中沢新一 『東方的』

「ところが、粘菌の場合は、生命現象は、むしろかたちもさだかでない、ふるふると流動をつづけるマニホールド(多様体)のほうに、もっともいきいきとあらわれているのだ。」
(中沢新一 「高次元ミナカタ物質」 より)


中沢新一 
『東方的』


せりか書房
1991年3月26日 第1刷発行
1991年5月31日 第2刷発行
365p 図版(カラー)2葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,575円(本体2,500円)
奥村靫正



本文中図版(モノクロ)多数。
でてきたのでよんでみました。東方=四次元=マンダラ=霊の世界=脳であります。


中沢新一 東方的 01


帯文:

「地球をおおいつくそうとするひとつの世界システムに
「地方の論理」たちは 繊細なたたかいを挑む
閉ざされつつある世界に 新しい超空間への通路を開く
意識の人間宇宙船「ボストーク(東方)号」の打上げ」



目次:

はじめに

東方的 (「月刊アーガマ」、1990年、6・7月合併号)
四次元の花嫁 (『翻訳』〔現代哲学の冒険5〕、岩波書店、収載)
高次元ミナカタ物質 (「新潮」、1990年8月号)
脳とマンダラ――ポストモダン科学のチベットモデル (1990年10月5日法蔵館「仏教フォーラム」における講演。季刊「仏教」、1991年1月号)
エコソフィアとしてのシャーマニズム (「月刊アーガマ」、1989年11月号)
鋼鉄はいかにして造られたか (1990年11月11日、島根県飯石郡吉田村「鉄の歴史村」主催、第5回シンポジウム「人間と鉄」)
方言論 (「ユリイカ」、1988年10月号)
映像のエティック (1986年7月5日、国際文化会館における「民族文化映像研究所十周年記念の会」講演)
エピローグ――木のように、森のように (「中央公論文芸特集」、1990年冬季号)

この本のための小辞典
 アヴァンギャルド
 アポリネール
 イコン
 市川団十郎(初代)とその荒事
 インドラ神
 ウェルズ
 ウスペンスキー
 キュビスム
 グルジェフ
 コダーイ
 ゴンチャローヴァ
 シェーンベルク
 射影、射影幾何学
 シュプレマティズム
 ジョナス・メカス
 シンメトリー(対称性)
 スクリャービン
 スサノオ(須佐之男命)
 スラブ派
 ゾクチェン
 タタラ(鑪)
 ツィオルコフスキー
 ツラン主義
 粘菌
 バルトーク
 深沢七郎
 フレーブニコフ
 ベルクソン
 ポアンカレ
 マニホールド(多様体)
 マレーヴィチ
 ミンコフスキー
 ラリオーノフ
 ロシア・アヴァンギャルド
 ロシア正教
 ロンチェンバ




◆本書より◆


「はじめに」より:

「Boctok(ボストーク)――東の方。人間を乗せた最初の宇宙船の名前でもある。それを宇宙空間に打ち上げたのは、ソフィアの霊感だった。彼女はそのとき、人間の前に「超空間」への通路を開こうとしていたのだ。人間の意識とパワーがおよんでいく空間領域を拡張していくための、「開発(エクスプロイテーション)」ではない。そのような開発が、この惑星上ではほどなく意味を失ってしまうだろうということを、彼女は人間たちに告げたかったのだ。」
「地球は、ひとつの閉ざされた惑星的共同体につくりかえられつつある。しかもそこに蓄積されている富は、もうあまり豊かではない。新しい通路を開かなくてはならない。人間の意識の生きる空間をつくりかえなければならない。そのためにはソフィアの再来が必要だ。(中略)しかし、ソフィアはどこにいるのか。東洋に? オリエントに? それはたぶん不可能だ。なぜなら、もはや東方的なるものは、地理的な空間の中には存在していないし(中略)、地理的な東方の歴史の中で形成されてきたもの自体、内側から自分を食い破ってあらわれる新しい通路が実現されないかぎり、「東方的なもの」の可能性はそこで凍結されたままに終るかもしれないからである。手がかりは、「東方的」というヴェクトルだけだ。そのヴェクトルは、地理的空間のどこをも、歴史的現実のどれをも、さしていない。」



「東方的」より:

「ウスペンスキー(中略)はむしろ、この「第四次元」の思想は、因習的なエティックに縛られて、狭苦しい知覚の習性や様式をぬけだせないでいる人間たちの目からは、いつも「隠され」つづけてきた、人間の英知の伝統につながりがあるものだと、考えたのです。」


「高次元ミナカタ物質」より:

「若い南方熊楠は、自分のことを「金粟如来(きんぞくにょらい)」とよんでいた。金粟如来、すなわち仏典『維摩経』の主人公である維摩居士の、前世における名前である。維摩は、仏典のなかでは、彼の家へたずねてきた文殊菩薩(マンジュシュリー)と、自由奔放、天馬空をゆくような規模壮大、深遠無類な会話を楽しんでいる。しかし、彼がまだ金粟如来であったころ、彼には文殊のようにすぐれた話相手がいなかった。彼はさみしくてしようがかなった。自分の心が見ている、その素晴らしい世界の光景を人に語って、よろこびをわかちあうことができなかったからである。熊楠は、金粟如来と自称することで、自分もまた、彼の「脳力」がとらえている世界を、ともに語りあう相手がいない、となげいてみせているわけだ。」
「彼の「脳力」には、たしかに維摩を思わせるものがある。奔放な仏典のなかの維摩は、文殊と会話をかわしているときにも、しょっちゅうまわりの空間のトポロジーを変化させている。自分の居室を原子のような極微のなかにつめこんでしまったかと思うと、つぎの瞬間には、それを銀河系をいくつものみこんだような巨大宇宙にインフレーションさせてしまう。三次元空間のなかにきちんとおさまったインドのブルジョアジーのふりをしていたかと思うと、もうつぎにはそこを自由にぬけだして、高次元の多様体としてできている法界(ダルマダーツ)のなかに、泳ぎでてしまっている。
 熊楠の理想は、維摩のような人物になることだった。幽霊など、なんてことはない。それはごくあたりまえの、高次元的現象だ。幽霊にであって、きゃあきゃあ騒いでこわがるよりも、幽霊の教えるままに、異質の空間構造のなかにはいっていくことだ。そうして、維摩がおこなってみせたように、高次元性を獲得した「脳力」をもって、この世界を静かにみわたしてみることだ。そうすると、(中略)この世界の知覚構造やエティックにとじこめられていたときには、見えなかったことが、はっきりと見えるようになる。まず、ものごとのあいだにある複雑な因果の関係の、ほんとうのすがたが見えてくる。三次元の球体は、二次元世界の住人には円にしか見えない。球体の表面でおこっていることは、厚みのない平面に投射されてくるから、球体上ではごく単純な動きであったものが、平面ではすごくむずかしい動きにかえられてしまう。それと同じように、高次元世界のなかでは、すっきりとした因果の関係のなかでおこっていた現象も、それがこの世界との切断面にあらわれてくるときには、おたがいの関係がまるでつかめない、複雑なものにつくりかえられてしまうのだ。だから、ある現象の全体像をとらえるには、「脳力」をできるだけ、この世界の制約から解きはなって、より高次元の現実のなかで、いっそう上の因果をさがすように努力してみなければならない。

  (因果は断えず、大日は常住なり。心(引用者注: 「心」に傍点)に受けたるの早晩より時(引用者注: 「時」に傍点)を生ず。大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。人間の見様と全く反す。空間(引用者注: 「空間」の「空」に傍点)また然り。)故に、今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁(引用者注: 「縁」に傍点)が分からぬ。この縁(引用者注: 「縁」に傍点)を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。

 「人間の見様と全く反す、空間また然り」。熊楠はここで、世界のありさまが一変する、そういう高次元空間をとらえることのできる「脳力」をもって、因果よりもさらにいりくんだ縁を探究することこそ、仏教を生んだわれわれアジア人が、これからつくりだすべき学問である、と語っている。またそういう場所から、もういちど人間の世界の倫理だとか、死生観だとかをみつめなおしてみろ、とも彼は言っている。そのなかに住み慣れている空間でさえ、そうなのである。ましてや生命といわれているものにいたっては、そのほんとうのすがたは、ふつう人間がそこに認めているようなものとは、まったくちがったものなのかもしれないではないか。」
「粘菌は、地面に吐きつけられた痰のような、流動する変形体の状態と、固い殻をまとってそのなかから胞子をはきだす子実体の状態とのあいだを、サイクル状にいききする、おもしろい生き物だ。」
「変形体はどろどろ、べとべとした流動体だ。それにたいして、殻をつけた子実体のほうは、きちんとした三次元的形態をみにつけている。ふつうの場合だったら、「活物」といえばこの三次元物体のほうをさすことになるだろう。ところが、粘菌の場合は、生命現象は、むしろかたちもさだかでない、ふるふると流動をつづけるマニホールド(多様体)のほうに、もっともいきいきとあらわれているのだ。」



「脳とマンダラ」より:

「宇宙飛行の体験は、人間に左右も上下も前後の区別もない空間に、じっさいに足を踏み入れていく体験をあたえるだろう。そして、その体験は、地球の重力世界でかたちづくられてきた知識や感情や思考の方法などに、大きな変化をつくりだすことになるだろう。それは、人間の前に四次元の超空間を開いていくだろう。そして、その超空間を認識していこうとする努力の中から、人間の脳は新しい構造をもったものに脱皮していくことになるだろう。二〇世紀のはじめの頃の初期の宇宙飛行の思想家たちは、このように考えてはいましたが、彼らはそのとき、知らず知らずのうちに、宇宙への飛行と脳の潜在的な状態というものを、ひとつに結びつけて考えようとしていたのです。」


「エコソフィアとしてのシャーマニズム」より:

「シャーマニズムは、エコソフィアがどのような形になるかを予見させるための、重要なモデルを提供しているのでしょう。」
「シャーマニズムの知性は、自然に包まれて、自然のなかから立ちあらわれ、しかも自然のなかから発生しながら、自然を超えていくような知性の形態です。しかも、シャーマンはそれを、二〇世紀の芸術家や六〇年代の精神世界の若者たちがやったよりも、もっと日常的なごく普通の状態のなかで、それを行なおうとします。彼らはけっして無理をしません。シャーマン的知性にとっては中道をいくことこそが重要なのです。中庸がシャーマンのエチカです。彼らの行動はいままでエキセントリックな行為の象徴とされていましたが、あのエキセントリックな行為は、根源的な中庸にたどりつくために過渡的に必要とされるものなのです。ふつうに生きている世界のなかでは真の中庸が実現できないから、より根源的な中庸の世界にたどりつくために、過渡的な手段として、エキセントリックな行動が必要なのです。意識の破壊や、主体の解体のための行為や技術が必要になってくるわけです。」



「エピローグ」より:

「個別なものの価値にたいして、メカスはとても鋭い感覚をもっている。この世界にあらわれてくる、あらゆる出来事、あらゆる存在が、ほかの何ものにも還元できないような個別性に輝いていることを、いつも体験していられるような詩人の目を、メカスはそなえている。そういう目から見れば、世界に生まれてきているものを表現するのに、「普遍主義的」なやり方をとることはできないはずなのだ。ここにあるもの、あそこで起こったこと、それらすべてが個別的だ。それらをひとまとめにして、「世界」なんて言葉をつかうことさえできないだろう。でも、ひとつひとつは個別的だが、それらはすべて何ものかに所属していることは、まちがいない。その何ものかは、「世界」とか「社会」といった言葉で表現ができないものだ。」
「「私は“地方主義者”だ。それが私の本来の姿だ。私はつねにどこかに属している。どこか、干上がった、生命のひとかけらもない、死んだ石のような場所、だれ一人として住もうとは思わぬ場所に私を置き去りにしてみたまえ――私はその中に根を生やすだろう。スポンジのように。私には抽象的な国際主義は無用だ。それに将来のための足がかりをつくっておきもしない! 私には今とここしかない。」」
「ここで、彼が使っている「地方主義」という言葉は、じつに深い意味をもっている。彼は故郷であるリトアニアを離れて、遠くアメリカで生きている。しかし、彼はけっして抽象的なコスモポリタンでもないし、また自分の記憶の中の「地方性」に固執しつづける、民族主義者でもない。デラシネでさえない。」
「彼の「地方主義」は、地理的空間の中に、根をおろすのではない。奇妙な「地方主義」。しかし、ここに未来がある。メカスが根をおろし、植物のように成長をとげるあの空間は、意識をもった眼には、今も見ることができる。」



「この本のための小辞典」より:

「深沢七郎 (1914~1987)
 山梨県生まれの小説家。生来のバガボンド(放浪者)、ストリップ劇場のギター奏者をしながら書いた小説『楢山節考』(一九五六年)によって、衝撃的なデヴューをおこなう。いわゆる『風流夢譚』事件をきっかけにして、ふたたび放浪生活に入る。人生の無根拠、無価値を、恐ろしいほどの虚無の底から照らし出す作品を、書きつづけた。彼のことを「庶民派」などと呼ぶ人もいるが、本当のことをいうと、彼は庶民とか大衆なんてものを、少しも信じていない。この世における生にたいしても、いささかのこだわりも思い入れもない。彼はただめんどうなことが嫌いなだけだったのだが、そのデモーニックな性格が禍して、とんでもないめんどうを世の中にひきおこし、そのたびにみごとな無責任をつらぬきとおした。近代日本文学史のすべてを逆なでするような、まさに例外の作家であった。」





こちらもご参照ください:

中沢新一 『森のバロック』
『ラヴクラフト傑作集 1』 大西尹明 訳 (創元推理文庫)







































































































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中沢新一 『森のバロック』

「ホテルから一歩外へ出たとたん、そこに見た馬車につながれた馬の姿に心を打たれ、馬の首をいだいて、涙を流すニーチェ。ニーチェはこの瞬間から、狂気の淵に沈んでいくのだが、この狂気すれすれの優しさをもった人間だけが、存在の奥底にくりひろげられている残酷を見ることができる。熊楠には、その光景がありありと見えていた。」
(中沢新一 『森のバロック』 より)


中沢新一 
『森のバロック』


せりか書房
1992年10月6日 第1刷発行
1993年3月10日 第5刷発行
529p 口絵(モノクロ)1葉 
図版(カラー)8p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,399円(本体3,300円)
装丁: 奥村靫正



本書「後記」より:

「この仕事には、着想から完成までに、十年という時間を要した。(中略)十年目にしてようやくこの本が完成できた、直接のきっかけをつくってくれたのは、河出文庫版『南方熊楠コレクション』全五巻の仕事だった。(中略)そこで書かれた解説の文章の多くの部分が、本書の中にはとり入れられている。」


でてきたのでよんでみました。


中沢新一 森のバロック 01


目次:

はじめに

第一章 市民としての南方熊楠
第二章 南方マンダラ
第三章 燕石の神話論理
第四章 南方民俗学入門
第五章 粘菌とオートポイエーシス
第六章 森のバロック
第七章 浄のセクソロジー
第八章 ポリフォニーとマンダラ
結論 来たるべき自然哲学

補遺 1 ヘリオガバルス論理学
    2 書簡による南方学の創生
    3 Une sorte de Mozart tibétain


南方熊楠略年譜
後記



中沢新一 森のバロック 02



◆本書より◆


「市民としての南方熊楠」より:

「ここには個体とそれをこえるものとの、ダイナミックな結合が実現されている。熊楠という奇妙な名前をもつことで、この少年は自分の個別性、特殊性を、強く意識した。自分がかけがえのない固有の存在であることを、はっきり意識したのだ。だがそれと同時に、楠の木との神秘のつながりの意識は、個別性の壁を壊す働きもする。このとき、いまここにしかいない熊楠という固有の現象が、連続する大いなる創造力の流れの中に、合流していくのだ。自分は、宇宙にかけがえのない自分であると同時に、自分をこえた大いなるものの表現でもある――熊楠は、自分が味わっているこの名状しがたい感覚が、きわめて古代的で、普遍的な本質をもつものであることを、のちに知ることになる。それはトーテミズムの生命感覚であり、人類学がそれを彼に教えてくれた。」
「トーテミズムは、その気になれば、未開社会のいたるところに発見できた。そういう社会では、人々は人間が自然界で孤立した存在ではなく、動物、植物、鉱物、気象などがおりなす大きな連鎖の中に生きているものだ、と考えていたので、ことあるごとに、人間と自然との深い内的なつながりを、表現しようとしている。」
「人間は、文化をもつことで、自然との潜在的な敵対関係に入る。人間が森を切り開いて、そこに村をつくったり、火を焚いて料理をつくったりすることによって、自然領域の均衡には、決定的なカタストロフィーがもたらされる。そのことに、自然のスピリットは悪感情をいだいているのだ。ところが、トーテミズムを生きる人々は、少なくとも自分が所属するとされる動植物を傷つけないことによって、潜在的な暴力による自然との敵対関係を、回避することができるのである。人間は、自然を破壊したり、食べたりしなければ、生存できない。しかし、人間がなんらかのかたちのトーテミズムを実践しなかったとしたら、人間と自然は和解しようのない、全面的な不均衡と敵対に、耐えつづけなければならない。
 トーテミズムは、そのような敵対関係の全面化を阻止することを、目的のひとつとしているのだ。」
「トーテミズム哲学の世界には、私たちの世界のような、個体の概念はない。個体はプロセスとしてしか、存在しない。人間は人間であるばかりではなく、風や、水や、鉱物や植物や、動物の領域の諸強度がおりなす「束」として実現され、宇宙が変化していくように、変化をとげ、動いていく。」
「自然と人間の間に「不思議な絆」をつくりだすトーテミズムには、共通の生命哲学が潜在しているのを、認めることができる。それを宇宙的な生気論(vitalism)と呼ぼう。トーテミズムは、あらゆる生命形態はその個別性をこえて、ある共通の「なにか」をとおして、おたがいの間に絆をつくりだしている、と考えている。この「なにか」についての哲学を、彼らは発達させたのだ。」
「このトーテミズム哲学は、連続するものと非連続なものの矛盾を、のりこえようとしている。宇宙にあるすべてのものは、連続と非連続の二面をもっている。非連続にこだわると、そのものは宇宙の中で孤立する。連続にこだわりすぎると、多様性をとらえることができない。トーテミズムはこの二面を、流れと休止のダイナミズムによって、トータルにとらえようとしているのだ。」
「トーテミズムは、いたるところ、またあらゆる時代に、出現しうるのである。」
「トーテミズム的人間の、意識の内側を、想像してみることができる。社会の中で生きるとき、彼の意識はたしかに人間を生きている。しかし、彼は同時に、自分の存在が人間だけで構成された世界で完結していないことを、知っている。熊楠と名付けられた南方家の少年は、自分が「熊」として、動物の領域への通路を開かれ、また「楠」として、植物的生命の内面世界へのつながりをもっていることを、感じている。それと同じように、トーテミズムの主体は、自分の魂が、単一のフォルムの中にはおさまりきれない、重層性を内包していることを、知っているのだ。また、重層性でできたその魂は、いつも自分の内奥に、「創造的」な「流れる」ものの実在を、感知している。」
「つまり、トーテミズム的な人間の生は、単一、単層のフォルムに、とどまっていることはできないのだ。それは、多様体にむかってみずからを開き、「大いなる創造力の流れ」に触れながら、ひとつのフォルムが固定すると、すぐさまそこにヘテロな力が流入し、つぎつぎと別の形態への変態をおこしていく。彼は、生命の内奥でおこっている、宇宙的な変容のプロセスに触れている。こういう生命のあり方は、あきらかに近代市民社会の「外」にある。私たちにとって興味深いのは、このような変化する全体性をかかえ込んだ人間が、この近代の市民世界の中で、どのような人生を実現できるか、という問題だ。当然、彼はそこでは例外者だろう。だが、その市民の例外が、その世界でどのように自分を実現できるのか、その可能性を、私たちは南方熊楠の人生の中に、探りたいのだ。」
「熊楠の人生は、大きく分けると、三つの位相でできている。この三つの位相は、あざやかな対照をしめし、そのどれもが彼の魂の可能態の、実現となっている。まず熊楠は、空間を放浪した。つぎに彼は、空間の中での移動の動きを止め、不動点で沈潜した。そして最後に彼は、市民世界の中で絶対的な運動をつづける「マンダラの主体」として、完成をとげた。この三つの位相は、トーテミズムの変化する全体性をかかえた魂が、この世界の中でおこなうことのできる、三つのタイプの実現をしめしている。(中略)例外者の人生の、ひとつの可能性の全域が、熊楠によって踏破されたのである。」

「徹底した学校嫌いである。だが、熊楠はとてつもない学問好きでもあった。学問と学校とは、熊楠の中では、絶対に両立しない対立項なのだ。学問は、熊楠のようなマンダラ的(中略)で、トーテミズム的な精神に、すばらしい快楽をあたえてくれるものだった。ほんものの学問は、常識(ドクサ)への疑いから出発している。世間で正しいこと、正しくないことと評価されている価値に疑いをもち、常識によっては見えなかった現実を、新しい概念を創造することによって、見えるものにし、常識の枠を事実の発見によって、打ち破っていく精神のみが、真実の学問をつくる。だから、本質上、学問とは力をもたないものなのだ。学問にできることは、ほんらい「諸力にたいして、ゲリラ戦を展開する」ことでしかない。常識の知性が、「大いなる創造力の流れ」である宇宙的なるものにたいして築いた、さまざまな砦にむかって、学問は機略をつくしたゲリラ戦をおこない、砦のそこここに改修不能な損傷をあたえ、宇宙的な力が、砦の内部の住民たちのもとにまで浸透していける状態をつくりだそうとしてきた。熊楠は、そういう学問を心から愛した。
 ところが、学校は違う。近代のすべての学校は、国家に属している。そこでは、力と知が一体になっている。国家的な力を背景にした、知識の伝達と訓練によって、若い精神を一定のフォルムに塑型していくことが、学校の教育の第一目的だった。授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振舞いをすることによって、教師の満足を得なければ、いい生徒にはなれない。ここでは、知識は自由をもたらさない。学校での知識は、むしろ支配や優越のための道具にすりかえられてしまう危険を、たえずはらんでいる。明治の日本は、知識と国家の力が一体である状態を、教育につくりだそうとしていた。学問好きの熊楠は、そのような教育を、徹底して嫌った。熊楠は学校を捨てる。ここから、彼の人生がはじまったのである。」



「燕石の神話論理」より:

「他者は内部にある。他者は自分自身ではないか。未開人は、まさに内奥の自分なのだ。」


「南方民俗学入門」より:

「犠牲に捧げられているのは、私なのだ。犠牲の殺害者も、私だ。そしてその犠牲を要求する水の神もまた、私なのだ。
 残酷の民俗学――アントナン・アルトーの演劇にならって、私たちも、南方熊楠の学問を、そう呼ぶことにしよう。ホテルから一歩外へ出たとたん、そこに見た馬車につながれた馬の姿に心を打たれ、馬の首をいだいて、涙を流すニーチェ。ニーチェはこの瞬間から、狂気の淵に沈んでいくのだが、この狂気すれすれの優しさをもった人間だけが、存在の奥底にくりひろげられている残酷を見ることができる。熊楠には、その光景がありありと見えていた。だが、世の中には、別種の残酷が存在する。知的冷酷を生むその残酷は、熊楠やニーチェやアルトーが見ている、生命と存在の奥底における残酷の真実などは見えない、聞こえない、と語って、さっさと先に行ってしまうのだ。」



「粘菌とオートポイエーシス」より:

「西と東の「壁」を崩壊させて、世界を一元化していくことが、豊かな未来を開く道なのではない。それよりも重要なのは、いたるところにたくさんの蝶番を発見し、異質なもの同士が、自分の独自性を保ったまま、おたがいの間に真の対話がつくりだされていくことだ。私たちは、ここで、そういう熊楠の思想に忠実に、マンダラの可能性を開くという作業をはじめてみようと思うのだ。」


「森のバロック」より:

「神々が森に住んでいるのではなく、森そのものが神だったのである。森は原神道にとっては、神聖なるカオスとして、神が生まれるトポスだった。」
「森の中で、あらゆる生命は、自己の欲望にすなおに生きている。生命たちの、自然で自発性にあふれた活動に手を加えたり、切り整えたり、抑えたり、統制を加えたりする外からの力は、自然の森の中にはいっさいおよんでいない。局所的な闘いは、いろいろなところで発生している。ところが、それはめったなことでは破局にいたらない。ここでは、ひとつひとつの生命が、自己にすなおでありながら、おたがいの間にすがすがしい倫理の関係が築かれているように、感じられるのだ。私たちはそれを、オートポイエーシス・システムがみずからの全体秩序を、自己組織的につくりだしてきているからだ、と表現することもできるし、あるいはまた、自然森はマンダラのトポロジーを母型(マトリックス)として、つくりだされているので、この神聖なカオス(カオスモス?)の全域にわたって、ある深遠なるロゴスが貫かれているからだ、と語ることもできるだろう。」



「浄のセクソロジー」より:

「「ゲイ」という言葉を、存在の隠喩としてとらえてみよう。フーコーはこの言葉で、生成の過程にある生の様式、単一の生のあり方に縛られることのない、自由な主体化のプロセス、などを表現しようとしていた。このような意味に理解するとき、「ゲイ」は創造的な変換力をもった隠喩に変貌する。性の領域だけに、この言葉の適用範囲は限られなくなる。それによって、生のあらゆる領域でおこっている、一群の不可解な現象を、概念化してとらえることが可能になる。」
「それによると、たとえば粘菌は生命体のゲイである。粘菌は植物か動物か、生か死かの二元論を前にして、不可逆の進化が生命に押しつけてくる、幅の狭い生の様式の受け入れを拒否しているように見える。
 粘菌はほかのどの生物とも似ていない、ユニークな生の様式を選びとってきたのだ。粘菌の生態を観察していると、生か死かの境界がはっきりしなくなる。この生物は、生でもなく死でもない、生存の第三領域で活動しているように、思えるのである。(中略)たしかにこの生物は、生命は別の様式、例外的な様式によっても可能だということを立証してみせている。その意味で、粘菌はゲイである。
 生物学者としての熊楠は、生命のあらゆる領域に、そのようなゲイ的生存の様式の実践者を探究していた。そのために、セクソロジーの領域でも、彼はたんなる同性愛に関心をもったのではなく、生存の様式を変えるオペレーターとしての可能性を、同性愛の中にみいだそうとしていたのである。」





こちらもご参照ください:

中沢新一 『東方的』







































































『南方熊楠全集 別巻第二 日記・年譜・著述目録・総索引』

「それより余又のみ、ハムかい帰り、へど吐き臥す。」
(南方熊楠 「ロンドン日記」 より)


『南方熊楠全集 別巻第二 
日記・年譜・著述目録・総索引』

監修: 岩村忍/入矢義高/岡本清造
校訂: 飯倉照平

平凡社 昭和50年8月30日初版第1刷発行
288p+235p v 口絵(モノクロ)4p
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価3,800円
装幀: 原弘

月報 12(8p):
追想(岡本文枝)/「ロンドン日記」について(岩村忍)/校訂をおわって(飯倉照平)/多屋たか宛葉書解読(編集部)/書簡解題追補/訂正/南方熊楠全集正誤



本書「凡例」より:

「本全集は、南方熊楠が公表した論考、随筆、英文著述、ならびに未公表の論考、手稿類などを集大成することを期した。」
「国内で、著書として、あるいは雑誌に発表された文章は、内容がはなはだしく重複する一、二の例外を除き、すべて収録する。また新聞に掲載された文章も、主要なものは収録する。」
「外国の刊行物に発表された英文著述および未公表の英文論考は原文で収録する。」
「書簡は、学術的および伝記的に重要な内容をもつものを、入手しうる限り、完全な形で収録する。」
「その他、未公表の論考、手稿類、日記の一部、年譜、著述目録索引を付載する。」
「表記は原則として「現代かなづかい」に改め、送りがなも(中略)読解の便をはかって付加し、大部分の接続詞、副詞、助詞なども、漢字をかな書きに改めた。」
「漢字は、当用漢字、同補正案、人名用別表にある字体は、これを使用し、また一部の俗字、同字などで現在常用されないものは、通用のものに改めた。」
「引用文は、(中略)可能な限り原典と照合、校訂した。また漢文の引用文は「読み下し文」に改め(中略)た。読み下しには飯倉照平が当たり、(中略)入矢義高が校閲した。」

「本書(別巻第二)は、ロンドン日記・論考補遺のほか、年譜・著述目録・総索引(付 収録著述索引)を収録する。」
「総索引、著述目録ならびに論考補遺中の英文のページは、横組、左開きとした。」



目次:

凡例

ロンドン日記

論考補遺
 英国滞在中の徳川頼倫侯
 小篇
  鉄という名の古意
  自ら鳴る鐘
  箱根の幽霊屋
  ちかぼし
  童話桃太郎
  「むすび考」補
 The Traces of Cannibalism in the Japanese Records
 
年譜

総索引
 収録著述索引

著述目録




◆本書より◆


「ロンドン日記」より:

「新規という字を書写すに、不思(おもわず)親規とかく。」

「今日より以後決して茶を不用。」

「明日より厳に茶を止む。」

「今日より厳に厳に茶を飲むことを禁ず。」

「茶を不可飲。」

「茶二度のむ。」

「ライブニッツの如くなるべし。」

「ゲスネルの如くなるべし。」

「フェンチャール街よりカノン街に至る途上、女の嘲弄するにあい、予乱暴し、巡査四人来り最寄警署に拘さる。又乱暴数回。夜二時に至りかえる(巡査予の為に閉口す)。」

「夜、ハイドパークにて無神論演舌をきく。」

「午下、博物館にあり、ハイドパーク演舌家一人握手に来る。夕、ハイドパークに之き、其人の演説きく。一寸話しかえる。」

「歩してケンシングトン園に至り、五人斗りと打合い、帽砕かれ傘おられ鼻血出てかえる。」

「(朝、羽山蕃とやる夢を初て見る。)」

「午後、博物館書籍室に入りさま毛唐人一人ぶちのめす。これは積年予に軽侮を加しやつ也。」

「予ウェーターを叱り付、一同大あきれ。」

「近頃家に宿なしの猫来る。老婆及予、余食を与う。一昨日頃より家に宿せしめしに、昨夜近処の牡猫三疋よびに来り大にさわぎ、宿の悴眠られざりし由。」

「博物館に之。
帰途、ハイドパークにて演舌きく。ロシヤ人演舌、国状を述べ泣くに至る。又、別に耶蘇教演舌を無神論者打ち争闘。又、大酩酊のもの唄いおどけ演舌。巡査来り去しむ。帰れば十二時半。」

「此日、猫三疋見る。一はワラムグリーン停車場近処の酒屋のもの、(中略)二は博物館、これは往来の人を観ることを楽む。三はテンプラ屋の猫、甚大にして常に店に座す。」

「夕、パークにて演舌きく。ペック不相変(あいかわらず)滑稽、去る時鼻ごえの男に鼻声にて返事し、一同大笑い。」

「夜、帰途、レドクリフ辺の酒屋にて酒のみしに、dirty とよばる。盃打つけやらんと思しが、忍び帰る。」

「美術館に之。館の入口に十四才と十二才斗りの唖児、手まねにて咄しする見る。」

「クインス・ロードの酒店に、去年チェルセア・ステーション辺の酒店にありし女、羽山繁太郎によく似たるもの、予の声をきき知り声かくる。」

「近地の子供五才なるもの、川におちいり、去る金曜日死す。昨日葬式。」

「それよりハイドパークに歩、池に群児泳ぐを見る。女二人来り見、児共に詈(ののし)らる。」

「朝、早起。九時前、門辺へ楽人(女三人、男児二人)来り、ルート及鼓弓(こきゅう)ひく。内女一人、甚美人にて美声也。独逸人なりと。」

「帰途、彼酒店にてのむ。羽山に似たる別嬪来り、手握んとす。予不答、別嬪怒り去る。」

「タバコかいに行んとするに銭なく、ストーヴの隅より拾い、屑をのむ。」


































































































『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』

「小生等小児のとき子守どもが小児に教えたる「ちんわん猫にゃんちう、金魚に放し亀牛もうもう」という唄あり。これを一つ注釈してその出処来歴を弁明しても厚き一冊が出来るなり。」
(南方熊楠 「山田栄太郎宛書簡」 より)


『南方熊楠全集 別巻第一 
書簡補遺・論考補遺』

監修: 岩村忍/入矢義高/岡本清造
校訂: 飯倉照平

平凡社 昭和49年3月12日初版第1刷発行
627p+28p viii 口絵(モノクロ)4p
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価3,500円
装幀: 原弘

月報 11(8p):
南方と柳田(宮田登)/安藤蜜柑について(太田耕二郎)/大いなる科学者(清水崑)/南方熊楠先生追想記(七)(雑賀貞次郎)/編集部より



本書「凡例」より:

「本全集は、南方熊楠が公表した論考、随筆、英文著述、ならびに未公表の論考、手稿類などを集大成することを期した。」
「国内で、著書として、あるいは雑誌に発表された文章は、内容がはなはだしく重複する一、二の例外を除き、すべて収録する。また新聞に掲載された文章も、主要なものは収録する。」
「外国の刊行物に発表された英文著述および未公表の英文論考は原文で収録する。」
「書簡は、学術的および伝記的に重要な内容をもつものを、入手しうる限り、完全な形で収録する。」
「その他、未公表の論考、手稿類、日記の一部、年譜、著述目録索引を付載する。」
「表記は原則として「現代かなづかい」に改め、送りがなも(中略)読解の便をはかって付加し、大部分の接続詞、副詞、助詞なども、漢字をかな書きに改めた。」
「漢字は、当用漢字、同補正案、人名用別表にある字体は、これを使用し、また一部の俗字、同字などで現在常用されないものは、通用のものに改めた。」
「引用文は、(中略)可能な限り原典と照合、校訂した。また漢文の引用文は「読み下し文」に改め(中略)た。読み下しには飯倉照平が当たり、(中略)入矢義高が校閲した。」

「本書(別巻第一)は、第一巻から第十巻に至る全集本巻に収録できなかった書簡および論考を(中略)補遺として収録した。」



目次:

凡例

書簡補遺
 上松蓊宛書簡
  大正三年―十五年
  昭和二年―十六年
 山田栄太郎宛書簡
 山田信恵宛書簡
 羽山芳樹宛書簡
 雑賀貞次郎宛書簡
 須川寛得宛書簡
 宇井縫蔵宛書簡
 中井秀弥宛書簡
 多屋謙吉宛書簡
 和中金助宛書簡
 喜多幅武三郎宛書簡
 田中敬忠宛書簡
 西面欽一郎宛書簡
 西面賢輔・松本勝宛書簡
 楠本秀男宛書簡
 中瀬三児宛書簡
 大江喜一郎宛書簡
 前川正司宛書簡
 田所四郎宛書簡
 藤岡長和宛書簡
 森口奈良吉宛書簡
 西川瀁宛書簡
 三田村玄竜宛書簡
 宮武外骨宛書簡
 中山太郎宛書簡
 岡茂雄宛書簡
 岡田桑三宛書簡

論考補遺
 鳥を食うて王になった話
 「孕石」の訳語について
 本草会

書簡解題

THE ORIGIN OF THE SWALLOW-STONE MYTH

英文『燕石考』について (岩村忍)




◆本書より◆


「The Origin of the Swallow-Stone Myth」より:

「Thus far I have pursued this very intricate myth of the swallow-stone to its varied and interwoven causes. Now, it seems to me, that even in these days when the growth of causes is fully recognised as essentially to have influenced the growth of every institutional feature of mankind, however trifling, there are not a few students of mythology, who persist upon assigning to every myth they meet with an isolated fact or fancy as its sole monopolizing origin. But in its deed, the myth only vies with the dream in its causes, often too multifarious and too complicated for entitling us to disentangle whatever antecedent from what were super-added to them later on; whilst some of these causes have acted and reacted repeatedly upon one another as a cause and effect; and the others now have entirely lost visible traces in their combined resultant.」



◆感想文◆

「The Origin of the Swallow-Stone Myth」は岩村忍監修ということで、同氏による解説「英文『燕石考』について」が付されていますが、その結語として、

「驚くべき記憶力と明晰な頭脳をもつ南方がこの論考の末尾にギリシアの哲学者に対して忠告した老婆のつぎのことばを引用しているのは、南方自身が知識と学問の限界を何よりもよく知っていたということを示すものではなかろうか。
 「地上の伝承を相当に(いくらかでも)直接的に結びつけうる原因は見出されるが、わたくしたちはその間接的で模糊とした起源は、遠い遠い天上に求めなければなりません。」」

と書かれているのは、いちじるしく違和感があります。南方の原文は、

「Lastly, to those explainers of the myth who claim to have traced its origin in certain astronomical or meteorological phenomenon, I would, as an old woman's advice to a Grecian philosophor, like to ask, "While there exist so (comparatively) directly traceable causes of the myth on the earth, must we seek for its indirect and vague origin in the very remote heavens?"」

なので、「神話の直接的な原因が地上に存在するのに、間接的な起源を遠い天上に求める必要があるだろうか」です。
南方はこの論文を「アストロノミカル・ミソロジスト」(神話を天文現象と結びつけて解釈する神話学者)を嘲弄するために書いたと土宜法竜宛書簡にあります。
これは、監修者が当時直面していたであろう自身の「知識と学問の限界」を安易に対象に投影してしまったゆえの誤りであろうと思われます。のちに刊行された平凡社版『南方熊楠選集』には岩村氏による「燕石考」の日本語訳が収録されているようですが(未見)、そちらでは訂正されているのではないでしょうか。
空ばかり見上げていて井戸に落ちてしまい、老婆に「足もとのこともわからない人に天上のことがわかるのかしら」と忠告、というか嘲弄されてしまったギリシアの哲学者はタレスです。
























































































『南方熊楠全集 第十巻 英訳方丈記・英文論考・初期文集 他』

「The great man grows avaricious, the solitary man is disliked by the world.」
(南方熊楠訳 「HOJOKI」 より)


『南方熊楠全集 第十巻 
英訳方丈記・英文論考・初期文集 他』

監修: 岩村忍/入矢義高/岡本清造
校訂: 飯倉照平

平凡社 昭和48年11月12日初版第1刷発行
139p+424p vii 口絵(モノクロ)4p
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価2,800円
装幀: 原弘

月報 10(8p):
南方熊楠翁の菌類図譜について(小林義雄)/『信貴山縁起絵巻』と南方熊楠(杉山二郎)/南方熊楠先生追想記(六)(雑賀貞次郎)/英文・和文論考対照表



本書「凡例」より:

「本全集は、南方熊楠が公表した論考、随筆、英文著述、ならびに未公表の論考、手稿類などを集大成することを期した。」
「国内で、著書として、あるいは雑誌に発表された文章は、内容がはなはだしく重複する一、二の例外を除き、すべて収録する。また新聞に掲載された文章も、主要なものは収録する。」
「外国の刊行物に発表された英文著述および未公表の英文論考は原文で収録する。」
「書簡は、学術的および伝記的に重要な内容をもつものを、入手しうる限り、完全な形で収録する。」
「その他、未公表の論考、手稿類、日記の一部、年譜、著述目録索引を付載する。」
「表記は原則として「現代かなづかい」に改め、送りがなも(中略)読解の便をはかって付加し、大部分の接続詞、副詞、助詞なども、漢字をかな書きに改めた。」
「漢字は、当用漢字、同補正案、人名用別表にある字体は、これを使用し、また一部の俗字、同字などで現在常用されないものは、通用のものに改めた。」
「引用文は、(中略)可能な限り原典と照合、校訂した。また漢文の引用文は「読み下し文」に改め(中略)た。読み下しには飯倉照平が当たり、(中略)入矢義高が校閲した。」

「本書(第十巻)は、初期文集・上京日記・神島の調査報告・鷲石考のほか、英訳方丈記・英文論考を収録する。」
「当初収録を予定していた未刊稿“The Origin of the Swallow-Stone Myth”(いわゆる「燕石考」)は、(中略)別巻第一に譲ることにした。」
「なお、これらの英文関係のページは、横組、左開きとした。」



目次:

凡例

初期文集
 作文三題
  祝文
  火ヲ慎ム文
  教育ヲ主トスル文
江島記行
日光山記行
日高郡記行
明治十九年十月二十三日松寿亭送別会上演説草稿
上京日記
神島の調査報告
鷲石考

英文論考/Works in English by Kumagusu Minakata 1893-1933
 A Japanese Thoreau of the Twelfth Century (HOJOKI) 1905
 Nature 1893-1914
  The Constellations of the Far East
  Early Chinese Observations on Colour Adaptations
  Some Oriental Beliefs about Bees and Wasps
  The Earliest Mention of Dietyophora
  An Intelligence of the Frog
  On Chinese Beliefs about the North
  Chinese Beliefs about Caves
  The Antiquity of the "Finger-Print" Method
  "Finger-Print" Method
  Chinese Theories of the Origin of Amber
  Hesper and Phosphor
  The Mandrake
  The Invention of the Net
  The Story of the "Wandering Jew"
  The Antiquity of the "Finger-Print" Method
  Remarkable Sounds
  Remarkable Sounds
  Remarkable Sounds
  Remarkable Sounds
  The Mandrake
  Marriage of the Dead
  On Augury from Combat of Shell-fish
  The Centipede-Whale
  Acquired Immunity from Insect Stings
  The Mandrake
  Oat Smut as an Artist's Pigment
  Notes on the Bugonia-Superstitions - The Occurrence of Eristalis Tenax in India
  The Centipede-Whale
  The Invention of the Gimbal
  Plague in China
  The Natural Prey of the Lion
  Walrus
  Indian Corn
  Crab Ravages in China
  Indian Corn
  Illogicality concerning Ghosts
  Artificial Deformations of Heads, and Some Customs connected with Polyandry
  Pithophora Oedogonia
  Distribution of Pithophora
  The Discovery of Japan
  Distribution of Calostoma
  The Earliest Mention of Hydrodictyon
  Early Chinese Description of the Leaf-Insects
  Polypus Vinegar - Sea-blubber Arrack
  An Alga growing on Fish
  Baskets used in Repelling Demons
  Colours of Plasmodia of Some Mycetozoa
  A Singular Mammal called "Orocoma"
  Colours of Plasmodia of Some Mycetozoa
  Trepanning among Ancient Peoples
 Notes and Queries 1899-1933
 Vragen en Mededeelingen 1910
 Title Index

南方熊楠の英文著作 (岩村忍)
英文著作解題




◆本書より◆


「HOJOKI」より:

「Of the flowing river the flood ever changeth, on the still pool the foam gathering, vanishing, stayeth not. Such too is the lot of men and of the dwellings of men in this world of ours. Within City-Royal, paved as it were with precious stones, the mansions and houses of high and low, rivalling in length of beam and height of tiled roof, seem builded to last for ever, yet if you search few indeed are those that can boast of their antiquity. One year a house is burnt down, the next it is rebuilded, a lordly mansion falls into ruin, and a mere cottage replaces it. The fate of the occupants is like that of their abodes. Where they lived folk are still numerous, but out of any twenty or thirty you may have known scarce two or three survive. Death in the morning, birth in the evening. Such is man's life - a fleck of foam on the surface of the pool. Man is born and dieth; whence cometh he, whither goeth he? For whose sake do we endure, whence do we draw pleasure? Dweller and dwelling are rivals in impermanence, both are fleeting as the dewdrop that hangs on the petals of the morning-glory. If the dew vanish the flower may stay, but only to wither under the day's sun; the petal may fade while the dew delayeth, but only to perish ere evening.」








































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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