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『堤中納言物語 付 現代語訳』 山岸徳平 訳注 (角川文庫)

「思ひとけば、物なむ恥づかしからぬ。人は夢幻(ゆめまぼろし)のやうなる世に、誰かとまりて、悪しきことをも見、善きをも思ふべき」
(「虫愛づる姫君」 より)


『堤中納言物語 
付 現代語訳』 
山岸徳平 訳注
 
角川文庫 2201/黄 二三 1 


角川書店 
昭和38年12月20日 初版発行
昭和57年8月10日 23版発行
264p 
文庫判 並装 カバー
定価380円
カバー: 栃折久美子



本書「凡例」より:

「本書は、十冊本になっている桂宮御本二本の中の一本を底本に用いた。しかし、桂宮本のままの複刻ではない。復原的な意味の批判と校正を加えたものである。」
「この物語を構成する十篇の各篇の成立は、おのおの異なるので、各篇の篇首に要旨、題名の由来、成立、作者について略述しておいた。」
「脚注は、解読に便なるように、能うかぎりしるしたが、(中略)出典・語義・用例などに関する詳細は省略した。」
「現代語訳は、それぞれの場面における心理状態や、言葉の省略、すなわち、省筆の部分や背景になるような点で、表現層の理解を深め、鑑賞を豊かにするに必要と思った事柄は、なるべく括弧に囲んで記載した。」




『竹取物語』と本書所収「虫愛づる姫君」は、本邦変わり者文学の双璧ではなかろうか。



堤中納言物語 01



カバーそで文:

「「花桜折る少将」ほか10篇の清新な短篇小説を集めたもので、同時代の宮廷女流文学には見られない特異な人間像、尖鋭な笑いと皮肉をまじえて描いた近代文学的作風は単に世界最古の短篇小説集というだけでなく、文学史上きわめて高く評価される。各篇の初めにそれぞれのあらすじ・作者・年代・成立事情・題名について解説する。」


目次:

凡例

堤中納言物語
 花桜折る中将
 このついで
 虫愛づる姫君
 ほどほどの懸想
 逢坂越えぬ権中納言
 貝合
 思はぬ方にとまりする少将
 花々のをんな子
 はい墨
 よしなしごと

現代語訳

解説
索引




堤中納言物語 02



◆本書より◆


「花桜折る中将」:

「あらすじ」より:

「夜深く女の家を出て帰途についた主人公の中将は、とある桜花の咲きにおう荒れた邸で物詣でに出かけようとする美しい姫君をかいま見る。あとで出入りの者に聞くと、故源中納言の女で入内も近いという。その前に姫を盗み出そうと、姫の家の女童としめしあわせてある夜ふけに姫のもとに行く。姫君と思ってほの暗い母屋に小さくなっている女を車にのせてつれ帰ったが、意外にもその人は、それとなく心配して姫のそばに、護衛のために寝ていた姫君の祖母の尼であったという筋。」

本文より:

「月にはかられて、夜(よ)深く起きにけるも、思ふらむ所(脚注:「女が(中将を)思っているかもしれないこと。冷淡だとか、物足りないとか。」)いとほしけれど、立ち帰らむも遠きほどなれば、やうやう行くに、小家(こいへ)(脚注:「粗末な家。庶民の家。」)などに例音(れいおと)なふもの(脚注:「いつも音をたてている朝の支度の物音や人声。」)も聞えず。隈(くま)なき月に、ところどころの花の木どもも、ひとつにまがひぬべく(脚注:「入りまじって見分けがたいさま。」)霞みたり。」

現代語訳より:

「(あまりに)明るい月の光にだまされたので、(もう朝になったのかと思い、家に帰るために)中将はまだ夜中のうちに(女の許を)起き出してしまったのであったが、それにつけても、(中将が帰ってゆくのに対して、女が、つらいとか物足りないとか)いろいろに物を思っているであろう、それをいじらしく思うけれど、そうかといって、女の許へ(もう一度)帰るにしては遠い道のりなので、(中将は)そのままだんだんと家路をさしてゆく。けれども(途中の)小さな家などで、いつも朝帰りの際には聞える人声や物音なども、今朝は(時刻が早すぎるのか)何も聞こえない。明るくかげりのない月の光に、あちらこちらの、花の咲いているたくさんの桜の木など、他のどの木も皆同じで、(まったく)一様に見違えてしまいそうに霞んでいる。」


「このついで」より:

「あらすじ」より:

「春雨のしとしとと降る昼間、つれづれを慰め申そうと中宮の御前で薫物がたき始められる。その香を聞かれるついでに、中将の君以下の三人が、それぞれ見聞した話をする。最初は、中将の君の聞いたという、あわれに愛情のこまやかな話。つぎは、中納言の君が去年の秋、清水寺に参籠したときに出会った事実談。そのつぎは、少将の君が東山辺に修行している祖母に、かつてついていっていたときに偶然に見た事実談である。どれも春雨のように、寂しく、あわれに、しめやかな物語であった。(中略)しかも三つの話はどれも和歌が焦点になっている。この点からすれば、三つの歌物語の集合なのである。」

本文より:

「「去年(こぞ)の秋のころばかりに、清水(脚注:「清水寺。中の院か坊かに参り、日限をきって籠る。」)に籠りて侍りしに、傍に、屏風ばかりを、物はかなげに立てたる局(つぼね)の、にほひいとをかしう、人ずくななるけはひして、折々うち泣くけはひなどしつつ行ふを(脚注:「「聞き侍り」にかかる。仏道の修行に、観音経などを読んでいるのであろう。」)、誰ならむと聞き侍りしに、明日(あす)出でなむとての夕つ方(脚注:「満願の日が来たので明日は下向する。」)、風いと荒らかに吹きて、木(こ)の葉ほろほろと、滝のかたざまに(脚注:「音羽山から出て来ている音羽の滝。滝の方向に。」:)くづれ、色濃き紅葉(もみぢ)など、局の前には隙(ひま)なく散り敷きたるを、この中隔(なかへだて)の屏風のつらによりて、ここにも(脚注:「自分も(傍の修行者も)。」)、ながめ侍りしかば、いとしのびやかに、

  『いとふ身はつれなきものを(脚注:「世を嫌い、早く死にたい身なのに、心の思いにかかわりなく生きながらえている。」)憂(う)きことも
     あらし(脚注:「「嵐」と「あらじ」(あるまい)を掛けている。」)に散れる木の葉なりけり
風の前なる(脚注:「日を経つつわれ何事を思はまし風の前なる木の葉なりせば」(『和泉式部続集』下)「厭へども消えぬ身ぞ憂き羨し風の前なる宵のともし火」(同集上)などによるか。」)』

と、聞ゆべきほどにもなく(脚注:「あまりよく聞こえるほどでもないが。」)、聞きつけて侍りしほどの、まことに、いとあはれにおぼえ侍りながら、さすがにふと答(いら)へにくく、つつましくて(脚注:「遠慮せられて。」)こそ止み侍りしか」」


現代語訳より:

「「去年の秋のころに、清水(きよみず)に参籠致しておりました。その折、(私の局(つぼね)の)側に、屏風ばかりを申しわけ程度に、仕切りの役にもたたないように立ててある局で、たいている薫物の匂いもたいそう趣があって奥ゆかしく、人数も少ない様子で、ときどき泣いている気配などがしながら(観音経など読んで)お勤めしているのを、いったい誰だろうと思って聞いておりました。そのうちに(私は、満願になったので)明日は下向(げこう)してしまおうと思っていたその夕方に、風が非常に荒々しく吹き、木の葉がはらはらと滝のほうへ乱れ散り、色の濃(こ)い紅葉などが、局の前には隙間もないほどに散り敷いているのを、この局の、隣の局との仕切りになっている屏風のそばに近寄って、私もじっと物思いにふけりながらながめておりました。すると、たいへんひそやかに耳立たぬようにして、(隣の修行者のほうで)
   この憂き世を、つくづくいやに思って、捨てたいと願うわが身は、なんの変わりもなく生き長らえているのに、なんのつらいこともあるまいと思う木の葉が、嵐に散ってゆくのであるよ。
   (まったく木の葉とわが身を取りかえたいと思う)風のともし火がうらやましい。
と、よく聞きとれないくらいに低く言ったのを聞きつけました。その先方の調子が、ほんとうに、たいそう身にしみてかわいそうに思われました。が、そうはいうものの、やっぱりすぐには返歌もしにくく、いかにも恥ずかしく遠慮されたので、(そのまま)何もいわずにやめました」」



「虫愛づる姫君」より:

「あらすじ」より:

「当時の女子の風習である、眉をぬいたり、お歯黒もつけない、年ごろの女性としての身だしなみもせず、朝夕、毛虫などばかりを好んで飼う異常な性格の姫君を描く一篇。在来の人物がもたない型を示し、特異な作品である。」

本文より:

「この姫君の、の給ふ事、
 「人々の、花や蝶やと愛(め)づるこそ、はかなく(脚注:「つまらぬ、考えが浅い。」)あやしけれ。人は、実(じつ)あり、本地(ほんぢ)尋ねたるこそ(脚注:「物の本質を、さかのぼり究めたのこそ。本体を求めないでただ化現の蝶や花だけを愛するのは、誠実な心のないものである。」)、心ばへをかしけれ」
とて、万(よろづ)の虫の、恐(おそろ)しげなるを取りあつめて、
 「これが、成らむさまを(脚注:「変化するならその様子を。「む」は仮定。」)見む」
とて、さまざまなる籠箱(こばこ)(脚注:「底だけが板で三方に紗または絽を張った箱。」)どもに入れさせ給ふ。中にも、
 「烏毛虫(かはむし)(脚注:「毛虫の別名。」)の、心深き(脚注:「意味深い。ここは、毛虫の毛深く太いのを趣あるごとくいう。」)さましたるこそ心にくけれ」
とて、明け暮れ耳はさみ(脚注:「額髪を正しく下げず耳に挾む。働く女の風情。」)をして、籠(こ)のうちにうつぶせて(脚注:「毛虫をうつむきにまげて。」)まぼり(脚注:「見守る。じっと見つめる。」)給ふ。」


現代語訳より:

「この姫君のおっしゃることには、
 「(世間の)人々が、花だの蝶だのと、もてはやし愛するのは、いかにも無意味なばからしいことだ。人間というものは、誠実の心があって、物の本体を追究しているのが、いかにも心だてが趣もあり、興味もある」
と言って、いろいろと、たくさんの虫の、恐ろしそうなのをお集めになり、
 「この虫が、どうなるか、もし変化するとしたら、その変化の様子を見ようと思う」と言って、(大きさや、形の)さまざまな籠箱などにお入れになり飼っていらっしゃる。その中でも、
 「毛虫の、浅はかでなく、考え深そうな様子をしたものが、特に奥ゆかしい」
などと言って、(平素は身だしなみもせず)朝に夕に、額髪を耳に挾んで、(毛虫を)籠の仲にうつ伏せて、じっとお見つめなさる。」



「ほどほどの懸想」より:

「あらすじ」より:

「賀茂祭のころ、頭の中将の小舎人童が故式部卿に仕える女童と恋をする。その縁から頭の中将に仕える家人と姫に仕える女房、さらに頭の中将と姫君の恋へと発展する、主従三つの階層の恋愛相を描いた点に注目される。最上層の頭の中将には、性格の弱い決断の乏しい男性が描かれている。」


「逢坂越えぬ権中納言」より:

「あらすじ」より:

「中納言には、ひそかに心を寄せる姫君があった。花橘の咲き匂うころ、その思いはさらに切なるものがあった。悩ましい五月三日の夜、宮中の管絃のお遊びに呼ばれてもの憂いながら出席し、その後に中宮の御所のほうに立ち寄ると、明後五日は菖蒲の根合だとて、女房たちが大騒ぎをしている。とうとう右の味方にとられてしまう。中納言はさして気乗りもしないようだったが、当日の根合にも歌合にも、右方はかれのおかげで勝った。
 やがて暑い六月が来た。十五日前後の月夜に、中納言は思い余って姫君を訪れ、宰相の君という侍女を通じて意中を訴え、対面を求めるが、姫君は「気分がすぐれない」と断る。ところが、宰相の君がその旨を伝えに外へ出るのと入れ違いに、中納言は姫君の声をたよりに忍び込んでしまった。そしていろいろとくどいたが、姫君はとうとう中納言の意に従わない。結局は逢坂を越えずに――思いもとげられずに、明けて行く様子に促されて中納言はむなしく帰って行った。」



「貝合」より:

「あらすじ」より:

「九月の有明月に誘われて浮かれ歩いていた蔵人少将は、とある邸をのぞき見し、仕えている少女から、主人の姫君とその腹違いの姉らしい東の姫君とが貝合をすると聞く。そこで味方をする約束で姫君の姿を見せてもらう。隠れ場所からのぞくと、家の中では、十二、三歳のまことに美しい姫君を囲んで、大勢の少女たちが騒いでいる。相手方は準備万端ととのえたというのに、こちらは十歳ぐらいの弟が相談役なのでたいそう心細い。そこへ相手の姫君が様子を偵察に現われるが、容貌といい、着物の趣味、着こなしといい、はるかに劣る上に態度が小面憎いので、少将は主人の姫君に同情し、勝たせてやりたくなる。少女たちは主人の勝利を祈念し、思わず口ずさんだ少将の歌を聞きつけて「観音のお告げだ」と喜ぶ。翌日、少将はりっぱな洲浜に小箱をはめて、美しいいろいろの貝を入れ、そっと南の高欄に置かせた。まもなく少女たちは洲浜を見つけ、「観音さまのお助けだ」と狂喜する。無邪気なその様子を、少将は隠れ場所から興味深くながめていた。」

本文より:

「「何わざするならむ」とゆかしくて(脚注:「知りたくて。見たくて。」)、人目見はかりて、やをら(脚注:「「やはら」で、徐々に。こっそりと。そっと。」)、はひ入りて、いみじく繁き薄の中に立てるに、八九(やつここのつ)ばかりなる女子(をんなご)の(脚注:「「……着たる」にかかる。「の」は指定格の助詞。」)、いとをかしげなる薄色の袙(あこめ)・紅梅などしだれ着たる(脚注:「下着の袙は薄紫色、上着は紅梅色の汗衫。子供だから襲の色目のとは違う。」)、小さき貝を瑠璃(るり)の壺(脚注:「紺色の光沢ある焼物の壺。」)に入れて、あなたより走る様のあわただしげなるを、「をかし」と見給ふに、直衣(なほし)の袖を見て(脚注:「薄の繁みの間からはみ出しているのを見つけて。「直衣」は貴族の平常着。」)、「ここに、人こそあれ」と何心もなくいふに、侘しく(脚注:「当惑した様子。困った状態。」)なりて、
 「あなかまよ(脚注:「あなかまびすし」の意。静かにしなさいよ。ああ、やかましいよ。」)。聞ゆべきことありて、いと忍びて参り来たる人。そと寄り給へ」
といへば、
 「明日の事思ひ侍るに。今より暇(いとま)なくて、そそき侍るぞ(脚注:「そそき→そそく、で落ちつかないこと。どうも忙しくて落ちつかないのでございますよ。」)」
と、さへづりかけて、往(い)ぬべく見ゆめり。

 をかしければ(脚注:「子供のくせに「暇なくて」などというから。」)、
 「何事の、さ、いそがしくは思(おぼ)さるるぞ(脚注:「「思す」は尊敬語。「る」は自然的可能の助動詞で「思さる」となった。」)。まろをだに『思はむ(脚注:「たよりに思う。赤の他人でもかまわずに。」)』とあらば、いみじうをかしき事も加へてむかし(脚注:「援助しよう。きっと加えようと思うの意。」)」
と言へば、名残なく立ちとまりて、
 「この姫君、上、外(と)の御方の姫君と(脚注:「母上が、外(違う)の御方の姫君、すなわち異母姉妹の姫君と。」)、『貝合(かひあはせ)せさせ給はむ(脚注:「女童が姫君の言葉を間接に言ったので敬語を用いた。」)』とて、月ごろいみじく集めさせ給ふに、あなたの御方は、大輔(たいふ)の君・侍従の君と、『貝合(かひあはせ)させ給はむ』とて、いみじく(脚注:「たいそう大げさに吹聴して。」)求めさせ給ふなり。まろが御前は、唯、若君一所(ひとところ)にて(脚注:「姫君の弟君。後に「十ばかりなる男の……」と見える。力になるのはこの弟一人である。」)、いみじく理(わり)なくおぼゆれば、只今も『姉君の御許に人遣らむ(脚注:「姉君は同腹の姉。「貝を心配してほしい」という使者である。「人」は「誰か」の意。この使者の役を女童が命ぜられたのである。」)』とて。罷(まか)りなむ」
と言へば、
 「その姫君たちの、うちとけ給ひたらむ、格子(かうし)(脚注:「格子は細長い四角の木を四つ目に組んだ戸で、寝殿の柱と柱の間などに用いた。外部との境のものは格子に板をうって、蔀格子といった。」)のはざまなどにて、見せ給へ」
といへば、
 「人に語り給はば(脚注:「たいへん迷惑する、の気持ち。」)。母もこそのたまへ」
とおづれば、
 「物ぐるほし(脚注:「ばかげている。狂っている状態。そんな心配をするのは。」)。まろは、更に物言はぬ人ぞよ。唯、『人に(脚注:「「人」は具体的な事物を特に漠然と抽象的にいう時に用いる。人・物・事など。」)勝たせ奉らむ勝たせ奉らじ』は、心ぞよ(脚注:「万事、少将の胸一つで、勝ちも負けもする。私の心持ち一つであるぞ。」)。いかなるにか(脚注:「女童の気持ちは、と問うた。」)。いと、物けぢかく(脚注:「姫の近くへ案内せよ。」)」
とのたまへば、万(よろづ)もおぼえで、
 「さらば帰り給ふなよ。かくれ(脚注:「隠れる場所。ものかげ。」)作りてすゑ奉らむ、人の起きぬさきに。いざ(脚注:「さあ、私といっしょに。」)給へ」
とて、」


現代語訳より:

「「どういうことをするのであろう」と知りたいので、人の見ていないころ合いを見はからって(小舎人童や随身は少し先にやり、少将は音のしないように)静かにそっと邸内に入り、たいへんたくさん生い茂っている薄の叢の中に(隠れて)立っていた。するとその時、(年のころ)八、九歳ほどの女の子で、たいそう趣深い薄紫色の袙(あこめ)や紅梅の衣などを(垂れ下げたりふぞろいに)乱りがわしく着ている子が、小さい貝を、瑠璃色(るりいろ)の壺(つぼ)に入れて、外から走ってくる。その様子が(いかにも忙しく落ちつかず)あわてているふうなのを、「おもしろい」と(興味をもって少将は)ご覧なさっていると、(女の子は、少将の)直衣の袖を(むら薄の間から)見つけて、「(なんとまあ)ここに人がいる」と、何気なく言う。それゆえに(少将は)困って、
 「ああ、静かに、ねえ。(私は)お話申さねばならないことがあるので、ほんとに、こっそり忍んでここに来た者なのです。そっとこっちへ寄っていらっしゃい」
というと、(女の子は)
 「(私は今)明日のことを考えておりますので。(そっと寄ってこいなんておっしゃっても困ります)今からもう暇がなく、どうも忙しいて落ちつかないんでございますよ」
と(忙しそうに)早口に話しかけて、(そのまま)行ってしまうように見えた。

 (少将は、その様子に興味をひかれて)おもしろく思ったので、
 「(明日のことを思って、今から暇がないなんて)何ごとで、そんなに、忙しく思いなさらずにはいられないのですか。(そんなに忙しいなら)せめてこの(見ず知らずの)私でも『たよりに思おう』というのでしたら、たいへんりっぱな援助も、きっとして上げましょう」
というと、(落ちつかず走り去ろうとしていた女童が)すっかり立ち止まって、(忙しいわけを、次のように語った)
 「ここの姫君と、母上が外(と)の御方なる(すなわち異腹の姉の)姫君とが、『(二人で)貝合をおやりいたしましょう』といって、(どちらの姫君も)この幾月か、たいへんに(貝を)集めていらっしゃいますが、あちらの(異腹の姫君)御方には、大輔の君と侍従の君と(二人)が『姫君が、貝合をおやりなさいます』といって、大げさに吹聴して、(方々から貝をさがし)求めなさるということでございます。ところが、私の御前は、ただ、(弟の)若君ひとりだけで、(ほかに誰も援助して下さる方もありませんので)どうしたらよいか、ほんとうに仕方なく困ると思われますので、(前にもお困りの時はそうでしたが)ただ今もまた、『姉君の御もとに誰か(使いに)やろう』とおっしゃって。(私が、その使いなのです)行ってまいりましょう」
といったので、(少将は、この女童を逃がさぬようにして)
 「その(貝合をなさる)姫君たちが、もしも、うちくつろいだ気楽な様子でいられる時があったら、(その様子を)格子のすき間などからでも(私に)見せて下さい」
というと、(女童は)
 「(私の取り持ちで、御身が姫君たちを垣間(かいま)見られたなどと)他人にお話になったならば(たいへん迷惑いたします)。私の母も、(そんなことをしては)いけないとおっしゃいます。(お手引きなどすれば、姫君はもちろん、母からもしかられます)」
と、(しかられることを)こわがっている。そこで、(少将はさらに)
 「(姫君たちを見たなんて、私が他人に話すものですか。御身の心配は)気違いじみた馬鹿らしいことです。私は(何も)物なぞ(人に)言わない人間ですよ。(だから口外はしません)ただ、『姫君に、勝たせ申そう、勝たせ申すまい』は、万事、私の胸の中にあるんですよ。御身の考えはどうなのですか。(勝たせたいならば、私を)ずっと姫君のお近くに(案内してほしいのです。きっと勝たせてあげますよ)」
とおっしゃると、(女童は、姫君を勝たせたいばかりに)何ごとも考えられずに、
 「それならば、お帰りなさいますなよ。隠れ場所を作って(御身を隠して)置き申しましょう。人の誰も起きないうちに(お隠れなさい)。さあ、こちらへおいで下さい」
といって、(連れて行った)」



「思はぬ方にとまりする少将」より:

「あらすじ」より:

「ある大納言に二人の姫君があり、両親の死後姉妹さびしく過ごしていた。姉には右大将の御子の少将が通い、妹には右大臣の御子の権の少将が通い始める。権の少将は、右大将の奥方の風邪見舞いにかこつけてその邸に泊り、妹君を迎えにやる。手紙もなく、「少将殿から」という口上だったので女房がまちがえ、来たのは姉君であった。権の少将はもっけの幸いと近づき、思わぬ姉君のほうに泊ってしまう。同夜、少将も愛人を迎えにやったがすでに姉君は出かけたあとなので、女房も当然妹君の迎えと勘違いする。少将は日ごろから心ひかれていた妹君と契りを結んでしまう。その後二人の少将は、姉妹のいずれをも深く思って恋を語ったが、その結末はいったいどうなったことであろう。」


「花々のをんな子」より:

「あらすじ」より:

「恋の風流を心得た好き者と自他ともに許す男が、宮中で言いかわした女が自宅へさがっていると聞いて、秋の夕暮ひそかに訪れてのぞき見をすると、多くの女たちが簾を巻き上げてうちとけ、それぞれの女主人たちを秋草の花にたとえて噂している。命婦の君という女が「あの蓮は女院さまに似ています」というと、いちばん上の姉が「りんどうは一品の宮さま」、次の妹が「玉簪花は大后さま」、三番目の妹が「紫苑は皇后さま」などと次々に話し合う。日が暮れ、女たちは主人の境遇を思って歌を詠みかわす。やがて夜も更け寝静まる。男はあせって歌を口ずさむ。聞き知る女もあったが明け方近くなったので男は帰って行く。この大勢の女たちは姉妹で、この好き者といろいろな関係を結んでいた。男は、女郎花にたとえられた左大臣の次女に仕える女に心ひかれているのだった。」


「はい墨」より:

「あらすじ」より:

「下京辺に、身分はあるが、不如意な生活を送る夫婦があった。男は知人の家に出入りしているうちに、そこの娘と恋におちいって通いはじめる。娘の父親は権勢のある人で、娘との同棲を男に迫る。男はやむなくもとの妻に因果を含める。妻は心中で泣きながら家を出て、召し使っていた女の住んでいる大原の里へと去っていった。その供をして行った召使いの少年は、その家の粗末さに驚き、女の心根にたいへん同情して、託された歌を男に伝えた。男はいまさらながら妻の愛情の深さを知って後悔し、大急ぎで家に迎えもどした。
 その後、男は急に思い立って新しい女を訪れた。女はあわてて、おしろいとまちがえて、はい墨を顔にぬりたくり、目ばかり光らせて対面したので、男は愛想をつかして帰ってしまう。男の薄情を怒った両親も、娘の様子に肝をつぶし、娘は泣き出す。呪われたといって陰陽師を呼ぶ騒ぎをしたが、涙でぬれた顔はしだいにもとの白い膚になったのだった。」



「よしなしごと」より:

「あらすじ」より:

「ある人がたいせつにしている娘を、身分ある僧侶が隠し妻にしていたが、年の暮に参籠しようとして、入用な品々を女から贈ってもらった。娘の帰依している僧侶がそれを聞いて、自分も借りたいがとて、諷刺した手紙をやった。その内容がおもしろいので写しておく。「はかないこの世がいやになったから、隠遁したい。地を離れた月日の中に交わり、霞の中に飛び住もうと思う。あなたは情のある人と聞いているからお願いします。まず天の羽衣を下さい。なければ破れ着物でもいい。住むのに檜皮屋・廊・寝殿もほしいが、破れ畳か、薦でも下さい。筵・屏風・盥……すばらしいのがよいが、破れ欠けたのでも結構。食物も願いたい。梨・栗・椎・海苔・糫餅……あらゆる名物がほしい。なければせめて足鍋一つ、長筵一枚、盥一つはぜひ必要です。大空のかげろう、海の水の泡という二人の召使いに託して下さい。この手紙は人に見せないように、返事は天に下さい」
 つれづれだから、以上のつまらないよしなきことを書きつけたのである。」

























































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『日本霊異記』 遠藤嘉基・春日和男 校注 (日本古典文学大系)

「肥後の國 八代(やつしろ)の郡 豐服(とよぶく)の郷(さと)の人、豐服廣公(とよぶくのひろぎみ)の妻 懷妊して、(中略)一つの肉團(ししむら)を産み生(な)す。その姿(かたち)卵(かひこ)の如し。夫妻 祥(ヨキシルシ)に非(あら)ずと謂(おも)ひ爲して、笥(ヲケ)に入れて山の石の中に藏(をさ)め置き、七日を逕(へ)て往きて見れば、肉團の殻(カヒコ)開きて、女子(をみな)を生めり。」
(『日本靈異記』 「下卷 産み生(な)せる肉團(シシムラ)の作(な)れる女子、善を修し人を化(け)する縁 第十九」 より)


『日本靈異記』 
遠藤嘉基・
春日和男 校注
 
日本古典文学大系 70


岩波書店
昭和42年3月20日 第1刷発行
507p 口絵1葉
A5判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価1,000円

月報 第二期 第33回配本 (12p):
『霊異記』像の動揺(益田勝実)/日本霊異記から今昔物語へ(河音能平)/霊異記の獣(曾田文雄)/茶番(中村幸彦)/書紀上巻の刊行を待つ(小島憲之)/編集室より/別巻『索引』(二期全三十四巻)について



本書「凡例」より:

「底本は、上巻は興福寺本、中巻と下巻は真福寺本を用い、なるべく原本に忠実に翻刻した。」
「訓読文は、底本に基づき、訓釈を手がかりとして、できるだけ当時の訓読語を中心に、漢字交り文で作製した(中略)。」
「頭注は、国語学・歴史学・仏教学の立場から見て必要と思われるものに、原則として施した。」




日本霊異記



帯文:

「古代の民衆の哀歓を生々と語る
百十余の多彩な説話群!
古代日本の民衆生活の中の、世にも不思議な話百十余話を集め、善悪に対する因果の関係を極めて現実的に示した説話文学の先駆「日本霊異記」は、奈良朝・平安初期の庶民の宗教意識と習俗を知る上に欠くことのできない作品である。周到な説話構成と巧妙な中国の仏教説話の翻案の中に、大きく変動する社会に生きる人間の機微が、なまなまと描かれている。本書の底本は現存最古の善本である興福寺本・真福寺本により、最良の本文を提供する。訓読・注解には多大の苦心が払われ、関連諸学問からの協力を得て精密を期した。」



目次:

解説
凡例

上巻
 雷(いかづち)を捉(とら)ふる縁 第一
 狐を妻として子を生ま令(し)むる縁 第二
 雷の熹(むがしび)を得て生ま令(し)めし子の強き力在(あ)る縁 第三
 聖德皇太子、異(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第五
 三寶を信敬(しんぎやう)し、現報を得る縁 第五
 觀音菩薩を憑(よ)り念じ、現報を得る縁 第六
 龜の命を贖(あか)ひて放生し、現報を得て、龜に助けらるる縁 第七
 聾(みみし)ひたる者、方廣經典に歸敬(ききやう)し、現報を得て、兩(ふた)つの耳を開く縁 第八
 嬰児(みどりこ)、鷲に擒(とら)はれ、他國にて父に逢ふこと得し縁 第九
 子の物を偸(ぬす)み用ゐ、牛と作(な)りて役(つか)はれ、異(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第十
 幼き時より網を用ゐて魚を捕(と)りて、現に惡報を得る縁 第十一
 人畜(ひとけもの)に履(ふ)まるる髑髏(ひとかしら)救ひ收められ、靈(めづら)しき表(しるし)を示して現に報ずる縁 第十二
 女人、風聲(みさを)の行(わざ)を好み、仙草を食ひて、現身に天に飛ぶ縁 第十三
 僧、心經を憶持(おくぢ)し、現報を得て、奇事を示す縁 第十四
 惡人、乞食(こちじき)の僧を逼(おびえか)して、現に惡報を得る縁 第十五
 慈(うつくしび)の心无(な)く、生ける兎の皮を剝(はつ)りて、現に惡報を得る縁 第十六
 兵災に遭ひて、觀音菩薩の像を信敬し、現報を得る縁 第十七
 法花經(ほけきやう)を憶持し、現報を得て奇(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第十八
 法花經品(ほけきやうぼん)を讀む人を呰(あざけ)りて、現に口喎斜(ゆが)みて、惡報を得る縁 第十九
 僧、湯を涌かす分の薪(たきぎ)を用(も)ちて他に與へ、牛と作(な)りて役(つか)はれ、奇(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第二十
 慈(うつくしび)の心无くして、馬に重き駄(に)を負(お)ほせて、現に惡報を得る縁 第二十一
 勤(つと)めて佛教を求學し、法を弘め物を利し、命終はる時に臨みて異(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第二十二
 凶(あ)しき人、嬭房(ちぶさ)の母に孝養(けうやう)せ不(ず)して、現に惡死の報を得る縁 第二十三
 凶(あ)しき女、生める母に孝養せ不(ず)して、現に惡死の報を得る縁 第二十四
 忠臣、欲少なく、足るを知りて諸天に感ぜられ、報を得て、奇事を示す縁 第二十五
 持戒の比丘、浄行を修(しゆ)して、現に奇しき驗力を得る縁 第二十六
 邪見なる假名(けみやう)の沙彌、塔の木を斫(さ)きて、惡報を得る縁 第二十七
 孔雀王(くじやくわう)の咒法(じゆほふ)を修持(しゆぢ)し、異(け)しき驗力を得て、現に仙と作(な)りて天に飛ぶ縁 第二十八
 邪見にして、乞食の沙彌の鉢を打ち破りて、現に惡死の報を得る縁 第二十九
 非理に他の物を奪ひ、惡行を爲し、惡報を受けて、奇事を示す縁 第三十
 慇(ねもころ)に懃(つと)めて觀音に歸信し、福分を願ひて、現に大福德を得る縁 第三十一
 三寶に歸信し、衆僧を欽仰(きんがう)し、誦經せ令(し)めて、現報を得る縁 第三十二
 妻、死(し)にし夫の爲に願を建て、像を圖繪(づゑ)し、験有(あ)りて火に燒け不(ず)、異(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第三十三
 絹(かとり)の衣を盗ま令(し)めて、妙現菩薩に歸願し、其(そ)の絹の衣を修得する縁 第三十四
 □知識、四恩の爲に繪の佛像を作り、驗有りて、奇(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第三十五

中巻
 己(おの)が高德を恃(たの)み、賤形(せんぎやう)の沙彌(さみ)を刑(う)ちて、現に惡死を得る縁 第一
 烏の邪婬を見て、世を厭ひ、善を修する縁 第二
 惡逆の子、妻を愛し、母を殺さ將(む)と謀り、現に惡死を被(かがふ)る縁 第三
 力女(りきによ)、捔力(ちからくらべ)し試みる縁 第四
 漢神(からかみ)の祟(たたり)に依り牛七頭を殺し、又放生(はうじやう)の善を修して、現に善惡の報を得る縁 第五
 誠の心を至して法花經を寫し奉り、驗(しるし)有(あ)りて異事を示す縁 第六
 智者、變化(へんげ)の聖人(しやうにん)を誹(そし)り妬(うらや)みて、現に閻羅(えんら)の闕(みかど)に至り、地獄の苦を受くる縁 第七
 蟹(かに)蝦(かへる)の命を贖(あか)ひて放生(はうじちゃう)し、現報を得る縁 第八
 己(おのれ)、寺を作り、其(そ)の寺の物を用ゐて、牛と作(な)りて役(つか)はるる縁 第九
 常に鳥の卵を煮て食ひて、惡死の報を得る縁 第十
 僧を罵(の)ることと邪婬とにより、惡病を得て死ぬる縁 第十一
 蟹蝦の命を贖(あか)ひて放生し、現報に蟹に助けらるる縁 第十二
 愛欲を生じ吉祥天女(きちじやうてんによ)の像に戀ひ、感應して奇しき表を示す縁 第十三
 窮(まづ)しき女王(によわう)、吉祥天女の像に歸敬(ききやう)し、現報を得る縁 第十四 
 法花經を寫し奉り、供養することに因りて、母の牛(うし)と作(な)る因(もと)を顯す縁 第十五
 布施(ふせ)せ不(ざ)ると放生するとに依りて、現に善惡の報を得る縁 第十六
 觀音の銅像、鷺の形に反化(へんげ)して、奇しき表を示す縁 第十七
 法花經を誦持する僧を呰りて、現に口喎斜みて、惡死の報を得る縁 第十八
 心經を憶持する女、現に閻羅王の闕に至り、奇しき表を示す縁 第十九
 惡夢に依り、誠の心を至して經を誦せ使(し)め、奇しき表を示して、現に命を全くすること得る縁 第二十
 〓(漢字: 土+聶)の神王の〓(漢字: 足+尃)より光を放ち、奇しき表を示し、現報を得る縁 第二十一
 佛の銅像、盗人に捕られて、靈しき表を示し、盗人を顯す縁 第二十二
 彌勒菩薩の銅像、盗人に捕られて、靈しき表を示し、盗人を顯す縁 第二十三
 閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免す縁 第二十四
 閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗を受けて、恩を報ずる縁 第二十五
 未(いま)だ作り畢はらずして棄てらるる佛像の木、異靈を示す縁 第二十六
 力女(りきによ)、強力を示す縁 第二十七
 極めて窮しき女、釋迦の丈六の佛に福分を願ひ、奇しき表を示して、現に大福を得る縁 第二十八
 行基大德、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵嘖する縁 第二十九
 行基大德、女人の携へたる子に過去の怨を視て、淵に投げ令(し)め、異しき表を示す縁 第三十
 塔を建て將(む)として願を發し、時に生める女子、舎利を捲りて産まるる縁 第三十一
 寺の息利の酒を貸り用ゐて、償は不(ず)して死にて、牛と作(な)りて役はれ、債を償ふ縁 第三十二
 女人、惡鬼に點れて食噉はるる縁 第三十三
 孤の嬢女、觀音の銅像に憑り敬ひ、奇しき表を示して、現報を得る縁 第三十四
 法師を打ちて、現に惡しき病を得て死ぬる縁 第三十五
 觀音の像、神力を示す縁 第三十六
 觀音の木像、火難に燒け不(ず)、威神の力を示す縁 第三十七
 慳貪に因りて、大蛇と成る縁 第三十八
 藥師佛の木像、水に流れ砂に埋もれて、靈しき表を示す縁 第三十九
 惡事を好む者、以て現に利鋭に誅られ、惡死の報を得る縁 第四十
 女人、大蛇に婚はれ、藥の力に賴りて、命を全くすること得る縁 第四十一
 極めて窮し女、千手觀音の像に憑り敬ひ、福分を願ひて、現に大福を得る縁 第四十二

下巻
 法華經を憶持する者の舌、曝(さ)りたる髑髏(ひとかしら)の中に著きて朽ち不(ざ)る縁 第一
 生物(いきもの)の命を殺して怨(あた)を結び、狐、狗と作(な)りて互に怨を相報ずる縁 第二
 沙門、十一面觀音の像に憑(よ)り願ひて、現報を得る縁 第三
 沙門、方廣大乘を誦持(ずぢ)し、海に沈みて溺れ不(ざ)る縁 第四
 妙見菩薩(めうけんぼさち)、變化(へんげ)して異形(いぎやう)を示し、盗人を顯(あらは)す縁 第五
 禪師(ぜんじ)の食は將(む)とする魚、化(け)して法華經と作(な)りて、俗の誹(そしり)を覆(かへ)す縁 第六
 觀音の木像の助(たすけ)を被(かがふ)りて、王難を脱(まぬか)るる縁 第七
 彌勒菩薩(みろくぼさち)、所願に應じて奇形(きぎやう)を示す縁 第八
 閻羅王、奇(めづら)しき表(しるし)を示し、人に勸(すす)めて善を修せ令(し)むる縁 第九
 如法(によほふ)に寫し奉る法花經、火に燒け不(ぬ)縁 第十
 二つの目盲(し)ひたる女人(によにん)、藥師佛の木像に歸敬(きぎやう)して、現に眼を明くことを得る縁 第十一
 二つの目盲(し)ひたる男、千手觀音の日摩尼手(にちまにしゆ)を敬(つつし)み稱(とな)へて、現に眼を明くこと得る縁 第十二
 法花經を寫さ將(む)として願を建てし人、願力に依りて、命を全くすること得る縁 第十三
 千手の咒(じゆ)を憶持(おくぢ)する者を拍(う)ちて、現に惡死の報を得る縁 第十四
 沙彌(さみ)の乞食(こちじき)を撃ちて、現に惡死の報を得る縁 第十五
 女人(によにん)、濫(みだりがは)しく嫁(とつ)ぎて、子を乳(ち)に飢ゑしむるが故に、現報を得る縁 第十六
 未(いま)だ作り畢(を)はらぬ捻〓(漢字: 土+聶)(ねんせふ)の像、呻(によ)ぶ音(こゑ)を生じて、奇(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第十七
 法華經を寫し奉る經師(きやうじ)、邪婬を爲して、現に惡死の報を得る縁 第十八
 産み生(な)せる肉團(ししむら)の作(な)れる女子、善を修し人を化(け)する縁 第十九
 法花經を寫し奉る女人(によにん)の過失(あやまち)を誹(そし)りて、現に口喎斜(ゆが)む報の縁 第二十
 沙門、一つの目眼盲(めし)ひ、金剛般若經を讀ま使(し)めて眼を明くこと得る縁 第二十一
 重き斤(はかり)に人の物を取り、又法花經を寫して、現に善惡の報を得る縁 第二十二
 寺の物を用ゐ、復(また)大般若を寫さ將(む)とし、願を建てて、現に善惡の報を得る縁 第二十三
 修行の人を妨(さまた)ぐるに依りて、猴(さる)の身を得る縁 第二十四
 大海に漂流して、尺迦佛の名(みな)を敬み稱(とな)へ、命を全くすること得る縁 第二十五
 非理を強ひて債(もののかひ)を徴(はた)り、多(あまた)の倍(まし)を取りて、現に惡死の報を得る縁 第二十六
 髑髏(ひとかしら)の目の穴の笋(たかんな)を揭(ぬ)き脱(はな)ちて、祈(ねが)ひて靈(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第二十七
 彌勒(みろく)の丈六、其(そ)の頸を蟻に嚼(か)まれて、奇異(めづら)しき表を示す縁 第二十八
 村童(さとわらはべ)、戲に木の佛像を刻み、愚(おろか)なる夫(をとこ)破り斫(さ)きて、現に惡死の報を得る縁 第二十九
 沙門、功を積みて佛像を作り、命終はる時に臨みて、異(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第三十
 女人(によにん)、石を産みて神とし齋(いつ)く縁 第三十一
 網を用ゐて漁夫(いをとるをのこ)、海中の難に値(あ)ひて、妙見(めうけん)に憑(よ)り願ひ、命を全くすること得る縁 第三十二
 賤(いや)しき沙彌(さみ)の乞食(こちじき)を刑罰して、現に頓(にはか)に惡死の報を得る縁 第三十三
 怨病(をんびやう)身に嬰(かか)り、因りて戒を受け、善を行ひて、現に病を愈(いや)すこと得る縁 第三十四
 官(つかさ)の勢を假(か)りて、非理に政を爲し、惡報を得る縁 第三十五
 塔の階(こし)を減じ、寺の幢(はたほこ)を仆(たふ)して、惡報を得る縁 第三十六
 因果を顧み不(ず)惡を作(な)して、罪報を受くる縁 第三十七
 災(さい)と善(ぜん)との表相(へうさう)先(ま)づ現はれて、後に其(そ)の災と善との答(たふ)を被(かがふ)る縁 第三十八
 智行(ちぎやう)並び具する禪師、重ねて人の身を得て、國皇(こくわう)の子に生まるる縁 第三十九

補注




◆本書より◆


「上卷 雷(いかづち)を捉(とら)ふる縁 第一」より:

「小子部栖輕(ちひさこべのすがる)は、泊瀨(はつせ)の朝倉(あさくら)の宮に二十三年天の下治めたまひし雄略天皇(中略)の隨身、肺脯(シフ)(頭注より:「肺臓や肝臓のように、なくてはならない側近の者。」)の侍者なり。天皇、磐余(いはれ)の宮に住みたまひし時、天皇、后と大安殿(おほやすみどの)に寐(ネ)テ婚合(クナカヒ)(頭注より:「交合。」)したまへる時に、栖輕知ら不(ず)して參(ま)ゐ入(い)りき。天皇恥(は)ぢて輟(ヤ)ミヌ(頭注より:「行為をやめた。」)。時に當りて空に雷(いかづち)鳴る。即ち天皇、栖輕に勅して詔(のたま)はく「汝、鳴雷(なるかみ)を請(う)け奉(たてまつ)らむや(頭注より:「お前は、雷を呼んでこられるか。」)」とのたまふ。答へて曰(まを)さく「請けたてまつら將(む)」とまをす。天皇詔曰(のたま)はく「爾(しか)あらば汝請け奉れ」とのたまふ。栖輕勅(みことのり)を奉(うけたまは)り宮より罷り出で、(中略)馬に乘り、(中略)輕の諸越(もろこし)の衢(チマタ)に至り、叫囁(さけ)び請(う)けて言はく「天の鳴雷神(なるかみ)、天皇請け呼び奉る云々(しかじか)」といふ。然して此(ここ)より馬を還して走りて言はく「雷神(なるかみ)と雖(いへど)も、何の故にか天皇の請けを聞か不(ざ)らむ(頭注より:「雷だとて、どうして天皇の願いを聞き入れないでよかろう。」)といふ。走り罷る時に、豐浦寺と飯岡との間に鳴雷(なるかみ)落ちて在り。栖輕見て即ち神司(かみづかさ)を呼び、轝籠(コシこ)(頭注より:「竹で編んで担ってゆく乗り物。」)に入れて大宮に持ち向かひ、天皇に奏して言(まを)さく「雷神(なるかみ)を請(う)け奉れり」とまをす。時に雷(いかづち)光を放ち明(て)り炫(カカヤ)けり。天皇見て恐り、偉(タタハ)シク幣帛(ミテクラ)を進(たてまつ)り(頭注より:「(神様に)十分に供え物をささげて。」)、落ちし處に還さ令(し)めしかば、今に雷(いかづち)の岡と呼ぶ。(中略)然して後時(のち)に栖輕卒(う)せにき。天皇勅して留むること(頭注より:「いわゆる殯(もがり)をすること。」)、七日七夜、彼(そ)の忠信を詠(しの)ひ、雷の落ちし同じ處に彼(そ)の墓を作りたまひ、永く碑文の柱を立てて言はく「雷を取りし栖輕が墓」といふ。此の雷 惡(にく)み怨(うら)みて鳴り落ち、碑文の柱を踊(ク)ヱ踐(ふ)み(頭注より:「蹴ったり、踏んだり。」)、彼の柱の析(さ)けし間(頭注:「さけめ。」)に雷 揲(ハサマ)リテ捕(とら)へらる。天皇聞きて雷を放ちしに死な不(ず)。雷 慌(ホ)レテ(頭注より:「ぼんやりして。」)七日七夜留まりて在り。天皇の勅使、碑文の柱を樹(た)てて言はく「生きても死にても雷を捕へし栖輕が墓」といふ。所謂(いはゆる)古京の時に名づけて雷の岡と爲(い)ふ、語(こと)の本(もと)是れなり。」


「上卷 狐(きつね)を妻(め)として子を生ま令(し)むる縁 第二」より:

「昔 欽明(きむめい)天皇(中略)の御世(みよ)に三野(みの)の國大野の郡の人、妻(め)とす應(べ)き好き孃(ヲミナ)を覔(もと)めて(頭注より:「美しい娘を探して。」)路(みち)を乘りて行く(頭注より:「路を(馬に)乗ってゆく。」)。時に嚝野(ひろの)の中に姝(うるわ)しき女(をみな)遇へり。其(そ)の女 壯(をとこ)に媚(コ)び馴(ナツ)キ、壯 睇(メカリウ)ツ(頭注より:「目を細めたり、秋波を送ったりする。」)。言はく「何(いづく)に行く稚孃(をみな)ぞ」といふ。孃答ふらく「能き縁(えに)を覔め將(む)として行く女なり」といふ。壯も亦(また)語りて言はく「我(わ)が妻(め)と成らむや」といふ。女「聽(ゆる)さむ」と答へ言ひて、即ち家に將(ゐ)て交通(とつ)ぎ(頭注より:「結婚する。」)相住む。比頃(このころ)、懷任(はら)みて一(ひとり)の男子を生む。時に其(そ)の家の犬、十二月十五日に子を生む。彼(そ)の犬の子、毎(つね)に家室(イヘノトジ)(頭注より:「主婦。」)に向かひて、期尅(イノゴ)ひ(頭注より:「はげしく敵意を示す。」)睚(ニラ)み眥(ハニカ)ミ(頭注より:「歯をむきだす。」)嘷吠(ホ)ユ。家室 脅(オビ)エ惶(おそ)りて、家長(いへぎみ)に告げて言はく「此の犬を打ち殺せ」といふ。然れ雖(ども)患(うれ)へ告げて猶(なほ)殺さ不(ず)。二月三月の頃に、設(まう)けし年米を舂く時(頭注より:「かねて準備していた稲米(中略)を舂くとき。」)、其の家室、稻舂女等(いなつきめら)に間食を充て將(む)として碓(からうす)屋(頭注より:「踏み臼のある小屋。」)に入る。即ち彼の犬の子、家室を咋(く)は將(む)として追ひて吠ゆ。即ち驚き〈澡(オ)〉ヂ恐リ(頭注より:「こわがりおそれる。」)、野干(やかに)(頭注より:「きつね(狐)。」)と成りて籬(まがき)の上に登りて居り。家長見て言はく「汝と我との中に子を相生(う)めるが故に、吾は汝を忘れ不(じ)。毎(つね)に來りて相寐よ」といふ。故(かれ)、夫の語(こと)に隨(したが)ひて來り寐(ネ)キ。故、名づけて岐都禰(きつね)とす。時に彼の妻 紅(くれなゐ)の襴染(スソぞめ)の裳(も)(頭注より:「赤い裳すそ。」)(中略)を著て窈窕(サ)ビ(頭注より:「しなやかで美しく。」)、裳襴(もすそ)を引きて逝く。夫、去(い)にし容(かほ)を視、戀(こ)ひて歌に曰ふ。
  戀は皆我が上(へ)に落ちぬたまかぎるはろかに見えて去(い)にし子ゆゑに(頭注より:「恋は、すべてわが身にふりかかって来た。(自分は恋のとりこになってしまった。)ほんのちょっと見えて行ってしまった彼女のために。」)
故、其の相生ま令(し)めし子の名を岐都禰(きつね)と號(なづ)く。亦(また)其の子の姓(かばね)を狐の直(あたへ)と負ほす。其の人強き力多(あまた)有り、走ること疾(はや)くして鳥の飛ぶが如し。三野の國の狐の直等が根本(もと)是れなり。」



「上卷 嬰兒(ミドリコ)、鷲に擒(とら)はれ、他國にて父に逢ふこと得し縁 第九」より:

「癸卯の年(頭注:「皇極二年(六四三)。」)の春三月の頃、但馬(たぢま)の國七美(しづみ)の郡の山里の人の家に、嬰兒の女(むすめ)有り。中庭に匍匐(ハラバ)フを、鷲 擒(と)りて空に騰(アガ)リテ、東を指(サ)して翥(ハフ)リイヌ(頭注より:「羽ばたき飛ぶ。」)。父母 懇(アカラシ)ビテ(頭注より:「心から嘆いて。」)、惻(ネタ)ミ(頭注より:「苦痛を感じて。哀れみ。」)哭き悲しび、追ひ求むれども、到る所を知ら不(ざ)るが故に、爲に福を修す(頭注より:「子供の為に、仏事をいとなんで冥福を祈る。」)。八箇年(やとせ)を逕(へ)て、(中略)庚戌の年(頭注:「白雉元年(六五〇)。」の秋八月下旬に、鷲に子を擒(と)られし乳、縁(えに)の事有りて丹波(たには)の國加佐の郡の部内に至り、他(ひと)の家に宿る。其の家の童女(メノワラハ)、水を汲(ク)みに井(ゐ)に趣く。宿れる人、足を洗はむとして副ひ往きて見るに、亦村の童女、井(ゐ)に集りて水を汲まむとして、宿れる家の童女の井(ツルベ)ヲ奪(ウバ)フ。惜(をし)みて奪は令(し)め不(ず)。其の村の童女等、皆心を同じくして、凌(シノ)ギ蔑(アナツ)リテ(頭注より:「(一緒になって)、しいたげ侮どって。」)曰はく「汝、鷲の噉(くら)ひ殘し、何の故にか禮(ゐや)无き(頭注より:「どうして、無遠慮なのか。」)」といひて、罵(ノ)リ、壓(オソ)ヒて(頭注より:「罵って、押えつける。」)打つ。拍(ウ)タレテ哭き歸りぬ。家主(いへぎみ)待ち問ひて「汝、何の故にか哭く」といへば、宿れる人、見たるが如く具(つぶさ)に上の事を陳べ、即ち彼(そ)の拍(う)ち罵りて鷲の噉ひ殘しと曰ひし所以(ゆゑ)を問ふ。家主答へて言はく「其れの年其れの月日の時、余(われ)、鳩を捕(と)る樹に登りて居るに、鷲、嬰兒(みどりこ)を擒(と)り、西の方より來り、巣(ス)ニ落して鶵(ヒナノコ)ニ養(か)ふ(頭注より:「雛に(嬰児を)餌として与える。」)。嬰兒 慄(おそ)り啼く。彼の鶵 望(み)て、驚き恐りて啄(ツキハ)マ不(ズ)。余(われ)、啼く音(こゑ)を聞き、巣より取り下し育てし女子、是れなり」といふ。擒られし年月日の時は、挍(かむが)ふるに今の語(こと)に當りたれば、明(あきら)かに我が兒なることを知りぬ。」


「上卷 法花經(ほけきやう)を憶持し、現報を得て奇(めづら)しき表(しるし)を示す縁 第十八」より:

「昔大和の國葛木(かづらき)の上(かみ)の郡に、一(ひとり)の持經の人(頭注:「経文(特に法華経)を常に読誦して、修行する人。」)有(あ)り。(中略)其(そ)れ生(ウマレナガラ)知(し)り(頭注より:「生まれながら利巧であって。」)、年八歳以前に法花經を誦持するに、意(こころ)に唯一字のみ存(とど)むること得不(ず)(頭注より:「一字だけ記憶することができない。」)。二十有餘歳に至りて猶(なほ)持すること得難く、觀音に因りて悔過(けくわ)す(頭注より:「仏前に懺悔して、罪報を免れることを求める。」)。時に夢に見る。人有(あ)りて曰はく「汝、昔(むかし)先の身に(頭注より:「以前、前世の身で。」)、生まれて伊豫の國別(わけ)の郡日下部(くさかべ)の猴(サル)(頭注より:「日下部が氏。猴が名。」)の子に在りし時、汝、法花經を誦し奉りて、燈(ひ)に一つの文(もじ)を燒き、誦すること得不(ざ)りき。今往きて見よ」といふ。夢より醒(サ)め驚きて、思ひ怪しび、其(そ)の親に白して曰はく「忽(たちまち)に縁の事有りて(頭注より:「急に用事ができて。」)伊豫に往かむと欲(おも)ふ」といふ。二親聽許(ゆる)す。然して諮(と)ひ往きて(頭注:「たずねてゆく。」)、當(まさ)に猴(さる)の家に到り、門を叩きて人を喚ぶ。乃ち女人(頭注:「下女であろう。」)出で咲(ゑみ)を含(ふふ)みて還り入り、家母(いへのとじ)(頭注より:「家の主婦。」)に白して曰はく「門に客人(まれびと)在(あ)り、恰(あたかた)も死にし郎(おのこ)に似たり(頭注より:「ちょうど、死んだ家の息子さんにそっくり。」)」といふ。聞きて出で見るに、猶(なほ)し死にし子に疑(に)たるがごとし。家長(いへぎみ)(頭注より:「主人。猴のこと。」)も見て亦(また)怪しび問ひて「仁者(にんざ)は何人ぞ(頭注より:「あなたは誰だね。」)」といふに、國郡の名を答へ陳ぶ。客人も亦(また)問ふ。答へて具(つぶさ)に彼(そ)の姓名を告げ知らしき。明(あきら)かに知る、是(こ)れ我が先の父母なることを。即(すなは)ち長跪(ヒザマヅ)キテ(頭注より:「かしこまって、両膝を地につける。」)拜す。猴、愛(め)でて(頭注:「いとおしんで。」)喚び入れ、床(とこ)に居(す)ゑて(頭注:「客座にすわらせて。」)瞻(まば)りて(頭注より:「見つめて。」)言はく「若(も)し死にし昔の我が子の靈か(頭注:「ひょっとして、死んだ我が子の霊魂ではないか。」)といふ。客人具に夢の状を述べ、翁姥(オホヂオホバ)(頭注より:「老夫婦(猴夫妻のこと)。」)を吾が先の父母と謂ふ。猴も亦(また)因(ゆゑ)(頭注:「ことのおこり。」)を語りて、示して曰はく「我が先の子、號(な)は某(それ)(頭注:「名前は何がし。」)、其(そ)の子の住みし堂、讀みし經及以持(とぢ)せし水瓶(すゐびやう)等は是れなり」といふ。先の子聞きて堂の内に入り、彼(そ)の法花經を取りて開き見るに、誦せられ不(ぬ)文(もじ)に當りて、燈に燒け失せたり。時に懺悔し、直し奉りて(頭注より:「その時に、(経の文字を焼いた過ちを)仏にむかって懺悔し、そこを修理し字を補って。」)後、状に就きて持すること得たり(頭注:「その様子(経)の通りに誦することができた。」)。是(ここ)に祖子(おやこ)相見て、一たびは怪しび、一たびは喜ぶ。」


「中卷 女人(によにん)、惡鬼(あくき)に點(シ〔メラ〕)レテ食噉(くら)はるる縁 第三十三」より:

「聖武天皇のみ世に、國を擧(こぞ)りて歌詠(ウタ)ヒテ(頭注より:「(前兆を諷刺した)俗謡を歌って。」)謂(い)はく、
  汝(なれ)をぞ嫁(よめ)に欲しと誰(たれ)、あむちのこむちの萬(よろづ)の子。南无々々や、仙(やまびと)さかもさかも、持ちすすり、法(のり)申し、山の知識、あましにあましに(頭注より:「お前を嫁に欲しいとさ、誰だろうね、菴知小路の万の子よ。(なむなむや)、仙人が逆手をうって、息を吸い込んで、呪文を唱えてね、山の知識が、(あましにあましに)。( )は、ハヤシことば。」)
 爾(そ)の時に、大和の國十市(とをち)の郡菴知(アムち)の村の東の方に、大きに富める家有(あ)り。姓は鏡作造(かがみつくりのみやつこ)なり。一(ひとり)の女子有(あ)り、名を萬の子と曰ふ。未(いま)だ嫁(とつ)がず、未(いま)だ通はず。面容(かほ)端正(きらきら)し。高姓の人(頭注:「姓(かばね)の位の高い人。よい家柄の人。」)伉儷(ヨバ)フニ(頭注より:「結婚の申し込みをしたが。」)、猶(なほ)辭(いな)びて年祀(とし)を經たり(頭注より:「断って、幾年か過ぎた。」)。爰(ここ)に人有(あ)りて伉儷ひ、忩々(いそ)ぎ物を送る(頭注より:「いそいで結納の品を送った。」)。彩(しみ)の帛(きぬ)三つの車(頭注より:「美しい色に染めた絹布を、車三台に載せて。」)なり。見て心に〓(漢字:見+面)(おもね)りて(頭注より:「心に嬉しく思って。」)、兼ねて近づき親しみ、語(ことば)に隨ひて許可(ゆる)し、閨(ネヤ)の裏(うち)に交(まじは)り通ふ(頭注より:「寝所で結婚した。」)。其(そ)の夜閨の内に、音(こゑ)有(あ)りて言はく「痛や」といふこと三遍(みたび)なり。父母聞きて、相談(かたら)ひて曰はく「未(いま)だ效(なら)はずして(頭注より:「結婚の経験がないので。」)痛むなり」といひて、忍びて猶(なほ)寐(い)ぬ。明日(あくるひ)晩(〔オ〕ソ)ク起き、家母(いへのとじ)戸をタタ(タタ)キテ、驚かし喚べども(頭注より:「主婦すなわち母が、寝所の戸をたたき、目をさまさせようと喚んだが。」)答へ不(ず)。怪しびて開き見れば、唯(ただ)頭(かしら)と、一つの指(ゆび)とを遺(のこ)し、自餘は皆噉(くら)はる(頭注より:「その他は皆食べられていた。」)。父母見て悚(お)ぢ慄(おそ)り惆(あはれ)び懆(うれ)へ(頭注より:「怖れ悲しんで。」)、娉妻(しるし)(頭注より:「結納。」)に送りし彩(しみ)の帛(きぬ)を睠(み)れば、返(か)はりて畜(けもの)の骨と成り、載せし三つの車も、亦(また)返はりて呉朱臾(からはじかみ)(頭注より:「薬用にする、ぐみの一種。」)の木と成れり。八方の人聞き集(つど)ひ、臨み見て怪しば不(ざ)るは无し。韓筥(からのはこ)(頭注より:「舶来の美しい箱。」)に頭(かしら)を入れ、初七日の朝(あした)に、三寶の前に置きて齋食(さいじき)を爲しき(頭注より:「初七日の朝、仏前に安置し、精進の食事を設ける。」)。乃(すなは)ち疑はく、災(わざはひ)の表(しるし)(頭注より:「災難の前ぶれ。」)は先(さき)に現(あら)はる。彼(そ)の唄は是(こ)の表(しるし)なることを(頭注より:「(だから)、「汝をぞ嫁に欲しと云々」の俗謡は、凶事の前兆ではなかったか、と疑われる。」)。或(あ)るは神怪(しんげ)なりと言ひ、或(あ)るは鬼啖(きたん)なりと言ふ(頭注より:「ある人は、神の不思議なしわざであると言い、ある人は、鬼が食ったものという。」)。思ひをクツガエ(カヘ)スに、猶(なほ)是れ過去の怨(あた)なり(頭注より:「よく考えてみると、やはり前世に犯した罪への怨みである。」)。斯(こ)れも亦(また)奇異(めづら)しき事なり。」



「中卷 女人、大蛇(をろち)に婚(くなか)はれ、藥の力に賴りて、命を全くすること得る縁 第四十一」より:

「河内の國更荒(さらら)の郡馬甘(うまかひ)の里に、富める家有(あ)り。家に女子(をみな)有(あ)り。大炊(おほひ)の天皇(頭注:「淳仁天皇。天平宝字三年(七五九)。」)の み世に、天平寶字三年己亥(つちのとゐ)の夏四月、其(そ)の女子(をみな)、桑に登りて葉を揃(こ)く(頭注より:「桑の葉をむしり取る。」)。時に大蛇有(あ)り。登れる女の桑に纏(まつ)ひて(頭注:「巻きついて。」)登る。路を往く人、見て孃(をみな)に示す(頭注より:「娘に注意する。」)。孃見て驚き落つ。蛇(へみ)も亦(また)副ひ堕ち、纏ひて婚(くなか)ふ。慌(ほ)れ迷(まど)ひて臥しつ(頭注より:「放心気絶する。」)。父母見て、藥師(くすし)を請ひ召し、孃(をみな)と蛇(へみ)と俱(とも)に同じ床に載(の)せて、家に歸り庭に置く。稷(あはきび)の藁三束を燒き、(中略)湯に合はせ、汁を取ること三斗、煮煎(にい)りて二斗と成し、猪(ゐ)の毛十把を剋(きざ)み末(くだ)きて汁に合はせ、然して孃の頭足に當てて、橛(くひ)を打ちて(頭注より:「頭と足の位置に合わせて、杭を打つ。」)懸け釣り、開(つび)(頭注:「女陰。」)の口に汁を入る。汁入ること一斗、乃(すなは)ち蛇放れ往くを殺して棄つ。蛇の子白く凝(こ)り、蝦蟆(かへる)の子(頭注より:「がまがえるの卵。」)の如し。猪の毛、蛇の子の身に立ち、〓(漢字: 門+也)(〈しなたりくぼ〉)より出づること五升許(ばかり)なり。口に二斗を入るれば(頭注:「(胎内を洗滌するのである。)」)、蛇の子皆出づ。迷惑(まど)へる孃、乃(すなは)ち醒めて言語(かたら)ふ。二(ふたり)の親の問ふに、答ふらく「我が意(こころ)夢の如くなりしも、今醒めて本の如し」といふ。藥服是(かく)の如し、何ぞ謹みて用ゐ不(ざ)らむや(頭注:「薬による効能は、このようである。だから、注意深く用いねばならない。」)。然して三年を經て、彼(そ)の孃、復(また)蛇に婚(くなか)はれて死にき。」






こちらもご参照ください:

『宇治拾遺物語』 中島悦次 校註 (角川文庫)
ヒレア・ベロック 文/エドワード・ゴーリー 絵 『悪いことをして罰があたった子どもたちの話』 柴田元幸 訳



































『宇治拾遺物語』 中島悦次 校註 (角川文庫)

「塚をほりくづすに、中に石の唐樻(からびつ)あり。あけてみれば、尼の年廿五六ばかりなる、色うつくしくて、口びるの色など露(つゆ)かはらで、えもいはずうつくしげなる、ね入(いり)たるやうにて臥(ふし)たり。」
(『宇治拾遺物語』 「世尊時ニ死人ヲ掘出事」 より)


『宇治拾遺物語』 
中島悦次 校註
 
角川文庫 1896/黄 十七 1


角川書店 
昭和35年4月30日 初版発行
昭和59年6月30日 24版発行
416p 
文庫判 並装 カバー
定価620円
カバー: 栃折久美子



例言および本文は旧字、註と解説は新字。



宇治拾遺物語



カバーそで文:

「建保年間に成立した鎌倉時代の代表的説話集。類纂的で整然たる今昔物語と対照的に自由な連想のまま雑纂されている点、徒然草に近い。所収説話196話、うち今昔物語と共通説話も多いが、霊験譚・法力譚など仏教説話のほか、雀亀報恩譚や人間滑稽譚など民話風な説話も多い。宮内庁書陵部蔵写本を底本とする。重要語句索引付。」


内容:

例言


卷第一
卷第二
卷第三
卷第四
卷第五
卷第六
卷第七
卷第八
卷第九
卷第一〇
卷第一一
卷第一二
卷第一三
卷第一四
卷第一五

解説
索引




◆本書より◆


「卷第二 一 淸德聖奇特ノ事」:

「今は昔、せいとくひじりといふ聖(脚注:「高徳の僧の意から単に僧の意。」)のありけるが、母の死(しに)たりければ、ひつぎにうち入(いれ)て、たゞひとりあたごの山(脚注:「愛宕山。山城国葛野郡。京都の西北にある山。」)に持(もち)て行(いき)て、大(おほき)なる石を四(よつ)の隅(すみ)におきて、その上にこのひつぎをうちおきて、千手(せんじゆ)ダラ尼(に)(脚注:「千手陀羅尼。千手陀羅尼経にある千手観音の咒文。」)を、片時(かたとき)やすむ時もなく打(うち)ぬる(脚注:「寝る。「打」は接頭語。」)事もせず、物もくはず湯水ものまで、こわだえ(脚注:「声絶え。」)もせず誦(ず)したてまつりて、此ひつぎをめぐる事三年に成(なり)ぬ。その年の春(脚注:「某年の春。」)、夢ともなくうつゝともなく、ほのかに母の聲にて、「此ダラ尼(に)をかくよるひる誦(ずし)給へば、我ははやく男子(なんし)となりて天にむまれにしかども、おなじくは佛になりて告申さんとて、今までは、つげ申さざりつるぞ。今は佛になりて告申也。」といふときこゆるとき、『さ思(おもひ)つる事なり。今ははやう成給ぬらん』とて、とりいでて、そこにてやきて、骨とりあつめてうづみて、上に石のそとば(脚注:「率都婆(塔婆)は梵語。方墳などと漢訳される。墓標。」)などたてて、例(れい)の樣(やう)にして、京へいづる道に、西京(にしのきやう)(脚注:「平安京は朱雀大路によって東の京(左京)と西の京(右京)とに分けられ、東の京(今の京都の地)が隆えて西の京は寂れていたので、特に京とは別に西の京といった。」)になぎ(脚注より:「水草の一首で水葵に似たものという。」)いとおほくおひたる所あり。此聖こうじて(脚注:「(困じて)つかれて。」)、物いとほしかりければ、道すがら折(をり)て食(くふ)ほどに、主(ぬし)の男出(いで)きて見れば、いとたふとげなる聖の、かくすゞろに(脚注:「むやみに。」)折(をり)くへばあさましと思て、「いかにかくはめすぞ。」と云(いふ)。聖「こうじてくるしきまゝにくふなり。」と云(いふ)時に、「さらばまゐりぬべくは、今すこしもめさまほしからんほどめせ。」といへば、三十筋ばかりむず/\と折くふ。此なぎは三町計(ばかり)ぞうゑたりけるに、かくくへば、いとあさましく、くはんやうも、みまほしくて、「めしつべくば、いくらもめせ。」といへば、「あな、たふと。」とて、うちゐざり/\をりつゝ、三町をさながら(脚注:「そのまま、そっくり。」)くひつ。ぬしの男、『あさましう物くひつべき聖かな』と思(おもひ)て、「しばしゐさせ給へ。物してめさせん。」とて、白米一石とりいでて、飯(いひ)にしてくはせたれば、「年比(としごろ)物もくはでこうじたるに。」とて、みな食ていでていぬ。此男『いと淺(あさ)まし』と思て、これを人にかたりけるをききつゝ、坊城の右のおほ殿(との)(脚注:「藤原師輔。摂政左大臣忠平の第二子。正二位・右大臣。天徳四年逝。年五三。九条右相府・坊城大臣と号された。」)に、人のかたりまゐらせければ、『いかでか、さはあらん。心えぬ事かな。よびて物くはせてみん』とおぼして、「結縁(けちえん)(脚注:「仏法に縁を結ぶこと。」)のために物まゐらせてみん。」とて、よばせ給(たまひ)ければ、いみじげなる聖あゆみまゐる。そのしりに、餓鬼(脚注:「三悪道の一で、ここに堕ちた者は飢渇に苦しめられ、食べようとするものは皆炎となり、口は針の穴のようで芥子も入らないで苦しむという。」)・畜生・とら・おほかみ・犬・からす、よろづの鳥獣ども、千萬とあゆみつゞきてきけるを、こと人(びと)の目に大かたえみず(脚注:「他の人の目に少しも見えない。」)、たゞ聖ひとりとのみ見けるに、このおとゞ(脚注:「大殿。大臣。」)、みつけ給て、『さればこそいみじき聖にこそありけれ。めでたし』とおぼえて、白米十石をおものにして(脚注:「飯に炊いて。」)、あたらしき莚(むしろ)・薦(こも)に、をしき・をけ・ひつなどに入(いれ)て、いく/\とおきて(脚注:「たっぷりと置いて。」)、くはせさせ給(たまひ)ければ、しりにたちたる物どもにくはすれば、あつまりて手をさゝげてみなくひつ。聖はつゆくはで(脚注:「露ほども(少しも)食べないで。」)悦(よろこび)ていでぬ。『さればこそたゞ人(びと)にはあらざりけり。佛などの變じてありき給(たまふ)にや』とおぼしけり。こと人(びと)の目にはたゞ聖ひとりして食(くふ)とのみみえければ、いと/\あさましき事に思けり。さて出(いで)て行(いく)程(ほど)に、四條の北なる小路(脚注:「四条大路の北にある小路。錦小路。もと具足(糞の)小路か。」)にゑどをまる(脚注:「糞をする。「穢土」は、大便のこと。「まる」は、四段活で「ひる」意味。」)。此しりにぐしたるもの、しちらしたれば、たゞ墨のやうにくろきゑどを、ひまもなくはる/゛\としちらしたれば、げすなどもきたながりて、その小路を「糞(くそ)の小路。」とつけたりけるを、御門(みかど)(脚注:「(帝)後冷泉天皇か。」)きかせ給て、「その四條の南(脚注より:「四条大路の南、綾小路。」)をばなにといふ。」と問(とは)せ給ければ、「綾(あや)の小路(こうぢ)となんと申。」と申ければ、「これをば綾小路といへかし。あまり穢き名哉(かな)。」と仰せられけるよりしてぞ、錦小路といひける。」


「卷第三 七 虎ノ鰐取タル事(脚注:「今昔物語巻二九第三一話と同話。」)」:

「是も今は昔、筑紫(つくし)(脚注:「筑前・筑後(北九州)地方の称から九州全島のこと。」)の人あきなひしに新羅(しらぎ)(脚注:「朝鮮半島にあった王国。もと辰韓の地。」)にわたりけるが、あきなひはてて歸(かへる)みちに、山の根にそひて舟に水くみいれんとて、水の流出(ながれいで)たる所に舟をとどめて水をくむ。其程舟に乘(のり)たる物、舟(ふな)ばたにゐて、うつぶして海をみれば、山の影うつりたり。高き岸の三四十丈ばかりあまりたる上に(脚注:「今昔物語には「三四丈上りたる上に」)、虎つくまりゐて(脚注:「板本「つゞまりゐて」今昔物語「縮リ居テ」とある。」)物をうかゞふ、その影水にうつりたり。その時に人々につげて、水くむ物をいそぎよびのせて、手毎に櫓(ろ)をおして急(いそぎ)て舟をいだす。其時に虎をどりおりて船にのるに、舟はとくいづ。とらはおちくる程(ほど)(脚注:「道程。」)のありければ、いま一丈ばかりを、えをどりつかで、海に落入(おちいり)ぬ。舟をこぎて急(いそぎ)て行(ゆく)まゝに、此虎に目をかけてみる。しばし計(ばかり)ありて、虎海よりいできぬ。およぎて、くがざまに(脚注:「陸地の方に。」)のぼりて、汀(みぎは)にひらなる石の上にのぼるをみれば、左のまへあしを、ひざよりかみ食(くひ)きられて血あゆ(脚注:「血が出る。」)。『鰐(わに)(脚注:「「鰐鮫」のことか。」)にくひきられたる也(なり)けり』とみる程に、そのきれたる所を、水にひたして、ひらがりをるを(脚注より:「平たくなっているのを。」)、『いかにするか』とみる程(ほど)に、沖(おき)の方より、鰐、虎のかたをさしてくるとみる程に、虎右のまへ足をもて、鰐の頭に爪を打立(うちたて)て、陸(くが)ざまになげあぐれば、一丈ばかり濱になげあげられぬ。のけざまになりてふためく(脚注:「ぱたぱたする。今昔物語「のためく」」)おとがひ(脚注:「頤(あご)。」)のしたを、をどりかゝりて食(くひ)て、二(ふた)たび三(み)たびばかり打(うち)ふりて、なえ/\となして、かたに打かけて(脚注:「肩にかついで。」)、手をたてたるやうなる岩の五六丈有(ある)を、三(みつ)の足を持(もち)て、くだり坂を走(はしる)がごとくのぼりてゆけば、舟の中(うち)なる物共、是がしわざをみるに、なからは死入(しにいり)ぬ(脚注:「半分は。今昔物語「半ハ皆死スル心地ス」」)。『舟に飛(とび)かゝりたらましかば、いみじき劔刀(つるぎかたな)をぬきてあふとも(脚注:「わたり合っても。今昔物語「向会フトモ」」)、かばかり力つよく、はやからんには(脚注:「今昔物語には「力ノ強ク足ノ早カラムニハ」」)、何(なに)わざをすべきぞ』と思ふに、肝心(きもこころ)うせて、舟こぐ空(そら)もなくて(脚注:「舟漕ぐ心地もなくて。」)なむ、筑紫(つくし)には歸りけるとかや。」


「卷第三 一五 長門前司女葬送ノ時歸本處事」:

「今は昔、長門前司(脚注:「前任の長門国の国司。誰とも分らない。」)といひける人の女(むすめ)二人ありけるが、姉は人の妻(め)にてありけり。妹は、いとわかくて宮仕(みやづかひ)ぞしけるが、後には家に居たりけり。わざとありつきたる男もなくて(脚注より:「特にきまった夫もなくて。」)、たゞ時々かよふ人なぞありける。高辻室町(たかつじむろまち)わたり(脚注:「高辻小路と室町小路との交叉する辺。」)にぞ家はありける。父母(ちゝはゝ)もなく成(なり)て、おくのかたには姉ぞゐたりける。南のおもての西のかたなる妻戸口(つまどぐち)(脚注:「寝殿の南面の西にあたる妻戸の口。「妻戸」は両方に開く舞戸。」)にぞ、常に人にあひ、物などいふ所なりける。廿七八ばかりなりける年、いみじうわづらひてうせにけり。おくはところせし(脚注:「奥は所狭い。」)とて、その妻戸口にぞやがてふしたりける。さてあるべき事ならねば、姉などしたてて、鳥部野(とりべの)(脚注:「鳥辺野は山城国愛宕郡(京都市)の火葬場地。」)へゐていぬ。さて例の作法(さはふ)(脚注:「野べの送り。葬送。」)に、とかくせんとて、車よりとりおろすに、ひつ(脚注:「櫃。「ひつぎ」(柩)の誤かともいう。」)かろ/゛\として、ふたいさゝかあきたり。あやしくてあけてみるに、いかにも/\露(つゆ)(脚注:「露ほども。少しも。」)物なかりけり。「道などにて落(おち)などすべき事にもあらぬに、いかなる事にか。」と心えずあさまし。すべきかたもなくて、「さりとてあらんやは。」とて、人びと走歸(かへり)て、「道におのづからや(脚注:「道にひょっとして(落ちはしないか)」。」とみれども、あるべきならねば、家へ歸(かへり)ぬ。「もしや。」と見れば、此妻戸口に、もとのやうにてうちふしたり。いとあさましくもおそろしくて、したしき人々あつまりて、「いかがすべき。」といひあはせさわぐ程に、「夜もいたくふけぬれば、いかがせん。」とて、夜明(あけ)て又ひつに入(いれ)て、このたびはよく實(まこと)にしたゝめて(脚注:「処理して。」)、「よさり(脚注:「「夜さり」は夜になること。夜さ。夜。」)いかにも。」など思てある程に、夕(ゆふ)つかた、みる程に、此樻(ひつ)のふた、ほそめにあきたりけり。いみじくおそろしく、ずちなけれど(脚注より:「術ないが。仕方ないけれど。」)、したしき人々、「ちかくてよく見ん。」とてよりてみれば、ひつぎよりいでて又妻戸口に臥(ふし)たり。「いとゞあさましきわざかな。」とて、又かき入(いれ)んとて、よろづにすれど、さら/\ゆるがず。つちよりおひたる大木などを、ひきゆるがさんやうなれば、すべき方(かた)もなくて、『たゞこゝにあらんとてか(脚注:「死人はたゞここにいたいとしてであろうか。」)』とおもひて、おとなしき人(脚注:「年長者。」)よりていふ、「たゞこゝにあらんとおぼすか。さらば、やがてここにもおきたてまつらん。かくては、いとみぐるしかりなん。」とて、妻戸口の板敷(いたじき)をこぼちて(脚注:「板の間をこわして。」)、そこにおろさんとしければ、いとかろらかにおろされたれば、すべなくて、その妻戸口一間をいたじきなど、とりのけこぼちて、そこにうづみて、たか/゛\と塚にてあり。家の人々も、さてあひゐてあらん、物むつかしくおぼえて(脚注:「そうして向いあっているのは気味わるく思われて。」)、みなほかへわたりにけり。さて年月へにければ、しんでん(脚注:「(寝殿)当時の貴人の邸造りで中央の主殿をいう。」)もみなこぼれうせにけり。いかなる事にか、此塚のかたはらちかくは、げすなども、えゐつかず、「むつかしき事(脚注:「気味わるい事。」)あり。」と云(いひ)つたへて、大(おほ)かた人も、高辻おもてに六七間計(ばかり)が程は小家もなくて、その塚一(ひとつ)ぞ高々としてありける。いかにしたる事にか、つかの上に神のやしろをぞ、一(ひとつ)いはひすゑてあなる(脚注:「祭祀してあるそうだ。」)。此比(このごろ)も今にありとなん。」


「卷第三 一七 小野篁廣才ノ事」:

「今は昔、小野篁(をののたかむら)(脚注:「小野岑守の長男。参議・左大弁・東宮学士、従三位。仁寿二年逝。年五一.」)といふ人おはしけり。嵯峨(さが)の御門(みかど)(脚注:「桓武帝第二子。平城帝の同母弟。在位一四年。承和九年逝。年五七.」)の御ときに、内裏(だいり)に札(ふだ)をたてたりけるに、無惡善とかきたりけり。御門、篁に「よめ。」とおほせられたりければ、「よみはよみさぶらひなむ。されど、恐(おそれ)にて候へば、え申(まうし)さぶらはじ。」と奏しければ、「たゞ申せ。」とたび/\仰(おほせ)られければ、「さがなくてよからん(脚注:「悪性(さが)無くて善からむ。さがに嵯峨が通じるというのである。運歩色葉集「無悪善(サガナキハヨシ)、嵯峨帝王之時落書也」)と申て候ぞ。されば君をのろひまゐらせて候なり。」と申ければ、「是はおのれはなちては、たれか書(かゝ)ん(脚注:「己れ(汝)を除いては誰れが書こう。」)。」とおほせられければ、「さればこそ、申(まうし)さぶらはじとは、申(まうし)て候(さぶらひ)つれ。」と申(まうす)に、御門「さて、なにもかきたらん物は、よみてんや(脚注:「何でも書いた物は読めるか。」)。」と仰られければ、「なににてもよみさぶらひなん。」と申(まうし)ければ、片假名(かたかな)のねもじ(脚注:「「子」文字。音がシで、訓はコまたはネ(十二支の子)である。」)を十二かかせ給て、「よめ。」と仰られければ、「ねこの子(こ)の、子(こ)ねこ、ししの子(こ)の、こじし。」とよみたりければ、御門ほゝゑませ給(たまひ)て、事なくて(脚注:「無事で。咎めもなくて。」)やみにけり。」


「卷第四 五 石橋ノ下ノ虵ノ事」より:

「此ちかくの事(こと)なるべし。女ありけり。雲林院(うりんゐん)(脚注:「山城国愛宕郡紫野(京都市)にあった天台宗の寺。」)の菩提講(ぼだいかう)(脚注より:「菩提のために法華経を講説する法会。」)に、大宮をのぼりに(脚注:「大宮大路を上りに。ここは西大宮大路のことか。」)まゐりける程に、西院(脚注:「淳和院址。」)のへんちかく成(なり)て、石橋ありける水のほとりを、廿(はたち)あまり卅(みそぢ)ばかりの女房、中(なか)ゆひて(脚注より:「衣をあげて腰帯する外出姿。」)あゆみゆくが、石橋をふみ返(かへ)して過(すぎ)ぬるあとに、ふみかへされたる橋のしたに、まだらなるこくちなは(脚注:「小蛇。」)のきり/\としてゐたれば、「石のしたに、くちなはのありける。」とみるほどに、此ふみ返したる女のしりに立(たち)て、ゆら/\と、このくちなはのゆけば、しりなる女の(脚注:「後にある女が。」)みるにあやしくて、「いかに思(おもひ)て行(ゆく)にかあらん。ふみいだされたるをあしと思(おもひ)て、それが報答(はうたふ)せんと思ふにや。これ(脚注:「くちなわ(蛇)を指す。」)がせんやうみむ。」とて、しりにたちて行(ゆく)に、此女時々は見返りなどすれども、我(わが)ともにくちなはのあるとも知らぬげなり。又おなじやうに行(ゆく)人あれども、くちなはの女にぐして行(ゆく)をみつけいふ人もなし。たゞ最初(さいしよ)みつけつる女の目にのみみえければ、『これがしなさんやうみん』と思(おもひ)て、この女の尻(しり)をはなれずあゆみ行(ゆく)ほどに、うりん院にまゐりつきぬ。寺のいた敷(じき)にのぼりて此女居(ゐ)ぬれば(脚注:「坐ると。」)、此虵(くちなは)ものぼりて、かたはらにわだかまりふしたれど、これを見つけてさわぐ人なし。『希有(けう)のわざかな』と、目をはなたずみるほどに、かうはてぬれば(脚注:「講が終ってしまうと。」)、女たちいづるにしたがひて、くちなはも、つきていでぬ。此女、『これがしなさんやうみん』とて、尻にたちて京ざまに(脚注:「京方面に。」)いでぬ。下(しも)ざまに(脚注:「下京方面に。」)行(ゆき)とまりて家あり。その家にいれば、くちなはも、ぐして入(いり)ぬ。これぞ、これが家なりけると思ふに、『ひるはすがた(脚注:「姿。または「すかた」で、「するかた」の誤か。」)もなきなめり。よるこそ、とかくする事もあらんずらめ。これがよるのありさまを見ばや』と思ふに、みるべきやうもなければ、その家にあゆみよりて、「ゐ中(なか)よりのぼる人の、ゆきとまるべき所も候はぬを、こよひ計(ばかり)やどさせ給(たまひ)なんや。」といへば、このくちなはのつきたる女(脚注:「蛇のついている女。」)を家あるじとおもふに、「こゝにやどり給(たまふ)人(ひと)あり。」(脚注:「「こゝに……」は蛇のついた女の言葉。」)といへば、老(おい)たる女いできて、「たれか、の給ぞ。」といへば、これぞ家あるじなりけると思て、「こよひ計(ばかり)やどかり申(まうす)なり。」といふ。「よく侍(はべり)なん。入(いり)ておはせ。」といふ。うれしと思て入(いり)てみれば、板敷のあるにのぼりて此女ゐたり。くちなはは板敷のしもに柱のもとにわだかまりてあり。めをつけてみれば、此女をまもりあげて(脚注:「見つめ仰いで。」)此くちなははゐたり。虵つきたる女「殿にあるやうは(脚注:「殿中の有様は。「殿」は勤務先の館。」)。」など物がたりしゐたり。宮仕(みやづかへ)する物也とみる。かかるほどに日たゞくれに暮(くれ)て、くらく成(なり)ぬれば、くちなはのありさまをみるべきやうもなくて、此家主とおぼゆる女にいふやう、「かくやどさせ給へるかはりに、緒(を)(脚注:「苧。紐にするための麻。」)やある。うみてたてまつらん(脚注:「績(う)んで差上げましょう。」)。火ともし給へ。」といへば、「うれしくの給(たまひ)たり。」とて、火ともしつ。を取出(とりいだ)して(脚注:「苧を取り出して。」)あづけたれば、それをうみつゝみれば、この女ふしぬめり。いまや、よらんずらんとみれども、ちかくはよらず。『この事やがてもつげばや』と思へども、『つげたらば、我(わが)ためもあしくやあらん』と思(おもひ)て、物もいはで『しなさんやうみん』とて、夜中のすぐるまで、まもりゐたれども、つひにみゆるかたもなき程に、火消(きえ)ぬれば、此女もねぬ。」


「卷第六 二 世尊時ニ死人ヲ掘出事」:

「今はむかし、世尊時(脚注:「もと清和帝の皇子桃園親王(貞純)の邸で、保光中納言の家、太政大臣伊尹の家となった。」)といふ所は、桃園大納言(脚注:「藤原忠平の四男師氏。権大納言。天禄元年逝。年五八。枇杷大納言。」)住給けるが、大將になる宣旨(せんじ)かうぶり給にければ、大饗(だいきやうの)(脚注:「任官祝賀の宴会。」)のあるじのれうに(脚注:「饗応のために。」)修理し、まづは祝し給(たまひ)し程に、あさてとて、にはかにうせ給(たまひ)ぬ。つかはれ人(びと)みな出で散りて、北方(きたのかた)・若公(わかぎみ)ばかりなん、すごくて住(すみ)給ける。そのわかぎみは、とのもりのかみ(脚注:「主殿寮の長官。」)ちかみつ(脚注:「「ちかのぶ」(近信。師氏の二男)の誤か。」)といひしなり。此家を一條攝政殿(脚注:「藤原師輔の長男伊尹。正二位太政大臣になったのは師氏の歿年の翌天禄二年。そして翌三年に四九で逝去。」)とり給て、太政大臣に成て、大饗行なはれける。坤(ひつじさる)の角(すみ)(脚注:「西南方の隅。」)に塚(つか)のありける。築地(ついぢ)をつきいだして、そのすみは、したうづがた(脚注:「襪形。「したうづ」は「したぐつ」の音便。靴の下に履く足袋。今の靴下。「かた」は八冊本「だか」(高?)」)にぞありける。殿「そこに堂を建てん。この塚をとりすてて、そのうへに堂をたてん。」と、さだめられぬれば、人々も「つかのために、いみじう功德(くどく)になりぬべき事也(なり)。」と申ければ、塚をほりくづすに、中に石の唐樻(からびつ)あり。あけてみれば、尼の年廿五六ばかりなる、色うつくしくて、口びるの色など露(つゆ)かはらで、えもいはずうつくしげなる、ね入(いり)たるやうにて臥(ふし)たり。いみじううつくしき衣の、色々なるをなん、きたりける。若かりける物のにはかに死(しに)たるにや。金(かね)のつき(脚注:「金の杯。物を盛る金製の器。」)、うるはしくてすゑたりけり。入(いり)たる物、なにもかうばしき事たぐひなし。あさましがりて、人々立(たち)こみてみるほどに、乾(いぬゐ)の方より風吹(ふき)ければ、色々なる塵(ちり)になん成(なり)て失(うせ)にけり。かねのつきよりほかの物、つゆとまらず。「いみじきむかしの人なりとも、骨髪(ほねかみ)のちるべきにあらず。かく風の吹(ふく)に、ちりになりて吹(ふき)ちらされぬるは希有(けう)の物なり。」といひて、その比(ころ)、人あさましがりける。攝政殿いくばくもなくて失給(うせたまひ)にければ(脚注:「伊尹の歿したのは天禄三年一一月一日(四九歳)。(公卿補任・尊卑分脈)」)、「このたたりにや。」と人うたがひけり。」


「卷第一一 二 保輔盗人タル事」:

「今は昔、攝津守(脚注:「原本の傍註や板本は「丹後守」」)保昌(脚注:「大納言藤原元方の孫、右京大夫致忠の子。摂津守・丹後守。長元元年歿。年七九。」)が弟に、兵衞尉(ひやうゑのじよう)にて冠(かうぶり)たまはりて(脚注:「左右兵衛尉は従六位下が相当なのを特に五位に叙せられたこと。「冠」は、位階。」)、保輔といふものありける、盗人の長にてぞありける。家は姉小路の南、高倉の東にゐたりけり。家の奧に藏をつくりて、したをふかう井のやうに掘(ほり)て、太刀・鞍(くら)・鎧・かぶと・絹・布など、よろづのうる物をよび入(いれ)て、いふまゝに買(か)ひ、「あたひをとらせよ。」といひて、「おくの藏のかたへ、ぐしゆけ。」といひければ、「あたひ給(たま)はらん。」とて行(ゆき)たるを、藏の内へよび入(いれ)つゝ、掘(ほり)たる穴へつきいれつきいれして、もてきたる物をばとりけり。この保輔がり(脚注:「「の許に」の意。板本には「に」とある。」)物もて入(いり)たるものの歸(かへり)ゆくなし。この事を物うりあやしうおもへども、うづみころしぬれば、此事をいふものなかりけり。これならず京中をしありきて、ぬすみをしてすぎけり。この事おろ/\きこえたりけれども、いかなりけるにか、とらへからめらるる事なくてぞ過(すぎ)にける。」


「卷第一二 二四 一條棧敷屋鬼ノ事」:

「今はむかし、一條棧敷(さじき)屋(脚注より:「一条大路にあったという。」)に或男とまりて、傾城(けいせい)(脚注より:「美女の意から、遊女のこと。」)とふしたりけるに、夜中計(ばかり)に風吹雨降てすさまじかりけるに、大路(脚注:「一条大路。」)に「諸行無常(しよぎやうむじやう)(脚注:「涅槃経に出た四句の偈文に「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」」)」と詠じて過る物あり。なに物ならんとおもひて、蔀(しとみ)をすこしおしあけてみければ、長(たけ)は軒(のき)とひとしくて馬の頭なる鬼なりけり。おそろしさに、しとみをかけて、おくのかたへいりたれば、此鬼格子(かうし)おしあけて、顏をさし入(いれ)て、「よく御覽じつるな/\。」と申しければ、太刀を抜て、いらば切らんとかまへて、女をばそばにおきて待(まち)けるに、「よく/\御覽ぜよ。」といひていにけり。「百鬼夜行(脚注:「夜、いろいろの鬼が出歩くこと。」)にてあるやらん。」と、おそろしかりけり。それより一條のさじき屋には、又も、とまらざりけるとなん。」






こちらもご参照ください:

ブルクハルト 『イタリア・ルネサンスの文化』 柴田治三郎 訳 (世界の名著 45)
















































『建礼門院右京大夫集 付 平家公達草紙』 久松潜一・久保田淳 校注 (岩波文庫)

「我がおもふ心ににたる友(とも)もがな そよやとだにもかたりあはせん」
(「建礼門院右京大夫集」 より)


『建礼門院右京大夫集 
付 平家公達草紙』 
久松潜一・久保田淳 校注
 
岩波文庫 黄/30-025-1 


岩波書店 
1978年3月16日 第1刷発行
1983年5月20日 第6刷発行
224p 
文庫判 並装
定価350円



本書「凡例」より:

「建礼門院右京大夫集は九州大学図書館細川文庫本を底本とし、その欠脱部分を寛永二十一年刊板本によって補い、補った箇所を( )に入れて示した。」
「仮名遣いは歴史的仮名遣いに統一し、適宜仮名書きに漢字を宛て、漢字に読み仮名を付し、送り仮名を補った。」
「底本の歌順に和歌の通し番号を付した。」
「読みやすさを考慮して、適宜小見出しを付し、〔 〕に入れて示した。」
「脚注は、底本を他本によって改訂した場合、人名・地名など、参考となる和歌や詩文・故事、その他特記すべき事項に限った。」
「参考として、建礼門院右京大夫集に共通する世界や人物を描いた白描絵巻、平家公達草紙の絵詞を翻刻付載した。校注の方針は建礼門院右京大夫集に準ずる。」
「なお、本書を成すに当っては日本古典文学大系『平安鎌倉私家集』に収められた本文を礎稿とした。同書の建礼門院右京大夫集は久松潜一校注で、(中略)久保田は同書所収久松校注の俊成卿女家集の協力者であったが、その後別個に建礼門院右京大夫集の抄注を試みた。それらの関係から今回本書の校注を担当したので、『平安鎌倉私家集』所収本の本文・頭注・補注には必ずしも拘泥しなかったが、これを礎稿とした意味において、久松・久保田の共校の形をとった。」




建礼門院右京大夫集 01



帯文:

「悲劇の中宮建礼門院に仕え、のちに『新勅撰集』などの諸集に名を残した才媛右京大夫の情感あふれる歌集。『平家公達草紙』を併収。」


目次:

凡例

建礼門院右京大夫集
平家公達草紙

補注
解説 (久保田淳)
和歌索引
人名索引




建礼門院右京大夫集 02



◆本書より◆


「建礼門院右京大夫集」より:

    「〔序〕
    家の集などいひて、歌(うた)よむ人こそかきとゞむることなれ、これは、ゆめ/\さにはあらず。たゞ、あはれにも、かなしくも、なにとなく忘(わす)れがたくおぼゆることどもの、あるをり/\、ふと心におぼえしを、思(おも)ひ出(い)でらるゝまゝに、我が目(め)ひとつにみんとてかきおくなり。

1 われならでたれかあはれとみづぐきの あともし末(すゑ)の世につたはらば」

    「〔星月夜〕
    十二月ついたちごろなりしやらん、夜に入りて、雨(あめ)とも雪ともなくうち散りて、むら雲さわがしく、ひとへに曇(くも)りはてぬ物から、むら/\星(ほし)うち消(き)えしたり。ひきかづきふしたる衣(きぬ)を、ふけぬるほど、丑(うし)二(ふたつ)ばかりにやと思(おも)ふほどに、ひきのけて、空(そら)をみあげたれば、ことに晴(は)れて、浅葱(あさぎ)色なるに、ひかりこと/゛\しき星(ほし)のおほきなる、むらなく出(い)でたる、なのめならずおもしろくて、花(はな)の紙(かみ)に、箔(はく)をうち散らしたるによう似(に)たり。こよひはじめてみそめたる心ちす。さき/゛\も星(ほし)月夜みなれたることなれど、これはをりからにや、ことなる心ちするにつけても、たゞ物のみおぼゆ。

251 月をこそながめなれしか星(ほし)の夜の ふかきあはれをこよひしりぬる」

    「〔雪のけしき〕
    よもすがらながむるに、かき曇(くも)り、又晴(は)れのき、ひとかたならぬ雲のけしきにも、

254 大空(おほぞら)ははれもくもりもさだめなきを 身のうきことはいつもかはらじ」

    「〔涅槃会〕
    二月十五日、涅槃会(ねはんゑ)とて人のまゐりしに、さそはれてまゐりぬ。おこなひうちして、思(おも)ひつゞくれば、尺迦仏の入滅せさせ給ひけんをりの事、僧(そう)などの語(かた)るをきくにも、なにもたゞ物のあはれのことにおぼえて、涙とゞめがたくおぼゆるも、さほどの事はいつもきゝしかど、この比(ごろ)きくはいたくしみ/゛\とおぼえてものがなしく、涙(なみだ)のとまらぬも、ながらふまじきわが世の程にやと、それはなげかしからずおぼゆ。

262 世の中のつねなきことのためしとて 空(そら)がくれにし月にぞありける」

    「〔かたらふよしなし〕
    その世の事、みし人、しりたるも、おのづからありもやすらめど、かたらふよしもなし。たゞ心の中(うち)ばかり思(おも)ひつゞけらるゝが、はるゝかたなくかなしくて、

325 我がおもふ心ににたる友(とも)もがな そよやとだにもかたりあはせん」



「平家公達草紙」より:

    「〔花陰の鞠〕

治承二年三月ばかりにや、少将隆房、内よりまかりいでて、夕つけて内大臣の小松殿へまうでたれば、一家の君達、花の陰(かげ)に立(た)ちやすらひて、色/\の直衣姿(なをしすがた)、さま/゛\の衣着(き)こぼしつゝ、鞠(まり)もて遊(あそ)びたまふ程なりけり。大臣(おとゞ)、烏帽子(ゑぼし)直衣(なをし)にて、高欄(かうらん)におしかゝりて、見興(けう)じ給ふ。夕ばえのかたちども、かたほなるもなく、とり/゛\にきよらなり。同(おな)じ陰(かげ)に立(た)ち加(くわ)はれば、大臣(おとゞ)も「をりよし」とおぼしたり。木ずゑも見えず、暮(く)れはつるまでになりぬ。」

    「〔将棋倒し〕

安徳天皇(脚注:「第八十一代の天皇(一一七八―一一八五)。諱は言仁。高倉天皇第一皇子。母は中宮徳子(建礼門院)。元暦二年三月二十四日、壇浦で入水した。八歳。」)の御時、八条二位殿、三后の宣旨(せむじ)ありて、寿永二年(脚注:「西暦一一八三年。」)正月、鷹司殿の御例(脚注:「御堂関白道長の室源倫子の例。」)とて、拝礼行(おこな)はれけり。内大臣(脚注:「平宗盛のこと。」)よりはじめて、平家の一門、公卿殿上人、多(おほ)く並(なら)び立ちてゆゝしく見えけり。物(もの)見る人多(おほ)かりける中に、すでに拝ありけるとき、わらはべ二三人「将棋倒(しやうぎだを)しを見よ」、これを歌(うた)ひ、手を叩(たゝ)きたりける。人(ひと)いかにぞや聞きけるに、まことにその年(とし)の秋、世替(かは)りければ、天狗などのしわざにやと人申しけり。」







こちらもご参照下さい:

『平家物語 (下)』 高橋貞一 校注 (講談社文庫)























































『方丈記 発心集』 三木紀人 校注 (新潮日本古典集成)

「魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして、たれかさとらむ。」
(『方丈記』 「六」 より)


『方丈記 発心集』 
三木紀人 校注
 
新潮日本古典集成


新潮社 
昭和51年10月10日 発行
昭和54年7月30日 4刷
437p 
四六判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価1,800円
装画: 佐多芳郎



本書「凡例」より:

「本書の底本として、「方丈記」は大福光寺本(一部は一条兼良(かねら)本)、「発心集」は慶安四年刊本を用いた。」
「二作品とも底本は漢字交り片仮名書きであるが、これを漢字交り平仮名書きに改め、段落を切った。」
「底本における漢字を適宜仮名(または、より適切な漢字)に改め、また、仮名に適宜漢字をあてた。」
「句読点・振仮名・送り仮名・濁点は私意によった。」
「会話・引用文等には「 」を付した。」
「漢字は現行の字体、本文・振仮名の仮名づかいは歴史的仮名づかいによった。」
「底本の反復記号は漢字・仮名に改めた。」



第5回配本。



方丈記 発心集



帯文:

「永遠の思想を痛切な生の軌跡でふちどった「方丈記」、奇人と呼ばれるまで信念に徹して死んだ世捨て人たちの列伝「発心集」――。中世を代表する鴨長明の2編。」


帯裏:

「発心集・地獄の文学――
水上勉
 『発心集』の説話は、ぼくには作者の発心の楽しみというよりは、地獄を逃げようとして逃げきれないでいる人の、苦しみを感じさせる。地獄を創ってみせる人の力も感じさせる。凡人にない鋭い目が要所に光って、空想が羽ばたいているので、説話は文学的に精彩を放つように思われる。つまり、きまって後尾につけ足される説法よりは、事の筋書きを綴るその息づかいに興をふかめさせられるのだが、長明はやはり、出離の人というよりは文学者だったとぼくは思う。」



目次:

凡例

方丈記

発心集
 序
 第一
  一 玄敏僧都、遁世逐電の事
  二 同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふ事
  三 平等供奉、山を離れて異州に趣く事
  四 千観内供、遁世籠居の事
  五 多武峯僧賀上人、遁世往生の事
  六 高野の南に、筑紫上人、出家登山の事
  七 小田原教懐上人、水瓶を打ち破る事 付 陽範阿闍梨、梅木を切る事
  八 佐国、華を愛し、蝶となる事 付 六波羅寺幸仙、橘木を愛する事
  九 神楽岡清水谷仏種房の事
  十 天王寺聖、隠徳の事 付 乞食聖の事
  十一 高野の辺の上人、偽つて妻女を儲くる事
  十二 美作守顕能家に入り来る僧の事
 第二
  一 安居院聖、京中に行く時、隠居の僧に値ふ事
  二 禅林寺永観律師の事
  三 内記入道寂心の事
  四 三河聖人寂照、入唐往生の事
  五 仙命上人の事 并 覚尊上人の事
  六 津の国妙法寺楽西聖人の事
  七 相真、没の後、袈裟を返す事
  八 真浄房、暫く天狗になる事
  九 助重、一声念仏に依つて往生の事
  十 橘大夫、発願往生の事
  十一 或る上人、客人に値はざる事
  十二 舎衛国老翁、宿善を顕はさざる事
  十三 善導和尚、仏を見る事
 第三 
  一 江州増叟の事
  二 伊予僧都の大童子、頭の光現はるる事
  三 伊予入道、往生の事
  四 讃州源大夫、俄に発心・往生の事
  五 或る禅師、補陀落山に詣づる事 賀東上人の事
  六 或る女房、天王寺に参り、海に入る事
  七 書写山客僧、断食往生の事 此の如きの行を謗るべからざる事
  八 蓮花城、入水の事
  九 樵夫独覚の事
  十 証空律師、希望深き事
  十一 親輔養児、往生の事
  十二 松室童子、成仏の事
 第四
  一 三昧座主の弟子、得法華経験の事
  二 浄蔵貴所、鉢を飛ばす事
  三 永心法橋、乞児を憐れむ事
  四 叡実、路頭の病者を憐れむ事
  五 肥州の僧、妻、魔と為る事 悪縁を恐るべき事
  六 玄賓、念を亜相の室に係くる事 不浄観の事
  七 或る女房、臨終に魔の変ずるを見る事
  八 或る人、臨終に言はざる遺恨の事 臨終を隠す事
  九 武州人間河沈水の事
  十 日吉の社に詣づる僧、死人を取り奇しむ事
 第五
  一 唐房法橋、発心の事
  二 伊家並びに妾、頓死往生の事
  三 母、女を妬み、手の指虵に成る事
  四 亡妻現身、夫の家に帰り来たる事
  五 不動持者、牛に生るる事
  六 少納言公経、先世の願に依つて河内の寺を作る事
  七 少納言統理、遁世の事
  八 中納言顕基、出家・籠居の事
  九 成信・重家、同時に出家する事
  十 花園左府、八幡に詣で往生を祈る事
  十一 目上人、法成寺供養に参り、堅固道心の事
  十二 乞児、物語の事
  十三 貧男、差図を好む事
  十四 勤操、栄好を憐れむ事
  十五 正算僧都の母、子の為に志深き事
 第六
  一 証空、師の命に替る事
  二 后宮の半者、一乗寺僧正の入滅を悲しむ事
  三 堀川院蔵人所の衆、主上を慕ひ奉り、入海の事
  四 母子三人の賢者、衆罪を遁るる事
  五 西行が女子、出家の事
  六 侍従大納言幼少の時、験者の改請を止むる事
  七 永秀法師、数寄の事
  八 時光・茂光、数寄天聴に及ぶ事
  九 宝日上人、和歌を詠じて行とする事 并 蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事
  十 室の泊の遊君、鄭曲を吟じて上人に結縁する事
  十一 乞者の尼、単衣を得て寺に奉加する事
  十二 郁芳門院の侍良、武蔵の野に住む事
  十三 上東門院の女房、深山に住む事 穢土を厭ひ、浄土を欣ぶ事
 第七
  一 恵心僧都、空也上人に謁する事
  二 同上人、衣を脱ぎ、松尾大明神に奉る事
  三 中将雅通、法華経を持ち、往生の事
  四 賀茂女、常住仏性の四字を持ち、往生の事
  五 太子の御墓覚能上人、管絃を好む事
  六 賢人右府、白髪を見る事
  七 三井寺の僧、夢に貧報を見る事
  八 道寂上人、長谷に詣で、道心を祈る事
  九 恵心僧都、母の心に随ひて遁世の事
  十 阿闍梨実印、大仏供養の時、罪を滅する事
  十一 源親元、普く念仏を勧め、往生の事
  十二 心戒上人、跡を留めざる事
  十三 斎所権介成清の子、高野に住む事
 第八
  一 時料上人隠徳の事
  二 或る上人、名聞の為に堂を建て、天狗になる事
  三 仁和寺西尾の上人、我執に依つて身を焼く事
  四 橘逸勢の女子、配所に至る事
  五 盲者、関東下向の事
  六 長楽寺の尼、不動の験を顕はす事
  七 或る武士の母、子を怨み、頓死の事 法勝寺の執行頓死の事 末代なりといへども卑下すべからざる事
  八 老尼、死の後、橘の虫となる事
  九 四条の宮半者、人を咒咀して乞食となる事
  十 金峰山に於て妻を犯す者、年を経て盲となる事
  十一 聖梵・永朝、山を離れ、南都に住む事
  十二 前兵衛尉、遁世往生の事
  十三 或る上人、生ける神供の鯉を放ち、夢中に怨みらるる事
  十四 下山の僧、川合の社の前に絶え入る事

解説 長明小伝

付録
 長明年譜
 校訂個所一覧
 参考地図




◆本書より◆


「発心集」より:


「平等供奉(びやうどうぐぶ)、山を離れて異州に趣(おもむ)く事」より:

「ある時、隠れ所(便所)に在りけるが、俄(にはか)に露の無常を悟る心起つて、「何として、かくはかなき世に、名利にのみほだされて(束縛されて)、厭ふべき身を惜しみつつ、空しく明(あか)し暮す処ぞ」と思ふに、過ぎにし方もくやしく、年来(としごろ)の栖(すみか)もうとましく覚えければ、更に立ち帰るべきここちせず。白衣(びやくえ)(頭注:「僧侶が黒衣をまとわない下着姿でいること。」)にて足駄さしはきをりけるままに(身につけていたそれだけの身なりで)、衣(ころも)なんどだに着ず、いづちともなく出でて、西の坂(頭注:「比叡山から都に至る坂道。雲母坂(きららざか)。」)を下りて、京の方へ下りぬ。
 いづくに行き止(とど)まるべしとも(身を落ちつけようとも)覚えざりければ、行かるるに任せて(足が向くのにまかせて)、淀(頭注:「今の京都市伏見区淀町。宇治・桂・木津の三川が合流し淀川となる地点。船着場として栄えた。西坂本から約二一キロの地。」)の方へまどひありき(放浪して)、下り船の有りけるに乗らんとす。顔なんども世の常ならず、(〔船頭は〕)あやしとて(〔乗船を〕)うけひかねども(承知しなかったが)、あながちに見ければ(頭注:「平等が眼付き鋭く頼むので。乗船をたのむ平等の顔付が実に真剣だったことを言っている。次の船頭の言葉に敬語が用いられているのは、彼が平等の態度から何かただならぬものを感じとった結果であろう。」)、乗せつ。「さても、いかなる事によりて、いづくへおはする人ぞ」と問へば、「更に何事と思ひわきたる事もなし(格別これといった目的もない)。さして(めざして)行き着く処もなし。只、いづかたなりとも、(〔あなた方が〕)おはせん方へ(いらっしゃる方へ)まからんと思ふ」と云へば、「いと心得ぬ事のさまかな」と(〔皆で〕)かたむきあひたれど(首をひねっていたが)、さすがに、情なくは非(あら)ざりければ、おのづから(たまたま)、此の船の便りに(頭注:「この船の目的地が伊予であったことによって。」)、伊予の国(頭注:「今の愛媛県。」)に至りにけり。
 さて、彼(か)の国に、いつともなく迷ひありきて(のべつさまよい歩いて)、乞食(こつじき)をして日を送りければ、国の者ども、「門乞食(かどこじき)(頭注:「門口に立って物乞いをする者。かどこつじき。」)」とぞ付けたりける。山の坊には(比叡山の坊では)、「あからさまにて出で給ひぬる後(ちょっとお出かけになってからその後)、久しくなりぬることあやしう」なんど(などと)云へど、かくとは(こんな次第だとは)、いかでか思ひ寄らん。「おのづから(もしかすると)ゆゑこそあらめ(何かわけがあるのだろう)」なんど云ふ程に、日も暮れ、夜も明けぬ。驚きて尋ね求むれど、更になし。云ひかひなくして、偏(ひとへ)に、亡き人になしつつ(頭注:「すっかり、平等を死んだものときめこんで。」)、泣く泣く、跡のわざ(頭注:「故人をとむらう仏事。あとのこと。」)を営みあへりける。
 かかる間に、此の国の守(かみ)なりける人(頭注:「『古事談』の同説話傍注によれば、藤原知章。彼の伊予守在任は、長徳元年(九九五)頃という。」)、供奉(ぐぶ)の弟子に浄真阿闍梨(じやうじんあじやり)(頭注:「神宮本および『三国仏記』は「静真」、『今昔物語集』は「清尋」とし表記に各種ある。いずれも同一人物をさし、「静真」が正しい。台密(たいみつ)(天台密教)の高僧。「阿弥陀房」と称す。生没年未詳。」)と云ふ人を、年来(長年)相ひしたしみて(懇意にして)祈りなんどせさせければ、(〔京から〕)国へ下るとて、「遥かなる程に、憑(たの)もしからむ(頭注:「遠い地方なので、あなたに同道してもらえば、心強いことでしょう、の意。」)」と云ひて、具して(伴って)下りにけり。
 此の門乞食(かどこじき)、かくとも知らで、(〔伊予守の〕)館(たち)の内へ入りにけり。物を乞ふ間に、童部(わらんべ)ども、いくらともなく(大勢)尻に(後ろに)立ちて笑ひののしる。ここら集まれる(その場に大勢居合わせた)国のものども、「異様(ことやう)の物の様(ざま)かな。罷(まか)り出でよ(出て行け)」と、はしたなくさいなむを(はげしく叱りつけるのを)、此の阿闍梨あはれみて、物なんど取らせむとて、まぢかく呼ぶ。恐れ恐れ縁のきはへ来たりたるを見れば、人の形にも非(あら)ず、やせおとろへ、物のはらはらとある綴(つづり)(頭注:「あちこちからぼろが垂れさがる、みすぼらしい僧衣。「綴(つづり)」は、きれをつぎあわせて仕立てた着物。つづれ。」)ばかり着て、実(まこと)にあやしげなり。(〔身なりは変っていたが〕)さすがに、見しやうに覚ゆるを、よくよく思ひ出づれば、我が師なりけり。あはれに悲しくて、すだれの内よりまろび出でて(ころがるように出て)、縁の上にひきのぼす(手を取って上らせた)。守(かみ)より始めて、有りとあらゆる人、驚きあやしむあまり、泣く泣く様々にかたらへど、(〔平等は〕)詞(ことば)すくなにて、強(し)ひていとまを乞ひて去りにけり。
 云ふはかりもなくて(頭注:「「云ふはかりなし」は「云ふばかりなし」の古形。あまりのことに言葉も出ないさま。「はかり」は限度。」)、麻の衣やうの物用意して、有る処を尋ねけるに、ふつと(頭注:「「ふつと」は打消を強める語。」)え尋ねあはず(どうしても見つからない)。はてには、国の者どもに仰せて、山林至らぬくまなく踏み求めけれども、あはで、其のままに跡をくらうして(行方不明になって)、終(つひ)に行末も知らずなりにけり。」



「多武峯僧賀(たふのみねそうが)上人、遁世(とんせい)往生の事」より:

「世を厭ふ心いとど深くなりにければ、「いかでか(何とかして)、身をいたづらになさん(自分の立場をなくしてしまおう)」と、次(ついで)を待つほどに、ある時、内論義(ないろんぎ)(頭注:「「うちろんぎ」とも。大極殿(後に清涼殿)において、天皇の前で正月十四日に行われた行事。御斎会(ごさいえ)に参加の高僧を召し、結願(けちがん)の日に、経文の内容を論義させたもの。」)と云ふ事ありけり。定まるる事にて、論義すべきほどの終りぬれば、饗(きやう)(頭注:「その席で供された貴人の飲食物の残り物。「下(おろ)し」と称し、取食(とりばみ)(乞食の類)を庭に集めて食わせる習慣があった。」)を庭に投げ捨つれば、諸(もろもろ)の乞食(こつじき)、方々に集りて、あらそひ取つて食(くら)ふ習ひなるを、此の宰相禅師(頭注:「増賀をさす。父が宰相(さいしょう)であったことにちなむとされるが、疑問。」)、俄(にはか)に大衆(だいしゆ)の中より走り出でて、此れを取つて食(く)ふ。
 見る人、「此の禅師は物に狂ふか」とののしりさわぐを聞きて、「我は物に狂はず。かく云はるる大衆達こそ、物に狂はるめれ」と云ひて、更に(少しも)驚かず。「あさまし(あきれたことだ)」と云ひあふ程に、此れを次(ついで)として籠居(ろうきよ)しにけり。」
「其の後、貴(たつと)き聞こえありて、時の后(きさき)(頭注:「円融天皇の女御(にょうご)の藤原遵子とも、同じく詮子ともいうが、いずれも史実に徴しえない。」)の宮の戒師(頭注:「授戒にたずさわる僧。」)に召しければ、なまじひに参りて(気が進まなかったが参上して)、南殿の高欄(頭注:「紫宸殿の欄干。」)のきはに寄りて、さまざまに見苦しき事どもを云ひかけて、空しく出でぬ(役割を果さずに退出した)
 又、仏供養(頭注:「仏に供物をささげ、法会を行うこと。」)せんと云ふ人のもとへ行く間に、説法すべき様(さま)なんど道すがら案ずとて、「(〔こんなことを考えるのは〕)名利を思ふにこそ。魔縁(まえん)便りを得てげり(頭注より:「悪魔が私の修行を妨げるきっかけをついにとらえたのだな。」)」とて、行き着くや遅き(行き着くや否や)、そこはかとなき事をとがめて(どうでもよいことを咎めだてして)、施主(せしゆ)(頭注:「供養の主催者。」)といさかひて、供養をもとげずして帰りぬ。此等(これら)の有様は、人にうとまれて、再びかやうの事を云ひかけられじとなるべし。」
「此の聖人(しやうにん)、命終らんとしける時、先づ碁盤を取り寄せて、独り碁を打ち、次に障泥(あふり)(頭注:「馬具の一つ。泥よけのために、下鞍の間につけ、馬の脇腹をおおう皮。形が似ているので、蝶の羽に見立てたのである。」)を乞うて是(これ)をかづきて、小蝶と云ふ舞(頭注:「胡蝶楽。壱越(いちこつ)調の舞楽。蝶の羽をせおい、山吹の花枝を手にした四人の童児が舞う。」)のまねをす。弟子どもあやしんで問ひければ、「いとけなかりし時(幼少の頃)、此の二事を人にいさめられて、思ひながら空しくやみにしが(してみたかったのにせずじまいに終ったそのことが)、心にかかりたれば、『若(も)し生死の執となる事もぞある(あるいは死後に執念を残すかもしれない)』と思うて」とこそ云はれけれ。」



「或る女房、天王寺に参り、海に入る事」より:

「鳥羽院(頭注:「第七四代天皇。在位、嘉承二年(一一〇七)~保安四年(一一二三)。」)の御時、ある宮腹(頭注:「皇女の子。」)に、母と女(むすめ)と同し宮仕へする(一緒に勤務をする)女房ありけり。年比(としごろ)へて後、此の女、母に先立ちてはかなくなりにけり。(〔母は〕)嘆き悲しむ事限りなし。しばしは、かたへ(仲間)の女房も、「さこそ思ふらめ(さぞかし気をお落しでしょう)。ことわりぞ(むりもない)」なんど云ふ程に、一年・二年ばかり過ぎぬ。其の嘆き、更におこたらず(少しもおさまらない)。やや日にそへていやまさり行けば、折りあしき時(〔泣いているのが〕具合悪い時)も多かり。(中略)涙をおさへつつ明(あか)し暮すを、人目もおびたたしく(人目について)、はてには、「此の事こそ心得ね(腑に落ちない)。おくれ先立つならひ、今はじめける事かは(今に始まったことではない)」なんど、口やすからず(〔皆は〕非難がましい口ぶりで)ざざめきあへり(頭注より:「がやがやいう。さわぎ立てる。」)。
 かくしつつ(こうして)三年と云ふ年(三年目に当る年)、ある暁に、人にも告げずあからさまなるやうにて(ちょっとした外出のふりをして)、まぎれ出で、衣(きぬ)一つ、手箱(頭注:「身のまわりの道具を入れる箱。」)一つばかりをなん袋に入れて、女(め)の童(わらは)に持たせたりける。京をば過ぎて鳥羽(頭注より:「今の京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽の地。(中略)当時、鳥羽殿があった。」)の方へ行けば、此の女の童、心得ず思ふほどに(不思議に思っていると)、なほなほ行き行きて(どんどん進んで行って)、日暮れぬれば、橋本(頭注より:「鳥羽より約十キロ、男山の麓、淀川に面した地。今の京都府綴喜(つづき)郡八幡町橋本。当時、港町として殷賑(いんしん)をきわめた。」)と云ふ所に留まりぬ。明けぬれば、又出でぬ。からうして、其の夕べ、天王寺(頭注より:「四天王寺。(中略)この寺の西門は極楽の東門に通ずるとされ、かつては西門のすぐきわにあった浜辺から乗船、入水するのが流行した。」)へまうで着きたりける(参り着いたのであった)。さて、人の家借りて、「ここに、七日ばかり念仏申さばやと思ふに、京よりは、其の用意もせず。ただ我が身と女の童とぞ侍る」とて、此の持ちたりける衣を一つ、取らせたりければ、「いとやすき事(おやすい御用です)」とて、家主(いへぬし)なん、其の程の事は用意しける。
 かくて、日毎に堂にまゐりて、拝みめぐる程に、又こと思ひせず(他のことは気にかけず)、一心に念仏を申したりける。(中略)七日に満ちては、京へ帰るべきかと思ふ程に、「かねて思ひしより、いみじく心も澄みて、たのもしく侍り(充実した気持です)。此のついでに今(さらに)七日」とて、又、衣一つ取らせて、二七日(にしちにち)(頭注:「十四日間。祈願などの日程の単位を七日として、その倍。下の「三七日(さんしちにち)」は二十一日間。」)になりぬ。其の後聞けば、「三七日(さんしちにち)になし侍らん」とて、なほ(また改めて)衣を取らせければ、「何かは(結構です)、かく、度(たび)ごとに御用意なくとも、さきに給はせたりしにても(いただいた分で)、しばしは侍りぬべし(足りるはずで)」と云へど、「さりとて、此の料(頭注:「世話をしてもらうための謝礼。」)に具したりし物を持ちて帰るべきに非(あら)ず」とて、強(し)ひて、なほ取らせつ。」
「(〔二十一日の〕)日数満ちて後、云ふやう、「いまは京へ上るべきにとりて(帰らなければならないので)、音に聞く(有名な)難波(なには)(頭注:「今の大阪湾。古来歌枕として、また、西方を見晴(みはる)かす地として都人のあこがれの的であった。」)の海のゆかしきに(見たいので)、見せ給ひてんや」と云へば、「いとやすき事」とて、家の主(あるじ)しるべして(案内して)、浜に出でつつ、則ち(すぐに)、舟に相ひ乗りて、こぎありく。いと面白しとて、「今少し(〔遠くまで〕)、今少し」と云ふ程に、おのづから澳(おき)に遠く出でにけり。
 かくて、とばかり(しばらく)西に向ひて念仏する事しばしありて、海に、づぶと落ち入りぬ。「あな(ああ)、いみじ(たいへん)」とて、まどひして(あわてて)、取り上げんとすれど、石などを投げ入るるが如くにして沈みぬれば、「あさまし」とあきれさわぐ程に、空に雲一むら出で来て(頭注:「往生人が極楽に迎え取られるときの瑞雲(ずいうん)を暗示する。」)、舟にうちおほひて、かうばしき匂ひあり。家主、いと貴くあはれにて、泣く泣くこぎ帰りにけり。」
「さて、家に帰りて、あとを見るに、此の女房の手にて(筆蹟で)、夢の有様を書き付けたり。「初めの七日は、地蔵・龍樹(頭注より:「西暦一五〇~二五〇年頃の南インドの高僧。(中略)菩薩号を付して尊称される。」)来たりてむかへ給ふと見る。二七日には、普賢(ふげん)・文殊(もんじゆ)(頭注:「釈迦如来の両脇侍(きょうじ)。」)むかへ給ふと見る。三七日には、阿弥陀如来、諸々(もろもろ)の菩薩(頭注より:「観音・勢至以下の二十五菩薩と信じられていた。」)と共に来たりて迎へ給ふと見る」とぞ書き置きたりける。」



「三昧座主(さんまいざす)の弟子、得法華経験(とくほけきやうしるし)の事」より:

「そこに一つの松原あり。林の中に一つの庵(いほり)あり。近く歩みよりてこれを見るに、えもいはぬ(何とも見事な)、新しく作れる屋(いへ)あり。物の具かざり(道具を美しくしつらえ)、皆玉の如し。庭のすなご、雪にことならず(雪のようであった)。植木には花咲き、木(こ)の実(み)むすび、前栽(せんざい)(頭注:「庭前の植えこみ。」)にはさまざまの咲く花、色ことに妙(たへ)なり。義叡これを見て、喜ぶ事限りなし。
 しばしうち休みつつ、此の屋の内を見れば、聖(ひじり)ひとりあり。齡(よはひ)わづかに廿(はたち)ばかりにやと見ゆ。衣・袈裟(けさ)うるはしく(きちんと)著(き)て、法華経よみ奉る。(中略)一の巻をよみをはりて、経机(きやうづくゑ)の上に置けば、其の経、人も手ふれぬに、みづから巻きかへされて元の如くになる。かくしつつ(こんなことが繰返されて)、一の巻より八の巻にいたるまで、巻く事、前の如し。」

「明けぬれば、今は帰りなんと思ひて、なほ道にまどはん事を嘆く。聖の「しるべ(道案内)を付けて送り申すべし」と云ひて、水瓶(みづがめ)(頭注より:「修行者必携の十八物の第四。水瓶(すいびょう)。通力を具(そな)えた者が、これを利用して神秘的な験(しるし)を現すという。」)を取りて前に置く。其の水瓶をどりをどりて(飛び上り飛び上りして)、やうやうさきに行く(どんどん先導して行く)。其の瓶の後(しり)につきて行くままに、二時(ふたとき)ばかりを経て(約四時間たって)、山の頂(いただき)にのぼりぬ。ここにて見おろせば、麓に人里あり。
 その時、水瓶空にのぼりて、もとの処に飛び帰りにけり。」



「或る女房、臨終に魔の変ずるを見る事」より:

「或る宮腹の女房、世を背(そむ)けるありけり(頭注:「宮腹の女房で遁世した人がいた。「宮腹の女房」は皇女の娘である女房。または、皇女の娘に仕える女房。」)。病ひをうけて限りなりける時(死を前にした時)、善知識(頭注:「教導を仰いでいた聖。」)に、ある聖を呼びたりければ、(〔善知識が〕)念仏すすむる程に、此の人(女房は)、色まさを(頭注より:「まっさお。」)になりて、恐れたるけしきなり。あやしみて、「いかなる事の、目に見え給ふぞ」と問へば、「恐しげなる者どもの、火の車(頭注:「罪人をのせて地獄にはこぶ車。火を発している。火車(かしゃ)。」)を率(ゐ)て来るなり」と云ふ。聖の云ふやう、「阿弥陀仏の本願(頭注:「阿弥陀如来が法蔵菩薩の時代に立てた誓願。」)を強く念じて、名号(みやうがう)をおこたらず(休みなく)唱へ給へ。五逆(頭注より:「五つの大罪。これを犯した者は無間(むけん)地獄に堕(お)ちるという。」)の人だに、善知識にあひて、念仏十度(とたび)申しつれば、極楽に生る(頭注:「十念往生をいう。『観無量寿経』の所説で、下品下生(げぼんげしょう)の往生。」)。況(いはん)や、さほどの罪は、よも作り給はじ(頭注:「あなたはまさか犯していらっしゃらないでしょう。」)」と云ふ。即ち、此の教へによりて、(〔女房は〕)声をあげて唱ふ。
 しばしありて、其のけしきなほりて、悦(よろこ)べる様なり。聖、又これを問ふ。語つて云はく、(女房)「火の車は失(う)せぬ。玉のかざりしたるめでたき車に、天女の多く乗りて、楽をして迎ひに来たれり(頭注:「音楽を奏でながら迎えに来る。「迎ひ」は「迎え」に同じ。往生する人を仏菩薩などが迎えに来ること。」)」と云ふ。聖の云はく、「それに乗らんとおぼしめすべからず。なほなほ(今までのように)、ただ阿弥陀仏を念じ奉りて、仏の迎ひに預(あづ)からんとおぼせ」と教ふ。これによりて、なほ念仏す。
 また、しばしありて(しばらくたって)云はく、(女房)「玉の車は失(う)せて、墨染めの衣着たる僧の貴げなる、只ひとり来たりて、『今は、いざ給へ(頭注:「さあご一緒に参りましょう。」)。行くべき末は(目あては)道も知らぬ方なり。我そひてしるべせん(同行して案内しましょう)』と云ふ」と語る。「ゆめゆめ(決して)、その僧に具せんと(ついて行こうと)おぼすな。極楽へ参るには、しるべいらず。仏の悲願に乗りて、おのづから至る国なれば、念仏を申してひとり参らんとおぼせ」とすすむ。
 とばかりありて、(女房)「ありつる(先ほどの)僧も見えず、(〔他に〕)人もなし」と云ふ。聖の云はく、「その隙(ひま)に、とく(〔極楽へ〕)参らんと心を至して(精神を集中して)、つよくおぼして(一心に往生を祈念して)念仏し給へ」と教ふ。其の後、念仏五六十返ばかり申して、(〔その〕)声のうちに(声が終らぬうちに)息絶えにけり。」



「貧男(ひんなん)、差図(さしづ)を好む事」より:

「近き世の事にや、年はたかくて(とっているが)、貧しくわりなき男(頭注より:「ひどく貧しい男。」)ありけり。司(官位)などある者なりけれど、出で仕ふるたつきもなし(〔しかるべき所に〕出仕する手づるもない)。さすがに古めかしき(古風な)心にて、奇(あや)しきふるまひ(頭注:「なりふりかまわない生き方。」)などは思ひよらず。世執(せいしふ)(頭注:「世俗的な物事への執着心。「せしゅう」とも読む。」)なきにもあらねば、又かしらおろさん(剃髪しよう)と思ふ心もなかりけり。常には居所(ゐどころ)もなくて、古き堂のやぶれたるに(荒れはてた所に)ぞ舎(やど)りたる。
 つくづくと(むなしく)年月送る間に、朝夕(あさゆふ)するわざ(仕事)とては、人に紙反故(かみほんぐ)(頭注:「紙の使い古し、書き損じの類。「反故」は、「ほご」「ほぐ」「ほうご」などとも読む。」)など乞ひあつめ、いくらも差図(頭注:「家屋の設計図。絵図面。」)をかきて、家作るべきあらましをす(空想をする)。「寝殿はしかしか、門は何か(何で造ろうか)」など、これを思ひはからひつつ、尽きせぬあらまし(頭注:「実現することのない計画。」)に心を慰めて過ぎければ、見聞く人は、いみじき事のためし(頭注より:「非常識なことの例。」)になん云ひける。
 誠に、あるまじき事をたくみたるは(実現するはずのないことを計画するのは)はかなけれど、よくよく思へば、此の世の楽しみには、心を慰むるにしかず。」
「彼(か)の男があらましの(空想上の)家は、走(わし)り求め、作りみがく煩(わづら)ひもなし。雨風にも破れず、火災の恐れもなし。なす所はわづかに一紙なれど(一枚の紙の中だが)、心をやどすに不足なし(頭注:「その中に身を置くことを空想するだけなら十分だ。」)。」
「或る物には(頭注:「以下は、昭明太子『陶潜伝』などに見える、陶淵明の有名な故事をさす。ただし、本文の直接の出典は不明。」)、「唐に一人の琴の師あり。緒なき琴をまぢかく(手近な所に)置きて、しばしも傍(かたはら)を放たず。人あやしみて、故(ゆえ)を問ひければ、『われ琴を見るに、その曲心にうかべり。其の故に同じけれども、心を慰むる事は弾(たん)ずるに異ならず』となん云ひける」。」



「賢人右府(けんじんいうふ)、白髪を見る事」より:

「小野宮(をののみや)の右大臣(頭注:「藤原実資(さねすけ)。斉敏(ただとし)の子。祖父実頼の養子となった。従一位右大臣。その明敏と硬骨は有名。永承元年(一〇四六)没、九十歳。「小野宮」の称は彼が伝領した名邸の名にちなむ。彼の納言時代は三十九歳から六十五歳まで、権中納言・中納言・権大納言・大納言などを歴任し、その後二十五年間大臣であった。」)をば、世の人、賢人のおとど(頭注:「実資が「賢人右府」と呼ばれたことは諸書に記されて有名。「賢人」の称を彼自身が望んでその振舞いに気を配ったという逸話が『十訓抄』六などに見える。同書に「(賢人と呼ばれて)のちざまには、鬼神の所変などをも、見顕はされけるとかや」とあるのは『発心集』と符合する。」)とぞ云ひける。納言(頭注:「大納言・中納言・少納言の総称。特に前二者についていう語。」)などにておはしける比(ころ)にやありけん、内より出で給ふに(宮中から退出なさった帰り道)、うつつともなく、夢ともなく、車のしりに、しらばみたる(白っぽい)物着たる小さき男の、見るとも覚えぬが(見たこともないのが)、はやらかに(足ばやに)歩みて来たれば、あやしくて、目をかけて見給ふほどに、此の男走りつきて、後(しり)(頭注:「牛車(ぎっしゃ)の後部。」)の簾(すだれ)を持ち上ぐるに、心得がたくて(不審に思って)、「何物ぞ。便(びん)なし(けしからん)。罷りのけ(そこをどけ)」とのたまふに、「閻王(頭注:「閻魔。地獄にあって、死者の生前の行為の善悪を審判する王という。」)の御使ひ白髪丸(はくはつまる)にて侍る」と云ひて、即(すなは)ち、車にをどり乗りて、冠(かむり)の上にのぼりて失(う)せぬ。」


「或る上人、生ける神供(しんく)の鯉を放ち、夢中に怨みらるる事」より:

「或る聖(ひじり)、船に乗りて近江の湖(みづうみ)(頭注:「琵琶湖をさす。」)をすぎける程に、(〔ある人が〕)網船に大きなる鯉をとりて、もて行きけるが、いまだ生きてふためきけるを(ばたばたしていたのを)あはれみて、着たりける小袖をぬぎて、(〔それを代償に〕)買ひとりて放ちけり。
 いみじき功徳(くどく)つくりつと思ふ程に、其の夜の夢に、白狩衣(しろかりぎぬ)(頭注:「浄衣(じょうえ)(「明衣(めいい)」とも)をさす。神事・祭事など、身を潔むべき時に着用する白地の布帛(ふはく)の狩衣。狩衣は中古・中世初期の男の常用服。」)きたる翁(おきな)ひとり、我を尋ねて来たり、いみじう恨みたる気色(けしき)なるを、あやしくて問ひければ、「我は、昼、網にひかれて命をはらんとしつる鯉なり。聖の御しわざの口惜しく侍れば、其の事申さむとてなり(申そうと思って来たのです)」と云ふ。聖云ふやう、「この事こそ心得ね(腑に落ちない)。悦び(お礼)こそ云はるべきに、あまさへ(それどころか)、恨みらるらむ(お恨みになっているのは)、いとあたらぬ事なり」と云ふ。翁云はく、「しか侍り(ごもっともです)。されど、我、鱗(うろくづ)の身をうけて、得脱(とくだつ)の期(ご)を知らず。此の湖の底にて、多くの年をつめり。しかるを、またまた(頭注:「寛文本は「たまたま」。この方が文意に合うか。」)賀茂の供祭(くさい)(頭注:「神仏に供える物。「ぐさい」とも。」)になりて、それを縁として苦患(くげん)(頭注:「(死後に受けねばならない)苦しみ。」)をまぬかれなんと仕(つかまつ)りつるを、さかしき(おせっかいな)事をし給ひて、又、畜生の業(ごふ)を延(の)べ給へるなり(頭注:「自分が畜生でいなければならない業(ごう)を長引かせて下さったのです。」)」と云ふとなむ、見たりける。」







こちらもご参照ください:

馬場あき子 『世捨て奇譚 ― 発心往生論』 (角川選書)
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)
フィリップ・アリエス 『図説 死の文化史』 福井憲彦 訳
『撰集抄』 西尾光一 校注 (岩波文庫)
『和漢朗詠集』 大曽根章介・堀内秀晃 校注 (新潮日本古典集成)

















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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