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『原典訳 チベットの死者の書』 川崎信定 訳 (ちくま学芸文庫)

「ああ、愛する友と離れて、たった一人で彷徨(さまよ)う時に、自分自身の投影にほかならない、空(くう)が姿と形をとったものが現われる。」
「存在本来のみずから響く音が千の雷鳴のように轟く時に、一切がオン・マ・ニ・ペェ・メェ・フームの六シラブルの声音に変わりますように。」

(『原典訳 チベットの死者の書』 より)


『原典訳 
チベットの死者の書』 
川崎信定 訳
 
ちくま学芸文庫 カ-3-1 


筑摩書房 
1993年6月7日 第1刷発行
1993年12月20日 第7刷発行
243p 口絵(カラー)2葉
文庫判 並装 カバー
装幀: 安野光雅
カバー装画: 色と形で表わした静寂尊(シ)・忿怒尊(ト)マンダラ
撮影: 松本栄一



「文庫版解説」より:

「『チベットの死者の書』とは、現在でもチベットで家に死者がでたときにその枕辺に古派密教(ニムマ)の僧侶が招かれて唱えるお経である。日本の「まくら経」・「引導法(いんどうぼう)」に相当する実用経典であり、またその後七日・七日ごとに七週間にわたって唱えられる死後四十九日間の追善廻向(ついぜんえこう)・鎮魂のお経ともいえるものである。そしてその内容は、死の瞬間から次の生での誕生までの間に魂魄が辿る旅路、七週四十九日間のいわゆる中有(ちゅうう)(チベット語でバルドゥ、サンスクリット語でアンタラーバヴァ)のありさまを描写して、死者に対して迷いの世界に輪廻(りんね)しないように、「正しい道はこっちなのだ」と正しい解脱(げだつ)の方向を指示する、お授けのための経典である。」


参考図版5点。口絵カラー図版2点(寂静尊・忿怒尊のマンダラ)。



チベットの死者の書



原典訳 チベットの死者の書(バルドゥ・トェ・ドル) 目次:

凡例

第一巻 チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)とチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)
    本書と本巻の題名
    帰依を表明することば
    本巻の構成について
 序論
    『バルドゥにおける聴聞による大解脱』のお導きを必要としない人たちについて
    『バルドゥにおける聴聞による大解脱』のお導きを必要とせずに〈ポワ(転移)〉のお導きを必要とする人たちについて
    この『バルドゥにおける聴聞による大解脱』のお導きを必要とする大部分の人たちについて
    死におもむく際の諸徴候についての自分自身による観察と〈ポワ(転移)〉の適用
 本論
  第一章 『チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)における光明のお導き』
    第一の光明の体験
    この第一の光明のお導きの導師について
    この第一の光明の体験とお導きをする時期
    『光明のお導き』の言葉
    第一の『光明のお導き』のお授けの仕方
    〈チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)〉における、第二の光明の体験
  第二章 〈チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)〉
    第三の光明の体験
   寂静尊の神群の現出
    一日目
    二日目
    三日目
    四日目
    五日目
    六日目
    七日目
   忿怒尊の神群の現出
    密教と顕教の差異
    八日目
    九日目
    十日目
    十一日目
    十二日目
    十三日目
    十四日目
    ヤマ(閻魔)王たちの現出
   結論
    奥書およびダーラニー(陀羅尼)

第二巻 シバ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)
    第二巻の題名
    帰依を表明することば
 第一章 輪廻する迷いの存在
    バルドゥでの身体とその超能力
    バルドゥの期間の長さ
    シパ・バルドゥの恐ろしい幻想と苦しみ
    ヤマ(閻魔)王の審判
    自分の葬式を見る
    六種類の迷いの世界
 第二章 再生のプロセス
    再生への入胎を避ける方法
    胎の入口を閉ざす第一の方法
    胎の入口を閉ざす第二の方法
    胎の入口を閉ざす第三の方法
    胎の入口を閉ざす第四の方法
    胎の入口を閉ざす第五の方法
    意識のポワ(転移)
    再生の胎の選択
    まとめ
    奥書

第三巻 付属の祈願の文書
    本巻の題名
 第一章 『諸仏・諸菩薩による守護を祈願する文』
 第二章 『バルドゥの根本詩句(六詩句)』
 第三章 『バルドゥの難関からの脱出を祈願する文』
 第四章 『バルドゥの恐怖からの守護を祈願する文』

補注
文庫版解説
初版あとがき
文庫版あとがき




◆本書より◆


第一巻より:

七日目
 七日目には、〈清浄なクァサルパナ(虚空遊行(こくうゆぎょう))〉の世界からヴィディヤーダラ(持明者(じみょうしゃ))の神群が汝に会いにおいでになる。この時には、煩悩のあるもの、すなわち無知(おろかさ)からできている動物(畜生)の世界の薄明りの道によっても汝は迎えを受けるであろう。
 この時のお導きは死者の名を呼んだあとで以下のように告げる。
 「ああ、善い人よ、心を惑わされることなく聴くがよい。七日目には、汝の悪い習癖を作る力(ヴァーサナー)(習気(じっけ))の領域の中にこれを情かさせる働きをする種々の斑(まだら)な光が射してくるであろう。この時に、〈清浄なクァサルパナ〉の世界からヴィディヤーダラの神群が汝に会いにおいでになるであろう。
 虹と光に覆われたマンダラの中央に、〈パドマナタ(蓮華舞踏主(れんげぶとうしゅ))〉と呼ばれる、身体が五色の光の色をした、他のなにとも比べることができないほどに完成された厳かさをそなえたヴィディヤーダラが、女尊として赤色のダーキニーを身近に抱擁して、半月刀と血に溢れた碗を持って舞踏をしながら、見つめる仕草の指印(印契(いんげい))を空中で結んで現われてくるであろう。
 このマンダラの東方からは、〈ブフーミスティタ(十地(じゅうじ)の位にある)ヴィディヤーダラ〉が白色の身体で、顔には笑みを浮かべ、白色のダーキニーを身近に抱擁して、半月刀と血に溢れた碗を持って舞踏をしながら、見つめる仕草の指印を空中で結んで現われてくるであろう。
 このマンダラの南方からは、〈アーユルヴァシター(寿命が自在である)ヴィディヤーダラ〉が黄色の美しい均整のとれた身体を持ち、黄色のダーキニーを身近に抱擁して、半月刀と血に溢れた碗を持って舞踏をしながら、見つめる仕草の指印を空中で結んで現われてくるであろう。
 このマンダラの西方からは、〈マハームドラー(大印契(だいいんげい)の)ヴィディヤーダラ〉が、赤色の身体で、顔には笑みを浮かべ、赤色のダーキニーを身近に抱擁して、半月刀と血に溢れて碗を持って舞踏をしながら、見つめる仕草の指印を空中で結んで現われてくるであろう。
 このマンダラの北方からは、〈アナーボーガ(無功用自然(むくゆうじねん)の)ヴィディヤーダラ〉が緑色の身体で、顔には怒りと笑みとを浮かべ、緑色のダーキニーを身近に抱擁して、半月刀と血に溢れた碗を持って舞踏をしながら、見つめる仕草の指印を空中で結んで現われてくるであろう。
 これらのヴィディヤーダラたちの外周りには数かぎりないダーキニーたちの群が現われるであろう。すなわち、墓地の八ダーキニーと、四階級のダーキニーと、三界(さんがい)のダーキニーと、十の方向(十維(じゅうい))のダーキニーと、二十四巡礼聖地のダーキニーたちと、シューラ(勇猛者)とシューラー(勇猛母)、下僕(ギン)と婢女(ギンモ)と、ダルマパーラ(護法者)が、守護の者たちを率いて現われる。彼らのすべてが六種の人骨製の装飾品を身につけて、太鼓と人間の大腿骨製の笛と、頭蓋骨製の太鼓、人皮製の旗、人皮製の宝の蓋(かさ)、人皮製ののぼり幡(ばた)、人膏製の薫香、それに無数の種類の楽器を持って全世界を充満させるばかりに現われ、ぎしぎし、ゆらゆら、ぐらぐらと震動させるであろう。これらの楽器はすべて頭が割れるような音で鳴り響くであろう。これらの神群は種々の舞踏を演じながら、生前に誓いをしっかりと守った者たちのお迎えに現われるであろう。誓いを守らずにくじけた者たちを断罪するために現われるであろう。
 ああ、善い人よ、汝の悪い習癖を作る力(ヴァーサナー)の領域の中を情かする働きをするサハジャ(自然生得(じねんしょうとく)の叡知が、五色の光を放ちながら、色とりどりの糸(彩線)をよりあわせたようにきらきらと、ちらちらと、ゆらゆらと、明るく輝くであろう。恐ろしいばかりにまばゆい光となって、ヴィディヤーダラの五首領の心臓から発して、汝の心臓めがけて直視することができないほどの明るさで射してくるであろう。
 これと同時に、動物(畜生)の世界からの、怖気づかせないほどに微弱な緑色の薄明りも、叡知の光と渾然一体となって現われてくるであろう。この時に汝は、心を惑乱させる働きをする習癖を作る力(ヴァーサナー)の影響でこの五色の光を恐れて逃げ出し、怖気づかせないほどに微弱な動物の世界からの薄明りの方に魅(ひ)かれるであろう。しかし、この時に汝はこの恐ろしいほどに輝く五色の光を恐れてはならない。おびえてはならない。《これは叡知である》と覚(さと)るべきである。そうすれば、この五色の光の中から、すべての存在の本来の音が、千個の雷鳴の一斉の響きのように大きく鳴りわたるであろう。激しい音響をたてて鳴りわたるであろう。轟音や爆音と、そして怒りの呪文を読み上げる激しい音声が鳴り響くであろう。これを恐れてはならない。逃げてはならない。おびえてはならない。《これは汝自身の投影であり、意識の働きである》と覚(さと)るべきである。怖気づかせないほどに微弱な、かの薄明りの方に執着してはならない。これを求めてはならない。これに執着するならば、汝は無知である動物(畜生)の境涯に堕ちて、愚鈍・蒙昧・隷属の果てることのない苦しみを味わうであろう。」



第二章より:

バルドゥの期間の長さ
 「ああ、善い人よ、このようなバルドゥの身体を持つものは、ちょうど夢の中でのように、見知った場所や近親縁者のものたちに会うことができる。しかし汝が近親縁者たちに話しかけても彼らから返事があることはない。近親者や家族の者たちが泣いているのを見て、《私は死んでしまっている。どうしたらよいであろう》と汝は思って苦しむであろう。むき出しで熱い砂の上に置かれた魚のように、激しい苦悩にさいなまれることが今の汝にはあるであろう。しかし今、汝が苦しんでも何の益もないのである。汝に師僧(ラマ)があるならば、師僧(ラマ)におすがりすべきである。または守り本尊(イダム)・大慈悲尊(ツクジェチェンポ)に祈願すべきである。汝が近親縁者に執着しても何の益もない。執着してはならない。汝自身で大慈悲尊(ツクジェチェンポ)に祈願を捧げるがよい。そうすれば苦悩や恐怖が現われることはないであろう。
 ああ、善い人よ、汝は吹きすさぶカルマン(業(ごう))の風に追い立てられている。汝の意識は自分で立ち止まることができず、頼るものを持つこともできない。風の馬に乗せられて、鳥の羽が風に運ばれるように、あちこちとさだめなくさすらうであろう。泣いている縁者の者たちに、《私はここにいるよ。泣くのではない》と呼びかけても、その声に彼らは気づかない。そこで汝は《私は死んでしまったのだ》と考える。大変な苦悩が、今、汝に生じることになるであろう。しかし、そのような苦悩に身を苦しめてはならない。夜でもなく昼でもなく、秋の薄暮れ時の灰色の明りにも似た灰色のもやが、ずっと引き続いて現われるであろう。このようなバルドゥに一週間、あるいは二週間、あるいは三週間、あるいは四週間、あるいは五週間、あるいは六週間、あるいは七週間と、四十九日に至るまで、汝は留まることになるであろう。〈シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)〉においての苦しみは、二十一日間続くのが一番多いといわれている。が、これは死者の生前におけるカルマンによって差があるものなので、長さを一律に決めることはできない」」

ヤマ(閻魔)王の審判
またもし、悪いカルマン(業(ごう))の影響でこのようにお導きを受けても覚(さと)ることができないならば、さらに死者の名を呼んだあとで次のように告げるべきである。
 「ああ、善い人○○よ、汝はよく聴くがよい。汝がこのように苦しんでいるのは汝のカルマン(業(ごう))によって決められた宿命なのである。ほかの誰かに代わってこれを受けさせるわけにはいかないのである。汝自身の宿命なのであるから。今はただ三宝に対して心をこめて祈願すべきである。そうすれば汝を三宝がお守りくださるであろう。
 このように祈願することもなく、ムハームドラーの瞑想を知らずに、また守り本尊(イダム)を心に念じつづけることも汝が行なわないならば、汝と一緒に生まれた善神によって汝が生前に行なった善い行ないの数々がすべて集められ、白い小石で数え上げられるであろう。汝と一緒に生まれたピシャーチャ鬼によって汝が生前に行なった悪い行ないの数々がすべて集められ、黒い小石で数え上げられるであろう。
 この時に、汝が非常に驚き、恐れおののき震えて、《私は悪いことはしていません》と、嘘をついたとする。それに対してヤマ王は《ではお前のカルマンを映写する鏡(業鏡(ごうきょう))を見てみよう》と言って鏡を見る。汝の生前に行なった善い行ないと悪い行ないのすべてが鏡の面に輝いてはっきりと映し出されるので、汝が嘘をついても無駄である。ヤマ王は汝の首に縄索をつけて、汝を引きずり出し、首を切り、心臓を食らい、はらわたを引き出し、脳みそをなめ、血をすすり、肉を食べ、骨をしゃぶる。汝はそれでも死ぬことができない。身体が切れ切れに切り刻まれても、また蘇生してしまう。何度も何度も切り刻まれて、大変な苦しみを味わうであろう。
 この白い小石が数えられている時にも汝は恐れてはならない。おののいてはならない。嘘をついてはならない。ヤマ王におびえてはならない。汝は意識からできている身体であるので、殺され切り刻まれても、死ぬことはないのである。本当のところ、汝は空(くう)それ自体が姿をとったものなのであるから、なにも恐れることはないのである。ヤマ王たちは汝の思いが化して現われたものである。空なるものの姿にほかならない。汝の身体は、潜在意識が形をとったものである。空なる意識からできた身体にほかならない。空(くう)なるものが空(くう)なるものを傷つけることはできない。」
「汝自身の錯乱によって現われた幻影以外に、ヤマ王や善神やピシャーチャ鬼や牛頭の鬼(羅刹(らせつ))が実際に存在するのではないことを覚(さと)るべきである。この時に現われるすべてはバルドゥであるのだと覚(さと)るべきである。マハームドラーの瞑想を精神集中して行なうべきである。瞑想の仕方が判らないときは、汝自身の恐怖とおののきを生み出しているものの本体をじっと凝視するがよい。いかなる性質のものともいうことのできない、空(くう)なるものが見えるであろう。これがダルマ・カーヤ(法身(ほっしん))というものである。この空(くう)なるものは、また、単にのっぺりとしたものではないのである。《空(くう)なるものの本質は恐ろしい》と考える意識は、正確で鋭敏なものと言わなければならない。これこそ、サムボーガ・カーヤ(報身(ほうじん))の意識の状態なのである。
 空性(くうしょう)と明晰性の二つが組み合わさって離れない。空(くう)なるものの本質は明晰であり、明晰なるものの本質は空(くう)なるものである。明晰であり空(くう)であることが不可分となっている意識は、赤裸々で生のままにむきだしの状態のものである。あるがまま、自然のままで無造作の状態のものである。これこそ本質を構成するスヴァバーヴァ・カーヤ(自性身(じしょうしん))にほかならない。そしてまた、この自性身自体の働きは、他に妨害されることがなくて、何にでも現われることができる。それが慈悲を本質とするニルマーナ・カーヤ(化身(けしん))なのである。
 ああ、善い人よ、このようにして、心を惑わされることなく見るがよい。汝がこのことを覚(さと)りさえすれば、四種の仏の身体を得て完全に仏になることは確実である。心を惑わされてはならない。仏と一般の迷っている生きものとがこの境界で分けられるのである。現在という時が非常に重要である。この時において心を惑わされるならば、これからずっと苦しみの泥濘(ぬかるみ)から脱け出る時は来ないであろう。」

再生への入胎を避ける方法
 このような瞑想を行なうことによって、汝が再生を止めることができれば汝は仏となることができるであろう。
 しかし、自身を清く保つことができず、瞑想にも慣れ親しんでいない人々は、ここで輪廻(りんね)を終えることができずに、さらに彷徨(さまよ)って再生への母胎に進んで行く。彼らに《胎の入口を閉ざす教誡(ゲル ゴ ガク ペエ ダムガ)》を授けることが重要となってくる。」

「生き物の誕生の仕方には四種類(四生(ししょう))がある。卵から生まれるもの(卵生(らんしょう))と胎から生まれるもの(胎生(たいしょう))と突然に生まれるもの(化生(けしょう))と湿気から生まれるもの(湿生(しっしょう))との四つである。卵から生まれるものと胎から生まれるものの二つは共通している。さきに述べたように、男女が交歓しているのを見て、これに対して魅(ひ)かれることと反発することとの二種類の衝動によって再生の胎に入ってしまう。そして馬・鳥・犬・人間などのうちのどれかとして再び生まれるのである。
 もしも男性として生まれる時は、自分自身が弾性であるとの思いが現われる。そして交歓する父母の父に対しては激しい敵意を生じ、母に対しては嫉妬と愛着を生ずる思いを持つであろう。
 もしも女性として生まれる時は、自分自身が女性であるとの思いが現われる。そして交歓する父母の母に対して激しい羨望と嫉妬を生じ、父に対しては激しい愛着と渇仰の気持ちを生ずるであろう。
 これが縁となって汝は胎への道にあることになる。赤白二滴(卵と精)の結合する最中のサハジャ(自然生得(じねんしょうとく))の歓喜を経験することになろう。愉楽の状態で汝は意識を失うであろう。胎児はぷくぷくと、ころころに卵形に育ち、身体が成熟してゆき、やがて母の胎外に生まれ出る。
 眼をあけて見るがよい。汝は一匹の子犬としてこの世に戻ってきたのだ。」

「《胎(たい)の入口を閉ざして引き返すことを考えるべきである》と、かつて『バルドゥの根本詩句(ツァツィク)』で説かれた。それを実践することが今こそ必要になっているのである。
 ああ、善い人よ、汝が行きたくないと思っても、自分自身ではどうにもならない。背後からは汝の生前のカルマンを裁く死刑執行人に追い立てられる。行きたくないと言うことができないので、行くよりほかに仕方がない。前からは死刑執行人や首切り人が汝を引きずる。
 暗闇と大旋風と音響と吹雪と激しい霰と暴風雨が荒れ狂う。逃げたいという思いが汝に起こるであろう。汝は困り果てて頼ることのできる場所を探して歩く。前に述べられたような立派な屋敷とか岩窟とか、土の窪みとか、森の中とか、あるいは蓮華(れんげ)などの丸い花弁の奥とかに隠れ込み、外に出ることを恐がる。《今ここから外へは出られない》と思い込み、そこから離れることを恐がって、その場所にすっかり執着するようになるであろう。外に出れば、バルドゥの恐ろしくおののかせるものたちと出会うのではないかという恐怖から、それらのものたちを恐がる。すっかり怖気づいて中に隠れてしまい、その結果、とてつもない悪い身体を取って再生することになるであろう。そしてさまざまな苦悩を味わうことになるであろう。」

「この『バルドゥにおける聴聞(トエ)による大解脱(ドルチェンモ)』は、瞑想の実践を行なうことを必要としない教え(法)である。見るだけで解脱し、聴くだけで解脱し、唱えるだけで解脱できる、深遠な教誡(おしえ)である。これは大罪人をも秘密の道に導き入れて解脱させる深遠な教誡(おしえ)である。たとえ七匹の猛犬に追われても、この教誡(おしえ)の語句と重要な用語を忘れてはならない。そうすれば、死の瞬間において汝は仏となることができるであろう。」



第三章より:

「さまざまな幻影と自身の心とが解脱(げだつ)に導く道であると確信して、仏の三身(さんじん)が明らかに実現されるように努めよう」
「ああ、私に〈夢(ミラム)のバルドゥ〉が現われてきた今この時に、(中略)気持ちを散乱させないで、心を本来のありかたに据えよう。そして夢の内容をしっかりと把握し、これを変えて光明にまで浄化させよう」
「眠っている時と現実の覚醒している時とを合体させる修練を大切にしよう」






こちらもご参照ください:

松長有慶 『密教』 (岩波新書)
河口慧海 『チベット旅行記』 全五冊 (講談社学術文庫)
井筒俊彦 『意識と本質』 (岩波文庫)









































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松長有慶 『密教』 (岩波新書)

「このようにして七世紀以後に成立したインドの中期と後期の密教経典は、カオスのもつ雑然とした原初的な宇宙エネルギーを包含しつつ、独自のコスモスの世界を構築していったのである。」
(松長有慶 『密教』 より)


松長有慶 
『密教』
 
岩波新書 179 


岩波書店 
vi+3p+236p 索引8p
口絵(カラー)4p
新書判 並装 カバー
定価620円(本体602円)



本文中図版(モノクロ)36点。口絵図版(カラー)4点。巻頭に図3点。



松長有慶 密教



カバーそで文:

「自己の発見としての厳しい行(ぎょう)、多くの人を限りなく魅了する曼荼羅。密教は、日本文化にも多大な影響を与えてきた。密教研究の第一人者で、チベット、ネパール、インド、パキスタンなどへ密教の源流をもとめて調査を重ねてきた著者が、密教の歴史、思想、実践、シンボリズム等をやさしく語り、その現代における意味を問う。」


目次:

Ⅰ ヒマラヤを越えて――密教の歴史的な流れ
 1 生きている密教
 2 日本密教とチベット密教
 3 インド仏教の中の密教
 4 ヒンドゥー教と密教
 5 中国・西域地方の密教
 6 東南アジアの密教
 7 日本の密教
Ⅱ 人間と宇宙――密教の思想
 1 マクロとミクロの対応
 2 神、仏、そして人間
 3 真理が語る
 4 顕われたものと隠れたもの
 5 宇宙を仏とみる
 6 宇宙の根元的なもの
 7 二つは一つ
Ⅲ 自己の発見――密教の実践
 1 平常の自己と本来の自己
 2 師匠と弟子
 3 宇宙を凝縮する
 4 密教の行と儀礼
 5 密教の観法
 6 日本とチベット 密教の観法
 7 現世利益から成仏へ
Ⅳ 感覚で捉える――密教のシンボリズム
 1 混沌と秩序
 2 色、形、音、運動
 3 曼荼羅の構造
 4 胎蔵曼荼羅
 5 金剛界曼荼羅
 6 曼荼羅の展開
 7 対象になりきる
Ⅴ 個から全体へ――密教の社会性
 1 俗と非俗
 2 欲望の肯定
 3 国家とのかかわり
 4 衆生救済を戒とする
 5 すべてのものに生命が宿る
 6 新宗教と密教
 7 現代社会と密教

あとがき
索引




◆本書より◆


「Ⅰ ヒマラヤを越えて」より:

「日本密教とチベット密教は基本的な立場では共通の宗教基盤にたつが、形の上で、また思想的にも異質的な要素を多分にみせるのは、いくつかの理由がある。まず第一は密教が包容力に富み、各地の民族宗教を取り入れてその姿を変えてしまっている点である。ただその変化の度合いは、チベット密教ではそれほど大きくないが、日本密教の場合は、中国を経由しているため、インド本来の形と比べると、極端に変形している部分もある。
 第二に日本密教は、インドにおいて八世紀ころまでに栄えた密教を受け継いだ中国密教の伝統を引き継いでいる。それに対して十一世紀以後にめざましい展開を遂げたチベット密教は、主としてインドの後期密教の影響を強く受けた。八世紀後半以後のインドの後期密教は民族宗教との融合をさらに推し進め、ヒンドゥー教的な色彩を濃厚にうちだすようになった。
 かくして日本とチベットの密教は、同じ基盤に立ちながら、インドの古い時代のものと新しい時代のものというように、時代も違う上、性格的に異なった密教を素材として受け入れている。」
「たとえば日本においては、密教の寺院といっても、古色蒼然とした落着いた雰囲気をもつ。」
「ところがチベットの密教寺院はがらりと様相が違うし、その雰囲気もわれわれにとって異様である。」
「日本仏教の寺院が静をあらわすとすれば、チベット密教の寺院はきわめてダイナミックで、お堂全体に一種独特のエネルギーが満ちあふれている。」
「ヒンドゥー教の中に、タントラと呼ばれる聖典が伝承されている。」
「タントラとは、もともと思想とか哲学を説くための書物ではない。大宇宙である真理の世界と、小宇宙である人間の世界が、本来は一つのものであることを体験を通じて知るための実践の道、修法のしかたを明らかにしたものである。」
「密教がヒンドゥー教のタントラの影響を明瞭に示し始めるのは、八世紀以降である。」
「九世紀以後、密教はますますタントラ的な色彩を強め、その実践法でも、仏像の形や名称でも、ヒンドゥー教と酷似してくる。」
「インドの後期密教のことを指して、左道密教と呼ぶことがある。人間の排泄物を飲食し、墓場で修法し、女性の行者と交るなど、通常社会では顰蹙(ひんしゅく)を買う行為を悟りにいたるための修法としてすすめる。」
「またタントリズムでは、五摩事(ごまじ)という儀礼が一般には有名である。五摩事とはサンスクリット語のMで始まる文字をもつ酒(madya)、魚(matsya)、肉(māṃsa)、煎った穀物(mudrā)、性交(maithuna)の五つのものを用いたタントラ的な儀礼である。行法にあたっては通常行者に禁じられている四種の食べ物を飲食し、女性と交る。それが悟りへの道として示されるのであるから、正気の沙汰ではないと白眼視された。
 この五摩事はヒンドゥー教のもので、仏教にこの名はあらわれないが、インド後期密教でも、人肉を食い、糞尿を飲食し、女性と交わる行法を説いている。」
「タントリズムの中で、ヒンドゥー教であれ、仏教であれ、さまざまな非倫理的、反道徳的な行為を、悟りへの道としてすすめるのはそれだけの理由がある。タントリズムは徹底して自己の本源にかえろうとする、いいかえれば、有限の人間の中に無限の絶対を見つけ出そうとする、神秘主義的な宗教の一つの極端な姿を示しているからである。神秘主義的な宗教は、自己と絶対的な存在との一体化を目ざすのであるから、そこでは一切の社会的な規範は、かえって束縛となる。脱社会を願う行者には、反倫理的、反社会的な行為はすべて許される。かえって社会的なタブーを犯すことによって、自己の絶対的な自由を獲得しようとする。
 バラモン教の支配する社会制度、習慣に徹底して逆らい、そこで尊重される浄の観念をあえて放棄するのが、タントリズムの行動方式である。人びとの避ける墓場に集まり、禁断の人肉まで食い、精液や月経血を飲み、「アウトカースト」の女性とすすんで交る。このようにして、本来的には絶対者にほかならない人間の肉体の本質にせまろうと努めるのが、タントラの行者なのである。
 このようなタントラの儀礼は、ヒンドゥー教であれ、仏教であれ、ジャイナ教であれ、インドの中世社会ではさかんに実行せられていた。仏教の中ではこのような行法は、八世紀以降のインドの後期密教において現実に行われた。」

「密教のもつ総合的な性格は、異教の神がみを自己の傘下に収め、それを仏教化していく。このような土着神の習合は、インドだけではなく、中国でも、チベットでも、日本でも行われた。
 日本における神仏の習合は、奈良時代に始まるといわれるが、仏教と日本の民族宗教との融合が、目にみえる形で進みはじめたのは、真言、天台の両宗においてである。」
「このように仏法を弘めるため、土着神の擁護を期待する姿勢がさらに展開して、在来神は仮の姿で、その本性は仏、菩薩であるとする本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)が生み出された。」
「吉野、熊野など在来の山岳信仰をまた密教の中に習合させて、金峰山(きんぶせん)を金剛界に、熊野を胎蔵界に配する両部曼荼羅説(りょうぶまんだらせつ)もでき上った。」



「Ⅱ 人間と宇宙」より:

「インドでは、人体と星宿との関係を直截に示す図が数多く作られた。屈曲した身体の頭頂から足先まで、二十八宿を配当して描いた図とか、人間の諸器官と惑星間とのリズムの対応関係を描いたハスタカラヤントラ(hastakara-yantra)、人体の中に天界と地界のさまを描写したプルシャカラヤントラ(puruśakara-yantra)など興味深い絵画がいくつも残されている。」
「人間は宇宙に秩序ある法則性を見出し、コスモスと名づけると同様に、自分自身の内部にもコスモスを発見する。それは同時に人間の生命の中に、宇宙の生命との不可分の関係を想定することになる。人間の脊柱は宇宙の柱である世界軸に、呼吸は風に、臍(へそ)あるいは心臓は世界の中心に、腹あるいは子宮は洞窟に、腸は迷宮に、動脈、静脈は日、月に、両眼も日、月に、骨は石に、毛髪は草と同一視され、かくしてマクロとミクロの世界は密接な連繋を保っていると考えるのである。」
「ヴェーダの時代に模索されていた宇宙の根本原理は、古いウパニシャッドではブラフマン(brahman, 梵)と名づけられ、この宇宙の根元とみなされるものと、個人に内在する統一原理であるアートマン(ātman, 我)とが同一視されることになる。このように絶対者と現存在を一体として捉える世界観は、ヒンドゥー社会では、その思想の根底に現在まで流れ続けている。」
「また大乗仏教の中で芽生えた如来蔵(にょらいぞう)という考えかたも、マクロとミクロの世界を一体として捉えたものである。人間をはじめ現象界に生きているあらゆるものは、煩悩によって汚されているようにみえるけれども、本来は清浄な如来の性質を蔵しているとみる。ミクロの世界は、本来の姿からすればことごとく如来の性を備えており、そのままマクロの世界にほかならないということを、「如来の胎児」(tathāgata-garbha)にたとえたのである。」
「もともと密教では、人間存在そのものが絶対存在である、ミクロコスモス以外にマクロコスモスはないと考えるから、現実に存在するこの身体をおいて、悟りはありえないという論理になる。」

「大日如来のサンスクリット名は、マハーヴァイローチャナ・タターガタ(mahāvairocana-tathāgata)である。経典の中では、これを摩訶毘盧遮那如来(まかびるしゃなにょらい)とか、毘盧遮那如来などと音訳し、あるいは盧遮那仏と簡略化して呼ぶこともある。大日如来とは、その意味を取って訳したものである。」
「大日如来は太陽の仏格化ではなく、宇宙の永遠性、普遍性を仏としたものである。」
「大日如来は太陽をたとえとするが、太陽のもつ有限性を超えている。そのために「大」を付したのである。この場合、大とは量的な大小をいうのではなく、無限性とか絶対性をあらわす言葉であると、理解されなければならない。」
「この大日如来は、本来時間と空間を超えた存在であり、われわれの認識活動によって把握し尽せるものではない。ただ宗教的な直観を通じて、その世界に入っていくことが可能となる。」

「日本密教では、空海がマクロとミクロの一体化に理論的な裏付けを与え、『即身成仏義』の中で、ユニークな六大説を展開している。
 本尊と行者、この相対する二つの存在が、本質としては一であるということは、密教の行者は体験を通じて知っている。ところがなぜこの両者が本来的に別個の存在ではないのか、どのような理由で、二でありながら一になりうるのか、という理論的な説明を行なった者はいなかった。空海は即身成仏というかれの特色ある思想を、論理的に明確にするために、六大説を創案し、マクロとミクロの世界の一元性を説き明したのである。
 六大とは、地、水、火、風、空の五大と、識大を合わせたものである。大とは大きいということではなく、根元的なものという意味である。」
「空海は地、水、火、風、空、識の六大を、宇宙の六種の象徴とみる。すなわち宇宙という一つの完全体が、六つの方向からみられる面をもつということである。」
「もともと五大については、『大日経』に説かれていた。そこで五大は、a, va, ra, ha, kha の五字、四角、円、三角、半月、宝珠の五種の形、黄、白、赤、黒、青の五色と対応するものとみなされる。文字、形、色などの五種の組み合わせを通じて、五大の象徴性を示そうとしたものである。
 またこのように五種の字、五種の形、五種の色をもつ五大は、さらに坐した行者の足、臍、心臓、首、頭の身体の五カ所とそれぞれ対応する。マクロコスモスの象徴としての五字、五形、五色が、ミクロコスモスとしての行者の身体の五カ所に布置される。このようにして、マクロとミクロの一体感が、観法を通じて獲得されるしくみになっている。」



「Ⅲ 自己の発見」より:

「東洋の思想において、「おのれ」を知るということは、自我の意識を鮮明にすることではなくて、自と他を含めた全体の中にある「おのれ」を知るということを意味している。」
「それは大宇宙と同質のものとして、おのれを発見することであり、自我の内部にひそむ普遍的な宇宙意識を開発することにもなる。」

「仏教の観法は、このように具体的な形をもつものを前に置き、あるいは観想し、それらがもつ象徴性を通して、行者が仏と一体化するように組織化されている。この点、禅宗系の禅定が、達磨の面壁九年の伝承があらわすように、具体性をもたぬ空間とか壁に向って、一切の現象界の事物を否定し、捨離することによってなりたつのとは対照的である。」
「具体的な法具を用いながら、観法の作法を可能なかぎり簡略化した密教の観法に、月輪観(がちりんかん)とか阿字観(あじかん)がある。」
「月輪観は坐した行者の眼前の一メートルばかりのところに、満月の形をした月輪を掲げ、月輪との一体化をはかる観法である。満月は行者が自分の中に本来もっている清浄な菩提心を象徴したものであるから、行者は月輪観によって、本来の仏性に目ざめるのである。」
「禅定の中で仏の姿を思念する観法は、二世紀ころすでに行われていたらしい。(中略)だがそれが儀礼を伴う密教観法として整備されたのは、六世紀の終りか七世紀の初頭ころのことであった。このころになると本尊だけではなく、種子とか三昧耶形の観想も行われるようになっている。
 七世紀にほぼでき上った『大日経』にあっては、それが種三尊観(しゅさんぞんかん)として形を整え、以後の密教観法の基礎となった。つまり行者はまず観想の中に、種子を思い、それが三昧耶形に変じ、また本尊の具体的な姿に転じる。訓練を積んだ行者は、この三種の観法対象の転化を自在に行うことができる。そしていずれも具体的な形をとったもの(有相(うそう))から、具体性をもたないもの(無相(むそう))へと観法を進めることが要請されるのである。
 この場合、種子はサンスクリット文字であるとともに、文字の根底に、声ないし音を予想している。声とか音の観法は、現実世界の声とか音を聞くことではなく、宇宙の根源的な声ないし音を、みずからの中に取り入れることを意味している。
 インドの後期密教の観法では、行者は虚空(こくう)(宇宙空間)全体にすき間なく如来が充満している中で種子が生まれ、やがてその種子が如来、菩薩、明王、妃などの尊形に変化し、そこに曼荼羅世界が現出する。この場合、虚空はマクロコスモスであり、また法身としての大毘盧遮那如来(だいびるしゃなにょらい)であるが、そこから宇宙の本源的な声である種子があらわれ、つぎにそれが具体的な姿をもった仏の姿に変化する。
 曼荼羅の中心となる五仏は、現実世界を構成している五種の要素すなわち五蘊(ごうん)であり、如来の配偶者たる妃や、その他の菩薩はそれぞれ骨と陸、血と河といったように人間の身体や自然の一部を象徴すると解釈される。ここに曼荼羅の仏たちと自然界、そして人間の間に本質的な同一性が見出されるのである。
 観法の形式としては、一すなわち絶対の世界から、多すなわち現象世界に展開させる広観(こうかん)がある。またその逆に、現象世界を次第に集約させていって、絶対に入る、多から一への斂観(れんかん)がある。代表的な斂観の一つとしては、全世界を曼荼羅の諸尊にまとめ、曼荼羅の諸尊を五仏に集約し、それを大毘盧遮那如来に収め、さらにそれを行者の鼻の先に、芥子粒ほどに収斂(しゅうれん)する方法がある。広観と斂観は一対の観法ではあるが、いずれか一方だけが行われることもある。」



「Ⅳ 感覚で捉える」より:

「このようにして七世紀以後に成立したインドの中期と後期の密教経典は、カオスのもつ雑然とした原初的な宇宙エネルギーを包含しつつ、独自のコスモスの世界を構築していったのである。それは尊形(そんぎょう)、すなわち具体的な形を備えた仏、菩薩、明王、諸天の像とか、それぞれの持物(じもつ)で象徴した三昧耶形(さんまやぎょう)、さらに文字や音声の象徴である種子(しゅじ)などを対象として瞑想する組織的な瑜伽(ゆが)観法を生み出した。
 また同時に、尊形、三昧耶形、種子などを描く曼荼羅(まんだら)のシステムを完成させた。曼荼羅はそれ自体、行者の観法の対象であるが、仏教徒のもつ宇宙観の象徴であり、それだけで完成したコスモスの具像化いってよいであろう。」
「曼荼羅は、聖なる世界の視覚化というだけにとどまらない。その中に、鬼神や精霊をも含めた現実の俗なる世界が二重映しに投影されている。この意味で、それは聖俗一体の世界像の縮図ということができる。カオスと共存する仏教的なコスモスの構図が形をとって、胎蔵曼荼羅の中には提示されている。」




松長有慶 密教 02



















三枝充悳 『世親』 (講談社学術文庫)

「「唯識」とは唯だ識すなわち心的存在しかみとめない立場である。こころの外部に事物をみとめない。したがってわれわれがふつうこころを離れて存在すると考える自然界や身体をもこころに還元し、自然界も身体もこころが作りだしたものにすぎないと主張する。」
(『世親』 「ヴァスバンドゥの思想」 より)


三枝充悳 
『世親』
 
講談社学術文庫  1642 

講談社 
2004年3月10日 第1刷発行
381p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,150円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
カバー写真: 世親菩薩立像(興福寺所蔵)


「本書は、小社刊「人類の知的遺産」シリーズ14の『ヴァスバンドゥ』(一九八三年刊)を底本としました。」



「原本まえがき」より:

「ヴァスバンドゥほど多岐にわたった仏教者はかつていない。その全体像は到底一冊の書には尽くし得ない。本書は、いちおう思想家ヴァスバンドゥを焦点とし、その粋の俱舎(くしゃ)について述べ、そしてとくに近来注目を集めている唯識(ゆいしき)思想に多くのページを割(さ)いた。
 ただしここにそれを果たしたのは、畏友の横山紘一君による。(中略)本書の大半は、専門とすることの久しい横山君に執筆を依頼せざるを得なかった。」
「仏教学におけるヴァスバンドゥ研究はあまりにも多く、あるいは最大とも称されよう。(中略)まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)を競うなかで、横山君と私とのあいだも必ずしも会通(えつう)しない。第Ⅰ部の「はじめに」と1、第Ⅳ部の4、そして地図と年表とを三枝が、そのほかは横山君が記述した。」



本文中図版(モノクロ)3点、地図1点、図表6点。
本書はヤフオクストアで落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


三枝充悳 世親


カバー裏文:

「「我(が)は存在せず、煩悩(ぼんのう)と業(ごう)などによって構成される法(ダルマ)のみがある」とした『倶舎(くしゃ)論』。また、すべての事物はこころが作りだした表象にすぎない、と主張する唯識(ゆいしき)論など、仏教理論を完成させた知の巨人の思想と生涯を詳述。アーラヤ識と呼ばれる深層心理を重視し、現代の精神分析をはるか千六百年前に先取りした精緻な唯識学の全体像を、平易に説き明かす。」


目次:

学術文庫版へのまえがき (三枝充悳)
原本まえがき (三枝充悳)

Ⅰ ヴァスバンドゥ(世親)の生涯
 はじめに
  1 インド仏教史の概括
  2 初期の大乗経典とナーガールジュナ
  3 中期の仏教の諸相
  4 インド仏教の後期
  5 とくにヴァスバンドゥについて
 1 『婆藪槃豆伝』
  1 プルシャプラの地名の由来
  2 ヴァスバンドゥの生まれ
  3 アサンガ(無著)について
  4 ヴァスバンドゥの初期とその名
  5 ヴァスバンドゥ以前の論書
  6 サーンキヤ学派のヴィンドヤヴァーシン
  7 ヴァスバンドゥの『倶舎論』
  8 ヴァスバンドゥの大乗への転向
 2 ターラナータの伝えるヴァスバンドゥの伝記
  1 出生および小乗から大乗への転向
  2 論書の作成
  3 布教活動と入滅
 3 ヴァスバンドゥ二人説について

Ⅱ ヴァスバンドゥの思想
 1 『倶舎論』における思想
  1 概説
  2 存在分類法
  3 宇宙論
  4 実践論
 2 唯識論書における思想
  はじめに
  1 唯識無境
  2 アーラヤ識
  3 三自性

Ⅲ ヴァスバンドゥの著作
  著作の概観
 1 『成業論』
  1 異熟識の説示
  2 業の説示
 2 『唯識二十論』
  1 「唯識」の定立
  2 実在論者との問答
  3 「行為が結果をもたらすこと」に関しての毘婆沙師の見解とそれへの反論
  4 「行為が結果をもたらすこと」に関しての経量部の見解とそれへの反論
  5 経量部の実在論への反論
  6 原子論への論破
  7 経量部の実在論的認識論への反論
  8 実在論的行為論への反論
  9 他人の心を知る知について
  10 結び
 3 『唯識三十頌』
  1 識の転変
  2 唯だ識のみである
  3 唯識の修行過程

Ⅳ ヴァスバンドゥ以後
 1 インドにおける発展
 2 中国における発展
 3 日本における発展
 4 西洋思想とヴァスバンドゥ
  1 西洋と仏教思想
  2 ヴァスバンドゥと西洋思想

学術文庫版へのあとがき (横山紘一)

仏教関係年表




◆本書より◆


「Ⅱ―1 『倶舎論』における思想」より:

「仏教では行為のことを業(karman)といい、内容的に身業と語業と意業とにわける。身業とは身体による行為、語業は言葉による行為、意業は意志としての行為をそれぞれいう。意志のことを思(し)(cetanā)ともよぶから、意業は思業ともいわれる。」
「意業すなわち精神的行為はその本質が意志すなわち思(し)であることから思業とよばれる。これに対して身体的行為(身業)と言語的行為(語業)とほあ、意志によってひきおこされたものであるから、思已(しい)業とよぶ。」
「身業は身体的行為であるから眼で見ることができる。語業は言語的行為であるから音声を耳で聞くことができる。このように身業と語業とは知覚されうる顕在的行為であることから両者を「表業」とよぶ。
 ところで説一切有部は刹那消滅説をとって、あらゆる存在は生じた刹那に滅してゆくと考える。身業と語業もその例外ではない。ところが業は未来の結果を生ずる原因であるから、刹那に滅してゆく業は身心のなかになんらかの影響力あるいは残気をとどめていることになる。この、具体的には知覚されえないが、しかし身心に植えつけられた業の残気を「無表業」とよぶ。しかも説一切有部はそれを地・水・火・風の四元素からなる物質的なるものと考えて「無表色」とも名づける。」
「ところが、ヴァスバンドゥが支持する経量部説ではこのような物質的な無表業をみとめない。そのかわりに「種子(しゅうじ)という概念によって行為の潜在的な残気を表わす。すなわち、説一切有部では身業は「身体の形」、語業は「音声」という、いわば物質的なるもの(色)を本質とするという立場より、その二つの業にょって熏(くん)じつけられる残気もやはり物質的なるものと考えた。これに対して経量部は身業と語業の本質を意志(思)とみる立場より、二業すなわち思によって熏じつけられた種子は心的なものであると考えた。」



「Ⅱ―2 唯識論書における思想」より:

「唯識(vijñapti-mātra)という用語は、「唯(た)だ識のみが存在する」という瑜伽行(ゆがぎょう)唯識派の一大命題を表わすことばである。」
「「唯識」という用語がはじめて用いられたのは『解深密経(げじんみつきょう)』「分別瑜伽品」である。そこではヨーガすなわち止観の観(毘鉢舎那(びばしゃな))を行ずる瑜伽行者の心に現われる影像(ようぞう)が、心そのものであるのか、心と異なったものであるのかという問いに対して、
 「異なっていない。なぜなら、その影像は唯だ識であるから」
と説かれる。このようにヨーガの体験を描写するなかで、はじめて「唯識」という語があらわれている点に注目しなければならない。唯識という考えの成立には『華厳経』の「三界は唯心なり」という考えが大きく影響を与えたといわれる。事実、ヴァスバンドゥも『唯識二十論』の冒頭にこの『華厳経』の一文を引用して教証としている。しかし、それに加えて具体的には「ヨーガを修する心に現われてくる影像は唯だ識にすぎない」というヨーガ実践によって得られた体験こそが「唯識」という思想を生みだした根源力であろう。」
「『解深密経』では「毘鉢舎那中の影像は唯だ識のみである」といい、つづいて「色等として顕現する心の影像にして自性に住するものも、また心と異ならず、唯だ識のみである」という趣意のことを述べている。色等として顕現する心の影像とは、いろや形をした具体的な表象をいい、自性に住する影像とは、ヨーガの実践において有意的に作りだされた影像をいうのではなく、通常の感覚・知覚にあらわれてくる観念をいう。したがってそれらが心と異ならず、唯だ識のみにすぎないという言明のうちには、外界に事物が存在していないという見解が暗に意図されているといえよう。だが、そのような意識はいまだ表面には出ておらず、しかも「唯だ識のみで境は存在しない」(唯識無境)という表現もみとめられない。
 「唯識無境」という思想が、表現的にも、また内容的にも確立したのはアサンガの『摂大乗論』においてである。すなわち「境(事物)は存在しないのに、唯だ識が境として顕現する」「これら諸(もろもろ)の識は境が存在しないから唯識である」などと説かれる。」
「ヴァスバンドゥもアサンガのこの考えをうけつぎ、自著の『唯識二十論』のなかで「それは唯識である、無境として顕現するから」(vijñapti-mātram evaitad anarthâvabhāsanāt)と述べ、また「無境なる識」(vijñaptir anarthā)という表現もあり、かれが唯識無境を強調したことが判明する。
 ヴァスバンドゥは『唯識三十頌』のなかで「唯識」という概念に対する思索をさらに深めた。」
「唯識という用語が「唯識」と「唯識性」という二通りに使いわけられていることが判明する。すなわち、
 (1)「一切は唯識である」という判断において用いられる唯識
 (2)「唯識性に住する」という一つの修行の過程、心的境界を表わす場合に用いられる唯識性」
「このようにヴァスバンドゥが「唯識」と「唯識性」とを表現的にも内容的にも区別したところに、従来にみられなかった思想的発展をみとめることができる。」
「「唯識」という概念を用いての修行は、マイトレーヤの『中辺分別論』(「相品」第六頌)を経て、ヴァスバンドゥによって完成されたといえよう。
 とにかく、まずは「一切は唯識である」ということばによる判断を一つの手段として止観という三昧を深めてゆくと、その唯識という判断さえも消滅する、あるがままの真実の世界(真如)に突入する。この境界を「唯識性」という語で表現する。」



「Ⅲ―3 『唯識三十頌』」より:

「アーラヤ識は深層心理であるから、日常の意識ではその活動を知覚することができない。」
「アーラヤ識の活動を知覚しようとするならば、ヨーガを実践し、表層的心理をしずめ、その底に働く微細な心的活動を感知しなければならない。それは根源的なアーラヤ識の世界に目覚めることであり、感覚・知覚される日常的自然の奥にひそむ真の自然にふれることでもある。」

「〈またそれ(アーラヤ識)は〔汚れに〕覆われておらず、〔善とも悪とも〕記別されない〉とは、術語的にいえばアーラヤ識が「無覆(むぶく)無記」であることをいう。仏教では存在するものを価値的につぎの四つに分類する。
  (1)善なるもの (善)。
  (2)悪なるもの (悪)。
  (3)汚れに覆われているが善とも悪とも記別されないもの (有覆(うぶく)無記)。
  (4)汚れに覆われておらず善とも悪とも記別されないもの (無覆(むぶく)無記)。
 アーラヤ識は価値的にはこのうち第四番のものに属する。まず善とも悪とも記別されない(avyākr ̣ta 無記)ということについて説明してみよう。アーラヤ識は前世の善い行為(善業)あるいは悪い行為(悪業)を原因として今世に形成されたものであるが、その形成にあずかった(引用者注: 「形成にあずかった」に傍点)善業あるいは悪業はその影響力をつかいつくし、もはや今世のアーラヤ識にはなんの力をももたない。これを逆にアーラヤ識の側からみれば、その本性は善でも悪でもない、すなわち無記であることになる。仏教は善業あるいは悪業のみが来世のあり方を決定する力をもつと考える。したがってアーラヤ識が無記であるということは、アーラヤ識そのもの(引用者注: 「そのもの」に傍点)は、もはや来世を規定する力をもたないということになる。来世を規定するのはこの世で行なう善業あるいは悪業である。われわれの根本心であるアーラヤ識が善でも悪でもないからこそ、われわれは悪から善へと自己を変革することができるのである。アーラヤ識そのもの(引用者注: 「そのもの」に傍点)が悪であれば、われわれは根底から悪であり、もはや救済の余地がない。アーラヤ識が善であるならば、われわれはすでに解脱しており修行する必要がない。」
「アーラヤ識とともに働くのは(中略)触知などの五つの心作用だけである。ところでそれら五つは汚れたこころ(煩悩)ではないから、アーラヤ識は汚れに〈覆われていない〉(a-nivr ̣ta 無覆(むぶく))という。汚れに覆われたもの(有覆(うぶく))は「解脱に達するための聖なる修行」(聖道)をさまたげるが、アーラヤ識はそのようなものではない。われわれの根本心はけっして修行のさまたげになるようなものではないとみる。」

「〈暴流のように、流れて存在する〉とは、河の流れは、つぎつぎと新たな水が流れつつ、一つの同じ河として存在しつづけるように、アーラヤ識も刹那に生じては滅しつつ、つぎつぎと不断に相続してゆくありさまをいう。アーラヤ識は自己の根底をなすこころであり、あらゆる存在を形成する根源体である。このようにいえば、それは、一定の不変の実体的自己が存在するように思われる。」
「だがアーラヤ識はそのような固定的・実体的自我ではなく、一瞬一瞬、生じては滅し、滅しては生ずる相続体にすぎないという。」
「河の水は上層に草木などの漂流物を浮かべ、下層に魚などをおよがせつつ流れつづけるように、アーラヤ識は、あらゆる種子を維持しつつ、かつ触知などの心作用をともないつつ、生死輪廻するかぎり活動しつづけるのである。」
「アーラヤ識がアーラヤ識として活動しつづけるかぎり、われわれは生死をくりかえして輪廻しつづける。したがってアーラヤ識は修行の過程において滅せられなければならない。アーラヤ識はいつ消滅するかといえば、(中略)阿羅漢の位においてである。〈阿羅漢〉(arhat(アルハット))とは小乗仏教でとく最高の聖者の位である。もはや学ぶべきものがなにもなくなった修学完成の位であるから「無学」ともいう。」
「阿羅漢位においてアーラヤ識が〈消滅する〉(vtāvr ̣tti 捨)とは具体的にはいかなることなのか。それは、アーラヤ識のなかの「潜在的悪」(dauṣṭhulya 麁重(そじゅう))がことごとく断じつくされることである。「潜在的悪」とは煩悩をひきおこす潜在的力(種子)である。それが現実化すれば、身体とこころとを束縛し、所期の目的に向かって自由に軽快に行動できなくなるような力である。阿羅漢になればそのような潜在的な悪の力が自己のこころの根底からのぞきとられてしまうのである。そこをアーラヤ識が消滅するという。」
「アーラヤ識のなかから汚れを徐々にとりのぞき、自己を自己の根底からまったく汚れなき無垢の状態に磨きあげること――これが瑜伽行唯識派のめざす最大の目的である。」





こちらもご参照ください:

中村元 『龍樹』 (講談社学術文庫)








































三枝充悳 『中論 ― 縁起・空・中の思想』 (レグルス文庫) 全三冊

三枝充悳 
『中論
― 縁起・空・中の思想 
(上)』
 
レグルス文庫 158

第三文明社 
1984年3月15日 初版第1刷発行
2002年7月31日 修訂版第5刷発行
viii 265p(p. 1―p. 265)
新書判 並装 カバー
定価800円+税


三枝充悳 
『中論
― 縁起・空・中の思想 
(中)』 

レグルス文庫 159

第三文明社 
1984年3月15日 初版第1刷発行
1998年5月30日 修訂版第3刷発行
xiv 245p(p. 267―p. 512)
新書判 並装 カバー
定価780円+税


三枝充悳 
『中論
― 縁起・空・中の思想 
(下)』
 
レグルス文庫 160

第三文明社 
1984年3月15日 初版第1刷発行
1998年5月30日 修訂版第3刷発行
xiv 269p(p. 513―p. 782)
新書判 並装 カバー
定価780円+税



本書「解題」より:

「『中論』という書名は、龍樹造 梵志青目(ぼんししょうもく)釈のテクストを、鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマーラジーヴァ Kumarajiva 以下に羅什ときには什と略す)が漢訳したさいに名づけたものであって、原名そのものではない。」
「この拙著は、(中略)
  青目釈羅什訳『中論』
の全文を書き下して、その本文とする。」



右ページに書き下ろし文、左ページに「註」と、本文のうち「偈(頌)」の部分の漢文とそれに相当するサンスクリット文およびその邦訳が掲載されています。


中論


上巻 カバー文:

「初期大乗仏教の確立者龍樹の主著「中論」の本格的なテクスト(全3冊)」


上巻 カバー裏文:

「龍樹がその基本思想を縦横に述べた主著『中論』は、本書の副題に掲げた「縁起・空・中」をどこまでも徹底して解明し、ヤスパースと山内得立の両碩学も、もっぱら『中論』によって龍樹を論究した。
 それほど重大な『中論』が、わが国では、仏教研究者に必読の書でありながら、他本を混じえての漢訳テクストの書き下し文が、古い『国訳大蔵経』(論部五巻、一九二一年)と『国訳一切経』(中観部第一巻、一九三〇年)の叢書中の一巻に限られていた情況その他から、読書界にはほとんど紹介されていない。
――(はしがき)より」



中巻 カバー文:

「中巻では縁起の相依性を明かした「火と薪との考察」などが説かれる」


中巻 カバー裏文:

「龍樹(ナーガールジュナ、紀元一五〇~二五〇ごろ)は、初期大乗仏教の確立者として、少しでも仏教に関心をもつものには、最もよく知られている。それは、龍樹以降に、仏教がいちじるしい展開と拡大とをとげたなかで、そのことごとくが、強く、深く、ときにはきわめて激しく、龍樹の影響を受けている事情にもとづく。
 それは、インドはもとより、中国、日本、チベットなどの東アジア全体に遍満し、古来わが国では、龍樹を「八宗の祖」(あらゆる諸宗派の祖)として崇め、現在にいたる。
 龍樹の名は、仏教圏のみにとどまらず、いまや全世界にあまねく………
(はしがき)より」



下巻 カバー文:

「下巻では空仮中の三諦、如来・涅槃などの仏教の基本思想が説かれる」


下巻 カバー裏文:

「龍樹の説は、しいて一言であらわすならば、空と中の思想とされるであろう。それには縁起思想の徹底的な探究が伴われており、それらがこの『中論』の全編に行きわたっている。
 龍樹の時代は、一方に、強力な説一切有部を柱とし、そのほか正量部などをふくむいわゆる小乗の強固な教学体系が整備され、他方に、新興の初期大乗仏教運動のさなか、とくに般若系ほかの諸経典の成立を迎えている。また、正統バラモンの教えはヒンドゥイズムへの展開を遂げ、インド哲学の諸派の体系も形成を終え、ないし形成されつつあった。
――(解題)より」



上巻 目次:

はしがき

解題
 第一章 龍樹
  一 生涯とその影響
  二 著述
 第二章 『中論』
  一 書名
  二 構成
  三 『中論』の諸テクスト
  四 『中論』諸テクストの比較検討
  五 青目
  六 鳩摩羅什

略号表
凡例

中論巻第一
 釈僧叡序
 観因縁品第一(pratyaya 「縁」)
 観去来品第二(gatāgata 「去ることと来ることと」)
 観六情品第三(cakṣurādīndriya 「眼などの認識能力(根)」)
 観五陰品第四(skandha 「集合体(蘊)」)
 観六種品第五(dhātu 「要素(界)」)
 観染染者品第六(rāgarakta 「貪りと貪る者と」)
中論巻第二
 観三相品第七(saṃskṛta 「つくられたもの(諸現象、有為)」)



中巻 目次:

略号表
凡例

 観作作者品第八(karmakāraka 「行為(業)と行為者(作者)と」)
 観本住品第九(pūrva 「先行するもの」)
 観燃可燃品第十(agnīndhana 「火と薪と」)
 観本際品第十一(pūrvaparakoṭi 「〔輪廻の〕前後の究極」)
 観苦品第十二(duḥkha 「苦」)
 観行品第十三(saṃskāra 「〔潜在的〕形成作用(行)」)
 観合品第十四(saṃsarga 「結合」)
中論巻第三
 観有無品第十五(svabhāva 「自性(固有の実体)」)
 観縛解品第十六(bandhanamokṣa 「繋縛と解脱と」)
 観業品第十七(karmaphala 「業と果報と」)
 観法品第十八(ātman 「アートマン(我、主体)」)
 観時品第十九(kāla 「時」)



下巻 目次:

略号表
凡例

 観因果品第二十(sāmagrī 「集合」)
 観成壊品第二十一(saṃbhavavibhava 「生成と壊滅と」)
中論巻第四
 観如来品第二十二(tathāgata 「如来」)
 観顚倒品第二十三(viparyāsa 「顚倒」)
 観四諦品第二十四(āryasatya 「聖なる真理(〔四〕聖諦)」)
 観涅槃品第二十五(nirvāṇa 「ニルヴァーナ(涅槃)」)
 観十二因縁品第二十六(dvādaśāṅga 「十二支〔縁起〕」)
 観邪見品第二十七(dṛṣṭi 「誤りの見解(邪見)」)

あとがき




◆本書より◆


「観因縁品第一」より:

「不生亦不滅(ふしょうやくふめつ) 不常亦不断
不一亦不異 不来亦不出
(不生にして亦た不滅 不常にして亦た不断
不一にして亦た不異 不来にして亦た不出なる)
能く是の因縁(いんねん)を説き 善く諸(もろもろ)の戯論(けろん)を滅す
我れ稽首(けいしゅ)して礼(らい)す 仏を 諸説中第一なりと」

「不生亦不滅 不常亦不断
不一亦不異 不来亦不出
能説是因縁 善滅諸戯論
我稽首礼仏 諸説中第一」

「anirodhamanutpādamanucchedamaśāśvatam /
anekārthamanānārthamanāgamamanirgamam //
yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ śivam /
deśayāmāsa saṃbuddhastaṃ vande vadatāṃ vara //」

「〔何ものも〕滅することなく(不滅)、〔何ものも〕生ずることなく(不生)、〔何ものも〕断滅ではなく(不断)、〔何ものも〕常住ではなく(不常)、〔何ものも〕同一であることなく(不一義)、〔何ものも〕異なっていることなく(不異義)、〔何ものも〕来ることなく(不来)、〔何ものも〕去ることのない(不去)〔ような〕、
〔また〕戯論(けろん)(想定された議論)が寂滅しており、吉祥である(めでたい)、そのような縁起を説示された、正しく覚った者(ブッダ)に、もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として、私は敬礼する。」





こちらもご参照ください:

中村元 『龍樹』 (講談社学術文庫)









































































































中村元 『龍樹』 (講談社学術文庫)

「捨てられることなく、〔あらたに〕得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。――これがニルヴァーナであると説かれる」
(ナーガールジュナ 『中論』 より)


中村元 
『龍樹』
 
講談社学術文庫 1548

講談社 
2002年6月10日 第1刷発行
2010年4月20日 第22刷発行
459p
文庫判 並装 カバー
定価1,400円(税別)
カバーデザイン: 蟹江征治


「本書は、小社刊「人類の知的遺産」シリーズ13の『ナーガールジュナ』(一九八〇年刊)を底本としました。」



本書「まえがき」より:

「仏教の伝統的用語では「空(くう)」の思想を「空観(くうがん)」とよぶ。空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。この思想は、すでに原始仏教において説かれていたが、大乗仏教の初期の『般若(はんにゃ)経』ではそれをさらに発展させ、大乗仏教の基本的教説とした。その後この空観を哲学的・理論的に基礎づけ、大乗仏教の思想を確固たるものにしたのが龍樹(りゅうじゅ)(以下、ナーガールジュナ)である。このためナーガールジュナは仏教史においてひときわ重要であり、わが国では「八宗の祖師」と仰がれている。
 ナーガールジュナは第Ⅲ部で紹介するように多くの著作を残している。その中で代表的著作は『中論』であるが、同書の思想はインドの深い哲学的思索が生み出したものの中でも最も難解なものの一つとされている。したがって本書では、第Ⅰ部に「生涯」をおき、ナーガールジュナの全体像をあらかじめ浮かびあがらせることにつとめ、第Ⅱ部に「思想」をおき、『中論』を中心にかれの思想を詳述することにした。また第Ⅲ部の「著作」で、『中論』の現代語による全訳を試みたが、それを読んだだけでは、『中論』をとうてい理解することはできない。第Ⅱ部で多くの紙数を費やした理由はここにある。」
「第Ⅱ部「思想」についての論稿は近年、雑誌『現代思想』に連載したが、このたびこのシリーズの趣旨に合うように、さらに加筆した。」



巻頭に図版・地図各1点。巻末の「インド仏教史」は年譜。文献は二段組。


中村元 龍樹 01


カバー裏文:

「一切は空である。あらゆるものは真実には存在せず、見せかけだけの現象にすぎない。仏教思想の核心をなす「空」の思想は、千八百年前の知の巨人龍樹により理論化された。インド・中国思想に決定的影響を与え、奈良・平安仏教でも「八宗の祖師」と讃えられたその深く透徹した思考が、仏教学・インド哲学の世界的権威の手で、『中論』全文とともに今甦る。」


目次:

まえがき

Ⅰ ナーガールジュナ(龍樹)の生涯
 はじめに
 1 『龍樹菩薩伝』
 2 プトンの伝えるナーガールジュナの生涯
 3 ターラナータの伝えるナーガールジュナの伝記
 4 結語
Ⅱ ナーガールジュナの思想――『中論』を中心として
 1 大乗仏教の思想
 2 空観はニヒリズムか
 3 論争の相手
  1 論争の相手となった哲学派
  2 説一切有部の立場
   (1) 有部における法の概念
   (2) 実有の意義
   (3) 「一切」の意義
   (4) 恒有の意義
 4 空の論理
  1 否定の論理の文章をいかに理解すべきであるか
  2 運動の否定の論理
 5 論争の意義
  1 「有」の主張に対する批判
  2 不一不異
  3 不生不滅
  4 不断不常
  5 『中論』における否定の論理の歴史的脈絡
  6 否定の論理の比較思想論的考察
  7 否定の論理の目的としての〈縁起〉の解明
 6 縁起
  1 『中論』の中心思想としての縁起
  2 アビダルマの縁起説
  3 『中論』における「縁起」の意義
   (1) 縁起の語義
   (2) 相互依存
  4 従来の縁起説との関係
  5 不生
  6 否定の論理の代表としての〈八不〉
  7 無我
 7 空の考察
  1 空と無自性
   (1) 空および無自性の意義
   (2) 縁起・無自性・空の三概念の関係
  2 中道と空見――「三諦偈」の解釈に関連して
   (1) 中道
   (2) 中道の意義
   (3) 空見の排斥
 8 否定の論理の実践
  1 ニルヴァーナ
  2 ブッダ
  3 縁起を見る
Ⅲ ナーガールジュナの著作
 著作概観
  1 『中論』
  2 『大乗についての二十詩句篇』
  3 『大智度論』
  4 『十住毘婆沙論』
  5 『親友への手紙』
Ⅳ ナーガールジュナ以後
 1 ナーガールジュナの思想の流れ
 2 比較思想からみたナーガールジュナ

インド仏教史
文献案内



中村元 龍樹 02



◆本書より◆


「はじめに」より:

「大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空(くう)(śūnyatā)の観念を基礎づけた。」
「大乗仏教、とくにナーガールジュナを祖とする中観(ちゅうがん)派の哲学者たちは次のように主張した。――何ものも真に実在するものではない。あらゆる事物は、見せかけだけの現象にすぎない。その真相についていえば空虚である。その本質を「欠いて」いるのである。無も実在ではない。あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて起こるのである。〈空〉というものは無や断滅ではなくて、肯定と否定、有と無、常住と断滅というような、二つのものの対立を離れたものである。したがって空とは、あらゆる事物の依存関係(relationality)にほかならない。」
「ナーガールジュナの思想の根本はこの〈空〉の思想である。これは、すでに大乗仏教の般若(はんにゃ)経典の中に空観(くうがん)ということが述べられていたが、それの発展したものである。」



「Ⅱ」より:

「空観(くうがん)とは、一切諸法(あらゆる事物)が空(くう)であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。すでに原始仏教において、世間は空であると説かれていたが、大乗仏教の初期につくられた般若(はんにゃ)経典ではその思想を受けてさらに発展せしめ、大乗仏教の基本的教説とした。」
「当時、説一切有部(せついっさいうぶ)などのいわゆる小乗諸派が法の実有(じつう)を唱えていたのに対して、それを攻撃するために特に否定的にひびく〈空〉という語を般若経典は繰り返しも用いたのであろう。
 それによると、われわれは固定的な「法」という観念を懐(いだ)いてはならない。一切諸法は空である。何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、「無自性(むじしょう)」であるから、本体をもたないものは空であるといわねばならぬからである。そうして、諸法が空であるならば、本来、空であるはずの煩悩などを断滅するということも、真実には存在しないことになる。」
「実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。(中略)菩薩は無量無数無辺の衆生を済度(さいど)するが、しかし自分が衆生を済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。かれにとっては、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、救われて到達する境地も空である。また身相(身体的特徴)をもって仏を見てはならない。あらゆる相はみな虚妄であり、もろもろの相は相に非ず、と見るならば、すなわち如来を見る。かかる如来には所説の教えがない。教えは筏(いかだ)のようなものである。衆生を導くという目的を達したならば捨て去られる。」

「『中論』の主要論敵は何といっても説一切有部(せついっさいうぶ)であろう。(中略)中観派は自己の反対派を概括して自性(じしょう)論者、または有自性(うじしょう)論者と総称している。それは事物または概念の「自性」すなわち自体、本質が実在すると主張する人々である。」

「仏教哲学は「法」の哲学であるとは、すでに諸学者の認めるところであり、仏教思想は、つねに法に関する思索を中心として発展している。これに対して大乗仏教、たとえば『中論』は「法有(ほうう)」に対して「法空(ほつくう)」を主張したのであると解せられている。」
「法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるといわれている。そうしてこれはインド一般に通ずる用例であり、これがもととなってさらに種々の意義がこの語に附加されている。
 パーリ語聖典において用いられている法の意義は種々あるが、その中で純粋に仏教的な用法はただ一つで、他の用法はインド一般に共通であるといわれている。すなわち、パーリの註釈でいう nissatta または nissattanijjīvata がそれであり、ドイツのW・ガイゲルはこれを「もの」(Unbelebtes, Ding, Sache)と訳している。また日本でも伝統的に法とは「もの」「物柄」であると解釈されている。」

「法とは自然的存在を可能ならしめているありかたであり、存在をその存在たらしめるもとのものである。」
「有部は「もの」の実在を主張したといわれるが、その「もの」とは、それ自身の本質(自相)の意味であるとは『倶舎論』の註釈者であるヤショーミトラのしばしばいうところであり、したがって経験的事物と混同することはできない。「もの(引用者注: 「もの」に傍点)が実在する」というのも「それ自身の本質について」有るという意味であり、自然的存在として実在するのではないのであろう。」
「この「もの」というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」であることに注意せねばならぬ。」
「したがって有部は一切の「もの」の実在を主張したといわれ、もし法あるいはその本質(自性・自相)が「もの」という語で書き換えられているとしても、有部はけっして自然的存在としての「もの」の実在を主張したのではない。存在(もの)をあらしめる「ありかた」を「もの」とみて、すなわち「もの」の本質を実体とみなしたのである。」
「『中論』は論争の書である。」
「その痛烈な論法は誤解を招きやすいが、『中論』はけっして従前の仏教のダルマの体系を否定し破壊したのではなくて、法を実有(引用者注: 「実有」に傍点)とみなす思想を攻撃したのである。概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在(引用者注: 「超越的実在」に傍点)と解する傾向を排斥したのである。(中略)西洋中世哲学史における類例を引いてくるならば、実念論(realism, Begriffsrealismus)的な思惟を排斥しているのである。」

「『中論』は最初は縁起をもって説き始め、最後も縁起をもって要約している。それでは、『中論』全体が縁起を説いているといいうるのではなかろうか。チャンドラキールティの註によれば、「一切のものが縁起せるが故に空であるということが、『〔中〕論』全体によって証明されている」という。」
「『中論』の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)の意味であると考えられている。」
「要するに諸法は互いに相依っているのであり、(中略)もろもろの存在の「相依」「互いに相依っていること」「相依による成立」を主張するのが『中論』の中心問題なのであった。」

「中国の華厳(けごん)宗は一切法が相即円融(そうそくえんゆう)の関係にあることを主張するが、中観派の書のうちにもその思想が現われている。すなわちチャンドラキールティの註解においては、「一によって一切を知り、一によって一切を見る」といい、また一つの法の空は一切法の空を意味するとも論じている。」
「このように一と一切とは別なものではない。極小において極大を認めることができる。きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる。各部分は全体的連関の中における一部分にほかならないから、部分を通じて全体を見ることができる。実に『中論』のめざす目的は全体的連関の建設であった。
 このように解するならば『中論』の説く縁起と華厳宗の説く縁起とはいよいよもって類似していることが明らかである。従来、華厳宗の法界縁起説は全く中国において始めて唱え出されたものであり、縁起という語の内容を変化させて、時間的観念を離れた相互関係の上に命名した、と普通解釈されてきたが、しかし華厳宗の所説はすでに三論(さんろん)宗の中にも認められるのみならず、さかのぼって『中論』のうちに見出しうる。『中論』の縁起説は華厳宗の思想と根本においてはほとんど一致するといってよい。」

「いまチャンドラキールティの註についてみるに、チャンドラキールティにとっては、生起は虚妄であり、縁起は真理であり、生起と縁起とは正反対の概念であった。また諸事象の生起が成立しないが故に縁起が成立するというのであるから、「不生」がすなわち縁起の真意である。この点において、縁起を「縁によって起こること」となす小乗仏教一般(中略)の解釈と、「不生」と解するチャンドラキールティの解釈とは正反対である。」
「要するにナーガールジュナを始めとして中観派の諸哲学者は、「自生」「他生」「共生(ぐうしょう)」「無因生」という生起のあらゆる型を否定することによって縁起を成立せしめようとしたのであった。
 縁起に生起の意味が含まれていないことはナーガールジュナの他の著書からみても明瞭である。」
「ともかく、(中略)われわれの現実に経験し、われわれがそのうちに生存しているところの現象世界においてはもろもろの事物が生滅変遷する。しかしそれは仮のすがたであって、真実には生滅ということはありえないというのである。」
「「諸法の不生」ということは『般若経』のうちにくりかえし説かれているところであるが、縁起を不生と解する思想は最初期の仏教にまでさかのぼりうる。ブッダは苦または苦楽あるいは十二支のひとつひとつについて、それが自ら作られたものでもなく、他のものによって作られたものでもなく、自作にしてまた他作のものでもなく、自作にも非ず他作にも非ざる無因生のものでもなく、実に縁起せる(引用者注: 「縁起せる」に傍点)ものにほかならぬと説いたという。
 したがって縁起が時間的生起の関係を意味するのではないという思想は最初期の仏教に由来する点もあるということは明瞭である。そうして『中論』はまさしくこの問題を取り上げたのである。」

「中観派によれば空性とは縁起の意味であるという。」
「空といい無自性といっても、ともに「縁起」を意味しているのであるから、空観はしばしば誤解されるようにあらゆる事象を否定したり、空虚なものであるとみなして無視するものではなくて、実はあらゆる事象を建設し成立させるものである。」

「『中論』においては空が縁起の意味であり、また縁起と中道が同義であるから、さらに中道と空とは同一の意味である。」
「要するに空とは有無の二つの対立的見解を離れた中道の意味であるといいうる。」

「西洋近世の哲学は、大まかにいえば、自我の自覚に立って自我を追求する運動の歴史である。したがって最初の、そして最後の問題は常に主観と客観との対立であった。ところが仏教は最初から主観と客観との対立を排除した立場に立って、「ありかた」としての種々の法を説いたのであるが、有部はその法を実有と見なし、中観派はこれを空と説いた。その両者ともに有と無との対立と関連している。」
「一般に主観と客観との対立をはなれて、「ありかた」「本質」などを問題とする存在論(Ontologie)的哲学は必ずその窮極において有と無との対立につき当たる。いま、右の『中論』の説明をみるに、主観対客観の問題よりも、いわば「ありかた」の「ありかた」としての有と無との対立の問題のほうが一層根底的なものとみなされていたことがわかる。
 有と無とはいわば「ありかた」の「ありかた」とでもいうべきものであって、これを他の「ありかた」によって規定することは不可能である。もしも「有」を何とか説明しようとするならば必ず「無」という概念を必要とする。また「無」を何とか規定しようとするならば、「無」は「無」であるが故に、もはや「無」ではなくて「有」とならねばならぬ。
 故にわれわれが有対無の問題を解決しようとして努力するとしても、やはり有と無との対立にとらわれることになるから、問題はすこしも解決されない。実に有と無との対立はわれわれののがれることのできない宿命である。一切の立論はその根本に有と無との対立を予想しているから、「有無は是れ衆見之根なり」といわれている。
 中観派はこの問題に関して非有非無の中道を説いた。」
「要するに有と無とはそれぞれ独立には存在しえないで、互いに他を予想して成立している概念であるというのである。すなわち、有と無との対立という最も根本的な対立の根底に「相互依存」「相互限定」を見出したのであった。故に非有非無とは相互依存説(相互限定説)に立って始めていいうることであり、無自性および空という二つの概念が縁起から導き出されるのと同様に、中道の概念もまた中観派特有の「相互限定」という意味における縁起に基礎づけられていることを知る。」
「このように最も根本的な対立としての有と無とが否定される以上、あらゆる対立について同様に考えねばならない。」
「そうして中観派によるとブッダはこの中道に立ち、相対立した二つの立論に関し完全な沈黙を守るから牟尼(むに)(寂黙(じゃくもく))であると説かれている。
 またこの中道は、対立の排除という意味において「不二(ふに)」ともよばれている。したがってチャンドラキールティは中観派は不二論者であるといい、「有と無との二論を排斥することによって、われわれはニルヴァーナの城に赴く不二の路を明らかにする」と説いている。」

「ナーガールジュナによると、ニルヴァーナは一切の戯論(形而上学的論議)を離れ、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。したがって、ニルヴァーナを説明するためには否定的言辞をもってするよりほかにしかたがない。
 「捨てられることなく、〔あらたに〕得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。――これがニルヴァーナであると説かれる」」
「それでは互いに相依って成立している諸事象とニルヴァーナとはどのような関係にあるのであろうか。『中論』をみると、
 「もしも〔五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を〕取って、あるいは〔因縁に〕縁って生死(しょうじ)往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを凡夫(ぼんぷ)の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
 輪廻というのは人が束縛されている状態であり、解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
 故に輪廻とニルヴァーナとは別のものではなく、「等しきもの」であり、両者は本来同一本質(一味(いちみ))である。」
「この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである。
 人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。
 故に中観派は縁起している諸事物の究極にニルヴァーナを見出したのであるから、諸事物の成立を可能ならしめている相依性を意味する諸法実相がすなわちニルヴァーナであるとも説かれている。」
「さらにニルヴァーナは空であるとも説かれている。空は「諸法の究竟の相」であるから、前と同様の意味において「空即ニルヴァーナ」といいうるであろう。
 このようにニルヴァーナは種々に説明されているけれども、その趣意はみな同一である。われわれの現実生活を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を、無明(むみょう)に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。」
「これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながらも生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。」
「ニルヴァーナに入るということ自体が実際には存在しないのである。」
「したがってわれわれはニルヴァーナに入るということに執著してはならない。」
「「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛もなく、解脱もない」と思うときに解脱がある。」

「要するに縁起説の意味する実践とは、われわれの現実生存の如実相である縁起を見る(引用者注: 「見る」に傍点)ことによって迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(とうしょうがくしゃ)(ブッダ)となるであろうという趣旨のもとに、無上等正覚を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている。」
「この縁起の如実相を見る智慧が〈明らかな智慧〉(prajñā 般若)である。」
「般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、要するに諸法が互いに相依って起こっているという縁起の如実相を見る(さとる)ところの智慧であるといってさしつかえないであろう。」
「この般若によって縁起を見るならば、無明(むみょう)が断ぜられる。」
「無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する。したがって無明を断ずることが可能なのである。
 ここにおいて縁起の逆観が基礎づけられていることを知る。無明が滅するが故に十二因縁の各項がことごとく滅しうることとなる。」
「そこで問題が起こる。縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく滅することとなるのであろうか。ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老(引用者注: 「老」に傍点)い、かつ死(引用者注: 「死」に傍点)んだ。この矛盾をナーガールジュナはどのように解していたであろうか。
 『中論』にはこの解答は与えられていない。しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。(中略)しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現われる。
 したがって覚者の立場から見た諸事象は、凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定(引用者注: 「否定」に傍点)である。したがって自然的存在としての覚者には何らの変化が起こらなかったとしても、十二因縁の各項がことごとく減するという表現が可能であったのであろう。
 この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期の仏教において説かれている。ナーガールジュナはこれを受けて、その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、この点においてもナーガールジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。」



「Ⅲ」より:

『中論』第二五章より:

「〔ニルヴァーナとは〕一切の認め知ること(有所得(うしょとく))が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこにおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。」




こちらもご参照ください:

三枝充悳 『中論 ― 縁起・空・中の思想』 (レグルス文庫) 全三冊




















































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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