根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)

根井浄 
『観音浄土に船出した人びと
― 熊野と補陀落渡海』
 
歴史文化ライブラリー 250 

吉川弘文館
2008年(平成20)3月1日 第1刷発行
229p
四六判 並装 カバー
定価1,700円+税
装幀: 清水良洋・河村誠



本書「あとがき」より:

「本書は日本宗教史の謎といわれる補陀落渡海について整理したものである。平成十一年に上梓した『補陀落渡海史』を見直し、新しい項目を設けて書いてみた。」


本文中図版(モノクロ)28点。


根井浄 観音浄土に船出した人びと


カバー裏文:

「補陀落(ふだらく)渡海とは何か。
観音菩薩が住む
南方の浄土=補陀落世界を目指し、
現身(うつしみ)を舟形の棺に納めて
大海原(おおうなばら)に船出した人びとがいた。
宣教師の記録や絵画史料、渡海船の構造から、
「南方往生」と補陀落渡海の
世界観を解き明かす。



目次:

補陀落渡海――プロローグ
  井上靖の『補陀落渡海記』
  金光坊の補陀落渡海
  金光坊の亡霊ヨロリ
  補陀落世界
  補陀落渡海と熊野

熊野への旅
 蟻の熊野詣
  熊野三山
  熊野の参詣道
  熊野詣の準備
  熊野詣の病者
  梛の葉
  御幸人の連署
  濡れ藁沓の入堂
  道中作法の謂
  熊野詣の掟
  無遮の精神
  熊野詣の情感
 平維盛の入水往生
  平維盛の周辺
  『平家物語』の維盛
  山成島と金島
  「金に成る」島
  平維盛の生存説
  補陀落往生
 熊野の補陀落渡海
  覚宗が見た補陀落渡海
  頼長の感慨
  万里小路冬房の補陀落渡海
  渡海時期の疑問
  『実隆公記』の記事
  万里小路家の伝奏職
  補陀落渡海者の上人号

補陀落渡海した人びと
 補陀洛山寺の渡海上人
  補陀洛山寺の本尊伝承
  拾得された観音像
  高野山の教算
  『熊野年代記古写』の渡海上人
  『本願中出入証跡之写別帳』(壱)の渡海記事
 智定坊の補陀落渡海
  下河辺六郎行秀の補陀落渡海
  智定坊の失態
  下野国の巻き狩り
  下河辺六郎行秀の系譜
  小山朝政の勲功
  流鏑馬の故実
  北条泰時書状
  『徒然草』の教訓
  西行の弓術口伝
  弓術の研修
  鎌倉武士団の故実
  智定坊の武士精神
 実勝坊の補陀落渡海
  湯浅氏と明恵上人
  『四座講談縁起』の由来
  実勝坊の補陀落渡海
  湯浅氏の系図
  『星尾寺縁起』に見える実勝坊
  実勝坊と智定坊の補陀落渡海
  明恵周辺の補陀落信仰
  明恵と実勝坊
 日秀上人の補陀落渡海
  日秀上人の生涯
  日秀上人の出自
  日秀上人の那智出帆説
  景轍玄蘇の『八嶋の記』
  日秀上人の沖縄漂着
  補陀落浄土としての金武
  波上山権現護国寺と日秀上人
  金剛嶺経塚
  沖縄の滞在期間
  薩摩国に移る
  屋久島に渡る
  日秀上人書状
  三光院の建立
  日秀上人の入定
  日秀上人の情報
  入定室の内部構造
  日秀上人の入寂
  仏師としての日秀
  日秀仏の特徴
  日秀上人の遺品
  日秀を救った鮑
  日秀上人の遍歴
 高海上人の補陀落渡海
  『那珂湊補陀落渡海記』
  作者恵範
  常陸国の六地蔵寺
  高海上人の風貌
  補陀落渡海船の建造
  補陀落渡海船の出帆
  那珂川を下る
  仮屋の道場
  高海上人の出自
  東西二人の補陀落渡海

補陀落渡海の遺跡
 四国の補陀落渡海
  室戸岬の補陀落渡海伝承
  賀登上人
  足摺岬の賀登上人
  『とはずがたり』の渡海説話
  渡海説話の背景
  『蹉跎山縁起』
  理一上人の補陀落渡海
  足摺りの地名伝承
 九州の補陀落渡海
  弘円上人の補陀落渡海
  土船の渡海船
  繁根木八幡宮と寿福寺
  夢賢上人の補陀落渡海碑
  下野国の行者
  日光山の補陀落信仰
  舜夢上人の補陀落渡海
  日新寺末の維雲菴
  維雲菴の遺跡
  赤面法印の入水往生
 日本海の補陀落渡海
  嘉慶の塔
  出雲大社と出雲聖人
  重善上人の補陀落渡海
  国人層の結縁

宣教師が見た補陀落渡海
 外国文献の補陀落渡海
  日本の補陀落渡海
  『日本諸事要録』
  『東方伝道史』
  フロイス『日本史』
  『日葡辞書』
  シュールハンマー「山伏」
  モンタヌス『日本誌』
 宣教師たちの書簡
  アルカソバ書簡
  トルレスの情報
  ビレラ書簡
  山伏の補陀落渡海
  もう一つのビレラ書簡
  和泉国堺の補陀落渡海
  フロイス書簡
  伊予国堀江の補陀落渡海
  日常の補陀落渡海
  八人の集団入水
  某パードレ書簡
  筑前国博多沖の入水
  追従する人びと
 キリスト教の伝来と補陀落渡海
  キリスト教の伝来と雲仙修験
  祐海上人の補陀落渡海
  和泉国の林昌寺
  雲仙岳と四国の霊場
  有馬晴信の寺社破壊
  雲仙岳の惨状
  雲仙岳の補陀落信仰

補陀落渡海の絵画
 那智参詣曼荼羅
  社寺参詣曼荼羅
  那智参詣曼荼羅
  補陀落渡海の図
  那智参詣曼荼羅の原像
  法燈国師覚心
  『紀州由良鷲峰開山法燈円明国師之縁起』
  『法燈国師縁起』の意訳
  補陀落渡海図の萌芽
 補陀落渡海図の絵解き
  『法燈国師縁起』の成立過程
  絵解きの内本
  興国寺に立ち寄る熊野参詣者
  補陀落山の絵を見る
  熊野道者対象の絵解き
 補陀落渡海船の構造
  補陀落渡海船の名称
  補陀落渡海船の仕掛け
  那智参詣曼荼羅に見える渡海船
  補陀落渡海船の宗教的意味
  補陀落渡海船と修験道
  三船三様の渡海船
  補陀落渡海船と入定
  補陀落渡海船の帆文字
  葬場における四門
  戦国武将の葬送と四門
  島津忠良の往生の企て

青海原への憧憬――エピローグ
  熊野の色彩と生命感
  胎内からの南方往生
  末世観の深化と補陀落渡海
  動き出す熊野の人びと

あとがき




◆本書より◆


「補陀洛山寺の渡海上人」より:

「注目されるのは、浜の宮補陀洛山寺の本尊が海上から拾い上げられた観音仏であり、これが補陀落世界から湧出、漂着した小像であったとする点である。すなわち、海上から寄り来る仏であった。」


「日秀上人の補陀落渡海」より:

「日秀は補陀落渡海と入定の二つの捨身(しゃしん)行を実践した僧であった。」

「日秀の入定室は方一間であり、定中に石座を敷き、中の四壁を塗り籠めて「四十九院」が造られていた。四十九院とは、四門(しもん)と呼ばれる四つの鳥居を連結する忌垣(塔婆)である。要するに四十九本の塔婆であった。四門と四十九院は、後述するように補陀落渡海船にも組まれた。つまり、入定室と補陀落渡海船の内部構造は同一視されていたことが理解できる。」



「外国文献の補陀落渡海」より:

「バリニャーノの『日本諸事要録』(一五八三年)第三章に、「日本人の宗教と諸宗派」と題した次のような一節がある。
  彼等(日本人)は多くの迷信を有している。彼等の中には、あるいは聖人の名称を得るため、あるいは彼等が空想しているある天国に行くために、大げさな儀式によって、生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、また生きたまま地中に埋葬される者もいる。
 右に見える本文で、バリニャーノが「彼等が空想しているある天国に行くために、大げさな儀式によって、生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいる」と書いているのは、まさしく補陀落渡海にほかならない。並記するように「生きたまま地中に埋葬される者もいる」とあるのは、修験山伏たちの土中入定(にゅうじょう)を指した記述であろう。」



「宣教師たちの書簡」より:

「伊予国堀江でおこなわれた補陀落渡海は、男性六人と女性二人の集団入水であった。彼らは数日前から街々を歩いて喜捨を求め、阿弥陀の西方浄土に往生することを待ち切れず、より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという。実行にあたり、彼らは人びとから受けた金銭を袖に入れ、多くの人びとに見送られ、新しい一艘の船に乗り込んで海岸を出た。彼らの身体には、頸・腕・足に大きい石が縛り付けられていたという。(中略)やがて彼らは沖合に押し進み、ここで別船に乗っていた親者や友人と訣別することになる。そして、彼らはさらに沖合に出て、一人ひとり深い海に投身したのである。
 追従していた人びとは、ただちに補陀落渡海船に火を付けた。そして、海岸に接して記念の小堂を建てたという。堂には「小さな棒に紙の小旗を附けて屋上に立て、各人のため一本の柱を建て、これに多くの文字を記し」たとあるから、日本の葬送儀礼に見られる天蓋(てんがい)・四本幡(しほんはた)・五色幡(ごしきはた)がかけられ、塔婆(とうば)が建てられたのであろう。さらに松を植え、堂内では渡海した彼らを供養するために読経をおこない、その後も人びとは常にこの堂に参拝するのだという。」
「フロイスはこのような堀江における補陀落渡海を聞きつけ、一五六五年に書簡をしたため、京の都からイエズス会の同志に送ったのである。フロイスは、書簡の末尾に海中に身を投げた者の中に長い鎌を手に携えた者があり、また、自分から海に入水するのではなく、船に大きな穴を穿ち、この栓を抜いて船もろともに海底に沈む方法があると付け加えている。」



「補陀落渡海船の構造」より:

「補陀落渡海船に造られた四門と四十九院は、右に見てきたような葬儀や葬具の中世的形態を残している。そして、補陀落渡海船そのものが墓所や棺台(ひつぎだい)と同一視されていた。熊野地方で補陀落渡海船を「こつふね」(骨船)と呼んだ、というのも通常の船ではなかったことを表している。したがって、補陀落渡海船は実質的に遺体を入れる棺の機能を持っていた、といわねばならない。」


「青海原への憧憬」より:

  「一、うみはひろいな おおきいな
  つきがのぼるし 日がしずむ
  二、うみはおおなみ あおいなみ
  ゆれてどこまで つづくやら
  三、うみにおふねを うかばして
  いってみたいな よそのくに
 林柳波作詞・井上武士作曲の「うみ」の歌詞である。(中略)日本の美しい歌であり、想い出の唱歌であり、誰もが郷愁をいだく歌であろう。
 「うみにおふねを、うかばして、いってみたいな、よそのくに」。平安期の人びとも、このように思っていた。「よそのくに」。それは「ふだらく」と呼ばれた理想郷であった。」




こちらもご参照下さい:

川村湊  『補陀落 ― 観音信仰への旅』
和田博文 他 『パリ・日本人の心象地図 1867-1945』
内田善美 『星の時計の Liddell ①』







































































































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中沢厚 『石にやどるもの』

「丸石信仰は非常に古い信仰で、現代人の思考を越えた、古代人のある種の考えが秘められた信仰とみたい。」
(中沢厚 「丸石の道祖神」 より)


中沢厚 
『石にやどるもの
― 甲斐の石神と石仏』


平凡社 
1988年12月12日初版第1刷発行
405p 口絵(モノクロ)6p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,200円
装幀・レイアウト: 堀慎吉



本書「解説」より:

「この本には、中沢厚が書きためた民俗学に関するエッセーのなかから、重要と思われるものだけをえらんで収録した。このうち本書の第二部にあたる部分は『山梨県の道祖神』として昭和四十八年に有峰書店から単行本として刊行されている。」


口絵図版(モノクロ)12点、本文中図版(モノクロ)137点。


中沢厚 石にやどるもの1


帯文:

「丸い石を
神にまつる。
そこには
日本人の
神観念には
すんなり
おさまり
きらない
何かの
異質性が
隠されている。
中沢新一 解説より」



帯裏:

「網野善彦 「序」より
甲斐を舞台に、石そのものに生涯こだわりつづけ、甲斐特有の石の文化を追究しつつ、人類全体に共通する問題にまで光をあてた著者の文章を集成した本書の刊行は、今でもなおこの分野の研究の発展に少なからぬ貢献をなしうるもの、と私は考える。
著者は、一貫して野の人であり、またその姿勢を意識して貫ぬこうとしていた。戦後、笛吹川の堤防道をはずれた小石和の道祖神場での、おかしな「馬頭観音」との「出合いは、私の石仏観を変えた」と著者は書く。
「ひと口にいって野仏の、内なる声をよく聞こうという気持が生まれたのである。石仏を刻んでそこに置いた、庶民の生きざまを考えることがなくてはなんにもならぬではないか」。
「外見や形式、分布を調べることで石仏を理解し」、それを説明しようとしてきたそれまでの姿勢からの脱却、訣別の辞ともいうべき語調を、われわれはそこから読みとることができる。」



中沢厚 石にやどるもの2


目次 (初出):

序 網野善彦

第一部 石にやどるもの
 I 石と民間信仰
  甲斐の石仏 (アートグラフ、昭和56年)
  北巨摩雑感 (中央線 10号、昭和48年)
  山中笑翁略伝 (甲斐路 24号、昭和48年)
 II 丸石神の謎
  笛吹谷の丸石神 (谺 59号、昭和53年)
  丸石神の里 (谺 58号、昭和53年)
  丸石神の謎 (日本の石仏 11号、昭和54年)
  丸石神と考古学 (どるめん、昭和56年)
  丸石神追考 (日本の石仏 25号、昭和57年)
 III 性の石神
  男根石雑記 (月刊ヤマナシ 3号、昭和46年)
  甲州の道祖神祭 (まつり 昭和57年)
  割礼について (谺 54号、昭和51年)
  作神雑記 (日本の石仏 18号、昭和56年)
  案山子の略歴 (谺 32号、昭和38年)
 IV 庚申
  庚申の猿 (未発表)
  庚申の日待 (谺 46号、昭和47年)
  庚申縁年に因む話 (日本の石仏 16号、昭和55年)
  山梨の庚申信仰 (歴史手帳 7号、昭和50年)
  甲州の月待信仰 (日本の石仏 22号、昭和57年)
 V 馬頭観音
  観音信仰について (峡南の郷土 14号、昭和51年)
  馬頭観音礼讃 (谺 53号、昭和50年)
  馬の観音もうで (甲斐路 30号、昭和52年)
  馬頭観音 (日本の石仏 1号、昭和52年)
  馬頭観音四題 (谺 55号、昭和52年)
 VI 石投げ合戦考
  石投げ合戦考I (谺 40号、昭和43年)
  石投げ合戦考II (谺 50号、昭和48年)
  石投げ習俗と成人戒 (どるめん 3号、昭和50年)

第二部 山梨県の道祖神 (単行本 有峰書店 昭和48年)
 一 山梨県下の道祖神概観
 二 道祖神についての定説
 三 道祖神の石祠
 四 道祖神の木祠
 五 道祖神の文字碑
 六 双神の石像
 七 単神の道祖神像
 八 丸石の道祖神
 九 石棒の道祖神
 十 陽石道祖神
 十一 異形な石の道祖神
 十二 道祖神の祭
 十三 道祖神の周辺
 十四 残された問題

あとがき 中沢新一



中沢厚 石にやどるもの3



◆本書より◆


「序」(網野善彦)より:

「石と人との関係は、いうまでもなく人間の歴史とともに古い。自然と人間との関わりの中で、それは最も普遍的であり、また本質的であるといってよい。」
「日本列島の人間社会も、またその最初から石と長い長い間つきあいつづけ、その中から列島のそれぞれの地域に、独特かつ豊かな石の文化を生み出してきた。実際、石を度外視して、日本文化、日本人の生活を論ずることは、全く不可能といっても決して過言ではなかろう。」



「北巨摩雑感」より:

「ところで私は(中略)別のことに実は興味をひかれているのである。というのは(中略)大和朝廷の誕生するよりずっと前の、古い日本のことについてである。
 だいたいにおいて大和政権の成立を考えるだけなら、高句麗、百済、新羅との関係でこと足りるかも知れない。しかしそれ以前となるとそんな単純なものではない。即ち渡来者といっても朝鮮からだけではいけない。西南の島々はちょうど飛び石づたいのコースで、たえず大陸南部の文化や南海の島々の海洋文化の人々を迎え入れた。また北方から来た人々もこの列島に定着して平和に生活していた。朝鮮海峡がまだ陸つづきであった時からの交流も考えるなら、日本人と日本の文化はそういう底流とか奥行をもっているのを忘れることは出来ない。」
「私の好みからいうと、大和朝廷がどのこうのというよりも、文化の長い交流と消長を内に秘めた庶民の歴史にこそ興味も関心もある。そんな庶民の歴史、日本の歴史の問題としてアイヌのことを考えたくなる。日本民族のことをいうときアイヌこそその基盤に間違いないのだと。アイヌはエゾといってもいい。彼等は極めて豊かで、情熱的な縄文文化の生みの親であり、特に中部山岳地帯において高い文化の花を咲かせたが、鉄または銅で武装することをいち早く知った大陸の文化と勢力の浸透には抗し得なかった。彼等の多くは極めて平和な人々であったから新しい勢力に道をゆずりその文化をも受け入れながら父祖の地を守って今日に至っているのであろう。ということは私たち自身がアイヌでありエゾであるということで、彼等の中で最も戦闘的で誇り高き一団は戦いながら北へ北へと後退する運命を選んだと考えたらいいと思っている。こんな仮説は少しも不自然なことはなく、むしろ何も考えなかったり、誰でも日本人は天皇の子孫などと思うことの方がどのくらい不自然だかわからないのである。」



「丸石神の謎」より:

「山梨県には、自然石の大小の丸石を祀る道祖神や屋敷神などがたいへん多く、他県の比ではありません。このまぎれもない事実も、一般には知る人のみが知る程度の認識しかありませんが、(中略)しかし、石神信仰に興味をいだいて長年調査にたずさわってきた私にとって、山梨県の村々の丸石神というものは、当面、最大の関心事です。人々は、神といってもたかが知れた丸石ではないかといいますが、それがかえって不思議なこととして心をとらえ、自然石の丸石がなんで神なのか、なんで道祖神に祀られるのか、その問題は念頭から離れません。そして、あげくの果ては、地方文化の基盤であり、そして庶民信仰の原点に丸石信仰がかかわりをもっているのではないかと、そんなふうに大ぎょうにさえ考えるのであります。」


「丸石神追考」より:

「日本の信仰史を云々し、神の依り代が語られるとき、石はもっともしばしば語られる。しかし、神社神道の研究らしきものに、石神が全く軽視されるのはどういうことであろうか。早く証拠は隠滅し、得体のしれない石神のことは道祖神をはじめとする小祠信仰にまかしてしまえということか。朝鮮合併ということの後、朝鮮の主だった市にはお伊勢さんか何か知らぬ神社を建てて無理にも拝ませたということがある。太平洋戦争で南方に進出すると、南の島々に日本式の神社を次々に建てていったという愚行もあった。神社神道にはもともとそういう政策的なものが源にあったのかも知れない。祖先神とか祖霊とかがことさら強調され、天皇・将軍の名が祭神名にかかげられ、かくして統治勢力の強化拡張が計られた。そのような、神石などを必要としない神社が古社を取りこみながら、外来仏教とは協業し、羽振りをきかせてきた。そうはいいながらも、伊勢のほんとうのご神体は男根石だとか、八幡は丸石の系統だとかの裏話はたえない。面白いものである。」


「作神雑記」より:

「縄文時代の石器である石棒(中略)の大半は祭祀物と判断され、原始時代の村あるいは家の祭場とおぼしいところに置かれた石神である。形も大小もいろいろあるが、いずれにせよ、男根を具体的にあるいは抽象的に表現したものであることに間違いなく、先人がこの石神に何を祈り、何を期待したかはほぼ想像ができる。石棒はいかにも性神というにふさわしく、広義の生産神つまり作神である。」


「石投げ合戦考II」より:

「はじめに石投げ研究へ私をさそったのは、全学連の羽田空港付近での投石戦であった。この学生達による対権力闘争の投石は、その後ひき続いて激しさを加え、東京・神田界隈の街頭における攻防戦にエスカレート、次いで王子駅から新宿駅に及んだ基地闘争の投石は、ついに駅構内の鉄路の礫を一掃してコンクリート敷に改めさせてしまったほどの激しさであった。どうなるかとハラハラしているうちに、学生達の形勢はにわかに悪化してやがて街頭闘争は終焉した。それにしても、近年まれにみるなまなましい事件であったが、さながら往年の京都の巷における悪徒どもの印地打を思わせずにはおかぬ。
 「そこに石があるから投げる」には違いないが、若者の対権力行動には石投げがつきものらしく、注意してみていると、テレビ報道にみる限りでは朝鮮の学生も、フランスやロンドンの学生もみな官憲に向かって石を投げていた。」



「山梨県の道祖神」より:

「こうなると筆者などはいろいろとわからないところがあってこそ民間信仰というものではあるまいかといいたくなる。特に古代信仰が継続しているところの道祖神を、むりに現代人の常識や近代の合理性で割り切って理解しようと急ぐのがまちがっている。」
「道祖神研究には古代および古代人の研究を通じて真の人間像を探るという立場があっていいのだ。そんな意味で、異形の道祖神石は将来の謎解きの資料と思ってもらうほうがいいのである。」



「解説」(中沢新一)より:

「彼にとって、石はひとつのオブセッションだった。彼は死ぬまで、石の魅力にとりつかれていたのである。(中略)世の中におこるさまざまなものごとの意味について、深く考えこんでいるときにも、たえず自分の思考を石というもののありようとかかわらせるような奇妙な癖があった。自分のからだが癌におかされたときも、内臓の表面に石が露頭してきたのだと言って、なかば不気味がり、なかばおもしろがっていた。石は、彼にとって、世界に生きることの意味を解読するための、ほとんどキー・メタファーとなっていたのだ。」

「自転車をこいだり、バスをつかったりして、目的の村にたどりつくと、彼はまずその村の道祖神場を探すことにしていた。不思議なもので、どの村へいっても、道祖神場のありかはすぐにわかる。どの村も地形の変化にあわせながら自分のかたちをつくりだしているので、村の外見や形態は村ごとにちがっているが、道祖神場だけは、その異なる形態のなかの「構造的同一性」の場所とでもよんだらいいようなところに、かならずみつけだすことができるのである。まるで、道祖神場を中心んしいて村の空間のトポロジーの「深層構造」がつくられているかのようだ。そして、経験と勘をはたらかせば、村に一歩足を踏み入れただけで、その構造をみぬくことができ、勘にしがって引き寄せられていったところには、丸石やさまざまな神像をまつった道祖神場を発見できる、といったぐあいなのだ。もちろんどの村のトポロジーも、もうひとつの中心をもっている。いうまでもなく神社のある場所だ。道祖神場はこの神社にたいして、奇妙な異質性を主張していた。たがいにひかれあいながらも、どこか対抗的な感情をいだいているような、相補的なつながりが、ふたつの場所のあいだに存在するのである。大地の力に直接のつながりをもち、村のなかにありながらもそこは村の外部につながっている通路の出入り口にあたっていて、病気や不幸のしめす悪の力もそこから出入りするが、またその悪の力を浄化して、それをただちに豊饒の力につくりかえてしまうこともできるような「変容の場所」が道祖神場だとするならば、神社にはそういう大地の力から離脱して、秩序やイデアのほうへむかって観念をとびたたせていく超越への出入り口のようなものを、感じることができる。そうしてみるとこのあたりの村に生きた人々の精神生活において、より「唯物論的」な道祖神場とより「イデア論的」な神社の空間とがいっしょにならびたっていて、おたがいどうしのあいだに緊張やおぎないあいのリズムがつくりだされることによって、自然環境と無理なくリンクしていけるような、安定したダイナミズムをつくりだしていたのではないか、というような気がしてくるのだ。
 思想的に「唯物論的」であった彼は、とうぜんのことながら、そういう道祖神場のトポスに強くひかれていった。『石神問答』の柳田国男を一人の天才を見るようなまなざしで憧憬していた彼が、いっぽうでは『祖先の話』などの柳田にきわめて批判的であった理由もそのあたりにある。キリスト教の説く一神教的な愛の思想から大きな影響をうけながらも、彼の無意識はそれとはちがう神により強くひかれていた。自然のなかに内在する力が、純粋な状態のなかで自分を表現したときにあらわれる、聖なる状態。そのヒエロファニーのぶっきらぼうで野性的なあらわれを、彼は潜在的にもとめつづけていた。道祖神場とそのトポスにあらわれたさまざまな「もの」たちに、彼はそういう野性のヒエロファニーの、ほとんど理想にちかいあらわれを見ていた。
 そこに、石があったのだ。さまざまな魅力的な石たち。大小の丸石、ほほえましい、ときにはどっきとするほどエロティックな男と女の性愛のすがたを彫り込んだ石たち、古代人の夢をそのままタイムカプセルにしたような陽石や陰石の林立、旅をするアルチザンたちの彫り残していったもののみごとな石のほこら、石になった馬もいる(中略)、見ないし聞かないし言わないことにきめたデコミュニケーションの石の猿たちだってたくさんいる(庚申の猿像に、彼はとりわけ親近感をいだいていた)……人間のなかにいまもひそんでいる動物の領域への出入り口、性愛の欲望があらわに自分を表現する特権的な場所、丸い単純で抽象的な神の石をとおして宇宙的なるものを俗っぽい生活のまっただなかに露頭させている、アメリカ現代アートの精神にもつながっていくような、奇妙に想像力をかきたてるトポス。そういう道祖神場にきまっておかれているのが、石なのだった。神社の神のように、いっさいの感覚的なものを捨て去って純粋な観念の世界のほうへとびたっていこうとするいきかたを批判して、石の神たちはあくまでも物質性のなかにたちどまろうとする。物質と重力のなかに封じ込められながら、同時にそこから自由であるようないきかたは可能だろうか、と探りつづけているような石の神たち。あたりまえの人の暮らしを否定するのではなく、自分もそのなかに埋もれたようにして生きながら、なおかつその場所に人をしばりあげておこうとする重力の虹からも自由で、しかも自由になった空間のなかにいて物質性の世界へ深い愛を失わないでいられるような生き方を、彼は道祖神場にたたずむ石の神たちのなかに、見ようとしていたように、私には思われるのである。」



中沢厚 石にやどるもの4










































































































石田英一郎 『新版 河童駒引考』 (岩波文庫)

「要するに後期旧石器時代の狩猟採集民にあっても、彼らみずからの生命や食物の多産豊饒に対する痛切な願望をもとに、枯れては芽ばえ、死しては生まれていく地上の生命を、欠けてまた満ちる永劫不死の月の運行に関連せしめ、人間および動植物の生成繁殖をうながす呪能を、月なる母性の生殖力にもとめる思想はすでに存在していたのではあるまいか。」
(石田英一郎 『新版 河童駒引考』 より)


石田英一郎 
『新版 河童駒引考
― 比較民族学的研究』
 
岩波文庫 青 33-193-1

岩波書店 1994年5月16日第1刷発行
317p 参照文献19p
文庫判 並装 カバー
定価670円(本体650円)



『河童駒引考(かっぱこまびきこう)』初版は1948年、筑摩書房刊、改訂新版は1966年、東京大学出版会刊。本書はその文庫版。
本文中図版(モノクロ)多数。


石田英一郎 河童駒引考1


カバー文:

「水辺の牧にあそぶ馬を河童が水中に引きずりこもうとして失敗するという伝説は、日本の各地に見られる。この類話が、朝鮮半島からヨーロッパの諸地域まで、ユーラシア大陸の全域に存在するという事実は何を意味するのだろうか。水の神と家畜をめぐる伝承から人類文化史の復原に挑んだ、歴史民族学の古典。」


目次:

口絵
新版序文
第一版序文

はじめに
第一章 馬と水神
第二章 牛と水神
第三章 猿と水神
むすび



解説 (田中克彦)

参照文献



石田英一郎 河童駒引考2



◆本書より◆


「第2章 牛と水神」より:

「すでにバッハオーフェンは一八六一年、その劃期的な『母権論』の中で、古典世界における女性原理の象徴としての月および雌牛についてくり返し言及し、また未開社会の例をもひいて、女性こそは、土を耕し、大地の実りをとりいれる営みをその本来の使命としていたものと主張した。その後の民族学者も、牧畜民の社会では男子の経済的・社会的な地位が高く、原則として父権的性格が強いのに反し、母権的または母系的な制度は、女性の手による植物性食料の採集や栽培を基礎とした社会に見出される傾向のあることを、一般論としてはみとめている。総じて植物栽培民の文化にあっては、月と女性と大地とが、もろもろの豊饒生育の象徴や思想と結合して、宗教や神話の中にあらわれていることが多いが、このような一群の観念も、その淵源はあるいは(中略)さらに古く、農耕牧畜以前の、後に植物栽培に向って発展する萌芽を蔵した、後期旧石器時代のある種の採集経済の文化にまでさかのぼるのかも知れない。この点において、ドルドーニュのロセル Laussel から出土した中期オーリニャク文化の、角(つの)形の容器をもつ裸婦像や、またイルクーツク附近のマリタ Mal'ta のオーリニャク文化遺跡からゲラシモフの発見した、一面に特殊の渦巻文を、他面に三匹の蛇を刻したマムモスの牙の板片などは、旧石器時代人の精神史を探求する上に、貴重な手がかりをあたえる資料であろう。前者は後年のオリエント―地中海の大地母神が牛と密接な関係にあることから推して、新月形の野牛の角杯――一種の豊饒の角(コーニュコピア)――を手にした最古の母神像とも解せられよう。それはまた、南フランスからロシアにわたる広大な地域に発見された二ダースにのぼるオーリニャク文化のいわゆる“ヴィーナス像”(中略)のもつ呪術=宗教的な意味を考える手がかりともなった。後者すなわちマリタの象牙板に描かれた渦巻文、ことにS字形に相対して反対の方向に巻いた螺旋(らせん)も、先史時代から歴史時代にかけて世界的な分布を示し、後の例から推して満ちては欠ける月の消長をあらわしたものと解せられている。またその裏側に刻まれた波状の蛇も、ほとんど全世界の月神話に登場する、月ともっとも関係の深い動物の一つである。しかもこのマムモス象牙の板片とともに、ヨーロッパのオーリニャク文化の“ヴィーナス像”(中略)の発見されたことは、ますます右の両面の文様の呪的な意味を傍証するものであろう。要するに後期旧石器時代の狩猟採集民にあっても、彼らみずからの生命や食物の多産豊饒に対する痛切な願望をもとに、枯れては芽ばえ、死しては生まれていく地上の生命を、欠けてまた満ちる永劫不死の月の運行に関連せしめ、人間および動植物の生成繁殖をうながす呪能を、月なる母性の生殖力にもとめる思想はすでに存在していたのではあるまいか。」

「すでにのべたように、東地中海からインドにつらなる先アーリア期の古代文明の世界に、馬が北方から登場して大きな役割を演ずるようになったのは、牛よりもはるかにおくれた時代においてであった。馬耕農業の普遍化した北ヨーロッパにあっても、最初に犂をひいた動物が牛であったことは、青銅器時代の岩壁画から確認されている。今日の知識では、馬の家畜化のはじめて行なわれた故地を見出すことは、もはや不可能に近いけれども、馬を車戦ついで騎戦の手段に用いた戦闘的な民族が、古代文明の縁辺部からユーラシア大陸をめぐる肥沃な農耕地帯に進出した事実は、紀元前の二千年間の歴史に明らかなところであり、この間に、牛を最高の家畜としたオリエント文明圏の北辺から内陸の草原地帯にかけ、馬の機動力に依存する遊牧民族の独自の文化圏が形成されたものではないかと思われる。スキタイ・サルマテ・匈奴・烏孫をはじめ、その後の突厥やモンゴルなど、ユーラシアの歴史に記録された騎馬民族は、もっともよくこの文化の性格を代表するものであろう。すなわち経済的には牧畜を基礎とし、社会的=政治的には父系的・家父長的・軍事的であり、思想的=宗教的にはいちじるしく男性原理と天の信仰にかたむく。シュミットが誤ってその形成を氷河時代の末にまでさかのぼらしめた前記の父権的=遊牧的文化圏なるものは、実はこのように限定された歴史時代にその存在を確認しうるのである。」

「このように考えてくると、馬が水界や大地や冥界や月と結合する第一章以来の諸例が、古くとも紀元前数世紀より以前の資料にさかのぼらず、これに反して牛の月神話圏における中心的な地位は、紀元前三千年をこえる先史時代にまでつらなるという事実も、容易に解釈できそうである。すなわち馬が右のような役割を演ずるようになったのは、馬を機動力とする民族が、いわば牛の縄ばりともいうべき古代オリエント―インドの農耕的な都市文明の世界に進出して、馬が農業経済の中にも重きをなすにいたった後のことであったにちがいない。つまり、牛と馬とは、それぞれの個性を保持しながらも、多くの分野において、しだいに一体の文化に融合統一されるようになり、したがって祭祀や神話の領域にあっても、前に牛の演じた役割に馬が参加するか、あるいはこれに代わるというような現象も、しばしば見受けられるようになった。と同時に、前記の女神イシスの聖牛のように、雌牛の占めた原初の中心的地位が、いつしか雄牛に代わっていたり、月神話的複合の中に、しだいに上天信仰的要素が重きをなしてきたりする現象も、右の過程にともなうものと解釈しうるであろう。」
























































































































石田英一郎 『桃太郎の母』 (講談社文庫)

「大地はその豊饒力を水に負う。太古の大地母神はまた、多かれ少なかれ水の神であった。」
(石田英一郎 「桃太郎の母」 より)


石田英一郎 
『桃太郎の母
― ある文化史的研究』
 
講談社文庫 C 15

講談社 昭和47年6月15日第1刷発行
298p 索引13p 口絵(モノクロ)2p
文庫判 並装 カバー
定価240円
装幀: 亀倉雄策



『桃太郎の母』初版は1956年1月、法政大学出版局刊。1966年10月、講談社名著シリーズの一冊として校訂・増補のうえ再刊。本書はその文庫版。


石田英一郎 桃太郎の母1


カバー裏文:

「日本民俗学の成果を比較民族学的研究と結合することにより、歴史家の捨ててかえりみなかった昔話の中から、人類太古の大地母神の信仰を掘り出し、人類文化史の重要な一側面に解明の光を投じている。「月と不死」「隠された太陽」「桑原考」「天馬の道」「穀母と穀神」を併録。」


目次:

新版序 (1966年7月)

序文
月と不死――沖縄研究の世界的連関性に寄せて
隠された太陽――太平洋をめぐる天岩戸神話
桑原考――養蚕をめぐる文化伝播史の一節
 呪語桑原
 雷と桑と鉄器
 桑樹神聖
 桑林と空桑
 桑中の喜
 桑と太陽とファリシズム
 女性と蚕神
 蚕桑根源
天馬の道――中国古代文化の系統論に寄せて
桃太郎の母――母子神信仰の比較民族学的研究序説
 はしがき
 水神童子
 母子の神
 処女懐胎
 常世のくに妣のくに
 神のよります女
 わたつみの女人国
 龍蛇の裔
 母子相姦
 性力崇拝
 大地母神と小男神
 むすび
穀母と穀神――トウモロコシ儀礼をめぐるメキシコの母子神
あとがき――ニコライ・ネフスキー先生のことなど


解説 (増田義郎)
年譜 (杉山晃一 編)
索引



石田英一郎 桃太郎の母2



◆本書より◆


「月と不死」より:

「欠けては満ち、死してはまたよみがえる月の姿こそ、原初の人類の不死へのあこがれと固く結びついたのであった。月中の斑点に対する世界の諸民族の俗信を比較していくと、この文化史的な過程がはっきりしてくる。この際、琉球列島にのこる、月中に水桶をになって立つ男の説話や、わが万葉にみる「月よみの持たる変若(をち)水」の句は、問題の解明にいかに大きな意義をもつかを示す。」


「スウェーデン――
 今日スウェーデンの農民は、月世界の黒影を水桶を棒で担った男女の子供だと説明しているというが、そのほかにも次のような伝承が採録されている。
 二人の老人が月の光を消そうとして、一杯の水桶をかついで出かけたが、あべこべに月に据えつけられた。彼等は罰として永遠にそこに留まらねばならぬ。
 
 二人の老人が夜に盗みがよくできるよう、月の面にタールを塗ろうとして、一杯のタール桶をかついで出かけたが、月の中で身動きできなくなった。最後の審判の日まで、そのままじっとしていなければならない。」

「ドイツ――
 一個の水桶をもった一人の子供が月の中にいる。

 一人の泥棒が、ある夜二杯の水桶を盗んで逃げ出すと誰かが跡を追ってくる。いくら早く走っても追手は去らない。ふと振りかえってみるとそれは自分の影法師だった。彼はこの影をこさえた月を罵って、一杯の水を月にぶっかける。月は怒ってこの泥棒を二つの水桶と一緒に天に引き上げた。
 一人の男が甘藍(キャベツ)を肩に背負い、手に一個の水桶を持って月の中にいる。月の光が気に入らぬとて水を注いで消そうとした罰である。」

「人間の復活、若返り、永遠の生命などにたいする欲求が、欠けては満ち、死してはまたよみがえる永劫不死の月の姿に何らかの形で結びつけられているのである。もとより、
  月よみの持たる変若(をち)水いとり来て、君にまつりて変若(をち)えしむもの
 と詠じた万葉人のはかない願いは、南アフリカの兎や宮古島の水運び男の失策によって、今は永久にかなわぬ望みとなってしまった。そして人間に代って、月と同様のよみがえり若がえる力――すなわち琉球語のスデル力、日本語のヲツ力――を獲得したものは、多くの民族の信仰によれば、蛇、蜥蜴(とかげ)、蟹(かに)などのように、脱皮によって絶えず死と復活との過程を反復していると見られた種類の動物であった。ことに太平洋をめぐる諸民族にはこの種類の伝承が多い。二、三の例を拾うならばメラネシアのニュー・ブリテン島ガゼル半島海岸住民には、善神ト・カンビナナが人間に不死を、蛇に死を与えようとて、その弟ト・コルヴヴを下界に遣わし、「人間には毎年脱皮して死より免れる秘法を授け、蛇には死を与えよ」と命じたのに、使者は人間に死を伝え、蛇には不死の秘法を授けたので、その時から人は死し、蛇は毎年脱皮して不死になった、という口碑がある。」



「隠された太陽」より:

「隠れた太陽をおびき出す天岩戸神話の基本的モティーフは、北太平洋に沿うアジア―アメリカ両大陸に分布し、南は東南アジアの諸民族にまで及んでいる。これらの神話の比較研究を通じて、記紀に見る日本神話の内容が、いかに多種多様の系統の諸要素から成り立っているかを知りうるであろう。」


「桑原考」より:

「桑原々々という雷よけの呪語は、養蚕とともに発達した桑樹神聖観に由来するもの、その淵源は遠く養蚕絹織の起源地たる中国にあることが証明できる。一見とるに足らぬような民間の俗信の断片にも、蚕桑の普及を背景とした人類文化史の主要な一節をたどるいとぐちの秘められていることを忘れてはならない。」


「天馬の道」より:

「中国の家馬は、中原の地ではじめて家畜化されたものではない。中国の全古代史を通じて、馬匹の補給をはじめ、およそ馬に関する新知識・新技術の導入は、つねに西北辺境をへて、内陸アジアの方面からおこなわれた。中国古代の文化を構成する基本的な一要素は、おそらく馬とともにはいってきた遊牧的=父権的な性格のもので、儒教にみる《天》の思想もまた、この系統に属するものであろう。」


「桃太郎の母」より:

「桃太郎や一寸法師など、これまで歴史家の捨ててかえりみなかった昔ばなしの中にも、人類太古の大地母神の信仰と相つらなるものがある。本稿は、日本民俗学の成果を比較民族学的研究と結合することにより、これら《水辺の小サ子》の背後にひそむ母性の姿を消え行く過去の記憶から引き出して、人類文化史の重要な一側面に解明の光を投じたもの。わが八幡の信仰も、南欧の処女マリアの崇拝も、その源流は、遠く古代ユーラシア大陸の原始大母神とその子神とにさかのぼることを示す。」

「かくのごとく日本皇室の系譜をつらぬいて、水の神としての龍蛇の裔という観念と水辺の母子神出現の思想とが、きわめて多様の分化を示しながらも、相錯綜して跡づけられることは、沿太平洋的な古代神話圏から考えて決して偶然ではない。今日民間の昔ばなしに残る前記の蛇息子なども、こうした古代思想の残片としてのみ、はじめてよくその意味を理解しうべきものであろう。その一類型として甲州上九一色村に伝わる龍吉の話の前半は、
  昔老夫婦が神に子宝を祈ると、たちまち婆が身ごもって男の児を生む。これを龍吉と名づけて愛育していると、龍吉は追々からだが長くなって家には置かれぬので、鳥籠のような物を作りその中に入れて置いた。それでもいよいよ長くなり、後には手足もなくなり蛇のような形になって、もうどうにも置かれぬので、老夫婦はその箱を山の頂上に背負いあげ、よくわけを話して龍吉を放ち去らしめた――
 というのであるが、揚子江沿岸の水神神話でも、
  長河江辺ノ一女子、渚上ニ紗ヲ浣ウニ、身忽チ懐娠、三物ヲ生ム。皆鮧魚ノ如シ。之ヲ異トシ、乃チ澡盤ノ中ニ著シテ之ヲ養ウ。三日ヲ経テ、此ノ物遂ニ大ナリ。乃チ是レ蛟子。暴雨アリ、三蛟皆出デ、遂ニ所在ヲ失ウ――
 という伝承が、晋の陶潜の『捜神後記』に残されている。この型のいわゆる龍母説話は、今日も広く華南に見受けられ、(中略)おそらく西南の異民族から漢民族に伝えられた説話であろうかと思う。」

「けれども私は、むしろこうした近親相姦をタブーとする社会の規範が濃厚にまとわりついている説話よりも前に、それらの根底となったもっと古いナイーヴな始祖の観念が存在したものではないかと思う。そしてこの種の原初的な観念こそ、今日の太平洋諸民族の間ではとうてい正常には考えられない母子相姦の形をとったものであり、それがたまたまわが八丈島やミンダナオやセレベスにおけるような素朴な形態で、点々と残存しているのではないだろうか。この推定はさらにつぎのごとき多くの沿太平洋的な説話の比較研究によって一層確かめられてくるであろう。
 まず、台湾の高砂族についていえば、数多い兄妹相姦の始祖伝説に交って、セデク族の間に珍しい母子相姦の形を見る。
  男がなくて女だけであった。女は犬と交合した。子供ができた。彼女の子供は男であった。間もなく成長して彼の母と結婚した。その子供は家に沢山になった。われわれタロコ蕃は彼らからどしどし増加した――」
「これらと同じ系統の始祖伝説は、また海南島の黎族の間に、うつぼ舟の説話と結合して各地に語り伝えられている。
  昔、海南島の北の大陸に住む勢力ある君侯が脚の傷に悩み、これを癒すものに、一人娘を与えることを約した。犬が来て傷を癒す。公は屋根のある小舟に食物を満載し、犬と娘とを乗せて沖に流してしまう。舟は海南島の南に漂着したが、当時島には一人の住民もない。公女は地を耕し、犬は狩をして日を暮していたが、ほどへて公女は一人の男子を生む。子供は成長し、犬とともに狩に行くようになった。ある日犬が病んで狩を好まぬ。若者は怒って犬を棒で打ち殺し、家に帰ってその話をすると、母は大いに驚き、お前は父殺しをした不孝者である。私は自分の国に帰るからお前一人この国にとどまり、後に婦人に遇ったならこれと結婚せよと命じ、北に帰って行く。しかし島の中央まで来ると顔に文身して息子にわからぬようにし、また南に引き返して息子に会い、これと夫婦になる。その子孫が Hiai Ao 族で、そのため彼らは今でも顔に文身し、舟型の家を建てている――」

「前項で私は、わが八丈島のタナバ伝説よりはじめて、これと同系統の母子相姦による始祖神話がかつて南太平洋一円に分布していたことを推定した。それでは世界史的に見て、この思想の根源はどこに求められるのであろうか。ここにおいて私の研究は当然ふたたび、太平洋文化の故地としてのアジア大陸に向わねばならない。まず第一の有力な手がかりとして、われわれはインド古来のシャークティ崇拝のうちに、まさに以上の諸例と揆を一にする根本観念を見出す。すなわちそれはシヴァ神の崇拝と密接に結合した、大母神による性的二元論の統一ともいうべき信仰であって、永遠に生殖する女性エネルギーたるシャークティ(性力)を擬人化した大母神が、永遠の男性原理たるプルシャと和合して、神々をもふくむ全宇宙を生み出すという思想を基礎に持つ。この母神はその最高の形態において、シヴァ神の妻マハーデーヴィーと同一視されるが、彼女自身はまたシヴァをも生み出した母神であり、彼の上位に位すること、あたかも彼女の分身ともいうべきブラフマ、ヴィシュヌその他の神々のシャークティが、これら男性の配偶神の上位に位するにひとしい。彼女はシヴァと同じく二重の性格を具え、万有を創造するとともに、またこれを破壊する力であり、万有が生れ出ずるとともにまた帰り入る子宮なのである。こうしたシャークティ崇拝の原理や儀礼の多くは、もとより後期のヒンドゥー教の所産であり、アーリアの影響下に形成されたものであろう。けれどもこの思想の根底に横たわるものは、決してアーリア的ではない。それは宗教史的には、先アーリア期のインド基層文化に属する原始母神の信仰が、ヴェーダやウパニシャッドの男神優位の教義に反逆して、かかる《頽廃》した宗派の形で自己を顕現したものであり、その基調をなす原始母神の観念が、《インドそれ自体と同じ古さ》をもつとは、すでに学者の指摘したところであった。この原始母神こそはシャークティにまで発展した永遠の生殖原理たるプラクリティの原型である。(中略)およそインドほどこの種の母神信仰が悠遠の昔から深い根を下している国は珍しい。多産豊饒の神としての彼女の祠は、あらゆる町々や部落に見受けられ、ことに非アーリア諸民族、わけてもヒンドゥー教の影響を蒙ることの少ない原始諸民族の間に人気が高い。彼女の祭祀は(中略)賤民パーリアの手によって司られる。四姓の下に位するこのパーリアは、インドの先住民族の裔で、《女神の耳を獲(う)る》すべを知るという。(中略)かくてシャークティズムの源流をなすものは、先アーリア的な原始母神の信仰であり、ある種の母系的な社会を基盤とすることが推定されるのである。」
「しかもこのような原始母神の信仰は、ひとりインドにとどまらず、同じく先アーリア期の西南アジアから東地中海にわたる古代オリエントの文化圏に広く見受けられるものである。そしてこの原始母神が自らの産み出した男性神を配偶者として従属せしめるというシャークティズムにふくまれた根本思想もまた、むしろその一層明白素朴な形態において、小アジアから東地中海の沿岸一帯をめぐる古代の信仰のうちに見出されるのである。すなわちこれらの地には、大地の生殖力を象徴する大母神が、若い男性の子神を傍らに従えてあらわれるという例が極めて多い。曰く、エジプトのイシスとホールス、フェニキアのアシュトレトとタムムズ、小アジアのキベーレとアッテイス、クレータのレーアと子神ゼウス、カルタゴのターニトとその息子――いたるところこれらの大母神は処女受胎によってまずその伴う男性の子神を生み、ついでその男神によって神々とあらゆる生命とを生む。しかもこれらの母神が、エジプトにおいても、スメール=バビロニアの文化圏においても、はるか先史時代に遡る原始大母神の直系であることは、あらゆる資料から証明できるのである。母神イシスはエジプト最古の神々の一人で、ネイト、ハトル、ヌト、ムトなど、妣(はは)を意味する他の地方神とともに、《未だ生れることなくしてまず生む》原初の存在であり、夫なくして太陽神ホールスを生んだ宇宙神=豊饒神である。ヘリオポリスのパンテオンの上座に、突如オシリスがこの母祖神の配偶者として登場するのは、比較的後の時代であって、彼は以前には微々たる地方神に過ぎなかった。この変化は、何らかの政治的事情に由来するものらしい。これに反して、後にオシリスとイシスとの子とされたホールスは、オシリスよりもはるかに古い神格である。」

「わが不死の大母神は、決して滅び去らなかった。キリスト教が勝利を占めた後にも、処女マリアは父なくして生れた嬰児キリストを抱いたまま、ふたたび宗教的礼拝の対象となった。ひとり嬰児キリストのみにとどまらない。殺されたキリストの屍体を抱いて嘆く聖母の像――《ピエタ》――も、キリスト復活の信仰と祭礼も、そのよって来る根源は、遠くまた深いものがあるのである。」



「穀母と穀神」より:

「穀物の播種と生長と収穫――その年ごとの反復と全生活の基調としリズムとする農耕民のなかに、若返った穀神を産む穀母の信仰は芽生えたのである。新大陸のメキシコにも、ユーラシアの大地母神に似たトウモロコシの女神が、死と復活を象徴する血なまぐさい人身供犠の豊饒儀礼によって祭られていたのであった。」






















































































































































諏訪春雄 『日本の幽霊』 (岩波新書)

諏訪春雄 
『日本の幽霊』

岩波新書 新赤版 31

岩波書店 
1988年7月20日 第1刷発行
vi 214p 
新書判 並装 カバー 
定価480円



本文中図版(モノクロ)多数。


諏訪春雄 日本の幽霊


カバーそで文:
 
「「四谷怪談」のお岩、「牡丹灯籠」のお露など世にも恐しい怨霊として登場する怪談の主人公たち、幽霊。こうした幽霊の姿はいつごろ生まれ、どのように日本人の心の中に定着していったのだろうか。本書は、日本と中国の他界観の交流を跡づけながら、日本人独特の他界観の形成を見ることで、日本人の現世観をも鏡にうつし出す。」


目次:
 
はしがき


Ⅰ 幽霊とは何か
 一 幽霊と妖怪
 二 異界と他界
Ⅱ 幽霊の誕生
 一 幽霊の誕生
 二 幽霊出現の三要件
 三 日本人の他界観
 四 祖霊信仰
 五 アニミズム
 六 仏像と火葬
 七 夢
Ⅲ 日中他界観の交流
 一 日中冥婚の系譜
 二 日中の冥婚習俗
 三 中国人の他界観
 四 中国人の他界観と道教・仏教
Ⅳ 幽霊の怨霊化
 一 仏教の地獄
 二 幽霊の怨霊化
 三 御霊信仰
Ⅴ 中世の幽霊
 一 修羅の妄執
 二 中有の観念
Ⅵ 近世の幽霊
 一 幽霊の足
 二 近世人の幽霊観
 三 近世幽霊譚の演出家たち
現世を反映する他界――結びに代えて

あとがき




◆本書より◆

「他界と現世との連続とは、他界を構成する要素と、現世を構成する要素が同一であり、その間が連続して、往来が自由であったということである。他界にはこの世と同一の景観が展開し、おなじ山川草木、動物が存在する。他界の住人は現世の人と同じように恋もし、悩みもすれば、喜こんだり泣いたりする。」
「しかし、自由であった現世と他界との往来が一方で閉じられていった話があることも見のがすことはできない。」
「平安末期に現世に姿を見せはじめた幽霊は、この他界観念、すなわち、現実の人には不可能であっても、霊的な存在なら神話世界の住人と同様に自由に往来できるはずであるという考え方にもとづくものであったと考えることができる。」

「日本で祖霊信仰が顕著にみられるようになったのは定着農耕が行われるようになってから、つまり、弥生時代になって大規模な耕作が行われるようになってからとみられる。」
「定着農耕はそれまでの焼畑農耕などに比較して、
  共同労働が必要である
  耕地が子孫に伝えられる
という二つの性格をそなえるため、家とか家族とか呼ばれる制度を生む。家や家族は、その永続と成員の幸福を願って祖霊信仰を生む重要な基盤となる。
 さらに、作物、ことに稲の、種まき→発芽→開花→結実→枯死というサイクルが、人間の、誕生→成人→結婚→お産→死というサイクルとかさねあわされ、死は再生のための一つのプロセスとして意識されることになり、死への恐怖が薄らいで、祖霊となって他界と現世とを往来するという観念が生れてくる。」
「平安時代中期に登場してきた幽霊が現世に好意的であったのは、幽霊が直接にこの祖霊の系譜を引くものであったからである。」

「周知のように柳田国男は弥生以降の稲作文化とその文化を育てた平地に住む人びとにその考察の中心をおいていたが、はじめは、先住民としての縄文人をも視野におさめた日本文化多元論をとっていた。」
「この柳田のいう先住民は縄文時代人と考えることができる。彼らは稻をたずさえて移住してきた「天つ神」によって征服され、古代の記録では「国つ神」として登場するが、なお服属しなかったものが鬼となり、天狗となり、怪物、妖怪の類と考えられた。
 神の零落したものが妖怪となりうるという柳田の考え方を適用すると、妖怪の一方の源流は先住民としての縄文人であり、他方の源流が、この縄文人の信奉したアニミズムのカミガミ、精霊たちであったといえる。
 もちろん、すべての縄文人が妖怪視されたのではなく、弥生人の社会に適応していった人びとの数もけっしてすくなくはなかったであろうし、また、アニミズムのカミガミも、国土経営の神や氏族の守護神として、新しい社会の信仰体系の中に地位を占めていったものもあった。
 この点で興味ぶかいのは坪井洋文氏の説である。氏は正月に餅をたべる「餅正月」と正月に餅をタブーとしてたべない「餅なし正月」の分布が地域的に分かれることに注目され、「餅正月」は水田稲作農耕を基層文化の母体とする人びとの正月であり、対する「餅なし正月」は焼畑雑穀・根茎農耕を基層文化の母体とする人びとの正月と推定された。端的にいえば「餅正月」は弥生人、「餅なし正月」は縄文人の正月と考えることができる。そして、「餅正月」の側から「餅なし正月」へ移行していく例は認められないが、「餅なし正月」からの「餅正月」への移行は多く見出せることを指摘され、日本の政治が長い歴史を通して、水田稲作に絶対的価値をおいて進められてきたため、あらゆる面で「餅正月」が優位に立ち、「餅なし正月」を同化していく過程を示すものと結論されている(『イモと日本人』未来社)。
 このような大勢の中に同化しきれない「餅なし正月」の人びとの中から妖怪変化と見なされるものがあらわれたといえよう。」

「冥婚とは社会的に承認されている婚姻形態であって、しかも、配偶者の一方が死者であるような結婚をさし、幽霊婚、亡霊婚などともいわれる。著名なものとしては、アフリカのナイル河上流地方に住む牛牧民のヌアー族の事例が知られている。かれらの社会では、未婚のまま、または子供があっても法的な男子後継者を残さず死んだ男のために、その親戚たちは結婚の正式の手続きを踏んで嫁を迎えてやる。この妻は実生活では別の男性と過してかまわないのであるが、二人のあいだに生まれた子は死んだ男を法的な父親とし、財産をはじめとする各種の権利と義務を引継ぐことになる。これは、子孫の確保と父系の出自系統の連続をねらいとした慣習と解釈されている。」

「日本の冥婚説話を見なおしてみると、(中略)現世で結ばれることなく終った不幸な男女をあの世で添いとげさせようとする死者への思いやりや同情の念がいきわたっている。」
「日本の冥婚の習俗と説話は、中国大陸から移入された原型が日本の風土の中で変容を受け、共通の傾向性を帯びるようになったとみた方が、習俗がまずあって説話はその影響下に生まれたとみるよりも妥当性がある。」




こちらもご参照下さい:

池田彌三郎 『日本の幽霊』 (中公文庫)
















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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