C・G・ユング 『心理学と錬金術』 池田紘一・鎌田道生 訳 全二冊

「悪は善と同じ程度に考量されなくてはならない。悪といい善といっても結局は、観念における行為の延長ないし抽象以外の何ものでもなく、両者は共に人生の明暗現象の一部を成すものに他ならないからである。つまるところ悪を生じえない善も、善を生じえない悪も存在しない。」
(C・G・ユング 『心理学と錬金術』 より)


C・G・ユング 
『心理学と錬金術Ⅰ』 
池田紘一・鎌田道生 訳


人文書院
1976年4月15日 初版発行
1984年11月15日 重版発行
324p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円
カバーデザイン: 松味利郎



C・G・ユング 
『心理学と錬金術Ⅱ』 
池田紘一・鎌田道生 訳


人文書院 
1976年10月20日 初版発行
1984年10月15日 重版発行
402p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円
カバーデザイン: 松味利郎



「凡例」より:

「本書は Carl Gustav Jung: Psychologie und Alchemie, (=Psychologische Abhandlungen V) Zurich 1944 の全訳である。底本には第二版(一九五一年)を使用し、傍ら全集版を参照した。大部の著書であるので翻訳出版にあたっては上下二巻に分けた。」


本文中図版(モノクロ)計270点。


ユング 心理学と錬金術 01


第Ⅰ巻 目次:

凡例

初版まえがき
第二版まえがき

第一部 錬金術に見られる宗教心理学的問題
第二部 個体化過程の夢象徴
 第一章 序
  一 考察材料
  二 方法
 第二章 初期の夢
 第三章 マンダラ象徴
  一 マンダラ
  二 夢に現れるマンダラ
  三 宇宙時計の幻覚
  四 個我象徴について

図版出典一覧
錬金術テクスト集成一覧



第Ⅱ巻 目次:

凡例

第三部 錬金術における救済表象
 第一章 錬金術の基本概念
  一 序
  二 錬金術作業過程の諸局面
  三 目的像とその象徴
 第二章 錬金術作業の心的性質
  一 心的内容の投影
  二 作業に対する精神的根本態度
  三 瞑想と想像
  四 魂と肉体
 第三章 作業(オプス)
  一 方法
  二 物質に宿る霊
  三 救済の作業
 第四章 第一質料(プリマ・マテリア)
  一 質料(マテリア)の名称
  二 創造されざりしもの(インクレアトゥム)
  三 遍在性と完全性
  四 王と王の息子
  五 英雄神話
  六 隠された宝
 第五章 賢者の石とキリストのアナロジー
  一 再生
  二 宗教的解釈のための諸証言
 第六章 宗教史に見られる錬金術象徴
  一 象徴の母体としての無意識
  二 範例としての一角獣のモチーフ
 エピローグ

訳者あとがき (池田紘一)

図版出典一覧
人名索引
事項索引




◆本書より◆


第一部より:

「「執着」は医者にとっても患者にとっても望ましいものではなかろうし、それを生に対する消極的態度と見ないことには、訳の判らない、いや堪え難いものであるかも知れない。ところが実際にはそれは、消極的であるどころか逆に積極的と評価されるべき「執着」であるかも知れないのだ。なるほど「執着」は一方では極めて扱いにくい代物であり、しかもこの困難は見たところ克服し難いもののように思われるが、しかし他方ではまさにこの困難のゆえにこそ、全神経を集中して、一個の人間全体をもって応じよと要求しているところの、比類なき状況を示してもいるのである。患者は無意識裡に一貫して、究極的には解決不可能な大問題を追求しており、他方医者は、その技術のありったけを駆使して患者の追求を助けようとする――これが「執着」の示している状況の真の姿ではあるまいか。「わが術の求めんと欲するは全き人間なり」と昔のある錬金術師は言い放っている。追求されているのは、他ならぬこの「全き人間 homo totus」なのだ。医者の努力も患者の追求も、より一層偉大であると同時に未だ可能性としてしか存在していない人間、隠れている、まだ顕在化していない「全き人間」を目指しているのである。全体性への正しい道はしかし、――まことに残念なことに――避けることのできない迂路や迷路から成っている。それは「最長の道 longissima via」であり、真直ぐではなく、ヘルメスの蛇杖さながらに反対の極と極を結びつつ曲りくねった道である。その迷宮(ラビュリントス)にも似た紆余曲折を前にすれば何人も恐怖のあまり後込みせずにはおれないような道である。そしてこの道の途上で、人々が「めったに出会うことのない」と形容したがるあのさまざまな経験が生まれるのである。めったに出会えないのは、それが非常な努力を要するからに他ならない。なぜならこれらの経験が要求しているのは、世間の人々が最も恐れているもの、すなわち全体性だからである。」

「読者諸賢は私の説明の仕方にグノーシス派的神話の響きがあるというので腹を立てないでいただきたい。なんとなれば、われわれが今ここで問題にしている心理学的領域は、他ならぬグノーシス(Gnosis・真の認識)の源泉なのであるから。キリスト教の象徴が伝えようとしているのはグノーシスであり、無意識の補償作用の意味するところはいよいよもってグノーシスに他ならないのである。神話素(Mythologem)はこのような心的過程を物語る最も原初的な、最も本来的な言葉であって、いかなる知的表現といえども神話的な像の豊かさと表現力とに較べれば、それに近づくということはあってもその域に達するということは絶対にない。無意識の補償という心的過程に見られるのは根源的な諸像であって、従ってこれを最も的確に表現しうるのは神話におけるような象徴的な言葉以外にない。」



第二部より:

「しかし人間は自分で考えるだけの能力と尊厳をそなえている存在であり、自分自身の心のうちに何ものかを生み出す萌芽を宿している存在なのである。心の中で人知れず生起していることを辛抱強く観察することは必ずや有意義であって、もし心が外や上から規制されることがなければ、そこに人間にとって最も重大にして貴重なことが生起するのを見ることができるだろう。私は人間の心で生起する事柄に対して深い尊敬の念を懐いているので、密かな自然の摂理に要らぬ手出しを試み、それを妨げたり歪めたりするような真似はしたくない。」


第三部より:

「ところでここでちょっと、私の個人的な見解を挟むことをお許しいただきたい。プロテスタントとして人間は無価値な罪深い存在だと教えられていた私にとって、奉献の言葉の中の次の文句を初めて読んだ時の驚きは大きかった。それは私にとって正真正銘の一大発見であった。すなわち、「おお神よ、人間という価値ある存在を、神異を以って創造し給うた神よ Deus, qui humanae substantiae dignitatem mirabiliter condisti」と「われら人間の一部となる価値を御みずからに認め給いし御方 qui humanitatis nostrae fieri dignatus es particeps」とがそれである。これはまさしく人間に、いわば超越的な価値ないし尊厳を与えるものに他ならない。いや、この称揚の言葉の中にはそれ以上のものが隠されているように見える。なぜなら神自身が人間の一部となる、すなわち人間の本性を分け持つ価値をみずからに認めている(dignatus est)以上は、人間もまた神の本性の一部を分け持つ価値をみずからに認めることができるからである。いやこれはある意味では司祭が、犠牲の秘儀を遂行する際に、キリストの代りに自分自身を犠牲として奉献するという形ですでに実行していることなのだ。そして会衆もまたある意味では、聖体化した肉体〔聖餅〕を食べることによって、それゆえ神の実質を内に取入れ神性を分有するという形で、これを実行しているのである。
 司祭が聖別の文句を唱えることによって聖変化を惹き起し、かくしてパンと葡萄酒から成る被造物を、その物質的な不完全状態から救い出す。これはどこから見てもキリスト教的発想とはいえない。これはまさしく錬金術的発想である。カトリックの立場がキリストの現存と、この現存が人間に及ぼす救済作用とに重きを置くのに対し、錬金術師は物質の運命と物質の救済の顕現とに関心を寄せる。というのも、物質の内には神の魂が閉じ込められ救済を待っているからだ。その際、閉じ込められた神の魂は「神の息子」という形態をとる。錬金術師にとって、まず第一に救済される必要があるのは人間ではなく、物質の中に沈降しまどろんでいる神性なのである。彼らが自分自身のことを考えるのはその次である。すなわち第二番目に初めてこういう希望を洩らすのである。変容した物質が万能薬(パナケイア)として、「メディキナ・カトリカ medicina catholiaca 〔全的救いないし万能薬〕」として、卑俗な金属や「病める」金属のような「不完全な物体」に効き目を発揮するごとく、自分自身にも霊験をもたらしてくれますようにと。それゆえ錬金術師の関心は、神の恩寵による自己の救済にではなく、物質の闇からの神の救済に向けられているのである。そしてこの奇蹟の業(オプス)を実行することによって、この業にそなわる治癒的な力が副次的に錬金術師自身の上にも及ぶのである。」
「神聖な秘密を内包する物質は到る所に存在する。人間の肉体の内にも存在する。それは手軽に、安価に手に入るし、どこででも見出すことができる。この上なくけがらわしい汚物の内にさえ見出すことができる。それゆえ「作業(オプス)」はもはや儀式としての「オフィキウム〔聖なる務め〕」といったような生易しいものではなく、まさしくあの救済の業なのである。この業(オプス)はかつて神自身がキリストを通じて人類に対して成し遂げたものであった。これは錬金術師の救済作業のいわば模範であったのだ。この救済の業がいまや、聖なる術を授けられた哲学者によって、「聖霊の贈物 donum spiritus sancti」すなわち自己の純粋に個人的な「業(オプス)」として受けとめられる。純粋に個人的な業という点は錬金術師たちの強く主張するところである。マイアーはたとえばこう言っている。「他人の精神によって、そして金を払って雇った他人の手によって作業を行う者は、真理からはほど遠い結果しか得られないであろう。逆にまた実験助手のように他人に仕える者も決して女王の神秘に分け入ることはできないであろう」。」
「事実、錬金術師たちは徹底した独立独歩の人々であって、石(ラピス)に関する発言の仕方もひとりひとり異なる。弟子を持つことは滅多になかったし、直接の伝授という形態も非常に少なかったように見受けられる。同様にまた、秘密結社やこれに類する仲間組織の存在した証拠も殆ど見当らない。各人はただひとりで実験に従事し、孤独に堪えねばならなかった。」













































































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『ユング自伝 2』 ヤッフェ編 河合隼雄ほか訳

「しかしながら、耳ざわりに感じられるかもしれないが、われわれは場合によっては、一般に知られている道徳的善を避け、自分の倫理的決定が要求するならば、悪と思われていることをなす自由をもっていなければならない。換言すると、われわれは対立するもののどちらにも、善にも悪にも屈服してはならないと再言したい。」
(『ユング自伝』 より)


『ユング自伝
― 思い出・夢・思想 2』 
ヤッフェ編 
河合隼雄・藤繩昭・出井淑子 訳


みすず書房
1973年5月10日 第1刷発行
1991年9月10日 第18刷発行
276p 「ユングの著作」viii 
口絵(モノクロ)i 図版(モノクロ)6p
著者・編者・訳者略歴1p
四六判 丸背布装上製本 カバー
定価2,472円(本体2,400円)



第一巻「訳者あとがき」より:

「一応、訳の分担は、はしがき、六・七・十一・十二章、および付録、語彙、を河合、一・二・三・四・五章を出井、八・九・十章を藤繩が担当したが、お互いに訳語や訳文を検討しあって、仕事を仕上げていった。飜訳権の関係で、訳は英訳本の Memories, Dreams, Reflections by C. G. Jung. Recorded and Edited by Aniela Jaffé, Pantheon Books, 1963, によったが、常に、Rascher Verlag, Zürich から出版された原文(Erinnerungen, Träume, Gedanken von C. G. Jung)を参照した。
 なお原文は一冊の本であるが、出版の都合で、訳書ではこれを二巻に分け、六章までを第一巻、それ以下を第二巻として出版することにした。」



ユング自伝 03


カバー裏文:

「Ⅱ巻は「研究」「塔」「旅」「幻像」「死後の生命」「晩年の思想」の6章と付録の5篇とから成る。各章ともにユングの内面世界の雰囲気や、心というものが深遠な現実であったひとつの体験の思い出が生き生きと多彩に伝えられている。
 その最も重要な著作の生成過程を概観する「研究」の章で彼は次のように語る。
 「私の仕事についてここに述べた展望は、ここに語りつつあるすべてのことと同じくひとつの即興詩である。それは一瞬の間に生れたものだ。私の仕事を知っている人はこれから益されるところがあろうし、また私の考えを調べる必要性を感じさせられる人もあろう。私の生涯は私の為したことであり、私の学問的研究である。両者は互いに分離することのできないものだ。研究は私の内的発展の表現である……」と。
 1923年にユングはボーリンゲンの水辺に念願の円型家屋を構えた。これは1955年に完成された形になるが、ここでの内的体験の記録が「塔」であり、時間・空間を超えたヴィジョンの世界が展開される。
 「晩年の思想」においては、長年の間にユングの心中に徐々に形成されていった人と神話の意味についての内省が語られる。
 付録には、訣別前後当時のフロイトからユングへの手紙などのほか、本書で初めて公表される「死者への七つの語らい」が収められる。これは1913年から1917年の間にユングの内面に形成される印象を伝えたもので、後年の彼の思想の研究に貴重な書となるものである。」



目次:

VII 研究
VIII 塔
IX 旅
X 幻像(ヴィジョン)
XI 死後の生命
XII 晩年の思想
追想

付録
 I フロイトからユングへの手紙
 II アメリカからエンマ・ユングへの手紙(一九〇九)
 III 北アフリカからエンマ・ユングへの手紙(一九二〇)
 IV リヒアルト・ヴィルヘルム
 V 死者への七つの語らい

語彙
ユングの著作



ユング自伝 04



◆本書より◆


「研究」より:

「私は、まもなく、分析心理学がはなはだ珍らしい方法で錬金術に符合することを見出した。錬金術師の経験は、ある意味では、私の経験であり、彼らの世界は私の世界であった。これは勿論、重大な発見であった。すなわち、私の無意識の心理学の歴史上の相対物にめぐり会ったのである。錬金術との対比の可能性と、グノーシスにまでさかのぼる不断の知識の鎖は、私の心理学に骨子を与えた。これらの古いテキストを熟読した時、何もかもが、すなわち、私の集めた空想の心像や経験的な要素、そしてそれから引き出した結論が位置づけられた。」
「錬金術についての私の仕事を、私はゲーテとの内的関連のしるしとみなしている。ゲーテの秘密は、彼が世紀を越えてつづいて来た元型的変容の過程にとらえられていたことであった。彼は『ファウスト』を大いなる業、あるいは神の業とみなしていた。彼はファウストを自分の「本業」と呼んだ。そして彼の全生涯はこのドラマの骨組みの中で演じられた。このように、彼の中に生き、そして活動していたものは、生きた実体であり、超個人的過程であり、元型世界の大いなる夢であった。
 私自身も、同様の夢にとりつかれて、十一の時から始まった私の本業をもつことになった。私の生涯は一つの理念、一つの目標で充たされ、貫かれていた。すなわち、パーソナリティの秘密の奥深く分け入ることである。すべてのことは、この中心点から説明がつくし、私の仕事は、全部この一つのテーマに関連している。」



「塔」より:

「学問的研究をつづけているうちに、私はしだいに自分の空想とか無意識の内容を、確実な基礎の上に立てることができるようになった。しかし、言葉や論文では本当に十分ではないと思われ、なにかもっと他のものを必要とした。私は自分の内奥の想いとか、私のえた知識を、石に何らかの表現をしなければならない、いいかれば、石に信仰告白をしなければならなくなっていた。このような事情が「塔」の、つまりボーリンゲンに私自身のために建てた家屋のはじまりである。」
「最初から塔は、私にとって成熟の場所――つまり私が過去、現在そうであり、未来にそうなるであろうものになりうる、母の胎内、あるいは母の像と思えた。それは私が石の中で再び生れかわるかのような感じを与えた。このようにして、塔は個性化の過程を具現するもの、青銅よりも永続的な記念すべき場所であった。」
「ボーリンゲンでは、私は自分の本来的な生をいき、もっとも深く私自身であった。ここでは、いわば私は「母の太古の息子」であった。これは錬金術の巧みな表現である。というのは、私が子どものときに経験した「故老」、「太古の人」は、これまでも常に存在しこれからも存在しつづけるであろう No 2 の人格だからである。それは時間の外に存在し、母性的無意識の子なのである。」
「時には、まるで私は風景のなかにも、事物のなかにまでも拡散していって、私自身がすべての樹々に宿り、波しぶきにも、雲にも、そして行き来する動物たちにも、また季節の移りかわりにも、私自身が生きているように感じることがあった。塔のなかにはなに一つとして十年の歳月を経ぬものはなく、また私とのつながりをもたないものはなかった。そこではすべてのものが、私との歴史を共有し、その場所はひき籠りのための無空間的な世界なのである。」

「一九五〇年に私は、塔が私にとってなにを意味しているのか表わすために、石で記念碑のようなものを作った。」
「私は(中略)その碑にギリシア語で書いた。訳すと、
  時間は子供だ――子供のように遊ぶ――(中略)それは子供たちの王国。これがテレスフォロス、宇宙の暗闇をさまよい、星のように深淵から輝く。テレスフォロスは太陽にいたる門を、夢の国への道をさししめす。

 こういった言葉が――つぎつぎと――私が石をきざんでいるあいだに浮かんできた。
 湖に面した第三の面には、ラテン語の詩文で、その石自身に語らせることにしたが、それは多少とも錬金術からの引用である。訳しておくと、

  私は孤児で、ただひとり、それでも私はどこにでも存在している。私はひとり、しかし、自分自身に相反している。私は若く、同時に老人である。父も母も、私は知らない。それは、私が魚のようにうみの深みからつり上げられねばならなかったから、あるいは天から白い石のように落ちてくるべきであったから。私は森や山のなかをさまようが、しかし人の魂のもっとも内奥にかくれている。私は万人のために死にはするが、それでも私は永劫の輪廻にわずらわされない。」



「旅」より:

「二度目のアメリカ旅行のとき、私はアメリカの友人たちとグループをくんで、ニュー・メキシコのインディアンたち、つまり建設された都市プエブロを訪ねて行った。しかし、「都市(シティー)」という言葉は強すぎるのであって、彼らが建設したのは、実際には村落(ビレッジ)にすぎなかった。(中略)そこではじめて、私は非ヨーロッパ人、つまり白人でない人と話をする機会に恵まれた。彼はタウス・プエブロスの村長で、四・五十歳の間の、知的な男であった。名前をオチウェイ・ビアノ(山の湖の意)といった。」
「オチウェイ・ビアノは「見てごらん、白人がいかに残酷に見えることか」といい、「彼らの唇は薄く、鼻は鋭く、その顔は深いしわでゆがんでいる。眼は硬直して見つめており、白人たちはいつもなにかを求めている。なにを求めているのだろう。白人たちはいつもなにかを欲望している。いつも落着かず、じっとしていない。われわれインディアンには、彼らの欲しがっているものが分らない。われわれは彼ら白人を理解しない。彼らは気が狂っているのだと思う」といった。
 どうして白人たちがすべて狂気なのか、私は尋ねた。
 「彼らは頭で考えるといっている」と、彼は答えた。
 私は驚いて、「もちろんそうだ。君たちインディアンはなにで考えるのか」と反問した。
 「ここで考える」と彼は心臓を指した。
 私は長時間、瞑想にふけった。私の生涯のはじめに、誰かが私に対して、真の白人像を描いてくれたのだと、私には思えた。(中略)このインディアンがわれわれの弱点を衝き、われわれには見えなくなっている真実を明らかにしてくれた。」
「自分たちの宗教について、プエブロ-インディアンは話したがらないが、ことアメリカ人たちとの関係におよぶと、非常に熱心に力をこめて喋り合うということが分った。山の湖氏(オチウェイ・ビアノ)は、「アメリカ人たちはどうしてわれわれを、放っておいてくれないのだろうか。どうしてわれわれの踊りを禁止したりしたいのだろう。われわれの若者をキバ(宗教的儀式の場)に連れて行ったり、われらの宗教を教えたりするために、学校を休ませようとすると、アメリカ人たちといざこざが起こるのはどうしてだろう。われわれはアメリカ人のためにならんようなことは、なに一つしていないのに」と言った。しばらく言葉が途切れて、彼は話を続けた。「アメリカ人たちはわれらの宗教を根絶したがっているのだ。どうしてうっちゃっておいてくれないのだろう。われわれのやっていることは、われわれだけのためではなくて、アメリカ人たちのためにだってなることだ。そう、世界全体のためにやっていることだ。このおかげを蒙らないものは誰もいない。」
 彼の興奮ぶりから、私は彼があきらかに、自分の宗教のなにか核心的なものに言及していることが分った。そこで私は尋ねてみた。「では、あなたは、あなたがたの宗教でやっていることが、全世界に役立っていると考えるのか。」彼はたいそう威勢よく、「もちろんだ。われわれがそうしなければ、世界はどうなるか分らない」と答えた。そして大仰な身振りで太陽を指さした。」
「「つまり、われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは父なる太陽の息子たち。そしてわれらの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らなくなるだろう。そうすると、もう永久に夜が続くにちがいない」とオチウェイ・ビアノが言った。
 そのとき、私は一人一人のインディアンにみられる、静かなたたずまいと「気品」のようなものが、なにに由来するのか分った。それは太陽の息子であるということから生じてくる。彼の生活が宇宙論的意味を帯びているのは、彼が父なる太陽の、つまり生命全体の保護者の、日毎の出没を助けているからである。もしわれわれ自身の自己弁明、つまりわれわれの理性が形成する生活の意味と、インディアンの生活の意味とを比べていると、われわれの生の貧しさを意識せずにはおれない。(中略)知識はわれわれを豊かにはしない。知識は、かつてわれわれが故郷としていた神秘の世界から、われわれをますます遠ざけてゆく。」




こちらもご参照下さい:

『ユング自伝 1』 ヤッフェ編 河合隼雄ほか訳






















































『ユング自伝 1』 ヤッフェ編 河合隼雄ほか訳

「他の人々は皆、全然ちがった関心事をもっているように思われた。私は自分が全くの一人ぼっちであることをつくづくと感じた。(中略)なぜ誰も私に似た経験をもったことがないのだろうか。私はいぶかしく思った。なぜ学問的な著作の中には、それについて何もかいてないのだろうか。私はそのような経験をしている唯一の人間なのか。なぜ私がその唯一の人間でなければならないのか。私にはまさか自分が気が狂っているとは思えなかった。」
(『ユング自伝』 より)


『ユング自伝
― 思い出・夢・思想 1』 
ヤッフェ編 
河合隼雄・藤繩昭・出井淑子 訳


みすず書房
1972年6月20日 第1刷発行
1991年10月5日 第21刷発行
290p 口絵(モノクロ)i 図版(モノクロ)6p
著者・編者・訳者略歴1p
四六判 丸背布装上製本 カバー
定価2,472円(本体2,400円)



本書「訳者あとがき」より:

「一応、訳の分担は、はしがき、六・七・十一・十二章、および付録、語彙、を河合、一・二・三・四・五章を出井、八・九・十章を藤繩が担当したが、お互いに訳語や訳文を検討しあって、仕事を仕上げていった。飜訳権の関係で、訳は英訳本の Memories, Dreams, Reflections by C. G. Jung. Recorded and Edited by Aniela Jaffé, Pantheon Books, 1963, によったが、常に、Rascher Verlag, Zürich から出版された原文(Erinnerungen, Träume, Gedanken von C. G. Jung)を参照した。
 なお原文は一冊の本であるが、出版の都合で、訳書ではこれを二巻に分け、六章までを第一巻、それ以下を第二巻として出版することにした。」



ユング自伝 01


カバー裏文:

「スイスの分析心理学者カール・グスタフ・ユングの名前はわが国でもよく知られている。彼はフロイトと共に初期の精神分析の発展に力をつくしたが、後にフロイトと訣別し、独自の分析心理学を確立した。彼の説はヨーロッパでつよい影響力をもち、その専門領域を超えて、ひろく宗教・芸術・文学などの分野にまで影響を及ぼしている。
 本書はユングの自伝である。彼の仕事と生活はいかにして形成されたか。そのユニークな洞察力と多くの理論がいかなる経験的背景をもつのか。読者は本書にのべられているユグの夢やヴィジョン(幻像)の凄まじさに、驚嘆せずにはいないだろう。ユングにとって内的世界は、外界と同じく「客観的な」一つの世界なのである。それは事象の生起している世界なのである。内界の奥深く旅して、ユングが遂に見出した「自己」について語ろうとするとき、それは神話として語るほかには、手段を見出すことができない。この本は、そうした意味で、近代における内部世界への旅を記したオデュッセイアーであるということができる。
 今日の時代精神が、外向的な面に強調点をおいているときに、このような自伝を発表することの意味について、ユングは迷ったに違いない。その上、彼は自分のことについて語るのを極端に嫌った人である。しかし本文にも記されているような経過をたどって、ユングの内界からの強い要請は、81歳の老人に自らペンをもって記述するほどの力を与えたのである。そして、これはユングの遺志によって彼の死後、1962年に発行されたのであった。」



目次:

はしがき (アニエラ・ヤッフェ)

プロローグ
Ⅰ 幼年時代
Ⅱ 学童時代
Ⅲ 学生時代
Ⅳ 精神医学的活動
Ⅴ ジクムント・フロイト
Ⅵ 無意識との対決

訳者あとがき (河合隼雄)



ユング自伝 02



◆本書より◆


「プロローグ」より:

「一生は、私にはいつも地下茎によって生きている植物のように思われたのである。その本当の生命(いのち)は地下茎の中にかくれていて見えない。地上にみえる部分が一夏だけ生きつづけるにすぎない。かくて、それは衰えていくつかのまの現われなのである。いのちと文明との果てしない興亡を考える時、我々は全くつまらないことという印象をうける。けれども永遠の推移の下に生き、もちたえている何かについての感覚を私は決して失ってはいなかった。我々が見ているのは花であり、それはすぎ去る。しかし根は変らない。
 結局、私の一生の中で話す値打ちのある出来事は、不滅の世界がこのつかのまの世界へ侵入したことである。そしてそれが、私が夢やヴィジョンを含んだ内的体験を主にお話しする理由である。」



「幼年時代」より:

「それとほぼ同じころ(中略)私の思い出せる限りでの最初の夢みた。その夢は一生涯ずっと私の心を奪うことになったのである。その時私は三歳と四歳の間だった。
 牧師館は、ラウフェン城の近くに全くぽつんと立っていて、寺男の農家の背後には大きな牧場が拡がっていた。夢で私はこの牧場にいた。突然私は地面に、暗い長方形の石を並べた穴をみつけた。かつてみたことのないものだった。私はもの珍らしそうに走り出て、穴の中をみつめた。その時、石の階段が下に通じているのをみたのである。ためらいながらそしてこわごわ、私は下りていった。底には丸いアーチ型の出入口があって、緑のカーテンで閉ざされていた。ブロケードのような織物で作られた、大きな重いカーテンでとてもぜいたくにみえた。後に何が隠されているのかを見たくて、私はカーテンを脇へ押しやった。私は自分の前のうす明りの中に長さ約一〇メートルの長方形の部屋があるのを見た。天井はアーチ形に刻んだ布で作られていた。床は敷石でおおわれ、中央には赤いじゅうたんが入口から低い台にまで及んでいた。台の上にはすばらしく見事な黄金の玉座があった。確かではないのだが、多分赤いクッションが座の上にあった。すばらしい玉座でおとぎ話の本当の王様の玉座だった。何かがその上に立っていて、はじめ、私は四―五メートルの高さで、約五〇―六〇センチメートルの太さの木の幹かと思った。とてつもなく大きくて、天井に届かんばかりだった。kれどもそれは奇妙な構造をしていた。それは、皮と裸の肉でできていて、てっぺんには顔も髪もないまんまるの頭に似た何かがあり、頭のてっぺんには目がひとつあって、じっと動かずにまっすぐ上を見つめていた。
 窓もなく、はっきりした光源もなかったが、頭上には明るい光の放散があった。微動だにしないにもかかわらず、私はいつそれが虫のように、玉座から這い出して、私の方へやってくるかもしれないと感じていた。私はこわくて動けなかった。その時、外から私の上に母の声がきこえた。母は「そう、よく見てごらん、あれが人喰いですよ」と叫んだ。」

「この壁の前に、突き出た石――それは私の石だったが――の埋まった坂があった。一人の時、しばしば私はこの石の上にすわって、次のような想像の遊びをはじめた。「私はこの石の上にすわっている。そして石は私の下にある。」けれども石もまた「私だ」といい得、次のように考えることもできた。「私はここでこの坂に横たわり、彼は私の上にすわっている」と。そこで問いが生じてくる。「私はいったい、石の上にすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか。」この問いは常に私を悩ませた。そしていったい誰が何なのかといぶかしく思いながら立上ったものだった。答えは全くはっきりせずじまいで、私の不確かさは好奇な魅惑的な闇の感じに伴われることになった。けれどもこの石が私にとってある秘密の関係に立っていることは全く疑う余地がなかった。私は自分に課せられた謎に魅せられて、数時間もの間その上にすわっていることもできたのである。」



「学童時代」より:

「後になって母は私に、そのころ私がしばしばふさぎ込んでいたと言った。本当はそうではなかった。むしろ私は、秘密のことを考えていたのである。そんな時、私の石の上に坐ると、奇妙にも安心し、気持が鎮まった。ともかく、そうすると私のあらゆる疑念が晴れたのである。自分が石だと考えた時はいつでも、葛藤は止んだ。「石は不確かさも、意志を伝えようという強い衝動も持っていず、しかも数千年にわたって永久に全く同じものである」が、「一方私はといえば、すばやく燃え上り、その後急速に消え失せていく炎のように、突然あらゆる種類の情動をどっと爆発させるつかのまの現われにすぎない」のだった。私が私の情動の総体であるにすぎないのに対し、私の中に存する他人は、永久・不滅の石だったのである。」

「私はあらゆる競争を嫌い、もし誰かが遊びを競争的にしすぎると、すぐにその遊びから逃げた。」
「たいていの先生たちは、私のことを、愚かでしかも悪がしこいと思っていた。学校で何か悪いことがあると、まず私に嫌疑がかけられた。何処かで騒ぎが起こると、私がそそのかしたと思われた。私がそんな口論にかかわりあったのはたった一度だけなのだが、まさにその時に私は、多くの学校仲間たちが私に敵意を抱いていることを知ったのである。」
「敵をもち、かつ不当に責められることは、私の予期していなかったことだったが、どういうわけか私は、それを不可解なことだとは思わなかった。」

「当初から、私はまるで私の生涯が運命づけられており、充たされなければならないものであるかのような宿命感をいだいていた。」
「私は自分の思想ゆえに孤独のままであった。概して私はそれを最も好んだ。私は一人で遊び、一人で森の中で白昼夢に耽ったり散歩したりして、私だけの秘密の世界をもっていたのである。」

「他の人々は皆、全然ちがった関心事をもっているように思われた。私は自分が全くの一人ぼっちであることをつくづくと感じた。(中略)なぜ誰も私に似た経験をもったことがないのだろうか。私はいぶかしく思った。なぜ学問的な著作の中には、それについて何もかいてないのだろうか。私はそのような経験をしている唯一の人間なのか。なぜ私がその唯一の人間でなければならないのか。私にはまさか自分が気が狂っているとは思えなかった。」



「学生時代」より:

「我々人間は自分の個人的な生命を持っているとはいえ、大部分は依然としてその年齢が数世紀単位で数えられるような集合的な霊(スピリット)の相続人であり、犠牲者であり、推進者である。(中略)我々の気づいていない要因が現に我々の生活に影響を及ぼしており、それが無意識的なものである場合にはますますその影響は深いのである。このようにして、我々の存在の少なくとも一部分は数世紀にわたって生きているのであり、その部分を、これは私個人の習慣だが、No 2 と名づけてきたのである。西洋の宗教によって、それが個人のもの好きではないことが立証された。宗教は自らをこの内的な人に適用し、ほぼ二千年にわたって、彼に我々の表面的な意識を理解させようと一生懸命になって熱心に試みてきたのである「外へ行くな、真理は内部の人に宿っている」。」

「私は、自分が世界のはしへと突き進んできたと感じた。私に燃えるような興味を起こさせるものは他人には無益で価値のないものであり、恐怖を起こさせるもとでさえあったのである。」

「決定はなされた。内科の先生に私の心づもりを話した時、私は彼の顔に驚きと失望とを読みとることができた。私の古傷、つまりアウトサイダーであり、他人と疎遠であるという感情が再びうずきはじめた。しかし今度はなぜかがわかっていた。誰も、私自身でさえ、自分がこんな不可解なわき道に興味をそそられるようになるなどとは思ってもみなかったのだから。友人たちは、いざなうように目の前にぶら下っている内科での経歴のまたとないチャンスを、精神医学のようなつまらぬもののために棒に振るとは私も馬鹿者だと、驚きあきれた。
 私には自分が誰もついて来ることができず、またそうしようとも思わないようなわき道に明らかに入り込んでしまったのがわかった。しかし私の決心は変らず、しかもそれは宿命なのだということを悟ったのである。何も、またどんな人も、私をこの目的から離れさせることはできなかったであろう。」



「精神医学的活動」より:

「私は患者を何かに変えようとは決してしなかったし、何らの強制も行わなかった。私にとっていちばん重大なのは、患者が物事について彼自身の見解をうるということである。私の治療のもとで、運命の命ずるままに、異教徒は異教徒に、クリスチャンはクリスチャンに、ユダヤ人はユダヤ人になるのである。」


「ジクムント・フロイト」より:

「今でも私は、フロイトが「親愛なるユング、決して性理論を棄てないと私に約束してください。それは一番本質的なことなのです。私たちはそれについての教義を、ゆるぎない砦を作らなければならないのです。ね、そうでしょう」と言ったあの時の有様を生き生きと思い出すことができる。このことを彼は感情をこめて、まるで父親が「私の愛する息子、日曜日には必ず教会へ行くと、ひとつ私に約束してください」というような調子で言ったのである。いささか驚いて、私は彼に聞き返した。「砦って、いったい何に対しての?」それに対して彼は答えた。「世間のつまらぬ風潮に対して」――ここで彼はしばらくためらい、そしてつけ加えた。――「オカルト主義のです。」」
「このことは私たちの友情の核心をついた事柄であった。私は自分が決してそのような態度を受け入れることができないのを知っていた。」



「無意識との対決」より:

「私の描いたマンダラは、日毎に新しく私に示された自己の状態についての暗号であった。それらの私は私の自己――すなわち、私の全存在――が実際に働いているのを見た。(中略)私はそれらを貴重な真珠のように大切にした。私は、それらが何か中心的なものであるという明確な感情を抱いた。そして、時とともにそれらを通じて、自己の生きた概念を獲得した。自己は、あたかもそれが私自身であり、私の世界である単子(モナド)のようであった。マンダラはその単子(モナド)を表現し、心のミクロコスミックな性質に相応している。」



こちらもご参照下さい:

『ユング自伝 2』 ヤッフェ編 河合隼雄ほか訳








































C. G. ユング 他 『人間と象徴 下』 河合隼雄 監訳

「このようにして、心の合った人や、志を同じくする人が、普通の社会的関係や、組織内の関係を超えて、グループをつくり出すのである。そのようなグループは他と葛藤することはない。それは他と異なり独立しているだけである。血族関係や普通の興味など一般に知られている絆は、異なった類の結合――自己を通じての絆――にとって代わられる。
 まったく外界に属しているすべての行為や義務は、無意識の秘密の動きに明らかに害を与える。無意識の絆を通じて、志を同じくする人が集まるのである。たとえ理想的な動機によって動かされていても、広告や政治的な宣伝によって人々に影響を与える試みが破壊的となるのもこのためである。」

(M.-L. フォン・フランツ 「個性化の過程」 より)


C. G. ユング
M.-L. フォン・フランツ/J. L. ヘンダーソン/J. ヤコビー/A. ヤッフェ
『人間と象徴
― 無意識の世界 下』 
河合隼雄 監訳


河出書房新社
1975年9月20日 初版発行
1981年4月3日 13版発行
302p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,500円
装幀: 森啓



本書「訳者あとがき」より:

「この本は、Carl G. Jung 編の、Man and his Symbols, Aldus Books, 1964 の全訳である。」
「再版にあたって
 本書は、難解なユングの考えをできるかぎり平明に伝えようとするものとして、発刊以来ひろく歓迎されてきた。ただ、大部の書物であるだけに高価で入手が困難という難点があった。そこで今回の再版にあたっては、(中略)2部に分割して再編し、入手容易な形態に変更することになった。」



左開き・横組。本文中図版(モノクロ)多数。


ユング 人間と象徴 02


帯文:

「夢、神話、絵画などの解明を通じて読者を無意識界へいざなうユング心理学入門」


帯背:

「無意識への案内」


帯裏:

「■宮城音弥(日本大学教授)
……ユングは従来、性格を内向性、外向性に分類したことでしか知られていないが、彼の心理学はそのようなものにかぎられていない。われわれの心の奥底、無意識の世界をあきらかにすることによって人間の精神を解明しようとするものである。
 本書はユング自身およびユングの高弟たちによる「夢」を中心とした無意識の世界への案内書である。ユングとテレビ対談を行って好評を博したフリーマンの努力によって、難解と考えられるユングの考えを一般の人にわかりやすく叙述された本書が出版され、その訳書がわが国で公にされることを心からうれしく思う。」



目次:

Ⅲ 個性化の過程 (マリー=ルイス・フォン・フランツ/訳: 河合隼雄)
 心の成長のパターン
 無意識の最初の接近
 影の自覚
 アニマ――心のなかの女性
 アニムス――心のなかの男性
 自己――全体性の象徴
 自己との関係
 自己の社会的側面

Ⅳ 美術における象徴性 (アニエラ・ヤッフェ/訳: 斎藤久美子)
 聖なるものの象徴――石と動物
 円の象徴
 象徴としての現代絵画
 物にひそむたましい
 現実からの後退
 対立物の合一

Ⅴ 個人分析における象徴 (ヨランド・ヤコビー/訳: 並河信子・阪永子)
 分析の開始
 初回の夢
 無意識にたいする恐れ
 聖者と娼婦
 分析の発達過程
 神託夢
 不合理への直面
 最後の夢

結論 (M.-L. フォン・フランツ/訳: 西村洲衛男)
 科学と無意識


訳者あとがき (河合隼雄、1972年3月/1975年8月)
索引



ユング 人間と象徴 03



◆本書より◆


「個性化の過程」(フォン・フランツ)より:

「われわれよりも、より安定して、根づいている文化圏に生きている人たちは、人格の内的な成長のために意識の功利主義的な態度を捨てる必要性を理解するのに、さほどの困難を感じない。私はかつて、ある年輩の婦人に会った。彼女は外的な仕事に関しては、その生涯にあまり何もやりとげてはいなかったが、実際はむずかしい夫とよき結婚を成しとげ、成熟した人格を何とかつくりあげてきていた。彼女が、その生涯に“何もしなかった”と不平をもらしたときに、私は中国の賢者、荘子による話をした。彼女は、それを、たちまち理解して強い安息を感じたのである。次に、その話を述べる。

  大工の匠石が旅の途中、社のそばにある櫟の大木を見た。匠石は、その櫟に感嘆している弟子に、“これは無用な木だ。舟をつくればすぐにくさってしまうだろうし、道具をつくればこわれてしまうだろう。この木では何も有用なものがつくれない。だから、こんなに古木になったのだ”といった。
 しかし、その夜、宿屋で眠りにつきかけると、匠石の夢に櫟の古木が現われて言った。“お前はどうして、私を、さんざし、梨、橘、りんごなど実のなる木と比較したのだ。それらは実が熟さないうちにさえ、人間に攻め荒らされてしまう。大枝は折られ、小枝はさかれる。自分たちの長所が自分自身に害をなしていて、天寿を全うできない。これはあらゆるところに生じることで、このためにこそ私はまったく無用であろうと、長年のあいだつとめてきたのだ。愚かな人間よ、もし私が何らかの点で有用であれば、これだけの大きさになり得たであろうか。そのうえ、お前も私も自然の創造物にすぎない。たんなる創造物がいかにして、他の創造物より上に立って、その価値判断をくだせるのか。お前、無用な人間よ、お前が無用の木について何を知ることがあろう。
 大工は目覚め、その夢について想いをこらした。弟子が、どうしてこの木が社の保護につとめているのかと彼にたずねたとき、彼は、“だまれ、何も言うな。その木はここに意図して生えているのだ。もし他の場所であれば人間がよくは取り扱わなかっただろう。もしそれが社の木でなかったならば、切り倒されていたかも知れない”と言った。
  (荘子「人間世篇第四」)

 この大工は明らかに夢を理解したのだ。彼は自分の運命を素朴に充足させるということが人間の最大の仕事であり、われわれの功利主義的な考えは、無意識の要請にたいしては道をゆずらねばならないことを知ったのである。この隠喩を心理学の言葉におきかえるならば、この木は個性化の過程を象徴し、われわれの近視眼的自我に教訓を与えているということができる。
 運命を充足した木の下には――荘子によれば――ひとつの社があった。それは自然の加工されないままの石であり、その上で人々はその地を“所有している”土着の神に捧げ物をする。社の象徴は、個性化の過程を実現するためには何をなすべきかとか、一般に正しいとされるものは何かとか、普通どのようなことが起こるかなどと考えることをやめ、無意識の力に意識をもって身をまかせねばならないという事実を示している。内的な全体性――自己――が今、ここで、この特定の状況に何をなすことを望んでいるかを知るためには、ひたすら耳を傾けて聞かねばならないのである。」




こちらもご参照下さい:

C. G. ユング 他 『人間と象徴 ― 無意識の世界 上』 河合隼雄 監訳



























































































C. G. ユング 他 『人間と象徴 上』 河合隼雄 監訳

「無意識にたいするわれわれの実際の知識によれば、それは自然の現象であり、自然そのものと同じように少なくとも中性的なものである。無意識は、人間の性質のあらゆる面――つまり、光と闇、美と醜、善と悪、深遠さと愚かさ――を含んでいる。」
(C. G. ユング 「無意識の接近」 より)


C. G. ユング
M.-L. フォン・フランツ/J. L. ヘンダーソン/J. ヤコビー/A. ヤッフェ
『人間と象徴
― 無意識の世界 上』 
河合隼雄 監訳


河出書房新社
1975年9月15日 初版発行
1981年2月25日 14版発行
254p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,500円
装幀: 森啓



本書「序」(ジョン・フリーマン)より:

「1959年春のある日、イギリス放送局がテレビのために、私にユング博士とインタビューすることをすすめてきた。」
「テレビでユングを見た人のなかに、アルダス出版社の専務取締役のウォルフガング・フォジスがいた。(中略)ユングが自分の人生や仕事や思想について話しているのを見たとき、彼の心にひとつの反省がひらめいた。つまり、フロイトの仕事の概観は西欧の教養あるほとんどの読者にかなり知られているのに、ユングは全然一般大衆に浸透しないままにあり、一般の読者にはむずかしすぎると常に考えられてきたのは、まったく残念なことだというのである。」
「彼は(中略)ユングのもっと重要で基本的な考えのいくつかを言語で表わし、それをやがては専門家でない大人の読者たちが理解でき、興味をもてるものにするように、ユングを説得しようではないかと私に誘いかけてきた。(中略)ユングは彼の庭園で2時間のあいだ、ほとんど中断することなく私の話に耳を傾け――そして、「ノー」といった。(中略)つまり、彼は今までけっして自分の研究を大衆化しようとしたことはなかったし、今それをうまくできるとは思えない、(中略)というのであった。」
「テレビのプログラムは成功と考えられた。そのため、あらゆる階層の人々から、非常に多くの手紙がユングに寄せられてきた。(中略)ユングは(中略)、普通なら彼と接触することなどなかったと思われる人たちから手紙を受けとったことを、非常に嬉しく思った。
 ユングが自分にとって非常に意味のある夢をみたのも、ちょうどこのころであった。(中略)夢のなかで、彼は、(中略)公共の場所に立って多くの人たちに演説をしていた。そして、彼らはユングのいうことを熱中して聞き、それを理解するのだった。
 1~2週間後、フォジスはユングに、(中略)市井の人たちのための新しい本を作るようにと改めて懇請し、ユングはようやく納得したのである。」



下巻「訳者あとがき」より:

「この本は、Carl G. Jung 編の、Man and his Symbols, Aldus Books, 1964 の全訳である。」
「再版にあたって
 本書は、難解なユングの考えをできるかぎり平明に伝えようとするものとして、発刊以来ひろく歓迎されてきた。ただ、大部の書物であるだけに高価で入手が困難という難点があった。そこで今回の再版にあたっては、(中略)2部に分割して再編し、入手容易な形態に変更することになった。」



左開き・横組。本文中図版(モノクロ)多数。


ユング 人間と象徴 01


帯文:

「自己の内面の限りなく広く豊かな世界に導くユング心理学の全容!!」


帯背:

「ユング心理学入門」


帯裏:

「■なだいなだ(作家)
……民俗学や文化人類学の分野で、大きな発展が認められるにつれて、ようやく、ユングは私たちと日常的な結びつきを持つようになり、理解されはじめたが、それには長い時間が必要だった。ユングの象徴の研究は、こうして、詩や絵画の理解に理性的な光をさしいれ、それらの持つ民族的な共感にてがかりを与えはじめている。ユングが、私たちの身近な存在になる時、私たちの人間理解は、確実に一歩を進めたことになるだろう。」



目次:

序 (ジョン・フリーマン)

Ⅰ 無意識の接近 (カール・G. ユング/訳: 河合隼雄)
 夢の重要性
 無意識の過去と未来
 夢の機能
 夢の分析
 タイプの問題
 夢象徴における元型
 人間のたましい
 象徴の役割
 断絶の治癒

Ⅱ 古代神話と現代人 (ジョセフ・L. ヘンダーソン/訳: 樋口和彦)
 永遠の象徴
 英雄と英雄をつくるもの
 イニシエーションの元型
 美女と野獣
 オルフェウスと人の子
 超越の象徴





◆本書より◆


「無意識の接近」(ユング)より:

「無意識の部分は、一時的に不明確になった考えや印象やイメージの重なりから成り立っており、それは失われたものであるにもかかわらず、われわれの意識的な心に影響を与え続けている。」
「忘れられた考えは、存在を止めたのではない。それらは、意志によって再生されることはできないけれども、潜在的な状態――ちょうど、再生閾を少し越えたあたり――では存在しており、そこから、時を問わず、自然発生的にふたたび出てくることがあり得る。往々にして、それは外見的には完全な忘却のように見える数年間の後に現われることもある。」
「ある教授がひとりの学生と会話に熱中しながら田舎道を歩いていたとき、急に、彼は幼児期の思いがけない記憶の流れによって考えが妨げられるのに気がついた。彼は、このような注意の乱れを説明することができなかった。そのとき話されていたことは、その記憶には何らの関係もなかった。思い返してみると、彼の心に幼児期の記憶が湧き上ってきたのは、彼が農場を通りすぎていたときであった。そこで、教授はその空想が始まったと思われる地点まで戻ってみようと学生に言った。そこへ行くと、鵞鳥の臭いがした。教授はただちに、自分の記憶の流れを誘い出したのは、この臭いであったと気づいた。
 彼は若かったころ、鵞鳥の飼ってある農場に住んでいた。その特有の臭いは忘れられてはいたが持続的な印象を残していたのである。散歩の途中で農場を通り過ぎたときに、彼は鵞鳥の臭いを潜在的に認め、その無意識的な知覚が、長く忘れていた彼の幼児期の経験を思い起こさせたのだ。」

「“忘れる”ことは、われわれにとっては実のところ正常なことであり、必要なことである。つまり、われわれの意識の心に新しい印象や観念のための余地を残すからである。このことが起こらないと、われわれの経験したことのすべてが意識閾の上に留まることになり、われわれの心は、途方もなく混乱してしまうだろう。」

「意識的な内容が、無意識のなかに消え去るのと同じように、新しい内容――それは、今まで一度も意識化されなかったもの――が、無意識から生じることがある。(中略)無意識がたんに過去のものの倉庫ではなくて、未来の心的な状況や考えの可能性にも満ちているということの発見が、私を心理学にたいする私自身の新しい接近法へと導いていった。」

「夢はときとして何らかの事態が実際に起こるずっと前に、その場面を示すこともできる。これは何も奇蹟だとか、予言の一形態である必要はない。人生における数々の危険は長い無意識的な歴史をもっている。(中略)われわれが意識的にわかりかねることがらは、しばしば無意識によって感知される。無意識はその情報を、夢を通じて伝えることができるのである。」

「私は文明社会の発展の結果獲得した大きい利益を否定するものではない。しかし、このような利益は、莫大な損失を代価として得られたもので、その損失の大きさはほとんど測りがたいものがある。私が原始人と文明人の状態の比較をした目的のひとつは、これらの損得のバランスを示すためであった。
 原始人は、自分自身を“制御する”ことを学んだ“合理的”で近代的なその子孫たちよりはるかに本能によって支配されている。この文明化の過程において、われわれはその意識を人間の心の深い本能的な層からますます分離させ、そして、ついには心理現象の身体的基礎からさえも分離させるにいたった。幸いにも、われわれはこの基本的、本能的な層を失ってしまってはいない。それらは、夢の形をとってのみ、われわれに示されるのではあるが、無意識の一部として残っている。」

「私は数年にわたって、ひとつの主題を夢に見つづけた。その夢では、私はいつも、自分の家に、今までそんな場所があるとは知らなかった部分を“発見する”。ときとしてその部分は、もうずっと以前に死んでしまった両親が住んでいる部屋であり、驚くべきことに、私の父はそこに、魚の比較解剖学研究の実験室をもっていたり、私の母は、幽霊のような客のためにホテルを経営したりしている。客用の別館は、長く忘れられている古い歴史的な建物であったが、私が相続した財産のひとつである。そこには、興味をそそる古い家具があり、この一連の夢の最後のころでは、自分には未知の本がある古い図書室を見つけ出した。最後の夢において、私はとうとうひとつの本を開け、そのなかに最もすばらしい象徴的な絵を見いだした。目覚めたときに、私の心臓は興奮して動機を打っていた。
 この一連の夢の最後の夢をみる前に、私は古文書専門の本屋に中世の錬金術の古典的な編集本のひとつを注文していた。私は本のなかの引用を見て、それが初期のビザンチン時代の錬金術に関連があるかもしれないと思い、調べてみたいと思っていた。あの未知の本の夢を見てから数週間して小包みが本屋から届いた。そのなかには、16世紀の羊皮紙の本が入っていた。その本には、すばらしい象徴的な絵があり、それは私が夢のなかでみた象徴をすぐに思い出させるものであった。錬金術の法則を再発見することが、心理学のパイオニアとして自分の仕事の重要な部分となったので、繰り返し生じた私の夢の主題は容易に理解することができる。もちろん、夢のなかの家は、自分の人格とその意識的な興味の範囲の象徴であり、知られざる別館は、私の意識がまだ知らなかった興味をそそる研究の新領域の予想を表わしている。」

「個人こそが唯一の現実である。その個人から離れて人類という抽象的な観念へ向かえば向かうほど、われわれは失敗におちいりやすくなる。(中略)しかし、正しい見通しに立って物事を見るためには、われわれは、現在のみならず過去においての人間についても知らねばならない。そのために、神話や象徴の理解が本質的に重要なものとなるのである。」

「われわれが他人の夢の象徴を解釈しようと努力する上で、自分の理解の避けがたいギャップを投影――すなわち、分析家が見たり考えたりすることは、被分析者も同じように見たり考えたりしているという単純な仮定――によって埋めるという傾向のために、ほとんどいつも障害を受ける。この種の誤りのもとを克服するために、私は夢一般に関する理論的なすべての仮定――夢が何らかの意味で、意味を持つという仮定をのぞいて――を排除して、その個々の夢の流れから離れないことが重要であることを、常に主張してきた。」

「われわれは(中略)、ある夢のなかに、個人的ではないものとか、あるいは、夢を見た人の個人的な経験からひき出すことのできないような要素がしばしば生じるという事実を、考慮に入れなければならない。それらの要素は、(中略)フロイトが“古代の残存物”と呼んだものである――これは、その存在を個人自身の生活からは何ら説明することができない心の形態で、原初的で、古くから受け継いだ遺伝的な人間の心の形態であるように見える。
 人間の身体が、長い進化的な歴史を背景に持っている器官の博物館をなしているように、心も同様な方法で構成されていると期待すべきであろう。心は、心の存在している身体がそうであるように、歴史なしに生みだされるわけがない。ここで“歴史”というのは、心がつくりあげられる上において、言語や他の文化的な伝統をとおしてその過去に意識的に参照することを意味しているのではない。私は、人間の心がまだ動物に近かったような古い時代の人間における、生物学的、先史的、無意識的な心の発達について述べているのである。
 この非常に古い心が、われわれの心の基礎を形作っている。それはちょうどわれわれの身体が、哺乳類の一般的な解剖学的パターンに基礎をもっているのと同様である。熟練した解剖学者や生物学者の目は、われわれの身体内に原初的なパターンの多数の痕跡を見つける。経験を積んだ心の研究者は、同様に、近代人の夢のイメージと原始人の作り出したもの、夢の“普遍的なイメージ”と神話的なモチーフのあいだに類似性を見つけ出すことができる。」
「“古代の残存物”を、私は“元型”とか“原始心像”と呼んでいるが、それについての私の見解は、夢や神話に関する心理学の十分な知識を持たない人たちによって、常に批判されてきた。“元型”という用語は、しばしば、ある明確な神話的なイメージとかモチーフを示すものとして、誤解をされている。しかし、それらは、意識的な表象にすぎないのである。そのような変化しやすい表象が遺伝されると考えるのは、まったくばかげている。
 元型というものは、そのようなモチーフの表象を形作る傾向である。その表象は、基本的なパターンを失うことなく、細部においては、よく変わり得るものである。」

「私は、ある教授が突然幻像(ヴィジョン)を見て、自分は気違いではないかと思ってやってきた事例を生き生きと思い出す。その教授は、まったく恐慌状態で私のところへやってきた。私はただ、400年前の本を棚から取り、彼のその幻像(ヴィジョン)をそのまま描写している古い木版画を彼に示した。そして、“あなたは自分が気違いだと思う理由は全然ありません”と言った。“あなたのそのような幻像(ヴィジョン)は、400年も前から知られているものです”。そこで彼は、気が抜けたように坐ったが、ふたたび正常にかえった。
 自分自身、精神科医である人が、非常に重要な事例を、私のところにもたらしてきた。10歳になる娘さんから、クリスマス・プレゼントとして受け取ったという小さいノートを、彼はある日、私のところへ持ってきた。そのノートには、彼女が8歳のときに見た一連の夢がすべて書かれていた。それらは、私が今まで見たなかで最も奇妙な一連の夢であった。(中略)その夢は子どもらしいものではあったが、非常に無気味で、父親にはその起源をまったく理解することができないようなイメージに満ちていた。ここに、夢における相関連した主題を示す。

  1. “魔物”すなわち多数の角を持つヘビのような怪物が、他の動物を殺して呑み込んでしまう。しかし、神様が、実際、4人の別々の神様だったが、4隅からやってきて、すべての死んだ動物を生き返らせる。
  2. 天国へ上って行くと、そこでは異教徒の踊りの儀式が行なわれている最中である。そして、地獄へ下りて行くと、天使たちが善行を行なっている最中である。
  3. 小さい動物の群れが、夢を見ているこの子を脅かす。動物たちはものすごい大きさになり、そのうちの1匹はこの少女を呑みこむ。
  4. 1匹の小さなねずみのなかに、毛虫、ヘビ、魚、そして最後に人間がはいりこんでいく。こうして、ねずみは人間になる。これは、人類の起源に関する4つの段階を示しているものである。
  5. 1滴の水が、顕微鏡で見ているように見える。少女は、その1滴の水に木の枝が詰まっているのを見る。このことは世界の起源を示しているものである。
  6. 悪い少年がひとかたまりの土を持っていて、通りがかりの人たちに見境いなしに投げつける。こうして、そこを通る人たちは全部悪くなる。
  7. 酒に酔っぱらった女の人が水のなかに落ち込み、よくなって正気になって出てくる。
  8. アメリカでの光景であるが、たくさんの人が蟻に襲われて、群がる蟻の上を転げまわっている。この少女は、恐慌状態で川へ落ちこんで行く。
  9. 月面に砂漠があって、そこではこの少女はあまりにも深く土のなかに沈んでいったので、とうとう地獄に達してしまう。
  10. この夢では、少女は、光りかがやく球の幻像(ヴィジョン)を見る。彼女がそれに触れると、蒸気がそこから発散する。男がやってきて彼女を殺す。
  11. この少女は、自分が非常に危険な病気になっている夢を見る。突然、小鳥が彼女の皮膚からとび出して、彼女をすっぽりとおおってしまう。
  12. 蚊の群れが太陽をかげらせ、月をかげらせ、ひとつだけを残してすべての星をかげらせてしまう。その残ったひとつの星が夢を見ている少女の上に落ちてくる。」

「われわれが無意識と呼んでいるものは、根源的な心の一部を形作っている原始的な特性を保存しているように思われる。夢の象徴が常に関連を持つのはそのような特性であり、無意識は、心が発展するにつれて離れていったすべての古いことがら――幻覚、空想、古代的な思考形態、基本的な本能など――を取り返そうと、さがし求めているかのようである。
 このことは、人々が無意識的なことがらが近づくときに、抵抗やときには恐怖をさえしばしば経験することを説明している。(中略)それらは、相当のエネルギーを持っているので、しばしばたんなる不快感以上のものとなる。それらは真の恐怖を引き起こすことができる。抑圧されればされるほど、それらは全人格のなかに、神経症という形態をとって広がっていく。」
「胎児としての発達の経過が、有史以前のことを繰り返すように、心もまた一連の有史以前の段階を通じて発展してくる。夢のおもな仕事は、幼児期の世界のみならず最も原始的な本能の水準にまでおりて、一種の有史以前の“回想”をもたらすことである。」
「その“根源的な心”は、人間の進化の段階が胎児の身体のなかにあるのと同様に、幼児のなかにかなり存在し、今もなお働いている。前に私が示したような、自分の夢をプレゼントとして父親に与えた子どものすばらしい夢を思い起こすならば、読者は私が意味していることについて、適切な考えを持たれることと思う。」
「このような種類のイメージは、非常にヌミノスで、したがって非常に重要である。成人においてそのような回想が再現するならば、ある場合には、重い心理的な障害を引き起こし、また他の人にとっては、奇蹟的な治癒や宗教的な回心を引き起こすことができる。しばしば、それらは長いあいだ失われていた生命力をもたらし、人間の生活に目的を与え、豊かにするものである。」

「われわれの知能は自然を支配する新しい世界を作り出し、その新世界にすさまじい機械を大量に送りこんだ。機械は疑いもなく非常に有益なものであるので、われわれは、機械を取り払ってしまうとか、あるいは、機械にわれわれが従属してしまうなどという可能性を考えてもみない。人間は科学的、発見的な精神の冒険に満ちた煽動にしたがうこととか、あるいは自分のなした素晴らしい仕事のゆえに、自らを賛美するということをせざるを得ない。同様に、人間の天才は、前よりいっそう危険となるような発明をする、無気味な傾向を示している。というのは、それは大規模な自殺の、よりすぐれた手だてを示しているからである。」
「自然にたいするわれわれの誇り高き支配にもかかわらず、われわれはなお自然の犠牲者である。というのは、われわれは、自分自身の性質(nature)を制御することを学んでさえいないからである。徐々にではあるが、われわれが災難を招きつつあるということは避けられないようである。
 われわれが助けを求めて祈れる神は、もはや存在しない。世界の偉大な宗教は貧血症にかかっている。というのは、助けとなる力は、森や川や山や動物から逃げ去ってしまい、神=人は無意識の地下の世界へ消え去ってしまったからである。かくてわれわれは宗教を、それが過去の遺物にうずもれた恥ずべき生活を導くものとしてばかにしてしまっている。われわれの現在の生活は理性の女神によって支配されており、それはわれわれの最大にして、最も悲劇的な幻想である。理性に助けられて、われわれは“自然を征服”したと思いこんでいるのである。」
「何らかの変化がどこかで生じねばならないとすれば、それは、変化を体験し、それを持ち続けようとする個々の人である。変化は実際、個人によって始められねばならない。」




こちらもご参照下さい:

C. G. ユング 他 『人間と象徴 ― 無意識の世界 下』 河合隼雄 監訳















































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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