池田彌三郎 『日本の幽霊』 (中公文庫)

「座頭だとか六部だとかを殺してその金をとり、そのことからその家が富貴になったという話は、非常に多い。(中略)日本の民俗的事実としては、旅人を殺してその金を奪うという行為は、さして悪業とは思っていなかったらしい。」
(池田彌三郎 『日本の幽霊』 より)

 
池田彌三郎 
『日本の幽霊』

中公文庫 い-7-1

中央公論社 
昭和49年8月10日 初版
昭和62年5月20日 10版
239p 
文庫判 並装 カバー 
定価350円
表紙・扉: 白井晟一
カバー画: 村上豊



副題は「身辺の民俗と文学」、初版は1959年、中央公論社より刊行されました。


池田弥三郎 日本の幽霊


カバー裏文:

「幽霊とお化けのちがいは? 幽霊はなぜ夏が好きなのか? 物語や昔話に登場するさまざまな幽霊や妖怪をとおして、日本人の集団感覚、心理現象、心意伝承を考え、われわれの身辺にいまでも生きている日本の霊魂信仰の本質を明かす、生活史のなかのフォークロア。」


目次:
 
幽霊の季節
幽霊と妖怪
場所に出る妖怪
人を目指す幽霊
家に憑く怨霊
活動する霊魂
幽霊出現の理由
 
解説 (矢代静一)
 



◆本書より◆


「幽霊の季節」より:

「大正の初年、例のスペイン風邪の流行した年の事で、もちろん関東の大震災以前、世の中の景気もよくって、すこぶるのん気だった頃の話だ。画博堂の三階でいつもの連衆が集まって怪談に興じていると、誰からどうして聞いたのか、見なれない男がやって来て、私に是非話をさせてくれという。どんな話かというと、田中河内介の話だという。よかろう、やらせてみようということになった。
 その男は、田中河内介が寺田屋事件のあとどうなってしまったかということは、話せばよくないことがその身にふりかかって来ると言われていて、誰もその話をしない。知っている人はその名前さえ口外しない程だ。そんなわけで、本当のことを知っている人が、だんだん少なくなってしまって、自分がとうとうそれを知っている最後の人になってしまったから話しておきたいのだ、と言う。」
「話せばよくないことがあるというので、今までは何処でも話したことはなかったが、何しろそのことについて知っているのは、今では自分一人になってしまったし、それにこの文明開化の世の中に――という、いかにも「明治」という時代を感じさせるニュアンスに富んだ語を使ったというのだから、おのずからその人の年も知れようというものだ。(中略)――話せば悪いことがあるなどということがあるはずもない。だから今日は思い切って話すから是非聞いてもらいたい。とこういう前置きである。」
「ところで前置きを言って、いよいよ本題にはいるかと思うと、話は又いつの間にか元へもどってしまう。河内介の末路を知っている者は、自分一人になってしまったし、それにこの文明開化の世の中に、話せば悪いことがあるなどということがあるはずもない、だから今日は思い切って話すから、是非聞いてもらいたい。というところまで来ると、又いつか始めに返ってしまって、田中河内介の末路を知っている者は、と話し出す。なかなか本題にはいらない。」
「その中に、一座の人が一人立ち、二人立ちし始めた。別に飽きたから抜けて行くというわけではなくて、用で立ったり、呼ばれたりして立ったのだそうだが、私の父も、自宅から電話がかかって下に呼ばれた。下におりたついでに帳場で煙草をつけていると、又あとから一人おりて来て、まだ「文明開化」をやってますぜ、どうかしたんじゃないかと笑っている中に、あわただしく人がおりて来た。偶然誰もまわりにいなくなってしまったその部屋で、前の小机にうつぶせになったまま、死んでしまっていたというのだ。」



「幽霊と妖怪」より:

「私の師匠折口信夫先生が、怪談についての泉鏡花さんとの対話を、私に話してくれたことがあった。(中略)泉さんがなくなられる一月程前のことで、多分先生が泉さんにお会いになった、一番最後の折の話だったのだと思う。
 泉さんは先生にこう言われた。――私は長い間お化けを書いて来たが、恨みを持たぬお化け、怨霊でないお化けを書こうとして来たが、それが書けなかった。――そこで先生が、泉さんに向かって、泉さんの書かれたものには、深い恨みを持ったお化けは、案外に少ないのではないか、と言われたところが、泉さんは言下にそれを否定された。そして、たとえば平田篤胤の『稲生物怪録』などが書いているお化け、稲生武太夫が武者修業の途中で出会うお化けは、武太夫に対して恨みを持って出て来るお化けではない。そういうのを書いてみたいのだ、と言われたそうである。」
「一生お化けばかり書いて来た人が、晩年、(中略)そういうことを言った。それは、一生かかって書いて来たお化けが、どうも日本の本来のお化けではないのではないか、と言うことを感じているらしいこと。われわれが長く頭に描いて来たお化けは、どうも由来の古いものではないらしい。日本の、広く行きわたった民俗的なお化けではなく、ある一部に極度に発達したお化けにすぎないのではないか、という疑問を、泉さんが感じられているらしいことに、先生は興味をおぼえたらしい。」
「人間のうつし世の姿を現じて、恨みの相手に向かって恨みを晴らそうとする幽霊は、歌舞伎芝居を経過して有力になって来たらしい。」



「場所に出る妖怪」より:

「北九州には河童の話が多く、河童が来ている中はその家が富んでいたが、何しろ河童が家の中を歩くと、畳がビショビショにぬれてしまうので、めいわくに思って叱ったところが、それ以来河童が来なくなり、やがてその家も退転してしまったというような話が聞かれる。
 ザシキワラシがいるようになった理由、出て行ってしまった理由は、あまり話されていないようだが、やはりひと続きの話として考えるべきだろう。
 ところが折口先生が採集された、遠州の座敷坊主の話をここに並べると、ザシキワラシの性質もかなりはっきりして来る。天竜川中流のごく深い山間部だが、門谷(かどたに)という部落があって、そこのある家に座敷坊主がおり、枕返しをするというのである。そしてその座敷坊主は、昔、そこの家に泊まった坊主が殺されて、その怨霊が出て来て枕返しをするのだといっている。あるいは、無事にその家を出発させて、途中で待ち伏せして殺したのだともいうようである。
 この話は、先生も言われるように、類例の多い話である。座頭だとか六部だとかを殺してその金をとり、そのことからその家が富貴になったという話は、非常に多い。(中略)日本の民俗的事実としては、旅人を殺してその金を奪うという行為は、さして悪業とは思っていなかったらしい。その証拠に、その祖先にそうした話のまつわっている家で、あえて自らそれを否定していないからである。」



「家に憑く怨霊」より:

「『今昔物語』に次のような話がある。(巻二十七の第四十話)」
「「今は昔、(中略)「物託(ものつ)き」の女にものつきて言わく、「おのれは狐なり。たたりをなして来れるにはあらず。ただかかる所には、おのずから食物散りぼうものぞかしと思いて、さしのぞきはべるを、かくめしこめられてはべるなり、」と言いて……」」
「右の本文に続いて、その狐のついたものつきの女が、ふところから、小さい柑子ほどの白い玉を取り出して、ほうり上げては手玉にとっている。まわりで見ている人は、これはものつきの女がもとからふところに持っていて、人をたぶらかそうとしているのだと思っていると、一人の男がそっと女のうしろに廻って、投げ上げた時にサッとその玉を取ってしまった。すると、女についた狐は、玉を返してくれと言う。男がいやだというと、泣きながら頼んでいる。あなたはその玉は必要ないが私はとられてはどうしようもない。もし取ってしまったら、あなたは長く私のあだがたきになるが、もし返してくれたら、
  われ、神のごとくにして、和主にそいて守らん。
と言う。結局男はそれを約束して、狐に玉を返してやった。その後、験者に追われて狐が去って後に、人々がそのものつきの女のふところを探がしたが、玉はなかった。だからたしかにあの玉は、とり憑いたものが持っていたものだ、ということが明らかになった。
 その後、かの男は、夜遅くなって応天門の所を通り過ぎねばならなくなり、ものおそろしい気がしたので、狐のことを思い出し、「狐、狐」と呼んだ。するとすぐにコンコンと言って出て来た。そこで、狐の約束がうそでなかったことを喜んで、真暗でおそろしいから、私を送ってくれと頼んで、家まで道案内をしてもらって帰って来た。」



「幽霊出現の理由」より:

「『今昔物語』巻二十七の二十五話は、「女、死せる夫の来たれるを見る」話だが、早くもここに後世の幽霊らしいものが登場して来ている。(中略)夫がなくなり、妻は後家をとおして、夫にこがれて泣いてばかり暮していると、夜半に笛を吹く音が遠くから聞こえて来た。それは生前笛を好んでいた夫の吹奏そっくりであったので、なつかしく思っていると、笛の音は次第に近づいて、女のいるすぐ外にまで来て、止まった。そして、ここをあけよという声が夫の声そのままなので、女はすき間からのぞいてみると、夫がありしながらの姿で立っていた。
  死出の山。越えぬる人のわびしきは、恋しき人に、会わぬなりけり
夫はこう歌ったが、妻がおそれてあけぬので、もっともだ。あまりこがれているから、しばらくの暇を無理にもらって来たのだ、と言って、やがてかき消すように消えてしまったというのである。」





こちらもご参照ください:

諏訪春雄 『日本の幽霊』 (岩波新書)
小松和彦 『異人論 ― 民俗社会の心性』













































































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石井良助 『江戸の刑罰』 (中公新書)

石井良助 
『江戸の刑罰』
 
中公新書 31

中央公論社
昭和39年2月25日 初版
昭和61年2月5日 44版
vii 202p 口絵(モノクロ)i
新書判 並装 ビニールカバー
定価520円
装幀: 白井晟一



本書「まえがき」より:

「本書は江戸時代、ことに幕府の刑罰、牢屋および人足寄場について叙述したものである。」


本文中図版(モノクロ)多数。


石井良助 江戸の刑罰 01


帯文:

「苛酷な刑罰社会の実態を通して江戸時代を浮彫りにした奇書」


帯裏:

「一畳に十八人も詰めこまれ、中腰のまま眠る牢屋のなかでさかんに行われた密殺、入牢してきた目明しにご馳走する椀三杯の糞、そして、下される刑罰は敲、火焙、鋸挽など――。だが、現代人の想像を超えるその苛酷な現実のなかにも、刑罰理念は見懲から改悛奨励へと展開し、病気の囚人を収容する溜や無宿者の授産のための人足寄場などが設置されてくる。江戸時代の特色を刑罰社会の最底辺において探った奇書。」


目次:

まえがき

序 吟味から落着まで
 十両盗めば死刑
 見懲から改悛奨励へ
 “牢屋”のはたらき
 吟味、牢問、落着

Ⅰ 御仕置
 鈴ヶ森の露――生命刑
  首洗い料は金一分(下手人と死罪)
  肝とり朝右衛門
  木刀で切腹
  四尺板に獄門首
  火付には火罪
  見せ槍と止めの槍(磔)
  まねごとの鋸挽
 額に悪の文字――身体刑
  三分二筋の入墨
  のびてもかまわぬ剃髪刑
  数をまちがえて進退伺(敲)
 八丈島送り――自由刑
  高瀬舟の行方(遠島)
  四十八人の女犯僧(晒)
  江戸十里四方追放
  “門外不出”の刑
  油ではずれる手鎖
  飼殺の囚人(過怠牢、永牢)
 とりあげの刑――財産刑、身分刑、栄誉刑
  闕所と過料
  心中すれば非人手下
  強制隠居
 窃盗三度で死罪
 慶弔の御赦

Ⅱ 牢屋
 “小伝馬町”の塀の中
  お奉行所へシャモ入り
  牢屋敷の見取図
  牢屋の沙汰も身分次第
  世襲の囚獄、石出帯刀
  “地獄入り”の式
  女牢ではびろうども黒絹
  密告する牢内世話役
 格子の中の暮し
  牢内役人
  一畳に十八人詰
  “ご馳走”の私刑
  一日二度の盛相飯
  “詰の教え”
  名ばかりの薬で大量牢死
  病死ヶ輪を着る新入り
 シャバと牢屋
  届物
  干魚が運ぶ含み金
  買物、賄賂、博奕
  シャバを歩く楽しみ
  牢庭敲と牢内縄
  牢屋見廻の監察
  牢内巡廻を迎える“時の声”
  牢内は禁制品の山(牢内改)
  恋に狂って破牢の計画
  火事で三日のシャバ見物(切放)
 溜
  非人の作った囚人療養所
  脈をとるだけの診察

Ⅲ 人足寄場
 佐渡の水替人足
 無宿者収容所
 油絞りのノルマ
 水玉人足の生活
 寄場から徒刑場へ

参考文献案内
犯罪と刑罰の対照



石井良助 江戸の刑罰 02



◆本書より◆


「御仕置」より:

「首切り役は町同心の持役である。揚屋に入れられている者はどうしても町同心が切らなければならないが、平素切りなれていないので、ことのほかへただったという。科人が頸を縮めなどすると、刀が頭骨あるいは顎骨などに支えられて首が落ちず、科人が苦痛に堪えかねて、身体をそらすことがある。手伝人足もこまって、こういう時は科人の両足をひき、打ち伏せて首を挽き切った。
 しかし巧みな者もいた。後藤某という同心は打首の妙手であって、強雨の節などは片手で傘を携え、直立のまま、“小刀一下頭は前に飛び”衣服も雨に濡れないで、三、四人の首を瞬時にして切ってしまったという。」

「首切朝右衛門(浅右衛門とも書く)として有名な山田朝右衛門は、刀の御様(おためし)の御用をするのが本職であって、罪人の首斬役ではないが、首斬役を勤めることもある。」
「ある日朝右衛門が罪人の首を斬ろうとすると、首のところに「東照大権現」と文身(ほりもの)がしてあった。(中略)朝右衛門は切らずに、囚獄石出帯刀にこの旨を話して指図を求めた。帯刀は、にくらしい奴だが仕方がない、一命を助けてやれといい、その者は遠島刑になった。これを聞いて、ほかの悪徒がみな東照大権現の文身をやりだした。そこでその首を切るとき、ふたたび朝右衛門がどうしようかと帯刀に聞いたところ、仕方がない、文身のしてあるところだけズーッと切り取って、それから首を斬れ、といったので、悪党たちは、その後は首の皮をそがれるだけ痛い目にあったという話である。
 朝右衛門はまた、科人の胆(きも)を取ることがあったという。科人の首を打ち落し、裸にしてから仰向けにして、臍(へそ)の上を刀の先で五、六寸横に切り破ると、非人が手を入れて胆を取るのであるが、この時は血も出ないという。腹を切り破ると、朝右衛門は七、八寸の麻糸を非人に渡す。非人はこれを受け取って胆の真中を縛って取り出す。取り出した胆は箱に入れて持ち帰るのである。胆は大概三、四寸の長さがあり、徳利(とくり)のような形をしているという。
 死罪には引廻が附加されることがある。見懲のための制度で、罪人は娑婆の見納めに世間が見られるといって、引廻になることをかえって喜んだという。」




こちらもご参照ください:

フランツ・シュミット 『ある首斬り役人の日記』 藤代幸一 訳 (白水Uブックス)
タイモン・スクリーチ 『江戸の身体を開く』 高山宏 訳 (叢書メラヴィリア)
阿部謹也 『刑吏の社会史 ― 中世ヨーロッパの庶民生活』 (中公新書)



































































































フィリップ・アリエス 『図説 死の文化史』 福井憲彦 訳

フィリップ・アリエス 
『図説 死の文化史
― ひとは死をどのように生きたか』 
福井憲彦 訳


日本エディタースクール出版部
1990年6月10日 第1刷発行
1995年5月20日 第5刷発行
vi 423p 口絵(カラー)8p
菊判 丸背クロス装上製本 カバー
定価4,800円(本体4,660円)
造本・レイアウト: 稲葉宏爾・山口喜造
カバー写真: シュニットゲン美術館「死の舞踊」/パリ郊外アントニーの墓地



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、フィリップ・アリエスの遺著となった Images de l'homme devant la mort, Ed. du Seuil, 1983 の全訳です。」
「本書は、歴史学の専門書ではなしに、一般的な読者に語りかけたものといえましょうが、死という一点をめぐる多様なイメージの変遷とその解釈で歴史を語り切ってしまおうとする、歴史学の観点からしてもじつに大胆な、先駆的こころみのように思えます。」



本文中図版(モノクロ)418点、「訳者あとがき」中参考図版(モノクロ)1点。


アリエス 死の文化史 01


目次:

序 死とイコン
第1章 墓地と教会
 市外の墓地
 市内の墓地
第2章 墓碑
 個人別から匿名へ
 墓碑の回帰
 墓碑銘
 横臥像
 死と生のあいだの横臥像
 祈禱像
 肖像
 墓碑のブルジョワ化
第3章 家から墓まで
 死の床
 安置と納棺
 葬送の行列
 教会におけるミサ
 埋葬
第4章 あの世
 皆はらからの世界
 個人別の伝記へむけて
 煉獄
 再会の場
第5章 すべては空なり
 虚無の誘い
 人はうたかたの泡のごときもの
 屍の魅惑
第6章 墓地の回帰
 かつての墓地の残存
 墓石と遺体の一致
 十九世紀における墓地の移動
第7章 他者の死
第8章 そしていま

訳者あとがき



アリエス 死の文化史 02



◆本書より◆


「墓地と教会」より:

「当時の人にとって重要だったことは、個人用の決まった場所に永遠にとどまることではなく、みずからの身体を教会にゆだねることだったのです。教会は、その身体を聖なる教会の土地において、みずからの保護下に保ちさえすれば、その身体を思うように扱うことができました。」
「乾ききった古い骨は、新しい遺体を埋葬するために掘りおこされ、ときには、ブルターニュ地方のランリヴェンにおけるように、納骨堂に乱雑に積みあげられました。しかしもっとも一般的には、骨は解剖学的な部分ごとに分離・分類され、まとめておかれたのです。一方には頭蓋骨、他方には脛骨といった具合に分類され、同類の骨はかたまりごとに墓地の歩廊のうえに芸術的に並べられました。そこで、おなじ納骨堂でも「シャルニエ〔肉の貯蔵所という意にもなる〕」という名をつけられたのです。このシャルニエという語はその後、墓地全体を意味するようにまで広がり、教会墓地〔同時に広場〕を意味したエトル aître という語に取って替わったのでした。匿名の人の骨は、もはや土の下に隠されることなく、反対に通行する人たちの視線のもとにすすんで曝されたのです。」
「ここで問題となっている時期の末期、十七―十八世紀には、都市の大墓地は、生者たちが散歩道ででもあるかのように足繁くかよう公共の場であると同時に、埋葬の地というよりもむしろ、一杯になって掘りなおされた地面からでてきた骨が、あるものは壁にそってみごとに並べられ、またあるものは地面に散らばっているような、広大な骨の展示場ででもあるかのような具合だったのです。」



アリエス 死の文化史 03


「家から墓まで」より:

「じっさい一般の意見では、長らく貧しさと孤独とが同一視されてきました。貧者とは、まず第一に単独な人間であった(ミシェル・モラの表現)、死においてまで、単独である怖れの強い存在であった、と。
 呪われた死とは、中世においては、路上や水中に見捨てられた旅人の死のことでした。十九世紀における世俗化も、この孤独の拒否という点では、何も変わることがなかったばかりか、この拒否は、もっとも強くなったのでした。」



アリエス 死の文化史 04


「『ロアンの時禱書』の細密画では、骨がちらばる墓地の土のうえに、いくつかの種類の遺体が合わせて描かれています。一体は、豪華な厚布のうえに、裸身で横たえられていますが、じきに運ばれ、石棺か、あるいは徐々にそのようなケースが増えていったのですが、鉛や木でできた棺に、納められるのです。それは、重要人物なのです。他の二体は、頭から足まですっぽりと、屍衣のなかに縫いこまれています(縫い跡がわかります)。このまま棺もなく、貧者用の墓穴に土葬されることは、おおいにあったケースなのでした。十七世紀には、こうした安い屍衣は「セルピリェール」、つまりは「ズタ袋」と呼ばれることになるでしょう。」


「あの世」より:

「古くからの時禱書と競合しながら、小さな印刷本が広く世に流布しはじめました。それらの本は「往生の術」とよばれました。なぜならそれらは、病人が死にむけて備える手助けをするためのものだったからです。(中略)それをじっさいに確認してみましょう。神、天、天使、地獄と悪魔、これらすべてが宇宙のしかるべき場所からやってきて、危篤の人の寝室をみたし、その寝台を取りまいているではありませんか。」
「最後の審判における復活者と同様、危篤の人は、たしかにみずからの全生涯をまえにしています。しかし、裁かれることになるのは、その生涯、強いられたその生涯ではないのです。何ごとも、まだ決定されてはいません。それは、聖人たちの取りなしのゆえばかりではなく、とりわけ、死にゆく者自身が明晰さの残る最後の瞬間に、窮極の試練に立たされているからなのです。その試練の結末について、詳細にたどってみることにしましょう。まずはじめに、忠実で献身的な近親者たちにたいする怒りとか、恨みといった軽度の誘惑があります。しかしより重大なのは、絶望の誘惑に負けたり、あるいは反対に、傲慢の(虚栄の)誘惑に負けることで、それらは、みずからの生涯を最後に一望しようとするまさにそのときに、危篤の人を襲うのです。すると、悪魔がささやきかけます。「おまえはまるでチャンスがない。もうだめなんだよ。おまえにとっていちばんなのは、自殺することさ」と。あるいは反対に、悪魔どもは虚栄心をくすぐります。「おまえは何も怖れることはありやしない。後悔しなけりゃならん理由なんて、まるでないのさ。おまえは模範的な生涯を送ったんだ。だから勝利者の栄冠に値するというもんだ」と。それぞれの場面において、天使たちが反論をもってきていますが、しかし死にゆく者自身が、自由に選ぶのです。天国と地獄とが、彼の意志を見ぬこうとして、気遣わしげに彼のほうへ身をよせています。この試練の結果にこそ、この人の永遠の運命はかかっているのです。」
「人間は、みずからの運命をその手中に納めているのです。天使や悪魔の助言が人をそそのかし、聖人たちの祈りが人を勇気づけるのですが、しかし、決定するのは人であり、その決定は、死に瀕したときの窮極の反応にかかっているわけです。(中略)つまり死とは、各人が全生涯を直観的に認識することになる瞬間なのです。一瞬の稲妻のきらめきにも似て、みずからの来し方が余すところなく、その人のまえに立ちあらわれるわけです。」



アリエス 死の文化史 05


「みずからの人生の決算書をもって復活させられた人たち、アルビのサント=セシル大聖堂にある『最後の審判』図(十四世紀初頭)。」


「すべては空なり」より:

「十九世紀のはじめからは、生者と死者のあいだの愛をあらわすことも、もはやためらわれませんでした。」
「そうして彼らは、壁を破り、遺体を地中から掘り出して欲望をとげようとするのです。墓が開かれ、死んだ女性を夫や、恋人や父親が掘りおこしている墓地の場面が、しきりに描かれることになります。おそらくこうした場面は、美術や文学の幻想に属するものだ、と考えるべきでしょう。
 しかしながら、「病的なしなやかさ」ということには、現実への境界線を踏みこえるものがありました。十九世紀から二十世紀初頭にかけて、人気のあった二つの大きな見世物が知られています。重罪人の公開処刑と、モルグ〔死体顕示場〕における遺体の、やはり公開による展示がそれです。(中略)パリの善良な庶民は、ちょうど大通りを散策するのと同様に、モルグに行ったものでした。」



アリエス 死の文化史 06




こちらもご参照ください:

阿部謹也 『西洋中世の罪と罰 ― 亡霊の社会史』
大林太良 『葬制の起源』 (中公文庫)
渡辺照宏 『死後の世界』 (岩波新書)


































































井之口章次 『日本の葬式』 (ちくま学芸文庫)

「大村因幡守(いなばのかみ)様が備前(岡山県)の浦辺を船でお通りになったとき、向うのほうから一かたまりの黒雲がわきあがり、その中から「ああ悲しい」という声が聞えた。変だなと思っているうちに黒雲は船の上に来て、人間の足がぶらさがっている。家来たちがとびついて引きおろしてみると、老婆の死骸だった。(『新著聞集』)」
(井之口章次 『日本の葬式』 より)


井之口章次 
『日本の葬式』
 
ちくま学芸文庫 

2002年10月9日 第1刷発行
316p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,200円+税
装幀: 安野光雅
カバー写真・デザイン: 工藤強勝


「本書は一九七七年三月二十日、筑摩書房より「筑摩叢書」240として刊行された。」



「筑摩叢書版はしがき」より:

「このたび筑摩書房から話があって、旧著『日本の葬式』(昭和四十年、早川書房刊)を、筑摩叢書の中に加えることになった。(中略)本文は旧著の原形を残すよう努めたが、写真のうち数枚は、差しかえたり追加したりした。」


本文中図版(モノクロ)多数。


井之口章次 日本の葬式 01


帯文:

「魂はどこに行く
たまよばい、耳ふさぎ、枕飯、願もどし
葬儀習俗から解き明かす日本人の死生観」



カバー裏文:

「私たちの祖先は死をどうとらえ、死者をどう弔ってきたのだろうか。広範に収集した資料を比較研究し、各地の葬送習俗のもつ意味、以前持っていた意義を探し求め、その推移変遷のあとをたどる。死者の魂はどこに行くのか、生き残った者の無事はどうすれば確保されるのか、あの世とこの世はどこで出会うのか、古来の祖霊信仰は仏教とどう結びついて儀礼に形を残しているのかなどのことがらを通して、葬式に込められた日本人の死生観と霊魂信仰を解き明かす。いまではもう見ることができない貴重な習俗を記録し、日本の葬儀民俗を考察した代表的著作。」


目次:

筑摩叢書版はしがき (昭和51年11月30日)

千ごり万ごり
出歩く魂
たまよばい
招魂と鎮魂
霊魂と水
猫のたましい
耳ふさぎ
死人の善光寺まいり
御霊前
死体のあつかい
葬列の意味
女と葬式
葬法の種類
あの世とこの世
よみがえる霊
忌あけ
願もどし・洗いざらし
神様になる
日本人の他界観
あの世の入口
土の中に生きのびた話
死神
たままつり
墓は必要なのか

初版あとがき (昭和40年4月1日)
解説 葬送の民俗と現在 (川村邦光)

索引



井之口章次 日本の葬式 02



◆本書より◆


「出歩く魂」より:

「人間の体の中に霊魂があり、それが遊離したり戻ったり、他人のものと入れかわったなどという話は多い。

   むかし、ある人が占いをしてもらうと、何月何日の何時に死ぬと言われた。心配して家にとじこもっていたが、その日になっても死なない。ばからしく思って遊びに出ようとすると、魂が外に出てしまった。魂が道を歩いて行くと、一軒の家の前に人だかりがしている。何ごとだろうと、魂が一所懸命にのぞいてみようとしたが、戸がしまっていて見えない。
 その家ではお産のさいちゅうだった。なおも見ている間に、つい、窪みに落ちこんでしまった。と同時に、家のなかで赤子ができたできたという声がして、赤子がぎゃあぎゃあ泣いている。ふと見ると、魂はボロにつつまれている。魂が「おれだ、おれだ」といっても、産婆さんは丈夫な赤子だといってボロにつつんでしまった。(中略)(栃木県那須郡大山田村)

 いくらか落語ふうになっているが、ある人の魂が抜け出て、赤子に入った経過が、よくあらわれている。」



「たまよばい」より:

「古い時代の考えかたでは、死と仮死との区別がはっきりしていなかった。先にのべたように、一人の人間には少くとも一つの霊魂があって、その霊魂が肉体から遊離すれば、仮死の状態になる。そしてそのまま永久に元の体に戻ってこないことが確認されると、はじめて死体としてあつかわれるのである。したがって、いったん息をひきとって、生理的には死んでしまった後までも、なお全く死に切ったとは認められず、呪術的な作法をほどこして、これをよみがえらせることができると考えられていた。」

「生死の境にのぞんで重態の人の名を呼び、ふたたび日の目をあおがせようとする努力は、呼びもどし、よぼりかえし、魂呼び、呼びいける、などと呼ばれて、北は青森県、南は沖縄永良部島に及んでいる。」
「それらの報告を検討してみると、枕もとで呼ぶもの、屋根など高いところへ上って呼ぶもの、呼ぶ人の位置に関係なく、山・海・井戸の底などに向って呼ぶもの、以上三つの形式が見られ、屋根の上に上って呼ぶものの中には、さらに棟に穴をあけるとか、瓦をはぐという類の作法をともなっている場合と、そうでないものとがあるが、その要点とするところは、死体に向って叫ぶか、または他に向って叫ぶかの、二つの態度に分けることができる。」

「呼ばれるものが何であるかを考えてみれば、それは体から遊離していった霊魂に違いない。」

「静岡県庵原郡には、屋根の上からお天道様の方向に向って呼ぶところがあり、岩手県では山に向い、青森県では恐山の方角を向いて呼ぶところがある。恐山は祖霊のとどまるところ、もしくは幽顕の境の地と考えて、おそれ敬われてきたが、全国各地に同様の山はいくつもあって、身近に祖霊のとどまるところを考えていたようである。
 つぎには井戸に向って呼ぶものがある。」
「井戸の底は地下の他界――あの世――に通じているという信仰が、古くからあったから、井戸に向って呼ぶというのも、山に向って呼ぶというのも、まったく別のことではない。その土地その時代に、他界と考えているところに向って、死者の霊が行こうとするのを呼びもどすのが目的であった。」



「招魂と鎮魂」より:

   「難産で産婦が気絶したときは、屋根にのぼり傘をさして、「もどれよ、もどれよ」と大声で叫ぶとよい。(岡山)
   お産で死んだときには、屋根の瓦をめくって少しあけ、雨傘をさして名を呼ぶ。(徳島)

 雨も降らぬのに雨傘をさすのも奇妙なことであるが、盆踊りの音頭をとる人が、やぐらのそばで傘をさすところがあるので知れるように、(中略)傘もまた招(お)ぎ代(しろ)であり依(よ)り代(しろ)であった。」



「霊魂と水」より:

「また、死んだ人の上を猫がとびこえると、猫の魂が入って死者が生きかえるという類の俗信は、知らない土地がないほどに広くおこなわれているが、宮城県のある村では、猫の魂が入って歩きだしたときには、歩きだした死人が水を飲まないうちに、鎌と箒とではたくとよいと伝えている。(中略)水を飲まないうちにたたけばよいということは、もし水を飲んでしまうと、猫の魂が入ったままで「生きかえる」ということにちがいない。」


「猫のたましい」より:

「ふつうの人生を送って子も孫もあり、平和な一生を終えた人の魂は、三十三年とか五十年のとむらい上げのすんだあと、祖霊という一かたまりのものに融合同化し、(中略)また非業の最期をとげたとか、若死にや独身で死んだために、祭りや供養をしてくれる子孫を持たぬ者の霊は、祖霊体系の外にとりのこされ、一まとめにして邪霊・悪霊と呼ばれるようになった。
 それらの無縁の霊は、(中略)いつもそのへんをうろうろしていて、事あれば寄ってきて悪事をはたらく。魂の抜け出た、ぬけがらの肉体でもあると、それに入りたがっている。(中略)その肉体に入りこんで、霊肉そろった人間にもどろうとする。
 死者にとっても遺族にとっても、これははなはだ迷惑なことだ。他の霊が入って死体が動きだし、まったくの別人になってしまうのだから、死体を取られたことになる。無縁の霊は霊魂だから、本来具象の形を持たぬはずであるが、空想上の動物の姿を考えるようになり、さらに現実的になると、それは猫の魂だと断定することになる。
 死者の枕もとや胸の上には、刃物を横たえて防ぎ、びょうぶを立てまわして死体をまもり、たえず猫の行動に注意して近づけないようにする。死者の胸の上を猫がとびこえると、猫魂が入って死人がたちあがるとか、テンマルと称する妖怪が死体を食うとか、火車(かしゃ)が死体を取りにくるとかいう俗説はすべて無縁の魂を、いろいろな姿に想定したための結果なのである。

   寛文七年(一六六七)閏の二月六日、にわかに雹がふり、雷のさわがしいとき、ちょうど江戸牛込の人が死んで高田の焼場に送るところだったが、一かたまりの黒雲が舞いおり、死体をさらって行ってしまった。死人の両足が、雲の中からぶらぶらとさがっていたのを、たくさんの人が見ていた。(『新著聞集』)」

「庶民の言いつたえによると、その人が一生のうちに多くの悪事をした罪によって、地獄の火車が迎えにきたのだという。その死体は引きさかれて、山中の木の枝や岩かどにかかっていることがある。」
「その火車につかまれるというのは、和漢とも多くあることで、ほんとうは「もうりょう」というけもののしわざである。好んで亡者の肝を食うので、漢土では葬列の出るとき、熊の皮をかぶって目四つある険道神というものに魔はらいをさせるし、日本で葬列に竜頭(たつがしら)を先頭にたてるのも、この趣旨の遺風である。秦代に陳倉の人が猟してとらえたことがある。形は猪のようでもあり、羊のようでもある。これを古くから庶民がまちがえて火車というものだから、地獄の火車と思い込んだのだ。笑うべきことだと、『茅窓漫録』の著者は述べている。」

「それにしてもどうして猫だけが、多くの動物の中からえらばれて犯人に指名されたのか、という疑問は残るのだが、結局は猫の態度や習性にもとづくものと見るほかはなさそうである。この疑問の解決にはほど遠いが、

   つらつら古の物がたりを見るに、釈尊入滅の折から、もろもろの畜類集りなげきしに、猫はその座にいたらず、これその性ひがみてあしきを、仏にくみたまいしゆえなり。または火車となりて人の死体をうばい、あるいは化けて人をだますのみか、命をも取る。そのあやしさかぎりなしといえり。(『諸国怪談帳』)

 これも動物昔話のモチーフで、お釈迦様が亡くなったのに猫だけが来なかったので、にくまれて悪い役割をせおうことになったというのである。」



「よみがえる霊」より:

   「むかし播磨国(兵庫県)に坊さんが住んでいた。家の軒先にミカンの木があり、実がたくさん実るばかりか、その味もよかったので、何よりもたいせつにしてしていた。その隣りに年とった尼が一人住んでおり、重い病気になって日ごとに死期が迫ってきた。
   その尼が垣根越しにミカンを見て、あれが食べたいというので、看病の者が人をやってもらいに行かせた。ところがミカンの主は惜しんで、一枝もやるのは嫌だと言いはる。病人はこれを聞いて心中おだやかでない。私の病気は日々に重く、食べたいといっても、二つ三つ以上は食べられもしない。日ごろ極楽に行くことを願っていたが、今となってはあの木を食い枯らす虫になって、あの主人に損をさせ、うっぷん晴らしをしようと祈念して死んだ。
 隣りの僧はそんなこととは知らず、あいかわらずミカンをたいせつにしていた。そのうちこのミカンがポトリと落ちる。ふしぎに思って見ると、一袋毎に五、六分ばかりの虫が入っており、落ちてくるどれにも虫がついている。それからは毎年こうなり、ミカンも小さく虫ばかりでくさるので、とうとう木を切りすててしまった。(中略)(『三国伝記』)」



「死神」より:

「日本には貧乏神や厄病神はあるが、死神には伝統がない。くわしくしらべたわけではないが、近世の町人文学の中に、ようやくこの言葉が出てくるくらいのものだと思っている。
 近松の『心中天網島』の「死神ついた耳へは、異見も道理も入るまじとは思えども」とか、『心中刃氷朔日』に「死神のさそう命のはかなさよ」などとあるのはその一例である。『百物語』には、「心に死を思うときは、たちまちこの気に感ずるなり。されば刃傷(にんじょう)の場を清めておかないと後をひき、首くくりのあった木を切りすてないと、また首をくくる者が出ると言いならわし、心中など同じところにあるのも、みなこれ死ぬときの悪念なり」などといっている。
 そういうわけで、紹介するほどの話もないのだが、一つだけ、『想山著聞奇集』から引用しておこう。

   私が壮年のころ、うちへ出入りしていた按摩に可悦という盲人があった。この男は若いころ、江戸のお屋敷に奉公しており、武道のこともあらかた心得、女遊びなども人一倍していたそうだ。
   それが内瘴(そこひ)のやまいにかかって、たちまち盲人になってしまったので、すぐに按摩となって郷里の尾張へ帰り、名古屋に住むことになった。
 この男が人のおともをして、前に大阪へ行っていたとき、ふと島の内の女郎屋へ行って、わずか二、三度遊んだだけなのに、その女郎がいっしょに死んでくれという。なぜ死にたがるのかと問うと、あなたが好きになったからだという。その気持が本当なら、すきなようにするがいいと答えると、それでは明日の晩死にましょうという。
   その夜は楽しく遊んで帰ったが、考えてみると話がおかしい。あくる夜は友だちといっしょに出て、途中で酒など飲み、おそくなってからその女郎屋へ行ってみた。
   女はなぜこんなにおそかったのかと言うので、道で友だちに出あって逃げられず、皆々も同道でやっといま来た。時刻こそおそくなったが、来た上は疑いも晴らしなさいというと、それはうれしゅうございます。しかしもう今夜は時刻もおそくなり、連れがあっては邪魔にもなりましょう。どうしたらよろしいでしょうと、反対に聞いてくるので、今夜でなければ死ねぬわけでもあるまい。この世のいとまごいに、今夜は思いきりさわいで遊ぶことにしようと提案した。
   それでは明晩は必ず早く一人で来てくださいということになった。翌日になってよくよく考えると、私のような者を好きになるというのも変だ。家柄がいいとか財産があるというのでもなく、なじみで情が深くなったというのでもない。そのうえたがいに生きていては義理がわるいという事情もない。この上はどうなるのか、いずれにしても今夜もまた行ってみようと、八時前に女郎屋へつくと、女は待っていて、かねての約束通り夜芝居に行くのだと、家の者にも話をつけ、つれだって出かけた。
   それからえびす橋まで行くと、橋のたもとに、ぞうり・わらじなども売る八百屋がある。女はげたでは歩きにくいからと、ぞうりを二足買った。ここは有名な道頓堀で、大阪一のにぎやかなところだから、橋の下には行きちがう船も群れをなしているのに、そんなことは気にもとめず、橋の上からげたを蹴こむ。これを見てはじめて、この女は本気で死ぬつもりだなと思った。男にもぞうりにかえよというので、このあたらしいのを捨てるのはつまらぬ。いまの八百屋にあずけてくるというと、いま死ぬというのにそんなことを気にすることはない。いや、死ぬにしても無駄は無駄だ。八百屋におけば八百屋のものになるだろうからと、立ちもどって八百屋にあずけた。それから浪花新地を通りぬけるころ、その女の顔色をよく見ると、もはや一途に死ぬことと思いさだめたようすなので、それまではうかうかと女郎のいう通りになっていたが、長い命をこの場かぎりにちぢめるというのも智慧のないことだ。どうしたものかと思いつづけたが、もう口実になるような義理もない。(中略)どうしよう、どうしようと思ううちに、今宮の森まで来てしまった。女はあらかじめ用意して持ってきたひもで、いっしょに首をくくろうというが、(中略)少しでも時間をかせごうと、ここで煙草を一ぷくすおうという。
   「いよいよこの世の名残りだ。ここまで逃げてきた上は、そんなに急ぐことはない。すきな煙草くらいはのませてくれ」「それでは私も一ぷくのみましょう。男の心はちがったものだ」と、社前で火打を出して一打二打打つと、すぐうしろの戸ががらりとあいて、社から夜番の者が出、「火を打つのはだれだ」と大きな声でしかる。
   二人はびっくり仰天したが、そのとき女はつかんでいた手をはなしたので、男はすぐにしげみの中へ逃げこんだ。道もないところをやたらに走って、元のえびす橋の八百屋で裏つけぞうりを返してもらい、足早やに走り帰り、それから一、二日は外へも出ずに家にこもっていた。三日目ほどに今度は方角をかえて天満のほうへ出かけ、ある茶店で休んでいると、荷物を背負った商人が来て、男のそばで休みながら話すには、夜前、今宮の森で心中があった。女は島の内の女郎だということだったという。
   それから人にもさぐらせ、自分もよくたずねてみると、やはり自分と死のうとした女で、相手の男は遠国から来ていて、これもわずか四、五度通い、よほど年をとった男だという。この女には、世にいう死神がとりついているので、心中した男にも取りついていたのだろうか。」





こちらもご参照ください:

渡辺照宏 『死後の世界』 (岩波新書)
栗原成郎 『スラヴ吸血鬼伝説考』
泉鏡花 『春昼・春昼後刻』 (岩波文庫)

































































































根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)

根井浄 
『観音浄土に船出した人びと
― 熊野と補陀落渡海』
 
歴史文化ライブラリー 250 

吉川弘文館
2008年(平成20)3月1日 第1刷発行
229p
四六判 並装 カバー
定価1,700円+税
装幀: 清水良洋・河村誠



本書「あとがき」より:

「本書は日本宗教史の謎といわれる補陀落渡海について整理したものである。平成十一年に上梓した『補陀落渡海史』を見直し、新しい項目を設けて書いてみた。」


本文中図版(モノクロ)28点。


根井浄 観音浄土に船出した人びと


カバー裏文:

「補陀落(ふだらく)渡海とは何か。
観音菩薩が住む
南方の浄土=補陀落世界を目指し、
現身(うつしみ)を舟形の棺に納めて
大海原(おおうなばら)に船出した人びとがいた。
宣教師の記録や絵画史料、渡海船の構造から、
「南方往生」と補陀落渡海の
世界観を解き明かす。



目次:

補陀落渡海――プロローグ
  井上靖の『補陀落渡海記』
  金光坊の補陀落渡海
  金光坊の亡霊ヨロリ
  補陀落世界
  補陀落渡海と熊野

熊野への旅
 蟻の熊野詣
  熊野三山
  熊野の参詣道
  熊野詣の準備
  熊野詣の病者
  梛の葉
  御幸人の連署
  濡れ藁沓の入堂
  道中作法の謂
  熊野詣の掟
  無遮の精神
  熊野詣の情感
 平維盛の入水往生
  平維盛の周辺
  『平家物語』の維盛
  山成島と金島
  「金に成る」島
  平維盛の生存説
  補陀落往生
 熊野の補陀落渡海
  覚宗が見た補陀落渡海
  頼長の感慨
  万里小路冬房の補陀落渡海
  渡海時期の疑問
  『実隆公記』の記事
  万里小路家の伝奏職
  補陀落渡海者の上人号

補陀落渡海した人びと
 補陀洛山寺の渡海上人
  補陀洛山寺の本尊伝承
  拾得された観音像
  高野山の教算
  『熊野年代記古写』の渡海上人
  『本願中出入証跡之写別帳』(壱)の渡海記事
 智定坊の補陀落渡海
  下河辺六郎行秀の補陀落渡海
  智定坊の失態
  下野国の巻き狩り
  下河辺六郎行秀の系譜
  小山朝政の勲功
  流鏑馬の故実
  北条泰時書状
  『徒然草』の教訓
  西行の弓術口伝
  弓術の研修
  鎌倉武士団の故実
  智定坊の武士精神
 実勝坊の補陀落渡海
  湯浅氏と明恵上人
  『四座講談縁起』の由来
  実勝坊の補陀落渡海
  湯浅氏の系図
  『星尾寺縁起』に見える実勝坊
  実勝坊と智定坊の補陀落渡海
  明恵周辺の補陀落信仰
  明恵と実勝坊
 日秀上人の補陀落渡海
  日秀上人の生涯
  日秀上人の出自
  日秀上人の那智出帆説
  景轍玄蘇の『八嶋の記』
  日秀上人の沖縄漂着
  補陀落浄土としての金武
  波上山権現護国寺と日秀上人
  金剛嶺経塚
  沖縄の滞在期間
  薩摩国に移る
  屋久島に渡る
  日秀上人書状
  三光院の建立
  日秀上人の入定
  日秀上人の情報
  入定室の内部構造
  日秀上人の入寂
  仏師としての日秀
  日秀仏の特徴
  日秀上人の遺品
  日秀を救った鮑
  日秀上人の遍歴
 高海上人の補陀落渡海
  『那珂湊補陀落渡海記』
  作者恵範
  常陸国の六地蔵寺
  高海上人の風貌
  補陀落渡海船の建造
  補陀落渡海船の出帆
  那珂川を下る
  仮屋の道場
  高海上人の出自
  東西二人の補陀落渡海

補陀落渡海の遺跡
 四国の補陀落渡海
  室戸岬の補陀落渡海伝承
  賀登上人
  足摺岬の賀登上人
  『とはずがたり』の渡海説話
  渡海説話の背景
  『蹉跎山縁起』
  理一上人の補陀落渡海
  足摺りの地名伝承
 九州の補陀落渡海
  弘円上人の補陀落渡海
  土船の渡海船
  繁根木八幡宮と寿福寺
  夢賢上人の補陀落渡海碑
  下野国の行者
  日光山の補陀落信仰
  舜夢上人の補陀落渡海
  日新寺末の維雲菴
  維雲菴の遺跡
  赤面法印の入水往生
 日本海の補陀落渡海
  嘉慶の塔
  出雲大社と出雲聖人
  重善上人の補陀落渡海
  国人層の結縁

宣教師が見た補陀落渡海
 外国文献の補陀落渡海
  日本の補陀落渡海
  『日本諸事要録』
  『東方伝道史』
  フロイス『日本史』
  『日葡辞書』
  シュールハンマー「山伏」
  モンタヌス『日本誌』
 宣教師たちの書簡
  アルカソバ書簡
  トルレスの情報
  ビレラ書簡
  山伏の補陀落渡海
  もう一つのビレラ書簡
  和泉国堺の補陀落渡海
  フロイス書簡
  伊予国堀江の補陀落渡海
  日常の補陀落渡海
  八人の集団入水
  某パードレ書簡
  筑前国博多沖の入水
  追従する人びと
 キリスト教の伝来と補陀落渡海
  キリスト教の伝来と雲仙修験
  祐海上人の補陀落渡海
  和泉国の林昌寺
  雲仙岳と四国の霊場
  有馬晴信の寺社破壊
  雲仙岳の惨状
  雲仙岳の補陀落信仰

補陀落渡海の絵画
 那智参詣曼荼羅
  社寺参詣曼荼羅
  那智参詣曼荼羅
  補陀落渡海の図
  那智参詣曼荼羅の原像
  法燈国師覚心
  『紀州由良鷲峰開山法燈円明国師之縁起』
  『法燈国師縁起』の意訳
  補陀落渡海図の萌芽
 補陀落渡海図の絵解き
  『法燈国師縁起』の成立過程
  絵解きの内本
  興国寺に立ち寄る熊野参詣者
  補陀落山の絵を見る
  熊野道者対象の絵解き
 補陀落渡海船の構造
  補陀落渡海船の名称
  補陀落渡海船の仕掛け
  那智参詣曼荼羅に見える渡海船
  補陀落渡海船の宗教的意味
  補陀落渡海船と修験道
  三船三様の渡海船
  補陀落渡海船と入定
  補陀落渡海船の帆文字
  葬場における四門
  戦国武将の葬送と四門
  島津忠良の往生の企て

青海原への憧憬――エピローグ
  熊野の色彩と生命感
  胎内からの南方往生
  末世観の深化と補陀落渡海
  動き出す熊野の人びと

あとがき




◆本書より◆


「補陀洛山寺の渡海上人」より:

「注目されるのは、浜の宮補陀洛山寺の本尊が海上から拾い上げられた観音仏であり、これが補陀落世界から湧出、漂着した小像であったとする点である。すなわち、海上から寄り来る仏であった。」


「日秀上人の補陀落渡海」より:

「日秀は補陀落渡海と入定の二つの捨身(しゃしん)行を実践した僧であった。」

「日秀の入定室は方一間であり、定中に石座を敷き、中の四壁を塗り籠めて「四十九院」が造られていた。四十九院とは、四門(しもん)と呼ばれる四つの鳥居を連結する忌垣(塔婆)である。要するに四十九本の塔婆であった。四門と四十九院は、後述するように補陀落渡海船にも組まれた。つまり、入定室と補陀落渡海船の内部構造は同一視されていたことが理解できる。」



「外国文献の補陀落渡海」より:

「バリニャーノの『日本諸事要録』(一五八三年)第三章に、「日本人の宗教と諸宗派」と題した次のような一節がある。
  彼等(日本人)は多くの迷信を有している。彼等の中には、あるいは聖人の名称を得るため、あるいは彼等が空想しているある天国に行くために、大げさな儀式によって、生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、また生きたまま地中に埋葬される者もいる。
 右に見える本文で、バリニャーノが「彼等が空想しているある天国に行くために、大げさな儀式によって、生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいる」と書いているのは、まさしく補陀落渡海にほかならない。並記するように「生きたまま地中に埋葬される者もいる」とあるのは、修験山伏たちの土中入定(にゅうじょう)を指した記述であろう。」



「宣教師たちの書簡」より:

「伊予国堀江でおこなわれた補陀落渡海は、男性六人と女性二人の集団入水であった。彼らは数日前から街々を歩いて喜捨を求め、阿弥陀の西方浄土に往生することを待ち切れず、より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという。実行にあたり、彼らは人びとから受けた金銭を袖に入れ、多くの人びとに見送られ、新しい一艘の船に乗り込んで海岸を出た。彼らの身体には、頸・腕・足に大きい石が縛り付けられていたという。(中略)やがて彼らは沖合に押し進み、ここで別船に乗っていた親者や友人と訣別することになる。そして、彼らはさらに沖合に出て、一人ひとり深い海に投身したのである。
 追従していた人びとは、ただちに補陀落渡海船に火を付けた。そして、海岸に接して記念の小堂を建てたという。堂には「小さな棒に紙の小旗を附けて屋上に立て、各人のため一本の柱を建て、これに多くの文字を記し」たとあるから、日本の葬送儀礼に見られる天蓋(てんがい)・四本幡(しほんはた)・五色幡(ごしきはた)がかけられ、塔婆(とうば)が建てられたのであろう。さらに松を植え、堂内では渡海した彼らを供養するために読経をおこない、その後も人びとは常にこの堂に参拝するのだという。」
「フロイスはこのような堀江における補陀落渡海を聞きつけ、一五六五年に書簡をしたため、京の都からイエズス会の同志に送ったのである。フロイスは、書簡の末尾に海中に身を投げた者の中に長い鎌を手に携えた者があり、また、自分から海に入水するのではなく、船に大きな穴を穿ち、この栓を抜いて船もろともに海底に沈む方法があると付け加えている。」



「補陀落渡海船の構造」より:

「補陀落渡海船に造られた四門と四十九院は、右に見てきたような葬儀や葬具の中世的形態を残している。そして、補陀落渡海船そのものが墓所や棺台(ひつぎだい)と同一視されていた。熊野地方で補陀落渡海船を「こつふね」(骨船)と呼んだ、というのも通常の船ではなかったことを表している。したがって、補陀落渡海船は実質的に遺体を入れる棺の機能を持っていた、といわねばならない。」


「青海原への憧憬」より:

  「一、うみはひろいな おおきいな
  つきがのぼるし 日がしずむ
  二、うみはおおなみ あおいなみ
  ゆれてどこまで つづくやら
  三、うみにおふねを うかばして
  いってみたいな よそのくに
 林柳波作詞・井上武士作曲の「うみ」の歌詞である。(中略)日本の美しい歌であり、想い出の唱歌であり、誰もが郷愁をいだく歌であろう。
 「うみにおふねを、うかばして、いってみたいな、よそのくに」。平安期の人びとも、このように思っていた。「よそのくに」。それは「ふだらく」と呼ばれた理想郷であった。」




こちらもご参照下さい:

川村湊  『補陀落 ― 観音信仰への旅』
和田博文 他 『パリ・日本人の心象地図 1867-1945』
内田善美 『星の時計の Liddell ①』







































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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