オクタビオ・パス 『弓と竪琴』 牛島信明 訳 (ちくま学芸文庫)

「詩語が完全にこの世界にとどまることは決してない――それは必ずわれわれをもっと向うに、別の場所、別の空、別の真理へと導く。」
(オクタビオ・パス 『弓と竪琴』 より)


オクタビオ・パス 
『弓と竪琴』 
牛島信明 訳
 
ちくま学芸文庫 ハ-13-1 

筑摩書房
2001年6月6日 第1刷発行
499p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,700円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 間村俊一
カバー写真: 大山恒生


「本書は一九八〇年一月三十日、国書刊行会より刊行された。」



本書「オクタビオ・パスについて」より:

「本書は、Octavio Paz, El arco y la lira, México, Fondo de Cultura Económica, 1967 の全訳である。なお、この六七年版は、一九五六年の初版の増補版である。」


パス 弓と竪琴


帯文:

「20世紀を代表する傑作詩論
詩は文学形式ではない、
ポエジーと人間の出会いの場である」



目次:

初版への序
再版への序

序論
 ポエジーと詩(ポエマ)


 言語
 リズム
 韻文と散文
 イメージ

詩的啓示
 彼岸
 詩的啓示
 インスピレーション

詩と歴史
 瞬間の聖化
 英雄的世界
 小説の曖昧性
 実体のないことば

エピローグ
 回転する記号

補遺
 Ⅰ 詩、社会、国家
 Ⅱ 詩と呼吸
 Ⅲ アメリカの詩人、ホイットマン

オクタビオ・パスについて (牛島信明)
訳者あとがき 文庫版によせて
解説――大いなる一元論 (松浦寿輝)




◆本書より◆


「ポエジーと詩」より:

「いわゆる〈詩作法〉というものは伝達不可能である。なぜならそれは処方箋に基づいているわけではなく、ただその創作者にとってのみ意味を持つ発明によっているからである。一群の芸術家に、あるいはある一時期に、共通する作法として理解されたスタイルが、相続と変化という意味においても、また集団的方法であるという意味においても、技術と境を接していることは事実である。スタイルはあらゆる創造的意図の出発点であって、まさしくそれゆえに、すべての芸術家は、その共有のスタイル、あるいは歴史的スタイルを超越せんと願うのである。詩人がスタイルや作法を獲得すると、彼は詩人であることをやめ、文学的からくり(引用者注: 「からくり」に傍点)の建造者になってしまう。(中略)詩人は彼が生きている時代の共通の元手(引用者注: 「元手」に傍点)――これがその時代のスタイルに他ならないが――を利用し、模倣するが、そこから得られるすべての素材を変質させ、独特の作品を生みだすのである。」


「言語」より:

「ある社会の疲弊は必ずしも芸術の消滅を意味しないし、詩人の沈黙を招くわけでもない。むしろその逆が起りがちであり、孤高の詩人や作品の出現を促すのである。秘儀的な偉大な詩人や、既成社会の諸価値に反抗するような詩的運動が現れる時は常に、その詩ではなく、社会の方が癒し難い病いに侵されていると考えるべきである。そして、この病いというのは二つの事情を考慮に入れれば診断しうるのであるが、それは共通言語の不在と、社会が孤独な歌に対する耳を持たないことである。詩人の孤立は社会の衰微を示す。」

「詩人はことばを選ばない。詩人が自分の言語を探求するという時、それは彼が古今の表現を求めて図書館や市場を歩き回るという意味ではない。そうではなく、詩人が、当初から自己の内にあって真に彼に属していることばと、書物や街で学んだそれとの間でためらい、逡巡していることを意味する。詩人が自らのことばを見出す時、彼はそれを再認識しているのだ。なぜなら、それはすでに彼の内にあったものだから。そして彼自身もすでにそのことばの内にあったのである。詩人のことばは、彼の存在自体と渾然一体となる。詩人は自らのことばである。創造の瞬間、われわれ自身の最も秘めたる部分が意識の表(おもて)に現れ出る。創造とは、われわれの存在と不可分のある種のことばを明るみに出すことである。(中略)詩は必要かつ代替不可能なことばでできている。(中略)詩における個々の語は唯一のものである。同義語など存在しない。」



「リズム」より:

「詩的操作は、まじないや妖術、そしてその他の魔術の手順と異ならない。そして、詩人の態度は魔術師のそれに酷似している。両者ともアナロジーの原理を用いる。両者とも実用的かつ直接的目的を持って活動を始める――彼らは、言語とは何か、あるいは自然とは何かと自問することなく、それらを自らの目的のために用いるのである。もうひとつ特徴をつけ加えるのは難しいことではない――魔術師と詩人は、哲学者、技術者、そして学者とは異なって、自身の内からその力を引き出す。物理学者や運転手の場合のように、その仕事をするのに知識の集積があるだけでは十分ではない。あらゆる魔術的操作には、清めの苦行を通して得られる内的な力が必要である。魔力の源泉は二重である――まず第一に、魔法の定式とその他の作法、第二に、魔術師の精神力、つまり、それによって彼が自らのリズムを宇宙のリズムと調和させうる霊的精錬である。同じことが詩人にも起る。詩の言語は詩人の内に在って、ただ詩人に対してのみ啓示される。詩的啓示とは内的探究を意味する。探究と言っても、内省や分析とは似ても似つかない。それは探究と言うよりはむしろ、イメージの出現に都合の良い受動性をもたらすような精神活動である。
 人はよく魔術師を反逆者になぞらえる。その姿が、いまだにわれわれに対して持っている魅力は、彼が神々に対して「ノー」と言い、人間の意志に対して「イエス」と言った最初の人間であることに由来する。その他のあらゆる反逆――まさに、それらを経て人間が人間となった反逆――は、この最初の反逆から発している。」



「韻文と散文」より:

「〈近代派〉詩人たちの、時として偏執的でさえある、詩的連想の方法は共感覚である。それは音楽と色彩、リズムと観念の対応であり、見えざる現実と感覚の世界との押韻である。」


「イメージ」より:

「イメージは説明しない――それは人がイメージを再創造し、文字通りイメージをふたたび生きるように誘うのである。詩人の発話は詩的感応において具現する。イメージは人間を変性させ、他ならぬイメージに、つまり、そこにあっては対立するものが融合してしまう空間に変えてしまう。そして、誕生以来ひき裂かれていた人間自身も、自らをイメージとし、〈他者とする〉時、自己と和解するのである。詩とは変身、変化、そして錬金術的作用であり、それゆえそれは魔術、宗教、そして人間を変え、〈この人〉や〈あの人〉を彼自身であるところの〈他者〉にしようとする他の試みと境を接しているのである。」
「詩は人間をその人間の外に置くが、同時に彼の根源的存在に回帰させる――彼を彼自身に戻すのである。」



「彼岸」より:

「精神医学者たちは、ノイローゼの起源と神話のそれとの間に、ある種の類似を見出した。つまり、精神分裂症は魔術的思考との類似性を示していると言うのである。心理学者のピアジェによれば、子供たちにとっての真の現実は、われわれが空想と呼んでいるものによって形成されている。そして、ある現象に対して、ひとつは合理的な、そしてもうひとつは空想的な、二つの説明が与えられると、必ずや後者を選ぶのであるが、それは、彼らにとって後者の方が説得力があるからである。またフレーザーは、近代人の中に根強く存続している魔術的信仰を指摘している。しかし、もうこれ以上証拠に頼る必要はない。論理に還元することのできない、融即という行為のうちに世界を感知しているのが、詩人、狂人、野蛮人、そして子供だけではないことは、われわれすべての知るところである。」

「われわれは毎日、同じ道を通り、同じ庭を横切る。そして、いつも夕方になるとわれわれの目は、レンガと都市の時間からなる、同じ赤っぽい壁に出くわす。しかしある日突然、道は別世界に通じ、庭は誕生したばかりであり、くたびれた壁が記号でおおわれる。それらはわれわれがそれまでに見たこともないものであり、その有様――その圧倒的な現実性――はわれわれを驚嘆させる。そして、他ならぬその緊密な現実性がわれわれに疑問を抱かせる――事物はこうしたものなのだろうか、もっと別の現れ方をするのではなかろうか? いや、われわれが初めて見ているこれは、すでに以前にも見たものなのだ。どこか、おそらくはわれわれが一度も行ったことのない所に、その壁も、道も、庭もすでにあったのだ。こうして、奇異感に次いで郷愁が湧いてくる。何か記憶が蘇るような気がして、あそこへ、つまり、事物が常にこの上なく古い光を浴びていながら、同時に、いま誕生したばかりの光に照らされているような所へ帰りたくなる。われわれもまた、そこからやって来たのである。一陣の風が額を打つ。われわれは陶然として、静止した午後のただ中に漂う。われわれは別世界の人間であるといった感覚を得る。それは回帰する〈前生〉なのである。」



「インスピレーション」より:

「インスピレーションは、人間の構成要素たる〈他者性〉の発現である。それは内側に、われわれの内部にあるのではなく、また、過去の泥沼から不意に現れる何かのように、背後にあるのでもない。そうではなくて、言ってみれば、われわれの先にあるのである――それは、われわれをわれわれ自身になるべく誘う何か、あるいはより適切には、誰かである。そしてこの誰かは、他ならぬわれわれの存在である。そして実を言えば、インスピレーションはどこに在るのでもない、つまり単に〈存在しない〉のであり、また何かでもないのだ――それは願望、行くこと、前進すること、すなわち、われわれ自身であるところのものに向かって行くことである。従って、詩的創造はわれわれの自由の、存在せんとするわれわれの決意の実践である。もう何度も述べたように、この自由は、われわれがより十全に存在するために、それによって自分自身の彼方に行かんとする行為である。」

「人間は他者になる時に実現され、成就される。他者になることによって、この世界に落ちる以前の、あるいは転落する以前の、つまり自我と〈他者〉に分裂する以前の、彼の本源的存在が回復され、ふたたび獲得される。」



「瞬間の聖化」より:

「あらゆる詩に見られる潜在的不和というのは詩の本来の状態であって、分裂を生じているわけではない。詩とは、相対立するものの完全な融合によってのみ達成される統一体である。その内部で抗争しているのは、互いに関係のない二つの世界ではない――詩は自らを相手に戦っているのである。それゆえ、詩は生きている。そして、この絶え間ない葛藤(中略)から、また、詩の危険性と呼ばれてきたものも生じてくる。詩人は、たとえ社会という祭壇で聖体を拝領し、この上なく敬虔にその時代の信仰を受け入れたとしても、孤立した存在であり、生来の宿命によって異端者なのである――彼は常に〈他のこと〉を、彼が共にする社会の他の人びとと同じことを言う時でさえ、〈他のこと〉を言っているのだ。(中略)詩人たちに対してしばしばなされる、軽薄であるとか、頭がおかしいとか、上の空であるとか、現実離れしているとかいった非難は、彼らの発話の性質によるものである。詩語が完全にこの世界にとどまることは決してない――それは必ずわれわれをもっと向うに、別の場所、別の空、別の真理へと導く。詩は歴史の重力から逃れているように思われる、なぜなら、詩のことばが完全に歴史的になることは決してないからである。」

「詩は常に未完の作品であり、新たな読者によって完成され、生きられようとして身構えている。古代の偉大な詩人たちの新しさは、彼らが自分自身であり続けながら、他者になることができるからである。」



「実体のないことば」より:

「〈呪われた詩人〉は、ロマン主義が創り出したものではない。それは、同化できないものは排除してしまう社会の産物である。詩はブルジョワを啓蒙もしなければ、楽しませもしない。従って、ブルジョワは詩人を追放し、寄食者や放浪者にしてしまう。かくして、歴史上初めて、詩人は自分の仕事で食べることのない人種になったのである。彼の仕事には何の価値もなく、この〈何の価値もない〉ということは、とりもなおさず、〈何も稼がない〉ことになる。詩人は別の職業――外交官から詐欺師まで――を探さなければならないし、さもなければ餓死しなければならない。こうした状況は、近代社会の誕生と関わり合っている。すなわち、最初の〈狂気の〉詩人はタッソーであり、最初の〈犯罪的な〉詩人はヴィヨンであった。スペインの黄金世紀には乞食詩人が、そしてエリザベス朝には無法な抒情詩人がごろごろしていた。ゴンゴラは生涯を通じて物乞いをし、トランプでいかさまをやり、ついには債権者たちに追いつめられた。(中略)十九世紀になると、詩人の社会的地位はいよいよ悪化する。ユゴーの場合のような例外はあったが、豊かなパトロンがいなくなるにつれて、彼らの収入は減った。もはや詩は価格を失い、それは、絵のように金に換えうる商品ではなくなった。(中略)『共産党宣言』は、「ブルジョワジーは、医者も、弁護士も、聖職者も、詩人も、そして学者をも、金で雇われた召使いに変えてしまった」と言っている。これは事実であるが、。ひとつだけ例外がある――ブルジョワジーの金庫は、詩人に対しては閉ざされていたのである。詩人は召使いでも道化でもない――社会ののけ者(パリア)、幽霊、放浪者。」

「歴史の下層で生きるように運命づけられている近代の詩人は、孤独によって定義づけられる。彼に自らの土地を棄てることを強いる法律はないが、彼はすでに流刑人である。」

「包囲を破り、詩を共有財産にしようとする最も熱烈で全体的な試みがなされたのは、客観状況が批判的になっていたところ、すなわち、第一次世界大戦後のヨーロッパにおいてであった。その時期のあらゆる冒険のうちで、最も光彩に富み、野心に満ちていたのはシュルレアリスムであった。」
「シュルレアリストのプログラム――生を詩に変え、そうすることによって、精神、習慣、社会生活に決定的な革命をもたらす――は、生と社会の詩化という、フリードリッヒ・シュレーゲルと彼の仲間たちの計画と異なるものではない。それを達成するために双方とも主観に訴える――詩化のための第一歩である客観的現実の分解は、客観の中に主観をさしはさむことによってなしとげられるであろう。ロマン主義者の〈アイロニー〉と、シュルレアリストの〈ユーモア〉が手をとり合うのである。」

「ロマン主義とシュルレアリスムを、近代の他の文学運動と区別しているものは、その変性力と、歴史の表層をくぐり抜け、ふたたびその姿を現す能力である。シュルレアリスムを埋没せしめることはできない、なぜなら、それは観念ではなく、人間精神のひとつの方向なのだから。」

「セルバンテスはドン・キホーテを否定しているのではない――彼は騎士の狂気を引き受けており、僅かばかりの常識でそれを売り渡すようなことはしない。それが真の詩であるためには、未来の詩は偉大なロマン派の経験から出発しなければならないだろう。」



「詩、社会、国家」より:

「国家はかつて、真に価値のある芸術の創造者であったことは一度もなかったばかりか、それを自らの目的の道具に変えんとする時には常に、その本質を損ね、堕落させてしまったという事実は、歴史的に確認できるのである。かくして、「少数者のための芸術」というのが、公認芸術に対して、あるいは社会的言語の崩壊に対して、公然と、あるいは密かに反抗している芸術家グループの、大抵の場合の勇敢な対応である。スペインのゴンゴラ、ローマのセネカやルカーヌス、そして〈第二帝政〉や〈第三共和制〉の俗物たちに対するマラルメなどは、自らの孤独を肯定し、その時代の大衆を拒絶することにより、創作者が望みうる最高のコミュニケーション、つまり後世とのコミュニケーションを達成する芸術家の例である。」
「彼らの神秘性――それは決して、まったく不可解というわけではなく、波うった、とげだらけのことばの壁を越える危険を冒さんとする者には常に開かれている――は、種子の神秘性に似ている。未来の生命が、閉じこめられて眠っているのだ。」











































































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G・ガルシア・マルケス 『ママ・グランデの葬儀』 桑名一博・安藤哲行・内田吉彦 訳 (集英社文庫)

G・ガルシア・マルケス 
『ママ・グランデの葬儀』
 
桑名一博・安藤哲行・内田吉彦 訳
集英社文庫 42-A 

集英社
昭和57年12月10日 第1刷
250p
文庫判 並装 カバー
定価320円
カバー: 藤居正彦



本書「解説」より:

「本書はコロンビアの現代作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel Garcia Márquez)の中篇小説『大佐に手紙は来ない』(El colonel no tiene quien le escriba, 1961)と、短篇集『ママ・グランデの葬儀』(Los funerales de la mamá grande, 1962)の全訳である。」


ガルシアマルケス ママグランデの葬儀


カバー裏文:

「いかなることも起こりうる架空の地マコンドの地母神ともいうべきママ・グランデの葬儀を奇想にみちた誇張的文体で描いた表題作。他に喘息病みの老妻と恩給のくるのを待ち続ける老大佐の日々を偏執的とも言える簡潔な文体で描いた「大佐に手紙は来ない」など、根源的な主題を実験的手法で描き、溢れんばかりの活力を小説に甦らせた注目すべき作品を収録。」


目次:

大佐に手紙は来ない

火曜日の昼寝
最近のある日
この村に泥棒はいない
バルタサルの素敵な午後
モンティエルの未亡人
土曜日の次の日
造花のバラ
ママ・グランデの葬儀

解説 (桑名一博)




◆本書より◆


「大佐に手紙は来ない」より:

「「十月に土の中に埋められるなんて恐ろしいことにちがいないわ」と彼女が言った。しかし、夫はそれになにも答えなかった。彼は窓を開けた。十月は中庭にもどっかと腰を据えていた。濃い緑に生い繁る草木や、土の中のミミズの小さな住み家を見つめながら、大佐は臓腑(ぞうふ)の中にまた不吉な月を感じていた。」
「ゆっくりと、しかし切れ目なく雨は降りつづいていた。大佐は毛の毛布にくるまって、もう一度ハンモックにもぐり込みたいと思った。だが鳴りつづける破れた鐘の音が彼に埋葬を思い出させた。「十月か」と、彼はつぶやくように言い、それから部屋のまん中に歩いていった。その時になって、彼はベッドの脚につないでおいた雄鶏(おんどり)のことを思い出した。軍鶏(しゃも)であった。」
「こどもたちが一団となってこわれた塀(へい)から入り込んできた。彼らは軍鶏を囲んで坐り、黙ってそれを見つめていた。
 「こいつを見るのはもうよしてくれ」と大佐は言った。「そんなに見られると軍鶏は疲れてしまうんだ」
 こどもたちは動こうともしなかった。ひとりがハーモニカで流行歌を吹きはじめた。「今日はやめてくれんか。町で死んだ人がいるんだからな」と大佐は言った。男の子はズボンのポケットにハーモニカをしまい、大佐は葬式の身仕度のため寝室に入っていった。」
「彼はトランクの奥から、虫よけのナフタリンと一緒に、新聞紙にくるまったその服をやっと見つけ出した。彼の妻はベッドに横になったまま、まだ死者のことを考えていた。
 「きっともうアグスティンと会ったわね。あの子が死んだあと、あたしたちがどんな暮らしをしてるか、あの子に話してるかも知れないわ」
 「いまごろは二人で闘鶏の話をしてるだろう」と大佐が言った。
 彼はトランクの中に古い大きな雨傘(あまがさ)を見つけた。それは大佐が属していた政党が資金集めのために行った福引きで妻が当てたものであった。その晩、雨にもかかわらず中止にならなかった屋外での催物を彼らは見にいった。大佐と夫人、それに当時八歳であった息子のアグスティンは、その雨傘の下に坐って最後までその催物を見た。いまやアグスティンは死んでしまい、その明るい繻子(しゅす)の上張りも虫に食われてぼろぼろになっていた。
 「サーカスの道化が使うようなこの傘のなれのはてを見てごらんよ」と、大佐は昔よく使っていた言葉で言った。金属の細い棒が不思議に入り組んだものを彼は頭の上で開いた。「これじゃさしたところで星が数えられるぐらいなもんだ」
 彼は笑った。しかし、夫人はその傘を見ようともしなかった。「みんなそうしたものですよ」と、彼女はつぶやいた。「あたしたちだって生きながら腐っていくようなもんですから」それから彼女はもっとしんけんに死者のことを考えようとして、目を閉じた。」

「「言ってちょうだい、あたしたちはなにを食べればいいの?」
 大佐は七十五年の歳月――その七十五年の人生の一分、一分――を要して、この瞬間に到達したのであった。
 「糞(くそ)でも食うさ」
 そう答えたとき、彼はすっきりとした、すなおな、ゆるぎのない気持ちであった。」




◆感想◆


「大佐に手紙は来ない」の大佐の最後のセリフは「Mierda」ですが、これはもちろん、ジャリの「ユビュ王」の冒頭のセリフ「Merdre」を意識したものでありましょう(※)。
訳者の内田吉彦氏は集英社版「世界の文学」のカルペンティエール/マルケスの巻の解説で次のように書いています。

「「糞でも食うさ」と、日本語は長くなってしまったが、原文は「糞」という一語である。これはその前の妻の問い「なにを食べればいいの?」に対し、「糞」と答えているわけで、まさに「糞を食う」という直截的な表現である。」
「マルケスはこの極めてコロンビア的な(あるいはラテンアメリカ的な)短いことばによって、人間の不条理を表現したかったのであろう。人間は長いあいだ暴力の支配を受けているあいだに、何度かこれに反逆してみても、結局は敗北によって無力となり、沈黙し、ただなにかをじっと待つだけの人間になってしまう。(中略)「糞でも食うさ」と、いくぶん自嘲と自棄をこめながらも、さっぱりとした気持で言ってのけた大佐のことばは、そのような人間の弱さ、悲しさを痛烈に表現したものと受けとることができるだろう。」


わたしなどもいつ野垂れ死にするかわからない状況なので他人事ではないですが、しかし「なにを食べればいいの?」すなわち「この甲斐性なし!」と言われて「くそくらえ!」と答えたら「パンがなければうんこを食べればいいじゃない」という意味になってしまったわけで、これはシャレであります。この極めてダダ的な、あるいは「反抗的人間」的な会心の一語によって、シャレにならない現実をシャレのめしてしまったわけで、言語によって糞みたいな現実を変容させる、これこそが「魔術的リアリズム」の神髄なのではないでしょうか。貧乏は社会的・ヒューマニズム的に客観的に考えると弱くて悲しくて惨めなものなのかもしれないですが、非社会的・のらねこ的に主観的に考えればたいへん強くて豊かであたりまえのものでありまして、畳の上で死のうとするから孤独死が恐いなどという発想になるのであります。

※それとは関係ないですが、この作品を、オクタビオ・パスの詩論『弓と竪琴』の次のような箇所と併せ読むと興味深いのではないでしょうか。

「わたしはある午後、ヒンズー教の聖地であるマトゥラーのジャムナ川のほとりで挙行された、ちょっとした儀式に出席した時のことを思い出す。その儀式はしごく簡単なものであった。たそがれ時に、ひとりの婆羅門(バラモン)が小さな叢祠(ほこら)に聖なる火をともし、川縁を住処としている亀たちに餌を与える。それから、彼が念仏を唱えると、信者たちが鐘を鳴らし、歌いながら焼香するのである。(中略)婆羅門が火をともすと(中略)信者たちは叫び声をあげ、歌い、躍り回った。彼らが体をくねらせたり、わめいたりするのを見て、わたしは軽蔑と哀れみの念を禁じえなかった。その頽廃的な熱狂ほど厳粛さを欠いた、さもしいものはないと思われたのである。あさましい叫び声が高まる一方では、裸の子供たちが、笑い声をあげながら遊んでおり、また、魚をとったり、泳いだりしている子供もいた。百姓がひとり、じっとつっ立ったまま、濁った水に放尿していた。女たちが洗濯をし、川は流れていた。あらゆるものがふだんの生活を続けており、高揚しているように見えたのはただ亀たちだけで、彼らは食べ物を捕えようとして首を伸していた。ついに、周囲一帯が静まりかえった。乞食たちは市場に帰り、巡礼たちは宿泊所へ、亀たちは水の中へ戻った。」
「あらゆることが、ごく日常的な具合に生起し、しばしばわれわれは、そのあまりの卑俗性に苛立つほどであるが、それでいながらすべてに聖油が塗られているのである。信者はこの世にいて、しかもこの世にいない。この世は実在し、また実在しない。時として、この曖昧性はユーモアとして現れる――ある僧が雲門文偃(うんもんぶんえん)に「仏陀とは何ですか?」と尋ねると、その師は「乾いた糞である」と答えた。禅の大家は、グロテスクなことや、自らの論駁に終ることになる一種の循環的ニヒリズムをも含んでいる修練を経て、突然の悟りに達する。」




































































































『集英社版 世界の文学 31 ドノソ 夜のみだらな鳥』  鼓直 訳

「分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始める。人生は道化芝居ではない。お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者の根が達している本質的な空乏という、いとも深い悲劇の地の底から花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生得受け継いでいる貨財は、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。
  その子息ヘンリーとウイリアムに宛てた父ヘンリー・ジェイムズの書簡より。」

(ドノソ 『夜のみだらな鳥』 より)


『集英社版 
世界の文学 31 
ドノソ 
夜のみだらな鳥』 
鼓直 訳


集英社
1976年11月20日 印刷
1976年12月20日 発行
454p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背クロス装上製本 
貼函 函プラカバー
定価1,300円
装幀: 坂野豊



José Donoso: El obsceno pájaro de la noche, 1970
二段組。


ドノソ 01


帯文:

「人生は道化芝居ではない
お上品な喜劇でもない
それは、
悲劇の地の底、飢餓から
開花し、結実するものではないか
すべての人間は、
狼が吠え、夜のみだらな鳥が鳴く
騒然たる森を
心に持っている
悪夢のような怪奇な世界から
人間のなま(引用者注: 「なま」に傍点)の声を届ける
ラテン・アメリカ文学の旗手
ドノソの本邦初訳作品」



帯裏:

「集英社版 世界の文学 全38巻 第10回配本㉛ドノソ

『夜のみだらな鳥』(一九七〇年)
植民地時代からの名門アスコイティア家に、待ち望まれていた嗣子《ボーイ》が誕生した。だが、その子はふた目と見られぬ畸形だった。奇妙な彫像や異様に剪定した倭木、国中から集められたあらゆる類の不具者で埋まり、美と醜が完全に逆転した屋敷が《ボーイ》のために用意される。その管理を委ねられた秘書ウンベルトは、塔に籠って主人ドン・ヘロニモの伝記の執筆にとりかかるが、ある日、胃疾のために大吐血。異形の住人が提供した血で一命を取り止めるが、そのため、自らも異貌のものに変じた彼は、屋敷を捨て、修道院に逃げ込んだ……。
そこは、救世主の再来を渇望する住人たちのグロテスクで怪奇なゴシックロマンの世界。…

ドノソ
(一九二四~    )
サンティアーゴ・デ・チレで生まれ、チリ大学とプリンストン大学で学ぶ。雑誌の編集に従事したり大学で講じるかたわら短篇小説を発表。一九五八年の『戴冠式』によって作家としての地位を確立した。その後、『この日曜日』(六六)『涯しない地』(六七)を経て、大作『夜のみだらな鳥』を発表、話題を呼ぶ。マルケス、ジョサなどと並ぶ新しいラテン・アメリカ文学の旗手として、今後の活躍に大きな期待がかけられている。」



目次:

夜のみだらな鳥

解説 (鼓直)
著作年表



ドノソ 02



◆本書より◆


「噂によれば、噂のまた噂によれば、つまり誰かがそこらで小耳にはさんだ噂によれば、月夜になると、恐ろしい首が小麦色の長いながい髪をなびかせながら空を飛ぶ。その顔は主人の娘の美しい顔にそっくりで……不吉な鳥チョンチョンの身の毛もよだつトゥエ、トゥエ、トゥエという声をまねて歌うのだという。魔法だ。呪術(じゅじゅつ)に間違いない。だからこそ百姓たちに塗炭の苦しみをなめさせる災厄が、こうしてきりもなく続くのだ。渇きのためにふくれ上がった家畜が虫の息でころがっている、乾ききった野原の上を、主人の娘の首は、コウモリの翼そっくりの筋ばった耳をばたつかせながら、乳母のように皺の深い、痩せた一匹の黄色い牝犬(めすいぬ)のあとを追う。仲間である星の光が指し示している山の彼方のある場所まで、牝犬はチョンチョンを案内しているのだ。すべての罪はふたりにある。娘も魔女、乳母も魔女なのだ。菓子を作り家事をとりしきるといった、およそ害のない仕事と同じくらい大昔から女のものとされているこの術を娘に仕込んだのは、ほかでもない、乳母である。なんでも、この噂が立ちはじめたのは地主のところの小作人のあいだだという。やがて近くの農場の小作人がそれを聞いて臨時雇のよそ者たちに話、ブドウの収穫や麦こぎの終ったあと、あちこちに散っていったこの連中によって地方一帯に広められ、ついに、長の娘と乳母がその土地全体に呪いをかけていることを疑う者は、ひとりもいなくなった。」

「みんなは、現在の、過去の、そして永遠の恐怖すべきものについて語った。話がとだえて闇にもののけの気配を感じると、それを追い払うように、幸いこのたびは、魔女たちも主人の美しい娘をさらうことができなかったことを、くちぐちに喜びあった。魔女たちの狙(ねら)いは、娘をさらって、そのからだの九つの穴を縫いふさぎ、インブンチェという化け物にしてしまうことだった。そのために、魔女たちは哀れな罪のない人間をさらい、地面の下の隠れ家に押しこめておくのだ。縫いふさがれる目。縫いつけられる陰部。縫いくくられる尻の穴。鼻も耳もすべて縫いふさぐ。伸びる髪や手足の爪はそのまま放っておく。そして白痴の状態になるのを待つ。獣よりも惨めな、不潔な、虱(しらみ)だらけの人間たちは、仔山羊と酒に酔い痴れた魔女どもから踊ってみろと言われても、ひょこひょこ跳ぶのがやっとで……。ある者の父親が、やはり昔、インブンチェを見たとたん、恐怖でからだの半分がしびれてしまった男と、話をしたことがあるという。」


「彼らはおれを裂く。鼻の先が濡(ぬ)れて光る獣たちは、おれを八つ裂きにする。鋭い牙、熱い舌、闇をえぐる爛々(らんらん)たる目。犬たちはおれをずたずたにする。彼らは唸りながら、アスーラ博士が自分のものにしたがっているおれの熱い臓物を奪おうとする。おれの血を浴びながら、腸や軟骨、耳や内臓沁腺、髪、爪、膝蓋骨(しつがいこつ)を奪いあう。この肉体のどの部分ももはやおれのものではない。いや、おれ自身がもはやおれではない。この血にまみれた肉片でしかない。」


「しかし、それはどうでもよいことだった。ボーイが生れようとしていたのだ。お膳立てはすべてととのった。」
「だが、待ちのぞんでいた嗣子の顔を見るため、ゆりかごのカーテンを細目に開けたヘロニモは、いっそこの場で殺したほうが、と思った。瘤の上でブドウ蔓(づる)のようにねじれた、醜悪きわまりない胴体。深い溝が走っている顔。白い骨と赤い線の入り乱れた組織とがみだりがわしくむき出しになった唇、口蓋、鼻……それは渾沌(こんとん)あるいは無秩序そのものであり、死がとった別の形、最悪の形だった。」

「ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアはリンコナーダの屋敷から、外の世界を暗示する家具、壁掛け、書物、絵などのすべてを運びだすように命令した。決して知ることのない世界を息子にあこがれさせるものが、たとえひとつでも、そこにあってはならなかった。彼はまた、外部と通じるドアや窓をすべて閉め切らせた。いや、一個所だけドアを残させたが、その鍵は誰にも渡さなかった。」
「そしてこの長方形の池のやはり奥に、灰色の石の狩するディアナの彫像を建てた。それは、彼が細かい注文をつけて彫らせたものだった。せむしで、顎がむやみに長くて、脚が曲がっていた。背中の瘤の上のえびら、皺の刻まれた額の三日月などが目を引いた。ドン・ヘロニモは、そこ以外の中庭も異様な石像で飾らせた。裸のアポロ像は、未来の若いボーイの曲がった背中や顔を想像して造られたものだった。」
「ドン・ヘロニモは細かいことまで指図した。ボーイを取り巻くものは、醜かったり、賤(いや)しく下品だったりしてはならない。醜悪と怪異とはまったく別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異は、やはり美と対等の特権を与えられなければならない。」
「彼は町や村、奥地や港、鉱山にまで秘書をやって、ボーイの世界にふさわしい住民たちを捜させた。初めは容易に見つからなかった。異形の者たちはその業を恥じて、惨めな隠れ家の奥深く引きこもってしまうからだ。しかし間もなく、ウンベルト・ペニャローサは畸形の目利きとなった。たとえば田舎のある修道院で、仰天するほど大きな瘤を背負った、信仰のほうは怪しいが頭はいい修道士を見つけた。一、二度そこへ足を運んで彼に会い、高い給料を、畸形が例外ではなく常態である世界での好き勝手な生活で誘惑した。(中略)娼家や市場、場末のサーカスなどでは、ウンベルトはあらゆる種類の小人を集めた。(中略)彼はまた、ミス・ドーリー、評判の世界一の大女を発見した。」
「魔物が巣窟(そうくつ)から姿を現わすのもこの時刻だが、夜になるとウンベルト・ペニャローサは町はずれの公園や空地へ出かけて、ある種の畸形を待ち伏せた。そして、知能までが損なわれていなければ、ボーイのために雇い入れた。たとえば、彼はベルタを見つけた。それは下半身がまったく動かず、異常に太くなった腕と手を使って、トカゲの尾のように地面を這って進む女だった。(中略)彼はまたメルチョールを見つけた。ごみ捨て場の近くの穴のなかで古新聞や雑誌などを読んでいたこの男は、全身が赤黒い色をしていて、とくに顔では、それがぶちになっていた。最後には、ウンベルト・ペニャローサは意地になって、もっともっと異様な姿をした者たちをドン・ヘロニモの前に連れていった。鼻も下顎もゆがみ、黄色い乱ぐい歯がむき出しになった畸形。巨人症の男たち。亡霊のように肌が透きとおっている白子の女たち。ペンギンの手足とコウモリの耳を頂戴した少女たち。彼らの肉体的な欠陥はもはや醜悪の域を超えて、怪異という、あの高貴な範疇(はんちゅう)にまで達していた。
 彼らが完全に隔離された状態で暮しているにもかかわらず、間もなく外の不具者のあいだで、どういう気まぐれからか、ある紳士が法外な金を出して自分たちのような者を雇っている、という噂が流れ始めた。(中略)ドン・ヘロニモの許には、手紙や電報、情報や詳しい明細、写真などが殺到した。全国から不具が集まった。山から降り、森から出、地下室から這いあがって、集まった。ときには、はるばる遠方から、外国からさえやって来て、ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアが心掛けているその楽園に自分たちも入れてくれ、と頼みこんだ。
 ドン・ヘロニモの書斎のわきの事務室で、ウンベルト・ペニャローサは(中略)彼らの面通しをし、きわ立った者だけを書斎へ送った。そこにはドン・ヘロニモが控えていて、彼らをじっくり眺めたり話をしたりしたあと、契約書にサインさせるか、追い返すかした。実際には、追い返された者の数はごく少なかった。つまり、自分たちの役目をよく心得た不具をボーイの周囲に配するだけでは、実は十分ではなかったのだ。これらの一級の不具の周囲に、その面倒をみる二級の不具たちを配する必要があった。(中略)要するにあらゆる仕事に従事する者たちで、彼らがいて初めて、正常者の世界は遠くへ押しのけられ、ついには消滅してしまうのだ。
 ところで、ボーイの世話や教育に当たるあのエリート、一級の不具たちを相手に、ヘロニモがしなければならない微妙な仕事があった。それは、異常な畸形であることが他人の侮蔑や同情の対象となるべき劣等な状態ではないことを、彼らに納得させることだった。ドン・ヘロニモは言った、侮蔑や同情は一次的な反応で、その底には、不具である彼らのような異常な存在を見ることによって生じる、羨望や恥ずべき性的興奮によく似た曖昧な感情が潜んでいるのだと。正常な人間が反応できるのは、ただ、美から醜にまでわたる通常の階梯(かいてい)で、これは言ってみれば、同じひとつのものの微妙なニュアンスの差でしかない。ところが畸形はちがう、とドン・ヘロニモは、その信念で彼らを鼓舞するつもりか、熱をこめて主張した。畸形は、素朴なカテゴリーとしての美や醜の観念を排除する独自の権利と規範を持った、特権的な別の種である。怪異とは本質的に、上のふたつの性質が合一させられ、最大限にまで高められたものだからだ。正常な人間どもは異常なものを前にして恐怖におののく。さまざまな施設やサーカスの檻(おり)に閉じこめようとする。その力を奪うために、彼らを軽蔑のなかに押しこめてしまおうとする。ところが彼、ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアは、その特権を倍にして、いや百倍にして返してやるつもりでいるのだ。
 この目的で――同じ畸形だが、彼らとちがって、そのために無理解な世界のなかで屈辱を味わうことがあってはならない彼の息子、ボーイの世話をする代償として――ドン・ヘロニモはリンコナーダの屋敷を準備しているのだ。」


「老婆たちはおれを袋のなかに押しこんだ。頑固な七面鳥のように、頭だけが外に残った。老婆たちはおれを入れたまま、袋の口をしっかり縫った……」
「ざらざらして、いやな臭いもするジュートで首のところがすれて、とうとう血が流れる。頭の出ている穴を、もう少し広げるように頼みたいのだが、どうしようもない。なにしろ口がきけないのだ。噂では、おれは唖としてこの修道院で生れたらしい。いまでは合図をする手さえない。老婆たちにこちらの意志を伝えたくても、だめだ。おれの目はもはや、助けてくれと頼むだけの力さえ失い、老婆たちも食事をさせるとき、おれの目を見ようとはしない。(中略)老婆たちがおれを見ないその理由、それは、おれがどうでもいい存在で、いや存在すらしていなくて、彼女たちが子どもやボーイや奇跡といったイメージをつぎつぎに投影していく、受動的な物質にすぎないということだ……」
「最近では老婆たちは毎晩のように出かけてゆき、おれは礼拝堂にひとり残される。いや、どうやら暗いすみっこのほうに、からだが弱かったり病気だったりして出られない老婆が、何人か残っているようだ。不潔なぼろのなかでもぞもぞしたり、咳をしたり、痰を吐いたりしているのが聞こえる。はっきりは分からないが、瀕死の重病人なのに、新しい仕事に夢中になっている仲間から忘れられた年寄りではないだろうか。その仲間だが、彼女たちは近ごろ、獲物を持ってひどく遅く帰ってくる。この近所で追剥が出るという噂が立っている。悪質な老婆たちは角で通行人を待ち伏せして、(中略)執拗にあとをつけるのだそうだ。哀れっぽい声を出し、しつこく金をねだりながら、暗い裏通りのようなところへ追いこむ。とたんに五、六人の老婆が闇からおどり出て、ロープや棒きれを振りまわしながら犠牲者に襲いかかり、金や包みや服などを奪い、それこそ裸にしてしまう。(中略)……この近所では夜はひとり歩きはしないほうがいい。昔とは、あの古き良き時代とはすっかり変ってしまった。だめになった。あの年寄りたちのせいだ……しかし、その話は本当かね?……でたらめじゃないのかな……信じてる者なんていないぞ……いやいや、本当なんだ……しかし、やはり信じられんなあ。(中略)この町で噂になっているこの老婆は、実はわれわれの恐怖の生んだ影でしかないのかもしれない。しかし、その数がこうも多いと……つまり、はっきり多いかどうかは知らないが、以前よりはふえているような感じが……」























































































































ガルシア=マルケス 『族長の秋』 鼓直 訳 (集英社文庫)

「わしにはもう分からなくなった、いったい誰が、誰なのか、誰の味方で、誰の敵なのか、ろくでもない、この秩序のなかの進歩とやらがわしには、(中略)部屋に閉じこめられた死人みたいな感じがするんだ。」
(ガルシア=マルケス 『族長の秋』 より)


ガルシア=マルケス 
『族長の秋』 
鼓直 訳
 
集英社文庫 特-5-1

集英社
1994年5月25日 第1刷
332p
文庫判 並装 カバー
定価720円(本体699円)
装丁: 菊地信義
カバー: 天野博物館蔵


「本書は、一九八三年に〈ラテンアメリカの文学〉13、一九九〇年に〈集英社ギャラリー[世界の文学]〉19として、集英社より刊行されたものです。」



地図1点。


マルケス 族長の秋


カバー裏:

「架空の小国に君臨している大統領は、街道筋の娼婦を母に生まれた孤児であった。若くして軍隊に入ると、上官を裏切り、あくどい手段で昇進をかさねて今日の座についた。年齢は150歳とも250歳ともいわれ不詳。絶対的権力を持つ大統領の奇行、かずかずの悪業、彼に仕える部下たちの不安、恐怖、猜疑に満ちた日常を描く。ノーベル賞作家ガルシア=マルケスの最高傑作。」


目次:

族長の秋

解説 (鼓直)




◆本書より◆


「やがて、疲れきった体を石の床に投げだす音と、子供に返った老人の寝息が聞こえる。寝息は潮のみちるにつれて深くなっていく。夜風の奏でるハープの音が、その鼓膜の奥に巣くったセミを沈黙させる。逆巻く大波が、副王や海賊たちの存在で名をあげた古都の街々へ押し寄せて、窓という窓から大統領府の内部になだれ込む。(中略)ある八月の土曜日には、エボシ貝が鏡にびっしり張りつき、サメが狂ったように謁見の間を泳ぎまわった。海面は、先史時代の大海原のもっとも高かった水準を超えて、地球の表面から、空間と時間から、あふれた。ただ大統領だけが、兵卒の麻の軍服や長靴、金の拍車などをつけ、右手を枕がわりに頭の下にあてがうという格好で、孤独な溺死者(できししゃ)の夢でみちみちた青白い水の上を、うつ伏せになって漂流していた。」


「彼が登場する前の祖国は、だだっ広くて、途方もなく大きくて、境界というものがなかった。のんびりと進むカヌーを浮かべたマングローブ林と、切り立った絶壁の国だった。当時の男たちはじつに乱暴で、口のなかに棒を突っこみ、手掴みでワニを捕らえたもんだ、こんなぐあいにな、と人差し指で上あごを突くまねをしながら、彼は説明した。また、ある金曜日、風がにわかに騒ぎ立ち、ふけのような臭(にお)いがするのに気づいて見上げると、イナゴの大群が真昼の空を黒雲のように覆っていたこと、そして目の前にあるものをすべて食い荒らしていったために、創造以前の世界のように大地は裸にされ、光はボロボロになったことを語った。彼はこの大災害を身をもって体験したのだ。一人の女が死んだという、散らかった広い通りに面した一軒の家の軒先に、首のないニワトリがずらりとさかさ吊(づ)りされていて、血がしたたっていたのをその目で見たのだった。イナゴのあらしのなかを担ぎ台に乗せたまま、お棺なしで埋葬されたけれども、ぼろをまとった死体のあとをはだしで、母に手を引かれて追ったのだ。当時のこの国はそんなもんだった。死びとを入れる棺桶(かんおけ)にもこと欠いていた、まるっきり、なんにもなかったんだなあ。彼は、村の広場の木で首をくくって死んだ、べつの男のお下がりのロープで自殺をはかった男も見ていた。腐っていたロープは肝心なところで切れてしまった。哀れな男は広場の真ん中でのたうち回り、ミサから出てきた女たちを恐れおののかせた。しかし、男は死ななかった。みんなは棒でこづいて男を蘇生(そせい)させたけれど、その身許など調べもしなかった。つまり当時は、教会でも分からなければ、いったい誰が誰なのか、誰も知らなかったのである。男はくるぶしに足枷(あしかせ)の二枚の板をかまされ、罪人たちといっしょに外でさらし者にされた。神が政府よりも力を持っていた、あのスペイン人たちの時代は、祖国の受難の時代は、そんなぐあいだったのだ。」





























































































































A・カルペンティエール 『時との戦い』 鼓直 訳 (ラテンアメリカ文学叢書)

「彼は、自分にしか分からない言葉を喋りはじめた。完全な自由を獲得した。しきりに手を伸ばして、届かぬ遠いところにある物をつかもうとするようになった。」
(カルペンティエール 「種への旅」 より)


A・カルペンティエール 
『時との戦い』 
鼓直 訳
 
ラテンアメリカ文学叢書 2 

国書刊行会
1977年7月30日 初版第1刷
129p 「同じ著者によって」1p
19.4×14.2cm 仮フランス装 筒函
定価1,800円
ドローイング: 中西夏之



本書は持っていなかったので日本の古本屋サイトでよさそうなのを注文しておいたのが届いたので読んでみました。
鼓訳『時との戦い』はのちに長篇『失われた足跡』と併せて集英社「ラテンアメリカの文学 3」(1984年)に再録されています。


カルペンティエール 時との戦い 01


帯文:

「キューバのシュルレアリストにして
時間の魔術師
カルペンティエール」



帯裏:

「小説の時間、テクストの時間とは何か。
物理的、直進的時間とは別の時間が、物語には存在するはずだ。
例えば、円環的な時間、逆転する時間、並進的時間……。
もう一つの時間芸術、《時間についての目眩めく観想》とも称すべき
音楽に魅せられ、先鋭な音楽学者でもあるカルペンティエールが、
この《物語の時間形式》の可能性を極限にまで探究しつつ
人間の生の苛酷さ、運命の悲惨と卑小とを描いた
驚嘆すべき物語集。(本邦初の完訳版)」



目次:

聖ヤコブの道
種への旅
夜の如くに

〈種への旅〉のまねび (鼓直)



カルペンティエール 時との戦い 02



◆本書より◆


訳者による解説「〈種への旅〉のまねび」より:

「一九五六年――(中略)同じこの年、三つの短篇を収めた『時との戦い』(Guerra del tiempo)が出版された。(中略)「種への旅」は、一九世紀初めの植民地時代のキューバに生きたカペリャニアス侯爵家の当主、ドン・マルシアルの一生を語っている。しかし、この伝記は通常のそれのように誕生から死へと語りすすめられはしない。その逆に、(中略)死から蘇生、蘇生から誕生へと、いやその先の、母胎の「温く湿っぽい」肉のなかの種への状態へとたどられる。(中略)「夜の如くに」でも時間の形式が決定的な意味を持っている。トロイアの戦いに出征するギリシアの戦士→新大陸の征服に参加しようとするスペインの兵士→アメリカの領土の鎮圧に出発するフランスの兵隊→トロイアの戦いに出征するギリシアの戦士、という円環のなかで、各自のものであるというよりも、そうした状況に置かれたあらゆる人間が考え、感じ、希うにちがいないことが語られる。三千年にも及ぶ歴史的な時間のなかで反復されてきた人間の共同的な運命の一面が、見事な円環を構成する神話的な時間の枠のなかで描かれている。「聖ヤコブの道」(中略)でも円環的な時間の相の下で挿話は語りつがれる。(中略)イタリアからフランダースへ転戦したスペインの兵士フアンは、(中略)それまでの放縦を悔いて聖ヤコブを祀る聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の旅に出るが、道中で新大陸の発見と征服に夢中になった人々の熱狂に捲き込まれて、セビーリャへと道を変える。この土地でインディアス帰りのフアンという者にさまざまな奇蹟について聞かされ、新大陸への船出を決意する。しかし、この世の王国は幻滅の地にほかならず、さんざんな目に遭う。やがて母国へ戻った彼は、こんどは彼自身がインディアス帰りのフアンを名のって、別の巡礼のフアンを誘惑するという役目を果たす。(中略)このように、直線的なものではない循環する時間を枠として用いながら時代と場所の相違を超えた人間の生、運命を提示するというのが、カルペンティエールの、言うならば常套的な方法なのである。」


「聖ヤコブの道」より:

「というわけで、人々はこのサン・クリストバルの地獄で、古くなったバターの臭いがするインディオの召使いや、貂(てん)のような体臭をした黒人に囲まれながら、この世の王国で考えられるもっともみじめな生活を送っているのである。(中略)アントワープのフアンの心がはずむのは、メキシコやエスパニョーラ島から船乗りたちがやって来るときに限られていた。このときは、かつて兵士だったことを思い出し、肉屋の店先からあばら肉をかすめて来て、仲間といっしょに、アナット入りのソースかベラクルス産のとうがらしの粉を使って料理をした。また、魚屋に押し入って、鯛や海亀を籠ごとかっさらう手伝いをした。(中略)船が入港したときに太鼓を叩いたり、行列の先頭に立ったり、殉教聖者のミサでマラカスを振る混血娘らの拍子を取ったりしてえたわずかな稼ぎを、パン屋に近い、総督の縁者だという男の居宿屋で使った。(中略)ここでは服がすぐにボロボロになり、武器はさび、書類には茸が生える。腐った肉を通りのまんなかへ投げると、早速、頭のつるりとした黒い禿鷹(はげたか)が舞いおりてきて、五月三日の聖十字架の祭りのリボンによく似た腸わたを食いちぎる。入江の水面に落ちた人間は、この土地の者が鮫(さめ)と呼んでいて、首と腹の中ほどに口の開いた、ヨナの鯨にそっくりな巨大な魚に呑まれてしまう。まるい刀の鍔(つば)ほどの大きさのくも、胴まわりが一メートル半を越える蛇、さそり、そのほか無数の気味のわるい生き物が蠢いている。」


「種への旅」より:

「ある晩、酒を飲みすぎ、友人らの残していった冷えたタバコの臭いで気分の悪くなったマルシアルは、館の時計がそろって、五時のあと四時半を、それから四時を、三時半を……打ったような、不思議な感じに襲われた。それはいわば、別のさまざまな可能性の予感であった。徹夜で頭がぼうっとしている者が、逆立ちして天井を、梁にしっかり固定された家具のあいだを歩き回ることができると、ふと思うときに似ていた。」
「こうして彼が未成年に戻った日、音楽室で盛大な舞踏会が催された。彼は浮き浮きしていた。これで、自分の署名は法的な効力を失い、登記簿や公証役場は紙魚とともにその世界から抹消される、と考えたからである。法廷というものが、法律によって無視された人間にとって恐ろしくもなんともなくなる時期に、彼はようやく達したのだ。」
「平凡な成績で試験をパスし、教室に通いはじめたが、しかし教師の説明は理解できなくなる一方だった。(中略)マルシアルはしだいに勉学を怠るようになり、それとともに大きな重荷から解放された。陽気さと敏活さを取り戻して、物事についてはただ直感しか信じなくなった。明るい冬の陽射しが港の要塞の細部をくっきりと浮かび上がらせてくれるのに、なぜ、プリズムがあったらと考えなければならないのだろう? 木から落ちるりんごを見れば、それに歯を立てたくなるだけだし、浴槽に沈めた足は、所詮それだけのものだ。これでよいのではないか? 神学校を去った日、彼は書物のことを忘れた。地の精はただの鬼っころに戻り、妖怪はお化けとなった。」
「彼は、自分にしか分からない言葉を喋りはじめた。完全な自由を獲得した。しきりに手を伸ばして、届かぬ遠いところにある物をつかもうとするようになった。」
「彼の手はさわり心地のよい形をまさぐった。完全に、敏感な触覚だけの存在になっていた。外界は毛孔のすべてを通して入り込んでくる。彼は、(中略)温く湿っぽい肉のなかにもぐり込んだ。その肉は彼をすっぽり包んだと感じると同時に、生へ向かって動きだした。」
「鳥は羽毛を散らして卵に返り、魚もまた、うろこの吹雪が舞う池の底で凝って卵塊に戻った。棕櫚は扇子のように葉をたたんで地下に隠れた。草の葉は茎によって吸い込まれ、大地はそれ自身の上にあるものをすべて引き倒した。雷鳴が回廊でとどろいた。かもしか革の手袋に毛が生じた。毛布がほぐれて、はるかな遠い土地で羊のまるい背をすっぽり蔽った。戸棚、化粧台、ベッド、十字架、テーブル、鎧戸、すべてが闇に向かって飛び、密林のかげにそれぞれの古い根を探った。釘で留められていたものは、いずれもばらばらになってしまった。一隻の二本マストの帆船がいずくからともなく現われて、床や噴水の大理石を急ぎイタリアへ運び去った。武器や蹄鉄、鍵や銅鍋、馬銜(はみ)などは溶けて金属の太い流れとなり、屋根のない回廊を伝って地面へ向かった。すべてが姿を変えて、原初の状態に戻った。」





こちらもご参照ください:

The Nice - Thoughts of Emerlist Davjack


















































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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