早川孝太郎 『猪・鹿・狸』 (角川ソフィア文庫)

「鶏卵大のやや淡紅色を帯びた玉で、肌のいかにも滑らかなそれは紛れもない鹿の玉であった。」
「土地の言い伝えによると、たくさんの鹿が群れ集まって、その玉を角に戴き、角から角に渡しかけて興ずる事がある。これを鹿の玉遊びと謂うて、鹿としては無上の豊楽であると謂う。」

(早川孝太郎 『猪・鹿・狸』 より)


早川孝太郎 
『猪・鹿・狸』
 
角川ソフィア文庫 J-121-2/角川文庫 20662

KADOKAWA
昭和30年5月30日 初版発行
平成29年11月25日 改版初版発行
平成30年1月20日 改版再版発行
254p 編集部付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,000円(税別)
カバーデザイン: 大武尚貴
カバーイラスト: 田尻真弓


「本書は、一九五五年に角川文庫として刊行されました。
旧仮名遣いを現代仮名遣いに改め、一部の漢字はひらがなに直し、新たにルビを付しました。」



著者による挿絵7点。


早川孝太郎 猪鹿狸 01


カバー裏文:

「九十貫を超える巨猪を撃った狩人の話。仕留めた親鹿をかつぐ後から子鹿がついてきた話。村で起きる怪しい出来事はいつも狸の仕業とされた話……。奥三河・横山で見聞、古老から聴き溜めた猪・鹿・狸の逸話が縦横に語られる。芥川龍之介・島崎藤村も絶賛っした文学性の高い文章は、伝説や昔話も織り交ぜて独自の伝承世界を形づくっている。暮らしの表情を鮮やかにすくい取る感性と直観力から生まれた、民俗学の古典的名著。」


目次:

凡例、その他
改訂版の序


 一 狩人を尋ねて
 二 子猪を負うた狩人
 三 猪の禍
 四 猪垣の事
 五 猪の案山子
 六 猪と文化
 七 猪除けのお守り
 八 空想の猪
 九 猪の跡
 一〇 猪に遇った話
 一一 猪狩りの笑話
 一二 昔の狩人
 一三 山の神と狩人
 一四 猪買いと狩人
 一五 猪の胆
 一六 手負い猪に追われて
 一七 代々の猪撃ち
 一八 不思議な狩人
 一九 巨猪の話

鹿
 一 淵に逃げこんだ鹿
 二 鹿の跡を尋ねて
 三 引鹿の群
 四 鹿の角の話
 五 鹿皮の裁付
 六 鹿の毛祀り
 七 山の不思議
 八 鹿に見えた砥石
 九 鹿撃つ狩人
 一〇 十二歳の初狩り
 一一 一つ家の末路
 一二 鹿の玉
 一三 浄瑠璃姫と鹿
 一四 親鹿の瞳
 一五 鹿の胎児
 一六 鹿捕る罠
 一七 大蛇と鹿
 一八 木地屋と鹿の頭
 一九 鹿の大群


 一 狸の怪
 二 狸の死真似
 三 狸の穴
 四 虎挟みと狸
 五 狸を拾った話
 六 砂を振りかける
 七 狸と物識り
 八 狸の火
 九 呼ばる狸
 一〇 真っ黒い提灯
 一一 鍬に化けた狸
 一二 狸か川獺か
 一三 娘に化けた狸
 一四 狸の怪と若者
 一五 塔婆に生首
 一六 緋の衣を纏った狸
 一七 狸依せの話
 一八 狸の印籠
 一九 古茶釜の話
 二〇 旧い家と昔話
 二一 狸の最後

終わりに
鳥の話 附録

猪・鹿・狸 (芥川龍之介)
解説 (鈴木棠三)
解説――新装にあたって (常光徹)



早川孝太郎 猪鹿狸 02



◆本書より◆


「改訂版の序」より:

「狩りの作法の一つとして豊後大野郡の狩人社会では、獲物があるとまず臓腑(ぞうふ)を割(さ)いてその心臓を取り出し、かねて用意の白紙の中央に、その心臓すなわちかれ等のいわゆるこうざきをもって、紅(あか)くまんまるく染める。出来上がった物は日本ではどこでも見る例の日の御旗であった。これを串(くし)に付けて地に挿し祀(まつ)る。そうしてこのこうざきで染めた旗の翻る所がやがて神の所在で、見方によると一つの塚処(つかどころ)でもあった。(中略)あるいは十二の染木(そめき)(十二クシ)などと称して、獲物の血をもって串を染め、これを神の標として祀ることを、土佐の本川(ほんがわ)村(土佐郡)の狩人たちは行っていた。」


「猪」より:

「山の姿が以前と較べてひどく変わった事は、私などの記憶を辿ってみても、著しいものがあった。わが家の裏手の杉木立へ入れば、一丈もある歯朶(しだ)の茂みが続いて、筧(かけい)の径に覆いかかった奇怪な恰好の杉の古木(じゃんか)には、毎年木鼠が巣喰ったのでも想像される。前の畑の畔(くろ)には、夕方になると畑中を一面に影にするような榎(えのき)の大木がそそり立っていた。屋敷内にあった榧(かや)の大木の根際は、近づく事もできないほど、蔓草類が絡み合っていた。そうしてその榧の枝が、表の庭にまで覆いかかった所は、その木一本でも充分山村の風趣があった。これ等は私の家だけの事であるが、村全体を見渡しても、ほんとに山を分けてわずかに家が在った感が深かったのである。」

「撃ち取った猪は、その場で臓腑を抜く事もやったが、多くは池や沢のほとりへ舁ぎ出したのである。今でもはっきり目に残っているが、日の暮れ方にがやがや話し声を前触れにして、泥まみれになった狩人達が、屋敷の奥の窪から出てきた事がある。(中略)その中に肢をしっかり棒に結え着けられて、逆さに吊るされた猪が、二人の狩人に舁がれていた。傍を犬たちが元気よく走ってゆく。一匹の赤毛の犬は、牙に掛けられたのか横腹が破れて腸が少しくはみ出していた。」
「猪の臓腑を抜いて、猪買いの来るまで川水に浸(つ)けておく場所があった。そこを猪漬(ししう)てと謂うた。」
「次の話はもう五十年も前であるが、暮れ方を多勢の狩人が集まって臓腑を抜いていると、犬たちが向こう岸から、頻りに鼻を鳴らしていた。それを見た狩人の一人がホラと言うて臓腑の一片をそこに投げてやった。と、その瞬間であった。いつどこから来ていたのか、傍の柿の枝から鷹が翔い下って、アッという間に宙に攫(さら)っていった。(中略)こうした光景なども、獣がいなくなった今日では、もう想像も能(あた)わぬことである。
 その頃は冬になると、いつ行っても、猪の二つ三つは漬けてあった。」
「その頃は、捕った猪はそのまま売ってしまって、肉を食ったり切り売りにするような事はない。そうして獲物のあった夜は、山の神祭りをやるが、これを日待(ひまち)といって、臓腑を煮て喰ったのである。肉を喰う時には、信州(しんしゅう)の諏訪(すわ)神社から迎えてきた箸を使う。諏訪神社の箸を使えば穢(けが)れがないと謂うのである。」
「猪の臓腑を抜く時、第一に目指すのは、その胆(い)であった。猪(しし)の胆(い)というて、万病に霊験ありと信じられた。村でも物持ちと言われるほどの家には必ず購(か)って貯(たくわ)えてあった。また狩人自身も貯えていた。糸で結えて陰乾(かげぼ)しにしておいて、必要に応じて小刻みに刻んで用いたのである。しかし多くは肉と一緒に、猪買いの手に購(あがな)われていった。それで時とすると肉全部よりも一個の胆の方が高く売れたそうである。」



「鹿」より:

「ある時麓(ふもと)に住む狩人の一人が、鹿を追うて山中にわけ入って、鹿はついに見失ったが、別に谷を隔てて一頭の大鹿の眠っている姿を見た。
 直に矢を番(つが)えて放したがさらに手応えはない。幾度くり返しても変わりがないので、不審に思って近づいてみると、実は鹿と見たのは巨きな一塊の砥石(といし)であった。それを見てたちまち神意を感じ、神として祀ったのが砥鹿(とが)明神であるという。」

「鶏卵大のやや淡紅色を帯びた玉で、肌のいかにも滑らかなそれは紛れもない鹿の玉であった。」
「かようの物が、いかにして鹿の体内に生じたかは別問題として、土地の言い伝えによると、たくさんの鹿が群れ集まって、その玉を角に戴き、角から角に渡しかけて興ずる事がある。これを鹿の玉遊びと謂うて、鹿としては無上の豊楽であると謂う。」

「開創の始めから、鹿とは格別に因縁の深い鳳来寺であったが、世が明治に改まったのを機会に、もう何もかも忘れて、鹿を弄(なぶ)り殺しにした話がある。
 前にも言うた岩本院の、本堂の西方寄り、俗に大難所と呼ぶ高い岸壁を背にして、白木造りの立派な建物であった。いつの頃からか、その岸壁の上を、毎朝きまって通る五、六匹の引鹿(ひきじか)があった。(中略)寺男はある日麓の門谷に下って、無法者の若者達を語らって生け捕りの相談を決めた。まず青竹を籠目(かごめ)に組んで、鹿が踏み込んだら動きの取れぬような罠(わな)を拵えたのである。そうしてこれを鹿の通る路(みち)に掛けておいた。翌朝行ってみるとはたして十四、五貫もあろう雄鹿が一頭掛かっていた。それを多勢して寄って集って頸から肢にめちゃくちゃに縄を掛け、口には馬にするような轡(くつわ)を嵌(は)めてしまった。二人の男が鼻綱(はづな)を把(と)って、多勢の若者が後から鹿の尻を打ち打ち、九百幾段に及ぶ御坂を引き下して門谷の町へ牽(ひ)き出してきた。軒ごとにその鹿を見せびらかしながら、正月初駒を曳(ひ)くような気分で、町を引っ張り廻した。鹿はいかにも観念したように、もはや抵抗もしなかったそうである。町の有力者の庄田某が、さすがに見かねて、その鹿は助けてやってくれと、いくばくの金包みを若者達に取らせたという。しかし若者達は、その場だけを承知して、やがて村はずれから再び山の中へ引き込んで、そこで殺して煮て喰ってしまったとは酷(ひど)い話である。これを聞いた者はよくよく鳳来寺も没落の時節が来たとひそかに語り合った。」

「鹿の胎児(はらご)をサゴともまた胎籠(はらごも)りとも謂うて、その黒焼きは産後の肥立ちの悪い者などに、この上の妙薬はないと言われた。」
「明治初年頃、普通の鹿一頭が五十銭か七十銭の時代に、サゴ一頭が七十五銭から一円にも売れたというから、狩人は何を捨てても孕み鹿に目をつけたのである。」
「胎児(さご)は旧暦の春三月、親鹿が肢に脛巾(はばき)を穿いた季節が最も効験があると謂う。脛巾を穿くとは畢竟(ひっきょう)鹿の毛替わりを形容した言葉であった。(中略)毛替わりは肢の蹄(ひづめ)の付け根から始まって、だんだん上へ及ぼすので、あたかも膝まで替わった時が、言わば脛巾を穿いた期であった。この時期に遠くから望むと、いかにも柿色の脛巾を着けたように見える。月で言うと、その時サゴは五月目であった。鼠よりも心持ち大きかったが、肌にははや美しい鹿(か)の子(こ)の斑が表れている。」
「晩春花が散り尽くした頃は、サゴははや猫ほどに成長して、もう誕生に間もなかった。そうなると効験が薄いとされて高価には売れなかった。そこで猜(ずる)い狩人などは、今一度皮を剝(は)いで形を小さくした、真っ赤な肉の塊のような物を、さすがに気が咎(とが)めるか、遠い見知らぬ土地へ持ち出して売ったのである。
 鹿の肉も薬だと言うたが、角(つの)も熱さましになるとて、小刀などで少しずつ削って持薬に用いる者もあった。」

「その朝に限って脚下の窪の底一帯に深く霧が立ち罩(こ)めていた。某は仲間の者とは一人離れて立って、窪を埋めた霧を茫乎(ぼうこ)と見ていた。ぼんやり見ている間にその霧がモコモコと湧き上がるように上へ上へと拡がってくる。そうして雲のように近づく霧の色がだんだん淡紅色に変わってきたように思われた。(中略)見ると今まで霧とばかり思いこんでいたのが、それは何千何百と数限りない鹿の群である。次から次へ湧いてでもくるように、先登から脇の峰へ向けて、風のように一斉に走っている。その時は他の仲間の者もみんな気がついていたが、誰一人声を立てる者もなかった。じっと突っ立ったまま、それ等の鹿がことごとく通り過ぎるまで、立ちすくんだように見とれていた。」



「狸」より:

「正月薪伐(もやぎ)りなどに行って、山の上で一人働いていると、どこともなくホイと呼ぶ声がするそうである。雨にでもなりそうな、とろんとした温かい日などに多かった。また女が一人でいたりすると、きまって呼ぶと云う。
 ホオイと、気のせいか、出ない声を無理に絞(しぼ)り出しているようにも聞こえる。こちらが鉈(なた)でタンタンと木を伐ると、向こうも同じような音をさせる。ザーッと木を倒すとやはりさせる。明るい陽がかんかん照っている時刻だという。誰だと呼んでも返事はなくて、暫くするとまたホイと呼ぶ。果ては気味が悪くなって帰ってきたなどと言った。」

「ある男が日暮れ方に通りかかると、道の脇の石に腰をかけている人があった。傍へ寄ってみたら、それが男だか女だか、また前向きだか後ろ向きだかさっぱり判らなかったなどと言うた。
 何もここに限ったわけではないが、真夜中などよりかえって日暮れ方の方が気味が悪いという。ぼんやり人顔の見える時刻に、とかく不思議な事が多かったらしい。」

「村を出離れて、長篠へ越す途中の馬崩(まくずれ)の森は、田圃を三、四町過ぎた所に、一叢(ひとむら)大木が繁っていて、日中でも薄気味の悪い所だった。ここからずっと長篠の入口まで山続きになるのである。(中略)私などのここを通った経験でもそうであるが、暮方などまだ明るい田圃道から、暗い森の中へ足を運んでいくと、地の底へでも入るようで自ずと心持ちが滅入ってきた。また反対に暗い森の中から、田圃道へ出るとほっとするが、それだけになんだか後ろから引っ張られでもするような不気味を感じたものである。」

「狸が人を取り喰らった話の一方には、女を誘拐して女房にしていた話もある。宝飯(ほい)郡八幡(やわた)村千両(ちぎり)の出来事であった。娘が家出して行方が知れなくて、方々捜していると近所の病人に狸が憑(つ)いて、俺が連れていって女房にしていると言う、場所はこれこれと、村の西北に聳えている本宮山の裏山に在る事を漏らしたので、人を雇って山探しをすると、はたしてひどく嶮(けわ)しい岩の陰にいた。そこは雨風など自然に防ぐように出来ている場所であった。後になって様子を問い訊(ただ)すと、狸か何か知らぬが、山の木の実や果物の類を、時折運んできて食わしてくれたと語ったそうである。その娘は平生から、少し足りぬような様子があったと謂う。」



「終わりに」より:

「えてして冬にありがちな天候であった。夏分にある油日(あぶらび)というのとも異(ちが)って、どんより落ちついて晴れとも曇りとも、境目の判らぬような空合(そらあ)いである。こうした日に限って、ものの隈(くま)がくっきりと浮いて、遠くの山の木の葉も、一枚一枚算(かぞ)えられる。大小さまざまの恰好(かっこう)をした山に囲まれた村の中は、まるで水の底のような静かさを保って、次の瞬間に迫るであろう何事かを待ち受けてでもいるようである。こうした折であった。体中の血も暫(しばら)く流れを止めたように懶(けだる)くて、肉体が表面からだんだんぼかされ溶かされて、まわりの空気から土の中へと、沁(し)みとおってでもゆくかと思うような一刻である。しずかに、どこからか――それは地の果てからでも湧(わ)いてくるような――幽(かす)かな喧噪(けんそう)に似たものが次々に迫ってくる。そうしたものが一度、肉体のどこかに触れたと思うと、人々の心の糸に、にわかに異常な緊張が蘇(よみがえ)ってきた。それがどういう性質のものか説明もできない中に、アァ、どこかで猪を追(ぼ)っている、と口の端へはもう出てきたのである。」



◆感想◆


本書は芥川龍之介もほめているし梨木香歩さんもほめていたのでずっとよみたかったのですが学術文庫版が絶版状態だったので再刊を気長に待ちつつ失念していたものの、アマゾンで縄文関係の本を探していて本書が角川文庫で再刊されているのに気づいたので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。
これらの生きものたちが神さまと関係があると考えられているあいだは狩猟の対象とされつつもエコロジー的に保護されていましたが、文明開化以降、生きものはモノ=商品とみなされるようになり、乱獲され、この本が出るころ(大正十五年)には、すでにその姿をみかけることも稀になっていたようです。それがいまでは空家に狸が棲みつき、ちょっとそのへんを散歩すれば猪に体当たりされ鹿の角でつつかれカラスに阿呆よばわりされる世の中になりました。本書には山犬の恩返しの話が出てきますが、これは犬の恩返しならぬ猪鹿狸の仕返しというべきでしょう。復興すべきは狩猟技術よりもむしろ人間でない存在への畏敬の念であるかもしれません。




こちらもご参照ください:

柳田国男 『遠野物語』 (新潮文庫)
谷川健一 『神・人間・動物』 (講談社学術文庫)
多田智満子 『動物の宇宙誌』
ダニエル・ベルナール 『狼と人間 ― ヨーロッパ文化の深層』 高橋正男 訳










































































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守屋毅 『中世芸能の幻像』

「中世を乱世といい下剋上というが、それは階級関係の上下の攪乱であったばかりでなく、常民的価値と異端のそれとの確執という側面をもっていたことを否定できない。」
守屋毅 『中世芸能の幻像』 より


守屋毅 
『中世芸能の幻像』


淡交社
昭和60年7月29日 初版発行
238p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円



本書「中世芸能史覚書―あとがきにかえて―」より:

「本書のもとになった原稿は、茶道誌『淡交』の昭和五十八年七月号から五十九年十二月号まで十八回にわたって連載した「中世芸能の世界」である。」
「それと並行して、同じ題材を、大阪大学文学部で行っている〈芸能史〉の講義で扱い、また筑波大学の集中講義〈日本文化論〉でも話した。その間、もとの原稿は大幅に加筆・改訂がくりかえされ、そしてそれをさらに整理しなおしたのが、本書なのである。」



本文中図版10点、扉挿図6点。
本書はもっていなかったのでアマゾンマケプレで注文しておいたのが届いたのでよんでみました。送料込818円でした。


守屋毅 中世芸能の幻像 01


帯文:

「時代と終焉をともにした
真に中世的なる
芸能を求めて」



帯背:

「異形が乱舞する
独自の芸能史論」



帯裏:

「真に「中世的」と呼びうるものは、むしろ中世という時代と運命をともにして滅び去った芸能にこそ求められるのではあるまいか―と著者はいう。中世芸能史を能楽形成史と同一視する風潮に対し、本書では意識的に能楽に関する叙述を省き、田楽・散楽・さるごうといった中世にのみ存在するさまざまな芸能にスポットをあてる。その分析と叙述には「中世芸能にかかわる用語とその用法に注目することにより、言葉の喚起するイメージを芸能世界に接近する通路とする」独特の手法を用いる。
祭礼という非日常と芸能という反秩序に彩られた中世舞台に乱舞する異形の姿を鮮やかに再現、中世芸能史を新たな展開に導く意欲作である。」



目次:

もう一つの中世芸能―田楽―
 永長大田楽
 田楽という芸能
 成立と芸態
服飾にみる傾奇―風流―
 芸能とその衣裳
 禁色・過差・傾奇
 風流の源流から
芸能という行為―物狂―
 芸能の不思議さ
 「狂ふ」「走る」「舞ふ」
 「遊び女」と「狂女」のあいだ
祭礼の場の暴力―印地―
 祭礼と飛礫と禁制
 印地の周辺
 印地の党
滑稽の芸脈―猿楽―
 稲荷祭の風流と猿楽
 「さるごう」と「をこ」の系譜
 「狂言」の原像
中世における「異形」の系譜―ばさら―
 「ばさら」の出現
 異形・悪党・ばさら
 「ばさら」群像

中世芸能史覚書―あとがきにかえて―
中世芸能の幻像・略年譜



守屋毅 中世芸能の幻像 02



◆本書より◆


「もう一つの中世芸能―田楽―」より:

「嘉保三年(永長元、一〇九六)の夏、京都は異様な興奮につつまれていた。
 この年、五月から八月にかけて、「田楽(でんがく)」という芸能が爆発的に流行し、京都の住人がこぞって田楽にうかれ狂うという大騒動がつづいたからである。おそらく、その間、京都の政治は一時的な麻痺状態に陥っていたにちがいなかった。」

「そしてまた、田楽の騒動は「永長大田楽」で終ったわけでもなかった。」

「なお類似の事件は、枚挙にいとまがなかった。
 これらの記事はなかなか意味深長である。―というのも、これらは、田楽という芸能が、不思議なことに、ややもすれば、集団的な混乱―ひいては一種の暴動状態さえ惹起せずにおかなかったことを示唆しているからである。」

「芸能というものは、程度の差こそあれ、そもそも誘惑的なものであって、大なり小なり人をとりこにせずにはおかないものであるが、こと田楽についていえば、それが人々を深く魅了したこと、およそ他の芸能の及ぶところではなかった。」
「田楽は、その文字面からして、いかにも田園・牧歌的な芸態を想起させるところがある。(中略)しかし、残された歴史史料が示す田楽の光景は、騒然として物狂わしく、我々のそうした先入観を裏ぎってあまりあるものがあったのである。」
「ひとたび田楽が流行するや、はてしなくその輪が広がり、ついには暴動状態にまでいきつくのは、まさに不特定の群衆を陶酔にまきこむ構造を、踊りである田楽が、本来的にそなえていたからだと考えて、大きな誤りはないはずである。」

「もっとも、田楽の不思議なところは、かならずしも集団的な熱狂にのみ認められるわけではなかった。田楽の流行とあいまって、田楽に魅いられて身を破滅させた―あるいは破滅させたと噂される人物が出現することになる。鎌倉幕府の滅亡をもたらした執権北条高時がその人であった。」
「鎌倉幕府がほろんだ直後、その原因が、政権の中枢にいた高時の闘犬と田楽への傾倒にあったとささやかれたというのであるから、もののたとえにもせよ、幕府一つを倒壊させるだけの力を、田楽という一芸能がもっていたということになる。」

「さらに興味深いことには、田楽への執心は天狗という妖怪を招きよせ、その報復をうけるという考えかたが、広く存在したようなのである。」
「田楽と天狗の連想は、「桟敷(さじき)倒れ」の異名で知られる貞和五年(一三四九)六月十一日の四条河原勧進田楽についてもみられる。この勧進田楽は、開催中に桟敷が倒壊して多数の死者をだしたことで知られるのであるが、口さがない京童たちのあいだに、桟敷を倒壊させたのは天狗のしわざだという噂が広がり、『太平記』はこれを称して「天狗倒し」と呼んだのであった(巻二十七〈田楽の事〉)。」



「服飾にみる傾奇―風流―」より:

「この時代、神事の領域は、世俗の規制の外にあるという観念が、なお生き生きとみなぎっていたのである。「神事と称し」「ことを神祀に寄せ」ることで、人々は日常では実現できない「過差」をためらわず敢行し、権力の頂点にいるものまでが無法の「傾奇(けいき)」に走りえたのであった。
 田楽に代表される中世の祭礼芸能が、今日の我々からみれば異様なまでに緊迫した雰囲気をはらみ、その結果、現実の社会秩序と鋭く対決せざるをえなかったのは、祭礼という場の保証した、この無法性・倒錯性に起因していたといえようか。」

「平安時代中期の貴族たちのあいだに、人工的な造型物の出来ばえ―主としてその美しさ、意匠の妙、工芸的な精巧さなどについて、とくに「風流」という表現をあたえる用例が現れ、やがて貴賤を問わず、ひときわ人の目をひくような、趣向を凝らした人工的な造型物を、総じて「風流」の名で呼ぶようにもなる。」
「しかし我々が、当面の話題に関連して追跡すべき「風流」は、やはり祭礼と芸能にともなう「風流」でなくてはなるまい。
 ―というのも、祭りや芸能の場における「風流」には、単なる意匠・技能・趣向の妙味の域をこえて、また格別の意味あいがこめられていたとみられるからである。そこには、「過差」「美麗」「奢侈」「傾奇」にも通じあう、絢爛たる異相がみなぎっていたのであった。
 そしてその祭礼の「風流」の中核に、異様なまでに人の目をひきつける衣裳があったこと、(中略)そのような衣裳で装うことそのものが、すでに「風流」なのであったとみてよい。」
「したがって人々は、装束の「過差」「美麗」とともに、さらに「風流」を競うことで、己の存在をいっそう誇示しようとしていたのである。」



「芸能という行為―物狂―」より:

「古代や中世の人々のあいだには、なんらかの異常性がみなぎらないかぎり、芸能という行為も発動しないと信じられていたふしがある。」
「この時代の人にとって、芸能へかりたてられる衝動は、人間をはるかにこえた不思議な力の発動とでもいわねば、とうてい了解しようのないものであったようなのである。」

「中世において、芸能を演じることを、人々は「狂ふ」という言葉で表現する場合が、少なくなかったのである。」

「当時、「くるふ」という行為がつまりは憑依状態(トランス)の一形態と考えられていたことに、疑いをさしはさむ余地はないであろう。」

「そもそも「くるふ」という言葉の「くる」は、「くるくる回る」などという時の「くる」と同じで、したがって「くるふ」とは旋回動作―すなわち回ることを表すものであったと考えられる。」
「その旋回はとりもなおさず、人が「現し心」を欠いた時、つまり人の狂った際の動作にほかならなかった。あるいは、「現し心」を失った途端、我々は誰しも、等しく、ぐるぐると旋回をはじめるものなのであろうか。
 しかもそれは、これまでの議論のおもむくところからして、人間以外のなんらかの「もの」が、人をして回らしめるという理屈になる。人間以外のなんらかの「もの」が、人をして回らしめる場といえば、さしあたり、それは祭式の場の「神懸り」を想定するのが適当であろう。「狂ふ」とは、そうした行為を前提にした言葉だったと了解しておかねばなるまい。」

「つまるところ、「くるふ」といい、「まふ」「はしる」といい、中世において芸能を演じる様子を表すに際して用いられる動詞は、いずれも、もともと祭りの場における、非日常的な動作に発したものであったこと、そして中世芸能も、その深層においてその感覚をひきずっていたことは、まず間違いのないところであった。
 しかも、芸能そのものが、ほかでもない、憑依にともなう行為であったことの痕跡を、言葉のみならず、人々が意識のなかに、はっきりととどめていたのが、中世という時代の芸能の歴史的特徴であったのである。」

「『梁塵秘抄』巻二に収める神歌にいう―。
  遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。
 芸能はその根源において、「遊び」でもあり「浮かれ」「戯れ」でもあったというわけなのである。
 そしてここで、遊女のはるかなる起源を巫子に求める有力な説のあることをいいそえておくのも、けっして無駄ではない。遊女と巫子をつなぐものは、ほかでもない、「遊び」にあった。遊女が、その稼業に「遊び」をともなわねばならなかったのは、彼女たちが、祭式の場で「遊び」を演じた巫子たちの末裔だったからだというのである。遊女は、零落した巫子であった。
 神につかえる巫子の「遊び」といえば、それは、まさしく心ここにあらざる神懸りということになる。我々は、「遊び」すなわち芸能の究極が神懸りのトランスにあったことに気づいておかねばならない。
 ―だとすれば、芸能にたずさわるという、その行動は、とりもなおさず、我れと我が身を、あえて、現実から心ここにあらざる状態に追いやることにほかならなかった―ということになる。」

「なるほど、中世の人にとって、狂うて、舞って、遊ぶのは、分かちがたく連動する、ひとつづきの行動なのであった。」
「なればこそ、中世には芸能者のことを、「舞ひ人」「遊び者」というとともに、また「狂ひ者」とも称していたのである。」



「中世における「異形」の系譜―ばさら―」より:

「もっとも、「ばさら」とは、かならずしも、我々にとって耳なれた言葉ではない。
 『建武式目』では「婆佐羅」とあるが、「婆娑羅」と書かれることが多いこの言葉は、もともと仏教の用語で、サンスクリットの Vajra を語源とするといわれている。それを漢訳すれば金剛―要するにダイヤモンドの意であった。金剛石がすべてを打ち砕くところから、密教で煩悩を砕き外部の魔神を降伏させる力をもつ象徴として用い法具を金剛杵(しょ)などともいう。」
「それが転じて、『続教訓抄』に「下郎の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな」とあるのが例となるように、音楽・舞楽の調子はずれをいったりもし、さらに転じて、遠慮会釈なく驕慢・放埓にふるまうことを「ばさら」、あるいは単に「ばさ」というにいたったのであった。
 史料上の所見からすると、「ばさ」のほうが早く、中国においても『神女賦』(戦国時代の人、宋玉の作という)に「婆娑、放逸の貌」とあって、すでに日本中世の「ばさら」と同様に、常軌をはずれた行動を意味して「婆娑」という表現が行われていたことがうかがえるのである。」
「その「ばさら」が、祭礼の場の風流の「異形」とつながっていたことは、「風流」に「ばさら」というルビを施した『恩地左近太郎聞書』の例からして、容易に推察されるところであった。」

「あの風流の面目が、法をこえた過差の極限としての「傾奇(けいき)」にあったように、「ばさら」においても、その核心は、むしろその異常性―「物狂」に求められるのかもしれない。」
「一方の価値観の持ち主には「物狂」としかみえないものが、今日の目からすると、なんと颯爽として、潑溂たるものがあったか。」

「平安時代から鎌倉時代にかけて、祭礼のなかに「風流」の名で顕著にみいだされた「異形」は、実は、祭礼といった非日常の時間・空間にのみみられたものではなく、ある一群の人々にとっては、その集団を表示する風俗でもあったことを、ここで指摘しておかなくてはならない。」
「「風流」の「異形」が、祭りの場における無法―反秩序的行動を保証するものであったとするならば、無頼の徒は、みずから仮りの「異形」に身をやつすことで、社会秩序の埒外に生きる表象としていたということなのであろうか。」

「柳田国男の「鬼の子孫」には、かつて「年老いる迄童子を以て呼ばれ、又童子相応の風をして居た」人々の存在したことを指摘している。ここで「童子相応の風」といわれるのは、髪を結わずに、子供のようなかむろ頭のザンバラ髪のままの姿を指しているのである。」
「童子の名をもち、童形によって特色づけられる集団に「鬼」があった。」
「しかして、これらの「鬼」のイメージが形成されていく背後に、山間に居所をかまえる人たちの姿が想起されていたことは、確かであった。山中異界の住人にとって、その童形は異界性の象徴であったということになろう。」

「田楽における「異形」は、芸能というその場かぎりの逸脱行為にすぎなかったが、「年老いる迄童子を以て呼ばれ、又童子相応の風をして居た」人々は、まさにその「異形」を常の風体とする人々なのであって、童形であることをその集団の表示としていたのである。」



「中世芸能史覚書―あとがきにかえて―」より:

「筆者が本書で明らかにした事実のなかには、既存の祝祭論の安易な適応を拒むものがある。つぎにそれを二点ばかり指摘しておく。
 第一に問題となるのは、従来の祝祭論が、表現こそちがえ、その機能を社会秩序の刷新・回復・再生に求めていることである。しかし中世日本についてみれば、祝祭の混乱がただちに現実世界―常民の生活領域の混乱に直結する場合があったのである。それは、すでに本書で指摘したごとく、田楽の騒乱がしばしば現実の合戦に拡張し、芸能の異常な流行が乱世の予兆と観念された事実などから、疑いを入れないところであった。その都度、社会秩序は混迷に陥るのであって、その刷新・回復・再生は、祝祭とは別の、いちじるしく世俗的な力の発動によってはかられざるをえないのである。
 日常的秩序と非日常的反秩序は、対立的に乖離するものではなく、日常的秩序は非日常的反秩序の側から挑発をうけ、攪乱されることがあったというのが真相ではなかったか。筆者はむしろその点に、祝祭の一般理論の枠組に収まりきらない、中世の芸能や祭礼の歴史的特色を認めるのである。 
 第二に考慮したいのは、祝祭にみられた反日常的な逸脱行為―とりわけ「異形」を日常のものとしている集団の存在をどう理解するかである。それは、摺衣(しゅうい)をまとった双六・博奕の徒であり、ザンバラ髪の盗賊や京童であり、異相の印地の党であり、照りかがやくばかりの美装の悪党たちであった。しかも、彼らの集団の表象は、祝祭の場の聖なる「異形」の表出と共通していたのである。
 彼らは祝祭の場にのみ許容された反秩序を祝祭の場以外の時と場所で行う集団にほかならなかった。あるいは、祝祭の混乱が、現実世界に結びつくに際して、この種の集団がそれを媒介する場合があったと考えることもできる。」
「彼らは、間違いなく異端として反秩序の側におり、常民の生活領域から忌避される存在であったが、南北朝期の「ばさら」大名のように、時として世の常ならざるものが時代の英雄になりうる現実があったのである。秩序と日常性によって保護される常民の領域のすぐとなりにあって、しかも現実世界を侵犯する可能性をもつ集団の存続したことが、筆者には日本中世の特色の一つであったように思える。
 さらに付言しておくなら、中世を乱世といい下剋上というが、それは階級関係の上下の攪乱であったばかりでなく、常民的価値と異端のそれとの確執という側面をもっていたことを否定できない。」





こちらもご参照ください:

守屋毅 『日本中世への視座』 (NHKブックス)






































































河口慧海 『チベット旅行記』 全五冊 (講談社学術文庫)

「ポェというのはチベットの国の名で、チベット人はその国を呼んでポェといって居ります。チベットという名はチベット人自身はチベット〔ちっと〕も知らんのです。」
(河口慧海 『チベット旅行記』 より)


河口慧海 
『チベット旅行記 
(一)』 

校訂: 高山龍三 
講談社学術文庫 263 

講談社
昭和53年6月10日 第1刷発行
182p 地図2p
文庫判 並装 カバー
定価280円
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 志賀紀子
装画: 平山郁夫



河口慧海 チベット旅行記 1 01


河口慧海 
『チベット旅行記 
(二)』 
 
校訂: 高山龍三
講談社学術文庫 264 

講談社
昭和53年7月10日 第1刷発行
193p 地図2p
文庫判 並装 カバー
定価280円
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 志賀紀子
装画: 平山郁夫



河口慧海 チベット旅行記 2


河口慧海 
『チベット旅行記 
(三)』 

校訂: 高山龍三 
講談社学術文庫 265 

講談社
昭和53年8月10日 第1刷発行
202p 地図2p
文庫判 並装 カバー
定価280円
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 志賀紀子
装画: 平山郁夫



河口慧海 チベット旅行記 3


河口慧海 
『チベット旅行記 
(四)』 
 
校訂: 高山龍三
講談社学術文庫 266 

講談社
昭和53年9月10日 第1刷発行
209p 地図2p
文庫判 並装 カバー
定価280円
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 志賀紀子
装画: 平山郁夫



河口慧海 チベット旅行記 4


河口慧海 
『チベット旅行記 
(五)』 
 
校訂: 高山龍三
講談社学術文庫 267 

講談社
昭和53年10月10日 第1刷発行
213p 
文庫判 並装 カバー
定価280円
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 志賀紀子
装画: 平山郁夫



河口慧海 チベット旅行記 5


本書「凡例」より:

「一、本書は『西蔵旅行記』博文館版(明治三十七年)を底本とし、山喜房仏書林版(昭和十六年)、英訳本 Three Years in Tibet, 1909, Madras. を参考にした。
一、本文は次のように改めた。
 1、新漢字、新かなづかいに改め、あまり使用されない漢字はひらがなにした。
 2、底本は総ルビであるが、読みにくい漢字などについてルビを生かした。
 3、句読点を付し、改行をして読みやすくした。
 4、山喜房版で訂正、加筆された部分で、その方が意味のよくわかるものは〔 〕を付して併記または挿入した。
 5、地名・人名表記については、底本の表記を生かし、英訳本を参考にして統一した。ただし(中略)慣用の固定しているものはそれに従った。」



旧版五巻本(新版は二巻本)です。
本文中挿絵図版65点(第一巻14点/第二巻11点/第三巻14点/第四巻11点/第五巻15点)。第五巻解説中に図版(モノクロ)1点。


第一巻 カバー裏文:

「仏教の原典を求めたいという求道者の一心から、厳重な鎖国をしくチベットに、あらゆる困難にうちかって単身入国を果たした河口慧海師の旅行記。抜群の面白さをもっているだけでなく、チベットの風俗・習慣等についての的確な記述は、本書をチベット研究のための第一級の基本的文献としている。この第一巻では、チベット行を決心して海路カルカッタへ着き、万全の準備の後、ヒマラヤに入り、チベット国境を越えるまでが述べられる。」


第二巻 カバー裏文:

「仏教の原典を求めたいという求道者の一心から、厳重な鎖国をしくチベットに、あらゆる困難にうちかって単身入国を果たした河口慧海師の旅行記。抜群の面白さをもっているだけでなく、チベットの風俗・習慣等についての的確な記述は、本書をチベット研究のための第一級の基本的文献としている。この第二巻では、チベット国境を越えた慧海が、厳重な警備の眼を避けながらチベット第二の都シカチェを経てラサに至るまでが述べられる。」


第三巻 カバー裏文:

「仏教の原典を求めたいという求道者の一心から、厳重な鎖国をしくチベットに、あらゆる困難にうちかって単身入国を果たした河口慧海師の旅行記。抜群の面白さをもっているだけでなく、チベットの風俗・習慣等についての的確な記述は、本書をチベット研究のための第一級の基本的文献としている。この巻では、ラサ潜入を遂げた慧海師がチベット人を名乗り医者として大活躍する。ついに法王に召出される程になり、盛名がますます上る。」


第四巻 カバー裏文:

「仏教の原典を求めたいという求道者の一心から、厳重な鎖国をしくチベットに、あらゆる困難にうちかって単身入国を果たした河口慧海師の旅行記。抜群の面白さをもっているだけでなく、チベットの風俗・習慣等についての的確な記述は、本書をチベット研究のための第一級の基本的文献としている。この巻では、ラサの人々の生活やチベットの外交について述べられるが、ついに素性が露顕しそうになり、慧海師はチベット脱出を決意する。」


第五巻 カバー裏文:

「仏教の原典を求めたいという求道者の一心から、厳重な鎖国をしくチベットに、あらゆる困難にうちかって単身入国を果たした河口慧海師の旅行記。抜群の面白さをもっているだけでなく、チベットの風俗・習慣等についての的確な記述は、本書をチベット研究のための第一級の基本的文献としている。この最終巻では、ラサを出立した慧海師が、厳重な五重の関門を奇跡的に踏破して英領インドに達し、海路日本に帰国するまでが述べられる。」


第一巻 目次:

はじめに (宮田恵美)
序 (河口慧海)
凡例

第一回 入蔵決心の次第
 チベット探検の動機
 原書の存在地
 入蔵を思い立った原因
 決心の理由
 まずインドを知る必要
第二回 出立前の功徳
 禁酒、禁煙の餞別
 不殺生の餞別
 熱誠人を動かす
第三回 探検の門出及び行路
 故山に別る
 航海の快楽
 藤田領事を訪う
 門出に奇禍を免る
 サラット氏を訪う
第四回 語学の研究
 サラット居士の助力
 俗語の良い教師は子供
第五回 尊者の往生
 大獅子尊者(センチェン・ドルジェチャン)
 高僧の臨終
 天人の悲嘆
第六回 入蔵の道筋
 祝聖の儀式
 いずれの道を取るか
 道をネパールに取る
第七回 奇遇
 菩提樹下の坐禅
 ネパール語の俄稽古
 奇智紳士を飜弄す
 尋ぬる人に邂逅す
 偶然盗難を免る
 カトマンズまでの行路
第八回 間道の穿鑿(せんさく)
 ヤンブー・チョェテンの由来
 入蔵間道を発見する方法
第九回 ヒマラヤ山中の旅行(一)
 入蔵の旅立
 山中の花の都
 千仞の谷間の鬼
第一〇回 ヒマラヤ山中の旅行(二)
 間道の守備
 危険極まる従僕を解雇す
 ヒマラヤ山中の霊跡
 馬を泥中に救う
 ツァーラン村
第一一回 山家の修行
 ツァーランの風俗
 汚穢(おわい)の習慣の修練
 奇怪なる修辞学
第一二回 山家の修行(続)
 博士との衝突
 登山の稽古
 村の評判
第一三回 北方雪山二季の光景
 ツァーラン村の夏の景
 冬の光景
 降雪後の荒跡
 僧尼の奇習
第一四回 また間道の穿鑿(せんさく)
 新年の祝儀
 間道の穿鑿
 出発の苦心
第一五回 行商の中傷
 ツァーランを出立す
 マルバ村へ戻る
 行商の流言
第一六回 高雪峰の嶮坂
 雪山の旅立
 いよいよドーラギリーに向う
 雪山の嶮坂を攀(よ)じ登る
第一七回 チベット国境に入る
 行路難
 雪村に宿る
 谷間の猛虎と薬草
 行路の骸骨
 チベット国境の高雪峰
 チベット国境無限の感想
 極楽世界の百味飲食(おんじき)
第一八回 雪中旅行
 雪山唯一の頼みは磁石
 雪山を踰(こ)ゆれば石磧(いしかわら)
 「慧海(えかい)池」
 断事観三昧(だんじかんさんまい)
第一九回 入国の途上
 方針一決
 深山老婆の親切
 雪山下の仮住居
 ヤクに騎(の)る
 ラマの岩窟を尋ねる
第二〇回 白巌窟の尊者
 巌窟の主人
 巌窟中の坐禅
 ラマと参拝者
 チャクワンを受ける
 巌窟尊者の風采
 尊者との問答
 大解脱(げだつ)経
第二一回 山中の艱難
 白巌窟を辞す
 寒水徒渉の難
 寒冽(かんれつ)骨に徹す
 野宿の炊事
 稽古には随分困りました
 露宿の危険
 月は皎々(こうこう)
 苦しいながら坐禅
第二二回 月下の坐禅
 路窮して巡礼に逢う
 いわゆる強盗商売の国
 無人の高原に血を吐く
 霰(あられ)に打たれて覚む
 高原月下雪山の景
 どうも不思議だ
第二三回 美人の本体
 美人の一声
 珊瑚の飾り
 美人夜叉と変ず
 おれを殺して喰え
第二四回 一妻多夫と一夫多妻
 裸体にて川を渡る
 同胞一妻の習慣
 羊と喧嘩
 機一髪殺活自在
第二五回 大河を渡る
 薬を施して馬を借る
 チベット第一の川を渡る
 十五、六日間無人の高原
 遊牧民の跡だもなし
 水なき曠原に出(い)ず
第二六回 渇水の難風砂の難
 水の代りに宝丹
 水に渇する生きたる餓鬼
 その水が真赤
 極楽世界の甘露
 砂が波を立てて来る
 一大困難
 地獄の氷の川
第二七回 氷河に溺る
 羊を牽いて氷河を渡る
 不意に辷(すべ)り転(こ)けた
 水で死ぬ方が楽
 手も足も痺れ切って
第二八回 山上雪中の大難
 一難免れてまた一難
 大危難
 羊が雪中に坐り
 積雪中の坐禅
第二九回 山上雪中の大難(続)
 雪中の夢うつつ
 羊の身顫いに夢を破る
 雪中河畔の群鶴
 泥棒に入る気
 二十六の誓願
第三〇回 人里に近づく
 ポン教
 野馬の説明
 羊との競走
 海の中に物を棄てた
 マナサルワ湖の間道に出(い)ず

地図



第二巻 目次:

凡例

第三一回 阿耨達池(アノクタッチ)の神話(一)
 巡礼の刀の錆
 天然の曼陀羅(まんだら)
 二万五千六百尺の雪峰
 マナサルワ湖
 釈迦牟尼(しゃかむに)仏を囲み
 その実は如意宝珠(にょいほうじゅ)
 東の川には瑠璃(るり)の砂
 世界唯一の浄土
第三二回 阿耨達池の神話(二)
 四大河の源泉
 驚くべき面白い話
 美人の連合(つれあい)は悪魔の化身
 山の前後の二大湖
第三三回 山中の互市場
 チベットの交易計算法
 黒白の石粒と坊主貝
 女巡礼に恋慕せらる
 ギャア・ニマの市場
第三四回 女難に遭わんとす
 英国の秘密探偵
 故国へ始めての消息
 ダアワという娘
 バタ茶の製法
 ブダガヤの釈尊を追想す
第三五回 女難を免る
 術数をもって諭す
 泣き出した
 乞食の行(ぎょう)
 餓鬼道の苦しみ
 茶畑のごとき荊棘(けいきょく)の叢林
 奇異な鳥
第三六回 天然の曼荼羅廻り(一)
 荘厳なる山寺
 糞を喰う餓鬼
 釈尊と古派の開祖
 天然の霊場
 奇岩怪石
 高原にて路に迷う
第三七回 天然の曼荼羅廻り(二)
 道順
 雪峰チーセの四大寺
 供養をする目的
 黄金溪
 千仞の雪峰より咬龍(こうりゅう)
第三八回 天然の曼荼羅廻り(三)
 三途(さんず)の脱れ坂を踰(こ)ゆ
 未来の悪事の懺悔
 解脱母の坂
 心臓の鼓動激烈
 幻化窟の尊者
 一大市場
 土地と巡礼の心
第三九回 兄弟喧嘩
 霊跡とお別れ
 視察がてらの乞食
 今晩料理されるか
第四〇回 兄弟らと別る
 撲り倒さる
 兄弟離散
 殺しに迫って来る
 咬龍の璧(たま)を弄する
 天然ソーダの池
 ブラマプトラ河畔の夜景
第四一回 剽盗の難(一)
 白昼強盗に逢う
 大事な宝は生命
 夜中に屠り殺し
 咫尺(しせき)も弁ぜぬ大雪
第四二回 剽盗の難(二)
 衆生済度(しゅじょうさいど)の読経
 私を呼び止めた
 チベット泥棒の規則
 二人の乗馬者
 雪を嚙む
 もと来た高原
第四三回 眼病の難
 雪中の飢渇
 眼が潰れてしまう
 曠原を盲進す
 乗馬者が見えた
 九死に一生を得
 猛犬に嚙み付かる
第四四回 再び白巌窟を訪う
 嚙まれた疵の痛み
 再びアルチュ・ラマに逢う
 泣面に蜂
 夫婦和睦の仲裁
 氷光明徹(めいてつ)裏の寒月
 白巌窟尊者との大問答
第四五回 公道に向う
 尊者の諷刺
 一切衆生済度
 お前が死ぬ
 マニの秘密法力
 ヤク拾いの番人
第四六回 ようやく公道に出ず
 泥中に没す
 足芸の利用
 いよいよ公道に出た
 馬車が飾り物として
 第二の酋長の住居
第四七回 公道を進む
 死後の供養
 血塊を吐く
 頭を叩かれた功徳
 裸馬に乗って沙漠を進む
 氷で足を切られる
第四八回 途中の苦心
 途に無頼漢に遇う
 一大商隊
 僧侶の商隊
第四九回 同伴者の難問
 商隊の野営
 人には添うて見よ
 氷塊の打合う音
 猜忌(さいき)の眼
 チベット国民はほとんど巡査か探偵
第五〇回 物凄き道
 奇智話頭を転ず
 この国の祖
 鉄繩の架橋
 土着の兵隊
 禿山の怪獣
第五一回 始めて麦畑を見る
 都なまりの住民
 岩上の寺院
 余程旨い物
 その眼の中に涙
 血の羊羹(ようかん)
第五二回 第三の都会を過ぐ
 習慣を墨守す
 奇妙な量田法
 獅子溪
 インド風の四角な船
 無主の旅館
 漢文の法華経
 麦類の本場
第五三回 サッキャア大寺
 寺の結構
 本堂内の光景
 経殿の模様
 異臭鼻を撲つ
第五四回 チベット第二の府に到る
 サッキャア寺の主僧
 礼拝を行わず
 休み田地
 妙な予言書
 禄付きの禿鷲
 持斎堂
 大蔵経の版元
 チベット第二の府
 チベット第二の法王
第五五回 大ラマ、文典学者
 大ラマの侍従教師
 大ラマの行列
 酒と煙草
 サンバ・シャル
 木板の手習
 エンゴン寺
 チベット文法の問答
 チベットの母音は四字
第五六回 異域の元旦
 また強盗に遇う
 主僧凶夢を苦に病む
 元旦の読経
第五七回 二ヵ月間の読経
 河中の温泉
 チベット新派の開祖
 人相を見る
 医術の適中
 汚穢(おわい)なる習慣
第五八回 不潔なる奇習
 卑陋(びろう)至極
 便所は犬の口
 垢(あか)の多少が縁談の条件
 チベット暦の由来
第五九回 正月の嘉例
 元日の礼式
 元日の御馳走
 鳥の法律
 防霰堂
第六〇回 防霰奇術
 八部衆の悪神征伐
 防霰弾を製造
 チベットは夏と冬の二季
 まず山雲と戦う
第六一回 修験者の罰法
 防霰税
 夏季の執法官は修験者
 湖上の弦月と晩の雪峰
 その水はいわゆる毒水
第六二回 遙かにラサを望む
 未練な兵隊
 娘の裸体吟味
 壮士坊主の襲撃
 チベット政府の損害賠償
 法王の宮殿
 ヤクの皮でこしらえた船
第六三回 法王宮殿の下に着す
 珍しき柳の葉
 窃盗町
 新派開祖の建立堂
 セラ大学

地図



第三巻 目次:

凡例

第六四回 チベット人を名乗る
 法王の宮殿
 チベット仏教及び文字の由来
 どこに落ちつくか
 頼む木陰に雨が漏る
 セラ大学の組織

第六五回 壮士坊主
 修学僧侶と壮士坊主
 壮士坊主の課業
 壮士坊主の決闘
 壮士の喝采を博し
 仮入学の手続
 仮入学許可
 化の皮

第六六回 チベットと北清事件
 大清国皇帝陛下の大祈禱会
 北清事件の取沙汰
 チョエン・ジョェという大法会

第六七回 セラ大学生となる
 壮士坊主の警護僧
 ロシアの秘密探偵
 練物行列
 行列の由来
 入学試験の及第

第六八回 問答修業
 その問答の遣り方
 チベットの僧侶のおもなる教育法
 法林道場の問答
 薪もらいの頭陀行

第六九回 法王に召さる
 素人療法の奏功
 活きた薬師様
 医名宮中に聞ゆ
 離宮の結構

第七〇回 法王に謁す
 離宮内侍従医長の住宅
 侍従医長の挨拶
 法王の出御
 法王の御言葉
 法王の御装束
 法王の御相貌
 法王の政略的思想
 五代の法王みな毒殺

第七一回 侍従医の推挙
 宮中の佞臣(ねいしん)
 離宮内殿の模様
 侍従医に推挙したい
 無明の病を治する

第七二回 僧侶の状態
 セラ大学の特遇
 僧侶の生活
 僧侶の職業
 上等バタ茶の製法

第七三回 下等の修学僧侶
 憫れなる生活
 修学僧侶の財産
 天和堂(テンホータン)主と懇親の因縁
 危ないお医者さん

第七四回 天和堂と老尼僧
 駐蔵大臣の秘書官
 摂政家の公子
 老尼僧の招待

第七五回 前大蔵大臣と最高僧
 七尺四、五寸の老偉人
 大蔵大臣邸に寓す
 チベットの最高僧を師とす

第七六回 ラサ府の日本品
 現任大蔵大臣
 チベットの外交上
 東京の銀座通
 日本燐寸(マッチ)に圧倒

第七七回 密事露頭の危機
 再度の奇遇

第七八回 チベット人の誓言
 機先の計略
 チベットの誓いの詞の種類
 薬師様か耆婆(ぎば)

第七九回 僧侶の目的
 三種族の性質
 僧侶及び学者の理想
 肉粥の供養
 一生自分の借金済し

第八〇回 婚姻(その一)
 奇怪なる多夫一妻
 妻の権力
 正式の結婚
 結婚は父母の随意
 縁談は秘密

第八一回 婚姻(その二)
 不意のお化粧
 送嫁の宴
 兵式体操
 結婚玉瑜
 宴席の盗み物
 怠惰不注意の罰金

第八二回 送嫁の奇習
 送嫁の祭典と供養
 花嫁に戒告
 花嫁の泣き別れ
 道中送迎の酒宴

第八三回 多夫一妻
 厄払いの秘剣
 門前の讃辞
 損害賠償の保証
 縁弟との結婚

第八四回 晒し者と拷問
 法王を咀う
 皮肉の拷問
 美しい貴婦人の晒し者

第八五回 刑罰の種類
 貴婦人の罪状
 チベットの拷問の方法
 眼球を抉り抜いて
 死刑は水攻

第八六回 驚くべき葬儀
 無邪気な雪合戦
 旧知に邂逅す
 不可思議なる葬式
 死骸の料理
 食人肉人種の子孫
 
第八七回 奇怪なる妙薬
 法王及び高僧の葬儀
 死体の像
 その塩はなかなか尊い
 奇々妙々の薬
 再び大臣邸に寓す

第八八回 チベット探検者
 女宣教師
 鎖国主義
 外国のチベット探検者
 欧州人ではたった一人
 サラット・チャンドラ・ダース

第八九回 鎖国の原因
 探検家の失敗
 全国民挙って巡査か探偵
 政略的鎖国

第九〇回 不潔の都
 ヤクの角の塀
 溝は大小便の溜池
 チベットの仏教
 古派の開山蓮華生

第九一回 旧教と新教
 肉慾は菩提性
 新教派の基因
 男は方便、女は智慧
 化身という意味

第九二回 法王の選定
 法王政府の神下し
 教政一致
 その神の下し方

第九三回 子供の選択
 甕中の名を探る
 法王政府のネーチュン
 賄賂の化身
 大臣の失策と神下し

第九四回 教育と種族
 ネーチュン
 学校及び教育
 華族の種類
 官職は賄賂

第九五回 豪族と最下族
 ポンボ族
 古豪族
 階級と待遇
 黒白混合の繩族
 氏の上下は作法
 教育の目的

第九六回 教育の奨励法
 奨励の苛法
 僧侶と弟子との関係
 経文の暗誦
 罵詈(ばり)もまた奨励の一手段
 鉄砲製造の事業

地図



第四巻 目次:

凡例

第九七回 チベットの物産
 おもなる輸出品
 麝鹿(じゃろく)
 交易の方法
 麝香の輸出先
 宝鹿の血角
 角の新芽
 血角を砕いて死す

第九八回 輸出入品と商売
 輸出品
 輸入品
 奇なる売買
 モンラム
 シナの輸入品
 ブータンその他の輸入品
 チベットの財源
 通商上の鎖国の利害
 政府そのものもまた商売

第九九回 貨幣と版木
 貨幣は銀貨一種
 その地方通用の銀貨
 各寺秘蔵の版木
 本屋はみな露店
 祝聖の儀式

第一〇〇回 願文会
 幾万の燈明
 堂内の粧飾
 壮士坊主の奇粧
 破戒僧の表裏
 チベットの一休和尚

第一〇一回 法王政府
 政府の組織
 内閣
 華族と人民の関係
 生れながらの奴隷
 租税の費途
 僧侶官吏の職務

第一〇二回 婦人の風俗
 ラサ貴婦人の盛粧
 カムの美人とラサの美人
 女子の習慣

第一〇三回 婦人と産児
 婦人の業務
 家族の主権者は婦人
 チベット婦人の臍繰(へそくり)金
 慾望
 産児の命名式

第一〇四回 児女と病人
 児女の祝儀
 子供の遊び
 女子の遊び
 病人の取扱い方
 睡らせぬ見張

第一〇五回 迷信と園遊
 病根は悪癘
 薬剤中の草の毒
 チャンサ
 園遊に用うる酒

第一〇六回 舞踏
 緑林の園遊
 賤民の園遊
 外交政略
 感情問題
 露国の外交政略
 露国の秘密探偵
 僧侶籠絡(ろうらく)の手段
 一般人民の籠絡手段

第一〇七回 チベットとロシア
 未来の大王
 露国皇帝は即ち化身
 ロシア贔屓(ひいき)の原因
 露帝の贈物
 シャーターの来歴
 シナの無勢力
 秘密条約
 露国とチベットとの関係

第一〇八回 チベットと英領インド
 鎖国の原因
 英政府の懐柔策
 国民の感情
 政府部内の人気
 僧侶社会の思惑

第一〇九回 輿論
 強悍(きょうかん)なる士民
 シナは文殊菩薩の国
 英領インドとチベットの関係
 チベットと英国との合戦

第一一〇回 清国とチベット
 清国皇帝の詔勅
 詔勅の効力
 一夫多妻の奨励

第一一一回 ネパールの外交
 兵備の必要
 外交政略
 両国の親交

第一一二回 チベット外交の将来
 チベットと三強国
 諦め易き国民
 チベット未来の運命
 法王の元気

第一一三回 モンラムの祭典(一)
 休養日の乱行
 祭祀前の光景
 執法僧官の圧制

第一一四回 モンラムの祭典(二)
 高僧の諷刺
 祭典中のラサ府
 祭典中の僧侶
 壮快なる供養

第一一五回 モンラムの祭典(三)
 駐蔵大臣の盛粧
 世界唯一の壮観
 博士の階級

第一一六回 投秘剣会
 兵士の服装
 五月雛の行列
 ネーチュンの出御
 市民の石供養

第一一七回 チベットの財政
 法王政府の大蔵省
 稀有の徴税法
 徴税以外の職務
 一種の役徳
 一大欠点
 税品の徴収
 法王の遺産処分

第一一八回 チベットの兵制
 常備兵五千人
 内乱の起る場合
 常備兵の内職
 兵士の気概
 天然的兵士
 俗謡の用法

第一一九回 チベット宗教の将来(一)
 迷信中の理想
 家庭は説教場
 回回(フイフイ)教の未来

第一二〇回 チベット宗教の将来(二)
 各宗教の現状
 断案
 旧師及び故郷への信音
 具足戒

第一二一回 秘密露顕の端緒
 危機を孕む
 商隊長の疑惑
 また疑わる
 上書きを認(したた)む

第一二二回 商隊長の秘密漏洩
 法王への上書
 秘密を漏す
 閉門の不幸

第一二三回 チベット退去の意を決す
 商隊長の狼狽
 ツァ・ルンバの苦心
 執るべき方法

第一二四回 恩人の義烈
 心事既に決す
 秘密を明かす
 繩を掛けて
 この老僧が殺されても

第一二五回 出発準備
 老尼僧の慈悲
 困るのはこの荷物
 経文と小僧の始末
 告別の願文

地図



第五巻 目次:

凡例

第一二六回 出発の準備整う
 無限の感慨
 先発の間際の変事
 荷物の託送

第一二七回 いよいよラサを出(い)ず
 天和堂の哀別
 気の知れぬ巡査
 巡査は無給
 林中の泣別れ

第一二八回 ゲンパラの絶頂
 チベット人の癖
 ナム駅の変遷
 再び法王の宮殿を望む
 巡礼の痛罵
 乞食の高利貸

第一二九回 山路を辿って第三の都会に入る
 ゲンパラ山巓の告別
 深夜雪山の旅行
 チベット第三の都会

第一三〇回 いよいよ関所に近づく
 宿主の疑惑
 テンバの誘惑
 曠原中の雪峰

第一三一回 五重の関門
 盗難の判断
 独立国の貢物
 五重の関門
 関門内と追尾の危険

第一三二回 第一の関門
 公道を取るに決す
 パーリー城
 宿主の執拗、下僕の白状
 病人の診察と証人の依頼

第一三三回 第一関門を通過す
 関門の通過と賄賂の多少
 役人を脅かす
 旅行券の手入れ
 パーリー城を去る

第一三四回 途上の絶景と兵隊所
 山麓の絶景
 駅継の兵士
 チョェテン・カルポ城

第一三五回 無事に関門を通過す
 日本の茶漬を喫食す
 第二の関門を通過す
 ピンビタンの兵営
 関長の妻君を診察す
 第四の関門も無事

第一三六回 いよいよ第五の関門
 第五の関門に着く
 第五の関門長は人足上り
 また関長を脅かす
 帰国証書

第一三七回 いよいよ五重の関門を通過す
 従者の後戻り
 鶴の一声
 第五の関門を出ず
 無量の感慨

第一三八回 チベットに別る
 旅行の道程
 チベットと英領インドとの国境
 名物の雹(ひょう)
 雨中田植を見る
 人間らしい臥床(ふしど)

第一三九回 荷物の延着、途中の滞留
 カリンポンに着す
 下僕をラサ府に帰す
 先発荷物の延着
 チスター河畔のラブチェ種族
 無能なるラブチェ種族

第一四〇回 ダージリンに旧師と会す
 ラブチェ種族の研究
 サラット氏の別荘に着す
 大熱病に罹る
 病気ようやく平癒

第一四一回 疑獄事件
 ヒマラヤ山中のマラリヤ熱
 一大疑獄事件
 英領インド政府の注意
 英国の秘密探偵

第一四二回 救解の方策
 空を飛んで来たか
 嫌疑者を救う方法
 ネパール国王に頼むに決す

第一四三回 大谷、井上、藤井三師の切諫
 同窓の友を訪うて旧師に会す
 バンキープールの奇遇
 三師の苦諫

第一四四回 奥中将を軍営に訪う
 激論深更に及ぶ
 恩人に対する義務
 ロシアの国事探偵
 奥中将を訪う

第一四五回 日本軍営の応対
 由比少佐の挨拶
 取付く島もない

第一四六回 ネパール国王に謁す
 ネパール行の紹介状
 国王の還御
 国王殿下の御下問
 符節を合わしたごとく

第一四七回 護衛兵士の腕力
 ランボンの猟宮を訪う
 番兵に摑み出さる
 総理殿下の慈悲

第一四八回 首府カトマンズに向う
 功徳の溜池と銃殺の権利
 四年前の旧知を訪う
 司令長官を訪う

第一四九回 国王代理に会う
 司令長官との問答
 勁敵(きょうてき)インド政府の防御
 まず長官に心事を語る
 サンスクリット語の法典

第一五〇回 獄裡の友を懐う
 チベットの巡礼
 ラサ府における恩人の消息
 大王殿下の宮殿

第一五一回 大王殿下の詰問
 外務大書記官の瀬踏み
 再び大王殿下に謁す
 大王殿下もまた疑う

第一五二回 再び宮殿に伺候す
 決心の臍を固む
 親切なる喜捨金
 三たび大王に謁す

第一五三回 ようやく目的を達す
 大王殿下の疑念ようやく解く
 大王殿下の許諾
 至極秘密の談話

第一五四回 龍樹菩薩坐禅の巌窟
 大王殿下の同情
 龍樹ケ岳に登る

大団円 故山に帰る
 大王殿下に別れを告ぐ
 在留日本人の厚意
 故山に帰る心事

地図

解説 (高山龍三)



河口慧海 チベット旅行記 1 02



◆本書より◆


「第三回 探検の門出及び行路」より:

「私がいよいよ出立の場合になると世の中の人は「彼は死にに行くのだ、馬鹿だ、突飛だ、気狂いだ」といって罵詈(ばり)するものがあったです。もっとも私の面前へ来てそういう事を言うてくれた人は信実に違いないが、蔭で嘲笑(せせらわら)って居た人は私の不成功をひそかに期して居った人かも知れないけれども、それらの人も私に縁あればこそ悪口を言ってくれたのでかえってその悪口が善い因になったかも知れない。多くの人が嘲り笑う中にも真実に私を止めた人もあります。」


「第七回 奇遇」より:

「翌日にネパール国境最初の関所でビールガンジという所に着(き)て、そこで私はチベットに居るシナ人として通行券を貰いました。その翌出立(しゅったつ)してタライ・ジャンガルという大林(だいりん)でヒマラヤ山の玄関というべき入口より少し前の村で宿りまして、その翌二十八日大林入口のシムラという村を過ぎて幅(はば)四里の大林を一直線に横ぎってビチャゴリという山川の岸にある村に着(き)て宿りました。夜の十時頃日記を認(したた)めつつ荒屋の窓から外を眺めますと、明月皎々(こうこう)として大樹の上を照らして居るに河水潺々(せんせん)としてなんとなく一種凄寥(せいりょう)の気を帯びて居ります。時に大地も震動(しんどう)しそうなうら恐ろしき大声が聞えました。なんの声かと宿主に尋ねますとあれは虎が肉を喰ってから川に水を飲みに来て唸ってる声であるとのことを聞いて思わず一つの歌ができました。
   月清しおどろにうそぶく虎の音に
        ビチャゴリ川の水はよどめる」



「第一二回 山家の修行(続)」より:

「それで私はなるほど世間というものは妙なものだ。我々は自分に考えて居る事しか世間の人の心中を忖(はか)る事は出来んが、実に面白いものだという感覚が起りました。」


「第十七回 チベット国境に入る」より:

「六月二十日また出立して例のごとく恐ろしい山を登って行きました。この辺には灰色の斑紋(はんもん)あるナーという鹿が居りまして、多い所には二百疋も三百疋も谷間に群がって居るです。だんだん山の中へ進んで行きますと山ヤクも居りますし、また雪豹とか山犬(チャンクウ)というような猛獣も遙かの山に見えて居ります。そういう奴が折々出て来るそうで、ある場所には喰われたのか死んだのか動物の骨の散らばって居る所もあり、また雪の中に凍え死んだ死骸の骨の散らばって居る所もありますが、頭の皿と足の骨は一向ないです。これはチベットの仏具に使うために倒れた人があると通る人が皆持って行ってしまうのでただ残って居るのは肋(あばら)の骨位です。そういう物を見る度に無常の観念に打たれるです。私もまた何処(いずこ)の山の端でこういう風になって果てるか知らんと思うと、幾許(いくばく)か先に死んだ人の事を想い出して後を弔う心も起りました。」


「第二十一回 山中の艱難」より:

「随分猛獣の迫害も恐ろしいものでございますけれども、それよりもなお人間の迫害の方がよけいに怖い。何故ならば猛獣はこっちでよく寝て居る時分にはどうかすると寝息を聞いても喰わずに行ってしまうこともあるです。」


「第三十回 人里に近づく」より:

「さてその砂原を二里半ばかり行きますとまた草原に着きました。その草原を少し参りますと誠に奇態な石ばかり集まって居る原野に山が一つチョンポリと立って居る。後にその山の来歴を聞いてみますとそれはポンという教えの神さんが住んで居る山であったそうです。このポン教というのは仏教がチベットに入る前にチベット人の宗教として行われて居ったものである。今もなお微々ながら行われて居りますが、その教えは一体インドに在る教えに似て居る。というのは仏教が入って後ポン教は非常に衰えたので、その後ポン教のある僧侶が仏教の組織をそのままポン教に取ってしまって新ポン教というものを拵(こしら)えたです。それゆえ今のポン教は犠牲を供するとか、妻帯をするとか、酒を飲むことを除くの外は教理の上においてはほとんど仏教と同一である。この教えの事は専門にわたりますからここでは申しませんが、つまりチベット古代の教えの神々の住んで居る杜というようなものは別にない。大抵は石山あるいは雪峰もしくは池、湖というような所になって居る。その山の所を過ぎて少し向うへ参りますと野馬が二疋向うからやって来たです。ここでその野馬の説明を少しして置きたい。野馬はチベット語にキャンというて北原の野馬だとして居るが、その実は野の驢馬(ろば)であって英語にはチベット語をそのまま用いてキャンというて居る。学名はエジュアス・ヘミオニスであるとのことだ。その大きさは日本の大きな馬ほどあって背中の色は茶がかった赤い色で腹が白い。背筋がまっ黒で尾は驢馬の尾のごとく細く鬣(たてがみ)もある。すべての様子は馬と少しも変って居らないがただ違って居るのは尾だけである。そうして余程力の強いものでその走る速力も非常なものですが決して一疋で出て来ることはない。大抵二疋かあるいは五、六疋、あるいは数十疋群を成して出て来る。妙な馬で半里も向うの方からくるくる廻りながら四、五町手前まで来るとまたクルッと廻ってあたかも狐が後を向いて見て居るような風に見てそうしてまた驚いたような風をして逃げ出す。で、もう逃げて居らんのかと思うとまたくるくると廻って自分の近くに来て居る。いつまでもくるくる人の周囲(ぐるり)を廻って見て居るです。その馬が出て来ましたが例の事であるから別段不思議にも思わずにそのまま進みました。
 ところがどうしたのか羊がその野馬の走る勢いに驚いて私の持って居る手綱を引き外して逃げ出した。さあそれからその羊をば追っかけた。追っかければ追っかけるほど余計に逃げる。なにしろ広い原の中ですからくるくる廻り廻って羊の跡を追っかけたがなかなか追っつかない。羊は余程走るのが早い。で私と羊と競走して居るものですから野馬の奴がまた好い気になってそのぐるりを走って居るからどうしても羊が止まらない。もう私は疲れ果てて遂には倒れそうになった。(中略)仕方がないからそのまま自分は倒れてしまって暫く羊の逃げて行くままにうっちゃって置いた。(中略)ジーッと正視〔静視〕して居ると野馬も突っ立って眺(なが)めて居るです。そうすると羊も止まって正視〔静視〕して居る。こりゃなるほど私が悪かった。むやみに追っかけたから逃げたのだ。いわゆる狂人を追うところの狂人、馬鹿げた事だと休息致しました。
 暫くして静かに羊の綱を捉(つか)まえに行くと今度は訳もなく捉まえられた。」



「第三十八回 天然の曼荼羅(まんだら)廻(めぐ)り」より:

「するとそこで面白い話を聞いたです。それは向うの釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)といわれる雪峰チーセに対して礼拝をして居る人がある。その人はいわゆる強盗の本場であるカムの人です。様子を見るに実に獰悪(ねいあく)なまた豪壮な姿であって眼眦(まなじり)なども恐ろしい奴ですから、強盗本場の中でも一段勝(すぐ)れた悪徒であろうと思われたです。その悪徒が大きな声で懺悔をして居る。
 その懺悔のおかしさと言ったらないです。なぜならばおよそ懺悔というものは自分のこれまでした罪業(ざいごう)の悪い事を知って其罪(それ)を悔いどうかこれを免(ゆる)してくれろ、これから後は悪い事はしないというのが一体の主義である。しかるにその人らのして居る懺悔は実に奇態で私も聞いて驚いたです。その後ある人に聞きますればカムの人がそういう懺悔をするのは当り前である。誰でもその通りやって居るという。だから私は実に驚いた。それはどういう訳かというとこういって居るのです。
  ああ、カン・リンボチェよ。釈迦牟尼仏(しゃかむにふつ)よ。三世十方(さんせじっぽう)の諸仏菩薩(しょぶつぼさつ)よ。私がこれまで幾人かの人を殺し、あまたの物品を奪い、人の女房を盗み、人と喧嘩口論をして人をぶん撲った種々の大罪悪を此坂(ここ)で確かに懺悔しました。だからこれで罪はすっかりなくなったと私は信じます。これから後私が人を殺し人の物を奪い人の女房を取り人をぶん撲る罪も此坂(ここ)で確かに懺悔致して置きます。
とこういう事なんです。実に驚かざるを得んではありませんか。」

「それから三町ばかりその坂を降って参りますと大きな池がある。その池はすっかり氷で張り詰められて居る。その池について一つの神話的面白い話がある。それは昔善財童子(ぜんざいどうじ)がこの池で手を洗われた。その時分には夏の中は氷なんかは張って居らなかったのであるけれども、その後ある巡礼が子をおぶってこの辺に来てその綺麗な水で手を洗おうとして俯向(うつむ)くとそのおぶって居る子が池の中に落ちて死んでしまった。それからこの山の神様がこれではいけないというのでいつも氷を張り詰めることにしたのである。これは神様の徳で我々を保護するために張られたところの厚い氷であるという説明なんです。」



「第五十回 物凄き道」より:

「ポェというのはチベットの国の名で、チベット人はその国を呼んでポェといって居ります。チベットという名はチベット人自身はチベット〔ちっと〕も知らんのです。」


「第五十二回 第三の都会を過ぐ」より:

「聞くところによるとこの辺の麦作は一斗の種で四斗ぐらいの収穫を普通とし、もし六斗も取れれば非常の豊作だといって喜ぶそうです。(中略)これで見ても耕作法のいかに進んで居らぬかが分る。で、その畑を見ると一層驚かざるを得ない。その畑の中にはごろごろと石の多いことまるで石を植えた石畑のようなものです。これは決して悪口でない。どこへ行ってもその通り。
 だから私はある時チベット人に忠告してこの石を取り除けてはどうかといいますとそんな事は昔から習慣がないからやらんという話。チベット人は昔からの習慣ということを先天的命令のように心得て居ってこの習慣がすべての事情を支配して居るです。もっとも都会の人は幾分か改進的の気象を持って居りますから西洋品なども輸入するのでございますけれども、一般の人民は非常に昔の習慣を尊んで居りますので、現に自分の田畑を害して居るところの沢山な石を取り去ることすらも習慣がないからといってやらんのです。」



「第五十六回 異域の元旦」より:

「私は泥棒に逢って金が失くなったけれども、その後いろいろの人から金を恵まれ、それからお経を読んで布施をもろうても其金(それ)を使うということはそんなにない。喰物(くいもの)は人からくれるという訳で大分金が出来ました。」


「第五十七回 二ヵ月間の読経」より:

「食器を自分の着物で拭く位の事は平気なもの、卑陋至極(びろうしごく)ではありますが彼らは大便に行っても決して尻(しり)を拭(ぬぐ)わない。またインド人のごとく水を持って行って左の手で洗うというような事もしない。全く牛が糞(ふん)をしたように打棄(うっちゃ)り放し。しかしこれは少しも奇態な事ではないので、上は法王より下は羊追いに至るまでみなその通りですから、私のように隠れ場へ紙を持って行くというような事をしますと大変に笑われるのみならず不審を抱かれるです。子供などがそれを見付けますと大笑いに笑って向うの方に逃げて行ってしまう。実にこれには困りましたけれど、さてそれかと言ってどうも隠れ場へ行ってそのまま出て来ることは出来ないから、なるべく隠して紙を持って行ってどうにか向うの知らん中にうまく始末をして厠(かわや)の中から出て来るという始末。これには実に閉口しました。」


「第八十五回 刑罰の種類」より:

「一体チベットの拷問の方法はごく残酷である。またその処刑もごく野蛮の遣り方である。獄屋というようなものも、なかなかこの世からのものとは思えない程の所で、まずその拷問法の一つ二つをいいますと、先に言った割竹で指の爪を剝すとか、あるいは石で拵えた帽子を頭に載せるという仕方もある。それはまず始めに一貫匁ぐらいの帽子を載せ、それからまたその上に同様の帽子を、だんだん五つ六つと載せていくので、始めは熱い涙が出て居る位ですが、仕舞には眼の球が外へ飛び出る程になってしまうそうです。そういう遣り方もある。」
「刑罰の一番優しいのが罰金、笞刑(ちけい)、それから眼球を抉(く)り抜いて取ってしまう刑、手首を切断する刑。それもじきに切断しない。この両方の手首を紐で括(くく)って、およそ半日程子供が寄って上げたり下げたりして引っ張って居るです。すると仕舞(しまい)には手が痺(しび)れ切って我が物か人の物か分らなくなってしまうそうです。その時に人の見て居る前で切断してしまうのである。これは多くは泥棒が受ける。(中略)ラサ府の乞食にはそういう刑に処せられたのが沢山ある。」



「第八十六回 驚くべき葬儀」より:

「チベットのいわゆる鳥葬というのは仏法の方では風葬というもので、チベットでは屍骸をチャ・ゴエ(禿鷲)に食わせるのをもって一番良い葬(ほうむ)り方として居るです。その次が火葬、水葬で一番悪いのが土葬である。
 土葬は通常の病気で死んだ時分には誰でもやらないです。チベット人は非常に土葬を嫌う、ただ天然痘で死んだ時分だけ土葬にするです。それは鳥に与(や)れば鳥に伝染の憂(うれい)があり、また川に流せば他に伝染の憂があるというところから許されないのです。火葬はまあ良い方ですけれども、殊に薪の少ない所でもありまさか屍体をヤクの糞で焼くことも出来ませんから、それで火葬は余程上等の人でなけりゃあ行われない。水葬は大きな川の辺では大抵行われるです。それも屍体その儘川の中に放り込まない。屍体の首を切り手を切り足を切り、みんな切り放して流すです。そうするとあっちの洲(す)に止まりこっちの崖に止まることもなく、魚もまた食い易いからということであります。
 空葬といって空に葬るのはいわゆる鳥に食わせるので、こりゃ実地私が見たところでお話しましょう。この四通りの葬り方についてどういう風にしてよいかとラマに尋ねるので、ラマはその人相応の指図をするのです。なんでこの四通りの葬り方があるかというと、インド哲学の説明では人体は地火水風の四つより出来て居るという。それゆえこの四つに帰る道があるので、土(ど)に帰るのは地(ち)それから水(すい)、火(か)として鳥に食わすのがすなわち風(ふう)に帰るのであるという説明なんです。大抵まあ僧侶は皆鳥に食わせる。ただ法王とかあるいは第二の法王および尊き化身(けしん)のラマ達はこりゃ別物であって普通の僧侶は鳥に食わせます。
 私が今度送って参ります葬儀もこの鳥葬で、まずセラの大学から出て東へ向って行くと川の端に出る。その川辺を北へ廻り山の端について二、三町も行きますと、同じく川端でしかも山の間に高さ六、七間もあろうかという平面の大きな天然の巌があります。(中略)そこがすなわち墓場でして、墓場のぐるりの山の上あるいは巌の尖(さき)には、怖ろしい眼つきをした大きな坊主鷲が沢山居りますが、それらは人の死骸の運んで来るのを待って居るのです。まずその死骸の布片を取って巌の上に置く。で坊さんがこちらで太鼓を敲(たた)き鉦(かね)を鳴らして御経を読みかけると一人の男が大いなる刀を持ってまずその死人の腹を截(た)ち割るです。そうして腸を出してしまう。それから首、両手、両足と順々に切り落して、皆別々になると其屍(それ)を取り扱う多くの人達(その中には僧侶もあり)が料理を始めるです。肉は肉、骨は骨で切り放してしまいますと、峰の上あるいは巌の尖(さき)に居るところの坊主鷲はだんだん下の方に降りて来て、その墓場の近所に集るです。まず最初に太腿(ふともも)の肉とか何とか良い肉をやり出すと沢山な鷲が皆舞い下って来る。
 もっとも肉も少しは残してあります。骨はどうしてそのチャ・ゴエにやるかというに、大きな石を持って来てドジドジと非常な力を入れてその骨を叩き砕くです。その砕かれる場所も極(きま)って居る。巌の上に穴が十ばかりあって、その穴の中へ大勢の人が骨も頭蓋骨も脳味噌も一緒に打ち込んで細かく叩き砕いたその上へ、麦焦(むぎこが)しの粉を少し入れてごた混ぜにしたところの団子(だんご)のような物を拵えて鳥にやると、鳥はうまがって喰ってしまって残るのはただ髪の毛だけです。
 さてその死骸を被(おお)うて行ったところの片布(切れ)その他の物は御坊(おんぼう)が貰います。その御坊(おんぼう)は俗人であってその仕事を僧侶が手伝うのです。骨を砕くといったところがなかなか暇が掛るものですから、やはりその間には麦焦(むぎこが)しの粉も食わなければならん。またチベット人は茶を飲みづめに飲んで居る種族ですからお茶を沢山持って行くです。ところが先生らの手には死骸の肉や骨砕(ほねくず)や脳味噌などが沢山ついて居るけれども、一向平気なもので「さあお茶を喫(あが)れ、麦焦(むぎこが)しを喫(あが)れ」という時分には、その御坊(おんぼう)なり手伝いたる僧侶なりが手を洗いもせず、ただバチバチと手を拍って払ったきりで茶を喫(の)むです。その脳味噌や肉の端切のついて居る汚い手でじきに麦焦しの粉を引っ摑んで、自分の椀の中に入れてその手で捏(こ)ねるです。」
「で「実はこれがうまいのだ。汚いなんて嫌わずにこうして食って遣れば仏も大いに悦ぶのだ」といってちっとも意に介しない。」



河口慧海 チベット旅行記 6



チベット旅行記 (青空文庫):

http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html















































S・ヘディン 『チベット遠征』 金子民雄 訳 (中公文庫)

「このだれとも知れぬ世捨人は、いま聖人になったのだ。輪廻の束縛から解放され、永遠の至福の光明へと旅立ったのである。」
(S・ヘディン 『チベット遠征』 より)


S・ヘディン 
『チベット遠征』 
金子民雄 訳
 
中公文庫 へ-5-1 

中央公論社
1992年8月25日 印刷
1992年9月10日 発行
478p 口絵(モノクロ)1葉 
巻末折込地図1葉
文庫判 並装 カバー
定価840円(本体816円)
カバー画: チベットの寺院の正面入口。一九〇八年。(新しく発見されたヘディンの水彩画)



本書「訳者あとがき」より:

「『チベット遠征』は、一九三四年にスウェーデンで出版され、続いて同じ年アメリカで翻訳出版された。
 著者のスヴェン・ヘディンは、わが国でも中央アジアの探検家として著名な人であり、改めて紹介するまでもないであろう。」
「本書の原本は Erövringståg i Tibet, Stockholm, 1934 で、この英訳が A Conquest of Tibet, New York, 1934 である。英訳のタイトルは『チベット征服』で、いささか誤解を招きかねないものであるが、原題は『チベット征服の旅』といった意味で、あくまで冒険行ぐらいのことである。そこで本書では『チベット遠征』と改めることにした。」



本文中図版(モノクロ)多数。


ヘディン チベット遠征 01


カバー裏文:

「神秘的な僧院、嵐をついて高原を進むキャラバン、精霊がささやきかわす峠、洞穴の中でひっそりと死を待つ隠者……中央アジアに魅せられた探検家ヘディンが、三度の遠征で目撃・体験したチベットの自然・地理・風俗を、従者や現地の友人との交流を交えて克明に描き出す。自筆の挿絵282枚つき。文庫オリジナル」


目次:

1 チベットへの最初の潜行
2 未知の国
3 モンゴル人と盗賊
4 チベットの中心部へ
5 変装してラサへ
6 カムバ・ボンボの捕虜
7 禁じられた国への再征
8 無人地帯の三ヵ月
9 遊牧民の故郷
10 トランスヒマラヤを越えてシガツェへ
11 タシ・ルンポの新年祭
12 タシ・ラマと彼の寺院都市
13 神秘的な僧院
14 ブラーマプトラ川の水源と聖湖
15 インダス川水源の発見
16 殺人的な冬の旅

訳注
訳者あとがき
ヘディン・チベット探検図



ヘディン チベット遠征 02



◆本書より◆


「1 チベットへの最初の潜行」より:

「アジアの心臓部には、地上最高の山岳地帯の雪をいただく山々が、太陽と星に向ってそびえ立っている。それは「チベット」、すなわち「雪の国」として知られるところである。「冬の住居」たるヒマラヤは、チベットの南の国境地帯で一つの城壁を形成し、また常夏の国インドの北限をも画している。中央アジアにおけるシナ・トルキスタンの息づまるような砂沙漠に覆われた場所から、チベットは崑崙(コンロン)の巨大な山系によって隔離されている。(中略)チベットの住民たちは、草原(ステップ)地帯の野蛮人から自らを守るため、万里長城を建造した中国諸皇帝のやりに従う必要などさらになかった。禁じられた山々は堅固な防御壁となって、この土地の備えとなってくれたからである。こうした理由から、チベットは現在に至るまで、この地球上で最も知られざる、最も近づき難い場所の一つとして残されているのである。」


「2 未知の国」より:

「アジアの猟獣のうち、野生ロバほど私に深い印象を与えたものはなかった。私の尊敬と称賛においてこれに唯一比肩できるものといえば、野生ラクダであった。私がしばしば出会った野生ラクダは、不可解な幻影か、さもなくば幽霊船のように、静寂な荒野の中をひゅうひゅうと通り過ぎていくのであった。ところが野生ロバは、高貴で古い血統を持っている。(中略)予言者と諸王は、この動物について言及し、力と勇気の生ける象徴(シンボル)として見ている。然り、神自らこれについて簡明的確な言葉で記している。(中略)「だれが野ろばを放って、自由にしたか。だれが野ろばのつなぎを解(と)いたか。わたしは荒野をその家として与え、荒れ地をそのすみかとして与えた。これは町の騒ぎをいやしめ、御者の呼ぶ声を聞きいれず、山を牧場(まきば)としてはせまわり、もろもろの青物(あおもの)を尋ね求める」(ヨブ記、第三九章)」
「アジアでは強大な帝国が勃興し、繁栄したが、やがて滅亡していった。騎馬軍団の一軍勢の首長であり、草原にあったチンギス汗(ハン)の幕営が、やがて厖大な領国へと発展していったのであるが、やがて数世紀して没落し去った。人民が人民を力ずくで追い出し、互いに滅ぼし合い、広大な大陸全体にわたって移住が広がっていった。アジアの只中に建てられた仏教国は流沙の中に呑み込まれ、埋没し去った。これまで起った全てのこと、これから起るであろう一切のことは、その始まったときから崩壊の刻印が刻まれているのだ。「この世の一切のものは空にして、苦しみの種子なり」と。
 ただ野生ロバの王国のみがいまだ手つかずで残り、幾世紀前の、中国諸皇帝の像が色彩と光雲で包まれた伝説の時代と同じように、今日も若々しく、強力なのである。なぜなら神自ら与えたもうた自由を、ロバからだれが奪うことができようか。幾世紀もの間、その棲処となってきた果しない広野から、この動物を追い払おうとするものがあったろうか。ロバは全アジア内陸部に広がる草原に、いまでも草を食み、チベットの渓谷を飾る、紫色のニガヨモギの芳香ある汁液を好むのである。」



「3 モンゴル人と盗賊」より:

「この地点から北のそう遠くないところに、巨大な湖クルリク・ノールの湖面が広がっている。これがホルイン・ゴル川の水源であるが、この川沿いで、われわれは夕方になると火のまたたくのを認めた。昼間には、人の姿形すら見かけなかった。この近在には、なにかある奇妙な、呪縛にかかった妖気が漂っていた。気品のある白鳥までもが、魔法にかけられた王子や王女たちの幻影のように、思えるのだった。
 夜になると、満月に照らされた光が、湖水にかかった銀の橋のように、ちらちらと揺らめいていた。湖岸のわずかに高くなった所に、オボが一つ立っていた。そのぼろぼろに裂けた祈祷の長旗が、夜の微風の中で、薄気味悪くはためいていた。長旗がぱたぱたと激しい音をたてて鳴ると、それはあたかも精霊たちがお互いになにか話し合っているように思えるのだった。
 人が死んで、その遺骸が狼やハゲタカの貪り食うにまかせておかれると、霊魂はその宿るべき住処として新しい肉体を求め、見知らぬ場所やほの暗い土地をさまようのである。この死者が生前に善人だったり、尊敬すべき人物であったなら、その霊魂は長い時間をかけて肉体を求める必要はなく、前世よりもはるかに地位も高く、よい生命体に宿れるのである。しかし、罪障が深く、悪人であったなら、下層界に落ちて、犬やフクロウ、あるいは蛇などになるのである。このようにして霊魂は、休むことなく新しい宿主を求めてさまよい歩くのである。」

「アジアのこの地域での最大の湖水、ココ・ノール、すなわち「青海」を遠く望むまで、そう長い時間がかからなかった。高度三〇三〇メートル、まわりを堂々たる雪をかぶった山々に囲まれている。この美しい、青緑色した湖岸に沿って進んでいったが、そこはタングート族とモンゴルの遊牧民の冬のキャンプ地であった。夏季、彼らは山々へ新鮮な放牧場を求めて移動するのである。
 湖水の中央に、低い岩島が一つ水面から現われている。この島の小さな粗末な石造りの小屋に、二、三人の聖なる僧侶が住んでいるのだと、遊牧民が語った。彼らは完全に外界から切り離されており、ただ敬虔な巡礼者がこれら世捨人に食糧を運ぶため、あえて危険を冒して氷上を渡るときだけ、彼らは他の人間とつかの間の交流が持てるのだった。」
「歳月はどんどん過ぎていく。世捨人もいつか年をとり、やがて死ななくてはならない。彼らのうちの一人が世を去ると、残された二人の仲間は、死体をごくわずか高くなった岩の上にまで曳きずっていき、ハゲタカや大ガラスの歓迎すべき食糧にする。衣類は死体からはぎとられる。二人目の世捨人が死ぬと、とうとうただ一人だけ残されてしまう。島には、もうたった一人の世捨人しか残っていないか、あるいはもうだれもいないことが本土に知られると、己れを島と島に住む精霊に、いつでも喜んで犠牲に供することのできる、別の夢想家が捜されるのだ。」



「7 禁じられた国への再征」より:

「水はインクを流したように黒かった。あたりは大変に暗い。月の軌道に当るところだけ、銀色の光が死んだような波間に踊っていた。漆黒の幽霊が、チャルグート・ツソ湖から出現した。昏睡状態をかき乱された、恐ろしい怪物だ。この怪物はどんどん大きくなり、われわれに飛びかかり、あっという間に、呑み込もうとした。だがそれは、われわれがちょうど寄ろうとしていた断崖の突端であった。われわれはボートをしっかり縛り、それから横になった。」


「9 遊牧民の故郷」より:

「このようにして彼らは生活し、放浪し、何代も何代も、何百年にもわたって過してきた。チャン・タンは彼らにとって貧しい家郷であり、そこで彼らは、貧困と危険と闘いながら、神の自由な大気の中で、勇敢にしかものびのびと生きている。彼らは嵐の咆哮を恐れることはない。なぜなら雲が彼らの兄弟だからだ。彼らは山と谷の領域を、荒野の動物とだけ分ちあい、夜になると、永遠の星が彼らのテントの上にまたたく。氷のような寒気、霏霏(ひひ)と舞う漂雪、静まりかえったチベットの冬の夜を照らす白い月の明りを、彼らは愛すのである。」


「10 トランスヒマラヤを越えてシガツェへ」より:

「われわれは新しい雄大な山系を登っていった。(中略)この山脈はチベットを東西に横断し、ヒマラヤと平行している。私はこれにトランスヒマラヤと命名したが、この山系を数地点で横断して、だいたいの輪郭を地図の上に描くというのが、私の目的であった。」
「チベット人を除けば、これまでだれもこの地を訪れたものはいない。これこそ私の土地であり、私はここを征服したのだ。夕方遅く、私は自分の王国を調べてみるため歩いてみた。そこは月の光に照らされ夢みるように横たわっていた。私の目は、谷底の暗く蔭になったところから、峠の鞍部の側面が月明りで照らされている断崖まで、素早く一瞥した。峠の南側から、水がブラーマプトラの上流であるツァンポー川に向って、流れ落ちていた。ここからついにはインド洋へ注ぐのである。」



「13 神秘的な僧院」より:

「死んだタルティングの住職のような、化身の聖僧だけが、火葬に付されるのである。その他の者の遺体は、手足をばらばらにし、肉はシガツェの場合と同じく、聖なる寺院の犬かハゲタカに与えられる。この恐ろしい仕事に従事する人たちは「ラグバ」と呼ばれ、低く、卑しい階級(カースト)に落された人たちである。輪廻という果しない鎖の中では、彼らラグバの霊魂は、やがて動物か厭わしい人間の体に宿ることになるので、彼らの将来は暗いのである。
 僧院で、兄弟僧が死ぬと、その仲間の僧が遺体を死体解体場所へ運び、衣類をすっかり剝ぎとって、彼らの間で分配してしまう。それからラグバが身の毛もよだつような仕事に着手する。遺体の首に巻きつけた縄を、しっかり杭に縛って固定したあと、両足を摑んで引っぱるので死体は真直ぐに伸びる。肉は鋭い小刀で切られ、寺院の犬かハゲタカに投げ与えられる。骨は石臼(いしうす)の中で砕き、粉末になった骨は脳とこねて団子に作り、これもやはり犬の餌にするのである。」

「ある嵐の日、山々に深い雪が積ったので、二人の従者と私とは、リンガとペスーの上手の渓谷をつめ、絶壁の麓のサムデ・プクと呼ぶ洞穴、すなわち石小屋へと馬で出かけた。(中略)この洞穴には戸も窓もなかった。洞穴の内部に一つの泉が湧いており、一条の狭い溝が壁の下の地面に沿って通じていた。たった一人の孤独なラマ僧が、この穴の中に閉じ込められていた。彼は別に刑罰を受けて、この土牢に入っているのではなかった。自ら進んで、この孤独と暗闇の中に入ったのだった。
 「彼の名はなんというのですか」と、私は訊ねた。
 「名はありません。ただラマ・リンポチェ、つまり聖僧とだけ呼んでいます」
 「どこの出身なのかね」
 「生まれはナクツァン州のヌゴールです」
 「だれか親戚でもいるのかね」
 「分りません。一番近い親族でも、彼がここにいることは知りません」
 「閉じ込められてからどのくらいたったのですか」
 「三年です」
 「ここにいつまでいるつもりですか」
 「死ぬまでです」
 「日の光を見てはいけないのですか」
 「いけません。彼は生きてこの洞穴は出ないという神聖な誓いを立てたのです」
 「何歳になりますか」
 「分りませんが、多分、四十歳ぐらいでしょう」
 「もし病気になったら、どうするつもりですか」
 「死ぬか、ゆっくり快癒するのを待つのです」
 「彼の体の調子は、どうやって知りますか」
 「一椀のツァンバと、時々少量のバターとを、毎日、溝を通して差し入れます。もし六日間、まったく手をつけてなければ、彼は死んだものと認め、洞穴の中に押し入ります」
 「こんなことがこれまでにもありましたか」
 「はい、一人のラマ僧が三年前に死にましたが、彼はこの地下室に十二年間暮しました。十五年前のことですが、二十歳のときこの暗闇の中に入り、四十年間生き続けて死んだものがいます」
 「食事を持っていく僧侶とかが、溝越しに、話しかけるなどということはないのですか」
 「いいえ、ありません。そんなことをすれば、話しかけた僧は永久に呪われるでしょうし、三年間のお籠りのご利益がふいになってしまうでしょう」
 「彼は、洞穴の外で喋っているのが聞えるでしょうか」
 「いいえ、この壁は大変厚いのです」
 この神秘に充ちたラマ・リンポチェが、三年前にこのリンガにたどり着いたとき、彼は生涯この暗闇の中に入る誓いを立てたのだった。」

「このだれとも知れぬ世捨人は、いま聖人になったのだ。輪廻の束縛から解放され、永遠の至福の光明へと旅立ったのである。」



ヘディン チベット遠征 03

























































































阿部正路 『日本の妖怪たち』 (東書選書)

「私には、妖怪がいつも見えており、〈妖怪〉は、私とともにある。」
(阿部正路 『日本の妖怪たち』 より)


阿部正路 
『日本の妖怪たち』
東書選書 64 

東京書籍
昭和56年7月20日 第1刷発行
昭和58年8月25日 第3刷発行
233p 口絵(カラー)1葉 
四六判 並装 カバー 
ビニールカバー 
定価1,100円
装幀: 勝井三雄



本文中図版(モノクロ)32点。
著者は1931年生、国文学者。本書の姉妹篇『日本の幽霊たち』ももっていたのですがどこかへいってしまいました。


阿部正路 日本の妖怪たち 01


帯文:

「日本の文化を形成した
妖怪たちの諸相
日本では、天地創造のころ、草木もものを言ったとある。そして時に、猫も馬も人間の言葉で話した。不思議は絶えることなく今につづき、なお明日も明後日もつづくと思われる。」



帯裏:

「幽霊は、人間のかたちをして
この世に立ちかえり、ほとんど常に
一人の人を目ざし、思いのたけを
遂げれば消え去るのに対して、
妖怪は、二つ以上の動物が
その原型をとどめながら一つに化し、
一つの命題だけを固く守りぬく。
妖怪の発生は、
民衆の英雄待望の心の
いたいたしい挫折感に基づいている。
いわば、民衆の見果てぬ夢の
まがまがしくねばり強い幻である。
歴史、風俗、伝説にあらわれ、
日本人の心に明滅した妖怪の諸相を
生き生きと描いた初めての書。」



カバーそで文:

「日本では、天地創造のころ、草木もものを言ったとある。そして
時に、猫も馬も人間の言葉で話した。不思議は絶えることなく
今につづき、なお、明日も明後日もつづくと思われる。
日本の妖怪たちは、時に、世直しのためにあらわれ、
そして時に、人間を楽しませるためにあらわれる。
しかし、基本的には、妖怪は、まがまがしく怖ろしいものであり、
目に見える妖怪よりも、見えない妖怪こそ威力を発揮する。……
妖怪の基本は、二種類以上の動物が一つになった場合で、
〈鵼(ぬえ)〉にその一典型をみる。鵼に限らず、妖怪のほとんどは
尻尾を持つ。尻尾は、動物が方向感覚を保ち
重心のバランスを保つためのかけがえのない舵である。
その舵を持たない人間は、実は妖怪にすら及ばないのではないか。
――あとがきより」



目次:
 
Ⅰ 妖怪とは何か
 一 人間の極言
 二 妖怪の発生
 三 視覚化された妖怪
 四 確かな存在
 五 血肉をまとうもの
 六 水の妖怪
 七 空と風の妖怪
 八 言霊の中
Ⅱ 妖怪の歴史
 一 他界との交叉
 二 翳・鬼・蛇・一本足
 三 闇の中にひそむもの
Ⅲ 垂直と水平の夜行
 一 百鬼夜行
 二 平田篤胤の妖怪論
 三 幽界との往き来
 四 『稲生物怪録』
Ⅳ 座敷ワラシとその祖型
Ⅴ 妖怪たちの行方
Ⅵ 神社・仏閣奇縁譚縁起
 一 奇譚縁起の基本
 二 神社奇譚縁起
 三 仏閣奇譚縁起
 四 神と仏は水波の隔て
 
妖怪の尻尾――あとがきに代えて
 
妖怪出現略年表
奇譚寺社分布地図
妖怪分布地図
妖怪主要索引



阿部正路 日本の妖怪たち 02


口絵:  

「御水虎様(河童、青森県) 国学院大学折口博士記念古代研究所蔵」



◆本書より◆


「一 人間の極限」より:

「やさしい妖怪たち――。
そして、怖ろしい妖怪たち。
妖怪は、すべて、人間の果て(引用者注: 「人間の果て」に傍点)である。
妖怪は、人間の内部にも、外部にも存在しつづける。妖怪は人間にもどりたいと願いつつ、ついに人間にもどることのできない哀しみに充ち溢れて、野山や海川草木にこもる」

「それらは闇の光と決して無縁ではなく、火とともにあらわれ、火とともに消える。それらは、あたり一面の闇の中に走り散り、闇とともに満ち充ちてこの世に存在しつづける。それらは(中略)決して滅び尽くしたのではない。やがて来るであろう「その時」を闇の沈黙の中で、じっと待ちつづけているのだ。」

「そして蛇、それはまがまがしく細長い一筋の怨念である。」

「人はしばしば哀しみのあまりに石と化し、石はしばしば夜どおし啼(な)きつづけてやがて土となった。人間は土に生まれて土に死ぬ。土に死ねばこの世に再びかえってはこない。にもかかわらず、その土からさえ、この世に立ちかえってくるもの。それが妖怪である。
 天に常に降りこめられているもの。それが土である。その土から怨念さながらに直立するものたちが、草であり、木である。天地創造の時代に、われわれの祖先は、その木やその草から、直接の言葉を聞いた。草や木がすでに言葉を失なってしまったわけではない。ただ沈黙しているだけである。
 さまざまの草木が、さまざまの妖異譚を生んでこの国に伝わっている。(中略)文化二年(一八〇五年)に上州上田郡の椿の枝に小児の手が生えたという伝えや、保延四年(一一三八年)に深草で、倒れた木が自然に立ったという伝えは、なお生きいきとして忘れがたい。草木はなお枯れはてずにわれわれの周辺に天をさして立ち、草は風になびいて折れることはない。永延三年(九八九年)の六月十九日には、下賀茂神社の檀の木が自然に折れて、その中から光る星のいくつかがあらわれて、南をさして飛んでいったという。この怪異譚は、樹木が天の星をいただいていることを教え、怪異譚も、動かしがたく美しい世界を含んでいることをも教えてくれるのである。この星の行方こそ、強力な、現実肯定者への呪術の〈かたち〉だといえなくもない。」
「天地創造の時代は、草も木も、ことごとくが、ものを言う時代であった。草や木がものを言い、草や木が神や人間やけものそのものを思わせる時代こそ、真に〈創造的〉な時代であり、そうした、生きいきとした〈原初〉の時代にかえることこそ、妖怪たちの願望であることを、〈木魅〉や〈彭侯〉の存在が教える。そしてそのためには、樹木の生命が、百年を超え、千年に達し、やがては万年に及ばなければならなかった。」
「江戸時代の大衆挿絵双紙である黄表紙『化物大閉口(ばけものだいのへいこう)』では、江戸の繁昌で明るくなりすぎた夜の町に出どころを失ない、困った妖怪変化たちが、なんとか出直そうとして黄表紙の作者にたのみこんだところ、人間の世界の、妖怪たちにもまさる怪異ぶりを見せつけられて、とても江戸の人間にはかなわないといって、しょんぼりと箱根を越えて西の方向へあてもなくさまよってゆく〈話〉が伝えられている。
 この〈話〉に注目した阿部主計は、「こうして、怪異不信をいちおうの前提とした上で、固定文化の生活の限界に飽きて刺戟を求める都会人の心は、信ぜざるが故に安心して(引用者注: 「信ぜざるが故に安心して」に傍点)怪異を夢の世界の娯楽と化していった」(「怪異の市民権」『妖怪学入門』)という。みごとな指摘というよりほかない。けれどもそこでなおかつ心に残るのは、日本の妖怪たちの行方である。かつて、人間は草木とともに在(あ)った。それは、怪異な物語としてではなく、天地創造にそのままつながるものとして在った。人間は、草木によって生かされた(引用者注: 「生かされた」に傍点)のに、いたずらにその数を増して、人間が、化けものじみた存在と化したまさにそのとき、草木もまた妖怪に変じたのではなかったのか。」

「死者が、生前の自分自身の姿でたった一人であらわれ、恨みを果たすべき人間を目ざして真直ぐに立ちかえってくるもの、これが幽霊である。しかし、その恨みが激しく陰惨であればあるほど、ただ一人の相手のみならず恨みをはらすべき人間にとりわけ近い人間たちにとりつき、その怨念の力を発揮する。さらにいっそう、その恨みが陰惨であれば、動物たちにとりつく。」
「そしてさらにまた、(中略)お菊の怨念は、うしろ手にしばられて一筋の糸につるされるお菊虫となり、『八丈実記』にみえる島抜けに失敗して死罪となった女もそして累も怨霊の虫となって穀物を食い荒らしてゆく。怨念そのものとしての人間がついには虫となって自然のみのりを食い荒してゆくさまは、この世が今や地獄そのものに落ち、修羅の果てとなっていることをも意味する。妖怪の出現こそは、この世の地獄と修羅の再現である。」



「Ⅱ 妖怪の歴史」より:

「この国に、まがまがしい妖怪が数知れないほど多いのは、それだけ、まがまがしい課題がいつまでも解決されることなく存在しつづけていることを意味する。」

「人間は、巨大な魔としての他界につつまれた、小さな空間に存在するものにすぎない。その人間の、他界に対する怖れが大きければ大きいほど、妖怪たちは充満してくる。妖怪たちが充満してくるときこそ人間たちがこの世に満足しているときだともいえる。他界が真実怖ろしくなくなったときは、この世が他界そのものになったときにほかならない。妖怪たちが、この世を完全に満たしたとき、人間たちはもはや妖怪たちを怖れはしない。そのとき、人間もまた妖怪となっているからである。」



「Ⅳ 座敷ワラシとその祖型」より:

「一般に泉鏡花の『高野聖』においては、道心堅固な旅の僧と、魔女そのものとしてのあの妖艶な美しい婦人(おんな)がきわだった主人公として論じられる。しかし、はたしてほんとうにそうだろうか。あの小説におけるもっとも重要な存在は、〈例の白癡殿(ばかどの)〉ではあるまいか。〈白癡殿〉は、少年のままで、舌不足(したたらず)が饒舌するような、愚にもつかぬ声を出して、気だるそうな手を持ち上げて、ぐたりとしている。しかし、〈例の白癡殿〉こそは、実は、家にすみついている小さな神であり、都の話を聞くのが何よりも楽しみなあの美しい婦人(おんな)は、決してあの山中の家を離れず、少年のためにその一生をささげて悔いない《神の嫁》なのだ。
 あの〈例の白癡殿〉が、いつまでも少年のままでいるということは、彼の内部で時間が永遠にとどまっていることを意味する。」
「永遠に〈少年〉のままであるということは、明らかに〈時を超えた存在〉であるといえるだろう。そして、時を超えることのできる存在こそ〈神〉であり、その神に仕える女こそ《神の嫁》である。」



「Ⅴ 妖怪たちの行方」より:

「妖怪の行方を求めるのなら、結局のところ、私たちは、私たち自身の心の中に立ちもどらなければならないだろう。なぜなら、ほかならぬ私たち自身が〈妖怪〉そのものであるかもしれないのだから――。」




この本をよんだ妖怪たちはこんな本もよんでいます:

坂崎乙郎 『終末と幻想』 (平凡社選書)
三木成夫 『生命とリズム』 (河出文庫)


























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

※心の傷、胸焼け、劣等感等ある場合が御座いますが概ね良好な状態になります。

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