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三枝充悳 『世親』 (講談社学術文庫)

「「唯識」とは唯だ識すなわち心的存在しかみとめない立場である。こころの外部に事物をみとめない。したがってわれわれがふつうこころを離れて存在すると考える自然界や身体をもこころに還元し、自然界も身体もこころが作りだしたものにすぎないと主張する。」
(『世親』 「ヴァスバンドゥの思想」 より)


三枝充悳 
『世親』
 
講談社学術文庫  1642 

講談社 
2004年3月10日 第1刷発行
381p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,150円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
カバー写真: 世親菩薩立像(興福寺所蔵)


「本書は、小社刊「人類の知的遺産」シリーズ14の『ヴァスバンドゥ』(一九八三年刊)を底本としました。」



「原本まえがき」より:

「ヴァスバンドゥほど多岐にわたった仏教者はかつていない。その全体像は到底一冊の書には尽くし得ない。本書は、いちおう思想家ヴァスバンドゥを焦点とし、その粋の俱舎(くしゃ)について述べ、そしてとくに近来注目を集めている唯識(ゆいしき)思想に多くのページを割(さ)いた。
 ただしここにそれを果たしたのは、畏友の横山紘一君による。(中略)本書の大半は、専門とすることの久しい横山君に執筆を依頼せざるを得なかった。」
「仏教学におけるヴァスバンドゥ研究はあまりにも多く、あるいは最大とも称されよう。(中略)まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)を競うなかで、横山君と私とのあいだも必ずしも会通(えつう)しない。第Ⅰ部の「はじめに」と1、第Ⅳ部の4、そして地図と年表とを三枝が、そのほかは横山君が記述した。」



本文中図版(モノクロ)3点、地図1点、図表6点。
本書はヤフオクストアで落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


三枝充悳 世親


カバー裏文:

「「我(が)は存在せず、煩悩(ぼんのう)と業(ごう)などによって構成される法(ダルマ)のみがある」とした『倶舎(くしゃ)論』。また、すべての事物はこころが作りだした表象にすぎない、と主張する唯識(ゆいしき)論など、仏教理論を完成させた知の巨人の思想と生涯を詳述。アーラヤ識と呼ばれる深層心理を重視し、現代の精神分析をはるか千六百年前に先取りした精緻な唯識学の全体像を、平易に説き明かす。」


目次:

学術文庫版へのまえがき (三枝充悳)
原本まえがき (三枝充悳)

Ⅰ ヴァスバンドゥ(世親)の生涯
 はじめに
  1 インド仏教史の概括
  2 初期の大乗経典とナーガールジュナ
  3 中期の仏教の諸相
  4 インド仏教の後期
  5 とくにヴァスバンドゥについて
 1 『婆藪槃豆伝』
  1 プルシャプラの地名の由来
  2 ヴァスバンドゥの生まれ
  3 アサンガ(無著)について
  4 ヴァスバンドゥの初期とその名
  5 ヴァスバンドゥ以前の論書
  6 サーンキヤ学派のヴィンドヤヴァーシン
  7 ヴァスバンドゥの『倶舎論』
  8 ヴァスバンドゥの大乗への転向
 2 ターラナータの伝えるヴァスバンドゥの伝記
  1 出生および小乗から大乗への転向
  2 論書の作成
  3 布教活動と入滅
 3 ヴァスバンドゥ二人説について

Ⅱ ヴァスバンドゥの思想
 1 『倶舎論』における思想
  1 概説
  2 存在分類法
  3 宇宙論
  4 実践論
 2 唯識論書における思想
  はじめに
  1 唯識無境
  2 アーラヤ識
  3 三自性

Ⅲ ヴァスバンドゥの著作
  著作の概観
 1 『成業論』
  1 異熟識の説示
  2 業の説示
 2 『唯識二十論』
  1 「唯識」の定立
  2 実在論者との問答
  3 「行為が結果をもたらすこと」に関しての毘婆沙師の見解とそれへの反論
  4 「行為が結果をもたらすこと」に関しての経量部の見解とそれへの反論
  5 経量部の実在論への反論
  6 原子論への論破
  7 経量部の実在論的認識論への反論
  8 実在論的行為論への反論
  9 他人の心を知る知について
  10 結び
 3 『唯識三十頌』
  1 識の転変
  2 唯だ識のみである
  3 唯識の修行過程

Ⅳ ヴァスバンドゥ以後
 1 インドにおける発展
 2 中国における発展
 3 日本における発展
 4 西洋思想とヴァスバンドゥ
  1 西洋と仏教思想
  2 ヴァスバンドゥと西洋思想

学術文庫版へのあとがき (横山紘一)

仏教関係年表




◆本書より◆


「Ⅱ―1 『倶舎論』における思想」より:

「仏教では行為のことを業(karman)といい、内容的に身業と語業と意業とにわける。身業とは身体による行為、語業は言葉による行為、意業は意志としての行為をそれぞれいう。意志のことを思(し)(cetanā)ともよぶから、意業は思業ともいわれる。」
「意業すなわち精神的行為はその本質が意志すなわち思(し)であることから思業とよばれる。これに対して身体的行為(身業)と言語的行為(語業)とほあ、意志によってひきおこされたものであるから、思已(しい)業とよぶ。」
「身業は身体的行為であるから眼で見ることができる。語業は言語的行為であるから音声を耳で聞くことができる。このように身業と語業とは知覚されうる顕在的行為であることから両者を「表業」とよぶ。
 ところで説一切有部は刹那消滅説をとって、あらゆる存在は生じた刹那に滅してゆくと考える。身業と語業もその例外ではない。ところが業は未来の結果を生ずる原因であるから、刹那に滅してゆく業は身心のなかになんらかの影響力あるいは残気をとどめていることになる。この、具体的には知覚されえないが、しかし身心に植えつけられた業の残気を「無表業」とよぶ。しかも説一切有部はそれを地・水・火・風の四元素からなる物質的なるものと考えて「無表色」とも名づける。」
「ところが、ヴァスバンドゥが支持する経量部説ではこのような物質的な無表業をみとめない。そのかわりに「種子(しゅうじ)という概念によって行為の潜在的な残気を表わす。すなわち、説一切有部では身業は「身体の形」、語業は「音声」という、いわば物質的なるもの(色)を本質とするという立場より、その二つの業にょって熏(くん)じつけられる残気もやはり物質的なるものと考えた。これに対して経量部は身業と語業の本質を意志(思)とみる立場より、二業すなわち思によって熏じつけられた種子は心的なものであると考えた。」



「Ⅱ―2 唯識論書における思想」より:

「唯識(vijñapti-mātra)という用語は、「唯(た)だ識のみが存在する」という瑜伽行(ゆがぎょう)唯識派の一大命題を表わすことばである。」
「「唯識」という用語がはじめて用いられたのは『解深密経(げじんみつきょう)』「分別瑜伽品」である。そこではヨーガすなわち止観の観(毘鉢舎那(びばしゃな))を行ずる瑜伽行者の心に現われる影像(ようぞう)が、心そのものであるのか、心と異なったものであるのかという問いに対して、
 「異なっていない。なぜなら、その影像は唯だ識であるから」
と説かれる。このようにヨーガの体験を描写するなかで、はじめて「唯識」という語があらわれている点に注目しなければならない。唯識という考えの成立には『華厳経』の「三界は唯心なり」という考えが大きく影響を与えたといわれる。事実、ヴァスバンドゥも『唯識二十論』の冒頭にこの『華厳経』の一文を引用して教証としている。しかし、それに加えて具体的には「ヨーガを修する心に現われてくる影像は唯だ識にすぎない」というヨーガ実践によって得られた体験こそが「唯識」という思想を生みだした根源力であろう。」
「『解深密経』では「毘鉢舎那中の影像は唯だ識のみである」といい、つづいて「色等として顕現する心の影像にして自性に住するものも、また心と異ならず、唯だ識のみである」という趣意のことを述べている。色等として顕現する心の影像とは、いろや形をした具体的な表象をいい、自性に住する影像とは、ヨーガの実践において有意的に作りだされた影像をいうのではなく、通常の感覚・知覚にあらわれてくる観念をいう。したがってそれらが心と異ならず、唯だ識のみにすぎないという言明のうちには、外界に事物が存在していないという見解が暗に意図されているといえよう。だが、そのような意識はいまだ表面には出ておらず、しかも「唯だ識のみで境は存在しない」(唯識無境)という表現もみとめられない。
 「唯識無境」という思想が、表現的にも、また内容的にも確立したのはアサンガの『摂大乗論』においてである。すなわち「境(事物)は存在しないのに、唯だ識が境として顕現する」「これら諸(もろもろ)の識は境が存在しないから唯識である」などと説かれる。」
「ヴァスバンドゥもアサンガのこの考えをうけつぎ、自著の『唯識二十論』のなかで「それは唯識である、無境として顕現するから」(vijñapti-mātram evaitad anarthâvabhāsanāt)と述べ、また「無境なる識」(vijñaptir anarthā)という表現もあり、かれが唯識無境を強調したことが判明する。
 ヴァスバンドゥは『唯識三十頌』のなかで「唯識」という概念に対する思索をさらに深めた。」
「唯識という用語が「唯識」と「唯識性」という二通りに使いわけられていることが判明する。すなわち、
 (1)「一切は唯識である」という判断において用いられる唯識
 (2)「唯識性に住する」という一つの修行の過程、心的境界を表わす場合に用いられる唯識性」
「このようにヴァスバンドゥが「唯識」と「唯識性」とを表現的にも内容的にも区別したところに、従来にみられなかった思想的発展をみとめることができる。」
「「唯識」という概念を用いての修行は、マイトレーヤの『中辺分別論』(「相品」第六頌)を経て、ヴァスバンドゥによって完成されたといえよう。
 とにかく、まずは「一切は唯識である」ということばによる判断を一つの手段として止観という三昧を深めてゆくと、その唯識という判断さえも消滅する、あるがままの真実の世界(真如)に突入する。この境界を「唯識性」という語で表現する。」



「Ⅲ―3 『唯識三十頌』」より:

「アーラヤ識は深層心理であるから、日常の意識ではその活動を知覚することができない。」
「アーラヤ識の活動を知覚しようとするならば、ヨーガを実践し、表層的心理をしずめ、その底に働く微細な心的活動を感知しなければならない。それは根源的なアーラヤ識の世界に目覚めることであり、感覚・知覚される日常的自然の奥にひそむ真の自然にふれることでもある。」

「〈またそれ(アーラヤ識)は〔汚れに〕覆われておらず、〔善とも悪とも〕記別されない〉とは、術語的にいえばアーラヤ識が「無覆(むぶく)無記」であることをいう。仏教では存在するものを価値的につぎの四つに分類する。
  (1)善なるもの (善)。
  (2)悪なるもの (悪)。
  (3)汚れに覆われているが善とも悪とも記別されないもの (有覆(うぶく)無記)。
  (4)汚れに覆われておらず善とも悪とも記別されないもの (無覆(むぶく)無記)。
 アーラヤ識は価値的にはこのうち第四番のものに属する。まず善とも悪とも記別されない(avyākr ̣ta 無記)ということについて説明してみよう。アーラヤ識は前世の善い行為(善業)あるいは悪い行為(悪業)を原因として今世に形成されたものであるが、その形成にあずかった(引用者注: 「形成にあずかった」に傍点)善業あるいは悪業はその影響力をつかいつくし、もはや今世のアーラヤ識にはなんの力をももたない。これを逆にアーラヤ識の側からみれば、その本性は善でも悪でもない、すなわち無記であることになる。仏教は善業あるいは悪業のみが来世のあり方を決定する力をもつと考える。したがってアーラヤ識が無記であるということは、アーラヤ識そのもの(引用者注: 「そのもの」に傍点)は、もはや来世を規定する力をもたないということになる。来世を規定するのはこの世で行なう善業あるいは悪業である。われわれの根本心であるアーラヤ識が善でも悪でもないからこそ、われわれは悪から善へと自己を変革することができるのである。アーラヤ識そのもの(引用者注: 「そのもの」に傍点)が悪であれば、われわれは根底から悪であり、もはや救済の余地がない。アーラヤ識が善であるならば、われわれはすでに解脱しており修行する必要がない。」
「アーラヤ識とともに働くのは(中略)触知などの五つの心作用だけである。ところでそれら五つは汚れたこころ(煩悩)ではないから、アーラヤ識は汚れに〈覆われていない〉(a-nivr ̣ta 無覆(むぶく))という。汚れに覆われたもの(有覆(うぶく))は「解脱に達するための聖なる修行」(聖道)をさまたげるが、アーラヤ識はそのようなものではない。われわれの根本心はけっして修行のさまたげになるようなものではないとみる。」

「〈暴流のように、流れて存在する〉とは、河の流れは、つぎつぎと新たな水が流れつつ、一つの同じ河として存在しつづけるように、アーラヤ識も刹那に生じては滅しつつ、つぎつぎと不断に相続してゆくありさまをいう。アーラヤ識は自己の根底をなすこころであり、あらゆる存在を形成する根源体である。このようにいえば、それは、一定の不変の実体的自己が存在するように思われる。」
「だがアーラヤ識はそのような固定的・実体的自我ではなく、一瞬一瞬、生じては滅し、滅しては生ずる相続体にすぎないという。」
「河の水は上層に草木などの漂流物を浮かべ、下層に魚などをおよがせつつ流れつづけるように、アーラヤ識は、あらゆる種子を維持しつつ、かつ触知などの心作用をともないつつ、生死輪廻するかぎり活動しつづけるのである。」
「アーラヤ識がアーラヤ識として活動しつづけるかぎり、われわれは生死をくりかえして輪廻しつづける。したがってアーラヤ識は修行の過程において滅せられなければならない。アーラヤ識はいつ消滅するかといえば、(中略)阿羅漢の位においてである。〈阿羅漢〉(arhat(アルハット))とは小乗仏教でとく最高の聖者の位である。もはや学ぶべきものがなにもなくなった修学完成の位であるから「無学」ともいう。」
「阿羅漢位においてアーラヤ識が〈消滅する〉(vtāvr ̣tti 捨)とは具体的にはいかなることなのか。それは、アーラヤ識のなかの「潜在的悪」(dauṣṭhulya 麁重(そじゅう))がことごとく断じつくされることである。「潜在的悪」とは煩悩をひきおこす潜在的力(種子)である。それが現実化すれば、身体とこころとを束縛し、所期の目的に向かって自由に軽快に行動できなくなるような力である。阿羅漢になればそのような潜在的な悪の力が自己のこころの根底からのぞきとられてしまうのである。そこをアーラヤ識が消滅するという。」
「アーラヤ識のなかから汚れを徐々にとりのぞき、自己を自己の根底からまったく汚れなき無垢の状態に磨きあげること――これが瑜伽行唯識派のめざす最大の目的である。」





こちらもご参照ください:

中村元 『龍樹』 (講談社学術文庫)








































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三枝充悳 『中論 ― 縁起・空・中の思想』 (レグルス文庫) 全三冊

三枝充悳 
『中論
― 縁起・空・中の思想 
(上)』
 
レグルス文庫 158

第三文明社 
1984年3月15日 初版第1刷発行
2002年7月31日 修訂版第5刷発行
viii 265p(p. 1―p. 265)
新書判 並装 カバー
定価800円+税


三枝充悳 
『中論
― 縁起・空・中の思想 
(中)』 

レグルス文庫 159

第三文明社 
1984年3月15日 初版第1刷発行
1998年5月30日 修訂版第3刷発行
xiv 245p(p. 267―p. 512)
新書判 並装 カバー
定価780円+税


三枝充悳 
『中論
― 縁起・空・中の思想 
(下)』
 
レグルス文庫 160

第三文明社 
1984年3月15日 初版第1刷発行
1998年5月30日 修訂版第3刷発行
xiv 269p(p. 513―p. 782)
新書判 並装 カバー
定価780円+税



本書「解題」より:

「『中論』という書名は、龍樹造 梵志青目(ぼんししょうもく)釈のテクストを、鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマーラジーヴァ Kumarajiva 以下に羅什ときには什と略す)が漢訳したさいに名づけたものであって、原名そのものではない。」
「この拙著は、(中略)
  青目釈羅什訳『中論』
の全文を書き下して、その本文とする。」



右ページに書き下ろし文、左ページに「註」と、本文のうち「偈(頌)」の部分の漢文とそれに相当するサンスクリット文およびその邦訳が掲載されています。


中論


上巻 カバー文:

「初期大乗仏教の確立者龍樹の主著「中論」の本格的なテクスト(全3冊)」


上巻 カバー裏文:

「龍樹がその基本思想を縦横に述べた主著『中論』は、本書の副題に掲げた「縁起・空・中」をどこまでも徹底して解明し、ヤスパースと山内得立の両碩学も、もっぱら『中論』によって龍樹を論究した。
 それほど重大な『中論』が、わが国では、仏教研究者に必読の書でありながら、他本を混じえての漢訳テクストの書き下し文が、古い『国訳大蔵経』(論部五巻、一九二一年)と『国訳一切経』(中観部第一巻、一九三〇年)の叢書中の一巻に限られていた情況その他から、読書界にはほとんど紹介されていない。
――(はしがき)より」



中巻 カバー文:

「中巻では縁起の相依性を明かした「火と薪との考察」などが説かれる」


中巻 カバー裏文:

「龍樹(ナーガールジュナ、紀元一五〇~二五〇ごろ)は、初期大乗仏教の確立者として、少しでも仏教に関心をもつものには、最もよく知られている。それは、龍樹以降に、仏教がいちじるしい展開と拡大とをとげたなかで、そのことごとくが、強く、深く、ときにはきわめて激しく、龍樹の影響を受けている事情にもとづく。
 それは、インドはもとより、中国、日本、チベットなどの東アジア全体に遍満し、古来わが国では、龍樹を「八宗の祖」(あらゆる諸宗派の祖)として崇め、現在にいたる。
 龍樹の名は、仏教圏のみにとどまらず、いまや全世界にあまねく………
(はしがき)より」



下巻 カバー文:

「下巻では空仮中の三諦、如来・涅槃などの仏教の基本思想が説かれる」


下巻 カバー裏文:

「龍樹の説は、しいて一言であらわすならば、空と中の思想とされるであろう。それには縁起思想の徹底的な探究が伴われており、それらがこの『中論』の全編に行きわたっている。
 龍樹の時代は、一方に、強力な説一切有部を柱とし、そのほか正量部などをふくむいわゆる小乗の強固な教学体系が整備され、他方に、新興の初期大乗仏教運動のさなか、とくに般若系ほかの諸経典の成立を迎えている。また、正統バラモンの教えはヒンドゥイズムへの展開を遂げ、インド哲学の諸派の体系も形成を終え、ないし形成されつつあった。
――(解題)より」



上巻 目次:

はしがき

解題
 第一章 龍樹
  一 生涯とその影響
  二 著述
 第二章 『中論』
  一 書名
  二 構成
  三 『中論』の諸テクスト
  四 『中論』諸テクストの比較検討
  五 青目
  六 鳩摩羅什

略号表
凡例

中論巻第一
 釈僧叡序
 観因縁品第一(pratyaya 「縁」)
 観去来品第二(gatāgata 「去ることと来ることと」)
 観六情品第三(cakṣurādīndriya 「眼などの認識能力(根)」)
 観五陰品第四(skandha 「集合体(蘊)」)
 観六種品第五(dhātu 「要素(界)」)
 観染染者品第六(rāgarakta 「貪りと貪る者と」)
中論巻第二
 観三相品第七(saṃskṛta 「つくられたもの(諸現象、有為)」)



中巻 目次:

略号表
凡例

 観作作者品第八(karmakāraka 「行為(業)と行為者(作者)と」)
 観本住品第九(pūrva 「先行するもの」)
 観燃可燃品第十(agnīndhana 「火と薪と」)
 観本際品第十一(pūrvaparakoṭi 「〔輪廻の〕前後の究極」)
 観苦品第十二(duḥkha 「苦」)
 観行品第十三(saṃskāra 「〔潜在的〕形成作用(行)」)
 観合品第十四(saṃsarga 「結合」)
中論巻第三
 観有無品第十五(svabhāva 「自性(固有の実体)」)
 観縛解品第十六(bandhanamokṣa 「繋縛と解脱と」)
 観業品第十七(karmaphala 「業と果報と」)
 観法品第十八(ātman 「アートマン(我、主体)」)
 観時品第十九(kāla 「時」)



下巻 目次:

略号表
凡例

 観因果品第二十(sāmagrī 「集合」)
 観成壊品第二十一(saṃbhavavibhava 「生成と壊滅と」)
中論巻第四
 観如来品第二十二(tathāgata 「如来」)
 観顚倒品第二十三(viparyāsa 「顚倒」)
 観四諦品第二十四(āryasatya 「聖なる真理(〔四〕聖諦)」)
 観涅槃品第二十五(nirvāṇa 「ニルヴァーナ(涅槃)」)
 観十二因縁品第二十六(dvādaśāṅga 「十二支〔縁起〕」)
 観邪見品第二十七(dṛṣṭi 「誤りの見解(邪見)」)

あとがき




◆本書より◆


「観因縁品第一」より:

「不生亦不滅(ふしょうやくふめつ) 不常亦不断
不一亦不異 不来亦不出
(不生にして亦た不滅 不常にして亦た不断
不一にして亦た不異 不来にして亦た不出なる)
能く是の因縁(いんねん)を説き 善く諸(もろもろ)の戯論(けろん)を滅す
我れ稽首(けいしゅ)して礼(らい)す 仏を 諸説中第一なりと」

「不生亦不滅 不常亦不断
不一亦不異 不来亦不出
能説是因縁 善滅諸戯論
我稽首礼仏 諸説中第一」

「anirodhamanutpādamanucchedamaśāśvatam /
anekārthamanānārthamanāgamamanirgamam //
yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ śivam /
deśayāmāsa saṃbuddhastaṃ vande vadatāṃ vara //」

「〔何ものも〕滅することなく(不滅)、〔何ものも〕生ずることなく(不生)、〔何ものも〕断滅ではなく(不断)、〔何ものも〕常住ではなく(不常)、〔何ものも〕同一であることなく(不一義)、〔何ものも〕異なっていることなく(不異義)、〔何ものも〕来ることなく(不来)、〔何ものも〕去ることのない(不去)〔ような〕、
〔また〕戯論(けろん)(想定された議論)が寂滅しており、吉祥である(めでたい)、そのような縁起を説示された、正しく覚った者(ブッダ)に、もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として、私は敬礼する。」





こちらもご参照ください:

中村元 『龍樹』 (講談社学術文庫)









































































































中村元 『龍樹』 (講談社学術文庫)

「捨てられることなく、〔あらたに〕得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。――これがニルヴァーナであると説かれる」
(ナーガールジュナ 『中論』 より)


中村元 
『龍樹』
 
講談社学術文庫 1548

講談社 
2002年6月10日 第1刷発行
2010年4月20日 第22刷発行
459p
文庫判 並装 カバー
定価1,400円(税別)
カバーデザイン: 蟹江征治


「本書は、小社刊「人類の知的遺産」シリーズ13の『ナーガールジュナ』(一九八〇年刊)を底本としました。」



本書「まえがき」より:

「仏教の伝統的用語では「空(くう)」の思想を「空観(くうがん)」とよぶ。空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。この思想は、すでに原始仏教において説かれていたが、大乗仏教の初期の『般若(はんにゃ)経』ではそれをさらに発展させ、大乗仏教の基本的教説とした。その後この空観を哲学的・理論的に基礎づけ、大乗仏教の思想を確固たるものにしたのが龍樹(りゅうじゅ)(以下、ナーガールジュナ)である。このためナーガールジュナは仏教史においてひときわ重要であり、わが国では「八宗の祖師」と仰がれている。
 ナーガールジュナは第Ⅲ部で紹介するように多くの著作を残している。その中で代表的著作は『中論』であるが、同書の思想はインドの深い哲学的思索が生み出したものの中でも最も難解なものの一つとされている。したがって本書では、第Ⅰ部に「生涯」をおき、ナーガールジュナの全体像をあらかじめ浮かびあがらせることにつとめ、第Ⅱ部に「思想」をおき、『中論』を中心にかれの思想を詳述することにした。また第Ⅲ部の「著作」で、『中論』の現代語による全訳を試みたが、それを読んだだけでは、『中論』をとうてい理解することはできない。第Ⅱ部で多くの紙数を費やした理由はここにある。」
「第Ⅱ部「思想」についての論稿は近年、雑誌『現代思想』に連載したが、このたびこのシリーズの趣旨に合うように、さらに加筆した。」



巻頭に図版・地図各1点。巻末の「インド仏教史」は年譜。文献は二段組。


中村元 龍樹 01


カバー裏文:

「一切は空である。あらゆるものは真実には存在せず、見せかけだけの現象にすぎない。仏教思想の核心をなす「空」の思想は、千八百年前の知の巨人龍樹により理論化された。インド・中国思想に決定的影響を与え、奈良・平安仏教でも「八宗の祖師」と讃えられたその深く透徹した思考が、仏教学・インド哲学の世界的権威の手で、『中論』全文とともに今甦る。」


目次:

まえがき

Ⅰ ナーガールジュナ(龍樹)の生涯
 はじめに
 1 『龍樹菩薩伝』
 2 プトンの伝えるナーガールジュナの生涯
 3 ターラナータの伝えるナーガールジュナの伝記
 4 結語
Ⅱ ナーガールジュナの思想――『中論』を中心として
 1 大乗仏教の思想
 2 空観はニヒリズムか
 3 論争の相手
  1 論争の相手となった哲学派
  2 説一切有部の立場
   (1) 有部における法の概念
   (2) 実有の意義
   (3) 「一切」の意義
   (4) 恒有の意義
 4 空の論理
  1 否定の論理の文章をいかに理解すべきであるか
  2 運動の否定の論理
 5 論争の意義
  1 「有」の主張に対する批判
  2 不一不異
  3 不生不滅
  4 不断不常
  5 『中論』における否定の論理の歴史的脈絡
  6 否定の論理の比較思想論的考察
  7 否定の論理の目的としての〈縁起〉の解明
 6 縁起
  1 『中論』の中心思想としての縁起
  2 アビダルマの縁起説
  3 『中論』における「縁起」の意義
   (1) 縁起の語義
   (2) 相互依存
  4 従来の縁起説との関係
  5 不生
  6 否定の論理の代表としての〈八不〉
  7 無我
 7 空の考察
  1 空と無自性
   (1) 空および無自性の意義
   (2) 縁起・無自性・空の三概念の関係
  2 中道と空見――「三諦偈」の解釈に関連して
   (1) 中道
   (2) 中道の意義
   (3) 空見の排斥
 8 否定の論理の実践
  1 ニルヴァーナ
  2 ブッダ
  3 縁起を見る
Ⅲ ナーガールジュナの著作
 著作概観
  1 『中論』
  2 『大乗についての二十詩句篇』
  3 『大智度論』
  4 『十住毘婆沙論』
  5 『親友への手紙』
Ⅳ ナーガールジュナ以後
 1 ナーガールジュナの思想の流れ
 2 比較思想からみたナーガールジュナ

インド仏教史
文献案内



中村元 龍樹 02



◆本書より◆


「はじめに」より:

「大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空(くう)(śūnyatā)の観念を基礎づけた。」
「大乗仏教、とくにナーガールジュナを祖とする中観(ちゅうがん)派の哲学者たちは次のように主張した。――何ものも真に実在するものではない。あらゆる事物は、見せかけだけの現象にすぎない。その真相についていえば空虚である。その本質を「欠いて」いるのである。無も実在ではない。あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて起こるのである。〈空〉というものは無や断滅ではなくて、肯定と否定、有と無、常住と断滅というような、二つのものの対立を離れたものである。したがって空とは、あらゆる事物の依存関係(relationality)にほかならない。」
「ナーガールジュナの思想の根本はこの〈空〉の思想である。これは、すでに大乗仏教の般若(はんにゃ)経典の中に空観(くうがん)ということが述べられていたが、それの発展したものである。」



「Ⅱ」より:

「空観(くうがん)とは、一切諸法(あらゆる事物)が空(くう)であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。すでに原始仏教において、世間は空であると説かれていたが、大乗仏教の初期につくられた般若(はんにゃ)経典ではその思想を受けてさらに発展せしめ、大乗仏教の基本的教説とした。」
「当時、説一切有部(せついっさいうぶ)などのいわゆる小乗諸派が法の実有(じつう)を唱えていたのに対して、それを攻撃するために特に否定的にひびく〈空〉という語を般若経典は繰り返しも用いたのであろう。
 それによると、われわれは固定的な「法」という観念を懐(いだ)いてはならない。一切諸法は空である。何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、「無自性(むじしょう)」であるから、本体をもたないものは空であるといわねばならぬからである。そうして、諸法が空であるならば、本来、空であるはずの煩悩などを断滅するということも、真実には存在しないことになる。」
「実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。(中略)菩薩は無量無数無辺の衆生を済度(さいど)するが、しかし自分が衆生を済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。かれにとっては、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、救われて到達する境地も空である。また身相(身体的特徴)をもって仏を見てはならない。あらゆる相はみな虚妄であり、もろもろの相は相に非ず、と見るならば、すなわち如来を見る。かかる如来には所説の教えがない。教えは筏(いかだ)のようなものである。衆生を導くという目的を達したならば捨て去られる。」

「『中論』の主要論敵は何といっても説一切有部(せついっさいうぶ)であろう。(中略)中観派は自己の反対派を概括して自性(じしょう)論者、または有自性(うじしょう)論者と総称している。それは事物または概念の「自性」すなわち自体、本質が実在すると主張する人々である。」

「仏教哲学は「法」の哲学であるとは、すでに諸学者の認めるところであり、仏教思想は、つねに法に関する思索を中心として発展している。これに対して大乗仏教、たとえば『中論』は「法有(ほうう)」に対して「法空(ほつくう)」を主張したのであると解せられている。」
「法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるといわれている。そうしてこれはインド一般に通ずる用例であり、これがもととなってさらに種々の意義がこの語に附加されている。
 パーリ語聖典において用いられている法の意義は種々あるが、その中で純粋に仏教的な用法はただ一つで、他の用法はインド一般に共通であるといわれている。すなわち、パーリの註釈でいう nissatta または nissattanijjīvata がそれであり、ドイツのW・ガイゲルはこれを「もの」(Unbelebtes, Ding, Sache)と訳している。また日本でも伝統的に法とは「もの」「物柄」であると解釈されている。」

「法とは自然的存在を可能ならしめているありかたであり、存在をその存在たらしめるもとのものである。」
「有部は「もの」の実在を主張したといわれるが、その「もの」とは、それ自身の本質(自相)の意味であるとは『倶舎論』の註釈者であるヤショーミトラのしばしばいうところであり、したがって経験的事物と混同することはできない。「もの(引用者注: 「もの」に傍点)が実在する」というのも「それ自身の本質について」有るという意味であり、自然的存在として実在するのではないのであろう。」
「この「もの」というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」であることに注意せねばならぬ。」
「したがって有部は一切の「もの」の実在を主張したといわれ、もし法あるいはその本質(自性・自相)が「もの」という語で書き換えられているとしても、有部はけっして自然的存在としての「もの」の実在を主張したのではない。存在(もの)をあらしめる「ありかた」を「もの」とみて、すなわち「もの」の本質を実体とみなしたのである。」
「『中論』は論争の書である。」
「その痛烈な論法は誤解を招きやすいが、『中論』はけっして従前の仏教のダルマの体系を否定し破壊したのではなくて、法を実有(引用者注: 「実有」に傍点)とみなす思想を攻撃したのである。概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在(引用者注: 「超越的実在」に傍点)と解する傾向を排斥したのである。(中略)西洋中世哲学史における類例を引いてくるならば、実念論(realism, Begriffsrealismus)的な思惟を排斥しているのである。」

「『中論』は最初は縁起をもって説き始め、最後も縁起をもって要約している。それでは、『中論』全体が縁起を説いているといいうるのではなかろうか。チャンドラキールティの註によれば、「一切のものが縁起せるが故に空であるということが、『〔中〕論』全体によって証明されている」という。」
「『中論』の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)の意味であると考えられている。」
「要するに諸法は互いに相依っているのであり、(中略)もろもろの存在の「相依」「互いに相依っていること」「相依による成立」を主張するのが『中論』の中心問題なのであった。」

「中国の華厳(けごん)宗は一切法が相即円融(そうそくえんゆう)の関係にあることを主張するが、中観派の書のうちにもその思想が現われている。すなわちチャンドラキールティの註解においては、「一によって一切を知り、一によって一切を見る」といい、また一つの法の空は一切法の空を意味するとも論じている。」
「このように一と一切とは別なものではない。極小において極大を認めることができる。きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる。各部分は全体的連関の中における一部分にほかならないから、部分を通じて全体を見ることができる。実に『中論』のめざす目的は全体的連関の建設であった。
 このように解するならば『中論』の説く縁起と華厳宗の説く縁起とはいよいよもって類似していることが明らかである。従来、華厳宗の法界縁起説は全く中国において始めて唱え出されたものであり、縁起という語の内容を変化させて、時間的観念を離れた相互関係の上に命名した、と普通解釈されてきたが、しかし華厳宗の所説はすでに三論(さんろん)宗の中にも認められるのみならず、さかのぼって『中論』のうちに見出しうる。『中論』の縁起説は華厳宗の思想と根本においてはほとんど一致するといってよい。」

「いまチャンドラキールティの註についてみるに、チャンドラキールティにとっては、生起は虚妄であり、縁起は真理であり、生起と縁起とは正反対の概念であった。また諸事象の生起が成立しないが故に縁起が成立するというのであるから、「不生」がすなわち縁起の真意である。この点において、縁起を「縁によって起こること」となす小乗仏教一般(中略)の解釈と、「不生」と解するチャンドラキールティの解釈とは正反対である。」
「要するにナーガールジュナを始めとして中観派の諸哲学者は、「自生」「他生」「共生(ぐうしょう)」「無因生」という生起のあらゆる型を否定することによって縁起を成立せしめようとしたのであった。
 縁起に生起の意味が含まれていないことはナーガールジュナの他の著書からみても明瞭である。」
「ともかく、(中略)われわれの現実に経験し、われわれがそのうちに生存しているところの現象世界においてはもろもろの事物が生滅変遷する。しかしそれは仮のすがたであって、真実には生滅ということはありえないというのである。」
「「諸法の不生」ということは『般若経』のうちにくりかえし説かれているところであるが、縁起を不生と解する思想は最初期の仏教にまでさかのぼりうる。ブッダは苦または苦楽あるいは十二支のひとつひとつについて、それが自ら作られたものでもなく、他のものによって作られたものでもなく、自作にしてまた他作のものでもなく、自作にも非ず他作にも非ざる無因生のものでもなく、実に縁起せる(引用者注: 「縁起せる」に傍点)ものにほかならぬと説いたという。
 したがって縁起が時間的生起の関係を意味するのではないという思想は最初期の仏教に由来する点もあるということは明瞭である。そうして『中論』はまさしくこの問題を取り上げたのである。」

「中観派によれば空性とは縁起の意味であるという。」
「空といい無自性といっても、ともに「縁起」を意味しているのであるから、空観はしばしば誤解されるようにあらゆる事象を否定したり、空虚なものであるとみなして無視するものではなくて、実はあらゆる事象を建設し成立させるものである。」

「『中論』においては空が縁起の意味であり、また縁起と中道が同義であるから、さらに中道と空とは同一の意味である。」
「要するに空とは有無の二つの対立的見解を離れた中道の意味であるといいうる。」

「西洋近世の哲学は、大まかにいえば、自我の自覚に立って自我を追求する運動の歴史である。したがって最初の、そして最後の問題は常に主観と客観との対立であった。ところが仏教は最初から主観と客観との対立を排除した立場に立って、「ありかた」としての種々の法を説いたのであるが、有部はその法を実有と見なし、中観派はこれを空と説いた。その両者ともに有と無との対立と関連している。」
「一般に主観と客観との対立をはなれて、「ありかた」「本質」などを問題とする存在論(Ontologie)的哲学は必ずその窮極において有と無との対立につき当たる。いま、右の『中論』の説明をみるに、主観対客観の問題よりも、いわば「ありかた」の「ありかた」としての有と無との対立の問題のほうが一層根底的なものとみなされていたことがわかる。
 有と無とはいわば「ありかた」の「ありかた」とでもいうべきものであって、これを他の「ありかた」によって規定することは不可能である。もしも「有」を何とか説明しようとするならば必ず「無」という概念を必要とする。また「無」を何とか規定しようとするならば、「無」は「無」であるが故に、もはや「無」ではなくて「有」とならねばならぬ。
 故にわれわれが有対無の問題を解決しようとして努力するとしても、やはり有と無との対立にとらわれることになるから、問題はすこしも解決されない。実に有と無との対立はわれわれののがれることのできない宿命である。一切の立論はその根本に有と無との対立を予想しているから、「有無は是れ衆見之根なり」といわれている。
 中観派はこの問題に関して非有非無の中道を説いた。」
「要するに有と無とはそれぞれ独立には存在しえないで、互いに他を予想して成立している概念であるというのである。すなわち、有と無との対立という最も根本的な対立の根底に「相互依存」「相互限定」を見出したのであった。故に非有非無とは相互依存説(相互限定説)に立って始めていいうることであり、無自性および空という二つの概念が縁起から導き出されるのと同様に、中道の概念もまた中観派特有の「相互限定」という意味における縁起に基礎づけられていることを知る。」
「このように最も根本的な対立としての有と無とが否定される以上、あらゆる対立について同様に考えねばならない。」
「そうして中観派によるとブッダはこの中道に立ち、相対立した二つの立論に関し完全な沈黙を守るから牟尼(むに)(寂黙(じゃくもく))であると説かれている。
 またこの中道は、対立の排除という意味において「不二(ふに)」ともよばれている。したがってチャンドラキールティは中観派は不二論者であるといい、「有と無との二論を排斥することによって、われわれはニルヴァーナの城に赴く不二の路を明らかにする」と説いている。」

「ナーガールジュナによると、ニルヴァーナは一切の戯論(形而上学的論議)を離れ、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。したがって、ニルヴァーナを説明するためには否定的言辞をもってするよりほかにしかたがない。
 「捨てられることなく、〔あらたに〕得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。――これがニルヴァーナであると説かれる」」
「それでは互いに相依って成立している諸事象とニルヴァーナとはどのような関係にあるのであろうか。『中論』をみると、
 「もしも〔五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を〕取って、あるいは〔因縁に〕縁って生死(しょうじ)往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを凡夫(ぼんぷ)の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
 輪廻というのは人が束縛されている状態であり、解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
 故に輪廻とニルヴァーナとは別のものではなく、「等しきもの」であり、両者は本来同一本質(一味(いちみ))である。」
「この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである。
 人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。
 故に中観派は縁起している諸事物の究極にニルヴァーナを見出したのであるから、諸事物の成立を可能ならしめている相依性を意味する諸法実相がすなわちニルヴァーナであるとも説かれている。」
「さらにニルヴァーナは空であるとも説かれている。空は「諸法の究竟の相」であるから、前と同様の意味において「空即ニルヴァーナ」といいうるであろう。
 このようにニルヴァーナは種々に説明されているけれども、その趣意はみな同一である。われわれの現実生活を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を、無明(むみょう)に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。」
「これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながらも生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。」
「ニルヴァーナに入るということ自体が実際には存在しないのである。」
「したがってわれわれはニルヴァーナに入るということに執著してはならない。」
「「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛もなく、解脱もない」と思うときに解脱がある。」

「要するに縁起説の意味する実践とは、われわれの現実生存の如実相である縁起を見る(引用者注: 「見る」に傍点)ことによって迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(とうしょうがくしゃ)(ブッダ)となるであろうという趣旨のもとに、無上等正覚を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている。」
「この縁起の如実相を見る智慧が〈明らかな智慧〉(prajñā 般若)である。」
「般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、要するに諸法が互いに相依って起こっているという縁起の如実相を見る(さとる)ところの智慧であるといってさしつかえないであろう。」
「この般若によって縁起を見るならば、無明(むみょう)が断ぜられる。」
「無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する。したがって無明を断ずることが可能なのである。
 ここにおいて縁起の逆観が基礎づけられていることを知る。無明が滅するが故に十二因縁の各項がことごとく滅しうることとなる。」
「そこで問題が起こる。縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく滅することとなるのであろうか。ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老(引用者注: 「老」に傍点)い、かつ死(引用者注: 「死」に傍点)んだ。この矛盾をナーガールジュナはどのように解していたであろうか。
 『中論』にはこの解答は与えられていない。しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。(中略)しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現われる。
 したがって覚者の立場から見た諸事象は、凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定(引用者注: 「否定」に傍点)である。したがって自然的存在としての覚者には何らの変化が起こらなかったとしても、十二因縁の各項がことごとく減するという表現が可能であったのであろう。
 この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期の仏教において説かれている。ナーガールジュナはこれを受けて、その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、この点においてもナーガールジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。」



「Ⅲ」より:

『中論』第二五章より:

「〔ニルヴァーナとは〕一切の認め知ること(有所得(うしょとく))が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこにおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。」




こちらもご参照ください:

三枝充悳 『中論 ― 縁起・空・中の思想』 (レグルス文庫) 全三冊




















































































中村元/三枝充悳 『バウッダ 佛教』

中村元 
三枝充悳 
『バウッダ 
佛教』


小学館
昭和62年3月20日 初版第1刷発行
354p 執筆者紹介1p
22.3×16.3cm
丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円
装丁: 玉井ヒロテル



本書「序文」(中村元)より:

「本書の題名『バウッダ』は、サンスクリット語の Bauddha (ブッダを信奉する人)にちなんでいる。」
「インドの古典では、学派や宗派を意味する特別の語を用いることが少なくて、その教えを奉ずる個人の複数形が、その学派または宗派を意味する。インドでは、宗教や哲学は、それぞれ各個人のものなのである。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が、古代インドにはないのである。」
「本書は、仏教について、その起原から現代に至るまでを総覧するものであるが、書名を従来のように『仏教』とせずに、あえてサンスクリット語にその言葉を求めて『バウッダ』としたのは、著者と編集者の合議の結果による。」
「「仏教」なる用語の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時と軌を一にする。そして、やはり同時期、同様にして「哲学」が新しく造語され、「仏教」、「宗教」の語も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至っているが、それらは必ずしも本源的な概念を包括するものではなく、また表現しきっているものでもない。昔は「仏法」という語で称していたが、「仏教」としたところに、すでに西洋的思惟による変容がなされているのである。
 むしろ、これらの基本的かつ抽象的語彙(ごい)が日常語化したことによって誤解が増幅され、伝達されていく危険すらはらむ。その典型が「宗教」であり、「仏教」の語であるように思われる。」
「本書は、以上の事柄によって、これら明治期の造語や新用語による観念を大きく超えて企画されたものであり、したがって従来のような、いわゆる「宗教書」でもなければ「仏教書」でもないということになる。」
「すでに数年前から三枝教授と編集部とがしばしば会談され、仏典に関する大きな講座を計画されていたが、諸種の事情の変化が起こったので、その計画を変更し、三枝氏の論稿を中心とし、わたくしが同講座への原稿として依頼されていた論稿を添えて、一冊の書として刊行することになったのである。」



中村元 バウッダ 01


帯文:

「釈教2500年…その驚くべき誤解と変容の軌跡!
三宝とは? アーガマとは? 大乗とは?
「仏教」の常識を破砕する待望の書
付属資料/読誦のすすめ/『梵文般若心経』他」



中村元 バウッダ 02


帯裏:

「仏教全容を知る五部構成
1 バウッダの基本「三宝(トリラトナ)」とは何か…中村元
2 釈尊の思想を包含する「阿含(アーガマ)」とは何か…三枝充悳
3 変質変容を遂げた「大乗(マハーヤーナ)」とは何か…三枝充悳
4 誤用される概念「宗教」「哲学」について…中村元
5 諸言語で読誦する重要経文実例…中村・三枝
*索引付載」



目次:

序文 (中村元/三枝充悳)

凡例

第一部 三宝――全仏教の基本 (中村元)
 仏教徒の標識「三宝」
 仏
 法
 僧

第二部 阿含経典――釈尊の教え (三枝充悳)
 はじめに
 第一章 阿含経とは何か
  序節 釈尊とその時代
   ① 釈尊の時代
   ② 釈尊の登場と仏教の創始
  第一節 阿含経について
   ① 阿含経とは何か(1)
   ② 仏の名称
   ③ 阿含経とは何か(2)
   ④ 阿含経の扱いをめぐる仏教小史
   ⑤ 教判とは何か
   ⑥ 「大乗非仏説」論
  第二節 阿含経のテクスト成立について
   ① テクストと文献学(1)
   ② テクストと文献学(2)
   ③ アーガマ文献の成立史(1)
   ④ アーガマ文献の成立史(2)
 第二章 阿含経のテクスト
  第一節 阿含経のテクストの概要
   ① パーリ五部と漢訳四阿含(1)
   ② パーリ五部と漢訳四阿含(2)
   ③ 漢訳経典の伝承
   ④ その他の諸テクスト
  第二節 阿含経テクストの検討
   ① 阿含経テクストの検討
   ② 阿含経に基づく思想研究の方法
   ③ 『ダンマパダ』とその第一八三詩
 第三章 阿含経の思想
  第一節 阿含経の基本的思想
   ① 基本的立場
   ② こころ
  第二節 阿含経の諸思想
   ① 苦
    (1) 欲望に基づく苦
    (2) 無知に基づく苦
    (3) 人間存在そのものに根ざす苦
    (4) 無常に基づく苦
   ② 無常
   ③ 無我
   ④ 四諦・八正道・中道
   ⑤ 法
   ⑥ 縁起
   ⑦ ニルヴァーナ(涅槃)
   ⑧ 戒・平等・慈悲

第三部 大乗経典――諸・仏菩薩の教え (三枝充悳)
 第一章 大乗仏教の成立
  第一節 大乗仏教とは何か
   ① 大乗・大乗仏教という語
   ② 大乗仏教への道(1)
   ③ 大乗仏教への道(2)
   ④ 大乗仏教への道(3)
    (1) 仏塔崇拝
    (2) 讃仏文学と仏伝文学
    (3) 諸仏の出現
  第二節 大乗仏教の成立
   ① 大乗仏教成立への諸要因
   ② 大乗仏教運動について
 第二章 菩薩
  第一節 「菩薩」という術語
   ① 「菩薩」の語義
   ② 「菩薩」の語の起原
   ③ 「菩薩」の語の展開
  第二節 大乗の菩薩
   ① 大乗の諸仏
   ② 大乗の菩薩(1)
    (1) 法蔵菩薩
    (2) 観音菩薩
    (3) 文殊菩薩
    (4) 普賢菩薩
    (5) 勢至菩薩
    (6) 虚空蔵菩薩
    (7) 地蔵菩薩
    (8) 日光菩薩・月光菩薩
   ③ 大乗の菩薩(2)
   ④ 大乗の菩薩(3)
 第三章 大乗経論とその思想
  序節 「経」と「論」
  第一節 初期大乗仏教
   ① 般若経典
   ② 維摩経典
   ③ 三昧経典
   ④ 華厳経典
   ⑤ 浄土経典
   ⑥ 法華経典
   ⑦ その他の初期大乗経典
   ⑧ ナーガールジュナ(龍樹)
  第二節 大乗仏教中期・後期
   ① 中期・後期の大乗仏教の概要
   ② 如来蔵
   ③ 唯識説
   ④ 密教
  第三節 大乗文化

第四部 「宗教」と「哲学」の意義 (中村元)

第五部 経典読誦のすすめ (中村元/三枝充悳)
 三帰依文
 般若心経

主要参照文献
索引




◆本書より◆


「第二部 阿含経典」より:

「釈尊は定住することなく、つねに遊行(ゆぎょう)の旅にあり、多数の苦しみ悩む人びとに接した。それを釈尊の慈悲と解するのも、また布教とみなすのも、実は必ずしも正しくない、と私は思う。それらの受けとめ方は、すべて信徒や仏弟子から眺めた釈尊像なのであり、釈尊はただひとり、あるいは晩年の二五年間あまりは、いとこに当たる阿難(アーナンダ)を伴なって、路上にまた樹下に、ときに仮りの精舎(しょうじゃ)に、夜を過ごす旅にあり、信徒から朝のみ一日一回の食を受け、一片の貯えももたず、あらゆる欲望から遠ざかって、みずからの途をみずから思うとおりに、争うことなく、競うことなく、衒(てら)うことなく、激することなく、いわば無(む)に徹しきったまま、安らかに、浄(きよ)らかに歩み続けた、と見るのが妥当であろう。
 そのころ、はたして仏教教団(サンガ、僧伽(そうぎゃ))が、少なくともその原型が成立したとしても、それは今日の様相とはまったく異なる。釈尊に帰依して、衷心(ちゅうしん)から尊敬し、思慕する人びとのうち、釈尊にならって出家し、その意志を確かめる一種の儀式を経たあと、釈尊や先輩の仏弟子たちの教えを敬虔(けいけん)に聴き、実践に精進した、いわば有志たちの、きわめて穏やかなサークルという程度に、推察してよいであろう。そして「律蔵(りつぞう)」(ヴィナヤ・ピタカ)の各条項は、日々の生活の指針として、厳粛ではあっても、おそらくごく日常的な規律を指示し、当初はその数も少なくて足り、それがのちにつぎつぎと随犯随制(ずいはんずいせい)があって各条項が付加され、またインド人の特徴である羅列偏重(られつへんちょう)その他も加わって、細目が増加した、と推定される。
 繰り返していえば、バラモン教に対抗し、さらにはウパニシャッドの原理に拮抗(きっこう)して、もしくは同時代のあまたの自由思想家の中からひときわ傑出して、新しい宗教を樹立しよう、そしてそれを喧伝(けんでん)して、信徒を掌握し、弟子を糾合(きゅうごう)し、増強させようなどの意図は、釈尊にはまったくない。自由で清新な思想界の坩堝(るつぼ)において、釈尊は、史実としては仏教を創始したとはいえ、後代のサンスクリット文献にしばしば現われて現在の「仏教」にほぼ相当する「バウッダ Bauddha」(「ブッダ信奉者」が原意)という名称(正確には、サンスクリット語では「バウッダ・ダルマ」または「バウッダ・ダルシャナ」)そのものは、単に「仏の教え」などの語義に相当するにとどまり、現在の宗教概念を適用することは、とんでもない見当違いといわなければならない。
 もとより、釈尊には、当時の多くのものに学びつつ、みずからの思索をどこまでも深めた末に、みずからさとり、みずから真理を獲得し、完成したとの自覚は、強く、固く、その内部にあった。しかし、それを格別の教義にまとめあげて、ドグマを築こうとはけっしてしなかった。」

「仏教がゴータマ・ブッダ(釈尊)にはじまることについては、異論はまったくない。まずこの固有名詞をめぐって論じていこう。
 ゴータマはその姓であり、名はシッダッタ。そのゴータマ・シッダッタがブッダとなり、この結果ゴータマ・ブッダという名称が、通常の呼び名とされる。これらはすべて、当時のインドの俗語であるパーリ語によるものであり、これをいわゆる標準語のサンスクリット語に置き換えれば、ガウタマ・シッダールタ、そしてガウタマ・ブッダとなる。
 本来、ブッダ Buddha は、「目覚める」を意味するブドフ budh を語根として、「目覚めた人」を指す。いうまでもなく「真理に目覚めた、さとりを成就した人」が、ここでは含意されている。ただしそれは、固有名詞ではなくて、普通名詞であり、「さとったもの(覚者(かくしゃ))」がブッダなのである以上、複数のブッダが出現し、登場することは、なんら奇異を感じさせない。
 仏教の興起した当時のインドの思想界の大要については、すでに述べたが、仏教と同時代の、しかもきわめて近い新宗教のひとつに、ジャイナ教があり、その創始者(中略)であるニガンタ・ナータップッタ(本名はヴァルダマーナ)は、尊敬を受けてジナ(耆那(じな)と音写し、「勝者」の意)やマハーヴィーラ(「偉大な英雄」の意)と称されるほかに、やはりしばしばブッダと呼ばれ、名ざされる。また、このジャイナ教が伝えた古い聖典には、仏弟子の中で最もよく知られたサーリプッタ(シャーリプトラ、舎利弗(しゃりほつ)、舎利子(しゃりし))が、ブッダとして登場し、そのほかの仏弟子をもブッダと呼ぶ例が見られる。このように、ブッダという名称は、当時は著名な宗教者に冠せられた共通の尊称であった。
 付言すると、この名称は、時代が下るにつれて仏教においてのみ用いられるようになり、いわば仏教の独占物のごとく転じていって、ここに仏教をインドで「バウッダ(Bauddha)」と呼びならわすようになる。」



「第三部 大乗経典」より:

「さらに深い考察を要する術語に「業(ごう)」がある。これはいうまでもなくカルマ karma (カルマン karman、カンマ kamma)の訳語であり、インド仏教におけるカルマは、行為とその結果(ときに行為の原因などを含む)の総体を意味し、本来はその行為の主体者である個人に終始した。自業自得(じごうじとく)といわれるように、自己の行為を自己が果たし、その結果を自己が受けて、責任を含む行為全体を自己が担うという、個人に関わる一連の行為の全体系を、「カルマ=業(ごう)」は意味した。大乗仏教において、いわゆる他者の発見があり、他者と共通する業が説かれて、「共業(ぐうごう)」という術語が重要視されても、それは業の主流とはなっていない。中国仏教の業(ごう)思想は必ずしも明確ではないが、日本において、とりわけ封建制のもとで、その階級制度の維持のために、万人が必ずそれぞれに異なる区別を、特種の強権をもって、区別から差別へと定着させる必要が生じ、それにこの業が「宿業(しゅくごう)」として理論化される。こうして、その宿業に基づく差別を扇動して強化してゆく際に、それをも大乗文化は承認してしまった。本来、インド仏教は、インド社会を縛りつけているカースト制度にあくまで反対し、いっさいの平等を徹底させようと努め、最後までそれを貫いて、それがかえって仏教のインドにおける衰滅の一因でもあったという歴史的事実が、現在では広く知られているにもかかわらず、そしてその平等のもとにおける個の独立が直接的に「業」に担われているのに反して、日本における大乗文化が、その当時の政治的圧力に屈して、体制擁護に加担し、庶民のあいだに、宿業による差別を容認するという事態を生じたことは、そのはなはだしい逆行があまりにもアイロニィに満ちており、驚嘆というよりは、慨嘆(がいたん)を禁じ得ない。
 すでに繰り返し記したように、仏教は他のいわゆる世界宗教(キリスト教やイスラームなど)に固有なドグマをもたず、釈尊以来、「対機説法(たいきせっぽう)」といい、「応病与薬(おうびょうよやく)」といい、「人(にん)を見(み)て法(ほう)を説(と)く」といい、さらに「八万四千(はちまんしせん)の法門(ほうもん)」と称する(中略)。仏教はそれを基点として多様性の承認という美点を有し、寛容宥和(ゆうわ)という長所があると同時に、何もかもすべてをそのまま承認し受容するあまり、仏教本来の実態を離れて、いたずらに放恣(ほうし)に流れ、ときにはいかがわしい似而非(えせ)教説がとりわけ大乗文化の中に蔓延(まんえん)し、仏教とくに大乗仏教そのものをみずから無力化して、逆説的に人心を痛めつける惧(おそ)れをはらむ。たとえば右の「業(ごう)」の歪曲(わいきょく)に見られるように、本来は万人の解脱(げだつ)すなわち解放の旗手であるべき仏教が、逆に圧迫に向かう例もある。」





こちらもご参照ください:

三枝允悳 『インド仏教思想史』 (レグルス文庫)
渡辺照宏 『新釋尊傳』
















































三枝允悳 『インド仏教思想史』 (レグルス文庫)

三枝允悳 
『インド仏教思想史』
 
レグルス文庫 46 

第三文明社
1975年6月30日 初版第1刷発行
1981年8月10日 初版第4刷発行
239p 索引vii 
新書判 並装 カバー
定価580円



本書「再刷へのあとがき」(1979年6月20日)より:

「再刷に際して、幾つかの誤植を訂正したほか、ルビを少し増し、語句の一部を書きあらためました。いずれも小さなもので、文章の変更にはいたりませんでした。」


三枝允悳 インド仏教思想史


目次:

はしがき

序章
 インド人と歴史と思想史
 インド思想の特徴
 インド仏教史の時代区分
第一章 初期仏教
 第一節 前史
 第二節 仏教の誕生
 第三節 初期仏教の思想
第二章 部派仏教
 第一節 部派の成立
 第二節 アビダルマ
第三章 大乗仏教
 第一節 大丈夫京の興起
 第二節 初期大乗仏教経典
 第三節 ナーガールジュナ
 第四節 如来蔵・仏性思想
 第五節 唯識説
 第六節 仏教論理学(因明)と哲学
 第七節 密教

参考文献
再刷へのあとがき

索引




◆本書より◆


第一章第二節より:

自由思想家たち
 紀元前六世紀前後のインドは、ガンジス河流域を中心に、活気がみなぎっていた。気候・風土その他の好ましい諸条件がそろい、豊かな農産物にめぐまれて、諸物資は豊富に出まわり、加工業も栄えて、商工業がさかんになり、人々の生活は安易で裕福になり、貨幣の出現によって、経済活動は急速に進展した。こうして多数の小都市が成立して人々をあつめ、小都市を中心に群小国家が生まれ、それらはしだいに併合されて計十六の大国に発展し、大国とその首都との未曽有(みぞう)の繁栄がくりひろげられることになった。
 このような新しい社会は、当然、新しい空気を求める。すでにヴェーダの宗教は古びた迷信のように感ぜられ、バラモンの権威は失墜して、それにかわる自由で清新な思想家たち――かれらは「努力する人」(シュマラナ、サマナ、「沙門(しゃもん)」と呼ばれる――を人々は歓迎した。バラモン教を否認するこの新興思想には、唯物論があり、快楽主義があり、逆に苦行主義があり、また懐疑論があり、その種類は非常に多い。しかもかれらには、思想の自由、発表の自由が徹底してまもられていたばかりか、たがいの討論は人々の熱心な支援をうけた。仏教も、このような状況のなかで生まれ、そだっていった。
 原始仏教経典では、それらの新興思想の数を計六二として、それぞれの内容の概略を伝えている。また同時代に生まれて仏教とともに発展したジャイナ教では、三六三種の見解があった、とのべている。以下、これら多数の思想家のうち、とくに重要な六人について、のべていくことにしよう。(仏教ではかれらを六師外道(ろくしげどう)と呼んでいる)。
(1) プーラナ(Pūraṇa Kassapa)は、奴隷の子として生まれ、主人から逃亡する途中で衣類を奪われて以来、裸で生活した。かれは、他の生命を奪い、悲しませ、苦しめ、他人の家に侵入し、盗み、追いはぎになり、姦通し、うそを語るなどの行為について、それらはすこしも悪をおこなったことにはならない、また悪の報(むく)いをうけることもない、逆に、祭祀をおこない、施(ほどこ)しをし、自己を制御し、真実を語るなどの行為も、善を生ずることがない、善の報いも存在しない、と主張する。これは極端な道徳否定論ないし無道徳論である。
(2) アジタ(Ajita Kesakambalin)は、素朴な唯物論を説いた。かれは地・水・火・風の四つの元素のみを認め、それらを実在とし、人間もこれら四元素によって構成されているとした。生命のつづくかぎり、この四元素は結合しているが、死ぬとそれぞれに分解してしまう。死とともに人間そのものが無となり、もちろん霊魂のようなものは存在しない。死後にはなにものものこらないから、善業も、悪業も、その果報をうけることはない。果報を望んでの施しや祭祀はすべてがむだであって、それよりも現在の利益や快楽を求めた方がよい、という主張から、唯物論と快楽主義とがむすびついて、いわゆる現世主義―刹那(せつな)主義をとなえる。この種類の考えはいつでもどこにでもあり、のちインドでは、この派をチャールヴァーカあるいはローカーヤタ(順世派)と呼んでいる。
(3) パクダ(Pakudha Kaccāyana)は、アジタの唯物論や四元素に、苦と楽と生命(霊魂)という精神的な要素をくわえた七要素説をたてた。これら七要素は、かれの説くところによれば、つくられず、なにものも生み出さない、不変で、安定しており、七つの集合もない。たとえば人間をきるというのは、ばらばらのこの七要素の間を刃がすりぬけたにすぎない、とする。こうして、これも一種の道徳否定論に、あるいは快楽主義に通ずる。
(4) ゴーサーラ(Makkhali Gosāla)は、さらに要素の数をまして、一二要素をあげた。しかしかれの思想は、一種の宿命論によって名高い。すべてはあるごとくあり、なるごとくなり、すべて無因無縁であって、どこにも支配力もなく、意志の力もなく、すべての変化はひとりでに決定されている。どのような悪い行為あるいは善い行為をしようとも、定められた運命からのがれることはできず、一切の努力は結局むだである。ただ輪廻のおもむくままにころがっていく、とかれは説く。しかしまた、かれはアージーヴィカという宗教に属していたと伝えられる。この語は「生活法についての規定を厳密に守るもの」の意味で、実際に苦行をつづけていた。なお、アージーヴィカ派はかなりながく存続し、後期の書物では、上述のプーラナやパクダをもこの派にいれている。この宗教は、後代になってジャイナ教に吸収された。
(5) サンジャヤ(Sañjaya Belaṭṭhiputta)は、もっとも有名な懐疑論者である。たとえば、「来世は存在するか」の問いに、「そうだとは考えない、そうらしいとも考えない、それとは異なるとも考えない、そうではないとも考えない、そうではないのではないとも考えない」と答えたという。ようするに確定的な答えをせず、未定のままにさしおいて、一種の不可知論に終始しており、仏典はかれの説を「鰻(うなぎ)のぬらぬら論」と呼んでいる。しかしこのばあい、とくに形而上学の問題にたいして、エポケー(判断中止)をたてたことは、ひとつの意義がある。それは、ヨーロッパでは、ギリシアでアリストテレスの壮大な体系がきずかれたあと、ローマ期にはいって、懐疑派のピュロンによって見いだされた立場に共通するものがある。
(6) ニガンタ・ナータプッタ(Nigaṇṭha Nātaputta)は、「ナータ族の出身であるニガンタ派のひと」という意味で、本名はヴァルダマーナ(Vardhamāna)といい、さとりをひらいてからは、マハーヴィーラ(Mahāvīra 偉大な英雄)、あるいはジナ(Jina 勝者)などと尊称される。かれによって改革されたニガンタ派は、以後ジャイナ教(ジナの教え)として出発することになる。
 ジャイナ教はその後、仏教と歩をそろえて発展し、バラモン系統以外の二大宗教として、インド文化・思想の諸方面に多くの影響をおよぼした。なおジャイナ教の伝説・術語・思想などには、仏教と共通しているところがすくなくない。
 マハーヴィーラはゴータマ・ブッダよりも二十年あまりあとに生まれて、出家してのち、ひたすら苦行に専念し、苦行のなかでさとりをひらいた。その結果、かれは、当時の混乱した思想界のなかで、一種の相対主義ないし不定主義により、すべて「ある点から見ると」(syād)という限定をおいて、その思想を説いた。かれは、一切を霊魂と非霊魂との二つに区分し、後者をさらに活動・静止・虚空・物質の四つに分けて、あわせて五つの実在体をあげる。
 ジャイナ教のなによりもの特徴は、その厳格な実践にある。とくに不殺生(ふせっしょう)・真実語・不盜・不邪婬・無所有の五つの大戒が重要視され、なかでもその第一の不殺生戒は、出家・在家の別なく、きびしく守られた。すなわち生命のあるものは一切殺したり傷つけたりしてはならないとしているので、信者でも、それを犯すおそれのある職業に従事することができない。たとえば農業などは、土中の虫を殺す可能性が多いために、ジャイナ教徒は好まない。そして商業に精励し、また真実語戒をまもって正直であるところから、信用があつく、こうして成功して、富裕となった。一説によれば、前世紀までのインド民族資本の過半数は、インド全人口の〇・五パーセントしかいないジャイナ教徒がにぎっていた、といわれる。
 出家者のなかには、五戒の最後にある無所有戒に徹底するあまり、身に一糸もまとわず、ついにはジャイナ教の聖典までもすててしまったものがあり、この人々は裸行派と呼ばれる。そのいきすぎをおさえて、白衣一枚をまとい、聖典を護持した人々は、白衣(びゃくい)派と呼ばれる。
 開祖マハーヴィーラの苦行をしのんで、苦行とくに断食が修行者に徹底し、そのための死が称賛されるほどであった。ともあれこの実践によって、ジャイナ教はまもられて、今日にいたっており、たとえ少数ではあっても、不殺生―平和など、大きな感化をインド民衆にあたえた。」





こちらもご参照ください:

中村元/三枝充悳 『バウッダ 佛教』














































































































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うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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