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田中久夫 『明恵』 (人物叢書)

「ある時、寂恵房と禅忍房が、禅堂院の明恵のところに行った時、そこの障子をあけて御覧ぜよ。あの向いの山のふもとにたなびいている雲も、まことに面白いではないか、と語ったという。」
(田中久夫 『明恵』 より)


田中久夫 
『明恵』
 
人物叢書 60 


吉川弘文館 
昭和36年2月10日 初版発行
昭和46年3月1日 4版発行
255p 口絵(モノクロ)4p
新書判 角背布装上製本 カバー
定価450円 
装幀: 稲垣知雄
 


本書「はしがき」より:

「本書は、明恵の行実を、年を追って具体的に詳しくのべようとしたものである。何処に居り、どんな事をやったか、ということを、小伝として許される限りにおいて詳しく、できるだけ確実性の多い史料に即してあとづけようとしたものである。」


「人物叢書」旧版。口絵図版4点、本文中図版39点、地図2点。


田中久夫 明恵 01


目次:

はしがき
一 幼年時代
二 高雄における修学
三 紀州における遍歴
四 栂尾に入る
五 晩年
六 面影
七 伝記
あとがき
系譜
 (一) 俗系
 (二) 湯浅/保田 系図
 (三) 華厳血脈
 (四) 密教血脈
略年譜
主要著作目録
伝記史料
伝記
史料集
明恵消息等目録
諸同行年齢一覧
参考文献
 (一) 専ら明恵に関する単行本
 (二) 明恵に関係の著書
 (三) 論文




◆本書より◆


「幼少時代」より:

「二歳の時、乳母につれられて清水寺に参詣し、群集した人々が読経し礼拝しているのを見てよろこび、地主(じしゅ)の社の前で延年舞がおこなわれている方に乳母がつれて行ったので、前の方に行きたいと泣叫んだのが、仏法を尊くおぼえた最初であると後に明恵は語ったという。四歳の時、父が烏帽子をきせ、形がうつくしいから男にして大臣殿(小松内府平重盛)のもとにまいらせようといったので、うつくしくて法師になれないのならば、と考え、縁から落ちてみたり、火箸(ひばし)をやいて面をやこうと思い、まず試みに左の臂の下二寸のところにあててみ、その熱さに泣き出したこともあったという(『行状』)。また五~六歳のころ、僧侶がならんですわり食事をしている様子を見て、信仰の思いが深くおこったことがあり、その時の座敷の有様は、障子の破れたところまで、後になっても忘れない、と語ったという(『上人之事』)。」


「高雄における修学」より:

「ある時、仏眼の明(みょう)(真言)を一心に誦していると、夢に天童が自分を奇麗な輿にのせてかき歩き、仏眼(ぶつげん)如来、仏眼如来といっていると見、もう仏眼になったと思ったことがあった。また、夢に、一つのあばらやがあり、その下には沢山の蛇や蝎(さそり)などが居るので、恐怖を感じたところ、仏眼如来に抱かれて門を出て、怖畏を免れることができた、と見たとか、ある時、馬に乗って険路を行く夢で、仏眼如来が指繩(さしなわ)をひいて導いて下さったと見たなど、仏眼如来を母と思って、その懐(ふところ)に抱かれて養われていると夢みたようである。」

「華厳の章疏を、多く東大寺の尊勝院(中略)から借りて書写している。その奥書には、(中略)経典の偈をかきぬいたり、その時の瑣事をかきつけたりして無邪気なものがある。例えば「当山第一之非人成弁之本也、師子 当寺之瓦礫(がれき)明恵坊、此山之厠(かわや)掃治之夫法師之□」(『五教指事』中末)とあったり、「日本国第一乞食法師、今身より未来際に至り、永く僧都僧正になるべからざる非人法師成弁の本也」(『手鏡』所収『探玄記』六)などとあるし、また「釈飯の残り、この日、犬に食われ了んぬ」(『入楞御心玄義』)などともかいている。」



「紀州における遍歴」より:

「建久八年閏六月四日・五日にかかれた奥書のある『華厳一乗教分記』上巻があり、その奥書に「紀州山中巖上庵室において之を記す、時に西海以ての外になぎたり、船少々なり」とあって、(中略)その奥書には、次のような文もある。
   哀哉(かなしいかな)々々、南山のきはに船一艘いできたりつるが、ほどなくはせとをりて、北山にかくれなむとする気色(けしき)をみれば、此耳きれ法師が一生涯をはせわたらむほども、あれにことならぬかなと思て、雙眼になみだうかぶ。筆をそめて如此かきさして、また筆をそめむとする便(たより)に、みやりたれば、船はすでに北山へはせかくれにけり。弥(いよいよ)あはれをもよをすものかな。
 湯浅湾の沖を南から北に通りすぎて行く船を見ながら、己れをかえりみている様子がうかがわれる。」

「また或る時は百余人の同行(どうぎょう)や親類と共に海中の島に渡った。はるか西の海の中に霞んで浮ぶ島を天竺になぞらえ、「南無五天諸国処々遺跡」と唱え一同これにならった。」
「喜海は、(中略)明恵が島に渡って、そこに華厳の法界縁起の教えをよみとり、体験を深めて行ったのみではなく、島を友として遊んだことをのべている。そして、明恵が島にあてた手紙(それは破られてしまったが、覚えているところをかくといって)を載せているが、この長い興味深い手紙は、明恵の自然観を見るべき、というよりは、自然と一体になり得た、その気分を窺わせるものであろう。」



「面影」より:

「ある時、寂恵房と禅忍房が、禅堂院の明恵のところに行った時、そこの障子をあけて御覧ぜよ。あの向いの山のふもとにたなびいている雲も、まことに面白いではないか、と語ったという(『却廃忘記』)。」


田中久夫 明恵 02


「鷹嶋の石(左)、蘇婆石(右)(高山寺蔵)」
「鷹嶋の石は、長径1寸8分、蘇婆石は長径1寸ほど。鷹嶋は湯浅湾のうちにあり、この石には明恵の歌がしるされている。「我ナクテ後ニ愛セヌ人ナクバトビテ帰レネ鷹嶋の石」(景山氏論文による。)『和歌集』には「われさりてのちにしのばむ人なくば」とある。詞書には「紀州の浦にたかしまと申すしまあり。かのしまの石をとりて、つねにふつくへのほとりにおき給しに、かきつけられし」とある。」



田中久夫 明恵 03




こちらもご参照ください:

『特別展 鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝』 (2015年)
『明恵上人集』 久保田淳・山口明穂 校注 (岩波文庫)
多田智満子 『古寺の甍』



























































































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『特別展 鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝』 (2015年)

「明恵にとっての白といえば、その像に亡き母を重ね合わせたという「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)像」(No. 49)も全身が白で表わされている。幼くして母を亡くした明恵にとって、白とは母のイメージをもつものだったのだろうか。明恵はインドへのあこがれをもち続けたが、そのインドは我われが思うような熱帯の風景ではなく、ヒマラヤに象徴される白い世界だったのではないだろうか。それを具現化したものが白光神で、(中略)もしかしたらそこには母のイメージも重ねられていたのかもしれない。」
(淺湫毅 「作品解説」 より)


『特別展 
鳥獣戯画 
京都 高山寺の至宝』



編集: 東京国立博物館、朝日新聞社
発行: 朝日新聞社
2015年4月28日 発行
335p xi 
29.6×23cm 角背布装上製本
デザイン・制作: D_CODE



本書「凡例」より:

「本書は平成二十七年(二〇一五)四月二十八日(火)から六月七日(日)まで、東京国立博物館において開催する特別展「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝」の図録である。」
「総論および章解説・節解説・コラム・絵巻場面解説等は、土屋貴裕(東京国立博物館)が執筆した。」
「各論は、淺湫毅、松嶋雅人(以上、東京国立博物館)が執筆した。」
「作品解説は左記のとおり分担執筆し、解説の末尾に担当を記した。
 淺湫毅、伊藤信二、沖松健次郎、救仁郷秀明、高橋裕次、土屋貴裕、松嶋雅人(以上、東京国立博物館)、塚本麿充(東京大学)」
「英文翻訳はダニエル・モランが行ない、遠藤楽子(東京国立博物館)が監修した。」
「本書の編集は、東京国立博物館出版企画室(松尾美貴)・特別展室(高木結美)、朝日新聞社が担当した。」



鳥獣戯画 特別展 01


「特別展「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝」によせて」より:

「国宝・鳥獣戯画全四巻の本格的な修理が完了し、東京国立博物館におきまして特別展「鳥獣戯画 京都高山寺の至宝」を開いていただけることになりました。(中略)本展では、(中略)鳥獣戯画の全四巻のみならず、国内外で所蔵される断簡五幅もあわせて展示され、現在知られている同絵巻の全場面をご覧いただける貴重な機会となります。
 弊山中興の祖、明恵上人高弁(一一七三~一二三二)は、後鳥羽上皇の院宣により京の北西、栂尾の地に華厳宗道場を開き、高山寺と号しました。以来弊山には、明恵上人を頼る有力帰依者の施入により多数の文化財が伝来することになりました。本展ではその一端をご覧に入れ、また明恵上人ゆかりの美術品の数々を展示し、上人の多様性に富んだ独自の宗教観をお示しできるものと存じます。」



目次:

ごあいさつ (主催者)
特別展「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝」によせて (高山寺山主 小川千恵)

高山寺の至宝――鳥獣戯画と明恵上人ゆかりの美術 (土屋貴裕)

第1章 高山寺伝来の至宝
 1‐① 高山寺伝来の白描図像
 1‐② 高山寺石水院の栂尾開帳
 コラム1 石水院の栂尾開帳――高山寺と春日信仰

第2章 高山寺中興の祖 明恵上人
 2‐① 明恵上人の横顔
 2‐② 天竺を目指して――釈迦追慕と天竺憧憬
 コラム2 二つの石をめぐる物語――明恵上人と紀州、天竺
 2‐③ 明恵上人と仏法――密教と華厳の融合
 2‐④ 祖師のおもかげ――国宝・華厳宗祖師絵伝

第3章 国宝・鳥獣戯画
 3‐① 鳥獣戯画が生まれた背景
 3‐② 鳥獣戯画のすべて
 コラム3 鳥獣戯画「平成の修理」から得られること

鳥獣戯画の模本
高山寺印 一覧

鳥獣戯画がマンガを生んだのか? (松嶋雅人)
明恵上人と仏師湛慶をめぐる物語 (淺湫毅)

作品解説
高山寺と明恵上人 関連年表
世界文化遺産 栂尾山 高山寺
出品目録
List of Works



◆出品目録◆


第1章 高山寺伝来の至宝
 1‐① 高山寺伝来の白描図像
  1 梵天火羅九曜図 玄証筆
  2 達磨宗六祖像
  3 高僧像
  4 曼荼羅集 玄証筆
  5 阿弥陀鉤召図
  6 弥勒菩薩図像
  7 五菩薩五大尊図像
  8 太元帥明王・四天王図像
  9 毘沙門天図像
  10 伽耶城毘沙門天図像
  11 毘沙門天図像
  12 十六善神図像 玄証筆
  13 十五鬼神図像
  14 三国祖師影
  15 先徳図像 玄証筆
 1‐② 高山寺石水院の栂尾開帳
  16 春日大明神像・住吉大明神像
  17 春日大明神像・住吉大明神像
  18 春日宮曼荼羅
  19 春日大明神像・住吉大明神像
  20 春日大明神像・住吉大明神像 原在親筆
  21 栂尾両大明神御開帳記
  22 神鹿
  23 馬
  24 獅子・狛犬
第2章 高山寺中興の祖 明恵上人
 2‐① 明恵上人の横顔
  25 明恵上人像(樹上坐禅像)
  26 明恵上人像(持念珠像)
  27 明恵上人像(持経像)
  28 明恵上人像(山中の御影)
  29 明恵上人像(樹上坐禅像)
  30 明恵上人像(石上坐禅像) 岩崎信盈筆
  31 明恵上人伝絵断簡
  32 明恵上人行状絵 巻下 三宅高信筆
  33 解脱上人・明恵上人伝絵(探幽縮図) 狩野探幽筆
  34 春日権現験記絵 巻十七 冷泉為恭他模
  35 春日権現験記絵 巻十八 冷泉為恭他模
  36 夢記 明恵筆
  37 詠草 明恵筆
  38 子犬
 2‐② 天竺を目指して――釈迦追慕と天竺憧憬
  39 蘇婆石・鷹島石
  40 仏涅槃図
  41 仏涅槃図
  42 輪宝羯磨蒔絵舎利厨子
  43 釈迦如来立像
  44 十六羅漢像
  45 十六羅漢像
  46 十六羅漢像
  47 十六羅漢像
  48 白光神立像
 2‐③ 明恵上人と仏法――密教と華厳の融合
  49 仏眼仏母像
  50 大日如来像
  51 仏眼曼荼羅
  52 仏眼曼荼羅
  53 文殊菩薩像
  54 菩薩像(伝弥勒菩薩像)
  55 阿字螺鈿蒔絵月輪形厨子(鏡弥勒像)
  56 弥勒曼荼羅
  57 弥勒曼荼羅
  58 五秘密像
  59 五秘密像
  60 五秘密像
  61 光明真言土沙勧信記並別記 明恵筆
  62 光明真言功徳絵 巻下
  63 華厳海会諸聖衆曼荼羅
  64 華厳海会善知識曼荼羅 頼円筆
  65 華厳海会善知識曼荼羅
  66 華厳海会善知識曼荼羅
  67 華厳海会善知識曼荼羅
  68 五聖曼荼羅
  69 宝冠釈迦三尊像(毘盧遮那如来三尊像)
  70 金輪仏頂図
  71 釈迦如来及四菩薩像
  72 春和夜神像
  73 善財童子歴参図 不動優婆夷
  74 善財童子歴参図 大天神
  75 善財童子歴参図 安住主地神
  76 善財童子歴参図 婆珊婆演底主夜神
  77 善財童子歴参図 守護一切城増長威力主夜神
  78 善財童子歴参図 大願精進力救護衆生主夜神
  79 善財童子歴参図 釈種女瞿波
  80 善財童子歴参図 摩耶夫人
  81 善財童子歴参図 遍友童子
  82 善財童子歴参図 賢勝優婆夷
  83 善財童子歴参図 徳生童子・有徳童女
  84 善財童子絵 再見文殊師利菩薩
  85 善財童子絵 普賢菩薩
  86 善財童子絵 善見比丘ほか
  87 仏国禅師文殊指南図讃
  88 善財童子歴参図
  89 善財童子絵 文殊菩薩
  90 善財童子絵 徳雲比丘
  91 善財童子絵 弥伽大士
  92 善財童子絵 解脱長者
  93 善財童子絵 海幢比丘
  94 善財童子絵 休捨優婆夷
  95 善財童子絵 勝熱婆羅門ほか
  96 善財童子絵 喜目観察主夜神
  97 善財童子絵 寂静音海主夜神
  98 善財童子絵 大願精進力救護衆生主夜神
  99 善財童子絵 天主光天女
  100 善財童子絵 遍友童子
  101 善財童子絵 善知衆芸童子
  102 善財童子絵 弥勒菩薩
  103 善財童子絵 普賢菩薩
  104 善財童子絵 尊名不詳 
 2‐④ 祖師のおもかげ――国宝・華厳宗祖師絵伝
  105 華厳宗祖師絵伝 義湘絵
  106 華厳宗祖師絵伝 元暁絵
  107 義湘像
  108 元暁像
  109 善妙神立像
第3章 国宝・鳥獣戯画
 3‐① 鳥獣戯画が生まれた背景
  110 薬師十二神将像
  111 十二神将図像
  112 年中行事絵
  113 将軍塚絵
 3‐② 鳥獣戯画のすべて
  114 鳥獣戯画 甲巻
  115 鳥獣戯画 乙巻
  116 鳥獣戯画 丙巻
  117 鳥獣戯画 丁巻
  118 鳥獣戯画断簡
  119 鳥獣戯画断簡
  120 鳥獣戯画断簡
  121 鳥獣戯画断簡
  122 鳥獣戯画断簡
  123 鳥獣戯画断簡(模本)



鳥獣戯画 特別展 00



◆本書より◆


「高山寺の至宝――鳥獣戯画と明恵上人ゆかりの美術」(土屋貴裕)より:

「高山寺伝来の美術品のなかで、白描図像と並ぶ個性的なコレクションが動物彫刻である。その多くは、明恵の在世中、鎌倉時代前期に制作されたと考えられ、とりわけ仏師湛慶の作になると考えられるものが多く見られる。(中略)例えば「子犬」(No. 38)は、明恵が傍らに置き愛玩したと伝えるもので、その没後は明恵の坐像を安置する厨子の脇に置かれていたという。(中略)この他、「神鹿」(No. 22)、「馬」(No. 23)、「獅子・狛犬」(No. 24)といった動物彫刻が伝わる。」
「明恵の信仰を反映して、高山寺には鎮守として四柱の神が勧請された。インド、ヒマラヤの「雪山大神」に基づく白光神、義湘という新羅僧を龍に変じて支えた、中国の善妙という女性が元となった善妙神、そして日本の神、春日明神と住吉明神である。(中略)この四神は天竺(てんじく)、震旦(しんたん)、本朝(ほんちょう)という、インド、中国、日本を象徴する神々といえ、当時の世界認識である「三国」観を反映した構成となっている。」
「ただ、明恵の個人的な信仰に基づく白光神、善妙神という異国の神は一般には馴染みが薄く、その信仰は長く継承されることがなかったようだ。」

「明恵は釈迦を父と慕い、釈迦の生国天竺への渡航を二度にわたって試みている。その渡航計画は具体的なものであったらしく、唐の都・長安から天竺摩訶陀国の都・王舎城までの距離をもとに、一日に歩く距離から到着日数を算出した「大唐天竺里程書」を記し、懐中に護持していたとされる。」
「明恵は紀州湯浅の海に浮かぶ鷹島での修行中、浜辺で拾った二つの石を「蘇婆石・鷹島石」(No. 39)と名づけ、生涯護持した。そのいわれは、天竺蘇婆河には多くの釈迦の遺跡があり、その河から流れ出た水もやがて鷹島の海を洗うのだからと、「遺跡を洗へる水も入海の石と思へばなつかしき哉」との和歌を詠み、釈迦の遺跡の形見としたという。こうした逸話から知られるのは、天竺渡航を断念した明恵が、直接天竺へ渡らずとも、日本に居ながらにして釈迦や天竺に触れる方法を「発見」したということだろう。」

「今日の仏教史研究において、密教と華厳を融合した「厳密」とも呼ばれる独自の教学を確立した明恵であったが、(中略)それは極めて私的で独自な信仰体系であったが故に、後世長く引き継がれることはなかった。」

「明恵周辺では彼の思想・教学を反映した多様な美術作品が作られた。そのなかでも、明恵の思想を反映しながら、おそらくは明恵自らの関与ではなく、同行や後援者によって制作されたと考えられるのが「華厳宗祖師絵伝(華厳縁起)」である。新羅国の華厳宗の祖とされる義湘(六二五~七〇二)、元暁(六一七~六八六)の事蹟を描くもので、義湘絵四巻、元暁絵三巻からなる。」
「物語の冒頭は、いずれも義湘、元暁が求法のため入唐を志すところから始まる。旅の途中、二人はある塚に泊まるが、(中略)夢に鬼神をみた元暁は「心の外に仏法なし」として本国に留まることを決意し、義湘はそのまま旅を続けることになる。」
「義湘絵は、義湘という新羅の華厳僧を主人公としながら、善妙という女性の献身を描く絵巻といっても過言ではない。(中略)明恵は善妙を護法神として高山寺に勧請し、「善妙神立像」(No. 109)を奉納し、また善妙寺という尼寺を作るなど、この女性にひとかたならぬ想いを寄せていたようだ。こうした明恵の善妙観をうかがう著名なエピソードが『夢記』承久二年五月二十日条に載せられている。」
「十蔵房が一つの香炉を持ってきた。それは崎山三郎が十蔵房に贈った唐からの舶来品だった。なかには仕切りがあり、さまざまな唐物が二十ほど入っていたが、その中に五寸ばかりの陶製の唐女の人形があった。人が言うにはこの女の人形は唐より渡ったことを嘆いているとのことだった。しばらくあってそれを取り出して見ると涙を流して泣いている。それに対し明恵は、自分はこの国では敬われている僧侶である。嘆くことはないと言うと喜んだ様子を見せたので、明恵はその人形を掌で包むとたちまちに生身の女となった。そこで明日、ある所で仏事があるので結縁のため連れて行こうとすると、その女も喜んでそれに同意した。翌日、仏事の場へ赴くと、十蔵房がこの女は蛇と通じていると言う。明恵はそうではなく、この女の一つの形が蛇なのだと応えると、十蔵房はこの女は蛇を兼ねるものだと言い、目が覚めた。後に考えてみると、これは善妙のことだったのだろう。善妙は龍に変じたため、蛇身をそなえていたのだ。また、この人形が陶製だったのも石の身を表わすもので、善妙が石に変じた故事を踏まえたものだったのだろう。」



鳥獣戯画 特別展 02


「明恵上人像(樹上坐禅像)」。


鳥獣戯画 特別展 06


部分。


鳥獣戯画 特別展 03


「子犬」。


鳥獣戯画 特別展 04


「華厳宗祖師絵伝 義湘絵」。


鳥獣戯画 特別展 07


「五秘密像」。


鳥獣戯画 特別展 09


「春和夜神像」。


鳥獣戯画 特別展 08


「鳥獣戯画」。




こちらもご参照ください:

伊藤清司 監修・解説 『怪奇鳥獣図巻』
『新潮日本文学アルバム 22 泉鏡花』
高田衛 『女と蛇』






























































奥田勲 『明恵 ― 遍歴と夢』

「この草庵における奇瑞の多くが行状に記されている。松樹の下に坐して、四大和合の観門に入り、観想思惟すると、四人の客人が額をつき合わせて四方に在るを見る。しかるに、その四人は自分自身の身が分かれて四つになっているのであって、その他に我身はない。すなわち、四大種(地水火風)が和合して仮に我身を作り成しているのを観想の中に知った。」
(奥田勲 『明恵』 より)


奥田勲 
『明恵
― 遍歴と夢』
 

東京大学出版会
1978年11月25日 初版
1998年5月25日 第3刷
320p 索引5p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,400円+税
カバー: 高山寺石水院格子戸



本書「あとがき」付記(1998年5月)より:

「このたび重版の機会を得たが、基本的な点では特に変更・加筆の必要はないと思われるので、若干の訂正にどとめ、全面的な改訂は次回に期すこととする。」


本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値(930円+送料)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


奥田勲 明恵 遍歴と夢


目次:


 釈尊への手紙
 印度への道
 栂尾へ

Ⅰ 隠遁と遍歴――明恵の生涯(一)
 1 誕生の周辺
  誕生をめぐって
  父祖
  湯浅氏
  幼年時代
  父母の死
  崎山
 2 高雄修学時代
  高雄へ
  上覚房行慈・密教の修学
  高雄における修学
  仁和寺
  二つの夢
  出家前後
  夢想と好想
  隠遁の思い
 3 紀州遍歴
  紀州へ
  白上の峰
  白上生活の成果と挫折
  高雄還住
  明恵圏の成立
  再び紀州へ
  筏立
  印度への思い
  春日明神の夢
  紀州と高雄
  上覚への手紙

Ⅱ 栂尾の上人――明恵の生涯(二)
 1 高山寺草創
  栂尾の地を得る
  高山寺の成立
  入らむ時にも
  成弁から高弁へ
  華厳経書写勧進
  摧邪輪
  島へ
  講式の述作
  練若台に結庵
  石水院造営
  賀茂への移住
  槇尾移住
  石水院での著述と講義
  再び賀茂へ
  承久の乱
 2 晩年
  再び栂尾経営
  慶政と明恵
  善妙寺の経営
  講義と隠遁と
  貴顕との交渉
  病患
 3 入滅
  最後御所労
  弥勒の宝前
  多くの夢想
  正月十一日
  置文
  霊典の見た奇瑞
  十六日
  十八日
  正月十九日入滅
  葬歛
  死を予知した人々

Ⅲ 明恵世界の内と外――夢・説話・講義・人脈
 1 夢と「夢記」
  明恵の夢
  明恵伝中の夢記
  夢記の形態
  聖教中の夢記
  夢記の形成
  夢の種類
  夢を見る方法
  宗教的な夢
  日常的な夢
  夢と現実の交錯
  稀有の書
 2 明恵説話の世界
  明恵説話の基底としての行状と伝記
  行状と夢記
  古今著聞集
  著聞集説話の淵源
  渡天竺企画の説話
  臨終の描写
  沙石集
  明恵説話の世界
 3 講義と談話
  からもり長者
  光言句義釈の講義
  明恵の講義
  弁説の淵源
 4 人脈
  師と後援者たち
  上覚房行慈
  督三位局
  義淵房霊典
  兼実と道家
  慈心房覚真
  解脱房貞慶
  空達房定真
  明恵山脈

Ⅳ 埋れた歌集――高山寺の典籍
 1 明恵の伝記資料
  明恵伝のための資料
  いわゆる仮名行状
  上山本漢文行状
  報恩院本漢文行状
  明恵上人神現伝記あるいは春日明神託宣記
  伝記系諸本
  入滅の記録
  禅浄房の「上人之事」
  高山寺縁起
 2 高山寺経蔵の形成と継承
  高山寺の典籍
  高山寺経蔵の調査
  高山寺の経蔵目録
  古目録の成立と書承
  古目録の成立
  古目録の一覧
  高山寺聖教目録
  法鼓台聖教目録
  方便智院聖教目録
  筁入子六合目録
  高山寺朱印
 3 埋れた歌集
  釈摩訶衍論の題簽
  金玉集の断簡
  公任から高山寺へ

Ⅴ 栂尾の高山寺――「日出先照高山之寺」
 1 梅尾から栂尾へ
  栂尾と梅尾
  ウメノヲかトガノヲか
  なぜ「梅尾」か
 2 石水院小史
  石水院の草創
  賀茂と栂尾
  禅堂院について
  石水院と禅堂院
  明恵は禅堂院の客殿で入滅したか
  石水院の復活
  現在の石水院
 3 高山寺の春日明神
  紀州・賀茂
  高山寺の鎮守
  東経蔵の春日明神
  東経蔵から石水院へ
  鎮守の廃絶
  石水院神殿の興廃
 4 高山寺を歩く
  高山寺へ
  石水院跡
  東の壇へ
  明恵への思い

主要参考文献目録
 参考文献補遺
明恵関係略系図・血脈
明恵・高山寺関係年譜
あとがき (1978年9月/1998年5月)
索引




◆本書より◆


「Ⅰ 隠遁と遍歴」より:

「明恵自身の述懐によると、二歳の時、乳母に抱かれて清水寺に詣で、諸人の読経・礼拝に分別ないままに信心を起したが、地主権現の前で延年の歌舞があり、乳母が見物のためにそこへ行くと、明恵は延年は見たく思わず、前の所へ行きたいと泣き叫んだが、これが仏法を尊く思ったはじめての体験だったという(行状)。また四歳の時、父が明恵に烏帽子を着せて「形チ美容ナリ、男ニナシテ大臣殿〔小松内府〕ヘマイラセン」というのを聞いて、不本意に思い、身を損じて法師になろうと思い、縁から落ちようとしたが、人に抱きとめられ、次いで顔を火箸で焼き損じようと思ったけれど、火箸の熱気に恐ろしくなり、試みに腕に当ててみたが、熱さに泣いてしまい、ついに顔には当てられなかったという(同)。」

「この高雄修学期の後半は、また多くの夢にふちどられている。その核となっているのは、仏眼に対する深い信仰であり、それが同時に亡き母に対する思慕の昇華したものである点に注意を向ける必要がある。仏眼仏母尊はもともと大日如来の所変として胎蔵界曼荼羅に描かれるほとけだったらしいが、時代や宗教圏によってその規定の仕方はまちまちであり、明恵が信仰する仏眼の内実は必ずしも明らかではない。しかし、次に掲げる多くの夢想(行状所収)から母性としての仏眼を考えるのは決して誤りではない。
 天童が殊勝奇麗の宝の輿に明恵を載せてかき歩き、「仏眼如来仏眼如来」と唱え、明恵は自分がすでに仏眼になったかと思う夢。馬に乗って険路を行く時、仏眼如来が指繩を引いて先導してくれた夢。仏眼に抱かれて養育されている夢。仏眼如来から一通の消息を得たところ、その表書に明恵房仏眼と書かれていたという夢。また、行法中に仏眼尊が現形したり、あるいは仏眼法の開白の時白雉が現じたりもしている。このような特定の対象によって集中的に夢想・好相を得ているのは、明恵の生涯中にも例が少ない。この中に明らかに仏眼を母と同一視している夢があるし、有名な高山寺蔵仏眼仏母像に書きつけた次の歌とことばはそれをよく物語っている。
  モロトモニアハレトヲホセワ仏ヨキミヨリホカニシル人モナシ
  无耳法師之母御前也
  南無仏母哀愍我生々世々不暫離
  南無母御前南無母御前
  南無母御前南無母御前
  釈迦如来滅後遺法御愛子成弁紀州山中乞者敬白
これはもちろん、文中にあるように、のちに紀州に移ってから書かれたものではあるが、同じ思想に貫かれているのは明らかである。」

「ある時行法の最中に良詮という侍者を呼んでいうには、手水桶の水に一匹の虫が落ちたような気がするので助けるように告げる。良詮が驚いて手水桶を見ると、はたして蜂が落ち入っていた。またある日良詮を呼んで、庵のうしろの竹やぶの中で小鳥がなにかにけられているようだから見てくるようにいう。良詮が行くと、鷹が小鳥をさいなんでいたので、追い払った(行状)。
 ある時、夜深い炉辺に眠るが如くして座していた明恵が、急に「アラ無慙(ザン)ヤ、遅ク見付テハヤ食ツルゾヤ、火ヲ燃テ急ギ行テ追放テ」と言う。傍の僧が何事かと聞くと、大湯屋の軒にある雀の巣に蛇が入ったと答える。僧は真暗闇なのに変な話だと思ったが、蠟燭をともして急いで行って見ると、雀の子を大蛇が呑みかけて巣にまつわりついていたので、取り払った(伝記)。
 このような、幻想と呼ぶにふさわしい宗教的体験や、常人の能力を超えた透視のような現象が、この時期の明恵にはじめて現われるのは、生涯を貫く明恵の精神の原質としてとらえてよいであろう。
 暗夜に経論を読むというのは、たしかに高僧伝の一つの定型であり、法然の場合とそれは酷似している。しかし、明恵の場合、その神秘的な一面を、たとえば夢記というような世界として生涯維持し続ける点に大きな特質があるとすべきである。」

「この時期に限らず明恵を深くとらえていた想念は、釈迦の時代に生まれ合わせなかった恨みと、それを克服しようとする意志であった。剃髪していること、染衣を着けていることが驕心を逃れる本意であったにもかかわらず、末代の仏弟子は逆に美しく頭をまるめること、衣の色を鮮やかにすることに心をくだき、釈迦の教えに叛いている。それを思い続けると、剃髪着衣はすでに如来の意に就くことにはならない。さらに形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来のあとを踏むことを思った。しかし、眼をくじり取れば聖教を読むことができなくなる、鼻を切れば鼻汁が垂れて聖教を汚すだろう。手を切ると印を結ぶことができない。しかし耳ならば切っても聞えないわけではないから法文を聞くのに不自由はないし、形を破るという点で初志に近づく、と結論を出し、仏眼如来の前で耳をからげて仏壇の足に結びつけ、刀を取って右の耳を切った。血が飛んで本尊や仏具にかかった。その血は行状の書かれた頃も消えずに残っていたという。」



「Ⅱ 栂尾の上人」より:

「別の折には、百余人の同法・親族を伴って鷹島に渡ったこともあり、その時、はるか西の海を望むと霞の中に島あり、それを天竺になぞらえて、皆と共に礼拝した、明恵は、
  天竺は如来の本生の国なり。彼の国に多く如来の千輻輪の足迹有り、就中、烏仗那国蘇婆卒堵河流に殊にこの霊跡多し、彼の河水大海に流れ入て、ことごとく一味の醎水と成る、和合隔てなく、この磯辺の石彼の海水に染まる、豈(あに)遺跡の形見に非ずや、
と説いた。(中略)明恵は一つの石を拾い、
  これはまことに心に感じ動く所の石也、すなはち蘇婆卒堵河の石に擬して、蘇婆石と名づけて、これを持す、すなはち一首を詠じて云く、
    遺跡を洗へる水も入る海の石と思へばむつまじきかな
と語った(行状)。行状には見えないが、入滅近くなった明恵が、大事にして常に文机のほとりに置いていた島の石に、
    我去りてのちにしのばむ人なくば飛びて帰りね鷹島の石
と書きつけた(和歌集・伝記)ことは、明恵の心性をよく物語るものとして有名である。」



「Ⅲ 明恵世界の内と外」より:

「明恵の伝記は、行状系と伝記系とに二大別できる。そのうち行状系は、著者、成立事情が示されており、明恵の没後最も早く著述された根本伝記としてきわめて高く評価されているが、その中にすでに説話と呼ぶにふさわしい手法で明恵のさまざまな風貌が記述されている。」

「明恵の異常な能力や奇行に類するものについての関心が、明恵説話の形成・展開に力を与えているのは明らかで、伝記系諸本の半ば(版本でいえば下巻冒頭)に置かれた説話群は、そうした興味関心がその編集作業に働きかけた結果と見ることができよう。」

「明恵の生きた時代からもっとも近い時代に成立し、明恵の面影を記し留めた説話集に古今著聞集(建長六年〈一二五四〉成、明恵没後二十一年)がある。その巻第二に「高弁上人例人に非ざる事幷びに春日大明神上人の渡天を留め給ふ事」として、かなりの長文によって明恵の逸話を紹介している。内容の概要は次に示すとおりである。
 高弁上人は幼くして仁和寺喜多院御室に養われていたが、文覚がやって来て、その少年(明恵のこと)を見て、ただ人ではないと思い、頼み込んで弟子として引き取る。法師にして高雄に住ませたが、学問に専ら打ち込んで、かりそめにもほかの事をしなかった。文覚が高雄神護寺を造営しようとして、普請をさせていた時、明恵はうるさく思って、聖教の持てるかぎりを持って山の奥に入り、人の来ない所で読書していた。昼頃大工が食事を並べすえた時、明恵は山の中から走り下って、その食事七、八人分をやすやすと取り食って、また別の聖教を持って山の中へ帰った。そして二、三日も出て来なかった。このようなことが二、三日に一度必ずあった。文覚はこのことを聞いて、「只の人の振舞ではない、権者(神仏がかりに現われたもの)のしわざだ」と言った。
 明恵は暗闇で聖教を読んだ。大神基賢(当時の楽人大神基方か)の子の光音は年来明恵に仕えていたが、暗い夜、明恵が火もともさず聖教を読んでいて、弟子どもに「しかじかの所にある本をとってほしい」と言ったので、弟子は暗まぎれに手さぐりで本を取って持って来ると、「この本ではない、しかじかの本だ」などと言うのを見ていて不思議のことと思ったと語った。
 ある夕ぐれ、その光音を呼んで、「山寺の今頃の時間は、まことに心の澄むものだ。さあ、月見に出かけよう」と房を出て、清滝川のほとりを上へ三十余町ばかり山を分けて入った。そこに大きな石があり、それにのぼって、「この石は、いかにもわけのありそうな石だ。伽藍の礎石ででもあったのだろうか。この石はなぜかしらなつかしい気がする」と言って、夜の更けるまで心を澄まして、さまざまの物語をして坐していた。「寒いことだろう」と、どこにもあると思えなかった円座を取り出して光音に敷かせた。不思議なことだった。」
「釈迦の遺跡を訪ねるために、弟子十数人を連れて天竺へ渡ろうとしていた頃、春日大明神に暇乞いしようとその社へ参詣すると、鹿六十頭が、膝を折って地に伏して明恵を敬った。そののち、生まれ故郷の紀州の湯浅へ赴いたところ、明恵の叔母である女性に憑(つ)いて、春日明神が託宣を下した。その託宣は「私は仏法を守護するために、この国に垂迹した。上人(明恵に対する呼びかけ)は私と国を捨ててどこへ行こうとするのだ」というものであった。明恵は「この事は信じられない、まことならばその験を見せてほしい」というと「疑ってはならない。この社へ来た時、六十頭の鹿が膝を折って敬ったのは、私があなたの上方六尺のところに飛び上って離れなかったので、鹿は私を敬っていたのであり、あたかもあなたに膝を折ったように見えたのだ」と答えたが、明恵はさらに、「それは本当かも知れない。しかしまだ疑いがある。すぐさま普通の人間ではないしるしを見せてほしい」と言った。するとこの女は飛び上り、家の梁に腰をかけて座した。その顔の色は瑠璃のように青く透明で、口から白い泡をたらした。その泡はこの上ない芳香を放った。その時明恵は信仰の気持を起し、年来の華厳経についての不審を質問するとことごとく説き明かした。明恵は泣いて渡海のことを思いとどまった。例の白い泡は他郷まで匂ったので、人々は不思議に思い、競い集まって拝み尊ぶこと限りなかった。三日の間女は下りないで梁の上にいた。」

「古今著聞集の明恵説話は、ある面ではきわめて正確に明恵の行状を伝えることになったが、部分的には巷間の伝承などをもとにしたらしく不正確な部分を含むことになっている。しかし、そのような明恵伝説がすでに多く世に行なわれていたことを間接的にこれは示しているわけで、行状系が伝記系へ展開していった契機は、すでに明恵没後二十年にして多く世に存在していたと見ることができよう。」





こちらもご参照ください:

根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)

本書には明恵の弟子・実勝の補陀落渡海への言及があります。


































































































白洲正子 『明恵上人』 (講談社文芸文庫)

「何れにしても、浮雲のような生活を送った明恵にとって、修行の妨げになることから逃げ出してしまうのは、この時がはじめてではないのです。」
(白洲正子 『明恵上人』 より)


白洲正子 
『明恵上人』
 
現代日本のエッセイ
講談社文芸文庫 L-C-2

講談社
1992年3月10日 第1刷発行
2003年3月20日 第18刷発行
217p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価940円(税別)
デザイン: 菊地信義


「本書は、一九七四年四月、新潮社刊新潮選書『明恵上人』を底本とし、多少ふりがなを加えた。」



本文中モノクロ図版6点、「人と作品」中モノクロ図版6点。「年譜」と「著書目録」は二段組です。


白洲正子 明恵上人 01


カバー裏文:

「――師に辞し衆に違して思を山林に懸く(「高山寺文書」)
山中に一人修行することを望んだ高山寺開祖・高僧明恵。
能・書画に造詣深い著者が、「明恵上人樹上座禅像」に出逢い、
自然の中に没入しきって気魄に満ちた、強靭な人間の
美しい姿に魅せられ、その生きざまを追究。
平明静謐な文章で、見事に綴る紀行エッセイ。」



目次:

栂尾 高山寺 明恵上人
 樹上座禅
 薬師丸
 仏眼仏母(ぶつげんぶつも)
 紀州遺跡
 高雄から栂尾へ
 あるべきやうわ
 栂尾の上人
 華厳縁起
 夢の記
 明恵上人参考年譜

人と作品――魂の人 (河合隼雄)
年譜――白洲正子 (森孝一 編)
著書目録――白洲正子 (作成: 森孝一)




◆本書より◆


「樹上座禅」より:

「上人は常にこういったということです。『我は後世たすからんと云ふ者にあらず。ただ現世に先づあるべきやうにあらんと云ふ者なり』(栂尾明恵上人遺訓)
 後世をねがわぬとは、僧侶らしからぬ言葉ですが、明恵にとっては、あの世で救われることも、この世で悟りを開くことも、念頭になかったらしい。そういう意味では同時代の、親鸞や道元からも遠い人で、一宗一派を立てたり、寺を造ることにも興味はなく、弟子さえほしくないといっている位です。まして僧位僧官などには目もくれなかった。「あるべきやう」については、みずからこのような説明を加えています。
  『僧は僧のあるべきやう。俗は俗のあるべきやう。乃至帝王は帝王のあるべきやう。臣下は臣下のあるべきやうなり。此のあるべきやうを背く故に一切悪しきなり』
 しごく平明な言葉ですが、人間にはこの当り前のことが一番守りにくい。(中略)現代語では、自己発見とでもいうのでしょうか、それぞれの天性を知り、その天性に忠実であるべきだ、それが生きることであると、私は間違っているかも知れませんが、この詞(ことば)をそんな風に解しています。」



「仏眼仏母」より:

「一生を通じて、筋道立った思想を持たなかった彼にとって、直接釈迦に還るということが、唯一の、そして独創的な思想と呼べるのではないかと思います。」

「道元や親鸞のように宗派もつくらず、一遍や空也のような聖(ひじり)の生活にも徹せず、重源(ちょうげん)のような事業家でも、文覚・日蓮のような荒行者でもなく、歌をよんでも西行には遠く及ばなかった。彼がほんとうに打込んだのは何であったか、次の詞はその心の内を明かしてくれるように思います。
  『ワレハ天竺ナドニ生マレシカバ、何事モセザラマシ。只五竺処々ノ御遺跡巡礼シテ、心ハユカシテハ、如来ヲミタテマツル心地シテ、学問行モヨモセジトオボユ』(却廃忘記)
 古今に名僧は多くても、自分の信仰について、誰もこのような告白をした人はいない。極端なことをいえば、明恵が信じたのは、仏教ではなく、釈迦という美しい一人の人間だったといえましょう。(中略)「修行」という言葉は、彼の場合、そういう意味を持つので、それは経文に通じることでも、仏教の思想を研究することでもなかったのです。」
「坊さんの系譜からいうと、明恵は華厳の血脈ということになっていますが、ほんとうのことをいえば、彼には宗派というものは存在しない。学問も知識も、ただ仏に近づくための手段でしかなく、むしろそうしたものにとらわれることを極力警戒したようです。」

「毎日のように見た夢も、明恵は自分の方にひきよせて、解釈している場合が多く、(中略)豊かな誤解と独断によって、彼は自分の信仰を深めるとともに、高い信念に到達して行ったのです。」

「ようするに私達人間は、どんなに客観的であろうと努めても、聞きたいことしか耳に入らぬし、見たいものしか見えないのかも知れません。ただ天才の異なる点は、積極的に、意志的に、その傾向の強いことで、単に誤解をおそれないというよりも、むしろすすんで身をゆだねるように見えなくもない。」



「あるべきやうわ」より:

「『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ仏法うとくのみなるなり』という極限まで行った人間には、宗旨はおろか、仏法もなく、一人の後継者もつくらなかった。わずかに傍に仕えた弟子達が、師を偲んで、その生前の姿を伝えただけで、世間的な「仕事」とか「事業」と呼ばれるものは何一つ遺してはいない。そうかといって、単なる聖(ひじり)でもない。(中略)もし、仏が宇宙の象徴であり、釈迦がその具体的な現われなら、ただ存在するだけで満ち足りた明恵上人は、正しく「釈尊の遺子」にふさわしい生涯を送ったといえるのです。」


「夢の記」より:

「どこまでも明恵について廻るのは、石に対する特別な感情で、そこには巨石を拝した古代人の記憶が甦って来るように思われます。(中略)この上人ほど身をもって、古代の自然信仰と、外来の仏教の精神を、体得した人はいなかったようです。」

「たしかに明恵のような生活をしていれば、透視のようなことも可能だったに違いなく、(中略)こういう逸話も伝わっています。
 木工権頭孝道という人が来て、法談のついでに、ある人の形見の琵琶を見せた。美事な華梨(かりん)の一木作りなので、上人は感嘆して、孝道に一曲所望した。折しも静かな夕暮のこととて、名器の調べはひとしお哀れに聞えたが、上人は感に堪えず、前の縁側にかけてあった簾の上にそっと上り、簾に拍子を打ちつつ聞き入った。一同奇異のおもいをなしたが、少時たって、簾の上からそっと下りて、『空にて聞き候へば猶殊勝にこそ候へ』といった。『かゝる神変がましき事をば隠し給ふ人の、感に堪えず覚えずして、かゝる振舞のありけるやらむ』(伝記)
 狂人は、柱を登ったり、天井板にはりついたりすることがあるそうですが、それは疑わないから出来ることなので、我々常人ははじめから不可能ときめてかかることにより、出来ないことが多いのではないかと思います。だが、上人にとって、このようなことは別に「いみじき事」でも、「神変がましき」振舞でもなかった。「自然と知れずして具足せられた」力にすぎないのですが、やはり世間の人々には、不思議に思われ、特に好きなものに対する常軌を逸した打ちこみぶりは、『ものくるほし』く映ったに違いありません。」
「外から見れば、たしかに奇行は多かったが、彼は決して奇人でも狂人でもない。いや、狂人と見られたり、笑われたりすることに対して、平気でいられるほど強い信念の持主だったのです。」































































































河合隼雄 『明恵 夢を生きる』 (講談社+α文庫)

「生きていて死を成就することはできない。夢の中でこそ、それは成就できるのである。」
(河合隼雄 『明恵 夢を生きる』 より)


河合隼雄 
『明恵 
夢を生きる』
 
講談社+α文庫 F-1-5

講談社
1995年10月20日 第1刷発行
391p 口絵(カラー)1葉
文庫判 並装 カバー
定価880円(本体854円)
装画: 谷口広樹
デザイン: 鈴木成一デザイン室


「本作品は一九八七年四月、京都松柏社より刊行されました。」



口絵は「樹上坐禅像」部分。本文中図版(モノクロ)8点、図表3点。


河合隼雄 明恵 01


カバー裏文:

「生涯にわたって自分の夢を記録しつづけた名僧・明恵(みょうえ)の『夢記(ゆめのき)』を手がかりに、夢の読み方、夢と自己実現の関係、ひいては人間がいまを生きるうえで大切なこと等をユング心理学の第一人者、夢分析の大家が実証的に説く。夢で生き方が変わることもある……。
第一回新潮文芸賞を受賞した、人間の深層に迫る名著。」



目次:

文庫版まえがき

第一章 明恵と夢
 1 『夢記』
  明恵と夢
  夢の記録
  仏僧と夢
 2 夢とは何か
  夢の研究
  夢分析
  夢の作用
  夢を生きる
 3 日本人と夢
  古代人と夢
  多聞院英俊の夢
  合理と非合理
 4 明恵の夢の概観
  『夢記』資料
  その他の夢
  明恵の夢に関する研究
第二章 明恵とその時代
 1 明恵の生涯
  明恵の時代
  明恵のライフサイクル
 2 仏教史における明恵
  明恵の史的意義
  日本人と戒
第三章 母なるもの
 1 最初の夢
  乳母の死の夢
  九相詩絵(くそうしえ)
  身体とは何か
 2 捨身
  我、十三にして老いたり
  捨身の意味
  捨身の成就
 3 仏眼仏母
  母としての仏眼
  理趣経
第四章 上昇と下降
 1 耳を切る
  自己去勢
  文殊の顕現
  二翅の大孔雀王
 2 上昇の夢
  五十二位の石
  身体との和解
  筏立(いかだち)
第五章 ものとこころ
 1 仏陀への思慕
  島への手紙
  渡天竺(とてんじく)
  糸野の御前の夢
 2 共時性
  明恵とテレパシー
  意識の次元
  明恵の意識
 3 あるべきやうわ
  高山寺
  命生けさせ給へ
  我に一の明言あり
  摧邪輪(さいじゃりん)
第六章 明恵と女性
 1 仏教と女性
  女性の意味
  日本仏教と女性
 2 女性の夢
  女性像の変遷
  性夢
  承久の乱
 3 善妙
  善妙の夢
  華厳縁起
  女性像の結実
 4 親鸞と女性
  親鸞の夢
  女犯
第七章 事事無礙(じじむげ)
 1 身心凝然たり
  兜率天上(とそつてんじょう)に登る
  身心凝然の夢
  華厳の世界
 2 示寂
  此の夢は死夢と覚ゆ
  我、戒を護る中より来る


あとがき
本文索引



河合隼雄 明恵 02



◆本書より◆


「第二章 明恵とその時代」より:

「明恵は両親の愛を受けて成長してゆくが、幼少時より宗教心の深さを示すエピソードが多く語られている。その中で注目すべきものは、明恵が四歳のとき、父が明恵が美貌なので大臣に仕えさせればとたわむれに言ったのに対して、自分は僧になるのだからと自分の顔を傷つけようとした話である。明恵はこのため縁から落ちようとしたり、焼け火箸(ひばし)で顔を焼こうとしたりした(中略)――のだから、僧になろうとする意志の強さが実感させられる。」
「入山後、明恵は真言や華厳の教えを熱心に学ぶ。十三歳のとき「今ハ十三ニナリヌレバ、年スデニ老イタリ、死ナムズル事モチカヅキヌ」と思い、同じ死ぬのなら仏が衆生(しゅじょう)のために命を捨てられたように、人に代わって虎狼(ころう)に喰われて死のうと思い、一人で墓所に行き一夜を明かしたが、狼に喰われることもなく残念に思いつつ帰ってきた。」
「十六歳のとき上覚について出家し、東大寺戒壇院で具足戒(ぐそくかい)を受けた。これで幼少時よりの念願がかない、僧としての生活を送ることになる。当時の僧侶が学者として、あるいは祈祷師(きとうし)として生きていたのに対して、明恵は純粋に聖教の教えのとおりに修行して、仏の道を究(きわ)めようとする姿勢を強くもっていたようである。」
「二十三歳のときに神護寺を出て、紀州栖原の白上の峰に草庵を構え、隠遁(いんとん)生活にはいる。当時の僧たちが戒を破り、名利(みょうり)を求めて行動するのを見るにつけ、若い僧である明恵としてはたまらぬ思いがして、隠遁生活にはいったものと思われる。俗世間のことをいとい、ひたすら仏の道を究めようとする明恵の態度が、直截的(ちょくせつてき)に示された事例として、彼が二十四歳のときに自らの耳を切ったことをあげねばならない。
 もともと仏僧が剃髪(ていはつ)し、染衣(ぜんえ)を着けているのは、驕慢心(きょうまんしん)を避けるためのものであるのに、当時の僧は逆に美しく頭をまるめることや衣を派手にすることに心をくだき、仏陀の本来の意志を踏みにじっている。したがって、剃髪着衣はすでに意味を失っているので、それ以上に形をやつす必要があるとして、自ら右の耳を切ったのである。ここに明恵の一途(いちず)に思いこむ態度(中略)が感じられるのである。」
「これによって明恵は(中略)、他の僧たちと離れ、ただ一人で経文を頼りとして、ひたすら内的な世界へと没入してゆくことになったと思われる。」

「明恵はひたすらに仏陀を慕う気持ちが強かったので、自らを仏陀の「滅後のみなし子」とみなして(中略)いる」

「明恵としては、政変が起ころうと、己(おのれ)の生死が問われようと、まったく泰然たるものであったと思われる。」
「明恵としては、ただ一人で籠(こも)る生活を送りたくてたまらなかったのではなかろうか。」

「明恵にとっては、何も新しいことなど必要でなかった。彼にとっては仏陀の存在がすべてであった。(中略)何か新しいことを見出そうなどとは考えてもみなかったであろう。明恵はこのような自分の考えを、非常に明確な言葉で次のように述べている。
 「ワレハ天竺ナドニ生マレシカバ、何事モセザラマシ。只五竺処々ノ御遺跡巡礼シテ。心ハユカシテハ、如来ヲミタテマツル心地シテ、学問行モヨモセジトオボユ」(『却廃忘記』)
 釈迦の生きた地である天竺に生れていたら、もうそれだけで満足で、学問や修行などしなかったであろうというのである。」

「明恵の尊敬者の一人、辻善之助が(中略)、明恵こそはわが国の名僧の中で、生涯不犯であった唯一の僧であると述べたことは、よくあちこちに引用されている。唯一の清僧、などという表現がなされているものもある。」



「第三章 母なるもの」より:

「『伝記』によると、明恵は父母を亡くした後、九歳のときに親類をはなれて高雄山に登るが、その当日の夜に夢を見ている。『伝記』によると、「其の夜、坊に行き着きて、臥したる夢に、死にたりし乳母、身肉段々に切られて散在せり。其の苦痛、夥敷(おびただしく)見えき。此の女、平生罪深かるべき者なれば、思ひ合せられて殊に悲しく、弥(いよいよ)能(よ)き僧に成りて、彼等が後生をも助くべき由を思ひとり給ひけり」(「乳母の死の夢」)と語られている。
 乳母の体が切りきざまれて散在していた、というのだから、まことに凄(すさ)まじい夢である。」

「簡単に図式化した言い方をすると、母性原理は「包む」機能を主とするのに対して、父性原理は「切る」機能を主としている。
 すべてを包みこんでひとつの全体にするということと、ものをあくまでも切って分割してゆくということは、まったく対立した機能である。もっとも、このような対立した機能など考えるということ自体が、父性原理に基づく発想であり、本来的に母性原理に従えば、すべてはひとつであらゆる対立はこえられてしまうわけだが、そこまで徹底してゆくと人間は言葉を失ってしまう。いろいろと分割し、分類するから言語表現が可能となるのであり、(中略)言葉に頼って説明しようとする限り、ある程度の父性原理の使用は避けられぬことである。」

「周囲に見る仏僧たちの姿に、明恵は強い失望を感じていた。」
「おそらく、このような年齢のときから、明恵は同僚、あるいは先輩の仏僧から学ぶところ少ないと感じていたのではなかろうか。一人で深山に籠り修行しようとする彼の意図は、その後も絶えることなく続くのである。」

「捨身の成就の後に、明恵は素晴らしい胎内体験をする。(中略)明恵のこの体験を支えてくれるのが、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)尊である。」
「明恵は仏眼を母と思い、それと同一化するような夢を次々と見ている。「荒れはてた家に自分がいて、その下を見ると蛇や毒の虫が無数にいる。そこへ仏眼如来が現われ、自分を抱いてくれたので、恐ろしいところを免れることができた」という夢では、保護者としての仏眼像が示されている。」
「明恵がこれほどまでに帰依した仏眼仏母像は、幸いにも高山寺に現存し、われわれは今も見ることができる。」
「これには明恵の自筆の賛があり、右端に小さく、

  モロトモニ、アハレトヲボセミ仏ヨ、キミヨリホカニ、シル人モナシ 無耳法師之母御前也

 と書かれている。」

「明恵が『理趣経』によって、どこまで「性」の肯定に達したかは定かでないが、欲望の肯定という考えに接したことは事実であろう。」
「明恵は欲望を拒否したり、抑圧したのではなく、それを肯定しつつ、なお戒を守るという困難な課題に取りくんだのである。」
「すべてを包み許してくれるものとして、仏眼仏母は存在したのであろう。」



「第四章 上昇と下降」より:

「明恵は夢の中で色究竟天をこえたのではないかと感じたのであるから、超物質的な体験をしたのであろう。」
「想像を絶する高みに昇る夢として、ユングが七十歳くらいの頃、危篤状態に陥ったときに見た、夢とも幻像(ヴィジョン)とも思われるものがある。」
「両者ともに「この世」からはるかに離れた地点にまで上昇した体験をもったのである。」

「『行状』によると、明恵は非常に重要な夢を見ている。「夢ニ大ナル亀アリ、忽チニ老翁ト成リテ弓箭ヲ持セリ、則チ告ゲテ云ハク、我相具シ奉リテ、花厳法門ヲ授ケム、仍(よ)リテ彼ニ随ヒテ行クニ、一ノ穴ノ前ニ至リテ、此ノ内ヘ入ルベシト云ヒテ、老翁マヅ其ノ内ヘ入リヌト見ル、心ニ思ハク、是竜宮ナリ云々」」
「明恵はこの夢の中で、「竜宮」にはいってゆくと思っている。『華厳経』は竜樹(りゅうじゅ)が竜宮からもたらしたという伝えがあるので、このような夢が生じたかと思われるが、筆者はここで浦島の物語を連想する。」



「第五章 ものとこころ」より:

「「明恵上人像(樹上坐禅像)」を見るとき、誰しも明恵が自然と渾然一体となっている姿に感銘を受けるだろう。樹上に端然と坐している明恵の周囲には鳥やリスの姿さえ描かれている。坐禅像にこのような小動物が配された図はおそらく他に類を見ないであろう。」
「明恵が草庵をたてた白上の峰にしても、晩年に住むことになった栂尾(とがのお)にしても、趣きは異なるが、いずれも素晴らしい自然を感じさせる所である。明恵にとってはこのような自然に包まれてあること、そのことが宗教的体験だったと思われる。」
「明恵が月夜の晩に弟子と共に船に乗り、紀州の苅磨(かるま)の嶋(しま)という島へ渡ろうとしたときの様子が『行状』に語られている。」
「この苅磨の嶋に明恵は一通の手紙を書いた。彼にとっては、島も人も同等なのである。」
「「かく申すに付けても、涙眼に浮かびて、昔見し月日遥かに隔たりぬれば、磯に遊び島に戯れし事を思ひ出されて忘られず、恋慕の心を催しながら、見参する期なくて過ぎ候こそ、本意に非ず候へ」」
「このような島への思慕の情の表現に続いて、明恵は実におもしろいことを書いている。
 「又、其に候ひし大桜こそ思ひ出されて、恋しう候へ。消息など遣(や)りて、何事か有る候など申したき時も候へども、物いはぬ桜の許(もと)へ文やる物狂ひ有りなんどいはれぬべき事にて候へば、非分の世間の振舞ひに同ずる程に、思ひながらつゝみて候也。然れども所詮は物狂はしく思はん人は、友達になせそかし」
 桜の大木がなつかしく手紙など出したいこともあるが、そんなことをすると狂気かなどと言われないかと気になって、道理に合わない世間の習慣に同調して、心に思いながら表面に出さずにいたが、結局は狂気だなどと思うような人は友人にしないことにする、というのである。「非分の世間の振舞ひに同」じていたのが、最後のところで「友達になせそかし」と言い切るところに、明恵の決意がよく示されている。」

「禅定によって、明恵がある種の意識状態になっていったとき、彼の「こころ」の状態と、外界の「もの」の世界の状態は不思議な対応をもち、遠隔地のことや暗闇の中のことなどが、彼には「見える」ようになるのである。」

「明恵が提言している「あるべきやうわ」(あるべきようは)ということは、簡単にわかる気もするが、それほど簡単なことでないようにも思われる。」
「あるとき、明恵に糖(あめ)桶を贈った人があった。(中略)明恵はどうも糖(あめ)が好きだったようだ。後日になって明恵がその糖桶をもってくるように言ったとき、体裁をよくしようとして桶の上に巻いてあった藤の皮をむいて差しだしたところ、「糖桶は上を巻きたるこそ糖桶のあるべきやうにてあるに、あるべきやうを背(そむ)きたる」と言って涙を流したという。」
「清規「阿留辺幾夜宇和」を見ると、「聖教の上に数珠、手袋等の物、之をおくべからず」「口を以て筆をねぶるべからず」などの細かい注意がたくさん書かれている。また『却廃忘記』を見ると、灯籠(とうろう)をもった手には油がついているから、そのままで経文にさわってはならない。小便をするときも、とばしりがかかるから着物を脱いだ方がいい、などと、実に事細かい日常生活の注意が述べられている。」



「第六章 明恵と女性」より:

「承久二年五月二十日、明恵は次のような夢を『夢記』に記載している。」
「この夢では、明恵が十蔵房(じゅうぞうぼう)から唐より渡来の香炉を受け取る。その中には仕切りがあっていろいろな唐物がはいっており、亀が交合している形のもある。五寸ばかりの女性の形をした焼き物があり、唐から日本に来たことを嘆いているということなので、明恵が問いただすと、人形がうなずく。
 そこで明恵は「糸惜(いとほし)くすべし。歎くべからず」と言うが、人形は頭を振って拒否。そんなことは無用のことと言う(中略)。これに対して明恵は自分は単に僧侶というだけではなく、この国では大聖人として諸人にあがめられているのだと言う。人形はこれを聞いて嬉しく思ったようで、「それならおいとしみください」と答え、明恵が了承すると、たちまち生身(なまみ)の女になった。」
「明恵はそこで明日他所で仏事があるから、そこへこの女性を連れてゆこうと考える。実際に行ってみると十蔵房がいて、この女性は蛇と通じたと言う。明恵は、そうではなくてこの女性は蛇身をもち合わせているのだと思う。」





◆感想◆


著者の考え方はどうもしっくりこないです。著者によると、「母性原理」が優位な日本において明恵は「日本人に珍しく、父性原理においても強い人であったと思われる」ということですが、わたしなどからみると明恵は(泉鏡花もそうですが)「父性原理」の国である日本で「母性原理」の側に加担しえた稀な人であったように思われます。というか、そもそも「母性原理」とか「父性原理」とか「アニマ」とかいわれてもよくわからないです。
著者によると、明恵が見た「乳母の死の夢」の乳母は「母性一般」であると同時に「明恵自身」であり、それを「切断」するという「主題」は「父性と母性との相克」を表わし、それゆえに(「母性」を殺す夢を見たがゆえに)「明恵は日本人に珍しく、父性原理においても強い人であったと思われる」ということになるのですが、一方で著者は「乳母の死の夢」から「九相詩絵」(女の人の死体が腐乱する過程が描かれている)を連想し、「九相詩絵」に描かれているのは「若い女性」すなわち「母なるもの」と対立する「アニマ」である、したがって、母性原理的な日本の仏教の主流は「母なるもの」との葛藤を生ぜしめる「若く美しい女性を殺すことを前提として進んできた」、これに対して、明恵は「母なるもの」と対立する「アニマ」を殺すことを「自分の体を張ってでも」避けようとした、そこに著者は明恵の「父性原理」の発現を見るのですが、しかし著者がいうように「わが国においては、(中略)母性が非常に高く評価されるので、女イコール母という定式が成立するほどである」としたら、「九相詩絵」に描かれた「若い女性」も「母なるもの」とイコールであるということになって、日本の仏教の主流は「母なるもの」を殺すことを前提として進んできた、ということになるのではなかろうか。
わたしなどからみると、明恵は(「父性原理」によって)無惨に切り殺されてしまった乳母(「母なるもの」)の後生を助けたいがゆえに「父性原理」が支配する俗世や僧侶の世界を離れて自然(「母なるもの」)と渾然一体となって修行したので、明恵の持仏が「仏眼仏母」(ブッダマザー)であったことも含めて、「一生不犯」を貫いた明恵にとってこそ「女イコール母」(イコール仏)だったように思われます。
あと、著者がなぜ「乳母の死の夢」から日本書紀の「ウケモチ」(古事記だと「オホゲツヒメ」)の神話を連想しなかったのかも不思議です。しかしそれはそれでよいです。




こちらもご参照ください:

白洲正子 『明恵上人』 (講談社文芸文庫)
吉田敦彦 『日本人の女神信仰』


























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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