『藤枝静男作品集』

「私は妻の云うとおりの人間かも知れないと思う。私はいつも、私の死んだ父にも兄にも、肉親の誰れにも、一度だって人間らしい自然な態度で接し、やさしく親愛の情を示したことがない。」
(藤枝静男 「空気頭」 より)


『藤枝静男作品集』

筑摩書房
昭和49年2月10日 第1刷発行
377p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価3,900円
装幀: 利根山光人

付録 (8p):
作品集『犬の血』のこと(平野謙)/藤枝さんの近作(川村二郎)/小説の主役(高井有一)/藤枝さんのこと(中野孝次)/旅の思い出(江藤淳)



本書「あとがき」より:

「比較的長い「凶徒津田三蔵」「或る年の冬 或る年の夏」「欣求浄土」の三作と他に無価値で捨てた二短篇を除けば、これが私の全小説である。」
「私の場合などモティーフははじめから一つきりで、それを繰り返してきたようなものである。むしろ自分でもよくわからない自分のモティーフを、自分にわからせるために色んな形を試みてみたようなもので、全く単色であろう。」
「「一家団欒」と「欣求浄土」は、これを書いた後でその間に饅頭の餡をつめないと駄目だと思ったので、もう五篇書いてから一つの長い「欣求浄土」にまとめて出版した。だからその切れ端にあたるものである。」



二段組。


藤枝静男作品集 01


目次:


イペリット眼
文平と卓と僕
痩我慢の説
犬の血
雄飛号来る
掌中果
阿井さん
明かるい場所
春の水
ヤゴの分際
鷹のいる村
わが先生のひとり
壜の中の水
魁生老人
硝酸銀
一家団欒
冬の虹
空気頭
欣求浄土

あとがき
年譜



藤枝静男作品集 03



◆本書より◆


「鷹のいる村」より:

「いずれにせよ、彼女は或る日母親の家に寄って、鰻丼を食べている途中悪寒に襲われ、専門医に連れて行かれた結果、すべてを明らかにされた。そして翌朝入院し、次の日には死児を自然に分娩したのである。
 当日の午後、彼女は手術のための最初の皮下注射を受けた。一時間ほどして二回目の注射をしてもらった直後、急に気分がわるくなり、洗面所に駈けこんで吐こうとした。そして胃のあたりに力を入れたとたん、胎児はすべるように彼女の両脚の下に落ちたのである。彼女は中腰のまま洗面台の縁につかまって
 「何か出たあ」
 と叫び、駈けつけた看護婦に
 「イカみたいなものが出たあ」
 と悲鳴をあげた。
 彼女の形容はもっともであった。水膨れで表面のヌルヌルになった、灰色の、いわゆる浸軟児は、魚屋の桶に浸けられた生烏賊そのままだったからである。」



「一家団欒」より:

「ああ、これだ、と彼は思った。これが俺の後悔と不幸のはじまりだったのだ。こういう無邪気で単純なものが、いったん俺の身体のなかに入りこむと、羞恥と罪に満ちた陰気で汚い塊に変化してしまったのだ。濁った池の水面と底との中間にブヨブヨと固まって浮いている原油のように、いつも搖れて、そのくせ沈殿もせず浮きあがりもせず、一生のあいだ俺を刺戟しつづけ、苦しめつづけて来た。
 こまかい雨が降りだしていた。章の立っている堂のまわり縁の外側に、黄色い小粒の花を、細枝いっぱいにつけた数本の連翹の木が、重そうに頭を傾けてならんでいた。花のひとつひとつが霧雨にまぶされたまま、裏側から射す祭提灯の淡い逆光にうつし出されて輝いて見えた。
 もういい。もう済んでしまった、と章は思った。」



藤枝静男作品集 02




こちらもご参照ください:

藤枝静男 『田紳有楽』
藤枝静男 『凶徒津田三蔵』 (講談社文庫)
































































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藤枝静男 『田紳有楽』

「丼鉢も浮かれて空中に浮上し、ブーンブーンと回転しながら部屋を飛びまわりはじめた。かくて一同の演奏ははじめゆるやかに、だんだん調子を速め高めて、ヒマラヤの山中に戻り、万物流転 生々滅々 不生不滅 不増不減 と今や破裂せんばかりの佳境に入りこんで果しもなく続いて行くのであった。」


藤枝静男 
『田紳有楽』


講談社 
昭和51年5月12日 第1刷発行
昭和51年6月18日 第2刷発行
214p 
四六判 丸背布装上製本 貼函 
定価1,200円
装幀: 辻村益朗



本書「あとがき」より:

「この一篇は、最初単に「田紳有楽」とだけして十枚を「群像」昭和四十九年一月号に載せ、「田紳有楽前書き(一)」三十三枚を四十九年七月号に、「田紳有楽前書き(二)」五十四枚を五十年四月号に、最後に「田紳有楽終節」百十枚を五十一年二月号に載せたのち、全部に手を入れて本にしてもらったものである。」


私小説作家・藤枝静男の長篇幻想小説。


藤枝静男 田紳有楽 01


帯文:

「形而上学的宇宙空間に、観念の飛翔をめざして生物と無生物が交錯する奔放無類の物語を展開。グロテスクなユーモアと独自の死生観に未到の文学境域を開拓した野心的問題傑作。」


藤枝静男 田紳有楽 02


帯裏:

「弥勒菩薩の化身たるモグリ骨董屋、人間変身術を体得した抹茶茶碗=柿の蔕(へた)、空飛ぶ円盤=丼鉢、出目金C子との恋に狂喜乱舞するグイ呑み――荒唐無稽の登場人物が織りなす虚実ないまぜた物語を、壮大な実験精神と透徹した手法に描く。「空気頭」「欣求浄土」以来のモチーフを発展させた画期的小説。」


藤枝静男 田紳有楽 03


目次:

田紳有楽

あとがき



藤枝静男 田紳有楽 04



◆本書より◆


「七月初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。
 台風の前触れで、時折りの晴れまはあったが俄雨と突風の夕方になっていた。庭木の枝が飽和点まで水をふくんで項を垂れ、重くたわめた身体を左右に緩く揺すっている。いつもは二階の窓の半分をふさいでいるユーカリの大木が今は視界全体をさえぎるほどに膨脹している。庭に降りると小枝まじりの葉が一面に散り敷いていて、拾った掌で揉むと特有の芳香が鼻を刺した。黒い小粒の固い実が無数に落ちてあたりの泥にまみれている。」
「ユーカリの硬い葉はかたわらの二坪たらずの浅い池にも沢山散りこんでいた。二、三分眺めて再び二階にあがると、いつのまにか書斎のまんなかに白シャツを着た小男が汗を拭きながらキチンと坐って待っていた。
 「僕は昔で云えば与力の手下の岡っ引きの、もひとつ末端の下っ引きと称する階級に属するスパイで滓見と申すものです。これから僕の処世術を、僕の副業とする骨董品の買い出しになぞらえて教えますから、どうか参考にして下さい」と云ったので感謝した。」


「チベットと云えば、この数日来、池の斜めうえの二階にある主人億山の書斎から、しきりに素っとんきょうな笛の音が聞こえてきて私の郷愁をさそってやまないのである。音律も強弱も何もない、ただ子供が力いっぱい竹の筒に息をふきこんでいるような、短くて甲高い、のっぺらぼうな音だけれど、耳を澄ませて聞き入っているうちに自分の来し方行く末を想いが馳せめぐって、嬉しいような悲しいような、身をむしられるような愁いに胸を襲われるのだ。「帰れ帰れ」とそそのかされるようで居ても立ってもいられない、しゃにむに身体がひき寄せられて何が何だかわからないような心境になってくるのである。
 私はそれが人間の大腿骨で作られたチベット、ネパール地方の笛からもれ出ていることをよく知っているのだ。」
「私の見たところでは、大腿骨は葬式の三、四日あとになって死骸からはずしてくることになっていた。このへんの一部始終は、私が現場にたちあったのだから間違いはない。」
「――人間の身体は地、水、火、風の四つからできあがっていて、死ねば放っておいてもそのどれかに帰するわけだが、自然の風化を促進するために犬、狼、おもには禿鷹に食わせることにしているから鳥葬でもある。
 家族六人と若い雇人が棒で婆さんを担いで、低い崖のうえの岩だらけの荒れた墓地に運んだ。(中略)禿鷹はもう心得ていて、近くの岩にとまってこちらをうかがいながら歩きまわったり、滑走したりしていた。」
「やがて伜が、刃渡り七十センチばかり、そのわりに巾の広い、重そうな刀を振りかぶって死骸を刻みはじめた。首、腕、脚と切りはなしておいてから、ひとつひとつを棍棒か何かで叩くようにして力まかせに根気よく刻む。腹は裂いて内臓をつかみ出す。つまり鳥が啄み易いようなふうに根気よくやるのである。」




こちらもご参照下さい:

藤枝静男 『凶徒津田三蔵』 (講談社文庫)











































































































会津八一 『自註鹿鳴集』 (新潮文庫)

「もし歌は約束をもて詠(よ)むべしとならば、われ歌を詠むべからず。もし流行に順(したが)ひて詠むべしとならば、われまた歌を詠むべからず。
 吾(われ)は世に歌あることを知らず、世の人また吾に歌あるを知らず。吾またわが歌の果してよき歌なりや否やを知らず。
 たまたま今の世に巧(たくみ)なりと称せらるる人の歌を見ることあるも、巧なるがために吾これを好まず。奇なるを以て称せらるるものを見るも、奇なるがために吾これを好まず。新しといはるるもの、強しといはるるもの、吾またこれを好まず。吾が真に好める歌とては、己が歌あるのみ。」

(会津八一 「南京新唱 自序」 より)


会津八一 
『自註鹿鳴集』
 
新潮文庫 1887/B-4-1 

新潮社 
昭和44年6月30日 発行
平成6年5月20日 19刷
280p 図版(モノクロ)4p 
「文字づかいについて」1p
関係地図(折込)1葉
文庫判 並装 カバー
定価520円(本体505円)
写真: 入江泰吉



本文新字・正かな。


会津八一 自註鹿鳴集 01


カバー裏文:

「歌人、美術史家、書家としてその碩学を世に謳われた会津八一。万葉調、良寛調を昭和に蘇らせて、その歌人としての名を決定的に高めた代表作を処女歌集と併せて作者自ら注解する。美術史の教養と芸術的意図をふんだんに盛り込むことで、近代文学史上希有の存在となった最晩年の労作。」


目次:


例言

南京新唱
 南京新唱序 (山口剛)
 南京新唱序
山中高歌
放浪唫草
村荘雑事
震余
望郷
南京余唱
斑鳩
旅愁
小園
南京続唱
比叡山
観仏三昧
九官鳥
春雪
印象

鹿鳴集後記

解説 (宮川寅雄)
索引



会津八一 自註鹿鳴集 02



◆本書より◆


「序」より:

「予が家の鹿鳴集(ろくめいしゅう)は、昭和十五年創元社より世に送りたるものなるも、その中には、大正十三年春陽堂より出したる南京(なんきょう)新唱の全篇を含み、またその南京新唱の中には、明治四十一年奈良地方に一遊して得(う)るところの歌若干首を含めるが故(ゆゑ)に、今ここに収むるところは、実に二十八歳より六十歳に至る予が所作を網羅(もうら)したりといふべし。」
「予が初めて奈良の歌を詠じたる頃には、その地方の史実と美術とを知る人、世上未(いま)だ多からず。しかるにまた、予が慣用したる万葉集の語法と単語とは、予が終始固執せる総平仮名の記載と相俟(あひま)ちて、予が歌をして解し易(やす)からざらしめ、甚(はなは)だ稀(まれ)にこれに親しまんとする人ありても、その人々をすら、遂(つひ)には絶望して巻を擲(なげう)たしむることも屡(しばしば)なりしなるべく、すべてこの歌集の流布をして、ますます狭隘(きょうあい)ならしめたるべきは、想察に難(かた)からざるなり。」
「かるが故(ゆゑ)に、ここに旧稿を取出(とりい)で、新潮社の請に応じて、世に敷かんとするに当り、予が歌の美術と史蹟(しせき)とに関するもの、及び古典、古語に係(かか)はるものには、遍(あまね)く小註をその左に加へたるほか、歌詞は旧に依(よ)つて総仮名を用ゐ、品詞によりて単語を切り、以(もつ)て来者をして再び誦読(しょうどく)に誤りなからしめんことを努めたり。」



「南京新唱」より:

「  法華寺温室懐古

ししむら は ほね も あらはに とろろぎて
ながるる うみ を すひ に けらし も

からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
うみ に あきたる あかき くちびる

からふる・光明皇后は仏に誓ひて大願を起し、一所の浴室を建て、千人に浴を施し、自らその垢(あか)を流して功徳を積まんとせしに、九百九十九人を経て、千人目に至りしに、全身疥癩(かいらい)を以て被(おほ)はれ、臭気近づき難きものにて、あまつさへ、口を以てその膿汁(のうじゅう)を吸ひ取らむことを乞(こ)ふ。皇后意を決してこれをなし終りし時、その者忽(たちま)ち全身に大光明を放ち、自ら阿閦(あしく)如来なるよしを告げて昇天し去りしよし、『南都巡礼記』『元亨釈書』その他にも見ゆ。
「からふろ」に往々「唐風呂」の字を充(あ)つれども、蒸風呂にて水無きを「から」といひしなるべければ、「空風呂」を正しとすべし。」

「からふろ の ゆげ のおぼろ に ししむら を
ひと に すはせし ほとけ あやし も

ししむら・肉体。「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。
あやしも・霊異なり、怪奇なり、不可思議なりといふこと。「も」は接尾語。」

「  当麻寺に役小角(えんのをづの)の木像を見て

おに ひとつ ぎやうじや の ひざ を ぬけ いでて
あられ うつ らむ ふたがみ の さと

役小角・文武(もんむ)天皇(697―707)の時に葛城山(かつらぎやま)の岩窟(がんくつ)に住みたりといはるる人。その名『続日本紀(しよくにほんぎ)』に出(い)づ。飛行自在にして常に鬼神を駆使し、奇蹟(きせき)多し。「役ノ行者」また「役ノ優婆塞(うばそく)」といふ。作者の見てこれを歌に詠(よ)みたる像は金堂の中にあり。
おにひとつ・行者の像には、常に左右に前鬼後鬼(ぜんきごき)の二像あり。作者この寺を出でて奈良に帰らんとする時、恰(あたか)も東門の前にて一としきりの急霰(きゆうさん)に逢(あ)ひ、時は晩秋にて、まだ霰(あられ)のあるべき季節にもあらざるに、さては、かの鬼のいづれかが、追ひ来(きた)りて、この戯(たはむれ)を為(な)すかと空想を馳(は)せて詠みたるなり。」






























































會津八一 渾齋隨筆』 (中公文庫)

會津八一 
『渾齋隨筆』
 
中公文庫 あ-2-1

中央公論社 
1978年10月10日 初版
1993年3月25日 6版
190p
文庫判 並装 カバー
定価400円(本体388円)
表紙・扉: 白井晟一
カバー題字: 著者
カバー: 東大寺大仏蓮弁拓本



本書「序」より:

「『鹿鳴集』の歌は、解りにくいといふ評判を、だいぶあちこちで聞かされるので、(中略)時々筆を執つて、集の中でも一番解りにくさうなのから、一首一首を、まるで濟し崩しに、隨筆風に註釋を書いて來たものが、もう相當の紙數に及んでゐるので、まづこの邊で、一くぎりを附けて、これも世に問ふことにした。この本がそれである。」
「渾齋といふのは、私の齋號の一つで、秋艸堂とともに、割合にしばしば用ゐ慣れてゐる。」



正字・正かな。


会津八一 渾斎随筆


カバー裏文:

「自作の短歌を通して、南都の風物を描きつつ、その歴史、美術、文学、言語についての蘊蓄を披瀝する珠玉十七篇。卓抜なるエッセイスト渾齋會津八一の面目を余すところなくつたえる随想集。」


目次:



觀音の瓔珞
唐招提寺の圓柱
西大寺の邪鬼
毗樓博叉
鹿の歌二首
乘馬靴
懷古の態度
奈良の鹿
衣掛柳
歌材の佛像
斑鳩
小鳥飼
歌の言葉
譯詩小見
推敲
中村彝君と私
自作小註

解説 (松下英麿)




◆本書より◆


「西大寺の邪鬼」より:

「       西大寺四王堂にて
   まがつみ は いま の うつつ に ありこせ ど ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も
 私の歌は、すべて難解だといふ評判を、まへまへから聞いてゐるが、これなどは、恐らく屈指の方かも知れない。」
「奈良の西郊に、大軌(だいき)電車の西大寺驛があり、そこで下車すれば、すぐ西大寺がある。天平神護元年に稱德天皇の勅願によつて建立せられ、(中略)傳説によると、天皇は創建の寺に親臨せられ、(中略)みづから熟銅を攪(か)かせられて、四天王像の鑄製に力を致されたといふ。(中略)しかるに、その後、平安時代に入つて、貞觀二年には、火災のために堂宇は燒け落ち、持國、廣目、增長の三天が失はれた。そしてこの三體は、やがて改鑄されたが、室町時代の文龜二年には、再び火災に遇ひ、この度は、さきに再鑄した三體は免れたが、これまで天平原作のままでゐた多聞天が、左脚の一部だけを殘して、壞滅してしまつた。この一體は後に補はれたが、それは木彫であつた。幸運の衰微が、おのづからその間にも窺はれる。そしてこの不揃の四天王を、今この寺の四王堂(しわうだう)の中に見るのである。
 ところが、先ず氣になることは、四天王が、脚下に踐んでゐた邪鬼(じやき)どもは、二度の業火を經ながらも、殆ど恙なく、いづれももとのまゝに逞しく、今も變らず蹲つてゐる。そもそも邪鬼としいへば、正法に敵對する外道(げだう)のシムボルである。そのともがらが、外道ながらに、古い藝術の威力を以て、今も揃つて、踞してゐるのに、その上を踐み鎭めてゐる筈の四天王は、護法の名も空しく、いつも旗色が惡く、次第に廢亡して、新作が入り代はるごとに、素質はますます貧弱になつた。私がこの歌を詠んだのは、實はこの點に容易ならぬ皮肉を感じてのことであつた。そして誰しも、實際この堂に立つて、この異樣な對照を見るものは、たやすく此の感懷を、私とともにするであらう。
 まづ、これくらゐの説明で、あの西大寺の歌は、私の氣持に近い理解を受けるであらう。しかし、その後、私が東大寺の三月堂で詠んだ一首の歌になると、これ等の邪鬼に對する私の態度は、さらに一歩を進めてゐる。その歌は
   びしやもん の おもき かかと に まろび ふす おに の もだえ も ちとせ へ に けむ
この堂の毘沙門の脚下に伏し轉(ま)ろぶ邪鬼の苦悶も久しいかなと、私は慨いてゐる。そしてこの場合、私はいつしか毘沙門よりも、その鬼の方に、より多くの同情を傾けてゐるらしい。
 日ごろ奈良の寺をめぐりながら、たまたま古美術巡禮の人たちに出遇ふごとにいつも氣にするのであるが、御堂の中で、一行の慌だしい鑑賞の眼は、本尊から脇侍、それからまだ四天王まで來ないうちに、もういい加減に疲れ果てて、うす暗い牀の上に、匍ひつくばふ鬼どもの姿にまで、行きわたることは少いらしい。それを私は、彼等のためにも、またその人たちのためにも、いつも惜んでゐる。一體四天王は、法城の警護のほかに、美術的には、如來や菩薩の温顏を、わきから引き立てるために立ち添つてゐるのであるが、その物凄く緊張した顏の、躍動した筋肉の割に、内心は殆ど無自覺らしいその表情や、聊か間伸びのした總身の姿勢などには、私は失望することが多い。そして、いつも、より多く、あの邪鬼どもに心を惹かれる。邪鬼と呼ばれるに相當な曲者だとしても、とにかく長い間を、あのありさまは、氣の毒な身の上である。自分の三四倍もある、大兵の鎧武者に、むごたらしく踐み敷かれながら、惡びれた反抗もせず、そのあひまにも、かへつて不思議な餘裕をさへ見せてゐる。」
「邪鬼といふ名は恐ろしいが、煩惱の象徴だとすれば、つまりこれが、佛教の目から見た、われわれ人間のすがたであらう。唯美の追求も、いはば一つの樂欲(げうよく)にほかならぬから、いかにそれに熱心でも、それだけで、佛陀のよき信者とは云はれない。どのみち外道の部類には違ひなからう。それであるのに、この遠い昔の邪鬼どもは、今の世の外道たちからは、見向きもされず、誰のために反省の鑑にもならず、いつまでも人知れず暗い苦惱をつづけてゐる。私はそれに同情をするのである。」























































国枝史郎 『八ケ嶽の魔神』 (大衆文学館)

「私としては、自分自身へこんなように云いたい。
 「ひどく浮世が暮らしにくくなったら、構うものか浮世を振りすて、日本アルプスへ分け上り、山窩国の中へはいって行こう。(中略)そうして小うるさい社会と人間から、すっかり逃避することによって、楽々と呼吸(いき)を吐(つ)こうではないか」と。」

(国枝史郎 『八ケ嶽の魔神』 より)


国枝史郎 
『八ケ嶽の魔神』
 
大衆文学館 く 1-2

講談社 
1996年4月20日 第1刷発行
380p 「おことわり」1p
文庫判 並装 カバー
定価820円(本体796円)
デザイン: 菊地信義



本書「人と作品」より:

「『八ケ嶽の魔神』は、大正十三年十一月から同十五年七月まで「文芸倶楽部」に連載された(中略)国枝の代表作である。」
「鏡葉之助は、母の呪詛(じゅそ)を一身に受けて育った幼少期に始まり、「水狐族」を殺戮したことによる「不死の呪い」、また母が血の中に秘めている「窩人」の怨恨など、あらゆる〈悪〉を背負った人物として造型されている。体内に〈悪〉の曼陀羅とでも呼ぶべきものを抱きながら、普段の生活では美丈夫でまっとうな武士、しかしいざ己の抱える〈悪〉が蠢動(しゅんどう)をはじめると、二の腕に「人面疽」という聖痕が刻印され、悪の限りを尽くす。」
「葉之助を〈悪〉のヒーローと位置付けた時、奇妙なことに作品の中に〈善〉玉がいないことに気付く。物語の主軸は、「窩人」と「水狐族」の闘争と、葉之助が母の仇をいかに討つかになろうが、この中で描かれるのは善―悪という二元論の対立ではなく、常に悪―悪の対立なのである。」



国枝史郎 八ケ嶽の魔神


カバー文:

「秘峰八ケ嶽を舞台に、姫をめぐる兄と弟の愛の確執と惨酷な結末が、果てもなく続く一族の血塗られた歴史の発端だった。憎悪は憎悪を呼び、復讐は復讐を生む。山窩族と水狐族に分れて争う末裔たちの呪詛と怨嗟の叫びは、時空を越え、いま大江戸の夜に凄然と谺(こだま)する! 近代劇作の手法もとりこんだ卓抜な構想力と無類の空想力で妖美幻想の世界を拓き、国枝三大伝奇長編の一つと評される豊饒な成果。」


目次:

八ケ嶽の魔神
 邪宗縁起
 高遠城下の巻
 怨念復讐の巻
 江戸市中狂乱の巻

巻末エッセイ (山内久司)
人と作品 (末國善己)




◆本書より◆


「宗介は腰の太刀を抜き、躍(おど)り上がり躍り上がり打ち振ったが、
 「栄えに栄えた城は亡び仇も恋人も等(ひと)しく死んだ! 俺は彼らに裏切られた。俺の怨恨(うらみ)は永劫(えいごう)に尽きまい。俺は一切を失った。俺には何一つ希望(のぞみ)はない! 俺はいったいどうしたらいいのだ!? ああ俺は恋を呪(のろ)う! 俺はあらゆる幸福を呪う! 俺は人間を呪ってやる! 俺は生きながら悪魔になろう! 山へ山へ八ケ嶽へ行こう! 水の上の生活(くらし)には俺は飽きた。俺は山の上の魔神になり下界の人間を呪ってやろう!」
 叫び狂い罵(ののし)る声は窓を通し湖水を渡り、闇の大空に聳(そび)えている八つの峰を持った八ケ嶽の高い高い頂上(いただき)まで響いて行くように思われた。」
「「さて」と杉右衛門は語りつづけた。「我らのご先祖宗介(むねすけ)様が正親町(おおぎまち)天皇天正(てんしょう)年間に生きながら魔界の天狗となりこの八ケ嶽へ上られてからは総(あらゆ)る下界の人間に対して災難をお下しなされたのだ。そしてご自分の生活方(くらしかた)も下界の人間とは差別を立てられ家には住まず窩(あな)に住まわれた。そのうち四方から宗介様を慕って多くの人間が登山して参ったが、それらはいずれも人界(ひとのよ)において妻を奪われ子を殺され財宝を盗まれた不幸の者どもで、下界の人間総(すべ)てに対して怨恨(うらみ)を持っている人間どもであった。」」


「五歳の猪太郎はその日以来全くの孤児(みなしご)の身の上となった。しかし彼は寂しくはなかった。猿や狼や鹿や熊が彼を慰めてくれるからである。
 こうして彼の生活は文字通り野生的のものとなり、食物(くいもの)と云えば小鳥や果実(このみ)、飲料(のみもの)と云えば谷川の水、そうして冬季餌のない時は寂しい村の人家を襲い、鶏や穀物や野菜などを巧みに盗んで来たりした。」


「諏訪湖(すわこ)にまたは天竜川に、二人の兄弟は十四年間血にまみれながら闘ったが、その間柵(しがらみ)と久田姫とは荒廃(あれ)た古城で天主教を信じ侘(わび)しい月日を送っていた。十四年目に宗介は弟夏彦の首級(くび)を持ち己(おの)が城へ帰っては来たがもうその時には柵は喉(のど)を突いて死んでいた。
 「俺はあらゆる人間を呪う。俺は浮世を呪ってやる!」こう叫んだ宗介が八ケ嶽へ走って眷族(けんぞく)を集めあらゆる悪行を働いた後、活きながら魔界の天狗となりその眷族は窩人(かじん)と称し、人界の者と交わらず一部落を造ったということは、この物語の冒頭において詳しく記したところであるが、一人残った久田姫こそ、いわゆる水狐族の祖先なのであって、父夏彦の首級を介(かか)えた憐れな孤児(みなしご)の久田姫は、その後一人城を離れ神宮寺村に住居(すまい)して、聖母マリヤと神の子イエスとを、守り本尊として生活(くら)したが、次第に同志の者も出来、窩人部落と対抗しここに一部落が出来上がり、宗教方面では天主教以外に日本古来の神道の一派中御門派(なかみかどは)の陰陽術を加味し、西洋東洋一味合体した不思議な宗教を樹立したのである。」
「彼ら部落民全体を通じて最も特色とするところは、男女を問わず巫女(みこ)をもって商売とするということと、部落以外の人間とは交際(まじわ)らないということと、窩人を終世の仇とすることと、妖術を使うということなどで、わけても彼らの長(おさ)となるものは、今日の言葉で説明すると、千里眼、千里耳、催眠術、精神分離、夢遊行(むゆうこう)、人心観破術というようなものに、恐ろしく達しているのであった。……
 「ふうむ、そうか」
 と葉之助は、写本を一通り読んでしまうと、驚いたように呟いた。」


「大正十三年の夏であった。
 私、――すなわち国枝史郎は、数人の友人と連れ立って、日本アルプスを踏破した。」
「案内の強力(ごうりき)は佐平と云って、相当老年ではあったけれお、ひどく元気のよい男であった。
 「こんな話がありますよ」
 こう云って佐平の話した話が、これまで書きつづけた「八ケ嶽の魔神」の話である。
 「ところで鏡葉之助ですがね、今でも活きているのですよ。この山の背後蒲田川の谿谷(たにあい)、二里四方もある大盆地に、立派な窩人町を建てましてね、そこに君臨しているのです。」

「私としては、自分自身へこんなように云いたい。
 「ひどく浮世が暮らしにくくなったら、構うものか浮世を振りすて、日本アルプスへ分け上り、山窩国の中へはいって行こう。そうして葉之助と協力し、その国を大いに発展させよう。そうして小うるさい社会と人間から、すっかり逃避することによって、楽々と呼吸(いき)を吐(つ)こうではないか」と。」
 





















プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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