
 子供はひとりぽっちで夢想にふけっているとき、際限のないひとつの実存と親しくなる。子供の夢想は単なる逃避の夢想ではない。それは飛翔の夢想なのであった。」

「幼い頃を夢想しながら、わたしたちはふたたび夢想のすまい、世界を開いてくれた夢想のもとへと戻っていく。わたしたちを孤独の世界に最初に住まわせるのは夢想なのである。そして孤独な子供がイマージュのなかに棲むように、わたしたちが世界に住めば、それだけ楽しく世界に住むことになる。子供の夢想のなかではイマージュはすべてにまさっている。経験はその後にやってくる。経験はあらゆる夢想の飛翔の抑制物となる。」
「世界は今もなお同じように美しいだろうか。最初の美へのわたしたちの執着は非常に強いので、もし夢想がわたしたちの一番大事にしている思い出のもとにつれていくなら、現実の世界はまったく色あせてしまうであろう。」

「夢想にふける子供は、ひとりぽっちだ、本当に孤独なのである。かれは夢想の世界で生きている。かれの孤独は成人の孤独にくらべ、非社会的であり、しかも社会とは対立していない。(中略)この幸福な孤独のなかで夢想する子供は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に結びつける夢想を知っているのである。
 わたしの意見では、人間のプシケの中心にとどまっている幼少時代の核を見つけだせるのは、この宇宙的な孤独の思い出のなかである。そこでは想像力と記憶がもっとも密接に結合している。そのとき幼少時代の存在は現実と想像とを結合し、全想像力を駆使して現実のイマージュを生きている。これらの宇宙的で孤独なあらゆるイマージュは、子供の存在の深層で反応する。すなわち人間のための存在から身を遠ざけ、世界から暗示を受け、世界のための存在を創造する。これが宇宙論的な幼少時代の存在である。人間は過ぎ去っていく。宇宙はとどまる。その宇宙はいつも原初の宇宙であり、この世のどんな大きな見世物でさえ生涯にわたって消すことのない宇宙なのである。わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大さはわたしたちの内面に残されている。それは孤独な夢想のなかにまた出現する。この宇宙的な幼少時代の核はこのときわたしたちの内部で見せかけの記憶のような働きをする。(中略)わたしたちの幼少時代の夢想へと向う夢想は、わたしたちの存在に先行する存在、存在する以前の存在の全展望をもたらしてくれるのである。
 わたしたちは存在していたのか、存在することを夢想していたのか、そして今、幼少時代を夢想しているわたしたちは自分自身なのであろうか。」

「かくしてわたしたちは、わたしたちのなかに不動の幼少時代、生成のない幼少時代、暦を動かす歯車から自由になった幼少時代を発見するのである。
 そのとき、記憶を支配するのはもはや大人たちの時間ではない。(中略)存在するのは四つの偉大な天の神話である。すなわち季節である。純粋な思い出は日付けをもたない。それは季節をもつ。季節が思い出の基本的なしるしである。」
「季節は世界を開く、夢想家たちのそれぞれの存在が開花するのが見られる、そういう世界を開くのである。(中略)わたしたちの子供の頃のあらゆる夏は、〈永遠の夏〉の証しである。思い出の季節は永遠である。なぜなら、それは第一回目の色彩と変らぬまったく同じ色彩をもつからである。(中略)わたしたちの夢想のなかでわたしたちは幼少時代の色彩で彩られた世界をふたたび見るのである。」

「何と多くの固有名詞が、孤独な無名の子供を傷つけ、いじめ、くじきにくることか。」
「子供のわたしたちに、ひとびとはたくさんのものを見せ、そのためわたしたちは見ることの深い感覚を失ってしまう。」
「大人は(中略)知っていると信じている。(中略)大人は子供に地球が丸くて、太陽のまわりを回っていると証明する。夢みるかわいそうな子供は、それを聞かないわけにはいかないのだ。おまえが教室を出て、丘に、おまえの丘にのぼっていくとき、おまえの夢想はほっとして解放感を味わうことだろう。」

「わたしの研究は、出来事のない生を、他人の生に入りこまない生をとりあげる。わたしたちの人生に出来事をもたらすのは他人の生である。平穏な生、出来事のない生にくらべると、あらゆる出来事は〈精神的外傷(トローマ)〉となりかねない。それはわたしたちのアニマの、くりかえしていうが、わたしたちの内面にあって、夢想のなかでしかよく生きられない女性的存在の、自然的平和をかき乱す男性的残忍さとなりかねないのである。」

「水、つねに水がわたしたちを鎮めにくる。いずれにせよ、平安な夢想は休息の実体をみつけだすはずである。」

「こうしてみると、幼少時代の夢想の方へとわたしたちをいざなうものは、一種のノスタルジィのノスタルジィであるということが分かる。蒼ざめて動かない水の詩人、ジョルジュ・ロダンバッハはこの二重のノスタルジィを知っている。」
「ロダンバッハの詩はしずかに夢想し、心変りせずに夢想することをまた教えてくれる。幼少時代への夢想とは心変らざるものへのノスタルジィである。
 このようにして、『故郷の空の鏡』(一八九八)の十四番目の詩はその詩節ごとに、人生の最初のメランコリィを蘇えらせている。

  ひとびとが思い出すなつかしい過去
  時間の霧をこえ
  記憶の霧をこえ。

  ふたたび自分を子供として見るなつかしさ
  黒々とした古い石の家のなかで
  ……………………
  窓に額をおしつけ物思いにふける子供の
  細っそりした姿を見いだすなつかしさ。」

「  わたしはあそこにいるあの子供だったのだろうか
  決して笑わない
  おしだまった哀しい幼少時代よ。」

「  あこがれに身をこがしそして哀しさを身にしみて感じていた子供
  ……………………
  決して遊ばない子供、おとなしすぎる子供、
  その子供のたましいはあまりに北方にとりつかれていた
  ああ、高貴な、無垢な子供
  かつてひとがそうだったのだ
  そしてひとは思いだすことだろう
  生きているかぎり。」

「時計のないこのひとときは今なおわたしたちのなかに存在する。夢想がそのひとときをなだめ鎮めてくれる。そのひとときは単純であるがしかし気高く人間的である。」
「わたしたちのなかで、今なおわたしたちの内部で、つねにわたしたちの内面で、幼少時代はひとつのたましいの状態でありつづけるのである。」

「子供の神話素はケレニイによれば「本質的には孤児である子供の孤独な状態、しかしあらゆる事情にもかかわらず、かれの家は本源的な世界のなかにあり、神々から愛されるものなのだ、」とエルヴェ・ルッソーは述べている。」

「幼少時代の植物のような力は、わたしたちの内部に一生涯残っているのだ。わたしたちの内奥の植物的生命力の秘密がそこにある。フランツ・ヘレンスはつぎのように記している。「幼少時代はその周期を終えてしまうと、涸れて死んでしまうものではない。それはたんなる思い出ではない。それはこの上なく生きいきした宝庫であり、わたしたちの知らないうちにわたしたちを豊かにしつづけている。……みずからの幼少時代を、思い出すことのできないひと、自己自身のなかでそれをちょうどわが身のなかの肉体、古い血のなかの新しい血として捉えることができないひとは不幸である。幼少時代がそのひとから去ってしまうや、そのひとは死んでしまっているのだから。」
 そしてヘレンスはヘルダーリンを引用する。「人間を子供時代をすごした小屋からあまり早く追い出すな。」」
「ひとりの人生のあらゆる年齢をこえて続く、幼少時代の堅固な植物的生にはどんなに深い意味があることだろう。」

「匂い。それはわたしたちと世界の融合の最初の証拠である。昔の匂いの思い出をひとは目を閉じて思い起こす。」
「記憶が息づくとき、あらゆる匂いはよい匂いだ。大夢想家たちはこのように過去を吸うすべを心得ている。」
「失われた家の部屋、廊下、地下室、屋根裏部屋は夢想家が自分だけのものだと知っている匂い、忠実な匂いの棲家である。」

「しかし世界の存在は夢想するのであろうか。ああ、かつて、(中略)だれがそれを疑ったであろうか。鉱山では金属がゆっくりと成熟したことはだれでも知っていた。そしてまた夢想もせずどうして成熟することなどできようか。世界の美しい物体のなかに夢を集めずして、善も力も香も集めることができようか。また地球は――それが回転しなかったとき――夢なくしてその四季をどうして成熟させえたろうか。宇宙の雄大な夢は大地の不死性の保証なのである。たとえ理性が長い労苦のあと、地球が回ることを証明したところで、そんな宣言は夢像的に不合理だということに変りはない。地球がみずからの上で急回転し、空中を飛んでいることを、いったいだれが宇宙の夢想家に納得させることができよう。教育された観念によって夢想するものはいないのである。
 たしかに、文化以前の世界は大いに夢想していたのであった。神話が大地から出て、大地を開き、湖の目で大地が空を眺めるようにした。高さの運命は深淵を上昇していった。神話はこうしてただちに人間の声、みずからの夢によって世界を夢みている人間の声を発見した。人間は地、天、水を表現した。人間とは、大地というものすごい身体をもつ巨大人間の発するパロールなのであった。原始的宇宙の夢想のなかで、世界は人間の身体であり、人間の視線であり、人間の息であり、人間の声であった。」
「こういう時代はまた戻ってくるであろうか。夢想の根底に下降するひとは自然な夢想、原初の宇宙、原初の夢想家の夢想をまた発見する。そのとき世界はもはや沈黙してはいない。詩的夢想は世界を原初のパロールによって甦えらせる。」

「時間の外で、空間の外で、火の前で、わたしたちの存在はもはや世俗的存在 être-là に縛られない。(中略)統一された夢想がわたしたちに統一した実存をとりもどしてくれた。(中略)夢想は存在の本質とは安楽さであり、太古の存在のなかに根をおろした安楽さであることを教える。(中略)太古の存在はわたし自身とぴったり同じ寸法の存在の仕方をわたしに教える。」

「眠れる水の前の夢想は、これもまた、たましいの大いなる安息をもたらす。(中略)それは夢想家を単純化する。こういう夢想はいともやすやすと非時間的になる。(中略)少し夢想してみれば、一切の静謐さは眠れる水である、ということを知るにいたるであろう。だれの記憶の奥にも眠れる水があるのだ。宇宙のなかでも眠れる水は静寂さのひろがり、不動のひろがりである。眠れる水のなかで世界が休息する。眠れる水の前で夢想家は世界の休息と一体化する。」


























































































ガストン・バシュラール 『空間の詩学』 (岩村行雄 訳)

「想像することはつねに体験することよりも偉大であろう。」
(ガストン・バシュラール 『空間の詩学』 より)


ガストン・バシュラール 
『空間の詩学』 
岩村行雄 訳


思潮社 1969年1月1日初版第1刷発行/1981年10月1日第11刷発行
320p
A5判 角背クロス装上製本 函
定価2,800円
装幀: 田辺輝男
Gaston Bachelard : La poétique de l'espace, 1957



バシュラール


目次:

序論
第一章 家 地下室から屋根裏部屋まで 小屋の意味
第二章 家と宇宙
第三章 抽出 箱 および戸棚
第四章 巣
第五章 貝殻
第六章 片隅
第七章 ミニアチュール
第八章 内密の無限性
第九章 外部と内部の弁証法
第十章 円の現象学

註(原註・訳註)
ガストン・バシュラールについて




◆本書より◆


「序論」より:

「わたくしはたいへん単純なイメージ、幸福な空間のイメージを検討するつもりである。この方向のわたくしの調査はトポフィリ(場所への愛)の名がふさわしい。この調査の意図は、所有している空間、敵の力にたいしてまもられた空間、愛する空間の人間的価値を決定することである。」

「家のイメージはわれわれの内密存在の地形図となるようにみえる。人間のたましいの深層を研究する心理学者の作業がいかに複雑であるかをしめすために、C・G・ユングは読者につぎの比喩を考察してほしいという。「われわれはある建物を叙述し、説明しなければならない。上の階は十九世紀につくられ、一階は十六世紀のものである。壁を精密に検討すると、この建物は十一世紀の塔を改築した事実が判明する。地下室にはローマ時代の基礎壁がみいだされ、地下室のしたには埋没した洞窟がある。この地層の上層部には石器があり、さらにより深い地層には同時代の動物群の遺物がみいだされる。これがいわばわれわれのたましいの構造であろう」。」



「第二章」より:

「人間的価値を確証するものは経験と思想だけではない。夢想には人間の深部を指示する価値がある。夢想には自己にたいする価値附与作用という特権さえもある。夢想は自分の存在を直接にたのしむのである。」
「わたくしは、家が、人間の思想や思い出や夢にとって、もっとも大きな統合力の一つであることをしめさなければならない。この統合における統合原理は夢想である。」
「家は肉体とたましいなのである。それは人間存在の最初の世界なのだ。そしてわれわれの夢想のなかでは、家はいつも大きな揺籃なのである。」

「生家は、思い出をこえて、われわれの肉体にきざみつけられている。それは一群の肉体的習慣なのである。(中略)一番小さい掛金の感触ですらわれわれの手にのこっている。」
「生家は住まいの統合体以上のもの、夢の統合体である。生家の片隅の一つ一つが夢想の棲家であった。」

「事実の平面ではなくて、夢想の平面においてはじめて幼年時代はわれわれのなかでいき、詩的に有益となる。この永遠の幼年時代によって、われわれは過去の詩(ポエジー)を保存するのである。」
「子供の夢想にはなんという異例の深さがあることか。孤独を所有した子供、ほんとうに孤独を所有した子供は倖せだ。子供が退屈な時間をもち、度はずれた遊びと理由のない退屈、すなわち純粋な退屈の弁証法を経験することはよいことだし、また健康でもある。」

「家は、人間に安定性を証明したり、あるいは安定性の幻影をあたえたりする諸イメージの統合体である。」
「これらのイメージを秩序づけるには、二つの主要な結合テーマを考察しなければならないとおもう。
 1 家は鉛直の存在として想像される。それはそびえたつ。家は鉛直の方向に自己を区別する。それはわれわれの鉛直性の意識へのよびかけの一つである。
 2 家は集中した存在として想像される。家はわれわれに求心性の意識をよびおこす。」
「鉛直性は地下室と屋根裏部屋という極性によって裏づけられる。」
「地下室に関しては、(中略)これはまず家の暗い存在であり、地下の力をわけもつ存在なのだ。これを夢みることによって、われわれは深部の非合理性と接触する。」
「屋根裏部屋では鼠たちが大騒ぎしているかもしれない。(中略)地下室では、もっと神秘的な、ゆっくりとあるく、のろのろしたものがうごめいている。」

「生家という、記憶のなかに持続する存在についても、空想的な原始性を提示することができる。
 たとえば家の居間にすわっていても、避難所の夢想家は、小屋や巣や片隅を夢みる。かれはそこにもぐりこんで、穴のなかにかくれた動物のように、身をひそめたいとねがうのだ。このようにかれは人間的イメージのかなたでいきるのである。」



「第三章」より:

「評価はイメージをころす。想像することはつねに体験することよりも偉大であろう。」


「第五章」より:

「実際、生命はのびあがるよりも、むしろまず回転することからはじまるのである。」

「ベルナール・パリッシーは「恐ろしい戦争の危険」に真面して、「砦の町」の設計図を作成しようとかんがえる。(中略)かれは「なにか巧妙な家をつくりあげた器用な動物を発見できはしまいかとかんがえて、森や山や谷を」さまよう。十分な探索をおえて、ベルナール・パリッシーは「自分の唾液で自分の家と砦を建設した若いなめくじ」について瞑想する。内部から建築する、その夢が数ヵ月ものあいだパリッシーのこころをしめている。」



「第六章」より:

「家のすべての片隅、部屋のすべての角、われわれが身をひそめ、からだをちぢめていたいとねがう一切の奥まった片隅の空間は、想像力にとっては一つの孤独であり、すなわち部屋の胚種、家の胚種である。」
「片隅はまず、われわれの存在の第一の価値、すなわち不動をたしかなものとしてくれる避難所である。それは確実な場所、わたくしの不動にもっとも近い場所である。片隅は、半ば壁、半ば戸である一種の半分の箱なのだ。」
「片隅で安らかな思いにひたるその意識は、(中略)不動の気持をうみだす。不動がかがやきでる。われわれが片隅に避難するとき、しっかりとかくまわれたと信じるわれわれの肉体の周囲には、空想の部屋が建築される。」



「第七章」より:

「想像力を基礎的能力としてうけいれる哲学の流れでは、ショーペンハウアーをまねて「世界はわが想像である」と、いうことができる。巧みに世界を縮小できればできるほど、わたくしはいっそう確実に世界を所有する。しかしこれとともに、ミニアチュールにおいては、価値は凝縮し、豊かになることを理解しなければならない。」

「拡大鏡をもったひとは――ごくあっさりと――日常の世界を抹殺してしまう。かれは新しい対象をみる新鮮な目だ。植物学者の拡大鏡、それはふたたびみいだされた幼年時代である。それは植物学者に子供の拡大する目をかえす。」



「第十章」より:

「ヴァン・ゴッホはなんの註釈もつけないで「人生はおそらくまるく完全だ」と、かいた。
 そしてジョー・ブスケは、ヴァン・ゴッホの文章をよまないのに、「かれは人生は美しいということばをきかされた。いやちがう。人生はまるく完全なのだ」と、かいた。」
「この種の表現の催眠術的な力に身をまかせるならば、われわれは存在の円のなかに全身を没して、殻のなかでまるくなるくるみのように、生の円のなかでいきることになるのだ。」

「ミシュレはたしかにイメージの絶対性に即して、突然「鳥はほとんど完全な球形である」という。(中略)ミシュレにとって鳥は完全な円であり、それは円の生である。ミシュレの註釈は、わずか数行で、鳥に存在の雛型としての意味をあたえる。「ほとんど完全な球形の鳥は、たしかに、活溌な集中の神々しい崇高な頂点である。これ以上高度の統一をみることはできぬし、想像することすらもできない。極度の集中、それは鳥のそれぞれの大きな力となるが、しかしその過激な個性とその孤独とその社会的な弱点をふくんでいる。」」
「ミシュレは鳥の存在を宇宙的状況においてとらえ、生きた球のなかにとじこめられて、四方からまもられた生の集中として、したがって統一の極限においてとらえた。」

「ことばの夢想家にとっては、rond (まるい)という単語のなかにはなんという静けさがあることであろう。」






















































































ガストン・バシュラール 『大地と休息の夢想』 (饗庭孝男 訳)

「子供に一つの孤独な場所、一つの隅を与えてやりさえすれば、深い生活を与えることが出来るのだ。」
(ガストン・バシュラール 『大地と休息の夢想』 より)


ガストン・バシュラール 
『大地と休息の夢想』 
饗庭孝男 訳


思潮社 1970年2月15日初版第1刷発行/1983年6月15日5刷発行
367p
A5判 並装 本体カバー 函
定価3,200円
装幀: 田辺輝男
Gaston Bachelard : La terre et les rêveries du repos, 1948



バシュラール


目次:

序 
第一章 物質的内密性についての夢想
第二章 争う内密性
第三章 質の想像力 運動化と調性化
第四章 生誕の家と夢幻の家
第五章 ヨナ・コンプレックス
第六章 洞窟
第七章 迷宮
第八章 蛇
第九章 根
第十章 錬金術師の葡萄酒と葡萄の樹

註(原註・訳註)
あとがき (訳者)




◆本書より◆


「第一章」より:

「外的領域を超えると、内的空間はなんと広大なものであろう! この内密的雰囲気はなんと休息感を与えるものであろう! 例えばここに、アンリ・ミショーの『魔法』の忠告の一つがある。《私はテーブルの上に一つのリンゴを置く。ついで私はそのリンゴの中に入る。なんという静謐さであろう!》(中略)そうしてみたいと思うすべての夢想家は、微小化されて、このリンゴの中に住むことになろう。想像力の規準として、夢想された事物は、決してその次元を持たないと述べることが可能である。又、その事物は、どんな次元の中にも固定されることがないのだ。そして真に所有的な夢想、つまりわれわれに対象をもたらす夢想は、極めて小人国的(リリプシアンヌ)夢想である。この夢想こそわれわれに事物の内密性のあらゆる宝庫をもたらしてくれるのである。ここに、真に弁証法的視角、いわば小さい対象の内部は大きいという逆説的な形の中で表現しうるような倒置された視角が現われるのである。マックス・ジャコブが述べたように(中略)《微小なるものは巨大なるもの》である。それを確かめようとすれば、想像力によってそこに住もうとするだけでよい。」
「微小なるものの世界で、夢み、考えようとする時、あらゆるものが大きくなる。無限に小さい現象も、一つの宇宙的性質を帯びる。」

「逆説的方法で、夢想家は自己自身の裡に帰ることも可能である。ペョートル草からつくられた微細な薬を飲んだルイエの被験者は述べている。《私は、私の頬をとおして私の部屋をながめながら、私の口のなかにいます。》このような幻覚は、薬を飲むことによって自己表現が可能になるのである。だが、この幻覚は、普通の夢の中でも稀ではない。」

「シェクスピヤーの中にも、同じ内密性のイマージュを見ることが出来る。ローゼンクランツはハムレットに言う。《あなたの御理想が高いために、デンマークもあなたには牢獄となり、あなたの魂も、ここでは狭すぎるとお感じになるでしょう。》するとハムレットは答える。《とんでもない。私はくるみの殻に閉じこめられても、そこを広いと思い、無限の大宇宙の王だと思うことが出来るのだ……もし悪い夢を見なければ。》」

「このように、微細な想像力は、いたるところに滑り込もうとし、われわれを、単に、われわれの殻の中に戻るようにしむけるばかりではなく、すべての殻の中に入りこみ、そこで真の隠れ場を、内巻的生を、自己の上に身をかがめて生きる生を、要するに休息のあらゆる価値を生きるように誘うのである、ここにジャン・ポール(引用者注: ジャン・パウルのこと)の忠告がある。《君の生の領域を、君の部屋のどの棚をも、どの隅をも訪ねることだ。そして君のかたつむりの最後の、もっとも内密的螺旋の中に住むように身をちぢめることだ。》棲家となる対象の目じるしとは、《すべてが殻である》ということになろう。そして夢見ている存在は、《すべてが私にとって殻である。私はあらゆる固い形態の中でまさしく自分を守ってくれ、あらゆる対象の中で、まさしく守られているという意識を持つ柔らかい物質である》と答えるだろう。」

「内密的には大きいという微小なものの幾何学的矛盾につづいて、その多くの矛盾が内密性の夢想の中に現われる。」
「このような対照的な夢想は、中世の《共通の真理》の中では、力動的に働いているのが感じられる。つまり、輝くような純白の白鳥が、内部では黒さそのものなのだ、と。」
「事実に反して、白鳥の内部は黒い、という断言がたびたび繰返されたのは、それが弁証法的想像力の法則を満足させていたからである。根源的心的現象力であるイマージュは、観念よりも強く現実的経験よりも強いものである。」

「黒い色は《空虚や虚無の色から遠く、寧ろ深い実体を浮き出させる能動的な色彩である。そして、この結果、あらゆる事物の暗がりである》と、又、ミシェル・レーリスは述べている。」



「第五章」より:

「さなぎは、包まれたあらゆる形態の魅力をおのずから備えている。それは丁度、動物の胎児のようなものである。しかし、さなぎが、毛虫と蝶の中間的存在と考えれば、全く新しい価値の領域が出来上る。」
「『我々の時代の黙示録』の中で、ロザノフは、さなぎの神話に一つの寄与を行なった。彼にとって《毛虫と、さなぎと蝶は、心理学的な説明をうけ入れず、宇宙進化論的な説明をうけ入れるのである。(中略)つまり、生きているものはすべて、どんな例外もなく、幾分とも、生と墓と復活の性質をこのように帯びているものである。》」
「ロザノフは、こうして、さなぎとミイラのイマージュの関係を詳細に研究するのである。ミイラとは、まさしく人間のさなぎである。」

















































































ガストン・バシュラール 『大地と意志の夢想』 (及川馥 訳)

「いかにして自己を石化すべきか――宝石のように緩慢に、徐々に硬くなることだ――そして最後にはそこで静かに永遠の歓喜を授かるまでとどまっていることだ。」
(ニーチェ 『偶像の薄明』 より)


ガストン・バシュラール 
『大地と意志の夢想』 
及川馥 訳


思潮社 1972年10月10日初版第1刷発行/1983年10月1日4刷発行
320p
A5判 並装 本体カバー 函
定価3,400円
Gaston Bachelard : La Terre et les rêveries de la volonté, 1948



バシュラール


目次:

序 物質の想像力と言語に表現された想像力
第一章 想像的エネルギー論の弁証法 抵抗する世界
第二章 尖鋭な意志と硬性の物質 道具の攻撃的性格
第三章 硬質の隠喩
第四章 捏粉
第五章 柔軟な物質 泥土の価値付加作用
第六章 鍛冶屋の力動的抒情
第七章 岩石
第八章 石化の夢想
第九章 金属化と鉱物化
第十章 結晶体 透明な夢想
第十一章 露と真珠
第十二章 重力の心理学

註(原註・訳註)
あとがき (訳者)




◆本書より◆


「第四章」より:

「仕事の夢幻性(オニリスム)の力を無視すれば、労働者を過小評価し、ゼロにしてしまうことになる。労働にはそれぞれの夢幻性があり、労働の対象となった物質は、内密な夢想を伝える。深い心理的な力に対する敬意は、労働の夢幻的状態をいかなる侵害からも守るようにわれわれを導くはずである。たましいに反して、すなわち夢に反して、良いものはなにひとつ作れない。作業中の夢幻的状態は労働者の精神的統一の条件ですらあるのだ。
 ああ、それぞれの労働がそのひいきの夢想家をむかえ、その夢に案内者をもつ日が早くこないものか。
 工場ごとに詩のための机がおかれる日よ早くこい。夢みることを知らない意志は、盲目で、偏狭だ。意志の夢想をもたなければ、意志は人間の真の力ではなく、それは獣的本能にすぎないのだ。」



「第九章」より:

「自然科学以前の世紀においては、一般に腐敗や腐蝕は、正常な発芽に不可欠な肯定的機能とみなされていた。これは植物界と同様、鉱物界においても真実なのである。」

「存在をその中心に張りつめさせるものが塩である。塩は濃縮作用をおこなう成分である。」
「もし不順な気候がこの内密な塩を分解するなら、岩石はゆるみ、ぼろぼろになるだろう。それはやがて粉々になる、たとえば、南風はある種の岩石の塩を溶解するとベルナール・パリシィはいう。」
「アンリ・ド・ロッシャはこう書いた。もし大地が「あらゆる塩をうばわれたなら、それはほんのちょっとした風にさえ粉々となり、アトムのように吹きとばされてしまうほど軽くなるだろう。」」

「ラマルクの化学の調整的原理は、生きている物質から発して自己破壊にいたるという、自然のあらゆる構成物がもつ傾向である。(中略)ラマルクはこの生きている物質から、鉱物的物質への逆の進化をすべてひとつの表に要約し、それに大変固執していた。(中略)その生のままの物体の表の出発点は「生体の死骸」である。」
「つぎに、例として、生物の石化した鉱物のいくつかを、次第に強化される破壊の順序にしたがってあげよう。ラマルクは、動物に由来するものとして、実体のなかでも、白堊、大理石、石膏、燧石、瑪瑙、オパール、ダイヤモンドをあげている。植物に由来するものは、粘土、板岩、凍石、石鹸石、雲母、碧玉、ガーネット、電気石、ルビー、アメチスト。また内密な破壊の起こったある段階からは、表には、植物と動物と双方に由来するものがあらわれる。まず、黄鉄鉱、つぎに金属の鉱石、最後は本来の、生まれたときからの金属。(中略)鉱物的生命の完全な死がくると、逆行的進化が終局的物質、最後的な屍骸を与える。それが岩石の結晶である。この岩石の結晶において大地は「匂い、味、半透性、色彩を完全に失うし、硬さ、固定性、不溶解性というその特性を完全に享受している。」」

「E・W・エッシュマンは(中略)こう書いている「岩石もまた生命を持ちたいのではないだろうか。もしわたしたちが岩石の本能を知り、それを刺戟し、繁殖させる固有の手段を知っていたら、ダリヤを栽培したりシャム猫を飼育するように、おそらくさまざまの種類の大理石を育てることができるだろう。」」

「たとえばミシェル・レリスがどんなに真剣に細かく気をくばって鉛筆を削るかよく注意してみるなら、もっとも平凡な経験について、物質主義の別の深い印象をもつことができるだろう。」
「実体の内密性への参加はきわめて深いのでミシェル・レリスは本能的に鉱物的生命をもったイマージュを見つけうるほどだ。「木自体も強い匂いを発散するもので包まれているが、包んでいる木の中心には鉱山の石炭の鉱脈が埋められている。それをしめつけている丸い部分、あるいは多角形の部分の硬直した細い茎は、保護葉鞘とも栄養的部分とも見られる。たとえば、大地の奥底で探険された本物の炭鉱内でも、植物の腐植土や地質学的沈殿物が目的の物質の上に積みかさなっている。ちょうどそれがこっそりと栄養を与え、いつでも再生できるように助ける、食糧の山のように見えるのだ。」」
「レリスは(中略)鉛筆の炭鉱をとがらしながら、深い土中にある鉱床をわれわれに考えさせる、いわば宇宙的鉛筆の存在をレリスとともに感じることは、またいかに大きな驚異を惹起することだろう。」



「第十章」より:

「宝石は大地の星である。星は大空のダイヤである。天頂にひとつの大地があり、大地にひとつの空がある。しかし、ここに一般的な抽象的象徴作用しかみとめないのなら、この照応関係は理解できない。(中略)それは物質的な照応関係、実体のコミュニケーションにかかわっているのである。(中略)クロリウスの『王様の化学』は、何世紀もの間、大いに引用されてきた本だが(中略)そのなかに「宝石は星の要素である。宝石はその色、形、染料を天体の形成作用によって金属からひき出す」とある。」

「火の魔術と地下の長い忍耐によって一片の木炭がダイヤモンドに変えられて、泉と星の澄明さに到達する。たましいはそこにたましいがおもむくべき完璧さが輝いているのを見る。」



「第十二章」より:

「大地は無限である。穹窿、丸天井、屋根でしかない空よりも広い。(中略)太陽が朝ごとに大地から出て、夕べには山に戻るのを夢想家が見るときに、一体どうして太陽は地球より大きいことがありえようか。(中略)ほとんど元素的な考察にとって、大地はその無限の大きさという性質に集約される。これは絶対的な大きさ、比類のない、しかし具象的で直接的な大きさの例である。無限はそのとき原初的イマージュなのである。
 この無限のイマージュという概念によって、単一で同一の大地のなかに無数の変化にとむ景物(スペクタクル)をいかにして包含できるかがはじめて理解できる。流浪の民はあちこち移動するが、つねに砂漠の中心に、草原の中心にいるのである。(中略)地平線をぐるりと見渡すことによって、夢想家は全地球を所有する。かれは世界を支配する。この奇妙でしかも平凡な支配を研究しなければ、観照の心理学の重要な要素を見おとしたことになろう。」

「結晶体や岩壁のような大地の存在のなかに入りこむことは、たいていより隠された無意識の地帯へ、より深く下降する予備的段階である。心的現象のなかにかなり深く下降しながら、イマージュによる夢は、いわば自然な展開によって、個人的生活の沈積層の下に、古代的(アルカイック)な領域、祖先の生活の諸原型を発見する。」

「覚醒夢の技法は(中略)鉛直の全イマージュを探索するためのものである。」
「また、カントの考え、「自己の認識においては、絶頂に導きうるものは地獄への下降あるのみである」は、覚醒夢の完成された方法の心理的かつ倫理的価値を、この上なく強力に保証するものである。」












































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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