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『完訳 水滸伝 (三)』 吉川幸次郎・清水茂 訳 (岩波文庫)

「張青、武松を料理場まで案内すると、見れば壁には人の皮が何枚かひろげられ、梁からは人の足が五、六本ぶら下がり、あの二人の警吏は、ひっくりかえって、調理台の上で伸びています。」
(『完訳 水滸伝 (三)』 より)


『完訳 水滸伝 (三)』 
吉川幸次郎・清水茂 訳
 
岩波文庫 赤/32-016-3


岩波書店 
1998年12月16日 第1刷発行
377p 
文庫判 並装 カバー
定価660円+税
カバー: 中野達彦



全十冊。
本文中挿絵20点。「注」に図版2点。



水滸伝 三 01



カバーそで文:

「弟の武松は、身の丈八尺の堂々たる偉丈夫。強い酒をたらふく飲んで景陽岡に向い、名うての人食い虎を素手でやっつけて大評判に。兄の武大は背丈は五尺に満たず、気が弱くて真面目一方。ところが兄嫁は海千山千の美女。さてさて、どうなることやら。」


忠義水滸伝 第三冊 目録:

巻の二十三
 横海郡(おうかいぐん)に柴進(さいしん)は賓(まろうど)を留め
 景陽岡(けいようこう)に武松(ぶしょう)は虎を打つ
巻の二十四
 王婆(おうば) 賄(かね)を貪(むさぼ)りて風情(うわき)を説(すす)め
 鄆哥(うんか) 忿(おさま)らずして茶肆(ちゃみせ)を鬧(さわ)がす
巻の二十五
 王婆(おうば) 計(はかりごと)もて西門慶(せいもんけい)を啜(そその)かし
 淫婦 薬もて武大郎(ぶたいろう)を鴆(ころ)す
巻の二十六
 鄆哥(うんか) 大いに授官庁(じゅかんちょう)を鬧(さわ)がし
 武松(ぶしょう) 闘(たたか)いて西門慶(せいもんけい)を殺す
巻の二十七
 母夜叉(ぼやしゃ) 孟州道(もうしゅうどう)にて人肉(じんにく)を売り
 武都頭(ぶととう) 十字坡(じゅうじは)にて張青(ちょうせい)に遇(あ)う
巻の二十八
 武松(ぶしょう) 威(い)もて安平寨(あんぺいさい)を鎮(しず)め
 施恩(しおん) 義(ぎ)によりて快活林(かいかつりん)を奪う
巻の二十九
 施恩(しおん) 重ねて孟州道(もうしゅうどう)に覇(は)をとなえ
 武松(ぶしょう) 酔って蔣門神(しょうもんしん)を打つ
巻の三十
 施恩(しおん) 三たび死因の牢に入り
 武松(ぶしょう) 大いに飛雲浦(ひうんぽ)を鬧(さわ)がす
巻の三十一
 張都監(ちょうとかん) 血は鴛鴦楼(えんおうろう)に濺(そそ)ぎ
 武行者(ぶぎょうじゃ) 夜(よ)るに蜈蚣嶺(ごこうれい)に走る
巻の三十二
 武行者(ぶぎょうじゃ) 酔って孔亮(こうりょう)を打ち
 錦毛虎(きんもうこ) 義もて宋江(そうこう)を釈(ゆる)す





水滸伝 三 02



水滸伝 三 03



◆本書より◆


「巻の三十一」より:

「武松、くらやみのなかにかくれて、時の太鼓をきけば、早くも午後九時をうったところです。馬丁、かいばをやり、提燈をそこへかけますと、夜具をのべて、衣服をぬぎ、寝台にあがって、やすみました。武松、小屋の門のところまでやって来て、門をゆり動かせば、馬丁、大声で、
 「おれさまは、今しがた寝たところだ。衣服を盗もうと思っても、ちと早すぎるぞ。」
 武松、長刀を門のそばに立てかけ、腰刀を手に抜きもちますと、またもや、ぎいぎいと門を押します。馬丁、たまりかね、寝台の上から、まっぱだかで跳び起き、かいばをかきまわす棒を手にもって、かんぬきをひきぬき、門をあけようとするのを、武松、そのはずみに門をおしあけて踏みこみ、馬丁をまっこうからつかまえました。声をたてようとしましたが、ともしびの光で見えたのは、手中のきらきら光る刀、まずそれにどぎもをぬかれてぐにゃりとなり、
 「命ばかりはおたすけ。」
 と、口でひと声叫ぶばかり。
 武松、「わしがだれだかわかるか。」
 馬丁、声を聞いて、やっと武松と知り、大声あげて、
 「兄さん、わたしの知ったことではない。見のがして下さいよ。」
 武松、「ほんとうのことをいうのだぞ。張司令官は今、どこにいる。」
 馬丁、「今日は、張師団長さん、蔣門神さんと三人で、一日じゅうお酒盛、まだ鴛鴦楼の上で飲んでますよ。」
 武松、「そのことばにちがいはないな。」
 馬丁、「うそをいったら、ばちがあたります。」
 武松、「それじゃ、きさまは生かしちゃおけない。」
 と、一刀の下に馬丁を殺して、首を斬りおとし、ぽんと死体を蹴とばしました。武松は刀を鞘におさめ、ともしびのもとで、施恩のくれた綿入れを腰からときおろして出すと、身につけた古い衣服を脱ぎすてて、二枚の新しい衣服を着、きりりと身支度します。」
「月は照りかがやいて、まひるのような明るさです。」
「見れば、そこは台所。二人の女中が、湯わかしのそばで、ぶつぶついっています。
 「朝から一日じゅうお給仕をしているのに、まだ寝る気にならずに、お茶がほしいだなんて。あの二人のお客もあつかましいわね。あんなに飲んでおきながら、まだ下へおりて来て休もうとしないなんて、いつまでしゃべってるつもりかしら。」
 二人の女中、ぶつぶつべちゃべちゃと、不平をいっています。武松、長刀を立てかけ、腰から血みどろの刀を抜きはなって、門をぐっとおしますと、ぎいっと門のおしあけられるままに、踏みこんで行って、まず一人の女中の髷(まげ)をひっつかんで、一刀のもとに殺しました。もう一人の方は、逃げようとしましたが、二本の足は釘づけにされたよう、声を立てようとすれば、口はまた啞になったよう、まったくあっけにとられています。」
「武松、ふりかざす刀に、その女中をも殺し、二つの死骸を、かまどの前まで引っぱって行きますと、台所の燈(ともしび)を消し、窓外の月光をたよりに、一あし一あしと、奥の方へもぐりこんで行きます。(中略)まっすぐ鴛鴦楼の階段のところまでしのんで来て、ぬき足、さし足、手さぐりで二階へのぼりますと、早くも耳にはいったのは、張司令官、張師団長、蔣門神、この三人の話し声。武松、階段の上で聞き耳をたてていましたが、聞こえて来たのは、蔣門神のとめどもないお世辞、
 「閣下のお蔭で、わたくしの仇を討っていただきました。この上ともお礼はたっぷりさせていただきましょう。」
 といえば、張司令官、
 「弟分の張師団長の顔を立てるのでなければ、だれがこんなことをやるものか。君も金はいくらか使ったろうが、うまくあいつをやっつけてしまったわけだ。今頃は、多分あそこで手にかかり、あいつ、恐らく死んでいることだろう。(中略)くわしいことは、あの四人が、あすの朝、帰って来たら、わかるよ。」
 張師団長、「今夜は四人であいつ一人にかかるのだから、やりおおせぬはずはない。命がいくらあっても、足りないよ。」
 蔣門神、「わたくしも弟子たちによくいいふくめておきました。なんでもいいから、あそこで手にかけ、かたづけたら、すぐ報告しろと、そういってあります。」」
「武松、それを聞いて、胸さきの無明(むみょう)の業火(ごうか)は高さ三千丈、青空をもつきやぶらんばかり、右手は刀を持ち、左手は五本の指をおしひろげて、楼の中に踏みこみました。四、五本の画ろうそくがもえさかっているところへ、一、二か所から月光がさしこみ、楼上は大変なあかるさです。(中略)蔣門神は、椅子に坐っていましたが、みれば武松ですので、びっくり仰天し、(中略)いそぎあらがおうとするところを、武松、早くもあびせる一太刀に、まっこうから斬られ、椅子もろとも、斬りたおされてしまいました。武松、ふりむいて、刀をこちらにむけ、張司令官が足を伸ばしかけたところを、武松にすぐさま一刀で耳もとから首すじにかけて斬られ、ばたりと床板の上にたおれました。二人のもの、あがきもがいていましたが、張師団長の方は、(中略)二人とも斬りたおされたと見るや、これはとても逃げられぬとみこみをつけ、椅子一脚を取りあげて、ふりまわします。武松、さっと受けとめ、勢にまかせて、ぐっと押しました。張師団長、(中略)武松の神力にかなうはずなく、ぱたりとあおのけざまに倒れました。武松、ふみ込んで、一刀のもとに、首をうちおとしました。蔣門神は力持ち、やっとこさ起き上って来たところを、武松、さっと左足を飛ばし、もんどりうって、けとばされたのを、やはりおさえつけて首をはね、ぐるりとむきなおると、張司令官の首をもはねました。
 見れば、食卓の上にあるのは酒に肉、武松、杯を取り上げて、ぐっと飲みほし、つづけざまに三、四杯飲みますと、死体の身辺から、衣服の上前をすこし切り取り、それを血にひたして、白壁の上に大きく書いた八文字は、
   人ヲ殺ス者ハ虎ヲ打チシ武松也
 さて、食卓の上の銀の酒器や皿をふみつぶし、そのいくつかを懐にねじこんで、下へおりようとしましたが、下から聞こえて来たのは、夫人の声、
 「二階の旦那がたは、みなお酔いになったらしい。早く二、三人やって介抱しなさい。」
 といいもおおせず、早くも二人の男が二階へあがって来ました。武松、階段のあたりにひそみながら、じっと見ていれば、それは二人のつきびと。即ち、このあいだ武松をつかまえたやつらです。武松、くら闇のなかで、彼等をやりすごし、逃げみちをふさいでしまいました。
 二人のもの、楼の中へはいってみれば、三つの死体が血の海のなかに横たわっていますので、びっくり仰天して、顔を見合わせるばかり。声を立てることもできません。(中略)あわてて引っかえそうとするのを、武松、すぐうしろにくっついて、手があがれば刀は落ち、早くも一人を斬りたおしました。もう一人は、土下座してお助けといいますが、武松、
 「助けてやれぬ。」
 と、ひっつかまえて、これも首を斬りました。殺したあげく、血は画楼にそそぎ、屍は燈影によこたわります。武松、
 「毒くわば皿まで。百人殺しても、死ぬのはただ一度。」
 と、刀をぶらさげて、下へおりて行きます。
 夫人、たずねて、
 「二階は、どうしてあんな大騒動なの。」
 武松、部屋の前まで踏みこみます。夫人、一人の大男がはいって来たのを見ながら、なおもたずねて、
 「どなた。」
 武松の刀、早くも飛んで、まっこうから額(ひたい)に斬りつけますと、部屋の前にたおれて、うめいています。武松、おさえつけて、刀で首を斬ろうとしましたが、なかへはいりません。武松、はてな、と月の光で刀をすかしてみれば、もうすっかり刃が欠けているのでありました。
武松、
 「なるほど首が斬れないはずだ。」
 と、そっと裏門の外へ出て、長刀を取りに行き、欠けた刀を捨てると、再びもどって楼の下へはいって来ました。見れば、ともしびはあかあかとして、この前、歌をうたった腰元の玉蘭が、二人のわかい子をしたがえ、夫人が地べたで殺されているのを、ともしびで照らしながら、やっとひと声、
 「大変だ。」
 と叫んだのを、武松、長刀をにぎりしめて、玉蘭のみぞおちにつきさし、わかい子二人も、武松につき殺されました。長刀の一さしごとに、一人をかたづけると、広間をとびだし、前の門にかんぬきをかけると、もう一度、なかへはいって来て、二、三人の女を見つけ、それをも部屋のなかでつき殺しました。武松、
 「やっとこれで満足だ。」」






こちらもご参照ください:

孟元老 『東京夢華録 ― 宋代の都市と生活』 入矢義高・梅原郁 訳注
小林章夫 『チャップ・ブック ― 近代イギリスの大衆文化』










































































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『完訳 水滸伝 (二)』 吉川幸次郎・清水茂 訳 (岩波文庫)

「「われわれ、空いっぱいほどの大罪を犯し、身を落ち着けるところがない。」」
(『完訳 水滸伝 (二)』 より)


『完訳 水滸伝 (二)』 
吉川幸次郎・清水茂 訳
 
岩波文庫 赤/32-016-2


岩波書店 
1998年11月16日 第1刷発行
355p 
文庫判 並装 カバー
定価660円+税
カバー: 中野達彦



全十冊。
本文中挿絵22点。



水滸伝 二 01



カバーそで文:

「蔡太閤の誕生祝いの金銀珠玉を奪ったことがばれ、腕利きの警吏が人数を引き連れてやってきた。幸い、その応対をした地方官が宋江。危険を知らされた晁蓋・呉用・公孫勝らは難を避け、追っ手の官軍を思うままに翻弄しつつ梁山泊に向かう。(巻の十二―巻の二十二)」


忠義水滸伝 第二冊 目録:

巻の十二
 梁山泊(りょうざんぱく)に林冲(りんちゅう)落草(らくそう)し
 汴京(べんけい)城に楊志(ようし)刀を売る
巻の十三
 急先鋒(きゅうせんぽう) 東郭(とうかく)に功を争い
 青面獣(せいめんじゅう) 北京(ほっけい)に武を闘(たたか)わす
巻の十四
 赤髪鬼(せきはつき) 酔って霊官殿(れいかんでん)に臥(ふ)し
 晁天王(ちょうてんおう) 義(ちぎり)を東渓村(とうけいそん)に認(むす)ぶ
巻の十五
 呉学究(ごがっきゅう) 三阮(げん)に説いて籌(かず)に撞(い)らしめ
 公孫勝(こうそんしょう) 七星に応じて義に聚(あつ)まる
巻の十六
 楊志(ようし) 金銀の担(に)を押送(おうそう)し
 呉用(ごよう) 智もて生辰(せいしん)の綱(に)を取る
巻の十七
 花和尚(かおしょう) 単(ひと)りにて二竜山(にりゅうざん)を打ち
 青面獣(せいめんじゅう) 双(ふた)りして宝珠寺(ほうじゅじ)を奪う
巻の十八
 美髯公(びぜんこう) 智もて挿翅虎(そうしこ)を穏(なだ)め
 宋公明(そうこうめい) 私(ひそ)かに晁天王(ちょうてんおう)を放つ
巻の十九
 林冲(りんちゅう) 水寨(すいさい)にて大いに火(どうし)を併(う)ち
 晁蓋(ちょうがい) 梁山(りょうざん)にて小(すこ)しく泊(いりえ)を奪う
巻の二十
 梁山泊(りょうざんぱく)に義士は晁蓋(ちょうがい)を尊(あるじ)とし
 鄆城県(うんじょうけん)に月の夜に劉唐(りゅうとう)を走らす
巻の二十一
 虔婆(おにばば) 酔って唐牛児(とうぎゅうじ)を打ち
 宋江(そうこう) 怒(いか)って閻婆惜(えんばしゃく)を殺す
巻の二十二
 閻婆(えんば) 大いに鄆城県(うんじょうけん)を鬧(さわ)がせ
 朱仝(しゅどう) 義によりて宋公明を釈(ゆる)す





水滸伝 二 02



水滸伝 二 03



◆本書より◆


「巻の十三」より:

「この朱仝(しゅどう)、雷横の両人、なみの人ではないので、人人の推挙を受けて組頭になり、盗賊逮捕を専ら指揮しています。
 その日、知事が両人を役所まで呼び出しますと、挨拶して仰せを承わります。県知事、
 「わしが着任してより、耳にするところでは、本府済州管轄下の水郷梁山泊(りょうざんぱく)に、盗賊たち、人数あつめて強盗をはたらき、官軍に敵対するという。また気にかかるは、おちこちの村村、盗賊猖獗(しょうけつ)して、悪者がひどく多いとのこと。今、そちら両人を呼び出したのは、御苦労ながら、部下の兵卒をひきつれ、一人は西の門より出、また一人は東の門より出、手分けして巡邏(じゅんら)してほしいのだ。もし盗賊がいたら、そっこく召し取って連行するが、村民たちを騒がしてはならぬ。わしの知るところでは、東渓村(とうけいそん)の山上に、大きな紅葉(もみじ)の木が一本あり、よそにはない。そちたち何枚か取って来て、県庁に差し出せば、そこまで見廻ったしるしとする。それぞれ紅葉がなければ、そちたちはうそをついたことになる。役所はきっと処罰し、許しておかぬ。」
 二人の組頭、仰せを承わり、それぞれ引き取りますと、配下(はいか)の兵卒の点呼を行ない、手分けして巡邏に出ました。うち朱仝が人を引きつれて、西門から出て巡邏に行きましたことはさておき、こちらは雷横、その晩、二十人の兵卒を引きつれ、東門を出て、村村をめぐり巡察します。あちこちすっかりひととおり歩きまわったすえ、東渓村の山の上まで帰って来て、みなみな、かの紅葉を摘みとると、村へ下りて来ました。半里も行かぬうちに、早くも霊官廟(れいかんびょう)の前にさしかかりましたが、見れば本堂の扉が開いています。雷横、
 「この堂には、堂守もいないのに、堂の扉が開いている。怪しいやつが中にいるのではあるまいか。われわれ、ふみこんで調べて見よう。」
 と、一同松明(たいまつ)をかざして、ぱっと照らし出せば、何と供物机の上に、一人の大男が、まっぱだかで寝ています。」



「巻の十四」より:

「そもそも、かの東渓村(とうけいそん)の庄屋、名字は晁(ちょう)、名は蓋(がい)、先祖は本県本村の物持ちでございましたが、常ひごろから義理を重んじ金ばなれがよく、天下の豪傑たちと交わりを結ぶのが大好き、かけこんで来るものがあれば、よしあしを問わず、屋敷に泊め、いざ旅立ちという時には、わらじ銭をめぐんで援助してやります。何よりすきなのは槍術棒術、またよい体格の力持ち、妻をめとらず、ただもう一日じゅう筋骨を鍛錬しています。鄆城(うんじょう)県管下の東門外には、二つの村があり、一つは東渓村(とうけいそん)、一つは西渓村(せいけいそん)、ただ一すじの大きな谷川がさかいですが、むかし、この西渓村に、よく幽霊が出て、ひる日中でも人をたぶらかして谷の水中へ引きずりこみ、手のつけようがありません。ふとある日、通りかかった一人の僧、村人がくわしく事情を話しますと、その僧、ある場所を指さし、青石で宝塔を刻らせてそこに置き、谷の鎮めとさせました。すると西渓村の幽霊、みな東渓村へやって来ましたので、そのとき、晁蓋それを知って、大いに立腹、谷を渡って、青石の宝塔をただひとりで奪って来ると、東渓の方へ置きました。そこで、人人みな托塔天王(たくとうてんおう)と呼んでいます。晁蓋、その村にてはお山の大将、股旅渡世でその名を知らぬものはありません。
 さて早くも雷横、兵卒たちといっしょに、かの男を護送して屋敷の前まで来て、門をたたけば、屋敷うちでは、作男がそうと知って庄屋に伝えます。その時、晁蓋はまだ寝ていましたが、組頭(くみがしら)の雷さんが見えましたとの知らせに、あわてて門をあけさせます。作男、屋敷の門をあければ、兵卒たち、まずかの男を門番部屋に宙(ちゅう)づりにしました。」



「巻の十九」より:

「五人の豪傑、漁師の仲間十何人かをひきつれ、兵隊たちをすっかり蘆の沼の中で突き殺して、ぽつんとあとに残ったのは何部長一人。粽(ちまき)のようにしばられて、胴の間においてきぼりにされていましたのを、阮小二、船の上に引きあげ、指さしして罵りますには、
 「きさまは済州(さいしゅう)の民草いじめの毒虫だ。わしはもともと八つ割きにしてやろうと思っていたが、おまえには帰ってもらって、済州府庁の総元締め間抜けにこういわせることにした。おれたち石碣村(せっけつそん)の阮氏の三傑、また東渓村の天王晁蓋(ちょうがい)、どちらもうっかり挑撥するな。こちらもお前の町に米を借りに行かねえから、そちらもわしの村へ命を捨てに来るな。まともに相手になる気なら、お前のようなちっぽけな州知事の一人はおろか、蔡太閤がわれわれ召し取りのため執事を遣わそうと、たとい蔡京(さいけい)自身がやって来ようとも、わしは風穴の二十や三十あけて見せる。おれたち、おまえを帰してやるから、もう来るんじゃない。きさまのところのあの糞役人にいっておけ、命を捨てるには及ばねえとな。ここに街道はないから、この弟をつけてやって、追分けまで送ってやるよ。」
 そのとき、阮小七、小さな足速の舟の一艘に何濤を乗せ、街道の口まで送って行きますと、どなりつけ、
 「ここからまっすぐに行けば、道がみつかる。ほかの連中はみな殺しにしたのに、きさまだけこんなにぬけぬけと帰してやるのもおかしいや。州知事の間抜けに笑われそうだ。ひとつお前の耳たぶ二つ、記念に置いて行ってもらおう。」
 と、阮小七、身のまわりから短刀をぬき放ち、何部長の両方の耳をきり取れば、ぽとぽと鮮血がしたたります。」






こちらもご参照ください:

『完訳 水滸伝 (三)』 吉川幸次郎・清水茂 訳 (岩波文庫)
孟元老 『東京夢華録 ― 宋代の都市と生活』 入矢義高・梅原郁 訳注











































































『完訳 水滸伝 (一)』 吉川幸次郎・清水茂 訳 (岩波文庫)

「「それは山東済州(さんとうせいしゅう)管下の一つの水郷(すいごう)、土地の名は梁山泊(りょうざんぱく)とて、円形にて百里あまり平方、中なるは宛子城(えんしじょう)、蓼児洼(りょうじあ)。現在三人の豪傑が、そこにとりでを構えています。」」
(『完訳 水滸伝 (一)』 より)


『完訳 水滸伝 (一)』 
吉川幸次郎・清水茂 訳
 
岩波文庫 赤/32-016-1


岩波書店 
1998年10月16日 第1刷発行
395p 地図2p
文庫判 並装 カバー
定価600円+税
カバー: 中野達彦



全十冊。
本文中挿絵22点、「注」に図版1点、巻末に「水滸伝関連地図」1点。



水滸伝 一 01



カバーそで文:

「宋江、林冲、公孫勝ら百八人の豪傑たちが、湖水の中の要塞「梁山泊」に拠って驚天動地の活劇を演じる武勇譚。しかし、後半は一転して悲壮な英雄悲劇に――。人々に愛好され読み継がれた『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』とならぶ中国四大奇書の一。(全10冊)」


忠義水滸伝 第一冊 目録:

訳者はしがき (吉川幸次郎/昭和21年7月31日)
改版改訳にあたって (清水茂/1998年8月)

引首
巻の一
 張天師 祈りて瘟疫(おんえき)を禳(はら)い
 洪太尉 誤って妖魔(ようま)を走(に)がす
巻の二
 王教頭 私(ひそ)かに延安府(えんあんふ)に走(のが)れ
 九紋竜(くもんりゅう) 大いに史家村(しかそん)を閙(さわ)がす
巻の三
 史大郎(したいろう) 夜(よ)わに華陰県(かいんけん)を走(のが)れ
 魯提轄(ろていかつ) 拳(こぶし)もて鎮関西(ちんかんさい)を打つ
巻の四
 趙員外(ちょういんがい) 重ねて文殊院(もんじゅいん)を修(おさ)め
 魯智深(ろちしん) 大いに五台山(ごだいさん)を鬧(さわ)がす
巻の五
 小覇王(しょうはおう) 酔って銷金(しょうきん)の帳(ちょう)に入り
 花和尚(かおしょう) 大いに桃花村(とうかそん)を鬧(さわ)がす
巻の六
 九紋竜(くもんりゅう) 赤松林(せきしょうりん)に剪径(おいはぎ)し
 魯智深(ろちしん) 火もて瓦罐寺(がかんじ)を焼く
巻の七
 花和尚(かおしょう) 倒(さかし)まに垂楊柳(すいようりゅう)を抜き
 豹子頭(ひょうしとう) 誤って白虎堂(びゃっこどう)に入る
巻の八
 林教頭(りんきょうとう) 刺(いれずみ)して滄州道(そうしゅうどう)に配(なが)され
 魯智深(ろちしん) 大いに野猪林(やちょりん)を鬧(さわ)がす
巻の九
 柴進(さいしん) 門には招く天下の客
 林冲(りんちゅう) 棒もて打つ洪教頭(こうきょうとう)
巻の十
 林教頭(りんきょうとう) 風雪(ふうせつ)の山神廟(さんじんびょう)
 陸虞候(りくぐこう) 火もて草料場(そうりょうじょう)を焼く
巻の十一
 朱貴(しゅき) 水亭(すいてい)に号(あいず)の箭(や)を施(はな)ち
 林冲(りんちゅう) 雪の夜に梁山(りょうざん)に上る


地図




水滸伝 一 02



水滸伝 一 03



◆本書より◆


「巻の二」より:

「「ご存じありますまいが、この祠(ほこら)の中のことは、その昔、開山の天師洞玄真人(どうげんしんじん)、お札を伝えて、申し渡されるには、この祠の中には三十六柱の天罡星(てんこうせい)、七十二柱の地煞星(ちさつせい)が、とりこめてあり、合わせて百と八人の魔王が中におるぞ。上に石碑(いしぶみ)を立てて、上代文字の護符を刻みつけ、しっかとここにとりしずむ。万一、やつらを世に出さば、下界の民草を悩ますは必定と、かようの仰せあるに、今、大将閣下は逃がされました。こりゃどうしたものやら。いつかはきっと面倒が起りましょう。」
 洪大将はそれを聞いて、からだじゅう冷汗、ぶるぶるふるえがとまりません。あわてて荷物を纏めますと、供人を従えて山をくだり、都へと立ち帰りました。」



「巻の四」より:

「知客(しか)、そとへ出て、趙大尽と魯達をば、客殿に案内してくつろがせますと、首座(しゅそ)をはじめとして坊主たち、長老に申し上げます、
 「さっきのあの出家をしたいという男、もの凄いかっこうをして、凶暴な面がまえ、あれを得度させるのは困ります。やがては一山の迷惑となりましょう。」
 長老、「あれは大檀那(だいだんな)趙大尽どのの従弟、あのお人の顔をつぶすことはできませぬ。そなたたちまあそう心配するな。わしが一つ見てみよう。」
 と一つまみの信香をくべ、長老、禅椅にあがられますと、膝を組んで坐ったまま、口に呪文を唱えつつ、禅定(ぜんじょう)に入られました。一つまみの香がなくなった頃、禅定からもどられ、坊主たちにむかい、
 「ぜひぜひ得度をさせなさい。この人、上は天の星に応ずる身、心ばえは剛直なり。いかにも今は凶暴で、星まわりも複雑なれど、やがては清浄を得て、なみなみならぬ正果を遂げる。そなたたちみなかないませぬぞ。わたしの言葉をよくおぼえておいて、じゃま立てしてはなりませぬ。」」



「巻の十」より:

「林冲、かの三人の声を聞けば、一人は看守、一人は陸副官、一人は富安です。
 林冲、「ありがたや、この林冲、もし藁家が倒れねば、こいつらに焼き殺されていたは必定。」
 そっと石をとりのけて、飾り槍をしごきつつ、片手で社の扉をひきあけ、大喝一声、
 「野郎ども、どこへ行く。」
 三人、あわてて逃げ出そうとしましたが、びっくりしすぎてあっけにとられ、動くことができません。林冲、手を挙げて、ぐさりと一槍、まず看守をつき倒します。陸副官は、
 「命ばかりはお助け。」
 と、いったまま、仰天して手足をばたばたさせるばかり、動くことができません。富安は、十歩ばかりも逃げぬところで、林冲に追いつめられ、胸のうしろをただ一槍、やはり突き倒されてしまいました。ぱっと向きを変えてひっ返して来ると、陸副官はやっと三、四歩あるいたばかり。林冲、どなりつけ、
 「大悪人、どこへ行く気か。」
 胸ぐら取ってぐっとぶらさげ、雪の上に投げとばすと、槍を地面につき立てて、足で胸ぐらを踏みつけ、ふところからかの刀を取り出すと、陸謙の顔へおしつけつつ、どなります。
 「悪者め、わしは元来お前とは、仇も恨みもない仲なのに、なぜこんなにおれをいじめる。これこそ、人殺しは大目に見ても、人情として許せぬ。」
 陸副官、いいわけして、
 「わたくしの知ったことではありません。大将の御命令で、来ぬわけには行かなかったのです。」
 林冲、しかりつけて、
 「悪党め、わしとお前は、幼ななじみ。今日はあべこべに、おれをあやめに来ていながら、手前の知ったことでないとは何だ。さあ、おれのこの刀をくらえ。」
 と、陸謙の上半身の着物をひきやぶり、短刀をみずおちめがけてただ一えぐり、七つの穴から血がほとばしり出ます。心臓肝臓を手にぶらさげ、ふりかえって見ますと、看守がはい起きて逃げ出そうとするところ、林冲、おさえつけて、しかりつけ、
 「きさまもこうした悪者であったか、さあ、わしの刀をくらえ。」
 と、早くも首を斬り落とし、槍の上にぶらさげました。引き返して来て、富安と陸謙の首もみな斬り落とし、短刀を鞘へ収めますと、三人の髪の毛を一つにくくりつけて、社の中にさげてはいり、山神さまおん前の供物机の上に並べます。」






こちらもご参照ください:

『完訳 水滸伝 (二)』 吉川幸次郎・清水茂 訳 (岩波文庫)
孟元老 『東京夢華録 ― 宋代の都市と生活』 入矢義高・梅原郁 訳注


本書「注」より:

「東京開封府については、孟元老『東京夢華録』がくわしく、その地理、風俗など、『水滸伝』の参考になることが多い。その入矢義高・梅原郁訳注(東京、岩波書店、一九八三)は、くわしい注や図によっていっそう役に立つ。」















































孟元老 『東京夢華録 ― 宋代の都市と生活』 入矢義高・梅原郁 訳注

「潘楼から東へ行ったところの十字路は、土市子と呼ばれ、また竹竿市ともいう。さらに東の十字路大街は従行裹角という。茶坊は五更になると灯をともし、衣類・書画・花環(かんざし)・領抹といった品物の取引売買が行われ、夜明けになると引き払う。これを「鬼市子(ゆうれいいち)」という。」
(孟元老 『東京夢華録』 より)


孟元老 著
『東京夢華録
― 宋代の都市と生活』 
入矢義高・梅原郁 訳注



岩波書店 
1983年3月24日 第1刷発行
1995年6月19日 第3刷発行
xviii 421p 口絵「内城拡大図」1葉
菊判 丸背布装上製本 貼函
定価5,600円(本体5,437円)



「とうけいむかろく」。本文中図版(モノクロ)56点、地図1点、表2点。「元刊本 東京夢華録」影印。
「〔再刷補記〕」は二段組。
本書は1996年に東洋文庫版(平凡社)が刊行されています。



東京夢華録 01


東京夢華録 02



目次:

解題 (入矢義高)

原序
幽蘭居士東京夢華録 巻一 
 東都の外城
 旧京城
 河道
 大内
 内諸司
 外諸司
幽蘭居士東京夢華録 巻二 
 御街
 宣徳楼の前の役所と寺院
 朱雀門外の町々
 州橋の夜市
 東角楼の町々
 潘楼の東の町々
 酒楼
 飲食物と果物
幽蘭居士東京夢華録 巻三 
 馬行街から北の医者町
 大内の西、右掖門外の町々
 大内の前、州橋の東の町々
 相国寺の大衆市場
 相国寺の東門前の町々
 上清宮
 馬行街の商店
 種々の運搬車
 市中の通貨の相場
 人の雇い入れ
 消防
 明け方に店を出す人びと
 いろいろな小商売
幽蘭居士東京夢華録 巻四 
 軍頭司
 皇太子の御成婚
 内親王の降嫁
 皇后行啓のときの乗輿
 いろいろな賃貸し
 修繕用具と僧侶道士の呼びこみ
 宴会の請負い
 会仙酒楼
 食べもの店
 肉の市
 餅の店
 魚の市
幽蘭居士東京夢華録 巻五 
 市民のならわし
 盛り場の演芸
 嫁むかえ
 出産と育児
幽蘭居士東京夢華録 巻六 
 正月
 元旦の朝賀の儀
 立春
 元宵
 十四日、五嶽観への行幸
 十五日、上清宮への御参詣
 十六日
 収灯ののち市民は郊外へ春を探りにゆく
幽蘭居士東京夢華録 巻七 
 清明節
 三月一日、金明池・瓊林苑の池開き
 臨水殿行幸、争標御覧と御宴
 瓊林苑への行幸
 宝津楼の宴殿への行幸
 宝津楼ヘの臨幸、諸軍の演技
 射殿への臨幸と弓射
 御苑を賭け事と見せ物に開放すること
 還幸の儀衛
幽蘭居士東京夢華録 巻八 
 四月八日
 端午
 六月六日の崔府君の生誕節と、二十四日の神保観神の生誕節
 この月に町々で売るいろいろな食べもの
 七夕
 中元節
 立秋
 秋の社の祭
 中秋
 重陽
幽蘭居士東京夢華録 巻九 
 十月一日
 天寧節
 宰執・親王・皇族・百官の祝賀参内
 立冬
幽蘭居士東京夢華録 卷十 
 冬至
 大祭の前の車と象の予行演習
 大慶殿での天子の御斎宿
 行幸の儀衛
 太廟での御斎宿 および神主を捧持して内陣より御出ましのこと
 青城の斎宮へ御到着
 郊壇に御到着、御親祭のこと
 郊祀からの還幸
 大赦
 還御ののち日を選んで諸宮へ御礼詣りのこと
 十二月
 除夜
跋 (趙師侠)

元刊本 幽覧居士東京夢華録 (原文)

あとがき (入矢義高)

〔再刷補記〕  (一九九三・二・一五補記)




東京夢華録 03



◆本書より◆


「解題」より:

「『東京夢華録』十巻は、北宋の首都汴京(べんけい)(現在の河南省開封市)の繁昌記である。宋代では、西の洛陽を西京(西都)と称し、汴京を東京(東都)と称した。ここに記録された時期は、北宋の最後の天子徽宗(きそう)の治下、西暦でいえば十二世紀の初めに当る。
 著者は孟元老(もうげんろう)。幽蘭居士(ゆうらんこじ)はその号であるらしいが、その伝記の詳しいことは、巻頭の自序で語っていることのほかは一切わからない。その言うところによれば、役人であった父が転任するのに随って、崇寧二年(一一〇三)にこの都に来住し、そこで成人した。時あたかも繁栄の極点にあった首都での生活は、彼を存分に楽しませてくれたが、靖康の年(一一二六)の冬、金軍の猛攻を支えきれずに都が陥落すると、彼はその翌年に都を脱出して南下し、江東の地に難を避けた。やがて寄る年の波に、うたた在りし日の楽しさが偲ばれるとともに、また旧都の繁栄の事実が次第に人びとに忘れられかけてくるのが歎かわしく、そこでこの書物を書くことにしたという。この自序が書かれたのは南宋の紹興十七年(一一四七)、都を脱出してから二十一年後であり、彼の齢はおそらく六十歳に近かったか、あるいはそれを過ぎていたであろう。」
「本書の記述内容は、大別して三つの部分に分けることができる。第一は、都市区劃や宮殿・寺院・店舗・名勝地などの名称や位置を述べた地理的説明の部分。第二は、一年を通じての宮中および民間の行事を述べた、いわゆる時令の部分(巻六から巻十まで)。第三は、市民の風習や生活のくさぐさを即物的に活叙した部分である。」
「底本は、東京の静嘉堂文庫に蔵する元刊本で、(中略)この版本が現在われわれの見得る最良のテキストである。」
「注の作成には全精力を費やしたが、それでもなお未詳の事項が相当あり、ことに衣服・食品・植物などの名については、十分に考定できなかったものが多い。」



「巻1 河道」より:

「城壁を穿(うが)って河すじが四つある。」
「中央を流れる河を汴河という。」
「東の城壁の水門の七里外から、西の城壁の水門の外まで、この河にかかる橋は十三ある。東水門の外七里の所にある橋を虹橋という。この橋には橋脚がなく、すべて巨大な材木を使ってアーチ式に架橋し、朱(あか)い塗料で飾りたてたところは、ちょうど空に虹がかかったようである。」



「巻2 潘楼の東の町々」より:

「潘楼から東へ行ったところの十字路は、土市子と呼ばれ、また竹竿市ともいう。さらに東の十字路大街は従行裹角という。茶坊は五更になると灯をともし、衣類・書画・花環(かんざし)・領抹といった品物の取引売買が行われ、夜明けになると引き払う。これを「鬼市子(ゆうれいいち)」という。」


「巻3 相国寺の大衆市場」より:

「相国寺の境内は毎月五回、民衆の取引市場に開放される。大山門のあたりは、すっかり小鳥や犬猫の類の市(いち)になって、珍しい鳥や変わった動物は無いものなしである。第二、第三の山門のところは、どこも家具や道具類の市で、境内には色とりどりのテントを張った露店や模擬店ができ、蒲合(かます)・ござ・屏風・カーテン・洗面用具・馬具・弓剣・季節の果物・塩乾肉などの品々を売っている。仏殿の近くには、孟家の道士用の冠、王道人の蜜漬け果物、趙文秀の筆、および潘谷(はんこく)の墨の店がでる。両側の廊下には、寺々の尼さんが刺繍細工・領抹・造花・宝石細工・首飾り・生色の摺り箔の模様入りの幞頭や帽子・かつら・かんむり・紐・糸などの品を売っている。仏殿のうしろに廻ると、資聖門の前は、すべて書籍・骨董・絵画、および転任する地方官たちが持ち帰った各地の物産とか香料の類を出しており、そのうしろ側の廊下はみな占い師、術使い、伝神といった類である。」


注より:

「似顔かきを伝神というが、ここのはおそらくそうではなく、宋代に流行した箕仙(きせん)の術(神おろし)の類であろうかと思われる。」


「巻3 いろいろな小商売」より:

「馬を飼っていれば、二人が毎日かいばを届け、犬を飼えば飴の滓を届け、猫を飼えば猫の餌と小魚を届けるという商売がある。いかけ屋、かすがい打ち、桶の箍(たが)直し、諸道具の修理、靴直し、革帯磨き、幞頭・帽子の修繕、冠(かんむり)のつくろいなどの御用聞きもある。毎日香印を刷るものは、ちゃんと店を構えていて、家の門口に貼るお札や扁額、また季節季節の行事に応じて神仏の絵像などを刷る。家々に水を売るものは、それぞれ縄張りの町内がきまっている。また漆塗り、かんざし・腕輪作り、大斧を担いだ薪割り、扇子(うちわ)の柄の取替え、練り香屋、豆炭作りがいる。夏には毛〓(漢字: 毛+亶)洗い、井戸さらえなど、欲しい時に何でも直ぐ間に合う。
 また軍隊の休暇の日に、軍楽隊が空き地で音楽を奏する。町々から女子供が見物に集まってくると、そこで飴や果物を売るといった商売がある。これは「売梅子」といい、また「把街」ともいう。」

「毎年春になると、役所から人夫を出して、都内の溝浚えをやる。そのとき別に穴を掘って、浚え出した泥を入れる。それを「泥盆」という。役所から見廻りが来て検分が済むまでは、これに蓋をしないから、夜間の往来には、月の暗い晩などよく気をつけねばならぬ。」



注より:

「陸游の語るところでは、汴京の溝渠は非常に深くて広いものだったので、お尋ね者の恰好の隠れ場にもなって、なかには女を攫(さら)って来てここに囲うものもあり、国初以来、有能な開封府尹でもそれを禁絶できなかったという(『老学庵筆記』巻六)。北宋の梅堯臣に、この溝浚えを詠んだ「淘渠」と題する詩があり、「五歩ごとに一塹を掘り、道路は崩れた堤みたいになって、車馬の往来も絶たれ、家々の通行も遮断され、もし老人が一人で夜歩きなどしようものなら、足を滑らせて一命は助かるまい」と述べている(『宛陵先生集』巻一七)。この溝浚えをやるのは、毎年二月の中旬であった(『東軒筆録』巻一五)。」


「巻6 十六日」より:

「やがて豪華な灯火や炬火(かがりび)がともされ、月影と花の色と、おぼろに霞みわたり、おちこちに燭光(ともしび)がゆらめく。三更(午前零時ごろ)になると、楼上から小さな紅紗の灯毬が、綱につるして中空にさし出される。すると市民にはみな天子の御還幸だとわかる。たちまち楼外に鞭を鳴らす音が聞こえると、山楼の上と下、数十万の灯燭が、一どきに消える。そこで貴人の車馬は、ことごとく大内の前から目白押しに南行して、相国寺に遊びにゆく。
 寺の本殿の前には、音楽の舞台が設けられ、諸軍が楽を奏している。両方の歩廊には詩牌灯がともされているが、たとえば「天碧(あお)くして銀河は下り来らんとし、月華は水の如く楼台を照らす」とか、「火樹には銀花合(あつま)り、星橋には銀鎖開く」とかいった詩である。その灯は木の牌(ふだ)で作られ、文字を彫りぬいて、紗絹(うすぎぬ)で覆ってあり、そのなかに隙間なく灯明を点じ、順々に配列したもので、これまた一つの見ものである。」



注より:

「元代の戯曲『西廂記』に「月明は水の如く楼台を浸す」という句があり、それは五代の蜀の王衍の宮詞「月華は水の如く宮殿を浸す」にもとづくとは、『焦氏筆乗』続集巻三の説である。」


「〔再刷補記〕」より:

「月光を水に喩えた表現は、ほかにも唐の趙嘏「江楼旧感」詩の「月光は水の如く水は天の如し」や、北宋の柳永「佳人酔」詞の「雲淡く天高く風は細(こま)やか、正に月華は水の如し」や、南宋の楊万里「七月十一夜、月下独酌」詩の「月光は水の如く吾が体を澡(あら)う」などがある。」


「巻7 臨水殿行幸、争標御覧と御宴」より:

「天子はまず金明池の臨水殿に行幸になり、群臣を召して宴会が催される。御殿の前には桟橋をかけて儀仗兵がならび、御殿の近くの水面には、飾り立てた船が四隻ならぶ。その船上には諸軍の芸人たち、たとえば大旗使い・獅子舞・豹舞・棹刀(ほこ)使い・蛮牌(たて)使い・神鬼・雑劇(しばい)といったようなのが乗っている。ほかに二隻の船がならぶ。これはみな楽部(オーケストラ)が乗っている。また、小さな船が一隻あって、上に小さな飾り舞台を作り、その下に三つの小さな門があって、人形芝居の舞台のような形になっている。その真向いの水上の音楽船で、参軍色(コンダクター)が祝言を述べ、音楽が奏されると、その飾り舞台の中央の門が開いて、小さな人形の乗った小舟が現われる。その小舟には、一人の白衣の人形が釣糸を垂れており、舳(とも)には少年の人形がいて、棹をさして舟を漕ぎながら、ぐるぐると数回まわり、口上を述べて音楽が奏されると、活きた小魚が一匹釣り上げられる。また音楽が奏されると、小舟は舞台のなかに入る。つづいて人形が築毬(ホッケー)・舞旋などを演ずる。これも、それぞれ祝言を唱え、みながそれに唱和し、音楽が奏されて、おしまいになる。これを「水傀儡」という。
 また、二隻の飾り船が現われる。船上にはぶらんこ台が立てられ、船尾では百戯の芸人が竿に上り、左右軍の院虞候(いんぐこう)・監教らが鼓と笛を合奏している。別に一人がぶらんこに乗って振り、ちょうど水平になろうとするところで、もんどり打って水にとびこむ。これを「水鞦韆」という。
 水上の演技がすむと、百戯(げいにん)の乗った音楽船が一斉に銅鑼(どら)や太鼓を鳴らして、音楽を奏し旗を振りまわしながら、水傀儡の船と二組になって退場する。
 すると小さな竜頭船が二十隻現われる。船上には緋の衣を着た兵士がそれぞれ五十余人乗っていて、どの船にも旗・太鼓・銅鑼を用意している。船首(へさき)に一人の士官がいて、旗を振って合図する。これは虎翼軍の将校である。さらに虎頭船が十隻登場してくる。その上には錦の衣を着た一人が小旗を手にして船首に立つ。ほかのものたちはみな青い短衣を着て、長くとがった頭巾をかぶり、一斉に棹をふり廻す。これは普通の平民から芸人の籍に入れられたものたちである。」



原文より:

「餘皆著青短衣長頂頭巾齊舞棹乃百姓卸在行人也」


「巻7 宝津楼ヘの臨幸、諸軍の演技」より:

「天子が宝津楼へお成りになると、諸軍の演技が楼の下でくりひろげられる。」
「突然に霹靂(かみなり)のような大きな音がひびく。これを「爆仗」という。すると、蛮牌をもった者は退場し、煙が一面にたちこめたところへ、ざんばら髪に仮面をつけ、口からは狼のような牙をむきだし火煙を吐きながら、鬼神のような姿をした者が登場する。身には青地に摺箔の花模様のある後ろ短かの上衣を着、摺箔の黒い袴をはき、はだしで、大きな銅鑼(どら)を手にし、これをもって踊りながら進退する。これを「抱鑼」という。舞台を何回かぐるぐる廻ったり、あるいは地面から火煙を吹き出させたりなどする。また爆仗が一声ひびくと、楽部は「拝新月慢」という曲を奏しはじめる。すると、顔に緑青を塗り、金色の目玉の面をつけ、豹の皮や、錦や刺繍(ぬいとり)の看帯などで身を飾った者が出てくる。これを「硬鬼」という。あるものは刀や斧をもち、あるものは杵(きね)や棒をもち、足踏みしたり立ち止まったりして、何かを追いかけ捕えようとしたり、様子を窺うようなしぐさをする。また爆仗が一声ひびくと、長い髯をつけた面をかぶって、緑の袍をばらりと身にまとい、靴をはき、笏をもち、絵で見る鍾馗(しょうき)のような姿の者が現われ、そのそばには一人が小さな銅鑼を鳴らして拍子を合わせながら踊る。これを「舞判」という。そうしているところへ、二、三人の痩せた男が体じゅうに白粉を塗り、真っ白の顔に金色の目玉で、髑髏(しゃれこうべ)のような格好をして、錦や刺繍の囲肚(はらまき)と看帯とを着け、手には軟杖をもち、めいめ道化のおどけたしぐさをして、狂言芝居のような具合である。これを「啞雑劇(パントマイム)」という。また爆仗が鳴ると、すぐ火煙が湧き起って来て、相手の顔も見えなくなる。その煙の中から七人の者が、みなざんばら髪で文身(いれずみ)をし、青い紗(うすぎぬ)後ろ短かの上衣を着て、錦や刺繍(ぬいとり)の囲肚(はらまき)と看帯を着けて現われる。そのうちの一人は摺箔の花模様のある小さい帽子をかぶり、手に白旗をもつ。ほかの者はみな頭巾をかぶり真剣をもち、組み打ち斬り合いをして、首を斬り、心臓をえぐり出すしぐさをする。これを「七聖刀」という。たちまち爆仗が鳴りひびき、またもや煙が出る。これが散ってしまうと、そこには青い幕でとり囲まれて数十人の者がならぶ。みな仮面をつけ異様な服を着て、お社(やしろ)の中の鬼神の塑像のようである。これを「歇帳(けっちょう)」という。」



「〔再刷補記〕」より:

「「七聖刀」 七聖とは妖術を使って暗夜に人を殺したり物を盗んだりする七人組の兇悪なシャーマンらしい。『夷堅丁志』三の「韶州東駅」の条にその陰惨な話があり、『西湖老人繁勝録』には、佑聖観の前の広場で「七聖法」の術を使って、人の頭を切り落したあと直ぐもと通りについで見せる幻術のことを述べている。」


「巻7 還幸の儀衛」より:

「遊覧の人たちは、一日じゅう賭けをやって取った品物を、竹竿に掛けたりなどしながら帰った。上流の女性でも、小さな轎に花を挿し、簾(みす)を下ろさないでいるものもあった。三月一日から、四月八日の「池仕舞い」までの間というものは、風雨の時でさえも遊覧客があって、空(す)いた日というものはまずなかった。
 この月は春の終わりの月で、百花は爛漫と咲き、牡丹・芍薬・やまぶき・ばらなど色々と市に出る。花売りは馬頭の形の竹籠に花をならべ、その呼び売りの声もすっきりとして耳に快い。日の当った簾(みす)のある静かな庭、朝日を受けて幔(とばり)を掛けた高楼(たかどの)に、昨夜の酒もまだ醒めず、うまし夢からやっと覚(さ)めたというときに、この花売りの声を聞くと、つい新たな感傷が湧き出で、人知れぬ悩ましさもほのぼのと起って、いっときの良い気分のものである。」




東京夢華録 04



東京夢華録 06



東京夢華録 07



東京夢華録 05



東京夢華録 08




清明上河図(ウィキペディア)



































三浦国雄 『風水|中国人のトポス』 (平凡社ライブラリー)

三浦 ああいうふうな細い道を抜けて行って、カラッと開けるというのは、中国のユートピアのひとつの典型でもあるんですね。それは洞天という洞窟の中の別天地なんですが、閉ざされた内部世界がカラリと外部世界へ反転するわけで、桃源郷もそういうものだと思うんです。」
(毛綱毅曠・三浦國雄 「風水のなかの都市像」 より)


三浦國雄 
『風水|
中国人のトポス』
 
平凡社ライブラリー 105/み-5-1 


平凡社 
1995年7月15日 初版第1刷
433p 
B6変型判(16.0cm) 
並装 カバー
定価1,400円(本体1,359円)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー図版: 著者が台湾で入手した羅経(中心が太極で磁石が入っている)


「本著作は一九八八年十二月、平凡社より刊行された
『中国人のトポス――洞窟・風水・壺中天』に、
「東アジアの風水思想」「玉匣記――干支の迷宮」を新たに追加し、
表題を変更したものです。」



「平凡社ライブラリー版 あとがき」より:

「今回ライブラリー収録に際し、全面改訂とまではゆかなかったけれども、各篇に朱を入れて若干の補修を行なったほか、(中略)新たに短文二篇を増補した。」


本文中図・図版(モノクロ)65点。



三浦国雄 風水 中国人のトポス 01



カバー文:

「大地を、一個の巨大な生命体とみなす風水の思想。
そこには、人間の身体と宇宙とをアナロジカルに捉える〈場=トポス〉の認識、
そしてアジア的な自然観の最も本質的な表現がある。」



目次 (初出):

七十番目の列伝――『史記』太史公自序 (「高校通信」 31号、東京書籍、1965年/原題 「司馬遷の孤独」)
空間の造型――『西遊記』演変私考 (「大安」 12巻5号、大安、1966年)
『盆栽の宇宙誌』を読む (「東方宗教」 67号、日本道教学会、1986年)
中国人の天と宇宙 (「現代宗教 5 特集 宇宙論」、春秋社、1982年)
洞天福地小論 (「東方宗教」 61号、日本道教学会、1983年)
洞庭湖と洞庭山――中国人の洞窟観念 (「月刊百科」 250号、平凡社、1983年)
墓と廟 (「中国の古建築」 (『世界の文化史蹟』 17) 講談社、1980年)
墓・大地・風水 (「月刊百科」 260号、平凡社、1984年)
朱熹の墓――福建の旅から (「禅文化研究所紀要」 15号 (入矢義高先生喜寿記念号)、禅文化研究所、1988年)
太虚の思想史 (「集刊東洋学」 50号、東北大学中国文史哲研究会、1983年/原題 「張載太虚説前史」)
形而上の庭 (「中国学志」 乾号、大阪市立大學中国文学会、1986年)
東アジアの風水思想 (「月刊韓国文化」 17巻1号、悠思社、1995年)
玉匣記――干支の迷宮 (「is」 62号、ポーラ文化研究所、1993年)
風水のなかの都市像 (毛綱毅曠・三浦國雄) (「建築文化」 41巻475号、彰国社、1986年)

あとがき
平凡社ライブラリー版 あとがき
初出一覧
解説――生命体としての大地 (吉川忠夫) (「思想」 1989年 第8号)




◆本書より◆


「中国人の天と宇宙」より:

「「天門が開く」というのは『老子』以来、見える人には見える一種の神秘体験として伝承されていったようで、たとえば六朝時代北燕の馮跋(ふうばつ)は、夜天門が開き、赫然(かくぜん)たる神光が庭内を燭(てら)すのを見ているし(『晋書』伏乞載記))、北斉の文宣帝は遼陽山を通った折、やはり天門が開くのを目撃しているが、それは余人には見えなかったという(『北史』斉本紀中)。歴史家はこれらを王位に昇る人の瑞兆として書き留めているのだが、宗教者の体験もなくはない。中国浄土教の祖と言われる北魏の曇鸞(どんらん)は、汾川(ふんせん)の秦陵の故墟に行き、城の東門から入って青霄(あおぞら)を望んだとき、突如天門がからりと開き、六欲天の階位が上下重複するのが歴然と見え、この体験によってそれまで苦しめられていた「気疾」(ノイローゼ?)から解放されたという(『唐高僧伝』巻六)。もう一例。南宋の李庭芝が朝廷の命を受けて江陵(湖北省)から京口(江蘇省鎮江)にやって来た時、突然天が裂け、その裂け目にたくさんの軍馬や旗がひしめくのが見え、旗が紅旗からすべて黒旗に変わったと思う間もなく、その天空の裂け目はふたたび合わさったという(『癸辛雑識』続集上)。この光景は李庭芝だけでなく多くの人々によって目撃されたというから、あるいはこれは蜃気楼のような自然現象であったのかもしれない。」

「まず宇宙生成論について言うならば、天地開闢神話から始めるのが順序であろう。次に引くのは、盤古という巨人によって天地が開かれた話である。
  天地渾沌として雞子(たまご)のごとく、盤古その中に生まる。万八千歳にして天地開闢し、陽清は天となり、陰濁は地となる。盤古その中にあり、一日に九変し、天よりも神(しん)に、地よりも聖なり。天 日に厚きこと一丈、盤古 日に長ずること一丈なり。かくのごとくして万八千歳、天の数は極めて高く、地の数は極めて深く、盤古は極めて長ず。後に乃(すなわ)ち三皇あり。」
「この神話が初めて文献に現われるのは、三国時代呉の徐整『三五暦紀』であり、ここにはすでに陰陽哲学による潤色が見られ、この記述がどの程度古い神話の面影を留めているのか、そもそもこれが漢民族の最も古層の開闢神話なのかどうか(それどころか、これは作られた神話ではあるまいか、という疑いを私は払拭しきれないのだが)、(中略)神話学上多くの問題を含んでいるのだが、これほどイメージ豊かに開闢の様子を描いた神話はほかになく、また後世に与えた影響からしても、やはり筆頭に挙げるべきであろう。」
「徐整はさらにまた、この巨人の屍体が万物に転生したと述べている。」
「巨人の屍体化生神話は、インドのプルシア神話、北欧のイミル神話にもあるらしく(中略)中国独自のものとは言えないが、しかしこうして見てくると、この神話は有機体的宇宙観となって、のちのちまで生き続けたということができるであろう。」

「次に、宇宙構造論を見てみよう。最も古い科学的な構造論は蓋天(がいてん)説の名で知られている。『周髀(しゅうひ)算経』上巻で表明されているこの説によれば、天地はたがいに八万里へだたる平行な平面であり、その形状は「天は円にして張蓋(ひろげたかさ)のごとく、地は方にして棋局(ごばん)のごと」くである。そして固体の天は、北極を中心に左旋(東から西へ)し、日月は右行(西から東へ)する。その関係はあたかも石臼とその上を歩む蟻に似ている。石臼が左旋し蟻が右行するとき、石臼の回転は蟻の歩行より速いから、蟻も左旋しているように見える。つまり、日月は実際には東へ進んでいるのだが、見かけでは天に牽かれて西に没する――。
 蓋天説は前漢までの唯一の支配的な宇宙論であったが、やがてその矛盾を衝かれたため、天地は平行な平面ではなく、ふたつの平行な切断面をもつ球面と修正する(第二次蓋天説)。」
「これに対し、前漢の末に起り、蓋天説を圧倒してのちのちまで信奉せられたのが渾天説である。」
「この説の新しさは、天が地を包み地の下(そこは水の世界)へ回転してゆくとしたところにあった。つまり、蓋天説が天地を上下で捉えたのに対し、内外で捉えたのである。しかし、天を固体とみなし、その形状を天円地方(中略)と考えているところは、伝統的な天地観から逸脱するものではない。
 いったい、天を円、地を方と表象するのは最も根本的な中国人の天地観であった(中略)。のみならず、円形と方形とは天地のシンボルとして都市や建築のプランニングに生かされた。中国の都市や社稷壇(しゃしょくだん)が四角いのは大地を凝縮したからだし、天壇の碧琉璃(へきるり)の屋根が円いのは天の象徴にほかならない。」
「ところで、宇宙構造論としていまひとつ重要な理論を落とすことはできない。宣夜説がそれである。これは(中略)言ってみれば哲学的宇宙論であったが、「天は了(りょう)として質なく、仰いでこれを瞻(み)れば、高遠無極、眼は瞀(くら)み精(こころ)は絶ゆ、故に蒼蒼然たるなり」(『晋書』天文志)というごとく、天の固体性を打ち破り、無限宇宙論への道を開いたところにその斬新さがあった。」
「右の三説のほかにも種々の宇宙論が現われたが、(中略)それよりも、渾天説に依拠しつつ気一元論を発展させ、生成論と構造論と終末論とを統一した、宋の張載――朱熹の宇宙論を紹介すべきであろう。(中略)そのあらましを述べればこうである。天地混沌未分のとき、ただ一気だけが存在する。このガス状の連続的物質は全空間に充満し、生成することも消滅することもない。気はそのまま空間である(張載はこれを太虚と呼ぶ(中略))。しかし気は、聚(濃密化)と散(稀薄化)との絶えざる運動のうちにある。したがって空間はつねに不均質である。やがて、こうした気の部分的運動が全宇宙的規模で始まる。一気は初めゆっくりと回転し、次第にその速度を増してゆく。その回転は外側ほど急速であり、したがって外側の気は稀薄化してゆき、その分だけ中心にゆくほど気は濃密の度を加える。そして一気の回転が極点に達した時、中央の濃密な気は凝固してついに大地が結成され、ここに渾沌は天と地に分かれる。」
「日月星辰もまた天の回転とともに運行する。しかし宇宙は、十二万九千六百年を周期として生成と消滅をくり返す(中略)。地の周りをめぐる気の速度は、末期に近づくにつれて次第に鈍ってゆき、それに応じて中央の地の凝結が解体しはじめる。生成の過程とは逆に、中央の濃密な気は内から外に向かって波動のように拡散してゆき、気の農密度が宇宙全体にわたって均質化した時、一気は回転を停止し、ここに宇宙はふたたび渾沌にもどる――。」

「中国人にとって宇宙は、外在する際限なき時空としてのみあったのではない。彼らは宇宙を自在に伸縮し、いたるところに別乾坤を見出した。
 たとえば「壺中天」の話がある。後漢の費長房なる者がある時、市場で薬を売っている老翁が店じまいしたあと、軒先に吊してあった壺の中へピョンと跳び入るのを楼上から目撃する。翌日、くだんの老人の案内で壺の中へ入ることに成功した長房は、そこに広がる「玉堂厳麗にして、旨酒甘肴の盈衍(みちあふ)る」光景に目を奪われる(『後漢書』方術伝)。(中略)要するに、小さな壺は一個の宇宙を呑み込んでいたのである。そして、のちの内丹術(体内で不死の霊薬を造る技法)では、壺は人体、つまり体内宇宙(インナースペース)のメタファとなる。」
「なお、壺(こ)と瓠(こ)(ひさご、ひょうたん)は古代では通用して使われたから、ここでいう「壺」は人工のツボではなく天然の葫蘆(ひさご)であろう。」
「費長房については、こういう話も伝えられている。彼は「縮地脈」の術の心得があり、千里のかなたの場所も自由自在に目前に引き寄せることができたという(『神仙伝』巻五・壺公)。」



「洞天福地小論」より:

「要するに、人間は宇宙という巨人の体内に棲んでいると考えられていたのである。」

「洞天とは、山中に穿たれた一個の小天(小宇宙)であり、洞窟のごとく外界のごとく、内部世界がいつの間にか外部世界に反転している、クラインの壺のような不思議な空間であった。かかる幻視のユートピアは、一体いかにして生み出されたのであるか。それは端的に言って、身体を宇宙へと開いたあの想像力と同じ力の所産であったにちがいない。我々はさきに、宇宙と洞窟と身体との密接な連関についていささか考察を加えておいた。宇宙と身体には洞窟のイメージが貫通していたが、一歩進めて、三者はイメージとして互いに変換しうるものと観念されていたとしてよかろう。身体の側から言えば、洞窟もまた一個の擬似身体として表象されることがあったはずである。自己の内部世界を反転させた洞窟内の修行者は、その同じ存思のはたらきによって、擬似身体としての洞窟をもまた外へと開いたのであった。かくて道士の瞑想の裡において、宇宙-山(洞窟)-身体という三つの場の境界が消滅し、ここに洞天の世界が現出したのである。
 このような想像力は、より一般化して言えば、道教に特徴的な小宇宙の中に大宇宙を見る精神、閉じられた小さな空無の中に宇宙を容れるかの壺中天の精神、あるいは、「大中に小を見、小中に大を見、虚中に実あり、実中に虚あり」(『浮生六記』)とする精神――と通じるであろう。」



「洞庭湖と洞庭山」より:

「ちなみに言えば、かの五柳先生陶淵明(三六五~四二七)が描くところの桃花源は、この洞天説の換骨奪胎ではあるまいか。あれは、両岸の桃林が尽きた川の源で舟を捨て、狭い山の洞窟(トンネル)を潜(くぐ)り抜けて向こうへ出たらそこにのどかな村があった、というのではなく、私見によれば、その洞窟それ自体が「豁然(からり)と開朗し」――つまり外部世界へ反転したのである。「反転」という言い方に語弊があるなら、その洞窟の内部に一個の小宇宙が蔵せられていた、と言い換えてもよい。」

「ところで、この洞天というのは、閉じられたものが外へ開く――換言すれば、小さな内部世界が大きな外部世界へくるりと反転するという不思議な空間である。」

「壺中天は小のなかに大を見る看法であるが、それは、大のなかに小を見る――この現実を壺天に縮小して捉える見方と裏腹になっている。」
「このような感じ方は、(中略)母の子宮という比類ない壺中天の記憶を持つ、我々の原意識に関わることなのかもしれない。」

「唐の高宗の御代のこと、蜀は青城に住む男が青城山のふもとで薬を採っていたところ、地中深く落ちこんでしまう。もはやこれまでと観念したが、ふと見ると横穴が目に入ったので、そこを辿ってしばらく行くと、洞がぽっかり開いてとある村に出た。実はそこは玉皇(道教の至上神)の治める仙郷だったが、ここで一年ほど快適な生活を送った男は里心がついて故郷に帰る。しかし自分の家はすでに廃墟と化し、留守中に百年近い歳月が流れていたことを知らされる。男は仙女からもらった薬を飲みふたたび山に入って行方知れずになるが、「蓋(けだ)し洞天に去帰せしならん」と作者は結んでいる。」
「また、こういう話もある。唐代のこと、房州(湖北省)に住むある男が二年間も井戸を掘り続け、もう千尺余り(約三〇〇メートル)の深さになるのに水が一向に湧いて来ない。ところがそれからひと月ほど掘り進んだ時、突然地底から鶏犬の鳴き声が聞こえてきた。不思議に思ってさらに掘ってみると横穴がある。そこに入ってしばらく歩くと足元から光が洩れる。覗いてみたら、何とその穴の下には山が聳えていたのである。男はその穴から山の頂上に降り立ち、その山を下って改めて見渡してみると、そこは「別の一天地、日月世界」であった、という。」
「元の虞集(ぐしゅう)(一二七二~一三四八)は一個の岩石がそのなかに洞天を呑んでいた奇譚を伝えている。江西省臨川県の譙楼(しょうろう)(物見やぐら)の前に、幅一メートル余り、高さ六〇センチくらいの、何の変哲もない石が置いてある。人々の言い伝えによると、あるとき蜀の青城山から人がやって来て石を叩くと石が開き、その人は石中の洞府(洞天)に入って行ったという。」

「ところで、何故彼らはこのような奇怪な石を偏愛したのだろうか。要するに、太湖石は洞窟のミニチュアなのである。(中略)中国の士大夫たちは、大きなものは庭に、小さなものは机辺に置くことによって、峨々たる山岳や幽邃な巌穴に思いを馳せるとともに、みずからの日常世界を洞天化しようとしたのであった。」



「墓・大地・風水」より:

「風水術は、中国人の大地に対する特有の感覚に基礎を置いている。大地は冷たい土の堆積ではなく、一個の巨大な生命体と見なされる。そこに生命を賦与するのが気にほかならない。気は宇宙に充満してたえず運動しているガス状の連続する微物質だが、生命体にとっては活力の源泉となる生エネルギーである。
 気と人間との関わりについて言えば、気が人体のなかを流れるルートが経絡(けいらく)であり、その皮膚面における結節点であり鍼灸の治療点が気穴、いわゆるつぼ(引用者注:「つぼ」に傍点)である。経絡のステーションと思えばわかりやすい。」
「大地にもどれば、人体と同様地中にも気がめぐっていると考えられていた。この万物を育む気を地気と呼ぶ。」
「なお、土はむろんのこと石のような固い物質でも気の範疇で捉えられていた。気の一元論者あった三国呉の楊泉(中略)はその「物理論」の中で述べている、「石は気の核、土の骨だ。気が石を生むのは、人間の絡が爪や歯を生むようなもの」。さらに奇異なことに、このような地中の鉱物も生長すると考えられていた。」

「古書にしばしば現われる「地脈」は、地中を縦横に走る地気のルートのことに相違ない。秦の将軍蒙恬(もうてん)は死を賜わった時、自分が死なねばならぬのは、万里の長城を築いた際に地脈を断ったからだ、と呟いて毒を仰ぐ。地脈を断ち切れば、地気が洩れて大地の生成力が枯渇すると考えられていたのであろう。それは大自然に対する重大な犯罪である。」



「太虚の思想史」より:

「「太虚」がこのように万物の始源という性格をもつとすれば、万物は滅びてのちふたたびその始源である「太虚」に復帰するという死生観が存在するのも異とするに足りない。」



三浦国雄 風水 中国人のトポス 02



「形而上の庭」より:

「河図・洛書が、繋辞伝の太極―両儀―四象―八卦という生成過程と照応するとされていたことについては前述した。そこで述べられていたように、河図・洛書ではその中心部が太極の位置であった。」
「さて、こうした素姓探しの考証ばかりしていると、これらの図が庭の設計図であることをつい忘れてしまう。これは本来、眺めたりあれこれ思弁したりするためのものではなく、そのなかへ入って逍遥するためのものなのである。「私」と対峙するものなのではなく、「私」と一体となるべきものなのだ。「私」のための密やかな場所であり、この場所の主人公は「私」でなければならない。その「私」の本来の居場所が太極亭にほかならない。「私」は太極なのだから。
 端的に言ってこの庭は一個の(二個の)宇宙である。これ以上整合的で規範的なものは考えられぬ、それ自体で完結し充足した小宇宙である。ここには世界がまるごと存在する。八卦によって空間が定位され、河図・洛書は時間的生成の暗喩である。のみならず、これらは易と洪範の原型であった。つまりここには、世界と存在の真相が隠されている。
 だが、この場所が息づき意味をもつためには、太極としての「私」がここへ降り立たねばならない。「私」が太極亭から足を踏み出すことによって、この宇宙は始動する。二つに分かれ、四つに分かれ、万化がわが身とともに生成する。ふたたび「私」が太極亭に帰れば、この世界は寂然として音もなくなるだろう。されば、この庭園の逍遥は「造化の遊戯」とでも呼ぶべきであろうか。」



「東アジアの風水思想」より:

「風水思想にもし未来があるとすれば、その価値は、自然をブルドーザーで荒々しく改造するのではなく、所与の自然を想像力によって再構成し、人間と自然との間に安らかな調和を打ち立てるその自然観に求められるべきであろう。」





こちらもご参照ください:

曽布川寛 『崑崙山への昇仙』 (中公新書)
澤田瑞穂 『金牛の鎖 ― 中国財宝譚』 (平凡社選書)
大室幹雄 『囲碁の民話学』 (岩波現代文庫)
武田雅哉 『桃源郷の機械学』


























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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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