彌永信美 『幻想の東洋 ― オリエンタリズムの系譜』 (新装版)

「世界の果て(中略)にはヘーロドトスが言うとおり、「われわれがこの世で最も貴重とし珍稀としているものが蔵されている」。ただしそこで最も豊かに産するのは、黄金でも香料でも琥珀でもない――地の果てで無尽蔵に掘り出されるのは、人間の果てしない夢想なのである。」
(彌永信美 『幻想の東洋』 より)


彌永信美 
『幻想の東洋
― オリエンタリズムの系譜』 
(新装版)


青土社 
1996年3月25日 第1刷印刷
1996年3月29日 第1刷発行
574p 別丁図版(モノクロ)3葉 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,600円(本体3,495円)
装幀: 高麗隆彦



本書「あとがき」より:

「本書は雑誌『現代思想』一九八五年一月号から八六年五月号まで、「幻想の東洋」という題で書いた連載を一冊にまとめたものです。まとめるに当っては、序章(1・2)とエピローグを新たに書き、他にも数箇所に加筆しましたが、全体としては本文は連載と同じものです。しかし注は、(中略)今回ほぼ全面的に書きおろしました。」


本文中図版(モノクロ)多数。


彌永信美 幻想の東洋 01


帯文:

「ヨーロッパ世界にとって、〈東洋〉は奇態な怪物の跋扈する辺境であり、また、真理の秘蹟の隠される楽園でもあった――二〇〇〇年に渡る神話・伝承・芸術作品を渉猟して描き出すヨーロッパの〈疎外の精神史〉。」


帯背:

「脱ヨーロッパ
の版図」



彌永信美 幻想の東洋 02


目次:

序 旅への誘い
 1 旅の見取図――エクゾティスムの魅惑と呪縛
 2 旅の行方――「東洋」という名の幻想

I 最古の民・最果ての怪異
 ヘーロドトスの「開かれた世界」
 最古の民族=エジプト人
 地の果ての怪物たち

II 遍歴する賢者たち
 「哲学の異国起源」神話
 異境の神人たち
 東方に旅する賢者の群
 「ローマ=世界」と唯一の秘められた真理

III 秘教の解釈学
 謎のことばと隠された真理
 秘教としての神話――寓意による解釈学
 秘教としての世界
 「神のことば」による世界創造――ユダヤ-キリスト教における「唯一の真理」の普遍主義

IV 隠喩としての歴史
 隠喩的思考=「真理の一元論」の方法論
 唯一の神の無数の顕現――異国の神話の「ギリシア式解釈」
 キリスト教的真理と異教神話の合致
 「神と人間のドラマ」としての歴史――歴史の隠喩化

V 世の終りと帝国の興り
 「永遠のローマ」――ローマの神秘的歴史哲学
 初期キリスト教における「終末の都ローマ」
 コンスタンティーヌス帝の改宗と「天の帝国の地上の模像ローマ」
 「世界紀元」の誕生

VI 東の黎明・西の夕映え
 キリスト教的「進歩史観」と世界史の時代区分――訓育としての歴史
 ダニエルの「四つの獣=四つの帝国」の夢
 「東から西へ」――帝国の歩みと真理の歩み
 世界史の完成を目指して――シャルルマーニュからヘーゲルまで

VII 終末のエルサレム
 反キリストとしてのマホメット
 「世界の中心」エルサレムの象徴
 キリスト教の「人間化」と民衆十字軍=「貧しき者」の終末論的熱狂
 フィオーレのヨアキムの革命的歴史神学――「至福の聖霊の時代」へ向けて

VIII 楽園の地理・インドの地理
 インドの聖トマス伝説
 「極東」のキリスト教帝国の伝聞
 絶対的東方「地上の楽園」と「インド」の地理
 中世的知の構造――伝説的知と自己目的的イマジネール

IX 秘境のキリスト教インド帝国
 祭司ヨーハンネスからの手紙――驚異のキリスト教インド帝国
 地の果ての布教と終末の帝国
 「パックス・モンゴリアーナ」のもとで――中央アジアに祭司ヨーハンネスを尋ねて
 旅の幻滅と新たな夢想――祭司ヨーハンネスの「インド=エティオピア帝国」

X ――そして大海へ……
 ルノー・ド=シャティヨンの紅海遠征と「中世のパレスティナ問題」
 大海に祭司ヨーハンネスを尋ねて――「大航海時代」の夜明け
 ヴァスコ・ダ=ガマの「二つの目的」とひとつの夢
 祭司ヨーハンネスの「正体」

XI 新世界の楽園
 中世的イマジネールの終焉――ルネサンスの認識論的革命=「幻想の現実化」へ向けて
 クリストーバル・コロンの「地上の楽園」発見
 コロンの終末論的使命
 終末の王国スペイン

XII 反(アンチ)キリストの星
 一四八四年の星――「黄金時代」の夢と世の終りの恐怖
 サヴォナローラ=反キリストの革命と敗北
 フィチーノと「古代神学」の復活
 「新エルサレム」フィレンツェの秘教的ユートピア
 新たな黙示録の時代へ

XIII 追放の夜・法悦の夜
 スペインのユダヤ人追放と宗教の内面化
 キリスト教カバラの始まり――ヨーロッパのもう一つの「内なる東洋」
 スペイン天啓主義の天上的狂気とロヨラ――「イエスの軍団」の誕生

XIV 東洋の使徒と「理性的日本」の発見
 ザビエルのインド布教――期待と幻滅
 マラッカでの邂逅――ザビエルと日本人ヤジロウ=パウロ
 「理性的異教徒」の発見
 ザビエルの日本人観
 「唯一の理性」による世界統一へ

XV 天使教皇の夢
 ある天啓主義者の生涯――「碩学にして狂気」のギヨーム・ポステル
 ポステルの「記号論的神学」――ことばと歴史の「真義学」
 ポステルの「フランス=世界帝国主義」とそのヨアキム主義的起源
 中世の終末神話からルネサンスの黙示録的現実へ――ミュンツァーのドイツ農民戦争、「新エルサレム」ミュンスターの惨劇
 「天使教皇」=「第二のアダム」ポステルによる楽園復原
 二つの理性――ザビエルの「自然理性」とポステルの「楽園的理性」

XVI アレゴリーとしての「ジアパン島」
 ポステルの「アジア-楽園」観
 ポステルによる「日本事情報告書」の解釈--仏陀=キリスト同一説
 「影」としての西方――「影」としてのジアパン人

エピローグ


引用文献一覧

あとがき
新装版へのあとがき



彌永信美 幻想の東洋 03



◆本書より◆


「あとがき」より:

「これを書く過程で、キリスト教が本当に嫌いになってきたこと――。」
「十六―七世紀の殉教画などは、子どもの頃から見ることがあり、どこか強い違和感を抱きながらも(中略)慣れ親しんできていたように思います。それが今は、はっきりと感じることができる――こういう宗教性と血腥さが入り混ったものは見るに耐えない、と。」



「新装版へのあとがき」より:

「「これが正しい、これは間違っている」ということ自体が、他者を踏みにじっても恥じない「真理の主張」に直結するでしょう。そこのところから、「ぼくはキリスト教が嫌いだ」という旧版のあとがきに書いたことばが出てきます。(中略)このことばを書いたことを、ぼくは悔やんだとは言いませんが、いつも一つの悩みとして心のなかに残っていました。(中略)ぼくはけっしてこのことばで、キリスト者として生きた、あるいは生きている無数の人々の生き方を批判したり否定したりするつもりはない、ただ抽象的なイデオロギーとしてのキリスト教については、あえて「嫌いだ」と言う以外にことばを知らない、というほかないように思います。」


「世の終りと帝国の興り」より:

「キリスト教は、世の終りの期待の中から生まれてきた。それゆえ、キリスト教の歴史を顧みる時、その終末論的側面はつねに最も重要な要素として把握されていなければならない。そしてこの終末への期待の中には、つねにそれを積極的に速めようとする傾向があって、そのためには(中略)悪の栄え、反(アンチ)キリストの到来、「もろもろの国と権威」の混乱と破滅が望まれさえしたことも忘れてはならない。初期キリスト教の反ローマ的傾向の中では、ローマ帝国こそがこの世の悪の象徴、あるいは「この世そのもの」であった。」

「しかし世の終りは、すぐには訪れなかった。キリスト教徒の自殺的な(中略)殉教は、多くのローマ市民の目を驚かし、信者の数は逆に増えていった。そして三一二年一〇月二八日、コンスタンティーヌス大帝のミラノの勅令により、キリスト教徒は思いもかけない最終的な勝利を収めていた。」



「旅への誘い」より:

「人間のすべての知恵、知識、技芸が、唯一の源泉から発し、唯一の真理へと帰着する、という「真理の一元論」は、ヘレニズム時代にはすでに完成していた。それをもし「静態的(スタティック)な普遍主義」と呼ぶとすると、「動的(ダイナミック)な普遍主義」をもたらしたのは、キリスト教神学、特にその歴史神学だといえるだろう。(中略)このキリスト教歴史神学は、すべての人類史を神による人間の救済の計画(エコノミー)であると考える。(中略)ローマ帝国が栄え、あるいは滅びることも、イスラームが勃興し、あるいはモンゴルが来襲することも、すべて「神の摂理」によるものである。(中略)すなわちそれが神の真理の顕われであるからこそ、十字軍という歴史は可能になったのである。」
「歴史は神の摂理によって(中略)定められたものである――であるからこそ、人間は歴史主体としてそれに積極的に(中略)参与しなければならない。これがキリスト教歴史観の逆説であり、また同時に(中略)成功の鍵でもある。歴史は単に過去のものではなく、未来に拡がっており、それは人間が、神の意志に従って創り出していかねばならない。未来の歴史とは、すなわち終末論である。」
「こうしてキリスト教的終末感覚の熱狂は、一方では「キリスト教帝国主義」、もう一方では「革命的千年王国主義」という二つの――しかし表裏一体の――政治神学思想を生み出していく。」
「そしてこの終末論の大きなうねりの中で、「幻想の東洋」は再び重要な役割を担うことになる。」
「ここではキリスト教普遍主義は強烈な攻撃性を帯び、ヨーロッパによる世界制覇の大きな原動力になっていく。」

「しかし旅行家たちが、怪物の故郷の至近距離にまで接近した古代と中世の二つの例外的な時代、世界の果ては一種奇妙な「存在論的霧」の中に包まれていた。」
「真と偽、可能と不可能――現実と夢想とが区別され、それぞれの存在の相のもとに分類される以前の――すなわち博物学的・分類学的思考が作動する以前の「驚異的日常」、「日常的驚異」の世界がここには開かれている。ここでは、怪物たちは知の体系、了解可能性の体系のもとにとり込まれることを拒否する。それゆえそれらは完全に無意味な存在である。にもかかわらず――あるいはそれゆえにこそ、それらは日常的存在であることを止めない。そしてそのことによって、逆に日常性そのものが、一挙にその無限の無意味性の相を露(あらわ)にするのである。
「「語られた――しかし了解可能性を越えた――単なる事実」としての怪物たちは、「語り尽されぬ現実」を指し示す指標である。彼らが世界の果てに風穴を開け、そこから意味の群が限りなく流れ出していく、そのむこう側にかいま見られるのは、底無しの無意味の深淵……? しかしそこから、はじめて真の「他所」、絶対的な「異様性」のすがすがしい風が流れこんでくるのではないか――。
 ガルシア=マルケスをはじめとしたラテン・アメリカの現代作家たちが繰り展げる、いわゆる「魔術的リアリズム」の世界にも比されるべきこの夢想――世界を夢想化し、それによって「世界の彼方」を指し示してみせる、そのような夢想は、いかにして可能だったのか、そしてその可能性がルネサンス以降、どのようにして決定的に失われていったのか――世界のすべてを了解可能性の網の目の中にとり込んでいく真理の幻想が、近代以降ゆらぐことなく確立していった過程を見極めるためには、この怪物たちの奇妙な夢想のあり方を振り返ることも必要になるだろう。」

「こうして浮び上ってくる「幻想の東洋」――エクゾティスムの呼び声を原点としてヨーロッパが営々とつむぎ出してきた「幻想の東洋」の歴史は、それゆえ、真理の幻想の歴史であり、同時にその幻想を粉みじんにしかねない、世界の向う側への道を指し示すもうひとつの夢想の歴史――そしてその夢想の可能性がある時代から完全に圧殺されていった歴史――でもある。」



「最古の民・最果ての怪異」より:

「クテーシアースによれば、インドには鶴とのたえまない闘いに明け暮れる小人族(ピュグマイオイ)や、大きな一本足で恐ろしく速く走り、その足を傘のようにかざして強い日光から体を守るという「影足族(スキアーポデス)」、あるいは犬の頭をして、互いに犬のように吠えて話すという「犬頭族(キュノケパロイ)」、さらに無頭で両肩のあいだに顔のある「無頭族(アケパロイ)」が住んでいる。また、手足に八本の指をもち、生誕から三十歳までは白髪でそれ以後に髪が黒くなる民族が住むのもインドである。彼らは、背中と両腕の肱まで覆う長い耳をもっている。またインドのある地方には巨人族が住み、別の地方には「サテュロスの絵のごとき」長い尾をつけた民族が住む。ライオンの身体、サソリの尾をもつ人頭の恐るべき猛獣マルティコラースが住むのもインドだという。さらに一角獣や黄金を守るグリュープス(中略)も棲息し、その他ニワトリやヤギ、羊も巨大であるという。
 一方、メガステネースのインドも、それに劣らず幻想的である。そこには、翼のある蛇や、同じく有翼で巨大なサソリ、ヘーロドトスも伝える、砂金を掘るという小犬ほどの大きさの巨大で獰猛な蟻が住む。また足が前後逆についた人間や、口がなくて焼肉や果実、草花の芳香を吸って生きる野生の民族もインドに住むという。さらに鼻孔をもたず、上唇が下唇より極端に大きく突き出している民族、あるいは犬の耳をもち、額に一眼だけしかない民族も挙げられている。
 ヘーロドトスの世界の辺縁には、その他にも特記すべき怪異が述べられている。たとえばインドの羊毛の実を結ぶ野生の木、尾があまり長くて地面にひきずるのを避けるため、小さな車を結びつけて歩くアラビアの羊、ヨーロッパの北の果てに住むという怪鳥グリュープスが守る黄金――そしてそれを奪う一つ目のアリマスポイ族、そのさらに北方に住む伝説の「北極人(ヒュペルボレオイ)」、スキュタイ人の東方に住む禿頭族が伝えるという山羊脚の民族と、一年のうち半年を寝て過ごすという民族、アゾフ海北方に住み、年に数日狼に変ずるという魔法使いの民族ネウロイ族、スキュタイ人と愛を交したアマゾネスの女たち、生あるものは一切食わず、また夢を見ることもないというリビュアーの奥地のアトランテス人などなど……。」
「――スキュタイ人の話では、彼らの国より北の地方では大気は羽毛で充満し、大陸の先を見通すことも進むこともできなくなる。あるいは、トラーキア人によれば、イストロス河以遠の地は、蜜蜂が密集していて先に進めないという。
 世界の果てはこうして「羽毛」に、あるいは「蜜蜂」の群にさえぎられてさだかではない。が、そこにはヘーロドトスが言うとおり、「われわれがこの世で最も貴重とし珍稀としているものが蔵されている」。ただしそこで最も豊かに産するのは、黄金でも香料でも琥珀でもない――地の果てで無尽蔵に掘り出されるのは、人間の果てしない夢想なのである。」














































































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彌永信美 『歴史という牢獄 ― ものたちの空間へ』

「「この世から自らを分離すること」――砂漠に去っていった多くのキリスト教徒の最も基本的な動機(モティーフ)はここにあった。「この世」とは肉体であり、都市(中略)であり、財産であり、あらゆる「社会」、すなわちあらゆる記号の網の目にからめとられた構造化された世界だった。こうした世界からの果敢な遁走……。」
(彌永信美 「終末の見える沙漠」 より)


彌永信美 
『歴史という牢獄
― ものたちの空間へ』


青土社 
1988年12月20日 第1刷印刷
1988年12月26日 第1刷発行
390p 口絵(カラー)i 折込1葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,600円
装幀: 高麗隆彦



本書「あとがき」より:

「ここに集めたのは、一九八三年から八八年までに書いた八篇の論稿です。今回新たに書いたのは、「〈外〉の怪物・〈内〉の怪物」、および「序」と各部の冒頭に付した文章だけで、それ以外は雑誌にすでに掲載されたものです。
 すでに発表されたものに関しては、程度の差はありますが、すべて加筆・訂正などの手を入れました。」



本文中図版(モノクロ)多数。


彌永信美 歴史という牢獄 01


帯文:

「地の果ての怪物たちや沙漠の民、グノーシス主義や子どもらのイマジネールの中に、日常世界を支える「存在の絶対的無意味性」の空間をかいま見させ、われらの日常性を「歴史という意味」から解放する、新しい思考のかたち。
《歴史》と訣別するための八章」



帯背:

「オリエンタリズム
の彼方に」



カバー文:

「アメーバーのように意味と関係を分泌し、世界を呑み込み、自己に同化していく、そのような主体はもうたくさんだ。
 たとえ、「ぼく」はいなくてもいい、石と、木と、山と、星々と、そしてたぶん他人たちが、一切の関係なしに、ばらばらに虚空に散らばった、そんな冷たく固い、鉱物的な風景。――その方がずっといい……」



彌永信美 歴史という牢獄 02


目次 (初出):

口絵 「ペーテル・ブリューゲル『イカロスの墜落』」



*「近代」というドラマ

問題としてのオリエンタリズム――「歴史」からの撤退に向けて (「現代思想」 1987年7月号)
 〈外なるオリエンタリズム〉――サイード批判の視点
 普遍主義の魔としてのオリエンタリズム
 〈内なるオリエンタリズム〉――「オリエンタロ-オクシデンタリズム」批判への道
 〔付記〕

「貧しき者」は幸せか――全体主義前史における「貧者」、「人民」および「大衆」 (「現代思想」 1988年3月号 「特集: ファシズム」)
 1
 「貧者の十字軍」?
 「貧者」の概念とキリスト教思想
 「貧者」の反乱と終末論的熱狂
 2
 方法論的間奏 1――社会的カテゴリーの概念
 方法論的間奏 2――権力関係における「支配」と「抵抗」
 3
 日本の近世統一国家の形成と「境界領域の民」
 4
 フランス革命と「人民」の発明
 近代的「政治」理念と「インテリ/大衆」――ラディカリズムのやまい
 5
 「理念による政治」と「政治の欺瞞」
 「被虐の崇高美学」

日本の「思想」とキリシタン――「思想」からの撤退に向けて (「現代思想」 1986年9月臨時増刊 「総特集: 江戸学のすすめ」)
 1
 「近代」の相対化へ
 問題としての「思想」――「日本的(無)思想」とキリシタン
 2
 キリシタンの迫害と殉教――「特殊日本的過激主義」?
 秀吉の「伴天連追放令」と現世利益的「信心」
 キリシタン迫害の思想としての「日本神国史層」
 3
 キリシタン迫害の論理――日本の「思想」の成立
 キリシタン殉教の論理――「至上の法悦」としての殉教
 4
 キリシタン思想の換骨奪胎のメカニズム――「超越的事実」の観念
 「天道思想」と理神論的デウス
 キリシタン迫害と魔女狩り――超(?)近代国家としての近世日本
 5
 キリシタン殉教と「思想の体験主義」
 6
 キリシタン美術の世界――「世界の救い主」の世界帝国
 7
 潜伏キリシタンの美術
 潜伏-隠れキリシタンの世界――「非思想」の可能性
 〔付記〕

**歴史の〈内〉と〈外〉

「歴史」の発明――エロス的認識論における「普遍史」と「個人史」 (「ユリイカ」 1985年8月号 「特集: ユダヤのノマドたち」)
 1
 アレーゴリアー解釈と聖書――神話と歴史
 神と人との間の預言者
 2
 歴史――神と人とのドラマとして
 「汝ヤハウェを知らん」――愛としての知
 「神の夜」の愛――魂の絶望と歓喜
 「契約」のゆくえ――「ヨブ記」と不条理の神
 3
 「死の生成」としての「歴史」――グノーシス主義の歴史観

終末の見える沙漠 (「現代思想」 1984年11月号 「特集: 漂泊と交通」)
 1
 砂漠の聖女
 終わりの日を待つ――初期キリスト教の終末感覚
 灼熱の地へ――砂漠の教父たち
 2
 都市型文化と沙漠の民
 3
 暴風のごとくに襲う――終末の民の伝説
 4
 風の子等のポトゥラッチ――黄金のものたちの無垢性

〈外〉の怪物・〈内〉の怪物 (書き下し)
 怪物たちの分類
 沙漠から来る怪物たち――図像的伝承と文献による伝承
 地の果ての怪物たちの認識論――「驚き」のパラドックス
 「驚嘆すべき自然」から「神の業としての自然」へ
 死にゆく地の果ての怪物たち

***意味の果てる道

パイヨと八不中道とばななうお――日常性の向う側 (「現代思想」 1983年11月号 「特集: 精神医学の現在」)

イカロスたちの孤独――『百年の孤独』とできごとの(無)意味 (「ユリイカ」 1988年8月号 「特集: ガルシア=マルケス」)


初出誌一覧/図版出典

あとがき



彌永信美 歴史という牢獄 03



◆本書より◆


「序」より:

「目の前にいるのが、ただの他人(ひと)――自分との関連においてあるのではない、自らの独自の「存在権」においてある人間 (中略)そんな人間であるなら、誰がその人を傷つけ、支配し、差別し、あるいは殺そうと考えたりするだろうか。」
「たとえば異教徒殺戮に狂奔する第一回十字軍の兵士たち。真っ赤な血の海で刃を振り上げ、彼らが虐殺していたのは、彼ら自身の悪夢が産み出した夢魔たちだった。――が、その赤い血を流した人々は、(中略)それぞれ独自の「存在権」において存在した人間たちではなかったか……。
 「歴史とは悪夢……」、ただし、夢ではない、現実の悪夢である。」

「――「世界は『愛』によって結ばれた人間のもの」か、「星は人間が一人もいなくなったら『なんにもならない』」のか? そこに含まれた、全宇宙を呑み込んでいく恐るべき主体の傲慢。
 それに対する震えるような反発……。
 人間がひとりもいなくなった、その時にこそ、星空は最も〈美しい〉のかもしれない。」



「問題としてのオリエンタリズム」より:

「オリエンタリズムを弾劾するためにオクシデントに対立し、その差別を告発する――それが即「逆差別」につながることに気付かない歴史学は、「結果として」ひとつの怨念の歴史学を構成するであろう。怨念の歴史学は、目的論的歴史学の単なる裏返しにすぎない。換言すれば、勝者の歴史は目的論的歴史となり、敗者の歴史は怨念の歴史となる。が、どちらも同じ歴史の中でいつまでも闘い続けることに違いはないのだ。」
「こんにちわれわれは(中略)オリエントに属していようとオクシデントに属していようとかかわりなく、「オリエントは存在しない。同様にオクシデントも存在しない」と言わなければならない。」
「ファノンのことばを引こう。彼は書く。「私は『歴史』の囚われ人ではない。私は『歴史』の中に私の運命の意味を求めてはならない」。――われわれは「歴史の子ども」であることを止めよう。」



「歴史の〈内〉と〈外〉」より:

「「歴史」だけが、世界のあり方、人間の生のあり方ではない。現実の歴史の中には、「歴史」をもたずに生きた人々がいくらでもいる。だいいち、本をもたない人間にとっては、「歴史」は最初からほとんど存在しない。」
「「歴史」は人間にとって、決して必然でも普遍でもなかった――。
「歴史の〈外〉」の可能性を知るだけでも、われわれは「罠」の網の目をいくらか緩めることができるかもしれない……。」



「「歴史」の発明」より:

「旧約の神――世界の創造神――は悪の神、自らを神と偽って高ぶる偽の神にすぎない、とグノーシス主義者たちは言う。星々が輝く天空は、恐るべき圧制者や支配者に満ちている。惑星は悪魔の牢番が、捕らわれた魂を見張る部署にほかならない。世界はまるごと、悪の偽神に支配される地獄であり、真の神は世界の中にはいない――世界とは何のかかわりもない。
 もしこれが単純に神話的表象であるのなら、神をこの世ではなく、別の世界に置こうとする宗教は必ずしも稀ではないだろう。そして事実、グノーシス主義も神話的表現によっている。が、それはそれ以外の表現方法がありえないからである。グノーシス主義のいう「世界」は、(中略)「人間に考えうるすべて」、「意味の総体」であると解されなければならない。それゆえ、「この世」から隔絶したこの神は完全なる非存在であり、不可知であり、「異(い)なるもの」であり、その存在も、またそれを知ることも、まったくの不条理であるとしか言いようがない。この神は世界に対する超越ではなく、世界とは「異なるもの」としての超越でしかない。従ってこの神を〈知る〉ことも、完全に不条理な「知恵(グノーシス)」=啓示による以外にない。というより、「霊的人間(プネウマティコイ)」は「グノーシス的人間」(グノースティコイ)として、はじめからその知恵をもった者であり、それ以外の「魂的人間(プシューキコイ)」や「物質的人間(ヒューリコイ)」とは本質的に区別された存在なのである。
 このような〈世界観〉にあっては、時間は虚偽にほかならず、歴史は端的な無――という以上に積極的な悪の表出である。造物者(デーミウールゴス)=悪の偽神が支配するこの世界の歴史の中で、グノースティコイは「眠らされ」、「奴隷」にされ、「汚濁にまみれ」ている。この世界の中の生そのものが、「死の生成」以外の何ものでもない。時間は耐え難い恐怖であり、歴史は苦痛の中への追放である。
 この「死の生成」の主要な要素であるエロス性に、何らかの価値が認められることはありえない。グノーシス主義においては、エロティックは、いっさいの精神化の契機を奪われ、逆に極度に物質化されて激しい嫌悪の対象となる。
 もちろん、悪の偽神と人間との間に対話が成立しようはずがない。偽神は、悪意によって人間を欺き、隷属させようとするだけである。
 世界は全体として否定されているから、グノースティコイがその中で自らを未来へ向けて投げ出すようなことはない。それゆえ、世界内の「人間の生」にも、何の意味も価値も認められない。
 窮極の知恵(グノーシス)を啓示する者(たとえばイエス)は、グノーシス主義においても歴史の中に現れる。しかしその歴史的一回性を主張することは、グノースティコイにとってはまったくの無意味である。それゆえ、グノーシス主義のイエスは、単なる仮現(ドケーシス)である。
 行為の目的論的意味も、ここではことばの意味そのものとともに破壊されていく。ことばは、徐々に無意味な音声の連続=呪文となって、世界の解体の最も有効な武器にされていく。
 この目的論的意味の源泉である「現在における欠如」は、グノーシス主義の救済論によってより積極的に破壊される。すなわち、グノースティコイは、「異(い)なる神」の光の破片である至純の自己と再会し、それと結合して輝ける「全き一」(モナコス)となる。その行為において完全に充満した行為を見い出し、そしてそのことによって絶対的な救済=永遠の今を獲得するのである。」
「「歴史」に真っ向から反撃し、完全に「異(い)なる」救済を見い出したグノーシス主義者たちは、単なる狂人の集団ではなかった。
 意味の解体の彼方から、充満(プレーローマ)の光が射し込む……。」



「終末の見える沙漠」より:

「「肉体が私を殺すがゆえに、私はそれを殺す」。
 ある「砂漠の教父」はこう書いた。
 「この世から自らを分離すること」――砂漠に去っていった多くのキリスト教徒の最も基本的な動機(モティーフ)はここにあった。「この世」とは肉体であり、都市(中略)であり、財産であり、あらゆる「社会」、すなわちあらゆる記号の網の目にからめとられた構造化された世界だった。こうした世界からの果敢な遁走……。」

「紀元四-六世紀のエジプトの修道士たちは天使にならんがために砂漠に出てさまよい、十三世紀の西欧の歴史家、旅行家、哲学者たちは、沙漠から襲ってきた血と炎の嵐に、この世の終わりを告げる悪魔の軍勢を見た。
 しかしその間、沙漠の民はある時は集まり、ある時は離散を繰り返しながら、その悠久の時間を生き続けていた。「悠久の時間」――なぜなら、沙漠の民には歴史がないからである。
 J・デュヴィニオーも言うとおり、定住民はひとつの土地(中略)に呪縛されて、そこで繰り返される豊潤な腐敗と再生の螺旋状の時間の中で生きていく。一方、広大な沙漠を馬で、駱駝で自在に馳せる遊牧の民は、「風の上にその力を建てる」。定住民が大地の子、歴史の子であるとすれば、沙漠の民は風の子、果てしない拡がりの子である。――それゆえ、彼らの多くが文字を使わず、歴史をもたないのは、欠如ではなく、むしろひとつの豊かさの表現である。」



「〈外〉の怪物・〈内〉の怪物」より:

「怪物たちは沙漠からやって来た――。」
「紀元前十世紀から現代に至るまで、そしてユーラシア大陸の東の果てから西の果てに至るまで――、同じ精神が同じ形のたわむれを産み出し、同じものの存在を主張している。そこでは、鹿や鳥やグリフィンたちは、いっさいの意味づけから離れて、ただそこにいる、ただ単に存在する。ものの存在に対する――その絶対的無意味性に対する――このような感受性は、その背後に、烈風が吹き抜ける大草原と灼熱の砂漠の世界を予感させる。「地の果ての怪物たち」はこうした世界からやって来たのではないだろうか……。」



「意味の果てる道」より:

「世界の理念化も、また政治も、ともに虚構であり、倒錯であって、そこでは人間は生きることができない。」


「パイヨと八不中道とばななうお」より:

「さて、仏教の歴史を考えるうえで、「中道」の概念ほど重要なものは、ほかにほとんどない。」
「「Aでもなく非A(または反A)でもない」。とはいっても、仏教でいう「中道」とは、Aと非A(反A)という両極の漠然とした中間を指しているのではない。それはむしろ、「Aまたは非A(反A)」といった二者択一的な問題の立て方自体を否定する、ある特殊な否定的弁証法の論理である。」
「「中道」の概念は(中略)哲学的・形而上学的なドグマティズムに対する反発としても使われた。(中略)明らかなのは、こうした「形而上学的ドグマティズム」は、すべて日常的世界を理念化する作業によって生み出されるものだということである。つまりこれらはすべて(仏教的観点からいえば)、形而上学的な「戯論」にすぎないのである。
 こうした戯論に共通する最も基本的な特徴は、それを論ずる者がすべて、「自分の説は普遍的に正しい」と主張することである。龍樹の説く「縁起」は、そうしたすべての戯論を「寂滅」させる。すわなち、「自分の説は普遍的に正しい」とするあらゆる世界の理念化を徹底的に批判し、拒否する。
 いっさいの世界の理念化を排除した果てに浮かび上がってくる世界、それは、裸の、「単なる日常的世界」以外のものではあり得ない。そして、そこでは事実「普遍的に正しい」主張はひとつとしてない。たとえば、「この机の上に消しゴムがある」ということ、それは「正しい」ことではなく、単に「あたりまえ」のことでしかない。」
「といっても、龍樹は、この日常的世界を「あるがままに受け入れるべきだ」と主張しているのではない。そのように「受け入れる」ことが「なすべきこと」であるのなら、それはつまり「普遍的に正しいこと」であって、そのような主張をしたとたんに、ひとは日常的世界をまるごと理念化したことになる。」
「この日常的世界――この日々の生活世界が、目も眩む狂気の閃光、あるいは圧倒的無の暗黒の〈世界〉に、最も根源的なところで連なっているということを知ること――(中略)そのように知る、ということは、必然的に、同時に、われわれの生の場は、この日常的世界以外にはないということ、そしてそのことは、どこまでもただ「かくあること」でしかありえないということを知ることでもある。」
「世界が世界の解体を前提にして成り立っているのと同様、「日常性の基本構造」の崩壊は、日常性の次元で起こる事態である。それゆえ、「日常的狂気」と「日常的死」を日常性から排しつづけるかぎり、われわれは真の日常的生を生きることができないであろう。」



「イカロスたちの孤独」より:

「翼をもがれて、いま海に呑み込まれようとしているイカロスとは、グノーシス的な魂の寓意であるとしか考えようがない。翼をはばたかせ「天空たかく翔け上がる」ものとしての魂は、プラトーンの『パイドロス』以来、ヨーロッパ伝統の最も基本的なトポスのひとつである。羽をつけた無垢なる少年のイメージは、グノーシス的な無垢の魂=絶対的「充満(プレーローマ)」から墜落する光の破片を指し示す、最も適切な隠喩であるだろう。そしてその光の破片を呑み込もうとする「海」とは、ヘルメース文書の『ポイマンドレース』にいう「忌まわしい、湿潤な自然(ピュシス)」=原初の水の象徴を待つまでもなく、明らかに原初の混沌を表すものである。ここには姿が見えないダイダロス(中略)は、「充満(プレーローマ)」に対立するところの「この世」を支配する「にせ神」、「悪の神」であるかもしれない。」
「グノーシスのいう「充満(プレーローマ)」の世界とは、存在が存在に充満した、いっさいの時も運動も変化もありえない、パルメニデース的絶対の世界である。その「充満(プレーローマ)」の世界が、ある時、なんらかの完全に不条理な事件によって攪乱され、光の破片が光の充満から離れて混沌の中に墜落した。それが、この生成と変化(グノーシス主義においては、それらはすべて虚偽と欺瞞であるという)の世界、すなわち「この世」の起源であり、その現実である。そうしたこの世における人間の本質とは、肉体と情念(感情)の重い軛(くびき)につながれ、この世の毒の美酒に眠らされているとはいうものの、その中でいつか真の故郷、「充満(プレーローマ)」の世界に帰還することを待ち続けている光の破片である。グノーシス主義による「知恵」(gnosis)とは、すなわち「この世」の起源と現実と、そして人間の本質とを、そのように「知る」(gignoskein)ということにほかならない。」
「「この世」とは、こうした決定的な〈形而上的悲劇〉の上に成り立つものであり、その一瞬一瞬は、宇宙を張り裂くような光の破片の叫びに貫かれている……。
 このような、あらゆる言語を絶する悲惨を背景にした時、はじめて「何の変哲もない日常」がありうるのだということ――。それゆえ、こうした日常とは、あらゆる「この世的」、情念的、または理念的意味を絶したところで、はじめて存在するのだということ――。イカロスの墜落を前にした、ブリューゲルの描く「日常」の人物たちの絶対的な無関心は、そのことを表しているのだろう。空を見上げながら何も見ていない牧人の視線――「方向(サンス)=意味(サンス)」を失ったその視線がいかなる関係付け-「感情付け」(感情移入)-意味付与も存在しない「単なる日常」を、この上もなく明らかに表現している。」
「ひとつ疑問が残るのは、これらの人物たちが、本当にイカロスの墜落に気づいていないのか、。――一種の存在論的ヴェールとでも言うべきものが、この「できごと」を彼らの目から隠しているのか、それとも彼らはそれが目の前でいま、起こっていることを明確に知りながら、なおかつそれ自体があまりに「日常」そのもの、無意味そのものであるために、完全に無関心でいるのか、ということである。しかし窮極的には、その答えはどちらでもかわまない。(中略)いずれにしても人物たちの表情には、その疑問に答えるようなものは、なにも現れていない――ただひとつの例外、すなわち牧人の横に座る犬を別にするならば。絶対的静寂の中の緊張に満ちて見ひらかれた、もの言わぬ犬の目は、この夕暮れの沈黙の空気の中で、なにごとか、ある「できごと」、宇宙を切り裂くようなひとつの「できごと」が、いま起こっているのを、おそらくありありと見取っているのではないだろうか……。」



「「イカロスたちの孤独」注」より:

「この犬の「表情」がどこかで自閉症児のそれを想起させるのは、単なる偶然ではないだろう。なぜなら、これらの子供達の「見ない眼」に映っているのも、おそらくこの犬の目が見ていることに非常に近い「できごと」なのだろうから……。」






































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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