渡辺照宏 『新釋尊傳』

「当時のインドの諸宗教の教団の風習を佛教で採用したもののひとつに、雨安居(うあんご)(ヴァルシャ)があります。インドの雨期はふつう三ヵ月から四ヵ月ぐらい続きます。その間に草木が成長し、動物は巣にこもって活動の精力を貯蓄します。草木を踏みつけたり、動物に危害を加えたりしないために、どの教団でもこの期間は外出旅行をせずに一定の住居にとどまる習慣でした。」
(渡辺照宏 『新釋尊傳』 より)


渡辺照宏 
『新釋尊傳』
 

大法輪閣
昭和41年2月15日 印刷
昭和41年2月25日 発行
昭和43年12月1日 5版
490p 索引19p
四六判 丸背布装上製本 
機械函
定価680円



本書「あとがき」より:

「この本はもともと『大法輪』の依頼により「読みやすく信頼できる釈尊伝を」という要望にこたえて過去三年あまり三十八回にわたって同誌上に連載した原稿にもとづき、完結後に多少手を入れて一冊の書物にまとめたものであります。」


本文中図版(モノクロ)44点。本文末に「佛跡地図」3点。見返しに「インド地図」「インド佛跡・美術地図」。


渡辺照宏 新釈尊伝 01


目次:

はじめに
前生の物語
 青蓮華で佛を飾った青年
 九色の鹿
 猿と王
 饑えた虎と王子
佛陀の生誕
 ルンビニーの園で
 生誕のあと
太子の入城
 転輪聖王か佛陀か
 アシタは佛陀になるという
太子の環境
 浄飯王家の系譜
 インダス文化おこる
 ガンジス地帯の農民信仰
 太子の農地瞑想
太子の教育
 就学した太子、教師を驚かす
 四年間帝王学を学ぶ
 技を競う
太子の結婚
 複数の妃
 美貌だったゴーパーとその伝説
 誇り高いヤショーダラーとその伝説
 第三の女性
太子の瞑想
 病と老と死について
 説話に現われた太子
 ラーフラの出生と太子の出城
太子の出城
 太子の出城と妃の妊娠
 精神問題追求者の出家
 マガダの首都王舎城
 結婚から妊娠まで
 愛の絆を絶つ
出城直後の太子
 闇夜の出城
 城内の騒ぎ
 誉れ高き仙人
ボサツの宗教体験
 マガダ国の盛衰
 ジナ教とともに
 シヴァ神の性器崇拝
 輪廻の思想とヨーガ
 ボサツとアーラーダ仙人
六年苦行の様相
 アーラーダの教え
 ビンビサーラ王とボサツ
 非想非非想処
 尼連禅河のほとりガヤーの頂上へ
 年月は過ぎ往く
ボサツは理想に向かって進む
 マーラとの戦い
 五人の弟子たち
 スジャーターから乳粥を受ける
 比喩で語る佛陀伝
佛陀への門出
 佛陀となるために
 菩提道場への道
 マーラ(魔王)との戦い
降魔――マーラとのたたかい
 慈悲の手
 ボサツの勝利を賛える
成道は迫る
 流転の生涯はおわる
 無明の世界を想う
佛陀出現――祝福を受けた成道
 佛陀出現の意味
 成道の日
 神々の祝福
 トラプサとバルリカ
 世尊
初めて法輪を転ずる
 法を説くためにバラナシへ
 五人の友
 鹿野苑の黙坐
聖なる中道
 鹿野苑
 聖い中道
 苦悩の起原
 悟りを得た人々
 遊びのはてのヤシャス
燃える火の法門
 縮まった火堂の竜
 真実のアラカンの神変
 千人のバラモンの帰投
 「燃える火の法門」
 精舎はえらばれた
僧団の出現
 竹林精舎
 最初の弟子たち
 舎利弗と目連
 前世の縁
大迦葉とその妻
 「火のついた草の小屋」を出た夫婦
 糞掃衣
 大迦葉の時代
 大教団に必要な「掟」(戒律)
戒律のできるまで
 師弟関係の制度化
 「到りつくこと」のために
 出家の基本原則
 神聖な日の定め
雨安居の定め――佛陀を迎えた祇園精舎
 雨安居の制度
 スダッタの供養
 祇園精舎を建てる
 史跡として
 佛陀の町
佛陀の帰城
 波斯匿王とその妃
 佛陀故郷に帰る
貴族の出家相つぐ
 アニルッダ出家の事情
 アーナンダとデーヴァダッタ
 バドリカの嘆声
佛陀の宣教の拠点
 ヴリッジ族の進歩性
 佛陀ヴァイシャーリーに入る
 ミス・ヴァイシャーリーの出家
 「維摩」の反骨
水の争い・父王の死
 絶倫王のつくったコーリヤ族
 水あらそい
 恨みなく暮らそう
 復讐はおろかだ
 ジャータカ物語
 シャーキャ族はモンゴールか
 父王病む そして死
女性の出家をめぐる諸問題
 「金縷黄色衣」
 女性の出家と八つの条件
 現実の苦悩
佛教と同時代の宗教
 聖なるものとして
 バラモン外の文化活動
 佛陀に帰投する人々
邪悪な迫害
 六師外道の中で
 赤い着物のチンチャー
 神通力のもてた時代
指切り青年の出家
 油断のできぬ時代
 「花束をつくる女」
 佛陀とプラセーナジト王
 指切りの青年(指鬘)
 勝利者の死
紛争を収める佛陀
 争いをやめよ、口論をやめよ
 怨みは怨みでは止まぬ
 佛陀のそばに仕える大象
 カウシャンビー事件終りを告げる
 乳製品を拒む提婆の一党
佛陀と提婆の間
 提婆は尊い師か、悪人か
 涎をなめていた弟子
 分派主義者か保守派か
 佛陀と過去佛
入滅の前ぶれ・鷲の峰の説法
 教化の四十四年
 枯木の下のシャーキャムニ
 国内戦
 佛教は他宗教を排しない
パータリ村の最後の説法
 法は滅びない
 戒律は護らねばならぬ
 パータリ村の説法
 ゴータマと二人の大臣
入滅前の出来事
 ベールヴァ村での説法
 アーナンダの歎き
 最後の食事
 スーカラ・マッダヴァとは何か
静かな入滅を前に
 飲み水を
 佛陀とプックサの問答
 四つ折の上衣の上に横たわる
 葬儀にかかりあうな
生涯を閉じる
 アーナンダよ
 このクシナガラで
 スバドラを拒むな
 最後の弟子
 高慢の罪は重い
 すべてのもの移りかわる
 悲しみは大地にも
 金棺は燃えない
 七日の供養
 舎利は蠟石壺の中に
あとがき
索引



渡辺照宏 新釈尊伝 02



◆本書より◆


「太子の入城」より:

「当時インドには至るところに大小の神社または寺院というものがありました。その建物で現在残っているものは一つもありませんが、色々な記述や考古学資料を総合して推察すると、中には数階建ての堂々たるものもあったようです。本尊は『ヴェーダ』伝来のバラモンの古い神々のみではなくて、むしろ、ヤクシャ(夜叉)やヤクシー(夜叉女)、ヴァイシラヴァナ(毘沙門)、またはアスラ(阿修羅)やナーガ(竜)やシリー(吉祥天女)、サラスヴァティー(弁才天)、さまざまの天女(アプサラス)、その他有名無名の男女の神格が数多くありました。河でも池でも沼でも森でも山でもそれぞれ神が住んでいて、石や樹木でも特別なものには主がいました。今の日本にも残っている民間信仰の状態と似たところがあります。別にお堂がなく、石や樹木をそのまま礼拝の対象にしたものも多くありました。お堂の建物のある場合にも、特定の宗派の人には限らず、誰でも参詣するのがふつうでした。」


「太子の環境」より:

「今述べた少年太子の説話で樹下の瞑想のことが記してありますが、これもインドの古くからの習慣のひとつです。(中略)理窟から言えばどこに坐ってもよいわけですが、樹の下ということがよくいわれます。背後が安定しているという意味ももちろんありますが、その他に、樹には神が宿っていて修行者の身を守ってくれるという意味もあるのです。」


「太子の結婚」より:

「むかしバラナシ(ベナレス)の国王によくないものがいました。その王子は正しい人でしたが、僅かな罪を理由に国外に追い出されてしまいました。王子の妃もあとを追い、一緒に山野で暮らしていました。持ちあわせの食べ物がなくなったので、野生の動物をつかまえて飢えをしのいでいました。ある時一匹のトカゲを見つけ、これを捕えて皮をむき、水をみたした容器に入れて煮ましたが、まだ煮えないうちに水がなくなってきたので、妃は水を汲みに行きました。一人残った王子はうまそうに煮えているトカゲを見ると腹がへって辛抱できず、一切れ口に入れ、また一口と、とうとうみな食べてしまいました。やがて妃が水を汲んで戻ってくると、トカゲが見あたらないので、「どこにありますか」とたずねると、王子は「トカゲは生きかえって逃げて行ってしまった」と答えました。妃は王子の言葉を信用せず、いつまでも食べものの怨みを忘れませんでした。それから何年か経って父王が死に、王子は迎えられて王の位につきました。そして妃に高価な宝物や衣服などさまざまの贈りものをしましたが、妃は何を貰ってもついに満足した顔を見せませんでした。
 以上がジャータカ物語です。この物語は中国から日本にも伝わり、『今昔物語』にも採録されています。ただし、インドや南方諸国ではご馳走にあたるトカゲも、東アジアではありがたくないと見えて、こちらではカメということになっています。こういうことも説話の面白味の一つです。
 さて、こういう過去の因縁があるので、今の世でも、シッダールタ太子から贈りものを貰ってもヤショーダラーは嬉しくないというわけなのです。」



「太子の出城」より:

「インドでは古くから、人生を四つの時期に分けます。第一は学生期で、先生の宅に住みこんで『ヴェーダ』の聖典その他を学びます。それがすむと第二の家住期で、家に帰って結婚し、家庭生活社会生活を営むのです。そしてやがて男の子が生まれて成長すると、父は財産を子供に譲り、森に入って簡素な宗教生活を営みます。その際に妻は子に委託してもよし、また、一緒に森に伴ってもよいことになっています。これが第三の林住期です。さらに第四の遊行期になると、すべての執着を捨ててまったく身軽になり、家も所有品もなく、毛髪や爪や鬚(ひげ)を切り、鉢と杖と水瓶のみを手にして、乞食によって生活します。インドでは昔から、このような宗教的な意味の乞食という習慣がありますから、このような生活は当然のこととして受けとられ、かつまた乞食をする宗教家は世の尊敬を受けているのです。」


「六年苦行の様相」より:

「今も昔もインドにはさまざまの修行者がいます。食事を制限するもの、砂糖や蜜や酢などを断つもの、一日に一食、ないしは半月、一月に一食しかしないもの、一日に一粒の麦、麻、米しか食わないもの、ただ水だけしか飲まないもの、わざと餓死して天国に生まれると信ずるもの、着るものにしても、牛や羊の皮に限るとか、樹の皮しか着ないとか、裸にかぎるとか、水浴するもの、しないもの、灰を身に塗るもの、墨や糞土を塗るもの、一本足で立つもの、太陽や月を見つめるもの、釘をさした板の上に寝るもの、呪文を唱え、『ヴェーダ』(吠陀)の聖典を読むもの、梵天や帝釈をはじめさまざまの神や鬼神に祈るもの、地水火風空や山川池海をあがめるもの、刀剣等の武器をまつって解脱を求めるものなど、数えたてるときりがありませんが、これらは二千五百年前から今日に至るまで、インドではよく見られる修行者の姿なのです。」

「ボサツはこういうことが、すべて最高の目的には役に立たないことをはっきりと知ります。そしてこれまでに例のないほど激しい苦行を始めます。
 まず正しく結跏趺坐(坐禅の姿勢)をして身と口と心とがじっと静かに動かないようにします。そしてまず心を一点に集中して、出息入息を制御します。熱気が体中にみちわたり、腋下(わきのした)から汗が流れ、額の上にも雨の滴のような汗が垂れます。
 出息入息を制止すると、両方の耳に大きな音響がおこってフイゴのような音がします。耳と鼻と口とすべて出息入息をとじてしまうと、体内の風が頭の頂上に衝突して大音声がおこり、鋭い刀で切りつけるほどの痛みを脳の骨に感じます。
 出息入息をすべてみな止めてしまうと、体内の風が両脇のあいだをはげしく吹きまわり、大音響がきこえて、今にも身体がバラバラになりそうです。また、その風の動きがはげしく、身体中が火炎に包まれたようになります。
 こういう苦行を続けると同時に、断食法をも行ないます。段々に食事の分量を減らせて、一日に麦一粒になった時に、身体はやせ衰えて文字どおり腹と背骨とがぴったり付くほどです。さらに米一粒から麻一粒まで減らすと、やせこけたうえに皮膚の色もあせて、墨色というか死灰色というか、生きた感じもありません。この苦行のあいだ夏は暑いまま、冬は寒いまま、少しも心を用いず、蚊や虻(あぶ)の食うにまかせ、払いのけようともしません。たまたま通りかかるいたずら少年が鼻や口や耳に草などをさしこんでからかっても、身動きもしません。
 このようにして苦行が続きました。」



「ボサツは理想に向かって進む」より:

「ボサツは今まで誰も試みたことのないような烈しい苦行を続けて、死の一歩手前にまで近づきました。呼吸の調整からついに呼吸をまったくとめるところまで努力しました。(中略)また食事の量をだんだん減らせて、ついに絶食するにいたりました。
 美しくかがやいていたボサツの若い肉体は見るかげもなく衰えて、生きているのか死んでしまったのかわからないほどでした。ある神は「死んだ」と言い、ある神は「まだ生きている」と言いました。」

「さてボサツが出家してから六年の歳月が経ちました。極端なところまで押しすすめた苦行によっても、目ざす最高の理想に達することができないことがわかりました。肉体を苦しめることによってではなく、肉体の力を善用することによらなければ人間苦の解決はできないことに気がつきました。
 そのときボサツが思いだしたのは、少年時代のある日の経験のことでした。春の農耕儀礼に参加した太子はいつか人々の群から抜けだしてただひとり、ある木の下に坐って瞑想にふけっていました。あの時には自分でそれとは知らずに内面的に高い段階を体験したのでした。すなわち欲界(欲望に支配されている通常の経験世界)を超越して色(しき)界(欲望がまったくなくなり、ただ形態のみが残っている瞑想の世界)にまで楽々と到達したことなのです。
 そのことを思いだしたボサツ、今さらのように自分自身にそなわっている精神力の偉大さに気がつきました。教師の指導によっても、肉体を苦しめることによっても遂に得られなかった理想に向かって独力で努力することに決心しました。」



「戒律のできるまで」より:

「出家生活の依りどころとなる基本原則は四依とよばれます。
 四依の第一は「出家は乞食による」ということです。上は佛陀をはじめ、毎朝、鉢を持って托鉢に出て、信者が鉢の中に入れてくれた食物を食べるのが原則であります。鉢に入れられるものはその場で食べられる食物に限ります。保存する食物は許されません。ただし托鉢以外に、信者から午前中の食事に招待され、そのあとで信者のために説法するということは例外として許されます。
 第二は「出家は糞掃衣(ふんぞうえ)による」ことであります。
 第三は「出家は樹下坐による」であります。出家の居る場所としてもっともふさわしいのは野天の樹の下であります。昼はここに坐って瞑想し、または説法もします。夜もここを寝所とすることが望ましい。しかし実際には出家のために設けられた精舎、または旅行先の社、あるいは洞窟などが住居として用いられます。
 第四は「出家は陳棄薬による」であります。陳棄薬というのは動物の大小便またはこれから製した薬のことであります。例外としては油、蜜その他ふつうの薬を用いることも許されます。」



























































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ハンス・リーベシュッツ 『ソールズベリのジョン』 柴田平三郎 訳 (ヴァールブルク・コレクション)

ハンス・リーベシュッツ 
『ソールズベリのジョン
― 中世人文主義の世界』 
柴田平三郎 訳
 
ヴァールブルク・コレクション

平凡社
1994年3月14日 初版第1刷発行
337p 著・訳者紹介1p
四六判 角背紙装上製本 カバー
定価3,500円(本体3,398円)
造本: 戸田ツトム+岡孝治



本書「訳者あとがき」より:

「ここに(中略)訳出した著作の底本は、Hans Liebeschutz, Medieval Humanism in the Life and Writing of John of Salisbury (Studies of The Warburg Institute. Edited by F. Saxl, vol. 17), The Warburg Institute, University of London, 1950 である。
 ただし訳出にあたっては、同書のクラウス・リプリント版(中略)を使用し、四つのごく短い付録(中略)については(中略)、これを割愛した。なお、「補遺 政治思想に対するソールズベリのジョンの貢献についての近年の諸解釈」(一九六八年)は、クラウス・リプリント版に新たに収められたものである。」



リーベシュッツ ソールズベリのジョン


帯文:

「中世
知識人の
生と
世界像…………
「十二世紀ルネサンス」の
体現者の生涯と著作を
精査しつつ、
その歴史的境位を
見定めた古典的モノグラフ。
本邦初訳・初紹介。
訳者による
力作付論を併載。」



帯背:

「十二世紀
精神の鏡」



カバー文:

「当時のあらゆる傑出した人物のなかでも、英国人ソールズベリのジョン
「ヨハネス・サレスベリエンシス」は、
十二世紀に対して
「中世ルネサンス」という
名称が与えられることとなった
学問復興の最も著名な
代表者として際立っている。
彼の思想形態と行動とが
その古典の教養によってどれだけ
深く影響されているかを
はっきりさせることが我々の課題である。」



カバー裏文:

「ジョンの立場が著作者としても
政治家としても、
当時の生活を支配していた
実際的問題にしっかりと根ざしていたことは
近代の研究が明らかにした
疑うことのできない成果である。」



目次:

序文
第一章 ジョンと近代の研究における問題としてのその生涯
 一 学者
 二 教会人
 三 政治思想家
第二章 伝記的背景
 一 ジョンの前半生における政治経験と関心事
 二 宮廷との関係における最初の危機
 三 トマス・ベケットと行政官としての教会人という問題
 四 韻文によるプロローグ
第三章 『ポリクラティクス』の構造と論調
 一 「申命記」とプルタルコス――王の手引き
 二 宮廷人の娯楽
 三 『哲学の慰め』
第四章 初期中世における政治文献の発展と『ポリクラティクス』との関係
 一 大グレゴリウスと古代政治理論の単純化
 二 カロリング朝の文芸復興
 三 十一世紀のパンフレットとフルーリのフーゴー
第五章 中世の経験と古代思想――政治の諸観念
 一 国家(レス・プブリカ)
 二 君主(プリンキパトゥス)
 三 暴君(テュランヌス)
 四 自由(リベルタス)と法(レクス)
 五 永遠のローマ(ローマ・アエテルナ)
第六章 中世の経験と古代思想――教育の諸観念
 一 ラテン語世界
 二 範例(エクセンプラ)
 三 哲学の価値
 四 雄弁家と知識人
 五 歴史的位置
第七章 亡命――思索と実践
 一 一次資料としての書簡
 二 観察者とその限界
 三 忠誠
 四 原則と戦術
 五 書簡作者の性格

原注
補遺 政治思想に対するソールズベリのジョンの貢献についての近年の諸解釈

訳者付論 十二世紀精神の鏡――ソールズベリのジョン
訳者あとがき

人名索引




◆本書より◆


第二章より:

「とはいえ、一一五九年という年はジョンが執筆活動に専心するうえで重要な年であった。また自伝的観点から見れば、彼にはこの年をヘンリ王の治世における転換点とみなすに十分な根拠があった。ジョンはただ強いられた余暇の時間を埋めるために執筆を開始したにすぎないというのは正しくはないであろう。この年の諸事件に強く促されたこともあって、ジョンはその思想と経験から一冊の書物を書き、王の行政機構全体に対する批判を開始しようとしたのに違いない。王と宮廷から突然忌み嫌われたことで、大それた征服の企てのために教会への巨額の課税を必要とするに至ったヘンリ王の政策とのジョンの公然たる対立の可能性が明らかになった。ジョンは王の不興を買ったために、自分の考えを表明しようとしたのではない。むしろジョンが終始暗黙のうちに王に対する教会の批判の代表者であったからこそ、王の怒りが彼の上に落ちたのである。ジョンの観点からすれば、不和は王の廷臣たちに対する彼の嫌悪からもっぱら生じていたのであった。対立の起こる少し前、彼は自分の生活の場であるイングランドの宮廷と社会が、一時的に修道院から出てそこで暮らす修道士にとって非常に危険な世界であることを大修道院長セルのペトルスに宛てて書き送る義務があると感じた。宮廷社会に対するこの批判的な気分は『ポリクラティクス』の中心的な観念となった。」


第三章より:

「ジョンは、個性をなくし、パトロンの望むままに自分を変える追従者の肖像を描くべくローマの諷刺や喜劇からの引用を利用する。そのような人間は自分自身の人格の尊厳を捨てる役者であり道化師である。他方、追従される人間の方にしても、その自己認識の声は追従者によって黙らされることになる。こうして世界は運命の女神が主役を演じる芝居となる。各人がどのように自分自身を捨てようとしているかを観察するとき、それは喜劇のように見える。しかし我々が至るところで見る悪しき結果は、それを悲劇として見る方が適切である。この世界という劇場からの唯一の出口は徳を通してのみ可能である。もし我々が聖書の敬虔な人間たちに倣い、すべての真の叡知と徳は神に起源するという我々の経験によって古代哲学者の叡知を補うならば、我々は世界という劇場とその運命の女神を軽蔑することができるであろう。かように追従についてのジョンの分析は体系的な叙述として提出される。」


第五章より:

「自由への要求はジョンにとって、それが外的圧力から個人の領域を守ろうとする力を意味しているがゆえに、人間本性の基本的な衝動である。この見地から彼は隷従を死と、自由を生命と同一視する。彼は「リベルタス」(libertas)という用語を聖ヒエロニュムスを引用しながら、感覚を通して誘惑によって圧倒されうる道徳的自由という意味で用いている。しかし『ポリクラティクス』でのジョンの主な関心は人間が自分自身の判断を放棄することによって権利と尊厳をそれに譲り渡してしまう外的力の圧迫の方にある。彼らは暴君が命じることをあたかも自分自身の自由意志からなすようなふりをすることによって、ただ自由の影を保っているにすぎない。そうした雰囲気のなかでは、奴隷的な追従が支配し、真の自由はまったくありえない。(中略)王の僕はその立場を利用して恐喝する。彼は長年の役職の経験を悪用して、狙いをつけた人間から少しずつ奪いながら、さらに徹底的に搾取する。被後見人たちは騙され、土地所有者たちは強制的に土地を売らされ、人々は追放の身へと追いやられ、それでいてローマへの巡礼者だなどと言われる。」
「ジョンは、王の意志は法に等しく何らの上位の命令によっても制限されず至高のものであるとする理論を、王の代理者たちの最も横暴な行為をさえ正当化するために用いる役人たちを非難する。(中略)彼は、神的立法者の名において王に法を越える絶対的な首位権を与えることを望み、その実、王を無法者にしてしまう宮廷人たちと対決している。」



第六章より:

「セネカは同時代が巻き込まれている複雑な知的、技術的様相に反対して、人間社会の幸福な原始的状態を支配していた単純な叡知を擁護しようとした。それが、技術的進歩は哲学によってもたらされるとするポセイドニオスの教説に反対する彼の有名な論争の意義である。真の叡知は手の込んだ食物や衣服の生産、武器の発明や戦争と何の関係もなく、むしろ平和を讃え、有用性と高貴さの結合を社会に教える。ソールズベリのジョンは幸福な原始状態というこのストア派の教説の影響を受けていないわけではない。しかし彼は技術的、知的文明から堕落が生ずるという考え方全体を引き継いではいない。ジョンは当時の生活のあり方を批判し、必要性ということを規制的原理として強調することによって贅沢を抑えることを望んだが、同時代人たちの欠点を誇張された文化的洗練の産物とみなしてはいない。反対に彼は、自分の時代が古代の教師たちの成し遂げたものよりも優れた学問的成果を達成しえたことを誇っている。」
「ソールズベリのジョンによる古代哲学の援用は、『ポリクラティクス』の道徳的、政治的問題に関する限り、同時代人たちのために具体的な教訓になると彼が考えた、古代著作家たちの一連の定式にもっぱら限定されている。「異教のモラリストのなかで、あなたがその著作や文章をあらゆる問題に用いるのに、セネカ以上に適した人はおそらくいないであろう」。これがセネカの重要性についてのジョンの全体的見解である。ここでまた我々は古代思想の体系的枠組みを復活させるのがジョンの意図ではないことがわかる。反対に、我々はセネカや特にキケロを引用する際の彼の傾向が、古典思想の構造的細部に関わるすべての観念を避けることであったことに気づく。」


































































































田島照久 編訳 『エックハルト説教集』 (岩波文庫)

「それゆえに、命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問なしに生きるのである。」
(エックハルト 「なぜという問のない生き方について」 より)


田島照久 編訳 
『エックハルト説教集』
 
岩波文庫 青/33-816-1 

岩波書店
1990年6月18日 第1刷発行
306p
文庫判 並装 カバー
定価520円(本体505円)



巻頭に図版(モノクロ)1点、「解説」中に図版(エックハルトの筆跡)1点。


エックハルト説教集


カバー文:

「ドイツ神秘主義の源泉エックハルト(1260頃―1328?)の説教22篇と論述1篇ほかを収録。説教の中心は心の自由と平安の問題であり、苦しみや悲しみのただ中にあってもなおそれを高く超え出た在り方のあることが「離脱」の概念を介して説かれる。ユングはエックハルトを評して「自由な精神の木に咲く最も美わしき花だ」といった。」


目次:

説教
 魂という神殿について (マタイによる福音書第二十一章第十二節)[説教一]
 魂の内にあるひとつの力について (ルカによる福音書第十章第三十八節)[説教二]
 なぜという問のない生き方について (ヨハネの手紙一、第四章第九節)[説教五b]
 死して有る生き方について (ヘブライ人への手紙第十一章第三十七節)[説教八]
 知性と意志とについて (シラ書(集会の書)第五十章第六節、第七節)[説教九]
 神の根底にまで究めゆく力について (シラ書(集会の書)第四十四章第十六節、第十七節)[説教十]
 純然たる無である被造物について (ルカによる福音書第一章第五十七節)[説教十一]
 神のために神を捨て去るということについて (シラ書(集会の書)第二十四章第三十節)[説教十二]
 自分の魂を憎むということについて (ヨハネによる福音書第十二章第二十五節)[説教十七]
 一(いつ)なる神について (エフェソの信徒への手紙第四章第六節)「説教二十一」
 神の子の誕生について (ルカによる福音書第一章第二十八節)[説教二十二]
 自分自身を脱ぎ捨てるということについて (ローマの信徒への手紙第十三章第十四節)[説教二十四]
 捨て去るということの意味について (ヨハネによる福音書第十五章第十六節)[説教二十八]
 神の言(ことば)について (テモテへの手紙二、第四章第二節、第五節)[説教三十]
 神が魂の内に子を生むということについて (ルカによる福音書第七章第十四節)[説教四十三]
 魂の内にある火花について (ある師の言葉について)[説教四十八]
 三つの内なる貧しさについて (マタイによる福音書第五章第三節)[説教五十二]
 無である神について (使徒言行録第九章第八節)[説教七十一]
 三つの闇について (マタイによる福音書第五章第一節)[説教七十二]
 像を介さぬ認識について (エフェソの信徒への手紙第四章第二十三節)[説教八十三]
 観想的生と活動的生とについて (ルカによる福音書第十章第三十八節―第四十二節)[説教八十六]
 神と神性とについて (マタイによる福音書第十章第二十八節)[ファイファー五十六]

論述
 離脱について

伝説
 マイスター・エックハルトと交わした、善き修道女の善き会話
 善き朝について
 マイスター・エックハルトと裸の男の子
 マイスター・エックハルトのもてなし

訳注
解説




◆本書より◆


「なぜという問のない生き方について」より:

「だれかが命に向って千年もの間、「あなたはなぜ生きるのか」と問いつづけるとしても、もし命が答えることができるならば、「わたしは生きるがゆえに生きる」という以外答はないであろう。それは、命が命自身の根底から生き、自分自身から豊かに湧き出ているからである。それゆえに、命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問なしに生きるのである。」

「人々はよくわたしに向って、「どうぞ、わたしのためにとりなし祈って下さい」という。そのときわたしは、「なぜあなたがたは外に向ってもとめていくのか。なぜ、あなたがたは自分自身の内にとどまって、あなたがた自身の宝をつかまないのか。あなたがたはすべての真理をあなたがたの内に本質的にもっているではないか」と心の内でつぶやくのである。」



「死して有る生き方について」より:

「この世では、人はあたかも死んでいるかのようにふるまわなくてはならないというのは善き教えである。聖グレゴリウスは、およそこの世に死に切った人ほど、神を豊かに所有できる人はほかにだれもいないと言っている。」


「知性と意志とについて」より:

「ある師は次のように語っている。神とは、自分自身の内で分割されることなく、永遠において働く何かであり、だれの助けも必要とせず、道具ひとつも必要としないで、みずからの内にとどまりつづける何かであり、何も必要としない一方、一切の事物が必要とする何かであって、究極の目標としてすべての事物がそれへと迫り来るものであると。この最終目標にはいかなる定まったあり方もなく、様態を脱していて、とらえることができない。聖ベルナルドゥスは、神を愛するあり方とは、あり方なきあり方であると語っている。」
「聖アウグスティヌスは、神は知恵なき知恵あるものであり、善なき善(よ)きものであり、力なき力あるものであると語っている。」

「知性とはいつも内に向って働いているものである。何であっても、より繊細にそしてより精神的になるにつれて、それだけいっそう力強く内に向って働くものである。」



「神の根底にまで究めゆく力について」より:

「さて、神が知っているすべてを知る人とは、神を知っている人である。このような人は神を自分の固有な有において、自分の固有な一性において、自分の固有な現在において、自分の固有な真理において、つかむのである。そのような人にあってはすべてが義とされるのである。」

「神は世界と一切の事物とをひとつの現なる今において創造するのである。千年前に過ぎ去った時も神には今ある時と同じように現にあるものであり、近いものなのである。」



「神のために神を捨て去るということについて」より:

「あなたが自分自身を大切に思っているとすれば、そのときあなたは自分自身と同じようにすべての人を大切に思っているのである。あなたにたったひとりでも自分より大切に思わない人がいるかぎり、つまりあなたがすべての人を、神にして人であるひとりの人において大切に思わないならば、あなたは自分自身を真に大切に思っていなかったということになる。自分自身を大切に思い、しかもすべての人を自分自身のように大切に思うような人こそがまさに正しいのである。ところで多くの人は、わたしに善きことをしてくれた友を、ほかの人よりも大切にすると語る。それは正しいことではない。不完全であるからである。しかしそれもやむをえないことであろう。」

「人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。ところで聖パウロは神を神のために捨て去った。彼は、神から受けとることのできたすべてを捨て去ったのであり、神が彼に与えることのできたすべて、彼が神から受け容れることのできたすべてを捨て去ったのである。彼がこれを捨て去ったとき、その時に枯れは神を神のために捨て去ったのであった。そしてそのとき、彼に残された(引用者注: 「残された」に傍点)のは神であった。しかしその神は、彼に受けいれられたり手に入れられたりされる仕方での神ではなく、神が神自身の内においてあるような、それ自体において、みずからの内において存在している神である。彼は神にいかなるものも与えたことなく、神よりいままでいかなるものも受けとったこともない。それはひとつの一(いつ)であってひとつの純粋な同一化である。(中略)すでに何度となく言ったように、魂の内には神ともともと一であり、合一して一になったのではないというほどに神と一にして似ているあるものがある。この一なるものはいかなるものとも共通性をもたず、神より創造されたあらゆるもののうちのどんなものとも共通性をもつことがない。」

「天使も人間もすべての被造物も、その原初の流出においては、等しいものとして、神から流出したのである。もしものをその原初の流出において受けとる人があれば、その人はすべてのものを等しいものとして受けとることであろう。それらのものが時間の内ですでにこうも等しいならば、それらは神のうちで、つまり永遠の内ではもっとはるかに等しいものである。一匹のハエといえども神の内でこれを受けとるならば、それは神の内では、自分自身の内にある最高の天使よりも貴いものとなる。」



「自分自身を脱ぎ捨てるということについて」より:

「どうすれば正しいあり方となるであろうか。預言者の言葉に従えば二つのあり方においてである。(中略)「時が満ちる」のには二つの仕方がある。ひとつは、たとえば晩に一日が果てるように、その終りにおいて、あるものが「満ちる」場合。つまり、すべての時間があなたから失われるとき(つまり死するとき)、このとき時が満ちるのである。二つ目は、時間がその果てに到るとき、つまり、時間が永遠の内へと入るときである。なぜならば、そこでは一切の時間が終りを告げ、そこには以前も以後もないからである。そこにあるものは、すべて現なるものであり、新たなるものである。かつて生起したものも、これから生起するものも、あなたはここではひとつの現なる直観の内でつかむのである。ここには以前も以後もなく、一切が現在である。そしてこの現なる直観において、わたしは一切の事物をわたしの所有となすのである。これが「時が満ちる」という意味である。そのような正しいあり方にわたしがいたれば、わたしは真に神の独り子となりキリストとなるのである。」


「無である神について」より:

「「パウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」一(いつ)であるものをわたしは見ることはできない。彼は無を見た。それが神だったのである。神はひとつの無であり、そして神はひとつの何かである。何かであるもの、それはまた何ものでもないものである。神であるもの、それはすべてである。」
「神はひとつの真の光である。この光を見ようと思う人は、盲目とならなければならない。そして神を一切の「何か」から遠ざけておかなければならない。(中略)魂が一(いつ)なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄するならば、そこで魂は無の内に神を見出すのである。かつてある人は、あたかも夢の内での出来事のように――それは白日夢であったが――子供を宿した女性のように無を宿したと思った。この無の内で神が生まれたのである。それは無の果実であった。神は無の内で生まれたのである。」



「像を介さぬ認識について」より:

「「いったいどのように神をわたしたちは愛したらよいのであろう」――あなたは神を非精神的な仕方で愛さなくてはならない。つまりあなたの魂が非精神的になり、一切の精神性を脱ぎすてるほどに非精神的な仕方で愛さなくてはならない。なぜならば、あなたの魂が精神的であるかぎり、魂は「像」を持つからである。魂が「像」を持つかぎり、魂は媒介を持つ、魂が媒介を持つかぎり、魂は一性も単純性も持つことはない。魂が単純性を持たなければ、魂は神をいまだ正しく愛したことにはならないのである。なぜならば正しく愛するかどうかはひとつになるかどうかにかかっているからである。それゆえにあなたの魂はすべての精神的なものを脱ぎすて非精神的でなくてはならないのである。あなたが神を、「神」として、「精神」として、「位格(ペルソナ)」として、「像」として愛するならば、その一切は捨て去られなくてはならない。「それではいったいわたしは神をどのように愛すればよいのだろうか」――あなたは神を、ひとつの非神として、ひとつの非精神として、ひとつの非位格として、ひとつの非像として、さらに一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄みきった一(いつ)なるものとして愛さなくてはならないのである。そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。」


「離脱について」より:

「完全なる離脱はどんな被造物の下にもまた上にも自分を就かそうとする意図を持たない。離脱は下位にも上位にも立つことを求めず、だれも愛さず憎まず、自分自身でいることだけを望み、どんな被造物とも等しくなったり、異なったりすることも求めることなく、あれでありたいとも、これでありたいとも求めることがない。ただ存在すること以外に何も求めることはない。あれであったり、これであったりしたいということは、離脱が求めることではけっしてない。なぜならば、あれでありたい、これでありたいと望む人は何かあるものでありたいと望んでいることになるが、離脱はそれに対して無であることを求めるからである。」




こちらもご参照ください:

植田重雄・加藤智見 訳  『シレジウス瞑想詩集』 (岩波文庫)



































































































トマス・ア・ケンピス 『キリストにならいて』 大沢章・呉茂一 訳 (岩波文庫)

「地上では巡礼か旅人のように、身を処しなさい(ペテロ一・二の一一)、世間の用事には何の関わりも持たない者として。」
(トマス・ア・ケンピス 『キリストにならいて』 より)


トマス・ア・ケンピス 
『キリストにならいて』 
大沢章・呉茂一 訳
 
岩波文庫 青/33-804-1 

岩波書店
1960年5月25日 第1刷発行
1977年8月10日 第19刷発行
280p
文庫判 並装
定価300円(☆☆☆)



本書「解題」(大沢章)より:

「トマスは、書物に対する深い愛と、終日ひとり静かな一隅を求めて暮らそうとする性向とによって、他のものに卓越していたようである。このことは、かれが死にのぞんで述べたことばの中で「私はすべてのもののうちに安静を求めた、けれど、この小房の一隅と書物との外には、それを見いだすことができなかった」といっていることからも、うかがうことができる。」

「この訳書は、最初に私が訳したものを、呉茂一先生が厳密に校閲され、訂正され、最もよみやすい文体に改められたものである。」



Thomas a Kempis: De Imitatione Christi


トマスアケンピス キリストにならいて


帯文:

「修道士たちの精神生活の完成をめざして書かれた名著。この世の俗事を軽んじ完徳の道を歩み続けた著者の宗教的体験が深く刻まれる。」


目次:

第一巻 霊の生活に役立ついましめ
 第一章 キリストにならって、すべてこの世の空しいものを軽んずべきこと
 第二章 身をつつましく持すべきこと
 第三章 真理の教えについて
 第四章 行ないに当って思慮ぶかくあるべきこと
 第五章 聖書を読むことについて
 第六章 紊りがましい情念の動きについて
 第七章 空しい希望と高慢とを避くべきこと
 第八章 度を過ぎた親しみは戒むべきこと
 第九章 従順と服従とについて
 第十章 ことばの多過ぎるのを戒むべきこと
 第十一章 心の安らぎを求むべきこと、および向上に対する熱意について
 第十二章 艱難の用について
 第十三章 誘惑を斥けることについて
 第十四章 やたらな批判を下すのを避くべきこと
 第十五章 愛のためになされる業について
 第十六章 他人の欠点を堪え忍ぶべきこと
 第十七章 修道院の生活について
 第十八章 聖なる教父たちの範例について
 第十九章 よい修道者の勤行について
 第二十章 孤独と沈黙とを愛すべきこと
 第二十一章 心の悔い改めについて
 第二十二章 人生の悲惨を顧みて
 第二十三章 死の冥想について
 第二十四章 審判(の日)と罪人の処罰について
 第二十五章 われわれの生活の全体を熱意をもって改むべきこと

第二巻 内なることに関するすすめ
 第一章 内なる交わりについて
 第二章 謙虚な服従について
 第三章 善良で温厚な人物について
 第四章 清らかな心情と素直な意図について
 第五章 自身を省みることについて
 第六章 正しい良心の喜びについて
 第七章 すべてに超えるイエスへの愛について
 第八章 イエスとのうち解けた友愛について
 第九章 いかなる慰めも持たないがよいこと
 第十章 神の恵みに対する感謝について
 第十一章 イエスの十字架を愛するものの少ないこと
 第十二章 聖い十字架の王道について

第三巻 内面的な慰めについて
 第一章 信実な魂とキリストとの内面的な対話
 第二章 真理は、騒々しい言葉を用いず、(心の)内に語るということ
 第三章 神のことばをつつましくきくべきこと、しかもそれを重んじないものが多いこと
 第四章 真理と謙遜との中に神の御前に世を送るべきこと
 第五章 神の愛の賛嘆すべき所業について
 第六章 真に愛する者の試錬について
 第七章 謙遜の護りのもとに神の恵みを隠すべきこと
 第八章 神の眼に自身をつまらぬ者と見なすべきこと
 第九章 すべてを神に、窮極の目的ともして、帰すべきこと
 第十章 世を蔑して神に仕えることのたのしさ
 第十一章 さまざまな心の望みはよく検討し、つつしむべきこと
 第十二章 忍耐を涵養し、欲望と力をつくし闘うべきこと
 第十三章 イエス・キリストの範にならって、つつましく(長上に)服する者の従順さについて
 第十四章 善行に傲らないよう、神に秘やかな審判を顧みるべきこと
 第十五章 すべて望ましいことのあるとき、いかように身を処し、どう言えばよいか、ということ
 第十六章 真の慰めは、ただ神においてのみ求むべきこと
 第十七章 すべての気づかいは神に委ねておくがよいこと
 第十八章 キリストの範にならって、この世の惨苦を平然として堪え忍ぶべきこと
 第十九章 不正を忍ぶこと、また誰が本当によく堪え忍ぶものか試みられよう、ということ
 第二十章 自分の弱さを反省(告白)することと、この世の悲惨とについて
 第二十一章 いかなるよいもの、贈物にもまして、神にやすらうべきこと
 第二十二章 重ね重ねの神の恵みを心に銘記すべきこと
 第二十三章 大いなる安らぎをもたらすための四ヵ条
 第二十四章 他人の生活を好奇心で訊ねさぐるのは避けるがよいこと
 第二十五章 確固たる心の安らぎを与えるものに真の進歩もまた存すること
 第二十六章 読書よりもむしろつつましい祈りによって得られる自由な心の卓越性について
 第二十七章 我の愛以上に人を至高善(至福)から引き離すものはないこと
 第二十八章 人の悪口について
 第二十九章 苦難に当面してどんな風に神に呼びかけ、また神を祝福すべきかについて
 第三十章 聖い御力添えを乞い求めて、御恵みにまたあずかれるのを確信すべきこと
 第三十一章 創造主が認められるためには、あらゆる被造物は棄てておくのがよいこと
 第三十二章 自己否定(克己)とあらゆる欲情の捨離について
 第三十三章 人の心情の定まらぬこと、窮極の目的を神に置くべきこと
 第三十四章 神を愛するものには、何物よりも、また何につけても、神(のありがたさ)がよく味わえること
 第三十五章 この世では誘惑から無事であることはできないとのこと
 第三十六章 人々の空しい裁きに対する弾劾
 第三十七章 心の自由を得るためには自己を全く残さずに捨離すべきこと
 第三十八章 外面のことをよく処理し、難に際して神に助けを求めることについて
 第三十九章 人は用事につけて、あまり焦ってはならないこと
 第四十章 人は何も自分としての善い点はなく、何も自慢はできないこと
 第四十一章 この世のあらゆる誉れを軽んずべきこと
 第四十二章 心の安らぎにつき、世の人に左右されてはならないこと
 第四十三章 空しい世間的な知識に対する戒め
 第四十四章 外界の事物に心を乱されないこと
 第四十五章 すべての人を信用してはならない、また人の口は至って滑りやすいものであること
 第四十六章 ことばの攻撃が湧き立つときにも神に信依すればいいこと
 第四十七章 永遠の生命をえるためには、あらゆる重荷も堪え忍ぶべきこと
 第四十八章 永遠の日とこの世の短かさ、狭苦しさについて
 第四十九章 永遠のいのちを乞い願うこと、および、闘う者にはどれほど大きな幸福が約束されているかについて
 第五十章 悩む者はどんなふうに神の御手に身をささぐべきか
 第五十一章 立派な仕事をする力を欠くときは、つつましい仕事に出精すべきこと
 第五十二章 人は自分を(神の)慰めに値するものではなく、むしろ鞭打たれるに値する罪人、と考うべきこと
 第五十三章 神の恵みは、地上的なものを嗜む人には与えらえないこと
 第五十四章 自然(人の自性)と神の恵みとのあい反する動きについて
 第五十五章 自然(人の自性)の人を堕落させる働きと、神の恵みのすぐれた作用について
 第五十六章 私たちは自己を捨て、十字架によってキリストにならうべきこと
 第五十七章 人が何かの過ちをしでかしても、あまり気を落とすには及ばないこと
 第五十八章 高い(神の司る)ことがらや、常人の解し得ない神の審判を批議すべきでないこと
 第五十九章 あらゆる望みと信頼とを神だけにかけるべきこと

第四巻 祭壇の秘蹟について/聖体拝受についての敬虔な勧告
 第一章 どれほど深い敬いの心でキリストを拝受すべきかについて
 第二章 神の大いなる仁慈と愛とが聖餐式で人間に示されること
 第三章 たびたび聖餐式にあずかるのは有益なこと
 第四章 信心ふかく聖体を拝受するものには多くの福が与えられること
 第五章 聖餐の尊さと司祭の身分について
 第六章 聖体拝受の前につくすべきこと
 第七章 自己反省と改善の決意について
 第八章 十字架におけるキリストの犠牲と、われわれが自身を捨てて献ぐべきこと
 第九章 われわれは自己と自己の所有のすべてを挙げて神にささげ、人皆のために祈るべきこと
 第十章 尊い聖体拝受の儀をたやすく廃してはならないこと
 第十一章 キリストの聖体と聖書とが、信者の魂にはとりわけ大切なこと
 第十二章 聖体拝受にあずかろうとする者は、十分な熱意をもってその準備をしなければならない
 第十三章 信心ふかい魂は秘蹟(聖体拝受)において、心をつくしてキリストとの合一を得ようとつとむべきこと
 第十四章 信心ふかい人々が、キリストの聖体をしきりに願いもとめることについて
 第十五章 信をもつという聖い恵みは、身をへり下ることと、自己否定とによって得られること
 第十六章 私どもの欠けるところ、要するところをキリストに打ち明けて、御恵みを求むべきこと
 第十七章 キリストを拝受しようとの熾んな愛と烈しい情熱について
 第十八章 人は秘蹟を物ずきにかれこれ詮議すべきではなく、その理知を聖い信仰に従わせて、つつましくキリストにならうべきこと

解題 (大沢章)
「キリストにならいて」訳について (呉茂一)




◆本書より◆


「第一巻」より:

「自分自身を真実に識(し)って、これを軽んずること、これが最高でまた最も有用な教えである。自身をばつまらぬ者とし、他人を常によくまた高く評価するのが、大いなる知恵であり、完全なおこないである。たとえ他人が明らかに罪を犯し、あるいは何か重い非行をなしとげるのを見たとしても、自分をより優ったものと評価してはならない、なぜというと自分がいつまで善に留まり得るかどうか、あなたは知らないのだから。私たちはみなもろくひ弱い者である、だがあなたとしては、あなた自身より脆(もろ)いものはたれもいないと考えるがよい。」

「人が自分と一つになり、内において単純となるにつれ、彼はいよいよ苦労なしにいっそう多くのさらに高いことを悟るようになる。なぜならば彼は上からの知恵の光をうけるからである。」

「時としていろいろな悩みや意に反する事があるのも、私たちにとってよいことである、なぜというと、それらはしばしば人に、自分がこの世では流人の身であるのを悟らせ、自分の望みをこの世の何ものかにおいてはならぬことを想起させるからである。時としては私たちが人から反対を蒙り、また私たちの行ないや意図がよい場合にも、悪く、不満足なものと思われるのも、よいことである。そうしたことは、しばしば(中略)、空しい誉(ほま)れから私たちを守ってくれる。何となれば、私たちが人びとから世間的に卑しい扱いを受け、よく思われないとき、そういう折にこそ、私たちはさらによく神を内なる証人として求めるのである。」

「この世に対しては他所者(よそもの)であったが、つねに神の身近にある、親しい身内とされていた(ヤコブ・四の四)。かれらは自分を、いわば何の価もないもののように、またこの世からは見下されたもののように見なしていたが、神の眼には、大切な、愛せられるものであった。」

「ある人が言うには、「人々の間に出かけるたびごとに、私は(前よりいっそう)つまらぬ人間になって帰って来た」と(セネカ・書簡・七)。私たちも長く人と話し合っていると、こういうことを実にたびたび経験するものである。物を言って行き過ぎないより、全然何も言わないでいるほうがずっとたやすい。家へ引込んでいるほうが、外へ出て十分に自分の見張りをする力をもつより容易である。それ故、内面的な、かつ霊的な(徳)を成就しようと志向する者は、イエスに従い、群集から身を退くべきである。」

「もしあなたが心底から悔い改めようと思うならば、あなたの寝床に入って、世間の騒音を断ち切りなさい、「汝らの臥床において悔い改めよ」(詩篇・四の五)と書かれているように。部屋の中では、戸外(そと)でならば大抵失うようなものを見つけるだろう。」

「人間の幸福というのは、かりそめなものをどっさりと持っていることではなくて〔箴言・一九の一)、程々で十分なのだ。本当には地上に生きるということが惨めさの因(もと)をなすのだ。人が霊にしたがう者になろうとすればするほど、いっそう現在の生が彼には苦悩をもたらすものとなる。」

「地上では巡礼か旅人のように、身を処しなさい(ペテロ一・二の一一)、世間の用事には何の関わりも持たない者として。」



「第二巻」より:

「この世はあなたの安息の場所でないのに、あなたは何をそこで探ね回っているのか。天上にこそあなたの住居はあるはずだ(ピリピ・三の二〇)。それゆえ、地上のあらゆるものは過ぎゆく(過程にある)ものと眺めるべきである。すべてのものは過ぎてゆく(知恵書・五の九)、あなた自身もまた、それらと同じように。」

「世の賞賛を博したからといって、それでいっそう聖人になるわけではなく、悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に出ることはできない。自分の心底がどんなかをよく省みれば、世の人があなたのことをどういおうとも、気に病むことはなかろう。」

「イエスは、今やその天国を愛する者を沢山もっておいでだ、しかしその十字架を担(にな)うものはわずかしかない。また慰めを乞い求めるものは多分にもっておいでだが、苦難を願うものはわずかである。その食卓の伴侶(とも)はいっそう多勢見つかるが、断食の伴侶(とも)はわずかである。ひとは皆キリストと共に喜ぶことを求めるが、何にもせよ彼のために堪え忍ぼうと志す者は少ない。(中略)彼の奇蹟を敬う者は多いが、十字架の辱(はずか)しめまでついてゆく者は少ない。多くは、不幸が身に起こらないあいだだけイエスを愛するもの、多くは、彼から何かの慰めを受け取るあいだだけ、彼をたたえ、あがめるものである。だが、もしイエスが身を隠して、しばしでも彼らを捨てると、人々は不平をいったり、ひどく落胆(がっかり)してしまうのだ。」
「ああ、自分の勝手や自愛を少しも交えない、イエスへの浄(きよ)らかな愛は、どれほど大きな力をもっていることか。」

「聖者のうち、誰が一体この世で十字架や苦難を受けずにすんだか。」
















































































小河陽 訳 『ヨハネの黙示録』

「そして、第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃え盛る巨大な星が天から落ちて、三分の一の数の川と源泉との上に落ちた。その星の名前は「苦よもぎ」と言われる。そして、水という水の三分の一は苦よもぎのように苦くなり、〔あまりにも〕苦くなったものだから、その水を飲んで多くの人間が死んだ。」
(小河陽 訳 『ヨハネの黙示録』 より)


小河陽 訳 
『ヨハネの黙示録』
 
図版構成: 石原綱成

岩波書店
1996年11月22日 第1刷発行
xxiii 171p 補注7p
A5判 丸背布装上製本 カバー
定価2,000円(本体1,942円)
装幀: 司修



本書「凡例」より:

「翻訳のギリシア語底本は、ネストレ-アーラント校訂本二七版(一九九三年)(Nestle-Aland, Novum Testamentum Graece, Stuttgart 1993 27)である。」


荒井献・佐藤研責任編集、新約聖書翻訳委員会訳「新約聖書」(全5冊)第Ⅴ巻所収「ヨハネの黙示録」を図版入りで独立させたものだと思います。
扉図版1点、巻頭図版9点、本文中図版72点。図版はすべてモノクロです。


ヨハネの黙示録 01


帯文:

「図説・黙示録
世界宗教が産み落とした破天荒なイメージの迷宮
八十数点の図像と端正な日本語訳で、終末の原像を読む」



目次:

はしがき
凡例
旧約・新約聖書 諸文書略号表

ヨハネの黙示録 (小河陽 訳)
 一章
  序文
  冒頭の挨拶
  予備の幻
 二章
  エフェソにある教会に宛てた手紙
  スミュルナにある教会に宛てた手紙
  ベルガモンにある教会に宛てた手紙
  テュアティラにある教会に宛てた手紙
 三章
  サルディスにある教会に宛てた手紙
  フィラデルフィアにある教会に宛てた手紙
  ラオデキアにある教会に宛てた手紙
 四章
  天上界での神の栄光とその賛美
 五章
  小羊の即位
 六章
  六つの封印の解除
 七章
  幕間劇――信徒の保護
 八章
  第七の封印
  最初の四つのラッパ
 九章
  第五のラッパ
  第六のラッパ
 一〇章
  幕間の出来事
 一一章
  二人の証人
  第七のラッパ
 一二章
  女と子供と竜の幻
 一三章
  二匹の獣の登場
 一四章
  シオン山上の小羊とその信従者たち
  審判の時を告げる三人の天使
  二種類の収穫
 一五章
  モーセと小羊の歌
  七人の天使と最後の災い
 一六章
  七つの平鉢
 一七章
  大淫婦と獣
  獣と淫婦の象徴
 一八章
  バビロンの滅亡
  神の民への勧告
  バビロンに対する嘆き
 一九章
  天上における勝利の歌
  終末の緒戦
 二〇章
  千年王国
  サタンの最後的敗北
  最後の裁き
 二一章
  天のエルサレム
  新しいエルサレム(一)
 二二章
  新しいエルサレム(二)
  奨励と結び
  エピローグ

ヨハネの黙示録 解説 (小河陽)
 一 著者
 二 成立時期
 三 成立場所
 四 資料
 五 執筆意図
 六 文学的・思想的特徴
「ヨハネの黙示録」の図像学 (石原綱成)
 一 ヨハネ黙示録と図像成立の背景
 二 図像の歴史
 三 ヨハネ黙示録の主な内容と図像

見出し目次
補注 用語解説



ヨハネの黙示録 02



◆本書より◆


「第七の封印」より:

「さて、〔小羊〕が第七の封印を解いた時、およそ半時ほどの間、沈黙が天上を包んだ。」

「そして、第一〔の天使〕がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火が生じて、地上に投げ落とされた。そして、陸地の三分の一が火に焼き尽くされ、〔陸地に生えていた〕樹木の三分の一が焼き尽くされて、青草は残すところなく焼き尽くされてしまった。
 そして第二の天使がラッパを吹いた。すると、火だるまになって燃える巨大な山のようなものが海に投げ落とされた。すると、海の三分の一は血に変り、海中に住んでいた被造物で、いのちを持っていたものの三分の一が死に、また船という船の三分の一は壊された。
 そして、第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃え盛る巨大な星が天から落ちて、三分の一の数の川と源泉との上に落ちた。その星の名前は「苦よもぎ」と言われる。そして、水という水の三分の一は苦よもぎのように苦くなり、〔あまりにも〕苦くなったものだから、その水を飲んで多くの人間が死んだ。
 そして、第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一と月の三分の一と星という星の三分の一とが打ち壊されて、その結果、それらの三分の一は暗くされ、昼はその三分の一が明かりを失い、夜も闇を濃くした。
 そして、私が見ていると、〔幻のうちに、〕一羽の鷲が空高く飛びながら、大きな鳴き声をあげて、「禍いだ、禍いだ、禍いだ、地上に住む者たちにとっては。三人の天使たちが今まさに吹き鳴らそうと構えている、残りの〔三つの〕ラッパが響き渡るのだから」と言うのを聞いた。」



注より:

「沈黙は神の臨在(ハバ二20)、神の救済的介入(ゼカ二17)、あるいは終末的審判の日の到来(ゼファ一7)の徴である。」

「川と源泉とで、海以外の水を指す。」
「「苦よもぎ」は、毒性はなかったが、強烈な苦みがあるので、苦痛、悲しみ、災害の象徴として旧約聖書で用いられる(哀三15、19)。」





こちらもご参照ください:

岩隈直 訳註 『ヨハネ黙示録』 (希和対訳 脚註つき 新約聖書 XIII)









































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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