『定本 柳田國男集 第三十一卷 雜纂Ⅲ』 (新裝版)

「新しい文化の潮流に乗じ、是と適応し又妥協し得なかつた者の行先が、如何に悩ましく又憂鬱なものであつたかは、決して空漠なる詩材で無く、又単なる他山の石でも無い。」
「以前我々が山立の気風として、(中略)あれほど注視し又批判した正直・潔癖・剛気・片意地・執着・負けぎらひ・復讐心その他、相手に忌み嫌はれ畏れ憚られ、文芸には許多の伝奇を供し、凡人生涯にはさまざまの波瀾を惹起した幾つともない特色は、今や悉く解銷して虚無に帰したのであらうか。或は又環境に応じ形態を改めて、依然として社会の一角を占取し、この今日の日本的なるものを、撹乱せずんば止まじとして居るであらうか。」

(柳田國男 「山立と山臥」 より)


『定本 柳田國男集 
第三十一卷 (新裝版)』 

雜纂Ⅲ

筑摩書房 
昭和45年12月20日 第1刷発行
563p 目次7p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価980円

月報 31 (12p):
柳田先生を偲びて(金田一京助)/柳田先生追憶(石田幹之助)/柳田さんの論説(殿木圭一)/柳田先生と放送(熊谷幸博)/賢者の幻覚(富木友治)/順正書院のこと(生田清)/柱のかげから(鎌田久子)/次回配本 他/図版(モノクロ)1点



全31巻・別巻5巻。本文正字・正かな。


柳田国男集 三十一


内容 (初出):

現代科學といふこと (昭和二十二年十月、「民俗學新講」明世堂書店)
郷土研究の話 (昭和十五年十月、教養放送九十二號)
成長は自然 (昭和十一年二月、近畿民俗一卷一號)
日本民族と自然 (草稿)
農村保健の今昔 (昭和十六年四月、醫事公論一五〇〇號)
おとら狐の話 (未完草稿)
飯綱の話 (未完草稿)
山立と山臥 (昭和十二年六月、「山村生活の研究」民間傳承の會)
傳説のこと (昭和二十五年三月、「日本傳説名彙」日本放送出版協會)
富士と筑波 
瑞穗國について (昭和二十六年十月、國學院雜誌五十二卷一號)
米の島考 (未完草稿)
倉稻魂考 (未完草稿)
農村と秋まつり (昭和二十年十一月、建設靑年九卷七號)
村を樂しくする方法 (昭和二十二年八月、社會と學校一卷四號)
關東の民間信仰 (昭和二十二年五月、苦樂二卷五號)
新式占法傳授 (大正七年十月、同人二十八號)
前兆 (昭和十三年七月、民間傳承三卷十一號)
アイヌの家の形 (明治四十三年十一月、人類學雜誌二十六卷二九八號)
つぐら兒の心 (昭和九年八月二十六日、朝日新聞)
寄り物の問題 (昭和二十五年四月、加能民俗一號)
郷土舞踊の意義 (大正十五年六月、七月、靑年十一卷六號、七號)
舞と踊との差別 (草稿)
假面に關する一二の所見 (昭和四年十月、民俗藝術二卷十號)
田植のはなし (昭和九年六月、經濟往來九卷六號)
歌と國語 (昭和十七年五月、短歌研究十一卷五號)
歌のフォクロア (昭和二十三年三月、短歌研究五卷三號)
俳諧雜記 (昭和二十二年三月、文藝春秋二十五卷二號)
テルテルバウズについて (昭和十一年十月、小學國語讀本綜合研究卷二―一、岩波書店)
かぐやひめ (昭和十一年十月、小學國語讀本綜合研究卷四―一、岩波書店)
浪合記の背景と空氣 (未完草稿)
方言覺書 (昭和十一年四月、近畿民俗一卷二號)
江湖雜談 (昭和九年二月、河と海四卷二號)
デアルとデス (草稿)
今までの日本語 (昭和三十年一月、二月、教育研究十卷一號、二號)
話し方と讀み方 (昭和二十四年一月、教育復興二卷一號)
文章革新の道 (昭和二十二年一月八日、九日、夕刊新大阪)
春來にけらし (昭和二十六年一月九日、十日、十一日、東京新聞)
思ひ言葉 (昭和二十六年七月四日、朝日新聞)
和歌の未來といふことなど (昭和二十九年一月、短歌創刊號)
平瀨麥雨集小序 (昭和二十三年九月、科野雜記社)
イブセン雜感 (明治三十九年七月、早稻田文學七號)
讀書餘談 (明治四十年十二月、趣味二卷十二號)
伊頭園茶話から (大正十五年三月、民族一卷三號)
飜譯は比較 (昭和十四年九月、白水六十六號)
「少年の悲み」などのこと (國木田獨歩・石川啄木作品集内容見本)
二階と靑空 (昭和二十四年十二月、成城文學三號)
「ドルメン」を再刊します (昭和十三年五月、ドルメン廣告)
「農家と人」審査感想 
「孤島苦の琉球」 (大正十五年五月、大阪朝日新聞)
「朝鮮民俗誌」 (昭和二十九年)
「近畿民俗」 (昭和十一年二月、民間傳承六號)
系圖部を讀みて (昭和六年四月、歴史と國文學四卷四號)
「村のすがた」と社會科教育 (昭和二十三年六月、朝日出版月報第四號)
「遠野」序 (昭和二十四年十二月、遠野町)
旅と文章と人生 (昭和二十五年四月、「ふるさとの生活」序 朝日新聞社)
大嘗祭と國民 (昭和三年十一月十二日、朝日新聞)
大嘗祭ニ關スル所感 (草稿)
史學興隆の機會 (昭和二十一年八月十五日、時事新報)
一つの歴史科教案 (昭和二十二年二月、教育文化六卷二・三號)(原題、「歴史を教へる新提案」)
新たなる統一へ (昭和二十七年一月四日、朝日新聞)
中農養成策 (明治三十七年一月、中央農事報四十六號)
保護論者が解決すべき一問題 (明治四十年十一月、中央農事報九十二號)
産業組合の道德的分子 (明治四十三年九月、産業組合五十九號)
農業用水ニ就テ (明治四十年一月、法學新報十七卷二號)
將來の農政問題 (大正七年六月、帝國農會報八卷六號)
次の二十五年 (大正十四年六月、農業組合)
塔の繪葉書 (明治三十八年九月、十月、ハガキ文學二卷十四號、十五號)
マッチ商標の採集 (明治四十年六月、趣味二卷六號)
友食ひの犠牲 (昭和二年三月二十六日、朝日新聞)
山帽子 (昭和二十一年十二月、「百人百趣上」土俗趣味社)
山の休日 (昭和二十三年十月、山一二四號)
作之丞と未來 (昭和二十四年四月二十六日、二十七日、東京日々新聞)
特攻精神をはぐくむ者 (昭和二十年三月、新女苑九卷三號)
女の表現 (昭和二十三年一月、朝日評論三卷一號)(原題、「女」)
教師は公人 (昭和二十四年十月、教育女性一卷六號)
通信の公私
讀書人の眼
常民の生活知識 (草稿)
鷺も烏も (大正十三年七月、アサヒグラフ夏季增刊號)
あなおもしろ (大正十三年七月、アサヒグラフ三卷五號)
發見と埋沒と (大正十三年九月、アサヒグラフ三卷十二號)
大佛と子供 (大正十三年九月、アサヒグラフ三卷十三號)
仙人の話 (大正十四年十二月、アサヒグラフ五卷二十五號)
誰に見せう (昭和四年五月、アサヒグラフ十二卷二十號)
夏祭進化 (昭和十三年八月、新風土一卷三號)
喜談小品 (昭和十四年六月、アサヒグラフ三十二卷二十五號)
「野方」解 (昭和十二年六月、高志人二卷六號)
ツルウメモドキ (昭和十三年三月三十日、一卷三號) 【原文のママ】
東北の芹の鹽漬 (昭和十五年一月、主婦之友二十四卷一號附録)
故郷の味
梅についてのお願ひ (昭和二十四年五月、民間傳承十三卷五號)
私の書齋 (昭和二十二年十月、婦人四號)
町の話題 (昭和二十七年十一月二十七日、「きぬた」)
泥棒公認 (大正十三年十月十七日、朝日新聞)
猿落しの實驗 (大正十三年十二月二十日、朝日新聞)
御誕生を悦ぶ (大正十四年十二月七日、朝日新聞)
あつい待遇 (大正十五年九月七日、朝日新聞)
新しい統一のため (昭和二十四年一月五日、朝日新聞)
日本民俗學の前途 (昭和二十二年五月二十三日、二十四日、時事新報)
紙上談話會 (昭和二十五年二月、民間傳承十四卷二號)
創刊のことば (昭和三年一月、民俗藝術創刊號)
新しい光 (草稿)

内容細目
あとがき




◆本書より◆


「農村保健の今昔」より:

「こゝで申上げたいことは、自癒力といふことである。
 昔の人は自癒力が強い。これは動物などにあるのだが、とかげの再生力と行かないまでも、受けた傷に對して何らの手當をしないでも、體力によつて治癒させてしまふ、あの力である。
 いつか、木曾の山奧に行つた時一しよになつた炭燒が鉈で指を切つてしまつた。すると指を抑へて「砂糖、砂糖」と云つて、その傷口に砂糖を塗りつける。まさか砂糖では治る筈がないが、それで充分だといふのである。切落した指をしつかりと抑へて、くつゝけてゐるうちに、癒着してしまつたといふ話も多いけれど、これらはみんな自癒力だと稱して差支へあるまい。
 昔の通りの生物が持つてゐる力を、人間が文化的になつてからも保存してゐた。それが自癒力である。
 ところが今日では、醫藥をあまりに重んずるために、あまりにもこの力が失はれたやうである。
 これは一種の精神力で、死なゝい、必らず治るといふ氣持が、人間を病氣から救ふことは珍らしいことではなく、このやうな氣力を失ふことは歡ぶべき現象ではない、むしろ損だとわたしは考へる。
         ○
 更にもう一つ、現在あまりに天然療法を馬鹿にしすぎることである。
 明治になつて、西洋醫學が王座を占めてから、わたしどもの周りにある草根木皮は全く顧みられなくなつてしまつたが、あまり之を輕視したゝめに、今日恰度その逆の結果や影響が現はれて來てゐるやうに思はれる。
 漢方醫のなかにも二種あつて、傷寒論その他支那の醫書に現れた藥劑をのみ尊重する人と、病氣にはその郷土にあるもの、その周圍にあるものが治療の役に立つと考へて、郷土を重んずるものとがある。
 極端な一例を擧げると、これは有名な話であるが、殿樣の病氣がなかなかなほらない。たくさんの醫者が匙を投げてしまつた後、ある醫者がすつかり治癒させた。何を藥に用ゐたかと云ふと、壁土をのませた。また、便所のすぐそばの土を取つて來てのませたといふ話がある。
 かういふ醫方が昔あつたのを、西洋醫學がすつかりこはした。
 まだ殘つてゐるものは、みんな迷信として一笑に附される。
 病人の郷土に藥があるといふ思想は、今日單なる迷信とされてゐるけれど、これはたはごとでも、神がゝりでもなく、(中略)輕々しくすべきものではないのに、誤まれる科學觀は、かういふ傳統の所産を玉石共に捨てゝしまつたので返す返すも殘念なことである。」



「おとら狐の話」より:

「先一疋の犬を縛つて、思ふさま腹を減させて置く。其から旨さうな食物を持つて來て、犬の口から一尺位の處に置く。食ひたくて食ひたくて一念が全く此皿に集注するを見澄まし、可愛さうに犬の首をちよん切る。さうした念の繋かつた食物を人が食へば、其人が犬神筋になると謂ふが、多くの人の説では、其の斬つた首を髑髏にして、箱か何かに入れて携へると、影の如く身に添うて、少くとも憎いと思ふ者を、攻撃することの役だけは忠實に勤める。是が一部の俗人の、信じて居る犬神の起原である。」
「犬の髑髏の話は、口寄せをしてあるく市子(いちこ)の箱に關聯して、寧ろ人がよく知つて居る。市子之を容れた箱に凭つて居ると、自然と只の人の知らぬことが判つて來ると謂ふ。勿論怖しい秘密であるが、時として之を見たと云ふ者がある。例へば江戸の昔、相州から毎年來る歩行巫、甚しい粗忽者と見えて、大切な服紗包を置忘れて歸つた。開けて見ると二寸程の厨子に、一寸五分ばかりの何とも分らぬ土の佛像と、外に猫の頭かとも思はれる干固まつた一物がある。そこへ大汗に爲つて巫女走り戻り、漸と返して貰つて其禮心に秘密を明した。是は(中略)六代も前から持傳へた尊像である。一種特別なる格好をした人の首を、死ぬ前に貰はうと兼て約束して置いて、今はと云ふ際に其首を切落し、人通の多い場所に十二ヶ月埋めて置く。其から取出して髑髏に附いた土を集め、斯した像を造るのである。之を懷中して居れば、神靈の力で如何やうの事でも判ると謂つた。今一つの獸の頭の方は、宥してくれと言つて何も教へなかつた。此等が犬の頭の評判を世に高くしたのである。異相の人の首の骨と云ふことも、亦色々奇抜な實驗談があつて、一概に同じ方法とも言はれぬ。或地方では髑髏を其儘使ふ者もあつた。」
「東北地方には此類の人又は家に屬して、一定の地には祭らぬ神樣が多く、御神體は大抵神秘であつて、其效驗はやはり人に憑いて不思議を語る點に在るが、唯憑かれる人が持主自身で、從つて害はせずに爲になる場合の多いことが、人狐や犬神と別物らしく考へしめるのみである。而も其神の淡泊で無く、何かと云ふと祟が烈しいことは、往々にして持主をうんざりさせる。恐くは今一時代を過ぎたならば、或は其家筋を畏れ且つ忌むやうになるであらう。出羽の莊内でイタカ佛を持つ家は、今既に縁組に障がある。陸前黑川郡の某家のオシラ佛などは、御利益は別に無く祟ばかり多いが、昔から有る故に祭つて居る。或年洪水を幸に川に流したが、やつぱり逆流して還つて來たので、怖しくなつて今まで祭つて居ると云ふ。此類の神は弘く後佛(うしろぼとけ)の名を以て知られて居る。元はオシラと關係の有つた語かも知らぬが、人は文字に據つて、正面には拜まれぬ佛と解して居るやうである。ゲホウ頭などのゲホウは外法であらう。今昔などには外術者と云ふ語もある。犬神を外道と謂ふと、同じ意味に出でたものと思ふ。
 人の髑髏が外法の用を爲したことは、至つて古くからの話である。其を如何して得たかは記録には無いが、能ふべくは出來合よりも誂へて造らうとするのが、斯な後暗い邪術に携はる程の者の人情で、從つて有得べからざる怖い話も遺つて居るのである。時も處も判然せぬやうな話であるが、曾て或老人最愛の孫を見失ひ、狂人のやうに爲つて探し廻つて居る中に、夕方の俄雨でとある農家の軒に立つとき、至情が感應したものか、幽に兒供の呼ぶ聲を聞き、どう聞直しても我孫であつた。そこで之を官に訴へて、役人たち共々無理に其家に押入り、奧深く覓めて人の長ほどの甕の中に、其兒の匿されてあるを見出した。始勾引(かどわか)されて衣食頗る足る。夫より日に食を減じて此甕の中に入れ、終には何物をも與へず、唯毎日法醋を身に注がれ、關節脈絡悉く錮釘し、苦痛既に極まれりと、語り終つて氣絶えた。仍て其家老少盡く極刑に處せられた。是も一種の魔術があつて、かうして死んだ兒の枯骨を收め、其魂を掬し貯へて置けば、常に耳の邊に在つて物を教へてくれるのだと云ふことであつた。食物で魂を誘ふと云ふのは、質朴時代からの信仰の形である。」



「山立と山臥」より:

「熊野の北山、日向の那須などの舊記を讀んで見ると、山民は近世の平和時代に入るに先だち、又その平和を確保する手段として、驚くべく大規模の殺戮を受けて居る。他の多くの山地でも、文書の史料は無いけれども、恐らくは亦同一の趣旨、同樣の利害衝突によつて、たとへ殺されないまでも強い壓迫を受けて、散亂してしまつたらうことは想像せられる。彼等の生活法則に農業者と一致せぬ何物かゞ有つたとすると、それは勿論世の所謂亂世に適したものであつて、言はゞこの以前が幾分か榮え過ぎて居た爲に、反動が特に悲慘であつたのである。勿論その中には懲戒し治罰せらるべき者が、少數は確かにまじつて居つたらう。しかし他の大多數は無辜であつた。婦女幼童は申すに及ばず、爭ひ又は制する力が無くて、盲從して卷添を食つた者は幾らあつたか知れない。さうして近頃までの異色ある山村生活は、この一種の廢墟の上に、再び築き上げられて居たものゝ樣に、自分等には感じられる。
 新しい文化の潮流に乘じ、是と適應し又妥協し得なかつた者の行先が、如何に惱ましく又憂鬱なものであつたかは、決して空漠なる詩材で無く、又單なる他山の石でも無い。」

「自分は大正八年に世に出した「神を助けた話」といふ小冊子の中に、故人佐々木喜善君が陸中宮守村のマタギから、見せて貰つて寫し取つたといふ山立由來記の文を附載して置いたが、この際に始めてヤマダチといふ語の、惡い言葉でなかつたことを知つたのである。都市の文藝に於ては、山立は乃ち山賊のことであつた。是を自身の最も莊重なる由緒書に、我名として一方は使用して居るのだから、彼と是と感覺の喰ひちがひがあつたことは明かで、或は同一筆法で野伏といふ人々、即ちまけ戰の軍勢を横合から不意に襲撃して、太刀や鎧を剥ぐのを職業として居るやうに、軍書や芝居には定義づけて居る者なども、少なくともそれで生計を立て又其名を得たのではないことを、疏明し得るやうに思つても見たのである。社會科學の野外作業に携はるものは、斯ういふ文庫の壓制とも名づくべきものから、弱者を擁護する義務があるのでは無からうか。
 勿論山立は以前は決して弱者ではなかつた。今でも個人々々の氣魄體力、物に執する意志の強さなどを評價すれば、我々は一人として之に敵する者も無いのだが、奈何せん數少なく組織は衰へ、第一に環境が元のまゝでない爲に、いつしか一種の旅商人の、最も賴りない者に變化しかゝつて居るのである。」

「マタギ山立の群は既に數を減じ、又生業の基礎に離れてもはや特異の存在を保てなくなつた。驗者の佛法は潰滅して跡方も留めなくなつて居る。しかも彼等を祖先とする者の血は、里に入り農民の中をくゞり、今日の所謂大衆の間に混入してしまつた。以前我々が山立の氣風として、又は山臥行者の長處短處として、あれほど注視し又批判した正直・潔癖・剛氣・片意地・執着・負けぎらひ・復讐心その他、相手に忌み嫌はれ畏れ憚られ、文藝には許多の傳奇を供し、凡人生涯にはさまざまの波瀾を惹起した幾つともない特色は、今や悉く解銷して虚無に歸したのであらうか。或は又環境に應じ形態を改めて、依然として社會の一角を占取し、この今日の日本的なるものを、攪亂せずんば止まじとして居るであらうか。」





































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『定本 柳田國男集 第三十卷 雜纂Ⅱ』 (新裝版)

『定本 柳田國男集 
第三十卷 (新裝版)』 

雜纂Ⅱ

筑摩書房 
昭和45年11月20日 第1刷発行
516p 目次2p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価980円

月報 30 (8p):
詩人松岡國男(野田宇太郎)/柳田先生と人類学(石田英一郎)/心情の論理(福永武彦)/先生のおもいで(山本嘉次郎)/柳田先生の思い出(一)(山下久男)/次回配本



全31巻・別巻5巻。本文正字・正かな。


柳田国男集 三十


内容 (初出):

女性生活史 (昭和十六年一月~九月、婦人公論二十六卷一號~九號)
比較民俗學の問題 (草稿)
學問と民族結合 (昭和十五年十月、朝鮮民俗三號)
フィンランドの學問 (昭和十年、菱華一三四號)
學者の後 (草稿)
罪の文化と恥の文化 (昭和二十五年五月、民族學研究十四卷四號)(原題、「尋常人の人世觀」)
甲賀三郎 (大正五年一月、郷土研究三卷十號)
和泉式部 (大正五年七月、郷土研究四卷四號)
片目の魚 (大正六年二月、郷土研究四卷十一號)
桃太郎根原記 (昭和五年五月、文學時代二卷五號)
みさき神考 (昭和三十年八月、日本民俗學三卷一號)
行器考 (草稿)
習俗覺書 (昭和十五年四月、會館藝術九卷四號)
たのしい生活 (昭和十六年六月、新女苑五卷六號)(第一囘新女苑文化講座講演)
知識と判斷と (昭和十七年八月、新女苑六卷八號)
女性と文化 (昭和十七年十一月、婦人朝日十九卷十四號)
俳諧と Folk-Lore (大正十四年四月、日光二卷三號)

序跋集
 『山村生活調査第二囘報告書』緒言 (昭和十一年三月、民間傳承の會)
 『日本民俗學研究』開白 (昭和十年十二月、岩波書店)
 『日本民俗學入門』序 (昭和十七年八月、改造社)
 『産育習俗語彙』序 (昭和十年十月、恩賜財團愛育會)
 『婚姻習俗語彙』序 (昭和十二年三月、民間傳承の會)
 『葬送習俗語彙』序 (昭和十二年九月、民間傳承の會)
 『禁忌習俗語彙』序 (昭和十三年四月、國學院大學方言研究會)
 『服裝習俗語彙』序 (昭和十三年五月、民間傳承の會)
 『分類漁村語彙』序 (昭和十三年十二月、民間傳承の會)
 『居住習俗語彙』序 (昭和十四年五月、民間傳承の會)
 『分類山村語彙』序 (昭和十六年五月、信濃教育會)
 『族制語彙』自序 (昭和十八年五月、日本法理研究會)
 『分類農村語彙』增補版解説 (昭和二十三年九月、東洋堂)
 『分類農村語彙』自序 (昭和七年七月、信濃教育會)
 全國方言記録計畫
 『伊豆大島方言集』編輯者の言葉 (昭和十七年六月、中央公論社)
 『周防大島方言集』序 (昭和十八年二月、中央公論社)
 『伊豫大三島北部方言集』序 (昭和十八年十二月、中央公論社)
 全國昔話記録趣意書 (昭和十七年六月、磐城昔話集・阿波祖谷山昔話集・佐渡島昔話集・島原半島昔話集、三省堂)
 『全國昔話記録』編纂者の言葉 (昭和十八年九月、上閉伊郡昔話集。御津郡昔話集・南蒲原郡昔話集・壹岐島昔話集・甑島昔話集・直入郡昔話集・讃岐左柳志々島昔話集、三省堂)
 『日本の昔話』監修者のことば (昭和三十年六月、實業之日本社)

「郷土研究」小篇
 郷土會第十四囘例會記事 (大正二年三月、郷土研究一卷一號)
 千曲川のスケッチ(島崎藤村著) (同)
 郷土會記事 (大正二年四月、同一卷二號)
 漫遊人國記(角田浩々歌客著) (同)
 考古學會遠足會 (大正二年五月、同一卷三號)
 郷土會第十七囘例會 (同)
 石見三瓶山記事 (同)
 杜鵑に關する研究 (同)
 寺と門前部落 (同)
 特殊部落の話 (同)
 宮田沿革史稿 (同)
 學會講演記事 (大正二年七月、同一卷五號)
 能登の久江及石動 (大正二年十月、同一卷八號)
 石卷氏の山男考 (大正二年十二月、同一卷十號)
 あいぬ物語(山邊安之助著金田一京助編) (同)
 續三千里卷上 (大正三年二月、同一卷十二號)
 大日本老樹名木誌 (大正三年三月、同二卷一號)
 神代の研究(福田芳之助著) (大正三年四月、同二卷二號)
 奧羽人の移住 (大正三年五月、同二卷三號)
 神社の建築學 (同)
 醤油沿革史 (大正三年六月、同二卷四號)
 山人の衣服 (大正三年七月、同二卷五號)
 編輯室より (同)
 讀賣新聞の事業 (同)
 東京帝國大學文科大學紀要第一 (同)
 故郷見聞録 (同)
 地誌刊行の事業 (大正三年八月、同二卷六號)
 張州府志 (同)
 作陽誌と東作誌 (同)
 藝藩通志 (同)
 信濃史料叢書 (同)
 房總叢書 (同)
 「郷土研究」の記者に與ふる書後記 (大正三年九月、同二卷七號)
 山に行く靑年 (同)
 旅客の社會上の地位 (同)
 瀨戸内海の島々 (同)
 出水被害と架橋權問題 (大正三年十月、同二卷八號)
 エール大學の留書類購入 (同)
 本邦建築用材調査 (同)
 童話傳説に現はれたる空想 (同)
 高倍神考 (同)
 言繼卿記 (同)
 遊行婦考 (同)
 信州の高天原 (大正三年十一月、同二卷九號)
 諏訪研究の曙光 (同)
 大阪の郷土研究 (同)
 地藏の新説 (同)
 無形の天然記念物 (同)
 陶山鈍翁遺稿 (同)
 都市と村落 (大正三年十二月、同二卷十號)
 雜誌「風俗圖説」 (同)
 金澤博士の國語教科書 (同)
 尚古黨の哀愁 (大正四年一月、同二卷十一號)
 趣味が學問を侮る傾向 (同)
 古墳鑑定學の發達 (同)
 古典攻究會 (同)
 家族制度調査會 (大正四年一月、同二卷十一號) 
 石見の鼠 (大正四年二月、同二卷十二號)
 郷土研究の二星霜 (同)
 地理的日本歴史 (同)
 茨城縣の箕直し部落 (大正四年三月、同三卷一號)
 郷土研究と云ふ文字 (同)
 散居制村落の研究 (大正四年四月、同三卷二號)
 飛騨雙六谷記文 (同)
 五月と郷土研究 (大正四年五月、同三卷三號)
 穀物がまだ降る (同)
 鹿の住む島 (同)
 新式の御靈祭 (同)
 山路愛山氏の見る田舎 (同)
 六月の雪 (大正四年六月、同三卷四號)
 臺灣蕃族調査報告書 (同)
 元寇史蹟の新研究 (同)
 徐福纜を解く (大正四年七月、同三卷五號)
 野中の水 (同)
 『乳のぬくみ』 (大正四年八月、同三卷六號)
 『日光』(史蹟名勝天然記念物保存會編輯) (同)
 『南總の俚俗』(醫學士内田邦彦氏編) (同)
 行脚研究者の不能事 (大正四年九月、同三卷七號)
 各地の蒐集事業 (同)
 古傳説の和邇 (大正四年十月、同三卷八號)
 所謂布施屋敷跡 (同)
 阿曾沼古譚 (同)
 平凡の不朽 (同)
 石佛流轉 (同)
 傳説蒐集の流行 (同)
 垣内の成長と變形 (大正四年十一月、同三卷九號)
 「日本及日本人」の郷土號 (同)
 大禮の後 (大正五年一月、同三卷十號)
 神社と宗教 (同)
 所謂記念事業 (同)
 舊式の新著 (同)
 郷土會記事 (大正五年二月、同三卷十一號)
 越後の白米城 (大正五年七月、同四卷四號)
 燃ゆる土 (大正五年八月、同四卷五號)
 旅中瑣聞 (大正五年十一月、同四卷八號)
 柴塚の風習 (同)
 石占の種類 (大正六年一月、同四卷十號)
 神の眼を傷けた植物 (大正六年三月、同四卷十二號)
 松浦小夜姫 (同)
 松童神 (同)
 十貫彌五郎坂 (大正六年三月、同四卷十二號)
 蝦夷の内地に住すること (大正二年三月、同一卷一號)
 動物文字を解するか (大正三年一月、同一卷十一號)
 磐次磐三郎 (大正三年三月、同二卷一號)
 京丸考 (大正三年八月、同二卷六號)
 政子夢を購ふこと (大正三年十月、同二卷八號)

「郷土研究」小通信
 「紙上問答」の中止 (大正五年四月、郷土研究四卷一號)
 「裏日本」 (同)
 「澀江抽齋」 (大正五年五月、同四卷二號)
 信濃郷土史研究會 (同)
 美濃の祭禮研究 (同)
 『出雲方言』の編輯 (大正五年六月、同四卷三號)
 ソリコと云ふ舟 (同)
 八郎權現の出身地に就て (大正五年七月、同四卷四號)
 河口君の『杜鵑研究』 (同)
 黑木と筏に就て (同)
 屋根を葺く材料 (大正五年八月、同四卷五號)
 松井七兵衞君より (同)
 童話の變遷に就て (大正五年九月、同四卷六號)
 土佐高知より (大正五年十月、同四卷七號)
 勝善神 (同)
 結婚年齡の定め (同)
 摘田耕作の手間 (大正五年十一月、同四卷八號)
 タウボシに非ざる赤米 (同)
 長者と池 (同)
 楊枝を賣る者 (同)
 風俗問状答書 (大正五年十二月、同四卷九號)
 鍛冶屋の話 (大正六年一月、同四卷十號)
 箸倉山のこと (同)
 咳のヲバ樣 (同)
 石敢當 (同)
 杓子の種類 (同)
 フロ屋と云ふ家筋 (同)
 日向椎葉山の話 (大正六年二月、同四卷十一號)

「郷土研究」方言欄 (大正五年四月、五月、六月、七月、同四卷一號、二號、三號、四號)
「郷土研究」の休刊 (大正六年三月、同四卷十二號)

「民族」雜篇
 編輯者の一人より (大正十四年十一月、民族一卷一號)
 北方文明研究會の創立 (同)
 啓明會と南島研究 (同)
 おもろ草子の校訂刊行 (同)
 耳たぶの穴 (同)
 百姓の服制 (同)
 南部叢書刊行の計畫 (大正十五年一月、同一卷二號)
 杖成長の例 (大正十五年五月、同一卷四號)
 竈神と馬の沓 (大正十五年七月、同一卷五號)
 猿屋土着の例 (同)
 觀音堂の額 (大正十五年一月、七月、同一卷二號、五號)
 抜け參り (大正十五年九月、同一卷六號)
 「八幡と魚の牲」後記 (同)
 まんのふ長者物語 (同)
 編輯者より (大正十五年十一月、同二卷一號)
 編輯者より (大正十六年一月、同二卷二號)
 菅江眞澄の故郷 (同)
 天神樣と雷 (同)
 編輯者より (昭和二年三月、同二卷三號)
 北方文明研究會の現状 (同)
 各地婚姻習俗比較 (同)
 遠州西部の田遊祭附 (同)
 編輯者の一人より (昭和二年九月、同二卷六號)
 八月十五夜の行事 (同)
 編輯者より (昭和三年一月、同三卷二號)
 交易と贈答 (同)
 編輯室より (昭和三年五月、同三卷四號)
 編輯室の一人より (昭和三年七月、三卷五號)
 諸國禁忌事例 (昭和三年九月、同三卷六號)
 記者申す (昭和三年十一月、同四卷一號)
 串柿を詠じた唄附記 (昭和四年一月、同四卷二號)
 道祖神の唄附記 (同)

「土俗と傳説」雜篇
 國々の巫女 (大正七年八月、土俗と傳説一卷一號)
 眞繼氏 (同)
 燕の巣の蜆貝 (大正七年九月、同一卷二號)
 方言 (大正七年八月、九月、同一卷一號、二號)

内容細目
あとがき




◆本書より◆


「甲賀三郎」より:

「人が生きながら鳥獸蟲魚に身を變へたと云ふ話は、所謂荒唐無稽の甚しきもので、其近世小説家の空想を超越して必ずしも適切で無い所の兄弟三人の話、其一人が異形になつたことを知らずに還つて來たと云ふやうな話が、斯くも根強く行はれて居るのは、恐くは只の縁起作者の筆の力ではあるまいと思ふ。自分は曾て丸々掛離れた羽後の一山村に於て、或木樵の兄弟の一人が山に入つて異魚を食ひ蛇となつた話を讀んだことがあるが、どうしても出處を思ひ出せぬ。漫遊人國記羽後八郎湖の條に、龍神八郎の身上として聞書してあるのはそれとよく似た話で、乃ち奧羽永慶軍記に基いたものらしい。(中略)昔八郎潟の地がまだ湖水でなかつた時に、近き里に住する八郎と云ふ木樵、他の二人の木樵と共に山に入り、澤邊に於て三疋の魚を取り、三人で食はうと思つて之を燒くと、其香芳しくして堪へ難く、兎角堪忍ならずして獨で三つの魚を食うてしまうた。然るに咽の渇くこと限なく、澤水に浸つて一滴をあまさず飲みほさんと這臥して居るのを、他の兩人が來て見ると既に形が變つて居る。八郎兩人に向ひ我はしかじかの次第今は大蛇になるべし、早く里へ返れと告げ、程もあらせず身は蛇體となつて山を砕き谿を埋めて潟とし、終に其主になつたと云ふのである。此話の通例の夜叉池傳説と異なる點は、異魚を食ひ咽が渇いたと云ふ一節である。同じ羽後でも仙北郡の長樂寺と云ふ處で言傳つて居る話などは、主人公は若い娘で池に入つて主となつたと稱し、愈〃以て龍神が配を覓めた話に近くなつて居るが、それでもやはり魚を食つて咽が渇いたと云ふ要點を存留して居る。長樂寺の玉池と云ふは以前は深さを知らぬ大池であつた。大昔此地に母と娘と二人淸水の邊に住んで居たが、或時娘は此淸水で捕つた七八寸ほどの魚を串にさして燒いて食うた處が、咽が渇いてたまらず、手桶甕の水を飲乾しても足らず、池の水に口を附けて飲む程に我身の心地がせぬやうになり、水鏡を見ると既に三四尋の大蛇となつて居た。そこで涙ながらに母の許に來て此事を語り、終に此池に入つて池の神となつたとある(中略)。要するに母一人娘一人と云ひ友人三人と云ふのも、見やうに由つては甲賀三郎の三兄弟と同系統の話とも見える。又羽後の田澤湖の池の主となつた鶴子と云ふ美女なども、今では大蛇に化した理由は別樣であるが、是も母と娘と二人で居たと云ひ、母が絶望して水に投じた松明の燒殘りが、今のキノシリ鱒即ち黑鱒となつたと云ふなどを思ひ合せると(中略)、もとはやはり魚を食うたのが變身の原因であつたのかも知れぬ。
 自分は爰に甲賀三郎系の説話の由來に付て試に大膽なる一假定を下さんとする者であるが、先づ其前に支那に於ける古い一類型を擧げて置く。西陽雜俎續集卷二、(中略)貞元中百姓王用なる者炭を谷中に業(なりはひ)とす。中に水あり方數歩、常(かつ)て二黑魚を見る。長さ尺餘、水上に浮べり。用木を伐り饑困す。遂に一魚を食ふ。其弟驚いて曰く、此魚或は谷中の靈物ならん、兄奈何ぞ之を殺せると。須くあつて其妻之に餉(ひるげ)す。用斧を運(うごか)して已まず、久しうして乃ち面を轉す。妻状貌に異あるを覺え、其弟を呼んで之を視す。忽ち衣を褫(は)ぎ號び躍り變じて虎となる焉。徑(ただ)ちに山に入り時々麞鹿を殺して夜庭中に擲ぐ。此の如きこと二年なり。一日日昏る、門を叩いて自ら名のつて曰く、我は用なりと。弟應へて曰く、我が兄變じて虎となること三年なり矣。何の鬼ぞ吾兄の姓名を假るはと。又曰く、我往年黑魚を殺し冥謫せられて虎となる。此(このごろ)人を殺すに因つて冥官余を笞つこと一百、今免し放たる。杖の傷體に遍ねし、汝弟予を視て疑ふなかれと。弟喜び遽かに門を開けば、一人を見る頭猶是虎なり。因つて死を怖れ家を擧つて叫び呼び奔り避く。竟に村人の爲め格殺せらる。其身を驗するに黑子あり。信に王用なり。但し首未だ變ぜずと。元和中(中略)處士趙齊常(かつ)て谷中に至り村人の説くを見ると(以上)。唐代の傳承には既に冥謫と云ふ語が用ゐてある。冥謫とか神力とか言へば如何なる不可思議でも説明できぬことは無いが、我々は猶溯つて何故に斯る奇抜なる冥謫の話が發生したかを考へて見ねばならぬ。兄弟と魚と云ふが如き珍しい取合せの來由は、(中略)日本の類話の方が推測に便が多い。何となれば龍蛇も異魚も共に水中の物で、恐くは最初は魚を食つたから魚になつたと云ふ單純な形式であつたのが、普通の魚では眞らしく感ぜられない時世になつてから、龍蛇と云ふ空想上の怪物の方へ轉じて行つたらうと想はしむる端緒があるからである。而して咽が渇いて已まぬと云ふのは水を慕ひ水に奔つたと云ふ話の一潤色とも見られる。又特に三人又は二人の兄弟の一人が異形に變じたと云ふのは、最初此が人間の魚に成る一條件では無かつたらか。北米の銅色人種の中に雙兒を鮭の變形と信ずる習俗のあつたことはフレエザー氏も段々例を擧げて居る。日本にも鮭を神とする信仰多く且つ兄弟と鮭との話も猶東北には遺つて居るのである。」







































































『定本 柳田國男集 第二十九卷 雜纂Ⅰ』 (新裝版)

『定本 柳田國男集 
第二十九卷 (新裝版)』 

雜纂Ⅰ

筑摩書房 
昭和45年10月20日 第1刷発行
524p 目次5p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価980円

月報 29 (8p):
先生と津軽(森山泰太郎)/柳田先生と和歌(森直太郎)/ただ一度の恩師(中井信彦)/柳田先生の学恩と代々木村の昨今(服部知治)/回想(矢倉年)/次回配本/図版(モノクロ)2点



全31巻・別巻5巻。本文正字・正かな。


柳田国男集 二十九


内容 (初出):

地方文化建設の序説 (大正十四年十月、地方三十三卷十號)
都市建設の技術 (昭和二年二月、三月、都市問題四卷二號、三號)
都市趣味の風靡 (昭和二年一月、週刊朝日十一卷六號)
二階から見て居た世間 (大正九年一月、東方時論五卷一號)
古臭い未來 (大正九年六月、東方時論五卷六號)
特權階級の名 (大正十三年三月、「時局問題批判」)
政治生活更新の期 (大正十三年三月、「時局問題批判」)
普通選擧の準備作業 (大正十三年三月、「時局問題批判」)
移民政策と生活安定 (大正十四年六月、「成人教育」)
文化史上の日向 (大正十四年六月、「成人教育」)
日本の人口問題 (大正十四年八月一日、十五日、通俗經濟講座第九輯、第十輯)
國際勞働問題の一面 (大正十三年十月、東京朝日新聞)
農村往來に題す (昭和二年八月、農村往來創刊號)
靑年と語る (大正十四年十二月、新政二十四號)
靑年團の自覺を望む (大正五年七月、奉公一六三號)
國語史論 (昭和九年四月、「國語學講習録」岡書院)
國語史のために (昭和二十八年七月、國語學第十二輯)
國語の管理者 (大正十六年一月 〈昭和二年一月〉、新政四卷一號)
日本が分擔すべき任務 (昭和二年一月、ラ・レヴォ・オリエンタ八年一號)
當面の國際語問題 (大正十四年十月六日~八日、朝日新聞)
今日の郷土研究 (昭和九年五月、郷土教育四十三號)
エクスプレッション其他 (大正十三年八月、女性改造三卷八號)
再婚の是非 (大正八年九月、同人第三十九號)(原題、「小さな手帖から(五)」)
人の顏 (大正十四年八月、女性八卷二號)
潟に關する聯想 (明治四十二年十一月、斯民四卷十號)
佐渡の海府から (大正九年八月、解放二卷八號)
越中と民俗 (昭和十二年一月、高志人二卷一號)
小さい問題の登録 (昭和十年九月、民間傳承一號)
銕輪區域 (昭和十一年一月、民間傳承五號)
採集手帳のこと (昭和十一年五月、民間傳承九號)
村の個性 (昭和十一年八月、民間傳承十二號)
セビオの方法 (昭和十三年四月、民間傳承三卷八號)
感覺の記録 (昭和十五年十月、民間傳承六卷一號)
ことわざ採集の要領 (昭和十六年十一月、民間傳承七卷二號)
新たなる目標 (昭和十七年六月、民家傳承八卷二號)
傳統と文化 (昭和十七年十一月、民間傳承八卷七號)
信仰と學問 (昭和十七年十二月、民間傳承八卷八號)
昔を尋ねる道 (昭和十八年一月、民間傳承八卷九號)
氏神樣と教育者 (昭和十九年一月、民間傳承十卷一號)
教育の原始性 (昭和二十一年八月、民間傳承十一卷一號)
木曜會だより (昭和二十一年八月、民間傳承十一卷一號)
民俗學研究所の成立ち (昭和二十二年八月、民間傳承十一卷六・七號)
民俗學研究所の事業に就いて (昭和二十三年七月、民間傳承十二卷七號)
垣内の話 (昭和二十三年九月、民間傳承十二卷八・九號)
採訪の新らしい意味 (昭和二十五年六月、民間傳承十四卷六號)
人を喚ぶ力 (昭和二十五年十一月、民間傳承十四卷十一號)
祭禮名彙と其分類 (昭和十一年七月、民間傳承十一號)
服裝語彙分類案 (昭和十三年二月、三月、民間傳承三卷六號、七號)
食料名彙 (昭和十七年六月、七月、八月、九月、十月、十一月、十二月、民間傳承八卷二號、三號、四號、五號、六號、七號、八號)
宅地の經濟上の意義 (大正二年三月、郷土研究一卷一號)
屋敷地割の二樣式 (大正二年五月、郷土研究一卷三號)
規則正しい屋敷地割 (大正二年十月、郷土研究一卷八號)
馬の寄託 (大正二年十月、郷土研究一卷八號)
人狸同盟將に成らんとす (大正二年十月、郷土研究一卷八號)
鴻の巣 (大正二年十二月、郷土研究一卷十號)
動物盛衰 (大正二年十一月、郷土研究一卷九號)
若殿原 (大正三年十二月、郷土研究二卷十號)
用水と航路 (大正三年八月、郷土研究二卷六號)
蟹噛 (大正三年九月、郷土研究二卷七號)
山に住んだ武士 (大正四年七月、郷土研究三卷五號)
美濃紙現状 (明治四十二年)
茨城縣西茨城郡七會村 (明治四十二年)
親のしつけ (昭和十四年十月三、四、五日、大阪朝日新聞)
日本の母性 (昭和十七年十二月、週刊朝日四十二卷二十五號)
狗の心 (昭和九年八月、早稻田文學一卷三號)
喜談小品 (昭和八年四月、週刊朝日二十三卷二十一號、昭和十四年五月十七日、アサヒグラフ三十二卷二十號)
喜談日録 (昭和二十一年一月、二月、三月、四月、展望一號、二號、三號、四號)
地方見聞集 (明治四十四年、四十五年、法學新報)
文明の批評 (未刊草稿)
準備なき外交 (未刊草稿)
蒼海を望みて思ふ (未刊草稿)
國民性論 (未刊草稿)
兒童語彙解説 (未刊草稿)

内容細目
あとがき




◆本書より◆


「國際勞働問題の一面」より:

「熱帶の島々は勿論、阿弗利加大陸でも中央の森林帶に、太古以來の生活を續けて來た者は、曾て他人の爲に働くと言ふ經驗無く、又我爲にも働く必要が無かつた。食物は採れば有り、身は裸なり、うんと永く眠り、起きては丹念に弓箭投槍などを製し、野鳥野獸を獵し、又は隣部落と鬪ふことを考へ、折々は祭があつて歌ひ又踊るのである。斯の如き怠惰生活を勿體無いと謂ひ、勤勉を教へるなどと稱して、彼等を引出して無理に使ひ、植民地貿易の根柢たる生産事業を經營したのが、是が最近迄の植民政策であつた。」

「又土人が文明國で言ふ意味に於て、働かずに居りたがると言ふ事には、同情をする者が至つて少い。」
「併し土人とても、決して全然の怠け者では無い。自分々々の風習に從つては、時としては白人も及ばぬ根氣を以て、心身を極度に働かせる。戰爭や狩獵の如き半分樂しみの骨折は勿論吹矢筒とか太鼓とかの工藝品中にも、二年三年掛つて完成する美しい物が少くない。船なども立派にほり上る土人は多くある。農作牧畜の如きも、皆自分々々の慣習に從つて、精を出して遣つて居る。只だしぬけに引出されて意味の判らぬ機械的の作業に、時計で働かされることは、馴れないから迚も忍ぶことが出來ぬのである。それに生活が概して樂である。要求が至つて尠い。我々文明國人の最も厄介とする所の食物を獲る手段でも、例へば一本のサゴ椰子の樹を伐倒すと、じつとして食つて居て一家族數週を支へるだけの澱粉がとれる。半分食ひかけて退屈して第二の樹を倒し、或はわざと腐らせてそれに發生する茸などを賞玩する。パプア、メラネシヤの住む島々には、こんな境遇の者がまだ却々多いのである。
 彼等の慣習に合はぬと云ふ點から論ずれば、所謂組織的勞働は却つて奴隷制よりも甚だしい。」



「喜談小品」より:

「三馬の浮世風呂では獨り者のあたじけ無しが、舞茸を食つて躍り出した話を、趣向にした一節が有名であるが、此作者は多くの江戸人と同樣に、まだ舞と踊との區別をよくは考へてゐない。この話は既に近世文學の研究者が心づいてゐる如く、最もありふれた前代の説話集から借用してゐるのだが、二つを比べて見るとまだ一方の話の面白味が、十分に消化せられてゐない感がある。
 三人の木樵が連れ立つて山に入つて行くと、向ふから三人の尼が手に何物かを持つて、舞ひながら山を降りて來る。これはどうしたことかと尋ねて見たところ、今この大きな菌を食べたら、急にかうして舞ひたくなつて、自分でも止めることが出來ぬのだといふ。それは不思議だと男たちも貰つて食つて見る。果せるかな、無性に舞ひ始めて、末には男女六人が山中を狂ひまはつたといふ話。これなどは經驗でも無くまた事實談でも有り得ない。舞茸の成分に假に今日の生物學者を成ほどといはせるやうな、一種の昂奮劑を含んでゐるにしても、我々がはじめてその事實を知るのには、何かまた別途の機會がなくてはならなかつた。さうしてこの意味有りげなる中世の一話は、いはゞその知識の應用に過ぎなかつたのである。
 尼と山人とは人間の最も舞ひ難き階級に屬してゐる。それが六人も入り亂れて舞つたといふ點に、この説話の可笑し味はあつたのだらうが、なほその以外に群といふものゝ力がこんなことをさせたといふところにも意味がある。幾ら自然が靈妙であつても、人を舞はしめる植物までは用意しなかつたらう。これには社會の無意識の計畫があつて、驚いてこの效果に參與させたものと、解して置くのが先づ穩當である。以前私がまだ田舎にゐた時に、隣に剽輕な人に可愛がられる小僧がゐた。それが女たちの多く集まる家に來て、庭さきの朝鮮なすびの實を採つて食つた。これはキチガヒナスビともいふさうだが本當だらうか。私は食べて見るといつて一握(つか)みほどの種子を生呑みにした、さうするとまだ消化してもしまふまいと思ふ間に、もう發狂して三日ばかり大騒ぎをしたことがある。これなどは確かに傳承の暗示であつた。蘭領インドの東の島々の土人は、囘教の信仰があるので自殺することが出來ず、どうしても死にたいといふ際には大麻の種子を服して、狂人になつて人を斬つてまはり、しまひには鐵砲で打ち取られて望み通り死ぬといふ。これをアモック(amok)と稱して珍らしい社會現象となつてゐるが、これもまた半分しか麻の實に責は無かつたのである。
 だから何故に舞茸と謂ふかの問ひに對して、食べると舞ふからといふ答へは確實でない。食へば舞ひたくなると我々が信じてゐたばかりである。」
























『定本 柳田國男集 第十二卷 石神問答 神を助けた話 他』 (新裝版)

「越後の生で舜覺法印と云ふ人があつた。若い時貧乏にして衣無く、寒天には土中に穴を掘り、藁を入れて住んで居た爲に、穴掘豐後と云ふ綽名を得た。」
(柳田國男 「赤子塚の話」 より)


『定本 柳田國男集 
第十二卷 (新裝版)』
 
石神問答 神を助けた話 大白神考 他

筑摩書房 
昭和44年5月20日 第1刷発行
511p 目次1p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価980円

月報 12 (8p):
柳田のおじさんの思い出(飯島小平)/柳田先生と記録映画(村治夫)/柳田学の啓示(白井浩司)/柳田先生に同伴して(能田多代子)/柳田先生とシノロジー(入谷仙介)/次回配本 他/図版(モノクロ)1点



全31巻・別巻5巻。本文正字・正かな。


本書「あとがき」より:

「○「石神問答」は、明治四十三年五月、聚精堂より初版發行。昭和十六年十二月、創元社より、日本文化名著選の一冊として再刊。」
「○「神を助けた話」は、大正九年二月、爐邊叢書の一冊として、玄文社より發行。後昭和二十五年五月、實業之日本社より、柳田國男先生著作第十冊として、同じく爐邊叢書の「赤子塚の話」、雜誌「民族」に發表した「立烏帽子考」を加えて發行されている。本書は、實業之日本社版を使用した。
○「大白神考」は、昭和二十六年九月、實業之日本社より、柳田國男先生著作集第十一冊として刊行。」



本文中図版2点。


柳田国男集 十二


内容 (初出):

石神問答
 再刊序
 概要
 書簡 一 柳田國男より駿州吉原なる山中笑氏へ
 同 二 山中氏より柳田へ
 同 三 柳田より山中氏へ
 同 四 山中氏より柳田へ
 同 五 柳田より山中氏へ
 同 六 柳田より和田千吉氏へ
 同 七 山中氏より柳田へ
 同 八 陸中遠野なる伊能嘉矩氏より柳田へ
 同 九 柳田より山中氏へ
 同 一〇 柳田より白鳥博士へ
 同 一一 肥後八代なる緒方小太郎氏より柳田へ
 同 一二 山中氏より柳田へ
 同 一三 柳田より山中氏へ
 同 一四 柳田より白鳥博士へ
 同 一五 柳田より喜田博士へ
 同 一六 柳田より伊能氏へ
 同 一七 柳田より山中氏へ
 同 一八 山中氏より柳田へ
 同 一九 山中氏より柳田へ
 同 二〇 柳田より山中氏へ
 同 二一 柳田より伊能氏へ
 同 二二 柳田より白鳥博士へ
 同 二三 遠野なる佐々木繁氏より柳田へ
 同 二四 柳田より佐々木氏へ
 同 二五 山中氏より柳田へ
 同 二六 柳田より山中氏へ
 同 二七 山中氏より柳田へ
 同 二八 柳田より山中氏へ
 同 二九 柳田より白鳥博士へ
 同 三〇 柳田より佐々木氏へ
 同 三一 佐々木氏より柳田へ
 同 三二 柳田より山中氏へ
 同 三三 柳田より緒方翁へ
 同 三四 柳田より松岡輝夫氏へ
 十三塚表
 現在小祠表

神を助けた話
 再版に際して
 神を助けた話 (大正九年二月、玄文社)
  一 猿丸大夫
  二 會津の猿丸大夫
  三 日光山の猿丸
  四 宇都宮の小野氏
  五 阿津賀志山
  六 山立由來記
  七 磐次磐三郎
  八 卍字と錫杖
  九 蛇と蜈蚣
  一〇 田原藤太
  一一 龍太と龍次
  一二 三井寺の釣鐘
  一三 蒲生氏の盛衰
  一四 猿丸と小野氏
  一五 朝日長者
  山立油來記(本文)
 赤子塚の話 (大正九年二月、玄文社)
  一 日向の頭黑
  二 頭白上人
  三 土中出誕の僧たち
  四 桑原の欣淨寺
  五 通幻禅師の故郷
  六 佐夜の中山
  七 夜啼の願掛
  八 赤子の聲と石
  九 神に祀った赤子
  一〇 啼地藏 啼藥師
  一一 赤子の足跡
  一二 賽の河原
  一三 石を積む風習
  一四 道祖と地藏
  一五 子捨川
  一六 子敦盛と下り松
  一七 棄兒の儀式
  一八 子賣地藏
  一九 子安神の變遷
  二〇 境の神に子を禱る風習
 立烏帽子考 (昭和三年一月、民族三卷二號)
  一 惡七別當
  二 惡王子
  三 十一面觀世音
  四 市乾鹿文市鹿文  

大白神考
 序文――オシラ樣とニコライ・ネフスキー
 オシラ神の話 (昭和三年四月、文藝春秋六卷九號)
 人形とオシラ神 (昭和四年四月、民俗藝術二卷四號)
  一 人形と技藝
  二 東北文化研究
  三 オシラ神の異名
  四 シデと神衣
  五 採物と神の顏
  六 採物の分化
  七 瓢箪と姫瓜雛
  八 杓子の呪法
  九 飛島のヨンドリ棒
  一〇 御左口神の神付
  一一 穗に出づる神
 人形舞はし雜考 (昭和三年一月、民俗藝術一卷一號)
 鉤占から兒童遊戲へ (昭和六年七月、民俗藝術四卷四號)
 おしら神と執り物
 ネフスキイ氏書翰

塚と森の話 (明治四十五年一月、二月、三月、四月、五月、斯民六卷十號、十一號、十二號、七卷一號、二號)
十三塚 (明治四十三年二月、考古界第八編第十一號、同年十二月、考古學雜誌一ノ四)
十三塚の分布及其傳説 (大正二年一月、考古學雜誌三卷五號)

境に塚を築く風習 (大正二年五月、郷土研究一卷三號)
七塚考 (大正四年七月、郷土研究三卷五號)
耳塚の由來に就て (大正五年二月、郷土研究三卷十一號)
民俗學上に於ける塚の價値 (大正七年七月、中外二卷八號)
 飯盛山と飯盛塚
 古墳と塚との關係
 塚を研究する必要

内容細目
あとがき




◆本書より◆


「神を助けた話」より:

「縁起に曰く、秀郷は江州栗田郡田原の人であるが、龍宮に行つて俵を貰つたから、改めて俵藤田と呼ばれた。力強くして弓の上手であつた。延喜十八年の十月二十一日、一説には承平年中の事とも謂ふ。秀郷勢多橋を渡らんとすると、大蛇眼を日月の如く光らせて、橋の上に蟠つて居た。豪雄の秀郷些も之を怖れず、蛇を跨いで通つた。一里ばかりも行く中に、靑い着物を着た人、路に在つて呼掛け、自分は今の大蛇である。あの橋の下に二千年から住んで居る。此頃我同類の者、多く百足馬蚿の爲に害せられる。勇士を賴んで此寇を除かうと思ひ、通行の人を試すに御身の如き豪傑は無い。どうか來て助けられよとの話であつた。秀郷之を諾して、相伴に水を分けて波路を行き、正しく龍宮の御殿と思はるゝ處に到着した。饗應を受けて敵の來る時刻を待つて居ると、夜更けて風雨の音凄じく、炬火の如き物、光りはためくこと雷電の如く、龍宮に押寄せ來るは、是なん三上山を七卷半纏くと云ふ百足であつた。流石の強弓の射出す矢も、始は更に裏を掻くとも見えなかつたが、ふと古老の言つたことを思ひ出して試に矢鏃に唾を塗つて之を射れば、弦に應じて百足は斃れ、炬火は忽ち消え雷電は止んだ。嚮の靑衣の人大に悦び且つ感謝して、十種の寶を以つて禮物として贈つた。」
「此中で珍らしいのは(中略)如意童子である。或は心得童子とも名づけ、主人の心中を知り、言付けざるに用をしてくれる。之を十種の寶の中に數へる説と、寶を背負うて附いて來た者とする説とある。何れにしても此者にも子孫が有つて、龍次郎と稱し、野州の佐野家に仕へて、家の名を宮崎と謂ふとの傳が近江にもあつた。又佐野の人に聞くと、心得童子も慈覺の隨從者と同樣に、龍太龍次の兄弟であつた。」
「佐野の家來の兩人の名は、龍太郎と龍次郎であつたとも云ふ。どう云ふ譯か兄弟とも、五體に鱗が有つた。」
「子孫の身の内に何等かの特徴の有ると云ふことは、系圖よりも尚確かな血統の證據である。私の友人の鈴木君なども、母方から田原又太郎の後裔である故に齒が大い。文科大學講師の村松武雄氏の家も、一代前までは男女ともに牙のやうな齒があり、其前には背中に鱗の形も有つたと傳へられて居る。大蛇と人間との中に出來た子の末である爲だと謂ひ、此家にも三輪の神話、乃至は日向嫗嶽の物語と同じやうな舊傳があつた。松村氏郷里は上州利根郡の布施村、即赤城山の北麓である。現存の赤城神傳では、婦女入水の話ばかりであつて、水神に嫁いだ事は些も見えぬが、隣の榛名山の湖水の方は、此話が色々の口碑と爲つて永く遺つて居る。又沼田の城は同じ赤城の裾野であるが、其城主の沼田萬龜齋入道は、其母蛇體であつた故に、腋の下に鱗があつたと噂せられた。而も之と同時に、沼田家は緒方三郎の後裔と云ふ説もあつたのである。緒方は人も知る如く、日向嫗嶽の大蛇の神裔と稱せられ、其家名も亦身體の特徴に由つたものである。(中略)阿波の美馬郡穴吹山の中で、宮内と云ふ處の住民には、特殊の家筋があつた。彼等は自ら尾形一黨と稱し、之に屬する人々には背中に蛇の尾の形があつた。」














































































『定本 柳田國男集 別卷第四 日記・書簡』 (新裝版)

『定本 柳田國男集 
別卷第四 (新裝版)』 

日記・書簡

筑摩書房 
昭和46年4月20日 第1刷発行
689p 目次1p 口絵(モノクロ)1葉
菊判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価980円

月報 35 (8p):
柳田先生の思い出(武田久吉)/柳田先生の思い出(田村吉永)/『蝸牛考』のふるさと(W・A・グロータース)/柳田先生と私の父(胡桃沢友男)/夢に想う(及川大渓)/編集後記/定本柳田國男集全卷略内容 他



本書「あとがき」より:

「○「炭燒日記」は、昭和三十三年十一月修道社より出版されたものである。
○大正七年、十一年の日記には、兩冊とも晩年著者自ら再讀して、前書が注記してあり、公表を認めたものである。大正十一年の日記のうち、六月十二日以降のものはスイス日記(定本第三卷所收)として發表されている。」
「○書簡については、假名づかい、宛字は原文のまゝにした。公表をはゞかる箇所は伏字にした。」



全31巻・別巻5巻。本文正字・正かな。


柳田国男集 別巻四


内容:

炭燒日記
 自序
 昭和十九年
 昭和廿年

柳田採訪
大正七年日記
大正十一年日記

書簡
 田山花袋氏宛(三通) 一~三
 南方熊楠氏宛(二六通) 四~二九
 佐々木喜善氏宛 (一〇八通) 三〇~一三七
 胡桃澤勘内氏宛(九五通) 一三八~二三二
 折口信夫氏宛(一三通) 二三三~二四五
 橋口貢氏宛(一通) 二四六
 三木拙二氏宛(一〇通) 二四七~二五六
 三木庸一氏宛(一通) 二五七
 三木まさゑ氏宛(一通) 二五八
 三木善子氏宛(一通) 二五九
 笹倉駒藏氏宛(一通) 二六〇
 土居光知氏宛(一通) 二六一
 松浦鎭次郎氏宛(一通) 二六二
 嘉治隆一氏宛(一通) 二六三
 淺見安之氏宛(二通) 二六四~二六五
 小池直太郎氏宛(四通) 二六六~二六九
 小池正氏宛(一通) 二七〇
 小川五郎氏宛(一五通) 二七一~二八五
 長岡博男氏宛(八通) 二八六~二九三
 大月松二氏宛(九通) 二九四~三〇二
 上野勇氏宛(一一通) 三〇三~三一三
 西谷勝也氏宛(七通) 三一四~三二〇
 牛尾三千夫氏宛(一三通) 三二一~三三三
 平山敏治郎氏宛(二五通) 三三四~三五八
 和氣周一氏宛(五通) 三五九~三六三
 橋本銕男氏宛(六通) 三六四~三六九
 鳴海助一氏宛(二通) 三七〇~三七一
 矢倉年氏宛(三通) 三七二~三七四
 宮崎進氏宛(一通) 三七五
 杉本舜一氏宛(一通) 三七六
 安井廣氏宛(二通) 三七七~三七八
 水木直箭氏宛(一九通) 三七九~三九七
 澤田四郎作氏宛(一四通) 三九八~四一一
 比嘉春潮氏宛(一一通) 四一二~四二二
 山下久男氏宛(四通) 四二三~四二六
 冨木友治氏宛(二通) 四二七~四二八
 後藤捷一氏宛(一六通) 四二九~四四四
 余部博章氏宛(一通) 四四五
 大森義憲氏宛(二七通) 四四六~四七二
 近藤八十二氏宛(一通) 四七三
 武田明氏宛(二通) 四七四~四七五
 竹田聽洲氏宛(三通) 四七六~四七八
 阿部龍夫氏宛(七通) 四七九~四八五
 小井田幸哉氏宛(三通) 四八六~四八八
 齋藤槻堂氏宛(九通) 四八九~四九七
 武田久吉氏宛(一通) 四九八
 内田魯庵氏宛(三通) 四九九~五〇一

内容細目
あとがき




◆本書より◆


「佐々木喜善氏宛」より:


「九七〔大正十一(?)年八月十四日 日本岩手縣上閉伊郡土淵村山口 佐々木喜善樣 ゴルウトルグラットクルムホテル 柳田國男 繪はがき〕」:

「八月十四日朝 昨ばん此山の上にとまりました こゝは海抜一萬三百尺です うしろの峯はマッテルホルンです 一萬五千三百尺あります 氷河はみな目の下にあります 昨ばんの夕日とけさの日出はわすれることができません 氷河の底をながれる水の音がします」


「一〇一〔大正十一年十一月八日 陸中上閉伊郡土淵村山口 佐々木喜善君 繪はがき〕」:

「ジュネバはもう冬になりました 雪の中から折〃見えるフランス境の山〃は皆もう深い雪です さびしい郊外の家で一人こつこつと本を見てゐます エスペラントももう四五日前から始めて見ました いゝ字引が手に入つたら江刺話の二三節を譯して見やうとおもつてゐます。早く次の本にとりかゝり給へ 寫眞ハ今にあげます
 もう御健康はすつかり元の通りですか」



「一〇三〔大正十二年一月七日 岩手縣上閉伊郡土淵村 佐々木喜善樣 柳田國男 封書〕」:

「けさ御手紙拜見、四月住んでゐたミルモン町六番地の七間の家を昨日去つて近所の此ホテルに入りました、寢臺と同居で丸で病院みたやうですが久しく味はなかつた氣樂な心持に立戻つて一寸妙です 正月になつてから却つて暖です、毎日霧がありますが折〃うつくしい日がさして散歩の興をそゝります、昨日も引こしを朝のうちにすまして午後ハ佛蘭西領の上サボアドウヴェヌといふ村迄電車で行き八キロ(二里)ほどあるき暮になつてかへつて來ました。國境の夜ハ淋しいものでした 室ハ上手に暖めてあります、君たちニ羨まれてもよい位です、此で本が澤山もつて來られたらこゝでも本ハかけますがそれが不可能です 及川氏は小生も久しく名を知り且尊敬してゐますが、あの切抜のやうな著述ですと其儘爐邊叢書の一冊にはしにくいやうです 其理由ハ、地方的の研究としてハ一般の話が多分にまじり、總括的研究としてハ獨創が少なさうだからです といふのは、讀者が近所の人であるだけに我々の知つてゐることでも詳しく説き教へねばらなぬ爲でしやう あれを氣仙一郡の土地制、又ハ家族制に限り、つまり我々位の者ニ説く態度に改められたら勿論良き一冊でありましやう、永い問題として考へておきましやう、それよりも御地の考古學的調査の記録は殘さねハなりません、是非とも印刷にして置き、何の爲にほりくりかへしたか無意味にならぬやうにしたいものです
 此趣旨ハ今に叢書が四五十冊も出ることゝなれば自然に及川君にもわかります 特別の研究ハ必ず人に役立てねハなりません
         ×
 エスペラントで物がかけるやうに早く御なりなさい、單に文法のミならず此語に於てハ「簡單」、「明瞭」且つ「よい響」といふことを非常に重ずるやうです 重ずるといふよりも之を規則にしてゐるやうです 私の尤も敬服してゐる文章ハ ジュネブの若い學者「プリベ」といふ人のザメンホフ傳です 日本で手に入らぬやうなら今に送つてあげましやう 私は「エスペラント」の方から日本の文章道をも改良し得るとさへおもつてゐます」



「一〇四〔大正十二年三月十七日 岩手縣上閉伊郡土淵村山口 佐々木喜善樣 ジュネブ K. Yanaghita, Hôtel Beau-Séjour, Genève 封書〕」より:

「瑞西の冬は永いばかりで格別の寒さでなくそろそろ靑い空が見えるやうになつた 花の咲くのも近しであらう それに私は二月の間暖い國をあるいて來て春と一所にこゝへ還つて來たのです 併しローマの郊外では牧場の綠が正に濃かに杏李の花が小雨と共に其上に散つてゐたのに反し瑞西に入ると山〃はまだ雪の衣で里も冬木立です、只色〃の鳥が來て一日鳴いてゐるのでこの閑靜なホテルの生活が樂ミです こゝには六十日以前に私が見た人たちばかり十組ほど泊つてゐて老人も子供もそれそれの生活を呑氣にしてゐる、大戰爭で一人息子を失つた巴里の紙店の老主人は今私のわきに犬と二人で坐してゐるがもう四年に近く泊つてゐ、其間に大へん年をとりました 私も靜にしてゐるとじりじり、年をとるのがわかるやうにも感じ早く還つて今少し働きたくてたまらない 本居先生の日記を今よんでしまつた處ですが此人なども七十一かニまで生きてゐたけれとも日記か本になると五六時間でよんでしまひ子供や孫が其一行で生れ親や兄弟従兄弟が其一頁で死し且つ悲しまれてゐる 數千年の未來の爲に數萬年の過去を研究しておく學問が、この間に成立つことハ全く時間を超脱した念力のやうなものゝ力です 伊太利では古いもの美しいものを澤山に見ることが出來ました 殊に私の深く動かされたのは今日に至る迄起原の明白にはなつてゐないエトルリヤ人の藝術です 此民族は畫や彫刻の外に手頃の神や人やの形を陶器で作るのが特技でした、紀元前六七百年の頃の物といふ土偶の中に日本の子安神、キリスト教でいへば聖母神子の像と全く同じものが何百となく掘出されてゐるのには驚きました、それが日本でよく見る子安觀音なとゝ同じく腰かけて膝の上に裸の幼子を立たせた像で、フロレンスの博物館にあるチマブエ其他十四世紀末頃の畫家のマリヤ像と位置も構へも少しもかはりません つまりは所謂文藝復興期などといふ時代の天才の頭の中にも二千何百年來傳はり來つたものが隱然として根をとゞめ、たまたま世界の春にあつて美しく芽をさしたものだといふことがわかりました」












































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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