ヨウーン・アウトナソン 編 『アイスランドの昔話』 菅原邦城 訳 (世界民間文芸叢書)

ヨウーン・アウトナソン 編 
『アイスランドの昔話』 
菅原邦城 訳

世界民間文芸叢書 第9巻

三弥井書店 
昭和54年5月20日 初版発行 
422p 口絵(モノクロ)2p 
アイスランド略図・県名2p 
18.2×13cm 
並装(フランス表紙) 機械函 
定価2,500円

付録「世界民間文芸通信」第9巻 (4p):
アイスランド断想(山室静)/世界民間文芸叢書



本書「訳者あとがき」より:

「今回の訳は一見して明らかなように、昔話よりもはるかに多く伝説を含み、また訳された昔話は相当に長文のものばかりとなっている。これは、翻訳に先立って採用すべき話の選択が、企画編集方針にしたがって、訳者自身によってではなくて、アイスランド人専門家に依頼して行なわれた結果である。」


第10回配本。別丁口絵図版4点、本文中図版9点。


アウトナソン アイスランドの昔話 01


目次:

 写真・地図

神話物語
 一 妖精の起り
 二 難産の女妖精
 三 トゥンガの崖
 四 妖精の国の十八人の子供の父親
 五 レイーニルの教会大工
 六 放牧場の家事係
 七 セール島の妖精王
 八 妖精の王妃ヒルドゥル
 九 「脂身をまっ先にもらおう」
 一〇 作男と水妖たち
 一一 マルベンディトルのはなし
 一二 バルズの墓地
 一三 浄められたドラウング島
 一四 ギェトリヴェル
 一五 羊飼い娘
 一六 ギーリトルット
 一七 ロッパとロッパの養い子ヨウーン
 一八 ヨウーンと女トロル
 一九 夜のトロル
 二〇 ドラウング島の起り
 二一 「アイスランドの澪は深い」

幽霊物語
 二二 「羊小屋の、羊小屋のおっかあ」
 二三 「おまえは糸を針からかみ切るのを忘れてるぞ」
 二四 グラインモウルのお百姓
 二五 幽霊と金いれ箱
 二六 ミルカウの教会執事
 二七 フェイーキスホウーラルの幽霊
 二八 ヴェストマンナエイーヤルの魔法使い
 二九 ミーヴァトンのスコッタ
 三〇 ティルベリ
 三一 ヌープルの岩棚

魔法物語
 三二 悪魔の学校
 三三 学者サイームンドゥルのオッディ獲得
 三四 干し草片づけ
 三五 小悪魔の笛
 三六 小悪魔と羊飼い
 三七 木ずりの箱で水を汲む悪魔
 三八 マウルム島の女主人
 三九 魔法のロフトゥル

自然物語
 四〇 顕現日の夜の牝牛
 四一 あざらしの皮
 四二 ラーガルフリョウートの蛇
 四三 盗っ人と月

宗教物語
 四四 フルーニのダンス
 四五 貧乏人のお婆さん
 四六 コルベイトンと悪魔
 四七 「亭主のヨウーンの魂」

史実物語
 四八 ヘクラ溶岩台地の下の教会
 四九 エクスルのビョトンの物語

盗賊物語
 五〇 エイーヤフィヨルドの太陽シグリーズル
 五一 百姓娘キェーティルリーズルの物語
 五二 フラズハマルのアウトニの物語断片
 五三 洞窟の盗賊の物語

昔話
 五四 マウーニの娘ミャズヴェイグの物語
 五五 リーネイクとレウーヴェイの物語
 五六 利口なフィンナの物語
 五七 ヴィルフリーズル・ヴェールフェグリの物語
 五八 フリーニ王子の物語
 五九 おじいさんの息子、リーティトル、トリーティトルと小鳥たち
 六〇 ブーコトラと小僧っこ
 六一 ブリャウムの物語

笑話
 六二 バッキの兄弟たち

原典編者序文 (ヨウーン・アウトナソン)
アイスランドの昔話 (エイーナル・スヴェインスソン)
話者・分布地域(採話地)・出典・話型一覧表
訳者解説
訳者あとがき
原語対訳 BUKOLLA OG STRAKURINN (ブーコトラと小僧っこ)

世界民間文芸叢書の刊行にあたって



アウトナソン アイスランドの昔話 02



◆本書より◆


「一 妖精の起り

 むかし、全能の神さまがアダムとエバのところにおいでになった。
 かれらは神さまを喜んでお迎えして、じぶんたちが家のなかに持っているものを全部見せた。自分たちの子供も見せたが、神さまには、その子供たちは末の見込みがあるように想われた。神さまはエバに、二人にはいま自分に見せてくれた子供のほかにもう子供はいないのかと尋ねた。ありません、と彼女は言った。しかし本当は、エバはまだ幾人かの子供の体を洗ってやっておらず、その子供たちを神さまに見せるのは恥ずかしいと思ったのだ。それで、その子供たちを外に出してやっていた。これを神さまは知っていて言った
 「わたしに隠さなければならないものは、人間たちにも隠すようにする」
 こうして、子供たちは人間の目には見えなくなり、森や山、丘や石の中に住んだ。これから妖精がきているが、人間は、エバが神さまに見せた子供たちからきている。
 妖精は人間を見ることも自分を人間に見せることも出来るけれども、もし彼らが自分で自分を人間に見せたいと思わない限り、人間は妖精たちを見ることは出来ない。」


「四一 あざらしの皮

 むかし、東部地方のミルダールルで或る男が朝早く起床時刻のまえに海に面した崖にそって歩いていた。
 男は一つの洞穴の入口にやってきた。その洞穴のなかから、陽気な騒ぎとダンスのにぎやかな音がきこえてきたが、外にはあざらしの皮がとっても沢山あるのが見えた。男はその皮の一枚をもって家に帰り、長持にいれて鍵をかけた。昼すこし遅くなったころ、男は洞穴のところに戻ってきたが、すると若くてきれいな女がそこに坐っていた。女はまっ裸で、ひどく泣いていた。これは、男が奪った皮の持ち主のあざらしだったのだ。男は娘に着物をやってなぐさめ、家につれて帰った。娘は、この男を慕いはしたが、他の人たちとはそれほどに打ち解けなかった。そして彼女はよく坐りこんでは海の方をみつめていた。しばらく経ってから男は娘をおかみさんにし、ふたりの間はうまくいって子供がさずかった。皮をお百姓はいつも鍵をかけて長持の底に隠しておき、どこに行くにも鍵を身につけていた。何年もたった或る時、お百姓は漁に出かけ、その鍵は家の自分の枕の端の下に隠しておいた。他の人たちの話では、お百姓は使用人たちと一緒にクリスマス礼拝に出かけたが、おかみさんは具合が悪くて一緒にいけなかったそうだ。着換えをしたとき、お百姓はふだん着のかくし(引用者注: 「かくし」に傍点)から鍵をとるのを忘れたというんだ。そうしてお百姓が家に戻ってくると、長持は開いていて、おかみさんと皮が消えていた。彼女は鍵をとって長持の中をしらべて、その皮を見つけたのだった。そのとき誘惑にさからうことが出来ずに、わが子に別れを告げ、皮を着て海にとび込んだ。おかみさんは海にとび込む前に、ひとり言でこう言ったということだ
 「あたしゃどうすりゃいいのやら、
 子どもが七人海にあり
 子どもが七人陸(おか)にある」
 男は、このことを大変悲しんだということだ。
 その後お百姓が漁に出ると、一頭のあざらしがしばしばお百姓の舟のぐるりを泳ぎまわり、その目からは涙が流れでているようだった。お百姓はこれ以来とても漁にめぐまれ、様ざまな幸運がお百姓の前浜で起った。よく人びとは、この夫婦の子どもたちが海辺にそって歩いている時、子どもたちが陸を歩いている時でも前浜を歩いている時でも、一頭のあざらしが海のなかで、子どもたちの前を泳いで、様ざまの魚や美しい貝を子どもたちの方に投げてよこすのを見た。
 でも、子どもたちの母親が陸に戻ってくることは全くなかった。」








































































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ヴィルヘルム・グレンベック 『北欧神話と伝説』 山室静 訳

「このように、巨人の国ウトガルドは、人間の町や村をかこんでいたるところにあり、ヘルの国を中につつんでいる。夜になると、それは穹窿のように闇としてミッドガルドの上にかかる。そこで夜の道を行くのは日中のようには気持がよくない。夕暮になると死人どもが忍び出てきて、人間の戸口に押しこもうとする。」
(ヴィルヘルム・グレンベック 『北欧神話と伝説』 より)


ヴィルヘルム・グレンベック 
『北欧神話と伝説』 
山室静 訳


新潮社 
昭和46年12月20日 発行
昭和48年6月10日 4刷
302p 口絵(カラー)1葉 
四六判 薄表紙 函 
定価950円



本書「解説」より:

「これはデンマークの碩学ヴィルヘルム・グレンベック Vilhelm Grønbech の『北欧神話と伝説』 Nordiske Myter og Sagn の全訳である。初版は一九二七年に出ているが、訳者がテキストとしたのは、その後普及版として、有名なギュレンダル社の「ふくろう文庫」に収録されている版(一九六五年)によった。」
「① 北欧神話の代表的なものをほぼ網羅して、しかもそれを簡潔な力強い表現で興味ふかく再話していること、
② その間にこの著者の得意とする文化史的考察をまじえ、また原典ではむしろばらばらに並べられているに近い神話の間に脈絡をつけ、かなり統一的発展的にその経過を辿っていること、
③ さらに、神話の継起である伝説やサガ(散文物語)の注目すべきものをも後篇として加えて、全体として北欧精神と文学の流れを展望できるようにしていること、」
「もちろん、小さい一冊本のことで、神話でも、また伝説ではたぶんに、語り残しているものがあり、またこの書の性質が研究書ではなく、一般読者のための北欧神話伝説の再話ということにあるため、物足りぬ点もないではないが、この領域についての知識のまだいたって乏しい日本の読書界に紹介するには、まずうってつけの本であるかと思われた。」



本文二段組(解説は一段組)。本文中図版(モノクロ)39点。


グレンベック 北欧神話と伝説 01


目次:

序=北欧人の生活と本書の意図

第一部 神話篇
 世界の創造と神々
 トール神と巨人たち
  トールのヒミール訪問
  トールとウトガルド=ロキ
  トールとルングニールの戦い
  ゲイルロッドの許で
  トールのハンマー奪回
 神々の神話
  アサ神族とヴァナ神族の戦い
  アスガルドの城壁づくり
  縛られた巨狼フェンリル
  ロキと小人たちの賭
  巨人にさらわれたイドゥン
  スッツングの蜜酒
  フレイの恋人
  バルデルの死
  ロキの処罰
 ラグナロク(神々の没落)
 古い神々とキリスト

第二部 サガと伝説篇
 みずうみ谷家の人々
 鍛冶ヴェールンド
 ハディング王
 永遠の戦い
 アムレード(ハムレット)
 寡黙のウッフェ
 ラフニスタの人々
 テュルフィングの剣
 シクリング家の女たち
 スギョルド家とハドバルド家
  スギョルド王
  フロデの石臼
  ロアールとヘルゲ
  ヘルゲとオローフ
  ビョーウルフとグレンデルの戦い
  ロアールとイングヤルド
  ロルフ・クラキのこと
 イングリング家の王たち
 ヘルゲ・ヒョルワルドソン
 イルフィング家のヘルゲ
 ウォルスング家の物語
  アンドヴァルの宝
  シグムンドとシグニイ
  竜殺しのシグルド
  シグルドとブリュンヒルド
  ギューキ一族とアトリ
  ヨルムンレクの死

〈解説〉 北欧の神話と伝説の大要 (山室静)



グレンベック 北欧神話と伝説 02


口絵「ラグナロク(神々の没落)の場面 オスロー市庁舎の壁画」。



◆本書より◆


「世界の創造と神々」より:

「その野にはトネリコの巨木ユグドラシルが影を落していたが、この木は途方もなく大きくて、枝は全世界の上にひろがり、その根は大地の深みまでとどいていた。一本の根は、むかしのギンヌンガの淵である霜の巨人の国にとどき、もう一つのはニフルハイムまでのび、三本目のはしっかりと神々の国に根をはっていた。そのニフルハイムにのびている根のそばには、フヴェルゲルミルという泉があり、霜の巨人のところまでとどいている根の傍らには、ミミールの泉がわき出ているが、その水には知恵と賢さが隠されている。この泉にミミールは住んで、その水をギャラールホルン(中略)で飲むため、彼は知恵と予言力をもっている。
 しかし、神々の許にとどいている根の傍らには、ウルドの泉と呼ばれる最も神聖な泉がある。神々が互いに相談しあう時には、この泉の傍らで会合するのである。このトネリコの木の下の泉のそばにはまた、ノルンたちが住んでいる。これはウルド(過去)、ヴェルダンディ(現在)、スクルド(未来)という三人の女性で、彼女たちがすべての人間に幸福や悲しみの運命を、彼の出身に応じて与えるのである(中略)。」



「トール神と巨人たち」より:

「人類がミッドガルドでふえている間に、巨人の子たちもまたウトガルド(外の国)のいたるところで成長した。巨人の国は大地の一番はてにあって、ミッドガルドをかこんで波うっている大海に面しているが、それはまた長くのびて、人間の国ふかく入りこんでいる。」
「その平和な村々のすぐそばまで、いたるところでウトガルドは、その荒涼とした山や、通りぬけがたい森で迫っている。山では金の砂礫が切立った裂目だらけの斜面と入りまじり、そこを身を切るように冷たい谷川が流れ下って、出あったすべてのものを引裂いて一緒に持って行く。他の場所には森に囲まれて村々があるが、森はとても大きく荒涼としていて、その名かへ敢えて入ってゆくには勇気を要するが、それを生きたまま通りぬけて外へ出るには、なおさら多くの知恵と決断がいる。旅人は足にしっかりとまつわりつくからみあった根の間や、倒れて腐りかけている木の幹を越え、密生した草や茨をぬけて、辛うじて道を切りひらいて行かなければならない。樹々の下に長くのびているのは、湿地のつづきや深い沼だ。林の下はいたるところうす気味わるい薄暗がりが支配していて、腐れた土や枯れた茂みの酸っぱい匂いがする。このような荒地や山や伐採地や曠野や森やらが、巨人や魔物の住む土地なのだ。」
「このように、巨人の国ウトガルドは、人間の町や村をかこんでいたるところにあり、ヘルの国を中につつんでいる。夜になると、それは穹窿のように闇としてミッドガルドの上にかかる。そこで夜の道を行くのは日中のようには気持がよくない。夕暮になると死人どもが忍び出てきて、人間の戸口に押しこもうとする。しかも彼らは、太陽が輝いている時にもっているよりも、闇の中ではより大きな力をもっているのだ。巨人や怪物どもは確固たるものとなり、人間の命をつけねらったり、その仕事の邪魔をしようとして待伏せている。」



「永遠の戦い」より:

「こうして彼らは激突して終日戦ったが、やがて夕方になると、王たちはそれぞれの船に戻って休息した。しかし、夜中にヒルドは起き上って戦場に行くと、強烈な胆汁で死者たちを生き返らせた。そこで翌日も、太陽が昇ると、ふたたび王たちは、その日の終りまで戦ったのである。
 このようにして、一日は一日に続いた。夜には彼らは死者であり、彼らの武器は石に化しているが、夜が開けると共にまた立ち上って、戦いの陣容を整えるのである。こうして対等者たち――ヘディンとヘグニの戦士たちは、ラグナロクの日が来るまで、ホー島で戦っているのである。」



「ラフニスタの人々」より:

「ところで夜がふけてから、船があまり上下に揺れるために目をさました。起き上って、船べりごしによくよく目をこらすと、一人のトロール女が船のところに立って、前後に船をゆさぶっているのであった。彼は小舟にとび乗ると、綱を切って急いで舟を出した。風はたえず吹き荒れて、海は休みもなしに彼の上に崩れ落ちそうになったが、その間じゅう、彼は一頭の鯨が彼と海の間を泳いでいて、波が彼の上に覆いかぶさりそうになるごとに、それを打ち砕くのに気がついた。そしてその鯨は、人間の眼をしているように、彼には思われたのだ。」




こちらもご参照ください:

フォルケ・ストレム 『古代北欧の宗教と神話』 菅原邦城 訳









































































フォルケ・ストレム 『古代北欧の宗教と神話』 菅原邦城 訳

フォルケ・ストレム 
『古代北欧の
宗教と神話』 
菅原邦城 訳


人文書院 
1982年10月20日 初版第1刷印刷
1982年10月30日 初版第1刷発行
338p(うち図版32p)
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,800円



本書「訳者あとがき」より:

「ここに訳出したのは、Folke Ström: Nordisk Hedendom, Tro och sed i förkristen tid. Andra upplagan. Göteborg: Akademiförlaget, 1967. すなわち『北欧の異教――キリスト教以前の信仰と習慣』第二版で、第一版は一九六一年に出た。(中略)もともとデンマーク、ノルウェー、スウェーデン複数出版者共同の“スカンディナヴィア・ユニヴァシティ・ブックス”叢書の一冊として、主に大学生レベルの読者を対象にしてまとめられた概説書である。人口に膾炙した神話の要約解説ばかりでなく、より広く北欧の先史時代からキリスト教到来時まで三千年余の期間の信仰をも紹介考察する。」
「索引は、(中略)スウェーデン語原書のものよりも格段に詳しくしてある。」
「添付された地図は原書にはなかったが、日本人読者の便宜を考えて新たに付けたものである。
 本書に含まれている写真は、大多数のものが原書と共通する。」



別丁モノクロ図版32点、地図2点。


ストレム 古代北欧の神話と宗教 01


帯文:

「先史時代からヴァイキング時代まで
北欧神話のオージンやソールの物語、キリスト教到来までの北欧人の運命、霊魂、死にたいする考え方を紹介。世界樹をめぐる宇宙観など言語、民俗、考古学の宝庫」



帯背文:

「北欧の神々と
神物語」



カバーそで文:

「カバー表図版(本文82ページ)
古代北欧において行なわれた祭儀の一面を表わす、ゴットランド島刻画石碑。上から三番目の画面に首をしめられてつり下がっている人間がみられ、猛禽が襲いかかろうとしている。右側には、剣で装備した一団の男たち、先頭の者が祭祀司祭者に縛られた鳥を手渡そうとしている。祭壇の上方には合わさった三個の三角形が見える。その意味は隠されて不明であるが、宗教的な象徴表現と推定される。」

「本書はデンマーク、ノルウェー、スウェーデン複数出版社刊の原題「北欧の異教――キリスト教以前の信仰と習慣」のスウェーデン語版よりの翻訳。著者フォルケ・ストレム博士はスウェーデンの宗教史の専門家、とくに民間信仰の研究で有名。」



目次:

序説

第一部 先史時代
 1 石器時代の狩猟民宗教と農耕民宗教
 2 青銅器時代の宗教
 3 鉄器時代

第二部 ヴァイキング時代
 1 社会 法秩序 宗教
 2 祭祀とその諸形態
 3 世界の創造と秩序
 4 神々と神物語 上位と下位の諸力
    神集団、「支配する者たち」、アース族とヴァン族
    オージン
    ソール
    テュール
    ウッル
    ヘイムダッル
    バルドル
    ロキ
    ヴァン族――ニョルズ、フレイ、フレイヤ
    ニョルズ
    フレイ
    フレイヤ
    ヴィリーとヴェー
    フリッグ
    ヘーニル
    ブラギ
    イズン
    ゲヴュン
    ルーズコナ、ルーズグザ
    フォルセティ
    ヴィーザルとヴァーリ
    低位のアース女神たち
    ディース、ヴァルキュリャ、フュルギャ
    地霊
    アールヴ
 5 運命信仰
 6 霊魂信仰と人格認識
 7 死の信仰と死の習慣
 8 呪法
 9 世界の滅亡と再生
 10 分解 異教の滅亡

訳者あとがき
図版
図版説明
参考書目
索引




◆本書より◆


「第一部 先史時代」より:

「自然人には、文明人の動物にたいする支配者態度は無縁なものである。動物は、実際に人間の優越者と見なされないにしても、人間の対等者とは見なされる。動物の感覚の鋭さ、力、迅速ぶり、あるいは他の諸性質はその十分な証拠である。この評価から、自然人をとりまく動物世界に対する自然人の姿勢が決定されるのである。これはふつう尊重、尊敬を特徴とする。狩猟者が自己の生存のために殺すことを余儀なくされるという事実は、これに対する矛盾とは認識されない。人間に食糧として役立つことは動物の天性の一部をなし、これを動物は、対等なパートナー間の一つの任意の合意と見なすと考えられるのである。
 有名な例を一つあげるならば、ラップ人の熊祭はこのような認識を表わしているのである。スウェーデン人牧師ニウレニウスは十七世紀に、ラップ人が熊の屠殺とその斃された熊の消費を伴う儀式について記述している。とりわけ熊の骨は、注意深くとっておかれ、その後それは埋葬された。その理由を尋ねたところ、次のように答えらえた。すなわち、あらゆる動物が話すことのできた太古に熊が、「もしも人間が私の死んだ後、これらの儀式と栄誉礼でもって遇するならば、私はいついかなる時でも人間に害することなく殺されてやろう」と語ったのである。」

「ユラン〔ユトランド〕半島の火葬墓(ヒマーラン地方ボレモーセ)出土品は、北欧人の祖先の間で火葬の習慣の背後にある考えがいかなる方向へ向っていたかを、具体的かつ明白な仕方で裏付けている。ボレモーセで一人の若い人間の焼かれた骨といっしょに、焼かれた鳥の骨および小ガラス六羽とミヤマガラス(ないしカラス)二羽の切断された翼が発見された。翼を死者の火葬薪の残りの上に置くことの意図は、誤解される余地はほとんどなく、十二枚の小さい翼と四枚の大きな黒い翼を、その死者の霊魂を死の国にもたらす、想定された運び手とみる説明は、我々は喜んで支持するものである。」



「第二部 ヴァイキング時代」より:

「神聖化された占取区域の外には、無人の荒野が横たわっていた。荒野の無人地帯では、未知なるものへの不安が支配した。荒野の荒寥は空虚などというものではなく、そこは、魔(デーモン)的諸存在の住まう荒寥なのであった。ただ法益剝奪の者のみが「森に入る者」(skóggangsmaðr)として、人間と神の共同体から追われて、荒野での生存を余儀なくされた。このような人物は、祭祀共同体に顕現する連帯には、もはやなんの関わりももたなかった。わずかにキリスト教的に装いながらも、その起源と精神では全く異教的なアイスランドの法規「恒久平和の定め(トリッグザマール)」は凝縮した文章で、法益剝奪の者の生存をめぐる観念を我々に示してくれる。平和を破った者は――といわれる――「いかなる所にても人間たちの間で忍耐されず、いずこにてもすべての者から追い払われる――狼どもが狩りたてられ、キリスト教徒たちが教会に詣で、異教の徒らが神殿で犠牲を捧げ、火が燃えたち、草が生え、多弁の童子が母に呼びかけ、母が息子を産み、男たちが火をともし、船がすべり進み、楯が輝き、太陽が照りて雪が降り、フィン人が旅に赴き、隼が春の長き日を飛びつつ両の翼の下に、真直ぐな追風が吹き、蒼穹が弧を描き、大地に人が住み、風が海へと水を運び、農夫らが麦を播く限りは……」法益剝奪の者は死後も、氏族共同体と墓の神聖の分け前にあずかれなかった。彼は無権利と「不浄」(úheilagr)のまま転がっていた。その死体が発見されたならば、ものの言えない畜生の死骸同然に「それは石だらけの土地に捨てられた」のである。」

「宇宙の秩序は、根底ではもろい、そして刻苦して維持される秩序なのである。これは、常にその存在を脅かされていた。他の諸民族と同じく北欧人も、一つの大きな恐れに支配されており、その恐れとは、生命を増進する神々によって支えられた秩序が崩壊する定めにあるというものである。この脅威は、ウートガルズの諸力、巨人たちからやってきた。巨人たちは原初時代の存在であり、天地創造史にあって混沌(カオス)時代を代表するものである。
 しかし混沌、無秩序はまた、神々の囲い柵と人間たちの居住域の外に位置する荒地、すなわち森林、山岳、海洋の特色をも示す。したがって我々はきまって、これら荒涼たる地域に巨人たちの棲家を見出すのである。昔話では今なお、ほかならぬ森や山から巨人たちの重い石塊が勢いよく人間の居住域の境界めがけて転がってくる。恐ろしさにおいて劣らぬ巨人の女たちは、山から出てきて荒々しく泡立ち、御しがたいまで嵩(かさ)を増す急流の擬人化なのがひんぱんである。
 巨人界の諸力に対して、不断の監視をする仕事が必要であった。というのは、巨人の努力はすべて存在を混沌へ引戻すことだったからである。人間たちの守護者にして疲れを知らぬ見張人は、神々中第一の戦士ソールで、この神はまた世界秩序の維持者でもあった。巨人たちに対するソールの戦闘をめぐる神話の中で北欧人は、秩序の存続においた自らの信頼、混沌の諸力を押返して荒地からくる脅威を遠ざけておく可能性においた自らの信頼を表現する。しかし巨人は多数を誇る種族であり、また彼らを恐るべき反対者となす諸特質を備えていた。彼らは甚大な体力ばかりか、深い知恵も有していたのである。古代の物の見方に従えば、知恵とは隠された事物を理解することと同義であった。この見方にとって、他のものよりも原初時代から発した存在の方が世界の秘事について多く知っていることは自明なのである。これは単純な宇宙論的論法である。」

「ベルセルクとウールフヘジンの呼称は、これら勇士の服装、つまり熊の皮ないし狼の毛皮を示唆する。民族移動時代のエーランド島トーシュルンダ出土の青銅板に槍で武装した像――狼の頭部、狼の皮と尾と人間の足を備える――が描かれており、これはどう見ようともオージン戦士である。これら衣服の背後に我々は、原始的な思考を垣間見る。すなわち、ある獣の皮を身につける者は、そうすることによってその獣の特質の一部、その野生性と力にあずかるのである。こうして熊の服と狼の服は、呪術的な獣への変身を、その目的としていた。サガ諸作にも、ベルセルクたちが明かした獣的な野生性の例が、多数示されている。強調されるのは、なかんずく彼らの無分別な激情とすさまじい咆哮である。」

「原始的な思考にとって、死と知恵の贈物との間には密接な関係が支配する。我々が知恵と呼ぶ精神的財産は、原始的な思考法にとっては、秘されたものを見通す洞察、通常の知識追求の手段によっては獲得不能な超自然的(オカルト)に知ることと同義なのである。真の価値を有する知恵は、世俗的な性質のものでない。それは大いなる宇宙のさまざまな謎、原初時代の出来事、世界の起源と神秘的な秩序、そしてこれの最終的な運命にかかわるものである。この種の知識は日光の明るい世界に属さず、その源泉は地下と死との国から発する。あるエッダ詩の中で巨人が、彼がそのはなはだしい知識をいかにして獲得したか尋ねられたとき、その返答は、彼は地下と死との諸世界すべてをへめぐることによってその知識を得たというのである。」



ストレム 古代北欧の神話と宗教 02


「トルロン出土男子の頭部」。


ストレム 古代北欧の神話と宗教 03


「オーセベル船墓の据付物の中の獣頭」。





































































ル・クレジオ 『メキシコの夢』 望月芳郎 訳

ル・クレジオ 
『メキシコの夢』 
望月芳郎 訳


新潮社
1991年5月25日 発行
1991年6月25日 2刷
297p 索引7p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円(本体2,427円)
装幀: 野本卓司



本書「訳者あとがき」より:

「『メキシコの夢』 Le rêve mexicain ou la pensée interrompue, ed. Gallimard は一九八八年八月刊行された(副題として「中断された思考」という文言がはいっているが、第七章のタイトルと重複するので全体のタイトルとしては削除した)。」


本文中図版(モノクロ)36点、地図1点。
本書はアマゾンマケプレで683円(+送料256円)でうられていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


ルクレジオ メキシコの夢


帯文:

「太陽信仰、神々の物語、夢の知恵…
謎に充ちたインディオの習俗の記録。
16世紀に破壊された“沈黙の文明”は
現代に何を語りかけるか――。」



目次:

征服者の夢
原住民の夢
メキシコの神話
ネサワルコヨトル――言葉の祭
野蛮の民の夢
アントナン・アルトー――メキシコの夢
アメリカインディアンの中断された思考

訳者あとがき
人名・神名索引




◆本書より◆


「征服者の夢」より:

「これが恐しい二年間の両世界の対決である。一方はエルナン・コルテスの個人主義、所有欲にかられた世界。狩人、黄金略奪者の世界。男を殺し、女や土地を手に入れようとする者たちの世界。もう一方はインディオの集団的、呪術的な世界。トウモロコシやいんげんの栽培者、神官や軍隊に服従し、地上における神々の代理人である王=太陽を礼讃する農民の世界。ベルナール・ディーアスが語るのは両者の希望なき対決であり、夢が生じるのもそこからである。なぜならばそれは最後の呪術的な文明の一つの終りの物語であるからである。
 たとえ略奪者のコルテスが気付かなくても、ベルナール・ディーアスはそれを、ときどき襲ってくる不安、後悔として感じていただろう。事実、行動に移る前、彼は、やがて消えてゆく美を凝視していた。この懐疑のゆえに、『メキシコ征服記』は当時の人びとに呪われた書物と見なされた。だがそれは、ほんとうの名誉、ほんとうの偉大さはどこにあるのかを言いあてていた。この呪術的世界、インディオ国家の祭祀的なのどかさ、呪われたこの文明のすばらしさがなかったら、エルナン・コルテスは冒険家集団の頭にいる単なる夜盗にすぎなかっただろう。偉大さが生れるのはコルテスからでも、その無謀な行動からでもない。彼が破壊に熱中したメシーカの世界からである。」

「スペイン人が到来したときインディオの世界に宿っていたのは夢であり、呪術であった。スペイン人と出会い、彼らの武器によって殺戮される以前から、インディオは異邦人が彼らを支配する目的でやってくることを知っていた。マヤ人、タラスコ人、アステカ人は予言者や占師の言葉を聞いていた。」

「モクテスマの心は最後の最後まで、異邦人が神々にたいして侵した侮辱に復讐する欲望と、避けられぬと信じた運命への完全な服従とに引き裂かれていたのに違いなかった。
 アメリカ大陸と西ヨーロッパ(中略)の対決の中で、どちらが文明人で、どちらが野蛮人であったかすぐ分る。血なまぐさい生贄があろうと、儀式的な人肉食いがあろうと、神権政治の圧政的構造があろうと、文明を保持したのはアステカ人――マヤ人もしくはタラスコ人と同様――である。植民地獲得に参加したすべての人と同じくベルナール・ディーアス・デル・カスティーリョは、インディオの世界は悪魔に捧げられた世界であるがゆえに、破壊されるのは当然と信じようとした。(中略)しかしその文明の失われた栄光が見出されるのは、敗者の行動や言葉の中にこそである。コルテスが部下とともに大神殿のあるピラミッドの頂上に上り、モクテスマに神々を捨てるように迫ったとき、このメシーカの王は激怒を押えることができなかった――
 「マリンチェ殿。いま言われたような不敬なことばを口にされると分っていたなら、余の神々をお見せするのではなかった」。」

「その言葉、その真理、その神々、その伝説を擁した、世界で最も偉大な文明の一つを蔽った沈黙は、ある意味では近代史の開始でもある。アステカ、マヤ、プレペチャの幻想的、呪術的、残酷な世界の後に、近代文明と呼ばれるもの――奴隷制度、黄金、土地と人間の搾取等、産業時代を告げるあらゆるもの――が続く。
 しかし時の起源そのものへと戻ってしまったように、沈黙の中に隠れてしまったが、インディオの世界は記憶の表面のどこかに消えやらぬ痕跡を残していった。その伝説と夢はゆるやかに、抑え難く、戻ってきて、ときどき廃墟や時間の真只中に征服者(コンキスタドール)たちが消滅させることができなかったものを蘇らせる。」



「原住民の夢」より:

「アメリカの全インディオ社会で最も特異な祭儀は、各〈世紀〉(五十二年)の終末、太陽暦五十二年の周期の終りに行われるトシゥ・モルピリア(われらの年はつながっている)のそれであろう。中央アメリカで、アステカ族、トルテカ族において、またマヤ族においてトゥプ・カク(火の消滅)と呼ばれ、ある役割を果したと思われる新しい火の祭である。それは最も美しく、最も悲劇的で、また最も意味深長な祭である。なぜならばインディオの時間計算によると、そのときすべての星はそれぞれの循環を終え、宇宙全体が〈一の兎〉の年から次なる〈一の兎〉の年を引きよせる循環を再開しなければならぬ瞬間であるからである。
 神の秩序への完全な服従の中に生きているアステカ人にとって、この瞬間は不安と苦悩の瞬間である。新しい世紀の入口を隔てているネモンテミ(意味のない日々)、つまり年末の名のない五日の間に訪れる世界全体の宿命である「その晩」と、ベルナルディーノ・デ・サアグンは記している、「彼らは新しい火をつける。だがその前にあらゆる地方、このヌエバ・エスパーニャのあらゆる村、家の中の火という火は消され、高官、神殿の神官全員が厳粛な長い行列をつくって行く。夜の初めの時刻に、ここ、メシコの神殿から出て、イスタパラパンに隣するウィシャチテカトリという名の山の頂きに登ってゆく。ほぼ真夜中頃、彼らは山頂に達する。そこには祭儀のための荘厳な神殿が建てられている。到着すると、彼らはすばる星が中天にかかっているか見つめる。かかっていなければ、その時を待つ。それが天空の半ばを過ぎるのを見ると、彼らは天空の運動は終らず、この世の終りは訪れず、極まることはないという確信のもとに、新しい五十二年間を生きてゆけることを知る。この時刻、メシコ、テスココ、ショチミルコ、クアウティトランを取巻く山々には新しい火を見ようと無数の人びとが待っている。それは世界が続くという合図であるからだ……」。」

「アメリカインディアンの思考に力を授けるのは、この超自然的なもののそばにいるという信仰である。神々を失ったアステカ人は生き永らえることはできなかった。」



「野蛮の民の夢」より:

「定住民族が(中略)野蛮の民に感じる魅惑をわれわれは想像することができる。それは未知なるものから感じる魅惑であると同時に、夢見る自由を前にしての魅惑であり、秩序と合法性を打ち砕こうとするひそかな欲望の表示である。文明国家から見ると、野蛮の民は自由で、裸で暮し、無秩序の中で何の拘束もなく、節度を無視し、宗教的禁忌(タブー)、道徳を黙殺して生きている。野蛮の民にたいする文明人の侮蔑は、逆に称讃、羨望、一種の抑圧された憧憬を引き出す結果になる。
 野蛮の人間は何よりも自由な人間である。流浪の人間である彼はいかなる社会組織、いかなる規則にも囚われないように見える。特にいかなる労働にも束縛されていないようである。本能的に思い起される原初的な狩猟者の姿は、狩猟、略奪、戦いに生存の糧を見出す、永遠の流浪者である。彼は自分の足が踏む土地しか知らず、その地平線は限りない。土地なし、国なしの身で、その住居は一季節、一夜、あるいは束の間の休息のために仮小屋を立てるところにある。何の財産も持たないから恐怖も羨望も知らない。たえず不安定の中で暮らしているから、死の不安も知らないし、流浪生活の困難は自己や他人にたいして判断の失敗を許さない。友情、血族にたいする忠実が、彼の唯一の価値であり、敵や試練によって鍛えられた一貫した価値である。この野蛮な社会では、一人ひとりの人間が自分の主(あるじ)であり、いかなる貢租、いかなる十分の一税(ディーム)の負担もなく、自ら足れりとすることができる。彼は戦士であるとともに医者、神官、そして家族の長でなければならない。文明人の弱点や悪徳を知らず、その肉体は、周囲の冷酷な風景に従順でなければならない。疲労や悪天候に耐え、戦闘に巧みで、逃亡に迅速であり、野生動物に比すべき聴覚、視覚、嗅覚に恵まれ、的確な本能に導かれなければならない。野蛮の人間にとって文明人の理智は弱点にすぎない。反対に、反射神経の鋭さと正確さ、危険にたいする迅速な感知が、生存のための保証である。理性や意識はその案内者たり得ない。その善悪の概念は本能的で、躊躇も曖昧さもない。野蛮の人間は不道徳ではない。彼はあらゆるモラルの手前で、人生の伝説的な泉から湧き出る原初の清らかさみたいなものの中に生きている。」

「野蛮の民が結合するのは、政治ではなく、呪術によってである。」

「キリスト教徒に対する反乱の第一の原因は、伝統的な価値観への愛惜である。ペレス・デ・リバス神父はネボメ族の首長(カシーケ)カボメアイについて語るとき、その反乱の原因を、「彼が育てられた昔の野蛮な風習の思い出」の中に見出している。」

「スペイン人にたいして野蛮の民が起した〈聖戦〉(中略)は、一七世紀以来、(中略)〈征服者(コンキスタドール)〉たちが与えた死の脅迫に対する絶望的な反撃の表現である。また(中略)土地収奪に対する蜂起、(中略)強制労働にたいする反逆である。さらに伝統的な宗教と価値の破壊に対する反乱でもある。(中略)野蛮の民にとって、スペインの侵略者は、異なった民族というより、自分勝手な植民地化を行い、インディオの宗教とは根本的に対立する宗教的イデオロギーを押しつけてきたがゆえに、絶対的な敵であった。」

「こうして(中略)野蛮の民の夢は終りを告げる。だが他界の夢、もう一つの時間の夢は、われわれの心に消えやらぬ思いを残している。」



「アントナン・アルトー――メキシコの夢」より:

「メキシコにおけるアントナン・アルトーの最も驚くべき行為の一つは、一九三六年五月十九日付〈エル・ナシオナル〉紙に発表された「メキシコ政府当局への公開状」であり、(中略)この書簡の中でアルトーは、政府当局を動かし、原住民の文化、アルトー自身の言葉によれば、「生きている者にとって」肝要なこの文化の緊急必要性を感じさせようとしている。「まさに私はメキシコの大地に眠っている力を信じます。それは私から見て、生きている者に有益である自然の力が眠っている世界で唯一の場所なのです。温泉が治療や健康によいと信じられているように、私はこの力の魔術的な現実を信じます。インディオの祭儀はこの力の直接の表現であることを私は信じます。私は考古学者、また芸術家としてではなく、言葉の真実の意味における賢者としてそれを研究したいと思います。そして率直にいって、私の魂を益するため、その治癒的な徳が私の意識全体に浸透してゆくよう、試みてみようと考えています」。
 以上が、メキシコでアルトーが伝えようとした〈革命的メッセージ〉の深い意味である。」

「ペヨトルの舞踏は何よりもまずアルトーにとって、〈白人〉でなくなることへの一つの手段である。換言すれば「精霊たちから打ち棄てられた者」でなくなることである。」

「メキシコにおけるアルトーの体験は、原初的、本能的な人びとを発見する現代人の極限の体験である。芸術や科学にたいし、祭祀や呪術の絶対的優勢の認識。(中略)タラウマラ山中における体験は西欧世界との全体的な断絶のきっかけとなり、彼は二度と以前の仕事をすることはできなかった。(中略)その後の彼の人生は動揺そのものであり、その精神は、ヒクリ(ペヨトル)のタラウマラ神官の十字架と聖パトリックの聖なる杖とが混ざりあう夢の虜となった。だが現代世界は夢見る人びと、幻視者たちをはねつける。詩人アントナン・アルトーは内部を燃焼しつくし、何年も貧困と苦悩のうちに過ごした後、病院から精神病院へ、自分の殻に閉じこもり、その呪縛の秘密を抱いたまま、(中略)孤独の中に死んだ。」



「アメリカインディアンの中断された思考」より:

「人類史上、最大の災厄から最後に生き残った者で、山岳や砂漠の中に逃げ、森の奥に隠れたインディオたちは、先スペイン期文明の自由、連帯、夢の原則にたいする絶対的忠実さのおもかげを今でもわれわれに伝え続けている。彼らは〈母なる大地〉の番人、自然の法と時のサイクルの観察者であり続ける。
 われわれは今日、もう一度、すべてやりなおすことができるかのように、彼らの生活、彼らの視線を、われわれの心の奥底に感知せずにはいられない。『フィレンツェ絵文書』中のメキシコの民の遺言書として残されたすばらしい文言は、われわれの心の底にまで達する悲痛きわまる願望ではないだろうか?
 「もう一度そうなるであろう、もう一度、別の時、別の場所で、物事はそうなるであろう。昔そうだったもの、今もはやそうでないものは、あたかもはるかに遠い時代にあるかのように、もう一度なされるであろうし、もう一度そうなるであろう。今日生きている人びとはもう一度生きるだろうし、もう一度存在するであろう」。」



























































































ル・クレジオ 原訳・序 『マヤ神話 ― チラム・バラムの予言』 望月芳郎 訳

「こうしてわれわれの父なる神からおくられる徴(しるし)は届くだろうが、それは平和を打ち破る人びとがやってくる世であろう。われわれの息子たちが征服されるとき、予言(ことば)は不幸である。」
(「チラム・バラムの予言」 より)


ル・クレジオ 原訳・序 
『マヤ神話
― チラム・バラムの予言』 
望月芳郎 訳


新潮社
1981年9月25日 発行
1982年3月25日 4刷
271p 口絵(カラー)1p
四六判 薄表紙 函
定価1,700円



本文中図版多数。「解説」「参考文献」は二段組。
本書はアマゾンマケプレで最安値(94円+送料257円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。最安値なので函にはシミが目立つものの本体は使用感もなくきれいな状態でした。


ルクレジオ マヤ神話 01


帯文:

「太陽と神々と英雄が君臨するマヤ民族の社会と文明。その創世からスペイン人による侵略までを描いた、マヤ最大の文献。精密な考証と注による労作。本邦初紹介。」


帯背:

「待望の本邦初訳」


帯裏:

「〈羽毛の蛇の神〉〈雨の神チャク〉〈トウモロコシの若い神〉などのユニークな神々や巧緻で壮大な暦を発見したマヤ民族。天地創造の神話、祭式の形式、部族由来の問答、病気治療法などについて書かれた「チラム・バラムの予言」「カトゥンの予言」「年の予言」「年代記」他を収める。」


目次:

マヤ族の宇宙と時間――序 (J・M・G・ル・クレジオ)

チラム・バラムの予言
カトゥンの予言
年(トゥン)の予言
年代記(ティシミン、マニ、チュマイェル)
太陽の神官の予言

〈解説〉 (望月芳郎)
〈参考文献〉



ルクレジオ マヤ神話 02



◆本書より◆


「マヤ族の宇宙と時間――序」より:

「真実の書物は魔術的なものである。それらは時のはるかかなたの外(はず)れから、濃い影となり、石碑のような姿となってやってくる。まるで夢の中、忘却のさまざまな黒い流れの間(はざま)で書かれたように、多くの象徴や記号を背負っている。なぜならばそれらは、一民族がふたたび睡りに戻る前に見た夢であるからであり、書物の頁に書かれたものは、たとえその夢が終りを告げたとしても、なかば消えかかった謎の言葉として、われわれの手もとに届き、言語の始源の奥底で鳴り響いて、とても有り得べきものとは思われない、時の他の外れについて語り続けるからである。
 魔術的な書物、焼かれる運命をまぬがれた書物が、なぜ存在しているのであろうか? 『勧告の書』『カントゥレの書』『死者の書』『トナラマトル』『ヴァラム・オルゥム』『ポポル・ヴフ』『チラム・バラムの書』まるで他の世界から送られてきたようなこれらのメッセージは何を言おうとしているのだろうか? 言葉の過剰な世紀、科学の過剰な世紀に生きているわれわれに、それらは何を告げようとしているのだろうか? (中略)聖なる『チラム・バラムの書』は、かつて石や木に彫りつけられ、樹皮紙に描かれた一つ一つの記号が魔術的な言葉を語っていた時代のことを想い起させる。それらの言葉は、おそらく永遠に消え失せてしまったであろう。しかし何ものかが依然としてわれわれを不安にさせ、何ものかが顫動(せんどう)し、雲や息のように、書記体(エクリチュール)のあたりを通り過ぎる。それは幽霊だろうか、思い出だろうか、それとも依然としてそこ、記号のまわりにさまよっている言葉の魔術の変質しない力だろうか?」

「マヤ人の偉大な発見は、この地上の世界は決して自立的なものではなく、無限の一部であり、現在(いま)の時間は時の巨大な車輪の一通過にすぎないと考えついたことである。」

「一民族、地上にいた最も無防備な民族のうちの一民族は、人間を、その起源以来、大宇宙の運命に結びつける絆を発見したのだった。さあ、今や、彼らの言(ことば)を聞こうではないか。」



「チラム・バラムの予言」より:

「赤い燧石(ひうちいし)は、蜜蜂の主、赤いムケンカブ神の石である。赤く、慈悲深いケイバの樹は、東にあるその隠れ家である。赤いあかてつの樹はその樹である。その蔓は赤い。その野生の七面鳥は赤い。赤いトウモロコシは炒(い)られたトウモロコシである。
 白い燧石は北にある、白いムケンカブ神の石である。白く、慈悲深いケイバの樹は、その隠れ家である。その七面鳥は白い胸をしている。白いいんげん豆はそのいんげん豆である。白いトウモロコシはそのトウモロコシである。
 黒い燧石は西にある、黒いムケンカブ神の石である。黒く、慈悲深いケイバの樹は、その隠れ家である。黒い斑点のあるトウモロコシはそのトウモロコシである。黒いじゃがいもはそのじゃがいもである。黒い野鳩はその七面鳥である。〈黒いトウモロコシ〉アカブ・チャンは、その突っ立ったトウモロコシである。黒いいんげん豆はそのいんげん豆であり、黒いそら豆はそのそら豆である。
 黄色い燧石は南にある、黄色いムケンカブ神の石である。黄色く、慈悲深いケイバの樹は、その隠れ家である。黄色いあかてつの樹はその樹である。そのじゃがいもは黄色いあかてつのように黄色い。その野鳩、その七面鳥は黄色いあかてつのように黄色い。黄色いトウモロコシはその若々しいトウモロコシである。そのいんげん豆は外側が黄色い。」

「息子よ、深い穴はいくつあるのだろう? それらは笛を吹くための穴だが。」

「息子よ、石の中にある高貴な水の穴を見たことがあるか? それらは二つある。それらの間には十字架が立っている。
 それは人間の眼です。」

「息子よ、お前の仲間たち、お前のうしろを歩いていた人たちはどうしたのか?
 ここに私の仲間たちがおります。彼らを見捨てたりはしませんでした。」
「それは人間の影です。」

「ここで私は、お前が持っている丸く平たいもので輪をつくった。お前の住んでいる洞窟(ほらあな)には、そのような輪がたくさんある。だから食事のとき、私たちの眼の前で輪をつくれ。
 それは卵焼きです。」



「年の予言」より:

「一三カン、一ポプの日、カトゥン五アハウの偶像が拝受される。これは一五九三年の年の間に起った――一五サクの日、カトゥンはその名を告げる。来るべき時のための荷物はつぎのとおりであることを私は知らせる。
 マヤパンが変りゆくカトゥンの顔となるとき、そのカトゥンは人びとに受け入れられる時だろうし、ケツァルの息子たち、〈緑の鳥〉ヤシュムの息子たちが天降る時だろう。それは女や男の息子たちが苦しむ時だろう。屍の大きな山が築かれる時となるだろうし、石の城壁が覆され、無数の徴(しるし)がケイバの樹に現れるとき、人びとは日暮れ方を用心するだろう。泉が涸れる時だろう。〈天の野兎〉トフウル・カン・チャク(星=神)が泥沼の前に立ち、水に充された堀の外れに立つ時だろう。〈書かれた心臓を持つ五月の花(ぷるめりあ)の女神〉イシュ・ツィバン・ヨル・ニクテはこのカトゥンの間、悲しむだろう。それから〈太陽の顔をした全能の神〉キニチ・チャンが空に生れるとき、統治するこの神に新しい予言(ことば)が訪れるだろう。それは一三カンの年(トゥン)、一五九三年と一五九四年の間に成就するだろう。
 それから一ムルクの年が落着くが、それは、山々や大地全体、〈七のムカデの殿〉アー・ウウク・チャパト(銀河)にその予言(ことば)が拡がる時だろう。七はその荷物の数であり、七はこの第二の年(トゥン)の間の重荷の数だろう。それから汝らは、敗れた者であるがゆえに腰布とマントを失うだろう。人間の口からパンは取上げられ、水は取上げられるだろう。マー。」



ルクレジオ マヤ神話 03


「〈解説〉」(望月芳郎)より:

「ユカタン半島やグアテマラに住んでいたマヤ族の生活にとって〈予言〉は切っても切り離せないものであった。(中略)なぜならばル・クレジオも序文で指摘しているとおり、マヤ族にとって時間は直線的に過ぎ去るものではなく循環的にくりかえされるものであり、過去の事件はいつの日か必ず再来するという宿命観に彼らが完全に捉われていたからである。このような社会にとって予言者の地位はきわめて高かった。」

「マヤ族は、マイケル・コウの指摘によれば、みかけの従順さにもかかわらず、メソアメリカで最も強靭なインディオであった。ヨーロッパ文明を頑なに拒み、これを排斥する戦いは休むことなく続けられたのである。」
「そして人里離れたマヤの村落がメキシコの統治を受け入れるようになったのはつい数十年前のことである。(中略)これらマヤ諸族の平定には数百年の歳月が費された。タヤサル島に構えるイツァ族の生き残りも一つの例であろう。もう一つの例はいまだに他からの支配を拒み続け未開の生活を送っているラカンドン族である。彼らの反抗、反乱の際、ル・クレジオが指摘するように、『マヤ神話』の言(ことば)が勇気の鼓舞に役立ったことは想像に難くないであろう。」

「「チラム・バラムの予言」――九の断章および「スユアの言葉」から成る。「……最初(はじめ)の男はアー・カヌルだった」に始まる第一の断章は、マヤの宗教における大地の四隅に対する儀式の頌詞と解して差支えないであろう。(中略)第二の断章「ツォル・ペテン(ある地域(くに)の平安)」は、マヤのある国の建国(おそらくイツァ族の放浪と建国)の次第が多くのユーモラスな地口を交えて語られている。(中略)第三の断章「一五四一年」では初めてスペイン人の到来が語られる。と同時にマヤ人の古来の神とキリスト教の神、聖母マリアとの混淆がすでに見られる。第四の断章は天地創造神話である。(中略)神々の争いの後で、キリストの救いが来る。第五の断章は最もわかりにくい文章であるが、トウモロコシの伝説と結びあわされた天使への祈りの言葉である。ここにもキリスト教と古来の宗教の混淆が見られる。第六の断章は「イツァ族の歌」である。マヤパンの首長フナク・ケエルの陰謀によるチチェン・イツァの滅亡とイツァ族の運命を嘆く悲歌である。第七の「ウ・シヒル・ウィナル(大陰月の誕生)」は、オク、チュエン、エブ、ベン……など二十の名と一―十三の組合せによる太陰暦の月の成立を基に天地創造が語られている。(中略)第八の断章はスペイン人到来の言葉である。第九の「ウ・トハン・ハハル・ク・トゥ・ナトホブ・チムラ(チムラ・バラムによって代弁された真実の神の予言(ことば))は典型的なチラム・バラムの予言の一つの形のように思われる。この断章では、やはりキリスト教渡来が予言されているが、わかりにくいドン・アントニオ・マルティネスというスペイン人の物語と混ざり合っている。」

「「スユアの言葉」――マヤ社会では新しいカトゥン(二〇年)を迎えるたびに、地方司政官(バタブ)詐称者を指導者階級から追放するため、最高首長(ハラチ・ウィニク)により秘儀応答が行なわれた。質問の正しい解答は、父から子へと言い伝えられ、それができた家柄こそ、真に指導者たるにふさわしい貴族の家柄であることが証せられた。まことにユーモラスな秘儀応答であるが、答えられなかった首長は殺された。二部構成となっていて、一部はスペイン人到来以前、二部は以後のそれである。」

「「カトゥンの予言」――「一の巻」一三カトゥン(中略)の予言。すでにスペイン人は到来している。だがスペイン人の姿がはっきりするのは「二の巻」である。イツァ族に対して悲劇的な運命が予言されている。」

「「年の予言(クケブ)」――一五四四年二月十五日になされたカトゥン五アハウ(一五九三―一六一二年)の各年の予言。」

「「年代記」――「(Ⅰ)、(Ⅱ)、(Ⅲ)」――記述に重複があるが、五つの「年代記」のなかでは一番きちんとしている。「(Ⅳ)」――年代記というよりは、むしろ民族詩というべきもの。「(Ⅴ)」――五つの「年代記」のなかで最も理解しがたく、種々の事件は他の年代記と共通しているが、年代、順序は異っている。」

「「太陽の神官の予言」――キリスト教を受けいれるように、また受け入れたときの苦難について述べた五人の神官の予言である。」

「一九四〇年、南仏ニースに生れたル・クレジオは、幼年時代、他の子供たちとほとんど遊ばず、海岸に出て海や雲を眺めたり、動物や虫と遊ぶのが好きであった。話すより書く方に早く慣れたと自ら語っているように、どちらかというと自閉症的な子供であったようだ。だがその反面、神話や伝説を好み、特に天地創造の神話については、さまざまな国の神話を、手にはいるかぎり集めて、読み耽っていたそうである。」
「幼年時代より自然、動植物に親しんできた彼の内部に次第につくられた認識は、人間社会のモラル、心理を超越した、いわば〈宇宙的認識〉とでもいうべきものである。」
「現代文明を頑なに拒否して密林の奥深くに住み、大自然と一体となって生活するインディオの生き方は、彼の資性にとっても、それまでの認識にとっても、現代稀に残る啓示であり、それゆえに「ぼくはインディオだ」(『悪魔祓い』)という歓喜の叫びとなったわけである。」







































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

※心の傷、胸焼け、劣等感等ある場合が御座いますが概ね良好な状態になります。

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