高橋康也 『ノンセンス大全』

「《もの》にはもともと名前などありはしない。名前は、人間が自分の都合でつけたものだ。だからその《都合》以前、つまりものに《命名》する以前のアダムは、ものとの原初的交感に生きることができたのである。」
(高橋康也 「名なしの森にて」 より)


高橋康也 
『ノンセンス大全』


晶文社
1977年1月5日 印刷
1977年1月10日 発行
375p 索引・文献xxi
A5判 仮フランス装 機械函
定価3,000円
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「あとがき」より:

「個人的な記念の意味で原型のまま収録した「『荒地』におけるセンスとノンセンス」のほかは、どの文章も初出の姿を多少とも変えている。場合によっては、修正はかなり根本的であり、いま本書全体をふりかえった著者の気分としては、評論集(引用者注: 「評論集」に傍点)というより書きおろし(引用者注: 「書きおろし」に傍点)に近い。」


本文二段組。本文中図版(モノクロ)多数。


高橋康也 ノンセンス大全 01


帯文:

「言葉遊び、鏡の国、球形の肉体……少女アリスからレノンまで、ノンセンスの狩人高橋康也の10年にわたる論考を一挙収録
図版多数・詳細な文献目録を付す」



帯背:

「決定版
鏡の国の住人たち」



目次:

序 なぜノンセンスか
 1 ノンセンスとナンセンス――ジョン・ケージによせて
 2 ノンセンスと狂気――ジョージ・スタイナーとの対話
Ⅰ ジャバーウォック狩り
 1 ジャバーウォックの歌
 2 ハンプティ・ダンプティ式注解
 3 桃太郎の旅立ち
 4 何も意味しない音
Ⅱ ハンプティ・ダンプティのために
 1 もうひとつの楽園 もうひとつの喪失
 2 名なしの森にて
 3 ことば・からだ・こころ
  a 球形の肉体――錬金術
  b 毀たれた三角形――意味論
  c 毀たれた肉体――精神病理学
  d 復活する肉体――救済論
Ⅲ 不思議な鏡の国――ルイス・キャロルの世界
 1 ついにアリスが来た――反童話の系譜について
 2 ホモ・ルーデンスの栄光と悲惨――ルイス・キャロルとその時代
 3 不思議の国のマリス――パロディの構造
 4 表層としての世界――ルイス・キャロルの問題
 5 不思議な鏡の王国の興亡――『アリス』から『スナーク』をへて『シルヴィー』へ
 6 言葉遊びから言葉狂いへ
 7 魔術と反魔術――キャロルとレオナルド
Ⅳ 瘋癲老人の見たもの――エドワード・リアの世界
 1 《the bad mad sad》――リア小伝
 2 恍惚と受難――リメリックの宇宙
 3 瘋癲老人ふたり――リアとキャロル
Ⅴ イノセンスの構造――『マザー・グース』の世界
 1 カオスとフォルム
 2 表層の恐怖
 3 ノンセンス猫四態
 4 なぜなぞの謎――『マザー・グース』からマグリットへ
Ⅵ ノンセンスの系譜
 1 解体と建築――シェイクスピアにおけるセンスとノンセンス
 2 鏡の国のリア
 3 宴の終り
 4 Much Ado about 《Nothing》――非存在の存在
 5 予言とノンセンス――ブレイクの造語をめぐって
 6 ハンプティをもとにもどすには――マラルメと英語
 7 詩神としての少女――キャロルとジョイス
 8 アリスは彼女の独身者たちに裸にされて、さえも――スウィフトからデュシャンへ
Ⅶ ノンセンスと現代
 1 『荒地』におけるセンスとノンセンス
 2 ノンセンスとアブサード――キャロルとベケット
 3 意味と無意味――ベケットの場合
 4 誰がしゃべるのか?――アリスから「名づけえぬもの」へ
 5 言語の生と人間の死――イヨネスコ・ノート
 6 ある剽窃の物語――キャロル、アルトー、ドゥルーズ
 7 不思議の国の哲学者――ウィトゲンシュタインとキャロル
 8 キートンとチャプリン
 9 ジョン・レノンセンス論
 10 言葉の受肉――劇化された『アリス』
Ⅷ 極東の不思議の国にて
 1 井上ひさしとノンセンスの復権
 2 吉岡実がアリス狩りに出発するとき
 3 加藤郁乎とスリッピング・ビューティの行方
 4 矢川澄子とことばの国のアリス
 5 「別」と「役」と「実」の話
 6 人形としてのアリス

あとがき
初出一覧

参考文献
索引
 主題索引
 人名索引



高橋康也 ノンセンス大全 02



◆本書より◆


「何も意味しない音」より:

「「ミコーバー氏はまた単語をいろいろに組み合せては自分の耳を楽しませた。もちろん、無意味で不必要なやりかたで並べるのである。だが実は、この奇癖はべつに氏にかぎったものではない。私はこれまでの人生で、こうした無用なる単語への偏愛を多くの人たちのなかに認めたことがある……。」
 デイヴィッド・コパーフィールドは、たえず借金をしょいこんで債務者収監所の影のもとに暮しているこの愛すべき市民社会落伍者ミコーバー氏について、こう語っている。ディケンズが「自作中いちばん好きだ」と認める自伝的小説『デイヴィッド・コパーフィールド』のなかで最も魅力的なこの人物には、作者の父親の思い出が描きこまれているといわれる。落伍者や人外者(にんがいもの)のひしめく社会下層部の生活を知りつくしたディケンズの観察は、おそらくここでも狂いはないのであって、ミコーバー氏におけるヴィクトリア朝市民社会からのはみ出しと「無用なる単語への偏愛」の結びつきは、決して偶然ではなさそうである。
 似たような作中人物はほかにもいくらも思い起すことができよう。芝居だけでも、たとえばゴーリキーの『どん底』にうごめく「余計者」の一人サーチンは、昔機関手だったころにいろんな単語が好きだったことを思い出し、人間の言葉にすっかり飽き果ててしまったいま「シカンブル」という無意味な言葉をくりかえし呟く。ベケットの瘋癲老人クラップは「スプール」とか「ヴィデュイティ」といった単語にわけもなく魅せられ、フェティシズムにも似た奇妙な愛着を示す。」
「疎外された者が補償的・退行的な楽しみとして《何も意味しない音》を愛撫する姿を陰画(ネガ)とすれば、その陽画(ポジ)ともいうべきものもあるはずである。疎外とか抑圧などというものを全く知らぬがゆえに、社会内のコミュニケーション(《意味(センス)》の受け渡し)の具たる日常言語を蹴っとばし、《センス》を無視した《音(サウンド)》の大盤振舞いをやってのける人物。現実原則から特権的に解放されて、言語行為においても抑えがたい快楽原則を晴れやかに享受している巨人。その最良の例はおそらくラブレー描くところのガルガンチュワ、パンタグリュエル、パニュルジュであろう。(中略)このような言葉そのものへの《偏愛》は、まさしく《無用》であるがゆえに、原初の健康さに輝いている。」

「ラブレー的巨人に劣らず《音としての言葉》に親密に反応する人種が、われわれのまわりにはごまんといる。むろん子供たちである。ウィリアム・ゴールディングといえば、子供の中にひそむ恐るべき獣性を描いた傑作『蠅の王』の著者として知られるが、彼は自伝的エッセイのなかで幼年時代を回顧してこう書いている――「私は単語そのものに魅せられていて、まるで切手か鳥の卵を集めるように単語を集めたものだ……(中略)」このとき、ゴールディングは、『蠅の王』とはまた別の側面で童心の普遍的特性を捉えていると言える。右の文章は、たとえばゴーリキーの『幼年時代』における「魔法にかけられたように意味を失った詩」に魅せられるくだりと、正確に響きあうのである。
 『マザー・グースの唄』にあの説明不可能な魅力を与えているのも、無数の《何も意味しない音》たちである。」

「《意味を失った言葉》が最も純粋な形で現れるもう一つの場合は、秘教的な念誦言語、あるいはいわゆる《グロッソラリー》(異言伝授・霊媒や意識不明者が発する言語)であろう。聖霊によって異言(外国語)を語る力を授かった十二使徒から、わが《いたこ》の口寄せにいたるまで、宗教的熱狂家は説明を拒否する言語現象を見せる。(中略)しかしこれらは現存するいかなる言語とも同一視できぬ音韻系列をなしていて、通常の言語学的立場からは、《何も意味しない音》でしかない。
 もちろん、狂信的見霊者自身にとっては、それらの文句はむしろ過剰なほどに意味を充電された、《すべてを意味する音》である。二十世紀初頭アメリカ西部に発してヨーロッパに広まった聖霊降臨教会という新興宗教があったが、その指導的な牧師の一人でパウルというドイツ人が作ったという〈Schua ea, Shua ea/O taschi biro tira pea……〉云々の詩句にしても、単に無意味な音ではない。レオ・ナフラティル(『精神分裂病と言語』)が指摘しているように、ドイツ語の有名な讃美歌の音韻的構造を踏まえた上での、日常的言語の空無化と非日常的意味の充実という両義的(引用者注: 「両義的」に傍点)な言語行為なのである。もともとれっきとした「意味」をもっている「キリエ・エレイゾン」や「ナムアミダブツ」のような祈りが、ほとんどその意味論的有効性を失ったときにかえって聖なるものを喚起する念誦言語としての効果を現わすということも思い合わせるべきであろう。」

「宗教的グロッソラリーがいわゆる「狂人言語」と近接していることは、ナフラティルの例からも察せられよう。いずれもっと詳しく考えるとして、ここでは「狂人言語」もまた、マクベスの言うように「わやわや狂おしくわめくけれど何の意味もありはしない白痴の物語」であると同時に、正常者のいまだ知らざる秘密の意味と構造をもった音韻体系かもしれないと暗示するにとどめよう。発狂したヘルダーリンは晩年《Pallaksch Pallaksch》という意味不明の語を呟いていたといわれる。この「たわごと」を自作の詩(「チュービンゲン、一月」)の末尾に引用して、現代詩の陥っている失語症的状況を浮き彫りにしたのは、パウル・ツェランであった。逆にいえば、この「たわごと」にはそれほどの意味が隠れているということである。」

「意味から乖離した音の魅惑――これを落伍者(アウトロー)的・幼児的・未開的・呪術的・詩的とみなして抑圧するところに、市民(インサイダー)的・成人的・文明的・理性的・散文的な言語が成立する。この正常なる言語においては、意味(センス)と音(サウンド)は安定した絆によって結びついていると信じられる。《センス》がひろく共同体的な価値の《観念》や秩序の《意識》を含意するとすれば、そのような《観念・意識(引用者注: 「観念・意識」にルビ「センス」)》と持ちつ持たれつの関係において、《サウンド》としての言葉は存在するとされる。《もの》と《ことば》、理性(ロゴス)と言語(ロゴス)、(中略)は、一致する――少なくとも平和に共存する――のだという信念である。
 このような信頼は実は約束(引用者注: 「約束」に傍点)への信頼である。ソシュールが言ったように、《意味するもの(シニフィアン)》と《意味されるもの(シニフィエ)》の結びつきはおおむね《恣意的》にすぎないのだから。むろん、この約束が生きているあいだは、あるいは生きている度合いに比例して、その文化は虚偽と空虚から遠いといえる。だが十九世紀の頽落した西欧ブルジョア文化においては、センスとサウンド(中略)の一致という約束(引用者注: 「約束」に傍点)は無残に形骸化し空洞化していた。たとえば《自由貿易》というときの《自由》、《民主主義》というときの《民衆》がどんなに欺瞞的であったかは、アラゴンも言ったように、まさしく《ハンプティ・ダンプティ的》であった。
 にもかかわらず、というかそれゆえにこそ、ブルジョワたちはものとことばの《恣意性》にわざと目をつぶろうとした。いや、わざとというより、そもそも言葉の問題などというものを忘れ去ることが、彼らの世界観の要請であり帰結であった。言葉とは流通の一手段にすぎず、功利的伝達という目的を果たせば廃棄さるべきものだったのである。だから彼らにいわせれば、詩人などという手合いは、ボードレールが誇らかな自虐をこめて語っているように、「いやしい言葉並べ野郎(引用者注: 「いやしい~」に傍点)」にすぎない。そしてあのミコーバー氏と同じように、ブルジョア社会の辺境(リンボ)へとしめ出されるべきなのだ。」

「最も醇乎たる二人のノンセンス作家、キャロルとエドワード・リアがよりによって十九世紀ヴィクトリア朝のイギリスに出現したことは、必ずしも偶然ではないかもしれない。彼らもまた《言葉そのもの》への愛ゆえに、社会の辺境に身を置いた人間であった。しかし彼らこそ、偽りの《意味・もの(引用者注: 「意味・もの」にルビ「シニフィエ」)》によって汚された《音・言葉(引用者注: 「音・言葉」にルビ「シニフィアン」)》を救い出すべき詩人であった。彼らのノンセンスや地口は、巧利的な《意味》の掟によって《言語の冥界(リンボ)》に追いやられた《言葉たち》を、非巧利的な《音》の掟によって、復活させる福音であったのだ――ちょうどジョン・ケージがウッドストックにおけるあの四分三十三秒間に、通常の音楽会によって《音のリンボ》に葬り去られたかもしれないところの《音たち》を聴衆の耳によみがえらせたように。」



高橋康也 ノンセンス大全 03




こちらもご参照ください:

Jenny Uglow 『Mr Lear: A Life of Art and Nonsense』
























































































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ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 『コッド岬』 飯田実 訳

「海は地球を取り巻く原野である。それはベンガルのジャングルよりも広く、棲んでいる怪物の数も多くて、都市の埠頭や海辺の人家の庭を洗っている。」
(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 『コッド岬』 より)


ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 
『コッド岬
― 海辺の生活』 
飯田実 訳


工作舎
1993年11月20日 第1刷発行
2017年3月10日 第3刷発行
401p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円+税
エディトリアル・デザイン: 西山孝司+柳川貴代



本書「凡例」より:

「本書は Henry David Thoreau, Cape Cod, 1865. の全訳である。」


巻頭に地図「コッド岬全図」、「訳者解説」中に写真図版(モノクロ)3点。
本書はまだよんでいなかったのでヤフオクで808円(+送料400円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


ソロー コッド岬 01


カバーそで文:

「一八四九年、ソローは、友人の詩人チャニングと共にマサチューセッツ州コッド岬を訪れた。そのときの体験、見聞、思索、古典の引用などをまとめた旅行記。「詩人博物学者」の視点で、厳しいコッド岬の自然と、そこで暮らす人間のたくましい生活ぶりを活写する。人為よりも自然のままを良しとするソローの価値観が、いたるところに溢れ出た傑作。本邦初訳。」


目次:

凡例

第一章 難破船
第二章 駅馬車からの眺め
第三章 ノーセットの平原
第四章 浜辺
第五章 ウェルフリートのカキ養殖業者
第六章 ふたたび浜辺へ
第七章 岬横断
第八章 ハイランド灯台
第九章 海と砂漠
第一〇章 プロヴィンスタウン

訳者解説 (飯田実)
索引
著者/訳者略歴



ソロー コッド岬 02



◆本書より◆


「第一章 難破船」より:

「移民を乗せてアイルランドのゴールウェイを出航したブリッグ型帆船、セント・ジョン号は、日曜日の朝、難破した。私たちが行ったのは火曜日の朝であったが、海はまだ激しく岩に砕けていた。(中略)溺死した一人の少女――おそらくアメリカ人の家庭に奉公するつもりでやって来たのだろう――の土気色に脹(ふく)れ上がった傷だらけの遺体には、なお衣服の切れ端がまつわりついており、腫(は)れ上がった頸の肉にはネックレスが半ば食い込んでいた。人間という難破船のねじれた船体は、岩や魚によって著しい損傷を受けたたけに、骨や筋肉が露出していたが、血は一滴も流れておらず、ただ赤と白だけが目立っていた。」

「以上の光景は、概して、予想していたほど強い印象を与えるものではなかった。(中略)戦場でもそうだが、死体の数が増えるにつれて、彼らこそ人類共通の運命をまぬがれた者たちのように思われ、ついに人間は、死体を見てもまったく心を動かされなくなってしまうらしい。墓地を全部数え上げてみれば、いつだって死者の方が生者の数を上回るではないか。」
「そもそも、なぜこうした死体のことを気遣うのか? (中略)生前にこれらの肉体の持ち主だった人々は、コロンブスや巡礼始祖たち(ピルグリム・ファーザーズ)と同じように新世界を目指して船出し、岸から一マイル足らずの所まで接近していたのだ。ところが岸辺に辿り着く前に、コロンブスさえ夢想だにしなかった別の新世界へと移住してしまったのだ。しかもその世界の実在性については――科学によってはまだ発見されていないものの――コロンブスが発見した新世界よりもずっと普遍的で説得力のある証拠が存在すると、私たちは信じている。(中略)私は遭難者たちの虚(うつ)ろな遺骸が陸に打ち上げられているのを見た。ところが彼らの本体である霊魂は、私たち全員が、いつの日か同じように嵐と暗闇をついて航海したあと、必ず漂着することになる、はるか西方の岸辺に打ち上げられていたのだ。(中略)天国の港に無事到着した水夫も、地上の友人たちからみれば難破したことになるだろう。彼らはボストン港の方がよい場所だと思っているからだ。しかし、水夫の遺体が老朽船のようにこの世の波に翻弄されている間、友人たちの目には見えないかもしれないが、練達の水先案内人が彼を温かく迎えてくれる。水夫を乗せた立派な船は、世にも晴れやかな馨(かぐわ)しい微風が沖合いを吹き渡る中、穏やかな日差しを浴びて陸地に到着し、彼はあの世の岸辺にうっとりと口づけするのだ。肉体に別れを告げるのは辛いことだが、一旦なくなってしまえば、肉体なしに生きるのはいとも容易であろう。」



「第四章 浜辺」より:

「春、東の方から嵐が吹いたあとには、この浜辺一帯に東部海岸の樹木が流れ着く。それは拾った人間のものになり、岬には木がほとんど生えていないので、住民たちにとっては天の賜物である。私たちは間もなくこうした漂着物拾いの男に出会い、おしゃべりをした。」
「男は、海水が染み込みフジツボなどが一面に付着した船の残骸や、古ぼけた丸太のほか、船板や梁、さては木っ端のようなものまで探し回り、波をかぶらないあたりまで引きずってきては、積み上げて乾かしていた。丸太が大きくて遠くまで運べない場合は、今し方波が残していったその場所で切断するか、二、三フィートころがしてから、二本の棒を地面に突き差し、丸太の上で交差させることによって所有権を明らかにしていた。」
「クランツ(中略)は、グリーンランド人の生活習慣について、ダラガー(中略)の記述を引用して次のように書いている。「岸辺に漂着した流木や難破船の残骸などを見つけた者は、たとえ土地っ子でなくてもそれを所有することができる。ただし、その物件を岸辺に引き上げ、所有者が存在する印(しるし)として、その上に石ころをひとつ置かねばならない。」」

「浜辺にはまた、美しいウミクラゲが散らばっていた。(中略)色は白かワインカラーで、直径およそ一フィートあった。私は最初、嵐などの天敵によってずたずたにされた海の怪物かなにかの柔らかいからだの一部分ではないかと思ったものだ。海は頑丈この上ない船体でも、ぶつかれば粉砕してしまう荒々しい海岸を所有しながら、懐にはウミクラゲや蘚類のような柔らかい物を抱く権利をどうして与えられているのであろうか? 海がこうし繊細(デリケート)な子供たちを、優しく腕の中であやす役目を引き受けているとは不思議である。私は最初、これらのクラゲが、かつてボストン港に行ったとき、無数の群れをなして、あたかも太陽を慕うかのようにうねりながら水面に浮上し、見渡す限り海水を退色させていた、あのクラゲと同種類のものとは気づかなかった。あの時は、まるでサンフィッシュのスープをかき分けて航海しているような気がしたものだ。このクラゲを手で掬い上げようとすると、水銀のように指の間から擦り抜けてしまうという。陸地が海から隆起して乾燥(引用者注: 「乾燥」に傍点)地となる前は、渾沌(カオス)が支配していた。陸の女神が部分的に衣の着脱を繰り返す高水位線と低水位線の間では、今でも一種の渾沌(カオス)が支配しており、そこは変則的な動物しか棲み着かない場所になっている。」



「第六章 ふたたび浜辺へ」より:

「人間であれ、無生物であれ、浜辺に打ち上げられた物体は極度にグロテスクなだけでなく、実物よりもずっと大きく、驚嘆すべきものに見える。つい最近のことだが、この地点から緯度にして数度ばかり南下したあたりの海岸に出かけて行ったとき、約半マイル前方の浜辺に、太陽と波に漂白された、高さ一五フィートほどの、険しくごつごつした断崖のようなものが見えてきた。ところがさらに何歩か接近してみると、それは難破船の積み荷の一部だった端切(はぎ)れの塊で、高さ一フィートにも満たないことがわかった。また、かつて私は、ある灯台から知らせを受けて、遭難から一週間後に岸に打ち上げられたばかりの、フカに食いちぎられたある人の遺体を捜し出す仕事を引き受けたことがあった。(中畧)驚いたことに私は、一、二マイル前方にある、水際から一二ロッドほど離れた砂浜に、目印として立てられた棒のそばで布にくるまっているその遺体を発見できたのだ。そんな小さな物体を見つけるには、よほど注意深く目を凝らさなければならないと思い込んでいたのだが、幅が半マイルもあって果てしなく続く砂浜は、完璧なまでに滑(なめ)らかで草木一本生えていない上、海辺の蜃気楼が拡大鏡の働きをしていたために、半マイルの地点まで近づいたときには、遺体の在り処を示す小さな木片が、まるで白く変色した帆柱か何かのように見え、遺体は、その砂原に正装安置されている王侯の遺骸か、一世代もかけて積み上げられた石塚のように異彩を放っていた。だが近寄ってみると、それはわずかばかり肉が付着した何本かの骨片にすぎず、実際、見渡す限りの海辺では、ほんの小さな突起物にすぎなかった。それはまったく見栄えのしない代物であり、五感や想像力に強く訴えるところなどまるでなかった。ところがそばに立って見ているうちに、遺骨は次第に存在感を増していった。浜辺と海のほかに見えるものといえばただこの遺骨だけであり、空(うつろ)な海鳴りの音はまるでそれに語りかけているかのようであったし、骨と海とは以心伝心の仲であって、女々しい同情心を抱いている私などは必然的にそこから閉め出されているような気がした。この死体こそ海辺の所有者であり、海辺がもつ特定の主権の名において、生者にはない支配権をそこに振るっていたのである。」

「海は広大にして野性的であるが、こうして人間の技術が生んだ廃物や残骸を、はるか遠くの岸辺まで運んでいく。海が吐き出さないものなど、果たしてあるのだろうか。海は何ひとつそこにじっとしていることを許さない。海底にしがみついている巨大ハマグリでさえ例外ではない。(中略)一〇〇年以上昔に難破した古い海賊船の破片だって、今日この日、岸辺に打ち上げられるかもしれない。」

「海面のあちこちには、雲の影が黒点となって現われていた。ところが空は隈なく晴れ渡っていたので、黒点がなければだれも雲の存在には気づかなかっただろう。(中略)こうして船乗りは、自分のいる場所に雨を降らせるとは限らないはるかな雲や驟雨を、一日中、あらゆる方角に発見できるわけだ。七月に行ったとき、私たちは、大型ニシンの大群が水面に立てるさざ波のために、雲の影とほとんど区別がつかない、これと同じ濃紺色に染まった水域を目撃した。(中略)すぐ近くの水面に、ニシンのとても長くて鋭い黒い背鰭(びれ)が二、三インチ現われるのを見ることがある。また、時折私たちは、岸辺で泳いでいるバスの白い腹を目にした。」

「ギリシア人たちも、近代科学の光を当てて海を見たならば、たとえ海がコムギを産出しなくても、それを「不毛なもの」(ἀτρύγετος)とは呼ばなかっただろう。博物学者たちは、今では「陸地ではなくて海が生命の中心領域」――植物の場合は別としても――だと主張しているのだ。ダーウィンは、「陸上の最も密生した森林も、それとよく似た海の密林地帯と較べると、ほとんど砂漠のようにしか見えない」と断言している。アガシ(中略)とグールドは、「海はあらゆる種類の動物に満ちており、陸地の顕花植物の種類などはその足もとにも及ばない」と言い、「試みに非常に深い海の底を浚(さら)ってみると、海底は砂漠に似ていることもわかった」ともつけ加えている。デゾール(中略)の言葉を引用すれば、「従って、最近の科学調査は、海から万物が生まれたという、古代の詩人、哲学者たちによって漠然と予感されていた偉大な思想が正しかったことを、はっきりと実証している」。(中略)こんなわけで、その日の私たちは海を「不毛な」ものとしてではなく、ずっと正しい名称といえる「諸大陸の実験室」として、もう一度つくづくと眺め渡したのであった。
 さて、筆者はこれまでのんびりと物思いに耽ってきたが、どうか読者の皆さんは、その間も波が片時も休むことなく岸辺を洗い、潮騒の音を轟かせていたことをお忘れにならぬよう願いたい。」



「第七章 岬横断」より:

「このように、潮を待つということが海辺の暮らしの特徴である。「さあね! まだ二時間は出発できないだろうよ」という返事をよく耳にする。陸地の人間は待つことに慣れていないので、初めはうんざりしてしまう。」


「第九章 海と砂漠」より:

「海岸は一種の中立地帯であり、この世界について思いを巡らすにはとりわけ好都合な地点である。また、ごくありふれた場所でもある。永遠に陸地を洗う波は、あまりに遠くまで漂い、飼い馴らすすべもないので、親しく付き合うことはでいない。日照り雨と海の泡を浴びながら果てしない浜辺を這うようにして歩いていると、われわれ人間もまた、海の泥から生まれたことが実感できる。
 海岸は荒涼とした、いやな臭いの漂う場所であって、ひとに阿(おもね)るようなところはまったくない。カニ、蹄鉄、マテガイ、その他、海が打ち上げるありとあらゆるものが散乱する、ひとつの〈死体保管所(モルグ)〉であり、飢えたイヌが群れをなしてうろつき回るかと思えば、潮流が施してくれるわずかばかりの食べ物を、毎日カラスが啄みにやって来る。人間と獣の死骸が浅瀬に仲良く堂々と横たわり、太陽と波の中で腐り、漂白されている。潮が満ちるたびに死骸は寝床の上で反転し、からだの下に新しい砂のシーツを敷いてもらうのだ。そこに赤裸々な自然(引用者注: 「自然」に傍点)がある――非人間的なまでに誠実で、人間への配慮などには微塵も患わされず、カモメが水しぶきを浴びて旋回する切り立った海岸を、少しずつ齧り取っている自然が。
 この日の午前中、私たちは遠くの方に、枝がひとつついたまま風雨に晒されている丸太のようなものを認めた。やがて、それはクジラの主要な骨格のひとつだとわかった。海上で脂肪層を剝ぎ取られてから遺棄されたその死骸は、何ケ月も前から流れ着いていたのである。」

「われわれは古代という観念を海と結びつけて考えたりはしないし、陸地の場合とは違って、一〇〇〇年前の海の様子など考えてもみない。海は今と同じように、いつも荒々しく計り難かったに決まっているからだ。(中略)海は地球を取り巻く原野である。それはベンガルのジャングルよりも広く、棲んでいる怪物の数も多くて、都市の埠頭や海辺の人家の庭を洗っている。ヘビ、クマ、ハイエナ、トラなどは、文明が進むにつれて急速に消滅しつつあるが、最大の人口と最高の文明を誇る都市でも、サメを脅してその埠頭から遠くへ追い払うことはできない。この点からいえば、その都市は、トラが出没するシンガポール以上に進歩しているわけではない。」





こちらもご参照ください:

谷川健一 『渚の思想』
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)




























































































Richard Doyle 『Fairy Land: A Series of Pictures from the Elf-World』 (ほるぷ)

Richard Doyle 
『Fairy Land:
A Series of Pictures
from the Elf-World』 
With a Poem by
William Allingham


Longmans, Green, Reader & Dyer, London, 1870
Facsimile edition reproduced from the Osborne Collection of Early Children's Books, Toronto Public Library
Holp Shuppan, Publishers, Tokyo, 1983
Printed in Japan
4+31葉(うちカラー図版16葉)
38.9×27.8cm 
丸背バクラム装上製本



ほるぷ出版「復刻 世界の絵本館 オズボーンコレクション」の一冊です。リチャード・ドイル画、ウィリアム・アリンガム詩。三方金。函欠。
でてきたのでよんでみました。


fairyland 01


表紙には文字とイラスト・枠線が金箔押しされています。


fairyland 04


背には文字ではなく妖精と鳥・虫・小動物と植物の飾り紋様が金箔押しされています。


fairyland 02


口絵「A Rehearsal in Fairy Land. Musical Elf teaching the young birds to sing.」
妖精の国のリハーサル。幼鳥たちに歌を教える音楽家のエルフ。


fairyland 03


タイトルページ。


fairyland 05


「THIS is the Prince who travelled from a far country that he might place his crown at the feet of that wayward Fairy, who is seen seated upon her throne, a toadstool. He also offers her his heart, and his hand; and besides, he begs her acceptance of priceless gifts, which are carried in caskets of gold by his numerous train of retainers (Elves of the highest rank and first families in Fairy-land). There are earrings, necklaces, and bracelets of the most beautiful precious stones, - coral not more red than her lips, turquoises almost as blue, and diamonds almost as bright, as her eyes: at least, the Fairy Prince said so.」


キノコの玉座に坐すわがままな妖精に贈り物を捧げるため遠い国からやってきた王子。


fairyland 06


「Triumphal March of the Elf-King.
This important personage, nearly related to the Goblin family, is conspicuous for the length of his hair, which on state occasions it requires four pages to support. Fairies in waiting strew flowers in his path, and in his train are many of the most distinguished Trolls, Kobolds, Nixies, Pixies, Wood-sprites, birds, butterflies, and other inhabitants of the kingdom.」



エルフの王様の凱旋行進。


fairyland 07


「An Evening Ride.」「A Serenade.」
「Fairy Child's Play.
Manners and Customs of some of the natives of Fairyland.」



夕べのドライブ。
セレナーデ。
妖精の子どもの遊び。




こちらもご参照ください:

荒俣宏 『パラノイア創造史』 (ちくま文庫)
W・B・イエイツ 『ケルト幻想物語集Ⅰ アイルランド各地方の妖精譚と民話 上』 井村君江 訳 (妖精文庫)











































A・ブラックウッド 『ブラックウッド傑作集』 紀田順一郎 訳 (創元推理文庫)

「その身を焼きつくす炎の中で、存在の奥底にキラリと輝く金属の先端のように、たった一つ焼きつくされぬものこそ、彼の本質だった。この輝いている不滅の核心こそ、彼の――童心(イノセンス)なのであった。」
(アルジャナン・ブラックウッド 「黄金の蝿」 より)


A・ブラックウッド 
『ブラックウッド
傑作集』 
紀田順一郎 訳
 
創元推理文庫 527-1

東京創元社
1978年2月24日 初版
368p
文庫判 並装 カバー
定価360円
カバー: 日下弘



スピン(栞ひも)付です。栞ひも付の文庫本というと、新潮文庫と、今はなき福武文庫が栞ひも付でした。創元推理文庫は、当時は初版のみ栞ひも付だったような気がします。


ブラックウッド傑作集 01


扉文:

「日常的で、ありふれた物事や経験の中から神秘的な超自然の幻影をひきだす恐怖文学の巨匠ブラックウッド。前世の記憶によって猫の町にひきよせられる男の怪しい体験を描いた「いにしえの魔術」、はげしい恋が奇怪な人狼事件をひき起こす「犬のキャンプ」、この推理小説的合理性をもった代表作二編をはじめ、恐るべき生霊現象を描く「ウェンディゴ」、黒魔術の恐怖「邪悪なる祈り」、作者の信仰告白の書ともいうべき「黄金の蝿」など、ラヴクラフトが絶讃する鬼才の代表的傑作九編を収録するファン必読の作品集!」


目次:


いにしえの魔術
黄金の蝿
ウェンディゴ
移植
邪悪なる祈り
囮(おとり)
屋根裏
炎の舌
犬のキャンプ

解説 (紀田順一郎)



ブラックウッド傑作集 02



◆本書より◆


「いにしえの魔術」より:

「小さな街の通りをそぞろ歩きしているうちに、彼はこの街の個性であるやすらぎの精神の中に、だんだん深くのめりこんでいった。あてもなく、彼は足をはこんだ。九月の日ざしが屋根の上に傾きかけていた。うねうね曲がりながらくだって行く路の両側には、傾いた破風や開いた窓が続き、そのふもとの方向にちらりと、まるで桃源郷をのぞくようなぐあいに広い草原が見え、緑の牧場や黄色の雑木林が、まるで夢の中の風景のように霞の中に浮かんでいる。この街には、過ぎ去った世界の魔力がいまだに生きつづけていることを、彼は実感した。」

「その音楽全体には、一種奇妙な人を呪縛する力があった。それはどこか技巧を絶していた。彼が連想したのは風にそよぐ木立であり、電線や煙突を震わせる夜風であり、姿の見えない船の網具の間を吹きぬける風であった。――と、突然彼の想像力の中に鮮やかなイメージがとびこんできた。この世のどこか、人外境で月に向かって吼えている獣たちのコーラスである。また彼は夜な夜な人家の屋根の上で、不気味な音程の鳴き声をあげたりさげたりしている猫たちの、なかば人間のような叫び声をなんとなく聞きつけたように思った。そして遠く木立を隔てて聞こえてくるその音楽が、杳(はる)か空の彼方の屋根の上で、奇妙な動物たちの群れがたがいに厳粛な歌をうたい合ったり、月に向かって合唱しているようなぐあいに聞こえるのであった。」

「「というのは、わたしが突然感づいたのは、この街ぜんたいがそれまでわたしの見ていたものとは別のものではないかということでした。人々のほんとうの活動力と関心は、どこか見かけとはちがう別のところにあるようでした。彼らの実際の生活は、わたしの目の届かないところにあるのです。忙しげに動いているのは、本音を隠す仮面なのです。物を売ったり買ったり、食べたり飲んだり、道をぶらついている一方では、彼らのほんとうの生活の流れは、わたしの視界のおよばない、地下の秘密の場所に隠されているのです。(中略)連中の生活は(中略)、隠れた神秘的な源から生まれ、見えない未知の軌道を走っているのです。(中略)彼らのエネルギーの主流は別のところを流れているのです。」」
「「さて、こうしてわたしの眼がいくらか開いてくると、ほかにもおかしなことがいくらでもあるのに、気づき出したのです。第一にこの街全体の異様なまでの静けさです。たしかに、この街には防音装置がしてあるようです。通りには小砂利が敷いてあるのですが、人々はこの上をひっそりと、ふんわりと、まるで猫のようにやわらかな足どりで歩いているのです。騒音などたてる者はありません。あらゆるものがしーんと静まりかえり、おさえつけられ、啞のようになっています。声そのものも静かで音程も低く、まるでゴロゴロ咽喉を鳴らしているようなぐあいなのです。この小さな丘の街を寝かしつけているような、柔らかな、とろんとした夢のような空気の中では、騒々しい、激しい、高い調子の声はまったく存在しえないのです。」」
「「とはいえ、連中が無気力で怠惰だという気配はどこにも見られません。みんな活動的で、すばしこいのです。ただ何といおうか、奇妙な、薄気味のわるい柔らかさが、呪文のように誰の上にも覆いかぶさっているのです」」

「彼女の眼は、なおじっと彼の眼をのぞきこんでいたが、その顔は(中略)しだいに変化し、大きくなってきた。
 「あなたが街の人たちに監視されていると感じるのは、みんなの考えがあなたの魂としじゅう戯(たわむ)れているからなのです。眼で見張りをしているわけではないのです。あの人たちの内部の生活の目的が、あなたを求めているのです。ずっと、ずっと古い昔、あなたはみんなのお仲間だったのですよ。そして、いまあの人たちは、あなたにもう一度還って欲しいと思っているのです」」
「「でも、ぼくはここにまったく偶然に来たので――」彼は自分がそう言っているのを聞いた。
 「いいえ」と彼女は熱っぽく叫んだ。「わたしがお呼びしたから来たのです。何年ものあいだ、あなたをお呼びしていました。そして、あなたは背後にある過去の力に押されて、ここへいらしたのです。」」

「窓の下の庭にも、いまや黒い影のような生き物が忍びこんでいた。いずれもガラス戸のある玄関へと動いていた。壁にぴったり沿っているので、はっきりした形はわからなかったが、その影がホールに入って巨大な群れの形をなしたとき、あの向かいの窓ガラスに映っていた生き物であることがわかった。彼らはこの街のあらゆるところから、屋根や敷石づたいに、あるいは屋根から屋根へと定められた会合の場所へ集まって来たのであった。
 そのとき、新しい音が彼の耳をとらえた。見ると彼のぐるりにある窓という窓がひそやかに開け放たれ、そこから一つずつ顔がのぞいているではないか。一瞬後、その連中も大いそぎで下の庭へと跳びおりはじめた。彼らは窓から跳びおりるときは人間の形をしているのだが、ひとたび地上におりるや目にとまらぬ早さで四つ足となり――巨大な、ひっそりとした猫になるのだ。この連中もまた、向こうのホールをめざし、一団となって駆けて行くのだった。」
「それ以上に不思議だったのは、彼がけっして驚いてはいなかったことである。彼はこうしたことのすべてを覚えていた。(中略)すべてはそのままの形で、何千年という昔に起こったことだった。彼自身、ああした連中の仲間に加わっていたのであり、その熱狂の経験すら記憶していた。と、建物の外形が変わり、中庭も大きくなっていき、彼は煙のたちこめる中で非常な高みから見おろしているような気分になってきた。そして、なかばうつらうつらしながら見ているうちに、何やら遠い昔の古傷が、甘く疼くように激しく胸をしめつけてくるのであった。そして踊りへの呼び声を耳にしたとき、彼の血は妖しく騒ぎ、さきほどイルゼが自分の傍らで舞ったときの、いにしえの魔術の力をあらためて思い起こした。
 とつぜん、彼はハッと身を引いた。大きく柔らかな猫が、下の物蔭から窓枠にいる彼の眼の前に、フワリと跳びついたのだった。そして、彼を人間の眼でじっと見すえた。「おいで」とその猫は言っているようだった。「さあ、いっしょに踊りに行こう! 昔の姿におなり! さ、早く昔のようになって、行こうよ!」この獣の声なき呼び声が、彼にはよくわかるのだった。」



「黄金の蝿」より:

「この「全世界の崩壊」というのが、彼のたどりついた観念だった。彼は家を出て、孤独への道をたどり、一面にヒースの生い茂るニュー・フォレストの保養地へとやって来た。そこで彼は、小さな松林の蔭に、疲れた身を横たえた。そして、崩壊した世界もまた彼とともに横たわっていた。」
「尻のポケットに入れたピストルがじゃまなので、それをとり出すと、彼は仰向けに寝そべって流れ行く雲を見つめた。すーっと意識を吸いこまれてしまうような、目も眩むような気持で空に見入った。香(かぐわ)しい風が、耳のあたりにひっそりとたわむれていた。ヒースの蜜の匂いがした。金色の蝿が、空中に静止していた。ちょうど夏の青いカーテンの上に、黄金色のピンをとめたようなぐあいだった。蜻蛉(とんぼ)が飛行機のようにとびかいながら、そのきらきらブロンズのように光る胴を、糸のような模様に織りなしていた。鍋鳧(なべげり)がせわしない鳴き声をあげながら、茂みからパッと飛び立った。足元には小川がさらさら流れて、泥炭を含んだ岸辺に暗褐色の細波(さざなみ)をたてていた。どこを見ても詩があり、平和があり、何ものにも煩わされない憩いがあった。
 自然のこの威厳にみちた無関心は、彼の心を鎮め、限りない慰めをもたらした。人間のいかなる苦痛も、いかなる審判も、この水の流れを変えることはできず、鍋鳧の叫びをやめさせることもできず、ましてや空を漂っている霞のような雲の一群れを、一インチだに動かすこともできなかった。大地は過去何世紀にもわたり、太陽に向かって膨らんできたように、いまもまた膨らみつつあった。その着実な歩みの能力と壮大な静けさは、いたるところにおごそかに息づいていた。――何ものにも惑うことなく、いそぐことなく、強固たる確信にあふれて……。
 そして、金蝿の輝きにも似たある考えが、ぱっと鮮やかに心に浮かんできた。くよくよ思い煩っている小さな世界は、頭の一隅にきれいさっぱり片づけてしまおう。自分がその外側に出てしまえば、もう存在しないも同じことだ。」
「激しい苦痛はもはや燃えつきて、別のものになってしまったかに見えた。怒りは、その別のものによって消されてしまった。彼の視界を覆っていた一枚の紙のようなものは燃やされ、一握りの灰になってしまった。もつれていた心の中が、かなりよく透いて見えるようになった。そのずっと奥のほうに、彼ははじめて――光を見た。これまで、あんなに大きく写っていた彼の内面が、望遠鏡をさかさに見るように、遠く小さくなってしまった。重要だと思いこんでいたものが、別の視点から眺めることにより、とつぜん様相が一変した。(中略)その身を焼きつくす炎の中で、存在の奥底にキラリと輝く金属の先端のように、たった一つ焼きつくされぬものこそ、彼の本質だった。この輝いている不滅の核心こそ、彼の――童心(イノセンス)なのであった。残りの部分は、おのれを裏切っていた、つまり世論というものの残骸であった。彼はこれまで、微細な原子を宇宙全体と見誤っていたのだ……。」
「じっさいの“世界”は、彼がいままであからさまに見ることのできない、壮麗にして千古不滅なる何ものかなのであった。」
「そのものは、彼のすぐ傍らにあるようでいて、同時に遠く地平線の彼方にもあるように思われた。それはどこにでもあった。中天を満たし、雲の峰にあるかと思えば、彼のすぐ間近にも迫ってくるのだった。それは鍋鳧(なべげり)の鋭い叫び声の中にも、小川のせせらぎの中にもあった。松風のそよぎの中にも、いたるところの日だまりの中にもあった。それは輝かしく、純粋で率直だった。彼に強い力が蘇ってきた。」
「彼はもはや、なみの苦痛では打撃を蒙ることはなかった。彼がいまや理解した苦悩とは、自分の生活に新しい関係を持つものであり――喜んで受け入れ、世間の考えなどにはまったく関係なく取り組むべき何ものかであった。世間が何を言い、何を考えようと、それは彼らだけの話である。自分には関係ないのだ。無に等しいことなのだ。」
「彼はこの抵抗のエネルギーを、風や日光やありふれた夏の美しさの中から得たのであった。その安らぎと強靭さが、彼の内部へ浸透したのである。(中略)彼はピストルを水たまりに蹴こんでしまった。自然がそれを隠してしまった。そして、自然は、今後とも彼が弱気におちいるときに、常にそこに存在するだろう。それはすばらしいことだった。」



「ウェンディゴ」より:

「神学生であるシンプソンは、この事件についてあまり科学的ではないにせよ、いちおうのもっともらしい結論を引き出した。未開の辺境では、ある種の凶暴な、真の意味における原始性が残存している。どういうものか、人間の属性を昂揚したような形で残存している何かが、未熟で奇怪な生き物の形をもって立ち現われる。彼はその時代を巨大な薄気味悪い生霊が、いまだ人の心にのしかかり、大自然の力がいまだ飼い馴らされず、原始の宇宙に呪われた神の力がいまだ退出しない、先史時代であるかのように思い描いた。後年、彼は説教の中で、「人の魂の背後は荒々しく怖ろしい可能力(ポテンシー)というものが潜んでおり、それ自体は悪ではないが、存在する限りにおいて人間性に対する本能的な敵意を抱いているものだ」と述べている。」


「囮」より:

「それは、ある種のたちの悪い迷信にからみつかれているような、すこぶる感じのよくない家で、とくに目的のない限りはとうてい住む気など起こりそうになかった。(中略)よく見ればがっしりとした造作で、しかも公園の森も小さく見せるような巨大な外観をそなえていたが、けっきょくその建物の最大の特徴はといえば――目だたないということにつきるのであった。
 ケント州の森林地帯の一角にある、小さな丘の上からも、その家の無表情な窓が晴雨にかかわらず望見できた。冬の日には荒涼としており、春になってもなおもの寂しく、夏の日ざしにも祝福を受けぬかのようだった。何か巨人の手によって運命を操られ、飢餓のため死へと追いやられたかのようなこの田舎の館は、何人もの広告屋が惹句(じゃっく)に頭を悩ましたあげく、いまだに買手がつかないでいた。――魂が失せている、と誰かが言った。自殺者を出したことがあるじゃないか、と別の者は言った。以前、そう考えながらもこの家を買ったある男は、悪質な遺伝に負けたのか、みずからも書斎で命を絶ってしまった。」



「解説」(紀田順一郎)より:

「この大自然ということばは、日本的な自然観では説明できない。しいていえば自然神のようなものであり、エマソンのいう大霊(オーバーソウル)に通じるものであろう。ブラックウッドは幼年期から青年期にいたる間の特異な体験や思想遍歴により、人為的な文明に対比すべき超自然的なものに対する感性を、鋭くとぎすましていたのである。
 その自然が、人間といかに関わるかを、さまざまなモチーフと手法で描いたのが彼の作品群である。ブラックウッドは、自然が強烈な意志を持っていて、隙あらば人間を侵し、ついに荒廃へと導くものとしてとらえる。荒廃といったが、自然の意志から見れば、人間が本来の原始状態に回帰し、本質的なるものに還元されたことを意味する。ブラックウッドの作品系列を見ると、自然が人間を侵す恐怖を描いたものと、人間が自然に回帰する喜びを描いたものに大別される。」





こちらもご参照ください:

萩原朔太郎 『猫町 他十七篇』 (岩波文庫)
『日影丈吉選集Ⅳ 猫の泉』 種村季弘 編
富士川義之 『ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎』
















































































A・ビアス 『悪魔の辞典』 奥田俊介・倉本護・猪狩博 訳 (角川文庫)

「LEARNING, n. 【博識】 学問に励む者に特有な一種の無知。」
(A・ビアス 『悪魔の辞典』 より)


A・ビアス 
『悪魔の辞典』
 
奥田俊介・倉本護・猪狩博 訳 
角川文庫 3139/赤 364-1

角川書店
昭和50年4月10日 初版発行
昭和53年4月20日 10版発行
442p
文庫判 並装 カバー
定価420円



本書「解説」より:

「本書は全集版『悪魔の辞典』の全貌を伝えてはいるが、一部省略があり、完訳とはいいがたい。より深く『悪魔の辞典』を探りたい方は、是非とも増補版の数多い定義までのせてある創土社版をお手に取っていただきたい。」
「定義は「A」から「E」までは奥田が、「F」から「M」までは倉本が、「N」から「Z」までは猪狩が分担して翻訳した。」



ビアス 悪魔の辞典


カバーそで文:

「この本に集められた警句を読めば、読者は思わずニンマリするに違いない。ポーの再来といわれ、芥川龍之介の「侏儒の言葉」にも大きな影響を与えた短編の名手ビアスが、“インク代りにニガヨモギの汁を使用した”といわれた筆致で、現代文明と人間性を、鋭い風刺と痛烈な皮肉で描く。現代人必読の書。」


内容:

凡例


悪魔の辞典
 A~Z

解説 (奥田俊介)
参考文献
年表
 



◆本書より◆


「ACCIDENT, n. 【偶然】 永遠に変わらざる自然法則の作用により生じた不可避の事件。」

「BIGOT, n. 【偏屈もの】 君の受け入れぬ意見を執拗(しつよう)にしかも熱狂的に信奉する奴。」

「DICTIONARY, n. 【辞典】 一つの言語の成長を阻止し、その言語を固定した融通の効かぬものにするため工夫された邪念のこもった文筆にかかわる装置。ただし本辞典はきわめて有益な作品である。」

「HIBERNATE, v. 【冬ごもりする】 家庭に引きこもって冬を過ごすこと。さまざまな動物の冬眠については、多くの驚くべき俗説が伝えられている。熊は冬の間ずっと冬眠し、機械的に自分の足をなめては生きてゆく、と多くの人は信じている。そして熊は、春になると隠れ家からすっかり痩(や)せ細った姿を見せ、地上に影が映るようになるまでには、二倍も食べねばならない事実が認められている。三、四世紀前、イギリスでは燕たちが、冬の間小川の底の泥の中に球のように固まり、くっつき合って過ごしたという事実ほどよく立証されたものはなかった。だが燕たちは、小川の汚染のためにこの習慣を明らかに断念しなければならなくなったのだった。ソッス・エスコビウスは中央アジアで一国民全部が冬ごもりするのを発見した。ある研究者たちによれば、四旬節の断食行為は本来冬眠の修正された形だったと考えられている。それに対して教会は宗教的意義を付加したのだ。」

「IGNORAMUS, n. 【無学な人】 あなたが良く知っているある種の知識には暗いのに、あなたが何も知らないある他の種類の知識に明るい人間。」

「IMAGINATION, n. 【想像力】 詩人と嘘つきとで共有して、事実を納めておく倉庫。」

「IMMORAL, adj. 【不道徳な】 不適当な。結局のところ、大多数の場合について、人々が通常不適当であると考えるものはすべて、誤った、邪悪な、不道徳なものと見なされることになる。」

「INFANCY, n. 【幼年期】 ワーズワース(イギリスのロマン派詩人。1770―1850)によれば、「われわれの周囲を天国が囲んでいる」人生の一時期。だがその時期を過ぎれば早くも世界はわれわれに嘘をつき始めるのだ。」

「IRRELIGION, n. 【無宗教】 世界のもろもろの偉大な信仰の中でももっとも重要な信仰。」

「LEARNING, n. 【博識】 学問に励む者に特有な一種の無知。」

「LOCK-AND-KEY, n. 【錠と鍵】 文明開化を特色づける装置。」

「MAD, adj. 【狂気の】 高度に知的独立という病気に冒された。(中略)大多数の者と反目する。(中略)ある人々を気違いだと宣告するのが、自分自身正気である証拠が何一つない役人たちであるということは、注目に価する。たとえば、このように言っている本辞典の(有名な)編集者は、この国の精神病院の入院患者と同様、自分が正気であるという固い信念を持っている。しかしながら、自分では高尚な仕事を全力を尽くしてやっているつもりでも、実際は精神病院の鉄窓を両手でたたきつづけつつ、おれはノア・ウェブスター(有名な辞書編集者、著述家。1758―1843)だとわめきたて、多くの思慮のない見物人たちを無邪気に喜ばせているのかもしれない。」

「MAGNITUDE, n. 【大きさ】 寸法。大きさというものは純粋に相関的なものであるから、何一つ大きなものもなければ、何一つ小さなものもないわけである。もし仮にこの宇宙のすべての物が千倍もの大きさに拡大されたとすれば、何一つとして、それが以前あったより大きくなったものはない。だがもし一つの物だけ変わらずにあったものがあれば、その他の物は、それが元あったよりも大きくなったことになろう。大きさと距離との関係をよく理解すれば、天文学者の宇宙と大きさは、顕微鏡使用者のそれらと同様感動を与えるものではないであろう。おそらく、その目に見える宇宙というものは原子の小部分で、その構成要素であるイオンと共に、ある動物の生命流動体(ライフ・フルイド)(発光性のエーテル)のなかに浮かんでいるのかもしれない。もしかしたら、われわれ自身の血液の多くのリンパ球に住んでいる微生物たちも、その自分のいる世界から別の世界までの想像を絶する距離を思う時、それ相応の感動に打たれるのであろう。」

「MAN, n. 【人間】 これが自分の姿だと思う姿に、ひとり恍惚(こうこつ)として思いふけり、当然あるべき自分の姿を見落とす動物。その主要な仕事は、他の動物たちと、自分の属する種族を絶滅することである。しかし、人間は注目に価する早さで増加し、地球の住める場所ならどこでも、カナダにまで、はびこる始末である。」





Devil's Dictionary by Ambrose Bierce







































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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