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四谷シモン 『人形作家』 (講談社現代新書)

「僕にとっていい人形とは、「このお人形さん、まるで生きているみたい」と言われるような人形ではなく、息がとまって死んでいる人間に近い、凍てついた人体表現です。」
(四谷シモン 『人形作家』 より)


四谷シモン 
『人形作家』
 
講談社現代新書 1633 


講談社 
2002年11月20日 第1刷発行
200p 口絵(カラー)8p 
新書判 並装 カバー
定価880円(税別)
装幀: 杉浦康平+佐藤篤司
カバー写真: 「解剖学の少年」(1983)、「ナルシシズム」(1998)
撮影: 篠山紀信



口絵カラー図版8点。本文中にモノクロ図版21点。



四谷シモン 人形作家 01



カバー文:

「不良少年から天才人形作家へ。六〇年代の新宿を駆け抜け、唐十郎、澁澤龍彦らと出会った激動の半生と創作の舞台裏を告白。」


カバーそで文:

「細部へのこだわり――「ドイツの少年」では靴や靴下、
ガーターベルトなど、小物にも細心の注意をはらいました。
靴は靴職人に特注しました。市販の子供の靴でも代用が利くと思うでしょうが、
人間の足は意外とつま先が平たくて幅があり、恰好よくないのです。
ですから人形用に足先の細い型で靴を作ってもらいました。……
人形をガラスのケースの中に入れたのは、ショーウィンドー的な感覚からです。
たとえば、デパートのショーウィンドーを通して見る商品は、
隔離された世界のなかにあり、売り場でじかに売っているのとおなじものなのに、
それとはどこか違う標本的なものに見えます。
僕の人形も家具的なケースに押し込み、ガラスというフィルターを一枚かけて、
標本のように見せたいと考えたのです。
ガラスのひんやりした人工的な素材感が僕の好みであったということもありました。
――本書より」



目次:

シモンとは何者であるか (嵐山光三郎)

1章――人生が始まっちゃった
 いつもひとり
 夫婦喧嘩
 小学校でストリップ
 母の家出
 さびしい出発
 第一作品はしゃれこうべ
 転校続き
 今にみてろ
 布の人形を作る
 母とのすれ違い
 北池袋の父の記憶
2章――問題児の青春
 問題児と人形
 妄想する愉しみ
 母の再婚
 質屋通い
 人形作家の家
 警察のお世話に
 進路は人形
 人形を売る
 洋品店の納豆汁
3章――新宿に漕ぎ出す
 ロカビリーの世界へ
 シモンになる
 四谷婦人会
 現代人形美術展に入選
 歌手になる
 クラリネットを突き刺す人形
 爆発する人形
 ベルメールの衝撃
4章――女形・四谷シモン誕生
 職人に徹する決心
 澁澤龍彦の世界に近づく
 唐十郎、状況劇場との出会い
 状況劇場の舞台に
 四谷シモンの誕生
 張り子人形づくりを学ぶ
 父の死を知る
 パリに行く
 パリの日々
 的場のお銀
 新宿西口中央公園事件
 アングラ御用だ!
5章――ただごとじゃつまらない
 唐十郎と寺山修司
 元締め唐十郎
 芝居と酒
 発作的なアドリブ
 「太陽」にとりあげられる
 大阪万博
 資金稼ぎの歌謡ショー
 舞台装置になった人形
 被写体となる
 芝居の季節が終わる
6章――人形作家としてデビュー
 「ドイツの少年」
 凍てついた人体表現
 細部へのこだわり
 第一回個展にむけて
 「未来と過去のイヴ」
7章――人形観を模索する日々
 新しい人形の世界へ
 青木画廊
 シモンドールとアンティーク・リプロダクション
 「慎み深さのない人形」
 エコール・ド・シモン設立へ
 方向転換
 個性をつぶさない
8章――答えはない
 大忙しの一年
 瀧口さんの死
 「機械仕掛の少年」
 エコール・ド・シモン展と大病
 ふたたび役者に
 大河ドラマ
 久世光彦さんのドラマ
 作品集刊行
 澁澤さんの死
 浮遊感にとらわれて
 自分で出した答え
 「人形愛」展を開催
 ナルシシズム

あとがき




◆本書より◆


「1章」より:

「小さいときの僕は、いつもひとりだったという記憶があります。
 小学校四年生までいた雪谷(ゆきがや)の家の縁側にすわって、紙皿にクレヨンで絵を描いていた記憶、父が土産(みやげ)に買ってきた人形たちを集めて、ひとつの家族のようにして遊んでいた記憶。そんなとき僕はいつもひとりでした。」

「僕は根津小学校から数矢小学校に転校します。しかし転校ばかりしていると友達ができません。唯一の友達は、深川の大きな料亭の男の子でした。
 その友達の家に遊びにいったときのこと。二階の座敷の窓をあけると外はもう真っ暗です。しばらくすると、三味線の音が聞こえてきて、男の声で「ちょっと、お二階さん」と呼びかけられました。するとその子は、手馴れた風にポーンとおひねりを窓の外に投げました。僕はあっけにとられるばかりでした。」

「笠井さんにボカーンと殴られた僕は、野原に跳ね飛ばされました。(中略)夕暮れのなか、川向こうに深川東映の青いネオンが見えました。(中略)青い光を睨みつけながら、「今にみてろ」と腹の底からわきあがる怒りを感じていました。」
「このとき僕は、笠井さんという個人を超えて、社会とか世間とかいうもの全体に対して「今にみてろ」と感じたのです。」

「よく人形を作るきっかけをたずねられるのですが、はっきりとしたきっかけがあったのかどうか思い出せません。」
「気がつくと、ふーっと人形作りに染まっていました。」

「僕は、自分の一生懸命さを理解してもらえない、伝わらないという悲しさでとてもつらい思いをしました。「この子、ちょっと変わっているわ」ということも気づいてもらえない、母はわかっていないなという感覚がありました。」



「2章」より:

「勉強することをやめた僕は、教師をてこずらせる問題児として残りの小学校生活を送りました。」
「中学生になっても、僕はひとりで遊ぶのが好きでした。」

「金ちゃんというあだ名の国語の先生に「お前、高校だけはでておけよ」と勧められましたが、僕の進路は進学でも就職でもなく、人形を作ることだとすでに決意していました。」



「4章」より:

「この年(引用者注: 昭和44年)の状況劇場は、騒乱続きでした。
 新宿に次いで十二月に渋谷の金王八幡宮で「少女都市」という芝居をしたときのことです。天井桟敷を主宰していた寺山修司さんが初日の祝いにお葬式用の白黒の大きな花輪を送ってくれました。それは、寺山さん流のユーモアだとみなわかっていて、かっこいいねえと喜んでいました。そして芝居の打ち上げに誰かが大量の日本酒を差し入れてくれ、みんなで冷酒をどんどんあおっているうちに寺山さんのところにお礼にいこうということになり、全員で寺山さんの所へむかったのです。天井桟敷の稽古場は神社からすぐそばの並木橋にあります。僕たちは、ほんとうに感謝の気持ちを伝えに挨拶にいったのでした。
 ところが、応対にでた天井桟敷の人に「寺山さんにお礼の挨拶にきました」と言ったところ、先方は「お礼」「挨拶」ということばをまったく取り違って解釈してしまい、僕たちが殴りこみに来たのだと思ってしまったのです。そして家のなかから天井桟敷の劇団員が飛び出してきて、わけがわからぬうちに乱闘が始まっていました。
 寺山さんは「唐、話せばわかるから、な、話せばわかるから」といいつつ、僕の頭をボカンと殴りました。腹をたてた僕は「なんだ寺山、ばかやろう」と近くにあったコカコーラの看板を寺山さんが経営している喫茶店に放り込み、表のガラスがバラーッと砕けました。するとガラスの奥のほうで、寺山さんのお母さんがジーッとこちらを見ているのがわかりました。
 僕は一緒にいた不破万作に「万ちゃん、これはヤバいから逃げよう」と声をかけて、道路を渡って逃げようとしました。そのうち揉みあっている連中からも渋谷署がどうとかこうとかと言う声が聞こえてきて、僕は芝居の化粧のまま不破と一緒に逃げ出しました。
 通りへ出るとちょうどよくタクシーが来て、ここで逃げちゃえばばれやしないだろうと手をあげたら、それはタクシーではなくパトカーだったのです。
 パトカーは僕たちの前でぴたりと止まりました。パトカーのなかから寺山さんのお母さんが僕を指差し、「この人です」。僕たちはそのまま渋谷署に連行されることになったのでした。」



「6章」より:

「死んだ人間も人形に近いなと思います。僕にとっていい人形とは、「このお人形さん、まるで生きているみたい」と言われるような人形ではなく、息がとまって死んでいる人間に近い、凍てついた人体表現です。そして人形は動かずにずっと佇んでいるのがいいと思っています。」


「8章」より:

「亡くなる前、澁澤さんは「この世は夢で、玉ねぎの皮をむいていくと最後はなにもなくなるような、そんなものなんだよ」と言っていました。そんな言葉を思い出して、澁澤さんが亡くなった直後は、「眠っているときだけでなく目覚めている現在が夢ではないという根拠はどこにもなく、すべてが夢で、たった今も底なしなんだ」といった、自分がプカプカと浮いているような浮遊感がありました。」

「長い時間をかけて悩んだ末、「この世のすべては最初から解決しているのであって、これといった決まった答えはないな」と自分のなかで悟りました。
 答えはない。だから問いただすことそのものに意味はないかもしれないが、それでも問いつづけていくしかない生き物が人間なのだろうという答えにたどり着いたのです。そしてまた、もし僕にとってこの問題に対する仮の答えがあるとするならば、それは、作るということだ、もし僕に哲学的・宗教的なものがあるとしたら、それは人形を作ることでしかあらわせない、これが自分で自然に導き出した答えでした。」




四谷シモン 人形作家 02



























































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『イサドラ・ダンカン 芸術と回想』 シェルドン・チェニー 編/小倉重夫 訳編

「つねに変化し、自然で、終ることのない連続をなす、未来の舞踊の動きを展開させる人間の身体のための、これらの初歩的な動きを見出すことは、今日の新しい舞踊家の義務である。」
「そのような動きはつねに動いている形態に依存し、呼応している。カブト虫の動きは、その形態に一致している。馬の場合も同じである。人間の身体の動きもその形態と一致しなければならない。さらに人体の動きの場合は、個々人の体型に適合すべきだ。二人の人間の舞踊は同じであってはならないのである。」

(イサドラ・ダンカン 「未来の舞踊」 より)


『イサドラ・ダンカン 
芸術と回想』 
シェルドン・チェニー 編 
小倉重夫 訳編



冨山房 
1977年7月15日 印刷
1977年7月20日 発行
4p+288p 
口絵(モノクロ)1葉 
図版(モノクロ)8p 
20×15.4cm 
並装(フランス表紙) 函
定価2,000円 
装丁: 笠原須磨生
 


本書「訳者あとがき」より:

「この《イサドラ・ダンカン 芸術と回想》の原書は、一九二八年にニューヨークの Helen Hacket 社から出版された《The Art of the Dance : Isadora Duncan》である。」
「シェルドン・チェニーの編纂は、第一部に追悼文、第二部にダンカン自身による芸術エッセイで構成され、それなりの成果を挙げていることは改めるまでもないが、私はわが国の情勢も考慮したうえで、この構成をあえて逆にし、《芸術と回想》という表題のもとに再編纂することにした。(中略)〈回想〉において、原書に掲載された追悼文に八編を補足として新たに加え、(中略)より回想としての色彩を明白にし、その内容の充実をはかることに心がけた。その八編とは、スタニスラフスキー(中略)、イルマ・ダンカン(中略)、晩年彼女と正式に結婚したロシアの詩人イェセーニン(中略)、レヴィンソン(中略)、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された〈ダンカンの死亡記事〉、アマーヤ(中略)、グレゴリー(中略)、そしてわが国から永田龍雄が昭和二年九月十九日付読売新聞に寄稿した(中略)追悼文である。また、ブールデルやロダン、(中略)クレーグなどの手になるダンカンのレリーフやスケッチ、さらにゲンテによる写真も、原書に掲載されたものに数点補足挿入し、その目的の達成に努めた。しかし、バクストやグランジュアン、クララらの手になる数点は、版権の都合で掲載出来なくなったことは遺憾であるが、それを補う意味で、正規に版権を取得したブールデルの連作を使用することとした。」



別丁図版(モノクロ)11点。本文中に図版(モノクロ)33点。



イサドラ・ダンカン 芸術と回想 01



目次:

序文 (シェルドン・チェニー)

舞踊芸術に関するエッセイ (イサドラ・ダンカン)
 私はアメリカが踊るのを見る
 理想の踊り
 未来の舞踊
 パルテノン
 踊り手と自然
 舞踊とはどうあるべきか
 踊る子供
 動きは生命である
 美と訓練
 舞踊と悲劇との関係
 ギリシアの劇場
 教育と舞踊
 テルプシコール
 ギリシア人の舞踊
 青春と舞踊
 深遠
 偉大なる源泉
 リヒアルト・ワーグナー
 生徒たちへの手紙
 モスクワの印象
 所見・モスクワ以後
 宗教と愛とに係わりを有した舞踊法
 断章および随想

イサドラ・ダンカン 回想
 イサドラ・ダンカン (コンスタンチン・S・スタニスラフスキー)
 イサドラの最後の舞踊 (レイモンド・ダンカン)
 イサドラ (マルゲリタ・ダンカン)
 舞踊芸術におけるパイオニア、イサドラ・ダンカン (イルマ・ダンカン)
 黒い人 (セルゲイ・イェセーニン)
 イサドラ――わが友 (マリー・ファントン・ロバーツ)
 芸術家イサドラ・ダンカン (シェーマス・オシール)
 イサドラ・ダンカン (アンドレ・レヴィンソン)
 死亡記事 (ザ・ニューヨーク・タイムズ)
 イサドラ・ダンカンは死んだ (マクス・イーストマン)
 近代舞踊芸術の明星落つ (永田龍雄)
 思い出のイサドラ (エヴァ・ル・ガリエンヌ)
 イサドラ・ダンカン (ロバート・エドモンド・ジョーンズ)
 ある手紙 (ブールデル)
 イサドラと彫刻家 (マリオ・アマーヤ)
 イサドラを求めて (ジョン・グレゴリー)

訳者あとがき (小倉重夫)




◆本書より◆


「未来の舞踊」(イサドラ・ダンカン)より:

「もし、私たちが舞踊の真の根源を求めて、自然へと及ぶならば、未来の舞踊とは、過去の舞踊、永遠の舞踊であり、それが現在まで同じものであったように、常にこれからも同じものであることに気付くのである。
 波の、風の、大地の運動は、つねに、同じように続く調和の中にある。海の運動が昔はどんなであったか、未来はどうなるのかと、浜辺に立って海に尋ねはしない。ある自然に個有の運動は、永遠にその自然の有するところだ。自由な動物や鳥の運動は、つねに、それらの有する自然に、その自然の必要性と要望に、そして大地の本質に対応しているものである。自由な動物たちが、自然と調和して動く力を失い、それらに与えられた抑制を表現する動きを採るのは、ただ、自由な動物たちが、誤った抑制のもとにおかれたときだけである。これは文明化された人間についても同じであった。(中略)裸体の動きだけが、完全に自然になりうるのである。文明の究極に達した人間は、裸に回帰せねばならぬだろう。それも、未開人の無意識のうちの裸ではなく、肉体が精神的存在の調和ある表現となる、成熟した人間の、意識的で心得た裸へと回帰しなければならぬだろう。
 そしてこの人間の動きは、自由な動物たちの動きのように、自然で美しいことであろう。」

「つねに変化し、自然で、終ることのない連続をなす、未来の舞踊の動きを展開させる人間の身体のための、これらの初歩的な動きを見出すことは、今日の新しい舞踊家の義務である。」
「そのような動きはつねに動いている形態に依存し、呼応している。カブト虫の動きは、その形態に一致している。馬の場合も同じである。人間の身体の動きもその形態と一致しなければならない。さらに人体の動きの場合は、個々人の体型に適合すべきだ。二人の人間の舞踊は同じであってはならないのである。」

「その時が来れば、学校を建て、私の舞踊で百人もの少女を訓練出来る劇場を建てるのが私の意向だ。そして代わって、その少女たちが、舞踊を改善してゆくのである。この学校では、私の動きの模倣を教えるのではなく、彼女たち自身の動きをするよう教える。私はある規定された動きを学ぶことを強いはしない。彼女たちに無理でない動きを展開させるべく、私は彼女らを助けよう。教え込まれたことのない小さな子供の動きを見る者は誰でも、その動きが美しいことを否めない。それらが子供たちに無理ではないから美しいのである。人体の動きですら、その身体が到達している成熟の段階と度合いとに調和している限りは、発達のその段階ごとに美しいはずである。その個々の身体と個々の魂の完全な表現である動きは、つねに存在するだろう。それであるから、自然でなく、ある流派に属する動きを、身体に強要してはならない。知的な子供は、彼らが自発的に作り出すすべての動きに反する動きをバレエ学校で教えていることに気付いて、驚かされねばならないのである。」

「ここで私は、おそらく容易に生じる誤解を除いておきたいと思う。(中略)私が古代ギリシア人の踊りへ立ち戻りたいと思っているのであるとか、あるいは未来の舞踊は、古代舞踊、ないしは原始民族の舞踊だと、私が考えているように結論されるかもしれない。だが、それは間違いである。未来の舞踊は、新しい動きであり、人類が経験して来た全進化の結果なのである。ギリシアの舞踊に戻ることは不必要であるとともに、不可能であろう。われわれはギリシア人ではなく、それ故にギリシア舞踊は踊れないのである。
 だが、未来の舞踊はギリシアの場合と同じく、再び高度な宗教芸術となるべきである。というのは、宗教的でない芸術は芸術ではなく、ただの商品にすぎないからだ。
 未来の踊り手とは、魂の自然な言葉が身体の動きとなるまでに、その身体と魂とがともに調和して発達した人のことである。その踊り手は一民族のものではなく、全人類のものであろう。」



「舞踊とはどうあるべきか」(イサドラ・ダンカン)より:

「今日のバレエを習っている少女たちを見たことがあるか? その少女たちは、愛らしく、明るく、上品ではあるが――足はいじめつけられて変形してしまっている。少女たちの柔らかで小さな身体は、もうきついボディスと子供用のコルセットに無理に押し込まれている。そして少女たちの自然で優雅な動きは、かりに合理性と美の線にそって発展させられるならば、それが子供の自然な動きであるものとは正反対の、不自然な、(中略)醜く、ゆがんだ動きへと、いじめぬかれているのである。」


「動きは生命である」(イサドラ・ダンカン)より:

「大地の動き、草と木の動き、動物の動き、風と波の動きを学ばねばならぬ。それから、子供の動きを学ぶことである。すべての自然の事物の動きが、調和のある表現の中で働いていることを見出だすだろう。これは子供の人生のはじめの年代においても真理であるが、やがてすぐに誤った教育理論によって、外部から動きが課せられ、子供はすぐに、その自然で自発的な生活と、動きの中でそれを表現する力とを失ってしまう。
 私の学校に来る三つか四つの幼児は、美しい音楽の高揚に鋭敏であるが、八歳か九歳の子供は、教師によって課せられた生活の慣習的で、機械的な概念の影響を受けてしまっているのがわかる。九歳の子供は、すでに慣習的、機械的な動きの虜(とりこ)となっており、この状態はずっと続き、彼女たちがもっと大きくなって、身体の表現が不活発になるまでに、子供のすべての生活を悩ますのである。
 私の学校での教育計画について尋ねられたとき、私はこう答える。
 「まず子供たちには、呼吸をすること、魂をゆすぶられること、感ずること、そして普遍的な自然の調和と動きとを有する者になるように教えましょう。まず、美しい人間を、踊る子供を創るのです。」ニーチェは、「踊ることのできない神は信じられない。」と言っている。また、「われわれが踊らなかった日は、失われたと考えさせしめよ。」とも言っている。
 だが、彼はピルエットをすることを意味したのではない。動きにおける生命の高揚を意味したのである。
 音楽のハーモニーは、自然の動きのハーモニーと等しく存在する。
 人が音楽のハーモニーを案出したのではない。それは、生命の根本原則の一つである。動きのハーモニーもまた案出されることはできなかった。自然自体から、それについての概念をひき出すこと、また、流れる水のリズムから、あたりを吹く風から、すべての大地の運動、動物の、魚の、小鳥の、爬虫類の動作、果ては、まだ自然と調和を保って動く原始的な人間の動作から、人間の動きのリズムを探し出すことが、不可欠なのである。
 道義心についての最初の概念をもって、人は自己意識的となり、身体の自然な動きを失う。現在では、長い歳月をかけた文明の知性の光の中で、人間が無意識に失ったものを意識的に探すことが不可欠である。
 地球のすべての動きは、波の動きの線に従っている。響きも光も、波となって動く。水、風、木、そして草も、波となって進む。小鳥の飛ぶのも、すべての動物の動きも、うねる波のような線を描く。もしも人間の肉体の動きの身体的な開始点を探したとしたら、波のうねる動きをなすきっかけがそこにあるのだ。それは自然の要因のひとつであり、そのような要因の中から、子供も、踊り手も、踊りに対する何か根本的なものを吸収するのである。」

「自然は、すべての芸術の源となるべきであり、舞踊は、調和とリズムの中の自然の力を利用すべきである。しかし、踊り手の動きは、つねに自然のいかなる動きからも遊離しているであろう。」







こちらもご参照ください:

ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 高橋巖 訳 (ちくま学芸文庫)
『大野一雄 舞踏譜 【増補版】 ― 御殿、空を飛ぶ。』

















































土方定一 『日本の近代美術』 (岩波新書)

「パリの裏街風景を美しいと思うのは、ユトリロの伝統であるが、佐伯の画面の切実な哀感と東洋的な筆触は、ユトリロにないものである。(中略)パリの裏街風景を美しいと思う佐伯の伝統をついでいるのは荻須高徳(たかのり)である。パリの裏街風景を美しいと思うのは、亡霊のような世界だが、しかし画家はすべて、自己が美しいと思って憑かれた亡霊の世界の画家たる以外に道はない。」
(土方定一 『日本の近代美術』 より)


土方定一 
『日本の近代美術』
 
岩波新書 (青版) 609/E 68 


岩波書店
1966年10月20日 第1刷発行
1981年1月20日 第9刷発行
iii 216p 索引8p 
別丁口絵(モノクロ)1葉
新書判 並装
定価380円



本書「あとがき」より:

「享保期に定着しはじめる日本の近代美術は、それまでの日本の伝統美術(日本画)の知らなかったヨーロッパ・ルネサンスの意味の科学的な写実主義の移植であった。が、黒田清輝によるラファエル・コランの外光派の移植以後は、一般的にいえば、敗戦まで、フランスに次々と継起した流派の移植過程であったといっていい。だが、この移植過程の軽佻浮薄さに抵抗し、自己の経験を透徹した造型意志につらぬかれた永遠の作品として実現した作家がおり、そのことで、日本の近代美術は成立している。
 と同時に、現在でも、日本画と洋画が、ともすれば、別々に鑑賞され批評されているように、近代日本の日本画は、伝統美術の性格をもちながら、自然に対する新鮮な感動と観察を加えて、近代化しようとしている。日本の近代美術の歴史は、この日本画と洋画とをあわせもっているが、この伝統美術の性格を明らかにしなければ、日本の近代美術の二重構造は解決されない。」
「本書は、この二つを主要テーマとして、歴史的に叙述している。この二つを主要テーマとしながら、日本の近代美術を世界美術のなかに置こうとし、(中略)世界美術のなかでの日本の近代美術の姿を復元しようとしている。また、とかく、通史が現象の知識的羅列に陷り易いのを避けて、作家とその時代のなかにも少しばかり入り、絵画、彫刻の内部の理解にまで考えを導くように努めたつもりである。」



本文中に作品図版(モノクロ)33点。扉カット1点。



土方定一 日本の近代美術



目次:

序章
1 伝統美術と近代美術
2 初期洋画のプリミティヴィスム
3 岡倉天心と民族主義的浪漫主義
4 黒田清輝と外光派
5 日本画のなかの近代
6 近代と造型
7 日本画の近代の展開
8 近代日本の彫刻
9 社会思想と造型
10 二十世紀の近代美術
 一 日本におけるフォーヴィスム
 二 日本におけるシュールレアリスムと抽象芸術
11 戦後


あとがき




◆本書より◆


「4 黒田清輝と外光派」より:

「黒田清輝と同郷(鹿児島)であり、わずか一年下の藤島武二(一八六七―一九四三年)は、明治二十九年、黒田清輝が東京美術学校の教授となったとき、田舎の中学の教師(三重県津市、県立中学校)から助教授に推薦されている。黒田から才能を高く評価されたことはいうまでもないが、藤島武二が明治十八年以後、はじめは川端玉章の画塾に入って日本画を習得し、二十三年後、曾山幸彦、中丸精十郎、松岡寿(ひさし)、山本芳翠の画塾を遍歴し、すでに述べたように、明治二十年前後の反動期のなかで、黒田清輝とはちがった人間的=文学的経験を経て、黒田の外光派の影響をうけたことを忘れるわけにゆかない。蒲原有明(かんばらありあけ)、その他の詩人との交友がこのことを語っているが、外光派全盛の白馬会に「天平の面影」(明治三十五年)、「蝶」(明治三十七年)のような浪漫主義的な文学的、また装飾的作品を発表していることが、この作家の性情をよく語っている。この「天平の面影」は、金箔を置いた背景に紫の花をつけた桐の木、その前に箜篌(くご)(弦楽器)をもち赤紫の長袴、青の上衣を着た天平婦人を描いた作品で、ここにみられる浪漫主義的な性情は、次のヨーロッパ滞在(明治三十八年―四十三年)によって、黒田の外光派の影響の跡もなければ、地方的な浪漫主義的感傷を洗いすてた本格的な油彩の伝統技術によって開花することになっている。コランにつかず、フランスではコルモン、イタリアではローマのフランス・アカデミーの院長カロリュス・デュランに師事したことも、この作家らしく、滞欧作「チョチャラ」(明治四十―四年)一点にしても、この作家の開花とぼくがいうことを肯定していただけるにちがいない。体質的といわれるこの巨匠の艶のある油彩の色層、明暗の深い構図、太い力強い筆触であり、「天平の面影」は「チョチャラ」を経て、ときに「芳蕙(ほうけい)」(大正十五年)のようなイタリア・ルネサンスの肖像画の伝統につながり、「耕到天(たがやして、てんにいたる)」(昭和十三年)のような、この作家のフォーヴィスムの頂点となっている。
 コラン系のアカデミズムのなかで、独自な性格(様式)を示した藤島は、文展初期には不遇であったが、美術学校教授(明治四十三年以後)、川端画学校洋画部の担当者(大正二年以後)、また帝室技芸員(昭和九年)となり、自己の性格を一貫して展開することになっている。この作家がいつも、絵画の造型と内容(エスプリ)を語り、「エスプリのない作品、またエスプリを見ることのできない鑑賞は、ともに皮相なものにすぎない」といっていることは忘れられない。
 藤島武二が黒田清輝=コラン系の外光派のアカデミズムのなかで剛毅に自己の性格を展開した巨匠とすれば、青木繁は同じように、白馬会、文展の外光派のアカデミズムのなかで、同時代の浪漫主義的な詩人たち(雑誌『明星』の文学運動であり、いわゆる「(薄田)泣菫、(蒲原)有明時代」)と共有する明治三十年代の浪漫主義的心情のなかで、近代日本美術史の永遠の作品「海の幸」(明治三十七年、第九回白馬会)、「わだつみのいろこの宮」(明治四十年、東京府勧業博覧会)を描いたが、それ以後、漂泊の窮乏の末に、福岡市松浦施療病院で、明治四十四年、三十歳の若さで肺結核のために死んだ不幸な作家であった。」
「いわゆる「ラファエル前派」のイギリスの画家ロセッティ(一八二八―八二年)と比して、青木繁を日本のロセッティと呼ぶ人がいるが、ぼくの感想からいえば、青木はロセッティより上である。だが、それ以後、生活の窮乏のなかで、制作も少なく、敗残のなかに死んでいる。施療病院の病床のなかで姉妹にあてた手紙は、この作家の薄命の号泣を聞く思いがする。
  「小生も是迄如何に志望の為めとは言ひ乍ら皆々へ心配をかけ苦労をかけて未だ志成らず業現はれずして茲に定命尽くる事、如何許りか口惜しく残念には候なれど、諦めれば是も前世よりの因縁にても有之べく、小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も技能も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世(すくせ)の為劫にてや候べき。されば是等の事に就て最早言ふ可き事も候はず。唯残るは死骸にて。是は御身達にて引取くれずば致方なく、小生は死に逝く身故跡の事は知らず候故よろしく頼み上げ候。火葬料位は必ず枕の下に入れて置候に付、夫れにて当地にて焼き残りたる骨灰は序の節高良(こうら)山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、小生は彼の山のさみしき頂より思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と憤懣と呪咀とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。」」








こちらもご参照ください:

土方定一 『ブリューゲル』 (美術選書)
土方定一 『ドイツ・ルネサンスの画家たち』





































































マリオ・プラーツ 『記憶の女神ムネモシュネ』 前川祐一 訳

「どれほど独創性に富んでいようとも、芸術家たるものは、かずかずの時代的特徴を反映することは避けられない。筆跡に関する用語を用いて、われわれは、(中略)芸術創造のあらゆる様式における「書体(ドゥクトス)」、字体、あるいは書風について語ることができる。」
(マリオ・プラーツ 『記憶の女神ムネモシュネ』 より)


マリオ・プラーツ 
『記憶の女神
ムネモシュネ
― 文学と美術の
相関関係』 
前川祐一 訳



美術出版社 
1979年2月25日 発行
256p 別丁図版76p
A5判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価3,200円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Mario Praz, *Mnemosyne; The Parallel between Literature and the Visual Arts*, (Bollingen series XXXV. 16, Princeton University Press, 1970) の全訳である。」


モノクロ図版121点。



プラーツ 記憶の女神ムネモシュネ



帯文:

「ギリシア神話に伝えられる悠久の太古から、文化を伝え続けてきた記憶の女神ムネモシュネは、また、芸術・詩歌をつかさどる九人のミューズたちの生みの母でもある。彼女は、娘たちひとりひとりが部門を分けてつかさどるさまざまな芸術に対して、時に応じて記憶を励まし、働きかける。その結果、ひとつの時代のさまざまな芸術は、ひとつの共通した著しい傾向を示すにいたる。……
碩学プラーツが多くの美術作品と詞華を駆使して解き明かす〈姉妹芸術〉論。芸術愛好家待望の一巻。」



帯背:

「マリオ・プラーツの
〈姉妹芸術〉論」



目次:

1 詩は絵のようなもの
2 時は真実のヴェイルを剝ぐ
3 多様な媒体における構成の類似
4 調和と蛇行曲線
5 曲線と貝殻
6 望遠鏡的、顕微鏡的、光学機械的構造について
7 空間と時間の交錯

原註
訳者あとがき
図版目次
索引




◆本書より◆


「1 詩は絵のようなもの」より:

「ホラティウスのものとケオースのシモニデスによるものと、ふたつのきまり文句が、幾世紀ものあいだ権威をほしいままにして、つゆほども疑問視されなかった。「詩は絵のようなもの」という言葉がそのひとつで、『詩法』にあるこの言葉は、一個の戒律として解釈された。が、実は詩人ホラティウスの意図は、ある種の絵画のように、詩のなかにはただの一度しか楽しめないものがあるが、他方では、くり返し味読して、厳密な批評に堪えるものもあるということがいいたかっただけなのだ。もうひとつは、プルタルコスがケオースのシモニデスの言葉として紹介した見解で、絵画はものいわぬ詩であり、詩はものをいう絵画であるという趣旨のものである。
 画家と詩人は、幾世紀ものあいだこれらの見解にもとづいて仕事をつづけてきた。画家は、文学における主題をもとに、構図を決定するための霊感をひきだしたし、詩人は、視覚的芸術にしてはじめて十分に伝達できると一般に信じられていた心象を読者の眼前に彷彿させようと苦労を重ねた。」

「ところで、筆跡というものは、すなわちひとりの人間の個性が凝縮して表現されたものではないだろうか。(中略)筆跡というものはひとからならうものだし、その特徴のいくつかは、時代の一般的書体にともなう。だがしかし、書家の個性というものが少しでも関係しているとすれば、それはかならず表面ににじみでてくるものだ。同じことが芸術についても起る。とるに足らぬ芸術家は、時代に共通した要素を、それだけ一層人眼につくやりかたで反映する。が、どれほど独創性に富んでいようとも、芸術家たるものは、かずかずの時代的特徴を反映することは避けられない。筆跡に関する用語を用いて、われわれは、単に狭い意味での筆跡に限らず、芸術創造のあらゆる様式における「書体(ドゥクトス)」、字体、あるいは書風について語ることができる。」



「2 時は真実のヴェイルを剝ぐ」より:

「数年前のことだが、衣裳と下着に関する大変な権威である例のジェイムズ・レイヴァー氏が一冊の小さな本を出版された。その本のなかで、氏は、(中略)ある時代の様式というものは、その時代のあらゆる芸術様式、たとえば婦人服の仕立てのような商業芸術にさえも、特徴をとどめるものだということを、驚くほど要領よく証明してみせた。(中略)レイヴァー氏は、この簡潔な小冊子のなかで、古代アッシリア人のかぶりものとカルデアの塔状神殿、《デルフォイ神殿の御者像》とイオニア式円柱、中世の騎士の冑の形とゴシック建築のアーチ、十五世紀のヨーロッパ婦人が常用したヘニンと呼ばれる代表的なかぶりものと十五、六世紀に流行した火炎式のゴシック尖塔、十六、七世紀のだぶだぶの半ズボンとエリザベス朝代の机の脚などを、左右のページに対(つい)に並べるという簡単な方法で、(中略)過去のある任意の時代をとった場合、その時代の種々雑多な芸術表現のあいだには密接な関係、いってみれば「血縁関係(エール・ド・ファミーユ)」があるということを、一点の疑義をさしはさむ余地もなくわれわれの前に示そうと工夫している。」

「ある時代の「書体(ドゥクトス)」あるいは筆跡の特徴を証明する方法はまだほかにもあって、思いがけない分野、たとえば贋作芸術の世界にそれを求めることもできる。」
「芸術作品を模倣する人間は、彼が制作している時代の解釈や嗜好を、贋作のなかに結晶させる。」
「十八世紀の中葉、ホレイス・ウォルポールがゴシック様式に倣ってストローベリ・ヒルに建てたあの城は、今日のわれわれには、ゴシック様式としてよりも、むしろゴシックを下手に模したためにロココ趣味におちいっているという気がするし、ヴィンケルマンと同時代のメングスが制作したにもかかわらず、ヴィンケルマンがこれこそ真の古代芸術だとほめそやしたジュピターとガニメデスの絵は、われわれの眼にはどう見ても新古典派の作品としかうつらない。まごうかたなき〈古物〉のシエナ派やフィレンツェ派の絵画と見られながら、その実イチリオ・フェデリコ・ジョニの贋造になる作品のなかに、われわれはもの憂いアール・ヌーヴォーの匂いをかぎわける。ジョニは彼の回想録のなかで、われとわが贋造作について、「制作当時鑑賞家に与えた錯覚は完璧であったし、」さらに「完璧とまではいわないにしても、当時としては十分満足のゆくできであった」と語っている。たとえ贋作者が、古代画家の技法や画面のひびわれを完璧に模倣し、衣裳の細部にわたって時代錯誤を犯すことなく完全に真似ることに成功するとしても、(中略)常に彼を裏切るひとつの要素がある。それは美に対する彼自身の考え方、つまり彼の好みであり、こればかりは、どんなことがあっても贋作者自身が生きた時代の烙印から逃れることはできない。デカダン派の見たボッティチェルリは、それから五十年後にわれわれが眺めるボッティチェルリではないし、ましてや日本の有名な美術批評家矢代幸雄が見たボッティチェルリとも違う。矢代は、このフィレンツェ派の画家に関する著書の挿絵として、彼の作品の細部を写した写真を用いているが、そこにのったボッティチェルリの図版は片意地なと思えるほどに凝ったもので、まるで日本画に見まがうほど従来のボッティチェルリからは遠いものである。」
「「諸兄が過ぎ去りし時代の精神とお呼びになるものは」とゲーテは語っている、「つまるところ、過去を反映する諸兄ら御自身の精神以外のなにものでもないのであります」。」
「有名な実例は、ウォルター・ペイターがレオナルドの《モナ・リザ》について語った一節で、これは、あの捉え難い女人像を、ロマン派の「宿命の女」の系列にすえて解釈したものである。」

「結論として次のことだけははっきりさせることができる。すなわち、ひとつの時代のあらゆる芸術作品には共通した類似点があって、これは、後にそれを模倣した作品がおのずから異質な要素を露呈することでそれと確認できるものである。どのような分野に手をつけようと、同じ芸術家の作品には、表面に表われないにしても表われるにしても、ひとつの首尾一貫したものがある。(中略)したがって、さまざまな芸術間に存在する共通のきずなを探ってみようとするわれわれの狙いを思いとどまらせるようなものはなにひとつ認められないということである。」



「4 調和と蛇行曲線」より:

「宗教が芸術家にとって霊感の主要な根源であることに変わりはないが、たしかに矛盾ともいえるほどにそれが末梢的なものになってしまったこのルネッサンスの世界では、現実には、人間が宇宙の尺度であった。レオナルドの言葉を借りれば「人間が世界の尺度である(ルウモ・エ・ミズーラ・デル・モンド)」ということになる。この飾りっ気のない発言の背後に、哲学的思考のひとつの趨勢がひそんでいるのであって、それは、すでにわれわれが述べた複雑なあのピタゴラス=プラトン理論である。そしてこれは文学を含むあらゆる芸術に浸透してはいたが、主として表現されたのは建築においてであった。ここに、時代の中心的構造、すなわち「書体(ドゥクトス)」が認められるはずで、当然のことながら、どこよりもまずルネッサンス発祥の地、イタリアにおいてである。ルドルフ・ウィトコウァーは『ヒューマニズムの時代の建築原理』という著書のなかで、「ルネッサンス期の芸術家たちが、〈すべては数である〉とするピタゴラス的概念にいかに強烈に執着していたか、そしてプラトンと新プラトン派の哲学者に導かれ、アウグスティヌス以降相ついで輩出した神学者たちに支持されて、彼らが、宇宙と森羅万象の数学的かつ調和のとれた構造をどれほどまでに確信するにいたったか、」さらに「神とこの世界とをギリシア人たちが数学的に解釈していたその態度がルネッサンスに復活したことと、神の姿を反映する人間は、宇宙の調和を具体化したものだというキリスト教信仰に鼓舞されたことで、正方形と円とを組み合わせたなかに描かれたヴィトルヴィウスの人体図が、小宇宙と大宇宙のあいだの数学的調和の象徴となった。われわれはここで当然たずねてみてもいいことだと思うのだが、人間と神の関係を一層見事に表現するためには、正方形と円という基本的な幾何学にしたがって神の神殿を建築することよりほかにはなかったのではなかろうか」という問題を徹底的に展開している。ここから、(中略)完全な幾何学にのっとることが建築における本質的な要素であるという考えがおこった。ルカ・パキオリは、一四九四年にヴェネツィアで出版した『数学大全』のなかで、もしも教会が「しかるべき均整にしたがって」建てられていなければ、聖なる機能もほとんど価値をもち得ないと主張している(第六の書、第一部第二章)。この場合の均整とは、音階におけるピタゴラス=プラトン的区分によっていた。レオン・バッティスタ・アルベルティは、音程と建築上の均整との相互関係を論じた。」
「ダニエレ・バルバロが一五五六年にヴィトルヴィウスを評した見解の一節には、十分な論理性がある。「われわれ人間の師表たる自然は、神に捧げる建造物の寸法と均整の面でわれわれがいかに処置すべきかを教えてくれる。自然は、われわれが神殿において採用すべき調和を、神の姿に合わせそれに似せてつくられた。すなわち人間(引用者注:「人間」に傍点)というかたちの聖なる神殿以外のいかなる根拠からも学ぶことを望まないからである。(中略)だからこそ古代人は、尺度の規準をもまたすべて、人体の各部から推論しようとした。これはまことに分別にかなったことであった。」フランチェスコ・ジォルジは、ヴェネツィアのサン・フランチェスコ・デラ・ヴィーニャ教会のために、ギリシア音階にもとづく精密な寸法を与え、本堂のはずれにある大礼拝堂(カペラ・グランデ)は人体の頭部のごとくあるべきだと考えている。(中略)建築が、それだけで独立した学問としてではなしに、人間精神の無数の表白、それもすべてが同一の法則にしたがう、そういうもののひとつとして受けとられていたのだ。」
「ルネッサンスと、とりわけイタリアの十六世紀は、あらゆる芸術のための処方が前例を見ないほど見事に開花するのを見たのだった。いわゆる法規違反とか不適切とかよばれるものは、詩人たち、たとえばダンテの場合などに、しばしば非難された。ダンテの名声は、形式主義にとりつかれていたこの時期には最低だった。文学のあらゆるジャンルに対して規則が強要され、極端な場合には、紋章とか紋章の銘文にまで規則が押しつけられた。」

「ウィットコウァー教授が説明しているように、時がたつにつれて、ルネッサンスの理論家たちが主張したもろもろの芸術はひとつであるという考えは、一般に信じられなくなった。」
「ルネッサンス美学の土台である客観的真理が可能だという考えは、一般に否定されることになった。」
「今日マニエリスムの名でとおっている反ルネッサンス運動は、プラトン的な理想や普遍的なものよりも、描写の面白さ、奇抜さ、つまりは一語でいえば、特異さに関心を示したのだが、はやくも、古典的慣用とは逆の意味を含んだ効果を求め、その結果、文学と視覚芸術における各部分の均整を乱しはじめていた。」
「緊張と対位法とがマニエリスムの特徴の中心で、このふたつの最も一般的な慣用的表現は蛇行曲線であり、これは非常に沢山のマニエリストたちの芸術に繰り返して登場する図柄である。」
「マニエリストの絵画では、色彩もまた不安定なことが多くて、ひとつの色から次の色へ、「変転位(カンジアンティスモ)」の手法で変わってゆく。壺のたぐいも、あたかも動物的生気がみなぎっているかのように、不思議なうねりの浮きだし模様をほどこして蛇の形になる。空間にさえもあいまいさがみなぎる。ひとつの絵画のなかにふたつの別々の空間が存在し、これがなんとなく無関係で、あいまいさがにじみでていることも多い。ヤコポ・ダ・ポントルモの《エジプトのヨセフ》では、ヨセフにまつわるそれぞれの情景が一枚の画面に描かれている。(中略)暗示的効果を狙ったかたちは、あるときは蛇のような柔軟性を示し、あるときは準宝石の冷たい光彩を放つ。(中略)ものの形をくずしたりゆがめたりした結果は、ルカ・カンビアーソの描く「立体形の人間」や、アルチンボルドの擬人的な静物画においてその頂点に達する。」
「文学における修辞上の様式が、視覚芸術における蛇行曲線に類似しているという実例は、韻文よりもむしろ散文のなかに容易に見つけられるはずである。もっとも、ジョヴァンニ・デルラ・カーサが、行末に句読点がくる詩行に代えて、意味を次の行につづけるとか次の行にまたがる詩行を用いることで、ソネットを改良したことは、マニエリスム的嗜好がいかに世間に浸透していたかを如実に示す実例としては十分に役に立つ。」



「5 曲線と貝殻」より:

「バロック様式の室内では、空間と空間とが本当の意味でひとつに溶け合うということはない。もちろん互いに混じりあうし、大抵の場合には、お互いに中和し合う。が、統一を目的とする場合でさえも、異質感が充満している。ところがロココ様式では、それとは逆に、空間の限界が感じられないのである。狙いは、細かく分解できない単一性をつくりだすことなのだ。ひとことでいえば、ロココ様式とは、室内装飾者の発明にかかるものであり、ロココ装飾は平板で、なめらかな表面を細い縁飾りで飾る。これは微小なものに向かう傾向があり、(中略)次から次へと細かい要素に分解し、CとSの曲線が組み合わさり、(中略)水の模様は滝と流れ、水滴と散る。」
「ロココ様式は、その空間をたとえばピタゴラス的に説明しようとする試みを、初めから愚かしいとしている。この空間に関しては、なにひとつ幾何学の用語に移しかえることはできない。」
「いわば無数のさざ波のきらめきがつくりだす水の流れ、これがロココ装飾の主要な特徴であったが、それはディドロの対話体の文章や、ディドロの先生であったスターンの文体に反映されている(中略)。」
「スターンは、小説の主題は重要な話題でなければならないという考えを捨てることで、伝統的な物語の枠を打ち破った。」
「彼は、あらゆる主題は見せかけの不純であるとしてこれを認めず、この点で、ジョイスはいうにおよばず、想像力の果たす役割の極致は、芸術のなかでも具体的なものはなにひとつ表現しない芸術形式にこそあるのだとする近代思想をも予表する存在となっている。と同時に彼は、他方では、ロココ様式におけるアラベスク趣味の巨匠でもあった。」



「6 望遠鏡的、顕微鏡的、光学機械的構造について」より:

「不釣合いの効用については、すでに早く一六八五年に、ルイ・ル・コントが中国の庭園の特徴、特にその意外さの要素を賞讃したことで強調されていた。そして不釣合いということは、この意外性の要素とあいまって、イギリスでは「シャラワジ(sharawagi)」という途轍もない呼び名でよばれたのであった。レオン・バッティスタ・アルベルティが強く主張した、建物の各部分のあいだには是非とも調和が保たれていなければならないので、どんな要素であれ、加えたり除去したりすれば必然的にもとのものより悪くなる、そういうものでなければならないという原則は、不釣合いという新しい嗜好の擡頭によって危機におちいった。ここから「中心の喪失」ということがおこり、ゼードルマイヤーの言葉によれば、これは伝統をはっきりと絶ち切ったことを意味するのである。芸術は、あらゆる意味で中心からそれた(エクセントリック)ものになる。」

「多くの批評家が、伝統からのこの断絶、それも広くあらゆる分野で認められる断絶がどうして起ったのかを研究してきた。」
「われわれの結論は、問題の核心はロマン主義時代の到来とともに起こった個性の発達にあるのだということになろう。」
「ツァイトラーは、事実、誰でもが承知しているロマン主義時代のあの特徴、すなわち、個人的なものの発達と、それに伴う当然の結果としての内向性と心理学的見解とから出発する。はるか彼方の未知なるもの、漠然として定義しがたいなにものかに対する憧憬と、伝統的な法則の放棄、心をひきつける多種多様な誘惑に対する反応、そしてその後の段階で生ずる、手近かにある物質的現実への撤退はここから生まれるわけで、つまりはこれらが、概略するところではこの世紀における芸術家と文学者の姿勢なのである。」



「7 空間と時間の交錯」より:

「エズラ・パウンドの『カントーズ』やエリオットの『荒地』の詩句には、他人の作品の引用が、まるで文脈と相いれぬしかばねのように浮遊していると思われるし、ブラックやマックス・エルンストやそのほかの絵画にはコラージュの手法が用いられている。(中略)ピカソはその経歴の点で、ジョイスと対比して考えることのできる画家である。ピカソもまた、伝統的様式を模倣し、しかもその模倣に活気を加えることで出発した。(中略)この画家の場合にもジョイスの場合にも、歴史感覚と、歴史上のあらゆる様式が同時に総合されるときの興奮、人が水におぼれるとき全生涯のできごとが走馬燈のように一瞬にして脳裏を駆けめぐる、あの経験にも比較すべき興奮とが、全体としてひとつに集約されているのがわかる。」
「超現実派の絵画が通俗化した、その同じ荒涼たる風景がエリオットの『荒地』の著しい特徴である。」
「ガートルード・スタインが、前衛画家たち、とりわけマティスやピカソと親しく接触していたことは、ピカソがアポリネールやマックス・ジャコブと接触があったこととともによく知られていて、彼女は『アメリカ人の形成』を書くにあたって、自分はピカソが絵画においておこなっていることを、文学の場でしようとしているのだと公言している。」
「E・E・カミングズの詩では、印刷した紙面で字づらがどう見えるかというエズラ・パウンドの着想や、「詩も詩以外の芸術形式と同様、一個のもの(引用者注:「もの」に傍点)である」というウィリアム・カルロス・ウィリアムズの詩論をゆきつくところまで発展させているが、このカミングズの作品は、絵画におけるモンドリアンやカンディンスキーやクレーの仕事を思いださせる。すなわち、自由な手法を駆使して、心象(イメージャリー)のかわりにひとつひとつ符丁を用いるのである。彼の「遊びの芸術(テクノパイニア)」は、これこそ詩であると同時に絵画でもあって、「詩は絵のようなもの」というアレキサンドリアの詩の原理を新しく適用したものである。」






こちらもご参照ください:

アーサー・シモンズ 『象徴主義の文学運動』 前川祐一 訳 (冨山房百科文庫)
































阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 (新装復刊)

「まどろみと夢のなかに萎えながら後退してゆく少女。彼女が、のみならずバルテュスの睡眠や夢遊歩行の硬い甲殻に封じ込まれた人物たちが、棲(すま)うのは、響きと怒りの外界から隔絶して、目を開きながら眠り、聞き語りながら聾啞者のように何ひとつ聞かず語らない、透明なカプセルの世界なのだ。」
(種村季弘 「永遠に通過する画家」 より)


阿部良雄
・與謝野文子 編 
『バルテュス』 
(新装復刊)



白水社 
2001年4月25日 印刷
2001年5月15日 発行
239p 略年譜・作品便覧7p 
19×15.7cm 角背紙装上製本 カバー 
定価2,800円+税
装幀: 柳川貴代


「本書は1986年6月に小社より刊行された」



本文中モノクロ図版(バルテュス作品及参考図版)56点。


バルテュス 01


帯文:

「アントナン・アルトー:
バルテュスの描く裸像は人を夢へと誘うが、
その危険を隠していない。
この危険な夢に魅せられて語られた、詩人・文学者たちの
バルテュスへの証言(オマージュ)を集めて、巨匠の全貌に迫る!」



目次 (初出):

まえがき 與謝野文子


危険な伝統主義者 澁澤龍彦 (「みずゑ」 1968年12月号/『幻想の彼方へ』 1976年)
バルテュス譚詩 酒井忠康 (「gq」 1974年6月)
ヴェネツィア滅ぶべし 阿部良雄 (『西欧との対話』 1972年)
バルテュスとクールベ 阿部良雄 (「みずゑ」 930号 1984年春)
伝統のしずかなる挑発 與謝野文子 (「みずゑ」 930号 1984年春)
バルテュス、あるいは視覚の劇場 渡辺守章 (「みずゑ」 930号 1984年春)
バルテュス、通りの向こう側の風景 森口陽 (「アール・ヴィヴァン」 12号 1984年4月)
表皮―眼差し―光―表皮 峯村敏明 (「アール・ヴィヴァン」 12号 1984年4月)
普遍的で、いびつなかたち 岡田隆彦 (「アート '84」 108号 1984年10月)
永遠に通過する画家 種村季弘 (「アート '84」 108号 1984年10月)
《街路》のディアーナとアクタイオーン 金井美恵子 (「ふらんす」 1984年8月号)
バルテュスの絵を観にゆく、夏 吉岡実 (「麒麟」 7号 1985年6月)


ピエール画廊におけるバルテュス展 アントナン・アルトー/渡辺守章 訳
バルテュスに ピエール・ジャン・ジューヴ/豊崎光一 訳
ラルシャンの記憶 ピエール・ジャン・ジューヴ/豊崎光一 訳
《街路》 ピエール・ロエブ/與謝野文子 訳
バルテュスに ポール・エリュアール/田中淳一 訳
忍耐強い泳ぎ手 アルベール・カミュ/田中淳一 訳
バルテュスの絵画における活人画 ピエール・クロソフスキー/小林康夫 訳
バルテュスの発明 イヴ・ボヌフォワ/阿部良雄 訳
ヴェネツィアの石畳 ガエタン・ピコン/横張誠 訳
バルテュス、あるいは輪廻 ジャン・クレール/與謝野文子 訳
見ること、さわること オクタビオ・パス/飯島耕一 訳
《コメルス・サン・タンドレ小路》をめぐって アンドレ・ベッチェン/阿部良雄 訳

あとがき 阿部良雄
バルテュス略年譜
バルテュス作品便覧



バルテュス 02



◆本書より◆


「危険な伝統主義者」(澁澤龍彦)より:

「いずれにせよ、この人気のない、ブラインドを下ろし鎧扉を閉め切った、日曜日の商店街の閑散とした雰囲気には、妙に物悲しい情緒がただよっていて、判じもののように謎めいた登場人物たちの挙動にも、孤独と不安の影が色濃く滲み出ていることに、たぶん、読者も気づかれたことであろう。カフカの文学を別として、現代の疎外感というものを、これほど見事に形象化した作品を、私はついぞ知らないのである。
 詩的幻想というよりも、散文的幻想といったほうが、バルテュスの場合、より真実に近いような気が私にはする。それは《コメルス・サン・タンドレ小路》だけでなく、すべての彼の作品についても、同様にいいうるようである。
 詩人イヴ・ボヌフォワがいうように、どうやらバルテュスは「たとえ暗示するにすぎないとしても、ある不治の情熱の最も危険な暴力を表現する画家の一人」であるようだ。彼にはどこか危険な伝統主義者といった面影がある。」



「永遠に通過する画家」(種村季弘)より:

「まどろみと夢のなかに萎えながら後退してゆく少女。彼女が、のみならずバルテュスの睡眠や夢遊歩行の硬い甲殻に封じ込まれた人物たちが、棲(すま)うのは、響きと怒りの外界から隔絶して、目を開きながら眠り、聞き語りながら聾啞者のように何ひとつ聞かず語らない、透明なカプセルの世界なのだ。」

「ジョルジュ・バタイユやルネ・ジラールのいけにえ理論を援用して、バルテュスを解釈する作業はそれなりの功徳もないではない。しかし注意しなければならないだろう。(中略)供犠、サディズム、復讐劇的残虐性。目立ちすぎる仮面としてその背後で午后の一刻(ひととき)をまどろみ過ごすには、あまりにもうってつけの口実ではないか。」



「《街路》」(ピエール・ロエブ)より:

「構図をつつみ込む暖かな小麦色の光のなかで、人物たちは行き交う。この場面はどこで起きているかは知らないが、この通りは、画家の住んでいたフュルステンベルグ広場からジャコブ街へぬける道であるようだ。」
「白づくめのこの石工が、画面の主軸をなす。お化けのように画面を通過してゆく。ほかの人物たちは互いに相手の姿を見ずに接近し合い、出会うのだ。別のところに想いをはせている。パン屋の小僧の眼の前で起きるこの不思議なやりとりの当事者たちでさえそうなのだ。まりで遊びながら内省を続ける年齢不詳の子供の想いも、やはり別のところに在る。
 一人の少年が進んでゆく。彼の視線は夢のなかに迷い込む。彼の腕の振りが、自動人形の仕草さながら停止するかたわら、その夢をこわしてはならないと無意識に遠ざかる少女は、自らの夢を追ってゆく。
 女がひとり、落ちつかぬ眠りにおちいった子供を抱きながら、ゆく。
 役者たちがみな夢遊病者であるような、そんな不思議な夢を見ている気がする。造型的な平衡とリズムが、着想と完全に合致するこの完全な構図からは、不安を引きおこす雰囲気がかもしだされる。」






こちらもご参照ください:

『バルチュス展 カタログ』 (1984年)
阿部良雄 『群衆の中の芸術家』 (中公文庫)





















































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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