荒井献 『イエス・キリスト』 全二冊 講談社学術文庫
荒井献
『イエス・キリスト
(上)
― 三福音書による』
講談社学術文庫 1467
講談社
2001年1月10日 第1刷発行
235p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価920円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
荒井献
『イエス・キリスト
(下)
― その言葉と業』
講談社学術文庫 1468
講談社
2001年3月10日 第1刷発行
491p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,300円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
上巻「まえがき」より:
「一九七九年に筆者は、「人類の知的遺産」シリーズ全八〇巻の第一二巻目として、『イエス・キリスト』を上梓した。(中略)この度、この本の改訂・増補版が講談社学術文庫に入り、復刊されることになった。
本改訂・増補版『イエス・キリスト』は――文庫本サイズでは一巻に収めきれないこともあって――上・下二巻より成り、本書はその上巻に当たる。本書には、旧版の第Ⅰ部「イエスとキリスト」と第Ⅲ部「イエス・キリストの生涯」と第Ⅳ部「イエス・キリストと現代」が、それぞれ第Ⅰ部「イエスとキリスト」、第Ⅱ部「福音書のイエス・キリスト」、第Ⅲ部「イエス・キリストと現代」という部立てで編集・統合されている。」
「改訂・増補版」といっても、旧版の内容はもちろん根本的には変えられておらず、なお残っている誤植の訂正、若干のイエスの言葉――とくに譬話――に対する解釈の修正、過去二十余年の間に公にされた文献の増補とそれに対する私見など、最小限に留められている。」
下巻「まえがき」より:
「本書は、本年一月に出版された『イエス・キリスト(上)――三福音書による』の下巻に当る。(中略)本書には元本の第Ⅱ部「イエス・キリストの言葉と業」が改訂・増補の上収録されている。」
上巻に地図1点。
本書は日本の古本屋サイトで最安値(二冊1,200円+送料)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。

上巻 カバー裏文:
「新約聖書にみられる多様なイエス・キリスト像。
そのなかでマルコ、マタイ、ルカは歴史のイエスについての伝承をもとに、どのような視座から福音書を編集し、それぞれ固有のイエス・キリスト像を造型していったのか。本巻はその過程を社会的背景とともに追究。
日本の新約聖書学の第一人者が著したイエス・キリストを理解するための基本的かつ必須の書である。」
下巻 カバー裏文:
「上巻ではマルコ、マタイ、ルカ三福音書の固有のイエス・キリスト像が明らかにされた。
本巻はそれらのキリスト像が造型される元となったイエス伝承にみえるさまざまなキリスト像を精緻に解明。
独自の「文学社会学」の方法で、イエスの実像や福音書のキリスト像を追究する新約聖書の第一人者が、その基礎資料を読み解く注目の書。」
上巻 目次:
まえがき
Ⅰ イエスとキリスト
1 イエス・キリストとの出会い
2 イエスとキリスト
3 イエスからキリストへ
一 復活のキリスト
二 信仰告白伝承におけるキリスト
Ⅱ 福音書のイエス・キリスト
1 イエス伝承と福音書
2 マルコによるイエス・キリスト
一 マルコ福音書の構成
二 イエス・キリスト
3 マタイによるイエス・キリスト
一 マタイ福音書の構成
二 イエス・キリスト
4 ルカによるイエス・キリスト
一 著作目的
二 ルカ福音書の構成
三 イエス・キリスト
Ⅲ イエス・キリストと現代
1 「イエス・キリスト」の多様性
2 イエス・キリストの現代性
参考文献
下巻 目次:
まえがき
はじめに――伝承の様式
Ⅰ 主の言葉
1 ロギア(または、知恵の言葉)
(1) 生活上の原則
(2) 勧告
2 預言的・黙示的言葉
(1) 「幸い」の説教
(2) 威嚇の言葉
(3) 警告
(4) 黙示的預言
3 律法の言葉・教団宗規
(1) 律法の言葉
(2) 教団宗規
4 「私」言葉
(1) 「私は来た」句
(2) 「私」に関わる言葉
5 譬
(1) 比喩的発現
(2) 隠喩
(3) 直喩
(4) 譬
(5) 譬話
(6) 例話
(7) 寓喩
Ⅱ アポフテグマ
1 論争
(1) イエスの治癒行為が誘因となる場合
(2) イエスあるいは弟子の振舞が誘因となる場合
(3) 敵対者によって問いかけられる場合
2 対論
3 伝記的アポフテグマ
Ⅲ 物語
1 奇跡物語
(1) 治癒奇跡
(2) 自然奇跡
2 歴史物語と聖伝
(1) イエスの受洗からエルサレム入城まで
(2) 受難物語
(3) 復活物語
(4) 生誕物語
付論 Q資料
参考文献
索引
◆本書より◆
上巻「まえがき」より:
「本書で筆者は、歴史のイエスが彼に関する諸伝承(イエス伝承)を介し、マルコ、マタイ、ルカの三福音書の中に、それぞれ固有な「イエス・キリスト」として造型されるに至るまでの過程を追跡した(中略)。その際、方法としては従来の編集史と最近の文学社会学とが併用されている。」
「第Ⅰ部では、「イエス」と「キリスト」との関係が、復活信仰を媒介として成立する「信仰告白伝承」(あるいは「キリスト伝承」)との関わりから、示唆的に瞥見される。この部分は本書の序章となろう。
第Ⅱ部では、イエス伝承(中略)をマルコ、マタイ、ルカが(中略)どのような視座から各福音書の中に編集し、各自に固有なイエス・キリスト像を描き上げたかという問題を、彼らが身を置いた教団とその社会的背景との相関において叙述した。
第Ⅲ部では、第Ⅰ~Ⅱ部で扱われた限りにおけるイエス・キリストの現代的意味が問われている。」
「Ⅰー3 イエスからキリストへ」より:
「ところで、ナザレのイエスはまさに社会の現実の只中でほかならぬ「罪人」(「地の民」)の地平に立ったのではなかったか。そのようなイエスの振舞が当時の社会構造を突き崩す結果を伴ったゆえにこそ、彼は国家権力により反逆罪に問われて十字架刑に処せられたのである。しかもイエス自身は、信仰告白伝承の担い手やパウロの意味における「共同体」を形成してはいないのである。とすれば、彼らが自分の生をその中に託した「キリストの出来事」は、イエスの十字架に対する神の然りであっても、イエスの生全体に対する神の然りとは必ずしもなっていないとみなさざるをえないであろう。事実、信仰告白伝承に依拠するパウロは少なくとも日常生活において信徒たちに国家権力への服従を勧めているのである(ロマ一三・一以下)。もちろん私は、パウロが(ペテロと同様に)ローマの国家権力の迫害に会って殉教の死を遂げたであろうことを否定するものではない。しかし、彼らが権力に抵抗したのは、それが信仰共同体における「信教の自由」を侵害してくる限りにおいてであって、その他の場合はむしろ日常の現実をそのまま肯定している。」
「イエスとパウロとの決定的相違点は、私見によれば、前者が神を自己相対化の契機として信じたがゆえに、なんの権威にも拠らず、ただひたすらに日常生活を「罪人」(「地の民」)と共有し、そのことが結果として当時の社会構造を突き崩す脅威となったのに対して、後者の場合、キリストを自らの権威として奉じ、信仰によって人間が義とされ一つとなる場を「キリストのからだ」としての教会に限定し、日常生活における社会的矛盾への視野を狭める結果を伴ったということにある。
こうして、信仰告白伝承の担い手やパウロにとって「キリスト」は、彼らのいわゆる「罪人」を贖い赦すイエスの十字架と復活の出来事に限定されて、そのような死に極まったイエスの生全体、とりわけ「地の民」としての「罪人」の地平に立ち尽したイエスの振舞全体を覆うものではなかったのである。」
「Ⅱ―2 マルコによるイエス・キリスト」より:
「すなわち、受難への道行きを十字架の死に至るまで「人の子」イエスと共にすることなしに、ただ口先だけでなされる「キリスト」告白は、――マルコによれば――イエスによる叱責の対象以外の何ものでもないのである。」
「マルコのイエスが民衆や病人を慈しむ場合と、マタイやルカのイエスが罪人・民衆・病人を慈しむ(あるいは憐れむ)場合とでは、慈しむ対象に関わる姿勢に決定的な差異がある。なぜなら、マタイとルカは、Q資料と共に、取税人や罪人を負的に評価しており(中略)、とりわけマタイは取税人を究極的には教会から追放してもよい「罪人」の代名詞と見ている(中略)からである。マルコには決してそのような意識はない。マルコのイエスは罪人の位置にある。」
下巻「まえがき」より:
「紀元後三〇年頃イエスが十字架上で没した後、最初にマルコが福音書を著したのは六〇年代後半~七〇年代前半においてであった。この間、三、四十年の間、イエスに関する伝承が主として口頭で言い伝えられ、そのうちの一部(とくにイエスの言葉伝承)が文書化されていた(いわゆる「Q資料」の場合)。しかも、これらの伝承あるいは伝承資料は特定の「様式」をもって伝達されたのである。その様式は三つに区別される。
Ⅰ 主の言葉――単独で言い伝えられたイエスの言葉。
Ⅱ アポフテグマ――イエスの言葉に中心を置きながらも、その言葉が語られた状況を物語る伝承の一形式。
Ⅲ 物語――イエスの奇跡行為や生誕・受難・復活など「物語」の様式で言い伝えられた伝承単位。
いわゆる「様式史的研究」の成果として、イエス伝承は、それを言い伝えた人々がその中で生活した「座」(「生活の座」)によって、「主の言葉」「アポフテグマ」「物語」などにそれぞれ「様式化」されたことが確認されている。その結果、各伝承「様式」の中にそれぞれに固有なイエス像が造型された。
このような認識のもとに、本書の第Ⅰ部では「主の言葉」の中に、第Ⅱ部では「アポフテグマ」の中に、そして第Ⅲ部では「物語」の中に、これら各様式の中に造型された「イエス・キリスト」像が追跡される。その際、方法としては従来の様式史における「生活の座」を社会的広がりにおいて捉え直した文学社会学が採用されている。」
「なお、本書における考察の対象であるイエス伝承、とりわけその古層から遡行して推定された「歴史のイエス」構築の試みが拙著『イエスとその時代』(中略)である。他方、諸様式をもって言い伝えられたイエス伝承を統合・編集して最初に「福音書」を著したのがマルコであり、このマルコ福音書と――これに収録されていない――イエス語録(いわゆる「Q資料」)を資料として、それぞれ異なる視点から「福音書」を再編したのがマタイとルカであった。これらの三福音書に造型された「イエス・キリスト」像を明示したものが本書の上巻(中略)に当る。それゆえに、本書の内容は、遡って「歴史のイエス」を推定するためにも、降って「三福音書によるイエス・キリスト」を確認するためにも、いずれにも基礎資料となるものである。」
『イエス・キリスト
(上)
― 三福音書による』
講談社学術文庫 1467
講談社
2001年1月10日 第1刷発行
235p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価920円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
荒井献
『イエス・キリスト
(下)
― その言葉と業』
講談社学術文庫 1468
講談社
2001年3月10日 第1刷発行
491p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,300円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
上巻「まえがき」より:
「一九七九年に筆者は、「人類の知的遺産」シリーズ全八〇巻の第一二巻目として、『イエス・キリスト』を上梓した。(中略)この度、この本の改訂・増補版が講談社学術文庫に入り、復刊されることになった。
本改訂・増補版『イエス・キリスト』は――文庫本サイズでは一巻に収めきれないこともあって――上・下二巻より成り、本書はその上巻に当たる。本書には、旧版の第Ⅰ部「イエスとキリスト」と第Ⅲ部「イエス・キリストの生涯」と第Ⅳ部「イエス・キリストと現代」が、それぞれ第Ⅰ部「イエスとキリスト」、第Ⅱ部「福音書のイエス・キリスト」、第Ⅲ部「イエス・キリストと現代」という部立てで編集・統合されている。」
「改訂・増補版」といっても、旧版の内容はもちろん根本的には変えられておらず、なお残っている誤植の訂正、若干のイエスの言葉――とくに譬話――に対する解釈の修正、過去二十余年の間に公にされた文献の増補とそれに対する私見など、最小限に留められている。」
下巻「まえがき」より:
「本書は、本年一月に出版された『イエス・キリスト(上)――三福音書による』の下巻に当る。(中略)本書には元本の第Ⅱ部「イエス・キリストの言葉と業」が改訂・増補の上収録されている。」
上巻に地図1点。
本書は日本の古本屋サイトで最安値(二冊1,200円+送料)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。

上巻 カバー裏文:
「新約聖書にみられる多様なイエス・キリスト像。
そのなかでマルコ、マタイ、ルカは歴史のイエスについての伝承をもとに、どのような視座から福音書を編集し、それぞれ固有のイエス・キリスト像を造型していったのか。本巻はその過程を社会的背景とともに追究。
日本の新約聖書学の第一人者が著したイエス・キリストを理解するための基本的かつ必須の書である。」
下巻 カバー裏文:
「上巻ではマルコ、マタイ、ルカ三福音書の固有のイエス・キリスト像が明らかにされた。
本巻はそれらのキリスト像が造型される元となったイエス伝承にみえるさまざまなキリスト像を精緻に解明。
独自の「文学社会学」の方法で、イエスの実像や福音書のキリスト像を追究する新約聖書の第一人者が、その基礎資料を読み解く注目の書。」
上巻 目次:
まえがき
Ⅰ イエスとキリスト
1 イエス・キリストとの出会い
2 イエスとキリスト
3 イエスからキリストへ
一 復活のキリスト
二 信仰告白伝承におけるキリスト
Ⅱ 福音書のイエス・キリスト
1 イエス伝承と福音書
2 マルコによるイエス・キリスト
一 マルコ福音書の構成
二 イエス・キリスト
3 マタイによるイエス・キリスト
一 マタイ福音書の構成
二 イエス・キリスト
4 ルカによるイエス・キリスト
一 著作目的
二 ルカ福音書の構成
三 イエス・キリスト
Ⅲ イエス・キリストと現代
1 「イエス・キリスト」の多様性
2 イエス・キリストの現代性
参考文献
下巻 目次:
まえがき
はじめに――伝承の様式
Ⅰ 主の言葉
1 ロギア(または、知恵の言葉)
(1) 生活上の原則
(2) 勧告
2 預言的・黙示的言葉
(1) 「幸い」の説教
(2) 威嚇の言葉
(3) 警告
(4) 黙示的預言
3 律法の言葉・教団宗規
(1) 律法の言葉
(2) 教団宗規
4 「私」言葉
(1) 「私は来た」句
(2) 「私」に関わる言葉
5 譬
(1) 比喩的発現
(2) 隠喩
(3) 直喩
(4) 譬
(5) 譬話
(6) 例話
(7) 寓喩
Ⅱ アポフテグマ
1 論争
(1) イエスの治癒行為が誘因となる場合
(2) イエスあるいは弟子の振舞が誘因となる場合
(3) 敵対者によって問いかけられる場合
2 対論
3 伝記的アポフテグマ
Ⅲ 物語
1 奇跡物語
(1) 治癒奇跡
(2) 自然奇跡
2 歴史物語と聖伝
(1) イエスの受洗からエルサレム入城まで
(2) 受難物語
(3) 復活物語
(4) 生誕物語
付論 Q資料
参考文献
索引
◆本書より◆
上巻「まえがき」より:
「本書で筆者は、歴史のイエスが彼に関する諸伝承(イエス伝承)を介し、マルコ、マタイ、ルカの三福音書の中に、それぞれ固有な「イエス・キリスト」として造型されるに至るまでの過程を追跡した(中略)。その際、方法としては従来の編集史と最近の文学社会学とが併用されている。」
「第Ⅰ部では、「イエス」と「キリスト」との関係が、復活信仰を媒介として成立する「信仰告白伝承」(あるいは「キリスト伝承」)との関わりから、示唆的に瞥見される。この部分は本書の序章となろう。
第Ⅱ部では、イエス伝承(中略)をマルコ、マタイ、ルカが(中略)どのような視座から各福音書の中に編集し、各自に固有なイエス・キリスト像を描き上げたかという問題を、彼らが身を置いた教団とその社会的背景との相関において叙述した。
第Ⅲ部では、第Ⅰ~Ⅱ部で扱われた限りにおけるイエス・キリストの現代的意味が問われている。」
「Ⅰー3 イエスからキリストへ」より:
「ところで、ナザレのイエスはまさに社会の現実の只中でほかならぬ「罪人」(「地の民」)の地平に立ったのではなかったか。そのようなイエスの振舞が当時の社会構造を突き崩す結果を伴ったゆえにこそ、彼は国家権力により反逆罪に問われて十字架刑に処せられたのである。しかもイエス自身は、信仰告白伝承の担い手やパウロの意味における「共同体」を形成してはいないのである。とすれば、彼らが自分の生をその中に託した「キリストの出来事」は、イエスの十字架に対する神の然りであっても、イエスの生全体に対する神の然りとは必ずしもなっていないとみなさざるをえないであろう。事実、信仰告白伝承に依拠するパウロは少なくとも日常生活において信徒たちに国家権力への服従を勧めているのである(ロマ一三・一以下)。もちろん私は、パウロが(ペテロと同様に)ローマの国家権力の迫害に会って殉教の死を遂げたであろうことを否定するものではない。しかし、彼らが権力に抵抗したのは、それが信仰共同体における「信教の自由」を侵害してくる限りにおいてであって、その他の場合はむしろ日常の現実をそのまま肯定している。」
「イエスとパウロとの決定的相違点は、私見によれば、前者が神を自己相対化の契機として信じたがゆえに、なんの権威にも拠らず、ただひたすらに日常生活を「罪人」(「地の民」)と共有し、そのことが結果として当時の社会構造を突き崩す脅威となったのに対して、後者の場合、キリストを自らの権威として奉じ、信仰によって人間が義とされ一つとなる場を「キリストのからだ」としての教会に限定し、日常生活における社会的矛盾への視野を狭める結果を伴ったということにある。
こうして、信仰告白伝承の担い手やパウロにとって「キリスト」は、彼らのいわゆる「罪人」を贖い赦すイエスの十字架と復活の出来事に限定されて、そのような死に極まったイエスの生全体、とりわけ「地の民」としての「罪人」の地平に立ち尽したイエスの振舞全体を覆うものではなかったのである。」
「Ⅱ―2 マルコによるイエス・キリスト」より:
「すなわち、受難への道行きを十字架の死に至るまで「人の子」イエスと共にすることなしに、ただ口先だけでなされる「キリスト」告白は、――マルコによれば――イエスによる叱責の対象以外の何ものでもないのである。」
「マルコのイエスが民衆や病人を慈しむ場合と、マタイやルカのイエスが罪人・民衆・病人を慈しむ(あるいは憐れむ)場合とでは、慈しむ対象に関わる姿勢に決定的な差異がある。なぜなら、マタイとルカは、Q資料と共に、取税人や罪人を負的に評価しており(中略)、とりわけマタイは取税人を究極的には教会から追放してもよい「罪人」の代名詞と見ている(中略)からである。マルコには決してそのような意識はない。マルコのイエスは罪人の位置にある。」
下巻「まえがき」より:
「紀元後三〇年頃イエスが十字架上で没した後、最初にマルコが福音書を著したのは六〇年代後半~七〇年代前半においてであった。この間、三、四十年の間、イエスに関する伝承が主として口頭で言い伝えられ、そのうちの一部(とくにイエスの言葉伝承)が文書化されていた(いわゆる「Q資料」の場合)。しかも、これらの伝承あるいは伝承資料は特定の「様式」をもって伝達されたのである。その様式は三つに区別される。
Ⅰ 主の言葉――単独で言い伝えられたイエスの言葉。
Ⅱ アポフテグマ――イエスの言葉に中心を置きながらも、その言葉が語られた状況を物語る伝承の一形式。
Ⅲ 物語――イエスの奇跡行為や生誕・受難・復活など「物語」の様式で言い伝えられた伝承単位。
いわゆる「様式史的研究」の成果として、イエス伝承は、それを言い伝えた人々がその中で生活した「座」(「生活の座」)によって、「主の言葉」「アポフテグマ」「物語」などにそれぞれ「様式化」されたことが確認されている。その結果、各伝承「様式」の中にそれぞれに固有なイエス像が造型された。
このような認識のもとに、本書の第Ⅰ部では「主の言葉」の中に、第Ⅱ部では「アポフテグマ」の中に、そして第Ⅲ部では「物語」の中に、これら各様式の中に造型された「イエス・キリスト」像が追跡される。その際、方法としては従来の様式史における「生活の座」を社会的広がりにおいて捉え直した文学社会学が採用されている。」
「なお、本書における考察の対象であるイエス伝承、とりわけその古層から遡行して推定された「歴史のイエス」構築の試みが拙著『イエスとその時代』(中略)である。他方、諸様式をもって言い伝えられたイエス伝承を統合・編集して最初に「福音書」を著したのがマルコであり、このマルコ福音書と――これに収録されていない――イエス語録(いわゆる「Q資料」)を資料として、それぞれ異なる視点から「福音書」を再編したのがマタイとルカであった。これらの三福音書に造型された「イエス・キリスト」像を明示したものが本書の上巻(中略)に当る。それゆえに、本書の内容は、遡って「歴史のイエス」を推定するためにも、降って「三福音書によるイエス・キリスト」を確認するためにも、いずれにも基礎資料となるものである。」
スポンサーサイト