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『日本の名著 10 世阿弥』  責任編集: 山崎正和

「世阿弥がつくったといわれる「夢幻能」のなかに、われわれは彼が人間というものをどう見ていたかを知ることができる。ひとりの人間はひとりではなく、つねにひとりの村娘は幻の貴婦人の化身である可能性を含んでいた。人間の存在はいわば二重になっていて、その生命はむしろひとつの姿から他の姿に変わるときにこそ高まるのである。」
(山崎正和 「変身の美学」 より)


『日本の名著 
10 
世阿弥』 

責任編集: 山崎正和


中央公論社 
昭和44年10月1日 初版印刷
昭和44年10月10日 初版発行
478p 口絵(カラー)1葉
17.6×12.8cm 
丸背バクラム装上製本 貼函
本体ビニールカバー
函プラカバー
定価650円
装幀: 中林洋子

付録 5 (12p):
対談 世阿弥と現代文化(芥川比呂志・山崎正和)/執筆者紹介/読書案内/次回(第6回)配本/図版(モノクロ)6点



本書「解説付記」より:

「能作品を除いて、世阿弥の著作と信ぜられるものは、これまで二十一部確認されている。本書には、このうち芸術論としてとくに内容が深く、著者の思想を代表すると思われる『風姿花伝』『花鏡』『至花道』『三道』『遊楽習道風見』『九位』『拾玉得花』『習道書』、ならびに次男元能の筆録による『世子六十以後申楽談儀』を選んでおさめた。なお世阿弥自身の文体をしのぶよすがとして、付載として追悼文『夢跡一紙』と金春禅竹への書状二通をあわせ入れた。」
「翻訳は語学的な忠実さよりも、世阿弥の思想を「現代語化」することに重点を置き、大胆なパラフレーズを行ない、いわゆる訳注も本文中に融かしこむように努力した。訳文はそれぞれの担当者が試訳を作り、それを訳者一同で検討、修補する方法をとった。」



「日本の名著」シリーズ第5回配本。二段組。図版(モノクロ)多数。
現代語訳と解説。でてきたのでよんでみました。



世阿弥 日本の名著 01



帯文:

「世界に日本を代表する芸術思想は世阿弥の理論書の中にいきいきと躍動している。六百年間、能の世界に伝えられた彼の思索は、芸術ばかりでなく現代の哲学・思想に示唆するところ大きい。劇作家・演戯者・学者の協力によるユニークな現代語訳によりその思想を今日の視点から再評価する。」


目次:

変身の美学――世阿弥の芸術論 (山崎正和)
 世阿弥との邂逅
 芸術家の運命――宗教と政治のあいだで
 演戯する人間の自由(1)――演戯者と観客
 演戯する人間の自由(2)――演戯者と実存

演戯者から見た世阿弥の習道論 (観世寿夫)
 世阿弥の生きかた
 習道論

解説付記
 作品選定の基準
 翻訳の方法と凡例
 編集の基本姿勢

風姿花伝 (観世寿夫 訳)
 序
 第一 年来稽古
 第二 物学
 第三 問答
 第四 神儀
 第五 奥義
 第六 花修
 第七 別紙口伝

花鏡 (山崎正和 訳)
 一調・二機・三声
 動十分心、動七分身
 強身動宥足踏、強足踏宥身動
 先聞後見
 まず能くその物に成り、さて能くその態を似せよ
 舞は声を根となす
 時節感に当たること
 序・破・急のこと
 習道を知ること
 上手の感を知ること
 浅深のこと
 幽玄の堺に入ること
 劫の入る用心のこと
 万能を一心につなぐこと
 妙所のこと
 比判のこと
 音習道のこと
 奥の段

至花道 (観世寿夫 訳)
 二曲三体のこと
 無主風のこと
 闌けたる位のこと
 皮・肉・骨のこと
 体・用のこと

遊楽習道風見 (山崎正和 訳)

九位 (山崎正和 訳)
 九位の注
 九位習道の次第

拾玉得花 (山崎正和 訳)

三道(能作書)  (山崎正和 訳)
 能作書
 三体作書 その他

習道書  (山崎正和 訳)

申楽談儀 (西野春雄 訳)
 序
  舞台芸術としての能
  一忠
  喜阿弥
  増阿弥
  犬王道阿弥
  観阿弥
  世阿弥
 一 演能のきまり
 二 能の風情
 三 能の「物まね」
 四 「どっ」という芸位
 五 声のこと
 六 音曲のこと
 七 祝言の音曲
 八 曲舞の音曲
 九 音曲の「かかり」
 一〇 文字なまり・節なまり
 一一 拍子のこと
 一二 謡の技法のさまざま
 一三 謡の面から見た芸位
 一四 能の作りかた その一
 一五 能の作りかた その二
 一六 能の作りかた その三
 一七 勧進能の舞台と翁の演出
 一八 能の装束と道具
 一九 面と姿について
 二〇 笛・狂言の名人
 二一 田舎申楽の芸風
 二二 すぐれた面の由緒
 二三 申楽の諸座
 二四 世阿弥と霊夢
 二五 田楽の起源
 二六 松囃子のこと
 二七 薪能のこと
 二八 永享元年の興福寺能
 二九 能役者のたしなみ
 三〇 後継者の育成
 三一 神事奉仕のこと
 付載 観世座規約
 奥書
 補遺
 〔別本聞書〕
  扇落しの型
  謡の文字扱いについて
  声の律呂について
  天女の舞について
  先人たちの短所について

夢跡一紙・書状 (原文)
 夢跡一紙
 きやよりの書状
 佐渡よりの書状

能への招待 (増田正造)
 はじめに
 能の流れ
 能の構成と種類
 能の舞・謡・囃子
 能の舞台表現
  能の舞台
  能の面
  能の扮装
  能の作り物と空間処理
  能の表現
 能の組織と修業
 能と狂言
 能の作品展望
  女
  老人
  直面
  物狂い
  法師
  修羅
  神
  鬼
  唐事

年譜




世阿弥 日本の名著 02



◆本書より◆


「変身の美学」(山崎正和)より:

「祭の日のあの狂おしい気分のなかには、いまもなお神聖な感情と極端に猥雑(わいざつ)な感情とが混然となっている。そのふたつは混りあうとひとを狂おしくさせるのであって、おそらく遠い昔、人間がタブーというものに触れた複雑な感情の名残りなのである。(中略)しかし文明は、そのふたつの感情をふたつに切り離して、巧妙に日常の理性に服従させようと試みたといえる。純粋に神聖なものも純粋に穢れたものも、それだけなら人間の日常的理性をけっして混乱させない。神聖な感情は理性の上に(引用者注:「上に」に傍点)、猥雑な感情は理性の下に(引用者注:「下に」に傍点)、われわれは整然と位置づけて安心することができるからである。(中略)中世の文明は、この理性の狡智(こうち)を社会的なかたちで実現した。すなわち宗教と芸能をふたつに割って、一群の聖職者は「良民」の上に(引用者注:「上に」に傍点)、無数の賤民遊芸人はその下に(引用者注:「下に」に傍点)閉(し)め出して位置づけたのである。」
「彼らは良民の日常理性の世界から明確に閉め出されながら、しかも古代人のように宗教的呪縛の強烈な力を持つことも許されなかった。(中略)宗教と芸能が二分されたときから、いわば狂的な感情にたいする日常理性の防禦は完璧であったといってもよい。両者はただ思い出したように結びついて、飼いならされた狂気を一瞬だけ日常から解放することができたにすぎない。そうでないときの宗教はむしろ日常化されて、生活者の世界の健全な一部をなしていた。もはや芸能は古代人の呪術とはちがって、日常世界のそとに広がる独自の世界を代表することはできなかった。遊芸者はあたかも修験者のように日常世界をはみ出しながら、しかし彼には精神的にも現実的にも、たとえば羽黒や熊野の山嶽というものは存在しなかったのである。
 観客のまえに立つ中世の役者は、したがって近代の個人よりもさらに孤独であったといえるだろう。冷酷な「他人」というものを発見するのに、彼には恐ろしいほど露骨な手がかりがあたえられていたからである。眼のまえには日常理性に従って生きる良民の世界があり、彼はそれとかかわるために理性的な言葉の助けを借りることはできなかった。しかも、もはや宗教的に聖なるものの助けもなしに、芸能はいかにしてそれら良民たちの健全なる魂を呪縛することができるのか――。「乞食の所行」として社会的にさげすまれることよりも、彼らの心を重くとらえていたのはむしろこの問題であっただろう。」

「ひとは狎(な)れ親しんだものによっては統治されず、自分が完全に理解しえたものによっては呪縛されない。統治者の内部に一見統治とは無縁な孤独への志向があって、はじめて彼はひとびとを有効に指導することができるのである。」

「そうしたさまざまの外的な理由によって結びついたうえで、やがて義満と観世親子はひそかにもう少し屈折した関係を結んでいったのではないだろうか。この政治的支配者と社会的なアウトサイダーとは、それぞれ民衆からの孤立者として、たがいの内面にふしぎな同質性を発見しあったにちがいないからである。」

「「此比(このころ)の稽古には、ただ、指を指(さ)して人に笑はるゝとも、それをばかへりみず、内にては、声の届(とず)かんずる調子にて、宵暁(よいあかつき)の声を使ひ、心中には、願力を起して、一期(ご)の堺こゝなりと、生涯にかけて、能を捨てぬより外は稽古あるべからず」(このころの稽古は、もし他人に嘲笑されるようなことがあっても、そんなことは気にかけず、声の出しうる範囲の音程で、朝と言わず夜といわず、たゆまず稽古し、能の演戯者としての生涯の分かれ目はここだと自覚し、強い信念を持って、能から離れないようにしている以外、稽古の方法はない)
 十七、八歳から二十歳ごろまでの稽古について、世阿弥は『風姿花伝』「第一 年来稽古」のなかにこのように書いている。(中略)驚くべきことだが、ここには自己の存在をまず第一に「醜悪」として自覚した青春が記録されているのである。(中略)世阿弥にとって自己とはむしろ一種の不自然なのであり、意識して恢復(かいふく)しなければならない異様な欠如態にほかならない。
 現に世阿弥は、少年の自然な美しさを「時分の花」と呼び、それが失われたのちに恢復される壮年の美を「まことの花」と呼んでいる。すなわち、彼の青春はふたつの「花」にはさまれた空隙にすぎないのであって、そこにめざめる自己はいわば二重の喪失状態として自覚されるのである。「時分の花」はすでに去り、「まことの花」はまだ訪れて来ない。」

「それは本来の姿において、現実世界のなかで不適応として自覚される自己であった。世阿弥は良民社会から閉め出された卑賤なる芸人にすぎず、しかも少年の美しさを喪った醜悪な肉体とともに自己を発見した。(中略)不適応の状態があれば近代的自我はそれを解消し、現実世界をみずからの手で支配して生きようとする。不適合は近代人にとって偶然の椿事(ちんじ)にほかならず、彼は現実に祝福されて生きることが自己の本来の姿だと信じているからである。けれども、世阿弥の演戯する自己はそのような楽天的な自己ではない。むしろ不適応そのものを人間本来の現実と認め、積極的にそれをみずからの足場として生きる自己であった。いわば、演戯者の存在は現実世界のなかに投げこまれた「異物」なのであり、したがって彼は絶えずなにものかに扮装し、自分以外のなにものかに姿を変えて生きる宿命を負わされているのである。」

「私の知るかぎり、世阿弥が求めたような自由のありかたを、少なくとも示唆した現代の思想家はただひとりしかいない。(中略)ドイツの現象学者オスカー・ベッカー(一八八九~ )が、一九二九年に『美のはかなさと芸術家の冒険性』という短い論文を発表した。そこに現われた「被担性」(Getragenheit)という耳慣れない観念が、私にはたぶん世阿弥の「離見の見」に近い内容を持つ唯一のものであるように思われる。それは「決意」し「企て」る実存的自由が、にもかかわらず絶対に及ばない限界のかなたにかかわっている。」
「いっさいの不確実なものを許さないはずの実存哲学だが、われわれはそれがひとつの不確実な前提を残しているのを認めないわけにはいかない。すなわち人間は行動を起こすまえに、行動の全貌について少なくとも明確なイメージを持ちうるという前提である。たとえ行動の結果には失敗するにしても、実存主義者は自分の行動目標を事前に思い浮かべることができると考えている。(中略)だが芸術の場合にとりわけ明らかなように、われわれは行動を起こしてはじめて自分がなにを企てていたかを知る場合がある。(中略)そのとき達成される行動の質は行動を始めるまえにはおよそ想像することもできないだろう。」
「ベッカーはこの状態をとくに芸術活動の特質と認めて、それを「運ばれていること」、すなわち「被担性」と命名した。実存哲学によれば人間は現実のなかに「投げ出され」(被投性)、そして「企てる」(投企)のであるが、「被担性」はそれに並ぶ人間のもうひとつのありかただとされた。そしてそれは人間に「企てること」とは別種の自由をあたえるのであって、その幸運をベッカーはシェリング(中略)の言葉をかりて、「自然の自由な恩寵」と名づけている。
 ベッカーによればこの「運ばれ」た状態は、「古典時代の人たちが考えていた無重力状態での星の特異な運行」に似ているという。芸術家はこの状態のなかでのみ作品を「完結」しうるのであって、およそ彼は「この作品を『決断して』創ったのではない」「もしかしたら彼が『自然の自由な恩寵』をこうむるについては、はじめは極端な決断があずかって大いに力があったかもしれない。しかし、決して彼が自分の決断で自然を強制して取入れたのではなく、逆に自然が彼にむかって自由に身をゆだねたのである」「自然は、このように彼に身をゆだねることによって、彼を『担った』し、彼は担われて(引用者注:「担われて」に傍点)『自分の』作品の完結を体験した」しかしいうまでもなく、芸術家は「担われること」によってけっして放心状態におちいるわけではない。「自然の自由な恩寵」に恵まれながら、しかし実存としての自己を完全に失うわけではない。すなわち「芸術家が自分の作品を創造し完結させるのと、夢の踊り子が踊るのとでは、まるでやりかたがちがう。あとの場合は、夢遊病の女と同じことで、無意識である。なるほど、芸術家の天才の的確さには、何か『夢遊病的なもの』があるにはある。しかし、天才の天才たるゆえんは、まさに『目を醒(さ)まして』いて、比類のない明るさで照らしつくすところにある。とは言っても、ただ『目を醒まして』いて、『しらふ』だというだけのことではなく、『神的』狂気(マニア)に駆られているのである」(久野昭訳『美のはかなさと芸術家の冒険性』理想社)
「真の芸術家とは、傑作を成就する(引用者注:「成就する」に傍点)者である。『成就すること』(gelingen)は『できること』(können)以上のことである。――また、ある意味では、以下のことでもある。たとえ『できること』に絶対の自信を持っていても、断じてそれを『成就すること』という問題と取り換えることはできない」(ベッカー、前掲書)」

「世阿弥がつくったといわれる「夢幻能」のなかに、われわれは彼が人間というものをどう見ていたかを知ることができる。ひとりの人間はひとりではなく、つねにひとりの村娘は幻の貴婦人の化身である可能性を含んでいた。人間の存在はいわば二重になっていて、その生命はむしろひとつの姿から他の姿に変わるときにこそ高まるのである。世阿弥はこうした人間観を、役者としての自分の生活感情のなかから紡ぎ出したのにちがいない。われわれは世阿弥のなかから現代につうじる無数の思想を汲みとることができるのだが、しかしなにより汲みとらねばならないのは、現代にはもはやないこのふしぎな人間観かもしれないのである。」



「風姿花伝」「第二 物学」より:

「物狂い

 物狂(ものぐる)いは、能の中で、もっとも面白さの限りをつくした芸能である。一概に物狂いといっても、その中にさまざまな種類があるから、この物狂いを全般にわたって修得した演者は、あらゆる面をつうじて、幅の広い演戯を身につけられるであろう。その意味でも何度もくりかえし稽古を重ね研究すべき役柄である。」

「だいたい、物狂いの扮装については、その役に似合ったようにすることは、いうまでもない。しかし、常の人と異なった精神状態の物狂いであるという意味で、時によっては、実際よりも派手な扮装にすべきである。また、その曲に合った季節の花の枝を持って舞ったり、飾りとして挿したりするのもよいであろう。」

「鬼

 これは、特に大和(やまと)申楽(大和に生まれた申楽で、現在の観世・宝生・金春・金剛の各流の前身である。世阿弥ももちろん大和申楽である)の伝統的な芸能で、表看板である。しかも、非常にむずかしいものである。」

「まず、鬼というものは、本来、強く恐ろしいものである。この強く恐ろしいということは、面白いと感じるものとは相反する要素である。」

「このように、一筋縄ではいかない鬼の能を演じて、面白いところがあったとしたならば、その演者はあらゆる能をきわめつくした上手というべきであろう。」

「ただ、鬼の能の面白さというものを考えてみると、それは巌(いわお)に花が咲いたような不思議な美しさであろう。」



「風姿花伝」「第四 神儀」より:

「古代日本

 日本においては、欽明(きんめい)天皇の御代に、大和国泊瀬(はつせ)川に洪水があったとき、川上からひとつの壺が流れてきた。その壺を三輪の明神の杉の鳥居のあたりで殿上人が拾いあげた。その中に嬰児がいた。その子はみめかたちが柔和で、玉のように美しかった。これはたぶん天から降ってきたのだろうというので、宮中へ申しあげた。その夜、天皇の夢にその子が現われて、「私は、中国の秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の生まれかわりで、日本国に縁があって、今あなたの目の前にいるのだ」といった。天皇は不思議なことだと思われて、宮中に召された。この子は、成人するにしたがい、才知が抜群で、十五歳のときには、大臣の位にのぼり、秦という苗字(みょうじ)を賜わった。秦という文字は秦(はた)とよむから、秦河勝(はたのこうかつ)がその人である。
 聖徳太子は、天下に少し乱れのあったときに、神代やインドにおける吉例にしたがって、六十六番の芸能を演じるように秦河勝に命じられ、また御自分で六十六番の面を作られて、それを河勝にあたえられた。河勝は橘の内裏の紫宸殿(ししんでん)において、この六十六番の芸能を演じた。するとまもなく、天下が治まって国土が平穏になった。そこで聖徳太子は、後世のために、元来は神楽(かぐら)であったのを、神という字の偏(へん)をとりのけ、旁(つくり)ばかりを残された。これはすなわち十二支の申(さる)という字であるから、この芸能を申楽(さるがく)と名づけた。これは、つまり「楽しみを申す」という意味でもあり、また前記のごとく、神楽の神の偏と旁を分けて作った名称なのだ。
 その秦河勝は、欽明(きんめい)・敏達(びたつ)・用明(ようめい)・崇峻(すしゅん)・推古(すいこ)・聖徳太子といった代々に仕えた。この申楽の芸を子孫に伝え、自身は「仏や神の化身など、変化の者は、跡を残さない」という習わしのとおり、摂津国難波の浦(今の大阪付近)から、木をくりぬいて作った舟に乗って風のまにまに海に流され、播磨国坂越(しゃくし)の浦(今の瀬戸内海、赤穂の東の港)に着いた。村人が引き上げてみると、姿かたちが人間と変わった者が乗っていた。それがその地方のあらゆる人に祟(たた)りをして、ふしぎな現象をおこす。そこで、これを恐れて神として祭ると、その地方は豊かになった。この神をおおいに荒れる神と書いて大荒(たいこう)大明神と名づけた。現在でも霊験があらたかな神で、その本体は、毗沙門天王(びしゃもんてんのう)である。聖徳太子が、逆臣の物部守屋(もののべのもりや)を平定されたときも、この秦河勝の神通力によって、守屋は討たれたということである。」



「花鏡」より:

「観客からの批評で、ときどき「なにもしないところが面白い」などといわれることがある。これこそ能の演者が深く秘する内心の工夫による効果である。
 舞や歌をはじめとして、しぐさや役柄の演戯の各種はすべて肉体によって演ずる技芸である。これにたいして「なにもしないところ」というのは、肉体的な技芸のあいだに生じる間隙にほかならない。この「なにもしないところ」がなぜ面白いのかと考えて見ると、それはつまり、技芸と技芸を油断なくつないでいる心のもっとも深い部分の緊張によるのである。舞を舞いやめた間隙、謡(うたい)を謡いやめた間隙、そのほか、せりふやしぐさなどいっさいの技芸の休止部に、つねに配慮を捨てず、緊張を持続する意識の奥底の充実がある。この意識の奥底にある充実感が、おのずと外ににじみ出て観客に面白いと思わせるのである。
 このようなしだいではあるけれども、しかしこの意識の奥底の充実は、演者によってそれが保持されていると外にはっきりと見えてはいけないであろう。もしその緊張があからさまに見えてしまえば、それはすでにひとつの技芸にほかならず、もはや技芸を「しない」ことの面白さではありえない。したがって、演者はみずから無心無我の境地にはいり、自分の配慮を自分でも意識しないほど深く演戯に集中し、その集中力によって技芸の間隙の前後をつなぐようにするべきである。このような、いわば意識を超えた意識の集中が、すなわち、ひとつの能のなかですべての技芸を一貫して統一する心の緊張の力なのである。」

「最後に、内面性に徹していっさいの感覚的効果を超越した魅力によって成功する能というものがある。というのは、最高の上手の演能のなかには、あらゆる演目を習得したのちに、舞も謡もしぐさも筋の面白さも、たいしてない能を演じながら、もの寂(さ)びたなかにどことなくひとの心をうつ魅力があるものである。こういう演能を、また「冷えたる曲」とも呼んでいる。(中略)これを、感覚的効果を超越した魅力によって成功する能ともいい、また、技巧に対する意識的な配慮を超越した能〈無心の能〉ともいい、さらにまた、外面的なかたちの美を超越した能〈無文の能〉とも呼ぶしだいである。」



「遊楽習道風見」より:

「『論語』に「あるとき子貢が、私はものに譬えればなににあたるでしょうかと訊ねると、孔子が、おまえは器であると答えた」という一節がある。孔安国の解釈によれば、それは「おまえは器用な人間だ」という意味であるといわれる。さらに子貢が、どういう器でしょうかと訊ねると、孔子は、瑚璉(これん)であると答えたという。包咸の注釈によると、瑚璉というのは宗廟(そうびょう)の儀式に供物を盛って供える貴い器であるといわれる。
 ところで、この器の譬えをわれわれの能の場合にあてはめて考えてみると、まず、舞と歌の二つの基礎技術と、老人・女性・武人の三つの基本役柄にはじまり、やがてその応用としてあらゆる演目をこなす芸域の広い達人が、すなわち器用の人だといえるだろう。能のさまざまな役柄につうじており、幅の広い芸風を一身に兼ね備えている力量が、器用ということなのである。すなわち二つの基礎技術、三つの基本役柄で習得された視覚美と聴覚美が、あらゆる演目に応用されて魅力を発揮し、どの場合にも尽きることのない芸術的効果をあげるとき、これを芸能における器(才能)というのである。
 またこれを、仏教でいう「有」と「無」の対概念にあてはめて考えてみると、いわゆる「有」は眼に見える現象として外に現われた演戯の効果であり、あらゆる現象の根底にあると考えられる根源的な「無」が、この場合、芸能の器に相当すると考えられる。そうして、あらゆる現象形態を生み出し、眼に見えるものとして現われさせているものは根源的な「無」である。たとえば水晶というものは完全な透明体であって、それ自体は色も文様も持たない空虚な物体であるが、そのなかから火を生じ水を生じるようなものである。火と水という性質のまった異なったものが、無色の透明体から生まれるというのは、いったいいかなる因縁によるものであろうか。ある歌に「桜木はくだきて見れば花もなし花こそ春の空に咲きけれ」といわれている。まことにうまくいいあてた歌であって、能においてさまざまに異なった演目の花を咲かせる種となるものは、ただひとつ、演者の全身を貫く心の内面的な緊張である。たんに透明体にすぎない水晶が火や水を生み、花の色とは無関係な性質を持った桜の木が花や実を生じるように、本来は「無」である心の内面的なはたらきから、さまざまに多彩な演目の舞台効果を生み出す達人こそ、すなわち芸能の器というべきであろう。
 いったい、寿命を延ばすめでたい芸能であるところの能の、その芸のかざりともなる花鳥風月の種類はさまざまにある。ところで、四季おりおりの時節によって、花葉・雪月・山海・草木、その他いっさいの生命あるものやないものを生み出している器は、この自然世界である。そこで、こうした自然の万物を能に趣きを添える素材とし、自分の心を自然世界の産出力そのものに一致させて、そのことによって安んじて大自然にも較(くら)べられる芸道の奥義に定着し、そうして能のいわゆる「妙花」――至上至高の境地にはいることを心がけるべきである。」



「九位」より:

「妙花風の境地

この境地を禅宗で使う譬喩を借りて暗示するならば、つぎのようになるだろう。すなわち「新羅の国では深夜に太陽が明るく輝いているのが見える」
 妙花風(みょうかふう)の「妙」というのは、言語によって表現することができず、いっさいの意識のはたらきを超越した存在のことである。」

「最初に芸能の道にはいって、舞と歌との二大基本をさまざまに稽古している段階が浅文風にあたる。これをよくよく学んで、すでに浅い芸風ながらも美しい素質が現われ、しだいに老子のいう創造的な「道」にはいって行く過程はもはや広精風の境地にあたる。この段階で演目の数を増(ふ)やし、芸風の幅を広げ、創造的な「道」を進んで十分な成果を収めるようになれば、それが正花風である。以上が舞と歌の二大基礎技術から、老人・女性・武人の三つの基本役柄にまで進む段階である。
 そのつぎは、これまで習得された各種の技芸が十分に熟成され、危なげなく安々とこなされるようになった段階であり、芸道の真髄を悟りえたことが演戯のかたちに現われてくるさかいめである。すなわちこれは、それまでに習得された技芸を自覚的にはっきりと把握し、さらに自覚を越えた無意識の安定感の境地に根をおろす段階であって、これが閑花風の境地である。さらにこのうえに、至上至高の幽玄の芸風をなしとげて、「有」がそのまま「無」であるような、自由自在の演戯を見せる芸風が寵深花風である。さらにまたそのうえに、あらゆる批評や説明のことばを絶して、心のなかの構想と演戯の現われとがつねにおのずから一致してしまうような自由な境地が、妙花風なのである。ここまで来て、能の奥義、最高の道は終りである。」



「拾玉得花」より:

「こうした花の品等を説明するにあたって、ここにひとつの私案がある。すなわち花の種類を大きく分けて、性花(しょうか)(本質的で唯一の花)と用花(ようか)(現象的で多様な花)のふたつを立てるのである。」
「禅の公案に「あらゆる現象界の事実はひとつの本質の現われであり、ひとつの本質はつねに現象界の多様な事実としてのみ実在する」といわれている。このように本質的なひとつの花(性花)から出て、芸の品等に応じておのずから面白さの個々の形態が生まれてきたのを、各種の花(用花)と考えるがよい。」

「禅宗の格言に、「完全に悟りきってしまった心境は少しも悟っていない心境と同じである」といわれている。中国宋代の禅僧自得慧暉(じとくえき)和尚もその書物『六牛図』のなかで、「生命は一旦絶たれたのちにふたたびよみがえる。同一の生命が、そのときには多種の身体的現象をとるものだ」と述べており、さらに「真に精練された金は火中にあっても変化せず、白玉は泥中にあってもそのままの姿を保つ」と述べている。能の道もまたそうしたものであって、中級三段階から上級三段階の品等をきわめてしまえば、下級三段階の芸を試みても、その演戯者自身の品格は上級三段階の位置を動くことはないであろう。これは砂のなかの金、泥のなかの蓮花のたとえにもあるとおり、たとえ混じっても染まるということがないはずである。この境地に達した達人をこそ、じつはほんとうの「安位」のひとというべきであろう。こういうひとはいかなる演目を演じていても、自分は自由自在に演じているとさえ意識しないはずであって、その演戯はいっさいの技巧や工夫を超越した状態にはいっている。この境地をこそ、妙花をのり越えた妙花ともいうべきであろうか。」

「能における成就とは、これまで序・破・急ということばで表わしてきた過程にあたるものである。なぜかといえば、「成り就く」ということは事柄がしかるべき経過をたどって一定の結果に落ち着くことだからである。経過をたどって完結するということがなければ、ひとの心に成就したという感情が生まれるはずがない。ひとつの舞台効果がそれとして完結した瞬間が、まさにひとが面白いと感じる瞬間なのである。すなわち、序・破・急の三段階が整然と展開することが成就ということにほかならない。
 よく心して考えてみると、宇宙のあらゆる現象、是非善悪の諸行為、情あるものも情なきものも、ことごとく序・破・急の発展秩序をそなえている。鳥のさえずりや虫の鳴く音にいたるまで、それぞれの秩序・法則をもって鳴くものであって、その秩序というのは序・破・急である〔鳥や虫の鳴く音こそ、あの自然さは位を越え、意識を超えた理想的な成就である〕。」



「習道書」より:

「昔、大和申楽に名生(めいしょう)という笛の名人あった。この人は、数寄者として有名な京極の道誉入道〔佐渡判官ともいう〕でさえ、「能の演戯の間がのびるのはよくないことだが、この名生の笛を聞いていると、時の経(た)つのも忘れてしまう」と感心されたほどの笛の達人であった。
 あるとき、祭に奉納する演能があって、主役の演者と子方の演者とが問答体の謡〈ロンギ〉を謡ったのだが、そのときの基本的な調子は「鸞鏡(らんけい)」調(洋楽のハ調のラとシの中間)であった。ところが年少の役者はまだ声が幼くて、とかく「盤渉(ばんしき)」調(洋楽のハ調のシ)にうわずっていった。しかし主役演者の声は「鸞鏡」調であるから、だんだんとやりとりを重ねてゆくうちに、二人の調子がそろわなくなり、興ざめな上演になりかけたものである。それを名生が笛の調子を本来の「鸞鏡」に吹きながら、いっぽう子方の声のほうをいくらかかげんして「盤渉」調の彩り、他方主役演者のほうは本来の「鸞鏡」調に吹いて、その結果、両者の声の調子に異和感がなくなり、舞台全体の効果もおもしろいものになった。
 ところで、そのように巧妙な演奏をしたとは、一座のだれも気がつかなかったのだが、そのときの主役演者は後に名生に向かって、「きょうの笛の演奏はとくに神業(かみわざ)であった」と賞(ほ)めたものである。そのとき、名生がいうには、「聞き分けていただいたので申すのですが、年とった声と若い声のやりとりの調子を整えるには、ずいぶん工夫をこらしたものです」と答えた。これはつまり、年をとった声と若い声が笛の彩りによって調子の違いを仲介され、全体として傷のない音楽的効果が完結したものである。これこそ昔から「太平の世の声」といわれるものに相当し、いわゆる「心安らかに楽しむ」音楽的表現というものであろう(『申楽談儀』によれば、このときの主役演者は観阿弥であり、問題の子方は世阿弥自身であった)。」



「申楽談儀」より:

「応永十九年(一四一二)の十一月、京都伏見の稲荷神社付近の法性寺(ほうしょうじ)大路にある橘倉(たちばなくら)(質屋か)の亭主が、けががもとで重態になり、危篤におちいったとき、稲荷の明神がその店の召使いの女に憑かれ、観世に法楽能(ほうらくのう)をさせるならば病人は平癒するであろう、との御神託があったというので、わたし(世阿弥)が稲荷の神前で能を奉納した。稲荷明神が憑いた女が言うには、「能は十番舞うがよい。三番を伊勢の天照大神に御覧に入れ、三番を春日大明神に御覧に入れ、三番を八幡大菩薩に御覧に入れ、残る一番をこの私(稲荷明神)が見るであろう」と。そこでこの御神託にしたがって十番の能を奉納したのである。わたしがその橘倉の家へ挨拶に行ったところ、「観世が来た」というので、奥へとおし、赤色の絹を下された。その絹は現在もだいじに保存してある。
 また、応永二十九年十一月十九日のこと、相国寺(しょうこくじ)のあたりに住む、檜の皮で屋根をふく大工の娘が病気で重態であったとき、北野天満宮の不思議な夢のお告げがあって、「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」の歌の三十一文字を、それぞれ歌の頭に置いて三十一首の歌を詠み〔それは「すすめ歌」といって、多くの人に信心を勧めて詠んでもらう歌であるが〕、観世に合点(がってん)(よい歌に印をつけること)してもらって神前に納めるように、とのことであったので、さっそく多くの人に歌を詠じてもらい、縁故を頼ってわたしに合点を求めてきた。わたしは、御霊夢のことであるから辞退することもできず水垢離(みずごり)を取って体を清め、合点をしたのであった。そのころはすでに出家して観世大夫を長男元雅に譲っていたので、夢のなかのお告げの「観世」とは、自分(観世入道世阿)か、それとも観世大夫元雅かと思ったが、夢中に現われた天神が「世阿である」と仰せられたということであった。」




世阿弥 日本の名著 03






こちらもご参照ください:

戸井田道三 『能 神と乞食の芸術』
『夢野久作著作集 4  梅津只圓翁伝』
川村二郎 『イロニアの大和』























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鈴木棠三 『ことば遊び』 (中公新書)

「子供が無心に遊んでいるとき、虫も花も石も自分の世界に引きこんで、一つ一つにつぶやきながら呼びかけている。まさに荘周が蝶と化したのか、蝶が荘周となったのか、渾然として一つの世界に溶けこんだのと変らない。こうした心理を察しないと、子供のなぞなぞがもつ夢のような写実性は理解できないであろう。」
(鈴木棠三 『ことば遊び』 より)


鈴木棠三 
『ことば遊び』
 
中公新書 418 


中央公論社 
昭和50年12月10日 印刷
昭和50年12月20日 発行
4p+219p 
新書判 並装 ビニールカバー
定価380円
装幀: 白井晟一



本書「はじめに」より:

「ことばのもつ可能性を極限まで発掘しようとする行為が、ことば遊びであるといったら、我田引水との非難をうけるであろうが、ことばの機能の眠っている部分を揺り起し、潜在していた変化の万華相と、その面白さ美しさを見付け出したという実績が、ことば遊びの歴史にはある、この事実の重さを、没却してはならない。
 平安以来、歌詠みも、連歌作者も、俳諧の宗匠たちも、ことばの動き、その変り身の種々相を追い求めることに、心と身とを磨りへらして来た。その努力も、正岡子規のような明治以後の新指導者の眼には、ただただ無益で不まじめな営みとしか映らず、芸術の邪道であり、閑文学以外の何物でもないとして、痛爆されたのであった。」
「本書の中で私が説こうとするのは、こうしたことば遊びの変遷史が主である。」




鈴木棠三 ことば遊び 01



帯文:

「しゃれ、なぞなぞ、尻取り、回文など多彩な言語遊戯の世界」


帯裏:

「日本の言語遊戯はことばそのものの遊びであり、古来、文人たちはそれを砥石としてことばを錬磨し、ことばに潜在する変化の万華相とその面白さ美しさを見出し、人々はその楽しさを伝承して来た。しゃれ(秀句・地口・もじり)、尻取り、回文、早口ことば等々、万葉以来、和歌、連歌、俳諧、雑俳とからみあいつつ発展して来たことば遊びの系譜を、文芸、伝承の両面にわたって具体例で辿り、そこに日本人の日本語に対する感性を観る。」


目次: 

ことば遊びの世界
 はじめに
  ことばとことば遊び
  宗祇の挿話
  清みと濁りの違い
  鸚鵡返し
  逆さ読みいろは
 尻取りことば
  口拍子のよい尻取り
  尻取童唄
  文字鎖
 回文
  回文の規則
  回文歌
  回文俳諧
  回文の連句集
  八重襷
早口ことば
 早物語の系譜
  早歌
  てんぽ物語
  口遊び
 ういろう売のせりふ
  ういろう由来
  団十郎の創出
  舌もじり・早口文句の集成
  一九のせりふ
  こんきょうじの歌詞
 舌もじりの練習
  名調子のういろう売
  明治時代の舌もじり
  アナウンスの訓練
しゃれ
 しゃれの語系
  興言・利口
  洒落としゃれ
  シャレル・ジャレル
 秀句・こせごと・かすり
  秀句の意味転化
  こせごと
  かすりの多面性
 口合
  しゃれとしての口合
  『穿当珍話』
  口合の心得書
  絵口合
 地口
  地口諸説
  地口付
  『地口須天宝』
  地口行灯
 もじり・語路
  字もじり・本もじり
  語路・語呂合
 無理問答
  無理問答の約束
  無理問答の祖型
  無理問答本
なぞ
 古代のなぞ
  中国のなぞ
  字謎
  一伏三向、三伏一向
  ワザウタ
 なぞなぞ合
  なぞなぞ物語
  『枕草子』の挿話
  小野宮家歌合
  平安のなぞの技法
 なぞの型
  『徒然草』のなぞ
  なぞの解
  複数解の出るなぞ
  連歌の賦物
  賦物型のなぞ
  観察型のなぞ
 なぞの本
  『宣胤卿記』
  『見聞雑記』
  『なぞだて』
  『謎立』
  『酔醒記』
  『あたうがたり』
  『謎乃本』
  『寒川入道筆記』
 解きと心
  三段なぞの胎動
  享保期の三段なぞ
  はじめにしゃれありき
  題材の新しさ
  頓智謎興行
  寄席のなぞ解き
 判じ物
  長い伝統
  「今朝ほどの」
  『なぞなぞ集』
  隠句
 伝承のなぞ
  失われたなぞ
  子供のなぞ
  口拍子調のなぞなぞ
  大人から子供へ
  民俗なぞと文芸
  定まり文句
  納戸の懸金
  新しいなぞ

あとがき




鈴木棠三 ことば遊び 02



◆本書より◆


「はじめに」より:

「ことば遊びは、それ自体を楽しむもので、理屈の介在は禁物である。そこで、そのかみの文学者たちが、いかにことばの機能を見つめ、ことばの転換による変化を知悉しようと努めたか、それを証拠だてる、興味深い一挿話の紹介から、本書の記述を始めることにする。
 連歌史上、最高の権威とされる宗祇(一四二一~一五〇二)が、ある時、高弟の宗長(一四四八~一五三二)を連れて浜辺を歩いていた。漁師の網に海藻がかかって上がるのを見て、「それを何というか」とたずねた。すると漁師は「和布(め)とも申し、藻(も)とも申します」と答えた。宗祇は、何という海藻かとたずねる気だったのだろうから、漁師の答は答になっていないのと同じである。宗祇にはそれがおかしかったのであろう。さっそくこのことばを引取って、

    めともいふなりもともいふなり

という句にして、宗長に、付句(つけく)を命じた。宗長はすかさず、「引連れて野飼ひの牛の帰るさに」と付けた。この句は夕暮の田園風景を見事に描いている。西の山陰が暗くなりかかるころ、野道を二匹の牛が帰ってくる。一匹がメーとなくと、もう一匹がモーとなきかわす。牛のなき声をメとモにとりなした即興だが、描写のデッサンもしっかりしている。宗祇は宗長の手腕に敬意を表したが、自分は行き方を変えて、ことば遊びによって句を作ってみせた。

    よむいろは教ふる指の下を見よ

 幼子がいろはのお手本をひろげて、まず読み方から習っている。親が、手本の上を一字一字指でおさえながら、「ゆ・め・み・し・ゑ・ひ・も・せ・す」と教えている光景である。表面はそうなのだが、「指の下」がなぞになっている。ユの下はメ、ヒの下はモであるということで、和布と藻に通わせた機智である。」

「仮名で国語を書き現わす方法が、昔は不完全で、濁点が無くても濁って読むことなどは少しも珍しいことではなく、むしろ当り前であった。」
「清(す)みと濁りの誤りが笑話化した例は、古今を通じて少なくない。」
「或人がこんな歌を詠んだ。

    雪の門(かど)足跡付けて出でければ訪(と)はれぬるかと人のあやしむ

 雪の上に二の字二の字の下駄の足跡をつけて出て行ったあとで、家の者が、「おや、誰かたずねて来た人があったのかしら。声がきこえなかったので出て挨拶もせずにお帰ししてしまって、気の毒なことをした」と話し合ったという意味の歌。ところが滑稽な人物があり、この歌を次のように直してしまった。

    雪の門足跡付けで出でければ飛ばれぬるかと人のあやしむ (『黒甜瑣語(こくてんさご)』三)

 雪に足跡がついていないから、空中を飛んで出たと思うに相違ない。清濁のまぎらわしさを逆手にとったいたずらである。」



「尻取りことば」より:

「尻取文句のことを、漢語では粘頭続尾というらしい。わが国では、文字鎖(もじぐさり)と古くはいった。ただし、文献に出てくる文字鎖は、われわれがやっているような尻取りの遊びではなく、長歌の各句を鎖のように続けて行くものであった。この代表的な作に、源氏文字ぐさり、大内文字ぐさり、節会(せちえ)文字ぐさりなどがあった。
 源氏文字ぐさりというのは、『源氏物語』五十四帖を巻の順に詠みこんだ文字鎖である。
   源氏のすぐれてやさしきは、はかなく消えし桐壺(きりつぼ)よ、余所(よそ)にも見えし帚木(ははきぎ)は、われからねになく空蝉(うつせみ)や、やすらふみちの夕顔は、わかむらさきの色ごとに、匂ふ末摘花(すえつむはな)の香に、錦と見えし紅葉の賀、かぜをいとひし花の宴、むすびかけたる葵草、榊(さかき)の枝におく霜は、花散里のほとゝぎす、須磨のうらみに沈みにし、忍びて通ふ明石潟、たのめしあとの澪標(みおつくし)、しげき蓬生(よもぎう)つゆ深み、水に関屋の影うつし、知らぬ絵合おもしろや……契りのはては蜻蛉(かげろう)を、おのがすまひの手習は、はかなかりける夢の浮橋。
 一句に一巻ずつ巻名を詠み入れてあるが、上下二巻ある若菜は一句にまとめ、実際には本文の無い雲隠も、一句としてある。途中を忘れても、尻取文句のおかげで思い出すという便宜があるので、実用的な意味が大いにあったのであろう。」



「回文」より:

「和歌は、上句が十七字、下句が十四字と上下の字数が同じでない。それが回文歌を作る上に、かなり大きな隘路となる。(中略)ところが発句の場合だと、五・七・五の十七字で上下が同字数であるから、中七の真中の字を軸として上下を振替えることができる。この点、和歌に比してずっと容易といえる。また連句の場合なら、七七の句だと、さらに作りやすいことになる。」
「回文俳諧を作る者が多いため、実作の参考用として、回文詞をあつめた作法書も現われた、『世間尽』には、上五の句を下五に置いた場合は、次のようになるとして、下記のような回文詞二十五例を示している。

  中きよき――きよき哉
  照りて来つ――月照りて
  田は月か――杜若(かきつばた)
  よき槌も――望月夜
  爪琴を――男松
  村雨や――やめざらん
  村々に――にらむらん
  てれ月日――ひきつれて

 また中七の回文詞についても六十八語を示してある。

  草花はさく
  鳥と小鳥と
  遠き鳴き音(をと)
  刈萱かるか
  形見を見たか
  参りけり今
  削り切り付け
  竹屋が焼けた
  病は今や
  仕合せはあし
  雪とくと消ゆ
  山の木の間や
  泣くな子泣くな
  月夜の夜来つ
  功徳(くどく)福徳

 明暦の昔すでに、「竹屋が焼けた」が、口語の回文詞として加えられている事実には興味ふかいものがある。
 連句の場合、偶数番の句は七・七の十四字から成るが、この場合に上七が下七になるとどのように変るかを示したのが、次の例である。

  よみ来つる歌――すがる月見よ
  機嫌さへ冬――夕べ寒けき
  見ゆるはしはし――しはし張る弓
  ねふりつ乗るは――春のつり舟
  友の来つるは――春月のもと」



「早物語の系譜」より:

「室町時代には、『平家物語』を語る琵琶法師が、早物語というものを演じた。(中略)早物語というからは、琵琶を速いテンポで弾きながら、早口で語ったに相違ない。またその詞章は、曲調に合ったものでなくてはならぬから、(中略)パロディないしはそのために作られた滑稽で明るい詞章だったであろう。」
「奥州のボサマ(坊様)と称する者は、そうした盲僧(もうそう)の末流であるが、村から村へ、家から家へ、琵琶や三味線を背にして渡り歩いたかれらは、いわゆる奥浄瑠璃を語る合間に、滑稽な早物語を語って、村びとの御機嫌を取り結んだのである。
 その詞章を、菅江真澄(一七五四~一八二九)が書き留めたものがある。十章あるうちの一つを掲げる。
  こゝに大男一人候ひしが、余(あんま)り日本は狭いとて、すみちがって踞(ねまつ)て候。是では腰が病めるとて、つゝと立てば、雲にぎたを引かけて、霞に笠を剝(は)ぎ取られ、是ではごせがやけるとて、後(うしろ)はねにつゝと跳(は)ね、泥なる海に跳(は)ね込んで、ざんぶこんぶと漕ぎ給へば、袴の襠(まち)の空(あ)き目より、なんだやら、むやりぐやりといふほどに、武蔵野へ駈け上(のぼ)り、打ちほろって見給へば、鯨の子供が四五千匹とりついて候。須弥山(しゆみせん)に腰うち掛け、富士山に火をかけて、ぢいぶら/\といびって食(た)べて候。是では咽喉(のんど)が乾(かは)くとて、近江の湖を、小盞(さかづき)などとなぞらへて、する/\すったりと食(た)べたりけり。是でも咽喉(のんど)が乾くとて、大地をほっかりと踏み破り、地獄の釜の蓋を盗み取り、天竺の八日町へ持って行き、三千三百三十三文に売って、御酒を買って、食(た)べたりけり。是もてんぽの皮の物語。(『ひなの一ふし』)
 てんぽの物語とは、誇張のうそ話ということである。」



「判じ物」より:

「判じ物は、一名考え物ともいった。願人坊主の判じ物には、ヒントが付いていて、たとえば「虫壱ツ考」「近江八景考」などとある。上方で判じ物、江戸では考え物と呼んで区別すると『守貞漫考』には説いているが、実際は必ずしもその通りではなかったことが、右の「考」によっても分る。
 願人坊主は乞食坊主の一種で、寒垢離(かんごり)、代待(だいまち)なども行って糊口をしのいでいた。服装は浅黄または白の服装、頭を白木綿で包み、施米箱を胸にかけるのが正式の服装だったらしい。加持祈禱をするのが建前だが、橋本町・山崎町などの裏店に定住している連中は、のちには金になることなら何でもやるようになり、大道芸人として住吉踊、チョボクレ、阿房陀羅経など芸人まがいの世過ぎをした。もちろん、実際にはもっといかがわしい犯罪的なことにも手を染めていたようだ。」
「判じ物がいつから始まったかははっきりしないが、享保十四年(一七二九)四月には禁止されているところを見ると、享保初年あたりまでは遡るものと考えてよいのであろうか。この禁令は守られず、その後も行われていたことが、諸書に見えている。滑稽本『古朽木』(安永刊)には、「願人坊主の判じ物をとり上げて見れば、けふのは珍しく絵にはあらで、『尻の穴痛む病は獣(けだもの)の鼻の長きを二十(はたち)重(かさね)て』といふ歌なり。これは何と判じたら能(よ)からうと、天窓(あたま)を砕く折ふし」とある。答は記してないが、地蔵菩薩(痔象𦬠。𦬠は菩薩の略字)であろう。これなどヒント無しでも判るが、一体に判じ物は難解である。解答を売るのだから、すぐ判っては銭にならない。わざとひねり、こじつけも多い。とにかくこの文により安永ごろのは絵入りが普通だったことがわかる。
 黄表紙の『色男十人三文(いろおとことおでさんもん)』(天明刊)には「イエイエ是は願人坊主の置いて行った今朝ほどの判じ物なりといふ」とあって、午前中に、判じ物の紙を店先などに配って行き、あとでいま一度廻って来て、正解を教えて銭をもらう。その時、「今朝ほどの判じ物」と言って来たのである。このせりふが当初からのものであったことは、享保十五年、江戸板行の雑俳集『ちりつか』のモジリの句に、「重箱で くばってまはり 今朝ほどの」の句があるのでも明らかである。これが普通名詞のようになって、『浮世風呂』でも「此番頭のいふ事は、今朝ほどの判(はんじ)物の様だ、アハハハハハ」と言わせている。何を言ってるのかわけが分らないという悪態だが、判じ物にこじつけが多くて解きにくかったことがこれでも知れる。或いは「上げおきました考え物」と言って来た者もある。代金はいくらだったか不明だが、「一つかみやりながらきく判じ物」(明和二年)という句があるから、銭一摑み、せいぜい七、八文、多くても十文どまりであったろう。」







こちらもご参照ください:

塚本邦雄 『新装版 ことば遊び悦覧記』
鈴木棠三 編 『中世なぞなぞ集』 (岩波文庫)
ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)







































安楽庵策伝 著/鈴木棠三 校注 『醒睡笑』 (岩波文庫) 全二冊

「世の中の人の心のすきずきをわれに似ぬとて偏執(へんしふ)なせそ」
(安楽庵策伝 『醒睡笑』 より)


安楽庵策伝 著
鈴木棠三 校注 
『醒睡笑 (上)』
 
岩波文庫 黄/30-247-1 


岩波書店 
1986年7月16日 第1刷発行
1988年4月15日 第3刷発行
438p 
文庫判 並装
定価700円



本書「凡例」より:

「本書は読解しやすいことを目的として、当字や仮名違いを正した。従って、表記については、原本通りではない。」



醒睡笑 上



帯文:

「落語家の元祖といわれる著者が、戦国時代の笑話・奇談を集大成した書。近代落語に多くの材料を提供した最古の咄本である。(全2冊)」



醒睡笑



安楽庵策伝 著 
鈴木棠三 校注 
『醒睡笑 (下)』
 
岩波文庫 黄/30-247-2 


岩波書店 
1986年9月16日 第1刷発行
362p 
文庫判 並装
定価550円




醒睡笑 下



帯文:

「素朴で骨太な戦国時代の笑話の集大成。大部分は著者自身が耳で聞いたものの筆録で、説話研究の好資料である。付・索引。(全2冊)」


「醒睡笑 上巻」目次:

序 (鈴木棠三)
凡例


巻之一
 謂(い)へば謂(い)はるる物(もの)の由来(ゆらい)
 落書(らくしょ)
 ふはとのる
 鈍副子(どんふす)
 無智(むち)の僧(そう)
 祝(いは)ひ過(す)ぎるも異(い)なもの
巻之二
 名付(なづ)け親方(おやかた)
 貴人(きにん)の行跡(かうせき)
 躻(うつけ)
 吝太郎(しはたらう)
 賢(かしこ)だて
巻之三
 文字知(もじし)り顔(がほ)
 不文字(ふもじ)
 文(ふみ)の品々(しなじな)
 自堕落(じだらく)
 清僧(せいそう)
巻之四
 聞(きこ)えた批判(ひはん)
 いやな批判(ひはん)
 そでない合点(がてん)
 唯(ただ)あり
巻之五
 婲心(きやしやごころ)
 上戸(じようご)
 人はそだち



「醒睡笑 下巻」目次:

巻之六
 児(ちご)の噂(うはさ)
 若道(にやくだう)知(し)らず
 恋のみち
 悋気(りんき)
 詮(せん)ない秘密
 推(すゐ)はちがうた
 うそつき
巻之七
 思(おもひ)の色を外(ほか)にいふ
 いひ損(そこな)ひはなほらぬ
 似合うたのぞみ
 廃忘(はいまう)
 謡(うたひ)
 舞
巻之八
 頓作(とんさく)
 平家
 かすり
 秀句(しうく)
 茶(ちや)の湯(ゆ)
 祝(いは)ひすました

解説 (鈴木棠三)

索引
 一 神・仏・人名
 二 社・寺・地名
 三 書名・巻名・曲名等
 四 語句・事項
 五 和歌・連歌・発句・詩句




◆本書より◆


「巻之一 鈍副子」より:

「小僧あり。小夜(さよ)ふけて長棹(ながざを)をもち、庭をあなたこなたと振りまはる。坊主これを見付け、「それは何事をするぞ」と問ふ。「空の星がほしさに、うち落さんとすれども落ちぬ」と。「さてさて鈍なるやつや。それほど(一)作(さく)がなうてなる物か。そこからは棹(さを)がとどくまい。屋根へあがれ」といはれた。」
「一 作意がない。工夫がない。」

「越中(ゑつちう)に(一)井見(ゐみ)の庄殿(しやうどの)といふ大名(だいみやう)あり。世にすぐれたるうつけなりし。母儀(ぼぎ)、常にくやみ歎き給ひしが、ある時の見参(げんざん)に、「(二)笑止(せうし)や。そなたを内の者侮(あなど)り、何事もいひたきままにいうて、(三)道なき作法(さはふ)と聞く。ちと折ふしは(四)歯をもぬき、折檻(せつかん)もあらば、さほどまではあるまじきものを」と教訓(けうくん)あれば、「心得たり」と(五)うけごひ、是非とも(六)一歯(ひとは)ぬかんものをとたくまれし。
 さる程に(七)八朔(はつさく)の礼とて、諸侍(しよざむらひ)出仕(しゆつし)ある。家老(からう)の人申す様、「今日(こんにち)の御祝儀(ごしうぎ)、(八)千秋万歳(せんしうばんぜい)、ことに天気よく」と祝ふなかばに、かの大名、「なにと、御祝儀天気もよしと。さう言ひたきままには言はせまいぞ」。」
「一 いまの富山県中新川郡上市町のあたり。弓庄ともいった。二 困ったことだ。三 規律がすっかり乱れている。四 腹をも立てて。五 うけがひ。六 一番、おこってやろう。七 八月一日の祝儀。室町時代以後武家の間で盛んに行い、公家にも取入れられた風俗。(中略)。八 千年も万年も長生きなさいますよう。人を祝っていう語。」



「巻之二 躻」より:

「ある人風呂(ふろ)に入りてゐけるが、俄(には)かに顔の色かはり、「あら苦しや、(一)船心(ふなごころ)がある」というて吐逆(とぎやく)する。「こは何事ぞ。海はなし、船はなし。異(い)な病や」と不審(ふしん)しければ、「さればよ、ただ今これへ入られたる大ひげの男、この程乗りし船の船頭(せんどう)に、よく似たと思うてあれば、そのまま酔(よ)うた」と。」
「一 船酔いの気分。」

「(一)金春禅風(こんぱるぜんぷう)、毎朝の(二)看経(かんきん)怠慢(たいまん)なし。ある朝、(三)艮(うしとら)の方(かた)にむかひ、手を合せ数珠(じゆず)をもみ、「そのもの、そのもの」とばかりにて、神の名も仏の名も、更に出でざりしかば、側にある者、「春日大明神(かすがだいみやうじん)かや」。「それそれ、それを、春日春日」と。これは(四)健忘(けんばう)とて、大智の上にもある病なり。あやまりにあらざれども、時にあたりては、うつとりのやうにて、この部(ぶ)に入る。」
「一 金春(こんぱる)禅鳳の誤であろう。(中略)。二 読経。三 東と北との間の方位。四 忘れっぽいこと。物忘れがはげしいこと。」

「(一)脇に出る太夫(たいふ)、楽屋(がくや)にて(二)目に仏をうしなひ、物をたづね廻る風情(ふぜい)あり。人みな不審(ふしん)し、「なにが見えぬぞ。ともどもたづね見ん」といへども、「いや、ちとものが」と(三)秘所(ひしよ)して言はず。ありありてのち、「唯今ここにおきたる烏帽子(ゑぼし)が無い」と。「そちがあたまにきて居るは」とわらふ時にぞ、探(さぐ)り見て、「実(げ)に(四)けんようもない所にあつたよ」。」
「一 能のワキ。(中略)。二 夢中で物を探すさま。仏は、目ぼとけ(ひとみ)。三 かくす。(中略)。四 思いがけない。意外な。(中略)」

「ちと(一)たくらだのありしが、人にむかひて、「われは日本一の事を、(二)たくみだいたは」といふ。「何事をか」と問ふ。「さればよ。臼(うす)にて米(こめ)を搗(つ)くを見るに、勿論(もちろん)下へさがる杵(きね)は役(やく)にたつが、上(うへ)へあがる杵が(三)いたづらなり。所詮(しよせん)、上にも臼を(四)かひさまにつり、米をいれて搗かば、(五)もろともに米しろみ、杵のあげさげ(六)そつになるまいと、思案(しあん)したり」といひはてぬに、「さて、吊りさげたる臼に米の入れやうは」と問へば、「まことに、その思案はせなんだよ」。」
「一 ばか。あほう。(中略)。二 たくらみだす。考えつく。三 むだ。役に立っていない。四 さかさま。(中略)。五 諸本「両とも」。「もろとも」と読む。六 ついえ。むだ。無益。」

「さかしからぬ者、いかがしたりけん、とりはづして井(ゐ)にはまりし事あり。人こぞりて、梯子(はしご)などさげ、「早くあがれ」といふに、「われは(一)一世(せ)の面目(めんぼく)をうしなうた。あがりても(二)人間(ひとあひ)はなるまい。これからすぐに(三)高野(かうや)へのぼる」と。」
「一 一生涯の不名誉。二 人まじわり。三 高野山へ登って坊主になる。」



「巻之三 不文字」より:

「(一)地蔵講(ぢざうかう)の式目(しきもく)といふ外題(げだい)を見、大蔵(おほくら)といふ人、地くら講とよむ。武蔵(むさし)は、地さし講とよむ。また傍(かたはら)にのぞきゐたる或泉坊(わくせんばう)は、式目の式を或目(わくもく)とよめり。」
「一 地蔵菩薩の功徳を講讃する法会。」



「巻之四 そでない合点」より:

「夜もいまだ明(あ)けやらぬに、(一)中間(ちうげん)たる者戸をあけ、「さてもおびただしく雪の降りたるは」といふ声しけり。亭主聞きつけ、「如何程ふりたるぞ」と問へば、「されば深(ふか)さは五寸(すん)ほどつもりて候。幅は知れぬ」と申したり。
「一 中間男の略。侍と小者との間に召使われたゆえの名という。」

「借銭(しやくせん)を乞(こ)ひに、幾度(いくたび)人を遣(つか)はせども、(一)なすことなし。さらばとて(二)直(ぢき)に行き、「これの亭主(ていしゆ)道善(だうぜん)に逢(あ)はむ」と言ふ。亭主出でて、「道善は留守(るす)に候」といふ。「いや、そちは道善ではなきか」。「さてここな人は。亭主の道善が、直に逢うて留守といふを、疑(うたが)はるるかや」。」
「一 返済する。かえす。二 じかに。直接に。」



「巻之六 うそつき」より:

「信長公岐阜に御座の時、(一)沼の藤六、尾州より、「只今参りて候」と申上ぐる。「何事も尾張に珍しき事はなきか」と御諚(ごぢやう)あるに、「されば(二)鵺(ぬえ)を木にて造りたるが御座候」と申上ぐる。「嘘であらうず。さりながら実(まこと)か、その様子を聞かん」と仰せの時、「あたまはさるすべり、尾はくちなし。なく声(三)ぬでの木にて」と申したり。」
「一 (中略)。二 トラツグミの異名。平安時代から怪鳥の名とされ、『和名抄』にも「怪鳥也」と注する。源三位頼政が禁中において射落したというヌエは怪獣で、「頭は猿、軀は狸、尾は蛇(引用者注:訓「くちなは」)、手足は虎の姿にて、鳴く声は鶫(引用者注:「鵺(ぬえ)」)にぞ似たりける」(『平家物語』四)とある。藤六のでたらめも、右の知識に基づき、名の似よった植物の名におきかえた。三 五倍子木(ふしのき)の異名。ヌルデも同じ物の異名。」



「巻之七 似合うたのぞみ」より:

「数人(すにん)あつまり居、おのが心々の望みを語りつるに、ひとりはいふ、「われはただ生れつきたる両眼の外に、目を三つほしい。一つは背につけ、(一)だしぬき、闇討(やみうち)の用心かたがた、後(うしろ)の方を自由に見たい。一つは膝頭(ひざがしら)につけ、夜陰(やいん)の歩行あやまちなからん。一つは手の(二)たけたか指の先につけ、能の時または(三)風流(ふりう)、何にても見物の時、人のせいたけにかまはず、手をさし上げて見たい」と。」
「一 だしぬけに襲われる。二 中指。三 田楽・延年・狂言など。また民間で行う盆踊ふうの風流もある。」






こちらもご参照ください:

鈴木棠三 『ことば遊び』 (中公新書)
鈴木棠三 編 『中世なぞなぞ集』 (岩波文庫)
柏木如亭 著/揖斐高 校注 『訳注聯珠詩格』 (岩波文庫)












鈴木棠三 編 『中世なぞなぞ集』 (岩波文庫)

「謎はもと神秘の語であった。それが遊戯の座に降りて来たのである。(中略)遊戯化したとはいっても、神秘への回帰がいつまでも続いたことは、今も語られている民話の中の難題話などに、その面影を見ることで納得されよう。」
(鈴木棠三 「解説」 より)


鈴木棠三 編 
『中世なぞなぞ集』
 
岩波文庫 黄/30-130-1 


岩波書店 
1985年5月16日 第1刷発行
1991年5月16日 第3刷発行
454p 
文庫判 並装 カバー
定価670円(本体650円)



本書「凡例」より:

「室町期から近世初頭に及ぶ謎々の集録七種を掲げる。」



中世なぞなぞ集



カバー文:

「なぞとは、「何ぞ?」という問いかけの言葉に由来する。その起源は古く上代に遡るが、中世には、宮廷で貴族の集団的ことば遊びとして盛んにおこなわれたという。国語学上貴重な資料といわれる「ははには二たびあひたれどもちちには一どもあはず (答)くちびる」という有名な謎々をはじめ、中世の謎々の主要な集録本七種を収めた。」


目次:

凡例

なそたて
謎立
月菴酔醒記
寒川入道筆記
国籍類書 謎乃本
あたうかたり
古版 なそのほん

解説 (鈴木棠三)




◆本書より◆


「なそたて」より:

「おとゝひも昨日もけふもこもりゐて月をも日をもをがまざりけり  みかぐら」
「みかぐらは宮中の御神楽。一昨日・昨日・今日で三日。三日暗と解く。」

「鷹心ありてとりをとる  應」
「應は、返辞にオーとこたえる声をさすのであろう。字謎。「鷹」の字の「鳥」を「心」とかえる。中世は鷹狩がさかんに行われたので、放鷹の技術指導書もたくさん作られ、『群書類従』にも鷹部が設けられているほど多い。」

「四季のさきにおにあり  はなあふぎ」
「はる・なつ・あき・ふゆ(引用者注:「は」「な」「あ」「ふ」に傍点「○」)の先は、はなあふ(引用者注:「はなあふ」に傍点「○」)。これにき(引用者注:「き」に傍点「○」)(鬼)を添えると花扇。」

「はらのなかの子のこゑ  はしら」
「胎内から胎児の泣き声。広い野原の中で赤子の泣き声がする。どちらでもよい。解は、ハ・ラの中にシ(子の声)が入って、柱。漢字の音を「声」という例は平安時代から用例があり、中世なぞでも、漢字を音読させる場合に、声と表現するのは通常の手法である。」

「ごりんのしたのばけ物  はかま」
「五輪の石塔、すなわち墓石のその下にひそんでいる化け物。ちょっとびっくりさせる設問で、答は一転して平凡な袴(墓魔)。」



「月菴酔醒記」より:

「南無阿弥陀仏  云 むじな」
「南無阿弥陀仏のことを、六字(ろくじ)の名号(みょうごう)という。解は六字名(貉)。」

「まがらで一期  云 すぐ六」
「一期(いちご)は一生。一生涯。真正直に(あるいは、節を屈することなく)一生をつらぬくの意。解、曲らずは直(すぐ)、一と五で六。答双六(すぐろく)(スゴロクの古形)。」



「謎乃本」より:

「ほね地獄へおつる  こつゞミ」
「解、ほねは骨(こつ)。地獄へおちるのは罪(引用者注:「罪」に傍点「○」)。答、小鼓。」

「こたつ  からす」
「解、仔(こ)立つ(巣立つ)と、そのあとは空(から)巣(烏)。」

「かたはねの天狗やみにいる  かんたんの枕」
「解、カが跳ねるとカン、タが跳ねるとタン。天狗を魔、闇を暗(くら)と解くのは当時のなぞの常道。「やみにいる」は、闇に居る。邯鄲の枕は盧生の夢の故事。」

「くもふろにいりてもだゆる  ふくろ」
「蜘蛛風呂に入りて悶ゆる。フロの中にクモが入ると、フクモロ。モが絶えて、袋。」

「さくらのもとにかよふばけもの  はな車」
「桜は花。通うは来る。化け物は魔。答の花車は、花を積んだ車、または花見の車。」







こちらもご参照ください:

鈴木棠三 『ことば遊び』 (中公新書)
ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)
白川静 『文字遊心』 (平凡社ライブラリー)
安楽庵策伝 著/鈴木棠三 校注 『醒睡笑』 (岩波文庫) 全二冊






























土橋寛 『日本語に探る古代信仰』 (中公新書)

「「イノル」が呪詛の意味に用いられるようになったのも、修験道の暗黒面に由来するであろう。平城京址で発掘された夥しい木簡の中には、呪詛のためのものと見られる物が含まれているが、丑の時参りに用いる五寸釘を「ノロヒ釘」とも、「イノリ釘」ともいい、呪詛の対象になっている藁人形の首を、明神さまの境内の立木に釘づけにするのを「イノリ首」というのがそれである。それは「罵(ノ)ル」「イ罵(ノ)ル」につながっている。」
(土橋寛 『日本語に探る古代信仰』 より)


土橋寛 
『日本語に探る
古代信仰
― フェティシズムから
神道まで』
 
中公新書 969 


中央公論社 
1990年4月25日 初版
1992年3月25日 3版
6p+217p 
新書判 並装 カバー
定価640円(本体621円)



本書「Ⅰ」より:

「この本は日本の古代信仰の実情を、各種の儀礼、神話、歌を資料としながら、それらと深く関係している日本語の分析を通じて、明らかにしようとしたものである。」


章扉図版(モノクロ)4点。



土橋寛 日本語に探る古代信仰



カバーそで文:

「日本の古代信仰のもっとも中心的な課題は、霊魂(タマ)の観念であり、それも遊離魂よりはむしろ呪物崇拝(フェティシズム)に見られる霊力呪力(マナ)の観念である。呪力の信仰は言葉にも認められ、言霊(コトダマ)信仰では、めでたい言葉はめでたい結果を、不吉な言葉は不吉な結果をもたらすとする。本書は、各種の儀礼、神話、歌を資料としながら、霊魂や呪物・呪術に関する言葉を、また神名の核となっている言葉を析出し、日本の古代信仰の実相を明らかにする。」


目次:

Ⅰ 呪術・宗教と霊魂観念――日本語は語る
 (一) 原始宗教に関する諸問題
 (二) 霊魂(タマ)と生命(イノチ)
  (A) 「魂振り」と「魂鎮め」
  (B) 霊魂観念のいろいろ
   「タマ」と「カゲ」
   「タマチハウ」と「タマキハル」
   「タマシヒ」
   「ミタマノフユ」
   タマの緒
  (C) 「イノチ」「イ吹き」について
 (三) 神聖とは何か――「イ」「ユ」をめぐって
   「イ」「ユ」の意味
   「イク」「イカシ」の意味
   「イハフ」の意味
   「イム」の意味

Ⅱ 呪物崇拝(フェティシズム)と呪力信仰(マナイズム)
 (一) 自然と人間
 (二) 花見・山見の呪術的意義
 (三) 白鳥・鷺・白馬の呪力信仰
 (四) 邪眼と慈眼
 (五) 呪物崇拝と呪的・宗教的儀礼
   賢木と木綿
   ミアレ木とアレの幡
   領巾
   呪物の神格化と神体化
 (六) 三種の神宝
   ヤサカニの曲玉
   蛇と剣
   八咫の鏡

Ⅲ 日本の神と霊力
 (一) カミとモノ・オニ
 (二) 神社の祭神と司祭者
  ①鷺栖神社
  ②白鳥神社
  ③石神から大洗磯前薬師菩薩神社まで
  ④石上坐布留御魂神社
  ⑤香取神宮、鹿嶋神宮
  (付) 弓削神社
  ⑥大神大物主神社
  ⑦鴨都味波八重事代主神社
  ⑧伊勢大神宮
 (三) 神名の核をなす霊力
  (A) ヒ甲――ヒル、ヒヒル、ヒレ、ヒラ、ヒロメク
  (B) チ――チハフ、チハヤブル
  (C) ニ――ニホフ、ニフブ
  (D) タマ
 (四) 神名の核にならない霊力――カ、ケ、カゲという語

Ⅳ コトバの呪術と宗教
 (一) 呪詞とその起源
  (A) 先呪術的言語
  (B) ヨゴト、ホカヒ、ヨム
  (C) 言霊信仰と修辞法
  (D) トコヒ、カシリ
 (二) 言語呪術としてのウケヒ
  (A) 卜占・裁判の方法としてのウケヒ
  (B) 誓約とウケヒ
  (C) 祈禱とウケヒ
  (D) 諸民族におけるウケヒ
 (三) 祝詞――神にイノル言葉
  (A) 「イノル」と「ノル」「ノロフ」
  (B) 「イ罵り」から「祈り」へ
  (C) 「神を祈る」
  (D) 『延喜式』の祝詞について
   祈年祭祝詞
   六月晦大祓詞
   大殿祭祝詞


あとがき




◆本書より◆


「Ⅱ」より:

「古代においては年中行事としてばかりでなく、日常的にも生命力を強化する目的で山の花や青葉を見、また幼児が泣きやまない時も、それを見せて泣きやませようとした。垂仁天皇の皇子ホムツワケの皇子は、八拳鬚(やつかひげ)が生えるまで泣いてばかりいて、物を言うことができなかったので、尾張の相津の二俣杉で作った二俣小舟に乗せ、市師の池、軽の池に浮かべて遊ばせたといい(『古事記』垂仁)、出雲の大己貴(おおなむち)の命の子アヂスキタカヒコの命も、八握鬚が生えるまで夜昼泣いてばかりいて、物を言うことができなかったので、舟に乗せて八十島を漕ぎ廻って「うらがし」たという(『出雲国風土記』仁多郡三沢郷の条)。「うらがす」というのは、心を浮き立たせるという意味で、島々の青葉や花を見せたら、心が浮き立って泣き止むだろうと考えたのである。」
 花や青葉を「見る」ことの呪術的意義は、『万葉集』の歌にもよく現れている。
  ①み諸(もろ)は 人の守(も)る山
   本辺は 馬酔木(あしび)花咲き
   末へは 椿花咲く
   うら妙(くは)し 山ぞ 泣く児守る山  (万13、三二二二)
右の「み諸(モロ)」は「森(モリ)」と同源の語で、木の茂った森・山を意味し、神が宿っている山とか、神が天降る山とかではない。「人の守る山」は、人が見守る山という意味である。次の「本辺は 馬酔木花咲き 末へは 椿花咲く」は、人が山を見守る理由を説明した句で、人々はその山の馬酔木の花や椿の花を見るのである。「泣く児守る山」は、「人の守る山」の繰返しで、「泣く児も見守る山」の意であるが、その具体的な意味は、幼児が泣いて泣き止まない時、母親がその山を見せて泣き止むようにする山、という意味で、山讃めの歌ではあるが、エリートの山の山讃めとは違って、「見る」対象に馬酔木や椿の花を挙げているのは、見て美しいからというよりも、それらの花に人の生命力を強化するタマフリの呪力があると考えたからである。馬酔木の花にタマフリの効果があると考えたのは、房状の花序が群がって咲く姿に生命力の強さを見たからであって、「馬酔木なす栄えし君」(万7、一一二八)とか、「わが恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり」(万10、一九〇三)の表現も、同じ観念から生まれてくる。椿(山椿)は、その花の真紅の色や艶のある葉の茂り拡がっている姿が、生命力の強さを印象づけるのであり、そのために椿はよく寿歌に取上げられて、「葉広 斎(ゆ)つ真椿」と讃えられ、「花の照る」姿や「葉の広」がっている姿が、天皇の繁栄の象徴として歌われており(記、57・101)、また椿の木で椎(つち)を作って、武器にもしたのである(「景行紀」十二年十月条)。」

「白鳥や鴨などの水鳥を「見る」ことが、人の生命力を強化すると考えられたのは、それらの水鳥には霊力があるという信仰に基づくものであって、「見る」ことを通してその霊力が人間に感染し、人の生命力を強化するという、いわゆるタマフリの信仰によるのである。タマフリは衰えている人間の生命力を強化することであるが、人間の心が怒りなどのために荒れると、そのタマ(生命力)は不安定になることもあるのであって、そのタマを鎮める(タマシヅメという)ためにも、水鳥や魚を「見る」ことが有効であった。」

「北海道胆振国虻田のアイヌの首長が伝えていた伝承に、次のような話がある。熊祭りをして、育ててきた子熊をその本国に送り出してやった夜、首長の夢にその子熊が現れて言うには、「私は人間の父さん母さんに可愛がって育てられましたが、ふだんから体が弱くてずいぶん御心配をかけました。それは戸外の庭の隅に悪い魔物がいて、日が暮れると檻越しに私の方をじっと見ていて、一晩私は見つめられていましたので、そのために元気を失ったのです。だから今後熊の子を飼う時は、西の方に垣でも作って、日が暮れたら垣に布か何かをかぶせて、塞いでおくように教えてやって下さい」と。
 人が死んだ時、その顔に布をかぶせることは、今日でも日本の風習として行われていることであるが、中国でも古くから行われていたらしく、『儀礼』の士喪礼ではその布を「幎目(べきもく)」と言っている。これは死者の邪視を防ぐためにすることで、悪魔や死者に「見」られると、その邪霊の作用によって、人は病気になると信じられたのである。
 「邪視」(イヴル・アイ)というのは、強力なマナが「見る」ことを通じて相手に作用し、これに危害を加えることであるが、そのような強いマナを持っているのは魔物だけでなく、英雄とか神もこれをもっているのであって、英雄や神の闘いは、武力による戦いに先立って、「目」の力の闘いから始まった。」

「人の霊力は「見る」ことを通じて相手に善悪の影響を及ぼすのであるから、山林修業によって優れた霊力を身につけた高僧は、「見る」ことを通じて病人を治すことができた。」

「呪力のある植物は呪的儀礼はもちろん、神祭りにも、祭場に立てたり、祭りに従事する人々の挿頭、鬘、手繦(たすき)として用いられた。それは儀礼の場や儀礼に従事する人を聖化するためで、神聖とは元来生命力に満ちた状態を言うのである。」

「神祭りでは、賢木の小枝に木綿垂でまたは御幣(ごへい)を付けたものを、神主が振る。(中略)一般にこれを「お祓(はら)い」というのは、「穢(けが)れ」を払うことと考えているからであるが、「ケガレ」の語源は「気(ケ)涸(か)れ」でケ(霊力)の涸渇した状態を意味し、木綿垂でを振るのはこれに霊力を与えるタマフリの呪法であったはずであるが、「気涸れ」の状態が何らかの災厄や不法行為(これを「罪」という)に原因すると考える場合は、気涸れは「穢れ」となり、タマフリの呪法は「お祓い」の呪法に変わるのである。」

「弥栄霊(ヤサカニ)の曲(勾)玉は、玉が内蔵する霊力を造型した呪物で、円形の頭部が玉であり、尻尾の部分が玉の霊力(ニ)の表現である。それはインドの宝珠とその火焰(実は霊気)に該当するデザインであり、また中央アジアに発源すると言われる「巴(ともゑ)」の紋様も、同じ意味をもつデザインである。その「弥栄霊の曲玉」をたくさん緒に貫き連ねたものが「八尺勾璁の五百箇御統(いほつみすまる)の玉」(『古事記』)で、「スマル」は多くの玉が一本の緒に集まっている意の動詞である。スマルは「スバル星」(昴星)のスバルの音訛で、他動詞「統(ス)ブ」に対する自動詞が「統(ス)バル」である。
 弥栄霊の勾玉は、そのような玉の呪力を表現した呪物であったから、衰えた太陽に霊力を与えるタマフリの呪宝として、天岩戸の神話にも登場し、また天孫にも与えられたのであった。」



「Ⅲ」より:

「「記紀」や風土記の神話、『延喜式』の祝詞や神名帳に登場する神々の名は、古代の日本人がどんなものを神と考え、また祭って知る上での貴重な資料である。神の名前はもちろん多種多様であるが、注目されることは、それらの神名の中には共通の語が核になっている場合が少なくないことで、われわれは核になっている共通語が表す観念を明らかにすることによって、古代の神の観念の重要な部分を明らかにすることができるであろう。
 便宜上結論を先にいうと、神の名前、言いかえると神の観念に共通する核の言葉は、一音節の「ヒ甲」「チ」「ニ」および二音節の「タマ」である。次にそれらの語、およびそれを語根とする動詞を検討することによって、神名の核になっているものが霊力(引用者注:「霊力」に傍点)であることを明らかにしたいと思う。」








こちらもご参照ください:

豊田国夫 『日本人の言霊思想』 (講談社学術文庫)
西郷信綱 『日本の古代語を探る』 (集英社新書)
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)




















プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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