C・G・ユング/W・パウリ 『自然現象と心の構造』 河合隼雄・村上陽一郎 訳

「ケプラーにとっては、地球は人間のように生き物である(中略)。生き物には毛髪があるのと同じで、地球には草や木が生えており、蟬はそのフケのようなものである。生き物が膀胱に尿を析出するように、山は泉を湧かせる。硫黄や火山生成物は排泄物だし、金属や雨水は血液や汗に当る。」
(W・パウリ 「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」 より)


C・G・ユング
W・パウリ 
『自然現象と心の構造
― 非因果的連関の原理』 
河合隼雄・村上陽一郎 訳


海鳴社
1976年1月14日 発行
viii 270p 別丁図版(モノクロ)6p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,600円



「本書について」より:

「本書は、元来「C・G・ユング研究所研究報告」第四号として、『自然の解明と精神(プシュケー)』《Naturerklärung und Psyche》(Rascher Verl., Zurich, 1952)の標題で発表されたものである。この書物は、ユングの「非因果的連関の原理としての共時性」《Synchronizität als ain Prinzip akausaler Zusammenhänge》と、パウリの「ケプラーにおける自然科学理論の形成に関する元型的理念の影響」《Der Einfluss archetypischer Vorstellungen auf die Bildung naturwissenchaftlicher Theorien bei Kepler》という雙の論文から成っていた。三年後の一九五五年、(中略)この書物の英語版が、『自然の解釈と精神(プシュケー)』《The Interpretation of Nature and the Psyche》のタイトルで出版された(Bollingen Foundation Inc., New York および Routeledge Kegan Paul, London)。」
「本訳書は、書き換え、訂正を受けている英語版を、底本として採用している。したがって、論文のタイトルも含めて、完全に英語版の表現に従っている。翻訳はユングの論文を河合が、パウリの論文を村上が担当している。」



本文中図・表。


ユング パウリ 自然現象と心の構造 01


カバーそで文:

「精神界と物質界の究極を探索した著者たちが、共通の問題意識、すなわちこの世界を如何に認識すべきか、科学の範疇を如何に考えるべきかを論じた問題作。
 心的過程の深奥には、およそ因果的な説明では捉えきれない様々な事象――単なる偶然としては片づけられないものが存在する。それを永年の治療経験や自己の体験から、誰よりも痛切に感じていたユングは、現代物理学からの要請を踏まえながら、心的現象や占星術といった非因果的諸事象をも包摂したこの世界を、統一的に解釈可能な壮大な構想を提示する。
 一方、現代物理学の行き詰りを早くから察知していたパウリは、近代科学の黎明期に遡って、その方法論の根源を探る。そして世界像の差異、つまりケプラーの「元型」概念と彼の論敵フラッドのそれとの差異が、現代の科学を方向づけたことを論証する。
 著者たちの交流から生み出された本書は、反科学論など、多くの分野に影響を与えた科学史的にも重要な論文である。」



目次:

本書について (訳者)

共時性: 非因果的連関の原理 (C・G・ユング/河合隼雄 訳)
 序
 第一章 はじめに
 第二章 占星術の実験
 第三章 共時性の観念の先駆者達
 第四章 結論
 要約

元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響 (W・パウリ/村上陽一郎 訳)
 はじめに
 元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響
 付録Ⅰ 人間の霊魂が自然の一部であるという命題に対するフラッドの反論
 付録Ⅱ 四という数の特性についてのフラッドの論点
 付録Ⅲ プラトン主義的、ヘルメス主義的傾向: ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ


解説 (村上陽一郎)
訳者あとがき
人名索引



ユング パウリ 自然現象と心の構造 02



◆本書より◆


「共時性: 非因果的連関の原理」(ユング)より:

「偶然の集合あるいは連続は、少くともわれわれの現在の考え方からすれば、無意味であり、一般原則としては、確率の限界内に入るように思われる。しかしながら、その「偶然性(chancefulness)」が疑わしい出来事もある。多くの中から一つだけ例をあげると、私は、一九四九年四月一日に、次のようなことを記録している: 今日は金曜日である。私達は昼食に魚を食べる。誰かがたまたま、誰かを「四月の魚」(エイプリル・フールでこけにされる人のこと。フランス語〈訳者〉)にする習慣のことを述べる。その同じ晩、私は次のような文句を書き記す。「人間は全体として、塵から生まれた中途半端な魚(引用者注: 「魚」に傍点)である(Est homo totus medius *piscis* ab imo)」。午後、私の以前の患者の一人が、それまで何ヵ月も会っていなかったのに、その間に彼女が描いた至極印象的な魚の絵を数枚見せてくれた。晩には、魚のような怪物が編まれている一枚の刺繍を見せてもらった。四月二日の朝、別の患者が、何年も会っていなかったのに一つの夢――彼女が湖の岸に立っていると一匹の大きな魚が出てきて、彼女の方に向ってまっすぐ泳いできて、彼女の足元に上陸する――を報告した。私はこのとき、歴史における魚の象徴の研究に取り組んでいた。」
「これを意味のある偶然の一致(引用者注: 「意味のある偶然の一致」に傍点)(meaningful coincidence)つまり非因果的連関(acausal connection)の事例に違いないと思うのはきわめて自然である。(中略)それは私にとって、一種のヌミノース(ルドルフ・オットーの著作『聖なるもの』の中の用語。表現し難く、神秘的で、おそろしく、直接的に体験され、神性についてのみふさわしいものに対する言葉〈訳者〉)な性質をもっているように思われた。」

「ここで私はショーペンハウエル(A. Schopenhauer)の「個人の運命における明白な計画について」という論文――もともと私が現在発展させている見解の代父となっているのだが――に注目したいと思う。それは「因果的には結びついていないものの同時性、つまりわれわれが〈偶然〉と呼んでいるもの」を取り扱っている。ショーペンハウエルはこの同時性を地理学の類比によって例示している。すなわち、平行事象は経線間の結びつきを表現しており、それらは因果的連鎖と考えられているのである。」
「彼はそれを彼の哲学の一般的な傾向に従って、一つの超越的前提、つまり意志(Will)ということから引き出したのである。この意志は、あらゆるレベルにおいて生命と存在を創造し、それらのレベルの各々を調節して、その生命存在が共時的な平存者(synchronous parallels)と調和するだけでなく、運命あるいは摂理という形で将来の事象を配置するようにしていると彼は考える。」

「作家ウィルヘルム・フォン・シォルツ(Wilhelm von Scholz)はなくなったり盗まれたりした物が、不思議な具合に持主に帰ったいくつかの話を集めている。なかでも彼は、自分の幼い息子の写真をブラック・フォレストという所で撮ったある母親の物語を伝えている。彼女はフイルムを現像してもらうために、ストラスブルグに出しておいた。しかし、戦争勃発で彼女は取りに行くことができず、なくなったものと諦めていた。一九一六年に彼女はその間に生まれていた娘の写真をとるためにフランクフルトでフイルムを買った。フイルムが現像されると、それが二度感光されているのがわかった。だが何と下に映っているのは彼女が一九一四年に自分の息子をとった写真だったのである! 昔のフイルムは現像されずに、どういう具合か新しいフイルムの中にまぎれこんでいたのであつた。著者は、あらゆるものは「関わりのあるもの同士の相互誘引」あるいは「選択的親和性」を目ざしているという結論に至っている。彼はそれらが「未知のより偉大でより包括的な意識」の夢ではないだろうかと考えている。」

「ここで、「共時性」という用語のために起こるかもしれない誤解に注意を向けたいと思う。私がこの用語を選んだのは、意味深くはあるが因果的にはつながっていない二つの事象が同時に生起するということが、本質的な規準であるように思われたからである。それゆえ私は、単に二つの事象が同時に生起することを意味するにすぎない「並時性(synchronism)」と対照的に、ある同一あるいは同様の意味をもっている二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象の、時間における偶然の一致という特別な意味において、共時性という一般的概念を用いているのである。
 従って、共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。」

「ストックホルムにおいて火事が起こっているという幻視がスェーデンボルグ(E. Swedenborg)の内に起こったとき、その二者間に何も証明できるようなもの、あるいは考えられるようなつながりすらないのに、その時、そこで実際に火事がいかり狂っていた。私はもちろんこの場合、元型的なつながりを証明することを引き受けようとは思わない。ただ私は、スェーデンボルグの伝記には、彼の精神状態に顕著な光を投げかけるある種のことが存在するという事実を指摘しておくだけにしよう。彼を「絶対知識」に接近させた意識閾の低下が存在したと、われわれは想像する。ある意味で、ストックホルムにおける火事は、彼の心の内でも燃えていた。無意識の精神にとって空間と時間は相対的であるように思われる。つまり、空間はもはや空間でなく、また時間はもはや時間でないような時-空連続体の中で、知識はそれ自身を見出すのである。」

「ライプニッツの予定調和、および上にのべたショーペンハウエルの考え、すなわち第一原因の統一によって、諸事象がそれ自体において因果論的に結合しなくても、それらの同時性や相互関係が生ずるという考えは根底においては、古代のアリストテレス学派の見解の反復にすぎないものであり、ショーペンハウエルの場合には現代的な決定論的色彩をおびており、また、ライプニッツの場合には先行的秩序によってその因果性を部分的に置き換えているのである。彼にとって神は秩序の創造者である。彼は魂と肉体を二つの同期しあう時計に比喩しており、さらに単子あるいはエンテレキーの間の諸関係を表現するために同様の比喩を用いている。単子は相互に直接的に影響しあうことはできない。なぜなら、彼が言うようにそれらは「窓をもたない」からである(これは因果性を相対的に破棄している!)。けれどもそれらの単子は、相互に知り合うことなしに常に調和の中にあるように組織づけられている。各々の単子は「ひとつの小さな世界」であり、ひとつの「分割できない生きた鏡」であると彼は考える。人間が自分自身の中に全体性を包括している小宇宙であるというだけでなくて、すべてのエンテレキーあるいは単子は実際上そのような小宇宙である。各々の「単一の物質」が結合しあっており、この結合性が「すべての他者を表現している」。それは「宇宙を映す永遠に生きた鏡」である。彼は生きた有機体の単子を「魂」と呼んでいる。すなわち「魂はそれ自身の法則に従い、肉体もまた同様にそれ自身の法則に従い、そして両者はすべての物質の間に確立された予定調和によって協和し合っている。なぜなら、それらは同一の宇宙のあらわれであるからである」。これは明らかに、人間がひとつの小宇宙であるという観念を表現している。ライプニッツはこう言っている、「魂は一般に創造された事物の宇宙を映す生きた鏡であり、映像である」。」

「これらの引用から、ライプニッツが因果的結合の外に、単子の内および外で起こる諸事象の中に完全な予定された平行性を想定していることは明らかである。かくして、内的事象と外的事象とが同時的に生起するところでは、すべての場合に共時性の原理がその絶対的な法則になるのである。」

「共時性原理が仮定していることは、ある意味が人間の意識への関係の中で先験的に存在していること、そして明らかに人間の外部に実在しているということである。かかる仮定は中でも特にプラトンの哲学の中に見出される。それは経験的事物の先験的イメージあるいはモデル、つまり εἴδη (形象・種)が実在していて、それの反映(εἴδωλα)を、われわれはこの現象の世界の中で眺めているのだということを容認している。初期の時代にはこの仮定は(中略)完全に自明なことであったのである。」

「共時性は哲学的見解ではなく、ある知的に必要な原理を仮定とする経験的概念である。」
「空間、時間、因果性という古典物理学の三つ組みは、共時性要因によって補われて、全判定を可能にする四つ組み、四元数(引用者注: 「四元数」に傍点)(quaternio)となるであろう。」



「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」(パウリ)より:

「ケプラーにとっては、地球は人間のように生き物である、ということはすでに述べた。生き物には毛髪があるのと同じで、地球には草や木が生えており、蟬はそのフケのようなものである。生き物が膀胱に尿を析出するように、山は泉を湧かせる。硫黄や火山生成物は排泄物だし、金属や雨水は血液や汗に当る。海水は地球の養分である。生き物として、地球は霊魂つまり地球霊(引用者注: 「地球霊」に傍点、以下同)(anima terrae)をもっており、これは、人間霊(引用者注: 「人間霊」に傍点)(anima hominis)に相当程度類似していると考えられる性質をもっている。それゆえ、個別的な霊魂というものを、人間の霊魂と同じように地球霊や惑星の霊のことでもあると考えることができる。同時に、地球霊は、地球内部における形成力(引用者注: 「形成力」に傍点)(facultas formatrix)でもあり、例えば宝石や化石で五種類の正多面体を表現するものである。この点ではケプラーは、パラケルススも支持していた見解に従っている。パラケルススは「アルケウス」(archaeus)という概念を自然の形成原理と考えた。これはまた徴表者(引用者注: 「徴表者」に傍点)として、徴表(引用者注: 「徴表」に傍点)を創出するものでもある。当然のことながら、ケプラーはその議論の中で、フラッドの地球霊を「アルケウス」と呼ぶことも必要とあらば可能であるという考え方を支持している。ケプラーの意見として、地球霊が大気現象や天候などにも関係している、と考えられている点は重要である。例えば、雨が多過ぎるという場合には、地球が病気であることを意味している。」





































































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C・G・ユング/R・ヴィルヘルム 『黄金の華の秘密』 湯浅泰雄・定方昭夫 訳

「無何有郷は是れ真宅なり」
「どこにもない場所こそ、真の家なのである」

(「太乙金華宗旨」 より)


C・G・ユング
R・ヴィルヘルム 
『黄金の華の秘密』 
湯浅泰雄・定方昭夫 訳


人文書院
1980年3月31日 初版第1刷発行
1986年9月10日 初版第6刷発行
336p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,600円



本書「訳者解説」より:

「本書は、深層心理学者C・G・ユングと中国学者リヒアルト・ヴィルヘルムの共著として広く世に知られるに至った『黄金の華の秘密――中国の生命の書――』Das Geheimnis der goldenen Blüte, ein chinesische Lebensbuch. の邦訳である。」
「書名の「黄金の華の秘密」は「太乙金華宗旨」の訳語である。」
「この書は、道教の伝統的用語でいえば、「内丹」の書物である。道教の実践的側面を示すのはいわゆる「錬丹」(丹すなわち薬をねってつくる術)であるが、これを大別すれば外丹と内丹に分れる。外丹は外的手段による錬丹を意味するから、針灸や和漢薬を含んだ漢方医学の源流とみてよいであろう。(中略)これに対比される内丹は瞑想法のことである。」
「太乙金華宗旨および慧命経の訳は、本書が世に出た経緯を考えて、最初はドイツ語版からの現代語訳を主体とするつもりであったが、(中略)ヨーロッパ語からの重訳ではわれわれ日本人にはかえってわかりにくくなるように感じられた。それに、ヴィルヘルムの訳が全訳ではないことや、時には明らかに原文を誤読している箇所なども見出された。(中略)そこで、本文の部分は(中略)漢文をもとにして訳することにし、訓読文と現代語訳を並べ、後者についてはヴィルヘルムの訳語や訳し方をなるべくとり入れることにした。」
「訳文は最初に定方が下訳をつくり、下訳が半分以上完成した段階で、湯浅が訳文を修正するとともに未了の部分を訳出し、二人で討議して最終稿を決定した。」



ユング 黄金の華の秘密 01


目次:

第二版のための序文 (C・G・ユング)
第五版のための序文 (ザロメ・ヴィルヘルム)
リヒアルト・ヴィルヘルムを記念して (C・G・ユング)
ヨーロッパの読者のための注解 (C・G・ユング)
 序論
 基礎概念
 道の諸現象
 対象からの意識の離脱
 完成
 結論
ヨーロッパのマンダラの例 (C・G・ユング)
太乙金華宗旨の由来と内容 (リヒアルト・ヴィルヘルム)
 一 本書の由来
 二 本書の心理学的・宇宙論的前提

太乙金華宗旨
 第一章 天心
 第二章 元神・識神
 第三章 回光守中
 第四章 回光調息
 第五章 回光差謬
 第六章 回光徴験
 第七章 回光活法
 第八章 逍遙訣
 第九章 百日立基
 第十章 性光識光
 第十一章 坎離交媾
 第十二章 周天
 第十三章 勧世歌

慧命経
 一 漏尽
 二 六候
 三 任脈と督脈
 四 道胎
 五 出胎
 六 化身
 七 面壁
 八 虚空粉粋

訳者解説 (湯浅泰雄)
 1 ユングとヴィルヘルムの出会い
 2 太乙金華宗旨と呂祖師
 3 思想的内容と心理学的視点
 4 本書の内容と邦訳について



ユング 黄金の華の秘密 02



◆本書より◆


「ヨーロッパの読者のための注解」(ユング)より:

「ところでこの人びとは、みずからの解放をもたらす進歩を達成するために、何をしたのであろうか。私が見てとることのできた限りでは、彼らは何もしなかったのである(いわゆる「無為」Wu Wei)。ただ、物事が生じてくるままにしておいたのであった。(中略)物事を生じるがままにさせること、行為することなく行為する(無為にして為す)こと、つまりマイスター・エックハルトのいう自己放下は、私にとって道に至る門を開くことのできる鍵になったのである。人は心の中において物事が生ずるままにさせておくことができるにちがいない(引用者注: 「人は~」以下に傍点)。このことはわれわれにとって真の技術なのであるが、多くの人びとはそのことを知らない。彼らの場合、意識は常に助力したり、矯正したり、否定したりして、介入しようとし、どんな場合にも、魂の過程が単純に生成してくるのをそのままそっとしておくことができないからである。」


「太乙金華宗旨」より:

「仏教と道教の祖師たちはいずれも、弟子に対して、自分の鼻のあたまを見ることを教えている。しかしこれは、鼻の尖端に思念を固定させるという意味ではない。」
「鼻は、ここではただ、われわれの視線の目標を定めるだけのものである。瞑想を始めるに当って、(中略)眼を開きすぎるとそれをコントロールできなくなり、視線は外に向い、それによって心は散乱しやすくなる。眼を閉じすぎると、やはりそれをコントロールできなくなって、視線は内側に向い、夢みるようなまどろみの状態に沈みこんでしまう。簾を半分下げるように、瞼を半ば閉じる場合には、ちょうどよい具合に鼻の尖端を見るようになる。そのため、鼻を眼の向かう目標にするのである。」

「初歩の人が〔瞑想時に〕おちいり易い症状は二つある。それは昏沈〔内へこもって怠惰、眠気、憂鬱に沈むこと〕と散乱〔外からの刺戟にとらわれて、心がたえず動くこと〕の二つである。こういう状態におちいるのをしりぞけるにはこつがある。それは自分の呼吸にとらわれないことである。」
「われわれの思念はたえず動き廻っているものであって、一呼吸の間にも瞬間的な妄念がともなっている。(中略)われわれは毎日何万回も呼吸しており、したがって何万もの妄念をいだいているのである。」

「静けさの中で、とぎれることもなくつながった感じで、心の動きと気分が昂揚して、酔ったような、湯を浴びたような、喜びあふれる感じになることがある。これは、陽の気が〔春の大地のように〕全身をめぐって調和しているしるしである。このとき、「黄金の華はたちまち蕾(つぼみ)が芽生える」のである。」
「やがて一切の音が消えて静寂になり、白く輝く月が中天にかかり、この大地は〔すみ切った空の月とともに〕明るい光にみちみちた世界のように感じられてくる。そのときは、心の本体がはっきりと明らかになってきたしるしである。これは「黄金の華がたちまちひらく」という体験である。」
「やがて(中略)全身が力にみちあふれたようになり、冷たい風や霜にあたっても平気だというような感じになる。他の人たちなら何の興味も覚えないような事柄に出会っても、自分にはますます精神力が充実してくるのが感じられる。(中略)この世の腐り果てたようなものであっても、真の気のエネルギーをそれに吹きかけて、ただちに生き生きとよみがえらせることができる。赤い血は甘美な乳に変り、七尺の肉のかたまりである自分の身体は、ほんものの黄金の宝になってしまう。このような体験が、「黄金の華の大いなる結晶」のしるしなのである。」

「玉清は逍遙訣を留め下せり
四字は神を凝らせ、炁(き)穴に入る
六月、俄(にはか)に白雪の飛ぶを看(み)る。
三更に又、日輪の赫(かが)やくを見る
水中に吹起し、巽(そん)風を藉(か)る
天上に遊帰し、坤(こん)徳を食(くら)ふ
更に一句有り、玄中の玄
無何有郷は是れ真宅なり

玉清〔天心〕は、たましいの遊ぶ秘訣をこの世に留めおかれた
四字〔無為而為〕の教えとは、精神のはたらきを結晶させて、気の空間〔気の身体の穴〕に入ることである
暑い六月に、突然、白い雪が舞うのを見る
深夜〔午前零時〕に、また太陽の輪が明るく輝くのを見る
水中に吹く風は、初夏の微風によって起り
たましいは天上に遊び、母なる大地の力を食べる
そして、深い秘密の中でも最も深い真理を示す一句がある
どこにもない場所こそ、真の家なのである」

「全身の気をめぐらせるとき、一切の区別は消えて、極大は極小でもあることが体験される。が、ともかく、一たび小周天の瞑想をおこなえば、天地のすべての存在はそれとともに回転するのである〔大周天と小周天、大宇宙と小宇宙の一致〕。この体験は、一寸四方の場所〔両眼の間〕で生起する。したがってこの場所は、最も大いなる場所でもあるのである。」
「黄金の仙薬を育てる訓練期間の問題は、要するに、自然な心で瞑想ができるか、不自然な心におちいるかの区別にある。天地はあるがままに天地として存在し、すべての存在はあるがままにすべての存在としてある。これを無理に自己の存在と一体にしようとしても、結局のところ一体にすることはできない。」



「慧命経」より:

「生れることもなく、滅びゆくこともない。
過ぎ去ることもなく、これから来ることもない。
一つの光の輝きが精神の世界をつつむ。
人は互いに忘れる、静かに、そして純粋に。力強く、そして虚(むな)しく。」

「空は天上の心の輝きに照らし出され、
海の水はなめらかに、その面に月を映す。
雲は青空へ消え、
山々は明るく輝く。
意識は観照の中に溶け去り、
月輪はひとり安らっている。」



ユング 黄金の華の秘密 03
































































C・G・ユング/M-L・フォン・フランツ 『アイオーン』 野田倬 訳 (ユング・コレクション 4)

「「この小魚は非常に小さく、ひとりぽっちで、体形が独特である。ところが大洋のほうは大きく広い。したがって世界のどこにそれが生息しているかを知らぬ人々には、この魚をつかまえるのは無理である。」」
(C・G・ユング 『アイオーン』 より)


C・G・ユング
M-L・フォン・フランツ 
『アイオーン』 
野田倬 訳
 
ユング・コレクション 4

人文書院
1990年10月25日 初版第1刷印刷
1990年11月15日 初版第1刷発行
550p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,944円(本体4,800円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Carl Gustav Jung: Aion - Antersuchungen zur Symbolgeschichte (Rascher Verlag, Zürich, 1951)の全訳である。(中略)原著は二部構成になっている。第一部はユングが書いた論文で、「自己の象徴性についての考察(Beiträge zur Symbolik des Selbst)」と副題がつけられている。第二部はユングの高弟M=L・フォン・フランツの論考で、「ペルペトゥアの殉教――心理学的解釈の試み(Die Passio Perpetua - Versuch einer psychologischen Deutuing)」と題されている。本書は両論文を訳出し、収録した。」


本文中図20点、挿画8点。


ユング アイオーン 01


目次:

序言 (C・G・ユング)

第一部 自己の象徴性についての考察 (C・G・ユング)
 第I章 自我
 第II章 影
 第III章 シジギー――アニマ・アニムス
 第IV章 自己
 第V章 キリスト、自己の象徴
 第VI章 双魚宮
 第VII章 ノストラダムスの預言
 第VIII章 魚の歴史的意味について
 第IX章 魚シンボルの反対傾向並存
 第X章 錬金術における魚
  一 クラゲ(水母)
  二 魚
  三 カタリ派の魚象徴
 第XI章 魚の錬金術的解釈
 第XII章 キリスト教的錬金術の象徴表現の心理学に関する一般的背景
 第XIII章 グノーシス主義における自己の象徴
 第XIV章 自己の構造と力動性
 第XV章 結語

第二部 ペルペトゥアの殉教――心理学的解釈の試み (マリー=ルイーズ・フォン・フランツ)
 I 序論
 II 文献
 III 殉教者たちの正統信仰の問題
 IV 聖女ペルペトゥアの生涯
 V 幻視
 VI 第一の幻視の解釈
 VII 第二および第三の幻視の解釈
 VIII 第四の幻視の解釈

原注

訳者あとがき

人名索引
事項索引



ユング アイオーン 02



◆本書より◆


第Ⅰ部第IV章より:

「心的存在全体の半分にあたる昼間の部分を、そのまま自分と同定している人がいるとする。その人はそう思っているため、夜間の夢をとるにたりないくだらぬものというであろう。だが実際には、夜は昼と同じ長さがあるわけであり、すべての意識は明らかに無意識というものにもとづいていて、それに根ざしており、夜ごとに無意識のなかへと姿を消すのである。それどころか精神病理学は、無意識が意識に対してどんなことをすることができるかを十二分に承知している。だから無意識に対して、素人の目には不可解に映るほどの注意を向けているのである。すなわち、昼間は小さなものが夜間には大きなものであるということ、またその逆もあるということをわれわれは知っている。それゆえ、また昼間の小物のかたわらには常に、たとい目には見えない時でも、夜間の大物が突っ立っているということもわれわれにはわかっているのである。」
「ある一つの内容が統合されうるのは、その内容の持つ二重の側面が意識された場合に限られるのであり、つまり、その内容はたんに知性的にとらえられるばかりではなく、感情価値にも照応して理解されなければならない。しかしながら知性と感情は、お互いに仲が悪い。両者は互いに反発しあう(中略)。自分のことを知性的立場に立つ人間だと自認している人に対し、アニマの形姿をした感情が場合によっては敵対的に立ち向かってくることがある。逆に、知性的なアニムスが、感情的立場を力ずくでおそうこともある。したがって、物事を知性的にばかりではなく感情価値にも見合うように認識してゆこうという芸当を成しとげたいという人は、よくも悪くもアニマやアニムスと正面きって対決しなければならないのであって、そうすることによりはじめて、より高次の結合、対立物の統一(コンユンクツィオ・オポジトリウム)を軌道にのせることができるのである。この結合こそは、全体性にとって不可欠な前提条件にほかならない。」



第I部第V章より:

「どんな樹も、その根が地獄に達していないと天国にとどかない、と言われる。このような運動の持つ二重の意味は、振り子の本性である。キリストは完全無欠である。だがその閲歴の冒頭に、サタンとの出会いがあった。この敵対者こそは、キリストの出現が意味するところの世界の魂におけるあの強大な緊張を下から支える橋台にほかならない。そして影が光に添うごとく、サタンは正義の太陽(ソル・イウスティティアエ)たるキリストに不義の神秘(ミュステリウム・イニクウィタティス)としてより添い離れることがなく、エビオン派やユーカイト派の人たちがまさしく言ってのけたように、兄と弟さながらなのである。」

「今日でもいつの時代でも、人間は自分の中にいて折あらばと機会をうかがっている悪の危険性を見過ごさないことが肝要である。」
「私が固執せざるをえないのは、心理学というわれわれの経験領域においては白と黒、光と闇、善と悪は等価的対立物であり、一方はつねに相手を前提とするという点である。この単純なる事実は、いわゆる『クレメンス説教集』と呼ばれる西暦一五〇年(?)ごろにしたためられたグノーシス=キリスト教文書の選集においてすでに正しく評価されていて、名前のわからないこの著者は善と悪を神の左右の手と解し、天地創造そのものもさまざまのシジギー、つまり対立的一対から成り立っているとしているのである。」



第I部第X章より:

「「この小魚は非常に小さく、ひとりぽっちで、体形が独特である。ところが大洋のほうは大きく広い。したがって世界のどこにそれが生息しているかを知らぬ人々には、この魚をつかまえるのは無理である。」」

「錬金術の mare nostrum (われわれの海)が、ちょうど日常の経験的な夢解釈においてもそうであるように、無意識一般の象徴であるということをわれわれは知っている。この魚は微小ではあるが、意味ありげに広大な海の中心に棲み、体が小さいにもかかわらず大きな船でさえ止めてしまう力を持っている。このエヘネイスについての記述を読むと難なくわれわれには、この著者は『〔哲学者の〕謎』の「骨と皮の欠けたまるい魚 piscis rotundus ossibus et corticibus carens」を熟知していたことがわかる。それゆえわれわれは、まるい魚を自己(ゼルプスト)とみなす解釈を造作なくエヘネイスにあてはめて考えることができるのである。自己(ゼルプスト)の象徴はここでは、無意識というとてつもない大洋の中のごく微小なるもの(valde exiguus)として現われている。ちょうど世界の大洋(pelgaus mundi)の中における人間のように。魚として象徴化したことは、この状態の自己(ゼルプスト)が無意識的内容(引用者注: 「無意識的内容」に傍点)であることを特徴づけている。もし意識的な主体の側に「知慧の磁石 magnes sapientum」が存在しなければ、この不可視の生物体をつかまえる見込みはまずおそらくないであろう。その磁石なるものが、師匠が弟子に伝授できるもの、すなわち「学理 theoria」であることは明白である。この学理(テオリア)こそは、錬金術師の出発点となりうる唯一の現実的な財産である。というのも、第一資料(プリマ・マテリア)はあくまでもまず見出されなければならぬものであって、錬金術にとってそのために役立つのが「智慧の巧妙なる秘密 artificiosum secretum sapientum」、まさしく伝授可能の理論(テオリー)だからである。」
「それは(中略)すなわちこのような教説によって一にして全なるもの、姿かたちは最小ながら最大なるもの、久遠の焰の中の神自身が深海の魚のように釣り上げられるであろう。そしてその神は「深淵から解き放たれ de profundo levatus」、聖体の参入行為(アズテク人のいわゆる teoqualo =神を食すること)によって人間へと肉体化される、というか、人間の領域へと持ちこまれることになるであろう、といったことであったのである。
 この教説は秘密の巧妙きわまりない磁石(引用者注: 「磁石」に傍点)であり、この磁石のおかげで小魚レモラ、「姿は小さいが力は大きい」この小魚は海上の誇り高き快速船団を止めるのである。実はこれについてはプリニウスの語る楽しく興味ぶかい話があり、それは「われらが時代の」皇帝カリグラの五橈列船(クウィンクウェレミス)にふりかかった冒険譚である。この小魚は体長はせいぜい半フィートしかなかったが、皇帝がストゥラからエンティウムへともどるとき、舵に吸いついてしまい、船を停止させてしまった。この航海からローマへ帰り着くと、皇帝カリグラは部下の兵士たちに殺された。つまり小魚エヘネイスは凶兆であった、というのがプリニウスの主張である。(中略)プリニウスはこのエヘネイスの摩訶不思議な力に対し、感嘆おくあたわずというところである。明らかに彼の驚嘆は錬金術師たちの感じた驚嘆と軌を一にしており、彼ら錬金術師たちは「われわれの海のまるい魚」の正体をレモラとみなした。その結果、レモラは無意識という広大な空間の中のごく小さなものの象徴となった。しかしこの微小なるものは運命的な意味を持っている。それは自己(ゼルプスト)、アートマン Atman、「小なるものより一層小さく、大なるものよりも一層大きい」といわれるものにほかならない。」



第I部第XI章より:

「世界についての「知識」は「わが胸のうちに住む」がゆえに、錬金術師は自分の世界認識を「自分自身」についての知識から汲みとるべきである。なぜならまず知らなければならない自分の自己(ゼルプスト)というものは、神と世界とがまだ別れていない原初的一体から生れてきた自然の一部だからである。」
「少なくとも(中略)錬金術師は、自分が全体の一部であるがゆえに、全体についてのイメージを自分の中に抱いていることを知っていたにちがいない。この全体についてのイメージは、このような考えを簡潔に言い表わしたパラケルススの表現を借りると、「蒼穹(フィルマメント)」であり「オリュンポス山」である。内的な小宇宙(ミクロコスモス)は、錬金術研究が思わず知らずのうちに無意識的に選んだ対象であった。今日のわれわれであったら、この対象を集合的無意識(引用者注: 「集合的無意識」に傍点)と呼ぶであろう。集合的無意識は客観的なものと言わなければならない。なぜならば、これはすべての個々人の中に一貫して、あくまでも自己同一性を失わないからであり、したがってただ一なるもの(引用者注: 「一なるもの」に傍点) Eines であるからである。」



第I部第XV章より:

「とどのつまり、自己(ゼルプスト)とは「対立の複合体 complexio oppositorum」のことだと認めざるをえない。そもそも対立のない現実というものは、存在しないからである。」


第II部より:

「ペルペトゥアが服を脱ぎ捨てるのには、もっと深い意味がある。『ヘルメス全書』(VII, §2, 3)には、こう記されている。「お前たちの手をとって知識(グノーシス)の門へと導くべき案内人を探すがいい。そこには、闇から清められた輝く光がある。(中略)そこでまずお前はまとっている衣を引き裂かなければならない。すなわち無知の織物(to hyphasma tēs agnōsias)を、悪の砦を、つけている手足の枷を、闇の囲いを、生身(いきみ)の死を、目の見える死骸を、倒された墓を……」。なぜならこれこそ「衣のように身につけている敵なのであり、それがお前を自分のほうへ下に向って締めつけていて、そのためお前が仰ぎ見て真理の美を認めることができないようにしているからだ……」。それゆえ秘儀受伝者は叙階において光の浄化された天上の衣裳を一方で受けるとともに、前もってまず自分の地上的な肉体性(sōma―sēma!)と》agnosia《(無知)の衣裳を脱いで引き裂かなければならないのである。グノーシスの影響を受けた外典のソロモン雅歌にも似たような個所が見出される(第一一雅歌)。「わたしは愚かさを地上に残すため、愚かさを脱ぎ捨てた。それ(霊)はその衣によってわたしをよみがえらせ、その光によってわたしをつくり上げた」。また第二一雅歌には「わたしは闇を脱いで光を身にまとった」とある。さらに第二五雅歌。「わたしはお前の霊の毛布にくるまれて、それまで着ていた毛皮の衣を脱いだ」。
 つまりこのように衣裳を脱ぐのは、(中略)動物的な本性を捨てること、(中略)それどころか場合によっては地上的な現実の生存を捨てることを意味しており、ペルペトゥアの場合にはこれによっていわば完全に一つの「霊(ガイスト)」になったのである。」
「両性の対立が彼岸で止揚され統合されることについては、(中略)アレクサンドリアのクレメンスのものとして伝わっている訓言も暗示している。「お前たちが恥の衣裳を足で踏みつけてしまったとき。そしてもし二つのものが一つのものとなり、外なるものが内なるものとして等しくなり、男性的なるものと女性的なるものが合一し、男性的でもなく女性的でもなくなる場合」。このような考えは次のような前提をもとにしている。すなわち人間はたんに生理的にのみならず心的な全体性としても、男女両性を自分の中に統合している。無意識はいつも相対立的な性質を含むからである(だからこそ両性具有者(ヘルマフロディトゥス)がヘルメス哲学において全体性のシンボルとなったのである)。」














































































C・G・ユング 『ヨブへの答え』 林道義 訳

「今や人間はもはや自らをちっぽけだとか無に等しいなどと言い逃れすることはできない、なぜなら暗い神が彼に原子爆弾や化学兵器を押しつけ、それによって『黙示録』の怒りの鉢を同胞の上に注ぐ力を与えたからである。」
(C・G・ユング 『ヨブへの答え』 より)


C・G・ユング 
『ヨブへの答え』 
林道義 訳


みすず書房
1988年3月10日 第1刷発行
1992年7月15日 第6刷発行
193p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,854円(本体1,800円)



本書「訳者あとがき」より:

「本訳書の底本は "Antwort auf Hiob", Rascher Verlag, Zurich, 1952 である。ただしラッシャー版全集第一一巻(一九六三年)によって補ったところもある。」


ユング ヨブへの答え


帯文:

「ユダヤ=キリスト教の歴史を貫く人間の心の変容を、意識と無意識のダイナミックなせめぎあいを通して明らかにする。ユングの最高傑作を明快な翻訳でおくる。」


帯背:

「神と人間のドラマ」


カバー裏文:

「旧約聖書の「ヨブ記」は、たえず人々の関心を引きつけてきた。行ないの正しいヨブが、なぜ子供を殺され、財産を失い、不治の病いにかからねばならなかったのか。しかも、サタンの誘いに神がのってヨブを試した結果として。
 ユングの感受性は何よりもまず「ヨブ記」の異様な雰囲気に引き寄せられる。そこでは聖書の中で他に類を見ないことが起こっている。人が神に異を唱え、反抗しているのである。神との確執の中でヨブが見たものは、神の野蛮で恐ろしい悪の側面であった。ヨブは神自身でさえ気づいていない神の暗黒面を意識化したのである。
 ここでユングは独創的な見解を打ち出す。神は人間ヨブが彼を追い越したことをひそかに認め、人間の水準にまで追いつかなければならないことを知った。そこで神は人間に生まれ変わらなければならない、というのだ。ここにイエスの誕生につながる問題がある。旧約と新約の世界にまたがる神と人間のドラマを、意識と無意識のダイナミックなせめぎあいを通して、ユングは雄大に描いている。「ユングの数ある著作の中でも最高傑作」と訳者が呼ぶのも至当であろう。」



目次:

好意的な読者へ

ヨブへの答え

原注
訳注
訳者解説
訳者あとがき




◆本書より◆


「キリストの誕生は歴史的な一回限りの出来事であるにもかかわらず、しかしそれはいつでも永遠に存在し続けているのである。この種の事柄にうとい人にとっては、無時間的な永遠の出来事と一回限りの出来事とが同一であるという観念はつねにしっくりこないものである。しかし彼は次のような考え方に慣れなければならない、すなわち「時間」とは相対的な概念であって、本来は、あらゆる歴史的な現象がバルドないしプレローマにおいては「同時的に」存在しているという概念によって補われるべきだ、という考え方である。プレローマの中に永遠の「範例」として存在しているものは、時間の中に非周期的な反復として・すなわち多くの不規則的な繰り返しとして・現われる。」

「全世界は神のものであり、神は最初から万物の中に存在している。それなら何のために受肉という大芝居が必要なのかと、いぶかしく思われるにちがいない。」
「「神が人となる(引用者注: 「神が人となる」に傍点)」ということは何を意味しているのであろうか。それが意味しているのは神の革命的な変容に他ならない。それはかつての創造に匹敵すること、すなわち神の客観化を意味している。」

「打ち倒され、迫害された者が勝利するのは当然である。なぜならヨブはヤーヴェより道徳的に上に立ったからである。この点では被造物が創造主を追い越していたのである。(中略)ヨブの優位はもはや覆すことのできないものである。その優位によって今や熟慮や反省を本当に必要とする状況が生まれた。それだからこそソフィアが手を貸すのである。彼女は必要な自覚を援助し、それによってヤーヴェが自ら人間になろうとする決断を可能にする。(中略)ヤーヴェは人間にならなければならない、なぜなら彼は人間に不正をなしたからである。義の番人である彼はいかなる不正も償われなければならないことを知っており、また知恵は道徳律が彼をも支配することを知っている。彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである。」

「キリストの一生は、神の一生と人間の一生とが同時に生きられるなら、そうなるはずであるという、まさにそのようなものである。それは一つのシンボル(引用者注: 「シンボル」に傍点)、相い異なる性質の合成であり、言うなればヨブとヤーヴェが結合して一つの(引用者注: 「一つの」に傍点)人格になったかのようである。人間になるというヤーヴェの意図はヨブとの確執から生じたものであるが、それがいまキリストの人生と苦悩の中で成就するのである。」




◆感想◆


本書は宗教書ではなくて心理学書でありまして、ヤーヴェ(神)=無意識、ヨブ=意識、キリスト=自己、受肉(神の人間化)=自己実現(個性化)、です。ようするに本書は、ユング心理学における「自己実現」とは何かを、ヨブによって告発された旧約の恐ろしい神(♂)が叡智=ソフィア(♀)の手引きによってキリスト(両性具有)に受肉し愛の神になる、という宗教的〈たとえ話〉によって説明している本であります。
マニ教(二元論)からキリスト教(一元論)に転向したアウグスティヌスは、神は善であり、悪は存在しない、悪とは善の欠如に他ならない、と考えましたが、二元論的なグノーシス主義や錬金術思想の研究に没頭したユングは、神は対立物(善と悪、光と闇等)の結合であると考えました(※)。
アンゲルス・シレジウスは、「ゴルゴタの十字架は、あなたの中にも立てられなければ、あなたを悪から救い出すことはできない」と説きましたが、「悪」の存在を自分自身の問題として認識し、各自がそれぞれ自己実現=個性化しないかぎり、ナチやヒロシマの惨劇はなくならない、というのがユングの預言でありお説教なのではないでしょうか。

※「しかしながら、耳ざわりに感じられるかもしれないが、われわれは場合によっては、一般に知られている道徳的善を避け、自分の倫理的決定が要求するならば、悪と思われていることをなす自由をもっていなければならない。換言すると、われわれは対立するもののどちらにも、善にも悪にも屈服してはならないと再言したい。」(『ユング自伝』より)













































































C・G・ユング 『変容の象徴』 野村美紀子 訳 (ちくま学芸文庫) 全二冊

「昔の迷信は、世界(および心)のなかの未知のものを適切に表現しようとする象徴であった。」
(C・G・ユング 『変容の象徴』 より)


C・G・ユング 
『変容の象徴
― 精神分裂病の前駆症状 
(上)』 
野村美紀子 訳
 
ちくま学芸文庫 ゆ-1-1 

筑摩書房
1992年6月26日 第1刷発行
532p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,500円(本体1,456円)



C・G・ユング 
『変容の象徴
― 精神分裂病の前駆症状 
(下)』 
野村美紀子 訳
 
ちくま学芸文庫 ゆ-1-2 

筑摩書房
1992年6月26日 第1刷発行
341p+59p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,400円(本体1,359円)



「本書は一九八五年二月二十五日、筑摩書房より刊行された。」


上巻「訳者はしがき」より:

「翻訳には C.G. Jung: Symbole der Wandlung. Analyse des Vorspiels zu einer Schizophrenie. VIerte, ungearbeitete Auflage von "Wandlungen und Symbole der Libido", 1952, Rascher Verlag, Zürich を使った。」
「第一部 三 前史 の大部分を占めるミラーの文章は原著にはないものである。ユングは原文を示さないことを前提としてかなり長文の引用をしているので、重複する部分は多いが、読者もまた同じ材料を手にしてユングの思考をたどるほうがよいと考え、全集本の付録についている独訳から訳出した。」



ユング 変容の象徴 上 01


ユング 変容の象徴 下 01


カバー裏文(上・下巻共通):

「人間の無意識の世界から紡ぎだされた象徴的主題とそれを核として形成された神話的なイメージや象徴的表現の分析による心の構造の探究。リビドを広義の人間的エネルギーと捉え、新しい地平を切り開いたユング心理学の記念碑。図版300点(上巻173点、下巻127点)。」


上巻 目次:

訳者はしがき

第四版の序
第三版の序
第二版の序

第一部
 一 序章
 二 二種類の思考
 三 前史
 四 創造者讃歌
 五 蛾の歌
第二部
 一 序章
 二 リビドの概念
 三 リビドの変容
 四 英雄の誕生
 五 母と再生の象徴



下巻 目次:

 六 母から自由になるための戦い
 七 犠牲
 八 結び

解説 (秋山さと子)

図版目録
索引



ユング 変容の象徴 上 02



◆本書より◆


「第二部」より:

「おや指小僧、ダクテュロス、カペイロスなどにはファロス(引用者注: 「ファロス」に傍点)の一面がある。この小人たちは造形力(引用者注: 「造形力」に傍点)の人格化であり、ファロス(引用者注: 「ファロス」に傍点)も造形力の象徴であるから、これは理解できることである。ファロスはリビドを、心理的エネルギーのうちでも創造的な面を、表す。夢の空想のみならず言語にもしばしば現れる性的象徴の多くについても、このことは一般にあてはまる。このような象徴は夢の場合も言語の場合も、そのつど文字どおりにうけとる必要はない。これらは意味論的(引用者注: 「意味論的」に傍点)にではなく、すなわち一定のことがらを表すために定められた記号(引用者注: 「記号」に傍点)としてではなく、象徴(引用者注: 「象徴」に傍点)として理解されねばならない。(中略)おや指小僧などによって象徴されるこの創造力は、ファロスによっても、あるいはまたその基礎になっている事象のさらに他の面を描出する別の象徴によっても、表されうるのである。」
「象徴としてのファロスは、ヘルメースをすぐれた例とする創造神を表すことが多い。ファロスはひとりだちの存在と考えられる、これは古代によくある考えかただというだけでなく、現代のこどもたちや芸術家が描くのもこのような観念を示している。したがってこれに相応する特徴がなにか神話のなかの見者や芸術家、奇跡の行い手に認められても、ふしぎではない。ヘーパイストス、鍛冶屋のヴィーラント、マニ(マニ教の創始者だが芸術家としても名高い)は足が不自由である。すなわち以下で述べるが、足にもやはり魔法の産出力が備わっているのである。また見者が盲目(引用者注: 「盲目」に傍点)であること、ファロスの祭儀を導入したといわれる古代の見者メラムプースの名が特徴的――黒足――であることも、注目される。秘密にみちた地下の神々や、奇跡を行う強大な力をもつと信じられたヘーパイストスの子であるカペイロス(引用者注: 「カペイロス」に傍点)たちの特徴を示すものはとりわけみかけの貧弱さと畸形であった。カペイロスたちの祭儀はサモトラーケーでは、ペラスゴイ人によってアッティカへもたらされたとヘロドトスが伝えている、ファロスを勃起させたヘルメース(引用者注: 「ファロスを~」以下傍点)の祭儀と融合していた。カペイロスたちはまた「大神」ともよばれ、神々の母から鍛冶の術を教えられたイーデー山のダクテュロス(指たちつまりおや指小僧)は、かれらと近い関係にある(中略)。かれらは最初の智者として、オルペウスの師となり、エペソスの呪文と音楽のリズムを発明した。(中略)双子のディオスクーロイはカペイロスと関係があり、かれらの注目すべき先のとがったきのこ形の頭巾はこの秘密につつまれた神々に固有のものであって、こののちひそかな目印として定着してゆく。アッティスもミトラも先のとがった頭巾を被っている。この頭巾はわが国のこんにちの地下に住む小児神、ハインツェルメンヒェンの伝統的な被りものにもなっている。
 小人は、少年神、「永遠の少年」、「こども(パイース)」、若いディオニュソス、アンクルスのユピテル、タゲース、などの像につながってゆく。」

「昔の迷信は、世界(および心)のなかの未知のものを適切に表現しようとする象徴(引用者注: 「象徴」に傍点)であった。」
「文明人はたしかに原始的な迷信を見くだすけれども、それは、中世のよろいかぶとや鉾槍、守りを堅めた城や空にそびえる大聖堂をばかにするのと同じ愚行である。」

「神話が語ることもいつかは本源的だった、すなわち聖なる(ヌミノース)根源体験だったのである。(中略)こんにちでもなおこのような主観的な根源体験を観察することができる。ある神話的陳述(太陽のファロス)が伝達の可能性の認められないようなさまざまの条件のもとでくり返し現れる、という例を先に述べた。あの患者はチューリヒで育った平凡な店員で、中等教育しか受けていなかった。想像力をどれほどはたらかせてみても、この患者が太陽のファロスという観念と顔を左右に振り向けることと風の発生とをどこから関連づけることができたのか、わたしにはおぼろな感じすらつかめなかった。ある程度広い教養をもっていたのだからこのような思考の関係づけについての知識をずっと以前にもてたはずのわたし自身がまったく無知で、この最初の観察(一九〇六)の四年後にようやく、一九一〇年に出たディーテリヒ著『ミトラ祭式文』のなかにこれと並行する観念をみつけたのであった。
 この観察は孤立したものではなかった。自明のことながら問題は遺産として受け嗣がれた観念ではなく、並行する観念を形成する生まれながらの素質、すなわちプシュケーがもつ普遍的な同一の構造なのである。この素質をのちにわたしは集合無意識(引用者注: 「集合無意識」に傍点)と名づけ、このような構造を元型(引用者注: 「元型」に傍点)とよぶことにした。」

「魚は夢ではまだ生まれないこどもの意味をもつことがある。こどもは誕生するまでは魚のように水のなかにいるからである。太陽は海へ没することによって、同時にこどもと魚になる。したがって魚は更新、再生と関係がある。」

「太陽は不死の神として海面を泳ぎ、毎晩母なる大洋へ没し、朝にはふたたび生まれる。」
「海に旅する神々はすべて太陽神である。かれらは「夜の航海」(フロベニウス)のためにしばしば女とともに、小箱または方舟にとじこめられる(中略)。夜の航海の間太陽神は母胎にとじこめられ、しばしばありとあらゆる危険におびやかされている。」
「水のもつ母の意味は、神話学の領域でもっとも明瞭な象徴解釈のひとつである。海は生成の象徴、と古代からいわれている。水からは生命が生じる。」
「命あるものはすべて、太陽のように水から現れ、日暮れにはまた水中へ没する。人間は泉や川や湖沼から生まれ、死んでステュクスの川へ行き、「夜の航海」に発つ。ステュクスの黒い死の水は命の水であり、死のひややかな抱擁は母胎である、海が太陽をのみこみはするが、母としてその胎内からふたたび生みだすように。生命は死を知らない。」

「古代の信仰では月は、死者の霊魂の集る場所、また精液の保管者、したがってやはり女性的な意味をもつ、生命の生まれる場所でもあった。」



「ライオン、雄牛、犬、蛇などわれわれの夢が活性化する動物はすべて、未分化のまだ飼い馴らされていないリビドを表す。このようなリビドは同時に人間の人格の一部でもあるのだから、類人魂(引用者注: 「類人魂」に傍点)と名づけることもできる。」
「合理的な文化の形式にどうしてもおさまらない、むりにおしこんでも具合がわるい、そして文化の発達にできるかぎり逆う、というのがこの「類人魂」である。まるでそのリビドがたえず後向きに、原始的な無意識な、飼い馴らされていない野生の状態に憧れているかのようである。戻り道は、つまり退行は、こどもの時代へ還り、ついには擬似的に母胎にはいってゆきさえする。この過去への烈しさはギルガメシュのなかでエンキドゥによってみごとに形象化されている。」
「治療は(中略)退行を援助しなくてはならない。それも退行が「出生以前の」状態に到るまで、である。(中略)退行が母へ向うというのは、そうみえるだけのことであって、じつは母は無意識へ、「母たちの国」へ開く門なのである。(中略)このように退行は、妨げさえしなければ、「母」のもとには留まらず、「母」をこえてさらにいわゆる出生以前の「永遠の女性的なもの」へ、すなわち原初の元型的可能性の世界へ、回帰してゆく。そこでは「漂う万物の像にかこまれ」て「小児神」が意識のめざめの時を待って眠っている。」

「幼年時代の追憶がもつ金色のきらめきは、事実そのものというよりはむしろ神秘的な、実際に意識していたというよりは予感していたイメージが添加されたところからくるのである。くじらにのまれたヨナのたとえが、この事情を的確に表現している。われわれは幼時の追憶に沈みこんで、現在の世界から姿を消す。暗黒の闇のなかへ落ちこむようだが、そこで思いがけない別の世界の幻をみる。そこでみる「秘義」とは、原初的イメージの宝庫である。これはだれでもが人類の贈りものとしてもって生まれてくるもの、本能独特の生得の形式のすべてである。この「可能態」のプシュケーをわたしは集合無意識とよんでいる。心のこの層が退行してきたリビドによって活性化すると、生の更新と同時に生の破壊の可能性が生じる。首尾一貫した退行は、自然な本能の世界との、すなわち形式的ないし理念的にいうなら原初的素材との再結合を意味する。この素材を意識が捕えることができれば、新しい活気と新しい秩序がもたらされるだろう。」































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

※心の傷、胸焼け、劣等感等ある場合が御座いますが概ね良好な状態になります。

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