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ロジェ・カイヨワ 『妖精物語からSFへ』 三好郁朗 訳 (サンリオSF文庫)

ロジェ・カイヨワ 
『妖精物語からSFへ』 
三好郁朗 訳

サンリオSF文庫 8-A

サンリオ 
1978年10月15日 初版印刷
1978年10月20日 初版発行
178p 
文庫判 並装 カバー 
定価280円
カバー: 東逸子



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Roger Caillois : Images, Images: Essai sur le rôle et les pouvoirs de l'imagination, José Corti, Paris, 1966 の全訳である。
 第一部「妖精物語からSFへ」は、『幻想物語アンソロジー』(一九五八、一九六六)の序文、および、サイエンス・フィクションに関する部分はマルセル・ティリー『時間に王手を』再版(一九六二)に寄せた序文をもとに、加筆されたものである。
 第二部「夢の威信と問題」は、アンソロジー『夢の権能』(一九六二)の序文、および、カリフォルニア大学と「ディオゲネス」誌の共催でロワイヨーモンで開かれた研究会『夢と人間社会』での報告論文がもとになっている。」
「第三部「ピュロス王の瑪瑙」は本論集が初出であるが、豊富な写真をそえた美本『石が書く』(中略)のもとになった論文と言えよう。」



本書には他に塚崎幹夫による訳書があります(『イメージと人間』、思索社、1978年)。


カイヨワ 妖精物語からSFへ


カバー裏文:

「SFの根は何処にあるのか? カイヨワはそれに答えて、妖精物語から怪奇小説を経てSFに至る系譜をたどってみせる。妖精物語が発達した中世世界では、魔法さえ日常生活の掟となってしまい、なんの驚異ももたらさない。だが現代のように科学的合理精神に支配された恒常的世界観に、一つの亀裂、一つの不可思議をもたらすこと――それも科学自体のもつ曖昧さと矛盾をつきつめていくことによって――現実界を破壊する妖精物語以来もちこされてきた変らぬ人間の聖なるもの、不可能なものへの信頼と希望がSFに現代的な形で復活するのである。
シュルレアリズム運動による幻想的なものの祝祭を潜りぬけてきたカイヨワは、こうして石の断層に描かれた紋様、コノハ蝶やカマキリの擬態、夢の文法から想像力の核を横断する《昼の論理》と《夜の夢》を綜合する百科全書的な対角線の科学を確立したのである。」



カバーそで文:

「Roger Caillois (ロジェ・カイヨワ)
1913年、フランスのランスで生まれる。1938年、高等師範学校で宗教学の学位を得る。一時期、ブルトンらのシュルレアリズム運動に参加するが、後に訣別。明晰な思考と言語、独自な対角線的研究法をもって神秘的なるものの解明に異色な業績をあげている作家、美学者である。著書に『神話と人間』『人間と聖なるもの』『石が書く』『幻想のさなかで』などがある。」



目次:

妖精物語からSFへ――想像力の機能と役割について
 第一部 妖精物語からSFへ――幻想のイメージ
 第二部 夢の威信と問題――夢のイメージ
 第三部 ピュロス王の瑪瑙――類推のイメージ

訳者あとがき
解説 (荒俣宏)




◆本書より◆


「第一部 妖精物語からSFへ」より:

「幻想とは現実界の堅固さを前提とするものである。現実が堅固であればあるほど、幻想による侵害も威力を増すからだ。(中略)幻想の基本的なやり口は、尋常ならざるものの出現である。つまり、神秘など永久に追放されたと思われる世界、完全に測定しつくされた世界のただ中にあって、特定の地点と特定の瞬間に、到底起こりえようはずのないことが起こるのだ。一切は今日のまま、昨日のままに、穏やかで、平凡で、なにひとつ異常がない。そこに、到底容認しがたいものがゆるやかに忍び込む。あるいは突如としてその姿を繰り広げるのである。」

「幻想小説にとっての枠組は、《眠れる森の美女》のあの魔法の森でなく、現代に特有の現代に特有の陰欝な管理社会である。中世世界や古代世界に移されたのでは、幻想小説はその力を失なってしまう。そうした枠組の中では、超自然がずっと自然なものに見えてくるからだと言ってもよかろう。
 それとは逆に、平々凡々たる現代社会という枠組の中へ、不吉な亡霊を闖入させるかわりにいたずらっぽく好意に満ちた妖精物語の奇蹟を移し入れてみたとしても、やはり同じことが言えるだろう。最近のアメリカの短篇に、『三つの願い』とそっくりのものがある。もっとも、願いの数は三つでなく二つなのだが、(中略)妖精物語の要素を現代に移し入れるとどのような雰囲気が生じるか、その好例となっているのだ。」
「海岸から遠く離れたアリゾナの小さな町で、町営プールの管理人が、明け方の人気のないプールの水を溢れさせ、潮の香と海草の香をただよわせながら、噴水孔から騒々しく呼吸している不可解なクジラを発見する。管理人は自分の眼が信じられない。しかし、現実は動かしようがないのだ。そこで彼は証人になってくれる人間を探しに行く。戻って来ると、クジラの姿は消えていた。管理人は夢をみたのか。しかし、「あたりには、浜辺に打ち上げられた海草の臭気と塩くさい泥の跡がひろがっており、プールの殺菌された水の面にも、はるかな海からやってきた褐色の海草がただよっている」のであった。ところで、子供が一人、問題のクジラを夢中になってながめていたはずなのだが、その子の姿もやはりプールから消えてしまっていた。実を言うと、その子は、妖精を捕えるのに成功し、紙袋に閉じ込めて、無理やり願いをかなえてもらおうとしたのだった。そして、その子の一番の願いというのが、生きたクジラを見ることだったのである。魔法の力が介入したのはほんの一瞬にすぎない。世界はたちまちにもとの姿をとりもどし、結果的にはなんの悲劇も起こりはしなかった。」
「要するに、たとえ現代風な道具立ての中に導入されようとも、妖精とその魔力は、あくまで不思議なものであるにとどまる。幻想に特有のあの戦慄を出現せしめるには至らず、楽しい驚きとでもいったものを誘うにすぎない。」

「サイエンス・フィクションは、それ以前の非現実的物語を継承し、全く同じ機能を果している。かつての妖精物語は、いまだ支配しかねる自然を前にした人間の、素朴な願望を表現するものであった。次に来る恐怖小説は、理論的探究と実験諸科学の努力の末にようやく確立され、証明された世界の秩序とその規則性が、突如、悪魔的で憎しみに燃えた暗黒の力の攻撃を受け、敗れ去るのを見る恐怖を表現していた。そして、サイエンス・フィクションは、理論と技術の進歩に対して恐怖を覚えた時代の苦悩を反映しているのである。(中略)科学はもはや真理と安寧をもたらすものではなく、不安と謎を惹き起こすものになったと言えるかも知れない。妖精物語でも、幻想小説でも、サイエンス・フィクションでも、それぞれの作品群に共通する一般的雰囲気、主だったテーマ、基本的着想等はそれぞれのジャンルが花開いた時代の潜在的関心事からこそ生じているのだった。」



「第三部 ピュロス王の瑪瑙」より:

「昔から人間は、(中略)たえず変ったところのある石を探してきた。風変りな特徴をもった石がみつかると、(中略)自然の法則に反する奇蹟のごとくみなされた。そうした特徴が、およそありそうもない偶然の業であることだけはたしかで、そのことが精神を魅了してやまないのだ。(中略)中国では、十六世紀に編集された李時珍の著作に、並の石でも硬玉でもありえない瑪瑙のことが語られている。それによると、この種の鉱物群の中でも最高のものは、人の姿、動物の姿、物の形などが浮き出して見える石だという。(中略)石の内部に閉じこめられたこの種のイメージは、本当らしさに対する一種の挑戦である。だからこそ、模様石と呼ばれたこの種の石の収集が人気を呼び、十六世紀から十七世紀にかけて、王侯貴族や富裕階級の陳列室を一杯にしていたのである。
 すでに大プリニウスが、その『博物誌』の中で、エペロスの王ピュロスの瑪瑙のことを語っている。それによれば、この石にはいっさい人の手が加わっていないのに、それぞれの象徴を身につけた九人のミューズにかこまれて竪琴を弾いているアポロンの姿が見えたという。(中略)ところで、この石のことを語っている者は多いが、実際に見た者は誰もいない。しかも、何世紀にもわたってこの石のことが語りつがれてゆくのだ。十六世紀の中頃には、ジェロラーモ・カルダーノが、この現象に合理的説明を加えようとしている。彼の推測によると、ある画家が問題の場面を大理石に描いた。ところが、故意か偶然か、その大理石画がくだんの「瑪瑙の出土した場所に」埋もれてしまい、「ために瑪瑙へと変化した」。(中略)この突拍子もない説明が、四分の三世紀の余も、そのまま受け入れられていたらしい。一六二九年になって、なかなかの権威であったガファレルが、ほかの多くの石に認められる紋様と同じく、自然のみがこの傑作の作者であると主張する。」
「想像力がその気になれば、石の表面に認められないものなどありはしない。」
「しかしながら、これらの例がすべて漠然とした類推の話でしかないのだとしたら、類似を発見することが人間にとって、強力かつ恒常的な情熱となってきたということで簡単に説明がつくだろうし、このような問題があれほど論争のまとになることもなかったであろう。ところが、一方で、動物や植物の化石が発見されていたのだ。それが本物に似ていることは当然とはいえ、やはり驚きのまとであった。(中略)当時は、まことに正確なこの似姿が、太古に生きていた動物の残した刻印だとは知られていなかったのである。そこで、なんとなく漠然と似ているだけで、ほんのわずかな類似点しかないのに、観察者の熱意のあまり何かにみえてくるような紋様とも、特に区別されてはいなかった。」
「石化作用、すなわち化石の理論は、ライプニッツによって検討されるまではほとんど支持をえられずにきた。十八世紀の中頃になってはじめて、科学は、化石というものが滅亡した動植物の痕跡であり、生命の歴史の証拠として学問の対象となりうること、いかに人の心をとらえようと偶然にできた自然の紋様とは全く異なったものであることを、堂々と主張するようになる。そのことで科学は、自然の紋様を、偶然が生んだ珍品の部類へ追いやってしまった。そうした珍品も、軽薄な精神を楽しませたり、詩人の夢想に満足を与えることはできよう。しかし、正当な科学の対象にはなりえないというのだ。こうして、もはやピュロスの瑪瑙が話題になることはなくなり、フィレンツェの大理石をはじめとするあらゆる形象石(ガマエ)が、これ以後、科学からの手ひどい拒絶を蒙ることになるのである。
 厳密な研究として言うのならその通りであって、問題は決定的かつ見事に結着がついたといえよう。しかしながら、類推の悪魔の絶えざる誘惑は、そのような裁定が下ったからといって一向に衰弱をみせず、その力は手つかずに残されてゆくのである。
 一例をあげるにとどめるが、いたって極端な、錯乱と隣りあわせの例である。今世紀のはじめごろ、ジュール=アントワーヌ・ルコントという隠者がいて、流行の交霊術に病みつきとなり、道ばたで燧石を拾い集めては、洗い、磨き、そこに、複雑で感動的な無数の情景を発見する。彼にしてみれば、そうした場面をほかの連中が見わけられないことの方が驚きであった(習練が足りないせいだと彼は言う)。彼はそうした情景を分類し、スケッチし、中でも素晴しい場面を集めて『紋様石(ガマエ)とその起源』という小冊子を刊行した。彼はこの小冊子の中で、これらのイメージは人間の強烈な感動から生じ、それが精神の照射現象によって石の中へ固定されたものだと説く。」
「ジュール=アントワーヌ・ルコントなる人物が、単に模様石だけでなく、およそ目に入るものならすべて、倦むことを知らず、確固たる信念をもって、解釈しようとしていたこともわかる。「私は、うずくまって右手を差し出している人間の形をしたジャガイモを所有している。床板に親戚の女性の顔を認めたこともある」。
 たえず何かを同定していたいという誘惑は、この燧石愛好者の場合のように、ひとつ間違うと、偏執的で滑稽きわまるものになってしまうが、その実、非常に一般的な誘惑なのである。それは、いわば精神機能の一部をなしている。この種の誘惑を感じないと言える者はいないのであって。大切なのはむしろ、そうした欲求を抑制し、制御することなのである。ピュロスの瑪瑙のアポロンとミューズ以来、石の紋様に認められてきたイメージは、すべて、そうした精神的磁化作用への服従を通じてのみ出現しえたものなのだ。学問や厳密な研究がそうした誘惑に懐疑的なのは当然である。(中略)これに反し、詩はそこにこそ源を発している。詩はこの誘惑に依って立ち、そこから格別に豊かで確実な効果を汲みとっている。詩にとってもまた、あらゆる類推と隠喩は隠された関係を啓示するものであり、それが見えないというのは、想像力の無力のゆえでしかないのである。」
「そのようにして認められる情景が複雑であればあるほど、類似が明確であればあるほど、陶酔も一層大きなものとなる。壁の亀裂、押しつけられたインクのしみ、樹皮の表面などに認められ、解読されるイメージについても、同じことが言えるだろう。かけ離れた二つの事物の間に未開の関係をきらめかせようとする詩人たちのイメージも、また、およそ予想もしないところに類似を――漠としたものであることもあろうし、明瞭なものであることもあろうが――感じ、発見し、確認した精神にとっての、あの満足感にかかわっているのだ。あたかも、人間の精神が、何ひとつ表象しえぬものの内にもなんらかのイメージを求め、何ひとつ意味しえぬものにも意味を与えずにはおかれぬかのようである。決定的なものなど何ひとつ呈示しているように見えない線と形、光と影の構成体にまで、精神は、たえず何かしら見慣れたもののフォルムを読みとり、投影することになる。このような精神的傾向は、心理学にまで利用されているほどなのだ。人の心にひそむ強度の偏愛、隠された性格などを発見しようとする心理学者たちは、被験者に対し、わけのわからぬ漠然としたしみのようなものを見せる。このしみからどのようなフォルムを読みとるかによって、直接被験者の口から聴取するよりも、はるかに確実な結論がえられると考えられているのである。
 私には、これほど恒常的で強力な精神作用のことをないがしろにしてよいとは思えない。ことに、それが、一種の興奮状態からめまいまで惹き起すほどのものであってみれば。」






















































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ロジェ・カイヨワ 『メドゥーサと仲間たち』 中原好文 訳 (新装版)

「人類がおしなべて現に仮面を着けているか、あるいは過去において着けたことがあるということは一つの事実である。この謎めいて、有益な目的をもたない小道具は、梃子や弓や銛、あるいは鋤などの道具よりも広範に行き渡っている。いくつかの民族全体が、(中略)もっとも貴重なこれら道具のかずかずを知らずに過してきた。ところが彼らはいずれも仮面というものは知っていたのである。」
(ロジェ・カイヨワ 『メドゥーサと仲間たち』 より)


ロジェ・カイヨワ 
『メドゥーサと仲間たち』 
中原好文 訳
 

思索社
昭和63年10月10日 印刷
昭和63年10月28日 発行
193p 図版12p
四六判 丸背紙装上製本
定価1,800円
装丁: 高麗隆彦



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Roger Caillois: Meduse et Cie., Gallimard, Paris, 1960 の全訳で、邦題もほぼ原題そのままである。」


邦訳初版は1975年、本書は新装版です。別丁モノクロ図版19点。


カイヨワ メドゥーサと仲間たち 01


目次:

問題提起
  対角線の科学
  擬人主義(アントロポモルフィスム)に関する短い覚え書

自然に復原(もど)された人間
  ウスバカマキリについておこなったある研究について
 1 紋様か構想か
  蝶の翅
  自然の絵画
 2 対比と類似
  擬態のもつ三つの機能
   変装(トラヴェスティ)
   偽装(カムフラージュ)
   威嚇(アンティミダシオン)
    1 眼状紋
    2 メドゥーサ
    3 妖術
    4 ビワハゴロモ
    5 結論

原注・訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「対角線の科学」より:

「認識における進歩というのは、ひとつには、あらゆる表面的な類似性をしりぞけて、深い、恐らく目にはそれほどつきにくいかもしれないが、より重要で、意味深い親縁性(パランテー)のかずかずをあばき出すことにある。十八世紀においてもなお、動物を脚(あし)の数によって分類し、たとえば、トカゲとハツカネズミとを同類として扱うような動物学上の著作がいくつか公にされている。今日では、トカゲは、脚はまったくないけれども、同じように卵生動物で鱗(うろこ)に覆われているナミヘビ科と同じ項目に入っている。これらの特質は、当然のことながら、脚の数という、最初に人目を奪った特質よりもさらに重要ないくつかの帰結からはっきりと浮かびあがってきたものである。同様にして、その外見にもかかわらず、鯨が魚の仲間でないことも、コウモリが鳥の一種などでないこともよく知られている。
 私はわざと初歩的で異論の余地のない一例を取りあげてみた。だが、ごくおおざっぱにもせよ、もろもろの科学の成立に関する歴史をひもといてみるならば、すぐさま、そこには無限ともいうべき罠のかずかずがしかけられていて、科学者たちがたえずそれらの罠を避けながら、有益な識別基準、つまりそれぞれの学問分野を固定するさまざまな識別の基準に誤りがないかどうかを確認してきたことに気付くのである。
 あまつさえ、これらの罠、人を欺きやすいこれらの外見は、単なる見せかけでないばかりか、実を言えば外見ですらもない。それは現実なのであって、それらの現実には、他のいくつかの現実に対して与えられる係数に比べてより重要性の低い一つの係数が最終的に結びつけられたというにすぎないのだ。トカゲだとかカメは、哺乳類などではまるでないのに、哺乳類同様四肢をそなえているし、コウモリは、鳥の仲間でないにもかかわらず、翼をそなえている、というようなことは疑いようのない現実なのである。」
「だから、視点をどこに定めるかによって、二義的なもの、あるいは問題にもならないとされているようなこれらの分類の仕方が、突如として本質的なものとなってくる場合もいぜんとして存在するのである。たとえば、私が羽の機能を研究しようと思えば、今度は、コウモリを鳥のみならず蝶や蛾とさえも結びつけ、それぞれの成員をいくつかの異なった種類、つまり無脊椎動物・鱗翅類、脊椎動物・鳥類、等々に分類せしめるにいたったさまざまな理由(中略)のいかんにかかわらず、羽族全体を調べてみなければならなくなることは明らかである。さらに、私が羽のもつ機能の特殊な一面、たとえば、定点飛行、つまり羽の振動によって空中の同じ場所にとどまったまま、体を静止状態に保つ飛び方を検討するものと仮定するならば、私はハチドリとスズメガ科のホウジャク類というように、近接した種類には属していない動物の図解説明に頼る以外になす術がないわけであり、これらの動物はいずれも花の上方に静止し、口吻または長い尖った嘴をもちいて、花から離れたまま食物を摂取するのである。」

「科学者というのは、たとえば、生体組織の瘢痕(はんこん)形成と結晶組織の瘢痕形成とを比較することなどは一つの冒涜、スキャンダル、ないしは妄想と見なしがちなのである。にもかかわらず、事実に徴してみるならば、結晶体も有機体同様、思いがけぬ出来事の結果自らのうちに生じた毀損部分を構成し直すのであり、被害をこうむった部分は一段と活発な再生活動の恩恵に浴するのであって、この再生活動の増大は、きずによって創り出された損壊、不均衡、不相称の埋め合わせをすることを目的としているのである。(中略)ともあれ、ひとつの強力な作用が生じて、それが、動物におけると同じように鉱物においてもその規則正しい秩序を回復するということは事実なのである。私は、無生物と生物とを隔てている深淵を知ることにおいて人後に落ちるものではない。だが私はまた、そのいずれもがさまざまな共通の特性を示しうるのであり、これらの特性は、無生物であると生物であるとを問わず、その構造の全体性を回復しようとする傾向をおびているのだとも考えるのである。むろん私とて、数限りない世界を包みこんでいる一つの星雲と、海中に棲息するなにか軟体動物の分泌によって作られた一箇の貝殻とを比較対照するなどという試みは、それがたとえいかに控え目なものであろうと、人を見くびったものであることぐらい知らないわけではない。にもかかわらず、私にはそれらが二つながら、螺旋状の発達という同一の法則に従っているものと考えられるのである。しかも、螺旋というものが、とりわけ、相称と生長という宇宙の基本的な二つの法則の綜合をおこなうものであってみれば、これとてなんら驚くにはあたらないであろう。螺旋とは生長発達における秩序を構成するものなのだ。生きものも、植物も、あるいはまた天体も等しくその支配を受けざるをえないのである。」



「偽装」より:

「コノハチョウ(Kallima)という蝶は、その主たる葉脈と葉柄だけを残した、披針形形の枯葉のような姿を示す。ナナフシの雌は、緑色もしくは黄ばみつつある木や草の葉を模倣する。ブラジル産のドラーコニア・ルーシーナ(Draconia rusina)という蝶は、ポールトンによって研究されたものであるが、その翅には極端に深い切れこみをもったぎざぎざや、細い翅脈の走っているいくつかの透明な斑点があり、鱗粉がその斑点をいっそう強烈に描き出しており、そうしたものがこの蝶に、毛虫にいためつけられ、茸にやられて、黴の生えた落葉のような外見を与えている。」
「このような例は数え切れないほどある。ブラジルに生息するフロエイド科(Phloeidae)の昆虫は見まごうばかりに地衣を模倣しているし、カミキリムシ上科(Chlamys)の昆虫は植物の種子そっくりであり、ツノゼミ類のウンボーニア(Umbonia)は棘に、アズチグモは鳥の糞に似ている。
 そのうえさらに、姿態(アティテュード)がその形を補ってより完全なものとしている。昆虫は一般に認められている類似性を最大限に利用することのできるような行動を本能的に採り入れるのだ。そこから、なにはともあれ、そうした類似性を単なる錯覚であると見なすことはどうしても困難であり、あるいはまた、いかなる影響力ももたないにせよ、同じ一つの目的に向かっているかのように思われる植物と動物との類似的な適応作用の驚くべき結果をすらも単なる錯覚と見なすことはある程度困難になるだろう。なぜならば、類似性は開発されるものだからだ。ナナフシはその長い脚をだらりと垂らしたままにし、コノハチョウはその下翅の一部が伸びてできた尾状突起を茎や樹幹にくっつけて、それを自分が模倣している草や木の葉の葉柄のように見せかけようとする。(中略)シャクトリムシは、自分が真似ている灌木の若い枝木のように、体を硬ばらせて直立したままでいるので、時として庭師に刈込みばさみでちょん切られたりする。」

「ところが、擬態は有害なものではないにしても、無益なものである。昆虫の外敵は獲物の臭気だとか運動によってその存在に気付くのであり、外見によってその存在に気付くのはごく稀なことだからである。(中略)しかも、プテロクローザ(Pterochroza)という大型のバッタに関して、ヴィニョンがきわめて適切に指摘しているように、手つかずで無疵の葉も、いたんだ葉と同じようにやはり葉であることにかわりないのだ。そこからただちに、これらのバッタたちをして、枯葉だとか、なかば分解し腐敗した葉の疵や黴、さては透けて見える部分などまで模倣させる、この過度の凝(こ)りようは一体何の役に立つのかという疑問が生まれてくるのである。
 擬態という現象はいぜんとして神秘にとざされたままである。」



「威嚇」より:

「さしあたり、私は眼状紋の効力を書き留めるだけに限ろうと思う。」
「まさしく、問題は、眼状紋が目を真似て描いた紋様、目の見せかけであるかどうか、そしてその機能が昆虫のかわりになにかの脊椎動物がいるのだと思いこませることにあるのかどうかを知ることである。ここで思い出しておいた方が良いのは、固定されたどのような円もおのずから催眠的な作用をもっているということである。長時間見つめていると、それは見る者を不安にさせ、麻痺させ、眠りこませるのだ。しかも暗い、空虚のような中心の周囲にある鮮明できらきらと輝く環がその円に目のような姿をとらせるということ、それがまさしく不安と恐怖との補助的な源泉であり、魅惑と眩暈の可能性を増大させるのである。こうした曖昧さが純粋に視覚的な作用につけ加わり、人間にあっては、想像力を揺さぶるのだ。
 私には、眼状紋が目の略図などではないということを証明するのは不可能なことではないように思われる。まずもって、類似の根拠となっているのは、目という器官とこの紋とに共通に見られる円い形状だけである。しかし問題は二つの異った現実なのであり、そのいずれかが他方を連想させたり、その象徴となったりしているのではないということをもっとも見事に証明しているのは、これら二つの現実がたがいに連合されうるということである。(中略)見えるのは大きく見開かれた目だけであるが、それはもはや目などではない、すなわち、単純で当り前の視覚器官ではなく、さながらあの世からでも現われ出でたかのごとき超自然的なまぼろしであり、大きくて、盲で、無感覚で、燐光を発し、幾何学の図形のようにじっと動かず、奇妙なほどの完成度を示しているのである。一つの神話がほとんど一致して期待に応えるにはもはやこれで充分であろう。フクロウとミミズクとは縁起の悪い鳥であり、死の前兆であり、悪意に満ちた魂の化身なのである。眼状紋のもつ幻惑の力とはこのようなものなのだ。」
「兇眼、つまり、眼状紋は呪いをかけ、呪いを運ぶ。この不吉な眼差しから遁れ、なにか適当な魔除けによってそれから身を守ることが大切である。もっとも良いのは、その脅威を外らし、敵と自分との間に、同じように不吉な呪いの効力をそなえた目から発する、恐ろしい力を置くことである。」

「ペルセウスはとある洞窟の中で眠りこんでいるゴルゴーンの三姉妹を見出す。目をそむけ、鏡に助けられて、彼はメドゥーサの姿を直接見ないでその首をはねる。(私は彼がむしろ、その怪物に、見る者を眩惑する自分自身の顔を射返すために鏡を利用したのではないかと思う。)
 切り落された頭についている眼差しはその効力を完全に保っている。(中略)彼はこの無敵の武器によってアトラースを山脈に変え、ポリュデクテースやその他の者を化石にする。」
「ある人びとによれば、(中略)彼はそれをアテーナーに捧げ、アテーナーは火と鍛冶の神、ヘーパイストスに依頼してそれを自分の楯の上に着けてもらったという。」

「擬態と眼状紋との関連は単なる偶然によるものではありえないだろう。これら二つの現象の間には一定の脈絡があり、それを明らかにすることこそ望まれるのだ。私としては、見るものを眩惑するこれら眼状紋が露呈するメカニズムの中にそれを認めることができるように思う。眼状紋が存在するというだけでは不充分で、それが不意にあらわれることが必要なのだ。最初見えなかったのに、爆発でもしたかのように、突如としてくっきりと現われ出ることなのである。擬態は単にこれら眼状紋を隠すのみならず、同時にその所有者の姿をもまんまと見えなくする。つまりそれは眼状紋の所有者を周囲の色だとか形と混然一体とさせ、見分けられるのを妨げる。ところが、なにもないように思われていたところ、いわば一種の不在、あるいは少なくとも中性的で見定めにくい、あやしげな存在から、突然、ありうべからざるような、強烈な色彩をそなえた巨大な円が浮かびあがり、それがじっと動かないのだから、見る者は眩惑されるのだ。」
「昆虫は恐れを与える術をわきまえている。のみならず、それは一種独特な恐れ、つまり誇張された、想像上の恐怖を惹き起すのであるが、それはなんら実際的な危険の裏づけを伴わない恐怖であり、威嚇だけの威嚇であって、不可思議さと異様さとによって作用をおよぼし、まさに超自然的な外観をとり、なんら現実的なものに依存しないで、あの世から現われ出でて、その犠牲となるものを惑乱させ、それに麻痺ないしは混乱以外のいかなる反応をも禁ずるもののように思われる。」




カイヨワ メドゥーサと仲間たち 02















































ロジェ・カイヨワ 『斜線』 中原好文 訳

ロジェ・カイヨワ 
『斜線
― 方法としての
対角線の科学』 
中原好文 訳


思索社
昭和53年11月30日 印刷
昭和53年12月20日 発行
233p
四六判 角背紙装上製本 カバー
定価1,800円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Roger Caillois: Obliques precede Images, images......1975, Editions Stock の後半、Obliques の全訳である。前半を占める Images, images...... の部分は、すでに先頃、『イメージと人間』の表題で、塚崎幹夫氏の訳により、本書と同じく思索社から刊行されている。」
「邦訳では、『斜線』という、そのままではいささか曖昧さの残る原題に、〈方法としての対角線の科学〉という副題を補った。」



カイヨワ 斜線


目次:



第一部
 1 ラマルクの誤謬
 2 循環的時間、直線的時間
 付録 自然における幻想的なものに関する逆説的観念

第二部
 Ⅰ 現前している想像の世界
  1 火による浄化
  2 美術館の神々
  3 月からの石
 Ⅱ 変化発展しつつある想像の世界
  4 『フェードル』と神話学
  5 空想科学小説
  6 地獄の変容
  7 記号の世界としてのシュルレアリスム

結論にかえて
 詩への接近――アラン・ボスケへの手紙

原注・訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「序」より:

「表題の『斜線(オブリック)』は《対角線の科学》という考え方を反映したものである。」
「問題は、主として、既得の知識をいろいろな形で横方向に切断することによって、時として危険なまでに細分化してしまっている様々な探求分野の区分を補整することにあった。」



「ラマルクの誤謬」より:

「ここに幻のようなひとつの石英がある。そこには、厳密に相同で、雲のように薄い層状をなして、幽霊のようなものがいくつも重なり合っている。そしてこの石英の全体は、一定間隔の時間を置いて、なにかの植物の生長する様を次々に感光させたフィルムに最もよく似たものとなっている。両者の間には関係がないか、あるいはそうした関係はまやかしのものであり、類似は見かけだけのものにすぎないということを私はよく知っている。しかし何がそうした類似を生じさせたのかを私に充分解き明かしてくれる者はいない。だからもしも私が、偶然であるにしてはあまりにも明確なかかる類似を説明してくれるであろうなんらかの一般法則を夢みたにしても、(中略)罵られることはよもやあるまいと思う。動物界、植物界、鉱物界といった異なった界に属し、どう見ても相容れないと思われるようなもろもろの現象を互いに引き寄せて比較対照するということは、明らかに大胆不敵な行為であり、そうした行為は、迷妄であると同時に刺激興奮を呼び起こすものでもある。私に関していえば、私はそうした行為の孕む危険と幸運とをふたつながら受け入れるべきだと思っている。」


「循環的時間、直線的時間」より:

「ギリシャの思想家たちはひじょうに早くからこの永劫の反復という性質とその重要性について尋ねている。エンペドクレスは破壊されたものは絶対に自己同一的なものとして再生することはなく、ただ種として κατ' είδος 同一であるにすぎないと考えていた。事実、理論家たちはふたつの仮説の間で逡巡していた。第一の仮説に従うならば、各の人間はかつて存在したときと絶対的に同じものとして再生し、かつてと同一の様々な行為を遂行する。第二の仮説によれば、似たような人間が同じような性格をもって再生し、いくつかの類似の行為を遂行する。キリスト教徒であるとともにグノーシス派でもあったタティアノスの述べるところによると、キティオン(キプロス島)のゼノンは、アニュトスとメレトスがなおもいくつかの誣告を行ない、ブシリスはまたその宿泊客たちを殺し、ヘラクレスはさらに数々のすばらしい武勲をなし遂げるであろうと断言していたという。しかし彼もソクラテスが再び犠牲者となり、ブシリスがまったく同一の宿泊客たちを殺し、ヘラクレスが同一の勲功を立てるであろうとは断定していない。オリゲネスは、(中略)ストア学派の人々が述べるところによると、《再び生まれてくるであろうのはソクラテスではなく、ソクラテスにそっくりで、クサンティッペとまったく同じような女性と結婚し、アニュトスとメレトスと少しも違わないような人々によって告発されるであろうような人物である》という説明さえも加えている。」
「しかしながら、四世紀の新プラトン学派のキリスト教徒、ネメシオスが、ストア学派の教理は各の事件の反復を、その細部に至るまで、そしてその細部のさらにまた細部に至るまで肯定したものであると明言する時、彼はあきらかにクレアンテスとクリュシッポスの考え方に従っているのである。
 《……それから、これらの天体が再び同じ運行を開始する時、世界は再構成されるのだ。それぞれの天体は、かつて辿ったと同一の軌道を再び描き、それに先立つ周期において生じた各の事柄が、再度、まったく同じようにして実現されるのである。ソクラテスはプラトンが存在するであろうと同じように、また各の人間がその友人たちや同国人たちとともに存在するであろうと同じように再び存在し、彼らの各が数々の同じ事柄に耐え、同じ道具を使うであろう。(中略)あるいはむしろ、同一の様々な事柄が際限なく、そして絶えず再生するであろう。(中略)あらゆる事柄が、同じようにして、いかなる相違もなしに反復されるのであり、しかもそれはごく些細な事柄に至るまでも同様なのだ》。
 シンプリキオスはエウデモスのある立論について報告しているが、彼によれば、ピタゴラス学派の人々はもろもろの存在が種としての類似性においてのみならず、いわばひとつひとつ、そしてどこからどこまで同一のものとして永遠に反復すると主張していたという。(中略)《彼らの言うところによれば、と彼は説明している。私はこの同じ杖を手にして、あなたがたにこの同じ話を新たにしていることになるのであって、あなたがたは現にこうして坐っているように、またいつか腰をおろすことになるのであり、あらゆる事柄についてもまた同じことが言えるわけなのだ》。
 こうした教理を徹底的に押し進めようとすることに対する抗いがたい魅惑のようなものが存在する。最も反逆的な人々さえも論理の与えるこうした眩暈には屈するのである。」




























ロジェ・カイヨワ 『反対称』 塚崎幹夫 訳 (新装版)

ロジェ・カイヨワ 
『反対称
― 右と左の弁証法』 
塚崎幹夫 訳


思索社
1991年1月5日 印刷
1991年1月25日 発行
152p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,900円(本体1,845円)
装丁: 高麗隆彦



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Roger Caillois; La dissymétrie, 1973, Gallimard の全訳である。」


カイヨワ 反対称 01


目次:

日本の読者に (ロジェ・カイヨワ 1975年)
訳者まえがき

序言

Ⅰ 問題の提起
Ⅱ 厳密な意味での対称について
Ⅲ 反対称の進化論
Ⅳ 宇宙に遍在する反対称
Ⅴ 右と左
Ⅵ 逆エントロピーの働き

補遺
 社会と芸術における反対称の役割について

原注および訳注
訳者あとがき (1975年)
新版への追記 (1990年)



カイヨワ 反対称 02


◆本書より◆


「問題の提起」より:

「ある一点についてはすべてを知っているが、他についてはほとんど何も知らないというのは、あまり良い方法だとはいえません。この方法では、小さな断片的な区域を、全体の文脈のなかに正しく位置づけることさえできません。とくに、文脈が遠くへだたり、展望が思いがけないものであるときには、まったく不可能だといえます。そのような思いがけない展望のなかにこそ、問題を解くかぎが秘められているのに、です。諸科学を対角線で結んで対話させる対角線の科学(シアンス・ディアゴナル)が、生まれなくてはならない理由がここにあるのです。(中略)他から切り離されている場合には彼らを途方にくれさせる規則はずれの現象も、結びつけられると、互いに他を解き明かすかぎとなるかも知れません。」
「諸科学を対角線で結んで対話させるというこの着想の対象となるものは、現在至上命令になっている分離の原則の犠牲になっている諸研究です。ばらばらの分野でそれぞれ孤立して進められる結果、互いに結びつく点がありうるとは、一度も考えられたことはなかったと思われる諸研究です。これらの分野が異質で不調和だというのは、いまはそう見えているというだけのことです。しかし、いまさら申しあげるまでもないことですが、科学は見かけを拒否するところから、見かけの後ろに隠された、深い同一性を探究しようとするところから始まります。」

「非対称(アシメトリ)とは、平衡の、この場合は対称の、作り出される前の状態をいう。反対称(ディシメトリ)とは、平衡あるいは対称の破壊された後の状態をさす。反対称から推測される、あるいは引き出される結論は、秩序の否定ということです。すなわち、既成の秩序への将来における干渉、必要になった壊乱、あるいは計画的な変更という性格を、反対称は明らかにもっているように見えます。」



「宇宙に遍在する反対称」より:

「さきに、反対称は、行動の自由を奪う重力に支配されながら、絶えずこの力をあざむいて、少しずつ困難な道を切り開いていく革新である、と申しました。しかし、反対称は単にそれだけのものではないことが、いまや明らかになりました。反対称は、極限の粒子の繊細な織物のなかに、すでに存在していたことがわかったのです。そして、反対称を含んだこの繊細な織物の発展こそが、世界の多様な豊かさをもたらしたのです。最初から、反対称は世界の本質に結びついたものでした。(中略)反対称は、宇宙の全体の輪郭を支配していると同時に、その内部の構造のなかにもはっきりと姿を現わしているのだからです。」


「逆エントロピーの働き」より:

「Ⅰ 均質で等方性のすべての媒質は、対称をまったく持たないと定義することもできるし、同様に、特権的な軸や中心や面が存在しない、無限の潜在的な対称を持っていると定義することもできる。この二つの定義の意味しているものは同じで、両者に違いはない。正確にいって、無対称(アシメトリ)とはこのような状態を指す。
Ⅱ すべての無対称的(アシメトリック)な状態は自然に安定の方向に向かう。安定は平衡を生み、平衡は一つあるいはもっと多くの有効な対称を発生させる。
Ⅲ 確立された完全な対称のなかに、部分的で、偶発性のものでない破壊が突如として生ずることがある。この破壊はすでに形成されている平衡を複雑にする。このような破壊が厳密な意味での反対称(ディシメトリ)である。反対称は、結果として、反対称が生じた構造あるいは組織を豊かにする。すなわち、これらに新しい特性を与え、より高度の組織の水準に移行させる。

 熱力学の第二法則を補う、これと対になるものがなかったら、宇宙は絶対的で終局的な、緊張のない平衡の状態に沈み込んでいってしまうことになります。」
「しかしながら、これに対抗する力のまったく同じように静かで着実な活動の存在を、だれもが確かであると認めています。この力の作用の結果、統計学の予測が規則的にくつがえされています。すなわち、第二法則に対立する、宇宙の組織化と複雑化が増大しているという原理が認められるのです。それは常により多くの選択、創意、ためらい、自由を可能にする原理です。この原理は普通負のエントロピー、あるいはネガントロピーと呼ばれています。私自身は、逆エントロピーと名づけたほうが良いと思っています。」
「ところで、逆エントロピーは熱力学の第二法則に反する原理だと申しましたが、実際は見かけだけのことにすぎません。エネルギーの散逸は絶えず起こっています。このエネルギーの散逸は非常にロスの多いもので、回路の外に流れ、放置されているエネルギーも少なくありません。反対称は、この分散したすべてのエネルギーを吸収し、この力を一つにまとめるのです。反対称はこうして、いくつかの明確にしぼられた決定的な点で、まれに全体の流れを逆にすることに成功し、逆エントロピーを実現するのです。」



















































































ロジェ・カイヨワ 『旅路の果てに ― アルペイオスの流れ』 金井裕 訳 (叢書・ウニベルシタス)

「さまざまな石が私に提供してくれたのは、非人間的な不易なるものの典型であり、従ってそれは、人間の弱さとは無縁のものであった。」
(ロジェ・カイヨワ 『旅路の果てに』 より)


ロジェ・カイヨワ 
『旅路の果てに
― アルペイオスの流れ』 
金井裕 訳

叢書・ウニベルシタス

法政大学出版局 
1982年8月5日 初版第1刷発行
iv 215p 
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価1,600円



本書「プレリュード」より:

「ある日、私は自分がこの人生からほぼ完全に切り離されていることに気づいた。アルペイオスの流れのことが、海から出て再び川となる流れのことが想い浮かんだのはこのときのことだった。ギリシアの古伝承は、数行、この流れについて触れている。それによれば、アルペイオスの流れは地中海を横断して後、シラクサの正面に浮かぶオルテュギア島に達するということだが、そのとき罪を贖われたこの流れは、いま私が感じつつあるのとおなじ印象を感じなかったかどうか、私は戯れに自分に問うてみたのである。」


Roger Caillois: Le fleuve Alphée, 1978
著者の没年(1978年)に刊行された自伝的長篇エッセイです。


カイヨワ 旅路の果てに


目次:

プレリュード

第一部
 一 昨日はまだ自然――最初の知
 二 少年時代の豊かな刻印
 三 海――人の耕さぬところ
  イ 書物の世界
  ロ 括弧と裂け目
  ハ 解毒の書
 四 物の援け
 五 イメージと詩
 六 植物の条件
 七 石についての要約

第二部
 一 宇宙すなわち基盤と茨の茂み
 二 水泡
 三 挿話的種
 四 魂の凪

訳註
訳者あとがき




◆本書より◆


「私は(しかも今だにそうだが)匂には極度に敏感だった。ある種の匂には胸がむかついたものだ。例えば、搾りたての生あたたかい牛乳の匂、砂糖入り牛乳の中にグロ・パンを浸して作る夕餉のスープの匂、あるいはスノコで乳漿を切っているときの白チーズの匂などである。また別の匂には思わず鼻孔が広がったものだ。例えば、驟雨の後の、しっとりと濡れたtポプラの葉の敷物の匂、製材所を横切りながら、その香を吸い込んではうっとりとなった、ま新しい木材の、淡黄色のオガクズの匂、蹄鉄工の作業場の、赤く焼けた蹄の匂である。また私は、強烈な、みだらな(そう、人をよろめかすような)匂が好きだった。こういう匂を好んでかぐといっては批難されたものだった。恐らく、この批難が原因になっていたのだろうが、これらの匂をかいでいると私には何かしら不純なもの、禁じられたものが想い出されてくるような気持になるのだった。例えばそれは、汗だらけの馬の発散する匂であり、水肥溜の、陽の光をあびている堆肥の匂であった。」
「私は永い間、金属性のひとつの道具が欲しくてたまらなかった。それが犬を繋ぐのに使われているのを見たことがあったが、とうとう祖母が私のためにそれを町に注文してくれることになった。それはムスクトンだった。つまり、バネのついた一種の錠のようなもので、それを鎖の先端にとりつけ、卵形の孔を使って動物の首輪に取りつけるのである。キラキラ光る金属性の、ほぼ球形をしたひとつの玉を動かすと、それにつれてムスクトンは開いたり閉じたりするが、この玉が溝に滑り込むと、道具のバネが伸びたりちぢんだりするのである。これは私にとって、ある未知の世界から生まれた、ひとつの不思議な機械仕掛(からくり)であり、子供たちはこの世界に近づくことはできないが、しかし奇妙なことに、ドアの錠前や鋤、あるいは草刈り機といった、ずっと複雑な器具類は決してこの世界の一部ではなかったのである。
 後者の器具類についていえば、子供たちは、それらを操作すれば怪我をする危険――まったく世俗的な危険だ――があると注意されているだけだった。それにひきかえ、ムスクトンの存在そのものは、ある絶対的な沈黙に覆われていた。ムスクトンの中で、私にとりわけ強い印象を与えたひとつの特徴がある。それは幅の広い側面の、やや扁平の卵形の空洞がウサギの腰の骨の空洞に似ていることだった。私たちはウサギの腰部をよく食べたものだが、そういうとき私は、その幅の広い部分にひとつの孔があいていて、スプーンの形になって終っている、この骨の含まれている一片を決まって選んだものだった。ムスクトンは不可解な孔のあいたスプーンでもあったのである。
 私は一般化しようとは思わない。しかし上の事例を考えてみるとき、この突飛な比較こそ、後年私をして、自然のさまざまな産物と産業のそれとを分離している境界をいとも頻繁に、そしていとも無造作に跳び越えるように促した最初の類推であったことを全面的に拒むわけにはいかない。この類推のゆえに、私は、蜜蜂が蜜を作るからには、人間の工場で鉄が溶解されるのもあたりまえのことと思ったのだ。(中略)いずれにしてみても、そこには成長の可能性のあるひとつの胚種が、持続力のある、稔り豊かなひとつの促しがあったのである。ムスクトンは、突飛な類似のゆえに、魔術的とはいえぬまでも、何かしら異常なものを授けられたが、そのためそれは、さまざまの物の世界の中でも一種特別なものであった。」
「木々、昆虫たち、さまざまな匂、動物たち、星々、そしてさまざまの玩具、こうしたものが厳密には神秘的(エルメティック)とはいえないが、しかし完璧な、それでいて開かれたひとつの世界を作っていた。」
「この宇宙は密閉されたものでもなければ、村の目の前の地平線に厳しく限定されているものでも決してなかった。いささか特殊なものであったことは認めるが、それは外部へのいくつかの開口部をもっていたのである。」

「私にとって一個の廃墟と化した町は、完全無欠な町以上にとはいわぬまでも、すくなくともそれとおなじように自然なものと見えたものだが、それほどまでに私は廃墟に慣れっこになっていたのだ。これについては、現在の私の感受性の一特徴を与えるのにやぶさかではない。(中略)雑草と小灌木との生い茂ったこれらの廃墟は、厳かなものでもなければ、日常生活から切り離されたものでもなかった。それらは日常生活そのものだった。」

「私はこれまで、ほとんど人の住まぬ地方へ何度も旅をしたが、これらの旅は、短い間ではあっても、(中略)研究の、やがては仕事の日々の単調さよりもずっと強い印象を私に与えるのだった。私は(中略)記念建造物も歴史もない、ほとんど無人の地方への遠出の機会を何とか工夫して作ったものだが、それは、人間の存在が不確かで何も語らず、ほとんど沈黙している地方であった。いずれにしろ、人間の前に存在する自然は、今日でもなお、指のひとはじきで人間を除去してしまうことができるのである。しかも自然にとっては、闖入者の手ぬかりを利用すれば足りるのである。」

「文字が読めるようになってからというもの、私はひたすら読書に耽った。もしさまざまな事物に対する私の子供じみた、絶えることのない好奇心がなかったならば、そしてまた、私の注意力が最初に出会った事物の虜になる可能性がなかったならば、私はただ書物の仲介によってのみ生きたことだろう。書物が言葉を使うことによって、しかも無理強いすることによって、現実に対する自然発生的な知覚にとってかわりがちであるということに私はすぐには気づかなかった。」

「私は石が、その冷やかな、永遠の塊りの中に、物質に可能な変容の総体を、何ものも、感受性、知性、想像力さえも排除することなく含みもっていることに気づきつつあった。
 と同時に、絶対的な唖者である石は私には、書物を蔑視し、時間を超えるひとつの伝言を差し出しているように思われるのだった。」
「いかなるテキストももたず、何ひとつ読むべきものも与えてくれぬ、至高の古文書、石よ……」

「ムスクトンに魅せられてから十年後、水銀がムスクトンよりもずっと有無をいわせぬやり方で私を捉えて離さなかった。」
「私はいくつかの温度計の中に水銀を見たことがあった。ガラスの牢獄に閉じ込められて、水銀は動けなかった。(中略)リセの化学実験室で、水銀が何の束縛もうけずに、消えやすい、キラキラ光る、捉えどころのない姿で私の前に姿を現わしたとき、それはひとつの啓示であった。私は最初の瞬間から、それが私の上に及ぼした牽引力に抗うことができなかった。何故なら、《物》に対する情熱は決して罪のないものではないからだ。必要とあれば人から盗んででも、それらを所有することが不可欠なのである。」

「子供じみたムスクトンから珍らしい一角の突起にいたるまで、私は多様な物だけが道しるべとなっているひとつの道程の諸段階をはっきりと示すように努めてきた。これらの物にひとつの共通の分母をみつけだすことは、私には不可能とは思われない。(中略)私はそれら相互の独立性を強調し、それらが決して芸術作品に同化されうるものではないことを(中略)主張する機会があった。なかんずく、ある種の特異性、何かしら周縁的性質といったものがこれらのものを共通のものから遠ざけたのであり、その結果、これらのものは学問ないしは歴史のカテゴリーの中に入ることはむつかしくなり、人類の共有財産の古文書の中にも位置づけられず、美術館の目録あるいは百科全書の欄にも姿を見せることはなくなったのである。これらのものについていいうる最低限度のことは、それらがほとんど通貨ではないということである。その外観からして明らかな不思議な孤立は、それらとしきたりとの間に解消困難な距離を置くが、この距離こそそれらの力なのである。それらは観察を強要する。それらは生まれつき《開かれた》ものなのだ。
 あらためていうまでもあるまいが、これらの物は想い出でもなく、何ものも想い起こさせず、その用途が不明であればあるほどいっそう効果のあるものでさえあるのだ。その秘密は、徐々にこれを見破らなければならない。(中略)それらは一切の崇拝を拒否しており、いかなる敬愛心をも勧めてはいないのだ。それらは象徴ではない。つまりそれ以外の何ものも意味してはいない。それらが促す言葉(ディスクール)は密やかなものであり、そして言葉は、つねに新たなる驚くべき沈黙から生まれる。
 私は、この沈黙の証言を取りおさえ、暴露してやりたいと思う。そして自分でもわからない何かを告白させてやりたいと思うのだが、それは世界の統一性についての、証拠とはいわぬまでも、必ずやひとつの手掛りであるだろう。これらの証言に対する賭は、私がいささか大胆に、錯綜した宇宙に対して本能的になす賭とおなじようなものである。私の身体をも貫いている普遍的な生命力との一致、そこから私の引きだす悦び、つまり富ないし名誉よりも、あるいは最も羨望の的であるさまざまな免状よりもずっと貴重な、秘密の承認。この種の同意を得るためならば(よしんばそれが偽りのものであっても、私は満足だ)、私は一切を与える用意があるような気がするし、実際は、すでにすべてを与えてしまったのだという感じがする。」

「ある種の絵(イマージュ)は、あたかも《魔法のランプ》のような、あるいは宝の入っている洞窟を開けることのできる《胡麻》のような働きをする。」

「石にとって、真の奇蹟とはとりどりの擬物(まがいもの)の驚異ではなく、結晶の幾何学的完璧さである。それは不純物を取り除かれて透明になった物質であり、そしてまず第一に、極度に純化され、秩序立った物質である。それはいかなる妥協も認めない。その形の一部分は偶然の情況に左右されるが、しかし情況は本質的な影響は与えない。形は契約を守る。これほど堅固な忠誠というものはこの世に存在しない。もちろん、結晶はその成長をおしとどめる何らかの障害には従わなければならない。ときには、偶発的な、予測できぬ、異質の要素を、要するにひとつの刺を吸収してしまわなければならないときもあるが、しかし力ずくでなければ改悪されることは決してない。その上、生体がそうするように、結晶は闖入者を排除する性質をもっている。闖入者を受け入れることが稀にあるとしても、それはただ一時的に黙認することのできるひとりの新参者としてだけなのだ。恐らく、その情容赦のない構造が最後には勝利を収めることになるだろう。」

「私自身は夢想を精神の漂流と呼んだが、そうはいっても夢想は、(中略)不可避の、ひとつの方向に従っているのである。私が好んで鉱物界を引き合いに出すのは、それが想像力の世界と最も矛盾したものであるからであり、もろもろの困難さをあたうる限り正確に理解するように私に強いるからなのである。」

「さまざまな石が私に提供してくれたのは、非人間的な不易なるものの典型であり、従ってそれは、人間の弱さとは無縁のものであった。」

「当時、私は美学的観点からのみ鉱物に関心を寄せていたにすぎなかった。鉱物は私の幻滅を和らげ、いくつかの武器を提供してくれるのだった。当時、石の取引をしていたわずかばかりの店に行って偶然手に入れたさまざまな石を憂鬱な気分で眺めていると、当然のことながら私には次のような考えが浮んでくるのだった。すなわち、石の形や構造は芸術家たちの作品にまさに匹敵するものだが、彼らは(中略)革新に対する熱中ぶりにそそのかされて、自分たちの絵を自然がいわゆる自然発生的に生みだす作品に近づける。とはいってももちろん、それらの作品が、幾千年にわたる手さぐりの、宇宙的な経験の、そして原子分裂がその恐るべき例を与えてくれたばかりの破壊力の、帰結であると思ってみることはないのである。
 世界は恐らく、これらの作品をもって始まったのだ。いまだに生命のない星々には、ただこれらのものだけが存在している。私の悲しい気分はこれらのものの平静さを、一匹の野心的な動物の喧騒ぶりに好んで対置させるのだった。記憶に絶する遠い昔の無感不動、功績の、功績に対する要求の明らかな不在、こういったものと、地球それ自体にとっても危険でなかったわけではない勝ち誇っている喧騒とをひき比べてみるのだった。私は生命を、再生を、人間と作品との無益な増加を、ほとんど不愉快なものとみなしたい気持だった。私は不敬とはいわぬまでも、挑発的な一句を書いたが、恐らくそれを公にすることはしなかった。(中略)「私は鏡が、生殖が、小説が大嫌いだ。こういうものこそ、無益にも私たちの心をかき乱す冗漫な生物どもで宇宙の場所ふさぎをしているのだ。」


「長いあいだ私は自分のために小旅行の機会を用意していたものだが、そこには自然への回帰といったようなロマンチスムはすこしもない。遅れてやって来た、しかも器用な人類、この人類に恐らくはさし迫ったものである宿命的な滅亡という観念に慣れっこになっていた私にとって、できうる限り前方に自分をおしすすめ、人類がもろもろの事物の力にもかかわらず、他所よりすこしは大地と空と戦いながら、とにもかくにも存続することのできた所にまで行くことが何よりの願いであった。私は、人類がまず最初に滅び去るであろうと信じていたし、今でもそう信じているが、それは最後に現われた固有名詞の記憶が、まず最初に消えてしまう記憶でもあることにいささか似ている。それに、その猶予期間がどんなに先に延ばされようと、期限はいつでも明日なのだ。こういう考えから、とうの昔に私は一種超俗的態度を引きだした。私がものを書く気持になれたのは、私のしていることはいずれにしろ無益なことだと意識して書き始めたその瞬間にだけ限られていた。」

「石を凝視めることによって得られる静かな熱狂の状態を指すものとして、私は「唯物論的神秘神学」なる表現を提出した。(中略)いくつかの相違にもかかわらず、オーストリアの詩人の打ち明け話(引用者注: ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」)との共通点は、私たちが感じ取ったおなじような感動の無神論的性質、絶対的に非宗教的な性質の中にこそ存するのである。これらの感動は彼には書くことを放棄する作家を想像させたが、反対に私には書く理由を与えてくれたのである。」



















プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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