堀一郎 『日本のシャーマニズム』 (講談社現代新書)

「子どもの時からいんきないんきなもの」
「人よりの中へはちょっとも出る気にならなんだ」

(中山美伎)


堀一郎 
『日本のシャーマニズム』

講談社現代新書 256

講談社 
昭和46年7月16日 第1刷発行
昭和49年2月20日 第2刷発行
228p 
新書判 並装 カバー 
定価310円



著者は1910年生、宗教民族学。


堀一郎 日本のシャーマニズム


カバー文:

「天界から死者の霊を呼ぶ〈口寄せ〉、
神のお告げを人間に伝える〈ミコ〉……。
エクスタシーの中に超理性の声をきく
シャーマン現象は、古代から日本にも数多い。
本書は、高等宗教の強い影響を受けつつも、
いまなお日本人の宗教心のなかに生きつづける
シャーマニズムの本質をさぐる。」



カバーそで文:

「文化としてのシャーマニズム――シャーマニズムは、
たんに古代的、博物館的な存在ではない。
その上限は先史時代の靄(もや)のなかにかくれており、
狩猟、牧畜、農耕の各文化層をつらぬいて、
その下限はこんにちに至っている。
つまり常民とともにその存在意義を主張しつづけてきたのである。
人類のもつ最古の文化であり、そして歴史をこえて
それぞれの民族、その社会構造、風土、歴史的環境などに
応じて種々の文化や習合をとげてきた、最も長い生命力をほこる
文化所産と見るべきである。――本書より」



目次:

まえがき

1 ミコの系譜
 1 君主から神楽ミコまで
    さまざまなミコ
    宗教的君主としての女性
    カンカカリ
    朝鮮のミコ
    アイヌのツスとイム
 2 北方系と南方系
    死者に語らせる
    真正巫と擬制巫に大別
    中山美伎の神秘体験

2 聖の領域に入る――シャーマニズムとは何か
 1 エクスタシー
    根強い生命力
    シャーマンということばの由来
    女のシャーマンと男のシャーマン
    エクスタシーに対する見方
    シャーマンの一般的特色
 2 シャーマンの資格
    世襲と召命
    人格聖化
    真正シャーマンの優秀な能力
 3 社会の不安とシャーマニズム
    アノミーの状態
    宗教が発生するとき
    近代日本の宗教運動
    生き神としてふるまう
    教祖的人格

3 燃える人――呪的カリスマとしてのシャーマン
 1 この世のきずなの外に立つ
    カリスマ的英雄
    現世的価値の拒否
    「楯なくして進撃する」
    燃えるシャーマン
    天界飛翔
    天界の扉をひらく樺の木
    鳥への変身
 2 イニシエーション
    シャーマンの受ける試練
    自己否定と自己変革
 3 狂熱のオージー
    生命のエネルギーをかきたてる秘密祭
    民衆の人格を混沌に導く
    近代に見られるシャーマン
    大衆の社会離脱行為

4 山伏の神秘体験――密教のシャーマニズム 
 1 民衆と結びつく
    タントラ仏教
    火焔を背負う明王たち
    真言宗を受けいれた基盤
    鎌倉新仏教と密教との関係
    日本的カリスマ
    日本神道の根強さ
 2 山伏、修験者の足跡
    役行者の伝説
    葛城の一言主神
    「山伏」の本義
    死と再生の儀式――羽黒山の入峰(にゅうぶ)修行
    修行のクライマックス
 3 山嶽に他界を求めて
    山嶽信仰
    冥界歴程の説話
    道賢上人冥途記
    共通するモチーフ

5 人の姿で現れる神――古代日本のシャーマニズム
 1 アラヒトガミ
    「氏神型」と「人神型」
    「氏神型」の特色
    「人神型」信仰の特徴
    神々のはたらき方
    道真の怨魂
    若狭彦神
    「たたり」をもって出現する神
 2 神の妻たち
    その資格
    姫命たちの呪力
    呪的カリスマとしての卑弥呼
    神功皇后紀の政治形態
    女帝と執政者の組み合わせ
    天皇の権威獲得の秘儀
 3 神と人との交流
    ミコということば
    巫覡交替
    生き神さま

6 たたりにおびえた時代――密教の全盛期 
 1 たたり
    社会不安とわざうたの流行
    民間巫覡の活躍
    神の怒り
    個人のたたり
    人間の怨魂
    民衆の攻撃性のはけ口
 2 加持祈祷
    怨魂のいっせい蜂起
    「よりまし」
    政敵をふるえあがらせる
    擬制シャーマン

7 死者の霊をよぶ――口寄せミコの系譜
 1 「口寄せ」とは
    十一世紀に発生
    あるきミコ
    巫女集団
 2 口寄せ巫女はシャーマンか?
    フェアチャイルドの批判に答えて
    口寄せ巫女と真正シャーマンの違い
    イラタカの数珠
    「九重の守り」
    梓弓
    くどき
    横死者の霊を呼ぶ
    トランスにならないらしいこと
    「ひとりがたり」と「問い口」
    「くどき」から芸能へ
    卑賤視

8 踊り念仏と念仏踊り――日本シャーマニズムの芸能化
 1 「狂燥エクスタシア」
    持経者と念仏ひじり
    源信と空也
    阿弥陀のひじり
    突如踊りだした一遍上人
 2 なぜ踊り狂うか
    空也の生きた不安の時代
    タマシズメ呪術の復活
    狩猟民との結びつき
 3 うかれ女、くぐつ女
    遊女たちの神
    熊野比丘尼

9 現代日本とシャーマニズム――呪的カリスマへのノスタルジア
 1 人間神化の傾向
    人を神に祀る条件
    怨霊を統御する神
    秀吉、家康の場合の人間神化
    生きながら祀りあげられた例
    苦しむ神の説話
    無限に神をつくりあげる
 2 ねぜ女性シャーマンが多い?
    女か子どもに神がつく
    日本女性の強い被暗示性
 3 日本人のあきらめと熱狂
    「ええじゃないか」
    個別的カリスマを持つ
    マス・エクスタシーとナショナリズム

参考文献




◆本書より◆


「ミコの系譜」より:

「現代の新宗教運動の基をひらき、そのモデルケースの一つとなった天理教教祖中山美伎(みき)(一七九八―一八八七)は、「子どもの時からいんきないんきなもの」、「人よりの中へはちょっとも出る気にならなんだ」と述懐しているように、内向的な性格であった。」
「中山美伎のトランス、エクスタシーにおける神秘体験は、そののちの「みかぐら歌」、「お筆先」、「泥海古記(どろうみこうき)」などのなかからうかがえる。そしてこうした教祖型人格のなかに、母系社会から父系社会への移行、神聖王権の形骸化の歴史過程のなかに全く民間に埋没し去った真正シャーマンの遺伝的要素を見のがすことはできない。とくに徳川幕藩体制下では、宗教統制はきびしく、多くのシャーマンはすぐれた組織者を得て教祖となる機会も全く失われていたといえる。従って巫女はわずかに歌舞賽神の業と、口寄せの業とにその形態的命脈を保ってきたともいえそうである。そしてまたこのことが、巫女を社会の底辺にうごめく迷信邪宗の徒とするいわれなき偏見を導き出した。(中略)そうした偏見を解くためにも、まずシャーマニズムとは何か、シャーマンとは何かを説明する必要がある。」



「聖の領域に入る」より:

「シャーマニズムについては、すでに多くの学者の定義があるが、ここでいちおう作業仮説的な定義づけをしておこう。それはシャーマン(巫覡(ふげき))というエクスタシー(脱魂・忘我)技術を身につけた特殊な呪術宗教者を中心に、これをとりまく信者群によって形成される宗教現象であり、呪術的であるとともに、多分に神秘主義的で、かつ密儀的な性格をもつもの、と規定することができよう。」

「一般にシャーマンの資質としては、神経質で気むずかしく、興奮しやすく、夢みがちであり、幻覚や意識喪失、失神やてんかん性発作をおこしやすい性格をもっているといわれる。」

「教祖的人格には、次のような共通の特色がある。
 (一) 先天的に異常体質の持ち主であったということ。入巫以前には病弱で、孤独を愛する内向的性格がいちじるしく、しばしば幻覚や幻聴になやまされた経験を有している。
 (二) 強烈な個人的危機意識、社会不安、熱病などにともなって、イニシエーション的な精神違和(いわ)、すなわち職業的シャーマンになる前段階に見られる精神的違和――極度の偏食、不眠、高熱、突発的なてんかん性発作、肉体の衰弱にともなう異常な精神興奮、夢幻、狂踏(きょうとう)や彷徨(ほうこう)の発作的衝動、内的灼熱感(しゃくねつかん)――を体験している。
 (三) その結果として脱魂、意識喪失の状態のもとで、天界や地下界の他界遍歴、神々や精霊、魔的存在との出会い、降霊、降神などの神秘体験と試練を経ている。
 (中略)
 (五) お筆先、神伝歌(しんでんか)、みかぐら歌、神界物語、特有の神話など、イニシエーション的なエクスタシー、意識喪失のさいの神秘体験やそののちのトランス体験から得た教理書や啓示文学を創作している。
 そしてこうした特徴は、また中央および北アジアから満洲、朝鮮、北海道のシャーマンに見られる典型的なものということができる。
 つまり、シャーマンとは、「聖」の領域にかかわり得ない凡人、教祖的人格資質を持たない俗的な無資格者にとっては、まさに異常な、「誰でも真似のできるというわけにはいかぬ、特殊な、超自然的とも考えられる肉体的、精神的資質の所有者」なのである(ウェーバー)。」




こちらもご参照ください:

C・ブラッカー 『あずさ弓 ― 日本におけるシャーマン的行為』 秋山さと子 訳 (岩波現代選書)
佐々木宏幹 『シャーマニズム』 (中公新書)
『ミシェル・レリスの作品 4 日常生活の中の聖なるもの』 岡谷公二 訳































































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大林太良 『葬制の起源』 (中公文庫)

「人間は元来は死ななかった。また若くなったのである。もしも古い褐色の皮膚が醜くなり皺(しわ)が寄ってくると、人々は水中に身を沈めて水浴中に皮を脱いだ。その古い皮膚の下には、新しく若々しい白い皮膚が現われるのであった。」
(大林太良 『葬制の起源』 より)


大林太良 
『葬制の起源』
 
中公文庫 お-57-1

中央公論社 
1997年9月3日 印刷
1997年9月18日 発行
323p 
文庫判 並装 カバー 
定価743円+税
カバー画: 北ボルネオ、ロンキプツ族の墓
レイアウト: 丸山邦彦



本書「文庫版あとがき」より:

「『葬制の起源』が最初、角川新書として出版されたのが、一九六五年九月、増補して角川選書に入ったのが一九七七年八月であった。」
「中公文庫として再び公けにするに当たり、誤記、誤植の訂正、(中略)海外の地名を現行のものにするとか、少数の語句を改めたりしたが、基本的には角川選書版と変わりはない。」



本文中図版(モノクロ)多数。


大林太良 葬制の起源 01


カバー裏文:

「死は人類にとって永遠の課題であり、死に直面した人類は、さまざまな習俗や他界観を発達させてきた。本書では世界各地の葬法の諸相を概観し、さらに日本の葬制の文化史を、日本文化の形成に参与したと考えられるいくつかの文化複合との関連において検討する。人類の精神史の重要問題=葬制をテーマに、日本民族文化の源流を探る画期的論考。」


目次:

第一章 死と人間
 死の起源
 葬制と社会

第二章 先史時代の葬制
 葬制のはじめ
 洞窟や岩かげに
 農耕とともに

第三章 民族学的研究の歩み
 葬制と民族学
 葬制の文化圏説
 地域研究の進展
 葬制と流行
 葬制流行説批判

第四章 葬制の諸形式
 死者に対する二つの態度
 死者への恐れと尊敬
 死体放棄
 死体破壊 ― 鳥葬
 沈黙の塔
 火葬
 燃える未亡人
 サティとインド神話
 殉死
 台上葬と樹上葬
 死者の家
 洞窟葬
 埋葬
 屈葬
 ひっくり返しの原則
 坐葬
 埋めない埋葬
 墳丘
 墓小屋
 死体の方位と民族移動の方向
 方位の不一致
 舟葬
 死体保存と頭蓋骨崇拝
 ミイラと火葬の結合
 族内食人俗
 複葬
 複葬と他界観
 霊魂の表象と複葬
 葬制・他界・男女

第五章 死後の幸福
 死後の応報は普遍的か
 産女の怪
 葬儀の有無
 祖先崇拝と死者の幸福
 文身は他界のパスポート
 首狩りと勲功祭宴
 身分と他界
 二つの共通点

第六章 日本の葬制
 骨掛けの木
 火葬との結びつきで
 朝鮮の樹上葬
 北アジアの樹上葬
 日本の樹上葬
 死者の山
 山上他界
 死と生としての山
 山中他界と焼畑耕作文化
 複葬と両墓制
 沖縄の洗骨
 沖縄の風葬
 洗骨と風葬はどちらが先行か
 内地の改葬
 改葬と両墓制
 朝鮮の複葬
 中国古代の葬礼
 東南アジアの複葬と民族移動
 ティワー
 死者の舟と霊魂
 ティワーの段階
 テムポン・テロンの役割
 舟葬と太陽信仰
 根の国と海上他界
 海上他界観念の分布
 天鳥船
 ドンソン文化と「天鳥船」
 珍敷塚の壁画と文化移動
 天鳥船と複葬
 天鳥船のにない手はだれか
 黄泉国と地下他界
 哀悼傷身の系譜
 葬礼競技

第七章 エピローグ――ヴェラの挽歌

あとがき
増補版あとがき
文庫版あとがき
参考文献
解説 (小林達雄)



大林太良 葬制の起源 02



◆本書より◆


「葬制の諸形式」より:

「モンゴルの死体放棄の凄惨(せいさん)な光景を描き出したのは、ロシアの旅行家プルシェヴァルスキーである。

   「ウルガ(現、ウランバートル)のモンゴル人地区の外観は嘔吐を催すほど汚(きたな)い。ありとあらゆる汚物が街路にほうり出される。……市場の広場では、おまけに大ぜいの飢えた乞食がいる。乞食のうちの何人か、ことに貧乏な年老いた女乞食は、ここに定住さえしている。(中略)一人の衰えた体の不自由な女が市場のまん中に腰をおろす。……目撃者の語ったところによると、もしもこの不幸な女に最後の瞬間が近づいてくると、彼女のまわりに腹の減った犬どもがあつまってくる。犬どもは円を描いて、死の苦悶(くもん)が終わるのを待っている。それから女の顔やからだの匂(にお)いをかいで、不幸な老女がほんとうに死んだのかどうか、確信するために、ただちにそばに跳(と)んでくる。しかし、(中略)彼女がふたたび呼吸をしたり身動きを始めると、犬どもはまた彼女から遠ざかって、前の位置にもどり、辛抱づよく待つのである。しかし、最後の呼吸が彼女の生命の終わったのを告げるやいなや、空腹な犬どもは死体を食べつくし、あいた場所はまもなく同じような老人によって占められる。しかし、これはこの神聖な都市における人生の全体像ではまだない。(中略)ウルガのすぐほとりの墓場(中略)では死体は土葬されず、直接犬や猛鳥が食べるように投げ出される。(中略)ここは骨の山でおおわれており、その上を影のように犬どもが歩きまわっている。この犬どもはもっぱら人間の肉を食べて生きているのだ。新鮮な死体が投げ出されるやいなや、もうこの犬どもは、カラスや大鷹といっしょになって死体を引っぱりはじめる。だから、一時間か、せいぜい二時間もしたら、何ものこっていないのである。……ウルガの犬どもはこのごちそうにすっかりなじんでいるので、死体が市街を運ばれて行くときにも、必ず遺族とともに死体のおともをするのである。死者のユルテ(テント)から犬どもが来ることすらしばしばである」

 このような死体放棄の、特殊な形態がイラン文化のなかに生まれた。《沈黙の塔》である。これは先に述べた分類でいくと死体破壊の部にはいる。」

「さてポンペイには有名な《沈黙の塔》がある。これは一〇世紀に拝火教(ゾロアスター)を信ずるゆえに故郷イランを捨てて逃げてきたパルシー族の墓である。マラバール丘陵の上たかく、この塔の上でパルシー族の死体はハゲタカの食うにゆだねられる。ハゲタカは信じられないほど短い時間のあいだに骨から肉を引きちぎって食べ、骨はそのあとで雨によって塔のなかで洗われる。一九世紀末のオットー・エーラースの旅行記には、このような塔は五つあって、それぞれの塔は七二人の男の死体、七二人の女の死体、七二人の子供の死体を収容できるとでている。塔の内部はじょうご形になっていて、同心円状に、中心は子供、そのつぎは女、いちばん外側に男の死体をおくようになっている。「死体を食べるのが役目のハゲタカは、静観的な生活をおくっており、大きな群をなして塔の囲壁の上にかがみこんで食後の休憩をしたり、新しい死体を待っている」。古代イランでは、死者はたんに野原に放棄されるだけであって、そこで猛獣によって、バクトリア人の場合には、神聖と考えられた特別の犬によって食べられたのであった。このことは、《沈黙の塔》も、じつは単純な死体放棄から発達したものであることをよく示している。」

「ところで、自殺してみずからを犠牲としてささげるという観念は南インドでは顕著である。つまり、未亡人がサティ女神の手本にならって夫のために自殺するように、かつては王も星辰の運行に従って、自殺したのであった。昔は王が即位するにあたっては、彼の妻妾や、廷臣たちは、新たに即位した王とともに死ぬことを誓ったのである。もしこの王が死ねば、王の護衛兵、王の妻妾、年とった兵士たち、召使いたちは自殺したのである。」
「ところで、このような南インドの一連の習俗や伝承は、ここだけに孤立してあるものではない。驚くほどよく似た伝承は、アフリカのローデシア地方にも、また古代西アジアにも存在するのである。」
「ローデシア地方のジンバブウェの遺跡は、一八世紀の初めごろにほろんだモノモタパ王国の遺跡である。そして、この地方の住民のあいだには、今もなおジンバブウェ王国について数多くの伝説が伝えられている。そのなかにはかつて行なわれていた神聖な王殺しを物語るものもある。また他の一つによれば、昔、兄が妹に恋をしたという。兄は妹を妻とするように両親に要求した。しかし両親は彼の要求をはねつけた。兄は持ち物をいっさいもって湖のなかに入った。湖の底から兄は彼の悲しい死の歌をうたった。両親はこのことを聞いて、彼をもどらせようとした。両親は一人の美しい少女をつれて湖に行き、おまえの妹をつれてきたよと、いつわって彼を呼び返した。兄は少女に、水の下の彼のところに来るように要求した。しかしその少女はびっくりして村に逃げ帰った。もう一度、同じことを試みたが、同様に失敗した。どんなことがあっても自分の息子を救いたいと思った両親は、ついに娘をつれて湖に行き、息子に妻として与えた。兄はうたいながら、少女に、水の下の彼のところに来るように要求した。少女は着物を脱ぎ、足輪をはずし、腕輪をはずし、髪につけた真珠の飾りをはずす。彼女は湖のなかに歩んで行く。すると兄は水中から出てきた。岸べで彼女は真珠の飾り、腕輪、足輪をまた身につけ、そして着物をまとった。兄妹は村に帰り、結婚し、彼はこの国の最初の王となった。
 この伝承は、葬儀とも大幅な一致をみせている。伝説によると、昔、王が死んで彼の二番目の妹の王妃が彼のあとを追って死ななくてはならなかったとき、彼女から、あらゆる衣服と装飾品が一つまた一つと取り去られたのであった。死ぬときに彼女は裸になり、そして死体が墓穴に入るときになってふたたび衣服を着せられ、装飾品がつけられたのである。つまり、前の伝説は、王が死ぬと、妹の王妃が殉死して、それによって二人は救われることを物語っているわけで、インドのシヴァとサティの場合と同様である。
 こういう神話は古代バビロニアにもすでに存在していた。バビロニアの男神タムムズは、春に成長し、夏には女神イシュタルへの熱烈な恋のなかに死の芽をやどし、秋には死ぬ神であった。タムムズは死んで、死者の国は彼をうけいれた。女神イシュタルは愛人をさがし求めた。彼女は生命の門にやってきて、門番に、死者の国への入国許可を求めた。彼女は地下界への入国をむりに行なおうとしたが、昔からの規則に従って彼女はとりあつかわれた。彼女は八つの門を通らねばならなかった。そして、それぞれの門で彼女は身にまとっていたものを一片ずつおいていかなくてはならなかった。宝冠、耳飾り、首飾り、胸飾り、帯、腕輪、足輪、そして腰布。地下界では身体の八つの部分が病気に冒された。二つの目、身体の両側、二本の足、心臓、そして頭。イシュタルが立ち去ったために、地上では、すべての性行為はやみ、不毛となった。そこで大神たちは使者たちをつかわした。使いは笛を吹いて地下界の神々を征服した。タムムズは地下界からあがってきた。生命の水をかけられたイシュタルは彼のあとについてきた。帰途、イシュタルは、八片の衣服や装身具をふたたび身につけた。
 ここでは私はフロベニウスに従って記述した。ただ、(中略)ふつうこの神話では八つの門、八つの部分でなく、七つの門、七つの部分になっていることをつけ加えておこう。」



「日本の葬制」より:

「日本にも樹上葬がかつて存在したのではないかという問題を提出したのは、(中略)民俗学者中山太郎氏であった。彼は、「日本民俗源流考」という論文のなかで、日本における北方系と思われるさまざまの習俗を論じたことがあるが、そのなかにこの樹上葬の問題もあった。
 筑前糟屋(かすや)郡香椎(かしい)村(現、福岡市)の香椎宮の由来は、伝説によると、仲哀天皇の遺骸を黄金の棺に納めて椎の木の枝に掛けておいたところが、そこから霊香を発したので香椎と称するようになったという。また京都嵯峨(さが)の清涼寺に近い八宗論池のそばに棺掛け桜というのがある。土地の伝えに、嵯峨上皇の崩御(ほうぎょ)のとき、遺詔によって御棺をこの木に掛けたのでそう呼ばれる。岩代国耶麻郡熱塩村(現、福島県熱塩加納村)の互峰山慈眼寺は、僧空海が開いた名刹(めいさつ)という。境内に人掛け松というのがあるが、死人を掛けたものである。」





こちらもご参照ください:

金関丈夫 『発掘から推理する』 (岩波現代文庫)




























































































グリオール+ディテルラン 『青い狐 ― ドゴンの宇宙哲学』 坂井信三 訳

「狐は完全にできあがるずっと前に、不従順な性質を現わしアンマの計画に従うのを拒んだ。彼はしくじる運命を荷なって生まれて来た。彼の役割とつとめはそれ自体、彼自身の個別性を強化することにあった。彼は宇宙の秩序の破壊に手をつけたのと同じように、自分も未完成のままにとどまった。宇宙的な次元での〈記号〉すなわち ことば の追求と、人格の次元での双児の妹あるいは女性の魂の追求という、彼の二つの追求は、つねに必要なものである。彼は宇宙の混乱のもとになったと同時に、心理的な個別性の発揮に道を拓き、そうやって心理と宇宙の双方の領域に、対立関係という望ましい要因をもたらしたのである。」
(グリオール+ディテルラン 『青い狐』 より)


マルセル・グリオール
ジェルメーヌ・ディテルラン 
『青い狐
― ドゴンの宇宙哲学』 
坂井信三 訳


せりか書房 
1986年9月22日 発行
577p xvii 口絵36p(うちカラー6p)
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価6,800円
装幀: 工藤強勝



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Marcel GRIAULE et Germaine DIETERLEN, "Le Renard Pâle" (Travaux et Mémoires de l'Institut d'Ethnologie LXXII, 1965) の全訳である。」
「ドゴン族という人々は西アフリカのサバンナの一画、現在のマリ共和国とブルキナファソ共和国にまたがる一帯に生活する農耕民で、本書はそのうちバンジャガラ断崖地方の主としてサンガ地域の人々に伝承されている秘儀的な創世神話を記述したものである。」
「この研究は(中略)グリオールが一九五六年に急逝したために、ディテルランがその後を受け継いで完成させたものである。したがって、本書はグリオールとディテルランの共著の形をとっているが、事実上の執筆者はディテルランひとりである。」
「本書には多数の図版が収録されている。原著は全巻アート紙で、図版もほとんどが色刷りになっているが、それをそのまま再現するのはかなり困難なことであった。そこで本訳書では、口絵部分に重要と思われる多色刷りの図版をほとんどすべて再録し、単色の図版は、そのうちいくつかを選んで原著のとおりに再現したものを口絵に収め、残りは白黒の図版にして本文中に織りこむことにした。原図は大半がベージュの地に白ぬきで図像を描き出している。これは土の上に穀物のかゆで描かれた図の印象を再現しようとしているものと思われ、配色自体には重要な意味はない。(中略)写真は原著にあるものをそのまま生かした。」



グリオール 青い狐 01


カバーそで文:

「西アフリカ、ニジェール河
大彎曲部の断崖地帯に
住むドゴン族の
なかへミッシェル・レリスらと
ともに分け入った
民族学者M・グリオールは、
彼らからドゴン族最高の
秘儀体系を伝授されることとなった。
それは、内部生命が
螺旋運動の形で生成発展して
いくものとして
世界を捉え、人間精神の
内奥への洞察をエレガントに
解明した、西欧ともアジアとも
まったく異なる
独自のアフリカ的世界観の極限を
開示するものであった。
本書はこのドゴン族の
秘教をたぐい稀な精密さで描き、
ドゥールーズ=ガタリを
始めとして世界に
衝撃を与えた民族誌の
全訳である。」



グリオール 青い狐 02


目次:

図版/写真/地図

凡例

はじめに

序論
 歴史
 言語
 衣食住
 社会
 人格の概念
 ドゴン族の思惟
 付記
 音声表記について
 地図・図・写真について

第一章 アンマ
 1 アンマ
  記号の創造と形態論
  記号の分類と増加
  記号から絵へ
  諸表象
  記号の役割
 2 一回目の創造
  アカシアの創造
  〈最初の世界〉の創造
  〈最初の世界〉の崩壊
 3 アンマの卵
  二回目の創造
  〈アンマの卵〉の最初のヤラ
  〈アンマの目〉が開く、〈アンマの卵〉の第二のヤラ
  諸表象
 4 フォニオの創造
  フォニオの創造
  八種の種子の創造
  ひょうたんとオクラ
  発酵
 5 ノンモ・アナゴンノの創造
  アンマの二重の胎盤
  ノンモ・アナゴンノの卵
  ノンモ・アナゴンノの形成
  魚の増加
 6 アンマの業
  アンマの業
  〈第二の世界〉の仕上げ

第二章 オゴ
 オゴの反抗
 オゴの一回目の降下
 大地の形成
 オゴの最初の箱舟の表象
 異伝
 オゴが再び天に昇る
 異伝
 太陽と亀の創造
 オゴがアンマの種子を盗む
 異伝
 創造の諸要素が白いフォニオの中に戻される
 オゴが再び降下する
 オゴの第二の箱舟
 オゴの種子播き
 ノンモ・ティティヤイネが胎盤を踏みつぶす
 アカシアとくもの働き

第三章 ノンモの供犠と再生
 1 ノンモの去勢
  アンマによる供犠執行者と犠牲者の選定
  犠牲者の魂の分割
  ノンモの去勢
 2 オゴの割礼
  オゴが再び天に昇る
  オゴの割礼
  最後の三度目のオゴの降下
  オゴが青い狐に変えられる
  狐の占いの図表
 3 ノンモの供犠
  犠牲者の喉を切る
  犠牲者の体の分割
  体の諸部分を空間に投げる
 4 ノンモの再生
  ノンモの再生
  供犠と再生の図――レベ・ダラの祭壇と血の線の祭壇
  諸表象
  ノンモの供犠と再生の価値と機能
 5 人間の創造
  鎖骨
  アナゴンノ・ビレとアナゴンノ・サラ
  霊的原理
  鍛治師、語り部、ヤシギ
  死――アナゴンノ・アラガラ
  再生したノンモの胎盤と亀

第四章 白いフォニオの仕事
 創造の諸要素と女性の白いフォニオ
 ノンモが男性の白いフォニオを呑みこむ
 女性の白いフォニオの中にあった諸要素の分類
 諸表象

第五章 ノンモの箱舟
 箱舟に積まれていたもの
 箱舟の降下
 大地に降りた箱舟
 ノンモの箱舟の諸表象
 水の中に入った再生したノンモ
 天体と暦

第六章 アンマの鎖骨の閉鎖
 ひょうたんとオクラの降下
 アンマの鎖骨の中の記号
 アンマは閉じる

原注
付録
神話の概要

訳者あとがき

図版一覧
ドゴン語の動物、植物、星の名称一覧表
参考文献



グリオール 青い狐 03



◆本書より◆


「アンマ」より:

「はじめに、すべてのものに先立って、アンマ(Amma)すなわち神があった。彼は空無の上にいた。〈アンマの丸い卵〉は閉じていた。だがその卵は〈鎖骨〉とよばれる四つの部分からなっていて、それ自体も卵型をした四つの部分は互いに癒着したようなかたちでひとつになっていた。アンマとは接合した四つの鎖骨であり、アンマはこの四つの鎖骨に他ならない。〈アンマのつながった(くっついた)四つの鎖骨は、ひとつの玉をなしていた(玉である)〉といわれる。〈そのあとには何もない〉、つまりそれ以外には何も存在しなかった。
 この卵は全体として、いくつもの角を出した白蟻塚になぞらえられる。それは単一性と多様性を同時に思いおこさせるのである。」
「これらの鎖骨は、原初的なかたちで四つの元素を先取りするものであった。四つの元素すなわち〈四つのもの〉とは、水、気、火、土である。同時に、これらの鎖骨を二等分する線が、後に東南、西南、西北、東北といった中間方位を指示することになる。これが(中略)すなわち空間である。このように、原初の〈卵〉の中には根元的な四つの元素と将来の空間とが存在していたわけである。」
「〈アンマの鎖骨はひえの形に似ている〉といわれる。それは〈アンマが生命、つまりひえを支えている〉からであり、ひえの実が白いのは、〈アンマは真白だ〉からである。
 アンマという語は、しっかりとつかむ、強く抱く、同じところに保つ、といった意味をもっている。」

「アンマは、世界と世界の展開についての見取図を自分自身の上に書き記していたので、創造の総体を保持していた。というのもアンマは、世界を創造するまえにまず描いたからである。絵の材料は水で、それを用いてアンマは空間に図を描いたのである。
 アンマの卵は楕円形の図表で示され、記号(ブンモン)が書きこまれている。これは〈世界の一切の記号の胎〉とよばれる。その中心は臍である。二本の軸の交点からは二等分線にあたる交叉した記号が出ていて、これが四つの方角を印していた。こうしてできた四つの区画は、最初の八つの記号を含んでおり、その各々がまた八つの記号を生み出した。かくして卵は4×8×8、つまり二五六のしるしを含んでいた。それに軸を半分に区切って、一本に二つずつとして八つ、中央の分として二つを加えた二六六の〈アンマの記号〉があった。
 各々の区画にはひとつの元素が割りふられている。(中略)中央の軸の交点にある二つの記号は〈先導-記号〉、四つの区画に置かれた四対の記号は〈主-記号〉といわれ、あとの二五六の記号は〈世界の完全な記号〉という。またこれらの記号の全体は〈目に見えないアンマ〉ともいわれる。
 中心的な図表を構成するこれらの図の組織は、世界の〈降下と展開〉の過程と一致していて、〈降下する世界の分節化した(組織立った)記号〉という名をもっている。」
「ということは、記号、つまり創造の意志の表現がすべてに先立って存在し、それが一切を規定しているということである。〈ドゴンのことば(〈思想〉)では、すべてのものは考えをとおして現われるのであって、ものは自分自身を知らないのだ(それ自体では存在しない)〉。
 図像による創造というメカニズムは、したがって一〇の不動の記号が、動いていく記号に生命を与え、それが物を存在させるのだ、ということになる。」
「(1) 二つの〈先導-記号〉の第一のものは〈概念の出現〉といわれる。」
「(2) 次の〈先導-記号〉は〈脱けがらの記号〉とよばれ、存在の脱けがらを表わす簡単な縦の線からなる。」
「脱けがらは実在する物の証拠としてアンマの内部にとどまり、原初に、アンマが自分自身の双児つまり宇宙そのものをまず創造したことを思いおこさせるものとなる。宇宙がアンマの似姿であり、アンマを内に含んでいると同じように、宇宙もまた記号のかたちでアンマの中に含まれ、とどまるのである。」



「オゴ」より:

「オゴの形成がどうやって遂行されたか、そして彼が存在しはじめてから何がおこったかについては、多くの異伝がある。それらのもつ意味は深いところでは一致しているが、ひとつひとつの異伝の表現は個性的である。しかしどの異伝も、オゴという最初の存在、アンマに逆らいつつ個性を発展させていき、そうすることで宇宙における心性を多様化させたオゴの性格を描写している以上、価値のないものではない。」

「オゴの反抗
 オゴは、その双児兄弟たちと同様に、四元素のしるしである四つの〈体の魂〉をそなえ、完璧な存在としてつくられた胎盤につながっていた。だが彼はまだ単独だった。(中略)オゴはこの時期すでに落ち着きのなさとこらえ性のなさを示したのである。アンマは双児の妹をつくって、オゴとその他のノンモたちに授けてやろうと思っていたのに、オゴは不安と所有欲にかられて、自分には妹が授けられないに違いないと思いこみ、いても立ってもいられず動きまわった。(中略)アンマはオゴに対して、彼が生まれるとき、つまり〈胎から出る〉ときに、ちゃんと双児の妹を受け取るだろうと言いきかせた。だがオゴはそれを信じないで、今すぐくれと要求して反抗し、アンマが雌のノンモを作りあげるのを待たずに自分で探し始めた。」

「充たされないオゴは、すべての規則をひっくり返しながら、今度は形成途上にある宇宙の秘密を見破ろうとして動きはじめた。」
「彼は進行中のアンマの作品のまわりじゅうを行ったり来たりした。」
「ところで宇宙は、アンマの胎の中にあって、未だに非時間的・非空間的であった。(中略)オゴが、その行為によってはじめてひとつの連続というものを規定したのである。つまりその連続こそが、長さ(彼が測るのに利用した〈歩幅〉)と同時に、時間(彼がその〈歩み〉をした期間)を、現実的な形で予示したのである。」

「さてオゴはこうして創造界の限界を〈見る〉ために宇宙を一周した。この旅を実行してからアンマの胎の中央にもどったオゴは、自分が〈アンマのように賢く〉、自分にも世界を創ることができると公言した。彼は〈アンマよ、私はあなたの創った世界を見た〉といった。アンマは答えていった。〈私が創造したように、(おまえはおまえでひとつのものを)太陽の下でもなく陰の中でもなく創れ。おまえはそこに残るがいい。私はまたあとで来よう〉。アンマは不可能なことを実現するよう命じてオゴを困らせるためにこういったのである。
 オゴは、アンマに命じられて中央を去り、西の方へ行ってアンマの〈神経〉つまり卵の中の細い筋を盗んだ。これはあとで四つの鎖骨として開くことになっていたものである。オゴは広がっていこうとしていた筋を手に取って、縁なし帽のような形の器を編み上げた。彼はそれを作るとき、まず上の方から始めて、下の方で編み終った。その結果、編み終ってみると、オゴはちょうどアンマが原初の卵の中に納まっていたように、器の中に閉じこめられたような形になった。この器は丸く、〈アンマの空〉を象って卵の形をしていた。」
「オゴはこのざるをアンマの創造にならって作った。すなわちそこには、アンマが原初の種子と世界に授けた螺旋運動と振動という二つの運動が、ざるを編むときのぐるぐる回る動きと、中心から放射状に出た芯とで示されている。オゴはこのようにアンマの螺旋-振動運動を反復したわけである。したがってこの作業はアンマに対する挑戦状であった。アンマは〈これは私の創った世界の姿に似ているではないか。私と競うのはやめろ〉といった。というのも、アンマはそれを見て、自分が世界を作っているように、オゴも世界を作りはしまいかと恐れたからである。
 しかしオゴは、たるんだ編み方のために〈陰でも光でもない〉場所になった、伏せたざるの下に隠れて、アンマをせせら笑った。オゴの仕事の首尾にいら立ったアンマが、オゴの舌の一部を、正確にいうと〈舌の静脈〉を切ったのはこのときである。このためにオゴは、それまでは出せた声の張りを奪われてしまった。」

「さて、オゴは土の中で、自分に欠けているものを見つけようとした。彼は土に変わった胎盤のかけらの中に、自分の双児の妹と失くしてしまった魂を探し求めたのである。」
「ところで、オゴは自分の胎盤を素材とする土の中に入りこんだのだから、自分の母と交わったことになる。またある面からいえば、自分の胎盤の中に入りこむ探求は、自分の双児の妹を失って霊的原理を一部分しかもっていない単独の存在が、自分のつくられた胎の中を探しまわる、ということでもある。オゴは〈母〉である大地の口から入って性器から出たといわれるが、こうしてとてつもなく重大な近親相姦の罪を構成したのである。この最初の試みにつづいて、オゴは何度もやり直すことになる。彼は将来の世界において、霊的完全性と失われた存在を永遠に追い求めて努力することになるのである。」

「オゴが青い狐に変えられる
 大地についたオゴは、仕事を続けようと思った。しかしアンマは、〈彼を動物のしるしの中に置いて〉変身させ、倒して地面にはわせ、四足動物のように動くよう強制した。彼はオゴという名を失って、ユルグという名を取った。彼は学名で Vulpes pallidus すなわち〈青い狐〉とよばれる狐になったのである。」
「こうして変身させられ、霊的原理の一部を失くしてしまった狐は、主として虫を食べて生き、ちょうど胎盤の中に入るように、洞穴の岩の裂け目に隠れ住むようになる。」
「このとき以来、狐は別の世界で流浪の身になった。この追放の理由は彼の不浄性である。孤独で、不完全で、つねに反抗的でかつ活動的な彼は、しかしながら、大地の上での生命の展開に必要な仲介者となる。なぜなら、アンマは形成途上の宇宙を試すためにオゴの行為を唆したのだといわれるからである。〈アンマは、世界の中で狐を試すためにこれらすべてのことを狐にやらせたのだ〉。」

「狐は完全にできあがるずっと前に、不従順な性質を現わしアンマの計画に従うのを拒んだ。彼はしくじる運命を荷なって生まれて来た。彼の役割とつとめはそれ自体、彼自身の個別性を強化することにあった。彼は宇宙の秩序の破壊に手をつけたのと同じように、自分も未完成のままにとどまった。宇宙的な次元での〈記号〉すなわち ことば の追求と、人格の次元での双児の妹あるいは女性の魂の追求という、彼の二つの追求は、つねに必要なものである。彼は宇宙の混乱のもとになったと同時に、心理的な個別性の発揮に道を拓き、そうやって心理と宇宙の双方の領域に、対立関係という望ましい要因をもたらしたのである。なぜならアンマは、すべてを見通していたので、原初の胎盤を二つの部分に分けることで、宇宙の二元的組織化を予示してもいたからである。この分割、ノンモ・アナゴンノの創造、そしてオゴの行為については、〈アンマがノンモと狐を創ったことの理由は、彼が世界を混乱させ、彼がそれを組織することである〉と説明される。なぜならアンマは、ノンモ・アナゴンノを宇宙の主人にするために創造したのであり、彼らは対立しているが補い合うものであって、オゴが無秩序を助長し、その〈双児の兄弟たち〉がオゴと戦って、宇宙の管理と働きにたずさわるものになるからである。」

「狐の占いの図表
 言語では話せなくなったが、狐は〈ことば〉をもっており、歩くことによって地面に残す〈跡〉を用いて、人間にそれを開示することになる。」



グリオール 青い狐 04



こちらもご参照下さい:

ラディン/ケレーニイ/ユング 『トリックスター』 皆河宗一 他 訳 (晶文全書)































































































ラディン/ケレーニイ/ユング 『トリックスター』 皆河宗一 他 訳 (晶文全書)

「しかし、なにも失われてはいない。(中略)外的には忘れていても、内的にはまったく忘れてはいないのである。」
(C・G・ユング 「トリックスター像の心理」 より)


ポール・ラディン
カール・ケレーニイ
カール・グスタフ・ユング 
『トリックスター』 

皆河宗一/高橋英夫/河合隼雄 訳 
晶文全書

晶文社 
1974年9月25日 初版
1989年8月10日 15刷
309p 索引xiv 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,980円(本体1,922円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、ポール・ラディン Paul Radin の THE TRICKSTER - A study in American Indian Mythology (『トリックスター――アメリカ・インディアン神話の研究』、一九五六年)と同書の独語版 Der Gottlische Schelm (一九五四年)を訳出したものである。第一部から第三部までは英語版、ケレーニイ、ユングの論文は、無削除で正確度の高いドイツ語版によっている。」
「さらに本訳書には、文化人類学者山口昌男氏による「今日のトリックスター論」をつけ加えている。」



ラディン トリックスター


カバーそで文:

「トリックスターとは、その自由奔放な行為ですべての価値をひっくり返す神話的いたずら者、いわば文化ヒーローとしての道化である。
 本書は、アメリカインディアン、ウィネバゴ族のなかで語りつがれてきたおびただしいトリックスター物語を、人類学者ポール・ラディンが収集し、これに、カール・ケレーニイ、C. G. ユングによる神話学的、心理学的分析を付してなった。多彩な知性の協力によってトリックスター像の解明を試みる独創的な書物である。
 創造者であると同時に破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで両端に引きさかれた価値の仲介者としての役割りをになう。トリックスターのかもしだす痛快な笑い、諷刺、ユーモア、アイロニーは、多次元的な現実を同時に生き、それらの間を自由に往還して世界の隠れた貌を顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を切り拓く、すぐれた精神の技術である。
 われわれは今日の文化を考えるうえで、秩序にとらわれない自由な精神と思考の飛翔を可能にする、この道化的機智を無視してすぎることはできないであろう。」



目次:

予備的ノート (ポール・ラディン)

第一部 ウィネバゴ・インディアンのトリックスター神話
 Ⅰ ウィネバゴ族トリックスター物語群
  「トリックスター物語群」のためのノート

第二部 補足的トリックスター神話
 Ⅰ ウィネバゴ族ウサギ物語群
  「ウサギ物語群」のためのノート
 Ⅱ アシニボアン族トリックスター神話の要約
 Ⅲ トリンギット族トリックスター神話の要約

第三部 神話の特質と意味 (ポール・ラディン)
 Ⅰ テキスト
 Ⅱ ウィネバゴ族の歴史と文化
 Ⅲ ウィネバゴ神話と文学的伝統
 Ⅳ ウィネバゴ族ウサギ物語群とその同類
 Ⅴ ウィネバゴ族トリックスターの肖像
 Ⅵ ワクジュンカガに対するウィネバゴ族の態度
 Ⅶ 諷刺としてのワクジュンカガ物語群
 Ⅷ ワクジュンカガと他の北アメリカ・インディアン・トリックスター物語群との関係

第四部 神話的あとがき――ギリシア神話とトリックスター (カール・ケレーニイ/訳: 高橋英夫)
 Ⅰ 第一印象
 Ⅱ 文体
 Ⅲ 類似点
 Ⅳ 本質
 Ⅴ 相違点

第五部 トリックスター像の心理 (C・G・ユング/訳: 河合隼雄)

解説 今日のトリックスター論 (山口昌男)

訳者あとがき (皆河宗一)
索引




◆本書より◆


「神話の特質と意味」(ラディン)より:

「ウィネバゴ族は、たくさんの霊を信じていた。その輪郭が漠然としているものもあったし、はっきりしているものもあった。大多数は動物として、あるいは動物のような生き物として描かれていた。これらの霊の主な特徴は、望みどおりのどんな形でも、動物であれ人間であれ、生物であれ無生物であれ、自由に取ることができることだった。これらの超自然的生き物たちに、人間は、かならずタバコがつくさまざまな種類の捧げ物をした。」
「霊と神と人間との関係は、ひじょうに人間的なものであった。すべての子供は、男であれ女であれ、九歳から十一歳までの間に断食をし、どの点から見ても、一生涯のいかなる危機的状況においても頼みとすることのできる、守護の霊というべきものを得ようとつとめた。この思春期に守護的な、保護的な霊を獲得することは、それが多くの他のアメリカ・インディアンの部族の特徴であったように、ウィネバゴ族の文化の基本的な特徴の一つであった。ウィネバゴ族の考えによれば、それが得られなければ、人間はすっかり錨をなくしてしまい、もっとも露骨な、もっとも残酷な形で、自然の、そして社会の出来事に左右されてしまうのだった。彼らが断食の効能を信じなくなり、霊がもはや彼らに姿を見せてくれなくなったとき、ウィネバゴ族の文化は急速に崩壊していった。」

「ワクジュンカガと北アメリカの他のあらゆるトリックスター英雄に付随する手柄話の類似性は、まったくおどろくばかりである。(中略)まさしくこの事実のために、ウィネバゴ族の神話物語群と他の部族のそれとの間の明白な相違は、特別な重要性をおび、説明が必要とされるのである。」
「この物語群は、他の版では見られない出来事からはじまる。つまり、ワクジュンカガは部族の酋長として描かれ、四日それぞれ違う日に、戦いの包みの宴を開いている。彼はもてなし役で、したがって最後のどんじりまで残っていなければならぬのに、女と寝るために儀式をほうり出しているように描かれているが、それは戦いの包みの宴に参加する者にはぜったいに禁じられている行為である。四度目の日には、彼は最後まで残り、宴に参加した者全員にボートでいっしょについて来いという。岸を離れるやいなや、彼は引き返してボートは無用だとたたきこわす。この愚かな行為に、連れの何人かは去っていく。そこで彼は歩いて出かけるが、しばらくすると、戦いの包みも矢筒もこわしてしまい、とうとうだれもかれもそばを離れ、ひとりきりになる。ひとりきり、つまり、人間と社会に関するかぎりでは。自然の世界とは、彼はなお密接に接触している。彼はあらゆるものを弟と呼ぶ、そうわれわれのテキストは語っている。彼は彼らを理解しているし、彼らも彼を理解している。
 これは明らかに序論であり、その目的は明白である。ワクジュンカガは反社会化されなければならず、人間と社会とのきずなを断つものとして描かれなければならない。(中略)おそらく語り手は、ワクジュンカガは完全に人間の間の世界と縁のないものとして、次第に無定形の、本能的な、統合されない人物から、人間の輪郭を持ち、人間の肉体的特徴を予示するものに進化していくものとして描くべきだ、と決めたのであろう。」
「次につづく手柄話は、ワクジュンカガがどんな人物かを明確に語っている。(中略)彼は、裏切って老いたる野牛を破滅におとし入れ、きわめて残忍な方法で彼を仕止める。彼には倫理的価値は少しも存在していない。それでは、彼はどういうふうにその野牛を仕止めるのか? ただ片方の手、右手を使ってである。次の挿話は、どうして彼が片手だけしか使わなかったかを示している。彼はなおも無意識の中に生きており、精神的には子供で、それがここでは、右手と左手の争いによって象徴されているが、その争いで彼の左手はひどく傷つけられる。彼自身は、それがどうして起こったのかほとんどわかっていない。「どうしてこんなことをやったんだろ?」とたださけぶだけである。」
「次の挿話でも、彼はやはり特殊化されていない、本能的なワクジュンカガである。彼は四人の子供を連れた人に会う。この子供たちは、死なぬように、ある方法である時刻に食物をあたえなければならない。要するに、秩序の原則を認めなければならない。ところが彼は、そんな原則など知らない。父親は、ワクジュンカガが自分の指令にしたがわなかったために子供たちが死んだら、おまえを殺すぞ、と彼に警告する。けれどもワクジュンカガは、自分が空腹なものだから、あたえられた指令にしたがわず、子供たちは死んでしまう。たちまち父親が彼におそいかかる。ワクジュンカガは内陸の世界、つまり、宇宙をあちこち追いまわされ、内陸を取りかこむ大洋に飛びこんではじめて、死をまぬかれる。」
「ここでわれわれは、ワクジュンカガがまったく錨をなくした状態にあるのを知る。彼は人間や社会から独立しているだけでなく――少なくとも一時的には――自然の世界や、同じように宇宙からも孤立している。(中略)作者がここで意図したこと――怒った父親、追跡、大急ぎの逃走、大洋につかること――は、本能的な生活を送る人にはどんなことが起こるかの説明と見てもいいだろう。
 けれども、ここにはまたもう一つの問題がふくまれている。おびえるということは、ウィネバゴ族の象徴主義では、意識の目覚め、現実の感覚、まさしく良心のはじまりを示すのがふつうである。(中略)ここでの重要な点は、自分の失敗と愚かさに対する彼の反応である。「そうだとも」そう彼はいう。「みんながおれのことをワクジュンカガ、間抜けたやつと呼ぶのは、このためなんだな。みんなのいうとおりだ」」
「「まったく正しいことだ、おれがワクジュンカガ、愚かなやつと名づけられているのは! こう呼ばれて、おれはほんとうにワクジュンカガ、愚かなやつにさせられているんだ!」」
「彼はいまや、完全な孤立と正体の欠乏から姿をあらわし、自己とまわりの世界を意識したものとして示されることになる。(中略)そして彼は、どうして自分がワクジュンカガと呼ばれるのか理解しはじめた。ところが彼は、まだ自分の行為の責任を認めてはいない。」

「彼はつねに古い原始的な自我のままでいる。」

「ワクジュンカガが(中略)ほんとうの自己をあらわしたとき、(中略)ウィネバゴ族の物語群ではふつうそういう場面では、彼がいたずらをされた人たちの狼狽をあざ笑っているところが描かれる。ところがここでは、彼は逃げ出してしまう。理由は明らかである。状況はあまりに多くの困難にみちている。あまり多くの禁忌が破られている。あまり多くの人びとの感情が無視されて来たし、あまり多くの個人が恥をかかされて来た。」
「人はこの気違いじみた雰囲気からさっさと抜け出さなければならない、と語り手は感じているらしい。(中略)彼は、ワクジュンカガを逃げ出させたばかりでなく、突然、自分が何をやっているかを彼に悟らせてもいる。(中略)彼は突然、善良な市民として、まったく社会的になった個人として示されている。(中略)それがわれわれがここで扱っているワクジュンカガであるというただ一つの徴候は、このエピソードの最後の三つの文の中に見出される。「地球をまわって人びとを訪ねることにしよう。ここにとどまっているのは、もううんざりしたからな。もとはおれは平和にこの世をさまよい歩いたものだ。ここではごたごたばかり起こしてるだけだ」 これらの言葉にわれわれは、さまざまな義務をともなう家庭化と社会への彼の抗議を聞くのである。」

「最後の場面で、われわれはなおも彼のもう一つの肖像にぶつかる。われわれは彼を神として、われわれの物語群において完全に無視されている彼の性質の一面として、また恐ろしいまでのトリックスターとして、老成していくトリックスターとして、地球上で最後の食事をとる、デミウルゴスに近いものとして見る。岩のてっぺんに石の釜をおいて腰を下ろして食事をしている彼が描かれている。彼はその岩に、釜、尻、睾丸などの跡を残して、その最後の食事を永遠に不滅のものとしている。彼はそれから出発するのだが、そのようなものとして生殖力のシンボルであり、宇宙全体と関連しては人間のシンボルであるから、彼はまず大洋へ飛びこみ、彼が管理する内陸の世界、地球創造者の世界のすぐ下にあるそれへと登っていく……」




こちらもご参照下さい:

グリオール+ディテルラン 『青い狐 ― ドゴンの宇宙哲学』 坂井信三 訳
ケレーニイ/ユング 『神話学入門』 杉浦忠夫 訳 (晶文全書)
山口昌男 『道化の民俗学』 (ちくま学芸文庫)






































































ヴァールブルク 『蛇儀礼』 三島憲一 訳 (岩波文庫)

「空を見上げるということこそ人類にとっての恩寵であり、また呪いでもあるのです。」
(アビ・ヴァールブルク 『蛇儀礼』 より)


ヴァールブルク 
『蛇儀礼』 
三島憲一 訳
 
岩波文庫 青/33-572-1 

岩波書店 
2008年11月14日 第1刷発行
204p
文庫判 並装 カバー
定価560円+税
カバー: 中野達彦
カバー写真: ヴァールブルクとホピ族の踊り手。



訳者解説より:

「本書は、アビ・ヴァールブルク(中略)の、「クロイツリンゲン講演」と言われる講演の再現されたテクストの翻訳である。」


Aby M. Warburg: Schlangenritual ein Reisebericht
図版(モノクロ)多数。


ヴァールブルク 蛇儀礼 01


カバーそで文:

「ドイツの美術史家ヴァールブルク(一八六六-一九二九)が見た世紀末(ファン・ド・シエクル)アメリカの宗教儀礼。蛇は恐怖の源か、不死の象徴か。プエブロ=インディアンの仮面舞踊や蛇儀礼は、やがてギリシア・ローマやキリスト教の蛇のイメージと交錯し、文化における合理と非合理の闘争と共存を暗示する。」


目次:

蛇儀礼
 ――北米プエブロ=インディアン地域で見たさまざまなイメージ

ドイツ語版解説 (ウルリヒ・ラウルフ)
〈訳者解説〉 ハルツ・アテネ・オライビ (三島憲一)



ヴァールブルク 蛇儀礼 02



◆本書より◆


「蛇儀礼」より:

「食糧確保という社会的行為は、こうして見ると分裂(スキゾ)的です。つまり、魔術と技術の両者が合体しているのです。
 論理的思考による文明と狂信的で魔術的な狙いがこのように同居している事態は、プエブロ=インディアンたちの置かれている独特な文化的混合状態、あるいは移行状況によるところが大きいのです。(中略)魔術とロゴスの中間にある彼らが、状況に対処する手段は象徴なのです。獲物をつかみとるだけの人間(Greifmensch)と思考する人間(Denkmensch)との間に、象徴によって魔術とロゴスを結びつける人間がいるのです。象徴的な思考や行為というこの段階を示す例が、プエブロ=インディアンたちの舞踊でしょう。」

「動物に対するインディアンたちの心のうちの態度は、ヨーロッパ人のそれとはまったく異なります。インディアンたちは動物を人間より高次の存在と見ています。なぜなら、動物はまさに動物であるというその完璧なあり方によって、人間という弱い存在よりもはるかに高い能力を持った存在となっているからです。
 動物へと転成しようとするこの意志の心理的分析に関して、私は、まだこの旅に出る前に、インディアンの心の理解をめぐる論争の最前線にいる経験豊かなフランク・ハミルトン・クッシングから得た示唆が、個人的に大きな衝撃となり、蒙を啓かれました。(中略)彼は煙草を吸いながら、あるインディアンが彼に「なぜ人間が動物より高等だと言えるのか」と述べたときの話をしてくれました。インディアンはこう言ったのです。「アンテロープを見てごらんなさい。走っているだけだが、走るのは人間よりはるかに上手ではありませんか。あるいは熊を考えてください。力そのものではありませんか。人間はなにかがほんのちょっとできるだけです。ところが動物はそのままで完璧な存在です」と。」

「動物を通じて自然と一体化しようというこの魔術が最高に高揚した形態は、オライビとワルピのモキ族に見られる、生きた蛇を使った踊りです。」
「ここでは、踊り手と生き物が魔術的に一体化するのです。そして驚くべきことに、インディアンたちは、いっさいの生き物の中でもっとも危険なガラガラ蛇を暴力をまったく使わずに操って、蛇の方が従順に(中略)この何日間か続く儀礼をともにするようにもっていくのです。」
「ワルピの蛇儀礼は、模倣によって動物になる変身儀礼と、流血の生け贄との間に位置します。というのも、動物は模倣の対象でなく、はっきりと儀礼に加わるからです。しかも生け贄にされるのでなく、(中略)人間に代わって雨乞いをする立場として登場するのです。
 というのもワルピの蛇舞踊は、蛇自身に代願を強要する踊りなのです。蛇は、夕立の訪れが期待される八月、一六日間続く儀礼のために低地の砂漠で生け捕りにされ、地下礼拝所(キヴァ)で蛇氏族およびアンテロープ氏族の首長たちの世話を受け、その間、独特の儀礼を受けます。」
「儀式の頂点は、インディアンたちが(中略)蛇をつかまえて運び出し、使者を派遣する目的でその蛇を草原に放つシーンです。」
「インディアンが三人一組で蛇のいる藪に近寄ります。蛇氏族の大司祭が藪から蛇を引っ張り出すと、顔に色を塗り、刺青をし、臀部に狐の皮をまとったもう一人のインディアンがその蛇をつかんで尻尾を口に入れます。彼の肩をつかみながらついて行く二人目のインディアンは、羽根のついた棒を振って蛇の注意を逸らします。三人目は、(中略)もし蛇が口から外れたらつかまえる役を担っています。蛇舞踊は、このワルピの狭い広場で行われますが、その時間は三〇分ちょっとです。こうしてすべての蛇が楽器のガラガラという音にあわせて、運び出されます。踊り手たちはその後蛇を速やかに草原に持っていき、放ちます。蛇たちはすぐにどこかへ消えていきます。」
「ワルピの人々の神話についてわれわれが知るところによれば、こうした蛇崇拝は、彼らのコスモロジーの中での出祖伝説にさかのぼります。ある伝説ではティ=ヨという英雄についてこう語られています。ティ=ヨは、皆が渇望している水の源泉を見つけるために地下への旅に出ます。ティ=ヨの右の耳には、いつも見えない雌の蜘蛛がいて、彼のお供をしています。(中略)ティ=ヨは、地下の王様たちが支配している地下礼拝所(キヴァ)をいくつも通って、西と東にある二つの太陽の家を過ぎ、大きな蛇の地下礼拝所(キヴァ)に至ります。そこで彼は、天気を司るための魔法の「バホ」を授かるのです。伝説によるとティ=ヨは、この「バホ」を携え、二人の蛇娘をつれて下界から地上に戻ります。そしてこの二人との間に生まれた子供たちは、蛇の形をしています。この子供たちは危険きわまりない生き物で、最後には、部族全体が住む場所を変えざるをえなくなります。こうしてこの神話には、蛇は、天気の神であると同時に、部族の移動を引き起こす祖先動物としても組み込まれることになります。
 今述べた蛇舞踊で蛇が生け贄にされることはありません。蛇は聖別され、さまざまな模倣舞踊の働きによって雨乞いの使節へと変身させられ、送り出されるのです。そして、死者たちの魂のいるところに戻り、稲妻と化して空に雷雨を引き起こすのです。」
「インディアンたちの宗教的魔術がこのように原初的に展開するさまを見て、普通の人なら、これはヨーロッパのまったく与り知らない未開の荒々しさを示す独特の原始的な習俗であると、思うでしょう。しかし実は(中略)われわれのヨーロッパ文化のまさに揺籃の地であるギリシアにおいて、今見たインディアンたちのそれを上回る激越で不可思議な儀礼習慣がいたるところでなされていたのです。
 例えばディオニュソスの儀礼は、官能の頂点を極めた放埓なもので、マイナデスの娘たちは両手に蛇を持って踊り狂いました。そして彼女たちはいわば冠飾として頭に生きた蛇を巻きつけていたのです。そして、(中略)神に捧げるべく、片方の手に持ったこの動物を生きたまま引き裂くのです。狂乱の中でのこの血なまぐさい生け贄こそは――今日のモキ=インディアンたちの踊りと対照的に――マイナデスの宗教舞踊の頂点であり、その本来の意味なのです。」

「古代のペシミスティックな世界観における魔神(デーモン)としての蛇と反対に、人間に対してやさしい、古典的美しさを伴った喜ばしい蛇にようやくめぐりあえるのが、アスクレピオスの像です。古代の医術の神アスクレピオスの療しの杖には蛇がその象徴として巻きついています。彼には、(中略)世界の救い主に備わる雰囲気があります。」
「この世を去った魂の神であるアスクレピオスの高貴で清澄な姿は、蛇が棲息している地下の世界に根を下ろしていました。この神に対するもっとも古い崇敬は、蛇の姿への崇敬だったわけです。この杖にまつわりついているのは、アスクレピオスその人に他なりません。つまり、この世を去ったアスクレピオスの魂そのものが蛇の姿を取って生き続け、このように現れ出ているのです。というのも、クッシングのインディアンたちならば、蛇というのは、いつでも飛びかかってきて、無慈悲にも一咬みで人間を殺しかねない、あるいはすでに殺してしまった存在ということになるでしょうが、実はそうした存在であるだけでなく、みずから脱皮することで、身体がいわば生ける鞘から抜け出すようにして、自分の皮膚を捨てて、再び新たに生命を存続させるそのさまを、蛇はみずからにおいて体現している存在なのです。蛇は大地の中に這い込むこともできれば、そこからまた新たに姿を見せることもできるのです。死者たちが安らぐ地の底の冥界から帰還するゆえに――また脱皮して新たな皮をまとうこともあいまって――、蛇は不死のシンボル、病と死の苦しみからの再生のシンボルとなるのです。」



「ドイツ語版解説」より:

「ヴァールブルク本人はまずはハンブルクで、その後はイエナの私立病院で数週間、いや数ヵ月にわたって激しい苦しみを経験したのち、一九二一年四月半ばにクロイツリンゲンにあるルートヴィヒ・ビンスヴァンガーの精神病院に赴いたようである。」
「一九二三年春に病状が好転してくると、ヴァールブルクはビンスヴァンガーに対して、病院の医師や患者たちの前で講演をしてみたいと申し出た。(中略)こうして本書にある北アメリカのプエブロ=インディアンについての講演会が一九二三年四月二一日に開催されることになった。」
「講演のもとになったのは、ヴァールブルクが三〇年近く前の一八九五年から九六年にアメリカ合衆国の南西部諸州を旅した際の観察や経験である。」

「このクロイツリンゲン講演のいくつかの箇所で、ヴァールブルクは、蛇が人間にとっては「もっとも恐ろしい動物」で、原初的な恐怖を引き起こす存在であると示唆している。」
「ムントクーアによれば、まさにそれゆえに蛇崇拝は、動物崇拝の最古の形式の一つであり、それを引き起こすのは恐怖なのである。(中略)インディアンの魔術的な宗教儀礼における蛇崇拝は、ヴァールブルクにとって、原始の思考のかなり深い層から発する、いわば象徴形成の根に由来するものと見えた。(中略)象徴形成が限りなく困難なとき、それどころかほとんど不可能に見えるときにこそ、象徴を作ることがもっとも必要だということであろう。不快感を引き起こす蛇の特性を象徴へと変換することで多少ともその不快感を縮減できるならば、それによって不安という領野を「思考の空間(Denkraum)」へと組み替えたことになる。その点でオライビのインディアンたちは、いかに魔術的思考にとらわれているように見えようとも、(中略)ヴァールブルクから見れば、啓蒙のもっとも初期の英雄たちなのである。」
「インディアンの蛇舞踊は、実用目的をいっさい持たない芸術的楽しみの行為ではない。具体的な結果をもたらすための魔術的儀礼なのである。インディアンは蛇の中に(みずから呼び起こしたい)稲妻の力を肉化させ、舞踊を通じて蛇と結体し、そのことによって、結果として望みの雨を降らせる原理にみずからなろうとするのだ。」
「ヴァールブルクは、このクロイツリンゲン講演で、血まみれの生け贄から、純化された啓示宗教に至る宗教的な昇華のプロセスを描いている。しかし同時に、旧約聖書の「青銅の蛇」に話が及んでいることを鑑みれば、この昇華のプロセスもまたいつ逆転するか分からないと彼が見ていることも明らかである。(中略)治癒の神の姿を取った青銅の蛇は、本来克服されたはずの動物崇拝が、聖書の章にまたしても忍び込んでいることを示している。それどころか、この話は聖書を通じて中世の神学や聖像学にまでつながっているのだ。つまり、この青銅の蛇は、抑圧された未開の世界が生き続け、回帰することの証しなのである。アテネ、エルサレム、オライビはみな親戚関係だというのである。」
「ヴァールブルクは象徴の「両極性」という言い方をするが、(中略)蛇こそはきわめて両義的な含みを持った象徴で、(中略)蛇は死の危険であり、「不死のシンボル、病と死の苦しみからの再生のシンボルとなる」。蛇はそれ自身のうちに死と再生のこの二つの可能性を宿していて、どちらが十全に展開するかは魔術の力によって決定される。破滅と治癒という蛇の象徴が宿しているこの二つの可能性を、ヴァールブルクは、片方をラオコーンの姿のうちに、もう片方をアスクレピオスのそれに見ている。(中略)同時にヴァールブルクは、彼の思考の中の相反する両極(中略)を、この二人の姿を通じて表現しようともしている。その両極とは、アゴーンとセラピー、すなわち闘争と治癒である。
 クロイツリンゲン講演は、病人が、自分の力で病を癒した(あるいは癒せる)ことを証明すべく行ったものである。(中略)講演は自己治癒のプログラムの一部であり、同時にまたプログラムそのものでもある。ヴァールブルクは何年も悪霊(デーモン)との戦いを続けてきた。そして今や勝利はすぐそこまで来ていた。彼はみずからがその犠牲となった不快感を引き起こす蛇の力の象徴化をあえてはかったのだ。恐怖の権化である蛇についての講演はそのためである。人間の合理性に対するもっとも厳しい脅威を表す蛇の象徴を、彼自身の理性(ratio)の試金石としたのだ。この講演のテーマになっているインディアンたちは、いわば仮面であって、ヴァールブルクはこの仮面に隠れながら、不安を象徴のうちに封じ込めることの意味を述べるという、きわめて危険な企てを果たそうとしているのだ。クロイツリンゲン講演はその意味で治癒のためのプログラムであるだけでなく、文字通りの闘争の書なのである。」
「ヴァールブルクは、どちらか一方が最終的な勝利を収める「究極の戦闘」があるとは考えていなかった。個体の歴史においても、系統発生の歴史においても、そういうことは信じていなかった。魂の原始的あり方および、魔術に潜む嫌悪感の力というものは、最終的に克服したり、排除したりできないことは一度として疑わなかった。理性(ratio)と非合理的な力との緊張関係は、彼から見ると解消できるものではないのだ。」
「「この講演は、治ることのない分裂病患者の告白として精神科の医師のアーカイヴにしまっておいてください」。」

「この講演で論じられているのは、最終的には、人間の文化が持つ運命とでもいうものである。つまり、血まみれの生け贄から「真似を通じてのミメーシス的感情移入」を経て、感性と恐怖の独裁的支配から離脱した純粋な思考へと進む、厄介な、そしていつなんどき逆転するか分からない運命的歩みが扱われているのである。しかし、またこの道はあまりにも前に突き進みすぎると、技術に操られた新たな未熟状態へと陥りかねない。ヴァールブルク個人の治療のプログラムであると同時に、普遍的な治療のプログラムでもあるこの講演の欄外のメモで、彼は、人間の苦悩が文化によって、そして文化の中で、癒されうる可能性を否定している。(中略)彼は、悲劇的=ペシミズム的な異教世界に魅せられ続けていた。
 象徴の獲得とそうした象徴の一時的な打破という、いっさいの治癒を知らないこの悲劇的ドラマこそ、ヴァールブルクがわれわれにこのテクスト(中略)を通して突きつけるものである。」











































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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