『松浦宮物語』 蜂須賀笛子 校訂 (岩波文庫)

『松浦宮物語』 
蜂須賀笛子 校訂
 
岩波文庫 黄/30-041-1 

岩波書店 
1935年1月25日 第1刷発行
1989年3月17日 第5刷発行
138p
文庫判 並装
定価300円



本書「凡例」より:

「本書は、蜂須賀家所藏傳後光嚴院宸翰松浦宮物語を底本としたもので、漢字、假名遣、送假名また歌の書樣等、凡て原のまゝとした。」
「變體假字は、便宜上之を普通のものに改めた。また、新たに句讀を附した。」



「まつらのみやものがたり」。正字・正かな。
本作が藤原定家の作とされる根拠は、「無名草子」に、最近作られた物語は古い物語に及ばない、「たかのぶ」の「うきなみ」などもそうだし、「又定家少将の作りたるとてあまたはんべるめるは、ましてたゞけしきばかりにて、むげにまことなきものどもに侍るなるべし。まつらの宮とかやこそ、ひとへに萬葉の風情にて、宇津保など見る心地して愚なる心も及ばぬやうに侍るめれ。」とあるのを、定家作の物語のうちで松浦宮だけは優れている、と解してのことだとおもいますが、それは無理です。この文脈では明らかに「侍るなるべし」で切れているので、隆信や定家による物語はダメだが無名作者による「松浦宮」はよい、といっているので、むしろこれは定家作でない根拠になります。


松浦宮物語


帯文:

「失恋の痛手を負って唐に渡った主人公はかの地の内乱を鎮圧、やがて皇女・后らと契りを結ぶ。藤原貴族社会の儚い夢を描いた物語。」


目次:

凡例
本文
附録 松浦宮物語考 (小山田與清 著)
解説 (蜂須賀笛子)




◆本書より◆


「松浦宮物語解説」(蜂須賀笛子)より:

「梗概 〔一の卷〕昔藤原の宮の御時、正三位大納言中衞大將橘冬明が、夫人あすかのみことの間に、たつた獨持つてゐた男子が、容貌がすくれたばかりでなく、其心柄も立派で、世の人さへ皆さういふ方が産れた事を喜んでゐた。七歳で詩をつくり、成長するに從つて、管絃も上達して、出藍の譽があれがあつた。帝もその天才を珍らしいものと御覽になつて、十二歳で早くも敍爵し、十六歳では式部少輔右少辨、中衞少將となり、從上の五位となつた。かうして辨は親からも又世間からも、ほめられゝばほめられる程、若い氣持をどうすることも出來ないで惱んでゐた。
 神なびのみこ――皇后の御腹で美しい評判の御方――をどうかして得たいと思つてゐたが、九月の菊の宴の後に、初めて御目にかゝる事が出來た。
 おほみやの庭の白菊秋をへてうつらふ心人しらんかも
 秋をへてうつろひぬともあだ人の袖かけめやもみやのしら菊
 などゝ贈答をされたが、神なびの女王は入内される事にきまつて、失戀の苦しみになやむこととなつてしまつた。その時、翌年遣唐使を出される事となり、辨はその副使として唐へつかはされる事となつた。正使は式部大夫參議安倍の關麻呂である。
 獨り子の、然も天才兒である辨を、外國へ出さねばならない父母の心配は一と通りではない。母君などはこの國の堺をはなれる事が出來なくとも、といはれて、前の年から松浦の山に宮をたてゝ、愛兒の歸朝を待たれる事となつた。
 僅か十七歳の身が、はるはると使した事によつて、唐の皇帝は特別な待遇をされ、いつくしみをうけて、幸福に、然も外國にゐるといふつゝしみから、猶一層の謹嚴な生活を送つてゐた。
 一夜――それは八月十五夜であつた。――月にさそはれて郊外を散歩した。陶弘英といふ八十の老翁の手引で、華陽公主――皇帝の同腹の妹――から琴を習ふ事となつた。これはこの世に仙人の彈く秘曲をつたへる爲の因縁なのである。華陽公主の美しさに、ともすれば亂れがちになるのを、こゝは仙人が通ひくる臺(ウテナ)なればと公主はいはれて、禁中五鳳樓のもとであふ約束をする。
 公主がこの世に産れたのは、只、琴の秘曲を傳へようが爲で、若し契を結ぶやうな事があつたなら、命はたちどころに召されることになつてゐるが、命をかけてもあはうとの思ひならばとて、その約束をはたして、水晶の玉を形身に與へ、日の本の初瀨の寺に、この玉を持つて、三七日の法を修するやうと賴み、又自分が手ならした琴を、白い扇で空にあふぎあげて契たえずは再びあはむとのかね言をして、急に公主は逝去される。引つゞいて、前から御病氣にかゝられてゐた皇帝が、崩御せられたので、國内がにはかにさわがしくなり、まだ御幼少な太子と、御かくれになつた皇帝の御弟の燕王とが、國を爭つて、大亂を捲き起してしまつた。そして、太子と御母后とは都落をせられる事となつた。
 〔二の卷〕 時は十月廿日頃なので、四方の景色も心細く、只天子の印の旗ばかりが淋しくはためいて、遂に蜀山へ迄追ひつめられてしまつた。敵の大將は虎の心があるといふ宇文會その人である。御母后はつき從つて行つた辨に、賴む事が切である。御辭退しかねて、本國にゐた時には、弓矢などはどう持つかさへ知らなかつたのであるが、只命をまとにしてむかはうと、日本の佛神を祈つて、宇文會と戰つたのである。いつとはなしに四人五人と影武者が現はれて、遂に宇文會を討ちとり、その一黨八人をも平げる事が出來たのである。そして太子御母后は、都へかへられる事となつた。
 辨は思ひもかけず大功をたてたのであるが、殆ど夢心地である。ふとやすんだ夢で神から(住吉の神)
 浪の外きしもせざらむさとながらわが國人にたちは離れず
 とて甲冑を賜つた。覺めて見ると現在前におかれてある。すつかりたのもしくなつて、その甲冑を身につけて、都へ還へらるゝ先導をして行く。
 都へ還御なられてからは、早朝から召され、新帝の御學問の御相手をし、政事にまで關與する事となつた。遂には外國人をそこ迄用ひらるゝ事を嫉むものも出來、辨は日本へ歸り度い氣ばかり起つて來る。御母后はしきりととめられる。そしてかうして賴りにせられる御心に、辨は次第に引かれる。けれども謹嚴な人である上に、あの玉を身にそへてからは、決して亂れた心などは起さなかつたが、
 おもふとも戀とも知らぬ面影の身にそふとこは夢もむすはず
 といふやうになつてしまつた。悶々の情をはらさうと散策に出かける。諒闇なので市中は音樂の音さへしないのに、簫の聲がきこえてくる。月、梅の香などを背景として簫といふものゝよさをはじめて感じさせられる。そして、その簫をふいてゐた女と一夜のちぎりを結ぶ。しかし、素性も何もわからない。晝は新帝の御相手をし、夜はそのわからない女を戀しがつてゐる。或夜ふとあの夜の梅の香がして、女がおとづれる。それも現だか夢だかわからないうちに、單衣をぬぎすべしてかへつてしまふ。
 一日御講書が終つてから、御母后に御目にかゝる。そのさがしてゐる女と、ふと似かよつてゐるのでびつくりする。若しか御縁引きの御方でもあるかなどゝ思ふけれど、そんな方もいらつしやらない。かねてからの歸國の御願ひを、御母后はしきりととめられる。然し又神が導かれる因縁を持つてゐる人なのだから、無理にとめるといふ事は、かへつて恩を知らない事になるとも仰せられる。辨はかうして、戀の山路にふみ迷つてゐる事が恥かしく、やはり夏になつたら出帆させていたゞき度いと御願する。
 然しやはり女の事ばかりが戀しくて、曉方ちかく迄寢られないでゐる。ふとあの香がして人のけはひがする。嬉しくて色々の物語をする、けれども、雲とも霧ともわからないはかない女とのちぎりは、またしても御母后の面影を見出しては、はつとする。
 あだにたつ朝の雲のなかたえばいづれの山をそれとだに見む
 妖怪變化のものかと思ふ時もさすがにあるが、どうしても思ひきる事が出來ない。けれども、その雲の行方をしたふばかりに、出帆をのばすことも出來ず、煩悶に煩悶をかさねてゐる。
 〔三の卷〕 かゝる惱みの爲にも、かくまでいそがれた古郷への旅が、何となく心殘りがして、口實をまうけては秋まで延ばしてしまふ。
 然し、のばしたからとて、その女にたよりが出來るのでもないので、そのなやましさはどうする事も出來ない。その上、御母后の追風が、ふとそれかと思はれるので、かへつて苦しさがまさるやうな氣がするけれども、それはとんでもない月の桂で、何とする事も出來ない。
 廿日頃になつて、或日、御階のもとの牡丹を一枝折つてかへる。その夜やうやう女が來る。「あしたの雲」、といふ許りで何も教へないのを恨むので、その女は、牡丹の枝をしをりとして尋ねるやうに、といつて、その一枝を持つて歸つてしまふ。翌日すぐにも尋ねたいと思つたけれど、早朝から、政事がいそがしくて、その餘暇が得られない。やうやういつかの梅の山里に來て見ると、夏草が生ひしげつて外は人が來たやうにも思はれないのに、きれいにはいた家の中に、この牡丹の花びらが、色もあせずたゞ一ひらあるばかり、やはりたづね知る事は出來なかつた。
 六月廿日に、いよいよ都を退く事となつた。十日頃の或夜、月の清い折に、御母后は色々と話をされる。一たん入らせられたが、
  「時すぎた花の一枝を、けふまで惜しんでとゞめ置いた心を、さぞもどかしく思つてゞあらう。」
 と仰せられて、あの牡丹の一枝を返して下さつて、かうした夢のやうな事も、眞實を打あけなかつたら、罪作りな事となつてしまふから、とおつしやつて、
  「宇文會は阿修羅の産れかはりで、我國をほろぼさうとしたのを、先帝が、玄弉三藏を使として、天帝に愁訴せられたので、第二の天衆であつた私を、天上からしばらくのいとまを賜はつて、下界へ下だし、私をたすける爲には、天童であつた人に弓矢を賜はつて、阿修羅の化身を討たすことになつたのであるが、我國には、さうした縁を負ふ人がないので、日本の國の住吉の神に仰せられたのです。それがあなたなのです、だから前世のよしみで、かうした縁も出來たのです。思ひ出した時には、これを、」
 といはれて、小さい箱の鏡を渡されておはいりになつてしまつた。」
「いよいよ出發となつた。御母后の御心づかひ、種々な賜物のある中に、華陽公主の持ちならされたものまで下さつたのである。
 歸朝した辨は、參議右大辨中衞中將となつた。松浦の山に待ちこがれてゐられた母君とのよろこばしい對面は、いふまでもない。直ちに初瀨に於て、三七日の法を修する事となつた。何處ともなく琴の音がきこえて來て、華陽公主とあふ事が出來た。飛んでいつた琴までも、飛んでかへつて來たので、二人は、心のかぎり調べあはしたのである。
 神なびの女王は、人が變つたやうな辨の仕向けを、ねたましく思はれるけれど、入内されてゐては、どうする事も出來ない。
 そして、靜かな寺ごもりの序に、靜かな氣持で、鏡をあけてみる。その中には、もう先帝の諒闇もあけたので、紋のある召物を召した御母后が、あの池殿にいらせられる所がうつつてゐる。あの香りさへするではないか。
 夕暮になり見えなくなつたので燈をつける。かへつて鏡の面に反射してよく見えない。懷にだいて泣いてしまふ。夜も更けて、待つてゐられる宮(華陽公主の後身)も氣掛りになり、急いで歸る。宮はふと前世に於てかぎ慣れた御母后の匂ひを、辨の着物から感じてあやしまれる。
  「しらぬ世も君にまどひし道なればいづれのうらのなみかこゆべき」そんな邪推をするものではない。」
 と辯解しながらもほろほろとなみだがこぼれる。そして琴の秘曲を世に傳へなければならない爲に、かうした珍らしい因縁が結ばれて行く事を、つくづく考へさせられたのである。」

























































































































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今川文雄 編訳 『明月記抄』

「世上乱逆追討耳に満つといへども、之を注せず。紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾が事にあらず。」
(『明月記』 より)


今川文雄 編訳 
『明月記抄』


河出書房新社
昭和61年9月20日 初版印刷
小輪61年9月30日 初版発行
422p
A5判 丸背布装上製本
貼函
定価6,180円(本体6,000円)



「明月記」は藤原定家の日記。河出書房新社からは本書以前に今川文雄訳『訓読 明月記』全6巻が刊行されています。


明月記抄 01


帯文:

「「明月記」の深い森に分け入る
中世動乱期の克明な歴史記録として、和歌史の貴重な文献として、定家自身の内面を記した文学的作品として高い価値を持つ漢文日記「明月記」。その厖大な記事の中から重要部分を選出し、難解な漢文を訓読して懇切な頭注を付した、読みやすい「明月記」のエッセンス!」



帯裏:

「定家の総合的人間像
今川文雄
 公卿が日記をつけるその主目的は、生活に必要な有職故実を記録し、後世子孫に伝えんがためである。したがって、その内容たるや、現代の我々には凡そ意義のない、無味乾燥なものが多い。公卿日記たる明月記も、この例にもれるものではない。がしかし、只一味違うものが随所に見出される。
 (中略)
 本書には、歌人として、或いは古典学者としての定家は言うに及ばず、その個人的・家庭的・経済的ないしは処世的な側面も含む――いわば定家の総合的人間像を浮き彫りにすべく抄を試みたつもりである。本抄を読んでいただければ、明月記のあらましは分っていただけるかと思う。
(「あとがき」より)」



目次:

治承年間
 治承四年(十九歳)
 治承五年(二十歳)
文治・建久年間
 文治四年(二十七歳)
 建久二年(三十歳)
 建久三年(三十一歳)
 建久七年(三十五歳)
 建久八年(三十六歳)
 建久九年(三十七歳)
正治年間
 正治元年(三十八歳)
 正治二年(三十九歳)
建仁年間
 建仁元年(四十歳)
 建仁二年(四十一歳)
 建仁三年(四十二歳)
元久年間
 元久元年(四十三歳)
 元久二年(四十四歳)
建永・承元年間
 建永元年(四十五歳)
 承元元年(四十六歳)
 承元二年(四十七歳)
建歴年間
 建歴元年(五十歳)
 建歴二年(五十一歳)
建保・承久年間
 建保元年(五十二歳)
 建保二年(五十三歳)
 建保三年(五十四歳)
 建保四年(五十五歳)
 建保五年(五十六歳)
 建保六年(五十七歳)
 承久元年(五十八歳)
嘉禄年間
 嘉禄元年(六十四歳)
 嘉禄二年(六十五歳)
安貞年間
 安貞元年(六十六歳)
寛喜年間
 寛喜元年(六十八歳)
 寛喜二年(六十九歳)
 寛喜三年(七十歳)
貞永・天福年間
 貞永元年(七十一歳)
 天福元年(七十二歳)
文歴・嘉禎年間
 文歴元年(七十三歳)
 嘉禎元年(七十四歳)

あとがき (今川文雄)



明月記抄 03



◆本書より◆


「治承四年(一一八〇) 十九歳」より:

「○二月
十四日。天晴る。明月片雲(1)無し。庭梅盛んに開き、芬芳(2)四散す。家中人無く、一身徘徊す。夜深く寝所に帰る。燈髣髴(3)として猶寝に付くの心無し。更に南の方に出で梅花を見るの間、忽ち炎上の由を聞く。乾(4)の方と。太(はなは)だ近し。須臾(5)の間、風忽ち起り、火は北の少将の家に付く。即ち車に乗りて出づ。其の所無きに依り、北小路の成実朝臣の宅に渡り給ふ。倉町等片時(へんじ)に煙と化す。風太だ利(と)した。文書(もんじょ)等多く焼け了んぬ。」

「〔十四日〕父俊成の家焼ける。
1、一片の雲。2(ふんぽう)よい香り。3(ほうふつ)彷彿。ぼんやりと見えるさま。4(いぬい)北西の方角。5(しゅゆ)しばらく。6、藤俊成。」

「○九月
世上乱逆追討耳に満つといへども、之を注せず。紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾が事にあらず。」



「建久七年(一一九六) 三十五歳」より:

「○四月」
「十七日。陰り、申後雨降る。刑部(1)卿参入し、世間の雑談等を申す。「新日吉に近日蛇有り。男一人其の蛇に随ひ、種々の狂言(2)を吐き、『蛇の託宣』と称ふ。又云ふ、『後白河院の後身なり』と。此の事不便なり。奏状を書き進むと。殿下(3)仰せて云ふ、『是れ追ひ払ふべき事なり。故院(4)甚だ見苦しき事なり』と。又、天王寺の舎利(5)(或は聖人。)鱗介(6)の如くハヒアリき給ふ。人又競ひ見る」と。」

「〔十七日〕世間に種々の狂言あり。
1、藤宗雅。2、たわごと。妄語。3、関白兼実。4、後白河院。5(しゃり)聖人の遺骨。ここでは高僧の意。6、(りんかい)魚類と貝類と。」


「不便」は「(ふびん)気の毒な。不都合な。」


「承元元年(一二〇七) 四十六歳」より:

「○七月
四日。陰晴し、雨灑ぐ。天明に退出するの間、去々年より養ふ所の猫放犬(1)のために噉(く)ひ殺さる。曙後放ち出すと。年来、予は更に猫を飼はず。女房此の猫を儲くるの後、日夜之を養育す。悲慟の思ひ人倫(2)に異らず。鶴軒に乗り、犬綬を帯ぶるを恥づといへども、三年以来掌上・衣裏に在り。他の猫時々啼き叫ぶ事有るも、此の猫其の事無し。荒屋の四壁全からず。隣家と其の隔て無きが如し。放犬多くして致す所か。」

「〔四日〕妻の愛する猫、放犬に噛み殺される。
1、野犬のこと。2、人間。3、軒(けん)は高官の車。「鶴を可愛がるあまり車に乗せる」の意。和漢朗詠集、巻下「鶴」参照。」





こちらもご参照下さい:

『藤原定家歌集 附 年譜』 佐佐木信綱 校訂 (岩波文庫)
久保田淳 『藤原定家 ― 乱世に華あり』 (王朝の歌人 9)
安東次男 『藤原定家』 (日本詩人選)




































































久保田淳 『藤原定家 ― 乱世に華あり』 (王朝の歌人 9)

「このような性質や物の感じかた、考えかたは、社会への適応という点ではマイナスの要因となりかねないであろう。(中略)けれども、歌人として生きるうえでは、それはかならずしもマイナスではなかったかもしれない。病的なまでに研ぎすまされた神経の持ち主、繊細な感受性の持ち主だけが見いだし、そして表現しうる美というものがあるにちがいないからである。」
(久保田淳 『藤原定家』 より)


久保田淳 
『王朝の歌人 9 
藤原定家
― 乱世に華あり』


集英社 
1984年10月23日 第1刷発行
256p 口絵(カラー)2p
四六判
丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円(発刊記念特別定価1,200円)
装幀: 菊地信義
カバー画: 小山進



評伝。本文中図版(モノクロ)5点。


久保田淳 藤原定家 01


帯文:

「現実へのはげしい絶望感、
無力感は、定家の心をしだいに
歌の世界へと駆りたてた。

王朝の歌人|集英社版 全10巻|第1回配本第9巻|藤原定家――乱世に華あり」



帯裏:

「野分きめいた風が京の街を吹き荒れた日、伴侶を失ってぽつねんとしているにちがいない老父を見舞おうと思いたち、家を出た定家は、そのときすでに自らの姿を『源氏物語』の夕霧とかさねあわせてしまっているのである。そして、老父は源氏となってしまっている。それは見たてというべきではないであろう。『源氏物語』の叙述が、この悲しい体験に遭遇したことによって人生の真実として了解され、定家はおのずとそのような行動をとらされているのである。(本文より)」


カバー裏:

「王朝の歌人 全10巻
1 柿本人麻呂 稲岡耕二
2 大伴家持 橋本達雄
3 在原業平 今井源衛
4 紀貫之 藤岡忠美
5 伊勢 秋山虔
6 和泉式部 清水好子
7 藤原公任 小町谷照彦
8 西行 有吉保
9 藤原定家 久保田淳
10 後鳥羽院 樋口芳麻呂」



目次:

第一章 天才児として
 紅旗征戎吾事に非ず
 歌人定家の誕生
 才媛の姉たち
 歌合への出場
 初学百首
 恋愛と結婚

第二章 新風の時代
 九条家サロンの歌人として
 西行と定家
 千載和歌集成立のころ
 花月と詠物と
 速詠歌のなかから
 母を喪う
 六百番歌合

第三章 豊饒の時代
 建久の政変
 春の夜の夢の浮橋
 正治初度百首の詠進まで
 「あしたづ」の父子
 老若対抗の歌合

第四章 大成の時代
 和歌所寄人としての日々
 批評の時代
 千五百番歌合
 水無瀬殿での定家
 釈阿九十の賀、その死と新古今和歌集成立
 後京極良経の急逝

第五章 円熟の時代
 最勝四天王院障子和歌
 将軍源実朝の和歌師範
 建保期の歌運隆昌
 「連連三百首」から
 作品の整理
 院勘をこうむる

第六章 古典の世界へ
 九重の外重の樗
 返らぬ浪の花の陰
 最後の百首と新勅撰和歌集撰進の下命
 新勅撰和歌集の撰進まで
 老いを養う

藤原定家関係図
定家略年譜
参考文献
定家和歌索引



久保田淳 藤原定家 02



◆本書より◆


「天才児として」より:

「病気がちであることは、定家の性格形成にかなり影響をおよぼしたと思われる。彼は悲観的、厭世(えんせい)的人生観の持ち主であった。無常観が社会全体を覆っているような時代であるから、時代社会の影響も当然考えなければならないが、始終病魔におびやかされていることが、悲哀に敏感な傾向や神経質で潔癖な性質を助長したのではないかと想像される。
 このような性質や物の感じかた、考えかたは、社会への適応という点ではマイナスの要因となりかねないであろう。事実、定家はそのために激して人とあらそうといったたぐいの失敗もしている。けれども、歌人として生きるうえでは、それはかならずしもマイナスではなかったかもしれない。病的なまでに研ぎすまされた神経の持ち主、繊細な感受性の持ち主だけが見いだし、そして表現しうる美というものがあるにちがいないからである。」



「豊饒の時代」より:

「夕暮はいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ

これはきわめて難解な歌である。花橘(はなたちばな)を詠んだ夏の歌であるが、まず橘は、
  さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖(そで)の香ぞする  読人しらず (古今和歌集・夏)
という古歌によって、懐旧の思いをさそう景物であるということをおさえておく必要がある。それから、和歌での雲や霞は、しばしば人のなきがらを荼毘(だび)に付した煙が立ち昇ってできたものとして歌われる伝統があるということが思いだされる。
  ふるさとに君はいづらと待ち問はばいづれの空の霞といはまし (後撰和歌集・哀傷)
  見し人のけぶりを雲とながむればゆふべの空もむつましきかな (源氏物語・夕顔の巻)
  雨となりしぐるる空の浮雲をいづれの方とわきてながめむ (同・葵の巻)
などはその例である。定家のこの歌も、それら和歌表現の伝統にそって解すべきであろう。
 「初夏の夕暮れは、花橘に風が吹いて、かぐわしい香りを運んでくる。その香りは昔なれ親しんだなつかしい人の袖の香を思いおこさせる。すると、この風はどこの空に漂う雲のなごりの風であろうか。もしかして昔の人の荼毘の煙が凝った雲から吹いてきた風なのではないだろうか」――だいたいこのような重畳した意味のたたみこまれた歌と考えられる。」

「ひとり聞くむなしき階(はし)に雨落ちてわが来(こ)し道をうづむこがらし

 「むなしき階」とは漢語「空階(こうがい)」をやわらげたいいかたで、人のいないがらんとしたきざはしの意である。独りそのようなきざはしにしたたる雨の音を聞いている「わたし」は旅人なのであろう。その「わたし」が旅してきた道は、こがらしが吹き散らした落葉で埋まってしまっている。さびしい異郷での秋のおわりの風景である。」
「この歌は『和漢朗詠集』の次の詩句の面影を詠んだものなのである。
  三秋ニシテ而 宮漏正ニ長シ 空階ニ雨滴(しただ)ル
  万里ニシテ而 郷園何(いづくん)カ在ル 落葉窓深シ
これは「愁賦」という詩賦の一部であるという。その全体は失われて、この対句しか伝えられていない。定家が愛唱してやまない詩句であった。」



「大成の時代」より:

「古代の天文学では、天変、すなわちふだんと異なった天文現象を、国家的重大事件の予兆と考えて、ひどく恐れた。天文博士はそのような天変に気づくと、朝廷に勘文(かんもん)をさしだし、朝廷では攘災(じょうさい)のための祈禱(きとう)を行わせた。
 元久(げんきゅう)三年(一二〇六)二月の末ごろ、三星合という天変が起こった。太白(たいはく)(金星)・木星・火星の三つの惑星が異常接近するという現象であるが、これは重大な天変と考えられていたので、朝廷では慈円(じえん)に祈禱を命じた。慈円は後鳥羽院(ごとばいん)の御所五辻殿(いつつじどの)で薬師法(やくしほう)を修して、天変が消えることを祈った。現代の科学的知識では、このような惑星の異常接近は一定の時日がたたなければ解消しないことがわかっているから、祈禱が効果あるとは考えられないであろうが、当時のことであるから、雨が降って三星合が一時的に見えなくなったことをも祈禱の効験と解していたようである。雨は降ったりやんだりをくりかえし、そのたびに三星合は消えたりあらわれたりしていたが、やがて消えた。
 このことがあってまもなく、摂政太政(だいじょう)大臣藤原(ふじわら)良経が急逝した。三月七日未明のことである。この少し前、良経は往時の風雅な遊宴である曲水の宴を復活させようという計画を立てていた。」

「先に父俊成(しゅんぜい)を喪(うしな)い、今また主(あるじ)良経に別れた定家は、たしかに頼むべき陰を失ったのである。これ以後定家がたとえ失策をおかしても、それをとりなしてくれる人びとはいなくなった。」
































































安東次男 『藤原定家』 (日本詩人選)

安東次男 
『藤原定家』 

日本詩人選 11

筑摩書房 
昭和52年11月30日 第1刷発行
276p 和歌索引6p 
口絵(モノクロ)4p
四六判 
丸背布装上製本 機械函 
定価1,400円



本書「抄出附言」より:

「必ずしも筆者の好みの歌ばかりではないが、和歌の詞がようやく新しい工夫を逼られた時代の技法の特色は、概ね説いたつもりである。歌を歌として読むのに、作者の名前や背景などは第一義のことではない。遣われた詞のどこが、なぜ、面白いかというだけで充分である。略伝・年譜のたぐいは一切これを省き、必要最小限度の背景を加えるにとどめたのは、興味があれば読者自ら歴史のなかにさぐって、もう一度歌に立戻ってほしい、と念願したからにほかならない。その意味では八十首の抄出がこの本のすべてで、略解さえも蛇足である。」


安東次男 藤原定家 01


帯文:

「藤原定家、この名ほど日本詩史に大きく記される名はない。古来さまざまの歌人・学者がその注釈に立向い、日本美学の祖としてその影響は文化の基礎を決定した。詩心は何処にあり詞はいかに創意されたか、百首歌の中に一首を発見し、有情の態をその発想の域に探る。マラルメにも比すべき象徴詩人の業が鮮やかに定着された本書は、また、古典を読むすべての人々に贈る現代の歌道指南の書でもある。」


目次:

初学百首
 一 天の原おもへばかはる色もなし秋こそ月のひかりなりけれ
 二 さみだれに水波まさるまこもぐさ短くてのみ明くる夏の夜
二見浦百首
 三 なにとなく心ぞとまる山の端にことし見そむる三日月のかげ
 四 つづきたつ蝉のもろごゑはるかにて梢も見えぬならの下陰
 五 見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ
 六 やまがつの身のために擣つ衣ゆゑ秋のあはれを手にまかすらむ
 七 あぢきなく辛きあらしの声も憂しなど夕暮に待ちならひけむ
殷富門院大輔百首
 八 あぢさゐの下葉にすだく蛍をばよひらの数の添ふかとぞ見る
 九 葦垣の人目ひまなきまぢかさを分けてつたふるまぼろしもがな
 一〇 かへるさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月
重奉和早卒百首 良経第雪十首
 一一 ふりにけりたれか砌のかきつばたなれのみ春の色ふかくして
 一ニ 松虫の声だにつらき夜な夜なをはては梢に風よわるなり
 一三 待つ人のふもとの道はたえぬらむのきばの杉に雪おもるなり
一字百首 一句百首
 一四 すぎがてに摘めどたまらぬ唐薺うらわかく啼くうぐひすの声
 一五 虫の音は寐ざめの夢におぼえつつ秋の春にもなりにけるかな
 一六 きのくにや吹上のはまの浜かぜも春はのどけくなりぬべらなり
 一七 これまでも心こころは別れけり苗代水もおのが引きひき
 一八 思ふこと誰にのこして詠めおかむ心にあまる春のあけぼの
花月百首
 一九 かすみたつ峯のさくらのあさぼらけくれなゐくくる天の川波
 二〇 花の香はかをるばかりをゆくへとて風よりつらき夕やみの空
 二一 さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治のはしひめ
 二二 山ふかみ岩きりとほす谿川をひかりにせける秋の夜の月
十題百首
 二三 かきくらすのきばの空に数みえてながめもあへずおつるしら雪
 二四 うつ波の間なく時なき玉かしはたまたま見ればあかぬ色かも
 二五 屋戸ごとに心ぞみゆるまとゐする花のみやこの弥生きさらぎ
 二六 風立ちて沢べに駈けるはやぶさのはやくも秋のけしきなるかな
 二七 夕立のくもまの日影はれそめて山のこなたをわたる白鷺
 二八 人とはぬ冬の山路のさびしさよ垣根のそばにしとと下りゐて
無常歌一首
 二九 たまゆらの露も涕もとどまらず亡き人恋ふる屋戸のあきかぜ
六百番歌合
 三〇 かすみあへずなほ降る雪に空とぢて春ものふかき埋火のもと
 三一 くりかへし春のいとゆふいくよ経ておなじ緑の空に見ゆらむ
 三二 木のもとは日数ばかりを匂にて花ものこらぬ春のふるさと
 三三 時わかぬ波さへ色にいづみ川ははその杜にあらしふくらし
 三四 年も経ぬいのるちぎりは初瀬山をのへの鐘のよそのゆふぐれ
 三五 風つらき本疎の小萩袖に見てふけゆく夜半におもる白露
韻歌百二十八首
 三六 ゆきなやむ牛のあゆみに立つちりの風さへあつき夏の小車
 三七 旅人の袖吹き返すあきかぜに夕日さびしき山の梯
 三八 面影のひかふるかたにかへりみる都の山は月繊くして
 三九 もろともにめぐりあひける旅まくら涕ぞそそぐ春のさかづき
仁和寺宮五十首
 四〇 大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月
 四一 霜まよふ空にしをれし雁がねのかへるつばさに春雨ぞ降る
 四二 春の夜の夢のうきはしとだえして峯にわかるるよこ雲の空
 四三 夕暮はいづれの雲のなごりとてはなたちばなに風の吹くらむ
 四四 こと問へよ思ひおき津の浜ちどりなくなくいでし跡の月かげ
後鳥羽院初度百首
 四五 梅の花にほひをうつす袖のうへにのきもる月のかげぞあらそふ
 四六 おのづからそこともしらぬ月は見つ暮れなばなげの花をたのみて
 四七 駒とめて袖うちはらふ陰もなしさののわたりの雪のゆふぐれ
千五百番歌合
 四八 ひさかたの中なる川のうかひ舟いかに契りて闇を待つらむ
 四九 ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に霜置きまよふ床の月かげ
 五〇 消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の下露
 五一 たづねみるつらき心のおくの海よ潮干の潟のいふかひもなし
水無瀬殿恋十五首歌合 最勝四天王院名所障子歌
 五二 しらたへの袖のわかれに露おちて身にしむ色のあきかぜぞ吹く
 五三 泉川かは波きよくさす棹のうたかた夏をおのれ消ちつつ
 五四 大淀の浦に刈り干すみるめだに霞に絶えてかへるかりがね
内裏詩歌合 後仁和寺宮花鳥
 五五 名取川春の日数はあらはれて花にぞしづむせぜのうもれ木
 五六 名もしるし峯のあらしも雪とふる山さくら戸のあけぼのの空
 五七 真木の戸をたたく水鶏のあけぼのに人やあやめの軒のうつり香
内裏名所百首
 五八 をぐら山秋のあはれやのこらまし牡鹿のつまのつれなからずば
 五九 いこま山あらしも秋の色にふく手染の糸のよるぞかなしき
仙洞百首 内裏歌合
 六〇 さゆりばのしられぬ恋もあるものを身よりあまりて行く蛍かな
 六一 いとどしく降りそふ雪に谿ふかみしられぬ松のうづもれぬらむ
 六二 夜もすがら月にうれへて哭をぞなく命にむかふ物思ふとて
 六三 こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
庚申五首 恋十首 三宮十五首
 六四 山の端の月まつ空のにほふより花にそむくる春のともし火
 六五 小倉山しぐるるころの朝な朝な昨日はうすき四方のもみぢ葉
 六六 こひ死なぬ身のおこたりぞ年へぬる有らば逢ふよの心づよさに
 六七 たれもこのあはれみじかき玉の緒にみだれて物を思はずもがな
 六八 神無月くれやすき日の色なれば霜の下葉に風もたまらず
韻字四季歌
 六九 おのづから秋のあはれを身につけて帰る小坂の夕暮の歌
 七〇 おもひいづる雪ふる年よ己のみ玉きはるよの憂きに堪へたる
 七一 白妙のいろはひとつに身に沁めど雪月花のをりふしは見つ
文集百首 仁和寺宮五十首
 七二 風のうへに星のひかりは冴えながらわざとも降らぬ霰をぞ聞く
 七三 しるや月やど占め初むる老いらくのわが山の端の影や幾夜と
 七四 みどりごをありふるままの友とみて馴れしはうとき夕ぐれの空
 七五 つくづくと明けゆく窓のともし火の有りやとばかりとふ人もなし
日吉社歌合 四季題百首
 七六 雁がねの鳴きてもいはむ方ぞなき昔のつらの今のゆふぐれ
 七七 わがこころ弥生ののちの月の名に白き垣根のはなざかりかな
 七八 冴えくらす都は雪もまじらねど山の端しろきゆふぐれの雨
関白左大臣家百首
 七九 にほふより春は暮れゆく山吹の花こそはなのなかにつらけれ
 八〇 吹きはらふ紅葉のうへの霧はれて峯たしかなるあらし山かな

抄出附言

定家和歌索引



安東次男 藤原定家 02



◆本書より◆


「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ」より:

「この歌には、古来たくさんの註解がある。あるいは、花も紅葉もない眺だからかえって言うに言われぬ景気があると説き、あるいは、この浦の秋夕の眺には花も紅葉もいらぬと言い、または花も紅葉もなくて淋しいと説くなど、埒もないことを争っているが、無益なことを言うものだ。この歌が道理の歌であり、風情を言うならこれ一首だけでは不充分だ、と見抜いた茶匠たちの目のほかには、とくに説くべきこともない歌である。」


「大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月」より:

「仁和寺宮五十首、春十二首。建久九年夏、三十七歳の詠。建久九年といえば後鳥羽天皇譲位の年にあたり、院が和歌に熱意を見せはじめるのは翌々年の正治二年以降である。建久末年ごろは、宮中での歌合など催された形跡はまったくない。当然、この時期の定家の作歌はもっぱら良経第歌会を中心にしたものであって、新古今時代の幕あきを目前に控えての沈潜・修練の時期であったと言ってよいが、そういう時期に詠まれた仁和寺宮五十首のなかから、のちの新古今集に撰入された歌が、頭書の歌を含めてじつに六首もある。これは注目されてよいだろう。言うところの仁和寺宮は後白河の第二皇子守覚法親王、俊成の歌風を好み、長秋詠藻は法親王の召によって献ぜられたものである。
 一首はおなじく新古今集春の部に、「文集嘉陵春夜詩、明ラカナラ不暗カラ不朧々ノ月といへることをよみ侍る」として撰入する大江千里の歌、「照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」(中略)を本歌とし、これは頓阿の井蛙抄(せいあしょう)以下にも註している。愚問賢註には、「本歌の心になりかへりて、しかも本歌をへつらはずして、あたらしき心をよめる体」とし、東野州聞書に「不明不暗の朧月に向ひて感情(かんせい)無極に、朧月夜にしく物ぞなき、と心にうかぶをたねとして、梅のにほひにかすみつつとまうけられしと侍り」と言っている。抄書は、「本歌をとる手本の歌とぞ。ただの霞ならば、月のくもりはつべけれども、梅のにほひの霞なれば、うすく曇りておもしろき月のさま也」とやや具体的である。
 千里が句題とした白楽天の七言「嘉陵ノ夜懷有リ」は、「明ラカナラ不、暗カラ不朧々ノ月、暖カキニ非ズ寒キニ非ズ慢々ノ風、独リ空牀ニ臥シテ天気好シ、平明間事心中ニ到ル」とあり、定家の歌は、千里が汲みえなかった原詩の心を捉えた工夫、と読んで面白い。いずれにせよ、視覚や触覚ではなく嗅覚によって、一瞬、朧夜の醒不醒の間を感得したところが歌の新しみであり、作者は、匂を朧そのものと感じたからこそ、月を「くもりもはてぬ」と見ているのである。これを「梅のにほひ、かけ合たる詞なき故にはたらかず。此句をのぞきて、ただかすみつつにても聞ゆなればなり」(本居宣長、美濃の家苞)というように読むと、本歌を取る意味はなくなってしまう。」
























































『藤原定家歌集 附 年譜』 佐佐木信綱 校訂 (岩波文庫)

「しばしとて出でにし庭もあれにけり蓬の枯葉すみれまじりに」
(藤原定家 「閑居百首」 より)


『藤原定家歌集 
附 年譜』 
佐佐木信綱 校訂
 
岩波文庫 黄/30-102-1

岩波書店
1931年5月5日 第1刷発行
1999年2月5日 第7刷発行
357p
文庫判 並装 カバー
定価700円+税



本書「附言」より:

「藤原定家は、歌人として一代の名家であるから、早くから、岩波文庫のうちにその集を收めたいと思つてゐたが、流布の六家集本はここかしこに誤があるので、躊躇して居つた。然るに、近く、宇治山田市の舊家來田親明君の藏本を借覽するを得たので、それを底本とし、その疑はしいところは、家藏の傳正徹自筆本(上卷を缺いた二冊本)竝に、細川幽齋の手澤本で烏丸家を經へ中山家に傳はつた寫本(四冊本)を參照して、刊行することにした。」



藤原定家歌集 01


カバーそで文:

「新古今」の代表歌人として一時代を画し、中世和歌のみならず日本詩歌史上に不滅の足跡を遺した藤原定家の歌集。年譜を付す。」


目次:

拾遺愚草 上 (百首歌)
 初學百首
 二見浦百首
 皇后宮太輔百首
 閑居百首
 早卒百首
 後早卒百首
 花月百首
 十題百首
 歌合百首
 院初度百首
 院再度百首
 内大臣家百首
 内裏百首
 應制百首
 左大臣家百首

拾遺愚草 中
 韻歌百廿八首
 仁和寺宮五十首
 院五十首
 院句題五十首
 女御入内御屏風歌
 入道九十賀算屏風歌
 最勝四天王院名所御障子歌
 院二十首
 詠花鳥和歌
 仁和寺宮五十首
 權大納言家三十首
 女御入内御屏風和歌

拾遺愚草 下 (部類歌)
 春
 夏
 秋
 冬
 賀
 戀
 旅
 述懷
 無常
 神祇
 釋教
 
員外雜歌
 一字百首
 一句百首
 伊呂波四十七首
 同 二度
 文字鋂歌廿首
 秋は猶の歌
 今こむとの歌
 十五首歌
 南無妙法の歌
 文集百首
 四季題百首
 韻字四季歌
 堀河院題百首
 藤川百首

 來田本奧書

附 定家年譜 (佐佐木信綱 編)
定家歌集附言 (佐佐木信綱)



藤原定家歌集 02



◆本書より◆


「詠四十七首和歌(伊呂波四十七首)」より:

     春十首
いつしかとかすめる空の氣色かなたゞ夜の程の春のあけぼの
樓の上のあきののぞみは月のほど春は千里の日ぐらしのそら
春來ても谷のこほりはまだ解けずさは思ひわく鳥の音もがな
匂ひ來ぬまたこの宿のうめの花人あくがらすはるのあけくれ
ほのぼのとかすめる山の嶺つゞき同じきゞすのこゑぞ恨むる
へて見ばや瀧の白糸いはこえて花ちりまじるはるのやまざと
ときはなるみどりの松の一入はにほはぬ花のにほひなりけり
散りまがふ花に山路は埋れぬたれかき分けてけさをとふらむ
龍門のたきにふりこし雪ばかり雨にまがひてちるさくらかな
脱ぎかへむあすの衣の色もをしいたくは馴れじ花のにほひに
     夏十首
るりの地に夏のいろをばかへてけり山のみどりをうつす池水
をの山やまだ冬ごもる雪とみてうの花分くるたにのほそみち
忘られぬこぞの古聲こひこひて猶めづらしきほとゝぎすかな
かざしもて賴をかくるあふひ草てる日のかげに幾世なるらむ
寄せかへる波のひゞきに秋かけて夏はかよはぬいそのまつ風
れいよりも今夜涼しきあらしかな秋まつかげの山の井のみづ
袖かろき蝉のはごろもなれなれて秋のはつかぜ立ち別れなむ
つもりける夏の日かずをいとひつゝおもへば年の半すぎぬる
寢ぬにのみあけし夜頃のはかなさもたゞけふはつる水無月の暮
     秋十首
何となくものぞ悲しき秋風のやどかりそむるにはのおぎはら
らいしおかむたゞ秋萩の一枝もほとけのたねは結ぶとぞ聞く
むらさきの露に匂へる花よりも色むつまじきをみなへしかな
うづら鳴くまくずが原のつゆわけて袖にくだくる秋の夕ぐれ
ゐな山の山のしづくも色づきてしぐれも待たず更くる秋かな
後にまた誰か來て見む谷川やむすぶしづくにもみぢちるやま
をりごとに哀もよほすまがきかな秋のすゑ葉のきくの白つゆ
くれにけりをしむかひなく行く秋もまだ見ぬ程の長つきの月
やきに燒く秋のいり日のこずゑかな夕くれなゐを分くる山風
または見じ秋をかぎりの立田山もみぢの上にしぐれふるころ
     冬十首
けぶりさへ目に立つけさの住居かなこずゑあらはにはるゝ山里
冬來ぬとつげの枕のしたさえてまづ霜こほるうたゝねのそで
越の山またこの頃のいかならむなべての嶺にそゝぐはつゆき
江の南わか葉の草もみどりにて春のかげなるかみなづきかな
寺々におなじくひゞく鐘のおとにことしも冬の先づ聞ゆらむ
跡たえて落ちしこのはに雪ふりぬ誰ばかりはと待つ人もなし
さほ河のせゞの岩波ふみしだきこほりにふくるさ夜千鳥かな
雉子なくかりばの雪にかりねせむうだのふし柴しばし宿かせ
雪おもる松のひゞきを友として山路もふゆもふかきやどかな
めぐりあふほどなきけふは數多へぬさて幾年を迎ふべき身ぞ
     戀七首
水莖のはかなき跡をしるべにてけふせきかぬる袖のしがらみ
しきたへの枕の下にみなぎりてやがてもくたすなみだ川かな
ゑにかける鳥ともさらにみなれじな羽をならぶる契ならねば
久しくもなりにけるかな假初と契りしまゝの世のはかなさは
諸共にしぼる涙のいろなれてたれかおくるゝそでもくたさむ
せめて思ふ今ひとたびのあふ事は渡らむ河やちぎりなるべき
捨てやらずなほ立ち歸るこゝろまで思へばつらき世々の契を















































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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