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高階秀爾 『西欧芸術の精神』 

「芸術家が「自由に」自己の個性を主張すればするほど、社会から隔絶され、疎外されるということは、歴史が物語る通りである。ドラクロワはサロンに出品した作品に対して強い批判を受けたが、マネや印象派の画家たちは批判以上に社会の憤激を買い、アンリ・ルソーは憤激以上に嘲笑を浴びせかけられた。芸術家は「個性」を武器として手に入れた自由にちょうど見合うだけの代償として、社会からの非難や無理解を覚悟しなければならなかったように見える。」
(高階秀爾 「近代における芸術と人間」 より)


高階秀爾 
『西欧芸術の精神』 



青土社 
昭和54年3月10日 印刷
昭和54年3月20日 発行
518p 索引xiv 
四六判 丸背布装上製本 函
定価3,600円
装幀: 高柳裕



本書「あとがき」より:

「本書は、これまで専門誌、一般雑誌その他に発表された論文、評論十九編をまとめたものである。内容は、ルネッサンス期から現代までの西欧芸術のさまざまな問題にわたっているが、基本的な関心においては、私自身にとって一貫した問題を追求している心算である。」


各編扉および本文中に図版(モノクロ)計50点。



高階秀爾 西欧芸術の精神



帯文:

「西欧芸術の本質を考える
芸術家たちは、どのようにして時代の意識につながり、どのようにして芸術の歴史をつくりだしてゆくのか。ボッス、ラファエルロ、ロダン、ドラクロワ、ゴッホらが生きた時代の精神風土を検証しながら、現代美術の思想と動向を探る美の精神史。」



帯背:

「美術史の
新しい地平」



目次 (初出):


マニエリスムにおける歴史と現代 (「すばる」 創刊号 1970. 6)
ヒエロニムス・ボッス――幻想的ヒューマニスト (『ヒエロニムス・ボッス全作品』 中央公論社 1978)
ラファエルロの「小椅子の聖母」 (「美術史」 第60号 1966)
ヴァザーリの歴史観 (「心」 1974. 2)
フランス・ロマン派におけるミケランジェロ (ミケランジェロ学会報告 『ミケランジェロ研究』 平凡社 1978)
ドラクロワとロダン (「国立西洋美術館年報」 1970)
ドラクロワにおける芸術家像 (「研究論文集」 21巻 文科系学会連合 1970)
ドラクロワの「ゲネザレツ湖上のキリスト」連作について (「美術史」 第75冊 1969)
町のなかの修道院芸術――ナビ派の歴史と美学 (「美術手帖」 1976. 1)


「詩は絵の如く」の伝統をめぐって (『岩波講座文学 1 文学表現とはどのような行為か』 岩波書店 1975)
絵の中の本――ゴッホとフランス文学をめぐる一考察 (『講座比較文学 8 比較文学の理論』 東京大学出版会 1976)
「サロメ」――イコノロジー的試論 (「美術史」 第51冊 1963)
切られた首――世紀末想像力の一側面 (「季刊芸術」 1974 夏)
マラルメと造形美術 (「無限」 第39号 1976. 7)


のろわれた玩具――不安な状況の予兆 (「美術手帖」 1968. 12)
近代における芸術と人間 (「人間の世紀 3 文化の発見」 潮出版社 1974)
手さぐりする絵画 (「現代の美術 art now 別巻 現代美術の思想」 講談社 1972)
美の冒険 (「現代人の思想 6 美の冒険」 平凡社 1968)
現代美術の思想と動向 (「講座日本の将来 1 現代思想の展開」 潮出版社 1970)

あとがき
人名索引




◆本書より◆


「ドラクロワにおける芸術家像」より:

「今、ドラクロワの全作品のなかから、直接芸術家を主題としたものを拾い出してみると、次ぎのようなものがある。」
「(1)「狂人の家のタッソー」 一八二四年作 チューリッヒ、ビュルレ・コレクション
 (2)「狂人の家のタッソー」 一八二七年作 ウィンテルトゥール、ラインハルト・コレクション
 (3)「娘たちの看護を受けるミルトン」 一八二八年頃作 ウィリアムスタウン・ハミルトン・コレクション
 (4)「蛮族の中のオヴィディウス」 一八四四年作 パリ、ブルボン宮図書室
 (5)「アトリエのミケランジェロ」 一八五一年作 モンペリエ、ファブル美術館」
「これら芸術家を主題とする作品群を眺めて見て、きわめて特徴的なことは、それらがいずれも、社会から見棄てられて、逆境のなかに苦しんでいる芸術家たちを描いているということである。ドラクロワが取り上げた三人の詩人たちは、タッソーは狂人と嘲けられて牢屋で幽囚の日を送らなければならなかったし、オヴィディウスはローマを追われてスキタイ人たちの許に亡命し、故国を憧れながら遂に戻ることが出来なかった。また『失楽園』の詩人ミルトンは、晩年に盲目となって、詩を書く時はもちろん、日常の生活においても、娘たちの世話を受けなければならなかった。彼らはいずれも何らかの意味で不幸な、失意の境遇にあり、苦悩と絶望のうちに毎日を送った人びとなのである。」
「ドラクロワの「文学好き」は、彼の絵画作品の主題から見ると、その作品に惹かれる場合と、その生涯に惹かれる場合とはっきりふたつあって、しかもその生涯に惹かれる場合はつねに不幸な生涯なのである。」
「このことは、一八五一年に描かれた「アトリエのミケランジェロ」において、いっそうはっきりと見られる。」
「「アトリエのミケランジェロ」というテーマにしては、このミケランジェロは、いささか奇妙なポーズを見せている。すなわち、アトリエにおいて一生懸命制作に励んでいるところでもなければ、出来上った作品を前にして満足しているところでもなく、むしろ逆に、きわめて投げ槍に台の上にどっかと腰を下し、頰杖をついた姿で描かれているのである。
 このポーズが、(中略)かなり意図的に「仕事を放棄した」状態を示すものであることは、彫刻家にとって生命とも言うべき大切な道具であるノミが、だらしなく足許に投げ棄てられていることからも、明らかと言ってよい。」
「すなわち、この作品では、ミケランジェロは(中略)、何故か、絶望のあまり仕事も手につかないで茫然としている姿で描き出されているのである。とすれば、このミケランジェロも、ある意味で「失意の芸術家」だと言わなければならない。
 溢れるような創作力を持っていたミケランジェロが、時にこのドラクロワの絵に見るような無気力な状態に陥入ることがあったことは、コンディヴィ以来、多くの証言がある。少くともドラクロワは、(中略)ミケランジェロが時にそのような絶望的な気分に襲われたことを信じていた。先に触れた『パリ雑誌』に掲載された「ミケランジェロ」と題する評論のなかで、ドラクロワは、次ぎのように述べている。

 「…三年か四年の間、ミケランジェロはノミも、絵筆も、クレヨンも手に取ろうとはしなかった。彼はフィレンツェにあって何も仕事をせずに暮し、詩人の作品を読んだり、自分自身で詩を作ったり、旧約聖書を研究したりして日を送った……。
 …おそらく、このような憂欝症に襲われた時には、彼は一度ならず自分自身にこう言って聞かせたに違いない、俺はもう駄目な人間だ、何の創意も湧いて来ない、競争相手の仲間の方が俺よりずっと優れている、なぜなら人びとは奴等の方を褒め上げるではないか。人びとは俺を軽蔑する、多分俺はその通りの人間なのだろう。ああ栄光が何だ、未来が何だ……」

 ここではミケランジェロは、明らかに、世人の無理解という不幸を背負っている悩める芸術家として描き出されている。」
「美術の歴史を大きく動かすほどの大作を次ぎ次ぎと発表しながら、その成果を世の人に理解して貰うことができず、その業績にふさわしい栄誉も報いも受けることができなかったドラクロワは、やはりもうひとりの「失意の芸術家」であった。そのような時、ドラクロワはつねに同じような運命を耐え忍んだ過去の偉大な芸術家のなかに心の友を求め、ひそかな共感と慰めとを味わっていた。」
「そして、ミケランジェロの場合のみならず、タッソーにしても、オヴィディウスにしても、おそらくはドラクロワの心の世界の反映であった。ドラクロワにとっては、自己自身も含めて偉大な芸術家は、つねに世の無理解と自己の内部の疑いとに悩まされ続ける存在なのである。
 そのような内面的な苦悩を背負った芸術家の姿を画面に定着するのに、ドラクロワが、ミケランジェロに頰杖をついたポーズをとらせたということは、はなはだ興味深い。」
「西欧の芸術の表現においては、この特徴的なポーズは、さらにもうひとつ別の意味を与えられていることも、見逃してはならない。それは、一言で云えば、行動する人に対して、思索する人のイメージなのである。
 芸術家は本来、ペンを手にして詩を書いたり、ノミによって石を刻んだりするという実際の制作活動をする人である。それに対し、頰杖をつくというポーズは、逆に活動をしない人間を表わす。したがってそれは、例えば中世の一般的なイメージにおいては、「怠け者」の姿であった。ところが、ルネッサンス期に至って、その「怠け者」のイメージが、思索する人のイメージにまで高められるようになる。頰杖をついた人物像の代表的な例であるデューラーの「メレンコリア」が、思索する芸術家のイメージであることは、パノフスキーが証明した通りである。(中略)そして、ルネッサンス期のこの伝統が十九世紀までずっと生き続けていたことは「思索する人」の典型であるロダンの「考える人」が同じようなポーズをとっており、しかも最初は「詩人」という題名を与えられていたことからも明らかである。」



「ドラクロワの「ゲネザレツ湖上のキリスト」連作について」より:

「ドラクロワの生涯はたしかに闘いの連続であった。しかしその闘いの真の相手は、アカデミー派や新古典派の画家たちなどではなく、人間世界を超えた何ものかであった。」


「絵の中の本」より:

「ゴッホが、生涯を通じて熱心な読書家であったことは、広く知られている通りである。彼は、絵画なしには生きられなかったと同じように、本なしでもやはり生きられなかった。彼の厖大な書簡集を読んでみれば、ほとんど毎回のように、自分の読んだ本、今読んでいる本、読みたいと思っている本等についての感想や意見が出て来るのに気づかされる。時には彼は、感動した本の一節を何ページにもわたって手紙のなかに書き写したりもするのである。
 ゴッホがいかに「本」を大切なものと考えていたかは、一八八四年に、ヌエネンからパリにいる弟テオに宛てた手紙のなかで、彼が「ある古い伝説」について感動的に語っているところからも明らかである。その「伝説」というのは、人類の先祖は二人の兄弟で、その二人は、あらゆるもののなかから、望むものをひとつだけ選ぶことを許されたという。一人は「黄金」を選び、もう一人は「本」を選んだ。「黄金」を選んだ方は最初は大いに栄えたがやがて没落し、「本」を選んだ方は、はじめは貧しく、孤独であったが、やがて力を得るようになった。

  「これはひとつの伝説に過ぎない。しかし僕にとっては、それは深い意味を持っており、たしかに真実だと思われる。
  〈本〉というのは、文字で書かれたあらゆる本を指すだけではない。それはまた、良心であり、理性であり、芸術でもあるのだ。」

 ゴッホが、この「伝説」の話を弟に書き送った意図は明白である。当時すでに彼は、「黄金」と「本」のいずれを選ぶかという問題に悩まされていた。そしてもちろん、彼は「本」を選ぶ。」
「本は、ゴッホにとって、それほどまで重要なものであった。その内容も、文学はもとより、歴史、宗教、芸術論等、きわめて広い範囲にわたっている。」



「「サロメ」」より:

「中世の諸作品においては、サロメは、何よりもまず若々しく健康で、しなやかな肢体を持った踊り子(引用者注:「踊り子」に傍点)として表現される。きわめて古い時代の作例では、彼女は立ったまま腰をくねらせて、いわゆる「東洋風」の舞踊を見せているに止まるが、十二世紀以降十四世紀頃までの作品においては、非常にしばしば、両手を床について逆立ちしていたり、体を海老のように後にそらせたり、さまざまにアクロバティックな演技を見せながら、自由奔放に踊りまくっている。そこではサロメは、踊り子であると同時に曲芸師であり、官能的な舞踊によってよりもむしろ普通の人には真似の出来ない特異なポーズによってヘロデを始め饗宴の場に列席する人々を楽しませるのである。」
「中世において、何故このようなサロメの図像が好まれたかということを理解するためには、当時きわめて一般的であった旅芸人の存在を思い出さなくてはならない。彼等は、きまった住居を持たず、町から町へと流浪の旅を続けながら、あるいは領主たちの宴席に招かれて座興として芸を披露し、あるいは祭の日に町の広場で道行く人々を相手に曲芸を演じ、歌を歌っては生計を営んでいた。(中略)中世の教会の門扉や柱頭にまぎれこんだあのアクロバット舞踊の踊り子は、実はこれら旅芸人たちのイメージに他ならなかったのである。
 旅芸人の曲芸師と伝説上のサロメとがいつのまにか同一視されていたことは、当時の受難劇において、サロメがしばしば、単に「踊る小娘」 danserelle とか、「跳びはねる小娘」 saulterelle 等の名で呼ばれていたことからも証明される。そして事実、受難劇の上演にあたっては、(中略)例えばヘロデの饗宴の場で、これら旅芸人たちがいわば息抜きのためにその芸を披露したのである。その結果後になると、受難劇中のサロメが単に「踊る小娘」と呼ばれていたのとは逆に、サロメには関係のない純粋な宴席の座興の踊りが「サロメの踊り」という名で呼ばれるようにすらなったのである。」



「近代における芸術と人間」より:

「ロマン派時代のドイツの画家ルードヴィッヒ・リヒテルの『生涯の回想』のなかに若い頃の思い出を語った次のようなエピソードがある。彼がイタリアに学んでいた頃、ある日、三人の仲間といっしょにティヴォリに写生に出かけた。その時、四人の画家たちは目の前の自然の姿を、いずれもそっくりそのまま描き出すよう申し合わせ、事実皆、できるだけ忠実に自然を再現するよう努めた。ところが、それにもかかわらず、出来上がった作品は同じ自然を描きながら四枚ともまるで違ったものになっていたという。このことから、リヒテルは、色とか形の把握は人によってそれぞれに異なるものであり、客観的な視覚像というものは存在しないと結論を下している。」
「同じ対象を、同じように忠実に再現しようという意識に導かれて写し出しながらなお、そこに異なった結果が生まれて来るとすれば、とりもなおさず、それこそが芸術の本質なのではないか。逆にいえば、われわれがひとつの芸術作品を前にして心動かされるのは、他の誰のものでもないその芸術家の見た世界が表現されているからではないか。」
「ゾラの言葉を借りるなら、芸術は「ある気質を通して見た自然」にほかならないのであり、われわれは、何よりもその「気質」に、芸術というものの根を見ようとするのである。」

「「世界は、われわれのすべてにとって真実でありながら、一人一人にとって皆違っている。……ひとつの世界があるのではなく、何百万という世界が、毎朝目覚める人間の瞳と知性とほとんど同じ数だけの世界が存在しているのだ……」

というプルーストの言葉は、おそらくそのまま、現代芸術にもあてはまるものであろう。芸術家はいずれも、一人一人、自分自身の世界を持っている。それを表現することこそが、芸術家の役割だというのである。とすれば、当然のことながら、それは「個性」を反映したものにならざるを得ないのである。」

「われわれはここで、もう一度あの冒頭に引いたリヒテルのエピソードに立ち戻ってみる必要があるだろう。四人の画家が、皆できるだけ忠実に眼の前の同じ自然を再現しようとして、しかもお互いにまったく違った結果を生み出したとしたら、その理由は、当然一人一人の芸術家のものの見方、ないしは自然の把握の仕方の違いによるものといわなければならない。美の普遍性に対する信頼が支配的であった時代なら、その違いは、万人共通の「理想の美」に至るステップとして、いわば程度の差に過ぎないと考えられたであろう。しかし、その違いにこそ芸術の本質があると考えるなら、それはもはやどのようにしても解消することのできない絶対的な違いとなる。とすれば、その当然の結果として、「理想の美」は成立し得ないことになる。「個性の美学」は、「理想の美」を否定することによってはじめて確立されるものなのである。
 それは、別のいい方をすれば、「理想の美」を支えていた人間の普遍性への信頼が失われたということでもあるだろう。人間はさまざまの違いにもかかわらずやはり同じ人間だという考え方に代わって、今や人間は同じ人間でありながら一人一人皆違うのだという考えがクローズアップされて来たといってもよい。そして、おそらくそれこそが、新古典主義の美学に対するロマン主義の美学の最も大きな対立点となるものなのである。
 事実、ロマン主義の芸術家たちは、その鋭敏な感受性によって、自分自身と他人とのあいだに、越えることのできない深い深淵があることを、本能的に感じ取っていた。人は誰しも自己の内部に、沈黙のうちに生まれ、沈黙のうちに死んで行くひとつの世界を持っている、とミュッセは語っているし、ドラクロワは、その日記に、「私の魂と私に最も親しい友人の魂の間にも、越え難い障壁がある」と書き記した。ジャン・ジャック・ルソー以来の「孤独な」魂が、芸術家たちのものになったのである。」

「実をいえば、表現するに先立って、現実をまず「見る」時に、芸術家の想像力が働くのである。想像力こそが「あらゆる能力の女王」であると考えていたドラクロワは、そのことをよく知っていた。(中略)「個性の美学」の優れた実現者であったばかりでなく、またその理論家でもあったドラクロワは、二十六歳の時の日記に、自己の進むべき道を明確にした生涯のプログラムを、こう書きつけている。

  「お前は、それぞれに独自なやり方で自然を眺めた多くの魂にもうひとつ別の魂をつけ加えることができる。彼らは、眼に見える事物を描きながら、実は自分たちの魂を描いた。お前の魂もまた、お前に同じことを望んでいる。」

 そしてさらに、晩年になってから、彼は同じ思想を別のいい方でこう述べている。

  「偉大な芸術家たちにおいて創造と呼ばれているものは、自然を眺め、秩序づけ、表現する際の、それぞれの人に特有なやり方のことにほかならない。」」

「印象派から後期印象派を経て、フォーヴィスム、キュビスムと続く絵画の「前衛運動」が、歴史上どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらあらためて指摘するまでもなく明らかである。しかしそれと同時に、これらの多くの優れた試みが、当時の人びとからいかに手酷しい批判と嘲笑を受けたかも、またあまりに有名である。もともと、「印象派」にしても、「フォーヴィスム」、「キュビスム」にしても、その名称自体が彼らに対して与えられた悪口に基づいていることは、しばしば指摘されている通りである。そして、何回受験しても遂に美術学校に入学することのできなかったセザンヌや、そのセザンヌとともに生涯ほとんど作品を売ることのできなかったシスレーやゴッホから、珠玉のような美しい作品を数多く残しながら、貧窮のどん底で世を去った放浪画家モディリアニにいたるまで、世間の無理解に苦しめられた芸術家の悲劇は、例を挙げだせばほとんどかぎりがない。」
「だが、それらの興味深い多くのエピソードは、単に歴史に多少の彩りを添えるいわばこぼれ話であったのではない。世に容れられない芸術家というのは、おそらくどの時代にもいたに違いないが、歴史の流れを大きく変えるような重要な働きを演じた主要な芸術家たちが揃って世に容れられなかったというような事態は、この時代までかつてなかったことだからである。」

「「創作の自由」は、それまでの社会において欠けていたからこそ、強く求められたのである。そして、その「自由」への憧れが、「個性」の自覚と密接に結びついていたことは、いうまでもない。」
「「サロン」と呼ばれる公の展覧会は、すでに見たように、アカデミーが主催するものであるので、個々の芸術家は自由に自分の好きな作品を出品することができるといっても、表現様式の上でアカデミーの考える基準に合わないものは拒否された。(中略)印象派の画家たちが、自分たちの仲間だけのグループ展を企てたのも、結局はそのためであった。」
「しかしながら、印象派のグループ展は、まだ完全な意味で「自由な」展覧会ということはできなかった。なるほど、各メンバーは、自分の好むところの作品を展示することができたが、しかし誰でもが自由にメンバーになれるというわけではなかったからである。」
「とすれば、この枠をも否定して、完全に「自由な」展覧会が求められるようになるのも、充分うなづけるところであろう。印象派グループの第一回展からちょうど十年ほど遅れて結成された「サロン・デザンデパンダン」、いわゆる「アンデパンダン展」というのは、まさにそのようなものであった。(中略)この展覧会は、文字通り誰でもが自由に出品できるという点で、印象派のグループよりもさらに徹底した「個性」尊重の催しであるといってもよい。(中略)例えばアンリ・ルソーのような素人(と一般には考えらえていた)画家が十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、まったくの型破りの作品を世に公開することができたのは、この「アンデパンダン展」のおかげだったのである。」
「もちろん、だからといってルソーのような画家でさえ、ともかくも作品を発表する場所をもち得たということは、芸術に対する社会の理解と関心が深まったからだと簡単に断定するわけにはいかない。むしろ社会との関係からいうなら、それは芸術に対する社会の無関心がいっそう強まった結果だといえないこともない。」
「アンリ・ルソーの時代において、ルソーのような「自由な」表現が許されたのは、芸術がそれだけ社会から遠いものとなったためである。エドガー・ヴィントは、『芸術と狂気』において、近代におけるこのような芸術の社会的状況を、「芸術が社会の中心から周辺の部分に追いやられてしまった状態」といういい方で指摘している。芸術の方からすれば、なるほど芸術家は自己の作品の自由な創造主になることによって自分自身の王国を作り上げることができたが、その王国は、現実の社会のなかには、ほとんどその領土をもっていないという結果になってしまったのである。」
「社会から離れた芸術家たちは、創作にあたってまったく自己の自由を享受することが出来るようになったが、それにともなって、社会のなかでそれだけ不安定な立場とならざるを得ない。(中略)というよりも、芸術家が「自由に」自己の個性を主張すればするほど、社会から隔絶され、疎外されるということは、歴史が物語る通りである。ドラクロワはサロンに出品した作品に対して強い批判を受けたが、マネや印象派の画家たちは批判以上に社会の憤激を買い、アンリ・ルソーは憤激以上に嘲笑を浴びせかけられた。芸術家は「個性」を武器として手に入れた自由にちょうど見合うだけの代償として、社会からの非難や無理解を覚悟しなければならなかったように見える。」



「手さぐりする絵画」より:

「「現実」というものがもしどこかにあるとしても、それはわれわれの手の届く範囲にあるのではなく、われわれは単に感覚を通してその「幻影」を受け取るにすぎない。その「幻影」は、文字通り実体のない「幻影」でしかないかもしれない。少くとも、その「幻影」と「現実」とを結びつけてくれるものは、何もなくなってしまったのである。」

「外部にある「現実」をもはや信ずることができないとすれば、自らそれを創り出す以外に方法はない。そして、セザンヌにとっては、それは「描く」ことによってしか成し得ないものであった。
 セザンヌがそれほどまでして「現実」を創り出そうとしたのは、ひとつには、彼が生活の面においても、「現実」と和解することができなかったからであるかもしれない。たとえばモネは、セザンヌから「ひとつの眼に過ぎない」と言われても、その自己の眼が受け取る感覚世界の彼方に「現実」があることを信じて疑わなかった。それは、認識論の問題というよりも、ほとんど生活感覚に根ざすものである。(中略)だがその種の生活感覚は、セザンヌにはまったく欠けていたのである。
 セザンヌのそのような性格については、彼と接した人びとが皆口をそろえて証言している。ヴォラールがセザンヌの女性に対する無知をからかっているのは有名な話だが、女性はもちろんのこと、男の仲間に対しても、彼は病的なほど臆病であり、対人関係においては、子供のような無邪気さと猜疑心とを合わせ持っていた。若い頃、ゾラのすすめで無理に父親を説得してパリに出てきた時も、カフェやアトリエでの仲間たちの議論に加わることができず、決まって急に怒り出したり、場違いなことをしでかしたり、わざと突慳貪になったりするのであった。彼のこの生まれつきの性向は、年とともにいよいよ激しくなり、後半生においては、たまにパリに出てきた時でも、知っている人が見えると、急いで自分から身を隠したという。エミール・ベルナールは、晩年のセザンヌを訪れていっしょに歩いていた時、何かの拍子でセザンヌがよろめいたので思わず手を差しのべてセザンヌを支えると、セザンヌが急に激しく怒り出したという話を伝えている。晩年のセザンヌは、どのようなものでも、他人との「接触」は病的なまでにこれを嫌悪した。このような極端なまでの人間嫌い、「人間との柔軟な接触の喪失、新しい状況に対処してそれを支配することに対する無力さ、習慣の世界への逃避、理論と実生活との激しい対立」等の性格は、病理学的に言えば分裂症的性格を思わせる、とメルロー=ポンティは指摘している。そして、メルロー・ポンティは、さらにそれに続けて、

  「自然と色彩に対するセザンヌの極端なまでの集中、彼の絵画の非人間的な性格(彼は、人間の顔も物体のように描かなければならないと言った)、視覚世界に対する彼の没頭も、実は人間世界からの逃避、彼の人間性の異常さの表われにすぎなかったのかもしれない……」

と言っている。」



「美の冒険」より:

「レンブラントも、ゴヤも、ドラクロワも、社会の「無理解」のためにいかに苦しんだかというのが、多くの伝記者の筆をきわめて語るところである。しかしながら、十九世紀以前、もう少し正確に言って印象派以前の歴史における芸術家のそのような「反社会性」と、印象派以後の近代芸術家たちの示す「反社会性」とは、本質的に性質の違うものである。ミケランジェロにしてもレンブラントにしても、あるいはゴヤやドラクロワにしても、たしかにいろいろな点で社会の「無理解」に悩まされたには違いないとしても、少くとも彼らが優れた芸術家であるということは当時からはっきりと一般に認められていた。彼らを世間には容れられない孤高の天才にしたものは、あるいはその人づきあいの悪い個人的性格であり、あるいはその政治的立場であり、あるいは芸術家にありがちな処世術のまずさであり、(中略)決して彼らの芸術に対する当時の社会の根本的な不信ないしは無理解ではなかった。事実、彼らはいずれも、教皇、国王、同業者組合、共和国政府等の権力者、保護者の庇護や注文を受けて活躍しており、むしろ芸術家としては十分に恵まれた環境にあったとすら言えるのである。少くとも、生前に一点しか絵が売れなかったというヴァン・ゴッホや、満足に作品を見せることもできなかったセザンヌの場合とは、はっきりと違っている。ゴッホやセザンヌは、生前は優れた芸術家どころか、単なる芸術家とさえ認められなかったのである。
 あるいは、こういう言い方をしてもよいかもしれない。フランスの例を引くと、ルイ十四世の治世以来、フランスには国家的組織としてアカデミーというものがあり、アカデミーの主催する官展(サロン)があり、国立の美術学校があった。このことは、王制が共和制になった現在でも、基本的には変わらない。国立の美術学校で学んで最優秀者に与えられるローマ賞を取り、官展(サロン)で作品を発表してやがてはアカデミーにはいるというのが、社会に認められた芸術家のコースである。十九世紀の中ごろにいたるまで、フランスの美術の歴史は、ごく少数の例外を除いて、ほとんどこれら社会に認められた芸術家たちによって作られてきた。ところが、印象派以降、歴史の担い手となったのは、いずれも美術学校や官展(サロン)とはほとんど縁のない芸術家たち、すなわち、社会には認められていない人びとであった。(中略)現在でもなお、たとえば地方の公共自治体が戦没者記念碑と建てるというような場合には、ローマ賞受賞者とかアカデミー会員とかに注文するのが普通である。つまり彼らは依然として社会的には認められた芸術家である。ただ、彼らは、二十世紀の美術の歴史にはほとんど参加していない。つまり、近代になってはじめて、社会に一般に認められた芸術家と、歴史を作って行く創造的芸術家とのあいだに、はっきりと分裂が生じたのである。
 とすれば、十九世紀末以来の現代芸術の歴史が、社会の無理解と芸術家の反抗というパターンをとるようになったのも、当然の成行きと言わねばならないであろう。二十世紀においては芸術家は、好むと好まざるとにかかわらず、もし真に創造的活動を行なおうとすれば、さまざまなかたちで社会と衝突しなければならないのである。」
「芸術家の側からの「反抗」ないしは「挑発」がある前に、まず一般社会の方に芸術家たちに対する根強い反感があるのである。」







こちらもご参照ください:

高階秀爾 『十二人の芸術家』 (講談社現代新書)
若桑みどり 『イメージを読む ― 美術史入門』 (ちくまプリマーブックス)
ヴァザーリ研究会 編 『ヴァザーリの芸術論』
W・S・ギブソン 『ボス 光と闇の中世』 佐渡谷重信 訳
井村君江 『「サロメ」の変容 ― 翻訳・舞台』




































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高階秀爾 『十二人の芸術家』 (講談社現代新書)

「われわれが子供でなくなった時、われわれは死んだも同然だ」
(ブランクーシ)


高階秀爾 
『十二人の芸術家
― 現代を拓いた人々』
 
講談社現代新書 339 


講談社 
昭和49年1月20日 第1刷発行
昭和54年4月12日 第5刷発行
204p 
新書判 並装 カバー
定価390円
装幀: 杉浦康平+辻修平  
カバー写真: ルネ・マグリット・勝利〈部分〉



本書「あとがき」より:

「本書に集められた十二の文章は、十二人の芸術家の作品それぞれ一点ずつを選んで、その作品をいわば軸として芸術家を論じたものである。それらは、最初は、「現代への道標」というタイトルのもとに、『美術手帖』誌昭和四十四年一月号から十二月号まで連載された。今回一冊に纏(まと)めるにあたって、若干の補訂は加えたが、主要な部分はほとんどそのままである。」


本文中図版(モノクロ)38点。


高階秀爾 十二人の芸術家 01


カバー文:

「ピカソ・ノルデ・キリコ・
ピカビア・マグリット・
マティス・クレー……。
彼らは〈現代〉に何を見、
何を求め、そして、
何を表現しようと
したのか。本書は、
現代芸術の旗手十二人を選んで、その代表作を主軸にすえ、テーマ、問題意識、
表現方法、さらには生涯や思想的背景、時代相にも筆をすすめながら、作品の示す豊饒な美的世界を明快犀利に描き出し、現代芸術の
見方・本質を教えてくれるユニークな〈美〉への誘いの書である。」



カバーそで文:

「一点の作品と芸術家の全体――芸術を語るにあたって、
何よりもまず作品が出発点となることは言うまでもない。
作品は芸術家によって作られるものであるが、同時に芸術家は、
作品によってはじめて自己の本質を明らかにする。
一本の野の花にも大宇宙の神秘がひめられているように、
一点の作品にも、その芸術家の内面の世界が隠されているはずである。
ただ一点の作品を中心に、芸術家の全体を論じてみたいというのは、
かねてからの私の欲求であった。……本書に登場する芸術家も作品も
おそらく誰にでも親しまれている有名な人々あるいは作品であるばかりでなく、
現代美術の歴史で大きな意味をもつ存在であることは確かである。
――著者のことば」



目次:

Ⅰ セザンヌ 〈水浴図〉をめぐって――見たまえ、あの青を
Ⅱ マティス 〈モロッコ人たち〉をめぐって――光は東方より
Ⅲ ボッチオーニ 〈空間のなかのユニークな連続の形態〉をめぐって――動きそのもの
Ⅳ ノルデ 〈トリオ〉をめぐって――幻想と現実のあいだ
Ⅴ ピカソ 〈ゲルニカ〉をめぐって――女たちよ子供たちよ
Ⅵ ブランクーシ 〈空間のなかの鳥〉をめぐって――飛翔への讃歌
Ⅶ キリコ 〈占師の償い〉をめぐって――地中海の白昼夢
Ⅷ シュヴィッタース 〈メルツ19〉をめぐって――予言された現代
Ⅸ ピカビア 〈ウッドニー〉をめぐって――色と形のオルフェウス
Ⅹ カンディンスキー 〈縞〉をめぐって――二十年後の抽象
Ⅺ マグリット 〈六つの要素〉をめぐって――火の洗礼
Ⅻ クレー 〈美しき女庭師〉をめぐって――天使と悪魔と

参考文献
あとがき



高階秀爾 十二人の芸術家 02



◆本書より◆


「セザンヌ」より:

「だが、いずれにしても、さしあたりセザンヌにはモデルになってもらう女性がいないことは確かだった。職業モデルの大勢いるパリならともかく、エクスの町では、セザンヌは気狂いではないとしても偏屈で気味の悪い老人と考えられていた。セザンヌのためにわざわざモデルを引き受けるような物好きは誰もいなかった。仕方なくセザンヌは、昔若い頃に描いたスケッチを引っ張り出して利用したり、近くに駐屯する兵隊がエクスの町のなかを流れるアルコ河のほとりで休憩中に水浴びをしているのを遠くから眺めているというぐらいなものであった。ある時は、友人に裸婦の写真を頼んだりまでしている。「大水浴図」について言えば、結局モデルはいなかったのである。」

「セザンヌの特に晩年の作品において支配的となる「青」は、「空気の印象」を与えるためのものであり、空気の印象によって「奥行」を表現するためのものであった。「私はただ色彩だけによって遠近法を表現したい」と言った時、セザンヌがそのための武器として考えていた色彩は、何よりも「青」だったのである。」
「彼は、仲間の画家たち、特にモネに対しては、いつも深い尊敬の念を抱いていた。「モネはひとつの眼に過ぎない」というセザンヌの批評はよく引かれるが、しかし彼はその後ですぐ、「だが何という眼だろう」と讃辞を捧げているのである。セザンヌはまた、「われわれのうちで一番偉いのはモネだ」とも言っているが、さらに後には、アンドレ・リヴィエールに向かってこうも語っている。
 「見給え、空は青い。そうだろう。そしてそれを見つけたのはモネなんだ……」
 モネに教えられ、セザンヌもまた「空は青い」ということを知った。晩年、「大水浴図」に熱中していた頃、午前中アトリエでこの大作と取り組むと、いったん昼食に家に帰って、午後には雇いの四輪馬車で写生に出かけるのが日課であった。馬車の馭者(ぎょしゃ)は、毎日のことなので、言われなくても行先はわかっていた。シャトー・ノワールの近く、サント・ヴィクトワール山がその堂々たる威容を惜しげもなく示す場所である。そこまで行く途中の道筋でも、セザンヌの眼は「モティーフ」を見逃しはしない。彼は突然馭者に語りかける。
 「ああ、あの青を見給え。松の樹の下のあの青を……」
 馭者はなるほどというようにゆっくりうなずくが、心の中では、また始まったと思っていた。彼の眼には、どこにも青など見えはしないのである。普通人の眼には、空気は見えないのは当然である。しかしセザンヌは、その空気の深みのなかに、はっきりと自分の「青」を見ていたのである。(なお余談ながら、セザンヌはこの従順な馭者が大変お気に入りで、自分の作品を一点与えたことがあった。「彼は大変喜んで丁寧にお礼を言ったんだけど、帰りがけにそれを持って行くのを忘れてしまったんだ」とセザンヌはヴォラールに語っている。)
 「水浴」のシリーズと並んで晩年のセザンヌが心血を注いだ「サント・ヴィクトワール山」のシリーズも、彼にとっては、山との闘いというよりも、山を取りまく空気と光、彼と山とのあいだに拡がる距離、そしてそれらすべてをすっぽりと包む空間との闘いであった。後に彼はこう述懐する。
 「長いあいだ私は、サント・ヴィクトワール山を描くことができなかった。それは、見ることを知らない多くの人びとと同じように私は影の部分はひっこんでいると思いこんでいたからだ。ところが影の部分は実はとび出しているのだ。影は中心から遠くへ逃れようとする。影はかたまりになる代わりに、気体となってまわりに流れ出す。それは、青に染められて、周囲の空気の息づかいに参加するのだ……。私はそれを描かなければいけない」
 事実、セザンヌの筆の下で、サント・ヴィクトワール山は、次第に周囲の空気のなかに融けこんで、輝かしい青の交響楽に同化するように思われる。時には、山のかたちすらさだかには見えないほどになるのである。
 「私の眼は私の見る場所にあまりにぴったりとくっついて離れないので、おしまいには血が流れ出るんじゃないかと思うほどだ。ねえ君、私は少し気狂いなんじゃないだろうか。自分でも時々そう思うことがあるよ」
 彼はガスケに向かってこう告白している。
 彼はそれほどまでして、自分の見た「青」を画面に「実現」しようとした。」



「ノルデ」より:

「ノルデがこのような幻想的主題を好んだのは、もちろん彼自身異常な幻想力を備えていたからである。彼は、悪魔とか妖精のような非現実的存在でも、はっきりと自分の眼で見ることができた。ノルデの母親は今でいう千里眼の能力の持ち主で、いろいろ未来のことを予告したと伝えられているが、その真偽はともかくとして、ノルデ自身語っているところでは、ノルデが母親の超能力に信頼を置いていたことはたしかである。また彼自身も、しばしば幻覚に襲われる時があり、そのような場合には、悪魔のような姿を現実の人間のようにありありと見ることができたという。」
「つまりノルデにとっては、現実の世界と幻想の世界は、それほど明確に区別されたものではなかった。現実の花もいつか幻想の世界のものとなり、白昼の幻覚もいつか現実の存在となる。ノルデは一九〇九年ごろ、
 「次の新しい時代には、現実と幻想とのいわば中間にある芸術を作らなければならない。つまり、例えていえばベックリンの『楽園』ときわめて写実的に描かれた牛とのちょうど中間にあるような芸術が必要なのだ」
 と述べているが、それはまさしく彼自身の芸術のことを語っていたといってよいのである。ノルデがしばしばマスク(仮面)を主題に取り上げるのも、マスクがまさしく「現実と幻想の中間にあるもの」にほかならなかったからであろう。」

「孤独な幻想家で、しばしば自己の夢の世界にとじこもりがちであったノルデは、それだけにいっそう、華やかな色彩の乱舞を見せる激しくダイナミックな動きに惹かれたもののようである。フェールの思い出によれば、ノルデはキャバレーやダンスホールを訪れてその華麗な動きをスケッチするのを好んだという。ある時などは、あまりじろじろ踊る人を見て描いたので、若者たちに因縁をつけられて、描くのを諦めなければならなかったほどである。」
「ノルデがそれほどまで舞踊に惹かれたのは、その華麗多彩なアラベスクの魅力の虜となったこともひとつの理由だが、それと同時に、あらゆる想念を拒否してただひたすら熱狂的に踊り続けるそれら踊り子たちの姿に、人間の生命の根源的なものの姿を見たからである。例えばオーストラリアの踊り子サハレットの舞踊について、彼は次のように語っている。
 「黒い髪をふり乱しながら、激しく野性的に動き廻るその旋回運動のなかで、彼女は、ある幻想的な、原世界的な存在にまで高められていった……」
 この「原世界的存在」という言葉が、ノルデの作品を解く鍵であることは、坂崎乙郎氏がその著書『夜の画家たち』のなかで指摘しているとおりである。つまりノルデは、決して単に風俗的興味からそのような多彩な踊りに惹かれたのではなく、その奥にはもっと根源的なものへの衝動があった。それなればこそ、彼の宗教的主題の作品のなかでも、人物たちはしばしば似たような激しい動きを示すのである。その意味では、幻想と現実との区別がつかなくなるほどの幻想家であったノルデと、激しく捩れる踊り子の姿を描き出すノルデとは、本質的にひとつのものといってよい。」
「むしろノルデは、踊り子たちのポーズのなかに、騒がしい現実を離れて永遠の存在に結びつくものを求める。彼がいみじくも「原世界的存在」と呼んだものは、そのような永遠性にほかなるまい。激しく捩れるノルデの踊り子の姿は、そのまま祈りの姿に通じるのである。」



「ブランクーシ」より:

「事実ブランクーシは、(中略)生涯「無心な子供の眼」を保ち続けた。子供たちの世界は、つねになまなましい現実と結びついている。それは、われわれ大人の知っている冷たく形骸化した現実ではなく、不思議な生命の息吹きに満ちた現実である。ボードレールは、「天才とは意志によって取り戻された子供の魂だ」といったが、ブランクーシも、「子供の魂」を死ぬまで保ち続けた天才であった。彼自身も、
 「われわれが子供でなくなった時、われわれは死んだも同然だ」
 と語っている。」

「ブランクーシにとっては、彫刻作品とは、決してただ眺めるだけのものではなかった。
 「彫刻作品はただ出来がよいというだけでは不十分である。それは手で触れてここちよく、近づきやすく、しかもいっしょに住んで気持のよいものでなければならない」
 ブランクーシは、かねがねこう語っていたが、そこには、手仕事によって自己の作品を作り上げた職人の愛情と自負とがこめられている。それだけに、彼が「見る」彫刻ではなく、「触る」彫刻を作ろうとしたことも、十分に納得がゆく。一九〇八年頃から構想された「眠れるミューズ」連作、一九一五年の「新生児」、一九一一年の「プロメテウス」等を経て、一九二四年の「世界の始まり」(盲人のための彫刻)にいたる一連の作品がそうである。この最後のものは、はっきりと「盲人のための彫刻」と題がつけられているが、それ以外の作品も、やはり同じように「触覚的効果」を意図しているものといってよいであろう。その意味で、これらの作品が、(中略)いずれも視覚を奪われた、眼のない存在であることは暗示的である。事実、「眠れるミューズ」は瞼を閉じているし、「新生児」はまだ眼を開いていない。「プロメテウス」や「世界の始まり」になると最初から抽象的な卵型だけになっている。」

「「私の彫刻を尊敬してはいけない。それを愛して、それと遊びたいと思わなければいけない。私は人びとに喜びを与えるかたちを創り出そうとしたのだ……」」



「シュヴィッタース」より:

「同じくダダの仲間といいながらシュヴィッタースが歴史のなかでこのように独自の地位を占めることができるようになったのは、(中略)彼がダダの破壊運動をそのまま自己の創造に利用することができたからである。というよりも、シュヴィッタースの場合は、自己の内部の詩を作品を通して歌い上げるために、それまでの芸術観の枠を打ち破ることが必要だったのである。つまりシュヴィッタースは、「ものを創り出す人」という最も原初的な意味での詩人であった。電車の古切符や、新聞の切れ端や、破れた包装紙など、要するに屑籠の中身にふさわしい材料で作り上げた彼のコラージュ作品が、もともとはキュビスムの美学を受け継いだものであり、そしてその後も多くの追随者を生んでいるにもかかわらず、ほかの作家たちの作品とはっきりと異なった独自の詩情をたたえており、決して見紛うことがないという事実は、この間の事情を雄弁に物語るものといってよいであろう。」

「したがって、シュヴィッタースの「メルツ」作品は、他の多くのダダの作家たちの作品のように、それまで卑しいものとして顧みられなかった廃物や屑を材料として利用したという「反逆性」ないしは「反伝統性」のゆえに意味があるのではなく、そのような材料を、彼が自己の詩を歌うためにどのように利用したかという点にこそ意味があるのである。もちろん、シュヴィッタース自身そう認めているように、ベルリンやチューリッヒのダダの運動は、彼にとって大きな意味を持っていた。それは、彼に「完全な自由と解放」とを与えてくれたからである。当時の前衛芸術家としては珍しく長いアカデミックな修業期間を経験したシュヴィッタースにとっては、そのアカデミスムを克服するために、ダダの仲間たちの強力な破壊力が必要だったのである。
 しかし、いったん必要な自由を手に入れてからは、その自由を利用して心のままに自己の詩を表現することだけがシュヴィッタースの求めたところであった。」

「彼こそは、もしかしたら、現代には珍しい永遠の抒情詩人であるのかもしれないのである。」





こちらもご参照ください:

『エミール・ノルデ展』 (1981年)
『シュヴィッタース展』 (1983年)
坂崎乙郎 『夜の画家たち』 (講談社現代新書)




































阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 (新装復刊)

「まどろみと夢のなかに萎えながら後退してゆく少女。彼女が、のみならずバルテュスの睡眠や夢遊歩行の硬い甲殻に封じ込まれた人物たちが、棲(すま)うのは、響きと怒りの外界から隔絶して、目を開きながら眠り、聞き語りながら聾啞者のように何ひとつ聞かず語らない、透明なカプセルの世界なのだ。」
(種村季弘 「永遠に通過する画家」 より)


阿部良雄
・與謝野文子 編 
『バルテュス』 
(新装復刊)



白水社 
2001年4月25日 印刷
2001年5月15日 発行
239p 略年譜・作品便覧7p 
19×15.7cm 角背紙装上製本 カバー 
定価2,800円+税
装幀: 柳川貴代


「本書は1986年6月に小社より刊行された」



本文中モノクロ図版(バルテュス作品及参考図版)56点。


バルテュス 01


帯文:

「アントナン・アルトー:
バルテュスの描く裸像は人を夢へと誘うが、
その危険を隠していない。
この危険な夢に魅せられて語られた、詩人・文学者たちの
バルテュスへの証言(オマージュ)を集めて、巨匠の全貌に迫る!」



目次 (初出):

まえがき 與謝野文子


危険な伝統主義者 澁澤龍彦 (「みずゑ」 1968年12月号/『幻想の彼方へ』 1976年)
バルテュス譚詩 酒井忠康 (「gq」 1974年6月)
ヴェネツィア滅ぶべし 阿部良雄 (『西欧との対話』 1972年)
バルテュスとクールベ 阿部良雄 (「みずゑ」 930号 1984年春)
伝統のしずかなる挑発 與謝野文子 (「みずゑ」 930号 1984年春)
バルテュス、あるいは視覚の劇場 渡辺守章 (「みずゑ」 930号 1984年春)
バルテュス、通りの向こう側の風景 森口陽 (「アール・ヴィヴァン」 12号 1984年4月)
表皮―眼差し―光―表皮 峯村敏明 (「アール・ヴィヴァン」 12号 1984年4月)
普遍的で、いびつなかたち 岡田隆彦 (「アート '84」 108号 1984年10月)
永遠に通過する画家 種村季弘 (「アート '84」 108号 1984年10月)
《街路》のディアーナとアクタイオーン 金井美恵子 (「ふらんす」 1984年8月号)
バルテュスの絵を観にゆく、夏 吉岡実 (「麒麟」 7号 1985年6月)


ピエール画廊におけるバルテュス展 アントナン・アルトー/渡辺守章 訳
バルテュスに ピエール・ジャン・ジューヴ/豊崎光一 訳
ラルシャンの記憶 ピエール・ジャン・ジューヴ/豊崎光一 訳
《街路》 ピエール・ロエブ/與謝野文子 訳
バルテュスに ポール・エリュアール/田中淳一 訳
忍耐強い泳ぎ手 アルベール・カミュ/田中淳一 訳
バルテュスの絵画における活人画 ピエール・クロソフスキー/小林康夫 訳
バルテュスの発明 イヴ・ボヌフォワ/阿部良雄 訳
ヴェネツィアの石畳 ガエタン・ピコン/横張誠 訳
バルテュス、あるいは輪廻 ジャン・クレール/與謝野文子 訳
見ること、さわること オクタビオ・パス/飯島耕一 訳
《コメルス・サン・タンドレ小路》をめぐって アンドレ・ベッチェン/阿部良雄 訳

あとがき 阿部良雄
バルテュス略年譜
バルテュス作品便覧



バルテュス 02



◆本書より◆


「危険な伝統主義者」(澁澤龍彦)より:

「いずれにせよ、この人気のない、ブラインドを下ろし鎧扉を閉め切った、日曜日の商店街の閑散とした雰囲気には、妙に物悲しい情緒がただよっていて、判じもののように謎めいた登場人物たちの挙動にも、孤独と不安の影が色濃く滲み出ていることに、たぶん、読者も気づかれたことであろう。カフカの文学を別として、現代の疎外感というものを、これほど見事に形象化した作品を、私はついぞ知らないのである。
 詩的幻想というよりも、散文的幻想といったほうが、バルテュスの場合、より真実に近いような気が私にはする。それは《コメルス・サン・タンドレ小路》だけでなく、すべての彼の作品についても、同様にいいうるようである。
 詩人イヴ・ボヌフォワがいうように、どうやらバルテュスは「たとえ暗示するにすぎないとしても、ある不治の情熱の最も危険な暴力を表現する画家の一人」であるようだ。彼にはどこか危険な伝統主義者といった面影がある。」



「永遠に通過する画家」(種村季弘)より:

「まどろみと夢のなかに萎えながら後退してゆく少女。彼女が、のみならずバルテュスの睡眠や夢遊歩行の硬い甲殻に封じ込まれた人物たちが、棲(すま)うのは、響きと怒りの外界から隔絶して、目を開きながら眠り、聞き語りながら聾啞者のように何ひとつ聞かず語らない、透明なカプセルの世界なのだ。」

「ジョルジュ・バタイユやルネ・ジラールのいけにえ理論を援用して、バルテュスを解釈する作業はそれなりの功徳もないではない。しかし注意しなければならないだろう。(中略)供犠、サディズム、復讐劇的残虐性。目立ちすぎる仮面としてその背後で午后の一刻(ひととき)をまどろみ過ごすには、あまりにもうってつけの口実ではないか。」



「《街路》」(ピエール・ロエブ)より:

「構図をつつみ込む暖かな小麦色の光のなかで、人物たちは行き交う。この場面はどこで起きているかは知らないが、この通りは、画家の住んでいたフュルステンベルグ広場からジャコブ街へぬける道であるようだ。」
「白づくめのこの石工が、画面の主軸をなす。お化けのように画面を通過してゆく。ほかの人物たちは互いに相手の姿を見ずに接近し合い、出会うのだ。別のところに想いをはせている。パン屋の小僧の眼の前で起きるこの不思議なやりとりの当事者たちでさえそうなのだ。まりで遊びながら内省を続ける年齢不詳の子供の想いも、やはり別のところに在る。
 一人の少年が進んでゆく。彼の視線は夢のなかに迷い込む。彼の腕の振りが、自動人形の仕草さながら停止するかたわら、その夢をこわしてはならないと無意識に遠ざかる少女は、自らの夢を追ってゆく。
 女がひとり、落ちつかぬ眠りにおちいった子供を抱きながら、ゆく。
 役者たちがみな夢遊病者であるような、そんな不思議な夢を見ている気がする。造型的な平衡とリズムが、着想と完全に合致するこの完全な構図からは、不安を引きおこす雰囲気がかもしだされる。」






こちらもご参照ください:

『バルチュス展 カタログ』 (1984年)
阿部良雄 『群衆の中の芸術家』 (中公文庫)





















































































































































伊藤俊治 『バリ島芸術をつくった男』 (平凡社新書)

「現実に生きる人間は、いつも別世界への想像力を必要としている。あるいは現実といわれるものに陶酔によって亀裂を入れ、その価値や体系を揺るがす力を必要としている。本来、人間とその別世界の間を埋める営みが芸術の一つの役割だったのだが、シュピースは絵画によって再びその役割をよみがえらせようとしたのだ。」
(伊藤俊治 『バリ島芸術をつくった男』 より)


伊藤俊治 
『バリ島芸術をつくった男
― ヴァルター・シュピースの
魔術的人生』
 
平凡社新書 126 

平凡社 
2002年1月23日 初版第1刷発行
210p 口絵(カラー)2p
新書判 並装 カバー
定価780円(税別)
装幀: 菊地信義



本文中図版(モノクロ)34点。


伊藤俊治 バリ島芸術をつくった男 01


カバーそで文:

「バリを訪れた人びとを惹きつけるバリ絵画、ケチャ・ダンス、
バロンとランダの闘争を中心にした呪術劇チャロナラン……。
これらはロシア生まれのドイツ人がバリ人と共につくったものだった。
彼は自ら絵を描き、写真を撮り、チャーリー・チャップリン、
コバルビアス、ミード、ベイトソンらの案内役をも務めている。
そして、日本軍の爆撃により四十七歳で不思議な生涯を閉じた。
最良のものをバリに捧げた男の人生をたどり、
“美と祝祭の島”“陶酔の島”の秘密に迫る。」



目次:

序章 プロローグ――陶酔の島へ

第一章 世界を魅了する島
 1 バリの自然と宇宙
  熱帯の楽園
  ヒンズー文化の影響
  祝祭の島
  ドラゴンの上に乗る島
 2 都市のなかの熱帯の夢
  アムステルダムの王立熱帯博物館
  ヨーロッパのデッドエンド
 3 アンリ・ルソーとシュピース
  ルソーの密林画
  “空想の熱帯”
  ルソーの後継者・シュピース
 4 異邦人たちの交通
  小説『バリ島物語』
  チャップリン、コバルビアス、ベイトソン
  バリの理解者

第二章 シュピースとバリ・ルネッサンス
 1 ヨーロッパからアジアへ
  シュピースの少年時代
  ウラルでの抑留生活
  “十一月グループ”への参加
  ヨーロッパからの脱出願望
 2 ジャワからバリへ
  ガムランに魅せられる
  初めてのバリ
  バリにアトリエを借りる
 3 伝統から冒険へ、バリ絵画の展開
  誰もが芸術家の島
  ワヤン様式の伝統絵画
  バリ絵画の新しい波
 4 大いなる生命の力
  ピタ・マハ画家協会とバリ人画家
  バリ絵画の反パノラマ性

第三章 バロンとランダの永遠の闘争
 1 チャロナラン劇の起源
  呪術劇チャロナラン
  バロンとランダの闘争
 2 バロン・ダンスと劇場国家
  バロン・ダンスの再創造
  スペクタクルを目指す国家
  自死と植民者の神話
 3 サンギャンとケチャの誕生
  映画『悪魔の島』とケチャの考案
  トランス儀礼、サンギャン
  光と影のスペクタクル、ケチャ
 4 植民地博覧会とアルトーの残酷演劇
  バリ舞踊団のヨーロッパ公演
  チャロナラン劇の衝撃
  演出家アルトーが感じ取ったもの

第四章 創造の新しい方法と錬金術
 1 “空想の美術館”としてのバリ
  植民地化・観光化とシュピースの戦略
  バリと外部世界の媒介者
 2 アートとサイエンスのはざまで
  ベイトソンとミードの来訪
  シュピースの感化力
  方法論の違いと感情的対立
 3 写真家シュピースの錬金術
  写真で発揮された才能
  シュピースの撮ったケチャ
  映画と写真=ノスフェラトゥとランダ
 4 感覚の動く表象/『バリの舞踊と演劇』
  観光写真に抗して
  バリ島内部者の撮った写真
  『バリの舞踊と演劇』出版の意味

第五章 シュピースの死と再生
 1 抑留と移送、夢の連なり
  新しいアトリエへ
  戦争の影と“魔女狩り”
  シュピースの逮捕
 2 「風景とその子供たち」
  収容所で心のバリを描く
  母なる自然とその子供たち
 3 「金属楽器のためのスケルツォ」
  シュピースの総決算的な作品
  音楽と絵画の交差点
  ガムラン音楽との類似性
  陶酔の絵画
 4 エピローグ――死と再生の旅へ
  シュピースの死
  朽ちてゆく絵画
  どこから来て、どこへゆくのか
  永遠の輪廻

あとがき

引用文献・主要参考文献
ヴァルター・シュピース年譜



伊藤俊治 バリ島芸術をつくった男 02」



◆本書より◆


序章より:

「山も川も、木も花も、虫も獣も、人も精霊も、すべてのものがこの島を舞台に自らの生命を揺り動かし、大いなる劇を演じている。しかもその役割を刻々と変化させて。人々はごく自然に神々や祖霊と交感し、踊りや音楽のなかで動物に変身し、花々はその生と死の循環のなかで精緻な美しい織物を生み出してゆく。
 マディ・クルトネゴロが『スピリット・ジャーニー――バリの大地からのメッセージ』(中略)で言うように、我々の目は太陽と月と草から、鼻は山々から、耳は谷から、血は川から、筋肉は土から、脂肪は泥土から、骨は樹木から、髪の毛は木の根や霊や霧から、呼吸は風からの借りものにすぎない。つまり我々自身のものなど本当はないのだということが、この島では明らかになる。」
「だからこの島で繰り返されるおびただしい数の儀礼や芸能は、人と人とのコミュニケーションというより人と世界のコミュニケーションのためのものだ。それらはこの世界とあの世界を緊密に結びつける交信の手法となり、この世界とあの世界をつなげ、その通路を我々の心が行き来できるようにする営みとなる。本当は人はそうした道が見えなければ生きてゆくことができないのではないかと思う。この島で日々、途方もないエネルギーを費(つい)やし繰り返される儀礼や芸能は、日常のなかでは把握することが困難なもの、聖なる、つかみがたいものをつかまえる方法である。そしてかつて芸術とは、審美的なものでも、現実の模倣でもなく、人間の認識ではとうてい把握できない、こうしたつかみがたいものとの関係に入ることだった。その真実が、まだこの島では生きている。」
「ヨーロッパでの画家や音楽家としてのさまざまな可能性を捨ててジャワへ渡り、一九二五年、とうとう憧れの島バリへたどりついたシュピースは、村人全員が絵描きと言われる“絵画の村”ウブドに到着した夜、暗闇から聞こえてくる呪術的な合唱とともに、陶酔状態に陥る少女たちの妖しくもせつなく、麗しい踊りを目撃する。
 彼女たちの体はまるで夢でつくられているかのようだった。世界で最も美しく、はかない舞踊とシュピースが形容するサンギャン・ドゥダリである。
 シュピースはその踊りを見たとたん、魔法をかけられたかのようになり、自分もその輪舞に加わりたいという激しい衝動を抑えきれなくなってしまう。
 「いっそ、僕も、叫び、一緒になって、踊りたかった。ああ、この神の宿った人々よ」(シュピースの手紙より)
 この後、シュピースはジャワに一度戻るが、バリへの思いは抑えがたく、とうとう二年後、永住を決意してこの島へ帰ってくる。そう、まさにシュピースは自分の家へ戻るように帰ってきたのだ。」
「このように強く激しくシュピースを魅了したバリとはいったいどんな島なのだろうか。そしてシュピースはこの島とどのように関わり、この島からどんなインスピレーションを受け、それを自らの創造に生かしていったのだろうか。またシュピースの表現や思想はこの島でどのような変容をとげ、彼の生はどんな軌跡を描いていったのか。本書はそうしたシュピースとバリ島との出会いから起こった多彩な出来事をひもときながら、創造と陶酔の新しい次元を考えてみようとする試みである。」



第一章より:

「バリはイスラム教国インドネシアのなかで唯一ヒンズー教が勢力を持つ場所である。」
「しかしバリのヒンズーは単なるヒンズーではない。バリ特有のアニミズム(原始宗教)の影響を強く受け、さらにこの島に伝わる古来からの伝承や習慣とも結びつき、多様な要素が渾然一体となった“アガマ・ヒンズー”と呼ばれる、独自の完成された宇宙観や宗教性を形造っているのだ。
 バリをより深く理解するためには、この宇宙的なヴィジョンに触れなくてはならないだろう。それは簡単に言えば、この世には善なる神々とともに、悪しき神々や悪霊たちも存在し、それら相互の混沌としたバランスの上に世界は生成してくるのであり、すべての自然は光闇、善悪、生死というように対になり、それらが複雑な波動を発し、濃密な場を生みだしているということなのだ。
 バリではどこでも、白と黒の格子模様の布が彫像に巻かれているのを見かけるが、これはそうしたバリの宇宙観を反映したものであり、未来永劫終わることのない二極間の闘争をシンボライズしている。バリの人々にとって、人間とはそうした極の間を彷徨(さまよ)い続ける小さな舟なのである。だから彼らは善なる神々に祈ると同時に、悪しき神々にも同じように祈りを捧げ続ける。」



第二章より:

「「小さい頃のことはあまり多くを語ることはない。僕はロシアの壮大な自然のなかで暮らした。母によれば、僕が魅きつけられたただひとつのものは動物だったという。そしてそれは僕の絵の唯一の題材にもなった。いつも生きた蛙やトカゲ、蛇をポケットに入れて走りまわり、夕食の時、それをテーブルの上に出し、両親やお客をびっくりさせていたことを今でも思い出す。大きなものも小さなものも、すべての生物を僕は集めようとした。蝶、カブト虫、トンボ……、(中略)そしてこの自然への愛着や自然科学への興味は、僕の生涯を通じて続くことになる。僕はたぶん、本当は動物学者や植物学者になるべきだったのかもしれない」(シュピースの話、記述より)」

「「ウラルの山々で三年間の抑留生活を過ごし、そこで本当の生活とは何なのかを知り、感じ、見てきた僕にとって、ヨーロッパで寛(くつろ)ぐことは不可能なことでした。ここにいるべきだという感覚を得るためには、自分を成立させているすべてのものを譲り渡さねばならなかったからです。自分自身を売り渡さなくてはならなかった。けれどそれはできませんでした。そのかわり、僕はすべての友人たちと別れを告げ、自分自身を見つけることのできる新しい家を探しに出ねばならなかったのです」(シュピースの手紙より)」

「バリには実は、「芸術」や「芸術家」にあたる言葉はそれまでなかった。絵画や彫刻や音楽や舞踊はそれ自体を独立して目的とした芸術とみなされたことはなかった。それらは決して美的鑑賞のためにつくられたものではなく、みな神々の島に捧げられる生活儀礼の要素だったし、それらをつくりだすのもすべて島民であり、誰もがみな芸術家だったのである。そもそも「芸術」や「芸術家」という概念は世界中どこにでもあるわけではなく、むしろ西欧文化特有のものだと言っていいかもしれない。シュピースはかつてこう語ったことがある。
 「バリの人々はみな畑で働いたり、豚に餌をやったりするのと同じように詠歌を歌ったり、奉納の踊りを踊ったりする。そしてバリの女たちは子供を生んだり、料理をしたりするのと同じように幻想的な芸術作品のような神への供物や細工をつくったり、素晴らしい金や銀の錦を織ったりする。すべてが一つである。それが生きることであり、神聖なことなのだ」(シュピースの手紙より)」

「バリの人々は世界が示すものを描く。木の葉の茂み、樹皮の模様、動物の皮斑、川の流れ、太陽の炎、足跡と影……、そこでは人は、他のものから超越して存在することはない。人間の思考や想像力は、その他の自然の力と結びついた自然な行為である。(中略)彼らは形やイメージを超えたものを大いなる畏れとともに、絵のなかへ呼び込もうとする。そして“描く”という行為のなかで、自分のなかにもその見えないものが入り込んでくる。バリの絵に魔術的な力や神性のようなものがのりうつっているように見えるのは、そのためなのだ。」



第五章より:

「「私はバリが西欧化することを望まない。ツーリストたちはバリを愛してなんかいない。私はそんな人々と関わりたくないのだ」(シュピースの記述より)
 シュピースはいつのまにか自ら観光産業の一部となり、そのイメージを推し進めていたことに深く苦しみ、悔いた。」

「現実に生きる人間は、いつも別世界への想像力を必要としている。あるいは現実といわれるものに陶酔によって亀裂を入れ、その価値や体系を揺るがす力を必要としている。本来、人間とその別世界の間を埋める営みが芸術の一つの役割だったのだが、シュピースは絵画によって再びその役割をよみがえらせようとしたのだ。」

「シュピースは十数年もの歳月をバリで暮らし、精力的にこの島の宇宙と風景を描いた。その作品は数百点ともいわれるが、今、この島には「チャロナラン」一枚しか残されてはいない。シュピースの絵の多くは、今も行方が知れないものがほとんどだ。バリの森のなかに消え去ってしまったかのように。バリの土や水と化していったかのように。」

「バリの人々にとって死は終わりではない。死者は必ず生まれ代わるし、死は生と死の繰り返しのためにある。世界で唯一という公開火葬のおこなわれるこの島の葬儀は、人の魂が天へ昇るための、そして輪廻(りんね)の巨大な流れに参入するための不可欠な行事である。」





こちらもご参照ください:

吉田禎吾 監修 『神々の島 バリ』
伊藤俊治 『唐草抄 ― 装飾文様生命誌』
種村季弘 『魔術的リアリズム』 (PARCO PICTURE BACKS)
アンドレ・ブルトン 『魔術的芸術 普及版』 巖谷國士 監修
岡谷公二 『南海漂蕩 ― ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』






































































































榊原悟 『江戸の絵を愉しむ』 (岩波新書)

榊原悟 
『江戸の絵を愉しむ
― 視覚のトリック』
 
岩波新書 (新赤版) 843 

岩波書店 
2003年6月20日 第1刷発行
iii 213p 口絵(カラー)4p
新書判 並装 カバー 
定価780円+税



口絵カラー図版5点、本文中モノクロ図版76点。


榊原悟 江戸の絵を愉しむ 01


カバーそで文:

「襖を閉めると飛び出す虎! 江戸時代、絵画の世界はアッと驚く遊び心にあふれていた。視覚のトリック、かたちの意外性、「大きさ」の効果――。絵師たちの好奇心と想像力が生みだした、思いもよらない仕掛けを凝らした作品を浮世絵・戯作絵本から絵巻・掛軸・襖絵にいたるまで紹介し、新しい絵画の愉しみかたを伝える。図版多数。」


目次:

Ⅰ 生活のなかの遊び――動く画面
 日本の絵はどこで見る
 「ひらいて」見る――絵巻「大蛇に化ける女」
 動く壁――襖絵の隠現効果
 紙芝居効果――芦雪の「虎」
 縦に「ひらく」演出
 「大きいこと」への関心――巨人標本図
 「実物大」の驚き

Ⅱ 視点の遊び
 日本の絵の魅力とは?
 意外のかたち
 合成された顔――国芳の「寄せ絵」
 見立(みたて)のおもしろさ――影絵・絵文字
 拡がる視覚――鏡・望遠鏡・顕微鏡
 虫の視点・鳥の視点
 「小口」のかたち

Ⅲ 「かたち」の遊び――猿の図像学
 擬人化された猿
 「猿」と「猴」
 猿猴捉月――長い手の魅力
 江戸の猿猴たち

「眼の極楽」――あとがきにかえて



榊原悟 江戸の絵を愉しむ 02



◆本書より◆


「Ⅱ 視点の遊び」より:

「思えば「鞘絵」が江戸で流行した寛政年間は、その前後――年号でいえば明和・安永・天明から文化・文政あたり――をふくめて、我々の先祖たちの眼(視線)が何に向けられていたか、その視覚の歴史を画期する時代であった。それというのも、先祖たちの眼に、光学的現象や影像に対して本格的な関心が生まれたのが、まさしくこの時期だったと考えられるからである。」
「その意味で十八世紀後半から十九世紀初頭にかけては、我々の先祖たちの視覚がいっきに拡がった時代ということも可能だろう。すでに述べた「鞘絵」「影絵」の流行や、水面に浮かぶ歪んだ「かたち」のおもしろさに気がついたことなど、そうした時代の傾向をあらわしている。
 くわえて、いかにもこの時代らしいのは、それらの光学的現象については、さっそく、見世物小屋に掛けられていることだ。(中略)「大衆化」、これも一種の「拡がる視覚」というべきだろう。」
「こうした鏡の見世物は、(中略)人びとの映像に対する興味を、いやが上にもかき立てたことは疑いない。
 だが大江戸人士の見る力――視覚を高めたというならば、顕微鏡、望遠鏡なども忘れてはなるまい。前述した「七面鏡」や、覗眼鏡(のぞきめがね)(遠近感を誇張した名所風景画(浮絵(うきえ))を覗き見るための器具)もふくめて、すべてこの時代オランダ船が舶載したものだ。それら舶来の珍しい光学機器のレンズの向こうに現れる天体の姿や微小の世界は、通常の視覚ではとらえることができないはずだ。その「かたち」が意外であったことはいうまでもない。」
「その舶来の光学機器「顕微鏡(むしめがね)」について、森島中良(もりしまなかよし)(一七五四~一八〇八)の『紅毛雑話(こうもうざつわ)』(天明四年〈一七八四〉刊)巻三は、

  近比舶来(もちわたる)「ミコラスコーピュム」といふ顕微鏡(むしめがね)あり。形チ図の如し。程々のものをうつし見るに。その微細(みさい)なる事凡慮(ぼんりょ)の外なり(後略)。

という。
 くわえてこの顕微鏡は、見世物にもかけられたようで、(中略)猿猴庵の『金明録」文政三年(一八二〇)四月の条に、

  〇大須門前にて、阿蘭陀目鏡を見せる 小虫の類を大きう見せる虫めがねなり。

とある。(中略)その際、人びとに見せたのは、文字どおり小さな虫たちであった。森島中良がこの目鏡で観察したのも虱(しらみ)であったようで、同じく『紅毛雑話』巻三に、

  (前略)虱の古く成たるが、脇腹(そばはら)やぶれて鰯(いわし)の骨の如き肋骨(あばらぼね)あらはれ、腐爛(くされただれ)たる腸(はらわた)に、茶たて蟲の如き蛆(うじ)たかりたり、目鏡をはづして見ればいさゝか色のかはりたるやうに見ゆれども、肋ぼねも蛆も見えず、誠に希代の珍器なり。蚊の睫(まつげ)に巣をくふ蟭螟(しやうめい)、蝸牛(かたつぶり)の角の上なる蛮氏觸氏(ばんしぞくし)の二国をも、此器をもつてうつさば、明らかに見分つべし。(後略)

とある。」



榊原悟 江戸の絵を愉しむ 03



◆感想◆


本書はウー・ホン『屏風のなかの壺中天』で訳者の中野美代子さんが推奨されていたのでよもうとおもってわすれていたのですが今回よんでみました。
本書の第一章では絵がどのような形態で描かれているか(巻物、襖絵、掛軸等)によって絵の見方が変わる、ということが懇々と説かれています。クリストファー・デ・ハメルの近著『Meetings with Remarkable Manuscripts』(注目すべき写本との出会い)なども「写本」という形態を重視していましたが、そういう物質主義が21世紀の美術評論の一般的な傾向なのでしょうか。
第二部では江戸絵画における「遊び」の要素――影絵や、アルチンボルドを思わせる国芳の「寄せ絵」とか、アナモルフォーズの日本版である「鞘絵」など――を取り上げています。『下界頭会(げかいずえ)』の、真上から見た「臼と杵で米を搗く男の姿」「梨に竹輪の「小口切り」」に見える図などは、ロジャー・プライスのドルードル(droodles)の百年先を行っています。遊びとかトリックアートとか、そういうエンターテインメント性の重視が21世紀美術評論の一般的な傾向なのでしょうか。
第三章はサル(テナガザル)の図像学です。テナガザルはかわいいです。


本書は興味深い本ですが、ちょっと気になったのは、p. 100~101 で、

「だが日本絵画は、基本的には、

  絵に書(かか)ぬ真向きの美女と横仏(よこほとけ) (『誹風柳多留』一五九篇)

というように、人間の肉体を描くのが不得手であった。正面向きの美女と横たわる釈迦(あるいは人間)の肉体。描きにくいものの代表として、この二つを挙げているのも納得できるだろう。」


とあるのですが、この川柳は、正面から見た美女・側面から見た仏を描いた絵は見たことがない(「描けない」のではなくて「描かない」)ということを言っていると思うので、「人間の肉体を描くのが不得手であった」例としてあげるのはどうかと思います。それに「横たわる釈迦」なら「横仏」(よこほとけ)でなく「寝仏」(ねぼとけ)(寝釈迦、涅槃仏)です。
それと、p. 131 掲載の「歪んだ顔(『国芳雑画集』より)」について、「「鞘絵」におそらく触発されたにちがいない図」であるとして、「「鞘絵」が鞘に映したら、ちゃんとした像がえられるというのなら、ちゃんとした「かたち」を鞘に映したら、こんなに歪んでしまった、というわけだ。」とあるのも変です。制作年代の前後を重視したためにそうした記述になったのだと思いますが、発想の順序としてはもちろん逆で、「ちゃんとした「かたち」を鞘に映したら」「歪んでしまった」ので、「鞘に映し」ても「ちゃんとした像がえられる」ようにと工夫されたのが「鞘絵」です。
それと、時間的推移にそって物語が展開する絵巻を「ひらいて」見ることによって得られる効果についてはともかく、襖絵を「ひらく」効果とか細長い掛軸に描かれた竹の絵を少しずつ「ひらく」ことによる「視覚的効果」を画家が狙っていたとする主張もちょっと首肯しかねます。




こちらもご参照ください:

田中優子 『江戸百夢 ― 近世図像学の楽しみ』
『バルトルシャイティス著作集 2 アナモルフォーズ』 高山宏 訳
タイモン・スクリーチ 『江戸の身体を開く』 高山宏 訳 (叢書メラヴィリア)
辻惟雄 『奇想の系譜』 (ちくま学芸文庫)
ウー・ホン 『屏風のなかの壺中天』 中野美代子・中島健 訳












































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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