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ノヴァーリス 『日記・花粉』 前田敬作 訳 (古典文庫)

「夢をみているという夢をみるとき、われわれは目ざめに近い。」
(ノヴァーリス)


ノヴァーリス 
『日記・花粉』 
前田敬作 訳
 
古典文庫 35 

現代思潮社
1986年8月25日 第4刷発行
230p 口絵(モノクロ)2p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,900円



本書「あとがき」より:

「『日記』の部には、ノヴァーリスが一七九四年十一月十七日にゾフィーを知ってからの日記類のほとんどすべてを収めた。」
「断章集『花粉』は、シュレーゲル兄弟が編集した雑誌『アテネーウム』の創刊号(一七九八年五月)に発表された。ノヴァーリスが『花粉』の原稿を送ったのは、同年二月二十四日であるが、フリードリヒ・シュレーゲルは、編集者の権利を行使して、ノヴァーリスの原稿を勝手に入れ替えたり、けずったり、さらに自分の文章を挿入したりした。本書では、まず『アテネーウム』に掲載されたとおりのものを訳し、けずられた部分は、「補遺」として最後につけ加えた。」
「巻末に郡長ユストの筆になる『ノヴァーリス伝』を訳出した。(中略)ノヴァーリスと最も長く、最も親密に接触していたという点では、ユストにまさる人はない。その意味で貴重な記録である。」
「この翻訳は、いまから二十年以上もまえ、まだ旧仮名づかいがおこなわれていた時代になされた。このたび、仮名づかいを改めるとともに、必要な訂正をほどこした。」



初刷刊行年月日は記載されていません(「あとがき」は1968年4月12日記)。口絵はノヴァーリス、ゾフィー、ユーリエの肖像。


ノヴァーリス 日記 01


カバー裏文:

「婚約者ゾフィーの死後
孤独と悲哀の淵にあって 死の秘儀と
愛の神秘に心をひそめるノヴァーリスが
死せる恋人の魂との霊的融合をめざしつつ
詩人としてのおのれの
オルペウス的生誕を刻印した稀有な記録
郡長ユスト「ノヴァーリス伝」を併録」



目次:

日記
 遠乗り記
 覚書き 一
 クラリッセ
 覚書き 二
 メモ日記への書入れ
 断想
 ゾフィー死後の日記
 エラスムスによせて
 覚書き 三
 覚書き 四
 カロリーネ姉の婚礼の日に
 日誌
 より高き生活術の修業時代 心情形成の研究

花粉

ノヴァーリス伝 (郡長ユスト)

あとがき



ノヴァーリス 日記 02



◆本書より◆


「日記」より:

「かの女がいなければ、ぼくにとってもはやこの世になにものも存在しないのだ(引用者注: 「なにものも~」に傍点)。――ぼくは、もはやこの世のどんなものにも価値をおくべきではない。」

「きょうは、すばらしいイデーを見いだした――それは、ゾフィーの死以来ぼくをとりまいている言いようもない孤独についてのイデーである――すなわち、かの女の死とともにぼくにとっては全世界が死滅してしまった(引用者注: 「かの女の死とともに~」に傍点)。それ以来、ぼくはもはやこの世界にぞくしてはいない。」

「生きている人間たちは、もはやぼくにしっくりとしない――ぼくのほうでももはやかれらのあいだにしっくりと仲間入りできないのとおなじように。」

「ぼくは、ゾフィーにたいして宗教をいだいている――たんなる愛ではなく。絶対的な愛、感情に左右されない、信仰にもとづく愛は、宗教である。」

「ぼくは、まったく非法律的な人間、法にたいする理解も必要も持ち合わさぬ人間である。」

「ぼくの主要な仕事は、いまのところ第一に百科全書学(中略)、であらねばならぬ。」
「百科全書学一般(中略)。これの内容は、系統的な代数学――方程式(引用者注: 「方程式」に傍点)――比例――近似値――等式――諸科学相互間の影響。」

「ゾフィーは、ぼくのまわりにいる、そして、いつでも出現することができると信じ、また、そう信じて行動していると、実際かの女はぼくのまわりに(引用者注: 「まわりに」に傍点)存在しているものだ――そして、ついにはかならず出現するにちがいない。かの女は、おもいもかけないところに出現する――ぼくの内部に、ぼくのたましいとして、そして、まさにそのことによって真にぼくの外部に(引用者注: 「外部に」に傍点)――というのは、真に外部的なものは、ぼくを通してのみ、ぼくの内部に、ぼくの上にはたらきかけることができるのだから――恍惚たる状態において出現する。」



「花粉」より:

「人間がその芽をおのれの内部にもっているのでなければ、どうしてある物を理解できようか。わたしが理解すべきことは、まずわたしの内部で有機的に発展していなくてはならない。」

「たましいの座は、内部世界と外部世界とが触れあうところにある。両者が滲透しあっている場合は、その滲透のあらゆる点にある。」

「天才とは、虚構された対象をも実在の対象のように論じ、またそのようにとり扱う能力である。」

「人間には自分の外に出る能力、意識的に感覚の彼岸にある能力があたえられていないというのは、勝手きわまる偏見である。人間は、いかなる瞬間にも超感覚的存在であることができる。(中略)このような状態を自覚することができればできるほど、そこからうまれてくる確信、霊の真の啓示にたいする信仰は、いっそういきいきとし、力づよく、確固としている。それは、たんに見る、聞く、感じるというものではない。これら三者を合わせ、しかも、その三者より以上のもの、つまり、直接的な確実さの感じ、わたしの最も本来的で独自な生から来る直感である。思想は、転じて法則となり、願望は、実現となる。(中略)このような現象がとくにめだってあらわれるのは、ある種の人間の姿や顔を見たとき、とりわけある種の眼や表情や動作を見たとき、ある種の言葉を聞いたとき、ある種の文句を読んだとき、人生や世界や運命について考えるある種の場合などである。きわめて多くの偶然、ある種の自然現象、とくにある種の季節や一日のうちのある種の時刻が、われわれにこのような経験をあたえてくれる。ある種の気分は、とりわけこのような啓示に好都合な役目をはたす。それらの気分の多くは瞬間的であるが、若干の者はしばらく持続し、ごく少数は永続する。(中略)いずれにしても、この能力は、病気にかかりやすく、感覚の過剰と悟性の欠如か、悟性の過剰と感覚の欠如のどちらかを特徴としている。」

「教養の最高の課題は、みずからの先験的自我を掌握し、同時にみずからの自我の自我であるということにある。それだけに、他者への十全な理解と感覚に欠ける点があっても、異とするにおよばない。完全な自己理解なしには、他者を真に理解することもできないであろう。」

「霊は、いつも見なれない、風のような姿でのみあらわれてくる。」

「精神は、いまはわずかにここかしこで活動しているにすぎない。精神は、いつになったら全体として活動しはじめるであろうか。いつになったら人類は集団として自己を自覚しはじめるであろうか。」

「自己の内部へ立ちかえる(すなわち、自己の内部に沈潜して反省する)とは、われわれ人間にあっては外部世界から自己を抽象することを意味する。それから類推すると、霊にあっては、地上での生活が内部省察、自己沈潜、内在活動なのである。したがって、われわれの地上生活は、本来、霊の根源的な反省、われわれの反省とおなじく自由な、自己への原初的な沈潜、内部への凝集から生じたものである。逆に、この世での精神生活は、かの人間としての原初的な反省の発現からうまれる。精神は、さらに発展をつづけ、ふたたび自己自身より脱け出し、部分的にかの霊の反省をふたたび止揚する。そして、この瞬間にはじめて、精神は「我(イヒ)」という。この点で、脱出と沈潜がいかに相関的であるかがわかる。われわれが沈潜と名づけているのは、じつは脱出であり、最初の形態をふたたびとることなのだ。」

「子供たちのいるところ、そこに黄金時代がある。」

「接近の過程は、漸進的な前進と後退とから合成されている。両者は、速度を遅らせたり早めたりしながら、目標にむかっていく。だから、小説中で作者がときには目標に近づいたり、ときにはまた遠ざかったりするようにみえることがあるが、最も遠ざかったようにみえるときが、じつは一番近接しているのである。」

「死は、ひとつの自己克服である――それは、すべての自己克服とおなじく、ひとつの新しい、より軽やかな存在をつくりだす。」

「夢をみているという夢をみるとき、われわれは目ざめに近い。」









































































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『ノヴァーリス全集 2』 青木誠之・池田信雄・大友進・藤田総平 訳

「われわれの生は夢ではない――だが、夢となるべきであり、夢となるであろう。」
(ノヴァーリス 「一般草稿集 1798―99年」 より)


『ノヴァーリス全集 2』 
青木誠之・池田信雄・大友進・藤田総平 訳

沖積舎
平成13年11月22日 発行
365p 付記1p
四六判 丸背紙装上製本
貼函 函カバー
定価4,500円+税
装釘: 秋山由紀夫



本書付記より:

「本全集は、ノヴァーリス研究会(青木誠之、池田信雄、大友進、藤田総平)による文字どおりの共同訳である。」


本全集は第二巻だけ購入しておいたのが出てきたのでよんでみました。


ノヴァーリス全集 沖積舎 第二巻 


帯文:

「「青い花」のロマンティックな夢想の詩人ノヴァーリスは、知の大領域に分け入って精神の冒険に挑んだ天才的な探求者でもあった。冒険の成果はおびただしい断章として遺されたが、未完の「青い花」同様、むしろその断片性ゆえに無限の可能性に向かって展かれている。自然科学研究の局面を特に重視して編まれた、全面的な新訳のこの全集は、既刊のノヴァーリス全集が法外な高値を古書市場でつけている現在、まさに時宜を得た企画と慶賀したい。
川村二郎」



帯背:

「全篇新訳」


目次:

断章と研究(一七九七年まで)
 〔断章〕
 〔フィヒテ研究〕
 〔ヘムステルホイス研究〕

断章と研究(一七九八年)
 より高次の知識学のための断章
 詩
 唯詩論
 さまざまな断章もしくは難問
 〔テプリッツ断章〕
 〔テプリッツ断章への補遺〕

フライベルク自然科学研究(一七九八―九九年)

一般草稿集(一七九八―九九年)

断章と研究(一七九九―一八〇〇年)
 〔断章と研究Ⅰ〕(一七九九年六月―十二月)
 〔自然学、医学に関する覚書〕(一七九九年七月―一八〇〇年一月)
 〔断章と研究Ⅱ〕(一八〇〇年一月―四月)
 〔断章と研究Ⅲ〕(一八〇〇年六月―十月)

解題・註




◆本書より◆


「断章と研究 1797年まで」より:

「太古の歩みは穏やかにして荘重だ。浄められていない者には、太古は神聖なヴェールに包まれ、隠されている。しかし、運命が穏やかな源泉のせせらぎから生みだした魂をもつ者には、魔法の鏡に映る神々しく美しい太古の姿が見える。」


「断章と研究 1798年」より:

「自我=非我――いっさいの学問と芸術の最高命題。」

「われわれには、現われ方こそまるで異なるものの、きわめて密にからみあった感官の体系がふたつそなわっている。ひとつは身体、いまひとつは魂である。身体は、総体が自然ないし外界と呼ばれる外的刺激に依存する。魂は本来、霊ないし霊界と呼ばれる内的刺激の総体に依存する。通常、魂の体系は、連想を通じて身体の体系と結ばれ――身体の体系からの影響を受けている。ところが、その逆の関係をうかがわせる痕跡もしばしば見うけられる。そのことから、ふたつの体系は本来、それぞれの世界に影響されながら完全な相互関係を結ぶはずであり、単一音ではなく協和音を響かせるはずであることがすぐに明らかになる。要するに、ふたつの世界、ふたつの体系とも、不協和音や単一音でなく、自由な協和音を生みだすべきなのである。単調さから調和への移行が不調和を経由することは言うまでもない――そして調和は終局に至らなければ生じない。魔術の時代には身体が魂もしくは霊界に奉仕するのだ。/狂気――夢想。/
 共有された狂気はもはや狂気であることをやめ、魔術となる。規則にしたがう完全に意識的な狂気。
 いっさいの芸術、いっさいの学問は、部分的調和のうえに成り立っている。

   /詩人、狂人、聖者、予言者。/」

「人間はだれでも、自分に固有の言語を身につけている。言語は精神の表現なのだ。個別言語。」

「最初の人間が最初の見霊者である。彼の目にはいっさいが霊として映る。子供たちも最初の人間ではないのか。子供の清新なまなざしは、どんな名うての見者の予感に宿るよりも多くの霊に満たされている。」

「われわれは器官も自己接触の力も弱いので、妖精界であいまみえることができない。メルヒェンとはすべて、至るところにあってどこにもないあの故郷の夢なのだ。いつの日か守護霊となってわれわれの意思を実現してくれるはずの、われわれの内なる高次の諸力が、いまはムーサたちの姿をとって現われ、この労苦に満ちた人生の途上でわれわれを甘やかな思い出によって力づけてくれている。」

「人間に自己を感じさせ考えさせるためには、石や木や動物が口をきかなければならない。
 象形文字を操ることから芸術は始まった。」

「わたしには、木が花咲く炎――人間が話す炎――動物がさまよう炎にみえる。」



「フライベルク自然科学研究 1798―99年」より:

「実験家のための哲学的手引。
 炎、火花などは、植物界、動物界、人間界とは異なる新しい領域に属するのではないか。生命過程。」



「一般草稿集 1798―99年」より:

「人間がつくりだす形姿や――人間が考えだす人物には多かれ少なかれ生命が宿る――それらは生きることを要求し、希望する。画廊は来るべき世界の寝室である。――
 来るべき世界の歴史家や哲学者や芸術家は、そこをわが家とし――そこで自己を形成しながら未来のために生きる。現世で幸せにめぐまれず、探し求めるものを見いだせない者は――書物と芸術家の世界へ――永遠の古代であり現代である――自然のなかへ赴くがよい――そして、よりよい世界である迫害された教会(エクレシア・プレッサ)で暮らすがよい。そこには恋人と友人――祖国と神がかならず見つかるだろう――そこではものみながまどろんでいる。だがそれは、予言を秘めた意味深いまどろみなのだ。」

「道徳的宿命――法則的因果関係ほど――メルヒェンの精神に反するものはない――メルヒェンのなかには、自然の真正な無統治状態(アナルヒー)がある。」



「断章と研究 1799―1800年」より:

「全体としてみた人間の不死性について――全体としてみた生と思考について――共同体――複数性はわれわれのもっとも内的な本質である――おそらく万人がわたしの考えたり行なったりすることに独自の仕方で関わってくる。そしてわたしもまた他の人びとの考えに独自の仕方で関わっていくのである。」

「病気は、その数かぎりなさと、だれもがそれとの厳しい闘いを強いられるということからして、疑いなく人間にとってもっとも重要な対象である。われわれは病気を利用する技については、まだきわめて不完全にしか知らない。おそらく、病気はわれわれの熟慮と行動のもっとも興味ある刺激剤であり素材である。この対象からは――わたしが思うに、とりわけ知的分野において――道徳や宗教や、そのほかにも意外な領域において、無限の収穫が確実に期待できるのだ。
 わたしがこの技の予言者となる定めだとしたらどうだろう。」
「病気が人間を動物や植物とは異なる際立った存在にする――人間は病むべく生まれついているのである。」


























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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