『バルトルシャイティス著作集 4 鏡』 谷川渥 訳

「精密科学でありながら、逸脱した、夢幻的なヴィジョン。反射光学のコレクションはすべて、こうした矛盾のうちに考えられてきた。」
(ユルギス・バルトルシャイティス 『鏡』 より)


『バルトルシャイティス著作集 4 

― 科学的伝説についての試論、
啓示・SF・まやかし』 
谷川渥 訳


国書刊行会
1994年11月25日 初版第1刷発行
508p 索引xi
菊判 丸背紙装上製本 カバー
定価6,800円(本体6,602円)
装幀: 高麗隆彦

「逸脱の遠近法 4」 (8p):
鏡を成仏させるまで(多田智満子)/バルトルシャイティス書誌/図版(モノクロ)5点



Jurgis Baltrusaitis, Le miroir: Essai sur une légende scientifique, révélations, science-fiction et fallacies, 1978
本文中図版(モノクロ)多数。


バルトルシャイティス 鏡 01


帯文:

「鏡面の魔法、
光学の奇蹟

天の鏡、神の鏡、魔法の鏡、
アルキメデスの鏡、
アレクサンドレイアの燈台、
鏡占い、人工の幽霊――
神話から現代の太陽炉まで、
様々な鏡の科学と
伝説を博捜した驚異の書。」



帯背:

「鏡面の魔法、光学の奇蹟
幻想の科学史」



カバー裏文:

「鏡、このもうひとつの世界を召喚する道具は、神話時代より人々を魅了し、その想像力を刺戟しつづけてきた。天の鏡、神の鏡、アルキメデスの鏡、アレクサンドレイアの燈台、ロードス島の巨像、ピュタゴラスの鏡、魔法の鏡、人工の幽霊といったテーマを順次取りあげながら、古代から現代の巨大太陽炉・天体望遠鏡にまで至るさまざまな鏡の歴史を跡づける本書は、鏡の科学がたんに現実の再生の科学であるばかりでなく、さかしまの世界を現出し、人を幻視と錯覚へと導く超現実主義の科学でもあることを、二五〇余の図版と夥しい貴重なテクストによって論証する。「アベラシオン」「アナモルフォーズ」「イシス探求」の〈逸脱の遠近法〉三部作とともに多翼祭壇画(ポリプティック)を構成する四枚目の翼として、著作集の最後を締めくくるにふさわしい、稀代の碩学ならではの驚異の書である。」


目次:

諸言
序文

Ⅰ 反射光学博物館
Ⅱ 天の鏡
Ⅲ 神の鏡
Ⅳ アルキメデスの鏡
 1 エウクレイデスからビュフォンへ
Ⅴ アルキメデスの鏡
 2 ビュフォンから二十世紀の太陽炉へ
Ⅵ アレクサンドレイアの燈台の鏡
Ⅶ ピュタゴラスの鏡
Ⅷ 魔法の鏡
Ⅸ 人工の幽霊
Ⅹ 濫用・錯誤・まやかし
要約と結論

原注
解説 (谷川渥)
索引



バルトルシャイティス 鏡 02



◆本書より◆


「序文」より:

「ナイル河流域の住人たちは、鰐(わに)に食われる恐れのある範囲内に自分たちの影が落ちないように警戒していた。バスート族によれば、この動物は影を水中に引きずり込むことによって人間を殺すことができる。西洋では鰐は悪魔になって、シャミッソー(一八一六)にあっては、シュレミールの影を盗み、ホフマン(一八二七)にあっては、ひとりの娼婦を介して、後にホフマン自身と同一視されるエラスムス・シュピッカーの影を盗む。分身のテーマはロマン派文学以来繰り返し採り上げられる。アンデルセンにおいては、『影』(一八三一)という物語(コント)のなかでひとつの転倒がなされる。人間から分離したその影が人間を隷属させて、人間がついにはその影の影になってしまうのだ。「〈私〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」(幼児の段階)を明らかにしながら、ラカンは精神分析学者として、肉体と、分身と、内界(Innerwelt)と環界(Umwelt)の幻影との戯れと重なりを再発見しているが、それは可視的世界の敷居に現われる鏡像によるものなのである。
 ヨーロッパのいくつかの国の民間伝承においては、分身への同じような信仰からこんなことが生じている。

  ――アルター・エゴ(もうひとつの自我)が失われるかもしれないので、夜中に鏡をのぞいてはならないこと。
  ――死体を鏡に映してはならないこと。
  ――死者のいる家では鏡に覆いをかけること。
  ――割れた鏡を恐れること。生者は自分の影の運命(さだめ)に従う。(中略)

 現実とその幻覚(イリュージョン)とが厳密に対称をなし、しかもそれらの境界が知覚しえないことから、両者の直面はつねに驚くべきものであった。それは絶えず人を驚嘆させてきたのだ。芸術家に鏡が模範として与えられてきたのも、けだし当然の事態であった。」

「幻覚の科学、科学と幻覚、そして科学の幻覚として、反射光学とそれを取り巻くあらゆる展開は、二つの面の上で規定される。そこでは計算されたまやかしと錯誤が、自己を完全に認識しようとする必然性と同等の深い必然性に応じるのだ。
 科学的伝説が神話の伝説に、形態の伝説に、そして歪曲された遠近法のアナモルフォーズに続く。それは思考と視覚の逸脱についてのわれわれのエッセーの多翼祭壇画(ポリプティック)の四番目の、そして最後の翼(よく)をなす。それは、これまでなされてきたように、詩的本質と結びついた不条理や誇張をなおざりにすることなく物語られるだろう。」



「反射光学博物館」より:

「精密科学でありながら、逸脱した、夢幻的なヴィジョン。反射光学のコレクションはすべて、こうした矛盾のうちに考えられてきた。」
「それは現実と虚構からなる奇抜なスペクタクルで、そこでは二重化された映像が、実在しないとはいえ視覚にとって有無をいわせぬ領域で繰り返しつくられ、絶対的なるものと結びつく。ひとつの別世界(alter mundus)が知的な遊びと演劇的な娯楽の彼方に出現し、仮象と生命とについてのある種の問題に新たな光を投げかけながら、きわめて多くの分野にまで広がっていく。」
「鏡にはみずからの特性、魔術的能力、そして濫用がある。ピュタゴラスの鏡は、夜間でも遠くの物が認められるくらいに明るく輝き、また技術的工夫がこらされていたので、月面に文字が読めると思われるほどだった。自然の最初の道具である火をつくり出すことで、鏡は人間に最大の喜びをもたらした。その発明者はプロメテウスだった。(中略)最初の地上の火が火打ち石によって獲得されたとする流布されている説は誤りである。」



「濫用・錯誤・まやかし」より:

「凸面鏡を図書室やアトリエのなかに吊るせば、部屋全体が、そこにあるあらゆる事物、あらゆる書物とともに、球の内部に現われる。庭園では、あらゆる樹、あらゆる花を見せてくれるだろう。壮麗な宮殿、無限の空間も、このガラス玉のなかに閉じこめることができる。それらは広大であると同時に微小な事物で、そこではごく小さなものが巨大なものを表現するのである。」
「凸面鏡はまた自画像のためにも用いられた。」
「風景、都市、教会、宮殿、家屋、人物……表象がどんなものであれ、縮減によって事物を変貌させる、形而上学的思考と結びついた魔術のなにほどかが、そこにはつねに存続している。カバラ学者でライプニッツの友人であったメルクリウス・ファン・ヘルモントは、宇宙(コスモス)、大宇宙(マクロコスモス)、小宇宙(ミクロコスモス)についての証明のためにそれを用いて(一六九一)、そこに星雲を見てとった。星雲は、人間によって組み立てられた装置のなかにではなく、自然によって提供された物体のなかに姿を見せる。液体金属が、水滴のように、その重さと密度によっておのずから凸面鏡の形態をとるのである。

  実際、鏡のような水銀の実験によって、これをはっきり証明することができる。それは円形あるいは球形の金属の液だからである。一定量の水銀を取って、それを露天に置けば、地平線全体がそのあらゆる部分とあらゆる事物とともにはっきりと見える。

実験は、それにとどまらない。

  この水銀を蒸留すると、無数の玉あるいは球体(拡大鏡によってしか見分けることができない)に分れて、大きな水銀の塊りの場合と同様に、同時にそれらのひとつひとつに水平線全体が収まっているのが見られる。

 肉眼では見えないけれども、水銀の粒は、ライプニッツのモナドのように、ひとつの完全な宇宙を含むのである。」



バルトルシャイティス 鏡 03


本著作集第2巻栞「バルトルシャイティス、自著を語る」より:

「◎『鏡』について
――『鏡』という本はどのようにお書きになられたのですか?
B――ごく普通の鏡から始めて、後に自然界の内にある鏡、すなわち「空」、「雲」、「月」を経て、「神の鏡」の研究に至ったわけです。そしてひとつひとつの章にミラーミの引用文を入れました。ラファエル・ミラーミは、十六世紀に生きたヴェロナのユダヤ人で、彼が書いた本の中には、のちの時代に展開されることになる鏡に関する全ての基礎的な思考がすでに表わされているのです。
――『鏡』の結語として次のように書かれていますね。「最高の幻視(ヴィジョネール)科学であった鏡学(カトプトリンク)は幻想世界を生みだすのに最もふさわしい精密科学であった。そしてそのなかに常に表われる二律背反、正調と乱調、によってその特異性と詩想が定義されるのである」
B――この一節は私の書いた全ての本にあてはめられるものです。正調と乱調とは、私の最も興味のある問題です。
――乱調のなかの正調ということですか。
B――ええ、それと正調の中の乱調ですね。」





こちらもご参照ください:

谷川渥 『鏡と皮膚 ― 芸術のミュトロギア』





































































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『バルトルシャイティス著作集 3 イシス探求』 有田忠郎 訳

「エジプト神話の伝説は、単なる「失われた楽園」へのノルタルジーではない。それはまた非理性すれすれの厳しい論理であり、夢に奉仕する学問的知識である。その全体が、人間の思想とその錯乱との歴史の一章なのである。」
(バルトルシャイティス 『イシス探求』 より)


バルトルシャイティス著作集 3 
『イシス探求
― ある神話の伝承をめぐる試論』 
有田忠郎 訳


国書刊行会 
1992年11月30日 初版第1刷発行
423p 索引ix 口絵(カラー)10p
菊判 丸背紙装上製本 カバー
定価6,000円(本体5,825円)
装幀: 高麗隆彦



Jurgis Baltrušaitis, La quête d'Isis, 1985
カラー口絵12点、本文中モノクロ図版139点。


バルトルシャイティス イシス探求 01


カバー裏文:

「イシス――ナイル河畔に出現したこの女神は、オリエントからローマを含む地中海沿岸一帯に広まった大母神信仰の母胎であった。至高にして普遍の存在であるイシスはまた、大旅行者でもあった。革命期のパリに、モーツァルトの秘儀オペラの只中に、黄河のほとりに、メキシコのジャングルに、突如立ち現れる古代エジプトの栄光。イシス信仰の痕跡を、フランス、イングランド、ゲルマニアなどヨーロッパ各地に、そして遥か中国、インド、新大陸にまで求めた本書は、驚くべき展望、もしくは展望の逆転の中に、古代から中世、近世に至る、人間の信仰と想像力の大いなる角逐ないし協力をみる。幻想の東洋と西欧の夢想が交錯する魔術的神話学。「アベラシオン」「アナモルフォーズ」に続いて〈逸脱の遠近法〉三部作の最後を飾る名著。」


本書「緒言」より:

「『ある神話の伝承をめぐる試論。イシス探求。エジプト狂入門』は、一九六七年、「知の遊戯」叢書の一冊として、オリヴィエ・ペラン社から出版された。最近、「エジプト・リヴァイヴァル」が歴史家たちを魅了し、この問題をめぐる研究がひきもきらず公にされつつある。ここに刊行する『イシス探求』の新版では、旧版に比べて多くの点を補充した。すなわち、モーツァルト以前の歌劇におけるイシス。古銭にみられるイシス像。コロンナのエジプト系先祖。西インドのピラミッド。とりわけ、イギリスとガリア諸国およびゲルマニアのゴシックに見られるエジプト。」


訳者による「解説」より:

「私がこの翻訳を担当するに至ったのは、故澁澤龍彦氏の推輓によると聞く。前二著の訳者に倣って、私もこの書物を、生前ついにお会いする機会のなかった澁澤氏の霊前に捧げたい。」
「翻訳にあたっては多くの方々の助力を仰いだが、とりわけ中国関係の事項については中野美代子氏から、原注のラテン語文献名については渡邊昌美氏から、それぞれ懇切なご教示を賜った。またラテン語および古ドイツ語の碑文などについては、彌永信美氏を通じて友人のフランス人の方から仏語訳を頂戴した。」



バルトルシャイティス イシス探求 02


目次:

緒言
序文

プロローグに代えて
第1章 フランス革命期におけるエジプトの神統系譜説
第2章 歌劇とフリーメーソンのエジプト
第3章 パリの最初の歴史家ジル・コロゼのイシスたち
第4章 フランスのイシスたちとアピス
第5章 ゲルマニアのイシス
第6章 ゲルマニア・イタリアのオシリス
第7章 東インドのエジプト
第8章 中国のエジプト
第9章 西インドとイングランドのエジプト
結論に代えて 歴史と詩学

原注
解説 (有田忠郎)
索引



バルトルシャイティス イシス探求 03



◆本書より◆


訳者による「解説」より:

「ラテンの文人にして大旅行家だったアプレイウスは、『黄金の驢馬』の別名をもつ『転身物語』十一巻を書いた。その末尾で、魔法の戯れにより驢馬に変身した主人公ルキウスが、数々の苦難をなめたあげく、イシスの薔薇の恵みで人間に返る時、女神の口から次のような言葉が語られる(中略)。
 「ルキウスよ、私はお前のお祈りに大変心をうたれてここに参りました。私は万物の母、あらゆる原理の支配者、人類のそもそもの創造主、至上の女神、黄泉の女王、天界の最古参にして、世界の神々や女神の原型。そして私は輝く蒼穹と海を吹きわたる順風と地獄の恐ろしい沈黙を、意のままに統御できます。」
 こうして、イシスが宇宙にあまねく存在する最高の神格であり、自然と時間、生者と死者を共に統べる大神であることが宣言された後、イシスを祖型とする無数の神々の名が挙げられる。
 「私の至上至高の意志は、世界の至るところで、それぞれの地方の習慣から、さまざまの儀式で祭られ、いろいろの名前で呼びかけられています。最も古い人類の種族プリュギア人は、神々の母ペシヌンティアと呼び、生抜きのアッティキー人はケークロピアのミネルヴァと呼び、更に海に洗われたキュプロスの人々は、パポスのヴェヌス、箭持つクレタ島の人は、ディクチュンナのディアーナ、三ヶ国語を話すシクリー人はスチュックスのプロセルピナ、古いエレウシナの住民たちはアッティカのケレースと呼びなしています。ある地方ではユーノー、又の地方ではベッローナ、ある所ではヘカタ、またラムヌーシアとも呼ばれています。そして太陽神が朝生まれたての光線を寝床の上に輝かせるエティオピアの人々と、学問の古い伝統にかけては世界に冠たるエジプトの人々とは、いずれも私にふさわしい儀式を捧げ、私の本来の名前でもって、イーシスの女王と呼びならわし尊んでいます。」
 イシスが如何に変現自在の神格だったかは、この引用からも推察されるであろう。アプレイウスは紀元二世紀の人で、アフリカ生まれ。カルタゴとアテーナイとローマに学び、小アジアやアレクサンドリアに旅して見聞を広めたから、イシス信仰が当時地中海一帯に拡がっているありさまを、みずから体験したことであろう。
 すでに紀元前七世紀、小アジアに浸透していたイシス信仰は、古代ギリシア世界、テッサリア、マケドニアを経て、ローマ世界に流出してきたらしい。ポンペイのイシス神殿は紀元前一世紀頃建立されたというし、紀元後もカリグラ、ドミティアヌスなど、歴代の皇帝がイシス神殿を造営した。カラカラ帝に至っては、このエジプトの宗教をローマの国家宗教に統合さえしたのである(本書「序文」参照)。
 もともとナイル河流域の地方的神格だったイシスが、農耕と結びついた地母神の範囲を脱して世界化していく過程には、さまざまな要因が働いたに相違ない。兄であり夫であるオシリスとの相関で語られた死・復活の神話と宗教儀礼、子ホールスと一体になった母子神の組合せなど、そこには古代民族の神話や宗教ともキリスト教の教義とも重ね合わせることのできる、ある原型的構造が読みとれる。ともあれ、オシリス=イシス=ホールスの三幅対神は、如何なる理由でか、他地域の異神と混淆しやすい性格を具え、しだいに多様な相を帯びていったようである。このエジプトの神々は、混種の神々の中に地方的特性を解消していく過程で、変貌し、「万神」として復活した。その神殿もヨーロッパの辺境にまで行き渡った。
 この趨勢にも、しかし終わりを告げる時がくる。紀元三八三年、アレクサンドリアのセラピス神殿とピラクのイシス神殿が取り壊され、さしもの神統系譜もここに歴史的事実としては絶えたかに見える。ところが、以後、エジプトの神々は神話とフィクションの形でかえって強力に蘇り、古代とは別の道を通って世界化へと足を踏み出した。バルトルシャイティスの言葉を借りれば、彼らは「むしろその失権の時にこそ、世界制覇へと乗り出した」のである。
 本書は、リトアニア出身の著者が、この神話とフィクションを、ヨーロッパのみならずインドや中国やメキシコにまで求め、「幻想のエジプトの栄光を称えるべく打ち立てられたバロック風の一大建築」たらしめたものである。ユルギス・バルトルシャイティス――その名自体がいささか迷宮の趣をもつこの博捜の学者は、イシスとオシリスの伝承を比較神話学、美術史、歴史学、考古学、自然科学、言語学等々の諸分野にわたって追跡し、引用につぐ引用を重ねながら、エジプトの神々の足跡を拾い集めた。そこに集積されたものは、「奇妙さと背理と厳密な推論と詩的虚構のアマルガム」であった。
 著者が言うように、ここに収録された無数の材料は、「異様で奇怪で、とうてい受け入れがたい」と見えるかもしれない。だが、と続けて著者は言う、「これらはみな、ある精神状態に対応するもので、ギリシア・ローマ文明よりもっと神秘な、もっと古い世界に向けられた密かな欲求を表している。むしろ、これらの材料のとんでもない側面こそ、当の欲求の根強さを暗示しているのである」と。
 この「欲求」が、いわゆるエジプト狂(マニー)あるいはエジプト・リヴァイヴァルとして現れたことは「序文」に書かれているとおりだが、著者の独創は、この一種の偏倚(へんい)現象を知的世界の探求のための装置として用いたことにある。「事物を、それが実際には存在しない場所に如何にも存在するかの如く見せる神話の伝承」こそ、人間の精神という特殊な光の屈折を生ぜしめるレンズの作用を果たすものである。ゆえに、その屈折の状態を調べれば、知的欲求にひそむ根強い衝迫(バルトルシャイティスは、それを「隠れた形而上的真理」への欲求と呼んでいる)が明らかになるであろう。それは形態の伝説を生む「アベラシオン」や、光学上の仮構である「アナモルフォーズ」と共に三幅対をなすものである。」



「序文」より:

「たしかに、私が本書に収録した数多い材料は、異様で奇怪で、とうてい受け入れがたいと見えるかもしれない。だが、これらはみな、ある精神状態に対応するもので、ギリシア・ローマ文明よりもっと神秘な、もっと古い世界に向けられた密かな欲求を表している。むしろ、これらの材料のとんでもない側面こそ、当の欲求の根強さを示しているのである。
 エジプトは、人間の知恵と学問の揺籃と考えられた。ギリシア・ローマの復活の背後には、いつもエジプトの復活が付随し、前者の根拠となることもあれば、これを併呑してしまうこともあった。ローマにはオベリスクが幾つも建てられた。『ポリュフィルス狂恋夢』(一四九九)には、象の背に乗ったオベリスクが出てくる。(中略)エジプトの品々、象形の絵文字、ミイラなど、あらゆる種類の珍品が、王侯貴族や高位聖職者の書斎に溢れた。」
「しかし、このような研究の中心にあったのは、何と言っても古代象形文字(ヒエログリフ)である。この文字自体が、それなりの神話と言い伝えをもっていた。古代の神話(中略)は、この神聖文字から音声の観念を一切排除し、純粋な象徴にした。神話が伝承されるにつれ、この理論は新プラトン主義の後楯を得て一つの世界観となり、世界内の事物をより高き存在の徴と見るに至る。こうして強力な哲学思潮と緊密に結合したため、象形文字の神話は、以後二千年にわたって二つの方向に発展した。一つは学説として。もう一つは新しい図像の分野において。一つの事物を他の事物で置換する、すなわち絶対価値の隠喩・暗号としての象形文字は、その神秘のゆえに人々の注意を集めた。それは夢の扉を開く鍵であり、宇宙開闢(かいびゃく)の謎を解く秘法であった。文明の夜明けに創始されたエジプト象形文字は、原初の真理を蔵しており、三位一体の教義もキリスト教の象徴もそこに含まれているはずであった。このような考えを極限まで押し進めたのが、キルヒャー神父である(一六五〇―一六六六)。彼にとっては、エジプト全体、世界全体が象形文字にほかならない。秘教的な象徴思考一般の問題の根底に触れたその著『エジプト人の象徴哲学』(中略)の周囲には、広大な文学が爛漫と花開いた。」



「第1章 フランス革命期におけるエジプトの神統系譜説」より:

「キリストは、太陽=オシリスと月=イシスから生まれた日輪たるホールスであるばかりではない。それはまた、オシリスと同様光り輝く太陽なのである。キリスト教の著作家たちは、キリストの生涯と死、地獄下りと復活を、エジプトの最高神オシリスの叙事詩と常に引き較べている。」

「パリのノートル・ダムがイシス神殿なら、王家の墓のあるサン・ドニ修道院に見出されるのは、ギリシアの神ディオニューソスに化身したオシリスである。中世の教会はすべて、エジプトの信仰と象徴の印を数多く残しているのである。
 古代人は、空を一つの箱舟と見た。つまり、空は神々を乗せてエーテル空間を運ぶ舟だというわけである。教会の身廊の形も、それをネフ(nef)[舟の意がある]と呼ぶのも、そこに由来する。だからこそフランスの教会堂には、エジプトの神殿と同じ黄道十二宮図が彫刻されたり、描かれたりしたのである。」

「遠い土地からセーヌ河畔にやって来た謎の女神という眉唾物の伝説は、中世と古代の二重の富を基盤として作られ、ひろめられた。ある時は古代を織り込んだ中世、ある時は中世を織り込んだ古代という形を取ったのである。この複合的な土台の上で、中世の伝承が際立ち、生き延び、大筋がきまって、十六世紀までつづく。さらに、カロリング朝やゴシックの新たな資料が発見され、ギリシア・ローマ世界に関する知識が進むにつれて、この伝説は幾度も手直しされ、完全なものになっていく。
 フランスのイシスという神話は、もともとパリの歴史と密接に関連しながら出てきたもので、その後もこの関連は失われなかった。パリが万人周知の魅惑をもつからこそ、フランスのイシスも人々を魅了したのである。この神話が長期にわたって徐々に発展したのは、パリに関する著作を通じてであった。そのうち最も古いのがジル・コロゼの書物である。コロゼは書籍商で作詩家、そしてまたパリの建築物と歴史のすぐれた素人研究家であった。若い頃は外国人のパリ案内に熱心で、一五三二年に最初の案内書を書いて出版した時は、弱冠二十二歳であった。これは、その後大幅に書き加えられて決定版となり、一五五〇年、大部の案内書シリーズの第一巻として出ている。
 この書物の第一章では、パリという名の語源に関する三つの説が述べられる。まず、ルメール・ド・ベルジュとヴィテルボのアンニウス(ナンニ)は、パリの名を、ガリア王ロムス十八世の息子パリス Paris から出たものとする。伝承によれば、パリスはトロイの町の創建後七〇年、ノアの洪水後九〇〇年、キリスト紀元前一四四〇年に、パリを建てたという。つづいてジョヴァンニ・バッティスタ、一名マントヴァのジョヴァンニの主張が紹介される。それによれば、パリの名は、ガリアを通ってイスパニアへ行ったヘーラクレースに同行したパラシア人 Parrasiens (ギリシアのアジア側にある土地パラシアの住民)に由来するという。そして三番目が、イシスに由来するという説である。これは前の二つと違って、彫像という実在の証拠に基づいており、その主張の仕方からして格別に重要である。つまり、その源になるのは特定の著述家ではなく、一つの伝承なのである。
 この説によれば、パリのイシス神殿が建てられたのは、クール・ド・ジェブランが言うようにシテ島でもなければ、ボヌヴィルが言うように近くの丘でもなく、ル・ジャンティ・ド・ラ・ガレジエールが考えたとおりセーヌ左岸の平地である。ここにこそ、問題を解く鍵がある。

  パリという名がついた理由に関して、ある者は言う、現在サン・ジェルマン・デ・プレ教会がある場所に、かつてはイシス女神なる偶像に対する迷信のために奉献された神殿があった、と。伝承によれば、この女神は大神オシリスまたの名を正義の神ユーピテルの妻で、その彫像は今の時代にもまだ見ることができた。私もそれを覚えている。この場所はイシス神殿と呼ばれ、したがって、それに近い町という意味でパリシス Parisis (quasi juxta Isis イシス神殿近傍)の名がついたのである。

 コロゼは、この文章に言う「彫像」を、細かく活写している。昔の神殿で崇拝されたこの像は、神殿が取り壊された後に建てられた教会堂に移され、保管されてきたのである。

  女神は痩身で、丈はすっくと高く、長い時代を経てきたために黒ずみ、身は裸身、四肢のまわりに僅かな衣をまとっているのみであった。教会内での位置は、キリストの十字架がある右手北側の壁面に安置されていた。この像は「サン・ジェルマン・デ・プレの神像」と呼ばれていたが、一五一四年、モーの司教にしてサン・ジェルマン・デ・プレの修道院長たるブリソネ猊下により、撤去された……。

 コロゼは当時僅かに四歳だったから、その記憶はもっぱら耳から入った話によるはずだが、それでもこのイシスの彫像の話は現に生きていた。だからこそ彼は、王の修道院の静寂になお古代エジプトの神話を伝える、黒ずんだ、怪異にして荘重な像の姿を、数語で描破することができたのである。」



「結論に代えて 歴史と詩学」より:

「物語は終わった。ナイル河の神々と王たちは多くの大陸をへめぐり、ヨーロッパとアジアの偉大な文明や国々全体の根源にいることが分かった。彼らの世界は魔法圏で、もろもろの宗教と民族の歴史を変容させた。古代エジプトがイスラムの支配(六四一)によって、決定的に終焉を告げた。そのメッセージが封印を施されて、再び解読される(一八二二)までは眠りに入った結果、思いがけないことが起こった。想像のエジプト、普遍的で不死のエジプトが、本来の国境から遠く離れた所で誕生し、歴史上のエジプトに取って代わったのである。古代の著作と聖書の周辺にエジプト伝説が築かれ、その材料は絶えず新しくなっていった。中世から十九世紀まで、その展開は途絶えることなく、無数に枝分かれしたり、衰えてはまた再燃したりした。」

「エジプト神話の伝説は、単なる「失われた楽園」へのノルタルジーではない。それはまた非理性すれすれの厳しい論理であり、夢に奉仕する学問的知識である。その全体が、人間の思想とその錯乱との歴史の一章なのである。」

































































































『バルトルシャイティス著作集 2 アナモルフォーズ』 高山宏 訳

「理性を通じて狂気に到るほど危ういことはない……」
(コルネリウス・アグリッパ)


『バルトルシャイティス著作集 2 
アナモルフォーズ
― 光学魔術』 
高山宏 訳


国書刊行会
1992年1月20日 初版第1刷発行
372p 索引xi 口絵(カラー)12p
菊判 丸背紙装上製本 カバー
定価5,500円(本体5,340円)
装幀: 高麗隆彦

「逸脱の遠近法 2」 (8p):
アナモルフォーシス考(坂根厳夫)/バルトルシャイティス、自著を語る



初版は1955年刊。本書は改訂増補版(1984年)を底本にしています。
本文中図版(モノクロ)166点、口絵カラー図版15点。
銀紙付きなので、丸めて円筒アナモルフォーズ図版を見ることができます。


バルトルシャイティス アナモルフォーズ 01


帯文:

「光学の魔術、
奇妙な遠近法

近代の神話、
遠近法を歪め、
笑殺する驚異の術
アナモルフォーズ
その豊かな展開を
古代ギリシアから中国まで
追跡する逸脱の美術史」



帯背:

「光学の魔術、奇妙な遠近法
逸脱の美術史」



カバー裏文:

「近代合理主義そのものの象徴とされる遠近法という視覚構造そのものが一個の壮大な夢、奇怪千万なアベラシオンにほかならなかった。理性によって世界を一貫したヴィジョンに整合しさろうとする精神はそもそもの出発点から、その方法を〈遊び〉へと逸脱させることで疑い、笑おうとする強烈な敵につきまとわれることになった。遠近法が諸学の中心的関心事となったルネッサンス期にあってそれを蝕む歪曲遠近法の研究や図像が反ルネッサンス運動としてのマニエリスムにとっての中核的テーマとなる。その十七世紀を中心として、古くは古代ギリシア、遠くは中国にまで怖るべき資料の博捜が始まる。固定化した視線の神話を破壊するアナモルフォーズ、歪んだ遠近法の系譜を追跡する逸脱の美術史。」


目次:

諸言
序文

第1章 加速された遠近法、緩慢な遠近法
第2章 初期のアナモルフォーズとその伝播――十六、十七世紀
第3章 フランスの遠近法家――サロモン・ド・コー、ニスロン、メニャン
第4章 デカルト――自動機械と懐疑精神
第5章 諍(いさか)う芸術家たち――アカデミー対デザルグ、ボッス
第6章 ドイツ幻想派――アタナシウス・キルヒャーとガスパール・ショット
第7章 ホルバインの『大使たち』
第8章 十八、十九世紀の光学―娯楽
第9章 鏡アナモルフォーズ
第10章 反射光学、幾何学、幻覚術
第11章 中国の幻覚術
第12章 復活と更新
第13章 テクスト・アナモルフォーズ

原注
解説 (高山宏)
索引



バルトルシャイティス アナモルフォーズ 02



◆本書より◆


「序文」より:

「美術史の中で遠近法(perspective)は一般には、三次元をつくりだすリアリズムの一要素だというふうに考えられている。何よりもそれは、あらゆる目的に沿う虚構である。本書は、その幻想的で逸脱した(「逸脱した」にルビ「アベランな」)側面、即ち自らを支えるさまざまな法則を論理的に明るみに出し、あばきたてることで「ズレて」しまった遠近法(perspective dépravée)をとりあげようとする。
 「アナモルフォーズ(anamorphose)」は、言葉こそ十七世紀に初めて現われたものだが、実際にはそれ以前に既に知られていたあれこれの作図法(コンポジシオン)と繋がりを持ち、そうしたあれこれの要素や機能を転倒させることでうみだされた。形態を目に見えるその限界へと漸次的に還元していこうとはせず、それは拡張させ、形態をその外部へと投影させ、ある決められた一点から見る場合にのみ正しい像に戻るという約束事のもとに歪曲を加える。再構築するために破壊し、帰還ぶくみで逸脱していくのだ。その手続きは一個の技術的な珍品(キュリオシテ)として確立したが、そこには抽象の詩学、錯覚をうみだす強力なメカニズム、いつわりの現実をめぐる哲学が孕まれずには措(お)かない。アナモルフォーズは一個の判じもの、一個の怪物、一個の驚異である。人間知識の宇宙の中にいつもひとつの「陳列室(キャビネ)」と避難所を持つ偏倚(へんい)なるものたちの世界に属す一方で、アナモルフォーズはその領域の閉じた埒(らち)の外へと溢(あふ)れ出ていくことが少なくない。そもそも「学識の遊戯(ジュ・サヴァン)」とは本来、この横溢の部分の謂(いい)に他なるまい。
 そもそも本書が主題とするところは、そこで現実と仮象の間が学者や芸術家たちによって引き裂かれているような表象が織りなす歴史である。アナモルフォーズは、(中略)仮象(l'apparent)が現実(le réel)を蝕むところの光学的詐術なのである。(中略)加速された遠近法、緩慢な遠近法は自然な秩序を、破壊はしないで動揺させる。一方、歪曲的(アナモルフォティーク)な遠近法は、同じ手段を帰謬法的に追いつめ、過激に適用することによって、自然な秩序を一挙に無化しさる。人間視線を公然化することによって脱構築され再構築される図像が十六世紀、芸術の驚異として大いに流布し、その秘法は一定期間かたくななまでに守られて二十世紀前夜まで持続してきている。そうした技術的秘伝は少しずつあばかれていったわけだが、その委曲を尽くした理論的また実践的な集成のたぐいが現われ、精神をめぐる他の思弁と密に関係するようになったのはやっと十七世紀になってのことである。幻想の機巧たるアナモルフォーズ。」



「フランスの遠近法家」より:

「ガリレオは記している。

  決められた一定点からはすかいに眺めますと、遠近法の諸規則に従って描かれた人間の姿に見えますのに、(中略)これを正面から見ますと、そこには線と色彩の混沌たる戯れがあるばかりで、その気になって見るなら何やら川、曲りくねった道、ひとけの絶えた浜、雲、朧ろげな形めいたものが認められなくもありません。

 これではそっくり、イメージと意味作用がお互いから生じ、思考の遠近法の正視(まさめ)かはすかい(引用者注: 「はすかい」に傍点)かによって無碍(むげ)無障、自在の変貌を遂げる幻燈魔景(ファンタスマゴリア)三昧の寓意(アレゴリー)詩そのものではないか。然り、同じ書簡の中でガリレオはこの比較を竿頭一歩進めて、こう書いているのだ。

  主に短縮法で眺めるために制作されたこの種の絵画にも同じことが言えるのでして、鶴の脚だのこうのとりの嘴(くちばし)だのといった錯乱した形象をしか表わしていない正面からそれらを眺めるのは愚かなことです。同じことが詩という虚構についても言えるのであって、一見して理解される体(てい)の凡庸な物語と、他方過剰な幻夢、溢れるばかりの幻想的想像力に満ち満ちて、はすかいに見て初めて理解されるアレゴリーとは自ずから別乾坤(けんこん)のものであって然るべきです。

 逸脱の光学にも通暁したこのイタリア人物理学者、天文学者は、詩人による詩の制作過程にも、こうして見事な定義を与えている。」



バルトルシャイティス アナモルフォーズ 03


本著作集第2巻栞「バルトルシャイティス、自著を語る」より:

「――アナモルフォーズ(歪像)とはどのようにして生まれるものなのでしょうか?
B――ひとつの定義(デフィニッシヨン)を現実の外にまで用いるということですね、ある物を一旦デフォルメして、それを別のある決められたアングルから再生させる投影画(プロジェクシヨン)とでも言えるでしょう。創造するため、現実を越えるため、のデフォルマシヨンですね。
――それはすでに古代ギリシャにも存在したものですね。たとえば高いところに置かれるものを造る場合、デフォルマシヨンは必要だったわけですから。
B――フェイディアスの話ですね。それはミネルヴァ女神の像をめぐるコンクールが開かれたときのことです。ある一人の彫刻家は完璧な素晴らしいミネルヴァ像を彫りました。一方、フェイディアスが彫ったミネルヴァ像は巨大な口や鼻をした全く畸形な作品でした。もう一人の競争者はそれをみて大笑いしたわけです。ところが、二つの像を神殿のなかの高い台の上に置いてみると、完璧であった像は下から見上げると畸形にみえ、最初からデフォルメされていたフェイディアスの像は、視覚によって矯正され、完璧なものにみえたというわけです。ここには確かにアナモルフォーズの発想はありますが、その定義というものは、まだ構想されていませんでした。アナモルフォーズの定義が実際に現われたのは十六世紀初頭で、それは十七世紀まで〈秘伝〉として伝えられました。そして十七世紀に入ると、イエズス会の修道士がそれを数学と幾何学に基づいた一つの教養として確立させたのです。
――最も有名なアナモルフォーズ絵画として、ホルバインの「大使」という絵がありますが。
B――ええ。世上権を象徴する人物と教権を象徴する人物が並んで立っていて、二人の間にはさまざまな科学器具が置かれているのですが、絵の下の方に何だか解らない不思議な形の物が描かれているんですね。よく見ると実はそれが頭蓋骨の歪像であると気づくわけです。これは二人の人物と科学器具によって象徴された人間の“虚栄”を訴え、科学の無意味と死の凱旋を表わすもので、このような宗教的思想は、同じ十六世紀に書かれたエラスムスの『痴愚神礼讃』のなかにも見られます。当時のキリスト教は科学を無駄なものとして非難し、それに死の凱旋を相対立させ、唯一の正しい“科学”として、いわば〈キリスト学〉を主張していたのです。(中略)」
――そうした幻想的な傾向が最も強かったのはゲルマン系の諸国だったようですが。
B――そうです。とくにアタナシウス・キルヒャーというイエズス会修道士は、ヴィジオネール的な歴史において重要な役割を果たした人物です。非常に正確な科学的思考によって不条理の構想を試みたキルヒャーは、それまで絵画にのみ用いられていたアナモルフォーズを自然の中に実現させることを考えたのです。たとえば一定の距離から眺めると、人間、あるいは動物の形をしているようにみえる町や風景などです。」































































































『バルトルシャイティス著作集 1 アベラシオン』 種村季弘・巖谷國士 訳

「石は生き、病をわずらい、齢をとり、死んでゆく。切り砕かれた石たちは生長する。石たちはふたたび図像におおわれる。」
(バルトルシャイティス 「絵のある石」 より)


『バルトルシャイティス著作集 1 
アベラシオン
― 形態の伝説をめぐる四つのエッセー』 
種村季弘・巖谷國士 訳


国書刊行会
1991年5月10日 初版第1刷発行
292p 人名索引ix 口絵(カラー)12p
菊判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,500円(本体4,369円)
装幀: 高麗隆彦

「逸脱の遠近法 1」 (8p):
シナ風パゴダの恐怖(中野美代子)/二人のバルトルシャイティス(沼野充義)/図版(モノクロ)2点



原書初版は1958年刊。本訳書は改訂版(1983年)を底本にしています。
本文中図版(モノクロ)121点、口絵カラー図版15点。


バルトルシャイティス アベラシオン 01


帯文:

「視覚の神話、
形態の伝説

動物観相学、
絵のある石、
ゴシック建築と森の神話、
風景庭園の幻想魔景――
偏奇なイメージの系譜を
古今東西のテクストと
図版で読みとく驚異の書」



帯背:

「視覚の神話、形態の伝説
綺想の博物誌」



カバー裏文:

「動物と人間の類似から人間性格を演繹する表徴解読の秘術、観相学の系譜を跡づける「動物観相学」。岩石のなかにたちあらわれる聖書の光景、都市、人間や動物の図像、収集家を熱狂せしめた鉱物の奇蹟「絵のある石」。ゴシックの大聖堂に鬱蒼たる森のヴィジョンをみ、自然回帰の神話を読みとく「ゴシック建築のロマン」。庭園内に突如出現する奇怪なモニュメント、シナ・イスラムの寺院、怪物や神話的主題を配した幻想魔景。諸神混淆の風景庭園の諸相を追う「庭園とイリュージョン風景」。形態の伝説をめぐる四つのエッセーを収録、近代合理主義から逸脱した偏奇なイメージの系譜を、怪物的な博引傍証と夥しい図版資料によって掘りおこした驚異の書。」


目次:

諸言 (巌谷國士 訳)
序文 (巌谷國士 訳)

動物観相学 (種村季弘 訳)
絵のある石 (巌谷國士 訳)
ゴシック建築のロマン (巌谷國士 訳)
庭園とイリュージョン風景 (種村季弘 訳)

解説 (種村季弘)
後記 (巌谷國士)

人名索引



バルトルシャイティス アベラシオン 02



◆本書より◆


「絵のある石」より:

「これらのヴィジョンの起源は古代世界にある。プリニウスはその博物誌中の、「人間のもっとも大きな熱狂」のもとである宝石や石を扱う巻のなかで、同じような現象をひとそろい喚起している。パロス島の大理石の一塊が岩山の隅からもげおちたとき、それはとつぜんセイレーン(人魚)の姿を呈したという。カエサルが若きポンペイウスを打ち負かしたヒスパニアのムンダ近郊には、掌状石、すなわちこれを割ると手あるいは棕櫚の葉の輪郭のあらわれる石が見られる。星光石(アステリア)は太陽や月をうちにふくんでいる。最後に、ピュロスの所有になる瑪瑙の石目が「自然のまま、芸術の手を借りずに描いている」のは、神話の人物の一団、つまり竪琴を手にしたアポロンと、それぞれにふさわしい象徴物さえそなえた九人のミューズであるという。この奇蹟にソリヌス(二三〇頃)は別の例をつけ加えている。瑪瑙が上質のものであれば、その石目は幾通りかの自然物を描くという。インドで産出される瑪瑙はあるときには森を、あるときには動物を再現する。」
「自然によって画像を与えられたあらゆる種類の石は、ギリシア・ローマの宝石細工師たちにも知られていた。そして彼らの残した前提の上にさまざまな伝説が生まれ、近代鉱物学が形成される以前の西欧世界にひろまっていったのである。
 多岐にわたる幻想の形式をたえず同化しつづけていた中世は、まず瑪瑙をめぐる神話を量産しつつ、しだいにそれらを、宗教の原典と科学の教説とを両立させるような一体系へと統合していった。」

「十六世紀碩学たちもこうした材料について思索をつづけている。あるときは古代の源泉にさかのぼりながら、またあるときは中世の幻想をさらに増大させながら。占星術や錬金術や、ありとあらゆる魔術的な科学がいまだ人々の精神を支配しており、鉱物学もしばしば不可思議の領域に属していた時代である。」

「石は生き、病をわずらい、齢をとり、死んでゆく。切り砕かれた石たちは生長する。石たちはふたたび図像におおわれる。アルベルティによれば、ヴェローナの野原で見つかったある石は、まるで自然が定規を使って描いたかのようなソロモンの印璽を示していた。フライブルクでは、ある「アラバンディ石」が猿の絵をそなえていた。ヘルキュニア(現エルツ)山地の森のなかでは、小石の表面に金色の斑紋があらわれ、そのさまざまな形は、

  海燕、サラマンドル、鶏、髭のある顔、聖母子像のようだ……。同じくミスネシス山地に近いアルサティアの湖では、銅で描かれた蛙や魚の画像が石の表面にうかびでて見える。」

「ある思いがけない思考の迂回路を通って、生物の生成にかんするもっとも異様な理論のひとつが、ひとりの高名な哲学者の省察から生まれ、これら再整理された目録の上に打ち立てられる。

  人間は動物に由来し、動物は植物に由来し、さらに植物は化石に由来し、化石はまた化石で、完全に死んだもの、形のないものとして感覚や想像力がわれわれに示す物体に由来している、

とライプニッツは、ヘルマンとアッペルにあてた書簡中の一通に書く。百科全書派の弟子であったロビネはこれを引用し、自然三界のすべては同じ生命につらぬかれていると結論する。

  自然こそはただひとつの現実態にほかならない。すべての存在はただひとつの意図にもとづいて構想・形成され、それぞれが無限に段階づけられたその変化形態をかたちづくる。

 存在を段階づける自然の大梯子は、たえまない変態を通じて、人間から石にまでさかのぼってゆくのだ。」

「私たちの時代の知識は、絵のある石の物語を衰えさせてなどいない。それどころか、むしろ豊かにしているほどなのだ。あらゆる色彩をそなえた多種の瑪瑙、大理石、あらゆる種類の石灰石、これらは細心綿密に再分類され、さらに新種の鉱石がいまやこれらの思索のうちに加わることによって、たえまなく機会と手段とを拡大するようになっている。石を供給する地図上の範囲も四方八方にひろがった。依然としてトスカナは特権的な土地だ。けれども、とくにスペインやイングランドのような他の重要な産地もまた、注目すべき石の作品を供給しつつある。ガボンやオレゴンにまで探索の手がのびているほどだ。これはまた、抽象や幻覚の新しい広汎な目録の発見、時代の徴候の発見でもある。にもかかわらず、その驚くべきメカニズムにそなわっている同じ神秘は、いまもいたるところで生きのびている。事情に通じた愛好者たちは、今日なお、さまざまな鉱物の外形ばかりではなく、不可解な自然の象形文字にも魅きつけられている。いわば精神の洗練、趣味の洗練がそこにあるかのように。」



バルトルシャイティス アベラシオン 03


本著作集第2巻栞「バルトルシャイティス、自著を語る」より:

「◎「アベラシオン」について
B――“アベラシオン”という言葉を説明しますと、これは天文学において実際にはそこに存在しないはずなのに、ある位置に現われる星を示す専門用語なのです。そこには一種の「物体の移動」があるわけですね。私が本に“アベラシオン”という題をつけたのもその言葉によって実際にはそこに存在するはずのない物が、あるところに現われているという現象を示すのに最もふさわしい表現だと思ったからです。オスカー・ワイルドに“真実”に関する一節がありますね。「形而上学的真実とは、仮面の真実である」という。この「仮面」というものは、ある別のものの上に置かれることによってその深層を表わしてしまう、一種の“アベラシオン”です。私はそれを追求したいと思ったのです。」





こちらもご参照ください:

種村季弘 『不思議な石のはなし』















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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