FC2ブログ

飯倉照平 編 『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集 上』 (平凡社ライブラリー)

「人によって得手得手のあるものなり。(中略)小生は世間に向かぬ男なり、世間に向かぬ男が強いて世に向かんなどするは全敗して世を誤つのもとなるべし。」
(南方熊楠)


飯倉照平 編 
『柳田国男 
南方熊楠 
往復書簡集 
上』
 
平凡社ライブラリー 52 

平凡社 
1994年6月15日 初版第1刷
379p 
B6変型判(16.0cm)
並装 カバー
定価971円(税別)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー: 南方熊楠に宛てた柳田国男書簡の末尾、大正元年12月15日付。図は、柳田宛の書簡(大正3年11月21日付)に南方が描いた〈山の神〉をもとに水月千春・作画。


「本著作は一九七六年三月、平凡社より刊行されたものを、上・下巻に分けたものです。」



本書「凡例」より:

「本書(上下二巻)は、柳田国男の南方熊楠宛書簡七四通と、ほぼそれに対応する南方熊楠の柳田国男宛書簡九七通を収録・編集したものであるが、そのほか『郷土研究』二巻五―七号に連載された南方の「『郷土研究』の記者に与うる書」と、その末尾に付載された柳田の「南方氏の書簡について」も収録した。」


新字・新かな。写真図版(「南方が柳田に送った写真」)1点、本文中挿図。


柳田国男 南方熊楠 往復書簡集 上


カバー文:

「「民俗学」誕生のはざまで火花を散らし合った二人の開拓者たち。
往復書簡は、二つの青春のせめぎあいを生々しく伝えてくれる。
南方・柳田論争の全貌をここに収録する。」



目次:

凡例

オコゼから山男へ――文通の発端
 明治四十四年三月―五月
柳の蔭を頼む――神社合祀に反対して
 明治四十四年六月―八月
『南方二書』刊行前後――伝説研究の協力
 明治四十四年九月―十月
無鳥郷の伏翼――柳田批判の始動
 明治四十四年十月
剃頭した親子――反対行動の分岐
 明治四十四年十一月―十二月




◆本書より◆


「南方熊楠から柳田国男へ 明治四十四年四月二十二日」より:

「また山中にて、猴(さる)、人を悩ますことを伝うることあり。伊勢の巨勢(こせ)という処(熊野に近し)にて、古え猟師不在に、大なる猴長(たけ)丈余なるが来たり、その妻の頭をつかみ走り行く。猟師帰り来たり、見つけてこれを追い、その辺の猟師、弾丸中に必死の場合に用うる天照大神の弾丸というもの一つあり、それをこめて打つに、その猴に中(あた)る。血の跡をつけ行くに、穴に入って死せり。妻も殺されあり。あまりに大なる猴にて、持ち帰ること能わず。その尾を切り取り帰り、今にその地の旧家に蔵せり。長き払子(ほっす)ごとき、はなはだ美に白きものなりと申す。(中略)また安堵が峰辺で伝うるは、栗鼠は山伏が変せしものにて、魔法を有す。これを打たんとするに、尾をもって身を蓋う。もしこれを打ち得ば、分身してたちまち四面八方ことごとく栗鼠をもって盈(み)たさる。むかし大猴あり、怪をなす。猟師、犬二匹伴い、その家に入る。猴、人形を現わし、これを享するとて栗を炊ぐ。その間に、漁師一睡の夢に神現じ、しかじかすべしと教う。よって間に乗じ、神勅のままに盥二つもち来たり、おのおのに犬一疋ずつ伏せ匿し置く。さて夜に入り、猴大いに悩み出す。牛鬼の医者なるを招き診せしむるに、必死の徴ありという。鬼の巫(みこ)なるを招き祈りをするに、効なしという。最後に、栗鼠の山伏なるを招き筮せしむるに、「大盥覆(かえ)せば親猴にたたり、小盥覆せば児猴にたたる」という。時に神出でていろり(囲炉裏)に釣したる鍋をたたく。猟師、よって盥二つながら覆せしに、犬走り出で猴父子を嚙み殺しおわる、と。」


「南方熊楠から柳田国男へ 明治四十四年五月二十五日夜九時過」より:

「例のボスウェルの『ジョンソン伝』に、ジョンソンこのことを論じて、燕は冬に先だって群飛して団聚をなし、水底に潜み春至るをまつ、と論ぜしことを知り候。スウェーデンの古え漁人燕を水底より網し得たることを記し(オラウス・マグヌスの記に出づ)、英国のギルバート・ホワイトの状にも、燕、時として水中に蟄する由いい、『酉陽雑俎』には、燕は竜と縁あり、井中に蟄す、と言えり。」


「南方熊楠から柳田国男へ 明治四十四年六月十二日」より:

「粘菌は、動植物いずれともつかぬ奇態の生物にて、英国のランカスター教授などは、この物最初他の星界よりこの地に堕ち来たり動植物の原(もと)となりしならん、と申す。生死の現像(げんしょう)、霊魂等のことに関し、小生過ぐる十四、五年この物を研究罷りあり。」


「南方熊楠から柳田国男へ 明治四十四年十月十日」より:

「烏賊(いか)は魚と全く縁なし。しかるに、近くモナコ王大洋にて魚鱗あるいかをとりし。動物などに、魚類とイクチオソールス(蜥蜴一類、今は絶滅す)、江豚(いるか)また鯨(哺乳動物)類は全く異なれど、海中にありて游(およ)ぐゆえ、同一の形を生ず。亀に甲あり、蛙の一種に亀ごとき甲を生ぜるあり。植物も全く関係なき異類の植物をして所境範囲同じきより同一形状を生ずるもの多し。木麻黄(もくまおう)は桑の類に近い樹、麻黄は松に近い木、木賊(とくさ)は羊歯に近き草ながら、その葉は素人(しろうと)に分別できぬほど相似、仙人掌(しゃぼてん)科、白前(すずめのおごけ)科、大戟(たかとうだい)科何の相互の親縁なきも斉(ひと)しく沙礫熱爍の地に生ずるより、かくのごとく多肉厚皮で葉なきものとなるごとし。里俗、民風またかくのごとし、必ずしも一処より他処に伝うるをまたず。
 たとえば、橋を見たことさえある人々は、人より教えられずとも自然におのおの橋から落ちる夢を見るごとし。『土佐日記』の老海鼠(ほや)の妻の貽貝鮨(いずし)のごとき、古ギリシア人アプレイウスの書(中略)に、愛敬の法にホヤ様の動物と女陰様の介を用うるをいえり。わが国、諾・冊二尊、鶺鴒(せきれい)に教えられ和合の道始まるという。西アジアに、アスタルテ(婬神)の使いは鶺鴒とせり。これら必ずしも一国より他に伝えしにあらず。故に、貴下専攻の本邦の女巫等のことも、必ずしもその風のことごとく道と仏より入らず、その中には本邦固有の巫術も遺存することと知られたく候。」



「南方熊楠から柳田国男へ 明治四十四年十月十三日朝」より:

「スコットランドのマキントシュ男の語に、学者は二つに一つ取りの構えあるべし。今行なわれて後日たちまち忘らるるか、後年に永く伝わりて今日誰も顧みぬかの二つなり、と。」

「喜多村信節は、邦人としてはよほど得手勝手の牽強少なき人なり。『画証録』などに、道祖神考か傀儡師考に似たことを列挙しながら、かくいえばとて必ずこのことはかのことより出でしにはあらじ、事の成り行きとして偶然相近似し来たりしならん、とあり。かかる寛和の所断ありたきことに候。小生夢を見てこれをみずから思い出しひかえ、分析する法を考え出し、いろいろ試むるに、ちょっとした夢にも無量の源因、出所あり。土俗といい言語といい夢のごときもので、しかも一人の見た夢でなく、千古来に億兆人の夢み想い来たりし結果なれば、一つの土俗、一つの言詞にも、無量の来由ありと知るべし。」



「柳田国男から南方熊楠へ 明治四十四年十月十四日」より:

「貴下は年久しく外国におられ候のみならず、帰りても無鳥郷里にのみ住まれ候故、御見識何分にも偏りたりとおぼえ候。」


「南方熊楠から柳田国男へ 明治四十四年十月十七日夜」より:

「小生はいかにも無鳥郷の伏翼なり。しかし、かつて鵾鳳(こんほう)の間に起居した覚えはあり、帰来も及ばぬまでも世に後れまじきためにずいぶん斬新な著述などとりよせ見ておれり。不幸にして日本には貴下のいわるるごとき心にくき高著、深論の出でたるを見ず、また聞きしこともなし。また二十五年前には役人にて古書を読むなどというものなかりしならんとのことなるが、小生はそんな人を多少は見しことあり。明治十八年ごろ、上野図書館に読書室の真中に眼を一方かくし読書しおり、読者が札に要するところの書名をかき持ち行かば直ちにこれをとり来たり、持ち来たり配りくれる役人ありし。なかなか貴下らと比較になる官人にあらず、小使いのちょっと上ぐらいな人なり。この人たしか大沼枕山の甥にて、名は今は忘れたり。あまり豊富の身代もなき人ゆえ、かかる微役を勤めらるると見えたり。この人『小品考』とか『拾品考』とか題し、近渡の蕃種植物を黒墨なしに彩色画に十品ずつ画き、四輯ばかり一冊にし、一品ごとに『詩経(毛詩)』を始め、『広東新語』その他清国の書に至るまで委細しらべ、漢名の考鑿をなし説註を付し、まことに見事な書なり。貧乏に耐えず、これを神田小川町より錦町へまがる角から三、四軒万世橋の方へよりし古書肆へ売りし直ぐ跡へ、小生行き合わせ十二銭かなんかで買い、その人のこともほぼ書肆主人にきき、今に和歌山に所蔵せり。(中略)これはほんの一例なるが、その他にも微禄の官人にしていろいろ書を集め著わしたる人、十人ばかりは知りおれり。この人々はただ書を著わすことそれ自身が楽しみにて、別に後世を期するにもなく、世間へ出すにてもなかりし。」

「さて仏経に辟支(びゃくし)仏(縁覚)というものあり、独覚根性という奴これなり。無仏の世に辟支仏出で、麒麟の独居するがごとく、(中略)無言で乞食しまわる。これに食を奉ずれば、後世に福あり。しかし、返礼に説法などは少しもせず、ただ空中に上がり、身上火を出し身下水を出し、神変を現じて飛び去るばかりなり。人に教えられず縁にふれて独り覚(さと)る。故にまた人に教うる気少しもなし。菩薩は馬が人を乗せて川を渡るがごとく、独覚は人を乗せずに独り渡るごとしなど申す。土宜法竜師説に、熊楠はこの辟支仏のもっとも顕著なる奴の由。自分のことは自分で評ができぬからそれを甘受すとして一言せんに、おのれに徳なきもの、またはなはだしき圭角多きものは千万言を費やしても人信ぜず、しかるときは独居独楽のほかなし。回やその楽を改めず賢なるかな回や、ともいえり。また馬鹿なようなことなれど、許由、巣父から蝦蟆仙人、鉄拐仙人などを目出たき宴席の床の間にかくるも、これらの者の所行、他のつまらぬものよりは多少潔かりしを感じてのことならずや。
 仏経に、一技一芸に長ずる者のおる山上に祥雲覆う、といえり。(中略)独居独楽のもの、たとい口に説きて人を感ぜしむることなしとはいえ、後人をしてその風を欽せしむるぐらいのことはありなん。これは人々のすきずきで、他より咎め勧め疎むべきことにあらず。人によって得手得手のあるものなり。(中略)小生は世間に向かぬ男なり、世間に向かぬ男が強いて世に向かんなどするは全敗して世を誤つのもとなるべし。」

「貴下また今印刷物の散佚速やかなるゆえ身後を期するなどはむだな話といわる。しかしながら、本邦のことは一向知らず、欧米には生前書き蓄えたものを一生出さず、身後大いに用に立ちしもの多し。Thuret (チューレー)という仏人は、大富家に生まれ、何か世益になることをせんとて、臨海実験所を立て海藻の学を専攻されしが、常に自分の業を満足と思わず、それよりそれとやりなおされ、一生論集を出さず。死後まとめて他人が始めて出せしが、一生出板を見合わせて念入れただけありて大いに世の益をなせり。間宮林蔵の『カラフト記行』ごとき、本邦では写本でのみ行なわれ何の聞えも高からざりしが、海外には早くこれを翻訳し大いに用に立てたることなり。これを用うると用いざると、その国民の注意不注意による。自国民が用いねばとて気を落とさず、知識は世界一汎の智識と思いて書き置きたる心の広さ、まことに欽すべし。」





飯倉照平 編 『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集 下』 (平凡社ライブラリー)



































スポンサーサイト

飯倉照平 編 『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集 下』 (平凡社ライブラリー)

「セネカはローマの大賢なりしが、その言に、わが語は猥なり、わが行は正し、といえり。」
(南方熊楠)


飯倉照平 編 
『柳田国男 
南方熊楠 
往復書簡集 
下』
 
平凡社ライブラリー 53 


平凡社 
1994年6月15日 初版第1刷
390p 
B6変型判(16.0cm)
並装 カバー
定価971円(税別)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー: 南方熊楠に宛てた柳田国男書簡の末尾、大正元年12月15日付。図は、柳田宛の書簡(大正3年11月21日付)に南方が描いた〈鳥を竹に結んで山の神とオコゼの祝言の式に赴く鹿〉をもとに水月千春・作画。


「本著作は一九七六年三月、平凡社より刊行されたものを、上・下巻に分けたものです。」



本書「凡例」より:

「本書(上下二巻)は、柳田国男の南方熊楠宛書簡七四通と、ほぼそれに対応する南方熊楠の柳田国男宛書簡九七通を収録・編集したものであるが、そのほか『郷土研究』二巻五―七号に連載された南方の「『郷土研究』の記者に与うる書」と、その末尾に付載された柳田の「南方氏の書簡について」も収録した。」


本書「あとがき」より:

「なお、本書では紙幅の都合上、柳田の書簡は全部収録したが、南方の書簡は全集収録分のおよそ三分の一を割愛せざるを得なかった。ただし、往復書簡集として必要な、柳田の書簡になんらかの意味で対応している書簡は、すべて収録するように努めた。」


新字・新かな。写真図版(「柳田国男」)1点、本文中挿図。


柳田国男 南方熊楠 往復書簡集 下


カバー文:

「「大きな感動を受けつつも、ついに学ぶことのできなかった南方さんの篤学ぶりは、ただ算え立てていては片端でも日が暮れてしまう。その全貌を世に伝えようというには、やっぱり書翰集を出して置く他はない……」――柳田国男」


目次:

凡例

出発への模索――多様な関心の交錯
 明治四十五年一月―四月
フォクロアへの架橋――研究会と雑誌の胎動
 明治四十五年四月―大正元年十二月
『郷土研究』創刊のころ――文章報国と風俗壊乱
 大正二年一月―十二月
出会いの後――編集方針の対立
 大正三年二月―十一月
確執と絶信――『南方随筆』出版まで
 大正四年――十五年

略年譜
書簡目録
あとがき
解説――灼熱する対話の果てに (松居竜五)




◆本書より◆


「南方熊楠から柳田国男へ 大正元年十二月十三日夜」より:

「土宜法竜は面白き坊主で、なにかの問答のとき、小生、土宜師を汝のごときヒョットコ坊主云々と言いしに、それよりみずからヒョットコ坊を号とし、毎々書留小包で書物貸しくれるその書留の受取書まで、ヒョットコ坊という名前なり。郵便局にも呆れおることと存じ候。」


「南方熊楠から柳田国男へ 大正元年十二月二十八日夜(十五日書き始め)」より:

「昨夜当地と山一つ隔てし岡(おか)という大字の小学校長来たる。(中略)この人の言うには、三毛猫を縛りおき鰹節を示しながら食わせず、七日経るうちにその猫の欲念その両眼に集まる、そのときその首を刎ね、その頭を箱に入れて事を問うなりとのことなり。(かかることは毎度聞く。安南にも犬をかくすることあり。わが国の犬神に同じ。また国により人の胎児を用うることあり。『輟耕録』に見えたる、小児を生剝ぎして事を問う術なども、大抵似たことと存じ候。)
 この岡の巫子はオンボウ(死人を焼きなどする男)の妻なりと聞く。小生思うに、猴、犬、猫などは仮話にて、実は人の頭を用うるならずやとも存じ申し候。(広畑岩吉という人いろいろかかること知るは前状申し上げ候。その弟もまたかかること多く知る。ただし、虚実定かならぬこと多し。この弟のいわく、二十年ばかり前に、大阪にて猫の頭骨を黒焼きにし身に帯びて相場を企てしものあり。しかるに、過去と現在のことはことごとくうるさきまで知り得るも、未来のことは一向知れず。うるさくなりこれを脱せんとするに、いかにするも猫鬼退かず。よって一計を案じ、猫は至って水を嫌うものゆえ、川中に潜り入りしに猫鬼ようやく去れりとのことに候。いろいろ聞き正すに、伝聞のままとのことなり。)
  『千手千眼大悲心陀羅尼経』に、「仏、阿難に告ぐ、云々、もし猫児の著くところのものあらば、弭哩吒那(死せる猫児の頭骨なり)を取り、焼いて灰と作(な)し、浄き土泥に和し捻(こ)ねて猫児の形を作り、千眼像の前において鑌鉄(はがね)の刀子(かたな)を呪すること一百八遍すれば、段々にこれを割(さ)くことまた一百八段、遍々一たび呪して一たびかれの名を称(とな)うれば、すなわち永く差(い)えて著かず、云々」。死猫児の霊が人に着きしを除く法なり。ただし、死猫児頭骨に弭哩吒那という特別の称あるを見て、このもの多く他の呪にも用いられしを知るべし。『大英類典』一昨年板の witchcraft の条にも、今のインドの巫は猫を使うとあり。仏国にて中古盛んなりしが、仏王に急に全滅されし templiers の罪状にも、黒猫を回祖マホメットの霊として祀りし、とあり。『淵鑑類函』の猫鬼のことなど攷え合わすべし(昨年一月一日および二月の『太陽』に出だせり)。」



「南方熊楠から柳田国男へ 大正三年五月十六日午後四時」より:

「セネカはローマの大賢なりしが、その言に、わが語は猥なり、わが行は正し、といえり。」
「庄内の老人に聞きしは、維新ごろまで、そこでは道祖神の祭りに大なる陽形を作り、その地第一流の大家の若き女房、衆人の見る前でそのさき吸うまねす、これを望んで各家競走せり。これを見るものも、するものも、一向邪念起こらざりしとのことなり。むかしの人がかかることせしは、おどけにせしにあらず、また、し得ることにもあらず。かかることを聞きて笑わぬほどの素養を、せめては学者といわるる輩に与えおきたきことなり。この素養なきときは、あれも野蛮これも未開で、今後いずれの地いずれの民族に入るも、十分に風俗制度の奥所を研究することは成るまじ。要するに、奇醜のことを奇醜と笑うて、座(ざ)なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたきことなり。(中略)「燕石考」ごときは、いわゆる鄙猥なことを抜きにすると、何のことやら分からぬものとなる。」
「猥事多き郷土のことを研究せんとするものが、口先で鄙猥鄙猥とそしるようでは、何の研究が成るべき。自心で同情なき物を、いかにしても研究どころか観察も成らぬものなり。」



「南方熊楠から柳田国男へ 大正五年十二月二十三日夜十二時」より:

「貴下や佐々木が、山男山男ともてはやすを読むに、小生らが山男とききなれおる、すなわち真の山男でも何でもなく、ただ特種の事情より止むを得ず山に住み、至って時勢おくれのくらしをなし、世間に遠ざかりおる男(または女)というほどのことなり。それならば、小生なども毎度山男なりしことあり。また、じき隣家にすむ川島友吉という画人などは、常に単衣を著、もしくは裸体で、和紀の深山に昼夜起居せしゆえ、これも山男なり。仙台辺に、芸妓がいきなり放題に良(やや)久しく山中に独棲せしことも新聞でよめり。
 そんなものが山男山女ならば、当国の日高郡山路村から熊野十津川には、山男が数百人もあるなり。(中略)今は知らず、十年ばかり前まで、北山から本宮まで川舟で下るに、川端に裸居または襦袢裸で危坐して、水の踊るを見て笑いおるもの、睨みおるものなど、必ず二、三人はありたり。これに話しかけても、言語も通ぜず、何やら分からず、真に地仙かと思うばかりなり。さてよくよく聞くと、山居久しくして気が狂いしもの、毎度かかる行いありという。(アラビアなどの沙漠高燥の地にも、毎々かかる精神病者が独居独行するものありと聞く。)すなわち狂人なり。また九十余歳にして、子孫みな死に果て、赤顔白髪、冬中単衣をき、『論語』の文じゃないが、あじかをになうて川を渡りながら歌い行くものあり。小生の舟が玉置川(たまきがわ)の宿につくと、その老人は近道をとり、むちゃくちゃに川を渡りありくゆえ、早く宿につき、魚を売りたる金で一盃のみおる。子細をきくと、この者死を求めて死に得ず、やけ屎(くそ)になり、大和の八木(やぎ)という所より、一週に一度、南牟婁郡の海浜に出で、網引きして落とせし鰯をひろい、件(くだん)のあじかに入れにない、むちゃくちゃに近道をとりて、ただちに川を渡り、走りありき、売りながら八木へ帰るなり、という。(中略)こんなものも山中であわば、仙人とか神仙とかいう人もありなん。山男もこの仙人と同列で、世間とはなるるの極、精神が狭くなり、一向世事にかまわず。里を離れて棲むものを山男というなら、脱檻囚や半狂人の山男は今日も多々あるべし。
 小生らが従来山男(紀州にてヤマオジという、ニタともいう)として聞き伝うるは、そんな人間をいうにあらず。丸裸に松脂をぬり、鬚毛一面に生じ、言語も通ぜず、生食を事とする、いわば猴類にして二手二足ある(中略)もので、よく人の心中を察し、生捉(いけどり)し殺さんと思うときはたちまち察して去る(故にサトリともいう)というもので、学術的に申さば、原始人類ともいうべきものなり。この原始人類ともいうべきもの、日本に限らず、諸国にその存在説多きも、多くは大なる猴類を訛伝したらしく、日本にも遠き昔はあったかも知れず、今日は決してなきことと考う。」
「貴下や佐々木氏の、山男の家庭とか、山男の衣服とか、山男の何々といわるるは、この辺でいう山男にもあらねば、怪類の山〓(漢字:「犭」+「喿」)・木客にもあらず。ただ人間の男が深山に棲むなり。前にも申すごとく、深山に久しく棲む人間は、精神がわれわれより見れば多少かわりおる。したがって、挙動も深山に慣れぬものにはいぶかしきこと多し。しかしながら、それはやはり尋常の人間で、山民とか山中の無籍者とかいうべきものなり。(中略)山民を見たくば、今日も西牟婁郡の兵生(ひょうぜ)、日高郡の三つ又、東牟婁郡の平治川などへ往けば見らるる。三つ又のものは小生方へも来る。まことにへんな人間にて、人の家に入れば台所までずっと通り、別段挨拶もせず横柄に用事をいい去る。」
 




飯倉照平 編 『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集 上』 (平凡社ライブラリー)




































































































鶴見和子 『南方熊楠』 (講談社学術文庫)

「南方熊楠は、前半生を漂泊にすごし、後半生を故郷に定住しながら、世界漂泊の志を持続した。地球は一つ の信念を持ちつつ、故郷の僻地に執(しゅう)した。それゆえにかえって、「故郷を喪った」柳田国男とは対蹠(たいせき)的に、国を超える思想に、自信をもって達することができた。」
(鶴見和子 『南方熊楠』 より)


鶴見和子 
『南方熊楠
― 地球志向の
比較学』
 
講談社学術文庫 528 


講談社 
1981年1月10日 第1刷発行
1989年5月10日 第13刷発行
318p 
文庫判 並装 カバー
定価660円(本体641円)
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 平野甲賀



本書「まえがき」より:

「これは、『日本民俗文化大系』(講談社)の第四巻として、今から二年前に書いたものである。このたび学術文庫に加えていただくにあたって、構成のうえで一つの変更を加えた。もとの本の「第三章 南方熊楠(みなかたくまぐす)の仕事」は、南方の著作からの抜萃と、それぞれの著作についてのわたしの解説とから成っていた。(中略)このたびは、わたしの解説のみを、もとのままの順序で配列した。そして、原典の中から、読者にぜひ読んでいただきたい一点だけを、本の終りに付した。しかし、内容のうえでの変更はない。」


本文中図版3点。


鶴見和子 南方熊楠 01


カバー裏文:

「南方熊楠は、柳田国男とともに、日本の民俗学の草創者である。この二人は、その学問の方法においても、その思想的出自と経歴においても、いたく対照的なのである。日本の学問のこれからの創造可能性を考えるために、この二つの巨峰を、わたしたちはおのれの力倆において、登り比べてみることは役に立つであろう。そうした意味で、微力ながら、これはわたしの南方登攀記の発端である。(著者まえがきより)(昭和54年度毎日出版文化賞受賞作)」


目次:

まえがき (1980年10月15日)
初版はしがき (1978年4月15日)

第一章 南方熊楠の世界
 一、すじがき
 二、南方熊楠におけるヨーロッパとの出会い
  1 学問の目標
   i 「東国の学風」の創出
   ii 対決をおそれぬ精神
   iii 英文と日本文の文体のちがい
  2 身についた実証主義
   i ヴィクトリア王朝最終期のイギリスの学問
   ii 自分の発掘したデータによる
   iii 自分の体験にもとづく
   iv 市井の職業人から学ぶ
  3 問答形式の学問の展開
   i 『ノーツ・エンド・クィアリーズ』と『ネイチャー』を舞台として
   ii ワイン・グラスと擂り鉢
   iii 「神跡考」
   iv 「ワタ」は外来語か
 三、地球志向の比較学の構造
  1 粘菌研究――地球志向の原点
   i 新種の発見
   ii 「あそび」としての粘菌学
   iii 「粘菌は動物である」
   iv 「粘菌は生命の原初形態である」
   v 生物学と民俗学とを結ぶ
  2 曼陀羅――比較学のモデル
   i 南方曼陀羅――真言密教の読み替え
   ii 「山神オコゼ魚を好むということ」――知的好奇心の原型
   iii 「燕石考」――発見のみちすじ(“The Origin of the Swallow-Stone Myth”)

第二章 南方熊楠の生涯
 一、独創性の根源
  1 父母の感化
  2 勉強大好き、学校大嫌い
 二、漂泊の季節
  1 アメリカゆきの動機
  2 曲馬団とともに
  3 大英博物館入り
  4 孫文との出会いと別れ
  5 ロンドンの暮しと仕事
  6 ロンドンでの仕事
 三、紀州田辺の住民として世界へ
  1 定住への引力
  2 神社合祀(ごうし)反対運動のさ中に
  3 柳田国男との出会いと別れ
  4 実現しなかった南方植物研究所
  5 神島(かしま)の進講
  6 示寂

第三章 南方熊楠の仕事
 比較の四つの領域
 一、比較民俗
  1 『十二支考』について
   i 虎
   ii 竜
   iii 鼠
  2 邪視について
  3 人柱について
 二、比較民話
 三、比較宗教――科学論
  1 学問の目標
  2 比較宗教論
  3 科学論
 四、エコロジーの立場に立つ公害反対
 五、おわりに――南方熊楠の現代性
  1 南方熊楠とヘンリー・ディヴィッド・ソローの親近性
  2 南方の思想家としての現代性
   i 対話としての思想の展開――民際交流
   ii 新しい普遍主義をめざす
   iii 地球は一つ、されど己が棲むところにおいてそれを捉えよ
   iv 自然の循環の法則をとりいれた新しい技術の開拓をめざす

付録 「神社合併反対意見」 (南方熊楠)

解説 (谷川健一)

略年譜
参考文献
索引




◆本書より◆


「南方熊楠の世界」より:

「南方が粘菌研究に精力を傾けた理由は、一方では、かれ個人の資質に起因している。そして他方では、粘菌そのものの性格に、南方が魅せられたためである。」

「第一に、粘菌の採集、標本作り、検鏡は、細心の注意と、高度の精神の集中を必要とするゆえに、かろうじてかれの正気を保たせた。柳田宛書簡で、南方はこのように打ち明ける。

   小生は元来はなはだしき疳積(かんしゃく)持ちにて、狂人になることを人々患(うれ)えたり。自分このことに気がつき、他人が病質を治せんとて種々遊戯に身を入るるもつまらず、宜(よろ)しく遊戯同様の面白き学問より始むべしと思い、博物標本をみずから集むることにかかれり。これはなかなか面白く、また疳積など少しも起さば、解剖等微細の研究は一つも成らず、この方法にて疳積をおさうるになれて今日まで狂人にならざりし。

 ここで、二つのことがいわれている。一つは、粘菌を含む博物研究が、南方にとって爆発し、分裂し、解体しそうになる自我を統一し、自己同一性を保持するための有効な作業であったことである。それは、精神衛生の側面である。
 もう一つは、動植物の採集、分類、写生等は、南方にとって、面白くてたまらぬ遊びだった、ということである。それは、職業としての学問ではなく、遊びとしての学問である。「履歴書」中のつぎの一節が、遊びとしての学問の本領をずばり言っている。

   この人(田中長三郎)の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草学、物産学よりも質が劣る、と。これは強語(きょうご)のごときが実に真実語(しんじつご)に候。むかし、かかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり、しかるに、今のはこれをもって卒業また糊口(ここう)の方便とせんとのみ心がけるゆえ、おちついて実地を観察することに力(つと)めず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。」

「南方は、おもしろくてたまらないからこの学問に没入した。学位や名声をかちえようとしてする学問には創造性はない、知的好奇心よりする探究からこそ独創性が生まれる、ということをいっているのである。ヴェブレン(Thorstein Veblen, 1859―1929)は、「無用の好奇心」(idle curiosity)を創造性の根源とみなした。そして、二十世紀初めのアメリカの大学教育が「専門バカ」(trained incapacity)の温床になっていることを痛烈に批判した。」

「南方が、とりわけ粘菌に魅せられたのは、なぜであったろうか。
 第一は、粘菌が植物と動物の境界領域にある生物だということである。
 第二は、粘菌をしらべることによって、生命の原初形態、遺伝、生死の現象などに手がかりがつかめるのではないか、ということである。
 南方は、柳田宛書簡で、粘菌とは、「動物とも植物とも分からぬ微細の生物」、「動植物いずれともつかぬ奇態の生物」といっている。岩田準一宛書簡では、図を描いて、粘菌の環境の変化に応じる変形の状態をしろうとにもわかるように説明しているので、つぎにかかげる。」



鶴見和子 南方熊楠 02


   「粘菌が現形体として朽木枯葉を食いまわること〔図(イ)参照〕やや久しくして、日光、日照、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまず、イ’なる茎となり、他の分子どもが茎をよじ登りて、ロ’なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(二)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち胞壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜(ひそ)めてもとの原形体が再びわき上がりて胞囊(ほうのう)を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞囊、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。
 故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れとなって原形体に戻るは、粘菌が死んだと見えて実は原形質となって活動を始めたのだ。

 原形体として動きまわり、外部から食物をとりいれるところを見ると動物のようであり、「大気中に結実する」ところを見ると植物のようであるこの粘菌(変形菌)を動物と見るか、植物と見るかで、悶着がおきた。南方は、粘菌標本の進献表の始めに、「粘菌の類たる、原始動物の一部に過ぎずといえども」と書いた。これが問題の火種である。当時宮内省御用掛生物学御研究所主任であった服部広太郎が、粘菌は、動物ではないと主張した。(中略)これに対して、南方は、「原始動物」で押し通した。なぜ粘菌は動物であると南方は主張したか。その理由を粘菌研究の協力者平沼大三郎宛に書き送っている。」



鶴見和子 南方熊楠 03


   「粘菌が動物にして植物にあらざることは、第一にデ・バリー〔Heinrich Anton De Bary, 1831―1888. ドイツの植物学者。粘菌類を‛mycetozoa’と呼んだ。〕が論ぜし通り、粘菌の胞子(イ)が割けて(ロ)(ハ)なる浮游子を生じ、おいおい前端に一毛を生じて游ぎ進む(ニ)。次に毛がなくなり游ぐことは止めてはいありく(ホ)。そんなものが二つ(ヘ)寄り合い三つ寄り合いて融合してだんだん大きくなる(ト)。ついに(チ)なる原形体をなしてそれより胞囊や茎を生ず。(ホ)(ヘ)(ト)(チ)みな体の諸部がアミーバ状に偽足となり出で食物をとりこむなり。
 原始植物やアサクサノリ等の藻またキトリジア類の菌には、胞子が(ロ)ごとく裂けて中より出たものが(ホ)ごとくアミーバ状に動くもの少なからず。しかしながら、このアミーバ状に動くものが二つ以上より合い融和してだんだん大きくなり、原形体を作るということは、原始動物にはあれど植物界には全くなきことなり。故に粘菌は原始植物にあらず、全く植物外のものにて、原始動物たりとは、デ・バリーの断言に候。
   …………
   今粘菌の原形体は固形体〔主としてバクテリア〕をとりこめて食い候。このこと原始動物にありて原始植物になきことなれば、この一事また粘菌が全くの動物たる証に候。

 さて、粘菌は植物か、動物か、しろうとのわたしには分からない。そこで、現在どういう分類になっているか、調べてみた。『生物学辞典』(第二版)の生物分類表によると、近年では、生物を、モネラ界、原生生物界、菌界、植物界、動物界の五界に分けることが多いが、この辞典では、植物、菌類、動物の三界に分けた、として、粘菌(変形菌)は菌界に分類されている。また変形菌類の項では、粘菌は「動菌類(mycetozoa)と呼んで原生動物中に入れられることもある」とことわっている。
 一九六九年に出版された、シストロムの『微生物の生活』の分類図は、植物界、動物界、原生生物界(protista)の三界に分かち、原生生物を原核生物と真核生物に二分し、真核生物はさらに藻、菌、原生動物(protozoa)に三分される。そして粘菌は菌類と原生動物との双方にかかっている。
 一九七五年に出版されて評判になったウィルソンの『社会生物学』は、生物を、モネラ界、原生生物界、動物界に分け(この本では植物界は扱われていない)、粘菌類は、原生生物界に分類されている。
 原生生物界とは、一八九四年にヘッケル(Ernst Haeckel, 1834―1919)が、植物界にも動物界にも属さない第三のカテゴリーとして提唱したものである。」
「以上にあげたいずれの分類によっても、粘菌は植物界には分類されていない。動物界にも分類されてはいないが、第三のカテゴリー(菌類または原生生物)に配置されている。そして、原生生物の中でも、もっとも動物界に近いか、もしくは、原生動物と南方が唱したカテゴリーに近いところにおかれている。」
「南方が粘菌に魅せられた第一の理由は、それが動物と植物との境界領域にあることであった。」

「南方が粘菌に惹(ひ)かれた第二の理由は、それが生命の原初形態の探究に役立つと考えたことである。」
「オパーリン(Aleksandr Ivanovich Oparin, 1894―)が、蛋白質コアセルヴェートを地球上の生命の起源と考え出し、そのことを発表したのが一九三六年である。南方が、粘菌の原形質を見ながら、生命の起源に思いを潜めたのは、一九一〇年代のことであった。」

「わたしは、南方の粘菌研究の特徴として、第一にそれがおもしろくてたまらないからやる、という遊びの精神から発したことを述べた。第二に、粘菌が植物と動物との境界領域であることに注目したことを論じた。第三に、粘菌は生命の原初形態であることに着目したと記した。そして第四に、粘菌はそれが発生し生活しつつある環境(コンテクスト)の中で見出されなければならないという南方の原則をのべた。
 これら四つの、南方の粘菌研究の特徴は、かれの民俗学のうちにも見られるのである。」



鶴見和子 南方熊楠 04


「曼陀羅とは、「宇宙の真実の姿を、自己の哲学に従って立体または平面によって表現したもの」である。真言曼陀羅とは、真言の教主である「大日如来を中心として、諸仏、菩薩、明王、天を図式的にしめしたものである」。この真言曼陀羅にヒントをえて、南方は曼陀羅を森羅万象の相関関係を図で示したもの、と解した。土宜法竜宛書簡で森羅万象相関関係図を、次ページに示すごとき絵図に描いた。
 この南方の絵図を、中村元博士にお目にかけたら、
 「これは、南方曼陀羅ですね」
と即座にずばりいわれた。そこで、わたしも、中村博士にならって、これを「南方曼陀羅」と呼ぶこととする。曼陀羅、今日の科学用語でいえば、モデルである。南方曼陀羅は、南方の世界観を、絵図として示したものなのである。
 このモデルを、南方はつぎのように説明する。
 宇宙には、事不思議、物不思議、心不思議、理不思議がある、と南方はいう。近代科学が比較的うまく処理しつつあるのは、物不思議である。数学や論理学は、事不思議を解くが、形式論理学では、複雑な事不思議を十分に解きあかすことはできない。心不思議、理不思議に至っては、近代科学ではまだわからないところが多い。83ページ図の曼陀羅は、世界宇宙のすべての現象および事物の相互関連のみちすじ(理)を示したものであって、そのみちすじは無限であるが、「どこ一つとりても、それを敷衍追究するときは、いかなることをもなしうるようになっておる」という。
 どこをとっても、すじみちを辿ってゆけば、おなじ真理に到達するはずなのだが、辿りつきやすい道と、辿りつきにくい道とがある。㋑図の中に、(イ)(ロ)(ハ)(ニ)……(ヌ)(ル)と記されているのは、(イ)がもっとも多くのすじみちのあつまるところで、ものごとの説明をするのに、最も重要なポイントである。(ヌ)(ル)は遠因である。最も多くのすじみちのあつまる(イ)を、南方は「萃点(すいてん)」とよぶ。ここをおさえることが、謎解きのカギである。」

「南方は、科学の基本原理は、因果律であることを、土宜宛書簡で繰り返し述べている。これは、南方が吸収した十九世紀後半のヨーロッパの科学、哲学が拠って立つ原理であったからだ。南方は、仏教の因果輪廻の説を、近代科学の因果律をもって読み替えたのである。」

「因果律が成立するのは、物の世界においてである。心の世界のことは、心理学が研究し始めたが、心理学は、心を物として取扱っている。形而上のことは、心理学では十分にきわめられていない。その形而上学的心界に、物界ではたしかに働いている因果律が、成立するのかどうかは、疑わしい。考えたり、欲したり、感じたりする心界の現象が、物に接して、「その物の力を起こさしめて生ずるものが事(引用者注:「事」に傍点)であるが、この事の世界では、どのような法則が働いているのかを、きわめたい、というのである。事の世界を、南方は、「心物両界連関作用」とよんでいる。
 この事の世界の研究が、南方の民俗学を構成する。粘菌学は物の世界の研究である。心の世界については、まとまった研究はないが、南方はさまざまの友人宛書簡で、夢の分析をしばしばおこなっている。粘菌が、動物界と植物界の境界領域にあることに興味をいだいたのとおなじように、南方は、心界と、物界の接点を究める学問として、民俗学に関心をいだいたのである。」

「南方の民俗学を、わたしは、地球志向の比較学として特徴づける。地球志向というのは、一方では、特定の事象を、それが発生し作用している特定の地域のコンテクストにおいて見るということである。この発生、生成の土地において見るという地域性の強調は、すでにのべたように、粘菌研究に根ざしている。他方では、地球的規模のひろがりをもって、共通の事象の異同、および相関関係を論ずることである。ひろがりの広大無礙なることは、曼陀羅の作用である。地域への求心性と、地球的規模への遠心性との、二つの相剋する牽引力のあいだの緊張関係を示すことによって、南方の比較学は、日本の民俗学の中で異彩を放つ。」





こちらもご参照ください:

中沢新一 『森のバロック』
見田宗介 『宮沢賢治』 (20世紀思想家文庫)
ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル 『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 青山マミ 訳
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 『コッド岬』 飯田実 訳
































中瀬喜陽・長谷川興蔵 編 『南方熊楠アルバム』


『南方熊楠アルバム』 
中瀬喜陽・長谷川興蔵 編


八坂書房 
1990年5月10日 初版第1刷発行
199p(うちカラー16p) 
菊判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,000円(本体2,913円)
装丁: 山崎登



本書は新装版が2004年に刊行されています。


南方熊楠アルバム 01


目次:

カラー アナバー(ミシガン大学)、ロンドン(大英博物館・キュー植物園 他)、進献粘菌図、寄稿雑誌類、南方家(標本室・書庫 他)、他
故郷と家系
 向畑・南方家の人びと (長谷川)
幼少年期
 伝説につつまれた少年時代 (長谷川)
東京修学
 東京大学予備門の青春 (長谷川)
外遊準備
 アメリカへの渡航の準備 (長谷川)
在米時代
 アナバーとフロリダの青春 (長谷川)
 在米民権家と南方熊楠 (新井勝紘)
在英時代
 ロンドンにおける八年間 (長谷川)
 熊楠と大英博物館 (牧田健史)
孫文との交遊
 革命家との出会いと別れ (長谷川)
土宜法竜
 真言宗の学僧との交遊 (長谷川)
和歌山と那智
 帰国――那智の山野にて (長谷川)
 多屋家の人びと (長谷川)
田辺という町
 熊楠の住んだ田辺という町 (中瀬)
結婚・家族
 結婚――熊楠一家の光と影 (中瀬)
カラー 粘菌生態写真(撮影・伊沢正名)、「南方菌譜」とその菌類写真
 粘菌図版の解説 (萩原博光)
 菌類図譜・解説 (『南方熊楠菌類彩色図譜百選』エンタプライズ社)
粘菌の世界
 粘菌研究に注がれた情熱 (長谷川)
 南方熊楠の粘菌研究 (萩原博光)
 粘菌ミナカテラの再採集 (山本幸憲)
菌類の研究
 数千点の彩色菌類図譜 (長谷川)
植物学の友
 博物学者たちとの交流 (長谷川)
神社合祀反対
 民俗と自然を守るために (長谷川)
 矢田村入野の大山神社 (吉川寿洋)
毛利清雅
 『牟婁新報』と毛利清雅 (中瀬)
柳田国男
 民俗学草創期の協力と離反 (長谷川)
宮武外骨
 反官権と猥雑への共感 (長谷川)
植物研究所
 南方植物研究所のいきさつ (中瀬)
執筆活動
 英文と和文を駆使して (長谷川)
 英文「燕石考」について (鶴見和子)
進献・進講
 神島―進講の一日 (中瀬)
田辺交遊録
 熊楠をめぐる田辺の人びと (中瀬・長谷川)
晩年と死
 晩年――神島の保全と安藤みかん (中瀬)
紫の花――臨終の父 (南方文枝/平凡社『南方熊楠全集』月報12、「追想」より抄録)
熊楠死後
 南方熊楠ののこしたもの (長谷川)
 熊楠に関する評論と小説――文庫・新書に収録のもの (長谷川)
 略年譜
あとがき (長谷川・中瀬)




◆本書より◆


南方文枝「紫の花――臨終の父」より:

「医師が時々打つ注射を嫌い、「こうして目を閉じていると、天井一面に綺麗な紫の花が咲いていて、体も軽くなり、実にいい気持なのに、医師が来て、腕がチクリとすると、忽ち折角咲いた花がみんな消え失せてしまう。どうか天井の花を、いつまでも消さないように、医師を呼ばないでおくれ」と言いつけた。父は紫色を好み、庭の草花も紫色が多かった。」
「夜も次第に更けて、ふと目を開き、枕辺に不安気に見守る母と私を見上げて、自分はこれからぐっすり眠りたい故、誰も私の体に触らないでほしい、おまえ達も間違いなくおやすみ、必ず間違いなくやすむのだよ、と念をおすかのように、そして、すっぽりと頭から自分の羽織を被り、「縁の下に小鳥が一羽死んでいる故、明朝丁重に葬ってやってほしい」と、謎の言葉を残して、(中略)漸く東の空が白む頃、遂に閉ざされた眼は再び開かなかった。」



南方熊楠アルバム 02


南方熊楠アルバム 03




こちらもご参照ください:

中沢新一 『森のバロック』
『新潮日本文学アルバム 22 泉鏡花』 編集・評伝: 野口武彦
白洲正子 『明恵上人』 (講談社文芸文庫)
























































笠井清 『南方熊楠』 (人物叢書 新装版)

「この人には学校のような画一的な教育にはたえられない野性の自由奔放さがあり、その好悪のはげしい感情は世間並みな社会生活に安住していられないのであった。」
(笠井清 『南方熊楠』 より)


笠井清 
『南方熊楠』
 
人物叢書 新装版


吉川弘文館 
昭和42年9月25日 第1版第1刷発行
昭和60年9月1日 新装版第1刷発行
平成4年4月1日 新装版第6刷発行
369p 口絵(モノクロ)2p 
巻末折込地図1葉
四六判 並装 カバー
定価2,050円+税



本書「はしがき」より:

「筆者など浅学である上に、文学の研究に従事しているものなので南方伝など編む資格はないのであるが、筆者の叔父宮武省三(中略)が南方の民俗学上の高弟と称された人で、多年知遇をうけていたので、筆者も少年の日から南方を尊敬していたばかりでなく、長じて叔父を介して二度ほど交渉もあったので、その尊敬と興味とが、従来よりは正確な伝記を作り若い世代に贈ろうとの意欲を生ぜしめたのである。」
「〔新装版の刊行にあたって〕」
「本書は、(中略)重版に際して、第二刷において大幅な改稿を行ない、第三~五刷では約三百ヵ所におよぶ改訂修補をほどこした。
 このたび、新装版の刊行にあたっては、新知見により三十余ヵ所を改め得て、やや面目を新たにしたが、(中略)現代人の伝記もまた、正確を期することのいかに困難であるかを痛感している。」



口絵図版3点、本文中図版31点。


笠井清 南方熊楠


カバー裏文:

「生物学者・民俗学者南方熊楠は、和漢洋の学問を独学にて習得するとともに、その行動は奇行をもって知られる在野の英傑である。本書は豊富な資料を基に、南方を血の通った人間として、また日本のみならず世界の学問の水準を高めた学者としてとらえ、一代の行状を明らかにした。伝説化したその生涯を正し、真の南方熊楠伝の基礎をなす書である。」


目次:

はしがき (昭和42年7月/昭和60年7月)
一 家系と生いたち
二 小中学生時代
三 東京修学期
四 渡米前
五 在米時代
六 在英時代
七 帰朝直後と孫文来訪
八 田辺定住前後
九 神社合併反対運動
一〇 大正時代
一一 進献と進講
一二 業績の概要
一三 晩年と死後
略系図
略年譜
主要参考文献
南方熊楠関係和歌山県地図




◆本書より◆


「小中学生時代」より:

「その頃の乱暴ははげしかったらしく、
  小生十四歳の時に柔術をやり、人の膝関節に自分の前歯を打付けひびわれたまま帰宅、寒天にさらされたる歯にて熱き餅(もち)をかぢり、その場で歯折れおはり、それより左右へ弘(ひろ)まり、二十前後で上の前歯四枚を金で入れ申し候(『全集』巻八、三四〇ページ)。
というような有様だったから、父弥兵衛は、その「暴慢無礼をよく戒(いまし)め」ていた(宮武への書信)という。その狂暴なまでのはげしい性格を自制していたようで、柳田には、
  小生は元来はなはだしき疳積(かんしゃく)持ちにて狂人になる事を人々患(うれ)へたり。自分この事に気がつき、他人が病質を治せんとて種々遊戯に身を入るるもつまらず、宜(よろ)しく遊戯同様の面白き学問より始むべしと思ひ、博物標本を自ら集る事にかかれり、これは中々面白く又疳積など少しも起さば、解剖等微細の研究は一つも成らず、この方法にて疳積をおさふるになれて今日まで狂人に成らざりし(『全集』巻一〇、二七六ページ)。
とも報じている。」



「帰朝直後と孫文来訪」より:

「このように熊楠は一族から見限られ、ことに直接常楠の妻は被害者といえば被害者なので(中略)、何とかして自家から出て行ってもらいたかったらしく、それが女性らしい芸のこまかな薄遇となったことも推し測れるし、といって熊楠は普通のサラリーマンなどのできる人ではなく、またそれを欲しないのであるから、結局常楠の宅を出て(或は出されて)和歌浦愛宕山の円珠院に移ることになったのである。彼が、
  三三年十月帰郷、然るに拙弟常楠夫妻小生が家に在るを好まず、小生父母は小生留外中に死に果て、兄は破産して家なく、小生はゆき所なきより二月ばかり和歌浦愛宕山寺に僑居(きょうきょ)候(『全集』巻一二、二〇三ページ)。
としるしている通りで、この寺の住職貫忠和尚は蘭など好んだ趣味のひろい有徳の老僧で、熊楠とも話が合った。」



「田辺定住前後」より:

「後年熊楠は画家楠本龍仙にレオナルド=ダ=ヴィンチについて「あれは男と女子(おなご)の性をもつた偉傑だ」と語ったが、その時に楠本は「先生と相通ずる所がある様に思はれる」としるしているが、さすがに熊楠の身辺にあった人だけあって、よく観察していたと思う(熊楠が自らを語る場合、彼の言動は大むね壮大であり、その容貌も男性のたくましさに満ちているが、内心婦女子にも劣らぬほど恥ずかしがりやで弱気な一面もあったことは、その側近の人々のひとしく語るところである)。」


「田辺定住前後」より:

「松枝が嫁した時、熊楠にはシラミがわいていたといわれ、この随分変った夫には驚いたことと思われる。夫は家にあれば読書と執筆に専心し、又よく生物採集に出て何日も家へは帰って来ないし、やがて狂気のように神社合併反対の大運動に傾注しだすのである。(中略)妻はその飲酒にも大いに困らせられたことと思われる。そうして熊楠が柳田へ、「貴下小生を明治の一奇現象といはる。これは拙妻などよりも毎(つね)に聞く事なり」といっているように、妻も、夫の変り方の尋常でないことにあきれたこともあったであろう。」
「熊楠は自分の学問以外のことには横のものを縦にもしないような人なので、家事その他万事妻の手をわずらわさなければならず、(中略)随分我儘はおし通しながらも一面では恐妻家でもあったようである。」
「熊楠は激情家である上に自尊心が強く、ごきげんのむつかしい人ではあるが、元来正義漢である上に童心のある人なので(彼の友人の毛利清雅は碧梧桐に「彼は人からはこわがられてはいるが、その性質は獰猛(どうもう)でも疎悪でもない、無邪気な単純な子供のようなものだ」と語っている)。彼の好むものと嫌うものがよく分れば、その操縦は案外楽で、かしこい妻はやがてそれを心得たらしく、熊楠は妻に十分満足していたと見えて、その手紙中によく“拙妻”のことをしるし、それには深い愛情がこめられている。」



「大正時代」より:

「大正二年歳末には、柳田は親友の松本烝治(東大法学部教授)と田辺の熊楠の家を訪問している。まだ乗物の不自由な時代なので、黒江から人力車をやとって長途田辺まで会いに行ったというが、熊楠は「いずれこちらから伺(うかが)う」といって自宅では面会せずに、その夜柳田の旅館へ行き、その帳場で「初めての人に会うのはきまりが悪いから」といって酒を飲み、すっかり酔っぱらってから初対面している。この夜は学問上の話はできず、翌日柳田がひとりで別れの挨拶に行くと、熊楠はまだ寝ていて、「僕は酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出したって仕方がない。話さえできればいいだろう」といって掻巻(かいまき)の袖口をあけて、その奥から話をしたという(柳田の『故郷七十年』)。この変った応接には柳田も驚いたようであるが、熊楠にはこうした恥ずかしがりやの一面があり、初対面の人などは正視しないで、横を向いて応答していたという程であるから、多くの来客を面会謝絶した理由の一因にも、この性癖があずかっていたのかもしれない。」


「晩年と死後」より:

「その心身の衰えと疲れのためか、義姉の亡霊の幻影を見るような不思議な心理現象を生じており、この山田(引用者注:山田栄太郎)あての書信と、同一四年三月高野山の学僧水原堯栄へ送った書信によると、義姉の亡霊は何年にもわたって熊楠を悩ましていたことが分る。彼の父は向畑家から入婿に入り、母は西村氏の女なので、両親とも南方家の血統をひいた人ではなく、この夫婦には養育すべき南方家の娘(中略)があったのであるが、次にしるす山田あての書信にあるような事情で行方不明になっていたのである。
  その娘は継母たる小生らの生母との仲悪く、色々誘惑する者あつて、十六-七歳の時泉州へ脱走し、その頃ちよつと名ありし博徒(ばくと)の妾(めかけ)ごときものとなる。明治五年小生六歳の時、拙父おひ〱身上をもちあげ、和歌山目ぬきの寄合町に宅を求めて普請成り、引き移り候を聞き込み、その博徒が小生の姉をつれて乱妨(らんぼう)に来り、恐喝(きょうかつ)取財にかかりし所を、張り込み居たる捕亡吏(ほぼうり)(巡査)に捕はれ、禁獄され、その場にて姉はきびしくその博徒に打ちたたかれ、涙に沈むばかり嘆き居りし体が、今この状を認むる内に、この半切り紙の上に現はるるごとく覚え候。小生はちと鈍感な生れにて言語は六歳の頃迄発し難かりし故、何の事とも知らず、ただあきるるばかりなりしが、自然大体の事情は子守り奉公の輩(はい)らなどの話しよりほぼ知るにおよび候。その姉の成り行きは一向知るに由なきも、(略)小生の生母の伯父が警察に出頭して願ひさげ(注、博徒のこと)、以後決して難題を持ち込まぬといふ事を誓言せしめた上、手切れ金を遣はし、博徒はまた小生の姉をつれて泉州へ還り、さんざん玩弄(がんろう)された上、娼妓(しょうぎ)か何かに売り飛ばし、肺病位にかかりてはやくこの世を去つた事と存じ候。(略)そんな姉があつたといふ事は小生の外に知つた者なし。しかるに小生も死期が近くなりしにや、去年より毎夜〱その姉が小生の側(かたわ)らに現はるる。暦(こよみ)を閲(けみ)するに、六十五年間往生(おうじょう)せずに中有(ちゅうう)にさまよひ居るらしい(『全集』巻一二、三六三ページ)
 熊楠は上記のような一家の秘事を報じて後、多くの同腹の兄弟姉妹中、現在では自分と常楠のみしか生存していないのに、「この二人が異腹の兄弟にも見られぬ程中よからず。これ右の異種異腹の姉の寃魂(えんこん)の所為と考え候」ともしるしている。同一四年三月水原への書信には、
 小生只一度見たきりのその長姉が小生の眼に留まりしより既に六十七年を経る。六十年めになりし頃より、夜間この書斎に静座するに折々、その長姉が泣き居りし面影をありありと見る。(略)近年脚が快方にならば一度和歌山へ上るから、何とぞ同市迄御下向、右に申す異母姉の為めに、せめては戒名を付けやり下され度く候(『全集』巻一二、二六六ページ)。
と依頼している。上記で七年にわたって姉の亡霊に悩まされていることが分るが、その後のことは、記録したものを見ないので不明である。ただこの姉の亡霊かどうか知らぬが、最晩年になると離れの書斎でひとりでいると亡霊になやまされるといって、母屋(おもや)の方へ居(きょ)を移したとも伝えられている。」

「その夜いちじるしい病変が現われたので、文枝が「お医者さんをお呼びしましょうか」と問うと、彼は、
  もういい。この部屋の天井に美しい紫の花が咲いている。医者が来れば、この花が消えるから呼ばないでくれ。
と答えたそうで、この詩のような言葉(中略)を最後として深い眠りにおち入り、(中略)多事な七十五年の生涯を終った。」





こちらもご参照ください:

田中久夫 『明恵』 (人物叢書)
斎藤忠 『木内石亭』 (人物叢書 新装版)

























































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本