エリアス・カネッティ 『マラケシュの声』 岩田行一 訳

「わたしは荒れはてた家の方を指さして尋ねた。「あの上の格子窓の女のひとだが――知っているかね?」
 「ウィ・ムシュー」とかれは答え、ひどくまじめな顔つきをした。
 「病気かね(エ・レ・マラド)?」とわたしはさらに尋ねた。
 「ひどい病気なんです(エ・レ・トレ・マラド・ムシュー)。」
 わたしの問いを強めた「ひどい」という言葉に、悲しげな、しかもかれがひたすら甘受していたある運命を悲しむようなひびきがあった。」
「「頭がおかしいんだね(エ・レ・マラド・ダン・サ・テート・ネ・スパ)?」
 「そうなんです、頭が(ウィ・ムシュー・ダン・サ・テート)。」」

(エリアス・カネッティ 『マラケシュの声』 より)


エリアス・カネッティ 
『マラケシュの声
― ある旅のあとの断想』 
岩田行一 訳


法政大学出版局
1973年11月30日 初版1刷
169p 口絵(カラー)1葉
四六判 角背紙装上製本 カバー
定価1,200円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Elias Canetti: Die Stimmen von Marrakesch. Aufzeichnungen nach einer Reise; Reihe Hanser 1. Carl Hanser Verlag, München 1968. の全訳である。」


地図1点。


カネッティ マラケシュの声 01


目次:

駱駝との出会い
スーク
盲人の叫び
マラブートの唾
家の静寂と屋根の空虚
格子窓の女
ミッラ訪問
ダッハン家
語り手と書き手
パン選び
中傷
驢馬の悦楽
〈シェーラザード〉
見えざる者

訳者あとがき



カネッティ マラケシュの声 02



◆本書より◆


「盲人の叫び」より:

「習い覚えた世界の諸言語を忘れてしまい、ついにどの国へ行っても人の言葉の意味がもう理解できなくなったひとりの男のことを、わたしは夢見る。
 言語のなかには何があるのであろうか? 言語は何を蔽っているのであろうか? 言語はわれわれから何を奪い去るのであろうか? わたしはモロッコで過ごした数週間というものアラビア語もベルベル語も敢えて習得しなかった。わたしはなじみのない、さまざまな叫び声の迫力をいささかも減じたくなかったのである。わたしは音自身の欲するままに、音そのものによって掴まれたかったし、不十分かつ不自然な知識によってそれをいささかも弱めたくなかったのである。」
「しかし「アッラー」という言葉は消え残ったのであり、わたしはこの言葉を避けなかった。わたしはこの言葉を自分の経験の、もっとも頻繁でもっとも印象的でもっとも持続的であった部分としての盲人から授けられていた。」
「すべての盲人たちが人びとに神の名を与えようと申しでるし、人びとは喜捨を通じて神の名に訴える権利を手に入れることができる。盲人たちの一日は神とともに始まり、神とともに終るのであり、日に千度神の名をくり返す。」
「同じ叫びをくり返すことによって、叫ぶ者の個性が現われる。」
「貧しき者たちは富める者たちより五百年早く天国に入るであろう、といわれている。人は喜捨によって貧しき者たちから天国の一部を買い取る。」
「わたしはモロッコから帰ってからというもの、試みに眼を閉じ脚を組んで自分の部屋の一隅に坐り、三〇分間正確な速度と正確な力で「アッラー! アッラー! アッラー!」と唱えてきた。わたしはこう想像してみた。わたしは一日じゅう、夜遅くまでそのように唱えつづける。わたしはちょっと眠ったら、またそれを始める。わたしはそれを何日間も何週間も何カ月間もつづける。わたしは次第に馬齢を重ねるであろうが、そのようにして生きる。粘りづよくこの生活を固守する。このわたしの生活を妨害するものがあれば、わたしは激怒するであろう。わたしはこの生活以外には何も欲しない。わたしはこの生活を絶対に変えない、と。
 一切を単純きわまる種類のくり返しに還元するこの生活のなかに、どのような誘惑が存するものかということが、わたしにはわかった。小さな店で働いているのを見かけた職人たちの手仕事に、いったい多かれ少なかれどれほどの変化があったろうか?」
「これら盲の乞食の本当の姿が何か、わたしにはわかった。くり返しの聖者。われわれといえどもくり返しを避けるようなことがたいてい、かれらの生活からは除去されている。かれらがしゃがんだり立ったりする場所がある。変ることのない叫びがある。」



「見えざる者」より:

「黄昏のなかを、わたしは町の中央にある大広間へと歩いて行った。わたしがこの広場に探し求めたものは、なじみ深いその多彩と活気ではなかった。わたしが探し求めたものは、ひとつの声とすらいえぬ、ただひとつの音から成る、地面の上のある枯草色の小さな包みであった。低く長く引っ張った「エーエーエーエーエーエーエーエー」という唸りであった。それは弱まることもなく、強まることもなく、止むこともなかった。」
「わたしは、ある不思議な安らぎが身内にしみわたるのを感じた。これまで足どりもいささかためらいがちで覚つかなかったわたしが、そのときは突然断固としてその音に向って突き進んだ。わたしは音がどこから生じているか知った。一枚の黒ずんだ粗い布のほかに何ひとつ見ていなかった枯草色の小さな包みを、地面の上にこの目で見た。わたしは「エーエーエーエーエー」という音がもれ出る口をついぞ見たことがなかった。眼も、頬も、あるいは顔のどんな部分もついぞ見たことがなかった。この顔が盲人のそれであったか、あるいは目が見えたか、と聞かれても返答に窮したろう。その枯草色の襤褸は頭巾のようにすっぽり頭にかぶさり、何もかも蔽いかくしていた。」
「それが他の人びとの足もと深く埋れて息をしながら何を思っていたか、わたしには決してわからないであろう。それの叫び声の意味は、わたしにとって、それの存在全体と同様、依然として謎であった。とはいえ、それは生きていたし、毎日自ら時を選んで再びそこにいたのである。それが人の投げ与える硬貨を拾いあげるのを、わたしは一度も見なかった。(中略)ひょっとすると、それには、硬貨を掴もうにも肝心の両腕がなかったのかもしれない。それには「アッラー」の「ル」の音を出そうにも肝心の舌がなかったのかもしれない。神の名はそれにとって、縮められて「エーエーエーエーエー」という音になったのである。しかしそれは生きていた。それは比類なく倦まず弛まずおのれの唯一の音を出したし、何時間も出しつづけた。ついにそれがこの大広場全体にあって唯一の音、ほかのあらゆる音のあとに生きのこる音と化してしまうまで。」





こちらもご参照ください:

エリアス・カネッティ 『群衆と権力 上』 岩田行一 訳 (叢書・ウニベルシタス)





























































































































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エリアス・カネッティ 『群衆と権力 上』 岩田行一 訳 (叢書・ウニベルシタス)

「ズル族の祖先たちは蛇に変じて、地中にもぐるが、それは、人びとが想像するような、誰にも見えない神話的な蛇ではない。それらの蛇は小屋の近くを動きまわり、しばしば小屋のなかに入ってくる親しみのある動物である。」
「しかし、かれらは蛇であるだけではない。なぜなら、かれらは生者たちの夢のなかに人間の姿をして現われ、話しかけるからである。」

(エリアス・カネッティ 『群衆と権力』 より)


エリアス・カネッティ 
『群衆と権力 上』 
岩田行一 訳
 
叢書・ウニベルシタス

法政大学出版局
1971年3月10日 初版第1刷発行
1984年1月30日 第6刷発行
xiv 422p
四六判 丸背布装上製本 カバー
定価2,500円



本書「凡例」より:

「本書は(中略)エリアス・カネッティ Elias Canetti の畢生の書 Masse und Macht, Claassen Verlag, Hamburg 1960 の全訳である。」


全二冊。


カネッティ 群衆と権力 上


目次:

日本の読者へ

群衆
 接触恐怖の転化
 開いた群衆と閉じた群衆
 解放
 破壊欲
 爆発
 追跡感情
 世界宗教における群衆の馴致
 パニック
 輪としての群衆
 群衆の諸特質
 リズム
 停滞
 緩慢なこと、あるいは目的地の遠いこと
 見えない群衆
 群衆の主要な情動にもとづく分類
 迫害群衆
 逃走群衆
 禁止群衆
 顚覆群衆
 祝祭群衆
 二重群衆――男たちと女たち・生者たちと死者たち
 二重群衆――戦争
 群衆結晶体
 群衆シンボル

群れ
 群れと群れの種類
 狩猟の群れ
 戦闘の群れ
 哀悼の群れ
 増殖の群れ
 儀礼的会食
 内的な群れと静かな群れ
 群れの限定性。群れの歴史的恒常性
 アランダ族の祖先伝説における群れ
 アランダ族の儀式における隊形

群れと宗教
 群れの変形
 カサイ地方のレレ族における狩猟と森
 ヒバロ族の戦利品
 プエブロ・インディアンの雨踊り
 戦争のダイナミックスについて。最初の死者。勝利
 戦闘宗教としてのイスラム教
 哀悼宗教
 シーア派のムハッラムの祭り
 カトリック教と群衆
 エルサレムの聖火
 
歴史における群衆
 諸国民の群衆シンボル
 ドイツとヴェルサイユ
 インフレーションと群衆
 議会政治の本質
 分配と増大。社会主義と生産
 ツォサ族の自己破壊

権力の臓腑
 捕捉と摂取
 手
 食事の心理学について

生きのこる者
 生きのこる者
 生きのこることと不可侵性
 情熱としての生きのこること
 生きのこる者としての権力者
 フラヴィウス・ヨセフスの避難
 生きのこる者への権力者の敵意。支配者とその後継者
 生きのこりの諸形態
 未開民族の信仰における生きのこる者
 死者たちの遺恨
 疫病
 墓地の情緒について
 不死について

訳者あとがき




◆本書より◆


「見えない群衆」より:

「この全地球上に、およそ人間の住むところならどこにでも、見えない死者たち(引用者注: 「見えない死者たち」に傍点)という観念が見られる。これは人類のもっとも古い観念といってもよいであろう。その死者たちについて豊かな想像力をめぐらさなかったような遊牧民の群れや種族や民族は、きっとないであろう。人間は死者たちにとり憑かれてきた。死者たちは人間にとって途方もなく重要な存在であった。死者たちの生きている者たちへの働きかけは、生活そのものの本質的な部分をなしていた。
 死者たちは、人間たちが一緒に暮らしている、と考えられていたし、また、かれらの数は夥しいものだ、と一般に想像されていた。《ベチュアナ族(引用者注: 「ベチュアナ族」に傍点)の老人たちは、あらゆるほかの南アフリカ原住民と同様に、あらゆる空間が自分たちの祖先の亡霊で満たされていると信じていた。大地も大気も空も亡霊がひしめきあい、生きている者たちに悪しき影響をおよぼすことなど思いのままであった。》――《コンゴ川のほとりのボロキ族(引用者注: 「ボロキ族」に傍点)は、自分たちが亡霊たちに取りまかれていて、この亡霊たちがあらゆる機会に邪魔をし、昼となく夜となく四六時中害を加えようとしている、と信じている。河や小川には、かれらの祖先の亡霊たちがひしめき、森も繁みも亡霊たちで一杯であり、徒歩、あるいはカヌーで旅をつづける途中夜を迎えた人間たちに絶えず害を加えようとする。村と村の境にある森を拠るになってから通りぬけていくほどの勇気のある者は、ひとりもいない。たとえ、莫大な褒賞にありつける見込みがあったとしても、その誘惑に負けるような者は、ひとりもいない。そのような申し出に対する返事は、いつも〈森には亡霊たちがうじゃうじゃいますからね〉であった。》」
「しかし、死者たちの数がますます増え、その緊密状態についての意識が支配的になるというだけではない。かれらはまた、動きまわり、共同で遠征を企てる。かれらの姿は、ふつうの人間たちには、いつも見えないが、亡霊たちを呼びだし服従させて自分に仕えさせる力のあるシャーマン(引用者注: 「シャーマン」に傍点)という特殊な才能を備えた人びとがいる。シベリアのチュクチ族(引用者注: 「チュクチ族」に傍点)のあいだでは、〈すぐれたシャーマンは、亡霊たちの全予備部隊を擁していて、その全員に非常呼集をかけると、かれらは、巫術が行なわれる小さな就寝用テントを四方八方より、まるで壁のように取りかこむほどの数でやってくる。》」

「昔からいつも存在していながら、顕微鏡の発明以後、漸くその存在を認められるに至った見えない群衆は、精子(引用者注: 「精子」に傍点)の群衆である。その数二億といわれる精虫たちは、一緒に行動を開始する。かれらは、かれら自身の内部では平等であり、きわめて高い緊密状態にある。かれらは全員、同一の目的地をめざし、そして、一匹だけを除いて、全員途中で死滅する。(中略)どの精虫もみな、連綿として保持されてきたわれわれの祖先の一切のものを担っている。どの精虫も祖先そのものにほかならぬ(引用者注: 「どの精虫も~」に傍点)のであり、人間の生殖のたびに、この精虫のうちに、変りはてた形態で――祖先のすべての者たちが一匹(引用者注: 「一匹」に傍点)の微小な見えない生物のうちに存在し、しかも、この生物が無数の大群をなして存在するという――祖先たちを見出すということは、途方もない驚異である。」



「迫害群衆」より:

「迫害群衆はじつに古い歴史を有している。それは、人間たちのあいだで知られているもっとも原始的な活動単位である狩猟の群れ(ヤークト・モイテ)にまで遡ることができる。」
「遊牧民の群れや民族が、個人に課しうる死刑のうちでは、二つの主要な形態が顕著である。その第一は、追放(引用者注: 「追放」に傍点)という形態である。個人は何ひとつ武器を与えられず、野獣の餌食になるか餓死するしかない場所へ、捨てられる。以前仲間だった者たちも、かれを相手にしなくなる。かれらは、かれを匿うことも食物を恵むことも許されない。かれと少しでも付合えば、必ずかれらも汚れるし、罪人となる。もっとも苛酷な形態における孤独が、この場合の極刑なのである。自分の所属するグループから離脱させられることは、拷問に等しく、ことに原始的な社会においては、それに耐えて生きのびうる人間は、ほとんどいない。」
「処罰のもうひとつの方法は、共同殺害(引用者注: 「共同殺害」に傍点)である。罪人は野原へひきだされ、石を投げつけられる。あらゆる者が殺戮に加わる。あらゆる者が石を投げ、罪人が絶命するのは、かれらの共同攻撃のせいである。誰も処刑人に任命されたわけではない。共同体全体が殺害するのである。」

「今日では、誰もが、新聞(引用者注: 「新聞」に傍点)を通じて公開処刑に加担しているのである。(中略)われわれは家で、平和な気分に浸りながら、椅子に坐り、たくさんの記事のなかから、特別のスリルを提供するものを選んで、暇をつぶすことができる。(中略)迫害群衆は、新聞読者層という社会のなかで維持されており、それと事件との隔たりのために、いっそう無責任な群衆なのである。それは、この種の群衆のもっとも卑しむべき形態であり、同時にもっとも安定した形態でもある、といえるであろう。」



「群衆シンボル」より:

「雨はたくさんの滴となって降る。雨の滴は見ることができるし、また、滴の運動の方向はとりわけ目立つ。あらゆる言語において、〈雨が落ちる(ファレン)〉という表現が用いられる。(中略)〈落ちる〉という運動ほど人間にとって印象深い運動はほかにない。(中略)落ちることは、われわれが年端もゆかぬころからもっとも恐れているものである。それは、われわれが人生において用心すべき最初のことである。子供たちは落ちないように注意することを学び、ある一定の年齢を過ぎても、落ちることは物笑いの種になったり、危険な結果を招いたりする。雨は、人間とは反対に、落ちる運命をもった(引用者注: 「落ちる運命をもった」に傍点)ものであり、これほど頻繁に、これほどたくさん落ちるものは、ほかにないのである。」


「カサイ地方のレレ族における狩猟と森」より:

「森は価値ある一切のものを含んでおり、もっとも価値あるものは森から、群れ全体の共働によって取り寄せられる。狩猟の群れの対象となる動物たちは森に住んでいる。そして、森にはまた畏怖される亡霊たちも住んでおり、かれらの許しを得て人間たちは狩猟を行なうのである。」


「未開民族の信仰における生きのこる者」より:

「英雄とは殺害という手段によってくり返し生きのこる人間のことである。だが、生きのこる者は必ずしも英雄である必要はない。生きのこる者は、自分以外の同胞たちが全員死んだときに、自分が同胞の群衆のなかでは全く同等の立場にあるような人間にすぎないかもしれない。」


「死者たちの遺恨」より:

「およそ宗教に関する原資料を研究する者なら誰でも死者たちの権力に驚嘆しないわけにはいかないであろう。自らの生存が死者たちと関連のある儀礼によってほとんど完全に支配されている種族が存在する。
 まず第一にわれわれにとって印象的なのは死者たちに対する一般的な恐怖(引用者注: 「恐怖」に傍点)である。死者たちは不満を抱いており、かれらがあとに残した一族の者たちへの嫉妬に狂っている。死者たちは、時には生前に自分たちに加えられた侮辱のために、だがまた、しばしば自分たち自身がもはや生きていないというだけの理由で、一族の者たちに復讐しようと試みる。生者たちがもっとも恐れるのは死者たち嫉妬であり、生者たちは諛いと食物を供えることによって、死者たちを宥めようと努める。」
「あらゆる民族の死者たちは同じ情緒によって支配されているように見える。死者たちは常に生きのこっていたかったであろう。まだ生きている者たちの眼から見れば、死んでいる者はみんなある敗北を喫したのであり、その敗北は他者に生きのこられた(引用者注: 「他者に生きのこられた」に傍点)という事実からきているのである。死者は自分の蒙ったこの損害を忘れられないのであるから、その損害を他の者たちに加えたいと望むのも無理はない。」





こちらもご参照ください:

エリアス・カネッティ 『群衆と権力 下』 岩田行一 訳 (叢書・ウニベルシタス)





















































































エリアス・カネッティ 『群衆と権力 下』 岩田行一 訳 (叢書・ウニベルシタス)

「《かれは、始終半睡状態にある人間のように、ここに何ものにも邪魔されることなく横たわっていた。かれは最初からずっと身動きひとつせず、何の活動もしなかった。(中略)永遠の時がはてしない眠りのなかにいるかれの上をすぎて行った。
 かれが絶えずうつらうつらしていたとき、白い幼虫たちがかれの上を這っていた。(中略)幼虫たちはかれの身体を這いまわり、かれの体内に押し入った。かれは目をさまさなかった。永遠の時がどんどん過ぎた。》」

(エリアス・カネッティ 『群衆と権力』 より)


エリアス・カネッティ 
『群衆と権力 下』 
岩田行一 訳
 
叢書・ウニベルシタス

法政大学出版局
1971年11月15日 初版第1刷発行
1982年1月20日 第5刷発行
v 321p 索引・参考書目・著作目録25p
四六判 丸背布装上製本 カバー
定価2,300円



全二冊。


カネッティ 群衆と権力 下


目次:

権力の諸要素
 暴力と権力
 権力と迅速さ
 問いと答え
 秘密
 判断と非難
 赦しの権力。恩赦

命令
 命令――逃走と棘
 命令の馴致
 反撞。命令の不安
 複数者に対する命令
 命令の期待
 アラファートにおける巡礼者たちによる命令の期待
 命令の棘と軍規
 命令。馬。矢
 宗教的去勢――去勢派
 拒絶症と精神分裂病
 顚覆
 棘の除去
 命令と死刑執行。満足せる死刑執行人
 命令と責任

変身
 ブッシュマンにおける予感と変身
 逃走変身。ヒステリー・躁病・メランコリー
 自己増殖と自己消費。トーテムの二重形態
 振顫譫妄における群衆と変身
 模倣と擬装
 像と仮面
 仮面剥奪
 変身の禁止
 奴隷制度

権力の諸相
 人間の姿勢。その権力との関係
 オーケストラの指揮者
 名声
 時間の調整
 宮廷
 ビザンチン皇帝の上昇式玉座
 進行性麻痺患者における偉大さの観念

支配権とパラノイア
 アフリカの王たち
 デリーのスルタン――ムハンマッド・トゥグルク
 シュレーバー症例(その一)
 シュレーバー症例(その二)

エピローグ
 生きのこる者の終焉

訳者あとがき

付録(巻末)
 年譜
 著作目録
 参考書目
 索引




◆本書より◆


「命令の馴致」より:

「こうして、ある密接なつながりが、命令と食糧を与えることとのあいだに生じた。このつながりがきわめて純粋なかたちで現われるのは、動物を訓練する場合である。動物は期待どおりのことをやると、その訓練者の手から自分の大好物をもらうのである。命令の馴致とは、命令と食糧の約束とをリンクすることを意味する。死をもって脅迫され、逃走を余儀なくされるかわりに、ある種の生物は生きとし生けるものがもっとも欲しているものを約束される。しかも、この約束は厳守される。自分の主人に食糧として奉仕し、むさぼり食われるかわりに、この種の命令を受ける生物は自分の食糧にありつくのである。
 生物学的な逃走命令のこのような変質は、人間や動物を、あらゆる等級と段階とから成る、一種の自発的な虜囚に仕立てあげるが、それによって、命令の本質そのものが完全に変ってしまうわけではない。どんな命令も依然として同じ脅迫を孕んでいる。それは和らげられた脅迫であるが、不服従に対しては一定の刑罰が用意されており、そして、これらの刑罰はきわめて重くなる可能性をもつ。もっとも重いのは本来の刑罰、すなわち死である。」



「拒絶症と精神分裂病」より:

「人間は命令を聞かないことによって命令を回避することができる。そして、人間は命令を遂行しないことによって命令を回避することができる。棘は――そしてこのことはどれほど強調しても足りないほどであるが――命令の遂行(引用者注: 「遂行」に傍点)の結果としてのみ生じる。人間の内部に棘を生じさせるのは、外部からの未知の圧力の結果として演じられる行為そのものである。遂行された命令は、その正確な形を遂行者に印象づける。(中略)人間の内部に巣くうこれらの棘の執拗さは驚異的である。これほど人間の内部に奥深く貫入するもの、これほど引きぬきがたいものは類を見ない。人間がそれらの棘によってすっかり穴だらけにされてしまって、もはや棘以外のことは何も分らなくなり棘以外の何ものも感じなくなるような瞬間が、訪れるかもしれない。
 そのとき、新しいさまざまの命令に対するかれの防禦は、生死にかかわる問題となる。かれは余儀なく命令を受け入れてしまうことのないよう、その命令を聞くまいと努力する。かれがどうしても命令を聞かざるをえなければ、かれはその命令を理解することを拒む。かれが理解させられてしまうと、かれは自分に命じられていることと正反対のことをして、その命令をあからさまに回避する。つまり、一歩前へといわれたら、かれは一歩後ろへさがり、一歩後ろへといわれたら、かれは一歩前へ進むわけである。そうしたからといって、かれが命令をまぬがれていることにはならない。かれの反応は拙劣であり、あるいはむしろ無力の現われというべきであろう。なぜなら、かれの反応はそれなりに依然として、命令の内容によって規定されているからである。」



「命令と責任」より:

「命令によって行動する人間たちがどんな恐ろしい所業でもやってのけることは、よく知られている。かれらのうけるさまざまの命令の源泉が突如断ちきられて、かれらがいやでも自分たちの行なったことを顧みざるをえなくなるとき、かれらはそれを行なったのが自分たちであることを認めない。」
「かれらはふだんは自らの行動を完全に評価しうる人間なのである。(中略)かれらは、(中略)見も知らぬ、無防備の者を殺すことを恥ずかしく思ったであろうし、誰かを拷問することに嫌悪を催したであろう。かれらは、かれらといっしょに生きている他の人びとよりも善いとはいえないが、かといって、悪いというわけでもない。」
「われわれにとっては、それはもはや謎でも何でもない。というのは、われわれは命令がどのように作用するかを知っているからである。遂行される命令はすべて当の遂行者の内部に棘をのこす。だが、この棘は、かれの内部にあるとはいえ、命令が与えられた瞬間、命令自体がそうであったように、かれにとってはなじみのないものである。棘がどんなに長くかれの内部に突きささっていようと、それは決して同化されず、いつまでも異物としてとどまる。(中略)棘は同化することを知らぬ侵入者、(中略)のぞましからぬ侵入者のようなものである。」
「それゆえ、命令にもとづいて行動した人間たちが、自分たちには全く罪がないと思うのは本当である。もしかれらが自分たちの置かれた状況を直視する勇気をもちあわせていれば、自分たちがかつてこれほど完全に命令のなすがままになっていた事実に、恐らく驚きに似たものを感じるにちがいない。だが、そのように洞察を加えたところで何の価値もない。その洞察は一切がとっくに終ったあとで初めて生ずるのであり、過去にのみかかわるものだからである。そのとき起こったことは、依然として再び起こりうる。かれらが直面させられる新しい状況が古い状況にきわめてよく似ているときでさえ、かれらが再び同じような行動をとらぬであろうという保証はないのである。」
「われわれがいかなる観点から命令を考察しようと、命令がその長い歴史を経たあとで、今日見られるようなコンパクトな完成された形態を獲得するにいたり、この形態での命令が人類の社会生活におけるもっとも危険な唯一の要素(エレメント)となったことは否定できないのである。われわれは、この命令に抵抗し命令の支配権(ヘルシャフト)を動揺させる勇気をもたなければならない。人間が命令の重圧をほとんど受けずにすむような手段方法が発見されなければならない。われわれは命令を皮膚(かわ)ひとえより奥に侵入させてはならない。」



「逃走変身。ヒステリー・躁病・メランコリー」より:

「逃走(引用者注: 「逃走」に傍点)変身、すなわち敵から逃れるための変身は、一般的なものであり、世界じゅうの神話やお伽噺のなかに見出される。」
「そのうちの二つの主要な形態は、線形(引用者注: 「線形」に傍点)変身逃走と円形(引用者注: 「円形」に傍点)変身逃走である。線形形態は狩猟(引用者注: 「狩猟」に傍点)の際に現われるものであり、ごくありふれている。ある生きものが別の生きものを追跡しつつあり、両者間の距離が次第に縮まり、ついに、獲物が捕らえられそうになる瞬間に、そのものはある別のものに変身することによって難を逃れる。狩猟はつづけられる、あるいはむしろ改めてやりなおされる。獲物に対する危険が再び増大する。追跡者はますます近づき、今にもそれを捕えることに成功しそうにさえなるかもしれないが、この絶体絶命の瞬間に、それは前とは異なる他の姿に変身し、こうしてまたもや難を逃れる。(中略)お伽噺においては、この過程はできるかぎりしばしばくり返され、同情は一般に追跡されるものの側に集まり、愛好される結末は追跡者の敗北ないし破滅におわる傾向をもつ。」
「円形(引用者注: 「円形」に傍点)形態に目を転ずると、われわれは『オデュッセイア』の中にあるプロテウスの古典的な物語を思いだす。聡明な海の老人(メールグライス)プロテウスは、あざらしたちの飼い主であり、あざらし同様、日に一度陸(おか)へやってくる。最初あざらしたちがやってきて、それからプロテウスがくる。かれはあざらしたち、つまり自分の畜群の総数を正確にかぞえ、それからあざらしたちのまん中に横になって眠る。メネラオスはトロイアからの帰途、逆風のために進路をあやまり、プロテウスの住むエジプト海岸に仲間たちといっしょに漂着した。数年がすぎたが、依然としてかれらは出帆することができず、メネラオスは深い絶望におちいる。プロテウスの娘がかれをあわれみ、予言力を備えている自分の父親を捕えて、いやでも予言を語らせるにはどうすればいいかをかれに教える。彼女はメネラオスとかれの仲間の二人にあざらしの皮を与え、砂浜に穴を掘って、かれらをなかにかくまい、その上をあざらしの皮で蔽う。その穴で、かれらは悪臭にもめげず辛抱づよく待っていると、やがてあざらしの群れがやってくるが、その群れの下で害意を気どられぬようあざらしの皮にくるまりながら横たわりつづける。プロテウスは海中から現われ出て、自分の畜群をかぞえると安心して、あざらしたちのあいだに横たわって眠る。今やメネラオスとその仲間たちにとって、好機が到来した。かれらは眠っている老人をひっ捕え、もはや放さない。プロテウスは身をあらゆる種類のものに変えることによってかれらから逃れようと試みる。最初かれは力づよいたてがみをした獅子に、それから蛇に変身する。だが、かれらは依然としてかれを放さない。かれは豹になり、それから巨大な猪となるが、かれらは依然としてかれを放さない。かれは水に変身し、それから葉のおいしげった一本の樹木に変身するが、かれらは依然として容赦しない。プロテウスが逃れるために試みる変身はすべて、かれらの手の届くところで起こる。結局かれはくたびれてしまい、もとの姿に、つまり海の老人プロテウスの姿にもどり、かれらの欲していることをたずね、かれらの問いにこたえる。」

「メランコリーは、どんなに逃走変身を試みたところで、無駄だと思われるときに始まる。メランコリー状態にある人間は、追跡が終り、自分がすでに捕えられている、と感じる。かれは逃げることができない。かれはもはや変身しない。(中略)かれは自分の運命を甘受し、自分自身を獲物と看なす。最初は獲物として、次に食物として、最後に死肉あるいは排泄物として。かれ自身の人格を次第に取るに足らないものにしてしまう価値低減の過程は、罪の意識(シュルトゲフュール)として比喩的に表現されている。(中略)メランコリー患者は食べること(引用者注: 「食べること」に傍点)を望まず、拒絶の理由として、自分がそれに値いする人間(引用者注: 「値いする人間」に傍点)でないということをあげるかもしれない。だが本当は、かれは自分を食べられるものと看なしているから食べようとしないのであり、もし食べることを強制されれば、いやでもこのことを思い知らされる。(中略)つねに食べてきたことに対する恐るべき罰が、突然不可避的にかれの前に下る。食べられる何ものかへのこの変身は、最後の変身、あらゆる逃走を終らせる変身である。これを避けるために、あらゆる生きものはとにかくどんな形態でもとって逃走するという事態が起こるのである。」



「人間の姿勢。その権力との関係」より:

「横たわっている人間は武装解除された人間である。かれがふだんあれほど労を惜しまない無数のこと、かれが直立しているときに、かれをかれたらしめている無数のこと――かれの態度、かれの習慣、あらゆる活動――は、かれの衣服のようにぬぎ捨てられる。まるでそれらがかれの一部であることをやめてしまったかのように見えるほどである。この外的過程は寝ているという内的過程を反映している。(中略)横たわっている者はあまりにも完全に武装解除されているので、どのようにして人類が首尾よく眠りに堪えて生きぬく(引用者注: 「生きぬく」に傍点)ことができたか理解しがたいほどである。確かに人類はその未開状態においていつも洞穴に住んでいたわけではないが、この洞穴にいてさえも、かれらは安全とはいえなかった。そして、多くの未開人たちが満足している、木の葉や小枝でつくった貧弱な風除けは全然防護の用をなさなかった。それでもなお人間たちが生存しているということは奇蹟である。」
「一方の極には高さと独立性によって権力を表わす立つという姿勢があり、重さと持続性によって権力を表わす坐るという姿勢がある。他方の極には横たわるという姿勢があり、それは完全な無力を――それが眠りと結びつけられるときにはもちろんとくに――表わす。(中略)横たわっている人間は自分の仲間たちとの一切の関係を放棄し、とにかく自分自身の内部へひっこむ。かれの状態にはドラマティックなところがひとつもない。確かに、かれがじつにささやかながらある種の安全を手に入れうる手段は、人目をひかないという一事につきる。(中略)立っている人間は自由でああり、支えを全く必要としない。坐っている人間はかれの重さを利用して何かに圧力を加える。横になった人間には確かに自主独立の精神が欠けている。かれは自分を支えてくれるものなら何でも利用するからである。事実また、かれは圧力を加えているともいえない。かれの重さははなはだしく拡散されているので、かれはそれをもはやほとんど意識しないからである。」
「人びとは休息するために横たわるが、また、心ならずも横たわらざるをえぬような人びと、つまり、傷を負い、どんなに立ちたいと思っても、立つことのできぬ(引用者注: 「できぬ」に傍点)人びともいる。
 心ならずも横たわっている人びと(引用者注: 「心ならずも~」に傍点)は不幸にも、立つことのできる人びとに、射とめられた動物を思いださせる。」
「どんなに礼儀正しい人びとのあいだにも、こんな仕儀に立ちいたった者に対する軽蔑の念がかすかながらもつねに認められる。かれらはかれの必要とする援助をかれに与えてやるが、そうすることによって、直立している者たちの社会からかれを追放する。」

「うずくまることは無欲を、自己自身への後退を表わしている。身体は、まるで他の人びとに何ものをも期待していないかのように、できるかぎり丸く縮められる。相互作用を必要とするかもしれぬ一切の活動は放棄される。何もなされぬから、誰も反応しようにも反応しようがない。うずくまっている人間は、平和で満ち足りているように見える。かれが攻撃を加えやしないかと恐れるような者はひとりもいないのである。自分の必要とするものをすべてもっているから、あるいは、たとえどんなに少ないにせよ自分のもっているもので我慢できるから、かれは満足しているのである。うずくまっている乞食は、自分の与えられるものなら何でも受けいれる用意のあることを、その姿勢で表わしている、乞食は区別だてせず、どんなものにも満足するのである。」
「しかし、うずくまることはまた起こるかもしれぬ一切のことを受けいれることを意味している。(中略)うずくまるという姿勢は富貴と貧賤の双方を含んでおり、そしてこのことが、うずくまることが東洋を知るすべての者にとってなじみ深い静観(コンテムプラツィオーン)という基本姿勢となるにいたった理由である。うずくまる人間は世界から自らを解放した。かれは自分自身の内部に休らい、誰にも重荷を負わせないのである。」



「エピローグ」より:

「もしわれわれが権力というものを克服しようと望むならば、われわれは憚るところなく命令を直視し、命令からその棘をぬきとる手段を見つけださなければならないのである。」




こちらもご参照ください:

エリアス・カネッティ 『マラケシュの声 ― ある旅のあとの断想』 岩田行一 訳
エリアス・カネッティ 『群衆と権力 上』 岩田行一 訳 (叢書・ウニベルシタス)


























































































ヴァッケンローダー 『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』 江川英一 訳 (岩波文庫)

「人間の交際は彼には嫌はしかつた。最もよく所を得たのは陰鬱なひとり居の際であつた。その折彼は本来の自分に帰つて、導かれる所何処へでも、こゝかしこ馳せゆく想念を追ひ求めた。常住、彼は密閉した部屋にひとりこもつて、全く独特な暮し振りをした。彼は常に同じ単調な食事をして暮し、一日中何時でも食べたい時に、自分で食事の支度をした。彼は、自分の部室が掃除されるのは嫌ひであつた。又、庭の果樹や葡萄樹を刈りこむのに反対した。」
(ヴァッケンローダー 「ピエロ・ディ・コシモの奇行に就て」 より)


ヴァッケンローダー 
『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』 
江川英一 訳
 
岩波文庫 赤/32-451-1 

岩波文庫
1939年6月3日 第1刷発行
1988年4月7日 第3刷発行
210p 別丁口絵(モノクロ)1葉
文庫判 並装 
定価400円



Wilhelm Heinrich Wackenroder: Herzensergiessungen eines kunstliebenden Klosterbruders, 1797

正字・正かな。
本書の著者名の表記は「ワ゛ッケンローダー」となっていますが、ここでは「ヴァッケンローダー」としました。


ヴァッケンローダー 芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝


帯文:

「ドイツ中世芸術とルネサンスの美の発見の中に、信仰と芸術と生活とが一つに育った中世芸術と宗教の美しき融合を説く芸術評論集。」


目次:

この書物の讀者に

ラファエロの幻影
イタリアへの憧憬
當時非常に有名な古い畫家、ロンバルディア派の始祖、フランチェスコ・フランチァの注目すべき死
弟子とラファエロ
フィレンツェ派の年少の畫家、アントニオが、ローマに在る友、ヤコボに宛てた手紙
フィレンツェ派の有名な祖先、レオナルド・ダ・ヴィンチの生に示された、天賦あり、その上深い學識ある畫家の典型
二つの繪の敍述
藝術に於ける、普遍性、寛容、人類愛に就ての若干の言葉
藝術を愛する一修道僧による、我等の畏敬すべき祖先、アルブレヒト・デューラーへの追慕
二つの不可思議な言語とその神秘な力に就て
フィレンツェ派から出た古い畫家、ピエロ・ディ・コシモの奇行に就て
地上の偉大な藝術家の作品は、本来、どのやうにして觀察され、又己が魂の福祉に用ひられねばならないか
ミケランジェロ・ブオナロティの偉大さ
ローマ在の若いドイツ畫家が、ニュルンベルグの友に宛てた手紙
畫家の肖像
畫家の記録
音樂家、ヨゼフ・ベルグリンゲルの注目すべき音樂生活

解説




◆本書より◆


「この書物の讀者に」より:

「僧院生活の靜寂な境涯で、今でも時々おぼろげに遙かな世界を囘想するのだが、この境涯で漸次、次のやうな文章が出來上つた。私は、少年の頃、藝術を並々ならず愛してゐた。しかもこの愛は、忠實な友のやうに、今この年になるまで私に伴つてゐる。私は、自分でも氣づかずに、胸奧から切に促されて、私の想ひ出を書き下した。親愛な讀者よ、それを君は寛大な目で觀てくれなければならない。この想ひ出は現代風に書き上げられてはゐない。それは私の力に及ばぬし、その上全く率直に言ふべきなら、それが又好きになれないから。」


「ラファエロの幻影」より:

「しかし私は上に指摘した似而非賢人の蒙を啓きたい。彼等は子弟達の若々しいこゝろを顧みない。といふのは神的なものに就て、恰もそれが人間的なものであるかのやうに、至極奔放に又輕薄に云ひきられた意見を彼等に教へ込む。又それによつて、藝術の最も偉大な巨匠達が――私はそれを明らさまに言つてよい――神的な靈感によつてのみ獲得したものを、自ら大膽に把握することができるかのやうな迷妄を彼等のこゝろに植ゑつける。
 藝術家の夥しい逸話が記録され、常に繰返し物語られた。彼等の夥しい重要な格言が保存せられ、絶えず反覆された。しかもこの逸話や格言に耳傾けられはするが、たゞうはつつらな驚歎の念が抱かれるだけで、このあらたかな證しから暗示される藝術の最も神聖な内奧を、誰一人豫感するに至らなかつたといふことがどうしてできたのか。他の自然に於てのやうに、藝術に於ても亦、神の攝理の痕跡を認めるに至らなかつたといふことがどうしてできたらう。」



「藝術に於ける、普遍性、寛容、人類愛に就ての若干の言葉」より:

「美、至つて不可思議な言葉! 個々のどの藝術感情に對しても、個々のどの藝術作品に對しても、先づ新たな言語を見出しなさい。どんな藝術感情や藝術作品にも、めいめい違つた色合がつく、そしてその何れに對しても、人間の身體の組織に、めいめい違つた神經が作られてゐる。
 しかしお前達はこの美といふ言語から、悟性の技巧によつて嚴密な體系を考案して、すべての人間に、お前達の規則通り感じるやうに強ひようとする。――そして自分は何も感じないのである。
 一つの體系を信じる人は、あまねくひろい愛を自分の心から追ひやつた! 感情の偏狹さは、悟性の偏狹さよりまだしも我慢できる。――迷信は體系の信仰より一層ましである。――」



「ピエロ・ディ・コシモの奇行に就て」より:

「自然は、彼の内部を、絶えず醗酵する幻想で滿し、彼の精神を、重い鬱陶しい雨雲で覆うてゐたので、彼のこゝろは絶えず不安な營みをつゞけ、一度も簡素な晴々した美の鏡に映されることもなく、とりとめのない幻影の中を駈けめぐつてゐた。彼に關するすべては異常なものであり、並外れたものであつた。」
「ピエロ・ディ・コシモは既に少年の頃、溌剌な常にきびきびした精神と、あり餘る想像力を懷き、それによつて、早くから學友に抽んでてゐた。彼の魂は、一つの考へとか、一つの心像にじつと安らふ事を決して喜ばなかつた。常に一群の見慣れぬ奇異な觀念が彼の頭腦を貫いて、彼を現在から引きさらつた。彼が坐して製作に從事し、その折同時に、何かを話すか、論ずるかした時幾度も、常にひとり自分だけでかけ廻る彼の幻想が、氣附かぬ内に、彼を非常にはるかな高みへ奪ひ去つたので、彼は突然云ひ淀み、現在の事物の聯關が彼の眼前でもつれた。そこで再び繰返し話をやり直さねばならなかつた。人間の交際は彼には嫌はしかつた。最もよく所を得たのは陰鬱なひとり居の際であつた。その折彼は本來の自分に歸つて、導かれる所何處へでも、こゝかしこ馳せゆく想念を追ひ求めた。常住、彼は密閉した部屋にひとりこもつて、全く獨特な暮し振りをした。彼は常に同じ單調な食事をして暮し、一日中何時でも食べたい時に、自分で食事の支度をした。彼は、自分の部室が掃除されるのは嫌ひであつた。又、庭の果樹や葡萄樹を刈りこむのに反對した。何故なら、彼は至る處、手を入れぬありふれた淸められない自然を見たく思つたから。そして他の人々の嫌ふ事を喜んだから。かうして彼は、物理的自然のすべての異形なものを、すべての奇怪な動物や植物に、永い間心を留めて見る事に、ひそかな魅惑を感じた。彼はじつと注意してそれらを見据ゑて、その醜惡を十分に味つた。彼はその姿を後に絶えず心裡に繰りかへし思ひ浮べた。そして最後には、嫌はしくなつたけれども、それを頭から追ひやる事はできなかつた。このやうな異形なものを、彼は漸次この上なく根氣の強い熱心さで描き集めておいて一冊の本とした。又屡〃彼は、古いしみのついた色とりどりの城壁とか、空の雲とかに、じつと目を注いだ。そして彼の想念は、すべてこのやうな自然の戲れから、荒々しい馬上の戰ひや、異樣な町々のある廣大な山地の風土についての、色々の傳奇的な觀念を把握したのである。――彼が非常な喜びを感じたのは、屋根屋根から舗道へざあざあ流れ落ちる、本當にはげしい土砂ぶりの雨に對してであつた。――ところが一方、彼は子供のやうに雷を恐れ、雷雨が天で荒れ狂つた時、彼の外套に小さくなつてくるまり、窓を閉め、驟雨が通り過ぎる迄、家の一隅に匍ひ込んでゐた。殆ど彼を半狂人にしたのは、幼兒の泣き聲や、鐘の音や、僧院の歌聲であつた。――彼が話をする際は、雜駁で常規を逸してゐた。それのみか、時々彼は全く素晴しくおどけた事を言つたので、それを聞いた人々はどつと笑はないわけにはゆかなかつた。とも角そんな具合であつたので、當時の人々から、彼はこの上なく頭の亂れた、殆ど正氣を失つた人だと云ひ觸らされたほどであつた。
 釜の中の沸き立つ湯水のやうに、絶えず沸騰し、泡立ち、蒸昇する彼の精神は、謝肉祭(カーニバル)の時、フィレンツェで行はれた假裝や、思ひ思ひの行列で、色々の新たな奇異な考案をして認められる全く特別な機會を得たのだが、それでこの祭禮は、彼によつて初めて本當に、これ迄には決してなかつたものとなつたのである。しかし、彼が指圖したすべての並外れた、非常に讃歎を受けた祭の行列の中で、一つの行列が特別に比類なく優れてゐたので、我々はそれに就ての簡單な物語をこゝに述べてみたい。その準備は人知れぬ樣とり行はれた、從つてフィレンツェの全市民は、それによつて、この上なく驚かされ、深い感動を與へられたのである。
 といふのは、當夜、有頂天の喜びに醉ひ痴れた民衆は、歡呼して町の街路をあちこち浮かれ歩いたのだが――群集は突然驚いて散りぢりになり、あわてふためいて振り返つた。夕闇の中を、重々しくゆるゆると四匹の黑い水牛で引かれ、骸骨と白い十字架で裝はれた、黑い巨大な車が近づいてきた。――そして車の上には、甚しく大きな死の勝利者の姿が、恐ろしい大鎌の武器を携へて、意氣揚々と歩み、車上、その足許には、本當の棺が散らかつてゐた。しかし、遲々とした行列は止つた――かと思ふと、奇異な角笛の不氣味な震音、その恐ろしい物凄い音調は、骨の髓や身の隅々を戰かしたのであるが、それにつれて――はるか彼方の炬火の魔力的な光の反映で、――その際、群れ集ふ人々はすべて、人知れぬ恐怖に襲はれたのだが、――ひとりでに開く棺の中から、緩々と、身體半分だけの白い骸骨が立ち現はれ、棺に腰を下して、陰鬱なしはがれた唄で大氣を滿し、その唄は角笛の音に融け合つて、血を血管に凝固させた。骸骨は、その歌の中で、死の恐怖すべきことを唄ひ、今元氣でそれを見てゐる人々も皆、やがて又、そのやうな骸骨になるだらうと唄つた。車の周圍や車の後には、死者の頭蓋骨のやうな假面を頭につけ、黑衣で覆はれ、白骨と白い十字架の繪で際だてられ、やせた馬に乘つた、夥しいもつれあつた死者の一群が犇めき合つてゐた。――又、何れも炬火を持ち、頭蓋骨や四肢の骨や白い十字架の繪で際だつた一竿の途方もなく大きな黑い旗をもつた、四人の別な黑衣の騎士のお供を連れてゐた。――車からも大きな黑い十竿の旗が垂れてゐた。――そして行列がゆるゆる匍行する間に、死者の全集團は、陰鬱に震へる聲で、ダビデの詩篇を放吟した。
 この意外な死人の行列は、最初非常な驚愕を弘めはしたけれど、フィレンツェの全市民が、この上ない滿足の念でこれを眺めた事は、極めて注目すべき事である。苦しい嫌はしい感覺は、力強く魂につかみ入り、しかとはなさず、いはゞ魂に共感を促がし、快感をそゝる事を餘儀なくさせるのである。そしてこの感覺がその上、ある詩的な感興を以て空想を襲ひ煽る時、こゝろは高い靈感に滿ちた緊張を失はないでゐる事ができる。同時に、このピエロ・ディ・コシモのやうな秀でた精神には、神に仍つて不可思議な神秘な力が植ゑつけられ、この力の企てる珍しい異常な事柄で、人々の心を、凡庸な大衆の心をすらも、奪ひ去るやうに思はれると、尚又私は云ひたいのだ。――
 ピエロは、たとひ、彼のじつとしてゐない陰鬱な空想によつて、絶えず飜弄され、驅りたてられ、疲らされたけれども、天運に惠まれて長壽を全うした。それのみか、八十近くなつて、彼の精神はいやさらに激しい幻想によつて驅りたてられた。彼は甚しい肉體の衰弱と、老齢に伴ふすべての苦しみに惱んだが、それでも常に自分ひとり苦しんだだけで、すべての伴侶や慈悲深い扶助をはげしく拒絶した。そんな時でも、まだ仕事をしようと思つたができなかつた。彼の兩手はきかなくなつて絶えず震へてゐたから。(中略)彼は影と爭つたり、蠅に對して立腹したりした。彼は、自分に死期が迫つてゐる事をあくまで信じようとしなかつた。彼は慢性の病ひが、千々の苦惱で肉體を次第にすつかり蝕んでいつて、その末、血の滴が次々に涸れてゆくのは、何と慘めなものであるかといふ事を、色々と話した。彼は醫者や藥屋や看護人を罵り、一般に食事や睡眠が許されない時、自分の遺言状を作らねばならぬ時、寢床のまはりで親戚のものが泣いてゐるのを見る時は、どんなに恐ろしいことであるかを書き記した。之に反して、絞首臺でたゞの一撃でこの世を去る人は幸福だと褒め上げた。そして非常に多くの人々の前で、又僧侶の慰安や祈禱と、幾千の人々の執り成しの下に、樂園の天使達の許へ登つてゆくのは、どんなに結構な事であらうと褒め讃へた。このやうな考へに彼は絶えず耽つてゐた。――が畢にある朝、全く思ひがけなく、彼が自宅の階段の下に冷くなつてゐるのが見出された。――
 これがこの畫家の精神の一風變つた特色である。それを私は、ジオルジオ・ヴァザーリの書に書いてある通り、忠實に物語つたのである。畫家としての彼に就ては、同じ著者が、彼について次のやうに我々に報告してゐる。彼は、最も好んで、躁しい酒宴や、亂痴氣騷ぎや、恐ろしい怪物、でなければ、ある恐ろしい心象を描いた。しかも繪を描く時の極めて難澁な執拗な勤勉に對して、彼を褒めてゐる。もとより同じ著者ヴァザーリは他の同樣に憂鬱な一人の畫家の傳記で、このやうな深奧な又憂鬱な人々は、製作の上での特別な根氣強い忍耐と精励によつて、屡〃衆に秀でるのが常であつた、といふ考へを述べてゐるのだが。」



「音樂家、ヨゼフ・ベルグリンゲルの注目すべき音樂生活」より:

「年少の頃、私は地上の苦難を逃れようと思ひました。そして今こそ、本當に泥濘の中に陷つたのです。おそらく殘念な事に違ひありません。我々の精神の翼のすべての努力を以てしても、地上の營みを逃れることはできません。地は無理矢理に我々を引戻します。そして、我々は再び最も卑俗な人群(ひとむれ)の中に落込むのです。」




こちらもご参照ください:

高橋巌+荒俣宏 『神秘学オデッセイ』 (新装版)
エルヴィン・パノフスキー 『新装版 イコノロジー研究』 浅野・阿天坊・塚田・永澤・福部 訳
Dennis Geronimus 『Piero di Cosimo : Visions Beautiful and Strange』
C. Whistler and D. Bomford 『The Forest Fire by Piero di Cosimo』
















































































































『世界文学大系 53 リルケ』 手塚富雄 編

「この量り知れぬ夜闇の中に
きみの五感の交叉路に、みずから魔法の力となれ、
五感の奇妙な出会いの意味となれ。」

(リルケ 「オルフォイスに寄せるソネット」 より)


『世界文学大系 53 
リルケ』 
手塚富雄 編


筑摩書房
昭和34年3月15日 発行
493p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価550円
装幀: 庫田叕

月報 14 (12p):
リルケについて(村野四郎)/リルケ頌(藤原定)/リルケの跡をたずねて(高安国世)/リルケを聴く(岸田衿子)/訳者紹介/編集後記/研究書目・参考文献/連載 世界文学史 14 イタリアのルネサンス(野上素一)/第十五回配本/図版(モノクロ)4点



詩と巻末の「詩編目次」は二段組、その他は三段組です。
本文中図版(「ドゥイノの悲歌」浄書原稿)1点。


リルケ 世界文学大系 01


リルケ 世界文学大系 02


目次:

初期詩集
 春 (神品芳夫訳)
 中部ボヘミヤの風景 (星野慎一訳)
 この黄いろのばらの花は (神品芳夫訳)
 夜あけのひかりが東の空を (神品芳夫訳)
 それは白菊の咲きほこる (神品芳夫訳)
 彼女のきよらかなたましいが (神品芳夫訳)
 遠い昔 (星野慎一訳)
 これがぼくのたたかいだ (神品芳夫訳)
 母たちの歌 (星野慎一訳)
 耳をかたむけ (神品芳夫訳)
 少女らが笑いながら (尾崎喜八訳)
 ごらんなさい、私たちの昼間は (尾崎喜八訳)
 私たちの心に意味を (神品芳夫訳)
 祈りのあとで (神品芳夫訳)

形象詩集
 序詩 (神品芳夫訳)
 ある四月から (神品芳夫訳)
 恋する女 (神品芳夫訳)
 静寂 (神品芳夫訳)
 子供のとき (神品芳夫訳)
 子供時代の一景 (神品芳夫訳)
 お守りのうた (神品芳夫訳)
 夜の人々 (神品芳夫訳)
 夜のヴァイオリン (神品芳夫訳)
 カルセル橋 (神品芳夫訳)
 嘆き (神品芳夫訳)
 孤独 (神品芳夫訳)
 秋日 (山本太郎訳)
 秋 (山本太郎訳)
 前進 (川村二郎訳)
 予感 (川村二郎訳)
 スコーネの夕べ (手塚富雄訳)
 夕ぐれ (川村二郎訳)
 受胎告知 (川村二郎訳)
 スウェーデン王カルル十二世ウクライナ騎行の歌 (川村二郎)
 ロシアの皇帝たち (高橋重臣訳)
 歌唱い公子を前にして唱う (高橋重臣訳)
 噴水について (尾崎喜八訳)
 読書する人 (高橋重臣訳)
 見つめる人 (高橋重臣訳)
 “ある嵐の夜から”より (矢内原伊作訳)
 盲目の女 (高橋重臣訳)

時禱詩集
 第一部 修道生活の書(抄) (生野幸吉訳)
 第二部 巡礼の書(抄) (高安国世訳)
 第三部 貧しさと死の書(抄) (大山定一訳)

新詩集
 愛の歌 (川村二郎訳)
 東洋風な後朝の歌 (大山定一訳)
 サウルのまえにダビデは歌う (前田棟一郎訳)
 放蕩息子の家出 (大山定一訳)
 橄欖園 (大山定一訳)
 ピエタ (富士川英郎訳)
 詩人の死 (尾崎喜八訳)
 仏陀 (富士川英郎訳)
 日時計の天使 (富士川英郎訳)
 モルグ (富士川英郎訳)
 豹 (富士川英郎訳)
 聖セバスチアン (高安国世訳)
 白鳥 (尾崎喜八訳)
 レース細工 (片山敏彦訳)
 成人した女 (大山定一訳)
 別離 (片山敏彦訳)
 死の体験 (大山定一訳)
 青いあじさい (前田棟一郎訳)
 旗手 (富士川英郎訳)
 ブレーデローデの最後の伯爵トルコの捕囚を脱す (小川正己訳)
 ローマの噴水 (富士川英郎訳)
 メリー・ゴーラウンド (大山定一訳)
 スペインの踊子 (尾崎喜八訳)
 島 (高安国世訳)
 オルフォイス オイリュディケ ヘルメス (前田棟一郎訳)
 アルケスティス (高安国世訳)
 ヴェーヌスの誕生 (尾崎喜八訳)
 薔薇の葩 (大山定一訳)
 
新詩集別巻
 アポロのトルソ (前田棟一郎訳)
 レダ (手塚富雄訳)
 恋人の死 (尾崎喜八訳)
 ヨナタンのための嘆き (小川正己訳)
 盲人 (富士川英郎訳)
 群像 (富士川英郎訳)
 海の歌 (山本太郎訳)
 夜の馬車 (高安国世訳)
 肖像 (富士川英郎訳)
 ヴェニスの晩秋 (大山定一訳)
 ラウテ (大山定一訳)
 姉妹 (富士川英郎訳)
 ピアノの練習 (大山定一訳)
 愛に生きている女 (片山敏彦訳)
 薔薇の内部 (富士川英郎訳)
 べにづる (大山定一訳)
 子守唄 (尾崎喜八訳)
 薔薇色のあじさい (富士川英郎訳)
 孤独の人 (尾崎喜八訳)
 毬 (富士川英郎訳)
 子供 (富士川英郎訳)
 円光の仏陀 (大山定一訳)

鎮魂歌
 ある女友のために (高橋英夫訳)

マリアの生涯 (国松孝二訳)
 マリアの誕生
 マリア供御
 マリアへの告知
 マリアの訪れ
 ヨセフの猜疑
 牧人たちへの告知
 キリスト降誕
 エジプトへの亡命の途次の憩い
 カナの婚筵
 受難の前
 ピエタ
 イエスのよみがえりとマリアの安らぎ
 マリアの死

ドゥイノの悲歌 (手塚富雄訳)
 第一の悲歌
 第二の悲歌
 第三の悲歌
 第四の悲歌
 第五の悲歌
 第六の悲歌
 第七の悲歌
 第八の悲歌
 第九の悲歌
 第十の悲歌

オルフォイスに寄せるソネット (高安国世訳)
 第一部
 第二部

後期詩集
 真珠だまが散る (富士川英郎訳)
 スペイン三部曲 (富士川英郎訳)
 天使に寄す (富士川英郎訳)
 ナルシス (富士川英郎訳)
 私を驚かすがいい 音楽よ (富士川英郎訳)
 キリストの地獄めぐり (谷友幸訳)
 清浄な木立の向うで (富士川英郎訳)
 寡婦 (手塚富雄訳)
 いばらのしげみに起る声 (手塚富雄訳)
 冬の賦 (富士川英郎訳)
 大いなる夜 (高橋英夫訳)
 夜によせる詩 (高橋英夫訳)
 兄妹 (大山定一訳)
 予め失われている 恋びとよ (富士川英郎訳)
 転向 (富士川英郎訳)
 ベンヴェヌウタに (富士川英郎訳)
 嘆き (富士川英郎訳)
 彼女たちを知ったからには死なねばならぬ (富士川英郎訳)
 ありとあらゆるものが人知れず…… (大山定一訳)
 ヘルダァリーン頌 (大山定一訳)
 心の頂きにさらされて (富士川英郎訳)
 さらにふたたび (堀辰雄訳)
 愛のはじめ (前田棟一郎訳)
 死 (富士川英郎訳)
 音楽は立像がもらす吐息か (大山定一訳)
 C・W伯の詩から (富士川英郎訳)
 何時になったら (富士川英郎訳)
 対歌 (富士川英郎訳)
 かもせよ魔酒を (手塚富雄訳)
 旅人 (小川正己訳)
 ヴァリスのスケッチ七篇 (富士川英郎訳)
 涙の壺 (富士川英郎訳)
 魔術師 (手塚富雄訳)
 強烈な星よ (富士川英郎訳)
 エロス (富士川英郎訳)
 無常 (富士川英郎訳)
 既に樹液は暗く根のなかで (富士川英郎訳)
 音楽 (富士川英郎訳)
 日ざしに馴染んだ道のほとり (高安国世訳)
 重力 (富士川英郎訳)
 ああ 涙でいっぱいのひとよ (富士川英郎訳)
 薔薇 おお 純粋な矛盾 (富士川英郎訳)

フランス語の詩
 「果樹園」より (片山敏彦訳)
  この夕べ 私のこころは 
  晩のランプよ
  われらの生は
  たなごころ
  女友のためいきの上で
  その壮麗の奥に位置して
  なべて極度の力を
  噴水
  ときおりは 君の意見に従うことが
  果樹園
  われらの眼が閉じることは
  天使たちから観れば
  かりそめに通り過ぎて
  この夕べ何ものかが
 「ヴァレの四行詩」より (片山敏彦訳)
  山の路の中ほどに
  あの高いところに
  鐘楼が歌う
  この空を見つめたことのある人々は
 「薔薇」より (山崎栄治訳)
  幸福な薔薇よ、
  だれをおそれて、薔薇よ、
  薔薇よ、おまえをそとに残して

神さまの話 (手塚富雄訳)
オーギュスト・ロダン (生野幸吉訳)
マルテの手記 (生野幸吉訳)

随想
 風景について (小川正己訳)
 夢の本より (星野慎一訳)
 ある出会い (小川正己訳)
 体験 (星野慎一訳)
 手記 (星野慎一訳)
 思い出 (川村二郎訳)
 人形についてあれこれ (小川正己訳)
 太初の音 (川村二郎訳)
 若い詩人について (川村二郎訳)
 詩人について (川村二郎訳)
 若き労働者の手紙 (星野慎一訳)

ポルトガル文(リルケ訳) (水野忠敏訳)

晩年のリルケ (ホルトゥーゼン/永野藤夫訳)

解説 (手塚富雄)
年譜 (神品芳夫編)
詩編目次



リルケ 世界文学大系 03



◆本書より◆


「オルフォイスに寄せるソネット 29」より:

「この量り知れぬ夜闇の中に
きみの五感の交叉路に、みずから魔法の力となれ、
五感の奇妙な出会いの意味となれ。

そしてもし地上のものがきみを忘れたら、
静かな大地に向って言え、私は流れる、と。
すみやかな流れに向って言え、私は在る、と。」



「ありとあらゆるものが人知れず」より:

「ありとあらゆるものが人知れずそっとぼくらの感受に合図をおくっている。
ほのかな身動きから微風がささやく――思いだせ、と。
ゆくりなく過ぎ去った一日が、
いつかふとぼくらへの贈与となって立ちかえる。

誰もぼくらの収得を確実にかぞえることはできぬ。
古い過去の歳月から、誰もぼくらを切り離すことはできぬ。
この世のなかでぼくらが常に経験するのは
一が他のなかでおのれ自身を知るということ。

言葉をかえれば 何のゆかりもないものがそっとぼくらのそばにきて身をあたためるということ。
一つの家。牧場の斜面。そして西空の赤光(しゃっこう)。」

「あらゆるもののなかに一つの空間がひろがっている。
いわば「宇宙の内部空間」……そして小鳥たちは
しずかにぼくらの体内を飛び交い、自由に伸びようと意志して
ぼくがふと目を放てば、ぼくのうちにすでに青々と一本の樹木が生えている。」



「オーギュスト・ロダン」より:

「ロダンは名声をかちうる前、孤独だった。やがておとずれた名声は、おそらく彼をもういっそう孤独にした。なぜなら名声というものは、結局は、新しい名前の周りに集まるすべての誤解の総括にすぎないのだから。」


「マルテの手記」より:

「もう今では身内もいないふるさとを想い浮かべると、むかしはこんなふうではなかったにちがいないと思えてくる。むかしは、ちょうどくだものが核をもつように、だれもが自分のからだのなかに死がひそむのを知っていた(あるいは漠然と感じていた)。子供たちは小さな死を、おとなは大きなおとなの死を、それぞれに宿していた。(中略)だれしもが、ともあれ死を持っていた。そのことが人々に特有の品位としずかな誇りをあたえていた。」

「それがなにかの合図なのだ、仲間同士の一種の合図、追いだされ敗北したひとびとだけが知っている合図なのだ、とぼくは悟った。」

「たしかに、かれは自分が周りのもののすべてからいまは隔てられているのを知っていた。ただ人間たちから、というだけではなかった。もうあと一瞬。そのときあらゆるものが、固有の意味をなくすだろう。このテーブルも、茶碗も、かろうじてしがみついているこの椅子も、――あらゆる日常のもの手ぢかなものが、もはや理解の手がかりをうしなうだろう。奇妙な、みなれない、鈍重なものに変わるだろう。かれはこうして坐ったまま、そんな瞬間を待っていた。抵抗もせず断末魔を待っていた。
 だが、ぼくはまだ抵抗をやめはしない。ぼくの心臓はもう舌べろのようにむきだしに垂れ、迫害者たちがたったいま、ぼくを苛(さいな)むのをやめてくれても、これ以上いきてゆくちからはない。自分でもそれは判っているが、ぼくはやはり抵抗する。わるいことなんか起こらなかった、とぼくは自分に言いきかせる。」

「彼がなんびとであるか、かれらには知るよしもなかった。いまでは彼は怖るべく愛されがたい人間であった。そしてただある一者のみが自分を愛しうることを予感していた。しかもその一者はまだ愛しようとしないのだった。」



「風景について」より:

「ゆっくりとそれは、孤独な人々の手によって、数世紀の間ずっと形づくられていった。たどらねばならぬ道のりは非常に遠かった、というのは住みなれた人の偏見にくもった眼ではもはやこの世を見ないほど、この世の習慣から遠のくということはむつかしいことであったからだ、(中略)生活を支配している事物をどんなに間違って見るものか、また私たちをとりまいているものを私たちに言うためには、しばしば人はまず遠方からやって来なくてはならないということを知っている。」


「体験」より:

「彼はその館(やかた)の庭で不思議なことを体験した。庭はかなり急な斜面に添うて海にまでのびていた。いつもの癖で本を一冊持ちながらあちらこちらぶらついて、ふと、灌木状の木の、ほぼ肩の高さの叉(また)のところに身を寄せかけたときだった。そこにもたれかかったかと思うと、急に気もちよい支えとゆたかな安らぎとを得たように感じたので、すっかり自然のなかにとけ込んでしまい、本を読むことも忘れて、ほとんど無意識な観照の世界をさまようたのであった。今まで体験もしなかったような感情について、しだいに、気がつきはじめた。木のなかから微妙な震動が伝わって来るような気もちだった。(中略)これより微妙な動きにみたされたことはかつてなかったと思った。彼の肉体はほとんど霊にちかい取りあつかいをうけて、ふたんのはっきりした身体の状況ではとうてい感じられないような影響を受け入れることができる状態におかれていた。(中略)「そうだ、おれは自然の裏側に廻ってしまったのだ」と。(中略)不思議にも親しみある間隔ををおいてくりかえしせまって来る流れが、彼の体内のすみずみまで、ますます一様にしみとおるにつれて、彼には自分の肉体が哀切きわまりないものに感じられた。肉体は今はただ、純粋に、ひたすら心して、その流れのなかに立ってそれをうけ入れるためにのみ役立つにすぎない存在となっていたのだ。それはちょうど、すでにどこかこの世ならぬ世界にさまようている霊魂が、うつろのままながら、かつては不可欠のものだったこの世のなかにもう一度帰属しようと、やさしく放ったままにしておいたこの肉体のなかに悲しげに入って来るようなものだった。姿勢をくずさずにゆっくりと周囲を見まわしながら、彼はあらゆるものに旧知を感じ、あらゆるものを想い起こし、いわば遠い愛情をもってそれらにほほえみかけた。今はすっかりかかわりのない世界となってしまってはいるが、かつては自分に関係のあった遠い昔のことのように、すべてをあるがままのかたちにまかせていた。一羽の鳥の姿を追い、とある樹蔭(こかげ)にひかれ、またかなたへ延びて消える一介の道も瞑想的な洞察によって彼の心をみたすのであった。みずからがここにはかかわrない身であると知っていただけに、その洞察はいっそう純粋に想われた。これまでいったいどこに自分が滞在していたのか、彼は考えることさえ出来なかっただろう。けれども、この邸のすべてのもののところへかえって来たということ、すて去られた窓の奥ふかく坐っているように、向こうを見ながら、この肉体のなかに立っていたということ――数瞬のあいだ彼はそれを固く信じたので、この家の昔の誰かが突然姿をあらわしたならば、さだめし愕(おどろ)きかつ悩んだことであろう。実際、彼はその自然のなかで、ポリクセーネや、ライモンディーネや、その他この家の亡くなった家族の一員が道の曲り角からあらわれて来るのに出逢うのを、心待ちにしていたのであった。あたりに死者たちのすがたが静かにみちあふれているのを彼は理解できたし、地上のかたちがかくも気軽にそのまま用いられるのを見るのも、親しみがあった。(中略)そしてたぶんその青い眼差しにはこれまで幾たびもお目にかかったであろう蔓日日草(つるにちにちそう)は、いっそう精神的となった間隔をもって彼にふれるようになった。隠しだてているものなぞはもはや何もないというような無量の意味をこめて。おしなべて彼は、すべての対象がいっそう遠ざかると同時に、いっそうなんとなく真実な姿を示すようになったのを、認めることが出来た。それは、もはや前方へは向けられずに、「開かれた世界」のなかを漂渺(ひょうびょう)とただようていたかれの視線のせいであったかもしれない。彼は言わば肩越しに物たちをふりかえって見たのである。彼のために解き放たれた物たちの存在には、さながら別離の花の香気をまじえたような、大胆で甘い一種の風味がそえられてあった――
 こういう異常な状態はながつづきしないと、時おり自分に言いながらも、音楽と同じように、このような状態からはただかぎりなく規則的な終末以外には期待できないかのように、彼はそれが終るのを別に恐れていたわけではなかった。
 急にそういう姿勢が苦しくなって来た。彼は幹を感じ、手にした本の疲れを感じたので、そこから離れた。すると一陣のさわやかな海風が梢(こずえ)の葉をひるがえし、坂を匐(は)いあがっている灌木の茂みが入り乱れてざわめいた。」

「のちになって彼は、この一つの現象の力が種子のなかに秘められているようにあらかじめふくまれていた幾つかの瞬間を、想い出せるような気がした。彼はあのもう一つの南方の庭園(カプリ)にすごしたひとときを想起した。そこでは野外の鳥の啼声と彼の内界の鳥の啼声とが一つになっていた。つまり彼は、肉体の限界によってほとんどさまたげられることなく、内界と外界とを結んで一つのつながった空間を現出することができたのだ。そしてその空間のなかには、神妙な保護をうけて、最も純粋な、最もふかい意識の、ただ一つの場だけが残されていたのである。このように壮大な体験をちっぽけな肉体の輪郭によって妨げられまいとして、彼はそのときじっと目をとじた。すると無限の力があらゆる方面から彼の体内へそそぎ込んで来たので、彼はそのあいだにまばたき出した星のかろやかな上昇を、自分の胸のなかに感ずることができるような気になった。
 彼はまた想い出した。同じような姿勢で籬(まがき)に寄りかかりながら、橄欖樹のしなやかな梢を透かして星空を眺めようと骨を折ったことを。世界空間がこのようなマスクをかぶって、人間の顔のように彼と向かいあったことを。このようなことにじっと堪えていたら、あらゆるものが彼の心の溶液のなかに完全にとけこんでしまい、彼自身の存在のなかに創造物の味わいが感じられたことを。おぼつかない自分の幼年時代をふりかえってみても、彼はこのような放我の状態が考えられうるような気がした。いざ嵐に身をさらさねばならなかったとき、いつも彼をとらえたあの情熱的勇気を想い起こせば足りるのではなかろうか。(中略)しかし最初から、原始的な風の猛威、純粋にしてゆたかな水の様態、去来する雲のなかの英雄的なものなどがいちじるしく彼の心を捉え、人間的なものを理解できなかった彼のたましいに、それらのものが真実の運命として迫って来たのであるならば、最近さまざまな影響を受けて以来というもの、そのような関係に言わば彼が決定的に委(ゆだ)ねられていることを否定するわけにはゆかなかった。静かに分けへだつものが、彼と人間とのあいだに、ほんのちょっぴり、一つの純粋な中間空間をつくっていた。この空間を通しておそらく二三のものがかなたの世界へ達したのであろうが、またこの空間はあらゆる関係を呑みこんでそれでいっぱいになっていたので、濁った煙のようにかなたの人の姿をつぎつぎに曇らせてしまった。彼はまた、自分の孤立した姿がどの程度まで他の人々の印象に残ったかということも知らなかった。が、彼自身について言えば、そういう孤立が人々にたいして彼にある種の自由をあたえてくれるのであった――貧のささやかな発端、それゆえにこそ身のかるさを覚えたのであったが、それは、おたがいに希望を持ち、不安を感ずる人々、生と死にしばられている人々のあいだにまじっている彼に、一種独特な軽快さをあたえたのである。その軽快さを人々の苦難にみちた生活に比較してみようという誘惑を彼はまだ感ずるのであった。そういうことが人々をどんなに惑わすかを、よく見ぬいていたのではあったが。というのは、彼が固有な克服にたどりついたのは(英雄のように)、人々の生きるあらゆる制約の世界、つまり、人々の心の重苦しい空気のなかではなくて、人間が「空」と名づけるより方法がないであろうような、ほとんど人間的構えの感じられない空間のなかであったことを、人々が知り得ようはずがなかったからだ。彼が人々にもたらし得たもののすべては、おそらく彼の童心だけであっただろう。」



「太初の音」より:

「さて、くり返し私の心にひらめく着想とは、いったいどんなことなのか? それはこういうことなのである。――
 頭蓋骨の冠状縫合線は(中略)、蓄音器の針が録音用廻転円筒に刻みこむ、微細に曲折する線と、一脈の相似性をそなえている。(中略)さてそこで、この針を欺いて、(中略)音を転移した図形のではない、すなわち、それ自体で自然のままに存在している線条の上へ導いたとしたら、どうだろう。つまり、はっきり言ってしまうと、たとえばほかならぬこの冠状縫合線の上へ導いたとしたら――どんなことになるだろう?――一つの音が、おそらく生じるのではあるまいか、一つの旋律、一つの音楽が……」
「この時生まれ出るであろう太初の音に、何か一つの名を与えることに、私はためらいを感ずる……
 さしあたりこれだけのことを述べておこう。すると、どこに現われるどんな線でも、針の下でためしてみたいという気にならないだろうか? どんな輪郭線でも、ほぼこのようなやり方で終りまで引いて見て、変様したその線が、別の感覚領域に現われて迫って来るさまを、感じ取りたいという気にはならないだろうか?」



「解説」(手塚富雄)より:

「市民的職業につくことをせず、知友を頼ってさだめなく各地をわたり歩き、つねに自分の心情に忠実に生きようとしたリルケの生き方は人々のよく知るところである。」


リルケ 世界文学大系 04




こちらもご参照ください:

『リルケ詩集』 富士川英郎 訳 (新潮文庫)
リルケ 『ドゥイノの悲歌』 手塚富雄 訳 (岩波文庫)
リルケ 『マルテの手記』 星野慎一 訳 (旺文社文庫)
『マルテの手記/影のない女 他』 川村二郎 他 訳 (集英社版 世界文学全集 66)
リルケ 『神さまの話』 谷友幸 訳 (新潮文庫)
ミッシェル・セール 『五感 ― 混合体の哲学』 米山親能 訳 (叢書・ウニベルシタス)















































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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