谷寿美 『ソロヴィヨフの哲学』

「……内省的傾向の強いソロヴィヨフは文字通り食事をとることを忘れることがしばしばあった。(中略)“今日は食事をなさったでしょうね。ウラジーミル・セルゲーヴィチ?” 彼は答える。“いいえ忘れました。そういえば昨日も食事をとりませんでした。”」
(И・И・ヤンジウル夫妻の回想)


谷寿美 
『ソロヴィヨフの哲学
― ロシアの精神風土をめぐって』


理想社 
1990年1月15日 第1版第1刷発行
476p 索引・目録10p 目次・凡例v 口絵(カラー)ii
A5判 丸背布装上製本 機械函
定価5,800円(本体5,631円)



本書「序論」より:

「本稿は、(中略)ソロヴィヨフの宗教哲学上の見解の特質と意義を、でき得る限りその主張に即して見ていくことを目的とするものである。が、もとより、彼の知的活動は極めて広範囲に亘っており、その全体像をここで網羅することは不可能である。(中略)それ故、ここでは、その独自の世界観が理論的に構築された二十八歳までの青年期に焦点を絞る。(中略)一八八一年以降のソロヴィヨフについては、またいずれかの機会に論ずることが許されよう。本稿ではただその思想的出発の礎となった哲学的宗教的信念のみを掌握することに専念する。」
「本稿においては、従来の研究論文の視点を踏襲することは、基本的には(第一章の伝記的部分は別にして)、控えたいと思う。つまり、論者が、ソロヴィヨフに関する事実を紹介したあとで、一方的専断的に分析し判断を下すような姿勢は極力意識的に排したいということである。(中略)ソロヴィヨフを知的な対象物とすることなく、(中略)開かれた一断面から立ち昇るその息吹きを聞くこと、或いは、その息遣いを共にしつつ、その主張の至るところから溢れ出している精神の総体を了解すること、……本稿において第一の姿勢とするのは、まずは、このように対象化して見且つはかるのではなく、質としての全体を、その部分からも聞き取る姿勢でありたいと思う。
 そのためには、ひとまず既存のソロヴィヨフ論からは離れ、(中略)できるだけ白紙の状態でその主張の内に入り、その意図するところを汲み出し、その本質を歪めることなく伝えることに努めたい(中略)。何故ならば、白紙になって一旦はその主張に即して歩むということが、この思想家の場合には何よりも必要とされるように思われるからである。」



谷寿美 ソロヴィヨフの哲学 01


目次:

口絵 
 Icon "Sofia-God's Wisdom"
 Portrait of the Philosopher and Poet Vladimir Soloviev 1885

凡例

序論

第一章 生涯の概説――青年期を中心として
 第一節 出生、幼少年時代
 第二節 モスクワ大学、神学大学時代
 第三節 国外遊学時代
 第四節 ペテルブルグ時代
 第五節 ペテルブルグ時代に発表された作品群
 第六節 一八八一年以降の活動の概略

第二章 思想形成を促したもの――生の根底的変貌を求めて
 第一節 問題提起
 第二節 同苦
 第三節 Н・Ф・フョードロフ
 第四節 フョードロフ、ドストエフスキー、ソロヴィヨフ
 第五節 ロシア精神史の部分的展望
 第六節 ソロヴィヨフの神秘主義的側面
 第七節 ソフィア
 第八節 全一としての神の三位一体性
 第九節 ソフィアの両義性

第三章 初期思想に見られる認識論的諸観点
 第一節 悟性的認識批判――『西欧哲学の危機』を通して
  (1) カント
  (2) ヘーゲル
  (3) 抽象的形式主義
  (4) ショーペンハウエル
  (5) E・v・ハルトマン
 第二節 形而上学的認識の可能性――『全的知識の哲学原理』に沿って
 第三節 理念的直覚もしくは知的思弁
 第四節 自由神智学もしくは全的知識

第四章 初期思想に見られる存在論的諸観点
 第一節 二元論的観点
 第二節 一元論的観点
 第三節 三つのアポリア
 第四節 絶対者の二極性について
 第五節 絶対者の第二極――『全的知識の哲学原理』を中心として
 第六節 絶対者の第二極(絶対者の他者)――『抽象原理批判』を中心として
 第七節 絶対者の他者としての“偉大なる存在”(“理想的人類”の理念)
 第八節 神化もしくは神人性の基底としての一元論的曖昧さ
 第九節 “区別と一致”、“中道”の精神

第五章 全一性の哲学
 第一節 “全て”
 第二節 天の統一と地の統一
 第三節 神化、自己と自己の他者との関わりとしての“全て”
 
第六章 “聖霊の宗教”
 第一節 神の国
 第二節 大地・質料性の復権
 第三節 生命の王国

結論

あとがき

人名索引
著作目録及び文献目録



谷寿美 ソロヴィヨフの哲学 02



◆本書より◆


「総じて、彼の幼年時代は、正教会的伝統に則り、規則正しい生活習慣の中で厳格に育てられたようであるが、そのような中でも既にソロヴィヨフの夢想家とも言える程の個性が、即ち想像力において極めて豊かな個性がその萌芽を見せていることは注目に値する。聖職者階級出身の乳母アンナや母から語り聞かされ、或いはまた、本を通して知る聖人物語やロシアの御伽話の主人公となることは常であり、真冬の夜に荒野の聖人となって毛布をはいだまま眠るという「禁欲的離れ技」を行使している少年の姿を父親が見つけることはしばしばであったという。(中略)自分の周囲の無機物を含めた一切の事物が生き生きと生命を分かち合っているような「魔法の国」が、彼の心の内に息付いていた。

  「その頃私は奇妙な子供だった
  奇妙な夢を私は見たものだった
  見知らぬ姿で 君は現れ
  君の声がぼんやりと鳴り響いた
  君を長い間 子供の夢想の定かならぬ作りものと思っていた……」

ベルジャーエフは、ソロヴィヨフの個性の複雑さを語る中で、その二面性を「昼のソロヴィヨフ」と「夜のソロヴィヨフ」と評しているが、この後者の、闇に閉ざされた他人には窺い知り得ぬ魂の内奥の世界は、ごく幼い頃から彼に開かれていたようである。後年、彼自身がはっきりと詩の形で書き残しているように、既に九歳の折には最初の際立った神秘体験があったと伝えられる。(中略)その少年時の体験とは、キリスト昇天祭の勤行(奉神礼)に出席していた少年の視界から突如としてこの世の諸々の境界が消失し、一面瑠璃色の光彩が広がる中に、「この世のものならざる花を手にした」燦然たる瑠璃色に輝く女性が現れ、彼に微笑みかけて姿を消した、というものである。子供の夢想幻覚といえばそれまでであるが、多くは成長と共に忘れ去られる幻を自らにとっての神聖な現実として、霧に包まれたその無意識下のイメージを、やがては明瞭な言語をもって、哲学として、思想として語り出すようになったのが、ソロヴィヨフであった。」

「さて、このペテルブルグ時代に(中略)ドストエフスキーとの親交が深まっていく。(中略)ソロヴィヨフは作家の最後の大作となった『カラマーゾフの兄弟』の成立とも抜き差しならぬ関わりを持つなど、両者の出会いは一つの時代の象徴として、二〇世紀初頭のロシアシンボリズムの人々によって後年様々に取沙汰されたのである。その一つに、ソロヴィヨフはアリョーシャ・カラマーゾフのモデルであったという説がある。しかし、個性の全貌という点から言えば、(中略)アリョーシャのみと言うよりは、アリョーシャの善良さと純粋さと共にイワンの鋭利な弁証法的知性を兼ね備えていたのがソロヴィヨフであったと見た方がよいのであろう。」

「「一人一人の人間は、ただ全てのものと一緒になって、或いは共同して、始めて救われることができる。つまり、自らの個人的な生命を真の愛の内で復活させ、不朽なものとすることができる。」
 個人を単独で考えるよりは、常に他者と共にあり全体の中にあってこそ生かされる個を考えようとする態度は、一人ソロヴィヨフにのみ特有の姿勢ではなかった。それは或る意味では、ロシア人の宗教的心性の一つの傾向を形造るものと言ってよいかもしれない。」
「そのような罪もしくは苦悩を共有する感覚、それは同情と訳さざるを得ないとしても、やはり同苦ないし共苦(сocтрадание)と解しておくべき感覚であろうが、その文字通り他者の苦(страдание)を共にする(co)同苦の精神が、自己肯定的な個人主義の側面と並んで、ともすれば両極端な矛盾的性格を呈しがちなその国民性の内に息づいていたことは確かなようで、様々な風聞がそれを伝えている。例えば、そうした一つの典型として、ここで、ユロージィヴィの逸話を挙げておいてもよいだろう。キリストのためにこの世の分別を失い痴愚となった彼ら佯狂者達は、権威の外で何ら歯にきぬ着せずに真実を語り予言する者と信じられていた。いわば聖なる狂気によって世間からはみ出した彼らの存在は、それだけでも教会の硬直化した形式主義に対する痛烈なアンチテーゼの役割を果たしていたというが、そのような佯狂者の一人、イワン・ヤーコヴレヴィッチは死に臨んで神と言い争い、繰り返し次のように述べたと伝えられている。
 「誰もが救われますように、地上の全ての者が救われますように!」
 このような逸話が語り継がれてくる背景には、(中略)奥深く、地の底から湧き起こってくるような一つの共感する魂が潜んでいたように思われる。」

「神格の内に受動的女性的原理を欠くということは、人々の意識においても専ら支配的なのがロゴスとしての能動的男性的原理ということになろうが、その結果どういう事態が生じたかといえば、その創造的能動性は、確かに、文明を拡大発展させたとはいえ、それは偏よれば攻撃性であり、飽くことなき闘争への道であった。これに対し、受動的女性的原理、“ソフィア”の「全てを受け容れる愛」の原理が人々の意識に明確に昇らぬ限りは、その闘争殺戮を融和する手段も現実的な力とはなり得ず、調和は未だそこでは単なる夢想に過ぎぬ。一歩誤れば全面的壊滅の危機に瀕している現代人の意識に、“ソフィア”の愛と融和の原理が「生まれる」か否かは、人々のぎりぎりの選択にかかっていようが、……既に前世紀に“ソフィア”の誕生(永遠の相においてはその創造の初めから神の傍らに存在しているとしても、人間の意識にとっては新たに生まれるわけであるから)を語ったソロヴィヨフを、単なる夢想家と見るか否かも、また一つの選択といえるには違いない。」

「「自己を肯定する人格の力が無ければ、エゴイズムの力が無ければ、人間の内なる最も善きものは無力で冷たいもののままである。」
 「人間の内に善を出現させるエネルギーとは、単に自己肯定的な個人の意志の力が打ち負かされ、潜在状態へと移されていく変化のことであるかもしれぬ。」
 「聖性において偉大な者は悪においても偉大」であって、つまりはソロヴィヨフの“神性を受容する人間”は、そのような者と解すべきである。聖人君子であるが故に神を感受し得るのではない。君子ならざるおのが利己性を誰よりも深く自覚するが故に、自己の内なる百鬼を踏み負かし、それをいわば背面に立ち退かせずにはいられぬのである。自己中心を殲滅するその強固なエネルギーが他者を開き、善を湧出させる。自我を完膚なきまでに無とするが故に、いかなる他者をも包摂して全てと、完全無欠となり得るのである。」

「全き没我という「神人的な人格の行為」をなし得る新しい人々が現れ、彼ら「神性を受容する」人々は「神に従って生きる」という新しい唯一の規範に則って、自由に全てが一致する自由神政を敷き、そこに神人社会を構築し、全地に普く及ぶ教会として現れる一大神的有機体を成就せしめて世界を新生へと導く。ソロヴィヨフのこうした考え方を荒唐無稽と笑い捨てることができれば、確かに言うべきことは何もないのであるが、しかしながら、或る人々は既に進化の行く末をそれぞれの言葉で語り始めているのではないだろうか。例えば、J・オリヴィエは『ヒトと進化』の中で、進化した人間精神の内には「汚れのない英知」が備わろうと予測している。「未来のヒトは外見の下に隠された別のものを見」、「今は我々には神秘的で不可解に映ることも……正しく解釈するようになる。そして我々は確かに外界に対してより深い認識を持つだろうし、それによって宇宙に対して異なるヴィジョンを抱くようになろう」と。恣意的な悟性に汚されぬ全的な直観智に遡行し、それによって現象の背後に神的本質を見出し、宇宙の全一性を看取する、のみならず徹底的な没我によって自らその全一態に成っていくことを説いたソロヴィヨフが、そうした新しい人間のあり方を告知する先駆けの一人でなかったとは言い切れぬものではない。新しい理想的な人類の理念に捉えられたソロヴィヨフの構想を、その“自由神政制”等の理念の特異さによって時代錯誤と決めつけるのは易い、が、その前にもう一度、一体何が笑止な企てであり、何が空中楼閣でない企てかを真摯に考えてみる必要はあるのではないだろうか。」

「ソロヴィヨフの「自己の内に生きるのと同じ程に他者の内に生きる」という言明が、どれ程の決意において語られているものか、それはただ安閑とその事柄の善性の故に選び得るというものでもなければ、可能であるから心がけるというものでないだろう。人と人との間の深淵に戦慄し、個と個の間の断絶におののく程に、志し、そして、破れて再び志すその気も遠くなるような積み重ねの上に初めて語られ得た言葉であろう。客観的に見れば殆ど不可能とも思われるその索漠たる「事実を超えて」尚、自己と同じ程に他者の内に生きるあり方を選びとるのは、彼方から差し招く光の故とも考えられるが、それ以上に、光を浮き上がらせる背面の闇の深さをより知るが故とも考えられる。この大地を覆う「暗く愚かしい力」の跳梁に人一倍敏感であればこそ、感性も他者の痛みに同じく血を流したと考えられるのである。彼は言う。「私達の存在の深み、私達の魂の奥深くに」、「全くの無意識の内にも秘かに働き続けている」「暗い盲目的な悪の力」がある、と。」
「意志を自由に神に委ねることによって、「私達は私達の本性の暗い盲目的な悪の力を内面で変えていく」。そして、「その時、神も自らの本性を、即ち、無限の善であり、全き意志であり、全てを貫き、全てを甦らせ、炎の如く燃え上がり、同時に光り輝く愛の精神であるところの自らの本性を私達に開示するのである」。「純粋な宗教性の頂点に引き上げられ、神との道徳的な絆を結び、光を受けて一新されたその人は」、今度は「この世に降りてきて、人々との新しい宗教的な絆に入っていかなければならない」。「その新しい絆の戒めとは全き愛のことである」。「自己の幸いを全ての生きとし生けるものの真の幸いから切り離すべきではない」し、また、切り離すことはできない。「不正に分かたれたものを再び結びつけようとして」、「自己と他者とを等し並みに扱う」時、「私達の個としての完成」と「世界全体の統合」の問題とは切り離すことができないのである。
 なに故、生命の変貌が或る人々にとっては個人の内的変貌にとどまらず、全ての変貌でなければならなかったのか、フョードロフがこの地上に生きる者一人一人が全てに対してその運命の責を負い、が故に、死者をも含めた全ての甦りを生ける者全てが連帯して積極的に求めていかねばならないと説いた、それにもまして、また、ドストエフスキーが、互いに頭を下げ許し合えば既にこの世がこの場で楽園と説いたのにもまして、ソロヴィヨフがその生涯を捧げて万物の更新を謳い孤独な宣教の旅を続けたその理由を、もはや語るまでもあるまい。いのちは無名だからである。そして、無名の没我をなし得る者にとって、いのちは誰かれの所有に帰すものではなく、一個のいのちは即座に全体の不朽のいのちに連なるものであった。生命とは、確かに、全体にほかならず、その一なる事態を全身をもって痛切に了解する者であれば、(中略)その人々は「神的な愛と再結合される」のであろう。
 「その愛は人を神にまで高めるのみならず、内的には神と等しいものとし、彼を全ての被造物と不可分の永遠の絆で結び、存在するもの全てを彼の内に包摂する可能性を与えるのである。この愛が、神の恩寵を地上の自然にまで引き降ろし、道徳的な悪に対するのみならず、その物理的帰結としての病と死に対する勝利を祝うのである。この愛の事態が究極の復活である。」」



谷寿美 ソロヴィヨフの哲学 03






































































































































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アレクサンドル・ブローク 『薔薇と十字架』 小平武・鷲巣繁男 訳 (平凡社ライブラリー)

「さあもう――海中の都市(まち)はすぐ近くですぞ。
鐘の音が聞こえますか?」

(アレクサンドル・ブローク 「薔薇と十字架」 より)


アレクサンドル・ブローク 
『薔薇と十字架』 
小平武・鷲巣繁男 訳

平凡社ライブラリー 124

平凡社 
1995年11月15日 初版第1刷
247p 
B6変型判 並装 カバー 
定価1,100円(本体1,068円)
カバー図版: 《一角獣を連れた貴婦人》より。タピスリー、15世紀。パリ、クリュニー美術館蔵。
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル


「本書は一九七九年十二月、書肆林檎屋から刊行されたものです。」



ブローク 薔薇と十字架


カバー文:

「北へ、夜の彼方へ! 舞台は13世紀、南仏アルビジョワ十字軍の争乱の時代。
騎士の魂は愛と武勲(いさおし)、喜びの薔薇と苦難の十字架とに引き裂かれ彷徨する。
詩劇に託して描かれたロシア革命期の象徴詩人の内面のドラマを鏤骨の名訳で。」



カバーそで文:

「■著者
Aleksandr Aleksandrovich Blok
アレクサンドル・ブルーク(1880―1921)
ロシア後期象徴派の代表的詩人・劇作家。
ペテルブルグに大学教授の子として生まれる。
大学では法学と文学を専攻、メレシュコーフスキイ、
ベールイらと交わる。幼少よりの詩作は、1898年頃から
神秘的傾向の強い抒情詩に結晶し始めるが、
さらにソロヴィヨフの神秘主義哲学の影響と
新世紀の幕開けを受けて、1903年、世界の変貌をもたらす
神秘の女性ソフィアを歌う『うるわしの大地』に結実、
これにより象徴派の指導的詩人としての地位を固める。
05年の革命後は、夢想的な世界から
社会的現実にも目を向け、戯曲『見知らぬ女』(1906)など
都市の暗部を舞台とする作品も試み、
現実と理想の懸隔に苦悩するロシア的魂の伝統を
象徴主義に導入した。10年頃から活動の場を広げ、
劇詩『薔薇と十字架』(1913)などのかたわら、
叙事詩『報い』を構想するが、これが未完のまま
17年の十月革命を迎えると、革命精神に昂揚して
18年には叙事詩『スキタイ人』、叙事的交響詩『十二人』
を相次いで発表した。とくに、赤軍兵士を
キリストの十二弟子になぞらえた後者は、解釈をめぐって
論争を惹き起こす。革命後の混乱に対する幻滅のうち、
21年ペトログラードで病歿。」




目次:

薔薇と十字架
原注

追記 (鷲巣繁男)
『薔薇と十字架』の世界へ (小平武)
あとがき (鷲巣繁男)

解説――舞台に立つ詩人 (中村健之介)




◆本書より◆


「薔薇と十字架」より:

「青い湖(うみ)の岸辺でうら若い母親が
日もとっぷりと暮れ落ちた頃、霧の中に、
わたしの揺籠を置いて、立去りました……
仙女が赤子のわたしをば
湖(うみ)の宮居(みやい)へ運びゆき
霧の薄布にくるんでわたしを育てました……
そして薔薇色の薔薇の冠で
わたしの捲髪を飾ってくれました……」

「それではお行き
雨の世界(よ)へ、
霧の世へ、
運命の女神(パルカエ)の糸が導くところへ……」

「汝(なれ)、この世の遍歴者となりぬべし!
そこにこそ、汝(な)が使命(つとめ)あれ、
汝(な)が喜びたる苦しみよ!」

「わたしは胸に十字架の標をつけ、
この霧深い世界にやってきたのです……」

「さあもう――海中の都市(まち)はすぐ近くですぞ。
鐘の音が聞こえますか?

聞こえます。
騒がしい海が歌っておりますな。

では見えますか?
グウェンノーレの白い袈裟が
海の上をば渡ってゆくのが?

見えまする、白い霧が
広がってゆくところですな。

それでは、ごらんになれますか、
薔薇が波の上で戯れ始めたのを?」



「『薔薇と十字架』の世界へ」(小平武)所引、ブロークによる「説明ノート」より:

「これはまず第一にベルトランという人間のドラマである。ベルトランはヒーローではなく、ドラマの頭脳であり、心臓である……。貧弱な頭脳は、一度として味わったことのない喜びの薔薇と習慣となった苦悩の十字架との和解を求めた。数々の試練と愛の長い道程を歩んだ心臓は、この和解を死の瞬間にのみ見出した。」

「『薔薇と十字架』は、第二に、イゾーラのドラマである。(中略)イゾーラには獣的なところ、暗いところが大いにあり、それゆえ、彼女の方へ抗い難く流れ寄ってきて、われとはなく彼女を動揺させる新しいものすべてが、彼女の全身を肉体的にさえ揺り動かし、頬に血をのぼらせ、怒り、憤怒の発作、失神にまで至らせる。にもかかわらず、イゾーラはきわめて繊細な優雅な楽器であり、はるか遠くの呼びかけさえ彼女の中でこだまするほど、およそ混ぜもののない、純粋な、敏感な金属から創られている。城の住人全体の中でイゾーラひとりが、異郷で生れた他所(よそ)者であり、それゆえ、あらゆる因襲性を欠いている。」



ライブラリー版解説(中村健之介)より:

「鷲巣さんの演じたい欲求は、(中略)劣者が対他関係において自己顕示しないではいられないというのとは違って、自発的、創造的なものであった。鷲巣さん自身の意識の深部において、いわば無償で演じることが欲せられていた。」

「そういう意味で、鷲巣さんは常に、(中略)何か特別の者に成らないではいられない人、自分はこの世の普通の者たちとは違う何か特別の使命あるいは役を負っている存在であるという意識を持たないではいられない人だったように思われる。」

「鷲巣さんの履歴について言えば、(中略)ぜひともきみ夫人の回想が付されるとよいと思う。(中略)疎開先の山梨でダム建設の工事現場で働いたとき、きみ夫人と丸太を担ぐと、なぜか決まって鷲巣さんは丸太の先の細いほうを担いでいた。きみさんも不思議な感じがしたという。監督さんが見かねて「あんた男だろう」とどやしつけたという。北海道の雨竜郡に「開拓」に入ったのだが、土の中から三角形の石が見つかると、もう興奮して耕すことなど忘れ、「ここに石器時代から人が住んでいた証拠だ」と何時間も石に眺め入っていたという。「働くのには向かないんですよ」ときみ夫人は言っておられた。
 鷲巣さんの履歴には「昭和四十七年、一月七日、札幌市北三条西一丁目、興国印刷株式会社を定年退職する」とある。これを読めば大抵の人は鷲巣さんはそれまで毎日会社へ出勤していたと思うだろう。しかし私が札幌へ赴任したのは昭和四三年四月だが、札幌のお宅には電話がなかったので、それから何度鷲巣さんの勤め先であるはずの興国印刷へ電話をしたことか。「鷲巣さんは見えていませんか」。返事は常に「ワスズー、来てないねぇー」であった。一度として例外はなかった。」

「一九七二年に(中略)鷲巣さんは横浜の寺田(引用者注: 寺田透)先生を訪ねた。私はその後寺田先生宅にお邪魔した折りに、「鷲巣さんにお会いになっていかがでした」と尋ねたことがある。言下に「ありゃなんだい」という答えが返ってきた。」














































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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