FC2ブログ

宮田登 『原初的思考 ― 白のフォークロア』

「土左衛門に君はなるへし千代よろず 万代すきて泥の海にて (『耳袋』巻五)
 この何の変哲もない狂歌は、たまたま江戸の市井で作られたもので作者不明である。だが、はるか末世に泥海の訪れることをほのめかす終末観がうかがえる。ここで泥の海になったあかつきに、また新たなる世界が現出するのだろうか。」

(宮田登 「終末観と世直し」 より)


宮田登 
『原初的思考
― 白のフォークロア』



大和書房 
1974年5月10日 初版発行
261p 初出一覧1p 
四六判 角背紙装上製本 カバー
定価1,300円
装幀: 中島かほる



本書は1994年に平凡社ライブラリー版(『白のフォークロア――原初的思考』)として再刊されていますが、単行本がアマゾンマケプレで387円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



宮田登 原初的思考



帯文:

「日本人の精神構造の基底を穿つ

民俗学と歴史学とのマージナルな領域に日本の原思想の可能性を論究し、独自の歩みを刻印してきた気鋭がいま内視する民俗空間――白山(しらやま)・常民・世直し・ミロク信仰を民衆史の中に位置付け新たなる思想の展開をはかり、その照準を〈日本人とは何か〉に向ける。」



目次 (初出):

 Ⅰ
ウマレキヨマル思想 (七二、七 「理想」)
白のフォークロア (七三、九 「情況」)
シラと稲霊 (七三、一一 「日本人の思想と行動」(水島恵一、寺中平治他編、協同出版刊)所収)

 Ⅱ
終末観と世直し (七一、七 「臨時増刊中央公論」)
民間信仰における世直し (七一、二 「伝統と現代」第三号)
「ミロクの世」の構造 (七一、三 「日本庶民生活史料集成」第一八巻、編集のしおり)
メッシアの系譜 (七二、五 「吉野清人著作集」月報一)
隠れ里考(七二、一〇 詩と思想」創刊号)
金華山と隠れ里 (七〇、一二 「ぱれるが」第二二六号)

 Ⅲ
民俗信仰における性 (七一、七 「伝統と現代」第八号)
民俗信仰における怪奇性 (七二、九 「伝統と現代」第一七号)
民俗信仰における遊び (七三、九 「公評」第一〇巻九号)
大師信仰と日本人 (七三、五 「弘法大師空海」(和歌森太郎編、雄渾社刊)所収)
日本人の霊魂観 (七三、六 「近代日本の名著一二選」(笠原一男編、学陽書房刊)所収)
日本人の宗教 (七二、一〇 「情念の世界」(田丸徳善、村岡空、宮田登編、佼成出版刊)所収)

 Ⅳ
地方史研究と民俗学 (六七、一〇 「史潮」第一〇〇号)
「世直し」研究と民俗学 (七〇、七 「日本思想大系」月報三、第五八巻「民衆運動の思想」)
文献と伝承 (六九、三 「日本民俗学会報」六〇号)
日本民俗学批判についての一私見 (六六、一一 「民俗」第六五号)
柳田民俗学と柳田国男論 (七二、五、一七 「読売新聞」)

あとがき
初出一覧




◆本書より◆


「ウマレキヨマル思想」より:

「白山に関する折口信夫の見解は、まことに示唆に富むものだ。折口は早川孝太郎とともに花祭りなどを見学したこともあって、早くから花祭りの本質について考察をめぐらしていたのである。早川の大著『花祭』は、前篇の序文を柳田国男が、後篇の跋文を折口信夫が記し、それぞれ個性に富んだ文章である。柳田が花祭りの伝播・沈着過程に注目し、現在に至る伝承のプロセスについて論じているのに対し、折口は、むしろ花祭りの劇的構成に注目する。いわば民俗芸能としての意味づけを構造論的に分析しようとする人類学的思考に近い視点がある。奇しくも柳田・折口の民俗学観の相違をみることができる。
 そうした観点から折口は花祭りの背後に、消滅した神楽の反映をみた。そこで必然的に白山の存在に着目したのである。折口は、白山が真床覆衾(まどこおぶすま)だという。神楽の中にこの真床覆衾に入って出てくる儀式のあることを指摘している。そして次のようにいう。「ものが生れ出る時には、すべて装飾を真白にしなければ、生れ出ないと考へたのです。我々の辿れる限りでは、産室は真白でした。八朔には女が白無垢を着ました。(中略)つまり成女戒前の物忌みのしるし(引用者注:「しるし」に傍点)で、女となつて生れ出る式ですから、産室を白くした様に、白無垢にくるまつたのです」(中略)。そして、真床覆衾=白山の原型は、かま・がまと呼ばれる洞窟であったという。洞窟に入って出ることは復活を意味し、同様なことが、神楽で白山を作り、そこへ入って出てくることに通じるのだという。白山に入ることは、物忌みしてキヨメルわけだが、そこから出てくるのでウマレの意を附加させたのだともいう。」
「さて白山の中には、橋を渡って入りそこで精進するわけだが、白山の内部には悪魔外道が住んでいて籠る人々を苦しめる。そして夜明けになると山見鬼が現われて、沢山の伴鬼とともに悪神を退治してくれる。(中略)白山の意味づけについての早川と折口の相違は、話者のちがいにもよるだろうが、早川が浄土入りの意を強調したのに対し、折口は成年式の意を重んじた点にある。しかし両者が共通して、人のウマレキヨマリを、この儀礼の思想的軸と考えたことは明らかであった。」



「白のフォークロア」より:

「白神を巫女や巫覡が祀ったことは歴史的事実だが、その信仰がどこを拠点に展開したのか不明である。しかし蚕神の白神を含めて、全国には白神を称する山や地名があり、そこに白神社の名がある。(中略)神体をオシラサマの人形としたり、目立った真白い御幣としたりするが特徴的だ。」

「白山といえば、われわれは加賀白山を想起する。加賀白山それ自体は、古代以来の山岳信仰の対象であり、ハクサンと呼ぶのが通称であった。ハクサンといえば、中世以来の白山神人の活躍がめざましく、全国各地に白山神社を作り上げた。」
「ところが白山をシラヤマとよぶ地域が点在する。(中略)社伝では、白山の神は菊理媛という女神だが、古くは陰陽二神であったという宮司の話がある(柳田国男『妹の力』)。このことは文献上にも明確に「日域男女之元神也」(『白山縁起』)の記事があって、その説を裏づけている。建武の頃にしたためられた起請文に男女神の御影を写したものがあるというから、白山=男女神の信仰はある段階までかなり普遍的な信仰だったろう。
 ところが女神・菊理媛に注目すると、この女神は『日本書紀』神代巻に出てくる神格で、イザナギがイザナミに追われ、泉平坂で禊祓をする際に独特な出現をした。すなわち「是時菊理神媛亦有白事」と書かれている。
 折口信夫は、菊理は泳り、つまりククリで泳ぐこと、すなわち水中に入って禊ぎをすることだといい、白事は申すこと、つまり託言するわけだから、この際菊理媛は禊ぎを促すように述べたのだと解している(早川孝太郎『花祭』跋文)。(中略)いずれにせよ巫女の託宣を象徴的に表現したと思われる。そうした場に設定されたシラヤマとは、当然清浄な霊地であることが前提だった。
 最初の白山登山者であったという泰澄が登拝して行く過程で、天女の現われる夢をみるが、そのなかで「此地大徳之母産穢之所也、非結界之地」(『元亨釈書』)という託言を聞き、さらに登捗をきわめていった、とある。いわば聖俗の境界を指示したものと思われるが、結界との境を産穢の地と記した点に興味がある。産の穢れを白不浄と称する古語があり、シラをそこに表現させていることがあるからだ。」
「女神が祀られ、そこに祓い清める観念があって、その上にシラヤマが成り立っていることがわかる。そこで加賀白山以外に、シラヤマを名のる山岳がまだ多く存在していることが興味ある問題なのだ。」
「このことは同時に、東日本の被差別部落にかならず見られたという白山神社の位置づけと係わってくるものと予想している。部落の白山はハクサンとよぶのではなくシラヤマとよび、加賀白山とは直接的な関係がかならずしも明確でないことが注目されるからである。」



「シラと稲霊」より:

「しかしオシラは白神と書かれること、この白神は白山信仰と関連することが、イタコの唱える祭文からうかがえることは明らかであり、この点からの考察もする必要がある。つまり蚕神の機能が起こる以前に、白山=シラヤマ信仰と密接につながった名称ではなかったかということである。
 オシラ様と白山信仰の関連については、一つに加賀の白山と称される名山とのかかわりが問題となる。越(こし)の白山(しらやま)として古代以来、歌人たちによってよまれてきた白山は、中世に白山修験を称する山岳修行者たちの宣伝する山であり、東日本に勢威を誇った名山だった。」
「この山の祭神は菊理媛(くくりひめ)といった女神であり、『日本書紀』にはイザナミノ命に追いかけられて、泉平坂(よもつひらさか)を越えたイザナギノ命の前に出現して、白事(しれごと)をした神である。白事というのは意味深長なことばだが、つまり何か申しのべたのである。その内容は折口信夫の解釈によれば、菊理=ククリは泳ぐことを意味するから、たぶん禊祓(みそぎはらい)をすすめたのだろうとする。すなわち汚れた世界からもどったイザナギノ命が、清浄な身体に生まれ代ったことを象徴するのではないかと思われる。菊理媛が清浄になることを体現する神格であるとすれば、それを祭神とする白山信仰の性格も予想されるだろう。実際白山神は産穢をきらったという。白不浄は産の穢れであるが、シラ山の神がシラの忌みをもつことは当然である。これは逆に、シラ山が出産とか誕生に関係する、隠された意味をもっていたことをも暗示するだろう。」

「最後にシラと稲霊信仰を考える上で、重要な事例をあげておきたい。それは愛知県北設楽郡で安政二年(一八五五)まで行なわれていたという、神楽の中の行事の白山(しらやま)という儀礼である。これの変型の一つが、民俗学者早川孝太郎によってまとめられた代表的な民俗芸能である花祭りであった。」
「白山は方形をした白色の建物であった。早川の報告によれば、高さ約三間から三間半、大きさは二間から二間半四方で屋根はない。壁はすべて青柴を束ねてふいてあり、その表面をさらに白色の御幣でおおっている。そしてその建物の一角から白い布でつつまれた橋が、一直線に突き出ている。(中略)夕刻白装束の男女が神主の案内でたいまつを先頭に橋を渡って、白色の白山の中に入って行く。中へ入った人々はその夜じーっと中で坐っている。つまりお籠りをしているわけだ。やがて明け方近くになって、飯と茶が供せられる段階で、一方で夜を徹して舞い踊っていた鬼たちが、白山の扉を打ち破って乱入してくる。白山に籠っていた人々の周囲を乱舞して、中央から吊り下がっている梵天(ぼんてん)をバッサリ切り落とすのである。(中略)これが終わって人々は白山からようやく出てくるのだが、その時見物していた老婆が、現われた人たちをさして「ほら見よあんなに多勢赤ん坊が出たに」とささやいていたと記録されている(早川孝太郎『花祭』)。つまりこの老婆のことばは、白山に入って出てくることを、人間の誕生になぞらえていることを意味する。そして生まれてきた人々を神子(かんご)と称したという。」



「終末観と世直し」より:

「大洪水は山津波、川津波を起こし、世界を泥海に化してしまう。それは自然界の破局であり、終末を予測させる光景となる。」
「天理教の開祖中山みきの「おふでさき」には、泥海で象徴される世界観が秘められている。」
「天理教の考える原初的な世界は泥海であり、そこにうをとみがおり、それを引き出し夫婦を始めた。そもそもこの世の原初は泥海であり、どじょうばかりが泳いでいたが、そこにうをとみが混っていて、よく見ると、人間の顔をしている。これらがやがて人間創造につながって行くというものであって、天理教の世界観の基本構造をなすものといえる。ここでいう泥海は終末でなくて原初であり、そこから世界の立直しが開始する。世界のはじまりと終わりは宗教意識の中において同一の情況を呈するのである。
  土左衛門に君はなるへし千代よろず 万代すきて泥の海にて (『耳袋』巻五)
 この何の変哲もない狂歌は、たまたま江戸の市井で作られたもので作者不明である。だが、はるか末世に泥海の訪れることをほのめかす終末観がうかがえる。ここで泥の海になったあかつきに、また新たなる世界が現出するのだろうか。」



「民間信仰における世直し」より:

「大地震が起こった時、明治生まれの老人が唱える唱言にどんなものがあるか気を付けて聞書きしたことがある。福井県舞鶴市に住む友人の祖母は、その際「世直り世直り」と唱えたという。関東では「万歳楽万歳楽」というそうである。地震に際しての唱え言で「世直り世直り」というのは、大阪・京都を中心とした西日本の各地にかつては普遍的であった。関東の唱え言との差異については十分説明できないが、万歳楽は文字通り年頭の寿詞をうたう雅楽であり、いずれにせよ目出度い詞である。世直りも明らかに年の改まりを意味するのであるから、そういう内容の唱え言の対象となった地震に対する観念こそ考えられねばならない。地震は、大地の坤軸を破壊し、世界を泥海に化してしまう。あたかもこの世の終末が来たかのように人々は感じた。(中略)地震を世直りととらえるのは、漠然としてはいるが、一種の終末観を前提に成り立っている。」


「大師信仰と日本人」より:

「弘法大師伝説のモチーフは、大師が諸国を巡遊し、村人たちにさまざまな奇蹟をなした、いわゆる不思議の旅人についての物語を中心とする。この話の内容をいくつか分類していこう。第一にあげられるものは、一般に大師講とよばれる習俗についてその由来とされる伝説である。これは東日本に多く、また降雪地帯に濃厚だといわれる。旧十一月二十三日前後は、もう真冬で雪も降る。とりわけ二十三日の夜にはかならず雪が降ると伝えている。そしてこの日の雪をでんぼ隠しの雪という。または跡隠しとかすりこぎ隠しなどともいっている。そのいわれはこうだ。むかし一人の貧しい老婆の家に、二十三夜の晩、弘法大師が訪ねてきた。戸をたたいて食物を乞うたが、なにぶん貧しいこととて家には何もない。そこで悪いこととは知りつつも、そっと隣りの家の田へ行って、掛稲の穂を五、六本盗んでくる。または畑から大根を引抜いてくる。大師はその気持を汲んで、雪を降らせて、その老女がつけた足跡を隠してやったのだという。類話の筋はほぼ定まっているが、貧しい老女は足はすりこぎのようで指のない片輪なのだともいう。片輪の足跡がつけば、すぐ老婆の盗みだと知れてしまうから、大師は雪を降らせてしまったとする場合もある。
 また別に大師がちんばまたはでんぼ(引用者注「ちんば」「でんぼ」に傍点)であったという話もある。大師が自分で田畑に入り、その足跡を人に見せないように雪を降らせたのだということになっている。霜月二十三夜に来訪する大師が片足であったということは、すこぶる暗示に富むものだろう。」

「大師は大子と書き、オオイゴと言ったとは柳田国男の卓抜な仮説である。オオイゴは神の長男、神の御子であり、尊いお方なのだ。「乃ちこの日は若々しい神の御子が、親しく人界を訪れたまふ日だと、解して居た者がかつては多かつたのである」(「七島正月の問題」)と柳田は記している。だから二十三日の夜は、人は眠らず、ひたすら大子=大師の訪れを待って、家の中にとじこもる、つまり夜籠りをしたのだろうということになる。そしてその夜に雪が降る、しかも、雪はしとしとと降るのではなく、一般に強風を伴なった。大師講吹(だいしこぶ)きと呼ばれてもいる。降雪地帯で、とりわけ北海に面していれば、冬には、風雪の強い日々がかならずある。霜月二十三夜前後にそれが集中するのは、自然の摂理でもあろうか。信仰的に解釈すると、風が強い時は神送りの時節と一致している。神無月の始めと終わり、すなわち出雲へ神々が参集して、ふたたび各地へ還る朔日と晦日には、きまって出雲の方角に向かい、あるいは出雲の方角から大きな風が吹きまくるという言い伝えは、北海に面した地域には多いのである。大師講吹きと称して、強風がその日に吹くということは、そうした神送りを予測させるものだ。強風は神の出現の兆しと受取れるだろう。そして雪が降るということについても、跡隠しを強めた言い方をするのは、一種の教訓譚として説かれたためだろうとするのが妥当だ。雪が降るのは、来臨した神の証しとしての役割がある。出現した証拠に片足の足跡が雪上に発見されるかも知れない。不具であることは、人間とは異質の非日常的な実在を示唆する。だから片足が認められるのが望ましいことであり、跡隠しの雪などとすると説明したのは、伝説の合理化に他ならない。」









こちらもご参照ください:

宮田登 『ケガレの民俗誌』
早川孝太郎 『花祭』 (講談社学術文庫)
種村季弘 『畸形の神』
W. G. Sebald 『Vertigo』 Translated by Michael Hulse (Vintage Books)












































スポンサーサイト



吉野裕子 『日本人の死生観 ― 蛇信仰の視座から』 (講談社現代新書)

「人間は本来、蛇であるゆえに祖霊蛇の領する他界から来て、他界に帰すべきものであって、その生誕は蛇から人への変身であり、死は人から蛇への変身である。」
(吉野裕子 『日本人の死生観』 より)


吉野裕子 
『日本人の死生観
― 蛇信仰の視座から』
 
講談社現代新書 675 


講談社 
1982年12月20日 第1刷発行
1989年6月16日 第2刷発行
181p 
新書判 並装 カバー
定価490円(本体476円)
装幀: 杉浦康平+海保透
カバー・イラスト: 渡辺富士雄



本文中図版(モノクロ)24点、図表4点。章扉図版(モノクロ)6点。



吉野裕子 日本人の死生観



カバー文:

「縄文土偶の女性神の頭には、蛇が巻きつけられている。
逞(たくま)しい生命力と、“新生”への脱皮の神秘性ゆえに、蛇は、
古代日本人の畏敬の対象であった。蛇信仰のなかで、
彼らは生と死をどうとらえてきたのか。
現世の背後には、広大にひろがる
他界があり、蛇こそ他界を領する主=祖神
であった。人は他界から来て他界に還る。誕生とは、
蛇から人への、死とは、人から蛇への変身であった。
本書は、日本人の祖神を蛇に求めて産屋、産育習俗など、
生に関わる民俗、喪屋、殯(もがり)、葬送の儀礼など
死に関わる風俗から、独自の死生観を展開する。」



カバーそで文:

「産屋私見――人間の形をしている蛇は、豊玉姫に限らない。
人間の女はすべて、仮に人間の形をしている蛇である。
豊玉姫が子を産むとき、もとの蛇の姿にかえるならば、
女はすべてその産のときには、蛇体になるのである。
おそらくそのときには、祖先神の蛇の来臨を仰ぎ、
その力を借りて蛇体に化(な)るとされたものと思われる。
蛇が産む子は、当然蛇であろう。蛇が蛇を産む仮屋は、
これもまた、蛇の胎(はら)を象どる形である円錐形の小屋が
ふさわしいとされたにちがいない。トグロを巻く蛇を象どる
円錐形の小屋の内側に、蛇の体内のイメージを、
古代日本人はもったのである。
――本書より」



目次:



第一章 日本人の蛇信仰
 人間と蛇
 世界の民族における蛇信仰
 日本における蛇信仰の発展
 樹木と蛇
 山と蛇
 家屋と蛇
 蛇の古名――神は蛇身(カミ)か
 日本人の死生観へ

第二章 産屋――蛇から人へ
 神話にあらわれる産屋
 神話の産屋を考える
 産屋の特質
 産屋私見
 蛇から人へ
 ボロをまとう新生児
 蛇から人への変身呪術――三日衣裳(みっかいしょう)
 二種類の産着
 ボロと晴着の意味するもの
 南西諸島の満産行事
 蟹(かに)と蛇
 カカン
 ヒアケ
 カンダチイハヒとカミタレ
 変身の成就
 鉄漿(かね)つけ・菖蒲湯(しょうぶゆ)の民俗と蛇

第三章 喪屋――人から蛇へ
 喪屋(もや)と殯(もがり)
 なぜ喪屋がつくられるのか
 「モガリ」の意味
 浄化される死者
 非情の宗教行事として
 骨神(ふにしん)
 四十九日餅
 葬いと歌舞
 破壊される喪屋
 喪屋の位置
 死衣考
 葬送人と白布
 葬送の民俗から

第四章 箒神と荒神
 変身の呪物としての箒神
 生と箒
 古典に登場する箒
 死と箒
 葬列のなかの箒と蛇
 伊勢神宮のハハキ神
 箒と蒲葵
 朴(ほお)の木――生死往来の呪物
 他界の主としての荒神
 アラハバキ・門客人社・荒神社
 アラハバキから荒神へ
 ニソの杜(もり)
 他界としての荒神の森
 荒神と出産・新生児・子供
 荒神神楽(こうじんかぐら)
 荒神神楽の要点
 松の能
 箒神と荒神と他界と

第五章 他界と方位――出雲と伊勢
 太陽と蛇
 陰陽二元と出雲
 死の完成
 イザナミの死と変身
 光の源泉としての蛇の目
 タケミカツチの本質
 イザナミと蛇――比婆山の伝承から
 佐太神社の古伝祭
 イザナミノ命の死と蛇
 事代主命(ことしろぬしのみこと)の死
 古伝祭・青柴垣神事(あおふしがきしんじ)
 鎮祭の成就
 他界としての紀州熊野
 熊野の位置
 東方他界・伊勢
 伊勢大神の実像
 栲幡皇女(たくはたのひめみこ)伝承
 聖地伊勢の原型

第六章 古代日本人の死生観
 古代日本人と他界
 足名椎(あしなづち)・手名椎(てなづち)
 櫛名田姫(くしなだひめ)の実像
 スサノオノ命の結婚
 ニニギノ命と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
 「生」と結合する海中他界
 「生」と結合する地底他界
 現世にもちこまれている他界
 真正の他界の主
 世界蛇ナーガ
 古代日本人の死生観
 ケ・ケガレ・ミソギ・ハラヒ・ハレ私見
 真正の宗教行事として

あとがき




◆本書より◆


「序」より:

「他界とは本来、見ることも手にふれることもできない、現世とは次元を異にする世界である。ここにいう他界とは、此の世に対する彼の世、つまり死後のみでなく、前世もふくめた他界である。」
「古代人の常として、他界にはそこを領する主(ぬし)が想定された。その主は彼らの祖先神であったが、このばあい、その的(まと)は彼らが何を祖先神としてとらえ、それをいかに信仰したかにしぼられる。
 古代日本人が信仰したのは、世界各民族に共通する祖霊としての蛇であって、縄文(じょうもん)中期の土器土偶に見られるあらあらしく自由奔放(ほんぽう)に躍動(やくどう)する蛇の造型から、容易にそれを想像できるのである。」
「現世の背後に広大にひろがっているのが他界であり、現世はこの他界の投影にすぎない。他界の主が巨大な蛇であって、その分化が現世のさまざまな蛇となっているために、現世に蛇があふれるのである。現世にあふれる蛇は、つぎの三種にわけられる。
(1)祖霊の姿そのものの現実の生きた蛇。
(2)蛇に見立てられる樹木、山、家屋など。
(3)仮(かり)に人間の姿になっている蛇。
 人間とは、この三番目にあげた「仮に人の姿となっている蛇」であって、現世にあふれる蛇の一種なのである。人間は本来、蛇であるゆえに祖霊蛇の領する他界から来て、他界に帰すべきものであって、その生誕は蛇から人への変身であり、死は人から蛇への変身である。」
「本書の構成は、第一章を世界原始信仰における「蛇」の考察にあて、第二・三章を「産屋」「喪屋」とし、第四章は他界の祖霊の象徴として、産屋と喪屋を結ぶ生と死の軸上を往来する「箒神(ははきがみ)」と、その箒神から派生しながら、この現世においてあたかも祖霊にまで昇華しているかに見える「荒神(こうじん)」をあつかい、第五・六章の、他界の種々相に終わるのである。
 私見によれば、日本神道とは、このしたたかな蛇信仰のうえに、六・七世紀の頃から盛行した中国哲学の陰陽五行(いんようごぎょう)の理、あるいは道教の信仰などが厚く積みかさねられてなりたっている。」
「日本神道の底流をなす原始信仰の蛇については、その後の既著『蛇』(法政大学出版局)で考察した。しかし本書では、さらにもう一皮も二皮も剝(む)いて、赤裸々(せきらら)な蛇信仰の姿の提示に努めたつもりである。」



「第二章 産屋――蛇から人へ」より:

「古代日本人は、蛇を祖先神として信仰した。祖先が蛇であるならば、その子孫も当然、蛇のはずである。人間の本体は蛇なのである。これを裏がえせば、人間は仮に人間の形をとっている蛇にすぎない、ということになる。」

「蛇は、祖神ではあっても、人間にとってあまり気分のいいものではない。忌(い)むべきものでもあった。また他界の主である蛇が、この現世に長くとどまってよいわけのものでは、けっしてなかったはずである。そこで神は、産の直前にきて、産婦の蛇への変身をたすけ、蛇の子を安産させると、なるべく早くその本貫、他界に帰るべきものとされた。
 祖神の蛇を象る呪物でもある産屋、すなわち蛇屋は、このような理由によって、一人あて一戸の産屋が必要とされ、同時に産の直前にたてられ、用済みの時点で壊却、あるいは焼却されたのである。
 産屋に限らず、日本の神迎え、神送りの祭屋は、すべて祖神の蛇の姿の造型物であって、他界から迎えられた神は、祭りや諸行事の終了と同時に、はやばやとこの世から他界に向かって、送り出される習いであった。」

「新生児の方向は死者と反対に、霊界から現世の人間界にくるものである。祖霊が蛇ならば、その霊界からくる新生児は当然蛇である。しかし、人間界にくる以上は、人間に化(な)る必要がある。産屋のなかの新生児に課される呪術の多くは、その蛇から人への変身のためのものなのである。
 蛇から人に変身したものが新生児であるならば、成人もまた同様に、その前身は蛇であった。たとえ「神立(かんだ)ち」「神垂(かみた)り」で蛇は脱落していったにせよ、常に人間の背後に潜む存在は蛇なのである。日本人は永遠に蛇から完全に離脱することはできない。」



「第三章 喪屋――人から蛇へ」より:

「人は、その肉体によって人間なのである。したがって、その肉体の崩壊・脱落は、人間喪失であるが、古代人にとって、それはけっしてマイナスではなかった。肉体の脱落、という脱皮をとげて、死者は白蛇ともいうべき白骨となり、祖霊としての蛇に化(な)る、あるいは帰一するからである。
 祖神の蛇の姿に似る喪屋は、遺体をそのなかに包みこんでいるが、肉体が崩壊し、血肉が骨から脱落しおえた時点で、一挙に破壊される。それによって脱皮の効果は、さらに確実になり、たかめられるのである。」
「先述のように、喪屋のなかで屍体が腐蝕し、その屍肉が脱落しはてたとき、のこるものは白骨である。白骨は腐らない。保存方法によっては、半永久的にものこすことができる。
 腐るべきものを腐らせ、剝落(はくらく)すべきものを剝落させる。そうしてのこったものが清浄とされるならば、最後にのこる骨はもっとも清浄、かつ神聖なものであって、骨は祖霊加入の条件を満たすものと見なされたのである。」



「第六章 古代日本人の死生観」より:

「現世における蛇は、大別すれば「人の姿をしている蛇」「蛇の形をしている蛇」に分けられる。そうして人の姿をしている蛇も、蛇の形をしている蛇も、ともにこの両者の祖としての「祖霊蛇」あるいは「世界蛇」から派生されたものである。
 派生されたものは、またそれらを派生したもののなかに統合されるべきもの、帰一するべきものである。こうして、現世に活躍する蛇神も、人間も、ついにはこの「世界蛇」に帰ってゆく。
 「世界蛇」とは宇宙意志をおこなう大元の存在であって、想像を絶する巨大さで国土を取り巻き、その派生した蛇神、および人間を支配し、あやつり、争闘させて勝敗を決し、統一をはかるなど、中央にあって静かに思念する根源的な存在である。
 この世界蛇の存在するところこそ、真正の他界のはずである。」

「要するに現世とは、世界蛇ともいうべき祖霊の領する他界の投影にすぎず、他界の主のありようを真剣に模倣してそれに近づくことが、人間にとって第一の義務とされていた。」








こちらもご参照ください:

吉野裕子 『蛇 ― 日本人の蛇信仰』 (ものと人間の文化史)
ヴァールブルク 『蛇儀礼』 三島憲一 訳 (岩波文庫)
ハンス・ヨナス 『グノーシスの宗教』 秋山さと子/入江良平 訳
『ラヴクラフト傑作集 1』 大西尹明 訳 (創元推理文庫)



 









































宮本常一 『絵巻物に見る日本庶民生活誌』 (中公新書)

「もともと日本では、この世の中にあるすべてのものに魂があり、夜半闇の中で耳を澄ますと、万象の話している声が聞こえるものだと古老たちから聞かされた。そしてそのような考え方は古くからのものであり、画家たちはそれをまた絵にした。」
(宮本常一 『絵巻物に見る日本庶民生活誌』 より)


宮本常一 
『絵巻物に見る
日本庶民生活誌』
 
中公新書 605 


中央公論新社 
1981年3月25日 初版
1999年10月15日 23版
4p+232p 
新書判 並装 カバー
定価760円+税



本書「あとがき」より:

「本書におさめた文章は中央公論社刊行の「日本絵巻大成」(全26巻別巻1巻)の月報に毎号書きつづけたものを読みかえして一通り理解できるように排列をかえ、若干補正を行なったものである。」
「その後、月報に書いたものを中心にし、その他の資料にもたよりつつ、NHK文化センターの講座で「絵巻物に見る中世民衆の生活史」と題して十回にわたって講義した。本書はそのダイジェスト版のようなものである。」



本文中に図版(モノクロ)119点。



宮本常一 絵巻物に見る日本庶民生活誌 01



カバーそで文:

「日本の絵巻物は、すぐれた美術的価値をもつばかりではない。それは時代の民衆生活を知る貴重な宝庫でもある。職人工匠の道具・小物から物商いの品々、定着農耕民から山間・海浜の民の暮らし、旅の風俗、牛馬猿などの動物たち、火を使う生活のさまざま、衣食住、笑いや哀しみなどの人びとの表情……。本書は、多年日本の庶民と日本の民俗に愛情深い眼を注ぎつづけた著者の、その事物に即して語る学風を伝える遺著となった。」


目次:

一 陽気な日本人
 物見高さ
 土下座の生活
 遊びと笑い
 働く人
 民衆の世界
 馬方たち
 貴族の家庭生活
 「福富草紙」にみる生活
 理想郷
二 人生
 産養
 民間の産養
 五十日の祝いと赤米
 裸の子供
 子供を背負う
 平安末期の用便法
 便所の起こり
 乞食たち
 信西の首
 斬首の始末
 生首の化粧
 猿の首
三 農耕
 南方につながる文化
 稲の来た道
 稲ニオ
 鳴子
 畑作と蔬菜
 植物と景観
四 人間と動物
 動物のいる風景
 馬
 馬と民衆
 牛
 猿
 ウジマチ
 皮の処理
 肉の処理
 陥穽
五 海の生活
 吉備大臣と遣唐使船
 和様と唐様の船
 筏船の系統
 櫂と櫓
 兵船と舸子
 操舟と海賊
 日本と蒙古の戦法
 家船
 網
 突魚法
 乾魚
六 工匠と民具
 工匠
 大工仕事
 結桶・結樽
 いろいろの道具
 「百鬼夜行絵巻」の民具
 五徳
 民家のたたずまい
七 旅と交易
 旅の風俗
 かつぐ、背負う、いただく
 駄馬
 店屋と見世棚
八 武士の生活
 武士と履物
 茵から座布団へ
 楯
 弓の的
九 住居
 高床式住居
 寝殿造の中
 火取香炉
 唐紙障子
 開放的な住居
 富者の家
 民衆の家
一〇 火と生活
 火鉢
 火打袋
 松明
 柱松
 篝火
 蠟燭
一一 衣生活
 冠を着ける生活
 烏帽子・袴
 風流笠
 はだし・わらじ
 あしだ・ぞうり
 くつ
 服飾としての褌
一二 飲食と生活
 酒盛り
 垸飯
 飯の無理強い
 杵と臼
 水柄杓
一三 信仰と生活
 まつりごとと貴族
 参籠
 三つ巴紋と三つ星紋
 亀卜
 百鬼夜行の世界
 夜の闇
 絵とき
 門松
 闘鶏
 印地打・菖蒲打・打毬

あとがき
図版出典・所蔵先一覧
宮本常一著作目録




◆本書より◆


「一 陽気な日本人」より:

「民衆を点景として描いた絵巻物には共通してその明るさと天衣無縫さが見られる。民衆は公家社会の秩序の外にあるものであり、度はずれた無法でないかぎり、そして公家社会の秩序を乱しさえしなければ、どこで何をしてもよかったのである。「年中行事絵巻」を見ると、宮廷の行事の行なわれているとき、民衆は庭前や軒下にたむろし、時には焚火して話しあっている。」
「どこにでも坐るということは、それほど生活が自由闊達であったといってよかったかと思う。身分の高い公家でないかぎり、地下人(じげにん)といわれる者はほとんど大地の上に坐り、また腰をおろしている。京都付近は土質が砂壌土で、土の上に坐っても着物がそれほどよごれなかったためかもしれないが、大地にあぐらをかいてこそ人びとはある安心感を持つことができたのではなかろうか。」

「公家には公家の世界があり、民衆には民衆の世界があった。そしてお互に相手の世界を侵さないように努力していたのではなかろうか。」



「二 人生」より:

「古い民衆の生活を見ていく中で見落とすことのできないのは乞食の生活である。明治以前の一般民衆の社会には乞食がきわめて多かったようである。」
「乞食は人びとから食べ物をもらうのだから、カマドもイロリも持たなかった。簡単な小屋掛けをしてそこに住んだ。」
「そうした乞食小屋の中でもっともしっかりしているのは大阪四天王寺のもので、屋根は板で葺き、壁も板、おそらく床も板張りであろう。そして四隅に車がついているから、この乞食小屋は移動することもできる。それが四天王寺の築地塀の外に並んで町並みを作っている。
 このような乞食小屋は昭和二十年ごろまで、四天王寺界隈に見ることができた。この人たちは小屋とともに移動することができた。」

「斬首は「後三年合戦絵詞」「男衾(おぶすま)三郎絵詞」「蒙古襲来絵詞」「平治物語絵詞」などに見えている。」
「信西(藤原通憲(みちのり))は後白河法皇に仕え、多芸多才の人であったが、同じく後白河法皇に愛されていた藤原信頼(のぶより)と仲が悪く、それが原因で平治の乱が起こるのであるが、信頼の謀反にいちはやく気づいた信西は従者を連れて信楽(しがらき)山中に逃れ、土中に穴を掘り、その中に生き埋めにされ、いわゆる入定した。(中略)信西はのちに信頼の味方の者に掘り出され、死体の首を斬られて獄門にかけられた。
 この絵巻には、信頼の味方、出雲前司光保(みつやす)の郎等が信楽の山中に生き埋めの地を捜して掘り起こし、その首を斬り、長刀(なぎなた)の柄にくくりつけ、光保の家に持って帰り、信頼が首実検して、さらに光保から源資経(すけつね)に渡され、獄門にかけるまでのさまがつぶさに描かれている。(中略)こういう絵を見るたびに習俗のもつ暗さの半面を思い知らされるのである。絵巻物では、このほか「後三年合戦絵詞」にも首を手にさげている武士、太刀に突きさしてかついでいる武将の姿が描かれている。」

「斬首について思い出すことがある。昭和二十八年に(中略)、鎌倉市の鶴岡八幡宮一ノ鳥居と由比ヶ浜中間の道路の東側の砂地の発掘が行なわれ、五百五十六体の人骨を得たことがあった。その中には胴体の伴っているものもあるが、頭骨だけのものも少なからずあった。とくにある箇所では頭骨だけが百六十もかたまって出てきているのである。」
「私は発掘者の談話とこの報告書をみて、いろいろ考えさせられた。その一つは頭骨に文字の書かれたものがいくつか出ていること、その二は頭に明らかに斬りつけられたと思う刀創があるものの多いこと、さらに頭骨を掩っている肉を掻き取ったらしいものが少なからず残存していることである。」
「このようにたくさんの骨が出、そのうえ刀創のあるものの多いのは、合戦に関係して死んだためと思われる。」
「これらの死体のうち頭に掻創のあるのは、おそらく敗者のしかも身分の高いものが切腹などによって自殺したあと、家族や郎党がその首を斬り、さらにその首を敵の者に拾われてもだれの首であるかをわからぬようにするための手段として、面皮を剝ぎとったときにできたものではないかと思われる。顔がわかればだれであるかがわかる。そうすると梟首にもされることになるが、面皮を剝いでおけばわからなくなる。」
「敗者のこうした身の始末のつけかたは、今日のわれわれからすると残酷のいたりのような気がするのであるが、こうした残酷さの中にいると、いつの間にかまたそういうことに不感症になって、それほど恐ろしいことではなくなってくることもあった。
 それについては、関ヶ原の合戦(一六〇〇)のとき大垣城にいたおあんという女の話を記録した『おあむ物語』に「味かたへ、とった首を、天守へあつめられて、それぞれに、札をつけて覚えおき、さいさい首におはぐろを付けて、おじゃる。それはなぜなりや。むかしはおはぐろ首はよき人とて、賞翫した。それ故、しら歯の首は、おはぐろ付けて給われと、たのまれて、おじゃったが、首もこわいものではあらない。その首どもの血くさき中に寝たことでおじゃった」とみえている。生首が女たちに賞翫されていたというのである。」

「頭骨に霊性あるいは呪性が宿っていると考えたのは人骨ばかりでない。熊や猿も同様であって、ことに猿については、中国地方の山中を歩いていると牛の駄屋の内側の柱の上部に小さい棚をつけ、そこに猿の頭骨が置かれているのを見かけることがある。牛を守るためのものであるといい、昔はほとんどの牛の駄屋にこれをまつっていたという。」




宮本常一 絵巻物に見る日本庶民生活誌 02










こちらもご参照ください:

網野善彦 『職人歌合 古典講読シリーズ』 (岩波セミナーブックス)
『特別展 鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝』 (2015年)
『図説 百鬼夜行絵巻を読む』 (ふくろうの本)
五味文彦 『梁塵秘抄のうたと絵』 (文春新書)
『平治物語』 岸谷誠一 校訂 (岩波文庫)
『雑兵物語・おあむ物語 (附)おきく物語』 中村通夫・湯沢幸吉郎 校訂 (岩波文庫)
森洋子 『ブリューゲルの諺の世界』
阿部謹也 『中世を旅する人びと ― ヨーロッパ庶民生活点描』












































































村山修一 『日本陰陽道史話』 (朝日カルチャーブックス)

「以上みてきますと、方術士はおおむね野人として活動し、時局に批判的な人が多く、たとえ官に用いられても権力者に屈しない反骨的精神がありました。政局不安な時勢は彼らの立場にむしろ有利に働いたようでした。」
(村山修一 『日本陰陽道史話』 「後漢の陰陽家方術士たち」 より)


村山修一 
『日本陰陽道史話』
 
朝日カルチャーブックス 71 


大阪書籍
1987年2月20日 第1刷発行
4p+255p
四六判 並装 カバー
定価1,200円
装幀: 山本耕三



本書「あとがき」より:

「本書は、朝日カルチャーセンター〈大阪〉における講座「日本陰陽道の歴史」で、昭和六十一年一月から六月まで十回にわたり、お話しいたしましたものをもとにしてこれに手を加え、説明の不充分なところ、時間の関係で省略したところを補い、新しい原稿として書き下ろしたものであります。(中略)本書は易の卦や卜占の解説が目的でなく、日本の歴史がいかに陰陽道と深く結びついて今日に至ったか、いいかえれば陰陽道を通して日本の文化を主とした歴史の歩みを理解しようとしたものです。
 数年前、著者は『日本陰陽道史総説』を世に送りましたが、これは学術的な形で書かれたものでありましたので、今回の講座はその中から一般に興味あるトピックを選び出し、それらをいっそうわかりやすく叙述したばかりでなく、その後えられた新しい知見をも至るところに挿入して前著にみられない斬新味を出したつもりであります。」



本文中図(モノクロ)12点。
本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで551円(送料込)で売られていたのを注文したおいたのが届いたのでよんでみました。本書はのちに平凡社ライブラリー版(2001年9月)として再刊されています。



村山修一 日本陰陽道史話



カバー文:

「古代中国で発生した
陰陽道すなわち易は、
神祇信仰や仏教と習合しつつ、
日本の政治・社会・学問・芸術
など多方面に影響を与え、
ひいては一般民衆の日常生活
にまで深く浸透した。
その結果、現代日本人の間に
いまなお根強い伝統的意識
となって生き続けている。
こうした陰陽道の
日本独自の発展をとおして、
日本歴史の流れを
改めて眺め直す。」




目次:

第一章 陰陽道の起源と日本への伝来
 陰陽道の発生
 中国古代の君主と革命思想
 後漢の陰陽家方術士たち
 後漢以降の陰陽道の新展開
 陰陽道の日本伝来と聖徳太子の政治的受容
 飛鳥時代の陰陽道的諸信仰
 人名と星の信仰

第二章 瑞祥と災異
 律令制の理念と陰陽道
 天武天皇と陰陽寮官制
 白鳳奈良朝期の瑞祥と改元
 平安初期における災異思想の横行
 災異改元の流行
 院政ならびに幕政下の改元
 元号に選ばれた文字

第三章 神仙と冥府
 中国の二大思想・信仰
 泰山と蓬莱山
 西嶽真人と西王母
 冥府冥官の信仰
 日本霊異記に見えた冥土観、その一
 日本霊異記に見えた冥土観、その二
 日本霊異記に見えた冥土観、その三
 日本霊異記に見えた冥土観、その四
 泰山府君の祭りと都状
 吉野金峯山地方の神仙郷
 神仙思想の日本的展開

第四章 王朝貴族と陰陽道の名人たち
 平安初期の陰陽家
 陰陽道宗家の登場
 安倍晴明にまつわる数々の奇譚
 祇園社と吉備真備
 泣不動の霊験談と名人揃
 具注暦と物忌
 様々の方忌
 白河上皇と大江匡房

第五章 易に心酔した政治家
 奈良朝の陰陽家
 藤原頼長の周易研究
 藤原通憲の学才と自己卜占
 頼長の易者的活動
 政界の推移と頼長の政治的窮迫
 保元の乱における勝敗の岐路
 平治の乱と通憲の自滅
 通憲の首にまつわる怪談

第六章 栄枯盛衰の世と予兆思想
 変革期の思想の流れ
 平清盛の信仰と陰陽道
 天文の変と蚩尤旗の出現
 安徳天皇御誕生にまつわる予兆思想
 時局急転と凶兆の連続
 平氏の没落と陰陽道
 指神子といわれた安倍泰親
 陰陽寮の鐘

第七章 山伏と陰陽道
 役小角の活動と呪禁道
 葛城山系の神仙化と一言主神の信仰
 広足の没落と小角の密教化
 熊野大峯修験の陰陽道的思想
 修験者の呪符
 修験者の方術・奇術
 山伏神楽

第八章 密教と陰陽道
 宿曜道の伝来と奈良朝の宿曜師
 空海の宿曜道経典請来
 真言密教の請雨経法
 真言密教の星曼荼羅
 真言密教の星供祭文
 六字河臨法
 牛頭天王の信仰と縁起
 簠簋内伝と日本的宿曜道の成立
 牛頭天王の形相

第九章 鎌倉武士と陰陽道
 武家の顕密仏教受容
 源頼朝の挙兵と祈願行事
 将軍実朝の時代の陰陽道
 実朝暗殺の凶兆
 承久の乱前後の陰陽師
 陰陽祭の規模の拡大
 宿曜師の活躍と将軍の方違え
 七瀬祓と疫病に対する陰陽道的呪法
 陰陽師惟宗氏
 将軍の交代と陰陽師・宿曜師の活動
 平氏出身の宿曜師
 陰陽祭の種類
 民間流布の俗信と武家故実化

第十章 宮廷陰陽道の没落と民間陰陽道の発展
 室町初頭の陰陽師の活動
 将軍義持・義教時代の陰陽道
 擢暦座の出現
 賀茂氏本流の断絶
 土御門家の没落とその所領
 近世陰陽道宗家の復興
 山科言継と民間宿曜師
 声聞師の活動と竈神信仰
 中国の竈神と日本の荒神
 中国の庚申信仰
 庚申信仰の日本伝来と平安・鎌倉期における展開
 庚申講・庚申石塔の出現
 庚申縁起の成立
 庚申講の食事と庚申信仰の神祇化
 庚申信仰の本質と日待月待の影響
 七福神信仰

あとがき




◆本書より◆


第一章より:

「後漢を滅ぼした黄巾(こうきん)の徒は、太平道と呼ばれる宗教結社の人々が黄色い頭巾をつけたためにつけられた名称で、黄色が漢王朝に代るべき色とされたのでありました。黄巾の徒の指導者張角は、黄老道すなわち黄帝と老子をまつりました。」
「後漢のあと魏・晋(しん)・南北朝の兵乱期はますます陰陽家、方術士の暗躍舞台となり、政治家は図讖にたより、卜占にふりまわされました。」
「一方、西晋より東晋に続く四世紀には、呪術的な密教経典やインドの天文に関係ある『舎頭諫太子二十八宿経』が訳出され、密教と陰陽道は呪術的な思想や方術を通じて結びつき、ここに宿曜道(すくようどう)という特殊な分野を生み出すことになりました。これが日本でも平安朝以降、密教の盛行にともなって、思想・信仰の世界を風靡(ふうび)するに至るのであります。」

「陰陽道の大陸から日本への伝来についての最も古い記録は『日本書紀』継体天皇七年(五一三)七月、百済から五経博士段楊爾(だんようじ)が学者人材として献上され、同十年九月、五経博士漢の高安茂と交代したとあるものです。五経には『易経』が含まれていますから、これはわが朝廷に正式に易が伝えられたことを意味します。欽明朝(五三九―五七一)には百済から新たに五経博士のほか、易博士・暦博士が来朝し、推古朝には十年(六〇二)、百済僧観勒(かんろく)が暦本をはじめ天文・地理書や遁甲・方術書を携えて来て朝廷に献上しました。朝廷では陽胡史(やこのふびと)の祖玉陳(たまふる)に暦法を、大友村主(すぐり)高聡に天文と遁甲を、山背臣日立(やましろのおみひたて)に方術を学ばせ、それぞれの分野の専門家になりました。これらの人々には大陸からの渡来者が多かったと思われ、大友高聡は近江国滋賀郡大友郷の帰化氏族出身であり、後世、甲賀武士五十三家の中に大友(大伴)の一族、伴氏が出たのは甲賀忍術が遁甲に発したことを物語っているのでしょう。遁甲は陰陽の変化に応じてその身を隠し、吉をとり凶を避ける方術で、軍事や政治に必要とされたものでした。
 このように僧侶が伝えたところから、陰陽道は学問・技術中心よりも著しく宗教色のかかったものとして、本来、呪術的宗教になじんできた日本人にマッチした形で受け入れられました。(中略)僧旻(みん)は聖徳太子の命をうけて直接唐に留学者として赴き、最も新しい陰陽道を学んで帰り、中臣鎌足や蘇我入鹿など知識人に伝えました。仏教信仰の受容には崇仏排仏の政治対立まで起した日本人も、陰陽道そのものには目立った抵抗を示しませんでした。」
「その後、崇仏派が勝利を得るに及んで、陰陽道は新しい政治体制の権威づけや理論づけにも積極的な役目を担うことになったのであります。聖徳太子はすぐれた仏教の理解者である反面、陰陽道でもそれに劣らぬ精通者でありまして、冠位十二階、憲法十七条の制定、国史編纂をとおして陰陽五行説・讖緯(しんい)説をわが政治理念に深く導入されました。冠位十二階の序列は儒教の徳仁義礼智信でなく、『管子』の五行説による徳仁礼信義智であり、服装類に関しても五行に配当された色をもって各階級の冠の色が定められました。(中略)これは陰陽五行を調和し、妖変を去り、祥福を招くためでありまして、十二階の十二は天帝のいる太一星をとりまく十二の衛星を意味したと思われます。妖変、すなわち不吉の予兆には服妖(ふくよう)・詩妖など様々のものがあり、服妖は衣服にあらわれた凶兆で、不吉な色彩模様や奇異な服飾の流行がそれです。詩妖は民間に流行した童謡・歌謡に不吉な意味を含めた言辞があらわれることで、これらの妖はすべて君主の背徳から生ずるのであります。奇怪な童謡は、聖徳太子の死後より大化改新の頃にかけて『日本書紀』にいくつかのせられています。三輪山の猿が歌った話もあります。服妖については、美的感覚に鋭敏な平安朝宮廷人の間でも強い関心がもたれたのでありまして、三善清行(みよしきよゆき)が深紅色の衣服の流行は火災の頻繁に関係があるとしてこの色の衣の着用禁止を朝廷に進言したほどです。」

「平安朝には北斗七星の信仰も盛んになりました。中国で偽作された『仏説北斗七星延命経』も知られていて、人は生れると七星のいずれかに所属するので、その本命の星をまつる属星祭が盛んになりました。すなわち子歳生れの人は貪狼星、丑寅生れの人は巨門(こもん)星、寅戌生れの人は禄存星、卯酉生れの人は文曲(もんごく)星、辰申生れの人は廉貞(れんじょう)星、巳未生れの人は武曲(むごく)星、午生れの人は破軍星をまつるわけです。この北斗七星は日月五星の精とされ、七曜を統(す)べ善悪を司り禍福を頒(わか)つものであり、人がこれを礼拝すれば長寿富貴が得られ、罪業を除き、一切の願望が叶えられるとされました。」



第四章より:

「暦の上で最も興味を惹(ひ)くのは物忌(ものいみ)でありましょう。物忌はわが固有の信仰としても古くからあり、一定の期間、外部との交渉を遮断して閉じ籠り、その結果、清浄な身になり、神事を勤めるもので、物忌をすることにより、新たに清浄な人間として生れ代ることを意味します。その閉じ籠るために頭からひっかぶる布団のようなものが真床襲衾(まどこおふすま)で、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高千穂(たかちほ)峯に天降(あまくだ)られたとき、この中に入っておられたのでした。物忌中にたくさんの霊魂(spirit)を身につけて、身体の再生復活が行われます。これが鎮魂の儀であり、増殖する霊魂を「みたまのふゆ」といいました。これが冬祭りの原義とされています。かような素地があって陰陽道の物忌がとりいれられました。これには祟る霊や神の存在が考えられ、暦日や方位も祟りの条件に入ります。それらの条件によってあらかじめ物忌がきまっている場合もあり、物怪(もののけ)や夢見の前兆を知って初めて物忌がきまる場合もあります。軽き物忌、固き物忌、重き物忌と様々の程度の物忌があります。」
「物忌の期間は一日で済むこともあれば三、四日にわたることも珍しくなく、半月以上に及ぶ場合もみられます。」
「物忌中は写経・読経のほか、詩歌に興じ、法要・講会を催し、管絃を楽しむことなどに宛てられましたが、例えば内裏火事など緊急事態が発生すれば、物忌を破って外出することもありました。」



第八章より:

「陰陽道の密教への進出として、もう一つ見逃せないのは祇園社の牛頭天王信仰との習合であります。ここから生れた宿曜道は修験者の手によって民間に流布し、陰陽道の民衆化に大きく貢献したのでした。祇園社の祭神は牛頭天王とその妃婆梨采女と子の八王子で、平安中期、南都興福寺の密教僧円如がまつったものといわれ、本来はチベットの牛頭山の神で、山に生えている栴檀(せんだん)は熱病や火傷・刀傷に効ありとせられ、その神は疫神として信仰され、仏教と習合して日本にもたらされました。日本ではこれが陰陽道の影響を受け、星宿神に変り、宿曜道の中心的な神としてあがめられることになったのです。
 そもそも祇園社に平安末、中世初め頃に牛頭天王縁起が作られ、外来の疫神の日本化が試みられました。その内容のあらましを申し上げましょう。むかし北海に住む武塔天神(牛頭天王)が、南海の神の娘を妻に迎えようと出かけられました。途中日が暮れ、宿を探されました。ときに将来と呼ぶ兄弟の家が二軒あり、弟の巨旦将来は富裕で屋倉一百あり、この方に天神が宿を乞われると惜しんで断られた。つぎに兄の蘇民将来は貧しかったが快く宿を貸された。しかし貧乏なので粟柄(あわがら)を座布団とし、粟飯を御馳走しました。天神は大いに喜び、南海に赴き八人の子をもうけて帰ってこられた際、蘇民将来の家に立ち寄り宿を借りた礼がしたい。ついてはお前の家に家族はどれぐらいおるかときかれました。蘇民将来が妻と娘の二人であると答えると、天神は家族皆に、腰の上に茅輪をつけよといわれ、そのとおりすると、その夜、蘇民の家の者を除いて弟の巨旦将来その他の家の人々をことごとく殺してしまいました。そして言われるには、われは素戔嗚(すさのお)尊である。今後、疫病が流行すれば蘇民将来の子孫といって茅輪を腰の上につけた人々だけは死なずに済むだろうと。
 大体以上の筋ですが、ここでは武塔天神は素戔嗚尊と同一にされ、牛頭天王の疫病信仰を日本人になじみやすいように変化させられています。わが国古来の疫病信仰では穢れを負わせて追却し、あるいは流し去るものとして人形がつくられましたので、これを神格化した疫神は「追却される神」として信仰の対象になり、古典神話で高天原を追放された素戔嗚尊がこれにふさわしいものとして結びつけられました。茅輪はチガヤをたばねて円形の輪にしたもので、(中略)穢れを攘う呪物であります。」



第九章より:

「宿曜師の星祭りで特異なのは羅睺・計都の二星です。嘉禎元年(一二三五)大仏師康定に命じて、一尺六寸の薬師像千体、忿怒形で青牛に乗り、左右の手に日月を捧げる姿の羅睺星神像、忿怒形で竜に乗り、左手に日、右手に月を捧げる姿の計都星神像、禄在存星および本命星、薬師像各一体を造立し、陰陽師文元が計都星祭を勤めました。これは頼経の病気のため一連の祈禱行事につながるもので、羅睺・計都はいわゆる蝕神(日蝕・月蝕を起させる神)といい、災厄の神として怖れられるのであります。」

「さて、これまで各種陰陽道の祭りの名称が出てまいりましたが、ここで上記の『吾妻鏡』から何種類のものがあるか、総括的に拾い上げてみますと、およそ四十八種に上り、これをごく大まかに四つの部類分けにして示しますと、つぎのようになります。
 (一) 泰山府君祭 鬼気祭 天曹地府祭 三万六千神祭 百怪祭 呪咀祭 霊気祭 招魂祭 鷺祭 痢病祭 疫神祭
 (二) 天地災変祭 属星祭 歳星祭 太白星祭 熒惑星祭 大将軍祭 日曜祭 月曜祭 地震祭 塡星祭 代厄祭 羅睺星祭 大歳八神祭 土曜祭 木曜祭 計都星祭 北斗祭 水曜祭 夢祭
 (三) 土公祭 宅鎮祭 石鎮祭 防解火災祭 堂鎮祭 厩鎮祭 西巌真人祭 十二星祭 大鎮祭り 拝謝祭 竈祭
 (四) 四角四堺祭 七瀬祓 風伯祭 井霊祭 雷神祭 霊気道断祭 霊所祭 五竜祭
(一)は病気その他、身体に関しての祈願祭、(二)は星宿信仰に関しての天変地異の祈願祭、(三)は建物の安全祈願祭、(四)は祓いに関しての神祇の作法に近いものです。」
「しかし、陰陽道の祭りは実際には上掲の四十八種には止まりません。鎌倉時代、陰陽師賀茂在言が編集したとみられる『文肝抄』では百四十九種が挙げられています。もっともこの本は、残念ながら早く散逸(さんいつ)して後半部しか遺らず、その部分だけをみますと、約五十種だけがわかっていまして、上記四十八種以外のものとして五帝四海神祭・海若神祭・大土公祭・小土公祭・王相祭・炭鎮祭・荒神祭・八鬼祭・水神祭・和合祭・八卦諸神祭・宇賀祭などが見えます。」







こちらもご参照ください:

村山修一 『日本陰陽道史総説』






































































『コリャード 懺悔録』 大塚光信 校注 (岩波文庫)

「弟子 モルタル科を仕(つかまつ)るでは、デウスを本(ほん)に背き、その御(ご)掟に敵対(てきた)い、ガラサの御位(おんくらい)を失うて、ただ天狗(てんぐ)の奴(やつこ)になり、デウス・アンゼレス・ベアトたちの怨敵(おんでき)にあい変り奉る。」
(『コリャード 懺悔録』 より)


『コリャード 
懺悔録』 
大塚光信 校注
 
岩波文庫 青/33-814-1 


岩波書店 
1986年7月16日 第1刷発行
173p 
文庫判 並装
定価300円



本書「凡例」より:

「本『懺悔録(さんげろく)』の原典は、元和五―八年(一六一九―二二)の間日本にあって布教に従った、スペイン人神父コリャード(Diego Collado 1589?-1641)の著作であって、一六三二年ローマ布教聖省の刊行にかかる。(中略)この刊本は、見開きで左右対照できるように(中略)、左頁に日本文、右頁にそのラテン語対訳文を配置し、ヨーロッパ人読者の理解を助けるように工夫されている。本文庫本は、そのうちの、(一)日本語部分(全)の翻字(1本文 2脚注 3補注)、(二)ラテン語対訳部分の翻訳(抄)を収めるとともに、本書にもっとも関連深い資料として、(三)参考 サルワトル・ムンヂ翻刻(抄)を掲げ、(四)解説を施したものである。
 なお、ラテン語部分の翻訳に関しては長神悟氏の全面的な御協力を得た。」



図版(モノクロ)2点(「原書4-5頁」「原書の扉」)。



コリャード 懺悔録 01



帯文:

「キリシタンの語った告白を集めた書。近世日本語の貴重な口語資料であり、また当時の風俗・生活をうかがい知らせる興味深い文献。」


内容目次:

凡例

懺悔録
 扉
 出版許可状
 読者に寄する序言
 本文
  教義宣言の文
   〔十のマンダメントのこと〕
    〔一番のマンダメントに対しての科のこと〕
    二番の御掟に対しての科のこと
    三番のマンダメントについて
    四番の御掟について
    五番のマンダメントについて
    六番の御掟について
    七番のマンダメントについて
    八番の御掟について
    〔末のマンダメントについて〕
   〔七つのモルタル科について〕
    〔一番について〕
    五番について
    〔六番〕嫉妬・猜みについて
  慈悲の所作に対して
  〔キリシタンの妨げについて〕
  総括
 教えの文

ラテン語対訳文(抄)
参考 サルワトル・ムンヂ(抄)

補注
解説 (大塚光信)




コリャード 懺悔録 02



◆本書より◆


「五番のマンダメント(脚注:「「人を害すべからず」(サルワトル)」)について」より:

「弟子 また、我(わ)が夫(おっと)は意地の悪い者なれば、自(みずか)ら(脚注:「私。女が使う。」)を打っつ(脚注:「たり…たり。反覆の意を表わす。」)扣(たた)いつせらるるによって、その子を儲(もう)けぬ為に、身持ち(脚注:「妊娠すること。他に、生活の仕方、行儀に相当する意もある。」)になってから腹を捻(ねじ)って、その子を堕ろしまらした。
弟子 そのほか、我(われ)ら貧人至極(ひんにんしごく)(脚注:「この上もなく大層な貧乏人。」)でござれば、子六人を持ちまらした。それを育つる様(よう)もござらいで、懐胎(かいたい)になるまい為に、からくり(脚注:「いろいろと工夫をする。」)も致しまらする。一度(ど)も懐妊になってから、薬を用いて(脚注:「薬を飲んで。」)六月(むつき)の子を堕ろし、一度(ど)また産(さん)の時分に子を踏み殺いて、腹中(ふくちゅう)から死んで生まれたと申しまらしてござる。」



「六番の御(ご)掟(脚注:「邪淫を犯すべからず」(サルワトル)」)について」より:

「弟子 我ら不犯(ふぼん)の願(がん)(脚注:「貞潔の誓願を立てる。」)の者でござるをキリシタン衆(しゅ)皆知られて、縁辺(えんぺん)の沙汰(さた)(脚注:「婚姻の世話。」)少しもござらいで、邪(よこしま)の念が萌(きざ)す時は、身(み)を接して(脚注:「苦しめて。「接」は、修行のため、心身を苦しめることで、禅語であった。」)なりとも防ぐこともあり、またあまりきつうその妄念に犯さるる時によっては、え防ぎとどけいで(脚注:「悪念を退けてしまうこともできないで。」)、身をかき探り、あの方(かた)に指をさし入れ、男と寝ておるふりを致いて、四・五・六度(ど)その淫楽を遂げ果すように身を動(いご)き起しまらした。
 また、余(み)が願(がん)の障碍(しょうげ)(脚注:「誓願を立てていることから生じる妨げ。」)を知られた男、せめて膚(はだえ)を見しょう(脚注:「底本 mixeô を訂する。見せてください。勧誘の意。」)と善悪(脚注:「とにかく。」)程(ほど)久しゅう勧められたれば、初めはよもよも(脚注:「万一にもそんなことをしては。」)と申して偏気(へんき)したれども(脚注:「反対したが。」)、都合(つごう)(脚注:「結局のところ。」)言い詰(つ)められて(脚注:「言いまかされて。」)、それに任せまらした。その時、男も我(わ)が膚(はだえ)を見せて、私(わたくし)にとり懸(かか)って倒されたれば、膚(はだ)と膚(はだ)と合わせたところで、もう早(はや)火が燃え立って、何(なに)なりともし果そうずれども、うち割ったらば、自然(脚注:「万一。」)身持ちになって外聞を失おうと、むつかしゅう存じて(脚注:「名誉を失いはしないかと、面倒に思って。」)、本(ほん)に致させまらせいでござった。とかく皿の所はうち割らいで、ただ少し損じて残ったが、それよりほかは両方の恣(ほしいまま)に致しまらした。その上、味方から(脚注:「私の方から。」)臀(しり)よりすれば身持ちになろう気遣いがないと勧めて、若道(にゃくどう)(脚注:「男色。」)のようにそれと度々(たびたび)寝まらしてござる。語った分は四月(よつき)の間(あいだ)に繁うござったれば、その後(のち)万(よろず)に悪行(あくぎょう)に負けて、終に面目(めんぼく)(脚注:「名誉。」)までも軽(かろ)んじて、それと本(ほん)に男の科を犯しまらした(脚注:「(若道のようにでなく)普通に情交を行なった。」)これ細々(さいさい)でござったれども、最初(さいじょ)には子胤(こだね)とっと中(うち)に入(い)り、身持ちになり変らぬように(脚注:「うまく中に入って、妊娠する、そのようなことにならないように。」)様々(さまざま)に工(たく)んだれども、その後(のち)、あの人をばあまりに大切に思うによって、結句(脚注:「かえって。」)その子を儲けてよかろうと存じて、もう早(はや)そのまま置きまらする(脚注:「工んだことを止めて、自然の成行きに任せる。」)ことは三月(みつき)の間(あいだ)でござった。また、以下(いげ)の工みは(脚注:「身持ちにならないようにたくんだのは。」)一月(ひとつき)のことでおじゃった。幾度(いくたび)とは覚えまらせなんだ。」






こちらもご参照ください:

ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』 岡田章雄 訳注 (岩波文庫)
『長崎版 どちりな きりしたん』 海老沢有道 校註 (岩波文庫)































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本