佐々木宏幹 『シャーマニズム』 (中公新書)

「魂はこの地からさらにほかの地に行き、さらに別の地に行くというように移動を重ねるうちに、小鳥、羽虫とだんだん小さくなり、ついに塵埃の一つに化す。」
(佐々木宏幹 『シャーマニズム』 より)


佐々木宏幹 
『シャーマニズム
― エクスタシーと憑霊の文化』

中公新書 587

中央公論社 
1980年9月25日 初版
1992年3月25日 6版
iv 222p 
新書判 並装 カバー 
定価640円(本体621円)



本書「あとがき」より:

「本書では、シャーマニズムを汎世界的な現象と見なそうとする最近の研究傾向を踏まえ、人類学的視点からシャーマニズムの特質や性格、機能に関する、諸研究者の仮説や解釈を整理するとともに、各地の諸現象・形態にシャーマニズムとしての共通項を求めようとしている。従来のシャーマニズム論は、多かれ少なかれ北東アジア、シベリアのシャーマニズムに準拠して、他地域の類似現象を取り扱うという傾向があった。これにたいして本書では、日本、東南アジア、南アジアのシャーマニズムに焦点を据え、これにその他の地域を関連させるという手法をとっている。」
「シャーマニズムは巨大で複雑な文化であり、本書はその特徴の若干を掘り起こしたにすぎない。」



本文中図版(モノクロ)多数。


佐々木宏幹 シャーマニズム 01



カバーそで文:

「神霊・精霊・死霊など超自然的な存在に直接かかわり、これを強力に体現する最も典型的な呪術――宗教的職能者がシャーマンである。この職能者を中心とした信仰と儀礼の体系に宗教人類学的なアプローチを試み、その構造と機能上の特色を見出す。特に、シャーマニズムを汎世界的な現象と見る立場から、各地の諸現象・形態にその共通項を求めようとする。多彩な資料に基づき、従来の諸説を再検討し、新しい枠組を提示した意欲作。」


目次:

Ⅰ 生き神 (シャーマン) の諸相
 シンガポールの生き神・童乩(タンキー)
 奄美の生き神・ユタ
 他界に飛翔する生き神・シャーマン
 シャーマンの呪術 - 宗教的特質

Ⅱ シャーマニズムとは何か
 「シャーマン」の語の由来
 若干の定義をめぐって
 憑霊=ポゼッション
 脱魂=エクスタシー
 脱魂・憑霊とトランス
 トランス・憑霊・霊媒術・シャーマニズム

Ⅲ “憑霊”の構造
 さまざまな憑霊現象
 自発的憑霊と非自発的憑霊
 シャーマニックな憑霊の構造

Ⅳ シャーマニズムの世界観
 アニミズム
 霊的存在の実態
 インドの神々
 北アジアの精霊観
 霊魂観と他界観

Ⅴ シャーマンへの変身のプロセス
 “ウマレユタ” と “ナライユタ”
 宮古島のユタのイニシエーション
 召命型のイニシエーション
 修行型のイニシエーション
 シャーマニック・イニシエーションの社会-文化的意味

Ⅵ シャーマンと祭司(プリースト)
 オショウサンとオカミサン
 呪術-宗教的職能者分類の現状
 祭司-シャーマン関係のヴァリエーション

Ⅶ シャーマニズムの社会的機能
 集団ヒステリーとシャーマン
 個人の救いとしての憑霊
 社会の“安全弁”としてのシャーマン
 シャーマニスティックな儀礼の意味と役割

Ⅷ 日本のシャーマニズム
 さまざまなシャーマニズムの寄り合い場所日本
 日本のシャーマニズムの諸局面


あとがき
索引



佐々木宏幹 シャーマニズム 02


「ツングースの二霊魂(S. M. シロコゴロフによる)」



◆本書より◆


「生き神 (シャーマン) の諸相」より:

「タンキー(童乩)の語は“占いをする若者”(divining youth)を意味するが、研究者や現地の一般の人たちは“霊媒”(medium または spirit medium)と呼び、信者や依頼者は“生き神”(living god または goddess)と称することが多い。
 タンキーはすべて、現在の役割をはたすようになったのはみずから求めたのでは決してなく、神に選ばれて仕方なくなったのだと主張するし、(中略)たしかに彼らのライフ・ヒストリーを検討してみると、彼らは何らかの形で神からのうながしとしての“聖なる病い”(巫病)を経験している。
 福善堂のKもまたこの聖なる病いの経験者である。」
「Kが中学三年のとき、突然トランス(trance=異常心理)のような異常な心理状態になり、家に連れ戻された。以来彼女は数々の不思議な経験をした。朝起きようとしても身体がベッドに縛りつけられたようになって、いくら力をいれても動かなかった。」
「先代のタンキーGは、Kが南海観音に見こまれ、神の宿り場として選ばれたことを知った。このような場合、神に選ばれた者が頑強に抵抗すると、身心の異常はますますひどくなり、やがて命を失うにいたるといわれる。」
「神が人間の身体を借りて宿り、生き神が出現するための基本条件は、人間が人間でなくなること、つまり通常の意識が極度に低下した状態(トランス)を作りだすことである。」

「北アジアに分布する諸族やエスキモーのシャーマンがその地位を獲得するにいたるまでには、すでに見たような聖なる病い(巫病)を一定の型と内容において体験しなければならないことが知られている。
 巫病はここでも身心異常の形で現われることが多い。シャーマンになるべき人物は、食欲不振、夢、幻覚、幻聴などに悩まされ続け、その間にかつてシャーマンであった祖先(霊)が訪れて、彼を矢や刀で殺し、肉を切りとり、骨をひき離して数えた(ツングース)とか、クマやセイウチなどが彼をずたずたに引き裂き、貪り食ったが、のちにその骨の周りに新しい肉が生じた(エスキモー)とかの体験をしている。もっとも、彼らを苦しめ、痛めつけた祖先や動物が、やがて彼らの守護霊や補助霊となる例は少なくない。
 未来のシャーマンが夢や幻覚の中で殺され、バラバラに解体されると述べても、どうせ現実にではなく夢や幻覚においてなのだから大したことはないと考える人は少なくないと思うが、それは当をえていない。夢とか幻覚の語は、その状況を客観的、合理的に説明するために用いているのであり、当人にとって肉体の切断や骨の解体は、決して夢や幻覚の中の出来事ではなく、まぎれもない“事実”なのである。」



「シャーマニズムとは何か」より:

「以上、(中略)シャーマニズムの定義には憑霊や霊感を重視するものと、脱魂を強調するものとがあることが明らかになったと思う。(中略)エリアーデ的にいえば、脱魂現象が本質的で、憑霊現象は副次的であるということになるが、現実のシャーマニズムにおいては、決してそうとはいえない。現実的には憑霊が支配的な地域、脱魂が濃厚な社会、両者が併存しているところなど実にさまざまな様相が見られ、(中略)その地域・社会のシャーマニズム信奉者にとっては、それらは等しく“神や精霊との直接的な接触・交流の仕方”であるからである。
 それはU・ハルヴァの表現を借りるなら、「霊界との接触は二通りのかたちで起こる。シャーマンの魂が忘我の状態において肉体から脱けてあの世へ行くか、あるいは諸霊がシャーマンに入ってそれに霊感を与えるかである」ということになる。それはまたD・シュレーダーが“移動型シャーマン”(Wander-Schamane)と“憑霊型シャーマン”(Besessenheits-Schamane)と呼ぶ二つのタイプに相当するものである。」

「現状においては、脱魂(エクスタシー)、憑霊(ポゼッション)、トランスの相互関係を、大筋においてつぎのように理解することができよう。
  トランス(trance)
    エクスタシー(ecstasy)=脱魂(魂の旅行)
    ポゼッション(possession)=憑霊(魂の憑依)」



「シャーマニズムの世界観」より:

「アムール地域に住むギリヤークは、普通人は一つの魂、(中略)シャーマンは四つの魂をもつと信じている。あるシャーマンは、彼の四つの魂のうち一つは山から、一つは海から、第三は空から、そして第四は地下からえたのだという。すべての人びとは、その基本的な魂のほかに小魂を有し、それは卵の形をしていて、主要な魂の頭部に住んでいる。人間が死ぬのは、彼の肉体が悪霊に食われるとき、その魂も襲われて肉体を離れ、ミルヴォ(mylvo)という死者の国へ行くからであると信じられている。ミルヴォでは、死霊は人間の形をとり、地上と同じ生活をする。魂はこの地からさらにほかの地に行き、さらに別の地に行くというように移動を重ねるうちに、小鳥、羽虫とだんだん小さくなり、ついに塵埃の一つに化す。魂の中にはふたたび地上に戻り、人間に再生するものもある。
 中国東北部に住むマンシュー・ツングース系のマンシュー族は、人間は目に見える要素と目に見えない要素とから成っており、人間を生かし行動させているのは後者であると信じている。この目に見えない要素がフォジェンゴと呼ばれる霊魂である。それは、ウネンギ、チェルギおよびオロルギの三つから成っている。
 これら三つの霊魂は、円形の物体(心臓)に住んでいる。上図のように、円形の物体の中には、七つの穴のある板があり、ウネンギは静止したままであるが、チェルギとオロルギは互いに板によって隔離されながら、絶えず動いている。もしもこの動きが規則的なら、霊魂の所有者のバランスは保たれ、彼は安眠することができる。恐怖や恐怖に似た状態が生じると、霊魂の運動は加速し、チェルギとオロルギの間隔が縮まる。恐怖の結果、オロルギが身体を離脱すると、人間は眠気を催し夢みがちになる。二つの霊魂のうちどちらか一つが、長時間にわたって離れると、不安や混乱の感情を起こさせるだけでなく、ときには、完全な意識喪失や死をさえもたらすことがある。したがって、チェルギとオロルギの離脱が、ただちに死に結びつくのではなく、一定の時間を超えると死に至るのである。
 マンシュー・ツングースの間では、第一の霊魂がなくなると意識を失い、第二の霊魂を失うと、これを呼び戻す術はなく、死は避けられないと信じられている。第二の霊魂は、死後に死者の世界にゆき、のちにこの世に戻って男児か女児または動物の中に入るか、辺りを徘徊する。」

















































































スポンサーサイト

渡辺照宏 『不動明王』 (朝日選書)

「真言主の下、涅哩底(ぬりち)の方に依って、
不動如来使あり、充満せる童子形にして、
慧刀と羂索(けんさく)とを持し、頂髪左の肩に垂れたり、
一目にして諦観し、威怒にして身に猛焰あり、
安住して磐石に在(いま)す、面門に水波の相あり。」

(『大日経入漫荼羅具縁真言品』)


渡辺照宏 
『不動明王』
 
朝日選書 35 

朝日新聞社 
1975年4月20日 第1刷発行
1986年1月10日 第9刷発行
230p
四六判 並装 カバー
定価820円
さしえ: 井上球二



挿絵(扉絵)図版2点。


渡辺照宏 不動明王


目次:

第一部 日本における不動尊信仰
 一、「お不動さま」
 二、インド仏教
 三、密教の由来
 四、弘法大師と不動尊
 五、広まる信者層
 六、平安文学にあらわれた不動尊
 七、不動尊の信者たち
 八、室町時代の不動尊
 九、近世の不動尊
 十、不動尊の種々相

第二部 不動尊の考察
 一、密教とは何か
 二、不動明王の本体
 三、『大日経』にみる不動尊
 四、十九観について
 五、不動尊の従者
 六、尊形の種々相
 七、大自在天の説話
 八、印契と真言
 九、本尊供養
 十、護摩

文献一覧
あとがき




◆本書より◆


「第一部」より:

「不動尊の護摩を修する行者は――少なくとも観念の上では――本尊と一体になるということから、慈慧大師良源は修法の時に、不動明王の姿に見えたといわれた。また、それよりも以前の時代に、慈覚大師円仁が唐において排仏の難に遇った際に、不動明王に変身して助かったという説話が『今昔物語』に出ていることも述べた。慈覚大師のこの説話は、『宇治拾遺物語』(第一七〇話)にも出ている。この物語集にはまた次のような説話第一七話を載せてある。
 ある修行者(名は記してない)が摂津の国に行き、夜になって他に泊まる場所がないので古寺のお堂に上って、不動尊のダラニを唱えていると、真夜中に百人ばかりがやがやと入ってきた。見るとみな異様な姿をした鬼である。みんな坐ったが、ひとりの鬼だけ坐る場所がなく、手にした灯火を修行者の前にかざして「おれの坐る場所に新しい不動尊がおいでになる。今夜だけは外にいて頂く」といって、修行者を片手でぶらさげてお堂の軒下におろした。やがて夜が明けて気がついてみると寺も元の道もなく、通りあわせた人にたずねたら、そこは九州の肥前であったという。」

「新勝寺の不動尊から御利益(ごりやく)を授けられた物語は数多く伝えられていて、「利生記(りしょうき)」という。その中でもっとも古いものは道誉貞把(じょうは)(一五一五―一五七四年)のそれであろう。
 この人は和泉国の人で、出家修行して、志を立て武蔵国の三縁山増上寺に学んだ。いったん帰郷して説法するため高座に登ったが、ことばにつまって恥をかいた。発憤して再び東国に学ぶうちに、ある時、成田不動尊に参り、三七(さんしち)二十一日のあいだ参籠して祈願した。夢うつつのまに不動明王が姿を現わし、利剣と鈍剣との二本をひっさげ「どちらを呑むか」とたずねた。「利剣を呑みます」と答えると、明王は利剣を彼の咽(のど)に突きさした。血を一升あまり吐き、一度死んでから生きかえったが、痛みはなかったという。それ以来、毎日多くの聖典を暗誦することができるようになり、密教をも含めて、仏教に広く通じ、学徳すぐれた高僧になった。」

「江戸時代から現在にいたるまで、成田不動尊の霊験の物語は無数にある。江戸時代の相撲力士、大工、火消しなどの物語は講談、芝居、絵本、読み本などで多く知られている。
 成田のみならず、関東だけでも日野市高幡の高幡山明王院金剛寺(高幡不動)、相模中郡の大山寺など、いずれも古い起源を有し、とくに江戸時代以来、不動尊の霊場として知られている。また、東京では目黒竜泉寺の目黒不動、目白新長谷寺の目白不動、小松川最勝寺の目黄不動、駒込南谷寺の目赤不動、世田谷教学院の目青不動を五不動といい、目黒、目白などは地名としても知られている。
 不動尊を五色に描きわけることは、平安時代に属する青不動(京都青蓮寺)、赤不動(高野山明王院)、黄不動(三井園城寺、京都曼珠院)などにも見られる。これは偶然にそうなったのではなくて、実はインドにすでにその起源がある。インドの密教で「金剛瑜伽者」を「チャンダ・マハーローシャナ」(暴悪大忿怒)と名づけ、それには黒不動・白不動・黄不動・赤不動・青不動の五がある。」



「第二部」より:

「不動明王は大日如来と一身同体である。大日如来とはビルシャナ仏のことで、宇宙ぜんたいの象徴である。歴史上の人物としての釈迦牟尼仏も、西方極楽浄土の阿弥陀仏も、その他のすべての仏陀も、みなビルシャナ仏の中に含まれている。われわれ人間もまた実はビルシャナ仏にほかならないのであるが、真理を悟らずに迷っているから凡夫なのである。およそ宇宙のありとあらゆるものの中で、ビルシャナ仏に属さないようなものは何ひとつない。
 万物を包容するビルシャナ仏の姿をわれわれ人間は想像することさえできない。ビルシャナ仏それ自身はすべての形態と思想とを超越している。しかしビルシャナ仏は慈悲を本願とするから、人間の眼にも見える姿として顕現する。それが円満な相好(そうごう)をそなえた仏陀の姿で、金剛界と胎蔵界との大日如来として表現される。
 しかし大日如来は崇高な仏陀であり、われわれ人間には近よりにくい。そこでボサツの姿を現わす。(中略)大日如来は般若ボサツとして顕現する。ボサツは柔和な容貌で、慈悲に富む。われわれはそれでもなお迷って救われないことが多い。(中略)そこでビルシャナ仏は、ボサツよりももっと強力で、きびしい姿を現わす。それが明王である。これを不動明王という。」
「大日如来は自性輪身(本体)、般若ボサツは正法輪身(説法する姿)、不動明王は教令輪身(如来の教えを実行する姿)である。これを三種輪身という。」

「明王は仏教の中でも密教経典に限って説かれていて、(中略)密教経典の中でも必ずしも明王というとは限らないが、東アジアに伝わる密教では教令輪身をすべて明王とよぶ習慣である。」
「「明」 vidya は呪文のことであるから、「明王」といえば「呪文をつかさどる王者」をさすとともに「呪文の中の王」すなわち「すぐれた呪文」をさすこともできる。」
「「明」はヴィデャー vidya の訳語である。この原語は「知識」、とくに「宗教的知識」、さらに人間生活に役立つ知識として「医学、医術」と「呪術、呪文」とを意味する。どちらも人間の不幸を滅し、幸福を増進するからである。」
「この「明」を身につけている人を「持明者」 vidyadhara という。」
「インドにおいては、仏教でも、ジナ教でも、バラモン教でも持明者の話がよく出てくる。持明者は第一には人間社会の賢者のことで、医術や呪文にすぐれたもののことをいう。魔法使いのこともある。その特色は「明」(=呪文)を知っている点である。第二には人間以外の一種の妖精で、男女の別があるが、自由に空中を飛び回り、姿を隠して、善いことも悪いこともする。彼らの愛嬌ある物語が仏教のジャータカにも、ジナ教やバラモン教の文学の中にもある。インドの民間信仰である。この第二類の持明者たちはお伽の国に住み、そこから人間社会に出向いてくる。これら持明者の王が「持明者の王」すなわち「明王」である。バラモン教のヴィシュヌ神も明王とよばれることがある。」

「淳祐(しゅんにゅう)(八九〇―九五三)は 菅原道真の孫にあたるが、身体が不自由のため、世間の表面に立たず、生涯、真言密教の研究に専心、多くの著書をのこした。『要尊道場観』二巻はその一つであるが、その中に「不動尊道場観」が示されてある。行者が本尊と一体になる次第を説く――
 「定印(じょういん)を結び(中略)、目を閉じて運心観想す。壇上に hum 字あり。字、変じて瑟瑟座(しつしつざ)(不動尊の台座)と成る。座の上に ham 字あり。字、変じて猛利なる智剣と成る。智剣、変じて即ち極大忿怒=聖者=不動尊と成る。」
 次に、如来拳印(中略)を結んで身体の七処(中略)を加持、続いて、十四の印契を結び、それぞれの真言を唱える。その次に、右手で拳を結び、頭頂から両足にいたるまで次々に十九ヵ所に置いて、本尊と一体に成る。そして次の「十九観」をする――
 「第一。この尊は大日如来の化身なりと観ず。――実相華台にすでに久しく成仏せるも、本願をもっての故に、如来の使者となりて、諸の正務を執持(しゅうじ)するなり。
 第二。明(みょう)(真言)の中に a, ro, ham, mam の四字あり。――三世の諸仏は皆、この四秘密より三身(自性身・受用身・応化身)を応現し、菩提樹の下に降魔成仏す。これ寂滅定=不動の義なり。
 第三。常に火生三昧に住す。――ram 字の智火、一切の障を焼きて大智火と成る。
 第四。童子形を現(げん)じ、身、卑しくして肥満なり。(中略)
 第五。頂に七莎髻あり。(中略)
 第六。左に一弁髪を垂る。(中略)
 第七。額に皺文あり。形、水波の如し。(中略)
 第八。左の一目を閉じ、右の一目を開く。(中略)
 第九。下歯、上の右唇を喫(か)み、下の左唇、外に翻じて出づ。(中略)
 第十。その口を緘閉す。(中略)
 第十一。右手に剣を執(と)る。(中略)
 第十二。左手に索を持つ――繋縛を表わす。(中略)
 第十三。行人の残食を喫(きっ)す。(中略)
 第十四。大磐石に坐す。(中略)
 第十五。色醜くして青黒なり。(中略)
 第十六。奮迅忿怒す。(中略)
 第十七。遍身に迦楼羅炎あり。(中略)
 第十八。変じて倶力迦羅と成り、剣を繞(めぐ)る。(中略)
 第十九。変じて二童子と作(な)り、行人に給使す。――一を矜迦羅と名づく。恭敬、小心の者なり。(中略)二を制吒迦と名づく。共に語り難き悪性の者なり(中略)。」

「行者は観想のうえで、この順序で次々にその姿を思い浮かべ、同時に自分がその姿になりきるのである。この観想においては、不動尊のほかに二童子がいるのではなく、不動尊自身が二童子となってその働きをするのである。」
























































































中村元 『現代語訳 大乗仏典 5 『華厳経』『楞伽経』』

「それは差別があるということを前提にして、無差別なるものを追求しているということです。」
「「天神のことばで、竜のことばで、神霊・鬼霊・人間のことばで、
世間の人々にどれだけのことばがあろうと、そのすべてのことばで、私は理法を説く。」」

(中村元 『現代語訳 大乗仏典 5 『華厳経』『楞伽経』』 より)


中村元 
『現代語訳 大乗仏典 5 
『華厳経』『楞伽経』』


東京書籍 
2003年11月13日 第1刷発行
2005年1月17日 第2刷発行
257p 口絵i 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円(税別)
装幀: 東京書籍AD 金子裕



華厳経をよみたいのですが、ないので、しかたがないので本書をよんでみました。
本書は華厳経と楞伽経についての概説と、さわりの部分の漢訳書き下し文(とその敷衍的解説)を収録した本ですが、大部のお経のうちのほんの一部分しか取り上げられていないので、たいへん物足りないです。付録論文では華厳経とプロティノス、エックハルト、ライプニッツの思想の共通性が指摘されています。


中村元 華厳経


目次:

はしがき

第1章 真理の世界――『華厳経』(一)
 『華厳経』と東大寺の大仏
 『華厳経』のなりたち
 法界縁起の説
 世界成立の所以
 真理の世界から見た現実のすがた
 荘厳された世界
 遍満する仏の法身

第2章 菩薩行の強調――『華厳経』(二)
 初発心時に正覚を成ず
 唯心偈――一切は心から現れる
 心の修養、自利即利他
 懺悔の実践

第3章 善財童子の求道――『華厳経』(三)
 一 善財童子が道を求める
 長者の子、善財童子
 菩薩の道を問う
 遊女の教え
 二 〈さとりを求める心〉
  『往生要集』にみる「入法界品」
  発菩提心の勧め
 三 晋訳『華厳経』のめざすもの――六十巻本の末尾の偈
  普賢菩薩の説く教え
  諸仏の徳を讃える
  仏の三業を讃える
  尽きることのない仏の徳
 四 「普賢菩薩行願讃」――四十巻本の末尾の偈
  日本仏教への影響
  諸仏を 敬礼し、この世にとどまることを願う
  修行の完成をめざす
  三世の劫の海を渡る
  すばらしい行いの完成
  普賢の願をとなえる
  十種の広大な願い

第4章 唯心の実践――『楞伽経』
 禅宗への影響
 ラーヴァナによる仏の勧請
 諸識の根本にあるアーラヤ識
 七種の本性を説く
 無影像すなわち如来蔵の門
 四種のしかたで真理を観ずる
 自証の法と本住の法
 殺生、食肉を禁ず

付録
 特論 人類の思想史の流れにおける『華厳経』
  縁起の思想
  十二因縁説の比較
  インドにおける華厳教学の基礎
  西洋の哲学への影響
  中国の儒学思想による改変

あとがき (堀内伸二)




◆本書より◆


「第1章 真理の世界――『華厳経』(一)」より:

「一切(いっさい)の世界海(せかいかい)は、世界海(せかいかい)の塵(じん)の数(かず)の因縁(いんねん)有(あ)りて具(そな)わるが故(ゆえ)に成(じょう)ず。已(すで)に成(じょう)じ、今(いま)成(じょう)じ、当(まさ)に成(じょう)ずべし。所謂(いわゆる)(すなわち)、如来(にょらい)の神力(じんりき)の故(ゆえ)に。法(ほう)が応(まさ)に是(かく)の如(ごと)くなるべきが故(ゆえ)に。衆生(しゅじょう)の行業(ぎょうごう)の故(ゆえ)に。一切(いっさい)の菩薩(ぼさつ)が応(まさ)に無上道(むじょうどう)を得(う)べきが故(ゆえ)に。」
「すべての世界の海は、無数に多くの因縁によって成り立っている。すべては因縁によってすでに成立しており、現在成立しつつあり、また未来も成立するであろう。ここにいう因縁とは次のことをさしている。それは仏の神通力である。またものごとはすべてありのままであるということである。また衆生の行為や宿業(しゅくごう)である。またすべての菩薩は究極のさとりを得る可能性を有しているということである。」

「一一(いちいち)の微塵(みじん)の中(なか)に、仏国海(ぶっこくかい)が安住(あんじゅう)し、仏雲(ぶつうん)遍(あまね)く護念(ごねん)し、弥綸(みりん)して一切(いっさい)を覆(おお)う。
一(ひと)つの微塵(みじん)の中(なか)に於(おい)て、仏(ぶつ)は自在力(じざいりき)を現(げん)じ、一切微塵(いっさいみじん)の中(うち)に、神変(じんぺん)することも亦(また)是(かく)の如(ごと)し。
諸仏(しょぶつ)及(およ)び神力(じんりき)は、盧舎那(るしゃな)の示現(じげん)したもうなり。」
「世界海では、いちいちの小さな塵の中に仏の国土が安定しており、いちいちの塵の中から仏の雲が湧(わ)きおこってあまねく一切をおおい包み、一切を護(まも)り念じている。一つの小さな塵の中に仏の自在力が活動しており、その他の一切の塵の中においても諸仏が神変を示しているが、それらはすべてヴァイローチャナ仏の示現である、というのです。 
 一つ一つの小さな塵の中に偉大な仏の国がふくまれている、ということをここでいっています。塵ということばはサンスクリット語の原文では「アヌ(anu)」「パラマーヌ(paramanu)」ということばが使われ、これはひじょうに微小なものをいいます。インド人は総じて抽象的なことばを使うのが好きですから、「ひじょうに微細なもの」という言い方をします。ところが中国では、なんでも具象的な表現をする傾向にあります。そこで「塵」ということばを使ったわけです。サンスクリット語の「アヌ」または「パラマーヌ」は、インドの自然科学的思考では原子のことをいうので、西洋の学者はこれを「アトム(atom)」と訳しています。そのアトムの中に偉大な世界がある、極小の中に無限大を指示する、ということをここでいっているわけです。」

「無限に微小なるもののうちに無限に大きなものが存在している、そうして一切の事物は相互に連関しあって成立している、と説くのが『華厳経』の究極の趣旨だといわれています。この趣旨をいろいろの表現や語句を用いて説明しているのです。」

「世界海(せかいかい)には世界海(せかいかい)の微塵(みじん)に等(ひと)しき〈劫(こう)に住(じゅう)すること〉有(あ)り。所謂(いわゆる)(すなわち)仏刹海(ぶつせっかい)は、或(あるい)は数(かぞ)うべからざる劫(こう)に住(じゅう)し、或(あるい)は数(かぞ)うべき劫(こう)に住(じゅう)す。是(かく)の如(ごと)き等(とう)の世界海(せかいかい)の微塵(みじん)の数(かず)の〈劫(こう)に住(じゅう)すること〉有(あ)り。」
「現在の時点において空間的視点から考えると、一つの小さなものの中に無数にひろい諸世界がふくまれているように、時間的にも現在の諸世界のうちに過去および未来にわたる無限に長い世界がふくまれているのです。劫というとほうもない長い時期に有限数を乗じたものであることもあるが、無限数を乗じたものであることもあるというのです。とほうもないことを考えています。」



「第2章 菩薩行の強調――『華厳経』(二)」より:

「心(こころ)は工(たく)みなる画師(がし)の如(ごと)く、種種(しゅじゅ)の五陰(ごおん)(注: 五蘊(ごうん)ともいう。個人存在を構成する五つの要素。色・受・想・行・識の五つ。)を画(えが)き、一切世界(いっさいせかい)の中(うち)に、法(ほう)として造(つく)らざるもの無(な)し。」
「心は巧みな絵師のようなものであって、種々の五陰(ごおん)を描き、いかなるものでも心に基づいて現れます。」



「第4章 唯心の実践――『楞伽経』」より:

「『楞伽経』は禅宗に大きな影響を及ぼしたという点で、わが国はもちろんのこと、東アジア諸国で重要な意義をもっている経典です。
 そのもとの名前は『ランカーヴァターラ・スートラ』(Lankavatara-sutra)といいますが、「ランカー(Lanka)」を音写して「楞伽」という漢字をあてたのです。「ランカー」とはセイロン島、今日のスリランカの国のことです。スリランカの「ランカ」にあたります。」
「アヴァターラ(avatara)」とは、この場合は下(くだ)って入るという意味です。また「化身」の意味にもなります。ですからこの経典は、釈尊がスリランカの島に赴いて、教えを垂れてくださった、ということになっています。」

「そのときに羅婆那夜叉王(らばなやしゃおう)は仏(ほとけ)の神力(じんりき)によりて、仏(ほとけ)の言音(ごんおん)(音声(おんじょう)を聞(き)き、はるかに如来(にょらい)の竜宮(りゅうぐう)より出(い)でて、梵(ぼん)〔天(てん)・帝(たい)〕釈(しゃく)、護世(ごせ)の天(てん)、〔および〕竜(ちゅう)〔等(とう)〕に囲遶(いにょう)せられたまい、海(うみ)の波浪(はろう)を見(み)そなわして、その衆会(しゅうえ)には蔵識(ぞうしき)の大海(だいかい)に境界(きょうがい)の風(かぜ)が動(うご)き転識(てんじき)の浪(なみ)が起(お)こるを観(かん)〔察(ざつ)〕したまい、歓喜(かんぎ)の心(こころ)を発(おこ)し、その城中(じょうちゅう)において、声高(こうじょう)に唱(とな)えて言(いわ)く、「我(われ)は、まさに仏(ぶつ)〔所(しょ)〕に詣(もう)で、請(しょう)じてこの城(しろ)に入(い)り、我(われ)および諸天(しょてん)世人(せじん)をして〔無明(むみょう)〕長夜(ちょうや)の中(うち)において、大饒益(だいにょうやく)を得(え)せしむべし」と。」
「スリランカは島ですから、海の波がたっています。それを見て、集った人々には、蔵識(人間の根本にある精神)という大海に境界(認識対象)の風が吹くと、転識(現にはたらいている識別作用)が波のようにおこってくる、つまり海に風が吹くと波がおこるが波という実体はない、人の心も蔵識という海に知覚の対象という風が吹いて前七識の波が現れるのだ、と観察したわけです。
 ラーヴァナは喜んで城の中で声高に唱えて言いました。「ああ、私はこれから仏さまのところへお参りして、お願いして、この城の中へ入っていただいて、そして私は、無明の闇に閉ざされているわれわれの迷い、そのなかにある我およびもろもろの神々や世の人々をして、大いなる利益を得られるようにさせてやろう」と。」

「『楞伽経』のなかではいろいろの教えを説いていますから、どれが中心思想であるかということは、なかなか決定しがたいのですが、如来蔵思想は、たしかに重要な中心思想の一つです。
 如来蔵という観念は、大乗仏教がかなり発展してから出現したものです。人間の本性は清浄であるが、汚れをふくんでいる現象世界がどうして成立するのか、ということを説明するためにもち出された観念です。われわれの本体は仏性であり、如来そのものであるが、それが妄分別の汚れのうちに蔵(かく)されているというのです。」
「如来蔵の思想とは、われわれの本性は清らかなもので、仏と同じである。それが迷いに包まれているのであって、本来は如来を隠れた母胎として蔵している、というものです。」























































































































ゲルショム・ショーレム 『ユダヤ神秘主義』 山下肇 他 訳 (叢書・ウニベルシタス)

ゲルショム・ショーレム 
『ユダヤ神秘主義
― その主潮流』
 
山下肇/石丸昭二/井ノ川清/西脇征嘉 訳 
叢書・ウニベルシタス 156 

法政大学出版局 
1985年3月30日 初版第1刷発行
1989年10月25日 第3刷発行
xii 490p 索引・文献・注134p
四六判 丸背クロス装上製本 カバー
定価4,944円(本体4,800円)



本書「訳者後記」より:

「本書はゲルショム・ショーレム Gershom Scholem の主著であり、彼の名を世界的なものとし、国際的に(中略)評価の高い Die Jüdische Mystik in ihren Hauptströmungen, Rhein-Verlag u. Alfred Metzner Verl. Frankfurt a.M./Berlin, 1957 の全訳である。」


ショーレム ユダヤ神秘主義


目次:

ヘブライ語の字母の転写表
ドイツ語版への序
英語版第一版への序より

第一章 ユダヤ神秘主義の一般的特質
 本書の意図。
 神秘主義とは何か。
 神秘的経験のパラドックスな性質。
 歴史的現象としての神秘主義。
 神話、宗教、神秘主義。
 宗教的価値の神秘主義的解釈。
 ユダヤ教のポジティブな内容によるユダヤ神秘主義の感化。
 隠れたる神とその性質に関するカバリストの理論。
 セフィロース。
 トーラー。
 カバラーと言語。
 神秘主義と歴史世界。
 宇宙創造説と終末論。
 ユダヤの哲学とカバラー。
 寓意(アレゴリー)と象徴(シンボル)。
 ハーラーハーとアッガーダーの哲学的ならびに神秘主義的解釈。
 カバラーと祈祷。
 カバリストの思考における神秘主義的要素。
 ユダヤ教の中心部における神秘主義の復活。
 ユダヤ神秘主義における女性的要素の欠如。

第二章 メルカーバー神秘主義とユダヤのグノーシス
 ユダヤ神秘主義の第一期。
 著作の匿名性。
 ミシュナー教師の秘教。
 玉座神秘主義。
 黙示録と神秘主義。
 ヘハロース書の文学。
 ヨルデ・メルカーバーとその機構。
 伝授の条件。
 魂の忘我的な上昇とそのテクニック。
 魔術的要素。
 上昇の危険。
 聖なる王としての神。
 メルカーバー神秘家の讃歌。
 シウール・コーマー。
 エノク、メータトローン、ヤーホーエル。
 宇宙の帷。
 グノーシスのアイオーン思弁の残滓。
 『創造の書』。
 妖術。
 メルカーバーの道徳的再解釈。

第三章 中世におけるドイツのハシディズム
 ドイツにおけるハシディズムの台頭。
 神秘主義の伝統とドイツのユダヤ民族。
 『敬虔者の書』。
 ハーシード・ユダとその弟子。
 ハシディズムの終末論的性格。
 ハーシードの新しい思想、禁欲、不動心(アタラクシア)、利他主義。
 神の愛。
 修道僧的キニク主義のユダヤ的表現。
 ハーシードの魔術的力。
 ゴーレム伝説。
 祈祷の秘密。
 オカルト的実践。
 ハーシード的贖罪観。
 ハーシード的神表象。
 神の内在。
 カーボード、神の栄光。
 フィロのロゴス説の痕跡。
 玉座に坐したケルービーム。
 神の聖性と偉大さ。
 祈祷の目的。
 宇宙的原型(祖型)。

第四章 アブラハム・アブーラーフィアと預言者的カバラー
 カバラーの出現。
 カバリストのさまざまなタイプ。
 カバリストの自制と自己検閲。
 幻視と忘我。
 神秘的合一のユダヤ的形態デベクースの概念。
 アブラハム・アブーラーフィアの生涯と作品。
 忘我的な知に関する彼の理論。
 「組合せの学問」。
 純粋思考の音楽。
 預言の神秘的性質。
 預言者的カバラー。
 忘我の本質としての神秘的変容。
 神秘主義的プラグマティズム。
 「実践的カバラー」と魔術。
 アブーラーフィアの教義とその後の発展。
 アブーラーフィアの一弟子の自伝の翻訳。

第五章 ゾーハル その一 書物とその著者
 ゾーハルの問題。
 ゾーハルの文学的性格と構成。
 ゾーハル「文学」の全体は二つの部分、主要部とラヤー・メヘムナーとから成る。
 ゾーハルの主要部は一人の著者の作である。
 統一性の証明。
 ゾーハルの言語と文体。
 本書の舞台。
 文学的構成の原理。
 ゾーハルの本当の典拠とにせの典拠。
 典拠の扱い方。
 一定のカバラーの教義に対する著者の特別の好みと、他の教義の拒否。
 シェミットースないし宇宙の発展の統一に関する教義の欠如。
 作品におけるいろいろな発展段階。
 ゾーハルの最も古い構成部分であるミドラーシュ・ハ=ネエラーム。
 ミドラーシュ・ハ=ネエラームが書かれたのは一二七五年と一二八一年のあいだで、主要部は一二八一年一二八六年のあいだ、そしてラヤー・メヘムナーとティックーニームは一三〇〇年頃である。
 著者の人物の問題。
 モーセス・ベン・シェムトーブ・デ・レオン。
 彼が著者であることを示す古い証言。
 モーセス・デ・レオンとヨセフ・ギカティラ。
 モーセス・デ・レオンのヘブライ語の著作とゾーハル主要部との比較。
 これらすべての著作の著者は同一人物である。
 モーセス・デ・レオンのその他のカバラー的偽書。
 モーセス・デ・レオンのヘブライ語の著作中に見られる、ゾーハルの著者が彼であることの隠れた示唆。
 モーセス・デ・レオンの精神的発展とゾーハル起草の動機。
 偽書は宗教文学の正当なカテゴリー。

第六章 ゾーハル その二 ゾーハルの神智学的教義
 メルカーバー神秘主義とスペインのカバラーとの相違。
 隠れた神ないしはエン・ソーフ。
 セフィロース、神性の王国。
 トーラーの神秘主義的解釈。
 セフィロースの象徴的理解。
 カバリスト的象徴表現の若干の見本。
 神秘的有機体としての神。
 無と存在。
 セフィロースの最初の三つの発展段階。
 創造と、その神との関係。
 神統系譜と宇宙創造説。
 ゾーハルの著者の汎神論的傾向。
 創造の本来の性質。
 カバリストの思考における神秘的な諸形象。
 性的象徴表現の問題。
 シェキーナーを神における女性的要素ならびに神秘主義的な「イスラエル共同体」としてとらえる新しい考え方。
 人間とその堕罪。
 カバリストの倫理。
 悪の本性。
 ゾーハルとヤーコプ・ベーメ。
 ゾーハルの霊魂論。
 神智学と宇宙創造説と霊魂論の統一。

第七章 イサアク・ルーリアとその学派
 スペインからの追放とその宗教的な結果。
 メシア主義に至る途上のカバラー。 
 カバリストの黙示録的宣伝。
 新しいカバラーの性格と機能。
 その中心地、パレスチナのサーフェード。
 モーセス・コルドヴェロとイサアク・ルーリア。
 彼らの人格。
 ルーリア派のカバラーの伝播。
 イスラエル・ザールーク。
 ルーリア派の教義の特性。
 ツィムツームとシェビーラーとティックーン。
 創造の二重の過程。
 創造の出発点たる、神の自己自身の内への退却。
 この教義の意味。
 原初の破局ないしは「容器の破裂」。
 悪の起源。
 ティックーンすなわち調和の回復の理論の二つの様相、人格神の神秘主義的誕生と人間の神秘主義的行為。
 神智論的世界と神に対するその関係。
 ルーリアの体系における人格神論と汎神論。
 メシア主義の神秘主義的再解釈。
 神秘主義的祈祷に関する教義。
 カッヴァーナー。
 宇宙における人間の役割。
 ルーリアの心理学と人間学。
 シェキーナーの追放。
 聖なる火花を助け上げること。
 輪廻の教義とサーフェードのカバラーにおけるその位置。
 ルーリア派のカバラーの影響。
 追放と救済の偉大な神話。

第八章 サバタイ主義と神秘主義的異端
 一六六五―六六年のサバタイ主義の運動。
 カバラーのメシアであるサバタイ・ツヴィーと、その預言者ガザのナータン。
 サバタイ・ツヴィーの病気とナータンにおけるその神秘主義的解釈。
 反律法主義的行為の擬似秘蹟的性格。
 新しいメシアの人格に適応したルーリア派の教義。
 サバタイ・ツヴィーのイスラム教への変節後に生じた運動の異端的転回。
 ユダヤの歴史に対するサバタイ主義の意味。
 ユダヤ人の意識の革命。
 異端的カバラーと啓蒙主義との関係。
 サバタイ主義のイデオロギー。
 逆説の宗教。
 救済の歴史的神秘主義的様相。
 サバタイ・ツヴィーの背教後の救済の崩壊。
 サバタイ主義とキリスト教。
 サバタイ主義に対するマラノの心理学の影響。
 メシアの必然的背教の教義。
 反律法主義の問題。
 サバタイ主義の穏健な形式と過激な形式。
 神秘主義的ニヒリズムと、罪の聖性の教義。
 新しい神観、第一原因すなわち理性の神と第一結果すなわち啓示の神。
 
第九章 ポーランドのハシディズム、ユダヤ神秘主義の終局
 十八世紀のポーランドとウクライナのハシディズム、ならびにその問題性。
 カバリストとハシディズムの文学。
 カバラーの大衆運動への変化。
 サバタイ主義崩壊後のカバリストの発展の二者択一。
 神秘主義の異教的形式への回帰、ラビ・シャーローム・シャルアビー。
 その大衆的側面の深化、ハシディズム。
 カバラーのメシア的要素の排除。
 サバタイ主義とハシディズム。
 ラビ・アダム・バアル=シェーム――隠れサバタイ主義の預言者。
 サバタイ主義とハシディズムにおける新しい型の指導者。
 神秘主義的な覚醒運動。
 ハシディズムの新しさは何か。
 ハシディズムの本来の独自性と関係があるのは神秘主義的神智論ではなくて神秘主義的倫理である。
 ハシディズムの本来の性質から生み出されたツァッディーク主義の人物崇拝。
 教義に代る人格。
 ツァッディークないし聖者の像。
 生きたトーラー。
 人間共同体の中心としての聖者の社会的機能。
 ハシディズムにおける神秘主義と魔術。
 ハーシードの伝説。

訳者後記 (山下肇)

訳注
原注
参考文献
索引(人名・事項・書名・用語)




◆本書より◆


「第一章 ユダヤ神秘主義の一般的特質」より:

「ところで、このように著しい抑制の姿勢と対照的なのが、まったく異常なほどポジティブな、言葉にたいする評価である。あらゆる流派と動向のカバリストたちが、言葉というものを単に人間同士の相互理解のための不完全な手段と見るだけではないという点で、たがいに一致している。聖なる言葉ヘブライ語は、ちょうどたとえば中世にとくに愛好された言語理論にも似て、彼らにとっては、慣習のなかから生まれ因襲的性格をもつ言語ではない。まさにヘブライ語が彼らにとってそうであるように、最も純粋な本質としての言葉は、世界の最も深い精神的本質とつながりあい、別の言葉でいえば、ある神秘的な価値を有している。」

「その本性上非社会的なものである神秘的諸傾向は、にもかかわらず現実の歴史のなかで十分にしばしば、(中略)共同社会のための形成力を示したのである(中略)。
 神秘主義の探究者のひとりヨーゼフ・ベルンハルトが次のように言っているのは正しい。「歴史的に不動なものを求めかつ告知する人びとほどに、歴史的な運動を生みだしたものがいるであろうか?」



「第三章 中世におけるドイツのハシディズム」より:

「とりわけ真のハーシードを形成するには、『敬虔者の書』にも現れているように、三つの物がある。すなわち、この世の事物からの禁欲的な離反、完全な心の平静、極度に押し進められた原則的な利他主義、である。」
「禁欲的な方向は、たとえばヴォルムス出のエレアーザールによる古いミドラーシュの解釈にきわめて特徴的に現れているような、陰鬱な、しばしばかなりペシミスティックな人生観に基づいている。生まれたての子は、誕生前に天の教場で習得したあのかぎりない知識を、自分の守護天使の諭しによって全部忘れてしまうのだ、と『子の創造のミドラーシュ』は語る。だが、とヴォルムス出のエレアーザールは問う、「どうして子供は忘れてしまうのか。」「そのわけは、忘れてしまわぬことには、子供はその深い認識のために、この世の歩みをよく考えたばあい気が狂ってしまうにちがいないからである。」知識は想起、アナムネシスであるという、古いプラトン的理念があのミドラーシュの根底にもあるわけだが、なんと奇妙に変形されていることか。ここでは楽観的な世界観は、終末論的なパースペクティブでのみ是とされている。人間は、と上記のラビ・エレアーザールは大胆な比喩を用いて言う、両端を神と悪魔が引っ張り合っている一個の物である。そして最後はむろん神のほうが引っ張り勝つのである。」
「ハーシードはそのほかにも、侮辱や辱しめに惑わされることなく耐えねばならない。」
「キニク派の遺産は賞讃や非難にたいする全き心の平静であり、これは非常にしばしば神秘主義の歴史において、神秘主義的な道を歩むための条件としてあげられる。(中略)まったく同様の趣旨をパレスチナ出身のスペインのカバリスト、アッコー出のイサアク(一三二〇年頃)が述べている。「神との結合の神秘デベクースにふさわしいと認められる者は、平静心の神秘に到達する。そして平静心をもっている者は、孤独の神秘に到達し、そこから聖霊に、そして預言に到達する。だが、平静心の神秘についてラビ・アブネルがわたしに次のようなことを語った。あるとき、卑俗な知恵を好む者が隠者たちのひとりのもとへ出むいて、弟子にしてくれと頼んだ。すると隠者は彼にこう言った。『おまえは〈ものごとに動じないたち〉かね、どうじゃね?』彼は答えて、『先生、あなたのおっしゃることを説明して下さい。』隠者が言うには、息子よ、二人の人間のうち、ひとりがおまえをほめ、もうひとりがおまえをののしったばあい、おまえの目にそのふたりは同じに見えるかね、どうじゃね? 彼は隠者に答えて言った。たしかに、わたしはほめてくれるひとからは満足を覚え、けなす者からは苦痛を感じます。だからといって、わたしは復讐心が強くも、執念深くもありません。すると師は彼に言った。息子よ、家に帰るがよい。おまえが平静心をもたず、自分の受けた非難をまだ感じるようでは、おまえには自分の思考を神と結びつける正しい素質がないのじゃ。」」

「十四世紀のカバリスト、アッコー出のイサアクもこう語っている。「わたしはドイツのあるハーシードの話を聞いたことがある。彼は学者ではなかったが、誠実で素朴な男だった。あるとき彼は祈祷の言葉が書かれた羊皮紙のインクをうっかり拭き消してしまった。その祈りの文句のなかには神の名も含まれていた。このとき彼は、神の名の名誉をそこなうようなことをしてしまったとさとって、こう言った。『わたしは神の名誉を軽んじてしまった。だからわたしは自分自身の名誉も気にしないことにしよう。』そこで彼は何をしたか。毎日祈祷の時間に教区民たちが会堂に出入りするときに、彼は戸口の地面に身体を横たえ、大人も子供もそれを跨いで通った。ところがいま、ひとりが故意にか、うっかりしてか、彼の身体を踏んづけてしまった。すると彼は狂気して神に感謝した。地獄の罪びとにたいする裁きは十二箇月続くというミシュナーの言葉に基づいて、彼はまる一年間そうしつづけたのである。」」



「第四章 アブラハム・アブーラーフィアと預言者的カバラー」より:

「アブラーフィアは、ホクマス・ハ=ツェルーフ、すなわち「文字の組合せの学問」とみずから名づける全教義を打ち立てた。それは文字とその組合せの助けを借りた方法論的な瞑想への教示である。ひとつひとつの文字、あるいはそれらの結合は、それ自体「意義」をもっている必要はない。むしろ逆に、意義をもたぬことがそれの長所なのであって、それらの字母はしばしば何も意味していないように見えるためにかえってわれわれの注意力をそらすことができないのである。もちろん、アブーラーフィアにとってそれらは全然意味がないわけではない。なぜなら彼は、世界の本質は言語的な性質のものであって、いっさいのものは全創造のなかに啓示されている神の偉大な名にたいしてもっている関与によって存在するのだとするカバリストの理論を採用しているからである。」
「アブーラーフィアにとって問題なのは、方法論的な瞑想訓練によって人間の魂のなかに特別な状態を、すなわちいっさいの感覚的な対象から離れた純粋思考の調和的な運動のようなものをつくり出すことなのである。アブーラーフィア自身はつとにこの彼の新しい教義を音楽にたとえているが、それはいわれのないことではないのである。(中略)組合せの学問は純粋思考の音楽である。音楽における音階に相当するものは、ここではアルファベットの序列である。」



「第六章 ゾーハル その二」より:

「悪の本性に関するゾーハルの諸理念も、同様に、神秘主義的思弁と神話的遺産のこうした特異な結合から生まれている。ウンデ・マルム、つまり悪はどこから、という問いは、この中世のユダヤ教グノーシス派の思考と同様に、古いキリスト教グノーシス派の思考にとっても重要な問題であった。心的素質が同じであるばかりか、幾多の歴史的つながりによっても古代のグノーシス派と連関しているカバラーの神智学派にとって、悪の起源と本質に関する理論は思想の真の眼目をなすものである。」
「ゾーハルそのもののなかには、悪の由来と本性の問題に答えようとするさまざまな試みが現れている。それらに共通しているのは、解答の内容というよりむしろ、解答の目的、すなわち悪を積極的(ポジティブ)に存在するものとして説明することである。ゾーハルの著者にとっては、形而上学的悪、存在するものすべての不完全性の問題と形而下的悪、世界における苦悩の本質の問題と人間の行為における道徳的悪とはひとつのものである。」
「しかしながら、悪の究極的根拠はもっと深いところにある。それは――しかもこのことはゾーハルにとって本質的なことであるが――神そのものの示顕またはセフィロースのひとつのなかに存在しているのだ。これについては簡単な説明が必要である。神的諸力の全体は均衡を保って調和しており、これらの力や属性はどれも、それが爾余のいっさいのものと結合し生きた関係のなかにとどまるかぎり、神聖にして善なるものである。このことは、とりわけ悪の最も深い根拠をなす属性、つまり神の内とみもとにある厳正なる正義、審判、厳格という属性にも妥当する。神の怒りは神の左手として、神の右手と呼ばれる慈悲と愛の特性と親密な関係を保っている。一方は同時に他方を自己の内に含んでいなければ、自己自身を表すことができない。こうしてこの厳格さのセフィラーは、神の内で燃え上がりながらもたえず慈悲によって鎮められ抑制される、大いなる「怒りの火」とみなされる。しかしこの火が燃え過ぎて、暴発して外部へ向かい、慈悲との結びつきから離れると、それは神性の世界を突き破り、徹底した悪と化して悪魔の背神的世界になるのである。
 ここで看過しえないのは、否定しがたい魅力的な深い意味をそなえたこの教義が、後のドイツの偉大な神智学者ヤーコプ・ベーメ(一五八五―一六二四)の諸理念のなかにきわめて注目すべき類縁関係を見出したことである。(中略)彼もまた悪を、神のうちにある怒りという暗い否定的な原理とみているが、この原理は神的生命という神智学的有機体のなかではもちろん永遠に光へ変ずる。それどころかさらに、概してこう言うことができる。あらゆるキリスト教の神秘家のなかで、ヤーコプ・ベーメは、ほかならぬその最も本源的な原動力においてカバラーとの最も密接な類縁性を示す人物である、と。(中略)彼はセフィロースの世界を、こう言ってもよければ、彼独自の立場からもう一度発見したのである。」

「悪が実在的に、人間とはかかわりなく世界構造から、あるいはより適切に言えば神の生命の過程から理解されねばならないというのは、本質的にグノーシス主義的な見解である。ゾーハルは悪を隠れた生命そのものの有機的過程から生じた一種の残滓または廃棄物のようなものとして理解することをとくに好んでするが、このことはまさしくグノーシス派の見解と関連している。このように神をひとつの神秘的有機体として把握することから実に大胆な結論を引き出すこの思想は、多くの形象で表現される。たとえば、樹木が樹皮なしには存在しえず、人間の有機体がたえず純良な血から「悪い血」を排泄するように、悪魔的なものはなんらかの点で神性の秘密そのものから発生するという。」
「悪の化身であるサマエル、つまり「左側」そのもののなかにも、神の生命自体から発する火花が燃えている。いっさいの生あるものの内部にその暗黒面として生き、それらを内部から脅かす悪魔的背神的なもののこの不気味な反世界にたいして示すゾーハルの関心は、異常なほど強い。」



「第七章 イサアク・ルーリアとその学派」より:

「ルーリアは彼の理念を、古代のグノーシスの神話を非常に生きいきと想起させるようなかたちで述べた。だからといって、彼がこのような関係をなんとなく意識していたであろうというのではない。しかしこの思考の内的構造は疑いもなく、グノーシス派とのきわめて緊密な類似性を示している。」
「元来ルーリアはまったく合理主義的な、かなり自然主義的いっていいくらいの考えから出発している。神の本質がいたるところにあるのに、いかにして世界が存在しうるのであろうか? 神は「すべてのなかのすべて」であるのだから、この具体的な場所に神でない別のものがいかにして存在しうるのだろうか? 神の本質がすべてに浸透しているのであるから無というものはまったく存在しえないのに、いかにして神は無から創造することができるのだろうか? ルーリアはこれにたいして、ひとつの考えをもって答えている。(中略)ルーリアは言う。世界の可能性を保証するためには、神は自身の本質のなかに、自分がそこから退去してしまった領域、言い換えれば神が創造と啓示において初めてそこへと歩み出ることができる一種の神秘的原空間を作らねばならなかった、と。無限なる本質エン・ソーフのすべての行為のうちで最初になす行為はしたがって、これが決定的なことなのだが、外部へと歩み出ることではなく、内部へ歩み入ること、つまり自己自身のなかへ退くこと、思い切った表現を用いることが許されるなら、「自己自身から自己自身のなかへの」神の自己交錯なのであった。だからエン・ソーフは、自己の本質ないしは力の最初の流出を自己自身のなかから産み出す代わりに、逆に自己自身のなかへ降下するのであり、自己を自己自身のなかへ集中させるのである。しかもこのことを創造の始め以来繰り返し行ってきたのである。」
「このように神が自己自身の存在のなかへ退くことをわれわれは、神自身がその全能から一層深い孤独のなかへ「亡命する」とか、自己を「追放する」とかいう表現で解釈したい気がする。このように解釈されるならば、ツィムツームという理念は、考えられるかぎり最も深い亡命の象徴、「容器の破裂」よりももっと深い象徴となるだろう。あとで取り扱うつもりの容器の破裂においては、神の存在の一部が自己自身から追放されているが、それにたいしてツィムツームは自己の内部への亡命とみなしうるであろう。」

「ルーリアは人間の課題を、人間の精神の原形態を回復することにほかならないと説明することによって、単純ではあるが効果的に規定した。この使命はひとりひとりに定められている。というのは、魂はすべてもともとそのような原形態を潜在的にもっているからである。それはもちろん、その魂のなかにすべての魂が含まれていたアダムの堕罪以来そこなわれ、品位を失っている。あらゆる魂のなかのこの魂から火花が四方八方に散らばり、諸事物のなかに沈降したのだった。それらの魂の火花を再び取り集め、その正当な場所に運び上げて、人間の精神的本質を、本来神によって意図されていたとおり純粋なままに再生することが肝要なのである。トーラーが要求したり禁止したりする行為のなかで――ルーリアによれば――人間の魂のなかにある個人的な精神的原形態のあの復旧過程が遂行されるのである。」
「堕罪以前の人間は全世界を包括し自己のなかにとらえている宇宙的な原存在であり、その精神的な位階は、メータトローン、すなわち天使のなかの最高位者の位階より高くさえある。」
「諸世界は落下し、アダムは堕落する。すべては乱され、そこなわれ、ルーリアがそう呼んでいるように、「微小状態」に入り込む。原罪がより低いレベルにおいて容器の破裂を繰り返す。その結果は再び、何ものもそれがあるべき所にとどまらず、それがあるべきようには存在せず、それゆえ何ものもその正当な場所に存在しないということである。すべては追放のうちにある。シェキーナーの精神的光は悪のデモーニッシュな世界の闇のなかに引きずりおろされる。その結果は善と悪の混合であり、この混合は、そこから光の要素を取り出しそれを以前の位置に連れ戻すことによって、再び分離されなければならないのである。」

「個人の魂はすべて、それがその精神的回復をなし終えるまでのあいだだけ、個人的存在をもっている。(中略)神の掟を全うした魂は輪廻の法則から解放され、その至福の場所において、すべての事物の全体的回復の際にアダムの原魂に接合されることを期待する。しかし魂がこの課題をなし終えないかぎりは、魂は輪廻の法則の支配を受ける。(中略)異質な存在形式の獄(ひとや)へ、つまり野生の動物や植物や石へ、魂及び魂の火花がこのように追放されることは殊の外身の毛のよだつ追放を表している。魂および魂の火花はそのような追放からどのようにして救済されるのだろうか? ルーリアはこれにたいして、ある種の魂はもともと人類の祖アダムの精神的身体のなかで占めていた場所に応じて親和性をもっている、という教義でもって答えている。彼によれば、魂の親和性というものがあり、それどころか、或るやり方で動的な統一を形成し相互に連関し合う魂の家族というものすら存在する。これらの魂は低い存在の深淵に落ち込んだ自分のグループあるいは家族から発する火花をも、敬虔な行為によって再び引き上げ、より高い存在形式への再上昇を可能にしてやることができる。魂の秘密の親和性とその結果として生じる魂の共感の教義は、ルーリアにとって聖書の多くの物語に一条の光を投ずるものとなる。このことによって真の世界史は、魂と魂の家族の変転と関係の歴史を書くことができるようなものであるだろう、と。」



「第八章 サバタイ主義と神秘主義的異端」より:

「もはや救済は諸民族の支配下に置かれた奴隷状態からの解放だけをさすのではない。それは創造全体の核心部における本質的変化なのである。救済は隠れた世界や現れた世界のすべてを貫くひとつの過程である。なぜなら救済とは、容器の破裂とアダムの堕罪以来その内部に存在しつづけているあの大きな汚点からの回復、ティックーンにほかならないからである。救済は諸世界の構造の根本的な変化を可能にし、かくしてこれらの世界は統一状態へ戻り、それらが堕罪以前に占めていた位置へ復帰する。救済はこのように本質的には神殿の破壊とともに始まった外的追放を終らせるというよりは、つとに楽園からの追放とともに始まっていたあらゆる被造物の内的追放に終止符を打つのである。カバリストたちは救済における歴史的政治的要素よりもはるかに救済の精神的本質を強調したのだ。」








































































ゲルショム・ショーレム 『カバラとその象徴的表現』 小岸/岡部 訳 (叢書・ウニベルシタス)

ゲルショム・ショーレム 
『カバラとその象徴的表現』 
小岸昭/岡部仁 訳
 
叢書・ウニベルシタス 169 

法政大学出版局 
1985年12月20日 初版第1刷発行
1989年10月5日 第2刷発行
323p 目次1p 索引10p
四六判 丸背クロス装上製本 カバー
定価3,605円(本体3,500円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Gershom Scholem: Zur Kabbala und ihrer Symbolik, Rhein-Verlag, Zürich 1960. の全訳である。ここに収録された五篇の論文は、第二章を除いていずれも最初「エラノス年鑑」に掲載されたものである(一九四九年、一九五〇年、一九五三年、一九五七年)。第二章の論文は、ロンドン大学において英語で講演されたのを後にショーレム自身が独訳し、一九五六年、雑誌「ディオゲネス」一四/一五号に発表したものである。また、本書のまえがきに当たる部分は、エラノス発行の月刊誌「ドゥー」の一九五五年四月号に「あるカバラ研究者の考察」という表題で発表された。」
「訳出にあたっては前半(まえがきと第一章・第二章・第三章)を岡部が、後半(第四章・第五章)を小岸が担当した。」



ショーレム カバラとその象徴的表現


目次:

はじめに

第一章 宗教的権威と神秘主義
第二章 ユダヤ教神秘主義における『トーラー』の意味
第三章 カバラと神話
第四章 カバラ儀礼における伝統と新しき創造
第五章 ゴーレムの表象

原注
訳者あとがき (小岸昭)
索引




◆本書より◆


「宗教的権威と神秘主義」より:

「神秘主義者は、聖典に、また自分の属する宗教の教義と儀式に、新しい象徴的な意味を付与するが――そのような仕事こそがほとんどすべての神秘主義者のおこなってきた業績にほかならず、また宗教史に占める神秘主義者の働きをかなり明らかにしている事柄でもある――、このように彼は、自分の属する伝統のなかに新しい次元、新しい深みを発見する。彼は、おのれ自身の経験を記述しそれについての考えを公式化するために象徴を用いるが、その時じつは――伝統の中身を象徴と見なしながらであれ、新しい象徴によって伝統の中身を解明しようとの試みであれ――再解釈を施すことによって宗教的権威を確証しようと企てているのである。だが、このように象徴の次元を切り開いてゆく行為において、神秘主義者は宗教的権威を変えてゆく。そして、彼の象徴的表現はこの変革のための道具となっている。彼は、うやうやしく崇めあげながら権威のまえにひざまずく。しかし、そのようにひざまずくとはいっても、しばしば大胆に、時には極端なやり方に走ってまでも彼が権威を変えてゆくという事実はほとんどおおい隠せない。」
「神秘主義者は、たいてい自分の考えをなんとか旧来の権威の枠内で唱導しようと力を尽くしていたのだが、その彼らが公然と既定の権威との抗争に走らざるをえなかったのは、自分たちの共同体のなかでとくに強大な打ち倒すことのできない反対勢力と衝突した場合にかぎられる。だが、これがもし彼らのほうで事態を左右しうる情勢にあったのであれば、わざわざ求めもしないそのような抗争は彼らのほうで避けたことだろう。多くの実例からもわかるとおり、彼らがいよいよ過激さをつのらせながら自分自身の理念を解釈しはじめるようになるのは、そのような抗争が完全に彼らの意に反してまでも強いられたときだった。」



「カバラと神話」より:

「私の所見では、歴史上においても、グノーシスの遺産に最古のカバラの伝統を結びつけている糸が、たとえ細い糸だとはいえまちがいなく何本か存在していると思われる。」
「もちろん、以上の点を確認することによって、われわれはいっそう深くカバラの問題性に立ち入ることになる。というのも、グノーシスとは、少なくともそのもっとも基本的なモチーフのいくつかは、(中略)反神話的ユダヤ教に対する反乱だったからである。つまりそれは、時期を経てすでに思想的な装いを凝らしているが、しかしそれだけ集中的に神話を内に孕んだ諸力の爆発だったのである。古典的なラビ的ユダヤ教は、われわれの年代計算でいう二世紀に、この異端形式を一見最終的に根絶したかに思えた。ところが、カバラにおいては、(中略)ほかならぬこのグノーシスの世界観が、ユダヤ一神教の神智学的解釈として突如再出現する。それも、中世ユダヤ教啓蒙主義最盛期の真只中に再出現する。そればかりかこのグノーシスの世界観は、ユダヤ教の中枢部において、自説こそがユダヤ教のもっとも本来的な秘義なのだと主張しうるのである。『ゾーハル』およびイサーク・ルリアの著作においては、つまり正統派の敬虔なカバラ主義者たちにとっては、グノーシス的象徴が、それにまた準グノーシス的象徴も、彼らのユダヤ教信仰世界のもっとも深奥の表現と化している。一神教の思考からは、はてしない努力が積み重ねられながら神話が削ぎ落とされていったわけだが、カバラとは、その最初の原動力からして、そういった脱神話化された一神教世界の内部における神話の蜂起だったのである。となると、換言していえば、カバラ主義者たちというのは、意識上はあくまで肯定してやまない世界に対し、反乱しつつ行動し、生きている者だということになる。当然その結果、底知れぬ両義的な言動が生ずる。」



「カバラ儀礼における伝統と新しき創造」より:

「ここで、儀礼に向かうカバラの態度にとってきわめて重要な、ある決定的な観点に言及しておきたい。諸事物の、その真正な統一にたいする正しい関係の確立というティクーンの肯定的局面に対応する否定的局面があるが、これについてルリアのカバラはベルル(Berur)なる術語を用いて説明している。ベルル(字義どおりには、「選択」を意味している)とは、右の正しい関係を撹乱する契機、すなわち、悪霊(デーモン)的・悪魔(サタン)的なものの諸力、カバラ主義者の用語でいう「裏側の世界」、シトラ・アハラ(sitra achra)の排除を表わしている。ことに儀礼にかんするルリアの理論は、いまやありとあらゆるもののなかに混じりこみ、一切を内部から破壊しようとする「裏側の世界」の駆逐と排除をいっそう推し進めようとする『トーラー』の意図に帰着する。こうした排除は、多くの儀礼が目指す目標である、と一六世紀サフェドのもっとも権威ある律法学者(ラビ)ヨセフ・カロは言う。」
「もちろん、この「裏側の世界」というのは、終末論の視点に立って見ない限りけっして完全に克服しきれるものではなく、また世界が現在置かれているような状態にあってはそうした克服の仕方を望むことさえしてはならないのだ。そういうわけで、『トーラー』のきわめて不透明な儀礼の、ほかならぬいくつかのものにかんする解釈のなかで、すでに『ゾーハル』がつぎのように述べているのもなるほどとうなずける。すなわち、そうした不透明な儀礼がじつは「裏側の世界」の占めるべき正当な場所を提供しており、しかるべき範囲内にこれを封じこめておくが、けっして撲滅するようなことはない、そうした撲滅はメシア到来の世界においてのみ可能である、と。」

「『タルムード』の伝承によれば、悪鬼とは、安息日がめぐってきたので、もはや肉体に相容れられなくなった霊として、金曜日の夕暮れに産み出されたものという。この言い伝えから後世の人々は、だから悪鬼はそれ以来ひとつの肉体を捜し求め、そのため人間にとりつくのだという(中略)結論を引き出したのである。この伝説に、いまひとつ別の観念が加わることになった。アベルが彼の兄によって殺されたあと父アダムが妻ともう交渉をもつまいと決心したのに、女の悪鬼である夢魔がアダムのところにやってきて、その子を孕んだ。したがって、アダムの生殖能力を悪用し邪道にみちびくこうした目合(まぐわい)から生まれてきたのが、ニゲ・ブネ・アダム(Nig'e Bne Adam)、「人間の血筋を引く邪(よこしま)なる霊」と呼ばれる一種の悪霊であったという。(中略)当の『ゾーハル』には、悪鬼たちの女王リリトあるいはその配下に属する悪鬼たちが、女性を相手にしないで行なわれる性行為に人間を誘惑して、生殖とかかわりなく射出される精液によってひとつの肉体を造ろうとするような神話が物語られている。(中略)六世紀のユダヤ人世界で編まれたアラム語の悪魔祓いの呪文集にすでに登場するこれらの夢魔たちは一三世紀末の『ゾーハル』のなかに頻繁に登場し、人間生活と「裏側の世界」との関係を描いてすこぶる重要な役割を演じている。」



「ゴーレムの表象」より:

「なによりもまず、一八〇八年にヤーコプ・グリムがロマン派の「隠者のための新聞」で鮮やかに報告したような、後世のユダヤ教的形式における伝説の像を掲げておきたい。
 「ポーランドのユダヤ人たちは、ある種の祈祷を唱え、いく日間かの断食の行(ぎょう)を成し遂げたあとで、粘土あるいは膠で人形(ひとがた)を造る。そして、この人形に向かって奇蹟をもたらすシェムハムフォラス(神の名)を語りかけると、人形は生命を獲得するはずである。その人形は語ることこそできないが、話されたり命令されたりしたことはかなりの程度理解する。彼らはこの人形をゴーレムと呼び、あらゆる家事労働を行なうひとりの召使に仕立てるのだ。しかし、ゴーレムは家のなかから外に出ることはぜったいに許されない。その額には「真理(エメト)」(emeth)なる文字が記されており、ゴーレムは日ごとに体重を増やして、最初のうちこそ小さかったのに、家じゅうのほかの誰よりもたやすく大きく強くなるのだ。となると、彼らはゴーレムに恐れをなして、最初の文字を消し去ると、「彼は死んだ(メト)」(meth)しか残らないことになって、その結果ゴーレムは瓦解し、ふたたび粘土にもどるのである。それはさておき、かつてある人のゴーレムが恐ろしく大きくなったのに、無頓着にも彼はこれを成長しつづけるのにまかせていたので、ゴーレムの額にもう手が届かなくなってしまった。恐ろしくなって男は、彼の長靴を脱がせてほしいとこの召使に命じた。ゴーレムがしゃがんだすきに、その額に触れるつもりだったのである。はたして事は思惑どおりに運んで、最初の文字はうまい具合に取り除かれはしたが、粘土の塊がどさりとばかりこのユダヤ人のうえに崩れ落ちてきて、彼を押し潰してしまった。」」

「魔術によって造られた人間であるゴーレム像を研究しようとすれば、われわれはどうしても最初の人間たるアダムにかんするユダヤ教の表象のいくつかに立ち返らざるをえない。けだし、そもそもの初めから、ゴーレムの創造がある意味で神によるアダムの創造と張り合う行為であるというのは、火を見るより明らかだからである。」

「アダムは土から取り出され、また土に還ってゆく生けるもの、神の息をはきかけられ生命と言葉を授けられた存在である。アダムは土からできた人間である。」

「ところで、すでに『タルムード』の「アガダー」において、(中略)アダムはその創造のある段階でゴーレムと名づけられているのである。」






























































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本