グリオール+ディテルラン 『青い狐 ― ドゴンの宇宙哲学』 坂井信三 訳

「狐は完全にできあがるずっと前に、不従順な性質を現わしアンマの計画に従うのを拒んだ。彼はしくじる運命を荷なって生まれて来た。彼の役割とつとめはそれ自体、彼自身の個別性を強化することにあった。彼は宇宙の秩序の破壊に手をつけたのと同じように、自分も未完成のままにとどまった。宇宙的な次元での〈記号〉すなわち ことば の追求と、人格の次元での双児の妹あるいは女性の魂の追求という、彼の二つの追求は、つねに必要なものである。彼は宇宙の混乱のもとになったと同時に、心理的な個別性の発揮に道を拓き、そうやって心理と宇宙の双方の領域に、対立関係という望ましい要因をもたらしたのである。」
(グリオール+ディテルラン 『青い狐』 より)


マルセル・グリオール
ジェルメーヌ・ディテルラン 
『青い狐
― ドゴンの宇宙哲学』 
坂井信三 訳


せりか書房 
1986年9月22日 発行
577p xvii 口絵36p(うちカラー6p)
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価6,800円
装幀: 工藤強勝



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Marcel GRIAULE et Germaine DIETERLEN, "Le Renard Pâle" (Travaux et Mémoires de l'Institut d'Ethnologie LXXII, 1965) の全訳である。」
「ドゴン族という人々は西アフリカのサバンナの一画、現在のマリ共和国とブルキナファソ共和国にまたがる一帯に生活する農耕民で、本書はそのうちバンジャガラ断崖地方の主としてサンガ地域の人々に伝承されている秘儀的な創世神話を記述したものである。」
「この研究は(中略)グリオールが一九五六年に急逝したために、ディテルランがその後を受け継いで完成させたものである。したがって、本書はグリオールとディテルランの共著の形をとっているが、事実上の執筆者はディテルランひとりである。」
「本書には多数の図版が収録されている。原著は全巻アート紙で、図版もほとんどが色刷りになっているが、それをそのまま再現するのはかなり困難なことであった。そこで本訳書では、口絵部分に重要と思われる多色刷りの図版をほとんどすべて再録し、単色の図版は、そのうちいくつかを選んで原著のとおりに再現したものを口絵に収め、残りは白黒の図版にして本文中に織りこむことにした。原図は大半がベージュの地に白ぬきで図像を描き出している。これは土の上に穀物のかゆで描かれた図の印象を再現しようとしているものと思われ、配色自体には重要な意味はない。(中略)写真は原著にあるものをそのまま生かした。」



グリオール 青い狐 01


カバーそで文:

「西アフリカ、ニジェール河
大彎曲部の断崖地帯に
住むドゴン族の
なかへミッシェル・レリスらと
ともに分け入った
民族学者M・グリオールは、
彼らからドゴン族最高の
秘儀体系を伝授されることとなった。
それは、内部生命が
螺旋運動の形で生成発展して
いくものとして
世界を捉え、人間精神の
内奥への洞察をエレガントに
解明した、西欧ともアジアとも
まったく異なる
独自のアフリカ的世界観の極限を
開示するものであった。
本書はこのドゴン族の
秘教をたぐい稀な精密さで描き、
ドゥールーズ=ガタリを
始めとして世界に
衝撃を与えた民族誌の
全訳である。」



グリオール 青い狐 02


目次:

図版/写真/地図

凡例

はじめに

序論
 歴史
 言語
 衣食住
 社会
 人格の概念
 ドゴン族の思惟
 付記
 音声表記について
 地図・図・写真について

第一章 アンマ
 1 アンマ
  記号の創造と形態論
  記号の分類と増加
  記号から絵へ
  諸表象
  記号の役割
 2 一回目の創造
  アカシアの創造
  〈最初の世界〉の創造
  〈最初の世界〉の崩壊
 3 アンマの卵
  二回目の創造
  〈アンマの卵〉の最初のヤラ
  〈アンマの目〉が開く、〈アンマの卵〉の第二のヤラ
  諸表象
 4 フォニオの創造
  フォニオの創造
  八種の種子の創造
  ひょうたんとオクラ
  発酵
 5 ノンモ・アナゴンノの創造
  アンマの二重の胎盤
  ノンモ・アナゴンノの卵
  ノンモ・アナゴンノの形成
  魚の増加
 6 アンマの業
  アンマの業
  〈第二の世界〉の仕上げ

第二章 オゴ
 オゴの反抗
 オゴの一回目の降下
 大地の形成
 オゴの最初の箱舟の表象
 異伝
 オゴが再び天に昇る
 異伝
 太陽と亀の創造
 オゴがアンマの種子を盗む
 異伝
 創造の諸要素が白いフォニオの中に戻される
 オゴが再び降下する
 オゴの第二の箱舟
 オゴの種子播き
 ノンモ・ティティヤイネが胎盤を踏みつぶす
 アカシアとくもの働き

第三章 ノンモの供犠と再生
 1 ノンモの去勢
  アンマによる供犠執行者と犠牲者の選定
  犠牲者の魂の分割
  ノンモの去勢
 2 オゴの割礼
  オゴが再び天に昇る
  オゴの割礼
  最後の三度目のオゴの降下
  オゴが青い狐に変えられる
  狐の占いの図表
 3 ノンモの供犠
  犠牲者の喉を切る
  犠牲者の体の分割
  体の諸部分を空間に投げる
 4 ノンモの再生
  ノンモの再生
  供犠と再生の図――レベ・ダラの祭壇と血の線の祭壇
  諸表象
  ノンモの供犠と再生の価値と機能
 5 人間の創造
  鎖骨
  アナゴンノ・ビレとアナゴンノ・サラ
  霊的原理
  鍛治師、語り部、ヤシギ
  死――アナゴンノ・アラガラ
  再生したノンモの胎盤と亀

第四章 白いフォニオの仕事
 創造の諸要素と女性の白いフォニオ
 ノンモが男性の白いフォニオを呑みこむ
 女性の白いフォニオの中にあった諸要素の分類
 諸表象

第五章 ノンモの箱舟
 箱舟に積まれていたもの
 箱舟の降下
 大地に降りた箱舟
 ノンモの箱舟の諸表象
 水の中に入った再生したノンモ
 天体と暦

第六章 アンマの鎖骨の閉鎖
 ひょうたんとオクラの降下
 アンマの鎖骨の中の記号
 アンマは閉じる

原注
付録
神話の概要

訳者あとがき

図版一覧
ドゴン語の動物、植物、星の名称一覧表
参考文献



グリオール 青い狐 03



◆本書より◆


「アンマ」より:

「はじめに、すべてのものに先立って、アンマ(Amma)すなわち神があった。彼は空無の上にいた。〈アンマの丸い卵〉は閉じていた。だがその卵は〈鎖骨〉とよばれる四つの部分からなっていて、それ自体も卵型をした四つの部分は互いに癒着したようなかたちでひとつになっていた。アンマとは接合した四つの鎖骨であり、アンマはこの四つの鎖骨に他ならない。〈アンマのつながった(くっついた)四つの鎖骨は、ひとつの玉をなしていた(玉である)〉といわれる。〈そのあとには何もない〉、つまりそれ以外には何も存在しなかった。
 この卵は全体として、いくつもの角を出した白蟻塚になぞらえられる。それは単一性と多様性を同時に思いおこさせるのである。」
「これらの鎖骨は、原初的なかたちで四つの元素を先取りするものであった。四つの元素すなわち〈四つのもの〉とは、水、気、火、土である。同時に、これらの鎖骨を二等分する線が、後に東南、西南、西北、東北といった中間方位を指示することになる。これが(中略)すなわち空間である。このように、原初の〈卵〉の中には根元的な四つの元素と将来の空間とが存在していたわけである。」
「〈アンマの鎖骨はひえの形に似ている〉といわれる。それは〈アンマが生命、つまりひえを支えている〉からであり、ひえの実が白いのは、〈アンマは真白だ〉からである。
 アンマという語は、しっかりとつかむ、強く抱く、同じところに保つ、といった意味をもっている。」

「アンマは、世界と世界の展開についての見取図を自分自身の上に書き記していたので、創造の総体を保持していた。というのもアンマは、世界を創造するまえにまず描いたからである。絵の材料は水で、それを用いてアンマは空間に図を描いたのである。
 アンマの卵は楕円形の図表で示され、記号(ブンモン)が書きこまれている。これは〈世界の一切の記号の胎〉とよばれる。その中心は臍である。二本の軸の交点からは二等分線にあたる交叉した記号が出ていて、これが四つの方角を印していた。こうしてできた四つの区画は、最初の八つの記号を含んでおり、その各々がまた八つの記号を生み出した。かくして卵は4×8×8、つまり二五六のしるしを含んでいた。それに軸を半分に区切って、一本に二つずつとして八つ、中央の分として二つを加えた二六六の〈アンマの記号〉があった。
 各々の区画にはひとつの元素が割りふられている。(中略)中央の軸の交点にある二つの記号は〈先導-記号〉、四つの区画に置かれた四対の記号は〈主-記号〉といわれ、あとの二五六の記号は〈世界の完全な記号〉という。またこれらの記号の全体は〈目に見えないアンマ〉ともいわれる。
 中心的な図表を構成するこれらの図の組織は、世界の〈降下と展開〉の過程と一致していて、〈降下する世界の分節化した(組織立った)記号〉という名をもっている。」
「ということは、記号、つまり創造の意志の表現がすべてに先立って存在し、それが一切を規定しているということである。〈ドゴンのことば(〈思想〉)では、すべてのものは考えをとおして現われるのであって、ものは自分自身を知らないのだ(それ自体では存在しない)〉。
 図像による創造というメカニズムは、したがって一〇の不動の記号が、動いていく記号に生命を与え、それが物を存在させるのだ、ということになる。」
「(1) 二つの〈先導-記号〉の第一のものは〈概念の出現〉といわれる。」
「(2) 次の〈先導-記号〉は〈脱けがらの記号〉とよばれ、存在の脱けがらを表わす簡単な縦の線からなる。」
「脱けがらは実在する物の証拠としてアンマの内部にとどまり、原初に、アンマが自分自身の双児つまり宇宙そのものをまず創造したことを思いおこさせるものとなる。宇宙がアンマの似姿であり、アンマを内に含んでいると同じように、宇宙もまた記号のかたちでアンマの中に含まれ、とどまるのである。」



「オゴ」より:

「オゴの形成がどうやって遂行されたか、そして彼が存在しはじめてから何がおこったかについては、多くの異伝がある。それらのもつ意味は深いところでは一致しているが、ひとつひとつの異伝の表現は個性的である。しかしどの異伝も、オゴという最初の存在、アンマに逆らいつつ個性を発展させていき、そうすることで宇宙における心性を多様化させたオゴの性格を描写している以上、価値のないものではない。」

「オゴの反抗
 オゴは、その双児兄弟たちと同様に、四元素のしるしである四つの〈体の魂〉をそなえ、完璧な存在としてつくられた胎盤につながっていた。だが彼はまだ単独だった。(中略)オゴはこの時期すでに落ち着きのなさとこらえ性のなさを示したのである。アンマは双児の妹をつくって、オゴとその他のノンモたちに授けてやろうと思っていたのに、オゴは不安と所有欲にかられて、自分には妹が授けられないに違いないと思いこみ、いても立ってもいられず動きまわった。(中略)アンマはオゴに対して、彼が生まれるとき、つまり〈胎から出る〉ときに、ちゃんと双児の妹を受け取るだろうと言いきかせた。だがオゴはそれを信じないで、今すぐくれと要求して反抗し、アンマが雌のノンモを作りあげるのを待たずに自分で探し始めた。」

「充たされないオゴは、すべての規則をひっくり返しながら、今度は形成途上にある宇宙の秘密を見破ろうとして動きはじめた。」
「彼は進行中のアンマの作品のまわりじゅうを行ったり来たりした。」
「ところで宇宙は、アンマの胎の中にあって、未だに非時間的・非空間的であった。(中略)オゴが、その行為によってはじめてひとつの連続というものを規定したのである。つまりその連続こそが、長さ(彼が測るのに利用した〈歩幅〉)と同時に、時間(彼がその〈歩み〉をした期間)を、現実的な形で予示したのである。」

「さてオゴはこうして創造界の限界を〈見る〉ために宇宙を一周した。この旅を実行してからアンマの胎の中央にもどったオゴは、自分が〈アンマのように賢く〉、自分にも世界を創ることができると公言した。彼は〈アンマよ、私はあなたの創った世界を見た〉といった。アンマは答えていった。〈私が創造したように、(おまえはおまえでひとつのものを)太陽の下でもなく陰の中でもなく創れ。おまえはそこに残るがいい。私はまたあとで来よう〉。アンマは不可能なことを実現するよう命じてオゴを困らせるためにこういったのである。
 オゴは、アンマに命じられて中央を去り、西の方へ行ってアンマの〈神経〉つまり卵の中の細い筋を盗んだ。これはあとで四つの鎖骨として開くことになっていたものである。オゴは広がっていこうとしていた筋を手に取って、縁なし帽のような形の器を編み上げた。彼はそれを作るとき、まず上の方から始めて、下の方で編み終った。その結果、編み終ってみると、オゴはちょうどアンマが原初の卵の中に納まっていたように、器の中に閉じこめられたような形になった。この器は丸く、〈アンマの空〉を象って卵の形をしていた。」
「オゴはこのざるをアンマの創造にならって作った。すなわちそこには、アンマが原初の種子と世界に授けた螺旋運動と振動という二つの運動が、ざるを編むときのぐるぐる回る動きと、中心から放射状に出た芯とで示されている。オゴはこのようにアンマの螺旋-振動運動を反復したわけである。したがってこの作業はアンマに対する挑戦状であった。アンマは〈これは私の創った世界の姿に似ているではないか。私と競うのはやめろ〉といった。というのも、アンマはそれを見て、自分が世界を作っているように、オゴも世界を作りはしまいかと恐れたからである。
 しかしオゴは、たるんだ編み方のために〈陰でも光でもない〉場所になった、伏せたざるの下に隠れて、アンマをせせら笑った。オゴの仕事の首尾にいら立ったアンマが、オゴの舌の一部を、正確にいうと〈舌の静脈〉を切ったのはこのときである。このためにオゴは、それまでは出せた声の張りを奪われてしまった。」

「さて、オゴは土の中で、自分に欠けているものを見つけようとした。彼は土に変わった胎盤のかけらの中に、自分の双児の妹と失くしてしまった魂を探し求めたのである。」
「ところで、オゴは自分の胎盤を素材とする土の中に入りこんだのだから、自分の母と交わったことになる。またある面からいえば、自分の胎盤の中に入りこむ探求は、自分の双児の妹を失って霊的原理を一部分しかもっていない単独の存在が、自分のつくられた胎の中を探しまわる、ということでもある。オゴは〈母〉である大地の口から入って性器から出たといわれるが、こうしてとてつもなく重大な近親相姦の罪を構成したのである。この最初の試みにつづいて、オゴは何度もやり直すことになる。彼は将来の世界において、霊的完全性と失われた存在を永遠に追い求めて努力することになるのである。」

「オゴが青い狐に変えられる
 大地についたオゴは、仕事を続けようと思った。しかしアンマは、〈彼を動物のしるしの中に置いて〉変身させ、倒して地面にはわせ、四足動物のように動くよう強制した。彼はオゴという名を失って、ユルグという名を取った。彼は学名で Vulpes pallidus すなわち〈青い狐〉とよばれる狐になったのである。」
「こうして変身させられ、霊的原理の一部を失くしてしまった狐は、主として虫を食べて生き、ちょうど胎盤の中に入るように、洞穴の岩の裂け目に隠れ住むようになる。」
「このとき以来、狐は別の世界で流浪の身になった。この追放の理由は彼の不浄性である。孤独で、不完全で、つねに反抗的でかつ活動的な彼は、しかしながら、大地の上での生命の展開に必要な仲介者となる。なぜなら、アンマは形成途上の宇宙を試すためにオゴの行為を唆したのだといわれるからである。〈アンマは、世界の中で狐を試すためにこれらすべてのことを狐にやらせたのだ〉。」

「狐は完全にできあがるずっと前に、不従順な性質を現わしアンマの計画に従うのを拒んだ。彼はしくじる運命を荷なって生まれて来た。彼の役割とつとめはそれ自体、彼自身の個別性を強化することにあった。彼は宇宙の秩序の破壊に手をつけたのと同じように、自分も未完成のままにとどまった。宇宙的な次元での〈記号〉すなわち ことば の追求と、人格の次元での双児の妹あるいは女性の魂の追求という、彼の二つの追求は、つねに必要なものである。彼は宇宙の混乱のもとになったと同時に、心理的な個別性の発揮に道を拓き、そうやって心理と宇宙の双方の領域に、対立関係という望ましい要因をもたらしたのである。なぜならアンマは、すべてを見通していたので、原初の胎盤を二つの部分に分けることで、宇宙の二元的組織化を予示してもいたからである。この分割、ノンモ・アナゴンノの創造、そしてオゴの行為については、〈アンマがノンモと狐を創ったことの理由は、彼が世界を混乱させ、彼がそれを組織することである〉と説明される。なぜならアンマは、ノンモ・アナゴンノを宇宙の主人にするために創造したのであり、彼らは対立しているが補い合うものであって、オゴが無秩序を助長し、その〈双児の兄弟たち〉がオゴと戦って、宇宙の管理と働きにたずさわるものになるからである。」

「狐の占いの図表
 言語では話せなくなったが、狐は〈ことば〉をもっており、歩くことによって地面に残す〈跡〉を用いて、人間にそれを開示することになる。」



グリオール 青い狐 04



こちらもご参照下さい:

ラディン/ケレーニイ/ユング 『トリックスター』 皆河宗一 他 訳 (晶文全書)































































































スポンサーサイト

ラディン/ケレーニイ/ユング 『トリックスター』 皆河宗一 他 訳 (晶文全書)

「しかし、なにも失われてはいない。(中略)外的には忘れていても、内的にはまったく忘れてはいないのである。」
(C・G・ユング 「トリックスター像の心理」 より)


ポール・ラディン
カール・ケレーニイ
カール・グスタフ・ユング 
『トリックスター』 

皆河宗一/高橋英夫/河合隼雄 訳 
晶文全書

晶文社 
1974年9月25日 初版
1989年8月10日 15刷
309p 索引xiv 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,980円(本体1,922円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、ポール・ラディン Paul Radin の THE TRICKSTER - A study in American Indian Mythology (『トリックスター――アメリカ・インディアン神話の研究』、一九五六年)と同書の独語版 Der Gottlische Schelm (一九五四年)を訳出したものである。第一部から第三部までは英語版、ケレーニイ、ユングの論文は、無削除で正確度の高いドイツ語版によっている。」
「さらに本訳書には、文化人類学者山口昌男氏による「今日のトリックスター論」をつけ加えている。」



ラディン トリックスター


カバーそで文:

「トリックスターとは、その自由奔放な行為ですべての価値をひっくり返す神話的いたずら者、いわば文化ヒーローとしての道化である。
 本書は、アメリカインディアン、ウィネバゴ族のなかで語りつがれてきたおびただしいトリックスター物語を、人類学者ポール・ラディンが収集し、これに、カール・ケレーニイ、C. G. ユングによる神話学的、心理学的分析を付してなった。多彩な知性の協力によってトリックスター像の解明を試みる独創的な書物である。
 創造者であると同時に破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで両端に引きさかれた価値の仲介者としての役割りをになう。トリックスターのかもしだす痛快な笑い、諷刺、ユーモア、アイロニーは、多次元的な現実を同時に生き、それらの間を自由に往還して世界の隠れた貌を顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を切り拓く、すぐれた精神の技術である。
 われわれは今日の文化を考えるうえで、秩序にとらわれない自由な精神と思考の飛翔を可能にする、この道化的機智を無視してすぎることはできないであろう。」



目次:

予備的ノート (ポール・ラディン)

第一部 ウィネバゴ・インディアンのトリックスター神話
 Ⅰ ウィネバゴ族トリックスター物語群
  「トリックスター物語群」のためのノート

第二部 補足的トリックスター神話
 Ⅰ ウィネバゴ族ウサギ物語群
  「ウサギ物語群」のためのノート
 Ⅱ アシニボアン族トリックスター神話の要約
 Ⅲ トリンギット族トリックスター神話の要約

第三部 神話の特質と意味 (ポール・ラディン)
 Ⅰ テキスト
 Ⅱ ウィネバゴ族の歴史と文化
 Ⅲ ウィネバゴ神話と文学的伝統
 Ⅳ ウィネバゴ族ウサギ物語群とその同類
 Ⅴ ウィネバゴ族トリックスターの肖像
 Ⅵ ワクジュンカガに対するウィネバゴ族の態度
 Ⅶ 諷刺としてのワクジュンカガ物語群
 Ⅷ ワクジュンカガと他の北アメリカ・インディアン・トリックスター物語群との関係

第四部 神話的あとがき――ギリシア神話とトリックスター (カール・ケレーニイ/訳: 高橋英夫)
 Ⅰ 第一印象
 Ⅱ 文体
 Ⅲ 類似点
 Ⅳ 本質
 Ⅴ 相違点

第五部 トリックスター像の心理 (C・G・ユング/訳: 河合隼雄)

解説 今日のトリックスター論 (山口昌男)

訳者あとがき (皆河宗一)
索引




◆本書より◆


「神話の特質と意味」(ラディン)より:

「ウィネバゴ族は、たくさんの霊を信じていた。その輪郭が漠然としているものもあったし、はっきりしているものもあった。大多数は動物として、あるいは動物のような生き物として描かれていた。これらの霊の主な特徴は、望みどおりのどんな形でも、動物であれ人間であれ、生物であれ無生物であれ、自由に取ることができることだった。これらの超自然的生き物たちに、人間は、かならずタバコがつくさまざまな種類の捧げ物をした。」
「霊と神と人間との関係は、ひじょうに人間的なものであった。すべての子供は、男であれ女であれ、九歳から十一歳までの間に断食をし、どの点から見ても、一生涯のいかなる危機的状況においても頼みとすることのできる、守護の霊というべきものを得ようとつとめた。この思春期に守護的な、保護的な霊を獲得することは、それが多くの他のアメリカ・インディアンの部族の特徴であったように、ウィネバゴ族の文化の基本的な特徴の一つであった。ウィネバゴ族の考えによれば、それが得られなければ、人間はすっかり錨をなくしてしまい、もっとも露骨な、もっとも残酷な形で、自然の、そして社会の出来事に左右されてしまうのだった。彼らが断食の効能を信じなくなり、霊がもはや彼らに姿を見せてくれなくなったとき、ウィネバゴ族の文化は急速に崩壊していった。」

「ワクジュンカガと北アメリカの他のあらゆるトリックスター英雄に付随する手柄話の類似性は、まったくおどろくばかりである。(中略)まさしくこの事実のために、ウィネバゴ族の神話物語群と他の部族のそれとの間の明白な相違は、特別な重要性をおび、説明が必要とされるのである。」
「この物語群は、他の版では見られない出来事からはじまる。つまり、ワクジュンカガは部族の酋長として描かれ、四日それぞれ違う日に、戦いの包みの宴を開いている。彼はもてなし役で、したがって最後のどんじりまで残っていなければならぬのに、女と寝るために儀式をほうり出しているように描かれているが、それは戦いの包みの宴に参加する者にはぜったいに禁じられている行為である。四度目の日には、彼は最後まで残り、宴に参加した者全員にボートでいっしょについて来いという。岸を離れるやいなや、彼は引き返してボートは無用だとたたきこわす。この愚かな行為に、連れの何人かは去っていく。そこで彼は歩いて出かけるが、しばらくすると、戦いの包みも矢筒もこわしてしまい、とうとうだれもかれもそばを離れ、ひとりきりになる。ひとりきり、つまり、人間と社会に関するかぎりでは。自然の世界とは、彼はなお密接に接触している。彼はあらゆるものを弟と呼ぶ、そうわれわれのテキストは語っている。彼は彼らを理解しているし、彼らも彼を理解している。
 これは明らかに序論であり、その目的は明白である。ワクジュンカガは反社会化されなければならず、人間と社会とのきずなを断つものとして描かれなければならない。(中略)おそらく語り手は、ワクジュンカガは完全に人間の間の世界と縁のないものとして、次第に無定形の、本能的な、統合されない人物から、人間の輪郭を持ち、人間の肉体的特徴を予示するものに進化していくものとして描くべきだ、と決めたのであろう。」
「次につづく手柄話は、ワクジュンカガがどんな人物かを明確に語っている。(中略)彼は、裏切って老いたる野牛を破滅におとし入れ、きわめて残忍な方法で彼を仕止める。彼には倫理的価値は少しも存在していない。それでは、彼はどういうふうにその野牛を仕止めるのか? ただ片方の手、右手を使ってである。次の挿話は、どうして彼が片手だけしか使わなかったかを示している。彼はなおも無意識の中に生きており、精神的には子供で、それがここでは、右手と左手の争いによって象徴されているが、その争いで彼の左手はひどく傷つけられる。彼自身は、それがどうして起こったのかほとんどわかっていない。「どうしてこんなことをやったんだろ?」とたださけぶだけである。」
「次の挿話でも、彼はやはり特殊化されていない、本能的なワクジュンカガである。彼は四人の子供を連れた人に会う。この子供たちは、死なぬように、ある方法である時刻に食物をあたえなければならない。要するに、秩序の原則を認めなければならない。ところが彼は、そんな原則など知らない。父親は、ワクジュンカガが自分の指令にしたがわなかったために子供たちが死んだら、おまえを殺すぞ、と彼に警告する。けれどもワクジュンカガは、自分が空腹なものだから、あたえられた指令にしたがわず、子供たちは死んでしまう。たちまち父親が彼におそいかかる。ワクジュンカガは内陸の世界、つまり、宇宙をあちこち追いまわされ、内陸を取りかこむ大洋に飛びこんではじめて、死をまぬかれる。」
「ここでわれわれは、ワクジュンカガがまったく錨をなくした状態にあるのを知る。彼は人間や社会から独立しているだけでなく――少なくとも一時的には――自然の世界や、同じように宇宙からも孤立している。(中略)作者がここで意図したこと――怒った父親、追跡、大急ぎの逃走、大洋につかること――は、本能的な生活を送る人にはどんなことが起こるかの説明と見てもいいだろう。
 けれども、ここにはまたもう一つの問題がふくまれている。おびえるということは、ウィネバゴ族の象徴主義では、意識の目覚め、現実の感覚、まさしく良心のはじまりを示すのがふつうである。(中略)ここでの重要な点は、自分の失敗と愚かさに対する彼の反応である。「そうだとも」そう彼はいう。「みんながおれのことをワクジュンカガ、間抜けたやつと呼ぶのは、このためなんだな。みんなのいうとおりだ」」
「「まったく正しいことだ、おれがワクジュンカガ、愚かなやつと名づけられているのは! こう呼ばれて、おれはほんとうにワクジュンカガ、愚かなやつにさせられているんだ!」」
「彼はいまや、完全な孤立と正体の欠乏から姿をあらわし、自己とまわりの世界を意識したものとして示されることになる。(中略)そして彼は、どうして自分がワクジュンカガと呼ばれるのか理解しはじめた。ところが彼は、まだ自分の行為の責任を認めてはいない。」

「彼はつねに古い原始的な自我のままでいる。」

「ワクジュンカガが(中略)ほんとうの自己をあらわしたとき、(中略)ウィネバゴ族の物語群ではふつうそういう場面では、彼がいたずらをされた人たちの狼狽をあざ笑っているところが描かれる。ところがここでは、彼は逃げ出してしまう。理由は明らかである。状況はあまりに多くの困難にみちている。あまり多くの禁忌が破られている。あまり多くの人びとの感情が無視されて来たし、あまり多くの個人が恥をかかされて来た。」
「人はこの気違いじみた雰囲気からさっさと抜け出さなければならない、と語り手は感じているらしい。(中略)彼は、ワクジュンカガを逃げ出させたばかりでなく、突然、自分が何をやっているかを彼に悟らせてもいる。(中略)彼は突然、善良な市民として、まったく社会的になった個人として示されている。(中略)それがわれわれがここで扱っているワクジュンカガであるというただ一つの徴候は、このエピソードの最後の三つの文の中に見出される。「地球をまわって人びとを訪ねることにしよう。ここにとどまっているのは、もううんざりしたからな。もとはおれは平和にこの世をさまよい歩いたものだ。ここではごたごたばかり起こしてるだけだ」 これらの言葉にわれわれは、さまざまな義務をともなう家庭化と社会への彼の抗議を聞くのである。」

「最後の場面で、われわれはなおも彼のもう一つの肖像にぶつかる。われわれは彼を神として、われわれの物語群において完全に無視されている彼の性質の一面として、また恐ろしいまでのトリックスターとして、老成していくトリックスターとして、地球上で最後の食事をとる、デミウルゴスに近いものとして見る。岩のてっぺんに石の釜をおいて腰を下ろして食事をしている彼が描かれている。彼はその岩に、釜、尻、睾丸などの跡を残して、その最後の食事を永遠に不滅のものとしている。彼はそれから出発するのだが、そのようなものとして生殖力のシンボルであり、宇宙全体と関連しては人間のシンボルであるから、彼はまず大洋へ飛びこみ、彼が管理する内陸の世界、地球創造者の世界のすぐ下にあるそれへと登っていく……」




こちらもご参照下さい:

グリオール+ディテルラン 『青い狐 ― ドゴンの宇宙哲学』 坂井信三 訳
ケレーニイ/ユング 『神話学入門』 杉浦忠夫 訳 (晶文全書)
山口昌男 『道化の民俗学』 (ちくま学芸文庫)






































































ヴァールブルク 『蛇儀礼』 三島憲一 訳 (岩波文庫)

「空を見上げるということこそ人類にとっての恩寵であり、また呪いでもあるのです。」
(アビ・ヴァールブルク 『蛇儀礼』 より)


ヴァールブルク 
『蛇儀礼』 
三島憲一 訳
 
岩波文庫 青/33-572-1 

岩波書店 
2008年11月14日 第1刷発行
204p
文庫判 並装 カバー
定価560円+税
カバー: 中野達彦
カバー写真: ヴァールブルクとホピ族の踊り手。



訳者解説より:

「本書は、アビ・ヴァールブルク(中略)の、「クロイツリンゲン講演」と言われる講演の再現されたテクストの翻訳である。」


Aby M. Warburg: Schlangenritual ein Reisebericht
図版(モノクロ)多数。


ヴァールブルク 蛇儀礼 01


カバーそで文:

「ドイツの美術史家ヴァールブルク(一八六六-一九二九)が見た世紀末(ファン・ド・シエクル)アメリカの宗教儀礼。蛇は恐怖の源か、不死の象徴か。プエブロ=インディアンの仮面舞踊や蛇儀礼は、やがてギリシア・ローマやキリスト教の蛇のイメージと交錯し、文化における合理と非合理の闘争と共存を暗示する。」


目次:

蛇儀礼
 ――北米プエブロ=インディアン地域で見たさまざまなイメージ

ドイツ語版解説 (ウルリヒ・ラウルフ)
〈訳者解説〉 ハルツ・アテネ・オライビ (三島憲一)



ヴァールブルク 蛇儀礼 02



◆本書より◆


「蛇儀礼」より:

「食糧確保という社会的行為は、こうして見ると分裂(スキゾ)的です。つまり、魔術と技術の両者が合体しているのです。
 論理的思考による文明と狂信的で魔術的な狙いがこのように同居している事態は、プエブロ=インディアンたちの置かれている独特な文化的混合状態、あるいは移行状況によるところが大きいのです。(中略)魔術とロゴスの中間にある彼らが、状況に対処する手段は象徴なのです。獲物をつかみとるだけの人間(Greifmensch)と思考する人間(Denkmensch)との間に、象徴によって魔術とロゴスを結びつける人間がいるのです。象徴的な思考や行為というこの段階を示す例が、プエブロ=インディアンたちの舞踊でしょう。」

「動物に対するインディアンたちの心のうちの態度は、ヨーロッパ人のそれとはまったく異なります。インディアンたちは動物を人間より高次の存在と見ています。なぜなら、動物はまさに動物であるというその完璧なあり方によって、人間という弱い存在よりもはるかに高い能力を持った存在となっているからです。
 動物へと転成しようとするこの意志の心理的分析に関して、私は、まだこの旅に出る前に、インディアンの心の理解をめぐる論争の最前線にいる経験豊かなフランク・ハミルトン・クッシングから得た示唆が、個人的に大きな衝撃となり、蒙を啓かれました。(中略)彼は煙草を吸いながら、あるインディアンが彼に「なぜ人間が動物より高等だと言えるのか」と述べたときの話をしてくれました。インディアンはこう言ったのです。「アンテロープを見てごらんなさい。走っているだけだが、走るのは人間よりはるかに上手ではありませんか。あるいは熊を考えてください。力そのものではありませんか。人間はなにかがほんのちょっとできるだけです。ところが動物はそのままで完璧な存在です」と。」

「動物を通じて自然と一体化しようというこの魔術が最高に高揚した形態は、オライビとワルピのモキ族に見られる、生きた蛇を使った踊りです。」
「ここでは、踊り手と生き物が魔術的に一体化するのです。そして驚くべきことに、インディアンたちは、いっさいの生き物の中でもっとも危険なガラガラ蛇を暴力をまったく使わずに操って、蛇の方が従順に(中略)この何日間か続く儀礼をともにするようにもっていくのです。」
「ワルピの蛇儀礼は、模倣によって動物になる変身儀礼と、流血の生け贄との間に位置します。というのも、動物は模倣の対象でなく、はっきりと儀礼に加わるからです。しかも生け贄にされるのでなく、(中略)人間に代わって雨乞いをする立場として登場するのです。
 というのもワルピの蛇舞踊は、蛇自身に代願を強要する踊りなのです。蛇は、夕立の訪れが期待される八月、一六日間続く儀礼のために低地の砂漠で生け捕りにされ、地下礼拝所(キヴァ)で蛇氏族およびアンテロープ氏族の首長たちの世話を受け、その間、独特の儀礼を受けます。」
「儀式の頂点は、インディアンたちが(中略)蛇をつかまえて運び出し、使者を派遣する目的でその蛇を草原に放つシーンです。」
「インディアンが三人一組で蛇のいる藪に近寄ります。蛇氏族の大司祭が藪から蛇を引っ張り出すと、顔に色を塗り、刺青をし、臀部に狐の皮をまとったもう一人のインディアンがその蛇をつかんで尻尾を口に入れます。彼の肩をつかみながらついて行く二人目のインディアンは、羽根のついた棒を振って蛇の注意を逸らします。三人目は、(中略)もし蛇が口から外れたらつかまえる役を担っています。蛇舞踊は、このワルピの狭い広場で行われますが、その時間は三〇分ちょっとです。こうしてすべての蛇が楽器のガラガラという音にあわせて、運び出されます。踊り手たちはその後蛇を速やかに草原に持っていき、放ちます。蛇たちはすぐにどこかへ消えていきます。」
「ワルピの人々の神話についてわれわれが知るところによれば、こうした蛇崇拝は、彼らのコスモロジーの中での出祖伝説にさかのぼります。ある伝説ではティ=ヨという英雄についてこう語られています。ティ=ヨは、皆が渇望している水の源泉を見つけるために地下への旅に出ます。ティ=ヨの右の耳には、いつも見えない雌の蜘蛛がいて、彼のお供をしています。(中略)ティ=ヨは、地下の王様たちが支配している地下礼拝所(キヴァ)をいくつも通って、西と東にある二つの太陽の家を過ぎ、大きな蛇の地下礼拝所(キヴァ)に至ります。そこで彼は、天気を司るための魔法の「バホ」を授かるのです。伝説によるとティ=ヨは、この「バホ」を携え、二人の蛇娘をつれて下界から地上に戻ります。そしてこの二人との間に生まれた子供たちは、蛇の形をしています。この子供たちは危険きわまりない生き物で、最後には、部族全体が住む場所を変えざるをえなくなります。こうしてこの神話には、蛇は、天気の神であると同時に、部族の移動を引き起こす祖先動物としても組み込まれることになります。
 今述べた蛇舞踊で蛇が生け贄にされることはありません。蛇は聖別され、さまざまな模倣舞踊の働きによって雨乞いの使節へと変身させられ、送り出されるのです。そして、死者たちの魂のいるところに戻り、稲妻と化して空に雷雨を引き起こすのです。」
「インディアンたちの宗教的魔術がこのように原初的に展開するさまを見て、普通の人なら、これはヨーロッパのまったく与り知らない未開の荒々しさを示す独特の原始的な習俗であると、思うでしょう。しかし実は(中略)われわれのヨーロッパ文化のまさに揺籃の地であるギリシアにおいて、今見たインディアンたちのそれを上回る激越で不可思議な儀礼習慣がいたるところでなされていたのです。
 例えばディオニュソスの儀礼は、官能の頂点を極めた放埓なもので、マイナデスの娘たちは両手に蛇を持って踊り狂いました。そして彼女たちはいわば冠飾として頭に生きた蛇を巻きつけていたのです。そして、(中略)神に捧げるべく、片方の手に持ったこの動物を生きたまま引き裂くのです。狂乱の中でのこの血なまぐさい生け贄こそは――今日のモキ=インディアンたちの踊りと対照的に――マイナデスの宗教舞踊の頂点であり、その本来の意味なのです。」

「古代のペシミスティックな世界観における魔神(デーモン)としての蛇と反対に、人間に対してやさしい、古典的美しさを伴った喜ばしい蛇にようやくめぐりあえるのが、アスクレピオスの像です。古代の医術の神アスクレピオスの療しの杖には蛇がその象徴として巻きついています。彼には、(中略)世界の救い主に備わる雰囲気があります。」
「この世を去った魂の神であるアスクレピオスの高貴で清澄な姿は、蛇が棲息している地下の世界に根を下ろしていました。この神に対するもっとも古い崇敬は、蛇の姿への崇敬だったわけです。この杖にまつわりついているのは、アスクレピオスその人に他なりません。つまり、この世を去ったアスクレピオスの魂そのものが蛇の姿を取って生き続け、このように現れ出ているのです。というのも、クッシングのインディアンたちならば、蛇というのは、いつでも飛びかかってきて、無慈悲にも一咬みで人間を殺しかねない、あるいはすでに殺してしまった存在ということになるでしょうが、実はそうした存在であるだけでなく、みずから脱皮することで、身体がいわば生ける鞘から抜け出すようにして、自分の皮膚を捨てて、再び新たに生命を存続させるそのさまを、蛇はみずからにおいて体現している存在なのです。蛇は大地の中に這い込むこともできれば、そこからまた新たに姿を見せることもできるのです。死者たちが安らぐ地の底の冥界から帰還するゆえに――また脱皮して新たな皮をまとうこともあいまって――、蛇は不死のシンボル、病と死の苦しみからの再生のシンボルとなるのです。」



「ドイツ語版解説」より:

「ヴァールブルク本人はまずはハンブルクで、その後はイエナの私立病院で数週間、いや数ヵ月にわたって激しい苦しみを経験したのち、一九二一年四月半ばにクロイツリンゲンにあるルートヴィヒ・ビンスヴァンガーの精神病院に赴いたようである。」
「一九二三年春に病状が好転してくると、ヴァールブルクはビンスヴァンガーに対して、病院の医師や患者たちの前で講演をしてみたいと申し出た。(中略)こうして本書にある北アメリカのプエブロ=インディアンについての講演会が一九二三年四月二一日に開催されることになった。」
「講演のもとになったのは、ヴァールブルクが三〇年近く前の一八九五年から九六年にアメリカ合衆国の南西部諸州を旅した際の観察や経験である。」

「このクロイツリンゲン講演のいくつかの箇所で、ヴァールブルクは、蛇が人間にとっては「もっとも恐ろしい動物」で、原初的な恐怖を引き起こす存在であると示唆している。」
「ムントクーアによれば、まさにそれゆえに蛇崇拝は、動物崇拝の最古の形式の一つであり、それを引き起こすのは恐怖なのである。(中略)インディアンの魔術的な宗教儀礼における蛇崇拝は、ヴァールブルクにとって、原始の思考のかなり深い層から発する、いわば象徴形成の根に由来するものと見えた。(中略)象徴形成が限りなく困難なとき、それどころかほとんど不可能に見えるときにこそ、象徴を作ることがもっとも必要だということであろう。不快感を引き起こす蛇の特性を象徴へと変換することで多少ともその不快感を縮減できるならば、それによって不安という領野を「思考の空間(Denkraum)」へと組み替えたことになる。その点でオライビのインディアンたちは、いかに魔術的思考にとらわれているように見えようとも、(中略)ヴァールブルクから見れば、啓蒙のもっとも初期の英雄たちなのである。」
「インディアンの蛇舞踊は、実用目的をいっさい持たない芸術的楽しみの行為ではない。具体的な結果をもたらすための魔術的儀礼なのである。インディアンは蛇の中に(みずから呼び起こしたい)稲妻の力を肉化させ、舞踊を通じて蛇と結体し、そのことによって、結果として望みの雨を降らせる原理にみずからなろうとするのだ。」
「ヴァールブルクは、このクロイツリンゲン講演で、血まみれの生け贄から、純化された啓示宗教に至る宗教的な昇華のプロセスを描いている。しかし同時に、旧約聖書の「青銅の蛇」に話が及んでいることを鑑みれば、この昇華のプロセスもまたいつ逆転するか分からないと彼が見ていることも明らかである。(中略)治癒の神の姿を取った青銅の蛇は、本来克服されたはずの動物崇拝が、聖書の章にまたしても忍び込んでいることを示している。それどころか、この話は聖書を通じて中世の神学や聖像学にまでつながっているのだ。つまり、この青銅の蛇は、抑圧された未開の世界が生き続け、回帰することの証しなのである。アテネ、エルサレム、オライビはみな親戚関係だというのである。」
「ヴァールブルクは象徴の「両極性」という言い方をするが、(中略)蛇こそはきわめて両義的な含みを持った象徴で、(中略)蛇は死の危険であり、「不死のシンボル、病と死の苦しみからの再生のシンボルとなる」。蛇はそれ自身のうちに死と再生のこの二つの可能性を宿していて、どちらが十全に展開するかは魔術の力によって決定される。破滅と治癒という蛇の象徴が宿しているこの二つの可能性を、ヴァールブルクは、片方をラオコーンの姿のうちに、もう片方をアスクレピオスのそれに見ている。(中略)同時にヴァールブルクは、彼の思考の中の相反する両極(中略)を、この二人の姿を通じて表現しようともしている。その両極とは、アゴーンとセラピー、すなわち闘争と治癒である。
 クロイツリンゲン講演は、病人が、自分の力で病を癒した(あるいは癒せる)ことを証明すべく行ったものである。(中略)講演は自己治癒のプログラムの一部であり、同時にまたプログラムそのものでもある。ヴァールブルクは何年も悪霊(デーモン)との戦いを続けてきた。そして今や勝利はすぐそこまで来ていた。彼はみずからがその犠牲となった不快感を引き起こす蛇の力の象徴化をあえてはかったのだ。恐怖の権化である蛇についての講演はそのためである。人間の合理性に対するもっとも厳しい脅威を表す蛇の象徴を、彼自身の理性(ratio)の試金石としたのだ。この講演のテーマになっているインディアンたちは、いわば仮面であって、ヴァールブルクはこの仮面に隠れながら、不安を象徴のうちに封じ込めることの意味を述べるという、きわめて危険な企てを果たそうとしているのだ。クロイツリンゲン講演はその意味で治癒のためのプログラムであるだけでなく、文字通りの闘争の書なのである。」
「ヴァールブルクは、どちらか一方が最終的な勝利を収める「究極の戦闘」があるとは考えていなかった。個体の歴史においても、系統発生の歴史においても、そういうことは信じていなかった。魂の原始的あり方および、魔術に潜む嫌悪感の力というものは、最終的に克服したり、排除したりできないことは一度として疑わなかった。理性(ratio)と非合理的な力との緊張関係は、彼から見ると解消できるものではないのだ。」
「「この講演は、治ることのない分裂病患者の告白として精神科の医師のアーカイヴにしまっておいてください」。」

「この講演で論じられているのは、最終的には、人間の文化が持つ運命とでもいうものである。つまり、血まみれの生け贄から「真似を通じてのミメーシス的感情移入」を経て、感性と恐怖の独裁的支配から離脱した純粋な思考へと進む、厄介な、そしていつなんどき逆転するか分からない運命的歩みが扱われているのである。しかし、またこの道はあまりにも前に突き進みすぎると、技術に操られた新たな未熟状態へと陥りかねない。ヴァールブルク個人の治療のプログラムであると同時に、普遍的な治療のプログラムでもあるこの講演の欄外のメモで、彼は、人間の苦悩が文化によって、そして文化の中で、癒されうる可能性を否定している。(中略)彼は、悲劇的=ペシミズム的な異教世界に魅せられ続けていた。
 象徴の獲得とそうした象徴の一時的な打破という、いっさいの治癒を知らないこの悲劇的ドラマこそ、ヴァールブルクがわれわれにこのテクスト(中略)を通して突きつけるものである。」











































































































栗原成郎 『ロシア異界幻想』 (岩波新書)

「単独の、孤立した幻想的現象というものは存在しない。存在するのは現実的な現象のみであるが、しかし、ときには、現実的現象とはまったく別の、もっと本質的で重要な関係と意味とが通常のものよりもさらに明瞭な形で現れることがある。」
(ソロヴィヨーフ)


栗原成郎 
『ロシア異界幻想』

岩波新書 772

岩波書店 
2002年2月20日 第1刷発行
xvi 199p 参考文献5p
新書判 並装 カバー 
定価700円+税



本書「あとがき」より:

「新しい世紀を迎えてなお混迷をつづけるロシアへの私の思いは複雑で、いまはこのような形でしかロシアへの愛を表現できなかった。「ロシア異界幻想」とは「ロシアのフォークロア的表象における異界」の意であるが、私にとってロシアはやはり異界であるために「わたくしのロシア幻想」であるかもしれない。」


本文中図版(モノクロ)多数。


栗原成郎 ロシア異界幻想 01


帯文:

「背後に潜む死神、
西の彼方のあの世…、
ざわめき、息づく「異界」。」



カバーそで文:

「ロシア異界幻想
北方の森の民スラヴ人にとっての「異界」とは、キリスト教以前の異教的色彩を色濃く残した世界である。夜ごと訪れる亡者や家の精ドモヴォイたちは現代ロシア人の意識の深層に今も息づいている。そして死神や地獄の生々しい絵図、ロシア思潮の根底に流れる霊や終末のイメージを織り込みながら、世界樹へとつながる壮大な宇宙へと誘う。」



目次:


 世紀のはざまにて
 幻視と啓示
 「真に幻想的なるもの」を求めて
 日常性の中の異界現象

第一章 「この世」と「あの世」のしきい
 ロシアの農民の死に方
 死の予告
 帰ってくる死者
 亡霊防御法
 《忘却の川》のかなたへ
 過度の哀悼の禁止

第二章 家の霊域に棲むもの
 宇宙の小モデルとしての家
 聖所としてのペーチ
 “赤ん坊の焼き直し”
 母親としてのペーチ
 家神ドモヴォイ
 家族の成員の不幸を予告する
 ドモヴォイの外貌
 変身能力
 ドモヴォイを見るのは危険
 夢魔
 青痣
 好色
 家畜の守護神
 氏族神
 かまどの火の神
 家と人生
 呪術師大工とキキーモラ

第三章 ロシア・フォークロアにおける「死」の概念
 フォークロア的に「死ぬ」とは
 「生」と「死」の闘い
 無敵戦士アニカの最期
 死神幻想
 死の天使
 霊は風か火か
 旅立ち
 幾山河越え去りゆかば
 爪の威力
 「あの世」での生活

第四章 「聖なるロシア」の啓示――民衆宗教詩『鳩の書』
 民衆の中の宗教詩
 民衆宗教詩『鳩の書』とは
 『鳩の書』の成立と解釈
 「正義」と「不正」の闘い

第五章 ロシア的終末論
 地の嘆き
 終末期待
 小終末と大終末
 終わりの時の徴(しるし)
 中世の反キリスト伝説
 クバン・コサックの終末伝説
 反キリストは東方より

第六章 天国と地獄の幻景
 死者の国はどこにあるのか
 宇宙卵と世界樹
 鳥たちの天国
 「ブヤーンの島」
 「楽園」への旅
 地上の楽園
 地獄の位置
 地獄の責め苦

付録 『鳩の書』

あとがき
参考文献




◆本書より◆


「序」より:

「ソロヴィヨーフは、この作品(引用者注: A・K・トルストイの幻想小説『吸血鬼(ウプイリ)』)に付した序文において、「真に幻想的なるもの」の意義を説く。
 「詩における幻想的なるものの本質的な関心と意義は、世界において起こる、特に人生において起こるすべてのことが、その実在的な明々白々たる原因は論外として、なにか別の、より深遠な、より綜合的な、その代わりにより不明瞭な因果関係に依っているのだという確信に支えられている。もしすべて存在するものの生の関係が、2×2=4のように、単純で明瞭なものであるならば、それによってすべての幻想的なるものは排除されてしまうであろう。(中略)しかし、人生をなにか単純な、判断のつき得る、明瞭なものとして表象することは、なによりもまず現実に矛盾することであり、それは現実的ではない。例えば、われわれが歩いたり、乗物で行ったり来たりしている大地の可視的な表層の下には無以外のなにものも隠されていないと断言することは、きわめて悪しきリアリズムであろう。そのような類のリアリズムは、ちょっとした地震や火山の噴火が起これば、たちまち崩れ去ってしまうものであろうし、そのような天変地異は、可視的な地表の下には、活動中の、したがって、現実的な諸力がひそんでいることを証明するものなのである。(中略)そのような自然界の地の成層と深層とは、人生のなかにも存在し、それらは歴史的異変においてのみ顕現するのではない。この世の諸事件の外面的・日常的関係の下には、その顕現の突発性、見掛け上の非合理性にもかかわらず、不変的にして厳格な整合性を有する別の運命をもつ生の関係が存在するのであり、それは鋭敏な注意力をもつ人に顕示されるのである。(中略)真に幻想的なるものは、言わば、はだかの姿では決して現れないものである。その顕現は人生の諸事件の摩訶不思議なる意味をむりやり信ぜざるを得なくするようなものでは決してなく、むしろそれを指し示し、暗示するべきものである。真に幻想的なるものには、諸現象の通常的・日常的関係からなし得る単純な説明の外的・形式的可能性がつねに残されているものではあるが、そのさい、その説明は内的な信憑性を決定的に欠くのである。すべて個々の細部は日常的性格をもつものでなければならず、全体の関係のみが別の因果関係を指し示すのでなければならない。」
 ソロヴィヨーフの「幻想論」を長々と引用したのは、本文で扱われる異界幻想の本質を考える立脚点とするためである。
 死すべき存在としての人間は、当然のことながら、死を媒体として異界に接する。死は厳粛な事実であるが、死後の世界は幻想世界である。しかし、「あの世」は「この世」と深く関わっていることにおいて、ソロヴィヨーフの言う「真に幻想的なるもの」である。
 ソロヴィヨーフはさらにつづけて言う。――
 「単独の、孤立した幻想的現象というものは存在しない。存在するのは現実的な現象のみであるが、しかし、ときには、現実的現象とはまったく別の、もっと本質的で重要な関係と意味とが通常のものよりもさらに明瞭な形で現れることがある。」
 本書は、根幹として、ロシア民衆の死生観を考察の対象としている。」



第一章「「この世」と「あの世」のしきい」より:

「ロシアの民衆は死を天命として甘受する。十九世紀ロシアの民俗学者スネギリョーフは『諺に見るロシア人』という書物のなかで、疫病のさなかに死の現実に直面したロシアの民衆の姿勢を伝えている。
 「一六五四年コストロマーでペストが猖獗(しょうけつ)をきわめたとき、夥しい数の死者と感染者が出て、死の犠牲となった者が埋葬もされずに路上に累々と倒れていた。疫病に感染したことを自覚した人々は寄進すべき財産をたずさえて教会に行き、懺悔をし聖餐を受けたのち、自発的に救貧院に赴き、そこで屍体が投げ込まれている穴のふちに自分の死を待つべく身を横たえた。同じように泰然自若たる態度をもって、彼らのあとにそこに来た別の人々は、先着の人々が死んでいるのを知った場合は、それらの屍体を穴に落として、自分たちが代わって穴のふちの場所を占めた。」」



第二章「家の霊域に棲むもの」より:

「大工は最古代に起源する技能者であり、生産機能ばかりではなく超人的な呪術能力を有する者である、と信じられた。(中略)大工は自分が建てた家に「不浄なもの」を住みつかせて、人が住めないようにすることができる。大工は新築の家に妖怪キキーモラを送りこむことがある。
 キキーモラは人間に害を与える悪しき霊である。ふつうは人の目には見えないが、小柄で痩せさらばえ、背中の曲がった、醜悪な顔の老婆で、ぼろをまとった姿の妖怪と想像されている。キキーモラはあまりにも小さく痩せているので、風に吹きとばされるのを恐れて外に出たがらず、家の中に住みつく。
 キキーモラは家庭生活にさまざまな害をおよぼす。
 ・家の中のものをひっかきまわして、大騒ぎをする。棚からとび降り、食器を投げつけてこわし、わめき声や金切り声や泣き声をあげ、家人の安眠を妨げる。
 ・紡ぎかけておいた糸をもつれさす。
 ・鶏の産卵能力を低下させ、ひなを死なす。
 ・火事を起こす。
 ・家庭内にいざこざを起こさせる。
 ・病気、とくに熱病をもたらす。
 ・家族の誰かに、とくに子供に死をもたらす。
 キキーモラのもたらす災いのため、人は家に住めなくなる。
 大工は、家の建築依頼者の待遇や支払いが悪かったり、その他なんらかの理由で家の主人にたいして恨みをいだくとき、家のどこかに災いの元を置く。十九世紀には、ロシア北部の村では大工の呪術により人の住めなくなった家がしばしば見られた。」
「大工は、新築の家に災いを送りこむ場合は、家の中のどこかに秘密の細工をする。
 ・支柱の上か親梁の下に豚の剛毛を置く。それによって材木を蝕む虫が発生する。
 ・屋根の下の木材と煙突のあいだの人目につかない場所に、こわれた壺、壜や水差しの首、骨の部分に空洞がある鵞鳥の羽根、木切れやぼろ布で作ったキキーモラ人形などを置く。
 ・自殺者の埋められている場所に、それと知って故意に家の外枠の壁桁を立てる。
 このような呪術を行うのは主として余所(よそ)者の渡り職人としての大工であり、その仕掛けによってキキーモラが現れる。」



第三章「ロシア・フォークロアにおける「死」の概念」より:

「死後の世界は地上の人間世界の延長であり、慣習的な生活条件や生活のリズムがそこに持ち越される、と考えられた。(中略)家族関係は「あの世」でも完全に保たれ、しかもより強力である。(中略)人の「あの世」への旅の目的は祖先との結合にある。」
「せっけん、タオル、櫛などの「この世」での生活必需品は、「あの世」でも必要と考えられて柩の中に入れられる。」
「古代社会においては「あの世」信仰は、現代人には考えられないほどの現実性をもっていた。例えば、ある部族の長が「あの世」にいる祖先になにか伝えなければならないことがあると、彼は奴隷を呼んで祖先への伝言を託して、その首をはねた。」




こちらもご参照下さい:

栗原成郎 『スラヴ吸血鬼伝説考』
大林太良 『葬制の起源』 (中公文庫)
渡辺照宏 『死後の世界』 (岩波新書)
井之口章次 『日本の葬式』 (ちくま学芸文庫)
阿部謹也 『西洋中世の罪と罰 ― 亡霊の社会史』
澤田瑞穂 『修訂 中国の呪法』
谷寿美 『ソロヴィヨフの哲学』
































































栗原成郎 『スラヴ吸血鬼伝説考』

「スロヴェニアやイストリアのスラヴ人は、吸血鬼と戦い家や地域を吸血鬼から護ってくれる「クルースニック」(kr(e)snik)という好意的な守護者の存在を信じている。(中略)彼らは白い羊膜をつけて生れてきた人々で、赤い羊膜をつけて生れてきた吸血鬼たちと宿命的に敵対する。(中略)クルースニックは生前は「悪しき」呪術師に対立する「善き」呪術師で、人間を呪法から解放し、病を癒し、死後はじめて幽鬼となって吸血鬼と闘う、と考えられているが、クルースニックは生前から吸血鬼殺しであるとも言われ、その場合、クルースニックの霊は眠っている肉体から離れ出て、黒い蠅、犬、馬、牛などの形をとって十字路で吸血鬼と闘う、と考えられている。クルースニックはめったに生れない存在であると言う人もあり、また、どの吸血鬼にも敵対するクルースニックが一人いると信じる人もいる。」
(栗原成郎 『スラヴ吸血鬼伝説考』 より)


栗原成郎 
『スラヴ吸血鬼伝説考』


河出書房新社 
昭和55年4月12日 初版発行
昭和55年6月20日 再版発行 
262p 主要参考文献vii 口絵6p(うちカラー1p) 
四六判 丸背紙装上製本 カバー ビニールカバー 
定価2,200円
装幀: 渋川育由



栗原成郎(くりはら・しげお)、1934年生、スラヴ語・スラヴ文学。
口絵図版12点(うちカラー1点)、地図1点。各章扉図版8点。


栗原成郎 スラヴ吸血鬼伝説考 01


帯文:

「吸血鬼の故郷はどこか
ブルガリア、ユーゴスラヴィア、ポーランドなどの東欧諸国やソ連邦のウクライナ、白ロシア地方にのこるフォークロア資料を駆使して、民衆の吸血鬼信仰の本質にせまる画期的な労作!」



帯背:

「栗原成郎
書き下ろし」



帯裏:

「……吸血鬼は幻想である。しかし、それはスラヴの民衆の生活のなかから生れたフォークロア的幻想である。概して、十八世紀以来の西ヨーロッパの吸血鬼研究文献は、そのような怪奇幻想を生むスラヴ民衆の心情の洞察に欠け、それに関連してか、スラヴ側の直接資料に依っていないために、情報や記述に不正確なものが多い。
われわれは、むしろ、そのような「西側」の間接的資料に依拠することは控え、スラヴ側の直接的資料にたよりつつ、吸血鬼のフォークロア的幻想が生れいずる原郷世界をたずねてみたい。
本文より」



目次:

口絵
 死者の踊り(スロヴェニアの聖マリヤ教会のにこるフレスコ画) (カラー)
 現在の東ヨーロッパとソヴェート連邦 (地図)
 1092年ポロツクに疫病をもたらした悪霊(『ラドズヴィルの年代記』の写本(15世紀)より) (モノクロ)
 騎士と死/貴族と死(ハンス・ホルバイン作「死の舞踏」より) (モノクロ)
 武士と死との論争(17世紀ロシアの写本より) (モノクロ)
 生命と死との論争(16世紀ロシアの写本より) (モノクロ)
 1665年ペスト流行時のロンドン(作者不詳) (モノクロ)
 蘇った屍体(アントワーウン・ヴィルツ画、1854年) (モノクロ)
 イーゴリ公のポロヴェッツ遠征(『ラドズヴィルの年代記』の写本(15世紀)より) (モノクロ)
 ラミアー(イギリスの木版、1658) (モノクロ)

序章 吸血鬼の原郷としてのスラヴ世界
第一章 スラヴ吸血鬼信仰
 一 ある吸血鬼事件
 二 吸血鬼とは何か
 三 吸血鬼になるのは誰か
 四 吸血鬼の肉体
 五 吸血鬼の不倶戴天の敵――血の復讐
 六 吸血鬼予防法――死者儀礼
 七 吸血鬼退治法
 八 吸血鬼はなぜ不滅か
第二章 スラヴ吸血鬼説話
 一 吸血鬼表象の変遷
 二 民間説話のなかの吸血鬼
第三章 スラヴ夢魔信仰
 一 吸血夢魔モーラ
 二 モーラ発見法――モーラは誰か
 三 モーラ防御法
 四 妖精キキーモラ
第四章 スラヴ死神幻想
 一 吸血病魔――ウーストレルほか
 二 疫病――「死の舞踏」
 三 死神幻想
第五章 スラヴ人狼伝説
 一 人狼信仰と人狼説話
 二 「ネウロイ」伝説
 三 「狼の牧者」とびっこの狼の伝説
 四 「狼行進」
 五 夜の来訪者
 六 フセスラフ人狼伝説
第六章 文学的吸血鬼
 一 文学的吸血鬼とフォークロア的吸血鬼
 二 吸血鬼小説の源流
終章 一つの結論――吸血鬼バルカン・スラヴ起源説

あとがき
主要参考文献



栗原成郎 スラヴ吸血鬼伝説考 02



◆本書より◆


「序章 吸血鬼の原郷世界としてのスラヴ世界」より:

「何か得体の知れぬ魔に憑かれて、旅してみたくなる世界というものが、確かに、われわれにはある。例えば、吸血鬼の始原の故郷(ふるさと)。この捉えがたい泰西の幽鬼の足跡をたどって行けば、東ヨーロッパのスラヴ領域に到達する。そこは、言わば、ヨーロッパの文化的光芒の陰の地帯。われわれの知識や意識から遠い世界である。しかも、足跡はそこで跡絶(とだ)え、彼は過去の闇のなかへ消えて行く。深い霧が追跡を阻む。
 吸血鬼信仰はキリスト教受容以前の古いスラヴ人の汎神論的信仰の残存要素の一つである。スラヴ人はヨーロッパのなかでは比較的長く異教信仰のうちにとどまっていた。しかしスラヴ人は明確な神話を残さず、キリスト教受容以前には文字による記録という方法を知らなかったために、古代スラヴ人の異教信仰の体系を解明することは困難をきわめている。スラヴ人のキリスト教への改宗は九世紀から十二世紀にかけて、いくつかの時期、いくつかのグループに分れて行われた。キリスト教を最も早く受容したのは、西スラヴ人の一部と南スラヴ人の一部であるが、キリスト教への改宗の年代が早ければ早いほど、キリスト教以前の異教信仰に関する情報は少い。また、時代がくだると、異教についての記述は、異教を悪しきものとするキリスト教の観点から行われるために、客観性を失う。このように、文献資料の質的・量的貧弱さは、古代スラヴ異教信仰の体系内における吸血鬼の位置づけを困難にしている。しかし、その反面、スラヴ世界には、昔話、伝説、民衆詩歌などの民間伝承がきわめて豊富であり、それに、いわゆる「二重信仰」の形でキリスト教信仰に習合された異教信仰の要素がいまなお民衆のあいだに根づよく残存しているために、これらのフォークロア資料から吸血鬼信仰の本質を解明してゆくことは不可能ではない。
本書はそのような試みの一つである。」

「西ヨーロッパにおいて「吸血鬼」(ドイツ語 Vampir、フランス語 vampire、英語 vampire)という言葉が一般に用いられるようになったのは十八世紀の初頭からであり、それには当時スラヴ世界において生じた一連の吸血鬼事件が深くかかわっている。近世のヨーロッパにおいて絶大な権勢を誇っていた王家の一つにオーストリアを本拠とするハプスブルク家があり、十八世紀のはじめには、ボヘミア、ハンガリー、スロヴェニア、クロアティア、ベオグラードを含むセルビア北部などの東欧の国々はオーストリアの属領となっていた。これらのオーストリアの辺境の地方で起る出来事は逐一中央政府に報告されたが、それらのニュースのなかで、啓蒙主義時代のヨーロッパの知識人を驚かせ、物議をかもし出させたものに、「吸血鬼」なるものによる一連の殺人事件があった。そのような十八世紀の吸血鬼論争のきっかけとなったものの一つに、一七二五年キシロヴォ村の奇怪な吸血鬼事件がある。
 キシロヴォは当時オーストリア軍の占領下にあってハンガリー領に属してはいたが、実際には、セルビア人たちの居住地であった。その事件のあらましは、一七二五年七月二十五日のウィーンの新聞「ウィーン日誌」(Wiener Diarium)に報道され、ヨーロッパに知られるようになった。内容はおよそ次のごとくである。

  「南部のハンガリーのキシロヴォ村の農夫ペタル・ブラゴイェヴィチは一七二四年九月に死亡した。彼の死の十週間後に、同じ村の九人の人間が八日のあいだに相次いで死亡したが、彼らは吸血鬼となったペタル・ブラゴイェヴィチに夜のうちに血を吸われたためだと言う。九日目に、ペタルの妻は、昨夜ペタル・ブラゴイェヴィチが現れて「靴を出せ」と要求した、と証言した。
  そこで、村人たちはこぞってグラディシチェのオーストリア駐屯軍の司令官のもとに陳情にやって来た。司令官は、村人たちの切なる願いをきいて、司祭と死刑執行人とを伴って自ら事件の解明に赴いた。彼は墓を暴くことを命じた。調書によれば、ペタル・ブラゴイェヴィチの肉体は生ける者のごとく「まったく新鮮」(ganz frisch)であり、彼の頭髪、髭は新たに伸び、爪は生えかわり、口の中は血でいっぱいであった。
  吸血鬼の正体を見た村人は、新たな怒りに燃え、杭を彼の胸に打ちこんだ。すると傷口と、鼻と口とからおびただしい量の新鮮な真赤な血が吹き出した。村人は屍体をたきぎの山の上に置き、焼却した。」

 この事件に関する長文の報告書はベオグラードの総督に提出され、さらにウィーンに回送されてジャーナリズムの知るところとなり、一大センセーションをまき起した。」
「十八世紀間にヨーロッパにおいて書かれた吸血鬼文献は厖大な量にのぼる。そのなかで、スラヴの吸血鬼に関する最初の包括的な研究は、ベネディクト会修道士で聖書学者のドン・オーギュスタン・カルメ神父の『精霊現象、ならびにハンガリー、モラヴィアの吸血鬼ないし死後蘇生者に関する論考』(Dom Augustin Calmet. Traité sur les apparitions des esprits, et sur les vampires, ou les revenants de Hongrie, de Moravie. Paris, 1746/1751)である。(中略)彼は吸血鬼現象に奇蹟的・超自然的な要因を認めず、吸血鬼信仰を支えている主要な原因は「早すぎる埋葬」(生体埋葬)にある、と結論した。また、彼は、吸血鬼がハンガリー、モラビア、シレジアのような騒擾の多い東欧にのみ知られていることに注目し、そのような国々では、食糧事情の悪さ、栄養不良、不順な気候などが住民を精神的に不健康にし、偏見、幻覚、恐怖心などが吸血鬼騒動のようなきわめて危険な擾乱を助長する、と指摘した。」



「第一章 スラヴ吸血鬼信仰」より:

「吸血鬼とは、定義をすれば、肉体をとって墓から帰還し、生きている人間の血を吸ってその生命力を奪う死者である。「帰ってくる死者」の信仰は広く世界の諸民族に見られるもので、日本の幽霊もその一つのタイプであるが、スラヴの吸血鬼が日本の幽霊と決定的に異るところは、肉体を得ていることと、人間の生血を吸って生きつづけることの二点である。吸血鬼は死霊であるが、それは「生ける屍体」である。(中略)アニミズム的思考法によれば、肉体と霊魂は完全に同一視され、人間は二つの肉体を持つ、と考えられた。人間が死ぬとき、あるいは眠っているとき、肉体を離れた霊魂は、鳥、蝶、蛾などにおいて受肉し、彷徨する、と信じられた。死者が肉体をとって帰還するという吸血鬼信仰の根源には、このアニミズム的分身霊信仰がある。」

「「まともな人間は吸血鬼にはなり得ない」とヴーク・カラジッチ(引用者注: 19世紀前半の民俗学者・文献学者)は書いた。したがって、吸血鬼となるのは、まず第一に、「まともではない」人間、すなわち、悪人・罪人の類である。不正直な人、邪悪な人、貪欲な人、不愉快な人は吸血鬼有資格者である。あらゆる種類の犯罪者(中略)の霊魂は直接彼岸に赴かず、墓の中の肉体のうちにとどまり、そこに生きつづけ、徘徊し、災をひき起すものとして恐れられた。人狼、魔女、呪術師も死後吸血鬼になる。
 第二に、「まともな」人間でも、吸血鬼になる場合がある。「なにかの鳥が彼の屍体の上を越えて飛ぶか、ほかのなにかの動物が跳び越えた場合は、そのかぎりではない」という条件をヴーク・カラジッチはつけた。不浄な鳥や動物(中略)が死体の上をとび越えると、それらの不浄な動物の霊が死者を不気味な「生命」で満たす、と信じられたからである。
 第三に、宿命によって吸血鬼になる人々がいる。生前、罪を犯さなかった人でも、吸血鬼になるべき星のもとに生れた人は、その宿命を免れ得ない。「受苦日」、「四旬節」、「復活祭」にわたる「聖週間」に正式な夫婦ではない男女から生れた子供、あるいはこの「聖週間」に死んで生れた子供、赤い羊膜をつけて生れた子供、体に赤痣あるいは尾状の脊椎突起をもって生れた子供、歯が生えて生れた子供、豊かな毛髪をもって生れた子供などがそれである。吸血鬼を父として生れた子供は、やがては自分も吸血鬼になる宿命を負わされている。白い肝臓または心臓を二つもって生れた者の生涯の終局は吸血鬼である。
 第四に、自殺者、横死者、異常な高齢で死んだ者など不自然な死に方をした者は吸血鬼になるとされた。ブルガリアでは、腫物で死んだ人も吸血鬼になる、と言われた。雷に撃たれて死んだ人も吸血鬼になることがある。(中略)セルビアの「マツァールル」(macarul, macaruo)は洗礼を受けずに死んだ子供の吸血鬼で、ヴーク・カラジッチによれば、「墓の中で生き、ときどき外へ出て幼児を苦しめ、絞め殺す」。しかるべき葬儀をしてもらえなかった死者も危険な存在である。
 以上のように、吸血鬼になるモメントには異教的要素とキリスト教的要素とが混淆しているが、要するに、すべての人が吸血鬼となり得る可能性をもつ。」

「墓の中に眠る吸血鬼の体は、その霊の分身として、蝶、蛙、鶏、犬、狼、馬、ろば、猫、山羊、鼠、ふくろうなどに変じることができる。ときには、油を入れる山羊の革袋、干草の山などの無生物に変身することさえある。吸血鬼は猛烈な速度で動き、自由自在に大きくなったり、小さくなったりできるので、どんな小さな隙間からでもはいりこむことができる。」
「ブルガリアでは、吸血鬼は最初の四十日間(あるいは六ヵ月間)は火の影ないし山羊の革袋となって人々を脅かすにすぎないが、この期間が過ぎると、受肉する。この「屍体が蘇生する」ことを、ブルガリア語で vampirjas(v)am se と言い、その肉体、すなわち吸血鬼を plutenik とよぶ。ブルガリアの民間信仰によれば、この「プルーテニック」として受肉・蘇生した吸血鬼は、もはや夜間のみ出現して一番鶏の鳴き声とともに墓に戻る存在ではなく、昼間も普通の人間のように振舞う。しかしプルーテニックは故郷を去って見知らぬ土地に行き、人に吸血鬼と気づかれないように、商人あるいは職人として暮す。そこで彼は妻帯し、子供をもうける。プルーテニックは昼間に犬や狼に変身し、自分の妻を襲い、咬みついて、苦しめる。」

「異界からの「まれびと」が女性のところに来るという古代的な信仰が、二十世紀になってもバルカンに生きていたということは興味深いことである。
 さらに興味深いことは、吸血鬼とその生きている妻とのあいだに子供が生れ、しかもそのような子供のみが吸血鬼を発見し殺すことができる、という民間信仰がバルカンにあることである。
 セルビアやダルマティア地方では、吸血鬼と人間の妻のあいだに生れた者は「ヴァムピーロヴィチ」(vampirovici)とよばれる。彼は生涯悪臭を放ち、骨なし、歯なしの畸形児であるが、彼のみが吸血鬼を見ることができ、それを殺すことができる、と信じられている。」
「ユーゴスラヴィアに住むジプシーのあいだでは、吸血鬼の子で吸血鬼殺しを業とする呪術師は dhampir とよばれている。
南スラヴには数多くの民衆叙事詩が伝わっており、そのなかに「竜退治」の主題をもつ英雄叙事詩がいくつか知られている。それらの歌において竜殺しの英雄として登場するのはつねに竜の子である。竜の子が竜を退治するというモチーフは、吸血鬼の子が吸血鬼を殺すことができるという民間信仰と平行する。」
「この竜退治の民衆英雄叙事詩には、「神々の結婚」の神話的モチーフと竜族出身の英雄による「血の復讐」(同族殺し、父親殺し)のモチーフがある。
 吸血鬼は、本来、一つの家族にのみ、あるいは狭い地域の共同体に属するものと考えられていた。(中略)マケドニアとセルバイにまたがるツルナ・ゴーラのある地方では、吸血鬼は親類縁者だけを悩ませる、と信じられている。そのため、この地方では吸血鬼殺しは「父親殺し」を避けて余所(よそ)者の「吸血鬼の子」でなければならないとされている。
 バルカンの民間信仰においては、「吸血鬼の子」のほかに、吸血鬼にとって、別種の不倶戴天の敵がいる。土曜日に生れた者は、吸血鬼の正体を見抜く生得の能力を備えている、と信じられている。ブルガリアではそのような者は「土曜の子」(subotnik)とよばれる。」
「スロヴェニアやイストリアのスラヴ人は、吸血鬼と戦い家や地域を吸血鬼から護ってくれる「クルースニック」(kr(e)snik)という好意的な守護者の存在を信じている。(中略)彼らは白い羊膜をつけて生れてきた人々で、赤い羊膜をつけて生れてきた吸血鬼たちと宿命的に敵対する。クルースニックは生れ持った白い羊膜の一片を左の脇の下につけておくか粉末にして液体に溶かして飲む、さもないと吸血鬼との戦いに敗れる、と言われる。クルースニックは生前は「悪しき」呪術師に対立する「善き」呪術師で、人間を呪法から解放し、病を癒し、死後はじめて幽鬼となって吸血鬼と闘う、と考えられているが、クルースニックは生前から吸血鬼殺しであるとも言われ、その場合、クルースニックの霊は眠っている肉体から離れ出て、黒い蠅、犬、馬、牛などの形をとって十字路で吸血鬼と闘う、と考えられている。クルースニックはめったに生れない存在であると言う人もあり、また、どの吸血鬼にも敵対するクルースニックが一人いると信じる人もいる。吸血鬼との決闘においてはかならずクルースニックが勝つ、と信じられている。」




こちらもご参照下さい:

栗原成郎 『ロシア異界幻想』 (岩波新書)
種村季弘 『吸血鬼幻想』 (河出文庫)
カルロ・ギンズブルグ 『ベナンダンティ ― 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』 (竹山博英 訳)
C・ブラッカー 『あずさ弓 ― 日本におけるシャーマン的行為』 (秋山さと子 訳)






























プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本