馬場あき子 『式子内親王』 (ちくま学芸文庫)

「もし、式子が待つ心の緊張を失ったなら、全く生きながらむくろと化してしまったろう。」
(馬場あき子 『式子内親王』 より)


馬場あき子 
『式子内親王』
 
ちくま学芸文庫 ハ-2-1 

筑摩書房
1992年8月6日 第1刷発行
272p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価780円(本体757円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 大柳久栄


「本書は一九六九年、紀伊国屋書店より刊行された。」



馬場あき子 式子内親王


カバー裏文:

「「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへばしのぶることのよわりもぞする」の歌に代表されるように、式子内親王の作品には、鬱と激情の交錯する、特異な審美性にあふれた作品が多い。その個性的な詠嘆の底には、どのような憂鬱の生涯がひろがり、いかなる激情にあやなされた思慕があったのか。――歌と生涯を辿りつつ、沈鬱と激情の歌人、式子内親王の内面に鋭く迫る。」


目次:

第一部 式子内親王とその周辺
 はじめに
 四宮の第三女式子の出生
 斎院卜定前後
 み垣の花――斎院式子の青春の夢と失意
 前小斎院御百首のころ――平氏全盛のかげの哀傷
 治承四年雲間の月――以仁叛乱と式子の周辺
 贄野の池――以仁敗死とその生存説の中で
 建久五年百首のころ――後白河時代の終焉と式子の落飾
 軒端の梅よ我れを忘るな――病苦の中の正治百首
第二部 式子内親王の歌について
 宇治の大君に通う式子の心情
 式子は多量の霞を求めねばならなかった
 梅のおもかげ
 花を見送る非力者の哀しみ――作家態度としての〈詠(なが)め〉の姿勢
 式子を支配した三つの夏と時鳥
 落葉しぐれと霜の金星
 巷説「定家葛」の存在理由
 忍ぶる恋の歌
 式子と定家、ならびに宜秋門院丹後
 梁塵秘抄は作用したか

年表
あとがき

解説 (俵万智)




◆本書より◆


「第一部」より:

「ふるさとをひとり別るる夕べにも送るは月の影とこそ聞け」
「「送るは月の影とこそ聞け」の詠歎は、多くの近親者の死を見送った式子のかなしみであったとも取れる。式子は年齢も三十歳に近かった。かつて斎院退下後、「泡雪のあはれふりゆく」と詠った式子であったが、残されたかなしみは年齢を思うと共に深かったと考えられる。(中略)式子は生きながらひとり死者への親しみを感じていたのかもしれない。自分だけが、あらゆるものから取りのこされ、古り埋もってゆく、という過度の疎外感覚は式子の一生をつきまとうノイローゼ現象の一つではあるが――。」



「第二部」より:

「式子の歌には「源氏物語」が宇治大君について描写する時に、しばしば特色的な形容として使った「ほのか」という語がひじょうに多く出てくる。そして、「ほのか」であることは、式子の美意識を支配した主要素の一つであった。そしてそれはまた、「人にだにいかでしらせじ」とはぐくまれた大君のもつ美しさの象徴でもあったといえる。」
「「人にだにいかでしらせじ」という、大君ふうの引きこみがちな物づつみの反面に、ほのかな、におやかな情緒を、花の香や香(こう)のけはいに漂わせたくらし。そこには、すきのない美意識に律しられた古典的な対人意識や、誇りがあったのである。まことにはかない、滅びゆく精神生活であったともいえよう。(中略)世の中に全く不用な存在以外のなにものでもない、老いゆく内親王、老いゆく前斎院にとって、それでもなお世に存在せねばならぬとすれば、せめて美しく、存在する以外に何があったろう。生きながら形骸化してゆく、その稀薄な存在感の中で、式子が大君の生き方を切に具現しようとした努力は、むしろ悲壮で美しかったというべきかもしれぬ。」
「平氏が栄えようと、源氏の世になろうと、いつも春におくれてしまう式子は、その春の歌において、殊にしみじみした〈詠(なが)め〉の姿勢をとりやすい。そして、にもかかわらず、その深い鬱情をなぐさめ得ることにおいて、よその春をよそながらながめることを、式子は決して嫌ってはいない。よその春をながめることは、とこしえに〈魂の冬〉に棲む現実を意識することでもあったから。式子の春の歌は、ゆえに、ほのかな、ひとりぽっちの艶(えん)をたたえ、豊かな霞にとりまかれているのである。他人の春を羨むというのではないが、身の非運がしみじみと味わわれているのが、その春の歌である。」
「病気がちで、苦痛の方が多かったであろう日常の中で、式子が反芻していたものは、やはり、それ以外に生きられなかった非運な一生と、その中でほのかに心暖まる思い出をなした少数の人々との交流のことではなかったろうか。言葉少なく耐えることのみであった五十年を顧みるとき、年ごとに擬人化の度を加えてゆく梅の花にでも托する以外、誰に言いようもない思いなどが、深く積っていたことであろう。」
「〈詠め〉は式子の美意識の拠点であったと共に、強固な作歌上の姿勢であり、対象に一定の距離を保つことを条件としている。それは婉曲な拒否の姿勢とも受け取れるが、断絶を求めているのではない。そのしみじみと見つめる物思いの中には、自己をも肯定せず、見ている現実をも肯定できない式子のかなしみがあるように思う。式子もまた時代の人として若い日から仏教に関心を寄せたが、このような対象への〈詠め〉の姿勢は、ちょうど中有の世界に迷うような、あてどない孤独なものであったようだ。」
「式子における〈詠め〉の姿勢は、そうした見る人としての、頑なな非力への固執でもあった。それは「紅旗征戎非吾事」という、動揺を秘めた定家の決意より粘り強く一貫しており、しかも、定家以上に頑固な拒否の姿勢であったと思う。」

「もし、式子が待つ心の緊張を失ったなら、全く生きながらむくろと化してしまったろう。」

































































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風巻景次郎 『中世の文学伝統』 (岩波文庫)

「俊成や西行の時代にはめきめきと隠者が生れていった。この時代の若い世代の人々は、僧形(そうぎょう)になるとならぬにかかわらず、つきつめた者の心情はすべて隠者的である。でない者は目先をはたらかす機会主義者(オッポチュニスト)になった。機会主義者の少数は追従と贈賄との巧みな使い方で案外な現世の幸福を得たし、隠者的な人たちは、その文学精神を鋭くすることによって、あてのない現実の生活から真珠を分泌(ぶんぴつ)させたのである。」
(風巻景次郎 『中世の文学伝統』 より)


風巻景次郎 
『中世の文学伝統』
 
岩波文庫 青/33-171-1

岩波書店
1985年7月16日 第1刷発行
1991年12月16日 第3刷発行
248p
文庫判 並装 カバー
定価520円(505円)



本書「編集付記」より:

「底本には『中世の文学伝統』(一九四七年、角川書店刊)を使用し、「ラヂオ新書」版(一九四〇年、日本放送出版協会刊)ならびに『風巻景次郎全集』第五巻(一九七〇年、桜楓社刊)を参照した。」
「表記を新字体、現代仮名づかいに改め、漢字語の一部を平仮名に変えた。」
「底本では西暦と皇紀が併用されているが、西暦に統一した。」



風巻景次郎 中世の文学伝統  01


カバー文:

「風巻景次郎(1902―60)は、日本文学史の書きかえを生涯の課題とした。本書は、上代における和歌の成立からはじめ、『新古今集』『山家集』『金槐集』など中世300年の代表的歌集とその歌人たちを通覧することで和歌こそが日本文学をつらぬく伝統だと論ずる。鮮烈な問題意識をもって日本文学の本質に迫る力作。」


目次:

改版の序

一 うたとやまとうた、漢詩と和歌、詩と歌、和歌と短歌
二 中世、和歌は中世文学の主軸、物語は文学でない性質を含んでいる、勅撰和歌集、二十一代集、『古今集』の伝統が『金葉』『詞花』で衰える、『千載集』の後また『古今集』伝統が復活する、これが中世文学の開始である、藤原時代芸術の特色、その『金葉』『詞花』への反映は和歌の危機を意味する
三 藤原俊成、隠者文芸、『千載集』、その特色、抒情性の優位、幽玄
四 西行法師、『山家集』、実人生への敗恤と交換した文学精神
五 『新古今集』、その特色、錦繡的妖艶、後鳥羽院の御趣味、『新古今』撰定前の歌界、若き定家
六 『新古今集』の撰定の経過
七 後鳥羽院、院の御製と新古今時代廷臣の歌とは別の所から生れている
八 源実朝、『金槐集』、実朝の歌の多くは風流の歌である
九 老いたる定家、歌に対する見識の変化、世間的幸運
十 『新勅撰集』、新古今調からの離脱、世襲の芸道の建立、有心、歌における「詩」の喪失の警告、「詩」を培うものとしての漢詩、漢詩と和歌との融合
十一 為家
十二 二条・京極・冷泉三家の分立、持明院統と大覚寺統、分立の意義、為世歌論の保守主義、為兼歌論の新鮮さ、『玉葉』の歌と『新後撰』『続千載』の歌と
十三 吉野朝時代の勅撰和歌集
十四 鎌倉末この方の自然観照、天象が景色の重要な要素となる、『玉葉』『風雅』の叙景歌の功績、頓阿の歌、牧渓水墨山水に触れた心
十五 宗良親王、『新葉集』
十六 室町時代に歌は芸術であることをやめ始める、今川了俊、正徹、尭孝の理論、正徹と尭孝との定家の立て方
十七 東常縁、老年の定家を立てて『新古今集』を排斥する、宗祇、古今伝授
十八 歌道はまさに消えようとしていた、結語

解説 (久保田淳)




◆本書より◆


「五」より:

「彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)は『新古今集』の歌にふさわしい言葉である。そして欠陥も実はその点にある。しかしそのことは、実は和歌文学が「詩」をまもるために如何に超剋(ちょうこく)すべく困難な時代へ乗りかけてきていたかということを物語るものなのである。単に野放図(のほうず)や遊戯的態度からしては、『新古今集』を性格づけるような声調は彫(きざ)み出されては来ないのである。そこには意志の緊張が要(い)る。彫り出すものの像をたえず虚空に見つめ得る眼が要る。自分がはじめて浮べ得た夢想を具体的に描き出しうるために、人は永久に覚めていねばならぬ。これまで使っていた言葉が、子供のときからの仕つけによって無批判に用いていたところの、兄姉や教師や先輩やの言葉に過ぎなかったことに気附き、これまではそれらの言葉にはめ込むために、自分の感じたもののあちらこちらに鋏(はさみ)を入れて切りこまざいていた不誠実に気附いて、今度は自分の幻影をあくまで形象の上に捕えようと無限の奥所まで追及の歩を緩めないでゆくためには、無限に緊張した注意力と、冷徹闇(やみ)をも透す明眸(めいぼう)とが要るのである。定家が『詠歌大概(えいがたいがい)』で、和歌に師匠なしといったのを知ったとき、私どもは現代における創作行動への観察と批判との結果に等しいものを、彼もまた獲得していたことを感じなければならなかったのである。」
「かりに定家を今しばし例に引けば、彼は憑(つ)かれた者であった。彼の眼には、和歌文学の伝統が生れてこの方、誰もまだ捕えたことのなかった幻影が映っていた。それはつまり、彼の生理心理的な実感として感じられつつあったところの、思想や伝統や世の有様や我が家の有様やの錯綜した全体であった。新しい表現の対象は、職人的な器用さや、使いきたりの鋳型で間に合うことはない。同じように春の夜や、桜や、秋風やをとり上げても、『古今集』の人たちがとり上げたそれらとの間には越えがたい隔りがあった。」

「俊成や西行の時代にはめきめきと隠者が生れていった。この時代の若い世代の人々は、僧形(そうぎょう)になるとならぬにかかわらず、つきつめた者の心情はすべて隠者的である。でない者は目先をはたらかす機会主義者(オッポチュニスト)になった。機会主義者の少数は追従と贈賄との巧みな使い方で案外な現世の幸福を得たし、隠者的な人たちは、その文学精神を鋭くすることによって、あてのない現実の生活から真珠を分泌(ぶんぴつ)させたのである。つまりそうした精神にとって、現世の生活は創造の素材ではなくて、これまであった芸術は心をいたわりにかえる古巣として見直されたのである。
 この時代に心をやるべき古巣の最もよきものは和歌であった。人々はこの四百年来の古巣にたてこもって、自らをそれに準拠させながら、自分自身の「詩」をうたおうとしたのである。この古き革袋(かわぶくろ)を今に生かして新しい酒を盛る営みのために、彫心鏤骨は生れ出たのである。
 すでに諸君も諒解されたであろうように、そうした生活において、何か生気にみちた新時代があるだろうか。真に新しいものは自らの形を結晶させる。その意味において、『新古今集』もまた、原理的には新しいものを所有していないにちがいない。問題はただ古きを知って古き形式に愛着を感じるところの、虚無の熱情というべきものである。あれだけ美しい創作がっできれば虚無の情熱もまた文化の誇りである。それにまた、『古今集』に発した芸術伝統は、このように現実の生活を釣り換えにしなければ本当の花を開かないのだということが、日本文学史の上で証明されたも同様である。」


















































































『舞曲扇林・戯財録 附 芝居秘伝集』 守随憲治 校訂 (岩波文庫)

『舞曲扇林・戯財録 
附 芝居秘伝集』 
守随憲治 校訂
 
岩波文庫 黄/30-2601 

岩波書店
1943年6月15日 第1刷発行
1990年3月8日 第2刷発行
187p
文庫判 並装 カバー
定価310円(本体301円)
カバー: 中野達彦



本書「凡例」より:

「底本に選定した中で、戯財録の方は、終に原自筆本を發見するに至らず、現存の寫本によつたのであるが、數種何れも誤寫があつて、何れを善本と定めることも出來ぬので、出來るだけ後世に誤讀の跡を殘さぬ限度に於いて、研究の上適宜讀下しておいた。」
「戯財録と芝居秘傳集とは甚しい誤字や宛字は訂し、假名遣も大體今日普通用ゐられるのに正したが、なるべく原形を尊重する方針をとつた。舞曲扇林の方は、讀み癖宛字に特色があるので、諸本に見える錯簡を訂正した以外には殆ど手を加へなかつた。」
「挿繪はすべて收めた。」



正字・正かな。本文中図版。


舞曲扇林 戯財録


カバーそで文:

「舞曲扇林(ぶきょくせんりん)・戯財録(けざいろく) 附芝居秘伝集
歌舞伎の舞踊に関する正しい伝統、本質、性格を説いた『舞曲扇林』に、古来からの歌舞伎の脚本創作の方法、約束事を叙述した『戯財録』を収める。」



目次:

舞曲扇林 (河原崎權之助)
 序
 一 白拍子男舞の始
 二 時花(いまやう)の始 付リ 朗詠の事 並ニ 靜御前事
 三 女樂(ぢよがく)芝居の始り
 四 傾(かぶき)といひ初し事
 五 哥舞妓と書し事
 六 小野お通(つう)事 付リ 遊女に太夫と云事
 七 若衆哥舞妓始り 付リ 四條河原芝居の始
 八 町に女子の藝者有事
 九 六方とさる若の事
 十 十六番小舞の始り
 十一 都見事(けんじ)事 付リ 今やう傳(でん)〱の事
 十二 時花(いまやう)六(りく)態の事 付リ 能と今やう字割 並ニ 六態の次第
 十三 六態鏡(かゞみ)の事
 十四 夢路の花
 十五 舞の四病(びやう)の事
 十六 弓と舞の事
 十七 舞の備の事
 十八 程拍子の事 付リ 程拍子鏡の事
 十九 程拍子數用(すうようの)事 付リ 本間(ほんま)今やう拍子割 並ニ 脉(みやく)ひやうしの事
 二十 過不及の事 付リ 同鏡
 二十一 舞の心業(げう)の事 付リ 戀 並ニ 狂亂
 二十二 今やう異見の事
 二十三 物眞似藝の事 付リ 後者鏡
 二十四 古今の若衆方 同若女方
 二十五 江戸狂言作者
 二十六 今樣藝古來の事知 並ニ 狂言所作爲(つくり)
 二十七 江戸・京・大坂芝居座元の始り 並ニ 今樣萬事の根元
 二十八 伊勢踊始 付リ 作男(だておとこ)五哥仙
 
戯財録 (入我亭我入)
 序
 一 作者之名差別之事
 一 假名物語作者連名之事
 一 浄瑠璃作者連名之事
 一 歌舞妓作者連名之事
 一 作者大悟法式秘傳之事
 一 看板文字數口傳之事
 一 割藝題場數口傳之事
 一 附幷双方對句之事
 一 東西段書曲文之事
 一 三都狂言替り有る事
 一 狂言縱横之筋有る事
 一 四季見物人情差別之事
 一 狂言場所工合之事
 一 古人上手作者金言之事
 一 作者請取役場心得之事
 一 役者出工合役場心得之事
 一 役者出合甲乙附方之事
 一 役割番附位上下之事
 一 表八枚看板古今替り有る事
 一 作者支配心得之事
 一 作者番附居所善惡之事
 一 江戸番附居所荒增之事
 一 藝題繪看板書樣之事
 一 一夜附狂言書樣之事
 一 役者甲乙納樣口傳之事
 一 作者出勤仕樣口傳之事
 
芝居秘傳集 (三升屋二三治)
 序
 一 三津五郎梅の由兵衞
 二 木戸の呼もの
 三 火繩の聲番
 四 頭取河東節の口上
 五 東棧敷屋根階子掛ける事
 六 角力の太鼓
 七 角力の狂言
 八 操り座より歌舞妓出勤
 九 受領豐後掾
 十 作者本讀の密傳
 十一 即席わたり法
 十二 半四郎妻
 十三 竹之丞寺
 十四 菊屋何文
 十五 紀州の姫君助六見物
 十六 帳元榮屋甚兵衞板圍
 十七 門之助座敷道成寺
 十八 提灯の幽靈
 十九 團十郎給金の手付
 二十 半太夫河東
 二十一 十寸見蘭州
 二十二 棟梁長谷川
 二十三 中藏日記
 二十四 河竹名文
 二十五 白猿勝手の空せりふ
 二十六 荒事素足
 二十七 團藏葱賣
 二十八 正本の紙員
 二十九 名題看板
 三十 仲藏の替紋
 三十一 同關兵衞の拵へ
 三十二 揚卷三人へ傳授
 三十三 菊之丞老年の早替り
 三十四 三津五郎釣看板
 三十五 市川荒五郎初名題
 三十六 並木五瓶が魂
 三十七 五大力
 三十八 近頃怪談の元祖
 三十九 松助袴着用
 四十 勘亭一流
 四十一 道成寺傳授
 四十二 虚無僧の掟
 四十三 暫の柿の素袍
 四十四 三日月おせん
 四十五 團十郎鎌○ぬ
 四十六 夜雨庵白猿
 四十七 八代目自殺
 四十八 先祖祭り
 四十九 芝居人別
 五十 女形大坂より登り下り
 五十一 新下りの書状
 五十二 助六吉原廻り

解説



舞曲扇林 戯財録 02



◆本書より◆


「舞曲扇林」より:


「舞の心業」:

「○今やうの所作世上の事もるゝ事なし。中にも十が七ツは戀のしよさなり。うかうかと聲雅に任せ舞たらんは所作に移るまじ。戀の聲雅、みな心業の事なれば、曲つけにくきものなり。さればこそ常に伊勢物語などの戀哥吟じ、よく知る人に其深理を尋、其意(こゝろばせ)を知、其道をよくうつしなば、天然と其意所作に移りておもひゐれ外にあらはるべし。おもはゆきことも心からこそなすべけれ。うはの空にすべからず。おのづから常の風俗(ならはし)も優(やさ)ならんに。」

「狂亂」:

「○妻をしたふあり、子をかなしむあり。よくよくおもひゐれずは、狂亂にはみへまじき事也。見ゆる所のふりは聲雅に依て有べし。妻の事我子の事おもふゆへに狂亂になりたる事なれば、月花をみるとても妻子の事忘る事なく、目にするがごとく所作せば心ぞ外にあらはれてよく移るもの也。今は古來より上手あまた有べけれども、萬事不吟味に成きたり、藝のたしなみ無之ゆへ、古來のものゝごとく名をしとふものなし。右にいふゑびす屋吉郎兵衞狂亂ごと上手にて、中にも關寺得ものにて有しが、拍子をつよく踏、かるがると所作をなせり。有人の云。「百とせの狂女がかほど達者には有まじ、狂らんなればこゝろはさも有べし、五躰はこれほど達者には有まじき」と申されき、勿論也。工夫たらぬなるべし。近き比、中村傳九郎狂亂のしよさ有しが、こゝろ外にあらはれ、見物も移りてほめたりし。藝者は万に心つくべき事也。」


「戯財録」より:


「作者金言之事」:

「一、狂言は何を目當に作るぞと尋ねし者あり。答へていふ。狂言はつれづれの文にある白うるりを目當にするといひ終つて歸る。問ふ人感心せしとなり。白うるりといふものは、あつたらこんな物であらうと推量してゐるところが作者なり。天子・將軍の行跡見たこともなし、乞食・盗賊につきあひたることはなけれども、こんなものであらうと、人情を推量して作るが白うるりなり。今世にいひ傳へ聞き傳へすること、戯場より出たること多し。これ作者の大丈夫白うるりより定め出せしものなり。この心持にて萬事仕組む時は、趣向古くても見ざめのせぬやうに鎌を入れ衣をかけて新狂言にすることなり。そうじて机にゐる時、三千世界はわがものと思ひ、向ふ敵なしと心得、役者はわがものにして遣ふべし。さもなくば筆すくみ氣がねばかりが心に浮み、見物の人氣を動かす事あたはず。一通り筋立てたる跡にて、役者の甲乙にしたがひ加筆すべし。(中略)大座には立者多く、めいめい當てんと先陣を爭ひ、すれ合ひの味方討あるものなり。小座は立者の勇士少く、すれ合ひなく、互に端役までも出て力をつけ合ひ、外芝居の大座に負けまいときしむ故、いちづに狂言もはづみがつきて、仕生けて大座に勝つこと毎度ためし多し。我意を挾み、依怙贔屓に役者の例を亂すべからず、甲乙により役をみるべし。君子は重からざれば位なし。ずいぶん身持よろしく内兜をみられぬやう、諸卒を心にて案じ、場に籠城して狂言の計略を工夫すべし。」



「芝居秘傳集」より:


「十八 提灯の幽靈」:

「菊五郎お岩にて提灯の内より初めて出たるは、南北・梅幸が工風に非ず、長谷川勘兵衞工風にて菊五郎へすすめる。同人はどうして出らるるやら更に呑込めず、勘兵衞、盆提灯の二番を買つて來り、眞中糸の骨のかかり二間切つて捨てたり。切りたる糸のつなぎへ張金にてくくり付け、紙をはり、尤も前と後、通り抜けに切りたり。梅幸細工場へ來て見て、「是では小さからう。一番の提灯が宜からう。」といへば、勘兵衞笑うて、「大きい中より出るは誰でも出られます。小さい内から如何して出られると思はせねば面白くなし。」といふ。「顏が出たら前へからだずつと張つて出、前へ下より撞木突上ぐれば此の撞木に手をかけ、撞木の棹には足の懸民ついてあれば自由にて、其の儘撞木舞臺の下へ引下ぐる。提灯の後より八樋を突出す。是にて出らるる道理。」といふ。梅幸感心して其の通りにやり評判よく、世の中では梅幸が工風と今にいひ傳ふ。」

「三十八 近頃怪談の元祖

「昔、怪談事初めたる役者ありしが、尾上松助松綠が元祖といふべし。此松助は、初代菊五郎の門弟にて、大坂より娘形にて下り、後、元服して立役と成る。松助、元來細工に妙を得たり。「忠孝兩國織」とて忠臣藏の書替を狂言に、師直を勤めしが、自分の首を自作にて彫り、舞臺にて之を遣ひ、松助の首の有る所へ松助が出て來る趣向。見物目を驚かし、誰が見ても正眞の松助の首に相違なし。殊の外評判よく、是、似顏の首の元祖といふ。後に、人形町の鼠屋五兵衞の息子福藏といふ者、幸四郎・半四郎、其の外似顏の首をほりてはやらせたり。
 松助は、怪談物早替りの仕懸等、皆自分の考にて至極手輕くやつたり。累の幽靈にて、蓮池の蓮の葉の上を渡りたる事あり。是は、蓮の葉の下へ黑き臺を拵へ、上にしたし、此の葉の上を渡りしなれば、雜作もなき事なれど、見物の見た目では不思議だというて肝を潰したり。
 後、提灯より出る幽靈も、伜菊五郎と長谷川道具方との相談にて拵へたり。此の外、工風あまたあり。又お岩と小佛小兵衞の戸板返し、累、唐瓜に眼鼻などのつく仕懸は、鐵炮町人形屋政・福井町の勘治と云ふ者の作なりと。」





こちらもご参照ください:

守随憲治 校訂 『役者論語』 (岩波文庫)































































『松浦宮物語』 蜂須賀笛子 校訂 (岩波文庫)

『松浦宮物語』 
蜂須賀笛子 校訂
 
岩波文庫 黄/30-041-1 

岩波書店 
1935年1月25日 第1刷発行
1989年3月17日 第5刷発行
138p
文庫判 並装
定価300円



本書「凡例」より:

「本書は、蜂須賀家所藏傳後光嚴院宸翰松浦宮物語を底本としたもので、漢字、假名遣、送假名また歌の書樣等、凡て原のまゝとした。」
「變體假字は、便宜上之を普通のものに改めた。また、新たに句讀を附した。」



「まつらのみやものがたり」。正字・正かな。
本作が藤原定家の作とされる根拠は、「無名草子」に、最近作られた物語は古い物語に及ばない、「たかのぶ」の「うきなみ」などもそうだし、「又定家少将の作りたるとてあまたはんべるめるは、ましてたゞけしきばかりにて、むげにまことなきものどもに侍るなるべし。まつらの宮とかやこそ、ひとへに萬葉の風情にて、宇津保など見る心地して愚なる心も及ばぬやうに侍るめれ。」とあるのを、定家作の物語のうちで松浦宮だけは優れている、と解してのことだとおもいますが、それは無理です。この文脈では明らかに「侍るなるべし」で切れているので、隆信や定家による物語はダメだが無名作者による「松浦宮」はよい、といっているので、むしろこれは定家作でない根拠になります。


松浦宮物語


帯文:

「失恋の痛手を負って唐に渡った主人公はかの地の内乱を鎮圧、やがて皇女・后らと契りを結ぶ。藤原貴族社会の儚い夢を描いた物語。」


目次:

凡例
本文
附録 松浦宮物語考 (小山田與清 著)
解説 (蜂須賀笛子)




◆本書より◆


「松浦宮物語解説」(蜂須賀笛子)より:

「梗概 〔一の卷〕昔藤原の宮の御時、正三位大納言中衞大將橘冬明が、夫人あすかのみことの間に、たつた獨持つてゐた男子が、容貌がすくれたばかりでなく、其心柄も立派で、世の人さへ皆さういふ方が産れた事を喜んでゐた。七歳で詩をつくり、成長するに從つて、管絃も上達して、出藍の譽があれがあつた。帝もその天才を珍らしいものと御覽になつて、十二歳で早くも敍爵し、十六歳では式部少輔右少辨、中衞少將となり、從上の五位となつた。かうして辨は親からも又世間からも、ほめられゝばほめられる程、若い氣持をどうすることも出來ないで惱んでゐた。
 神なびのみこ――皇后の御腹で美しい評判の御方――をどうかして得たいと思つてゐたが、九月の菊の宴の後に、初めて御目にかゝる事が出來た。
 おほみやの庭の白菊秋をへてうつらふ心人しらんかも
 秋をへてうつろひぬともあだ人の袖かけめやもみやのしら菊
 などゝ贈答をされたが、神なびの女王は入内される事にきまつて、失戀の苦しみになやむこととなつてしまつた。その時、翌年遣唐使を出される事となり、辨はその副使として唐へつかはされる事となつた。正使は式部大夫參議安倍の關麻呂である。
 獨り子の、然も天才兒である辨を、外國へ出さねばならない父母の心配は一と通りではない。母君などはこの國の堺をはなれる事が出來なくとも、といはれて、前の年から松浦の山に宮をたてゝ、愛兒の歸朝を待たれる事となつた。
 僅か十七歳の身が、はるはると使した事によつて、唐の皇帝は特別な待遇をされ、いつくしみをうけて、幸福に、然も外國にゐるといふつゝしみから、猶一層の謹嚴な生活を送つてゐた。
 一夜――それは八月十五夜であつた。――月にさそはれて郊外を散歩した。陶弘英といふ八十の老翁の手引で、華陽公主――皇帝の同腹の妹――から琴を習ふ事となつた。これはこの世に仙人の彈く秘曲をつたへる爲の因縁なのである。華陽公主の美しさに、ともすれば亂れがちになるのを、こゝは仙人が通ひくる臺(ウテナ)なればと公主はいはれて、禁中五鳳樓のもとであふ約束をする。
 公主がこの世に産れたのは、只、琴の秘曲を傳へようが爲で、若し契を結ぶやうな事があつたなら、命はたちどころに召されることになつてゐるが、命をかけてもあはうとの思ひならばとて、その約束をはたして、水晶の玉を形身に與へ、日の本の初瀨の寺に、この玉を持つて、三七日の法を修するやうと賴み、又自分が手ならした琴を、白い扇で空にあふぎあげて契たえずは再びあはむとのかね言をして、急に公主は逝去される。引つゞいて、前から御病氣にかゝられてゐた皇帝が、崩御せられたので、國内がにはかにさわがしくなり、まだ御幼少な太子と、御かくれになつた皇帝の御弟の燕王とが、國を爭つて、大亂を捲き起してしまつた。そして、太子と御母后とは都落をせられる事となつた。
 〔二の卷〕 時は十月廿日頃なので、四方の景色も心細く、只天子の印の旗ばかりが淋しくはためいて、遂に蜀山へ迄追ひつめられてしまつた。敵の大將は虎の心があるといふ宇文會その人である。御母后はつき從つて行つた辨に、賴む事が切である。御辭退しかねて、本國にゐた時には、弓矢などはどう持つかさへ知らなかつたのであるが、只命をまとにしてむかはうと、日本の佛神を祈つて、宇文會と戰つたのである。いつとはなしに四人五人と影武者が現はれて、遂に宇文會を討ちとり、その一黨八人をも平げる事が出來たのである。そして太子御母后は、都へかへられる事となつた。
 辨は思ひもかけず大功をたてたのであるが、殆ど夢心地である。ふとやすんだ夢で神から(住吉の神)
 浪の外きしもせざらむさとながらわが國人にたちは離れず
 とて甲冑を賜つた。覺めて見ると現在前におかれてある。すつかりたのもしくなつて、その甲冑を身につけて、都へ還へらるゝ先導をして行く。
 都へ還御なられてからは、早朝から召され、新帝の御學問の御相手をし、政事にまで關與する事となつた。遂には外國人をそこ迄用ひらるゝ事を嫉むものも出來、辨は日本へ歸り度い氣ばかり起つて來る。御母后はしきりととめられる。そしてかうして賴りにせられる御心に、辨は次第に引かれる。けれども謹嚴な人である上に、あの玉を身にそへてからは、決して亂れた心などは起さなかつたが、
 おもふとも戀とも知らぬ面影の身にそふとこは夢もむすはず
 といふやうになつてしまつた。悶々の情をはらさうと散策に出かける。諒闇なので市中は音樂の音さへしないのに、簫の聲がきこえてくる。月、梅の香などを背景として簫といふものゝよさをはじめて感じさせられる。そして、その簫をふいてゐた女と一夜のちぎりを結ぶ。しかし、素性も何もわからない。晝は新帝の御相手をし、夜はそのわからない女を戀しがつてゐる。或夜ふとあの夜の梅の香がして、女がおとづれる。それも現だか夢だかわからないうちに、單衣をぬぎすべしてかへつてしまふ。
 一日御講書が終つてから、御母后に御目にかゝる。そのさがしてゐる女と、ふと似かよつてゐるのでびつくりする。若しか御縁引きの御方でもあるかなどゝ思ふけれど、そんな方もいらつしやらない。かねてからの歸國の御願ひを、御母后はしきりととめられる。然し又神が導かれる因縁を持つてゐる人なのだから、無理にとめるといふ事は、かへつて恩を知らない事になるとも仰せられる。辨はかうして、戀の山路にふみ迷つてゐる事が恥かしく、やはり夏になつたら出帆させていたゞき度いと御願する。
 然しやはり女の事ばかりが戀しくて、曉方ちかく迄寢られないでゐる。ふとあの香がして人のけはひがする。嬉しくて色々の物語をする、けれども、雲とも霧ともわからないはかない女とのちぎりは、またしても御母后の面影を見出しては、はつとする。
 あだにたつ朝の雲のなかたえばいづれの山をそれとだに見む
 妖怪變化のものかと思ふ時もさすがにあるが、どうしても思ひきる事が出來ない。けれども、その雲の行方をしたふばかりに、出帆をのばすことも出來ず、煩悶に煩悶をかさねてゐる。
 〔三の卷〕 かゝる惱みの爲にも、かくまでいそがれた古郷への旅が、何となく心殘りがして、口實をまうけては秋まで延ばしてしまふ。
 然し、のばしたからとて、その女にたよりが出來るのでもないので、そのなやましさはどうする事も出來ない。その上、御母后の追風が、ふとそれかと思はれるので、かへつて苦しさがまさるやうな氣がするけれども、それはとんでもない月の桂で、何とする事も出來ない。
 廿日頃になつて、或日、御階のもとの牡丹を一枝折つてかへる。その夜やうやう女が來る。「あしたの雲」、といふ許りで何も教へないのを恨むので、その女は、牡丹の枝をしをりとして尋ねるやうに、といつて、その一枝を持つて歸つてしまふ。翌日すぐにも尋ねたいと思つたけれど、早朝から、政事がいそがしくて、その餘暇が得られない。やうやういつかの梅の山里に來て見ると、夏草が生ひしげつて外は人が來たやうにも思はれないのに、きれいにはいた家の中に、この牡丹の花びらが、色もあせずたゞ一ひらあるばかり、やはりたづね知る事は出來なかつた。
 六月廿日に、いよいよ都を退く事となつた。十日頃の或夜、月の清い折に、御母后は色々と話をされる。一たん入らせられたが、
  「時すぎた花の一枝を、けふまで惜しんでとゞめ置いた心を、さぞもどかしく思つてゞあらう。」
 と仰せられて、あの牡丹の一枝を返して下さつて、かうした夢のやうな事も、眞實を打あけなかつたら、罪作りな事となつてしまふから、とおつしやつて、
  「宇文會は阿修羅の産れかはりで、我國をほろぼさうとしたのを、先帝が、玄弉三藏を使として、天帝に愁訴せられたので、第二の天衆であつた私を、天上からしばらくのいとまを賜はつて、下界へ下だし、私をたすける爲には、天童であつた人に弓矢を賜はつて、阿修羅の化身を討たすことになつたのであるが、我國には、さうした縁を負ふ人がないので、日本の國の住吉の神に仰せられたのです。それがあなたなのです、だから前世のよしみで、かうした縁も出來たのです。思ひ出した時には、これを、」
 といはれて、小さい箱の鏡を渡されておはいりになつてしまつた。」
「いよいよ出發となつた。御母后の御心づかひ、種々な賜物のある中に、華陽公主の持ちならされたものまで下さつたのである。
 歸朝した辨は、參議右大辨中衞中將となつた。松浦の山に待ちこがれてゐられた母君とのよろこばしい對面は、いふまでもない。直ちに初瀨に於て、三七日の法を修する事となつた。何處ともなく琴の音がきこえて來て、華陽公主とあふ事が出來た。飛んでいつた琴までも、飛んでかへつて來たので、二人は、心のかぎり調べあはしたのである。
 神なびの女王は、人が變つたやうな辨の仕向けを、ねたましく思はれるけれど、入内されてゐては、どうする事も出來ない。
 そして、靜かな寺ごもりの序に、靜かな氣持で、鏡をあけてみる。その中には、もう先帝の諒闇もあけたので、紋のある召物を召した御母后が、あの池殿にいらせられる所がうつつてゐる。あの香りさへするではないか。
 夕暮になり見えなくなつたので燈をつける。かへつて鏡の面に反射してよく見えない。懷にだいて泣いてしまふ。夜も更けて、待つてゐられる宮(華陽公主の後身)も氣掛りになり、急いで歸る。宮はふと前世に於てかぎ慣れた御母后の匂ひを、辨の着物から感じてあやしまれる。
  「しらぬ世も君にまどひし道なればいづれのうらのなみかこゆべき」そんな邪推をするものではない。」
 と辯解しながらもほろほろとなみだがこぼれる。そして琴の秘曲を世に傳へなければならない爲に、かうした珍らしい因縁が結ばれて行く事を、つくづく考へさせられたのである。」

























































































































今川文雄 編訳 『明月記抄』

「世上乱逆追討耳に満つといへども、之を注せず。紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾が事にあらず。」
(『明月記』 より)


今川文雄 編訳 
『明月記抄』


河出書房新社
昭和61年9月20日 初版印刷
小輪61年9月30日 初版発行
422p
A5判 丸背布装上製本
貼函
定価6,180円(本体6,000円)



「明月記」は藤原定家の日記。河出書房新社からは本書以前に今川文雄訳『訓読 明月記』全6巻が刊行されています。


明月記抄 01


帯文:

「「明月記」の深い森に分け入る
中世動乱期の克明な歴史記録として、和歌史の貴重な文献として、定家自身の内面を記した文学的作品として高い価値を持つ漢文日記「明月記」。その厖大な記事の中から重要部分を選出し、難解な漢文を訓読して懇切な頭注を付した、読みやすい「明月記」のエッセンス!」



帯裏:

「定家の総合的人間像
今川文雄
 公卿が日記をつけるその主目的は、生活に必要な有職故実を記録し、後世子孫に伝えんがためである。したがって、その内容たるや、現代の我々には凡そ意義のない、無味乾燥なものが多い。公卿日記たる明月記も、この例にもれるものではない。がしかし、只一味違うものが随所に見出される。
 (中略)
 本書には、歌人として、或いは古典学者としての定家は言うに及ばず、その個人的・家庭的・経済的ないしは処世的な側面も含む――いわば定家の総合的人間像を浮き彫りにすべく抄を試みたつもりである。本抄を読んでいただければ、明月記のあらましは分っていただけるかと思う。
(「あとがき」より)」



目次:

治承年間
 治承四年(十九歳)
 治承五年(二十歳)
文治・建久年間
 文治四年(二十七歳)
 建久二年(三十歳)
 建久三年(三十一歳)
 建久七年(三十五歳)
 建久八年(三十六歳)
 建久九年(三十七歳)
正治年間
 正治元年(三十八歳)
 正治二年(三十九歳)
建仁年間
 建仁元年(四十歳)
 建仁二年(四十一歳)
 建仁三年(四十二歳)
元久年間
 元久元年(四十三歳)
 元久二年(四十四歳)
建永・承元年間
 建永元年(四十五歳)
 承元元年(四十六歳)
 承元二年(四十七歳)
建歴年間
 建歴元年(五十歳)
 建歴二年(五十一歳)
建保・承久年間
 建保元年(五十二歳)
 建保二年(五十三歳)
 建保三年(五十四歳)
 建保四年(五十五歳)
 建保五年(五十六歳)
 建保六年(五十七歳)
 承久元年(五十八歳)
嘉禄年間
 嘉禄元年(六十四歳)
 嘉禄二年(六十五歳)
安貞年間
 安貞元年(六十六歳)
寛喜年間
 寛喜元年(六十八歳)
 寛喜二年(六十九歳)
 寛喜三年(七十歳)
貞永・天福年間
 貞永元年(七十一歳)
 天福元年(七十二歳)
文歴・嘉禎年間
 文歴元年(七十三歳)
 嘉禎元年(七十四歳)

あとがき (今川文雄)



明月記抄 03



◆本書より◆


「治承四年(一一八〇) 十九歳」より:

「○二月
十四日。天晴る。明月片雲(1)無し。庭梅盛んに開き、芬芳(2)四散す。家中人無く、一身徘徊す。夜深く寝所に帰る。燈髣髴(3)として猶寝に付くの心無し。更に南の方に出で梅花を見るの間、忽ち炎上の由を聞く。乾(4)の方と。太(はなは)だ近し。須臾(5)の間、風忽ち起り、火は北の少将の家に付く。即ち車に乗りて出づ。其の所無きに依り、北小路の成実朝臣の宅に渡り給ふ。倉町等片時(へんじ)に煙と化す。風太だ利(と)した。文書(もんじょ)等多く焼け了んぬ。」

「〔十四日〕父俊成の家焼ける。
1、一片の雲。2(ふんぽう)よい香り。3(ほうふつ)彷彿。ぼんやりと見えるさま。4(いぬい)北西の方角。5(しゅゆ)しばらく。6、藤俊成。」

「○九月
世上乱逆追討耳に満つといへども、之を注せず。紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾が事にあらず。」



「建久七年(一一九六) 三十五歳」より:

「○四月」
「十七日。陰り、申後雨降る。刑部(1)卿参入し、世間の雑談等を申す。「新日吉に近日蛇有り。男一人其の蛇に随ひ、種々の狂言(2)を吐き、『蛇の託宣』と称ふ。又云ふ、『後白河院の後身なり』と。此の事不便なり。奏状を書き進むと。殿下(3)仰せて云ふ、『是れ追ひ払ふべき事なり。故院(4)甚だ見苦しき事なり』と。又、天王寺の舎利(5)(或は聖人。)鱗介(6)の如くハヒアリき給ふ。人又競ひ見る」と。」

「〔十七日〕世間に種々の狂言あり。
1、藤宗雅。2、たわごと。妄語。3、関白兼実。4、後白河院。5(しゃり)聖人の遺骨。ここでは高僧の意。6、(りんかい)魚類と貝類と。」


「不便」は「(ふびん)気の毒な。不都合な。」


「承元元年(一二〇七) 四十六歳」より:

「○七月
四日。陰晴し、雨灑ぐ。天明に退出するの間、去々年より養ふ所の猫放犬(1)のために噉(く)ひ殺さる。曙後放ち出すと。年来、予は更に猫を飼はず。女房此の猫を儲くるの後、日夜之を養育す。悲慟の思ひ人倫(2)に異らず。鶴軒に乗り、犬綬を帯ぶるを恥づといへども、三年以来掌上・衣裏に在り。他の猫時々啼き叫ぶ事有るも、此の猫其の事無し。荒屋の四壁全からず。隣家と其の隔て無きが如し。放犬多くして致す所か。」

「〔四日〕妻の愛する猫、放犬に噛み殺される。
1、野犬のこと。2、人間。3、軒(けん)は高官の車。「鶴を可愛がるあまり車に乗せる」の意。和漢朗詠集、巻下「鶴」参照。」





こちらもご参照下さい:

『藤原定家歌集 附 年譜』 佐佐木信綱 校訂 (岩波文庫)
久保田淳 『藤原定家 ― 乱世に華あり』 (王朝の歌人 9)
安東次男 『藤原定家』 (日本詩人選)




































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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