アントニオ・タブッキ 『インド夜想曲』 須賀敦子 訳 (白水uブックス)

「「僕は夜の鳥になってしまいました。これが僕の運命だったのでしょう。」」
(アントニオ・タブッキ 『インド夜想曲』 より)


アントニオ・タブッキ 
『インド夜想曲』 
須賀敦子 訳
 
白水uブックス 99 
海外小説の誘惑

白水社
1993年10月20日 第1刷発行
1997年10月10日 第6刷発行
163p
新書判 並装 カバー
定価820円+税
ブックデザイン: 田中一光


「本書は1991年に単行本として小社から刊行された。」



本書はだいぶまえに図書館で借りてよんだのですがどんな内容だったか忘れてしまったので日本の古本屋サイトで500円で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました(4,000円以上購入で送料無料)。


タブッキ インド夜想曲


カバー裏文:

「失踪した友人を探してインド各地を旅する主人公の前に現れる幻想と瞑想に充ちた世界。ホテルとは名ばかりのスラム街の宿。すえた汗の匂いで息のつまりそうな夜の病院。不妊の女たちにあがめられた巨根の老人。夜中のバス停留所で出会う、うつくしい目の少年。インドの深層をなす事物や人物にふれる内面の旅行記とも言うべき、このミステリー仕立ての小説は読者をインドの夜の帳の中に誘い込む。イタリア文学の鬼才が描く十二の夜の物語。」


内容:

第一部
 Ⅰ
 Ⅱ
 Ⅲ
 Ⅳ
第二部
 Ⅴ
 Ⅵ
 Ⅶ
第三部
 Ⅷ
 Ⅸ
 Ⅺ
 Ⅻ

訳者あとがき




◆本書より◆


「Ⅰ」より:

「「親切なひとでした。こころはいいひとだったんだけど、悲しい運命に生まれついていたんです」」
「「病気だったんです。悲しい運命に生まれついたからです」」



「Ⅱ」より:

「「インドで失踪する人はたくさんいます。インドはそのためにあるような国です」」

「廊下は、陰鬱な空色に塗ってあって、どこまでも続いていた。床がまっくろになるほどゴキブリがいて、踏まないようにと細心の注意を払っていても、僕たちの靴の下で、小さな破裂音をたてた。「退治するのですが」と医者は言った。「ひと月もすると、また卵がかえります。壁にびっしり卵がついていて、病院そのものをとりこわさない限り、どうにもなりません」」



「VI」より:

「「あなたはグノーシス神秘主義者ですか」彼がとつぜん訊いた。目はまだ閉じたままだった。
 「たぶん、そうじゃありません」僕は言った。「いや、よくわかりません。好奇心があるだけです」
 彼は目をあけ、悪意、でなければ皮肉をこめて、僕を見た。「あなたの好奇心はどの辺りまでですか」
 「スウェーデンボルグ」僕は言った。「シェリング、アニー・ベザント。すべて少々かじっただけです」彼が興味を示したのをみて、僕はつづけた。「でも、間接的に知った人もあります。たとえば、アニー・ベザントがそうです。フェルナンド・ペソアが彼女の書いたものを訳したからです。ペソアはポルトガルの大詩人で、一九三五年に、無名のまま死にました」
 「ペソア」彼が言った。「そうね」
 「ごぞんじですか」僕はたずねた。
 「ちょっとだけ」会長は言った。「あなたがかじったとおっしゃったぐらいです」
 「ペソアは自分がグノーシス神秘主義者だと公言していました」僕は言った。「薔薇十字だったんです。Passos da Cruz [十字架の道]という秘教的な詩集の著者です」
 「読んだことはありませんが」と会長は言った。「彼の生涯については少々知識があります」
 「臨終の言葉をごぞんじですか」
 「いや、どういうのですか」彼は訊いた。
 「『そこにある眼鏡をとってくれ』です。ひどい近眼だったので、あの世に眼鏡をかけて行こうとしたのです」」

「「なにがいちばんお気に召しましたか」
 「たくさんありますね。でも、ひとつあげるなら、カイラサンタの寺院でしょう。なにか痛々しい、そのくせ魔術的なところがあって」」



「Ⅶ」より:

「そのとき初めて、僕は少年がおぶっている動物と思ったものが、猿ではなく、人間だとわかって慄然とした。それはおそろしい形をした生きものだった。残忍な自然のしわざなのか、なにかこわい病気によるものか、その子の肉体は形も大きさも、プロポーションを失ったままちぢかまっていた。手足は彎曲し、変形して、グロテスクとしかいいようのない、むざんな秩序と寸法を強いられていた。」
「少年は自分の胸のうえに組まれた小さな手を撫でながら、愛情をこめて言った。「ぼくの兄さんです。年ははたちです」」



「Ⅹ」より:

「「ある日、フィラデルフィアの道を歩いていた。寒い日の朝で、僕は郵便を配達していた。どこまで行っても町は雪だらけ。フィラデルフィアはひどいところだ。僕はだだっぴろい道路を歩いていた。それから、長い、暗い路地にはいった。スモッグをつきぬけてきた太陽の光線が一本、かろうじて路地を照らしていた。僕はそのあたりをよく知っていた。毎日、郵便を配達してたからね。つきあたりは自動車の修理工場だった。いいかい、その日、僕がなにを見たと思う? あててごらん」
 「ぜんぜんわからない」僕は言った。
 「海だ」彼が言った。「僕は海を見た。路地のつきあたりに、きれいな青い海があって、波がしらが白く泡だっていた。砂浜と椰子の木と。ねえ、どう思う?」
 「ふしぎだな」僕は言った。」





こちらもご参照ください:

『集英社版 世界の文学 31 ドノソ 夜のみだらな鳥』  鼓直 訳
Fernando Pessoa 『A Little Larger Than the Entire Universe: Selected Poems』 Edited and translated by Richard Zenith (Penguin Classics)






























































































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ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』 河島英昭 訳 全二冊

「空はもうすっかり暗くなっていて、闇の奥から雪がちらつき始めていた。軽やかに舞うこれらの柔らかな雪片は、おそらく一晩じゅう降りつづけるであろう。そして翌朝には、台地が一面の銀世界になるはずであった。それについては、いずれまた述べることにしよう。」
(ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』 より)


ウンベルト・エーコ 
『薔薇の名前 上』 
河島英昭 訳

東京創元社
1990年1月25日 初版
1990年4月13日 7版
413p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円(本体1,942円)
装幀: 中島かほる

栞: 登場人物表/『薔薇の名前』参考地図



ウンベルト・エーコ 
『薔薇の名前 下』 
河島英昭 訳


東京創元社
1990年1月25日 初版
1990年3月5日 再版
426p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円(本体1,942円)
装幀: 中島かほる

栞: 登場人物表/『薔薇の名前』参考地図



本文中図版(「文書庫」平面図)各1点。見返しに僧院平面図。

出てきたので久しぶりによんでみました。


エーコ 薔薇の名前 01


上巻 帯文:

「迷宮構造をもつ文書館を備えた、中世北イタリアの僧院で「ヨハネの黙示録」に従った連続殺人が。パスカヴィルのウィリアム修道士が事件の陰には一冊の書物の存在があることを探り出したが……
精緻な推理小説の構図の中に
碩学エーコがしかけた
知のたくらみ
伊・ストレーガ賞、仏・メディシス賞 受賞」



下巻 帯文:

「中世、異端、「ヨハネの黙示録」、暗号、アリストテレース、博物誌、記号論、ミステリ……そして何より、読書のあらゆる楽しみが、ここにはある。
全世界を熱狂させた、
文学史上の事件とも
いうべき問題の書
伊・ストレーガ賞、仏・メディシス賞 受賞」



帯背(上下とも):

「今世紀最大
の問題小説」



上巻 目次:

手記だ、当然のことながら

プロローグ

第一日
 一時課 僧院の麓(ふもと)に着くと、ウィリアムが鋭い推理の一端を窺わせる
 三時課 ウィリアムが僧院長と教訓的な会話を交わす
 六時課 アドソが聖堂の正面扉口を眺めて讃嘆し、ウィリアムはウベルティーノ・ダ・カサーレと再会する
 九時課 ウィリアムが薬草係の学僧セヴェリーノと博識な会話を交わす
 九時課の後 写字室(スクリプトーリウム)を訪れて、多数の学僧をはじめ、写字生や写本装飾家(ルブリカトーレ)、さらには反キリストの到来を待ち受ける盲目の老人と知りあう
 晩課 僧院の残りの敷地を見てまわり、ウィリアムがアデルモの死に関して若干の推論を試みたのちに、字を読むためのガラス片と読書欲の過剰な者に現われる幻覚についてガラス細工僧と語りあう
 終課 ウィリアムとアドソが僧院長から温かいもてなしを受け、ホルヘからは棘(とげ)のある会話の応酬を受ける

第二日
 朝課 法悦のひとときが血腥(ちなまぐさ)い事件によって中断される
 一時課 ベンチョ・ダ・ウプサラがかなりの事実を打ち明け、ベレンガーリオ・ダ・アルンデルのほうも別の事実を打ち明ける。アドソは真の悔悛が何かを納得する
 三時課 卑しい身分の者同士の争いを私たちが看守っていると、アイマーロ・ダ・アレッサンドリアが近づいてきて、いくつかの事実をほのめかした。アドソは聖性や悪魔の糞尿について思いをめぐらせる。そのあとで、ウィリアムとアドソは写字室へ戻ったが、ウィリアムは興味深いものを見つけ、笑いの正当性に関して三たび議論を交えたが、結局のところ念願の場所を覗くこてゃできない
 六時課 ベンチョの語る奇妙な話から僧院生活の芳しくない実態がわかる
 九時課 僧院の財宝を自慢してから、院長が異端の恐ろしさを述べたてる。しまいにアドソは自分が広い世界を見るために旅へ出たのは間違っていたのではないかと疑ってしまう
 晩課の後 短い章ではあるが、ここでは長老のアリナルドが迷宮とそのなかへ入る方法について非常に興味深い事柄を口走る
 終課 異形(いぎょう)の建物に入ると、正体不明の人物が先に入っていた。妖術使の記号めいたものが書きつけてある秘密のメッセージが見つかる。今後も数多くの章にわたって探索の対象となる書物が、見つかったかと思うと、たちまちに失われてしまう。そしてウィリアムは大切なレンズを盗まれるが、変転する事件はそれに留まらない
 深夜課 ついに迷宮のなかへ入って、不思議な幻に出遭い、迷宮のつねとして、そこで迷ってしまう

第三日
 讃課から一時課まで 行方不明になったベレンガーリオの僧房(チェッラ)で、血痕のついた布切れが見つかる。しかしそれ以上の手掛かりはない
 三時課 写字室でアドソが、自分の修道会の歴史について、また蔵書の運命について、思いをめぐらす
 六時課 アドソはサルヴァトーレから過去の身の上を打ち明けられる。それは短い言葉で語り尽くせるものではなく、逆に数多くの気掛かりな問題について考えさせられてしまう
 九時課 ウィリアムはアドソに異端の大河のことを、教会における平信徒の役割のことを、普遍的法則の可知性に疑問を抱いていることを語って、そのあとヴェナンツィオが残した妖術使の記号の秘密をどのようにして解いたかを、さりげなく語る
 晩課 ふたたび僧院長と語りあった。迷宮の謎を解くためにウィリアムは卓抜な考えをつぎつぎに思いつき、いちばん理に叶った方法でこれに成功する。そのあとでチーズの焼菓子を食べる
 終課の後 ウベルティーノが修道士ドルチーノの事件をアドソに物語る。アドソは別の事件を思い出したり、文書館のなかで勝手な読書に耽ったりする。が、そのあとで、戦闘態勢を整えた軍隊のような美しくも恐ろしい娘に出会う
 深夜課 アドソは取り乱してウィリアムに告白し、天地創造の企てのなかで女に課された役割に思いをめぐらすが、そのあとで男の死体を発見する



下巻 目次:

第四日
 讃課 ウィリアムとセヴェリーノがベレンガーリオの死体を調べてみると、舌が黒くなっている。溺死者にしては解せない反応だ。それから二人の話は毒物のことになり、遠い以前に起こった盗難事件が話題になる
 一時課 ウィリアムはまずサルヴァトーレに、ついで厨房係に、曰く付きの過去を、それぞれに白状させる。盗まれたレンズをセヴェリーノが見つけ出し、新しいレンズをニコーラが持ってきたので、ウィリアムは六個の眼玉でヴェナンツィオの書き残した紙片の解明に取りかかる
 三時課 アドソが愛に苦しみ悶えていると、ウィリアムがヴェナンツィオの紙片を持ってやって来る。謎を解いたあとにも、なお謎めいたものとしてそれは残る
 六時課 アドソが松露を探しに行くと、小さき兄弟会士(ミノリーティ)の一行が到着する。彼らはしばらくのあいだウィリアムやウベルティーノと話しあっていたが、ヨハネス二十二世をめぐるまことに憂うべき事態が明らかになる
 九時課 ポッジェットの枢機卿、ベルナール・ギー、その他アヴィニョンの一行が到着し、その後は各人が思い思いに行動する
 晩課 アリナルドがどうやら貴重な情報をもたらしてくれる。ウィリアムは一連の試行錯誤の後に、真実と思われるものへ達するための独自の方法を明らかにする
 終課 サルヴァトーレが不思議な魔術について語る
 終課の後 ふたたび迷宮に入りこみ、〈アフリカ ノ果て〉の敷居に達するが、四つのうちの第一と第七が何であるのかわからないために入れない。そして最後にアドソが、今度は非常に学問的な形ではあったが、愛の病(やまい)のなかへまたしても倒れこむ
 深夜課 サルヴァトーレが惨めにもベルナール・ギーに見つけ出され、アドソの愛する娘は魔女として捕えられて、誰もがいっそう滅入った落着かない気持で眠りにつく

第五日
 一時課 キリストの清貧をめぐって忌憚のない意見が交わされる
 三時課 セヴェリーノが奇妙な書物のことをウィリアムに告げ、ウィリアムは世俗権力をめぐる奇妙な考え方を双方の使節団に語る
 六時課 セヴェリーノが惨殺死体で発見され、彼が見つけたはずの書物はもう見当たらない
 九時課 審問が行なわれ、間違っているのはすべての人間ではないかという混乱した印象を抱く
 晩課 ウベルティーノが逃亡し、ベンチョが僧院の規則を守りはじめ、ウィリアムはこの日に巡り合った様ざまな型の欲望について考察を加える
 終課 反キリスト到来の説教に一同が聞き入り、アドソは名前の持つ力を発見する

第六日
 朝課 〈坐セリ(セダールント)〉王侯たちはと歌声の流れるなかで、マラキーアが床に倒れる
 讃課 厨房係は新たに選び出されるが、文書館長は新たに選任されない
 一時課 地下聖堂(クリプタ)の宝物庫を訪ねているうちに、ニコーラが多くのことを物語る
 三時課 死者のミサ「ディエス・イレ〔怒りの日〕」を聞きながら、アドソが夢もしくは幻とでも呼ぶべきものを見る
 三時課の後 ウィリアムがアドソの見た夢の謂(いわ)れを解き明かす
 六時課 歴代文書館長の人脈を辿り返すうちに、謎の書物についても新たな情報を得る
 九時課 僧院長はウィリアムの話に耳を貸そうとせずに、宝石の言語について語り、あの痛ましい一連の事件にはもう立ち入らないでよいと言明する
 晩課と終課のあいだ 長びいた混乱状態が手短に物語られる
 終課の後 ほとんど偶然に、ウィリアムが〈アフリカ ノ果テ〉に入る秘密を発見する

第七日 
 深夜課 ここで暴露された驚くべき秘密の物語を要約しようと思えば、この小見出しは章全体の長さにも等しくなりかねない。だが、それでは従来の慣習に反してしまう
 深夜課 世界燃焼(エクピュローシス)が生じて、徳が満ちあふれたために、地獄の力が勝利を収める

最後の紙片

解説 (河島英昭)



エーコ 薔薇の名前 02



◆本書より◆


「手記だ、当然のことながら」より:

「なぜならこれは、惨めな日常身辺の些事を取り扱う物語ではなく、あくまでも数々の書物の物語であって、これを読めば偉大なる模倣者ア・ケンピスとともに、私たちはあの一句を唱えたくもなるであろうから。「アラユルモノノウチニ安ラギヲ求メタガ、ドコニモ見出セナカッタ。タダ片隅デ書物ト共ニイルトキヲ除イテハ」」


「プロローグ」より:

「それが、あの僧院に入ってからは、(中略)一日じゅう薬草園を歩きまわって、緑玉や翠玉を探すみたいに、植物を調べていることがあった。あるいは地下聖堂(クリプタ)の宝物庫を歩きまわって、朝顔の茂みを覗きこむみたいに、緑玉や翠玉の鏤(ちりば)められた手箱に見とれていることもあった。あるいはまた、一日じゅう文書館の写字室(スクリプトーリウム)に籠(こも)って、自分の楽しみ以外の何ものをも求めていないといわんばかりに、写本をめくっていることがあった(私たちのまわりでは、日一日と、身の毛もよだつばかりの殺され方をした修道僧の死体が殖(ふ)えていったというのに)。ある日など、師は自分の没頭している仕事のために神さまへの務めなど気にかけていられないと言わんばかりに、やたらに僧院の中庭を歩きまわっていた。私が学んだ修道会ではこういう師の行動とはまったく違った方法で日課が定められていたから、思いきって、そう言ってみた。すると師は、宇宙のすばらしさは多様性のうちの統一性にあるばかりでなく、統一性のうちの多様性にもあるのだ、と答えた。」


「第一日」より:

「「ではあなたは」と、不安そうに院長が言った。「たくさんの裁判において悪魔が問題にされてきたのは、単に罪人のなかにそれが潜んでいるのではなく、むしろ、いや何よりも、裁く側にこそそれがある、とでもおっしゃりたいのですか?」」

「「それからもう一つ、わたしがこちらへお寄りしましたのは少なからずそのためなのですが、ぜひ当修道院の文書館の内部を拝見させていただきたいのです。キリスト教世界の僧院ならば、どこへ行っても、賞讃をこめてそのすばらしさが語られない例はありませんから。」
 僧院長は顔をひきつらせて飛び跳ねんばかりに立ちあがった。「この僧院のなかのどこを歩きまわられてもかまいません、たしかにわたしはそう申しあげました。が、あの建物の、すなわち文書館の、最上階にだけは、つまり文書庫のなかにだけは、絶対に入ってはなりません」」

「「文書館はそれが内蔵する真理にも似た計り知れない深淵によって、またそれが保管する虚偽にも似た巧妙な企みによって、独力でみずからを守ってきたのです。精神界の迷宮であると同時に、現実の迷宮でもあるのです。たとえ入れても、二度と出ては来られますまい。」」

「後になってわかったことだが、波瀾に富んだ彼の生涯と、どことして一か所に定住することができずに、いくつかの土地から土地へと移り住んだ過去を思い合わせてみると、サルヴァトーレはすべての土地の言葉を話していたのであり、またどこの土地の言葉も話していなかったのだ。あるいは、自分が触れる機会を持ったいくつかの土地の言葉を切れ切れに用いて、自分だけの言葉を創りあげていた、と言ったほうがよいかもしれない」

「「あの老人は……変わった方ですね」思い切って、ウィリアムに言ってみた。
 「偉大な人物だよ。いや、少なくとも、かつてはそうだった。いろいろな点から見て。だが、偉大だからこそ、変わってもいるのだ。正常に見える人間は卑小な輩(やから)にすぎない。ウベルティーノは自分の手で火刑にした異端者にもなれたであろうし、聖なるローマ教会の枢機卿にもなれたであろう。どちらの背徳にも限りなく近づいていたから。ウベルティーノと話していると、地獄というものは裏側から見た天国に過ぎないような気がしてくる」」



「第二日」より:

「「どういう書物の名を?」
 ベンチョはためらった。「よく覚えていません。話題になった書物の名が、重要なのでしょうか?」
 「とても重要だ。なぜなら、いまの場合、書物に囲まれて、書物と共にあって、書物によって生きている人びとのあいだに起きた事件を、わたしたちは調べているのだから。それゆえ、書物をめぐって彼らが口にした言葉は、いずれも重要なのだ」」

「「わたしが申しあげたいのは、そういう異端の多くが、それぞれの主張の教義と無関係に平信徒たちのあいだで成功を収めていくのは、異なった生活の可能性を彼らに示唆できるためだ、ということです。(中略)彼らの多くにとって異端集団への加入は、彼らの心の絶望を叫ぶ手段に過ぎない場合が、しばしば見受けられるのです。枢機卿の館を焼き打ちにする理由は、聖職者の生活態度を改めさせたいためのときもあれば、そこで説かれる地獄など存在しないと考えるためのときもあって、そのいずれでも構わないのです。結局は、この地上につねに地獄が存在しつづけるからこそ、そういう行動に彼らは出るのであって、わたしたちが導くべき羊の群れは、そういう地獄の真只中に暮らしているのです。(中略)あまりにも素朴な平信徒たちは、権力者が敵対権力を危機に陥れるために役立つときにだけ利用され、役に立たなくなれば生贄(いけにえ)に捧げられてしまう、いわば家畜のような存在なのです」」

「私は両手で顔を覆った。すると自分の両手が、蟇(ひきがえる)の手みたいに粘りついて、指のあいだに水搔きの薄い膜が出来たみたいだった。」

「「薬草、鏡……この禁じられた叡知の砦は、あまりにも多くの、巧みな知恵で、防御されている。世の中を明るくするためよりは、むしろ暗くするために用いられている学問だ。気に入らないな。邪悪な精神が、この文書館を、砦にして守っている。」」



「第三日」より:

「サルヴァトーレは心得ていたのだ、自分の貧しい放浪生活が、単に暗い必要から生じただけのものではなく、むしろそれが献身にも似た喜びの行為であったということを。」

「「どうやら誤りの原因は、先に異端がいて、後からそれに身を捧げる(そしてそこで身を亡ぼす)平信徒が来る、そう考えてしまったことにあるのだろう。現実には、先に平信徒がいて、後から異端が来るのだ」
 「すると、どうなるのでしょうか?」
 「おまえにも神の民の構図ぐらいはしっかりわかっているであろうに。まず、大きな群れがいる。善い羊もいれば、悪い羊もいる。獰猛な牧羊犬すなわち兵士たちに、あるいは世俗の権力者すなわち皇帝や領主たちに統御され、羊飼すなわち聖職者や神の言葉の媒介人たちに導かれている。この構図は明白であろう」
 「いいえ、そのとおりではありません。牧羊犬と羊飼は互いに争っています、どちらも相手の権利を手に入れたがっていますから」
 「そのとおり。だからこそ群れ全体の性格が定まらないものになってしまう。牙を剝(む)き、敵意を露わにし、互いに争ううちに、おのれを見失い、牧羊犬も羊飼も群れを守らなくなる。そして羊の群れの一部が離れてしまう」
 「離れてしまう?」
 「外へ放り出されてしまう。農民が、農民でなくなる。なぜなら、もう土地を持っていないし、持っていてもそれでは生きられないから。市民が、市民でなくなる。なぜなら、職業組合にも別の団体にも所属していないから。彼らは零細な民衆(ポーポロ・ミヌート)になって、誰の餌食にでもなる。おまえは田舎で癩病人たちを見かけたことがあるであろう?」
 「はい。以前に、百人ぐらい固まっているのを、見たことがあります。顔も形も崩れおち、肉は白じろと腐ってただれ、松葉杖にすがり、眼瞼(まぶた)は腫れあがり、目は血走って、話しもせず叫び声もたてずに、ただ鼠の群れみたいに蠢(うごめ)いていました」
 「彼らはキリスト教徒にとっては他者、つまり羊の群れの外縁に位置する者たちなのだ。羊の群れは彼らを憎み、彼らのほうも群れを憎んでいる。わたしたちが一人残らず死んでしまえばよい、一人残らず彼らと同じように癩を病む者になればよい、そう思っているのだ」」
「「わたしの言いたいことは、おまえにもわかったであろう。外へ排除された癩病人は、自分たちの破滅のなかへ、誰でも引き込みたいのだ。そしておまえが彼らを排除すればするほど、彼らはいっそう邪悪な存在になってゆき、またおまえの破滅を望んで群がり住む、亡霊のごとくに彼らをみなせば、みなすほどいっそう、彼らは排除された存在になってしまうだろう。聖フランチェスコはこの点を見抜いた。だからこそ彼の最初の選択は、癩病人たちの群れに混ざって暮らすことだった。排除された者たちを内部に組み込まなければ、神の民は変わらないのだ」
 「でも、あなたがお話しになっておられたのは、別種の排除された者たちであって、癩病人が集まって諸もろの異端の運動を構成するわけではありません」
 「羊の群れは、いうなれば、一連の同心円を形成している。最も大きくて遠い円の群れから、ごく中心に近い円の群れに至るまで。癩病人たちは、要するに、排除の証(あかし)だ。聖フランチェスコはその点を見抜いた。彼は単に癩病人を助けようとしただけではない。(中略)彼の意図は別のところにあった。小鳥に向かって説教をしたという話を、聞いたことがあるか?」
 「もちろんです。そのすばらしい話を聞き、神のあの可憐な創造物たちと戯れている聖者の姿を思い描いて、ほんとうにすばらしいと思いました」私は情熱をこめて言った。
 「ところが、それは誤って伝えられた話だ。(中略)フランチェスコが町の民衆や行政官に語りかけても、一人として自分の言葉を理解する者がいないと看て取ったとき、彼は町はずれの墓地へ出て行って、烏や鵲(かささぎ)や鷹に向かい、死骸の腐肉をついばむ猛だけしい鳥たちに向かって、説教を始めたのだ」」
「「フランチェスコは、排除されて、つねに反乱の用意がある者たちを、神の民のなかへ組み込もうとした。群れを再構成するためには、排除された者たちを再発見する必要があった。フランチェスコはそれに成功しなかった。(中略)排除された者たちを再統合するためには、教会の内部で行動しなければならなかったし、教会の内部で行動するためには自分の戒律の公認をかちとらねばならなかった。そこから、一つの修道会が生み出されるであろう。一つの修道会は、公認によって生み出されるやいなや、円環のイメージを再構成してしまう。そしてその外縁に、排除された者たちが生じてしまう。だからもう、おまえにもわかるであろう、なぜ小兄弟派(フラティチェッリ)やヨアキム主義者たちという分派が、生じてしまうのかは。そしてそれらのまわりに、またもや、なぜ排除された者たちが、集まってしまうのかは」」
「「何世紀にもわたって、教皇と皇帝とが権力闘争の激越な議論に明け暮れしているあいだに、群れを追い出された者たちは一貫して外縁を生きつづけた。(中略)そして〈癩病人〉と呼ぶことによって、彼らが〈排除された者たち、貧しい者たち、素朴な平信徒たち、無一物の者たち、田舎の根無し草たち、都市の賤民たち〉であることを、わたしたちにわからせるのだ。わたしたちは気づかずにいままできてしまったのだ。癩病が果たす象徴としての役割を見落としてきたばかりに、それがわたしたちの心の奥に入り込んで謎を作ってきたことを。群れから排除されていたとはいえ、彼らはみないつでも耳を傾ける用意があった。キリストの言葉に立ち返り、それに照らし合わせて、牧羊犬や羊飼たちの態度を弾劾する説教であれば。また、いつの日かそういう輩(やから)が罰せられるであろう、という説教であれば、自分たちも作り出す用意があった。この点を、権力者側は、つねに見抜いていた。排除された者たちの再統合は、自分たちの特権の減少をもたらすものであるということを。それゆえに、この排除に目覚めた者たちは、彼らの教義に関係なく、異端の烙印を押されていった。」

「「アドソ、おまえにロジャー・ベーコンの話をするのは、これが初めてではあるまい。(中略)わたしはいつもあの方の、叡知への愛を掻きたてる希望に、魅せられてきた。ベーコンは平信徒たちの力を信じ、彼らの必要を信じ、彼らの精神の創意を信じた。貧しい者たち、無一文の者たち、白痴の者たち、そして無知の者たちが、しばしば、われらが主と同じ口調で語りかけてくる。そう考えたことがなかったならば、彼はけっして良きフランチェスコ会士であったとは言えないであろう。(中略)一般法則を探求するうちに、しばしば、おのれを見失ってしまう学者などよりも、はるかに大切なものを、平信徒たちは身につけている。彼らは各人に固有の直観をもっている。だが、この直観だけでは、充分でない。平信徒たちは、彼らの真実を、たぶん教会の御用学者たちの真実よりもはるかに切実な真実を、見抜いている。だが、すぐに思慮のない身振りのうちに、それを浪費してしまうのだ。」」



「第四日」より:

「たとえ永遠に彼女から引き離されても、つねに身近に彼女を感じることができさえすれば。まるで、いまにして思い当たるのだが、全宇宙が私に向かって、すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、そのなかでは一切の事物が創造者の広大無辺な善意を物語り、そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪のささやかな薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付せられた注解となるのだが、要するに、全宇宙が私に向かって、厨房の暗がりの香ぐわしさのうちでわずかに垣間見た、あの顔立ちのことばかりを、語りかけてくるみたいだった。」

「「なぜですか? 一巻の書物が述べていることを知るために、別の書物を何巻も読まなければいけないなんて?」
 「よくあることだよ。書物はしばしば別の書物のことを物語る。一巻の無害な書物がしばしば一個の種子に似て、危険な書物の花を咲かせてみたり、あるいは逆に、苦い根に甘い実を熟れさせたりする。アルベルトゥスを読んでいるときに、後になってトマスの言うことが、どうして想像できないであろうか? あるいはトマスを読んでいるときに、アヴェロエスの言ったことを、どうして想像できないであろうか?」」
「私は感心してしまった。そのときまで書物はみな、人間のことであれ神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものとばかり思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語り合っているみたいなことが、私にもかわった。」

「このように考えを進めたあとで、わが師はもはや何もしないことに決めた。先にも述べたが、師はしばしばこのようにして一切の活動を停止するときがあった。」

「かつてガレーノスが提案した、愛の病に陥っている相手を過たずに発見する方法を、アヴィケンナも説いていた。すなわち、病人の手首を握って、異性の名前をつぎつぎに言っていくと、どれかの名前のところで脈搏が早くなるのに気づくはずだという。」



「第五日」より:

「この生涯において、ただ一度めぐり合った地上の恋人、その名前すら、私は知らなかったし、その後も知ることがなかった。」


「第六日」より:

「「一場の夢は一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない」」

「身を横たえて休んでいればいるほど、師の頭脳は冴えてくるのだった。」



「第七日」より:

「「そうだ。わたしのほうはもっと複雑な仕掛けを考えてしまった。毒の牙だとか、あるいはそれに似た類(たぐ)いの仕掛けを。あなたの見つけ出した方法は、模範的なものであった、と言わねばなるまい。被害者が自分で自分に毒を回していくのだから、読み進めたいと願う量に比例して……」」

「「反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれて来るのだ。(中略)恐れたほうがよいぞ、アドソよ、預言者たちや真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人びとを自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代りにして、破滅へ至らしめるからだ。」」

「「わたしは記号の真実性を疑ったことはないよ、アドソ。人間がこの世界で自分の位置を定めるための手掛かりは、これしかないのだから。わたしにわからなかったのは記号と記号とのあいだの関係性だった。」」



「最後の紙片」より:

「いまや、私は沈黙するしかない。(中略)〈神トハタダ無ナノダ、今モ、コノ場所モ、ソレヲ動カサナイノダカラ……〉私はすぐに、その広大無辺な、完全に平坦で果てしない、無の領域へ、入りこんでいくであろう。そこでは、真に敬虔な心が安らかに消滅していくのだ。私は神聖な闇のなかに、まったくの沈黙のうちに、捉えがたい一体感のうちに、深く深く沈んでいくであろう。そしてそのように沈みこんでいくなかで、あらゆる同じものも、あらゆる異なるものも、失われていくであろう。そしてあの奈落のなかで、私の精神はおのれを失っていき、平等も不平等も、何もかも、わからなくなっていくであろう。そしてあらゆる差異は忘れ去られ、単純な基底に、何の異同も見分けられない荒涼とした沈黙のうちに、誰もがおのれの居場所さえ見出せない深い奥底に、私は達するであろう。形あるものはもとより、揺らめく映像さえない、無人の神聖な沈黙のうちに、私は落ちこむであろう。」



◆感想◆


「そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。」
(マイスター・エックハルト「説教 83」)

そういうわけで、思想史はおおざっぱにいうとプラトンとアリストテレスの確執の歴史であるといってよいですが、本書ではパスカヴィルのウィリアム(シャーロック・ホームズ)がアリストテレス→ウィリアム・オッカム、見習修道士のアドソ(ワトソン)がプラトン→マイスター・エックハルトです(本書にはエックハルトの名前はあまり出てこないですが)。
目の前に存在しないものを如実に思い描く能力が魂にはあるから、冬の薔薇や「無」のなかではたらく神をわたしは思い浮かべることができるのだ、とエックハルトは言っています(「説教 67」)。
本書で語られている事件が起こったのは1327年末ですが、エックハルトが死んだのもちょうどそのころ(1327年末から翌年にかけてと推定されています)です。




こちらもご参照ください:

トマス・ア・ケンピス 『キリストにならいて』 大沢章・呉茂一 訳 (岩波文庫)
リチャード・ド・ベリー 『フィロビブロン ― 書物への愛』 古田暁訳 (講談社学術文庫)
Christopher de Hamel 『Medieval Craftsmen : Scribes and Illuminators』
小河陽 訳 『ヨハネの黙示録』



























































イタロ・カルヴィーノ 『マルコヴァルドさんの四季』 関口英子 訳 (岩波少年文庫)

「そんな思いにどことなく違和感(いわかん)を覚えるのは、マルコヴァルドさんただひとり。といっても、マルコヴァルドさんの考えることなど、第一に、表現手段(ひょうげんしゅだん)がなかったのでだれにも伝(つた)わりませんし、第二に、伝わったとしてもだれも気にとめないでしょうから、おなじことでした。」
(イタロ・カルヴィーノ 「都会に残ったマルコヴァルドさん」 より)


イタロ・カルヴィーノ 
『マルコヴァルドさんの四季』 
関口英子 訳
 
岩波少年文庫 158 

岩波書店
2009年6月16日 第1刷発行
282p
17.2×12cm 並装 カバー
定価680円+税
絵: セルジョ・トーファノ



カバー裏文:

「都会のまんなかに暮らしながらも、心うばわれるのは、季節のおとずれや生きものの気配。大家族を養うため、家と会社のあいだを行き来するマルコヴァルドさんのとっぴな行動とユーモラスな空想の世界が、現代社会のありようを映しだします。
●小学5・6年以上」



カルヴィーノ マルコヴァルドさんの四季 01


もくじ:

春 都会のキノコ
夏 別荘は公園のベンチ
秋 町のハト
冬 雪に消えた町
春 ハチ療法
夏 土曜の午後、太陽と、砂と、まどろみと
秋 お弁当箱
冬 高速道路ぞいの森
春 おいしい空気
夏 牛とすごした夏休み
秋 毒入りウサギ
冬 まちがった停留所
春 川のいちばん青いところ
夏 月と《ニャック》
秋 雨と葉っぱ
冬 スーパーマーケットへ行ったマルコヴァルドさん
春 けむりと風とシャボンの泡
夏 都会に残ったマルコヴァルドさん
秋 がんこなネコたちの住む庭
冬 サンタクロースの子どもたち

作者による解説
訳者あとがき



カルヴィーノ マルコヴァルドさんの四季 02



◆本書より◆


「雪に消えた町」より:

「自分で自分の行く手をかきわけて進みながら、マルコヴァルドさんは、これまで一度も感じたことのないほど自由を味わっていました。町の道路という道路からは、歩道と車道の区別(くべつ)がきれいさっぱりなくなっていて、車はとおることもできません。」
「路地や大通りには人も車もなく、山の岩場をぬう真っ白な谷間のように、どこまでもつづいています。あの白いマントの下にかくされている町は、ほんとうにいつもとおなじ町でしょうか。もしかしたら、べつの町にすりかえられているかもしれません。(中略)歩きながら、マルコヴァルドさんは見知らぬ町で迷子(まいご)になった自分を空想していました。」

「マルコヴァルドさんにとって雪は友だちみたいなもので、自分を閉(と)じこめている檻(おり)のような会社の塀(へい)を、見えなくしてくれるありがたい存在(そんざい)でした。」



「高速道路ぞいの森」より:

「寒さというものは、いくとおりもの形や方法で、世の中にしみわたります。」


「がんこなネコたちの住む庭」より:

「ネコの町と人間の町というのは、片方(かたほう)がもう一方のなかにあるものの、おなじ町というわけではありません。いまではもう、覚(おぼ)えているネコもわずかとなってしまいましたが、昔は区別(くべつ)がなく、人間の道路や広場はそのままネコの道路や広場でしたし、芝生(しばふ)も、中庭も、バルコニーも、噴水(ふんすい)も、みんなそうでした。(中略)ところがここ何世代というもの、飼(か)いネコたちは住みにくくなった町に閉(と)じこめられて暮らすようになりました。道路にはネコつぶし機(き)ともいえる車がひっきりなしに走り、わたるのは命がけ。(中略)新しく生まれてきたネコたちが、かつて父ネコのたどったぬけ道や、ベランダの手すりから軒(のき)じゃばら、そして雨どいと、屋根瓦(やねがわら)に飛(と)びうつるための足場をさがしても、どこにもありません。
 ところが、ありとあらゆる空間がうめつくされ、コンクリートのかたまりというかたまりがとけあって一体化し、縦方向(たてほうこう)にのびた圧迫感(あっぱくかん)のある町のなかに、かげの町と呼(よ)べるものがひらけていました。それは、写真でいえばちょうどネガのようなもので、壁(かべ)と壁のごくわずかな空間や、建築基準法(けんちくきじゅんほう)で定められているふたつの建物(たてもの)のあいだの最低(さいてい)の間隔(かんかく)、ふたつの建物の背面(はいめん)と背面のあいだからなる町です。(中略)昔ながらの町の住人であるネコたちは、このような運河をつたい、壁をかすめながら、かけまわっていました。
 マルコヴァルドさんはときどき、時間をつぶすために、ネコのあとをつけて歩きます。」



「作者による解説」より:

「この物語では、主人公マルコヴァルドさんの特徴(とくちょう)について、あまりくわしく説明されていません。そぼくな心の持ち主だということ、子どもがたくさんいる父親だということ、どこかの会社で作業員か力仕事をしているということ……。いってみれば、チャーリー・チャップリン風の、心やさしき放浪者(ほうろうしゃ)といったヒーローなのです。マルコヴァルドさんの性格(せいかく)としてわかっているのは、「自然人」であることと、産業都市に追いやられた「高貴(こうき)な野蛮人(やばんじん)」であることぐらいでしょうか。マルコヴァルドさんがどこから都会にやってきたのか、彼がなつかしいと感じている「べつの場所」とは、いったいどこなのか、答えはありません。この本では一度も使われていない言葉ですが、マルコヴァルドさんを「よそ者」と呼(よ)ぶこともできるでしょう。」
「マルコヴァルドさんを紹介(しょうかい)するのにいちばんぴったりなのは、最初のお話にある次のような表現です。「マルコヴァルドさんは、あまり都会の暮(く)らしにふさわしくない目をしていました。道路の標識(ひょうしき)や信号、ショーウィンドーやネオンサイン、ポスターなどは、どんなに人の注意をひくように工夫(くふう)されたものであっても、けっしてマルコヴァルドさんの目にとまることはありません。砂漠(さばく)の砂(すな)のうえをすべるかのように、とおりすぎてしまうのです。ところが、木の枝(えだ)で黄色くなった葉っぱや、屋根瓦(やねがわら)にひっかかっている鳥の羽根といったものは見のがしません。馬の背(せ)にまとわりつくアブや、テーブルにあいた木くい虫の穴(あな)、歩道にはりついているイチジクの皮などにも、マルコヴァルドさんの目はむけられます。そして、そこからいろいろな考えがひろがってゆき、季節(きせつ)の移(うつ)り変(か)わりや、自分が心から望(のぞ)んでいること、自分がどんなにちっぽけな存在(そんざい)かといったことに、思いをはせるのでした。」
 この文章は、主人公マルコヴァルドさんを紹介(しょうかい)しているだけでなく、すべてのお話に共通する状況(じょうきょう)も説明しています。それは、次のようにまとめることができるでしょう。
 大都会のまんなかで、マルコヴァルドさんは、
 1. 身のまわりのできごとや、動物や植物など生きもののかすかな気配に、季節(きせつ)のおとずれを感じとる。
 2. 自然のままの姿(すがた)にもどることを夢(ゆめ)見る。
 3. 最後には、決まってがっかりさせられる。」

「もちろん、この本は、表面的な楽観主義に身をまかせようと言っているのではありません。(中略)そうではなくて、この本に一貫(いっかん)しているのは、けっしてあきらめず、どこまでもねばる姿勢(しせい)なのです。」
「よく注意して読んでみると、この本は「産業社会」を批判(ひはん)しているだけではなく、「失われた楽園」という夢(ゆめ)もひっくるめて、きびしく批判していることがわかります。「産業社会」というあまい夢だけでなく、「いなかの生活」というあまい夢も、攻撃(こうげき)の的になっているのです。」
「世の中のできごとや状況(じょうきょう)にたいしては、ものすごく批判的(ひはんてき)なまなざしをむけながら、人情(にんじょう)にあふれた人びとや、あらゆる生命のきざしにたいしては好意(こうい)にみちたまなざしをむける……そんな、身のまわりの世界をながめるときのマルコヴァルドさんのまなざしにこそ、この本の教訓(きょうくん)があるといえるのかもしれません。」

「この本は、子どもの本なのでしょうか? (中略)それとも、大人むけの本? (中略)もしかすると、ごくシンプルな物語の構造(こうぞう)を利用して、作者が世の中と自分自身の、とほうに暮(く)れるほど不可解(ふかかい)なかかわりをえがこうとしたものかもしれません。」




◆感想◆


個人的には「毒入りウサギ」の話にたいへん共感しました。「毒入りウサギ」はどういう話かというと、入院したマルコヴァルドさんが病院で飼われていたウサギをうっかり連れ出してしまうのですがそのウサギは実験用に「恐ろしい病気の菌」を注射されたウサギだったので逃げ出したウサギは官憲に追われ善良な市民たちから排斥され、「ウサギは、鉄砲の弾(たま)が自分のまわりではじけ、そのひとつが耳を貫通(かんつう)したのを感じ、さとりました。これは宣戦布告(ふこく)です。人間との関係も、これでおしまいです。そして、心から人間を軽蔑(けいべつ)し、なんて恩知(おんし)らずな生きものだろうと思い、これ以上(いじょう)生きてゆくのがつくづくいやになりました。」そこでウサギは屋根をすべり落ちて自殺しようとするのですが消防士に「みごとにキャッチされ」「動物としての尊厳(そんげん)を最後(さいご)の最後まで否定(ひてい)され」てしまうという話です。


















































































カルヴィーノ 『パロマー』 和田忠彦 訳 (岩波文庫)

「そして生徒たちはかれについて階段を下る。どの彫像の前でも、(中略)どの図像の前でも、その教師はいくつか事実関係を提供した後で、決まってこう付け加えるのだった。
 「なにを意味しているかはわからない」」

(カルヴィーノ 「蛇と頭蓋骨」 より)


カルヴィーノ 
『パロマー』 
和田忠彦 訳
 
岩波文庫 赤/32-709-4 

岩波書店
2001年11月16日 第1刷発行
2008年6月17日 第3刷発行
179p
文庫判 並装 カバー
定価500円+税
カバーカット: ペリッツァ「人生の鏡」



本書「解説」より:

「本書は、イタロ・カルヴィーノ(一九二三―八五年)が生前みずからの手で完成した最後の作品集『パロマー』(Palomar, Einaudi, 1983)の全訳である。一九八八年に松籟社から刊行されたが、今回、本文庫に収めるにあたっては、作者の歿後まとめられた全集第二巻(中略)を参照した。」


カルヴィーノ パロマー


カバー文:

「中年男性、職業不詳、家族は妻と娘一人、パリとローマにアパートを所有――これがパロマー氏だ。彼は世界にじっと目を凝らす。浜辺で、テラスで、沈黙のなかで――。「ひとりの男が一歩一歩、知恵に到達しようと歩みはじめる。まだたどりついてはいない。」三種の主題領域が交錯し重層して響きあう、不連続な連作小説27篇。」


目次:

カルヴィーノから読者へ

Ⅰ パロマー氏の休暇
 Ⅰ・1 浜辺のパロマー氏
  Ⅰ・1・1 波のレクチュール
  Ⅰ・1・2 あらわな胸
  Ⅰ・1・3 太陽の剣
 Ⅰ・2 庭のパロマー氏
  Ⅰ・2・1 亀の恋
  Ⅰ・2・2 クロウタドリの口笛
  Ⅰ・2・3 はてしない草原
 Ⅰ・3 パロマー氏空を見る
  Ⅰ・3・1 昼下がりの月
  Ⅰ・3・2 惑星と眼
  Ⅰ・3・3 星たちの瞑想

Ⅱ 街のパロマー氏
 Ⅱ・1 テラスのパロマー氏
  Ⅱ・1・1 テラスにて
  Ⅱ・1・2 ヤモリの腹
  Ⅱ・1・3 ホシムクドリの襲来
 Ⅱ・2 パロマー氏買物をする
  Ⅱ・2・1 鵞鳥の脂肪一キロ半
  Ⅱ・2・2 チーズの博物館
  Ⅱ・2・3 大理石と血
 Ⅱ・3 動物園のパロマー氏
  Ⅱ・3・1 キリンの駆け足
  Ⅱ・3・2 シラコのゴリラ
  Ⅱ・3・3 鱗の秩序

Ⅲ パロマー氏の沈黙
 Ⅲ・1 パロマー氏の旅
  Ⅲ・1・1 砂の花壇
  Ⅲ・1・2 蛇と頭蓋骨
  Ⅲ・1・Ⅲ 不揃いなサンダル
 Ⅲ・2 パロマー氏と社会
  Ⅲ・2・1 言葉をかみしめることについて
  Ⅲ・2・2 若者に腹を立てることについて
  Ⅲ・2・3 きわめつけのモデル
 Ⅲ・3 パロマー氏の瞑想
  Ⅲ・3・1 世界が世界をみつめている
  Ⅲ・3・2 鏡の宇宙
  Ⅲ・3・3 うまい死に方

解説 (和田忠彦)




◆本書より◆


「カルヴィーノから読者へ」:

「部、章、節に使われている数字は、単に順番を表わすだけではなく、どの節においても、三種類の主題領域を表わしている。三種類の経験や探求が割合を変えながらも、この本のページすべてに現われている。
 1は、一般的に〈視覚による経験〉を表わし、ほとんどいつも自然の形態を主題とする。テクストは記述の形式をとる。
 2では、人類学的もしくは広義の文化的要素が現われてくる。ここで語られる経験は、視覚的条件以外に言語・意味・象徴をも含む。テクストは物語ふうである。
 3は、より思索的な経験を扱っている。宇宙・時間・無限、自我と世界との関係といった世界にかかわっている。読者は記述や物語から瞑想の世界へと導かれる。」



「Ⅰ・1・3 太陽の剣」より:

「パロマー氏の泳ぐ「私」は、解体した世界のなかに沈んでいる。力の場の交叉点、ベクトル曲線、収束し拡散し屈折する直線の束。しかしかれの内部では、すべてがそれとは別の在り様のまま残存している。なにか、もつれのようでもあり、血塊のようでも、閉塞部のようでもある。ありうるかもしれないが実際には存在しない世界のなかで、確かにここにいるのに、いないのかもしれないという感覚があるのだ。」


「Ⅰ・3・2 惑星と眼」より:

「パロマー氏は、有名な天文台と同じ名前がついているせいか、天文学者たちにどことなく親しみを感じている。」

「この惑星(引用者注: 土星)は望遠鏡で眺めたときのほうが深い感動を与えてくれる。透けるように真っ白で、球体と環の輪郭もくっきりとしている。球体にはかすかな縞模様が平行に走っている。やや暗い円周が環の縁を分けている。この望遠鏡ではそれ以上の細部はまずとらえられないために、かえって対象の幾何学的な抽象性が際立ってくる。はなはだしい距離感が肉眼で見るときに比べて、緩和されるどころか強調される。
 他のあらゆる物体とこんなにも異なるぶったいが天空をめぐっているとは。最大限の単純さと規則性と調和とによって不思議の極致に到達している形、これは生と思考に活力を与えてくれる事実ではないだろうか。
 「もしも今わたしが見ているのと同じように見ることができたとしたら」と、パロマー氏は思う。
 「古代の人びとは、自分の視線がプラトンのイデアの宇宙か、ユークリッドの公準の非物質的空間に届いたと思ったことだろう。ところが、その姿が、何の手違いか、ほんとうにしては美しすぎるし、現実の世界に属しているにしてはやけに自分の想像の世界に好都合にできている、などと訝しむ自分のもとに届いている。だが自分の感覚に対するこの不信の念こそ、わたしたちが宇宙のなかでくつろいだ気分になるのを邪魔するものだ。もしかしたらわたしが自ら課すべき第一の規則は、自分が見るものにこだわることとなのかもしれない」
 今度は環がかすかにゆれているような気がする。あるいは環の内側にある惑星のほうがゆれているのかもしれない。それとも両方がそれぞれ自転しているのだろうか。実のところ、ゆれているのはパロマー氏の頭のほうなのだ。」



「Ⅲ・1・2 蛇と頭蓋骨」より:

「ひとつの石やひとつの図像が、ひとつの記号、ひとつの言葉が、その文脈を離れてわたしたちに届けられるとき、それは単にその石、その図像、その記号や言葉でしかない。それらをそのとおり定義づけ記述しようとすることはできるが、それだけのことだ。もしこのモノたちが、わたしたちに見せてくれる顔の外に、もうひとつ隠された顔をもっているとしても、わたしたちがそれを知ることは許されない。この石たちがわたしたちに示している以上のことを理解することを拒絶する。それがおそらく唯一可能な、石たちの秘密に対する敬意の払い方だろう。謎解きを試みるのは思い上がりなのだ。その失われた真の意味を裏切ることだ。」


「Ⅲ・3・1 世界が世界をみつめている」より:

「無言の事物のひろがりから記号も、呼びかけも、目くばせも出発しなければならない。ひとつのモノはなにかを意味しようとして他のモノたちから分かれる……だが何を? そのモノ自体をだ。ひとつのモノは、それら自体以外の何ものをも意味しないモノたちに混じって、そのモノ自体以外の何ものをも意味しないと確信できるときにのみ、他のモノたちによってみつめられることに甘んじるのだ。」


「Ⅲ・3・2 鏡の宇宙」より:

「パロマー氏は隣人との関係がうまくいかないことにひどく悩んでいる。言うべきことが何かを正確に見抜いたり、人それぞれに正しい対応の仕方を見つける才能に恵まれた人びとがうらやましくみえるのだ。」
「「こうした才能は」
 それを持ち合わせない者の悔しさを感じながらパロマー氏は思う。
 「世界と調和して生きる者に授けられるのだ。そういった連中には、人間とだけでなく、事物や場所、状況や機会とだって、天空の星座の運行や、分子の原子結合とだって、当然のようにうまくやっていくことができるものだ。(中略)宇宙を愛する者にとって、宇宙は友人なのだ。どう転んでも」パロマー氏は溜息をつく。「わたしがそんなふうになれるはずはないじゃないか!」
 かれはそうした連中の真似をしてみようと心に決める。」

「いったい、何がうまくいかないのだろう?
 つまりは、こういうことなのだ。星を眺めることでかれは、自分が匿名の実体もないひとつの点だと思い、自分の存在を忘れることにさえ慣れてしまったのだ。今、人間たちとつきあうためには、自分自身をもその仲間に入れて考えないわけにはいかないし、かといってその自分自身がどこにいるかが今のかれにはわからないのだ。」
「言葉や仕草、そのどれをとっても的確で自然だとパロマー氏を感心させる人びとは、宇宙との関係が平穏である以前に、自分自身との関係が平穏なのだ。自分が好きになれないパロマー氏は、これまでいつも自分自身と顔をつきあわせないようにしてきた。わざわざ銀河に逃げ場を求めたのも、そのせいだ。だが、こう考えてくると、心の平和をみつけることからはじめなければならないのがかれには解る。」
「するとかれに残された道はこうだ。つまり、これから先、かれは自分を知ることに心を傾け、自分の心の地図を探り、魂の運動曲線をたどり、そこから公式や定理を抽出するだろう。そのとき、かれの望遠鏡が目指す先は、星座の軌道ならぬ、かれの人生が描く軌道であるだろう。
 「わたしたちは、自分を飛び越して、何もわたしたちの外部について知ることはできない」
 今、かれは思う。
 「宇宙は、わたしたちが自分のなかで学び知ったことだけを瞑想することのできる鏡なのだ」」
「パロマー氏は眼を開く。眼に映るものはこれまで毎日眼にしてきたものに思える。通りは、ゴツゴツした高い壁のあいだを相手の顔に眼もくれず、他人を押しのけながら先を急ぐ人びとでいっぱいだ。星空は、油の足らない継ぎ目のいたるところでガタピシ軋む故障した機械のように、断続的に輝きを放っている。」























































































カルヴィーノ 『むずかしい愛』 和田忠彦 訳 (岩波文庫)

「それでいてかれは性急で貪欲な読者ではなかった。一回目より二回目、三回目、四回目のほうが大きな快楽をあたえてくれるという心境には達していた。それでもまだ未知の大陸はたくさん残っていた。」
(カルヴィーノ 「ある読者の冒険」 より)


カルヴィーノ 
『むずかしい愛』 
和田忠彦 訳
 
岩波文庫 赤/32-709-3 

岩波文庫
1995年4月17日 第1刷発行
222p
文庫判 並装 カバー
定価520円(本体505円)



本書「解説」より:

「本書は、『短篇集』 Racconti (五八年)第三部「むずかしい愛」 Gli amori difficili に収められた九篇と、第一部「むずかしい牧歌」 Gli idilli difficili にある「仮寝の床」 Un letto di passaggio (本書では「ある悪党の冒険」)に、七〇年に『むずかしい愛』の表題のもとに編まれた際に追加されることになる三篇のうちから、「ある写真家の冒険」(初出表題は「ファインダーの狂気」 Le follie del mirino)と「あるスキーヤーの冒険」の二篇を加えた一二篇から成っている。配列は、七〇年版を参考にしたうえで創作年代順とした。」


カルヴィーノ むずかしい愛


カバー文:

「ちょっとしたずれが、日常の風景を一変させる。ときめきと居心地の悪さ。どこからか洩れてくる忍び笑い。それは姿の見えない相手との鬼ごっこに似ている。兵士が、人妻が、詩人が、会社員が、もどかしくも奮闘する、12の短篇。この連作が書かれた1950年代はカルヴィーノの作風の転回点にあたり、その意味でも興味ぶかい。」


目次:

ある兵士の冒険
ある悪党の冒険
ある海水浴客の冒険
ある会社員の冒険
ある写真家の冒険
ある旅行家の冒険
ある読者の冒険
ある近視男の冒険
ある妻の冒険
ある夫婦の冒険
ある詩人の冒険
あるスキーヤーの冒険

解説 (和田忠彦)




◆本書より◆


「ある写真家の冒険」より:

「「愚かで狂ってるのはきみのほうかもしれないぜ」友人たちはかれにいった。「おまけに人騒がせときてる」
 「目の前を通りすぎるものをもらさず取り戻したい人間にとって」だれも自分の言葉にもう耳を傾けていないのに、かれは説明をつづける。「唯一、一貫した行動様式は、朝目が覚めたときから眠りに就くまで、最低一分間に一枚写真を撮ることだ。そうすることでだけ、感光したフィルムはぼくらの毎日の細大漏らさぬ忠実な日記を築きあげることになるだろう。もしぼくが写真に手を染めるとすれば、たとえ理性を失うという犠牲をはらってでも、とことんこの道をいくね。ところがきみたちときたら、まだ選択の余地があると思いこんでいる。いったいどんな選択なんだい。牧歌的で、言い訳がましくて、自慰的で、自然や国家や親族と平和にやっていこうっていうのが、きみたちの選択じゃないか。単に写真についての選択にとどまるものじゃないんだよ。きみたちのは、生き方の選択なんだ。それが、劇的な対立や矛盾のもつれや、意志と情熱と反感との強烈な緊張を排除することへときみたちを導くことになるのさ。そうしてきみたちは狂気から身を守っていると思っているかもしれないけれど、実のところは凡庸と愚鈍に陥っているわけだ」」

「アントニーノは危機的な鬱状態に陥った。かれは日記をつけはじめた。もちろん写真でだ。カメラを首からぶらさげて、家に閉じこもり、ソファーにふかく身を沈めたかれは、うつろなまなざしで、丹念にシャッターを切っていった。」
「でき上がった写真はアルバムにまとめていった。そこに写っているのは、吸い殻が山のようになった灰皿、乱れたベッド、壁に浮き出た染(し)み、そんなものでしかなかった。かれは、(中略)カメラの視界からも人間の視界からもはみ出てしまうものを残らず写真でカタログにしようと思い立った。題材が何であれ、そのひとつひとつにかれは何日も注ぎこんで、明暗の変化を追うようにして、時間の間隔を開けながら、何本もフィルムを撮りつくした。ある日、かれはスチームの送水管を除けば他にはまったく何もない部屋の一角をみつめた。その一箇所をかれがこの世からいなくなる日まで、そこだけを撮りつづけてみたいという誘惑にかられたのだ。
 アパートは散らかり放題になり、紙や古新聞がくしゃくしゃになって床にひろがっていたが、それでもかれは撮りつづけた。」


























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

※心の傷、胸焼け、劣等感等ある場合が御座いますが概ね良好な状態になります。

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