Th・W・アドルノ 『アルバン・ベルク』 平野嘉彦 訳 (叢書・ウニベルシタス)

「彼は、つねに放心しつつ生きることをのぞんだのである。」
(アドルノ 『アルバン・ベルク』 より)


テーオドール・W・アドルノ 
『アルバン・ベルク
― 極微なる移行の巨匠』 
平野嘉彦 訳

叢書・ウニベルシタス 125

法政大学出版局 
1983年10月20日 初版第1刷発行
1993年8月30日 初版第3刷発行
iv 277p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,987円(本体2,900円)



Theodor W. Adorno: Berg. Der Meister des kleinsten Ubergangs, 1968
本文中「譜例」34点。


アドルノ アルバンベルク 01


目次:

序言

音調
回想
作品
 楽曲分析とベルク
 『ピアノ・ソナタ』
 『ヘッベルとモンベルトの詩による歌曲』
 『初期の七つの歌曲』
 『弦楽四重奏曲第一番』
 『アルテンベルク歌曲集』
 『クラリネット小品集』
 『管弦楽小品集』
 『ヴォツェック』の性格規定のために
 『室内協奏曲』のためのエピレゴメナ
 『抒情組曲』
 演奏会用アリア『酒』
 『ルル』覚え書

作品目録
本文解題

訳者あとがき



アドルノ アルバンベルク 02



◆本書より◆


「音調」より:

「彼の音楽は、本来けっして主題を設定しないように、そもそも自己自身を措定するということがないのである。いかなる種類の我執も、そこには無縁である。エネルギーも能動性も、ベルクにあっては、形成の過程のなかに解消されてしまっている。その結果生じるのは、受身のままに従容として流れおちていく何ものかである。それは、けっして鏡に映るおのが姿にみとれることもなく、鷹揚の身振りをもってはいるが、ベルクの人柄に根ざしているこの身振りは、自己消滅の瞬間を即自己実現の瞬間として祝うヴァーグナー流の忘我の、かつてほとんど達しえなかったところのものであった。ヴァーグナーにとっては、無意識はつねにこのうえない悦楽でありつづけるのに比して、ベルクの音楽は、おそらくは我を執することなきもののみが破滅を免れうるという暗黙の希望をいだきつつ、自己自身を、そしてそこで語りつつある主体をも、みずから空疎のゆえをもって放下するのである。ベルクを過去の伝統と併せ考えるとしても、比較すべきは、ヴァーグナーよりもむしろシューマンであろう。かの『幻想曲ハ長調』が最後に広大無辺の彼方にあふれでていきながら、さりとておのれ自身を解脱したものとして聖化するわけでもなく、それどころかわが身に思いをいたすことすらない、それは、ベルクの音調の内奥の秘密を先取するものである。もとよりそうした親和力によって、彼は、音楽史において健全と称するところの、曰く生への意志、肯定の姿勢、幾たびもくりかえすあるがままの讃美、そうしたことどもにきびしく対立する。俗見さながら世におこなわれる音楽的判断基準に巣食っている、度しがたい、この健全さなる概念は、実は画一主義と共謀している。健全さは、生存競争において強者たることを誇示しうる者、すなわち勝者となれあっているのである。ベルクは、晩年のシューベルトやシューマンや、そしておそらくは、その音楽において逃亡兵の側に身を投じるマーラーの先例にならって、そうした協定の破棄を通告する。手ずからこころをこめて辛抱強くとぎすまされたその音楽が、縁なき衆生には、シェーンベルクほどの切れ味の鋭さをみせることがないのは事実であるとしても、その分ラディカルかつ衝撃的であるのは、ベルクなりの人間性の象徴たる弱者、敗者にたいする、その執着ぶりである。当代のいずれの音楽をとってみても、彼の音楽ほどに人間的なものはなかった。そして、それこそが、人間どもからベルクの音楽を遠ざける所以なのである。」


「回想」より:

「自己にむけられたイロニーと、彼の作品のなかで忍耐強い自己批判としてあれほどまでに並はずれてゆたかな成果を生んだ、かの懐疑とは、彼の自恃をまえにしても、とどまるところを知らなかった。彼は、あるとき、笑いながら私にこういったことがある、「作曲しているときには、私は、いつもベートーヴェンになったような気分でいるのだが、あとになってからようやく、自分がたかだかビゼーにすぎないことに気がつくのだ」と。自身の物事にたいしてさえむけられる彼の不信のなかには、人疎しさならぬ我疎しさともいうべき何ものかが感じられた。ベルクは、白昼夢に耽る者のなかなかに醒めやらぬ目付きでみあげては、太古的なまでに大きな仕草で、立居するのであった。」
「彼は、何事にも徹底的に反応した。彼の穏和さは、一瞬たりとも、既存のものと妥協することはなかった。この孤独者は、突如としてあらゆる偽りの平和を破壊しかねなかった。」
「彼は、つねに放心しつつ生きることをのぞんだのである。」
「彼は、多くをのぞみはしたが、何も期待してはいなかった。」

「過ぎ去りしものへの、父祖の世界への、彼の奇妙な偏執、そしてまた、おそらくは不安にまで昂じていくシェーンベルクへの従属」
「自分の病気の心理的要因をさえ、彼は洒落のめしていた。微恙のおかげで、彼は、手厚く看護される病人にのみ許される、しばしば至福にみちた幼児の世界にたちかえることができた。総じていえば、彼は、いくらかのめりこむように、病むことに固有の多幸症的な特性を享受していた。神経症的な症状は、表にあらわれるものもすくなくなかった。たとえば彼は、鉄道コンプレックスに悩んでいた。彼は、列車に遅れまいとして、原則として早目に、ときには数時間も早く、姿をあらわすのであった。あるときには、彼自身語るところによれば、発車時刻の三時間まえにそこに着いてしまって、それでいてなお列車に乗り遅れる始末であった。」

「彼には、ただ偉大な芸術家たちにのみ許されるような何かが与えられていた、すなわち下界にあって、いまだまったき形をなさぬ有象無象が至高の存在へと変容する、そうしたある領域に参入する資格であり、それは、もっとも遠くはバルザックに比すべきものがある。ベルクは、バルザックに、とくに『ヤコブの梯子』に痕跡をとどめているシェーンベルクの神智学の主たる典拠のひとつである『セラフィタ』に、強くひきつけられていた。」

「はたしてベルクは、およそピアノの名手などではなかった。むしろ、当然のことでもあろうが、楽器の熟練にたよるようなあらゆる作曲にたいして、不信感をいだいてもいた。」

「彼は、バルトークにたいしては、おおいに敬意をはらいつつ、その『弦楽四重奏曲第四番』に『抒情組曲』の影響を認めて、それを誇りに思っていることを隠さなかった。ただすこしばかり彼を傷つけたのは、ときおりウィーンへ足をむけるバルトークが、けっして彼のもとへも、あるいはまた他のシェーンベルク楽派の誰彼のところへも、姿をあらわさなかったということであった。しかし、両者の気質、ベルクの都雅とこのハンガリー人の一徹なまでの無愛想とは、およそ相容れないものであった。」

「ベルクの外的な生活は、困窮とたたかいつつ辛うじてたちゆく生活であり、つねにその影を背負っていた。ヘレーネ・ベルクが彼のためにつくしたあらゆる努力のうちで、さまざまな労苦を、とにもかくにもそれがめだたぬように克服しえたことは、やはり大きかった。二人がひそかにどれほどの不如意を忍んでいたのか、彼らの生活をとりまく周囲の人たちにとっては屈辱でしかないような心配事に、どれほどの時間を費やしたか、それは、おそらく二人の自尊心のみが語りうることであろう。しかし、個人にとっては、貧富とは、即無条件に事実上の経済状態と一致するわけでもなく、市民社会の内部では、たしかにそれは別物であった。私は、たとえば高名な大学教授や放送局のディレクターで、高禄を食みながら、どこか貧乏くささから抜けきれない、そうした人たちを知っていた。逆に、その日暮らしのくせして、貧しいという印象をけっして与えない人たちもいる。そのひとりがベルクであった。その雰囲気は、文字どおりどこか王侯貴族的なものをただよわせていた。」

「彼は、独特の単子論的な身構えによって、個人の自己保存の不可侵なる世間的ルールを遵守し、その鎧のしたでみずから無傷でありおおせようとした。私が彼の知遇を得た十一年間に、私は、たえず多少の差はあれはっきりと、彼は経験的人格としてはどこかしら上の空で、こころここにあらぬていで存在している、という印象を禁じえなかった。(中略)彼は、実存なるものの理想が讃美してやまぬ自己同一性など、所詮もってはいなかった。彼には、(中略)独特の近寄りがたさ、さらには超然とした傍観者的な風貌があった。情念でさえも、彼がそれに身をゆだねるときには、芸術作品の素材に一変してしまうのだった。(中略)ベルクの経験的現存在は、生産の絶対的優位のもとにあった。彼は、われとわが身をその道具として彫琢した。そして、彼が獲得した世才も、もっぱらみずからの身体の虚弱さと心理的な抵抗とからむりやりにでも作品をつかみとることを可能にする、そうした条件をつくりあげる作業にむけられていた。彼は、おのれがつねに死に近くあることを知っておればこそ、生を空蝉と観じつつ、無情にも我執にも陥ることなく、持続するやもしれぬものにのみ、ひたすら思いを託したのである。かつてベルリンで、彼は、地下鉄の線路上から、もう一秒でも遅ければ轢かれてしまっていたであろう乗客を救いあげたことがある。根本においては、彼は、すべてを、もっとも大事なもの、すなわちみずからの命数さえも、捨て去る覚悟ができていた。人間的な事柄にたいして彼がたもっていた距離は、人間たちのあいだで人間的でとおっている事柄よりも、はるかに人間的であった。彼は、おのが生に執着することもなく、その生は、ナルシス的でありながら同時に無私であること、さながら但書条項に含まれているかのようであった。彼のイロニーも、おそらくそこに由来している。(中略)ベルクは、のぞみうるかぎりもっとも家父長には遠い存在であった。彼の権威は、権威的資質を完璧に欠いていた。彼は、幼児期にとどまることなく、それでいて大人にならぬことに成功したのであった。」




















































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テオドール・W・アドルノ 『プリズメン』 渡辺祐邦/三原弟平 訳 (ちくま学芸文庫)

「カフカはその同郷人であるグスタフ・マーラーと同様、脱走者の味方である。彼にあっては(中略)人間の尊厳のかわりに、(中略)動物との類似性の記憶が登場してくる。」
(テオドール・W・アドルノ 「カフカおぼえ書き」 より)


テオドール・W・アドルノ 
『プリズメン』 
渡辺祐邦/三原弟平 訳

ちくま学芸文庫 ア-11-1

筑摩書房 
1996年2月7日第1刷発行
511p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,350円(1,311円)
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 渡辺千尋



Theodor Wiesengrund Adorno: Prismen: Kulturkritik und Gesellschaft, 1955


アドルノ プリズメン


帯文:

「文庫版完全新訳
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である
〈絶対的物象化〉の時代の文化批判」



カバー裏文:

「プリズメン(さまざまなプリズム)とは、未来からの微弱な光を感じとる鋭敏な精神の探査器を暗示するのか。エッセイという形式を武器に、現実の核心に迫る独自の哲学的思索を展開したアドルノの最初の自撰論集。〈アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である〉という命題を含む「文化批判と社会」に始まり、シェーンベルク、ベンヤミン、カフカへと深まる12のエッセイは、文化的しつらえによる権力の大衆威嚇、それに対する知識人の石のような沈黙のもと、果てしなく進行する〈絶対的物象化〉の時代の文化現象を鋭く追求する。本邦初訳の「オルダス・ハックスリーとユートピア」「ゲオルゲとホーフマンスタール」を加え、完全新訳で贈る。」


目次:

凡例

一 文化批判と社会
二 知識社会学の意識
三 「没落」後のシュペングラー
四 ヴェブレンの文化攻撃
五 オルダス・ハックスリーとユートピア
六 時間のない流行
七 バッハをその愛好者たちから守る
八 アルノルト・シェーンベルク 一八七四―一九五一
九 ヴァレリー プルースト 美術館
一〇 ゲオルゲとホーフマンスタール
一一 ベンヤミンの特徴を描く
一二 カフカおぼえ書き

引用文出典一覧
訳者解説 (渡辺祐邦/三原弟平)




◆本書より◆


「文化批判と社会」より:

「この制御は、かつて束縛された社会のなかで他律的な諸秩序がまかり通っていたのと同じように、自律的社会のなかに仮借なくまかり通っている。(中略)精神が主観的に自分を商品化しないところにおいてすら、精神は客観的に既存の体制に同化する。(中略)全体は個人の意識が逃げる余地をさらに残さなくなり、(中略)個人の意識から、いわばアプリオリに差異の可能性を摘み取って、差異は一様な提供品のなかの僅かな違いに落ちぶれる。(中略)精神がその自由から繰り広げるものは、無計画的・モナド論的状態の遺産である無責任という否定的契機だけである。しかし、そうしなければ精神は、単なる装飾として、それからの離脱を精神が要求している当の下部構造にいっそうしっかりとくっつけられる。」

「社会がより全体的になれば、それに応じて精神もさらに物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。(中略)文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。(中略)批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。」



「「没落」後のシュペングラー」より:

「シュペングラーの形態学の呪縛圏を逃れるには、野蛮を誹謗し、文化の健全さを信頼するだけでは十分ではない。(中略)むしろ文化そのものにおける野蛮の要素が洞察されなければならない。野蛮の現実性に劣らず文化の理念にも挑戦するこういう思想だけが、シュペングラーの評決を超えて生き残るチャンスをもっている。」
「人類の諸都市をまるで荒野であるかのように――いま実際にその通り荒野だが――監視し、見張っているシュペングラーの猟師のような眼――この眼から隠されているものが、ひとつある。それは頽廃のなかで自由になるさまざまな力である。「だが生成するものすべては、いかに病んでいるように見えることか」――詩人ゲオルク・トラクルのこの句は、シュペングラーの風景を超絶している。暴力的で抑圧された生の世界にあっては、この生や、その文化、その粗野さと崇高さの従者であることを辞めると通告するデカダンスこそ、より善い世界の避難所である。シュペングラーの命令どおり、なす術(すべ)もなく歴史によって押しのけられ、否定されたものたちは、いかに弱々しくであろうと文化の独裁を打破し、先史時代の恐怖にとどめを刺すことを約束するものを、この文化の否定性において、否定的に体現している。それらの人々の異議申し立てのなかに、運命と権力が決定権をもたなくなる日がいつかくる、という唯一の希望がある。西洋の没落に対立するものは、復活した文化ではない。そうではなく、没落してゆく文化像のなかに言葉なく問いかけながら、しまい込まれているユートピアである。」



「ゲオルゲとホーフマンスタール」より:

「ゲオルゲをボヘミアンたちと結びつけているもの、それは犯罪行為の可能性である。そもそも犯罪行為とは、反対派のものたちが最後の信頼を廃業したことを世界に通告したときに行なうやり方なのだ。」
「ゲオルゲの姿勢に正当性があるとすれば、その正当性が決定的に存しているのはひとえにここ、すなわち、「すべての乞食根性がもつ宝物」たる、社会から追放された者のもつボードレール流の傲慢さのなかに、なのである。」

「おそらくホーフマンスタールにあって持続しつづけているのは、この子どもの身振りを倦むことなく習得しつづけていくことだったのだ。」
「この少年時代への変形こそ、その力を借りてホーフマンスタールが、一つの姿勢を取る危険や責任を負う危険からいつもまたスルリと抜け出した、当のものなのである。子ども時代を魔法によって意のままにできること、それは弱者の持つ強みなのである。」

「はかなさは、それ自体はかなき権力ではないのだから、地上のいかなる権力も、はかなさには抗しえないこと、このことが誤解されているのだ。社会にたいする反抗は社会のもっている言葉にたいする反抗なのだ。」
「他の作家たちは、人間の言葉を分かちあたえてくれる。彼らは《社会的》なのだ。審美主義者たちは、非社会的である分だけ、彼らをリードしている。」



「ベンヤミンの特徴を描く」より:

「認識にあっては最も個別的なものが最も普遍的なものであるというのは、彼のためにあつらえたような文章である。」

「ベンヤミンが言ったり書いたりしているものには、メルヒェンや子どもの本にある約束を恥ずべきものとして成熟がはねつけるかわりに、(中略)彼の思考がそういったものを字義どおりに受け取っているような、そんなおももちがある。」

「カール・クラウスにおいて、彼が賛美し、そのことでクラウスの不興をこうむることとなった《全人的なものというペテンに抗する非人間性》は、まさにベンヤミン自身の特徴なのだ。」



「カフカおぼえ書き」より:

「カフカの作品はウルトラ左翼の調子(トーン)をおびている。なのに、それを《普遍的に人間的なもの》の水準に平板化するものは、すでにカフカを順応主義者に改鋳してしまっているのだ。」

「錬金術的原理とは、全き疎外におちいった主観性の原理なのだ。ブロートの報告する論争のなかでのカフカが、ありとあらゆる社会的帰属に反対していたのはゆえなしとはしないのである。この帰属ということが『城』のテーマになっているのは、ただそれに反抗するというためにだけ、なのだ。」

「彼にとっては、傲り高ぶるこの世界をきちんとは立ち行かなくさせる唯一の可能性は、この世界を正しいと認めることである。メルヒェンの末息子のように、まったく見すぼらしく小さくなって、無防備な犠牲者のままでいるがいい。間違ってもこの世の習いにしたがって、すなわち、間断なしに不当なことを再生産するだけの交換の習いにしたがって、自分の正当性を主張したりなんかしてはならないのだ。」
「物象化の魔力は、主観がみずからを物にかえることによって打ち破られるのだ。主観に害をなそうとふりかかってくるものには、最後までやらせてやるがいい。」

「カフカはその同郷人であるグスタフ・マーラーと同様、脱走者の味方である。彼にあっては(中略)人間の尊厳のかわりに、(中略)動物との類似性の記憶が登場してくる。」











































































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。


うまれたときからひとでなし、
なぜならわたしはねこだから。

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