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湯浅泰雄 『気・修行・身体』

「つまり経絡系は、心と身体、精神と物質の双方に密接に関係し、その双方に作用を及ぼす中間的システムなのである。したがってそれは、デカルトの物心二分法では説明できない第三の存在であり、物と心を結びつける媒介となるシステムである。」
(湯浅泰雄 「気と身体」 より)


湯浅泰雄 
『気・修行・身体』



平河出版社 
1986年11月25日 第1刷発行
1995年8月30日 第9刷発行
347p 「初出一覧」1p 「著者略歴」1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,369円(本体2,300円)
装丁: 中垣信夫



本書「あとがき」より:

「第一章「東洋的心身論と現代」は、日本武道学会の第十四回大会(一九八一年秋)が筑波大学で開かれ、ゲスト講演を依頼されたときに準備した草稿がもとになっている。」
「第二章「気と身体」は、新しく書き下ろしたものである。
 後半の二章は既発表の文章に加筆した。前半の二章が主に修行の身体面をとりあげているのに対して、後半はどちらかというと修行の心理面を中心にとりあげている。
 本書の全体を通じて流れている筆者の関心は、三つのテーマから成っている。一つは日本を中心にした東洋の精神史。一つはユングを中心にした深層心理学や精神医学に関連した問題。そしてもう一つは、心身論を中心にした哲学的諸問題である。」



本文中に図・図版28点。対談・書評・エッセイは二段組。



湯浅泰雄 気・修行・身体



帯文:

「東洋的心身論の可能性!
気・瞑想法・武術 東洋の思想的伝統は、
「修行」を核とする独自の心身論を生んだ。
本書は、深層心理学・心身医学・大脳生理学等
さまざまな角度から、日本を中心とする
東洋的心身論の現代的意味とその可能性を明らかにする。」



帯背:

「東洋的心身論
の新たな視点」



カバー裏文:

「仏教・道教の瞑想法、芸道、武道、
さらには「気」の問題等、東洋の思想的伝統は
「修行」を核とする独自の心身論を生んだ。
本書は、深層心理学・心身医学・大脳生理学等
さまざまな角度から、日本を中心とする
東洋的心身論の現代的意味とその可能性を
明らかにする。」



目次 (初出):

はじめに からだとこころ 〈対談〉 湯浅泰雄+石川中 (『精神世界の本』 1981 平河出版社)

第一章 東洋的心身論と現代
 1 東洋の修行の伝統と西洋の心身二元論的思考様式
 2 静止的瞑想と運動的瞑想
 3 瞑想の深層心理学的意味と心理療法
 4 瞑想と心身一如
 5 修行と芸道
 6 日本武道の特質
 7 心身分離的二元論から心身相関的二元論へ
 8 身体の三つの情報システム
 9 条件反射と自律系コントロール
 10 方法論的反省

書評 H・マスペロ 『道教の養性術』 (「日本読書新聞」 1983・5・23 日本出版協会)
書評 坂本百大 『人間機械論の哲学――心身問題と自由のゆくえ』 (「週刊読書人」 1981・1・12 読書人)

第二章 気と身体――武術・瞑想法・東洋医学
 1 心・気の一致ということ
 2 瞑想の訓練は気を変容させる
 3 気の変容
 4 気の変容に伴う内的イメージ体験の諸相
 5 東洋思想における認識の意味――方法論的中間考察
 6 東洋医学の身体観の基本的特質
 7 経絡における気と情動の関係
 8 無意識的準身体における外界志向作用
 9 記憶と生ける身体
 10 客観的科学と主観的科学
 11 気と外界の関係
 12 心・生命・物質

書評 黙示の時代――G・アードラー 『生きている象徴』 (「朝日ジャーナル」 1979・10・26 朝日新聞社)
書評 樋口和彦 『ユング心理学の世界』 (「日本の神学」 20号 1981 日本基督教学会)

第三章 浄土の瞑想の心理学 (「現代思想」 1982・9月号 特集・日本人の心の歴史 青土社)
 1 はじめに
 2 精神医学と宗教経験
 3 インド的伝統にみられる思想表現と芸術表現の関係
 4 中国と日本における浄土の念仏
 5 定善観の心理学的解釈
 6 死の問題

エッセイ シャルトルと長谷寺 (「創文」 1976・9月号 創文社)
エッセイ 三輪山の夢 (「ユリイカ」 1985・1月号 青土社)

第四章 密教の修行論とマンダラの心理学――身体の宇宙性 (『講座日本思想』 1・自然 1983 東京大学出版会)
 1 歴史的背景――山の仏教
 2 密教の深層心理学的背景
 3 『即身成仏義』の修行観と宇宙観
 4 イメージとしてのマンダラ
 5 マンダラの深層心理学的考察
  (1) 胎蔵生マンダラ
  (2) 金剛界マンダラ

あとがき




◆本書より◆


「東洋的心身論と現代」より:

「ご承知のように、禅の瞑想の場合はよく「無念無想」といいます。眼を半ば閉じて鼻の先を見つめ、何も考えないで長い間じっと坐り、湧き出してくる雑念や妄想がしだいになくなっていくように努力するわけです。(中略)ところが平安仏教の修行法はもっと複雑で、いろんな方法を使います。特に多いには、一定のイメージを心に念じつづけるやり方です。たとえば阿字観という瞑想法では、梵字(サンスクリット)の「A」という文字を心に思い浮かべます。また月輪観という瞑想法は、月を心に思い浮かべ、それが三日月からしだいに満月になっていく状態を想像します。
 こういう方法は、インドでサーダナ sāhdana (成就法(じょうじゅほう))と総称されているもので、悟りを達成(成就)する技法という意味です。たとえば、不動明王(お不動さん)のサーダナの場合ですと、修行者は、心の中で自分自身が不動明王になったと思って、その身体の様子を想像します。」
「密教の寺院には、多くの仏や菩薩や天人などを極彩色で描いたマンダラを飾り、仏像も光り輝く金色に塗ってあります。(中略)こういうマンダラや仏像は、元来、僧侶たちが瞑想し、修行するための道具(引用者注:「道具」に傍点)(ヤントラ)だったのです。(中略)そしてそういう仏像やマンダラを礼拝し、讃美する言葉を唱え、心を仏のイメージに集中して、深いエクスタシーの状態に入っていくことによって、現実に、目覚めたままで天上界に住む仏たちの光景を経験するように訓練するわけです。心理学的にいえば、一種の幻覚として、仏の姿を見るようになるわけです。」
「深層心理学の立場からみると、こういう瞑想法は、意識の表面にはたらいている抑制力を弱め、その下にかくれている無意識のエネルギーを活発にする訓練です。ふつう目覚めている状態では、意識の作用は外界の対象を感覚し、それに反応しています。ところが瞑想に入って、外からくる刺戟を遮断すると、外へ向かう心のエネルギーが弱まるので、訓練を続けていくにつれて、意識下に潜在している心のエネルギーが活発になってくるわけです。これは、夢を見るのと同じ心理的メカニズムです。眠っているときは、意識のはたらきが停止してしまいますから、その下に抑えこまれ、かくれている無意識のエネルギーが表面に昇ってきて、夢のイメージになって現れます。瞑想は、こういう状態を、目覚めたままで自由に経験できるようにする訓練です。」
「ユングは、彼の工夫した瞑想法を「能動的想像」 active imagination と名づけていますが、(中略)彼は、道教の瞑想法からヒントを得たようです。」
「心理療法と瞑想法は、このように共通した点がありますが、基本的な考え方は少しちがいます。心理学的メカニズムそのものは同じですが、その出発点と目的がちがっています。心理療法はもともと、ノイローゼの治療法として工夫されたものですから、心の中に生じた意識と無意識の葛藤や分裂をもとへ戻して正常な状態を回復するためのものです。」
「これに対して修行法としての瞑想法の場合は、病人を治療することを目的とするわけではありません。出発点は、われわれの日常生活における正常な心の状態です。そこから出発して、より高い変容した意識状態にまで達することが目的です。心身医学や精神医学などでは「変成意識状態」 Altered State of Consciousness (略称ASC)という言葉を使うことがありますが、これは、催眠、幻覚、祈禱や瞑想に伴うエクスタシー状態など、日常ふつうの意識の状態とはちがった心理状態を総称したものです。」
「心理療法は、神経症の患者、つまり病的異常状態に陥った人を、正常なレベルまで回復させる方法です。これに対して瞑想による修行は、(中略)心のはたらきを現在よりもつよめ、もっと向上させていく訓練法であるといえるでしょう。いいかえれば、心理療法は、意識と無意識の間に生じたズレをもとへ戻す方法であるといえますが、修行は、意識のはたらきと無意識のはたらきを統合する力(引用者注:「統合する力」に傍点)をだんだんと強め、自分特有の情動のパターン(心のくせ)やコンプレックスをコントロールし、さらにより高く変化させていくことを目的にしているといえるでしょう。」
「ただ、その訓練の途中では、一種の人工的ノイローゼ状態になる場合があり、下手をすると、ほんとうのノイローゼになったりします。(中略)たとえていえば、種痘をすることによって軽い人工的病気の状態をつくり出せば身体に免疫体質がつくり出されるようなもので、人工的ノイローゼ状態を突破していけば、精神の力はだんだんと強くなっていくわけです。」
「では、このような訓練によって、心と身体の関係はどのように変化していくのでしょうか。
 禅でよく使われる「心身一如」という言葉があります。日本の文献では、古くは栄西〈1141―1215〉の『興禅護国論」に出てきます。彼は瞑想が深まって三昧に入った状態を「諸縁を放下し、万事を休息し、心身一如、動静すべてなし」といっています。(中略)諸縁を放下するとか万事を休息するというのは、日常生活にみられるような、外界のできごとに心を使う態度を捨ててしまうということです。つまり、瞑想するときには、外の世界とのつながり(諸縁)を一切捨て去り、忘れ去って、ただひたすら自分自身の内から湧き出してくる心の動きだけに注意します。われわれはふつう、毎日の日常生活の場面では、外界の事象に注意を奪われ、心のエネルギーはいつも外に向かって流れています。したがって他人の言動に対しても、善と悪の区別を立てて、あれは良いとかこれは悪いといった判断をします。瞑想は、そういう意識の判断をすべて止めてしまう(中略)ことによって、ひたすら魂の内なる世界に入りこむことです。心理学的にみれば、それは外界からの刺戟に反応する意識の作用を抑え、心のエネルギーの流れを内へと向けかえることによって、無意識の作用を活発にし、さらにそれをコントロールしていくことです。そういう訓練を長年続けていくと、さまざまな雑念が消えていって、心が空っぽになり、いわば自分という意識がなくなった三昧の状態を体験できる、というわけです。」
「字に即していえば、「心身一如」は、心と身体が分かれず一つになったような状態という意味であり、(中略)心の雑多な動きがまったく消えてしまい、心の状態と身体の状態が一つになったということでしょう。また道元は、彼が中国で参禅していたときの見性の体験を「身心脱落」とよんでいます。身体と心の区別がなくなってしまったという感じだろうと思います。」
「ここで興味があるのは、運動的瞑想の場合です。運動的瞑想は、身体運動をたえずくり返すことによって、静止的瞑想の場合と同じようなエクスタシー体験に達する方法です。わかりやすい例としては、たとえば、一遍〈1239―89〉が始めた念仏踊りなどがあげられます。(中略)運動的瞑想は、身体器官(特に手足)の運動の訓練を通じて、高い変成意識状態に達しようとするわけです。」
「哲学用語を使っていえば、日常ふつうの状態では、心と身体は主体 subject と客体 object という関係にある、とみることができます。客体の最も代表的なものは外界に見出されるさまざまの物体、つまり「物」です。われわれの身体も、そいう物体の一種つまり客体として、この世界(空間)の中に存在しています。これに対して主体というのは、客体になりえないもの、客体を認識したり動かしたりする意識作用の持ち主ということです。心はその意味で、主体(正しくいえば主体のはたらき)です。要するに、主体である心が客体である身体を支配し動かすことが、意識的な身体運動であるわけです。
 ところが、右にいったような「心身一如」の境地では、心は、無意識のままに身体と一つになって動いています。つまり、主体としての心と客体としての身体の区別はもはや感じられなくなり、主体は同時に客体であり、客体は同時に主体であるという状態になります。身体という客体の動きは、そのまま主体としての心の動きそのものになりきっています。逆にいえば、主体としての心は、われを忘れ、客体としての身体の動きそのものになっています。哲学者の西田幾多郎が「純粋経験」とか「行為的直観」とよんでいるのは、こういう状態であると思います。」

「西洋の近代的な考え方と東洋の古い考え方の基本的なちがいは、いったいどういう点にあるのでしょうか。心身のはたらきについていうと、西洋の近代医学は、大多数の人たちの正常(ノーマル)な状態、つまり不特定多数の例(引用者注:「不特定多数の例」に傍点)を基準にして考えていきます。たとえば、ふつうの人の場合、この器官はこういうはたらきをしているとか、この薬はこういう作用がある、といったことを観察して、そこから経験的な法則をひき出すわけです。近代の経験科学というものは一般に、こういうやり方をとっているといっていいでしょう。近代科学の法則が一般的な妥当性をもっているのもそのためです。ただ、こういう考え方をとる場合には、ふつうの人とちがった例外的ケースは、無視ないし軽視される傾向を生じがちになります。
 これに対して東洋医学では、たとえば薬の処方は患者一人一人によってちがうという原則に立っていて、一見同じようにみえる病気でも、患者によって処方が変わることも少なくありません。」
「近代的な考え方が陥りやすい一つの欠点は、不特定多数の場合を「正常」と考え、その基準に合わないものはすべて「異常」とみなす傾向を生みがちなところにあります。(中略)精神医学は神経症や精神病という病的異常状態を研究対象にしていますが、この場合、「異常(アブノーマル)」といういい方は「病的」という悪い意味をもっています。(中略)医学というものは、(中略)ともすると「異常」ということと「病的」ということが同一視されやすいのです。」
「西洋近代のやり方では、一般に人間の心と身体の関係はこう考えられるという理論的な枠組みをまずきめてかかることになるので、それに合わない状態は例外とか異常として無視される傾向になりやすいのです。しかし東洋の考え方では、心と身体のほんとうの関係は日常ふつうの状態では未知なものであるという考え方から出発して、実践を通じてそれを探求していく態度をとります。」
「東洋哲学の伝統的心身観では、修行を通じて心身の関係が日常ふつうの状態からどう変化するか、そしてそのときどういう心理状態が体験されるかという経験に即して、ふつうではわからない両者の奥深い未知な関係を認識していくのです。」



「気と身体」より:

「気は(中略)もともと心理的(引用者注:「心理的」に傍点)であるとともに生理的(引用者注:「生理的」に傍点)な性質を示す生体特有のエネルギーであって、心と身体の両方(引用者注:「両方」に傍点)に関係するのである。先にのべたように、気の流れは瞑想の訓練と深く関連したものであり、その点からいえば心理的性質(引用者注:「心理的性質」に傍点)を帯びている。しかし鍼灸的治療の観点からみると、気の流れは生理的機能の活性化(引用者注:「生理的機能の活性化」に傍点)に効果がある。つまり皮膚の内側として感じられる身体(自分の「からだ」の感覚)は心理的存在であり、外側からみた皮膚に包まれた身体は、その内部から生理的機能が外に発現してくる場である。気の流れはこの内と外を媒介する通路である。
 気のエネルギーはさらに、身体内部を循環しながら、手足の末端を通じて外界の気の流れとつながっている。われわれは自分の「からだ」の感覚、いわゆるセネステーシス(全身内部感覚)の状態全体を「自分」としてとらえているわけであるが、その自分は、皮膚を境界として外界と交流しているわけである。要するに皮膚は、心理作用と生理作用、つまり心と身体が――気の流れを介して――物質的外界と接する独特な交流の「場」なのである。」

「皮膚電流の現象は、元来東洋医学とは無関係に、心理学や生理学の立場から研究されてきたものである。皮膚に回路をつくって弱い電流を流すと、電位の変化が起こって伝播していき、その波がグラフとして記録される。これがいわゆるGSR(Galvanic Skin Reflex)である。(中略)GSRは情動作用と関係が深いため、心理学のテストに応用されている。いわゆる嘘発見器 lie detector はこの原理を応用したもので、質問が被験者の感情をつよく刺戟したときにはGSRにつよい反応が現れる。この現象は今世紀初めに明らかにされており、ユングはその初期の実験を見て、皮膚は無意識をのぞく窓だな、という感想をもらしたという。」






こちらもご参照ください:

C・G・ユング/R・ヴィルヘルム 『黄金の華の秘密』 湯浅泰雄・定方昭夫 訳
湯浅泰雄 『ユングとヨーロッパ精神』
湯浅泰雄 『ユングとキリスト教』 (講談社学術文庫)
高橋巌+荒俣宏 『神秘学オデッセイ』 (新装版)





































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セルジュ・ユタン 『錬金術』 有田忠郎 訳 (文庫クセジュ)

セルジュ・ユタン 
『錬金術』 
有田忠郎 訳
 
文庫クセジュ 525 

白水社
1972年12月5日 第1刷発行
1983年1月20日 第12刷発行
158p 主要文献v
新書判 並装 カバー
定価650円
装幀: 真鍋博



Serge Hutin: L'Alchimie. (Collection QUE SAIS-JE? No 506)
本文中「図」8点。


ユタン 錬金術 01


目次:

序言
第一章 錬金術とは何か
 1 語源
 2 ヘルメス哲学
 3 錬金術の理論
 4 実際的錬金術、その目的
 5 神秘的錬金術
 6 《アルス・マグナ(大いなる秘法)》
第二章 錬金術師とその象徴体系
 一 錬金術師
  1 中世社会における錬金術師
  2 正統教会と錬金術
  3 錬金術師の専門的養成
  4 大いなる秘儀に達した人々
 二 錬金術文学
  1 秘教
  2 文字で書かれた作品
  3 寓意的象徴図
  4 タロット
  5 錬金術的彫刻
 三 錬金術の象徴体系
  1 記号(シーニュ)
  2 象徴
  3 寓意と神話
  4 暗号
  5 錬金術と宗教
第三章 錬金術の起源
 一 伝説的源泉
  1 呪われた術
  2 ヘルメス・トリスメギストス
 二 心理的源泉
 三 歴史的起源
  1 東洋の錬金術とギリシアの錬金術
  2 エジプト
  3 カルデアとイラン
  4 ヘブライおよびギリシア起源
  5 異教およびキリスト教系のグノーシス諸派
第四章 錬金術発展の諸段階
 一 アレクサンドリアとビザンチウム
  1 ギリシアの錬金術文献
  2 アレクサンドリアの錬金術師
  3 ギリシアの錬金術の収支決算
  4 ビザンチン
 二 アラビア人
  1 アラビアの錬金術
  2 回教徒の錬金術師たち
 三 ヨーロッパの錬金術
  1 アラビア人から西欧への推移
  2 中世のヘルメス思想、『エメラルド板』
  3 十三世紀の錬金術師
  4 十四世紀
  5 ニコラ・フラメルと「王者の術」
  6 十五世紀
  7 バシリウス・ヴァレンティヌス
  8 ルネサンス
  9 パラケルスス
  10 十七世紀前期、薔薇十字団
 四 ヘルメス哲学
  一 概論
   1 その形成と一般的性格
   2 宇宙
   3 神と世界
   4 宇宙の全一性(ユニテ)
   5 「宇宙(コスモス)」の生命
   6 太陽の神学
   7 性的二元論
   8 三つの世界
   9 大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)
   10 堕落と救済
   11 「自然」と「術(アルス)」の平行説
  二 ヘルメス学の宇宙発生論
   1 ヘルメス学の宇宙発生論の特徴
   2 パラケルススの詩想
第六章 錬金術の理論
 1 物質の原一性(ユニテ)
 2 三原質、硫黄・水銀・塩
 3 四元素(四大)
 4 七つの金属
 5 錬金術と化学
第七章 実際的錬金術
 一 「大いなる作業」
  1 予備作業
  2 「大いなる作業」の材料の準備過程
  3 「哲学の卵」の中での材料の加熱
  4 「石」の仕上げ過程
  5 「賢者の石」とその諸性質
 二 ホムンクルス(人造小人)
第八章 神秘的錬金術
 1 錬金術は隠れた意味を持っていたか
 2 禁欲と天啓
 3 錬金術とフリーメーソン
第九章 《アルス・マグナ》
 1 超人
 2 「宇宙(コスモス)」の再生
 3 錬金術の誤った諸形態
 4 錬金術とタントラ教
第十章 錬金術の影響
 1 芸術と文学に対する影響
 2 技術と科学に対する影響
 3 哲学と宗教思想に対する影響
結論
補遺
 一 「大いなる作業」に関する補足
  (a) フィラレテスの《過程》
  (b) 乾いた道
 二 錬金術と占星術
 三 薔薇十字団と薔薇十字会派
 四 化学の歴史に関する覚え書
 五 《達人》なる語のいろいろな意味

訳者あとがき
主要文献



ユタン 錬金術 02



◆本書より◆


「第一章」より:

「その土台となるのは、寓意文学や啓示によって伝えられた古い秘密である。したがって錬金術師は何か新しいものを発見する必要はなく、秘密を再発見(引用者注: 「再発見」に傍点)すればよい。だからこそ錬金術は、幾世紀もの長期にわたってかくも変化せずにすんだのである。(中略)――錬金術は隠秘の術だと私は言ったが、それは同時に呪われた(引用者注: 「呪われた」に傍点)術でもあり、神学者(それ以前には遅ればせのローマ法)によって罪ありとされ、知識の公認の枠外で、ときには公認の枠に敵対して発展したのである。」

「錬金術の最も壮大な概念は「アルス・マグナ」 Ars Magna (大いなる秘法)であった。これはときとして「王者の術」とも呼ばれ、ヨーロッパではとりわけ十五世紀およびそれ以後の著作家たちの中で展開されている。現代におけるその解説者の一人A・サヴォレは「アルス・マグナ」について次のような定義を下している。《真の錬金術、秘伝的錬金術は、人間と自然のうちにある生命の諸法則を認識することであり、また、アダムの失墜によって現世で劣化し、その純潔と輝きと充実と原初の特性とを失った生命がふたたびそれらを取りもどす、その一連の過程を再現することである。要するにそれは、人間の精神に関してはいわゆる贖罪ないし新生、肉体に関してはその再組織、自然に関しては純化と完成、そして最後に、固有な意味での鉱物界に関しては精髄化 quintessenciation (中略)と変成なのである)》。かくて錬金術の狙いは、自然万物の失墜(引用者注: 「失墜」に傍点)・堕落の確認に根拠を置いていた。至高の「変成術」(「神秘の作業」、「絶対への道」、「不死鳥の作業」)とは、人間をその原初の尊厳にかえすことであった。(中略)賢者の石を見いだすことは、すなわち「絶対」を、神羅万象の真の存在理由を発見し、「完全なる知」(グノーシス(引用者注: 「グノーシス」に傍点))を所有することであった。」



「第二章」より:

「錬金術師は、観念をさらにうまく隠すため、字謎(アナグラム)、なぞ、折句(アクロスチッシュ)を用いる。たとえば賢者の石は「アゾート」 Azoth という語で示されるが、これは、どのアルファベットでも等しく最初にくる文字(A)に、ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語のそれぞれ最後の文字を加えて作られたものである――その意味するところは、賢者の石があらゆる物体のはじめであり終わりである、ということである。」


「第四章」より:

「十二世紀以来、西欧ではヘルメスの手になるとされる一連の著作があらわれたが、そのうち最もひろく知られているのが、かの有名な『エメラルド板』 la Table d'Emeraude (ラテン語では Tabula smaragdina)で、中世このかた、あらゆる錬金術師がこえに注釈を加えて倦まなかった。本文はごく短く、次はその訳である。
 《こは真実にして偽りなく、確実にしてきわめて真正なり。唯一なるものの奇蹟の成就にあたりては、下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし。》
 《万物が「一者」より来たり存するがごとく、万物はこの唯一なるものより適応によりて生ぜしなり。》
 《「太陽」はその父にして「月」はその母、風はそを己が胎内に宿し、「大地」はその乳母。万象の「テレーム」(テレスマ(引用者注: 「テレスマ」に傍点) Telesma 《意志》)はそこにあり。》
 《その力は「大地」の上に限りなし。》
 《汝は「大地」と「火」を、精妙なるものと粗大なるものを、ゆっくりと巧みに分離すべし。》
 《そは「大地」より「天」へのぼり、たちまちまたくだり、まされるものと劣れるものの力を取り集む。かくて汝は全世界の栄光を我がものとし、ゆえに暗きものはすべて汝より離れ去らん。》
 《そは万物のうち最強のもの。何となれば、そはあらゆる精妙なるものに打ち勝ち、あらゆる固体に滲透せん。》
 《かくて世界は創造されたるなり。》
 《かくのごときが、ここに指摘されし驚くべき適応の源なり。》
 《かくてわれは、「世界智」の三部分を有するがゆえに、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれたり。「太陽」の働きにつきてわが述べしことに、欠けたるところなし。》」



「第五章」より:

「かくて、存在するものは唯一つの「存在者」であり、それが限りなく多様な形を取ってわれわれの前にあらわれるわけである。そして賢者の石が、この宇宙の全一性の象徴そのものとなる。《「哲学者たちの石」は、また植物の石、動物の石、鉱物の石とも呼ばれる。なぜなら、実体としても存在としても、植物・動物・鉱物が誕生したのは「哲学者たちの石」そのものからだからである》。物質の原一性(ユニテ)の理論は、あらゆるヘルメス学の著述家のいわばライトモチーフ(引用者注: 「ライトモチーフ」に傍点)なのである。《「一」は「全」なり、「一」によりて「全」、「一」のために「全」、「一」において「全」》とゾシモスは書いている。」

































































































リュック・ブノワ 『秘儀伝授』 有田忠郎 訳 (文庫クセジュ)

リュック・ブノワ 
『秘儀伝授
― エゾテリスムの世界』 
有田忠郎 訳
 
文庫クセジュ 592

白水社
1976年2月5日 第1刷発行
2003年9月10日 第7刷発行
147p 主要参考文献iii
新書判 並装 カバー
定価951円+税
装丁: 田淵裕一
欧文デザイン: 牧かほり



本書「訳者まえがき」より:

「翻訳ははじめ一九六三年の初版によったが、訳了後一九七五年出版の改訂四版が送られてきたので、それに従って修正を施した。別に著者から(中略)若干の訂正が指示されていたので、これもすべて取り入れた。」
「エゾテリスム(ésotérisme)という語は、ギリシア語の esôterikos (内側の)を語源とし、(中略)門外不出の教理の総体をさすもので、一般に「秘教」という訳語があてられるが、かならずしも熟していないため、表題としては、密儀的典礼を伴う知識の授受をあらわす initiation の訳語の一つ「秘儀伝授」を用い、副題中に「エゾテリスム」の語を入れた。」
「内容は御覧のとおり、エゾテリスムの一般概念と個々の歴史的形態を述べたもので、通論として行きとどいた書物と言えよう。」



Luc Benoist, L'ésotérisme (Collection QUE SAIS-JE? No1031)


ブノワ 秘儀伝授


カバー裏文:

「エゾテリスムとは、ごく限られた人びとにのみ伝授される門外不出の教理の総体をさす。それは仏教、原始キリスト教、ヒンズー教、老荘思想、さらにはユダヤ神秘学、ヘルメス学、錬金術のなかに、暗黙の象徴大系として秘められている。本書は、その一般概念と個々の歴史的形態を述べ、未知の世界を探索する。」


目次:

訳者まえがき

序論
第一部 概観
  一 公教と秘教
  二 三つの世界
  三 直観、理性、知性
  四 伝統
  五 象徴主義
  六 儀礼、律動、身振り
  七 秘儀伝授
  八 中心と心臓
  九 大密儀と小密儀
  一〇 三つの道、カーストと職業
  一一 民話
  一二 中間的な世界
  一三 神秘主義と呪術
  一四 行為、愛、美
  一五 大いなる平安、心の祈り
  一六 場所と状態
  一七 特性を帯びた時間、循環期
  一八 至高の同一者、永遠の《化身》
第二部 歴史的形態
 第一章 東洋
  一 ヒンズー教の伝統
  二 仏教
  三 中国の老荘思想
  四 禅宗
  五 ヘブライの伝統
  六 イスラムの伝統
 第二章 西洋
  一 キリスト教の秘教
  二 ギリシア正教の神秘的静寂派
  三 神殿騎士団、愛の信徒団、薔薇十字団
  四 ヘルメス学の宇宙論
  五 同業組合、フリーメーソン
  六 マイスター・エックハルトとニコラウス・クサヌス
  七 神智学者たち
  八 ロマン派の伝統重視
  九 東方ルネサンス
結論

主要参考文献




◆本書より◆


「序論」より:

「宇宙的均衡の法則からすれば、現在一般化しているような唯物論の埋め合わせとして、同等の自由が精神の極点にあたえられなければならない。秘教は、この均衡の働きを最もよく満たすことのできる学問の基礎となるものである。その役割は、第一に、洋の東西を問わず古代文明の聖典を理解させることにある。これらの聖典は、従来不可解な秘密とみられがちであったが、じつはある不滅の実在世界に照応するもので、ただその表現が古風にみえ、現実味を覆い隠しがちだったにすぎない。秘教の力を借りて、われわれは自分の固有の伝承の本質と、それがいかなる内的憧憬にこたえるものであるかを悟るのである。」
「本書の第一部では、ルネ・ゲノンの著書を手引きとした。」
「ゲノンの思想的見地は、いっさいの体系や教義から解放され、種族や言語の偏見から免れた論理的普遍性をそなえているので、私はこれを採用するのが至当と考えたわけである。」



「第一部」より:

「精神・魂・肉体というこの三分法は、今の習慣には合わないが、伝統的教説にはすべてつきものであった。(中略)インドの伝統にも中国の伝統にも、この三分法は等しく見られるのである。(中略)プラトンも同じ三分法を採用し、その後ローマの哲学者たちは、ヌース(noûs)、プシュケー(psyché)、ソーマ(soma)というギリシア語を、それに対応する三つのラテン語、スピリトゥス(spiritus=精神)、アニマ(anima=魂)、コルプス(corpus=肉体)であらわしている。」
「聖イレナエウスは『復活論』の中で同じ区分法をはっきりと認めた。「完全な人間には三つの構成要素がある。すなわち肉体と魂と精神である。人間を救い形成するもの、それが精神である。統一をあたえられ形成されるもの、それが肉体である。そしてこの両者の間にあって仲介となるもの、それが魂である。魂は、ときとして精神に従い、精神によって高められる。またそれは、ときとして肉体の声に耳を貸し、地上の欲望に身を委ねる。」ただキリスト教神学者たちは、プラトンの轍を踏んで魂に微妙な肉体的要素をあたえる危険を避けようと、魂を精神に近づけすぎたため、ついには両者を混同してしまった。かくてこれが、一方では魂と肉体をめぐるかの有名なデカルト式二元論となり、他方では心魂的なものと精神的なものとの現代風な混同になった。」

「秘儀伝授には異なったいくつかの段階的階層があり、それに関しては古代密儀宗教の用語を借用するのが便利である。(中略)かくてわれわれは、「小密儀」「大密儀」「奥儀」(エポプテイア)の三つを区別できる。」
「小密儀の目的は、それに通暁した者に、宇宙論を貫く万物生成の法則を示し、太初の状態を再現してみせることにあった。(中略)小密儀を受けた者は、子供のそれにも比せられる単純さ、錬金術でいう第一質料のような純粋さに戻るのだった。(中略)最初の試煉によって、小密儀を受けた入門者は感覚界を脱することができたが、だからといって自然そのものを離脱したわけではない。イスラムから借りた幾何学的象徴体系によれば、この第一段階の解放は、人間を《広さ》という水平的方向で解き放つもので、その結果、「原初人間」の状態が回復されるが、これは老荘の道でいう「真人」と同じものである。個人は依然として一人の人間のままだが、精神的にはすでに時間と多様性のくびきから解放されているのである。
 本来の意味での霊的な目標に到達し、形を越えた、被制約的および無制約的な高度の状態を実現するのは大密儀の役割で、それは、この世からの解脱と、「根源」との合一にまでいたるものであった。(中略)この第二段階は《高揚》という垂直的方向で進展し、回教で《普遍的人間》、老荘の道で《超越的人間》と呼ばれるものの状態にまで達する。」

「秘儀志願者はまず厳しい断食の行に耐え、しかるのち、自然の諸元素による浄化の過程に入って、裸で、沈黙のうちにこの試煉を受けねばならなかった。これは、地下、水上、最後に天上登高による大気という具合に、さまざまな元素の中をつぎつぎとくぐりぬける旅の形をとっていた。地下の探求は、「冥府」くだり、すなわち存在の下位の状態への下降をかたどるものであった。この下降(引用者注: 「下降」に傍点)(katabasis)の意味は周知のとおりで、それは人間の状態に先立つ諸状態を要約し、小密儀入門者がなお高い境地へ近づいて行く前に、自分の中に残っている低次元の可能性を絶やすことを目的としていた。秘儀伝授は第二の誕生とみなされたから、この地獄くだりは、俗界でひとたび死ぬことを意味していた。状態の変化は、あらゆる変容(メタモルフォーズ)がそうであるように、暗黒の中で行なわれ、同時に入門者は彼の新たな本質をあらわす新しい名前を授かるのだった。死と再生とは、同じ一つの状態変化を相反する二つの側から見たもので、相互補完的な関係にあった。
 第二の誕生はすなわち心的な意味での再生であるから、秘儀伝授の初期段階は心的次元で行なわれた。この心的次元から霊的次元への移行を実現するのが大密儀だが、この移行の時期に当たるのが、最も重要な段階たる連接点の状態であった。これがつまり宇宙(コスモス)の外への解放をあらわす第三の誕生で、洞窟から外界へ出る行為によって象徴された。」

「ルネ・ゲノンは、人間存在の悟達の中に二つの局面というか、二つの段階を区別している。一は右にその様相をたどってきた上昇過程で、これは原則として、この段階を実現しうる人びとすべてに開かれた道である。他は下降過程で、これはきわめて例外的なものである。非=現象界にとどまる人間は、おのれの道を自己自身のために実現したのに対し、《ふたたび下降する》人は、遣わされし者、化身(アヴァタラ)として予定された務めを果たす。」
「下降の道は世界顕現そのものと同じであり、この観点よりすれば、秘儀伝授は、循環過程の中で永遠の化身(引用者注: 「化身」に傍点)となって出現する同一原理が人間の中で実現されることとみなしうる。」



「第二部」より:

「エゾテリスムこそまさしくあらゆる宗教の心であり、精神なのである。それは、宗教がすべて同一の伝統から生まれた子であることを証明する。(中略)違った名前のもとに同じ一つの真理が存在することが、誰にも認められる。」












































































アルフレッド・モーリー 『魔術と占星術』 有田忠郎・浜文敏 訳 (ヘルメス叢書 新装版)

「「臥床見神」は、イシスの場合もやはり行なわれていた。エジプトやギリシアでは、この女神は、ティトリアから七十スタディオン離れたアスクレピオス・アルカゲトスの神殿近くの、彼女の至聖所に懇願に来る病人たちの夢の中に姿を現わすのだった。」
(アルフレッド・モーリー 『魔術と占星術』 より)


アルフレッド・モーリー 
『魔術と占星術』 
有田忠郎・浜文敏 訳
 
ヘルメス叢書 新装版

白水社
1993年9月25日 印刷
1993年10月15日 発行
309p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,900円(本体2,816円)
装幀: 東幸見



本書「解説」より:

「本書は Alfred Maury: La Magie et l'Astrologie, Denoël, 1970 の翻訳である。テキストが最初に出版されたのは一八六〇年で、(中略)ドノエル社の Bibliotheca Hermetica に含まれる書物が、概ね錬金術または占星術関係の古典的テキストであるのに対して、本書は同テーマに関する研究書だという点で、叢書中異色の一点と言えよう。」
「残念なのは、(中略)厖大な原注を、この邦訳版ではほとんど割愛してしまったことである。(中略)巻末に付したものは原注のごく一部にすぎず、それももっぱら私の関心によって選択したので、恣意的であることを免れない。」



モーリー 星座と占星術


目次:

叢書全体への序文 (ルネ・アロー)

魔術と占星術
 序文
 第一部
  第一章 未開人の魔術
  第二章 カルデア人、ペルシア人、エジプト人の魔術と占星術
  第三章 ギリシア人の魔術と占星術
  第四章 ローマとローマ帝国における魔術
  第五章 新プラトン学派における魔術
  第六章 魔術および占星術に対するキリスト教の戦い
  第七章 中世における魔術と占星術 魔術による異教的祭式の存続
  第八章 東洋の魔術
  第九章 ルネサンスより現代に至る魔術と占星術
 第二部
  序説
  第一章 古代および中世における占いの手段としての夢の使用に関する概要
  第二章 精神・神経の疾患に賦与された悪魔的な原因
  第三章 魔術的現象の生ずる過程における想像力の影響 魔法使いに比較される神秘主義者
  第四章 催眠剤および麻酔剤の使用によって惹起される現象――感性と知性の喪失――催眠術と夢遊症 結論

原注

解説――モーリー、フロイト、ブルトン (有田忠郎/1978年10月)




◆本書より◆


「第一部 第二章 カルデア人、ペルシア人、エジプト人の魔術と占星術」より:

「アッシリア人は神々の先頭に太陽と月を据え、その運行と、その獣帯上の星座に対する毎日の位置を書きとめていた。この獣帯そのものが彼らの発明であったらしく、これは彼らにとって太陽が一年を通じてつぎつぎに入る十二のすみかの全体であった。この黄道十二宮は、十二の神々によって支配され、したがってこれらの神々はそれぞれ対応する月をもち、その月を自分の影響下に置いていた。これらの月のそれぞれが三つの部分に細分され、したがって全部で三十六の下位区分となる。各区分を司っていたのは「助言の神」と称せられる同じ数だけの星であり、これはエジプト占星術の「十日神(デカン)」に対応するものである。
 これら三十六の十日神のうち、半数が地上に起こることを、残り半数が地下に起こることを監視していた。太陽と月と五つの惑星が神の階級では最高位を占め、「占いの神」という名前で呼ばれていたが、これはディオドロスによれば、その規則正しい運行が、物事の運びと事件の継起を示していたからである。これらの惑星のうち、アッシリア人が「美わしき古代びと」と呼んでいたらしい土星は、われわれから最も離れていたため、最上位の星とみなされ、最高の尊敬を集めていた。この星はすぐれた占いの神であり、啓示の神であった。他の惑星もそれぞれの固有の名前を持っていた。そのうち、たとえばベル(木星)、メロダク(火星)、ネボ(水星)などは男性とみなされ、シン(月)やミリッタあるいはバアルティス(金星)などは女性とみなされていた。そして、「天主」とか「神々の主」とか呼ばれていた黄道十二宮に対するこれらの惑星相互の位置関係から、カルデア人はどの星相のもとに生まれたかによって人間の運命に関する予言を引き出しており、これをギリシア人は星占い(ホロスコープ)と名づけたのである。」



「第一部 第三章 ギリシア人の魔術と占星術」より:

「占いは、特別の建物であるマンテイオンと呼ばれる予言神殿で行なわれたり、あるいは町から町へ(中略)予言を売り歩く職業的占師によってなされていた。供犠はほとんど常に、神々の意向に伺いを立てるための儀式か、あるいはまったくの呪文をともなってさえいた。ある種の呪文やある種の呪縛、そしてある種の身ぶりの効果に対する信頼は極端なものであった。ひとびとは、それに頼って幻惑と闘い、神々を呼び出し、病気を治し、傷を癒し、さまざまな仕業によるとされる有害な影響を遠ざけていた。儀式において非常に大きな役割を演じていた潔(きよ)めは、魔法とよく似た文句と宗式をともなっていた。そしてこの潔めこそ、秘儀の出発点であったらしい。その創始者だと言われるオルフェウスはいくつかの呪法をつくり出したとされていた。占師は、(中略)蛇を呪縛し、風を祓い、人間を動物に変えることさえできた。狼狂を信ずるのは、ギリシアではずっと昔からのことであったし、それは今日までえんえんと続いているのである。」
「ギリシアには、さらにそれ自体でまったくひとつの魔術であるところの祭祀があった。すなわちヘカテー崇拝である。この神は、夜の闇にその神秘的な光を投げかける月の権化であり、魔女たちの守護神であった。この女神こそ奇蹟をなす才能を持ち、妖術を発見したとされていた。暗闇の中で恐怖心から生じてくる化物や幽霊を遣(つか)わすのも、この女神だと考えられていた。(中略)ポルフュリオスが伝えているところの、ヘカテー自身が与えたという神託に、われわれも耳を傾けてみよう。「私がお前に教えるように、よく磨かれた木彫の像を彫りなさい。その像の体を野性の芸香の根で作り、つぎにそれを飼いならされた小さなとかげで飾りなさい。没薬と安息香と香をその動物とともにすりつぶし、この混合物を三日月の期間中、外気にさらしなさい。そののち、お前の願いをつぎのような言葉で述べなさい。(その呪文は今日伝わっていない。)私が姿を変えるその数だけとかげを用意しなさい。これらのことを心をこめてやりなさい。私のために、自生の月桂樹の枝で祠を建てなさい。そののち像に熱禱を捧げれば、お前は眠っている間に私に会うことができます」(エウセビオスの著書に拠る)。
 エウセビオスが残してくれなかった口寄せの呪文を、『ピロソピュメナ』と題される論考に見出すことができる(中略)。「来れ汝、奈落の、地上の、そして天上のボンボー、街道、四辻の女神よ。光をもたらし、夜にさまよい、光の敵、夜の友にして伴侶たる汝。犬の吠声と流されたる血に興じ、幽鬼に混じり墓場をさまよう汝。血を欲し人間に恐怖をもたらす汝。ゴルゴ、モルノ、千にも姿を変える月よ、仁慈の眼(まなこ)もてわれわれの供犠に立会いたまえ。」」



「第一部 第七章 中世における魔術と占星術 魔術による異教的祭式の存続」より:

「神殿は破壊され、偶像は覆えされ、ギリシア哲学は放逐され、公には多神教は崩壊したが、しかし、その後ダイモーンの地位に貶(おとし)められたとはいえ、神々と、かつてその崇拝の基礎をなしていた儀式の効力とに対する信仰は、実際には根絶されたわけではなかった。ギリシア、小アジア、イタリアなどでは、禁圧を逃れるためにキリスト教の外見を装った数多くの民間の迷信や慣行の中核を、この信仰が依然として貫いていた。その昔、神々を称(たた)えて行なわれた祝祭は、聖者崇拝の中に移されていた。(中略)イタリア、とりわけ南イタリアは、地方的祝典の中に、異教の痕跡を今日もはっきりととどめている。神々を崇めて行なわれた行列にかわって、聖者行進がその役目を果たし、聖者たちが神々の遺産を受け継いだ。ナポリにおける聖母の民間信仰は、明らかにウェスタおよびケレース信仰から起こったものである。」
「かつて葡萄畑や耕地や民衆の福祉のために、祭司と卜占官が采配した行列と祈りは、新たな形態のもとに、豊熟祈願の儀式の中に定着した。十字のしるし、聖水、アニュス・デイ(「神の小羊」の句で始まる祈祷)などが、護符として、まじないや呪文のかわりとなった。」
「このように、異教的祭式にかわってキリスト教的儀式を採用することは、もともと前者が聖化され得るような性質であるかぎり成し遂げられる。とりわけガリア、ブリタニア、ゲルマニア、および北部の国々などのように、福音書がかなりおくれて伝えられ、異教的信教がより根強く、より反抗的に現われた地方で行なわれた。教会自体が、布教者たちに、民間の迷信と妥協するようにすすめていたのである。(中略)ある地方では、死者の唇に、冥界の川の渡守りカロンに差し出す心づけの銅貨が含ませられる。聖者の像が、昔のキュベレー像のように、聖なる水に浸される。(中略)神託は、異教徒であったわれわれの祖先とほとんど同じ方法によって行なわれ、男根崇拝に至るまで、遠まわしの形でキリスト教化されている。」
「このようにして、異教的慣習は今日に至るまで保たれたのである。」
「したがって大胆な言い方をすれば、中世におけるヨーロッパは半ば異教を奉じていたのである。」



「第二部 第一章 古代および中世における占いの手段としての夢の使用に関する概要」より:

「古代の卜占師たちは、その自然の原因である純粋に生理学的な原理を発見することなく、これらの現象をすべて認めていた。彼らは、夢に、われわれの精神を驚かせ脅かす、透視と霊感の性格を与えるため、そして、眠りを一定の状態に持続させ、刺激を伝達しては、彼らにとって超自然の原因によるものにほかならない例のまぼろし、例の鮮明な夢、例の予覚がすでに起こり始めている状況を助長するのに、世にも適切な方法を究めていった。目ざめている間に想像力に激しい印象を与えた事がらの、夢に及ぼす影響については先に指摘したが、これに加えて、口から摂取された胃の中の食物、麻酔効果をもつある種の気体の吸入、または、ある種の軟膏の塗擦でさえももっている影響をあげねばならない。神託の場合、解答は夢幻のうちに与えられるが、これに携わる祭司たちは、したがって、これらすべての方法に頼るのだった。彼らは、トロポーニオスの洞穴(ここに神託の聖所があったとされる)のような暗い穴、または硫黄ガスや炭酸ガスの発生する地域を好んで選んだ。しかもこれらの場所は、その恐ろしい外観のために、その昔から、黄泉(よみ)の国の門、カロンの祠(ほこら)、プルートーンの祠などと呼ばれていた。」
「そのうえ、祭司たちは、神託を伝える者にあらかじめ長期間断食させたり、催眠薬あるいは麻酔薬を飲ませては、夢やまぼろしを誘っていたのである。
 そうしてみると、神託が長い間ほしいままにした信頼も、容易に納得される。その場合、当時のいわゆる incubation (神の宮に眠ること「臥床見神」の意)が行なわれていたのである。(中略)事実、奇蹟的な治癒が起こり、この信仰をゆるぎないものにした。そこで、アスクレピオス、イシス、セラピスなど、夢に現われて礼拝者たちに心を告げると言われていたあらゆる神々の寺院には、実際に霊地詣でが行なわれた。セラピスに伺いをたてるため、カノプスにある寺院を訪ねるひとびとは、睡眠中に神が現われるように、夜、寺院で眠った。(中略)「臥床見神」は、イシスの場合もやはり行なわれていた。エジプトやギリシアでは、この女神は、ティトリアから七十スタディオン離れたアスクレピオス・アルカゲトスの神殿近くの、彼女の至聖所に懇願に来る病人たちの夢の中に姿を現わすのだった。」



「第二部 第二章 精神・神経の疾患に賦与された悪魔的な原因」より:

「狂気、癲癇、狂水病、カタレプシー、ヒステリー、および、これらに関わりのあるすべての疾患は、ひとびとの驚愕の対象であり、迷信的恐怖の原因であり、また長らくそうありつづけた。」
「初期ギリシア人は、一般に、病気は神々から送られたものであるとみなしていた。」
「躁暴性の狂人にギリシア人が与えた名称マニア mania は、man という語根から派生したものであったが、死者の魂を意味した men は、ラテン語における manes という語形で再びもとの姿を現わす。事実ローマ人は、荒れ狂う者は、マーネースによって、あるいはラールやマーネースの母である女神マニアによってかき乱されると考えていた。狂人たちの幻覚は、彼らにつきまとう化物や亡霊とみなされていた。(中略)癲癇は、ギリシア人にとってそうであったように、ローマ人にとっても神聖な病であった。」

「そもそもユダヤ人は、死も病気も、自然の原因に帰すべきものとは考えなかった。物理的な動因のかわりに、天使、すなわち命のある人格的存在を認め、これらの天使たちの一人に命を終わらせる任務を与えたのである。彼らには、死の天使、いわば神の使者がいて、彼は剣を手に、神に定められた者に死の打撃を与える。したがって、この天使は殺戮の天使と呼ばれた。」



「第二部 第三章 魔術的現象の生ずる過程における想像力の影響……」より:

「ヨーロッパの一部の聖者がみずからに課した、いっさいの感覚的な快楽に対するあの絶対的な断念、肉体に対する深い侮蔑は、回教僧、アラビアの行者、一部の婆羅門修行者や仏教僧においては、ほとんど当たり前の状態なのである。謙譲さから、自分の頭髪にたかった虱(しらみ)を駆除するのを禁じるアニェス・ド・ジェズュや、美食を好む傾向を根源から断つために、すべて自分の食べる物には滓と屑を混ぜるリマの聖女ローザなどに相当する者として、アジアでは、幾千もの狂信者たちに出会う。(中略)法悦者は、終局的には不動と無感覚に陥り、何ものも、そこから引きもどすことはできない。(中略)カルカッタの司教エベールは、『旅行記』の中でつぎのように伝えている。彼はこの種の人物に出会ったが、その男は、もはや片足で立って歩くことしかできず、両腕は下におろす機能を失っていた。それほどのおそるべき苦行は、カトリック教内ではめったに実例がなく、(中略)せいぜい、そのはなはだしい例は、銅の櫛箆(くしべら)で自分の肉を裂いたジェノヴァの聖女リンバニアの苛酷さくらいであるが、それに反して、ガンジスの流域では日常行なわれる苦行なのである。コーラク=プージャの祭には、信徒たちが鉄の鉤を腰にかけて体を吊り、その恐るべき状態で揺られながら自分の罪を清めるのが見かけられる。」



















































































































マルクス・マニリウス 『占星術または天の聖なる学』 有田忠郎 訳 (ヘルメス叢書 新装版)

「海底に身を潜めた魚は、いわば鱗の牢屋に閉じこめられているものの、月の運動には敏感だ。デロスの女王(月)よ、あなたが満ちていくとき魚は肥り、あなたが欠けていくとき魚は痩せる。」
(マルクス・マニリウス 『占星術または天の聖なる学』 より)


マルクス・マニリウス 
『占星術
または天の聖なる学』 
有田忠郎 訳
 
ヘルメス叢書 新装版

白水社
1993年10月25日 印刷
1993年11月15日 発行
276p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,700円(本体2,621円)
装幀: 東幸見



本書「解説」より:

「本書は Marcus Manilius: Les Astrologiques ou la science sacrée du ciel, Denoël, 1970 の翻訳である。
 原著者マルクス・マニリウスはローマの詩人で、(中略)ほぼキリスト紀元が開始される前後の人物である。五書に分かれたこの『アストロノミコン』は、(中略)宇宙創成論、天地の全体的構造と諸部分の配置、そのさまざまな運動、星座の名前と位置関係などの説明を含みながら、今日いわゆる「占星術」として理解される各種事象の意味づけに及んでいる。(中略)本書がたとえばルクレティウスの『物の本性について』に比較される一種の「科学詩」であることを、私たちは念頭に置く必要があるであろう。」
「図版は一五七八年のC・ユリウス・ヒュギヌス版に含まれたものである。(中略)この邦訳版では(中略)主として本文の理解に便利なものだけを残した。」



アストロノミコン(Astronomicon)。
原文はラテン語韻文ですが、本書はアレクサンドル=ギイ・パングレ(十八世紀)による仏訳(散文)に依っています。
邦訳初版は1978年刊、本書はその新装版です。


マリニウス 占星術または天の聖なる学 01


帯文:

「伝統的占星術の古典
ローマ時代に成立した本書は、
今は失われた蒼古たる天地創成論の痕跡をとどめ、
古代人の壮大な運命感を展開する。」



目次:

叢書全体への序文 (ルネ・アロー)
序文 (ルネ・アロー)
第一の書
第二の書
第三の書
第四の書
第五の書
原注
解説――マクロコスモスの詩学 (有田忠郎)



マリニウス 占星術または天の聖なる学 02



◆本書より◆


「第一の書」より:

「私は私の歌の中で、真に神々のものである知識を、のみならず星々さえも、大空からおりて来させようと試みる。運命のお告げの聞き手である星々の力は、至高の知恵に導かれて、人生の流れに数々の有為転変をひきおこす。」
「自然は、その深奥をきわめたいと願うひとびとの心に感じ入って、自分自身を素直にさし出し、己が内なる富を美しい歌としてあらわすことを心から望んでいるようだ。(中略)大空の奥の奥まで舞いあがり、その広大な道を駆けめぐること、空のさまざまな徴(しるし)を知ること、そして、宇宙の動きに逆行する惑星の動きを学ぶこと、これはたしかに楽しい仕事だ。しかし、こういう初歩の知識にとどまってはつまらない。大空が隠しもつ最も深い秘密に参入し、その徴が生きとし生けるものの産出と維持に及ぼす影響力を解きあかし、それらのことをアポローンから口授される歌の中で詳しくうたわなければならないのだ。」
「星々は、その広大な組合わせの中に多くの世紀の連なりを秘め、その組合わせにふさわしい出来事を瞬間瞬間に指し示す。一人一人の誕生の日と、その人生の流転を教え、出来事とそれが起こった時刻との関連を示し、一瞬のあとさきさえも人間の運命に重大な相違をひき起こすことを指摘する。天空の回転を観察した神官たちは、一つ一つの星が占める天空内の位置を確定し、それぞれが私たちの人生コースに及ぼす力の領域を定め、長い経験に基づく法則を確立した。過去の観察が未来の筋道を描き、そして彼らは深い省察を重ねたあげく、星々が人間に対して、隠れた法則に従う強力な力を及ぼすこと、宇宙の運動は周期的な原因によって規制されていること、人生の有為転変は星のさまざまな布置に左右されることを認めた。」

「生者必滅、一切は変化する。数々の民族がいまは昔とことかわり、時代ごとにその状態も風習も変わってしまう。ただ大空だけは、この変転を知らないのだ。その各部分とも何ひとつ変化を受けず、歳月が経過しても老いもせず減りもしない。大空は昔も同じだったから、これから先も同じだろう。私たちの先祖が見たままを、子孫もまた見るだろう。」

「蒼穹のさなかに白さで目立つ一本の帯。まるで大空の扉が開いて朝の光をのぞかせているかのようだ。絶え間ない車の通い路に、緑の野原の真中に一筋の線が引かれたよう。あるいはまた、船が曳く航跡の水泡も白く、深い淵から湧き立ってあらわれたよう。オリュンポスの山を覆う真暗な大空に白く跡ひくこの道は、空の奥にきらめく光を投げている。雲の間に架橋する虹に似て、私たちの頭上に光の線を描き出す。ひとびとは驚きの眼(まなこ)で眺め、夜闇を貫くこの不思議な輝きを讃歎せずにはいられない。そして己が知の限りを顧みず、このみごとな奇蹟の原因を探ろうと試みる。
 空の二つの部分がここを境に触れあって、その脆(もろ)い合わせめがはずれ、穹窿が分解しかけて、奇怪な光を通しているのだろうか。自然の傷口が驚き怪しむ私たちの眼を打つ時、このように傷ついた空を見て戦(おのの)かぬ者がいるだろうか。それともむしろ、二つの穹窿が大空を形成したのち、ここが縫合線となり、両半球がここでしっかり接合されて、白い帯はこの両部分を永久に結ぶ明白な傷痕だと考えるべきなのだろうか。あるいはまた、大空の物質がここにとりわけ多量に集められ、凝縮されて大気の雲を作り出し、最高天を構成する物質の大集積となったのだろうか。それとも古(いにしえ)の言い伝えに則って、はるかな昔、太陽の馬車を曳く馬がいつもと違うコースを選び、この円上を長い間走ったと信ずればよいのだろうか。この伝承では、円はついに燃えあがり、その上の星々が焰の餌食になったという。かくて碧青変じて白色となったが、これすなわち星々が燃えて残した灰である。この部分こそ、いわば空の墓地なのである。」
「古い記録は、もっと和やかな出来事をも伝えているので、ここで触れないわけにはいかない。言い伝えでは、神々の女王の乳房から数滴の乳がしたたり、それを受けた空の部分を白く染めた。「乳の道」という名はそこから由来し、つまりこの白さの原因を示しているわけだ。私たちとしては、むしろ、多数の星が集まって焰の帯を構成し、ひときわ濃い光を放っている――つまり輝く多数の天体が集まってこの部分を光らせていると考えるべきではあるまいか。」



「第二の書」より:

「甘美な露に濡れた新鮮な草原を探しに行こう。人里離れた洞窟の奥でささやく泉、大空を行く鳥の口もまだ触れず、ポイボス(太陽神)の天の火もまだ射しこんだことのない泉を見つけよう。これから私が語るのは、みな私の発明にかかるもの。私は誰からも何ひとつ借用しない。私は剽窃者ではなく、作者なのだ。私を乗せて空行く車は私のもの。私を乗せて大波を切るのは私の舟。
 私は歌おう、ひそかな知恵を隠しもつ自然を。天と地と水に生命を与え、相互の絆でこの広大な仕組みのあらゆる部分を繋(つな)ぎ合わせる神性を。私は語ろう、その部分部分の協和によって存在している大いなる全体と、至高の理性がそこに刻みこんだ運動を。まことに同じ精神が全空間に行き渡って、一切を活気づけ、空のすべての部分に浸透し、動物の体に固有の形態を与えているのだ。」

「海底に身を潜めた魚は、いわば鱗の牢屋に閉じこめられているものの、月の運動には敏感だ。デロスの女王(月)よ、あなたが満ちていくとき魚は肥り、あなたが欠けていくとき魚は痩せる。」

「星々はまた、互いに特殊な関係をもち、そのため彼らは相互間に(中略)照応を形づくる。彼らは互いに見つめあい、耳傾けあい、愛しあい、憎みあう。好意に満ちたまなざしを、自分たち同士でしか交わさない星もある。そのために、時として、正反対の位置にある星が力を貸しあい、親愛関係にある星が戦を交わすこともある。良からぬ相(アスペクト)にある星が協力して、人間の生誕時に、不変の友情の芽を注ぐこともある。また本来の性質と位置から来る衝動に逆らって、互いに避けあう星もある。その原因は、神が世界に法則を与えるにあたって、十二宮にさまざまな感情を賦与したからである。神はある星と星の眼を、また別な星と星の耳を、互いに親和させた。また他の星と星とを緊密な友愛の絆で結んで、これらの宮が他の宮の姿を見、その声に耳を傾け、ある宮を愛し、別な宮に永遠の戦をしかけるようにした。さらにある宮は、自分たちの状態に完全に満ち足りて、ただ自分自身のみを愛し、他を排除する。そういう人間も多数いるが、彼らはそのような生誕支配宮からその性質を受けついだのだ。」



「第四の書」より:

「なにゆえに、私たちは、かくも虚(むな)しい試みのかずかず骨身を削りつつ、生涯を過ごすのだろうか。恐れやら闇雲(やみくも)の欲望に駆りたてられ、老いを早める心配事に悩まされて、私たちは幸福を探し求め、そのためかえって幸福から遠ざかる。願い事に限度がないので、私たちは満ち足りることを知らないのだ。生き甲斐を求めつつ、私たちは死人も同然。富を積めば積むほどに、じつはいよいよ貧しくなる。持てるものに満足せず、持たぬものへとひたすら向かう。自然は僅かなもので満ち足りているのに、なぜ私たちは法外な欲望のため破滅の道をまっしぐらに進むのだろうか。富裕は豪奢への愛着を呼び、豪奢を求めて、私たちは無法な手だてを用いても財宝を得たいと望む。しかも、財宝を得たあとは、ただそれを狂気のように消尽するしか能がないのだ。おお、ひとびとよ、そのように無益な労苦、余計な不安の重荷はおろしてしまえ。天の布告する運命に虚しい不平は言わぬがよい。運命こそは一切を統(す)べ、一切は不変の掟に従う。ありとあらゆる出来事は、それを生んだ時間(とき)と宿命的な繋(つな)がりを持っているのだ。
 私たちの生誕の時刻が、すでに私たちの死の時刻を決定している。私たちの臨終の時は、生涯の最初の時に左右されるのだ。富も地位も、多くの場合貧しさも、芸術界での成功も、素行も欠点も不幸も、財産の喪失ないし増加も、みな同じ原理から発している。運命が準備したことはかならず起こり、運命が拒むものは絶対に得られない。運命の女神の歓心を買い、不幸を避けようと望んでも無駄なこと。人はみな己が宿命に従うほかはない。」

「私たちには空が見える。その空が、好意から、世界の本性をめぐる秘密探求を私たちに許してくれる。だからこそ私たちは、この広大な世界の構成要素を詳しく調べ、私たちの精神の源である天空のあらゆる道に踏み入って、私たちの地平で起こる出来事を研究し、宇宙空間のまんなかに吊り下げられた地球の最も低い部分よりさらに下方へ降りて行き、全宇宙の同胞となることができるのではあるまいか。
 自然はもはや、私たちにとって知られざる暗黒ではない。私たちは自然を隈なく知ったのだ。(中略)私たちは、私たちに生命を与えてくれたものの一部であり、私たちはそれが何であるかを知っている。星々の子として、私たちは星辰界まで昇って行く。神性が私たちの魂に宿っていること、魂は天から由来し、ゆえに天へ帰るべきであることを、どうして疑うことができようか。世界は、地・水・火・風の全元素から構成され、のみならずこの世には、命令が実行されるか否かを監視する霊(エスプリ)がある。それと同じく、私たちの内部には、土で作られた肉体と、血の中に住む生命の根源と、さらに人間全体を支配し導く魂がある。このことを、どうして疑うことができようか。人間の中に世界があり、人間はひとりひとりが神性の簡略な似姿である以上、人間が世界を認識できるということに、何の不思議があるであろうか。
 私たちの遠い祖先が天空以外の所から来た、などということがあり得ようか。(中略)このように、自分と関係深い天空を究めつつ、星辰の中に人間は自分自身を探求するのである。」










































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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