A・v・フォイエルバッハ 『カスパー・ハウザー』 西村克彦 訳 (福武文庫)

「カスパーは、何時間でもストーブのそばに坐って木馬と遊んでいまして、自分の周囲におこっていることがらには少しも留意しませんでした」
(A・v・フォイエルバッハ 『カスパー・ハウザー』 より)


A・v・フォイエルバッハ 
『カスパー・ハウザー』 
西村克彦 訳
 
福武文庫 フ 1201 

福武書店
1991年7月12日 第1刷印刷
1991年7月15日 第1刷発行
196p
文庫判 並装 カバー
定価450円(本体437円)
装丁: 菊地信義


「初出――「Law School」(立花書房)一二号~二八号(一九七九年九月~一九八一年一月)に連載。」



本書「序文にかえて」より:

「本書は、ドイツの刑法家フォイエルバッハが一八三二年に刊行したつぎの書物の本文および脚註の完訳である――Kaspar Hauser, Beispiel eines Verbrechens am Seelenleben des Menschen, von Anselm Ritter von Feuerbach, Ansbach, bei I. M. Dollfuß, 1832. ただし、文章の段落を増やし、各章の見出しをつけてみた。」


フォイエルバッハ カスパーハウザー 01


カバー裏文:

「1828年、聖霊降誕祭のさなか、奇妙な野良着姿の少年がニュルンベルクの町に忽然と現れた。歩くのもままならず、満足に話すこともできない、その特異な言動は様々な憶測をよぶ――。“近代刑法学の父”が生涯最後に遺した、謎に満ちた観察記録は、ヨーロッパ中の関心を引き起こし、今日まで二千以上の文献を生んだ。原著からの本邦初完訳。」


目次:

序文にかえて――フォイエルバッハについて (西村克彦)

カスパー・ハウザー――人間の精神生活に対する犯罪の一例
 一 奇妙な少年の出現
 二 少年の身体に見られた特徴
 三 塔に閉じこめられていた当時
 四 野生児か犯罪の被害者か
 五 他人や自然に対する経験
 六 少年の異常な知覚や能力
 七 暗殺の被害者としての少年
 八 著者の好意とその限界

訳者あとがき 
解説――カスパー・ハウザー受容史 (山下武)



フォイエルバッハ カスパーハウザー 02



◆本書より◆


「奇妙な少年の出現」より:

「彼の様子やすべての動作は、青年の身体でありながら、まるで二歳か三歳にも満たない幼児であった。大多数の警官のあいだでは、この男を白痴もしくは狂人とみるか、それとも半野蛮人とみるか、という点だけで意見がわかれた。ところが一人か二人は、こんな子供のふりをしていて実は巧妙な詐欺師である、ということも十分ありうることだと考えた。」


「塔に閉じこめられていた当時」より:

「白痴か狂人のようでいて、しかも温和で従順で善良なところが多いので、この他所(よそ)者を野蛮人だとか、森の中で野獣に育てられた子供だといっても、誰も信じる者はなかった。何といっても彼には(中略)、言葉と概念が欠けていて、(中略)万事に無関心で、生活上の慣習や便宜や欲求に対しては嫌悪の情を示しており、そのため、彼の精神的・道徳的・身体的な存在の全体において異常な特色を示していたのである。
 だから人びとが彼のことを、何かの不思議で地球にやってきた他の遊星の住人だと考えるべきか、それとも、地下で生れ育てられて成熟年齢に達したときにはじめて地上に出て太陽の光に接したという、プラトンの書物に出てくる人間だと考えるべきか、という選択をせまられていると思ったのも無理はなかった。
 カスパーは、つねに、バターをつけないただのパンと水のほかは、すべての飲食物に対して大変な嫌悪の意思を示していた。」

「最初の数日と数週間のあいだにカスパーにみられた多くの驚くべき現象の中でも、「馬」というもの、ことに「木馬」という表象が、彼には少なからぬ意味をもっているにちがいない、ということがわかった。(中略)この言葉を、いろいろな機会や対象について最も頻繁に口にしたのだが、しかも多くの場合、涙をながしながら哀願するような調子であって、まるで、それによって何か特定の馬に対するあこがれを示しているかのようだった。」

「カスパーは、(中略)毎日、警察の詰所に連行され、騒音と混雑の中でいつも一日のかなりの部分をそこで送るのであった。」
「ある日、青年であると同時に幼児でもあるこのめずらしい男をもっともよく世話してくれていた憲兵の一人が、詰所に白い木馬をもってきてやったらどうかということを思いついた。
 それまでは無感覚か無関心か、または、そしらぬふりをするか、しょげているように見えたカスパーが、この木馬を一見すると突如として人が変わったようになり、まるで待ちこがれていた旧友に再会したかのような態度になった。大げさな喜びは示さなくても、泣き笑いをしながら、木馬のそばにいざりよって、なでたりたたいたりしながらこれを見つめていたが、それから、人びとの好意によって贈られたいろいろな小物――色がさまざまのもの、キラキラするもの、音を立てるもの――を、みんなその木馬にぶらさげようとした。それらの品物はみな、それで馬をかざることによって、はじめて彼にとっての真価を獲得したかのようである。」
「その後も彼は詰所に来るたびごとに、周囲の人たちには少しもかまわず、すぐに愛馬のそばに坐るのだった。憲兵の一人は、警察での供述や、のちには裁判所での供述で、「カスパーは、何時間でもストーブのそばに坐って木馬と遊んでいまして、自分の周囲におこっていることがらには少しも留意しませんでした」と語っている。」

「子供がやがて大人になるということを、どこまでも理解しようとせず、彼じしんも以前は子供だったし、多分いまよりもまだまだ大きくなるのだといって、人がうけあうと、きわめて頑強に否定するのだった。」



「他人や自然に対する経験」より:

「たとえば「山」という言葉は、彼にとっては、盛りあがったものとか、高くなったものに何でも通用するので、ある肥満漢のことを、「大きな山をもっている人」と言ったことがある。また、ショーrうがさがってその端を床に引きずっている婦人のことを、「きれいな尾をもっている女」と言った。」

「この少年について最も驚くべく、まったく説明のつかないのは、偏執的といえるほど秩序と清潔を愛することであった。その小さな家の中にある無数の物に、それぞれ定位置があって、きちんとまとめられ、注意ぶかく並べられ、整然と配列されていること、などがそれである。不潔なこと、あるいは不潔と考えることは、彼にとっても他人にとっても嫌悪すべきものだった。」



「少年の異常な知覚や能力」より:

「人や動物の形をしたものは、石像であろうと木彫りであろうと、はたまた絵に描かれたものであろうと、彼の考えでは、あくまで生きものであり、自分じしんとか他の生物に認めた特質をすべてそなえているのであった。街の人家に描かれたり刻みこまれたりしている馬や一角獣や駝鳥などが、いつまでも一定の位置から動かずにいることが、彼には不思議でならなかった。」
「セバルドス教会の外側にかかっている、ファイト・シュトース作の大きなキリスト磔刑像をはじめて見たときには、そのことで恐怖と苦痛が生じた。彼は、あそこで苦しめられている男を降ろしてやってくれと哀願し、あれは本物の人間ではなくて像にすぎないから、何も感じてはいないのだと説明しようとしても、なかなか納得しようとはしなかった。
 どんな物の動きであろうと彼の認めたものは、彼からみれば自発的な動きであり、その動きのあらわれである事物は、生きているものであった。
 風に吹きとばされる紙は、机の上から立ち去ったものである。坂の上からころがり降りる乳母車は、自分で高所から降りてゆくのを楽しみにしている、というわけである。
 木が枝や葉を動かしているのは、生きていることを知らせているのだし、木の葉が風に揺れて音を立てているのは、木が話しかけているのである。ある子供が一本の木の幹を棒でたたいたときには、木をいためつけているといって、不快の念をあらわしたものである。」

「よく晴れた夏の夜、先生がはじめて星空を見せた(中略)。そのときの彼の驚きと狂喜のさまは、筆舌につくしうるものではなかった。見ていて飽きることがなく、何度もそれを眺めかえしたのだが、そのさい、いろいろな星座を正しく見てとって、とくに明るい星については、その色のちがいにまで注目した。「あれは私が世間で見たものの中でいちばん美しいものだ。しかし、こんなに沢山のきれいな灯を、誰があそこにかかげたのか? 誰が灯をつけ、誰が消すのか?」とさけんだ。」

「すべての感覚の中でも最も彼をこまらせ、苦痛をあたえ、他の何ものにもまして世間での生活を拷問のようにしたのは、嗅覚であった。私たちには匂いのないものが、彼にはそうではなく、たとえばバラの花のようにすばらし香りも、彼には悪臭であるか、そうでなくても神経をいためつけた。」
「あらゆる匂いが、多かれ少なかれ彼のきらいなものであった。どんな匂いがいちばん好きかとたずねられると、「好きなものなどありはしない」と答えたものである。」
「私たちが悪臭のする物と称するものは、彼には、私たちが芳香を感ずる物ほどには不快に感じられなかったようである。たとえば、ポマードよりは猫の糞のほうが頭痛をおこさせる程度が少ないから、それなら嗅いでもよいといい、オーデコロンとか香料入りのチョコレートにくらべたら、どんな糞でもまだましなほうだというのである。新しい肉の匂いは、彼のいちばんおそれたもので、猫の糞とか棒鱈(ぼうだら)の匂いのほうが、まだしも彼には堪えられるのであった。」

「彼の魂は、子供らしい温和さにみちていて、虫や蠅を殺すことができず、まして人間を傷つけることなど思いもよらず、それは、天使の魂にみられる永遠なるものの輝きのように、あらゆる関係において清浄潔白なものであった。」

「彼は、かなり長いあいだ、医師と牧師という二つの身分階層に対して、おさえることのできない嫌悪感をいだいていた。医師がきらいなのは、「いやらしい薬を処方し、そのために人を病気にするから」であり、牧師がきらいなのは、彼を不安がらせ、わけのわからない証拠――これは彼の表現だが――によって頭を混乱させるからであった。」



「著者の好意とその限界」より:

「おだやかで、やさしく、だらしない傾向もなければ、はげしい感情を見せないのだから、いつも変らず静かな彼の情動は、月夜の静寂の中で鏡のように波の立たない湖面にも似ている。動物をいためつけることができず、虫に対してもあわれみが深くて、これを踏みつけることをおそれ、その点では臆病なくらい気が弱いのである。そのくせ、いったん立案して正しいものと認めた計画を主張し貫徹すべき段になるやいなや、自分の思うとおりに、前後をかえりみず、仮借なきまでに行動するであろう。逆境に置かれていると感ずると、じっくり辛抱して、沈黙を守り、厄介な事態は避けて通るか、さもなければ、おだやかな抗議によって事態を変更させようとするだろう。
 しかし結局は、どうにもならないとわかれば、その機会がおとずれ次第、そのような束縛からはさっぱりと脱却するであろうが、そのことで自分を苦しめた相手を恨むことはしないのである。
 従順で、人の言うことをよく聞くのだが、自分に不当な責任をなすりつけるか、自分が偽と考えることがらを真だと主張するような人は、彼が単なる好意とかその他の配慮から、その不正とか偽を甘受するものとは期待しないほうがよい。控え目な態度はしていても、必ず確固として自己の権利をゆずらないであろうが、万一、その他人が彼に対して頑固に自説を主張するようなときは、黙ってその場を去るであろう。」
「彼には祖国がなく、両親も親戚もいない。いわば、その類としては唯一の生物である。いつでも思い出されるのは、うるさく押しかける世間の人たちのただ中での孤独、無力と弱さ、自分の運命を支配する状況というものの力に対して、自分はどうすることもできないこと(中略)である。
 だからこそ、彼が人を見る眼はこえていて、いわば自己防衛の形をとっているのだし、周囲を見る眼光がするどくて、他人の特質と弱点をすばやくつかむのである。」



「解説」(山下武)より:

「ヤコブ・ヴァッサーマンの長篇小説『カスパー・ハウザー――または心の惰性』(一九〇八年)(中略)は今日に至るも邦訳がなく、(中略)当然ながら、小説化するにあたって彼は相当大胆な脚色を行なっている模様だ。その第一が、クララ・アンナヴルフ夫人なる女性の登場である。事実、主人公のカスパー以外、小説中の登場人物のうち最も作者が同情を以て書いているのがこの女性で、最後に狂える彼女はカスパーの記念碑の建立に参集した一同にむかい、「人殺し!」と叫ぶ。カスパーは刺客に殺されたのではなく、無理解な社会が彼を殺したというのだ。それは他人の猜疑の眼(まなこ)や社会復帰の強制によって傷付いたカスパーの語る、「それ以上僕は何もいらない。ベッドは世の中で一番良い物であり、それ以外のすべてのものは悪い」――という、小説中の言葉によっても明らかではないだろうか。彼にとっては、“無菌状態”に置かれた地下牢の方が却って幸せだったかもしれないのである。」
「一九七九年(中略)秋には(中略)ウェルナー・ヘルツォーク監督の「カスパー・ハウザーの謎」(中略)が都内各所で上映された。(中略)カスパー役に起用されたブルーノ・Sは職業俳優ではなく、施設を転々とし、誤って精神病院にも入れられたことがあるという。殊更このような特異な人物を起用したヘルツォークの意図が、自然児カスパーを調教して社会秩序の鋳型に無理矢理はめこもうとした社会に対する抗議にあることは明らかだ。」
「ペーター・ハントケも「カスパー」と題した前衛的な戯曲を一九六七年に書き、一九八四年に邦訳が(中略)刊行された。しかし、主人公のカスパーはこの難解な前衛劇の素材であるに過ぎず、もっぱら現代という時代を象徴する一個の犠牲者(中略)として登場する。(中略)社会によって情報を詰めこまれ、他人と同じように喋る人間につくられていく「ことばの拷問劇」――それがハントケの「カスパー」にほかならない。「ぼくは社会という牢獄の囚人、牢獄ことばを復唱する哀れな道化師だ」(龍田八百訳)と訴えるカスパー。」
「かつて、フォイエルバッハはカスパー・ハウザーと名乗る不幸な少年に対してなされたこの犯罪が、「人類残酷史のなかでも空前」の「精神生活に対する犯罪」に当るとして告発したが、現代に呼吸するわれわれ自身もまたこの種の「犯罪」の犠牲者だとすれば、何たる皮肉であろうか。」





















































































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ハナ・グリーン 『分裂病の少女 デボラの世界』 (佐伯わか子・笠原嘉 訳)

「時として彼女は深い悲しみを感じながら、この病院の患者たちより遙かに狂っている、外の世界のことを考えるのだった。(中略)当時病院の壁の外にはヒトラーがいたが、病院の内と外と、いったいどちらが正気の世界なのか、彼女にも判断できなかった。」
(ハナ・グリーン 『分裂病の少女 デボラの世界』 より)


ハナ・グリーン 
『分裂病の少女 
デボラの世界』 
佐伯わか子・笠原嘉 訳


みすず書房 
1971年10月10日第1刷発行
1987年12月5日第16刷発行
370p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,884円(本体2,800円)



本書「訳者あとがき」より:

「「デボラの世界」はハナ・グリーン(本名 Joanne Greenberg)の“I Never Promised You A Rose Garden”(Holt, Rinehart and Winston, Inc.)の全訳である。直訳すれば「私はあなたにバラの園をお約束したわけではない」となる。これは、文中フリード博士が患者デボラにいう言葉からとられたものである。」


グリーン デボラの世界


カバー裏文:

「狂気の世界の魅力と不思議さが、これほど明晰に、美しく描かれたことはなかったであろう。十六歳の少女の、三年間にわたる精神病院での生活と、狂気から現実への旅路をえがくこの小説は、すぐれた精神科医フリーダ・フロム=ライヒマンの面影をつたえているといわれる。狂気を語る小説は数多いが、分裂病という難病について、現代の精神病理学がもっている知見をこれほど正確に十分にふまえて書かれた小説は他に類をみない。一つの生命のきびしい闘いの勇気にみちた物語は、無限の悲哀とかずかずの恐怖をテーマに含みながらも、その読後感は、さわやかに人を勇気づけるであろう。」



◆本書より◆


「時として彼女は深い悲しみを感じながら、この病院の患者たちより遙かに狂っている、外の世界のことを考えるのだった。彼女はドイツの病院にいた頃知っていたティルダのことを思い出した。当時病院の壁の外にはヒトラーがいたが、病院の内と外と、いったいどちらが正気の世界なのか、彼女にも判断できなかった。ベッドに縛りつけられ、カテーテルで食べさせられ、薬で辛うじて抑えられるほどだったティルダの殺意をもった憎悪さえ、時には力が衰えてそのあいまから光明がさすことがあった。」
(p. 13)

「デボラは『どうすれば気にいるの? 脳みそまで変えたいっていうんでしょう』と言いました。」
(p. 44)

「「以前に知っていた患者さんで、ありとあらゆる怖ろしい方法で自分をいじめていた人があります。なぜそんなことをするのか、と聞きましたら、『世間がする前に、やるんだ』と言うのです。そこで『世間が本当にやるかどうか待ってみたらどう?』とききますと、『でも結局はそうなるんだ。だから、まず自分からすれば、その時には少なくとも私は自分の自己破壊については主人なのだ』と言うのです」
 「その方は……よくなられましたか?」
 「よくなられましたよ。でもあとでナチスにつかまってダハウにおくりこまれ、そこで亡くなりました。」」
(p. 49)

「デボラに会って、何を、どう言えばよいか、私にはわかりません。あの娘(こ)は父親には全く会いたくない、と言っています。それにこの前あった時は私に対しても、うつろな夢遊病者のような目つきしか見せませんでした」
 「本当に危険なことは、一つしかありません。ことに今はその点で、とくに感じやすくなっていられますから」
 「それは何でしょう? 先生」
 「うそをいうことです、もちろん」
(p. 50)

「妹のスジーが生れた時、デボラは、その赤ら顔の、やかましいへんなにおいのする、肉塊を侵入者としか思えなかった。それなのに親戚のだれもかれもが子供部屋におしかけてきて、赤ちゃんはきれいだ、とか、かわいいとか言って、彼女のいる場所さえなくなってしまったのだった。その上、その連中は彼女が赤ん坊のことをどう思っているかを知って、驚いたり腹をたてたりした。彼女が赤ん坊を醜いと思い、大きらいだと言い、きれいだとか仲間だなんて全然考えられない、と言った時、それは小さな姉にとってはごくあたりまえのことだったのに。
 「でも妹さんができたんでしょ、うれしいはずよ」その人びとは言ったものだ。
 「だって私がつくったのでもないし、相談をうけたわけでもないのに」
 それを聞いた時以来、家族は彼女に不安を感じはじめた。五つの子供らしくもない、ませた口をきく、そしてまるでかわい気がない、冷たくて残酷な女の子だ。正直なのかもしれない、でも自分のことしか考えない怒りんぼだ。優しい気持なんてまるでない子だ。」
「悪霊にとりつかれたように、デボラの口から、全身から、呪いが発散し、それは消えることはなかった。」
(pp. 60-61)

「《お聞き、小鳥さんよ、お聞き、荒れ馬であるものよ、お前はあいつらの仲間ではない!》」
「《お前さんはあいつらの仲間だったことはない、決してない! お前さんは全然ちがうのだ》」
(p. 63)

「《お前はかれらの仲間ではない、お前はわれわれの一人だ》」
「《あいつらのうそと戦うのはもうやめなさい、お前はあいつらの仲間ではない》」
「《われわれの小鳥になるがよい、風の中を自由にとんで。われわれの野性の馬になるがよい、頭をかかげ、恥じらわないで》」
(p. 77)

「「何もかも憎しみ――世界も、キャンプも、学校も……」
 「学校も反ユダヤ的でしたか?」
 「いいえ、学校はましでしたわ。その憎しみはどれもこれも私だけのものだったんです。行儀作法ではどうしようもない本物の嫌悪。でもちょっとした嫌悪感がいつでも本物の怒りや憎悪に燃え上りました。そのたびに私はどうしてそうなるのか自分でわかりませんでしたの。よく人からきかされたわ、『あんたがあんなことをしたから……』『あんなひどいことを言われた後で……あんたのことかばってあげられると思ってるの?』私はいつも、いったい何を言ったのかしら、したのかしら、と思ったものです。(中略)私はしょっちゅう『ごめんなさい』をいって歩かなければならなかったの、でも私にはなぜ、そして何をしたから、そんなに詫びなければならないのか、さっぱりわからなかったんです。」」
(pp. 87-88)

「「怖ろしい力が……怖ろしい破壊力が私にある。お願い。私に……だれをもそんなふうに傷つけさせないで」」
(p. 134)

「「私は決してばらの花園を約束しませんでしたよ、私は決して完全な正義など約束しませんでしたよ。(博士はふとティルダを思い出した。ニュルンベルクの病院を退院して、かぎ十字(ハーケンクロイツ)の支配する町へ出ていったが、やがて戻ってきて、やすりのようにかたい作り笑いをして言った。『恒久平和(シャロムアレヘム)! 先生、あいつらはわたしよかずっときじるしよ!』))……平和も幸福も約束したおぼえはありません。私がお手伝いするのは、あなたがそういうものと自由に戦うことができるためです。」」
(p. 141)

「「しかしわれわれがあの娘(こ)に与えた世界はちっともそんなに怖ろしい世界ではありませんでした」とジェコブは言った。
 「でも、彼女はあなたがたのその世界を全然うけとらなかったのです。おわかりになりませんか? 彼女は一個のロボットをつくりあげたのです。そのロボットが現実世界の中で動きまわっていただけなんです。本物の彼女は、そのかげに隠れて、ますます遠のいてしまったのです」」
(p. 146)

「「どうぞあの子をなおしてください」「行儀よくふるまえるようにしてください。そして私たちの夢を実現できるように、まともにしてください」それが家族たちの言葉なのだ。彼女は嘆息をついた。インテリの親も、正直で善良な親も、自分の子供を売りわたすことは平気なのだ。」
(p. 147)

「「すみませんが、先生。私がふつうの人とちがうということが、私の病気なのではありません。」」
(p. 223)

「「いつも……合っていないのです。……顔の表情と。私が怒ってもいない時に、『何を怒っているの?』ときかれ、そんなことまるで考えていない時に『人をばかにしないで』とよく言われました。それが〈検閲者〉が必要だったり〈Yr(イア)〉の法則が必要だったりした理由の一つですわ」」
(p. 268)

「「病気の症状も、病気自体も、秘密も、みなそれぞれにいくつかの存在理由があるのですよ。それらがお互いに支えあい、補強しあっているんです。(中略)症状の一つ一つはたくさんの必要に迫られて組み立てられたもので、複雑な目的をもっています。だからこそ、取り除くのは苦しいことなのよ」」
(p. 275)

「『本当にしたいと思うことをなさい』」
(p. 308)

「彼女は自分を捉えた人びとと妥協したけれど、もはや「ふりをする」ことを続ける気は全くなくなっていた。何はさておき、どこかに帰属していたいという気はなくなっていた。今では彼女はそうすることの代価がどれほど高くつくか理解していた。」
(p. 331)



著者ホームページ(英文)
http://mountaintopauthor.com/



◆感想◆


本書の邦題は、たいへんまぎらわしいです。実在の患者の手記あるいは臨床記録と思いきや、小説でした。著者のホームページによれば、本書は「自伝小説(a fictionalized autobiography)」です。
あるいは「統合失調症になった高機能自閉症の少女デボラの世界」とでもすればわかりやすいと思いますが、「病」とか「症」とか、そういう体制側からの抑圧的な押しつけターミノロジーはもうたくさんです。

本書をよんで、子どもの頃に共感した「樽のなかの哲学者ディオゲネス」の話や、グノーシス主義思想、ラブレー/アレイスター・クロウリーの律法「汝の意志するところをなせ、それが法の全てとならん」、ミュータントものSF『スラン』『人間以上』、中井英夫の『虚無への供物』などを思い出しました。

「時として彼女は深い悲しみを感じながら、この病院の患者たちより遙かに狂っている、外の世界のことを考えるのだった。(中略)当時病院の壁の外にはヒトラーがいたが、病院の内と外と、いったいどちらが正気の世界なのか、彼女にも判断できなかった。」
(本書より)

「考えてくれ、いまの時代で、気違い病院の鉄格子の、どちらが内か外か。何が悪で、何が人間らしい善といえるのか。」
(中井英夫『虚無への供物』より)

ちなみに本書(原書)は『虚無への供物』と同年、1964年に刊行されています。


デボラは、現実の世界と、心のなかの世界、ふたつの世界の対立に苦しみます。
・〈いま(ナウ)〉 
「現実の世界」
・〈Yr(イア)王国〉 
デボラが現実の世界に恐怖を感じると逃げ込む世界 「黄金の牧場と神々」 独自の「秘密の言語」があり、現実の世界とは違う「暦」がある 当初は自閉症のデボラが安らぎを見出すことができる世界であったが、しかし統合失調症になってから「何かが変化して、〈Yr〉は美と守護の源泉から、恐怖と苦痛の源泉と化してしまった」
「Yr」には、〈穴(ピット)〉とよばれる、意味が重要ではなくなり、「恐怖さえ意味をもたない」場所があり、そこでは「時々は彼女は自分の言語さえ忘れてしまうのだった」 
そしてこのふたつの世界のあいだに〈中立地帯〉があります。

デボラの心の世界の住人たち:
・〈アンテラビー〉 
「落ちつつある神」。デボラが子どもの頃に見たミルトン『失楽園』挿絵のサタンの記憶から作られたイメージ。アンテラビーと落ちていった先に「Yr」がある。「お前はあいつらの仲間ではない!」「お前さんはあいつらの仲間だったことはない、決してない! お前さんは全然ちがうのだ」
・〈ラクタメオン〉 
「Yr」で二番目の権力者。
・〈検閲者〉 
警告を与える者。デボラを「小鳥ちゃん」と呼び、現実の世界に対する警戒をうながす。「〈検閲者〉は、はじめは私を守ってくれるはずだったの。最初〈中立地帯〉にいて、〈Yr〉の秘密がこの世界の会話のなかで洩れないように気をつけていました。〈Yr〉の声や儀式がこの世界の人びとに知られないように私の言動をきびしく見張っていました。でもとにかく暴君になっていったのです。私の言うこと、することの一切を命令するようになりました。」
・〈集団(コレクト)〉 
デボラを「怠け者」「うそつき」と責め、憎悪と呪いの言葉を投げつける、内面化された現実=健常者の世界。「お前はわれわれの仲間ではない!」





























M・セシュエー 『分裂病の少女の手記』 (村上仁・平野恵 共訳)

「私は世界から除け者にされており、生活の外側にあって自分が一度もその中に加わったことのない混乱したフィルムが、眼の前で絶え間もなく繰り広げられているのをみている傍観者でした。」
(M・セシュエー 『分裂病の少女の手記』 より)


M・セシュエー 
『分裂病の少女の手記』 
村上仁・平野恵 共訳


みすず書房
1955年11月30日第1刷発行
1971年7月5日改訂第1刷発行
1974年8月10日改訂第7刷発行
161p 著者・訳者略歴1p
18.8×13.2cm 
丸背紙装上製本 カバー
定価700円

M.-A. Sechehaye: Journal d'une schizophrène, 1950



本書「あとがき」より:

「本書の本文は仮にルネと呼ばれている少女が、精神分裂病に罹り、(中略)全快するに至るまでの経過を、ルネ自身が回復後に回想的に記録したものである。本書の後半をなす「解釈」の部分では、治療者セシュエー女史が、ルネの罹病及び回復過程を心理的に分析・説明している。」
「なお本書はセシュエーの前著と独立に読んでも、充分理解できるようになっているが、ルネの病前の生活歴を知っておく方が都合がよいと思われるので、前著「象徴的実現」から、ルネの生い立ちと病気の部分だけを抄訳して、付載することにした。」



セシュエー 分裂病の少女の手記


目次:



第一部 物語
第二部 解釈

付録 ルネの生活歴及び病歴
文献

あとがき (訳者)
改訂版へのあとがき (訳者)




◆本書より◆


「第一部」より:

「私は「それ」が現われた最初の日のことをとてもよく憶えています。ちょうど私達が田舎にいて、独りで散歩にいったときのことでした。私が学校の前をぶらぶら通りすぎようとしたとき、突然ドイツの歌が聞えて来ました。子供達の唱歌の時間でした。私は歌を聞こうとして立止りましたが、ちょうどその瞬間に、ある名状し難い感覚(中略)に襲われたのです。もはや学校はそれとは認めることができなくなり、兵営のように大きくなって、歌を歌っている子供達は囚人で、歌うことを強制されているように思われました。そして、学校や子供達の歌は、まるで世界から切り離されたもののようでした。同時に私の目は果てしなく続いている麦畑に止ったのです。無限の黄色が、太陽の光にぎらぎらしながら、滑らかな石造りの兵営のような学校に閉じこめられている子供達の歌と結びついて、私は不思議な不安に満たされ、泣きじゃくりながら家に帰りました。私は庭へ行って「事物をもと通りにさせる」ために、つまり「現実」に帰るために、ひとりで遊び始めました。これは後になって、いつも「非現実の感覚」として現われた、無限の広さとか、ぎらぎらした光、ぴかぴかしてしかもつるりとした物体等々の要素の最初の出現だったのです。」

「ある日のこと、私達は休憩時間に繩跳びをしていました。二人の少女が繩のはしを持って回している間に、他の二人の少女が交互に跳ぶあの方法でした。私の順番になって、相手の少女が私の方に向って跳ぶのをみた時、突然私はパニックに襲われました。私には彼女がわからなくなったのです。彼女だということは目で見て知っているのに、やっぱり彼女ではないのです。向うの端に立っている時は小さくみえるのに、お互いに近よると彼女はふくれ上って大きくなるのです。」

「その枯草の中の針の夢というのは、電気でぎらぎら証明された納屋――壁は白ペンキ塗で、とてもつるつるして光っている――と、細いとがった、堅い、きらきら輝いている無限に沢山の針と、なのです。(中略)枯草堆は最初は小さかったのが、どんどんふくれ上り、その真中に強力な電力を賦与された針が枯草への充電を行なっていました。」

「それ以来、学校での娯楽の時間は、しばしば非現実感の原因になりました。私はまるで本当の囚人ででもあるかのように柵によりそって、他の生徒達が校庭を大声をあげて走りまわるのをみつめていました。私には生徒達はちょうど陽光の下の蟻のように思われました。学校の建物は巨大で滑らかな非現実となり、名状し難い苦痛が私をおさえつけるのでした。(中略)ときどき私は、もう他には逃れるすべもないのだというような気がして、まるで気狂のように、現実の世界に戻りたがっている狂人のように、椅子をがたがたとゆすぶりました。」

「授業の間じゅうあたりの静けさの中で、トロリーの通る音や、人々の話し声や、馬の嘶きや、警笛の鳴る音などの街の騒音が聞えてきましたが、それは皆現実を遊離した動きの無い、音の源から切り離された無意味なものでした。私のまわりにいる他の児童達はうつむいて一生懸命仕事をしていましたが、彼らはまるで目に見えないカラクリで動いている、ロボットか操り人形のようでした。教壇の上では先生が話をしたり、身振りをしたり、字を書くために黒板を上げたりしていましたが、それもまたグロテスクなびっくり箱の人形のようでした。そしてこの幽霊のような静けさは、はるかな彼方から聞えてくる騒音によって破られ、無慈悲な太陽が生命と動きを失ったその室を照らしていました。」

「精神分析の最初の二年間は、恐怖と「光の世界」に対する戦いに費やされました。それは非常につらい戦いで、私は、私が「光の国」と名づけていたものに直面するにはあまりにも弱く、無能でした。」

「それはむしろ、現実界に対抗する一つの世界、無慈悲な、目もくらむ、影になる場所もあたえない光が支配し、果てしもない広漠たる空間や、無限に続く、平べったい、鉱物的な、冷たい月光に照らされた、北極の荒地のように荒涼とした国でした。このはりつめた空虚さの中で、すべてのものは不変であり、不動であり、凝結し、結晶していました。物体は意味もない幾何学的立方体として、そこここに配置された舞台の小道具のようでした。そして私は――私はその光のもとに、切り離され、冷えきって、裸にされ、目的もなく、失われてしまっていました。真鍮の壁がすべての人や、すべてのものから私をひき離していました。荒涼とした、名状し難い苦悩の中にあって、絶対的な孤独の中にあって、私はただひとりでおびえており、だれひとりとして私を助けるものはありませんでした。これこそはあの狂気、「あの光の」あの非現実の感覚だったのです。永遠にあらゆるものを取りかこんでいる非現実こそ狂気そのものだったのです。私はそれを「光の国」と呼んでいましたが、それは、そのきらきらする照明や、眼もくらむ光や、星のような光や、冷たさや、あらゆるもの、私自身も引くるめて、すべてのものの極端な緊張状態や等々のためでした。それは恰も、異常に強い力を持っている電流が恐るべき爆発をひきおこすまであらゆる物体や建物の中をかけめぐっているようでした。」

「私は何時もなぜそんなにひどく罰せられるのか、なぜそんなに罪悪感を感ずるのか理由を知りたいと思っておりました。
 ある日のこと私は私の悩みの見知らぬ創造者、未知の迫害者へ、「何時かは知れることだから一体私がどんな悪事を働いたのか聞かせてほしい」という問合せの手紙を書きました。しかし、その手紙をどこへ送ったらよいのかわからなかったので、私はそれを破り棄てました。」

「たとえば私が椅子とか、水差とかを眺めると、その使用法とか機能を考えるのではなくて、――たとえば、水やミルクを入れるものとしての水差とか、腰掛けるものとしての椅子ではなくて、その名前や、機能や、意味を失ったものとして感じるのでした。すなわちそれらは「事物」となり、生き始め存在し始めるのでした。」
「それらのものの生命は、それらのものがそこにあるということ、その実存そのものにより独特な方法で構成されていたのです。
 それから遁れるために、私は手で頭を隠したり、隅の方に立ったりしました。」

「私がありったけの力をふりしぼって、「光の国」の中に沈みこまないように戦っている間、私は「事物」が、その置かれている場所から私を嘲笑し、脅迫的に罵るのをみました。(中略)私は自分がその中心になっているこの混乱から逃れようとして眼を閉じました。しかし私が実際に身体的な感覚として感じたほど生き生きしたこの恐ろしい印象に攻めたてられて休息することもできませんでした。また実際のところそれらをはっきり見たともいえませんでした。それらは明瞭な表象ではありませんでした。むしろ私はそれを感じたのでした。あるときは歯で噛みくだかれた鳥の羽や、血や、折れた骨で口の中が一杯になっているような気がして窒息しそうでした。またあるときは自分が牛乳瓶の中に埋葬した腐った死体をみ、それを食べなければなりませんでした。あるいは私は猫の頭を貪り食い、その頭がまた私の内臓を食べました。」

「私は世界から除け者にされており、生活の外側にあって自分が一度もその中に加わったことのない混乱したフィルムが、眼の前で絶え間もなく繰り広げられているのをみている傍観者でした。」

「罪悪感のために混乱した期間は道徳的な苦痛を伴って存続し、私は数時間の間、涙を流しながら Räite, Räite, was habe ich gemacht? (私は一体何をしたというの?)と叫び、私固有の「言葉」、無意味な反覆的な “icthiou, gao, itivare, gibastow, ovede.” やそれに似たシラブルで嘆いていました。(中略)それらを通して私の心の激しい悲しみと果てしもない嘆きを注ぎかけながら、私は悲嘆にくれました。私は普通の言葉を使うことができませんでした。なぜなら私の苦しみや嘆きは、何らの現実的根拠をも持たないものだったからです。」



「付録 ルネの生活歴及び病歴」より:

「ルネが一歳二ヶ月の頃かわいらしい兎を遊び友達にしていたが、ある日父親が子供の見ている前でその兎を殺した。その後、彼女は絶えず兎をさがし求め、食事をしなくなった。」
「ルネが一歳六ヶ月のとき、妹が生れて母親は妹の世話に夢中になった。この頃彼女は強い攻撃性を示し、だれにでも唾を吐きかけた、ことに妹とちょうど戻って来た祖母に対して。」
「やがて祖母はルネが奇妙な動作をするのに気づいた。ルネは何も欲しがらず、玩具を買ってもらうのを拒んだ。そして玩具屋の玩具は皆自分のものだといった。また玩具の車をひっぱるとき、ひっくりかえしにして引張り、人がそれをなおそうとすると怒った。散歩の途中勝手に人の庭へ入りこみ、母親に「ママをさがしているのよ」と言った。」
「七歳のとき、ルネは汽車の軌道に大きな石を置いて汽車を脱線させて、だれかを殺そうとした。彼女は殺そうとした人がだれかはいわなかったが、その汽車は何時も父親の来るものであった。彼女は「鉄のように堅く」なりたいと言って鉄棚を噛み、「石のように冷たく固く」なりたいと言って石を吸ったりした。」
「十二歳頃、ルネは幻視を体験した。ある家の広間へ入ったとき、彼女は数人の人が乳母車にとり囲まれてお茶を飲んでいるのを見た。そして彼女はこの幻想的な人々を邪魔するのを恐れて、その部屋へ入ることができなかった。(中略)また子供達の集りですべての子供の頭の上に小さい鳥が止っているのを見て驚いた。」
「ルネは栄養不良と過労で苦しめられながらも、学校ではよい生徒であった。それは彼女の知能が優れていたためである。教師は彼女をボンヤリして、落着きがなく、ちょっと変だと思った。彼女は上着を着るのを忘れたり、昼近くになって学校へ来たりし、授業中にも大きな声で独り言をいったり、「天国への鍵をもっているのはだれですか」などと聞いたりした。」

「孤独! これが彼女の最大の望みであった。彼女は木曜毎にどこへ行くあてもなく、どこを歩いているかも気づかないで数時間も散歩した。お茶やコーヒーを飲んで、一晩中起きていた。何のためというわけでもなく、夜になるとひとりになるのが嬉しかったからだ。」
































































































オリバー・サックス 『妻を帽子とまちがえた男』 (高見幸郎・金沢泰子訳/晶文社サックス・コレクション)

「ナイジェル・デニスはこう書いている。「かくして、天才少女から天才がとりのぞかれておわった。あとに何ものこらなかった。ただひとつの優れた点はなくなり、どこをとっても人なみ以下の欠陥ばかりとなった。こんな奇妙な治療法を考えつくとは、いったいわれわれはどういう人間なのか?」」
(オリバー・サックス 『妻を帽子とまちがえた男』 より)


オリバー・サックス 
『妻を帽子とまちがえた男』
高見幸郎・金沢泰子 訳

サックス・コレクション

晶文社 1992年1月30日初版/2006年5月5日27刷
398p 参考文献x 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,840円+税
ブックデザイン: 日下潤一
カバー絵: 南伸坊
Oliver Sacks : The Man Who Mistook his Wife for a Hat, 1985



本書はハヤカワ文庫版も出ていますが、ヤフオクで安かったので(100円+送料)単行本を購入してみました。


サックス 妻を帽子とまちがえた男1


カバーそで文より:

「病気について語ること、それは人間について語ることだ――
 妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性……
 脳神経に障害をもち、不思議な症状があらわれる患者たち。正常な機能をこわされても、かれらは人間としてのアイデンティティをとりもどそうと生きている。心の質は少しも損なわれることがない。
 24人の患者たち一人一人の豊かな世界に深くふみこみ、世界の読書界に大きな衝撃をあたえた優れたメディカル・エッセイ。」



目次:

はじめに

第一部 喪失
1 妻を帽子とまちがえた男
2 ただよう船乗り
3 からだのないクリスチーナ
4 ベッドから落ちた男
5 マドレーヌの手
6 幻の足
7 水平に
8 右向け、右!
9 大統領の演説

第二部 過剰
10 機知あふれるチック症のレイ
11 キューピッド病
12 アイデンティティの問題
13 冗談病
14 とり憑かれた女

第三部 移行
15 追想
16 おさえがたき郷愁
17 インドへの道
18 皮をかぶった犬
19 殺人の悪夢
20 ヒルデガルドの幻視

第四部 純真
21 詩人レベッカ
22 生き字引き
23 双子の兄弟
24 自閉症の芸術家

訳者あとがき (高見幸郎)

参考文献




◆本書より◆


「からだのないクリスチーナ」より:

「しかし、クリスチーナがつらそうに、ぎこちない動作でバスに乗ろうとすると、理解のない、腹立たしげな罵声があびせられるばかりである。「いったいどうしたんだ、目が見えないのか。それとも酔っぱらっているのかい?」 彼女はどう答えたらいいのだろう。「固有感覚がないのです」とでも言えというのか? 同情も援助も得られないこと、これもまた辛い試練だった。障害をもっているのに、それが表にはっきり現れないからだ。彼女は盲目でもないし、身体が麻痺しているのでもない。表むきはなんともないのである。だから往々にして、嘘つきか馬鹿のように思われてしまう。われわれの社会では、外から見えないかくれた感覚に障害がある人たちにも、同じことがおきているのである。」


「双子の兄弟」より:

「二人のまわりには、ふしぎに満ちたりた雰囲気と、ある種の静かな安らぎがただよっていた。そして、その安らぎを邪魔したりこわしたりしたら悲劇を招きかねないと思われたほどだった。どれほど奇妙でおかしくても、これを「病的」と言ってはならない。われわれにはそう呼ぶ権利などないのである。
  しかしこの平和は、それから十年後にかき乱され、こわされた。二人を引きはなすべきだ、それが「彼ら自身のためになる」と考えられたのだ。「二人だけの不健全なまじわり」はやめさせるべきで、「もっと外の世界に接しなければ、しかるべき社会性がつかない」と考えられたのである(これは、当世の医学や社会学のきまり文句である)。こうして兄弟二人は(中略)引きはなされた。(中略)彼らは、数についてのあのふしぎな能力を失ってしまったように思われる。そしてそれとともに、生の喜びや生きているという感覚もなくなっていったようにみえる。だがこうしたことは、彼らがなかば独立できて、社会的に人なみになれたのだから、代償としては些細なものだと考えられたのである。
 この処置を聞いて思い出されるのは、ナディアにたいしておこなわれた処置である(ナディアは、スケッチにすばらしい才能をもった自閉症の子供である)。ナディアもまた、「スケッチ以外の面での能力が最大限に発揮されるような道を見いだすべく」否応なく治療体制に従わせられた。その結果はどうだったか? ものをしゃべるようにはなったけれど、スケッチはぴたりとやめてしまった。ナイジェル・デニスはこう書いている。「かくして、天才少女から天才がとりのぞかれておわった。あとに何ものこらなかった。ただひとつの優れた点はなくなり、どこをとっても人なみ以下の欠陥ばかりとなった。こんな奇妙な治療法を考えつくとは、いったいわれわれはどういう人間なのか?」」



「アイデンティティの問題」より:

「ウィリアムをふたたびつなぎ合わせようとしたわれわれの努力は、すべて失敗した。ますます作話へ駆り立てるだけの結果となった。しかし、われわれがあきらめて彼のそばからはなれると、ときおり彼は、病院の静かでおだやかな庭へとはいってゆく。そして静寂のなかで、自分自身の平静をとりもどすのである。他人がいると、彼は興奮してしゃべることになる。アイデンティティを見つけようとして際限なくしゃべり、陽気な非現実の混迷状態にみずからを追いこんでしまう。植物、静かな庭、人間のいない世界では、対人関係に気をつかう必要はない。だから彼は、アイデンティティの混迷状態から脱し、興奮状態から解放され、くつろいで平静になれるのだ。静寂と、十全にして満ち足りた雰囲気、しかもまわりはすべて人間以外のものばかりとあって、はじめて彼は静穏と充足感を味わうのである。人間のアイデンティティだの人間関係だのはもはや問題ではなくなり、あるものはただ、自然との、ことばによらない深い一体感である。そしてこの一体感を通じて彼は、この世に生きていること、偽りのない真正な存在であることを感じとるのだ。」


「自閉症の芸術家」より:

「自閉症の者は、抽象的・範疇的なものには興味を抱かない。具体的なもの、個々のひとつひとつが大事なのである。(中略)彼らの世界は具体的な個々の物で成りたっている。したがって、彼らはユニバース(単一の世界)に住んでいるのではなく、ウィリアム・ジェイムズのいうマルチバース(複合世界)に住んでいる。確固とした強烈な無数の「個」でできた世界なのである。それは、「一般化」することや科学的な考え方とはまったく正反対な心のありかたである。しかし、ありようこそちがうが、これだって同じようにリアルな現実的態度なのである。」

「「誰ひとり、島のように孤立して存在することはできない」とダンは書いた。しかし、自閉症とはまさにそのような存在なのである。本土からきり離され孤立化した島のような存在である。」
「本土から切り離され、「島」のような存在でいることは、必然的に「死」を意味するのだろうか? それは「ひとつの死」かもしれないが、かならずしもまったくの死ではない。なぜなら、他の人々や社会や、文化との「水平的」つながりは失われていても、生き生きとして強力な「垂直的」なつながりは存在しうるからだ。つまり、他人の影響や接触はなくても、現実や自然とのあいだに直接的なつながりをもつことはできるのだ。ホセはそれをもっていた。彼の知覚はおどろくほど鋭く、描くものは直接的で明晰だった。まわりくどい曖昧さはかけらほどもない。そこにあるのは、他からの影響をうけない岩のような力である。」



サックス 妻を帽子とまちがえた男2


上の図版は、患者を治療しようとする試みが、患者の生き生きとした想像力を殺す結果になってしまうことを示しています。著者が描いた絵(四角の中に丸、その中に×印)を見せて、それと同じ絵を描くように言うと、果物が入っている箱(右ページ)や上昇する凧(左ページ上)を描いたが、鎮静剤を投薬すると、

「今度は正確ではあるが平凡に、もとのかたちよりすこし小さくそれを写した。その絵には、前の二つにあったような面白さも動的なところもなく、想像力も感じられなかった。「なんにも見えなくなっちまった」と彼は言った。「前はとても本当らしく、生き生きと見えたのに、治療をうけると何もかも死んだみたいに見えるのかなあ」」(「キューピッド病」より)


「キューピッド病」より:

「病気は幸福な状態で、正常な状態に復することは病気になることなのかもしれないのだ。興奮状態はつらい束縛であると同時に、うれしい解放でもあるのだ。しらふの状態でなく酩酊状態にこそ、真実が存在するのかもしれないのである。」



こちらもご参照下さい:
エドワード・リア/エドワード・ゴーリー 『ジャンブリーズ』






































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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