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佐藤進一 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中公文庫)

「吉野地方は古来、失意の人々、都を追われた人々、すなわちアウトサイダーたちが身をよせた隠れ家であり、王朝および幕府をおびやかす陰謀の策源地となることが多かった。」
(佐藤進一 『南北朝の動乱』 より)


佐藤進一 
『日本の歴史 9 
南北朝の動乱』
 
中公文庫 S-2-9 


中央公論新社 
1974年2月10日 初版発行
2005年1月25日 改版発行
2008年7月25日 改版第3刷発行
557p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,238円+税
カバーデザイン: 吉田悟美一、山影麻奈(EOS Co., Ltd.)
カバー写真: 騎馬武者像(京都国立博物館蔵)


「一、本書は一九七四年二月に刊行された中公文庫『日本の歴史9――南北朝の動乱』の新装改版です。底本として、一九九七年十月刊の二十五版を使用しました。一、本文は、その資料的価値を維持するために、原則として刊行時のままとしましたが、一部、著者の要請によって訂正した部分があります。
一、写真・図版類は原則旧版と同じものを復元し、収載しました。
一、親本「月報」の「読書案内」を、「図書案内」として収載しました。
一、親本刊行後に進展した、研究の成果や変遷、学界の潮流についての「解説」を新たに加え、その後の「読書案内」を「参考文献」として付載しました。」



本書「解説」より:

「佐藤進一氏の執筆になる『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中略)の初版本は、昭和四十年(一九六五)十月、(中略)中央公論社から刊行された。」


本文中図版(モノクロ)多数。
網野善彦『悪党と海賊』をよんでいたら本書を「不朽の名著」と絶賛していたのでよんでみました。



佐藤進一 南北朝の動乱



カバー裏文:

「宿願の幕府打倒に成功した後醍醐天皇は、旧慣を無視して建武の新政を開始した。しかしそれは、もろくも三年にしてついえ、あとに南北朝対立、天下三分、守護の幕府への反抗の時代がおとずれる。この七十年にわたる全国的動乱の根元は何か。」


目次:

はじめに
公武水火の世
建武の新政
新政の挫折
足利尊氏
南北両朝の分裂と相剋
動乱期の社会
直義と師直
天下三分の形勢
京都争奪戦
南朝と九州
苦闘する幕府政治
守護の領国
名主と庄民
室町殿
王朝の没落
日本国王

図書案内
解説 (森茂暁)
参考文献
年表
索引

新装版・中公文庫『日本の歴史』刊行にあたって (中公文庫編集部)




◆本書より◆


「建武の新政」より:

「護良は新政政府の内部に入って発言する足がかりをもたなかった。かれのもつ兵部卿(ひょうぶきょう)という官はまったくの名目であって、そのような条件をつくり出すのには役立たなかっただろう。武勇のほまれ高く、父後醍醐の烈しい気性の一面だけを受けついだらしいこの貴公子には、政略は苦手であった。かれは失権回復の道をひたすら武力による尊氏打倒にもとめた。
 『太平記』によれば、そのころの護良は、
  「御心ノ儘(ママ)ニ侈(オゴリ)ヲ極(キハ)メ、世ノ譏(ソシリ)ヲ忘(ワスレ)テ、婬楽ヲノミ事トシ給ヒ、……強弓射ル者、大太刀(オホダチ)仕(ツカ)フ者トダニ申セバ、忠ナキニ厚恩ヲ下サレ、左右前後ニ仕承(ジショウ)ス、剰(アマツサヘ)加様(カヤウ)ノソラカラクル者(にせ武芸者)ドモ、毎夜京白河ヲ廻(メグリ)テ辻切(ツジギリ)ヲシケル程ニ……」
というありさまで、そのため児(ちご)法師や女子供の切り殺されること止むときがなかった、これも尊氏を討たんがために、兵を集め武を習わせる所行であった、という。この話は、護良にはすでに軍勢といえるほどの兵力がなくなっていることを語っている。奥州から補給できる兵力とて、その数はいくらでもなかったであろう。無頼の「カラクル者」を使ってできることといえば、一人一殺式のテロしかあるまい。
 護良のテロ計画は建武元年(一三三四)五月ごろから本格化したらしい。その際とくに注目されるのは、『梅松論』に「兵部卿親王護良・新田左金吾義貞・正成・長年等ヒソカニ叡慮ヲウケ、打タ(ウチタツ)事度々ニ及(オヨブ)」とあって、主謀者は護良ではなくて、じつは後醍醐だという点である。
 これは、のちに護良が後醍醐の計略で捕えらえたときに、尊氏よりも父の後醍醐がうらめしいと言ったと伝えられるところとも符合するし、後醍醐からすれば、いずれ尊氏と護良のどちらかと対決しなければならないとしたら、どう見ても劣勢の護良の手で尊氏を倒すことができれば、たいへんぐあいがよいだろう。かりに後醍醐が主謀者でなかったにしても、護良の計画にある程度関係し、承認を与えたことはじゅうぶん考えられることである。」

「護良はやがて流罪ときまり、尊氏の手で鎌倉に護送されて、直義の監視下に禁錮の身となる。そして翌年七月、直義の手にかかって、非業の最期をとげる。」



「足利尊氏」より:

「もう一つ注目すべき点は、常識をもってはかりがたいかれのいくつかの行動である。もっとも顕著な例をあげれば、のち(一三五一年)のことだが、弟直義と争って、戦いに敗れた尊氏が、和睦ということで、ようやく体面を保つことができた際に、直義側の部将細川顕氏(あきうじ)が拝謁を望んだところ、敗残者であるはずの尊氏は「降参人の分際で何をいうか」と怒って、謁見を拒んだ事実がある。負けていながら、勝ったと思いこんでいるふしがある。
 こんなことをいろいろ並べて考えると、尊氏は、性格学でいう躁鬱質、それも躁状態をおもに示す躁鬱質の人間ではなかったかと思われる。かれの父貞氏(さだうじ)に発狂の病歴があり、祖父家時(いえとき)は天下をとれないことを嘆いて自殺したという伝えがあり、そのほかにも先祖に変死者が出ている。子孫の中にも、曾孫の義教(よしのり)を筆頭に、異常性格もしくはそれに近い人間がいく人か出る。尊氏の性格は、このような異常な血統と無関係ではないだろう。
 派手ずきで、新しがりやで、好んで強気な言動に出る後醍醐が、こういう性格の人間に魅力を感じたとしても、いっこう不思議はない。後醍醐と尊氏の間には、政治構想のちがいはそれとして、個人的には案外強い親愛感があったかもしれない。」



「南北両朝の分裂と相剋」より:

「吉野山は金峰山(きんぶせん)を主峰とする重畳たる山岳群の一つであって、金峰山の北の入口に位置する、比較的低い一峰である。山の北麓を東西に流れる吉野川を利用すれば、西は紀伊、東は伊勢と連絡することはさほど困難ではない。また西北に進めば楠木の本拠河内に達し、北に下れば奈良盆地に進出することができる。しかも南方には金峰山の山々がそびえて、攻撃を受けにくい利点があった。も一つ、伊勢の前衛に当たる伊賀の南部には、後醍醐に従って山門にたてこもった黒田庄の土豪と庄民の集団があった。かれらは一三世紀後半以来、領主である東大寺および幕府・守護にたいして執拗な反抗と自立の活動をつづけており、元弘の乱直前のころ後醍醐の供御人(くごにん)(宮廷に食物を貢納する人々)となって身分的な特権を獲得するとともに、戦力として後醍醐に奉仕するようになったのである。
 また金峰山から南の熊野にかけて一帯の山岳は、平安以来、修験者(山伏)の道場として知られるが、かれら山伏はあるいは武力集団として、あるいは諸国への連絡役として期待することができた。当時、密使に使われたのは僧侶か山伏か商人であり、それ以外のものが密使に立つ場合には、この三種のいずれかに扮装することが多かった。
 も一つ、これは修験道の発達と関係があるらしいが、吉野地方は古来、失意の人々、都を追われた人々、すなわちアウトサイダーたちが身をよせた隠れ家であり、王朝および幕府をおびやかす陰謀の策源地となることが多かった。(中略)後醍醐が吉野に仮りの皇居を定めて、この地を足利打倒運動の中心拠点としたのは、これらの諸条件を考慮したうえでのことであったろう。」



「動乱期の社会」より:

「また元弘三年(一三三三)三月、赤松則村が六波羅探題を攻めて敗れ退いた後で、隅田(すだ)・高橋ら、探題側の武士が京中をかけまわって手負(ておい)・死人(しにん)の首を取り集めた。六条河原に並べられた首は八七三あったが、それらは、戦いもせぬ武士が、在家人・町人・旅人などの首を打って、適当な名を書きつけて出したもので、赤松則村と書かれた首が五つあったという。」


「直義と師直」より:

「ここに紹介した師直兄弟の言動の真偽を一々確かめることはできないけれど、こういうタイプがまったく突然変異的に生まれたものでないことは注意しておく必要がある。たとえば青野原の戦いで奮戦して幕府の危急を救った美濃の守護土岐頼遠は、康永(こうえい)元年(一三四二)九月、京都で光厳上皇の行列に行きあって、「院の御車ぞ。下馬せよ」と注意されると、
 「何(ナ)ニ、院(イン)ト云フカ。犬(イヌ)ト云フカ。犬ナラバ射テヲケ」
と、上皇の車を取りかこんで、矢を射かけて去った。そのうえ、事件が問題になると、幕府の許可なくかってに本国に引き上げた。幕政を主宰する直義は事件を重大視して、頼遠を召喚して斬罪に処した。
 また近江の守護佐々木の一族で尊氏に属して数ヵ国の守護にまで成り上がった佐々木導誉(どうよ)(高氏)にも同様な事件がある。暦応(りゃくおう)三年(一三四〇)十月、導誉と子の秀綱が東山で鷹狩りをしての帰途、光厳・光明の兄弟で当時天台座主であった妙法院宮亮性(りょうしょう)法親王の邸に、些細(ささい)なことから焼き打ちをかけて、重宝を奪いとった事件である。叡山はさっそく、導誉父子を死罪に処すべしと抗議したが、幕府は導誉の権勢をはばかって極刑に処するわけにいかず、けっきょく、導誉は出羽、秀綱は陸奥に流罪ときまった。その流罪もまったくの申しわけで、導誉は見送りと称して三百余騎の従者をつれて、配流地に旅立ったが、
  「道々ニ酒肴(シュカウ)ヲ設(マウケ)テ、宿々ニ傾城(ケイセイ)ヲ弄(モテアソ)ブ」
という調子であった。もちろん予定地まで行く気もなければ行きもしなかったのである。
 こう見てくると、師直兄弟も頼遠も導誉も古い秩序と権威の束縛から解放された人間ということができようが、このことは、かれらが古い秩序の中では運命を切り開く機会をもてそうもない人々であったということと無関係ではない。鎌倉幕府の下では、師直兄弟は一守護の家来、頼遠は源氏の流れとはいえ美濃の土豪にすぎず、事あれば守護北条氏ににらまれ、圧迫されていた。導誉もまた名門とはいえ佐々木の庶流であって、権勢の地位はおろか、守護になる可能性もなかった。
 それが、磐石のごとくに見えた鎌倉幕府は音を立てて崩れ去り、一統政府もまた天皇・貴族の無力を天下に暴露しつつ自壊した。いや自壊ではない、師直も導誉も頼遠もそれぞれにその解体に手をかしたのである。つまり師直らの古い秩序と権威の否定は、かれら自身の力にたいする信頼によって裏打ちされているのである。軽薄で反倫理的ですらあるかれらの言動の中に、人間肯定の激しい息吹きをきくことができる。師直のこういう性格は、先天的なものに根ざしているのはもちろんだが、かれの幕府での地位や政治的な立場によって、よりいっそう助長された。つまり外的な条件が人間的な特徴を決定づけたといえるだろう。そしてこれはひとり師直に限らない。直義・尊氏そして後醍醐についても同様である。」

 





こちらもご参照ください:

網野善彦 『異形の王権』 (イメージ・リーディング叢書)
川村二郎 『日本文学往還』
『夢窓国師 夢中問答』 佐藤泰舜 校訂 (岩波文庫)
谷崎潤一郎 『吉野葛・蘆刈』 (岩波文庫)









































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ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』 岡田章雄 訳注 (岩波文庫)

「彼らは海の底に蜥蜴(とかげ)の国があり、その蜥蜴は理性を備えていて、危険を救ってくれると思っている。」
(ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』 より)


ルイス・フロイス 
『ヨーロッパ文化と
日本文化』 
岡田章雄 訳注
 
岩波文庫 青/33-459-1 


岩波書店 
1991年6月17日 第1刷発行
199p 
文庫判 並装 カバー
定価410円(本体398円)
カバーカット: ミトラの図



「岩波文庫あとがき」(高瀬弘一郎)より:

「『大航海時代叢書』Ⅺに収められた岡田章雄氏の原訳書は、フロイス原著の全文を邦訳し、生活史・風俗史の観点から豊富な注記を付したものである。この度文庫に収めるに当り、(中略)訳文の細部にわたり、若干修正を加え、そしてそれに伴って必要が生じた範囲内で、注記についても少しばかり加筆した。」


本書「あとがき」文庫編集部による注記:

「アビラ・ヒロン『日本王国記』とルイス・フロイス『日欧文化比較』(本文庫の『ヨーロッパ文化と日本文化』を指す)の二書を併せ、『大航海時代叢書Ⅺ』(一九六五年九月十三日刊)として刊行された。」


図版(モノクロ)48点。


フロイス ヨーロッパ文化と日本文化 01


カバー文:

「イエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532-97)は、35年間日本での布教に努め、長崎で生涯を終えた。その間、当時の日本の社会を細かく観察し、ヨーロッパ文化と比較・対照して記録した。筆は衣食住、宗教生活、武器武具から演劇・歌謡等々多方面におよぶ。貴重な史料であるだけでなく、現代の我々に様々な問題をよびさまさずにはおかない。」


目次:

解題 (岡田章雄)

第一章 男性の風貌と衣服に関すること
第二章 女性とその風貌、風習について
第三章 児童およびその風俗について
第四章 坊主ならびにその風習に関すること
第五章 寺院、聖像およびその宗教の信仰に関すること
第六章 日本人の食事と飲酒の仕方
第七章 日本人の攻撃用および防禦武器について――付 戦争
第八章 馬に関すること
第九章 病気、医者および薬について
第十章 日本人の書法、その書物、紙、インクおよび手紙について
第十一章 家屋、建築、庭園および果実について
第十二章 船とその慣習、道具について
第十三章 日本の劇、喜劇、舞踊、歌および楽器について
第十四章 前記の章でよくまとめられなかった異風で、特殊な事どもについて

あとがき (岡田章雄/1965年8月6日)
岩波文庫あとがき (高瀬弘一郎)



フロイス ヨーロッパ文化と日本文化 02



◆本書より◆


第一章より:

「24 われわれの剣は材木や動物で試(た)めされる。日本人は死人の身体で彼らの剣を試(こころ)みることを主張する。」

訳注:

「刀剣の利鈍を試みるために、死罪に処せられた囚人の屍体を斬ることを試斬(ためしぎり)、据物切(すえものぎり)などといった。江戸時代には将軍の佩刀を試みる時などには厳正な据物切の儀式がおこなわれた。後にはそれを職務とする据物家が起こった。屍体ばかりでなく、死罪に決まった囚人を斬ったり、また夜中通行人を斬ったりすること(辻斬)も同じ目的でおこなわれた。」


「26 われわれは雨降りの時にはフェルト帽子、ベーデン、雨カーパおよび帽子(ソンブレロ)を用いる。日本人は貴賤を問わず、きわめて長い藁のカーパと藁の帽子を用いる。」


訳注:

「ベーデン beden (=bedém)はモーロ人の用いる外套のこと。日本人の用いる藁のカーパ、帽子とは蓑と笠のことである。」


「30 われわれは喪に黒色を用いる。日本人は白色を用いる。」


訳注:

「ヴァリニャーノは「白色はわれわれにとって楽しい、喜ばしい色であるが、彼ら〔日本人〕にとっては喪の、また悲しみの色である。彼らは黒色と桑実色とを楽しい色としている。」といっている(Boxer, *The Christian Century in Japan*, p. 77)。白色と黒色に対する東西の風習の対照が興味をひいたのであろう。喪服については、鎌倉・室町時代には武家の間で、鈍色(にびいろ)(薄墨色)に染めた貲布(さよみのぬの)(細く紡いだ麻糸で織った布)の素服が用いられた。江戸時代には男は麻上下(あさかみしも)、長上下、熨斗目(のしめ)上下、女は白無垢(しろむく)に白い帯を着けた。喪服は元来、華美を避けることを主としたので、白色のものを用いるようになったのであろう。慶長十五(一六一〇)年細川幽斎の葬礼の記録によれば、辻堅(つじがため)の士はすべて白の小袖に上下、扈従の者は無紋の羽織、舎人は烏帽子(えぼし)に白の素襖(すおう)、故人の愛馬には白い手綱をかけ、総体を白い馬絹で蔽い、また弓、鎗、長刀、太刀、骨箱なども白絹で包む。女中、女房等は白の絹をかずいていた。喪主忠興は鈍色の束帯であった。」


「46 われわれの間では、貴族が鏡を見ていれば柔弱な行為と考えられる。日本人の貴族は衣服を着るために、誰でも鏡を前に置くのが普通である。」


訳注:

「わが国では鏡を用いて服装を正すことは武士の身嗜みの一つであった。『葉隠』に「風躰の修業は、不断鏡を見て直したるがよし。」とある。また鏡は姿を写す具であると同時に、当時は鏡を見ることによってその日の災厄を避けるという俗信があった。」


第二章より:

「1 ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。」

訳注:

「この時代には処女の純潔や貞操を重んずる観念は薄かった。キリシタンの信仰が伝わった時、教会で大いに風俗矯正に力を尽したため、信徒の間には純潔を貴ぶ観念が植え付けられた。」


「20 われわれの間では女性が素足で歩いたならば、狂人か恥知らずと考えられるであろう。日本の女性は貴賤を問わず、一年の大半、いつも素足で歩く。」


訳注:

「わが国では女性が素足を見せることは普通であったが、ヨーロッパ人にはきわめて奇異に見えたのである。」


「33 ヨーロッパでは親族一人が誘拐されても一門全部が死の危険に身をさらす。日本では父、母、兄弟がそのことを隠し立てして、軽く過ごしてしまう。


34 ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。


35 ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。


36 ヨーロッパでは、男女とも近親者同志の情愛が非常に深い。日本ではそれが極めて薄く、互いに見知らぬもののように振舞い合う。」


「38 ヨーロッパでは、生まれる児を堕胎することはあるにはあるが、滅多にない。日本ではきわめて普通のことで、二十回も堕した女性があるほどである。」


訳注:

「当時の言葉で堕胎のことを「産み流す」といった。堕胎が頻繁におこなわれていたことは宣教師の報告にもしばしば記されている。コリャードの『懺悔録』にも「腹を捻って」あるいは「薬を用いて」堕した例が見えている。」


「39 ヨーロッパでは嬰児が生まれてから殺されるということは滅多に、というよりほとんど全くない。日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足をのせて殺してしまう。」


訳注:

「堕胎とならんで嬰児殺害もさかんだった。ことに女児よりも男児の方が多く殺されたらしい。」


第四章より:

「41 ヨーロッパでは主人(セニョール)が死ぬと従僕らは泣きながら墓まで送って行く。日本ではある者は腹を裂き、多数の者が指先を切りとって屍を焼く火の中に投げ込む。」

訳注:

「主君が死んだ時、家臣従者等が殉死(追腹という)をすることは当時の慣習であった。また小指の先を切りとって火葬の火の中に投ずることもおこなわれていた。平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの日記(一六二一年九月二十四日の条)に、松浦信実の葬儀の際の模様を記して、「多くの友人はその小指の先の関節を二節だけ切り取ってこれを死体と共に焼くため火中に投げ入れた。これは彼らが自ら大なる名誉であると考え、また彼に対するせめてもの奉仕だと考えているのである。」とある。」


第六章より:

「24 ヨーロッパ人は牝鶏や鶉、パイ、ブラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴、大猿、猫、生の海藻などをよろこぶ。」

訳注:

「ブラモンジュ(manjar branco フランス語では blanc-manger)はコーンスターチ、牛乳、砂糖などを混ぜて作った白色ジェリーのことである。
 わが国で犬の肉を食べる風習は『落穂集』に、「我等若き頃迄〔中略〕武家町方共に下々の給物には犬に増りたる物は無之とて冬向に成候へば見合次第打殺賞翫致す。」云々とあり、また猿の肉については『類柑子』に「昔四谷の宿次に猟人の市をたて猪かのしゝ羚羊狐貉兎のたぐひをとりさかして商へる中に猿を塩づけにしいくつも〱引上て其さま魚鳥をあつかへる様なり。」云々とある(『嬉遊笑覧』による)。幕末のころ江戸で猿の肉を賞味したことは外人の記述にもしばしば見かける。猫を食べたとは考えられない。あるいは狸、獺などを誤ったものか。また生の海藻とは、海苔、わかめ、昆布等のことであろう。」


「41 われわれは犬は食べないで、牛を食べる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる。」



第十二章より:

「27 われわれは海の精や海人のことはすべて虚構と考えている。彼らは海の底に蜥蜴(とかげ)の国があり、その蜥蜴は理性を備えていて、危険を救ってくれると思っている。」

訳注:

「ヨーロッパでも古代には海神の信仰があったが、十六世紀のころにはすでに伝説的なものになっていた。わが国では神話の中の竜神竜女の信仰が、そのまま続いていたので、竜神や竜女豊玉姫を祀る神社は多く、竜神は航海安全の守護神とされている。また竜宮伝説、竜燈伝説は今でも各地に分布している。」




こちらもご参照ください:

若桑みどり 『聖母像の到来』
新村出 『南蛮更紗』 (東洋文庫)









































高橋富雄 『もう一つの日本史 ― ベールをぬいだ縄文の国』

高橋富雄 
『もう一つの日本史
― ベールをぬいだ
縄文の国』


徳間書店
1991年9月30日 初刷
262p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,600円(本体1,553円)
カバー装幀: 川畑博昭



本書「はしがき」より:

「わたくしは、前著『日本史の東と西』(創元新書 一九七二年)を発展させて、この構想に至りついた。前著との大きな違い。それは、前著では「東」と「西」の対立を基本にして、「北」と「南」の対峙をそれに付属せしめての構成だったのに対して、本書では「北」と「南」の対抗を基本の枠組とし、「東」と「西」の対比を補助的にこれに組み合わせて、南北、東西の対抗関係の本末を入れかえたところにある。
 わたくしは現在、究極において、関東と関西、東京と大阪の違いになるような「東」と「西」の違いを、根本原理の対抗関係のように考える史観を捨てている。それは同じ正統を東と西に分け合った対照的性格の双生児にすぎなかった。」
「東は東、西は西」(中略)ではない。「南は南、北は北」(中略)。本書の歴史哲学は、このことにつきる。そして、その「北は北」の雪国の叙事詩として、これからの「もう一つの日本史」は構想されるのである。」



でてきたのでよんでみました。本書でいう「南」と「北」は本州内での南北でありまして、関西・関東が「南」(弥生文化)であり東北が「北」(縄文文化)です。北海道(アイヌ)と沖縄(琉球)は論じられていないです。きのうよんだ網野善彦さんの本では「東」と「西」では民族がちがうのではないかという観点でしたが、本書は「南」と「北」では民族は同じでも文化がちがうという観点であります。


高橋富雄 もう一つの日本史


目次:

はしがき
第一章 最初の統一日本カメガオカ
 一 かかる日本ありとは
 二 南は南、北は北
 三 カメガオカ日本
 四 縄文的原型風土論
第二章 日本の中の騎馬民族
 五 北のウマ 南のコメ
 六 ヒタカミ日本 ヤマト日本
第三章 仏教と縄文の融合
 七 北からの仏像事始め
 八 十七文字の律令証言
 九 北轅(ほくえん) 南柯(なんか)
 十 北門施無畏与願(ほくもんせむいよがん)
第四章 武門三国時代
 十一 平泉―京都と鎌倉の間
 十二 津軽大乱 主上御謀叛
 十三 鎮守大将軍政都
 十四 中世奥州探題王国論
第五章 ディオニュソス的縄文文化圏
 十五 塔寺(とうでら)八幡長帳
 十六 文学レアル=イデアル
第六章 秀吉と伊達政宗の世界観
 十七 太閤仕置の日の本発見
 十八 世界史上の奥州王外交
第七章 豊饒なる精神世界
 十九 安藤昌益とジョン・ボール
 二十 国家・人民のために
 二十一 十八世紀人間発見の記録
第八章 もう一つの日本
 二十二 北からの近代化の系譜
 二十三 日本太平天国一揆
 二十四 北部政府のヴィジョン

〈編集後記〉




◆本書より◆


「三 カメガオカ日本」より:

「ヤマト日本史においては政治がつき、文化はつるところの未開日本が、日本列島における最初の日本文化の時代には、その頂点をなしていた。縄文日本では、東日本が中央日本であり、カメガオカはそのミヤコだった。」


「四 縄文的原型風土論」より:

「縄文は、ひとり縄文時代において、もう一つの日本の発見をおしえるだけでない。その後の弥生日本・歴史的日本においても、その裏としての、ないし底流としての、もう一つの日本という副主題を、いつも語り続けている。谷川徹三氏『縄文的原型と弥生的原型』などによれば、日本文化は、仏教文化のような大陸文化の影響をうける前、縄文文化と弥生文化という形で、動と静、怪奇と優美、有機的と無機的、装飾的と機能的、全く対照的な文化の原型を定めていて、大陸諸文化の継承にあたっても、この日本原初の二つのこころとかたちの交互作用によって、これを日本的に受容し限定して、歴史的日本文化を形づくった――そういう見通しが与えられている。縄文は狩猟・採集・漁撈生活の中に生まれ、弥生は定着農耕生活の中から生まれた。日本は定着農耕を基盤に歴史をすすめていくから、自然に弥生的原型が歴史的日本文化の正系ということになるが、しかし縄文は弥生に吸収され、ないしそのかたわらに生き続けて、つねにその原型を、弥生の底辺に維持していく。」


「五 北のウマ 南のコメ」より:

「日本史概説では、縄文の次は弥生である。紀元前三、二世紀ごろ、北九州あたりで新しい文化の実験が始まる。新型の硬質・素焼き・無文の土器。コメつくり。鉄器使用。たちまち旋風のような文化大革命となって、瀬戸内海を一気に東進する。畿内には北九州と並ぶもう一つのセンターが成立する。伊勢湾地帯までは疾風のようにかけぬけるが、そこから東、北では、速度も緩慢になる。」
「そういう概説がなされて、東国(あずま)・奥羽(みちのく)は、弥生・コメつくりのおくれた地帯、もしくは後進地帯という定説がつくり上げられて、そのまま歴史時代における西高東低の史観に移行するのである。
 今日の考古学の研究は、コメつくりの事実についても、本州最北端の津軽や下北方面まで、本州中央地帯の弥生時代とそう大差のない開始時期の実証に成功しつつあり、牧歌的な後進論は神話となってきている現状にある。
 わたくしは、このような学問状況に、史実の実証としては敬意を表しつつも、史学の方法論としては、弥生史学至上主義の論過(パラロギスムス)を念入りに固定する結果になることを恐れるのである。
 なぜか。このような研究は「だから、ここも遅れていない」ということの証明を目標にしているからである。しかしそれは、弥生型を基準とし、目標にしてのはなしである。ここでは、そういうことであるを要しない。いやそういうことでない方がよい。もしそういう方向ないし見通しが立つのであれば、ここでは、そういう結果を、事実として承認するのは当然としても、それで能事おわれりとするようなことはないであろう。というより、弥生の遺跡だから発掘調査するというのでなしに、むしろそれにならない見こみの遺跡発掘をこそ主目標にするようになるであろう。」
「わたくしは、ここでの学問の正道は、弥生的でないもの、つまり縄文的なものの伝統がどう続き、どう変容しているかの検証にあるとおもっている。」



「六 ヒタカミ日本 ヤマト日本」より:

「弥生の遺産。それがヤマト国家である。ヤマト国家はすなわち日本国家である。ヤマトこそは日本なのである。名実ともにそうである。日本人はだれしもそう信じて疑わない。
 しかし、ほんとうにそうなのであろうか。そういう日本ということにとっての根源的な問いかけをしているものこそは、日高見(ひたかみ)国と呼ばれている古代ナゾの国である。その日高見国とは何かということについて、古代国家国定歴史書の『日本書紀』は、景行天皇のくだりで「東の片田舎の地方に日高見国というところがある。そこに住む未開・野蛮の人たちのことをエビスという」と解説している。
 だから、日高見国とはエビスの国のことである。このころのエビスの国というのが、正確にどこをさしたかは、よくわからない。ただ、「東夷の中、日高見国あり」といういいかたをしていて、東夷(ひがしのひな)というのが、大体、東国にあたるあずまをさしていたと思われることからして、そのさらなる辺境にあたる奥の国という考えかただったと言ってよい。」
「『日本書紀』の景行天皇の日高見国記事というのは、武内宿禰(たけのうちのすくね)という大臣の東国・北陸視察報告書に見えるものである。その中で「日高見国は、土地が肥沃で広大なところで、征服して国土とした方がよい」と勧告している。それにもとづいて、ヤマトタケルの東国経営・エビス征討ということになる。してみれば、ヤマト国家の大きな国家統一計画の中にエビスの国統一ということが、柱に立っていたこと、明らかである。」
「そのころのわが国のことを書いた中国の歴史書の『旧唐書(くとうじょ)』『新唐書』にはこんなふうに日本事情を伝えている。「倭国には、その一種として日本国という小国がある。日本国というのは日辺(日の出るあたり)、日出所という意味だという。最近武力統合が行われ二つの国が一つになり、その機会に倭国も新国号を改めて日本国としたという」。
 その武力併合については二説があり、『旧唐書』は小国日本国が宗国倭国を併合したとし、『新唐書』は倭国が日本国を合併したという。ただしそのどちらも、倭国に対して日本国という名の小独立国があったこと、合併を機に新統一国家が、先行の小国家日本国の号を踏襲して、新日本国となったとする点では一致している。
 われわれの理解では、ヤマトの新しい漢語的国号として日本国という呼称が始まったもので、ヤマト国家(倭国)の前に、もしくはそのほかに、日本国などを称するものはありえないことになっている。それでこの『唐書』の倭国内の小国日本国存在説は全く無視されてきた。しかしこれは日本史における皇国史観のなせるわざである。
 日本というのは、日高見といういいかたの漢語的にととのえられたものと見るのが妥当である。」
「日本国という名のニホン国の成立に、エビスの国がかかわっていること、日本国号のはじまりはエビスの国にあること、そのため、日の本という名の地もと名がエビス(エゾ)の名としてのちのちまで残るというような歴史を、われわれは正史の中で語りうるとは、夢にも思っていなかった。日高見国というもう一つの日本国の存在が、そのベールをぬいできたために、そういう日本史をもわれわれは問題にできるようになった。いや、問題にしなければならなくなったのである。」



「十一 平泉―京都と鎌倉の間」より:

「まず、古代のエビス戦争を、単なる古代史付録扱いするような古代史を改めることである。エビスと呼ばれる人たちとその国をどうするかに、日本古代の国家統一の最後の問題が託されていた――そういう史観が必要である。この人たちのそういう強靭なエネルギーこそは、かれらがもう一つの日本をもちこたえ、これを歴史に浮上させてくる根源の力であった。
 坂上田村麻呂ですべては終わった。そういう英雄物語から離れることである。田村麻呂はむしろ古代の限界を物語る歴史と考えねばならぬ。かれでもここまでしかできなかった。かれ以後、古代国家はこの問題を放棄した。そこから、第二のエビス問題がはじまる。十世紀以降、この問題が歴史から消えるのは、問題が終結し解決したからではない。それからはこれを扱いえなくなって、蓋をしてしまっただけである。
 「エビスそれから」。作家夏目漱石が、文学『それから』に扱ったところのものを、古代エビス歴史にうけとめ直して、古代中期・後期に向けて、かれらエビスがどういう歴史を、その蓋された暗室の中ですすめていたか。そういう探求がこねばならぬ。
 俘囚(ふしゅう)というもの。その指導者としての俘囚長という人のこと。これが「エビスそれから」における歴史のにない手であり、そのヒーローになる立役者である。俘囚。内都・内国に移されたエビスたちのこと。俘囚長はその指導者。ただし俘囚出身者。この人たちこそは、古代史の内側からエビスの問題を新しく提起し直してくる人たちだった。安倍氏・清原氏・藤原氏。古代国家の解体を辺境から決定的にしていく前九年の役、後三年の役、そして辺境政権の自立。そういう大変を歴史化した人たちは、すべてこの俘囚長とその系譜につらなる人たちだった。かれらが歴史をゆるがす前に、俘囚の乱というのが各地でひんぱんに問題になっていることにも注意を向け直さなければならぬ。
 安倍氏の俘囚長の地位は「奥六郡の司」によってかためられていた。清原の権力も「山北(せんぼく)三郡俘囚主」としてつちかわれたものである。エビスの長が、三郡とか六郡とかにわたる支配権を持てば、事実上の国司権に近いものになる。何の反乱も戦争も構えることなしに俘囚長が政治領主化しえた歴史の復原。前九年の役や後三年の役を、安倍や清原が源氏と互角にたたかいえた歴史の正当な評価とともに、より多く、そのようにたたかいうるまでの前史のより正当な評価。それが今求められているもう一つの日本史の急所である。平泉はその総決算だったのである。
 平泉の歴史がナゾに包まれているのは、この前史が歴史になっていないことによる。もしエビスからの歴史が系統的に平泉までのあゆみをときあかすことができるならば、それは平氏がどうしてあの栄華に至りつき、源氏がどうしてあのような新時代を開くことができたかを考えるより、いっそう意義深い国民史の開拓になるだろう。」



「二十一 十八世紀人間発見の記録」より:

「かれ、菅江真澄。この人は、どのように親しい人に対しても、自分のすべてを明かさなかった人である。それはしいて秘密にしたというより、語るを必要としない自分として、おのれ一人にリザーブされたところの自分だけを生きた人である。それはまわりの人たちにもおのずからにして承認された「真澄租界」、聖域(サンクチュアリ)としての真澄宇宙というようなものをつくりあげる。そしてそのような距離をもっての交友・親情は、当然のこととして、この人を孤高の人にする。それは美しい親愛の情の底にあるナゾであるだけに、いっそうナゾを深くする。この人は、最後の自分は、他の何人にも立ち入るを許さない自分自身としての世界をとりもち、生きぬいて、その閉じられた孤独だけが可能にする仕事を続ける。それが菅江真澄という人である。その旅が、他の何人にも不可能な未知の発見になるのは、この絶対の孤独の創造してきたものであった。
 真澄には「常冠(じょうかむ)りの真澄」の異名があった。暑くても寒くても黒紬(くろつむぎ)の頭巾をかぶったままであった。秋田藩校明徳館の責任者の那珂通博に面会を求められた時も頭巾のままであい、藩侯佐竹義和に謁見仰せつかった時も、冠り物のままでよろしければお目にかかると申し上げて、常の通りで会見し「常冠りの真澄」の名は、いっそう有名になった。
 真澄がなぜ頭巾を離さなかったかについては、いろいろな臆測がなされていた。若い時の刃傷沙汰で眉間に負った傷跡を隠すためでないか、また、業病(ごうびょう)のみにくい痕を見せたくないからではないか等々。そこで、文政十二年(一八二九)七月十九日かれが亡くなり、柩にその遺骸を納めるにあたり、一部の者が、常冠りの秘密をナゾのまま永久に葬り去るのは心残りだというので、最後に遺骸の頭巾を脱がせてその秘密を確かめたいと言ったとき、かたわらの古老がこれをおしとどめ、本人が生前人に見せようとしなかった秘密を、この期におよんであばくような心ないことをすべきでないとたしなめて、常冠りの秘密は永久のナゾのまま葬られたということになっている。
 「常冠りの真澄」、それは「永遠のナゾの人菅江真澄」。そういうふうに言いかえることができる。なぜいつも冠り物をつけたままだったか、ナゾである。それも本気で隠そうとしてのことであったか、自然にそうなったことを、頑固にただ守ることが目的のようになってのことであったか、これもナゾである。そのナゾのまま、永久のナゾに葬った人たちもまた、ナゾのこころをよく知った人たちである。
 菅江真澄という人は、そのようにして、常冠りのまま、永遠のナゾに包まれた人物である。そのような人が、なぜ旅の人になったのか、何を見ようとしたのか。これもナゾである。」

「かれの四五年間の旅は、北方の旅に限られる。東北そして北海道。その外に出ない。東北も松島、仙台を南限とし、そのほとんど全部に近いものが、岩手・秋田・青森の北部三県に限られ、そこから南に足が向かない。東北北部から北海道(蝦夷地)に限られるナゾの人の孤高にも似た旅。そこに四五年間の生涯をすべてささげつくす。
 そうであれば、その旅の心、常冠りのようにかたくその心に誓い、一生涯とりもってついに変えることのなかった心、まさに一以て貫くところの旅の心とは、この北のさいはてに眠っている物言わぬ民たちとの出あいを求めてのこころであったと言えるであろう。
 道の奥。エゾの国。日本のさいはて。文化はつるところ。そんなふうに考えられ、自分たちもまたその千年にわたる歴史の重荷にたえかねて、化外・蒙昧・無知・無力の冷評に黙々と忍従してきた物言わぬ民の国である。」
「みちのくの中のみちのく、エゾの国の中のエゾの国だけが旅になる。そういうこころは、未知はここにある、すぐれて未知なるものはここだけにあるという選択に立つ。」





こちらもご参照ください:

網野善彦 『東と西の語る日本の歴史』 (講談社学術文庫)
谷川健一 『白鳥伝説』 (集英社文庫) 全二冊


























































































畑井弘 『天皇と鍛冶王の伝承』

「神話学で言う「月の動物」(lunar-animal)であり地霊でもある熊・蛇・蛙がことごとくまつわりつくこの「ごとびき岩」は、「生魂(イクムスビ)」の信仰を母胎とし、やがて天孫降臨信仰と習合をとげることによって「言霊」信仰の属性を合わせもち、「琴弾き」「言祝ぐ」「言蟇」岩になったようである。」
(畑井弘 『天皇と鍛冶王の伝承』 より)


畑井弘 
『天皇と鍛冶王の伝承
― 「大和朝廷」の虚構』


現代思潮社
1982年5月24日 第1刷発行
423p 索引31p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,600円



本文中図版(モノクロ)6点、地図9点。


畑井弘 天皇と鍛冶王の伝承 01


目次:

まえがき
第一章 彦坐王伝承――越~近江路の「彦坐王国」
 はじめに
 一 開化天皇の皇子とされている「彦坐王」
 二 丹波路の「彦湯産隅王国」
 三 丹波路を征したとされる「彦坐王」
  1 玖賀耳之御笠
  2 桑田玖賀媛
  3 「久我国」の服属を語る二つの伝承
 四 四つの「彦坐王」伝承
  1 山代の彦坐王
  2 大和の彦坐王
  3 近江の彦坐王
  4 雄略――清寧王家を倒した彦坐王
 五 「古麻志比古」であった越路の王者・彦坐王
第二章 彦湯産隅王伝承――丹波路の「彦湯産隅王国」
 はじめに
 一 丹波路は王領の「鍛地」
  1 大和王権と旦波大県主
  2 丹波国の大己貴神
  3 丹波路は王領の「鍛地」
 二 彦蔣簀命・神魂神・神皇産霊尊
  1 天地初発の時に成りましし神産巣日神(彦蔣簀命)
  2 ブリヤート神話の「ボシントイ」と「豊斟渟」
  3 「神代七代」以前の「別天ッ神」
 三 彦湯産隅王伝承の問題点
 四 彦湯産隅王とその系譜――『古事記の場合』
  1 彦湯産隅王と由碁理
  2 竹野媛
  3 迦具夜比売命
  4 『古事記』の主張
 五 丹波道主王とその女たち
  1 歌凝比売命と竹野媛
  2 乙訓(尉礼加羅)地名伝承と円野比売命
  3 日葉酢媛
  4 沼羽田之入毗売命
  5 問題の所在
  6 〓(漢字: 竹+觔)瓊入媛(阿耶美能毗売命)
  むすび――付、「開化天皇」と「気比大神」
第三章 忍王伝承と辰王伝承――大和の「忍王国」と「磐余国」
 はじめに
 一 「忍王」伝承
  1 兄倉下・弟倉下
  2 天圧神と呼ばれる神武天皇
  3 外山の宗像神社
  4 兄倉下・弟倉下と登美毗古――外山の王
  5 「五十」と「外山」
  6 五十瓊敷命伝承
  7 天圧神の正体、天武天皇
  8 磐余邑に布満める兄磯城軍――河内王朝の象徴
  9 大王の宮居するところ「磐余」
  10 十市は広義の「飛鳥」。磐余・百済も同義
 二 「辰王」伝承
  1 「五十」と「辰」――辰朝問題
  2 聖地「倉下」(虵山)
  3 外山――辰王(五十王)の治する聖地「解蘇塗」
  4 磯城も「辰城」の国
  5 飛鳥の国――「辰」(登美=五十=忍)の国
 むすびに
第四章 神武天皇の熊野平定伝承
 はじめに
 一 毒気を吐く神
  1 熊野の丹敷戸畔と朝鮮の熊女
  2 日本武尊と信濃坂の神
  3 「毒気」を吐く神――「広矛」に象徴される銅神
  4 朝鮮の白岳信仰と日本の白山信仰
 二 熊野信仰と那智信仰
  1 熊野権現降臨伝承とその原像
  2 「ごとびき岩」と高句麗の金蛙王伝承
  3 地霊信仰と言霊信仰の習合
  4 神事に洞察される「熊野神邑」の秘史
  5 那智信仰――熊野三所権現の圏外にあった飛滝権現
  6 熊野加武呂命と八咫烏
 三 熊野国と夫余系渡来人
  1 稲飯命と三毛入野命
  2 荒坂津は荒坂邑二木
  3 狭野尊の原像――砂羅(斯羅)の首長
  4 丹敷戸畔――阿羅国の丹生都姫
  5 熊野国を開いた夫余系渡来人集団
 四 熊野国と有馬皇子の謀叛
  1 有馬の「花ノ窟」
  2 有馬皇子の謀叛伝承
  3 端倪すべからざる国「熊野」
 五 熊野の高倉下王国
  1 丹敷戸畔を誅った神武天皇の原像――熊野高倉下
  2 熊野高倉下王国の原伝承――天神御子は高倉下
 六 大和王権と熊野国
  1 熊野国造大阿斗足尼の伝承と壬申の乱の功臣安斗連
  2 熊野の阿刀氏――志摩国設置をめぐる在地の動き
  3 紀北の古墳文化と紀伊・熊野の国造的勢力の動き
  4 高倉下伝承――阿刀氏の主張と尾張氏の主張
附録 
 尾張氏系譜一覧表
 尾張氏系譜
 『日本書紀』に見る尾張連
 主な参考文献
あとがき
索引



畑井弘 天皇と鍛冶王の伝承 02



◆本書より◆


「まえがき」より:

「この本は、先に公刊した拙著『物部氏の伝承』(昭和五二年、吉川弘文館発行)の、ある意味での続巻である。前著では、物部八十氏と呼ばれている古代氏族は決して一つの氏族ではなくて、金属器生産に携わった幾多の氏族を総称したものであることを指摘すると同時に、天皇氏も含めて、大化前代の古代史に活躍した多くの氏族は、自ら金属技術を身につけているか、もしくは金属技術者集団を配下にもつことによって、生産力や軍事力において他を凌駕する力を備えていた、広い意味で鍛冶王と呼べる支配者集団であることを指摘した。長髄彦というのは弥生時代の銅鐸祭祀集団の族長層を象徴的に描いたものであることや、崇神天皇に始まるヤマト王権は、それら長髄彦的族長層を支配下におさめた新しい鍛冶王たちの相剋の中から、始めて初源的な覇権を三輪山麓にうち立てた地域的政権であり、「トビ」族と呼んでよい夫余種族の首長を王者とすることや、五世紀半ばごろを転機とする新しい鉄器生産技術の伝来と普及を契機として、覇権争奪の内訌が激化し、それが允恭天皇の崩後に起こった数々の皇位をめぐる争いとして伝承されていることなど、記・紀伝承の中にも、鍛冶王伝承や鍛冶神信仰伝承と言うべきものが、少なからず収められていることも指摘しておいた。」
「この本で考察しようとする対象は畿内ヤマト王権そのものである。(中略)古墳時代を通じてこの地域に展開した古代的王権の成立と発展、その統一的王権への歩みについて、記・紀伝承がどう描いているのか、それを、前著同様、朝鮮語で記・紀を読み直してみるという方法で、考察してみようと思う。」



第二章より:

「「カグヤヒメ」とは、いかにも懐かしい名前である。竹の中から生まれ、富をもたらし、やがて、帝のお召しをも退けて月の世界に帰ってしまう。ロマンに満ちたあの物語が、実は鍛冶王伝承の一つとして、『古事記』の中にその祖形を残しているのである。「迦具夜比売(カグヤヒメ)」とは、畢竟、「香(カグ)(高)矢媛(ヤヒメ)」、すなわち「軽(カル)(銅)矢(ヤ)」に象徴される銅神祭祀集団の巫女王である。」
「綴喜郡の地は「軽矢(カグヤ)媛」が祭祀する銅神の鎮座地であり、弥生時代以来の鋳銅の鍛冶王「大筒木垂根王」が盤踞する国だったのである。(中略)丹後半島の竹野郡の「竹野媛」、桑田郡の「桑田玖賀媛」と「久我国」の「玖賀耳御笠」、そしてこの綴喜郡の「迦具夜比売命」、と並べてみると何が見えてくるだろうか。しかも「迦具夜比売命」は「竹野媛」の曽孫だというのである。日本海に臨む丹後半島から丹波路を経て南山城に至るルートにあった一つの世界、『古事記』はそれを紛れもなく「銅」の鍛冶王連合の世界として語っている、と言ってよかろう。
 因みに、毎年六月二十日に行われる洛北鞍馬寺の「竹伐り会」は有名であるが、あの「竹」は蛇体を象徴したものである。「竹」と「蛇」、それは鋳銅技術と蛇神信仰とを意味するのではないだろうか。(中略)あの竹は本来「タカ」(高)であろう。「竹(タケ)伐り会」は「高(タカ)伐り会」であろう。そして、その「高(タカ)」は旧い蛇神型鍛冶神「高野媛」を意味したであろう。すなわち、銅鐸祭祀の蛇神型鍛冶神信仰をもつ先住・土着の国ッ神勢力「竹(高)野媛」集団を討伐したことを伝承するある種の服属儀礼がこの洛北愛宕郡の地に行なわれていて、その土着・固有の服属儀礼が後世になって変形し、鞍馬寺の「竹伐り会」となったのではないか、と私は推測する。」
「このように見てくると、大筒木垂根王を綴喜郡に勢を張る鍛冶王と見、その女の迦具夜比売命自身を「竹(タカ)(高(カグ))野(ヌ/ヤ)媛」と見なすことも、さらに一歩進めて「蛇姫様」と呼ぶこともできるのではないか、とさえ思われる。平安期の文学である『竹取物語』はまことロマンの香り高い作品であるが、その母体は「銅」神祭祀の神話だったに違いない。(中略)竹の中から生まれて富をもたらした「かぐや姫」は銅の精霊そのものであったに違いない。月の世界に帰るモチーフは「달」〔tʌl〕(月)神信仰との結合を示唆するようであるが、蛇神はそもそも地霊でもあり、地母神と相通じる。太陽神は本来男神であるが、月神は女神だ。これは汎ユーラシア的事実である。ならば、蛇姫様である「かぐや姫」は「달(タル)」(月)の世界の精霊であり、月の世界に帰って、何の不思議もない。」

「朝鮮語では「日・太陽」のことを「해(ヘ)」〔hæ〕といい、高句麗神話に出てくる天帝の子「解慕漱(ヘモス)」(日輪)や北夫余の始祖王「解夫嬰(ヘブル)」の名前に見られる「解(ヘ)」がそれである。前章でも述べたように、「古麻志比古(コマシヒコ)」でもある日子坐(ヒコマス)王(彦坐王)と彦蔣簀(ヒココモス)命の別名をもつ彦湯産隅王とは、祖霊としてその原像はもともと一つであり、「곰(コモ)(熊・鴨・神)수(ス)(魂・霊)」であった。そして、「古麻志(コマシ)」も「蔣簀(コモス)」も高句麗神話の「解慕漱(ヘモス)」像との重なりが見られるのである。「解」は「해」〔hæ〕(日・太陽)のことであるが、また「海・浦」のことも「해」〔hæ〕という。その上、k~h の音転関係で、「개」〔kæ〕と発声することも多い。(中略)この観点から言えば、「気比神社」は「海神社」であると同時に、「解比神社(日輪ノ神社)」であり、「春日神社」でもある。「天(アマ)」と「海(アマ)」の習合性も、その意味でかなり多様な側面からきていそうである。」

「越前・若狭・丹後に囲まれた若狭湾の要衝を占める敦賀に鎮座する「気比大神」こそ、まさしく「大・日日尊」そのものであっただろう。」



第三章より:

「「虵山」、私はこれを龍神祭祀の聖地であり、日本史上の「外山」、宗像神社が勧請され、兄倉下・弟倉下が本拠とした、あの(中略)聖地「鳥見山」と同じだ、と考える。「龍神」祭祀の霊地であり、しかもやがて「太陽神」祭祀の聖地となった、南・北二系統の祖霊信仰の習合地たる絶対不可侵のホーリイ・ゾーンだったと思う。」

「雄略紀が「ヘスオト」と古訓する「倉下」(虵山・虵城)の地が太陽神と龍蛇神の習合的祭祀の聖地であり、根源的には先住韓人の霊場ではあったが、流移来住して先進文化をもたらし、部族社会の発展を導いた夫余(パル)(벌 pʌl=光明)系の辰人たちが奉ずる天神(光明そのもの。太陽神)の霊場ともなって、海と太陽の両義を有する「해」(hæ・解)神祭祀の「蘇塗」となった聖地であることは、以上の考察で、十分に解明できたはずである。」

「高句麗にその典型を見、百済もそれに倣ったとされる五部制的体制の族習をもった夫余(辰)系の渡来人集団がいち早く鳥見山を国見山(峴・押)と仰ぐ地に解蘇塗(ヘスオト)(外山)の霊地を定めて「五(トブ) tobu- (飛)周(トリ) toli (鳥)」の国を建て、茶臼山古墳やメスリ山古墳の被葬者を「意柴(オシ)(辰・五十・忍)王」と呼ぶ初源的な部族国家(小国)を作った。その過程で、おそらく蛇神信仰集団である弥生以来の先住民に対する鳥神信仰集団(中略)の征服的支配従属関係の形成が進められたようである。」
「五世紀を通じて、鳥見山麓の五周(トブトリ)(飛鳥)と多武峯山麓に広がる新領域の(中略)小 五周(トブトリ)(小飛鳥)とを合わせた十周(トボトリ)(töbö-toli=十城 töbö-ti=十市)の地は、四世紀以来の磯城の五十(辰)勢力との結びつきもあって、一大領域「磐余」として擡頭した。」



第四章より:

「神話学で言う「月の動物」(lunar-animal)であり地霊でもある熊・蛇・蛙がことごとくまつわりつくこの「ごとびき岩」は、「生魂(イクムスビ)」の信仰を母胎とし、やがて天孫降臨信仰と習合をとげることによって「言霊」信仰の属性を合わせもち、「琴弾き」「言祝ぐ」「言蟇」岩になったようである。」

「卓越した金属技術をもち、「虵(クラジ)」(구렁이・倉下)を守護霊とし刀剣を神宝とする、そして後には尾張氏を称するようになる海人族の勢力が、先住の、そして、もしかすると「蛙」(개구리(コクリ))を地霊と見る習俗をもっていたのかも知れない銅鐸祭祀集団を服属せしめて、熊野川下流域一帯に部族的領域を作りあげていった。神倉山のごとびき岩は、弥生時代以来の先住海人集団の地霊信仰の聖地から、蛇神型の鍛冶神信仰の聖地に変貌していった。」

「西牟婁郡を貫流する日置川は、この川沿いの地に日置氏が住みついていたことを示唆するが、前著『物部氏の伝承』の中で述べたように、日置氏は高句麗系渡来人(中略)の後裔と称する集団であり、記・紀伝承に「土蜘蛛(土雲)」(中略)として語られる先住土着の、しかも青銅器鋳造技術をもっていたと考えられる鍛冶神祭祀集団であって、大和の忍坂で撃滅された「八十建(ヤソタケル)」の土蜘蛛、葛城の高尾張(タカヲハリ)邑(葛上郡日置郷)にいた土蜘蛛、(中略)など、いずれも高句麗系海人族「日置」氏として捉えられる歴史的個性をもった集団であっただろう。(中略)後に「ヒキ」と音訛して「比企」と表記された地も、日置氏の定着したところであろう。」
「このように見てくると、地霊の象徴「ごとびき岩」信仰に秘められた「개구리(コクリ)」〔kækuri〕(蛙)信仰は、高句麗の金蛙王伝承に繋がる「蝦蟇(ヒキ)」(日置)神信仰であるし、「土蜘蛛(ヒキカミ)」信仰でもある、と言えそうである。」





こちらもご参照ください:

畑井弘 『新版 物部氏の伝承』


























































































畑井弘 『新版 物部氏の伝承』

「時代の動きにともなって、ヤマト王権の「物部連」となった氏族は幾度も交替しているし、それら多くの「物部連」家氏族がすべて同族であったわけでは決してないのである」
(畑井弘 『物部氏の伝承』 より)


畑井弘 
『新版 
物部氏の伝承』


三一書房
1998年7月15日 第1版第1刷発行
11p+298p 索引14p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円+税



初版は1977年吉川弘文館刊、本書はその復刻です(象眼による訂正個所があるようです)。巻頭に「新刊によせて」が付されています。
本書は2008年に講談社学術文庫版が刊行されています。


畑井弘 物部氏の伝承


帯文:

「古代豪族の大派閥・物部氏の系譜を探り、その謎に迫る。」


目次:

新刊によせて
はしがき
第一章 物部氏と物部連――饒速日命と可美真手命
 饒速日命
 饒速日命は虚像である
 原・饒速日命伝承
 韴霊(フツノミタマ)に他ならぬ饒速日命
 「可美」は「ウマシ」にあらず
 「甘酒(ウマザケ)」は「감(カム)(剣)살(サル)(矢)」
 「〓(漢字: りっしんべん+可)怜国」とは「銅の国」
 「可美」とは「감」(剣)のことである
 감(カム)と줄기(ツルギ)……神・剣・山・柱
 可美真手命伝承
 可美真手命と宇麻志麻遅命
 饒速日命・長髄彦・可美真手命の変貌
 欝色雄命伝承
第二章 蛇と鵄――長髄彦伝承と神武の大和平定伝承
 長髄彦は銅鐸祭祀の蛇神族の魁帥
 磐余の登美毘古
 土蜘蛛と高麗系鍛冶氏族日置氏
 登美族を平定した畿内ヤマト王権
 金色霊鵄(コガネノアヤシキトビ)
 登美族
 天富命
 登美族の建国と「天神郊祀」
 原・天照大神と猿田彦神
 二つあった小野榛原の霊畤
 大伴連家の「頭八咫烏」伝承
 高句麗系らしい大伴の八十伴男
 鴨と鵄と鷲
 蛇から鵄へ――鍛冶神の交替
第三章 香の鍛冶王――伊香色雄命
 物部連の祖、伊香色雄
 「赤銅八十梟帥(アカガネノヤソタケル)」の一人だった伊香色雄
 河内の伊香色雄と江北の伊香色雄
 伊香の語義
 「物部」八十氏の統合的象徴
 銅の古語「カゴ」の発見
 赤酸醬(あかかがち)
 天香山
 香=香具=鹿児=軽=銅
 軽矢(カルヤ)・鹿児矢(カゴヤ)・真麝鏃(マカゴノヤサキ)
 日像(ひがた)の銅板
 「羽羽」は蛇神
 足名鈇・手名鈇・軽彦
 天羽鞴(アマノハブキ)
 弥生時代と「カゴ」神信仰
 大葉刈
 高皇産霊と神皇産霊と伊香色雄命
第四章 鍛冶王のバラード――「物部氏」系譜伝承
 忍坂の鍛冶王 物部五十琴宿禰
 安閑・宣化朝と布都久留流物部氏
 三人の「目」大連
 欽明朝と物部連尾輿
 守屋(モルヤ)で没落(몰락[mol-rak])した弓削大連家
 石上朝臣麻呂とその祖父の目大連
 石上朝臣麻呂と物部連麻呂
第五章 石上神宮の謎――石上朝臣と布留宿禰
 石上神宮の創設と石上朝臣家の成立
 石上坐布留御魂神社と布留宿禰の祖流
 物部大臣を号した蘇我敏傍
 「フツ」姫伝承の意味
 馬古の妻「鎌姫」
 倭古連の伝承
 倭古連と結んで台頭した弓削連尾輿
 馬子の妻は「守屋の妹」なのか
 布都姫の「財」
 「武蔵臣」と山棲みの民
 布留氏の「財(チカラ)」の根元、山棲みの民
付録「物部氏系譜一覧表」
索引




◆本書より◆


第一章より:

「私見を述べるならば、ヤマト王権の成立以前に、畿内に天降った――渡来した――朝鮮系渡来人集団の国作りの営みがあった。そこでは、それぞれの集団ごとに、北方系の「天降る始祖」伝承が語り伝えられていたに違いない。氏族から部族へ、ムラからクニへ、そうした歩みの中で、幾つもの始祖降臨伝承の統合が進み、やがて、いわゆる瓊瓊杵尊降臨説話とは全く別の、もしかすると、むしろその先駆的原型だったかも知れない、もう一つの天孫降臨説話が形成されていった。それが原・饒速日命伝承だったようである。(中略)この原・饒速日命伝承は、その後、古墳時代を通じて、ヤマト王権の発展過程に伴ったさまざまな体制的要請によって変形され、潤色・歪曲を受けて、遂には『日本書紀』に見る現形に整理されてしまったのである。したがって、『先代旧事本紀』の内容は、それ自体決して原・饒速日命伝承を伝えるものではないが、正史という形で体制的に造り上げられた偽(に)せものの「饒速日命」伝承を告発している点で、それなりに注目に値すると思われるのである。」

「剣と神とを意味した「감(カム)」(中略)、そして剣と山と神と柱を意味した「줄기(ツルギ)」(中略)、この二つの朝鮮語系ヤマト古語の中にこそ古代人の信仰が秘められている、と私は信じて疑わない。」



第二章より:

「弥生時代から古墳時代に移る過程で展開した「登美」族による「長髄」族の平定、神武や崇神の肇国伝承に語られている雷神型鍛冶神信仰種族(北方系・天神種族)による竜神型鍛冶神信仰種族(南方系・国神種族)の平定。」
「この動乱の世紀には、南韓から西日本にかけて、いわゆる倭人の世界における政治的統合への動きが急速に進んだ。女王卑弥呼の時代から崇神天皇の肇国時代にわたるこの第一次激動期に、地域的な王権の形成が展開したが、この間、畿内ヤマトにおいても、高句麗系種族と推定される「登美」諸族の「大和平定」が実現した。銅鐸祭祀に象徴された「長髄」諸族の呪術的「魁帥(ヒトコノカミ)」の分立時代が終わった。その最終段階における幾多「登美彦」らの王権掌握をめぐる抗争の果てに、初期ヤマト国家の覇権を樹立したのが、近年「イリ王朝」と呼ばれたりしている崇神王朝である。饒速日命も磐余彦命も覇権争奪から脱落した「登美彦」の一人にすぎなかった。」





こちらもご参照ください:

畑井弘 『天皇と鍛冶王の伝承』













































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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