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荒井献 『イエス・キリスト』 全二冊 講談社学術文庫

荒井献 
『イエス・キリスト 
(上)
― 三福音書による』

講談社学術文庫 1467

講談社
2001年1月10日 第1刷発行
235p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価920円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治



荒井献 
『イエス・キリスト 
(下)
― その言葉と業』

講談社学術文庫 1468

講談社
2001年3月10日 第1刷発行
491p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,300円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治



上巻「まえがき」より:

「一九七九年に筆者は、「人類の知的遺産」シリーズ全八〇巻の第一二巻目として、『イエス・キリスト』を上梓した。(中略)この度、この本の改訂・増補版が講談社学術文庫に入り、復刊されることになった。
 本改訂・増補版『イエス・キリスト』は――文庫本サイズでは一巻に収めきれないこともあって――上・下二巻より成り、本書はその上巻に当たる。本書には、旧版の第Ⅰ部「イエスとキリスト」と第Ⅲ部「イエス・キリストの生涯」と第Ⅳ部「イエス・キリストと現代」が、それぞれ第Ⅰ部「イエスとキリスト」、第Ⅱ部「福音書のイエス・キリスト」、第Ⅲ部「イエス・キリストと現代」という部立てで編集・統合されている。」
「改訂・増補版」といっても、旧版の内容はもちろん根本的には変えられておらず、なお残っている誤植の訂正、若干のイエスの言葉――とくに譬話――に対する解釈の修正、過去二十余年の間に公にされた文献の増補とそれに対する私見など、最小限に留められている。」



下巻「まえがき」より:

「本書は、本年一月に出版された『イエス・キリスト(上)――三福音書による』の下巻に当る。(中略)本書には元本の第Ⅱ部「イエス・キリストの言葉と業」が改訂・増補の上収録されている。」


上巻に地図1点。
本書は日本の古本屋サイトで最安値(二冊1,200円+送料)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


荒井献 イエスキリスト


上巻 カバー裏文:

「新約聖書にみられる多様なイエス・キリスト像。
そのなかでマルコ、マタイ、ルカは歴史のイエスについての伝承をもとに、どのような視座から福音書を編集し、それぞれ固有のイエス・キリスト像を造型していったのか。本巻はその過程を社会的背景とともに追究。
日本の新約聖書学の第一人者が著したイエス・キリストを理解するための基本的かつ必須の書である。」



下巻 カバー裏文:

「上巻ではマルコ、マタイ、ルカ三福音書の固有のイエス・キリスト像が明らかにされた。
本巻はそれらのキリスト像が造型される元となったイエス伝承にみえるさまざまなキリスト像を精緻に解明。
独自の「文学社会学」の方法で、イエスの実像や福音書のキリスト像を追究する新約聖書の第一人者が、その基礎資料を読み解く注目の書。」



上巻 目次:

まえがき

Ⅰ イエスとキリスト
 1 イエス・キリストとの出会い
 2 イエスとキリスト
 3 イエスからキリストへ
  一 復活のキリスト
  二 信仰告白伝承におけるキリスト
Ⅱ 福音書のイエス・キリスト
 1 イエス伝承と福音書
 2 マルコによるイエス・キリスト
  一 マルコ福音書の構成
  二 イエス・キリスト
 3 マタイによるイエス・キリスト
  一 マタイ福音書の構成
  二 イエス・キリスト
 4 ルカによるイエス・キリスト
  一 著作目的
  二 ルカ福音書の構成
  三 イエス・キリスト
Ⅲ イエス・キリストと現代
 1 「イエス・キリスト」の多様性
 2 イエス・キリストの現代性

参考文献



下巻 目次:

まえがき

はじめに――伝承の様式
Ⅰ 主の言葉
 1 ロギア(または、知恵の言葉)
  (1) 生活上の原則
  (2) 勧告
 2 預言的・黙示的言葉
  (1) 「幸い」の説教
  (2) 威嚇の言葉
  (3) 警告
  (4) 黙示的預言
 3 律法の言葉・教団宗規
  (1) 律法の言葉
  (2) 教団宗規
 4 「私」言葉
  (1) 「私は来た」句
  (2) 「私」に関わる言葉
 5 譬
  (1) 比喩的発現
  (2) 隠喩
  (3) 直喩
  (4) 譬
  (5) 譬話
  (6) 例話
  (7) 寓喩
Ⅱ アポフテグマ
 1 論争
  (1) イエスの治癒行為が誘因となる場合
  (2) イエスあるいは弟子の振舞が誘因となる場合
  (3) 敵対者によって問いかけられる場合
 2 対論
 3 伝記的アポフテグマ
Ⅲ 物語
 1 奇跡物語
  (1) 治癒奇跡
  (2) 自然奇跡
 2 歴史物語と聖伝
  (1) イエスの受洗からエルサレム入城まで
  (2) 受難物語
  (3) 復活物語
  (4) 生誕物語
付論 Q資料

参考文献
索引




◆本書より◆


上巻「まえがき」より:

「本書で筆者は、歴史のイエスが彼に関する諸伝承(イエス伝承)を介し、マルコ、マタイ、ルカの三福音書の中に、それぞれ固有な「イエス・キリスト」として造型されるに至るまでの過程を追跡した(中略)。その際、方法としては従来の編集史と最近の文学社会学とが併用されている。」
「第Ⅰ部では、「イエス」と「キリスト」との関係が、復活信仰を媒介として成立する「信仰告白伝承」(あるいは「キリスト伝承」)との関わりから、示唆的に瞥見される。この部分は本書の序章となろう。
 第Ⅱ部では、イエス伝承(中略)をマルコ、マタイ、ルカが(中略)どのような視座から各福音書の中に編集し、各自に固有なイエス・キリスト像を描き上げたかという問題を、彼らが身を置いた教団とその社会的背景との相関において叙述した。
 第Ⅲ部では、第Ⅰ~Ⅱ部で扱われた限りにおけるイエス・キリストの現代的意味が問われている。」



「Ⅰー3 イエスからキリストへ」より:

「ところで、ナザレのイエスはまさに社会の現実の只中でほかならぬ「罪人」(「地の民」)の地平に立ったのではなかったか。そのようなイエスの振舞が当時の社会構造を突き崩す結果を伴ったゆえにこそ、彼は国家権力により反逆罪に問われて十字架刑に処せられたのである。しかもイエス自身は、信仰告白伝承の担い手やパウロの意味における「共同体」を形成してはいないのである。とすれば、彼らが自分の生をその中に託した「キリストの出来事」は、イエスの十字架に対する神の然りであっても、イエスの生全体に対する神の然りとは必ずしもなっていないとみなさざるをえないであろう。事実、信仰告白伝承に依拠するパウロは少なくとも日常生活において信徒たちに国家権力への服従を勧めているのである(ロマ一三・一以下)。もちろん私は、パウロが(ペテロと同様に)ローマの国家権力の迫害に会って殉教の死を遂げたであろうことを否定するものではない。しかし、彼らが権力に抵抗したのは、それが信仰共同体における「信教の自由」を侵害してくる限りにおいてであって、その他の場合はむしろ日常の現実をそのまま肯定している。」

「イエスとパウロとの決定的相違点は、私見によれば、前者が神を自己相対化の契機として信じたがゆえに、なんの権威にも拠らず、ただひたすらに日常生活を「罪人」(「地の民」)と共有し、そのことが結果として当時の社会構造を突き崩す脅威となったのに対して、後者の場合、キリストを自らの権威として奉じ、信仰によって人間が義とされ一つとなる場を「キリストのからだ」としての教会に限定し、日常生活における社会的矛盾への視野を狭める結果を伴ったということにある。
 こうして、信仰告白伝承の担い手やパウロにとって「キリスト」は、彼らのいわゆる「罪人」を贖い赦すイエスの十字架と復活の出来事に限定されて、そのような死に極まったイエスの生全体、とりわけ「地の民」としての「罪人」の地平に立ち尽したイエスの振舞全体を覆うものではなかったのである。」



「Ⅱ―2 マルコによるイエス・キリスト」より:

「すなわち、受難への道行きを十字架の死に至るまで「人の子」イエスと共にすることなしに、ただ口先だけでなされる「キリスト」告白は、――マルコによれば――イエスによる叱責の対象以外の何ものでもないのである。」

「マルコのイエスが民衆や病人を慈しむ場合と、マタイやルカのイエスが罪人・民衆・病人を慈しむ(あるいは憐れむ)場合とでは、慈しむ対象に関わる姿勢に決定的な差異がある。なぜなら、マタイとルカは、Q資料と共に、取税人や罪人を負的に評価しており(中略)、とりわけマタイは取税人を究極的には教会から追放してもよい「罪人」の代名詞と見ている(中略)からである。マルコには決してそのような意識はない。マルコのイエスは罪人の位置にある。」



下巻「まえがき」より:

「紀元後三〇年頃イエスが十字架上で没した後、最初にマルコが福音書を著したのは六〇年代後半~七〇年代前半においてであった。この間、三、四十年の間、イエスに関する伝承が主として口頭で言い伝えられ、そのうちの一部(とくにイエスの言葉伝承)が文書化されていた(いわゆる「Q資料」の場合)。しかも、これらの伝承あるいは伝承資料は特定の「様式」をもって伝達されたのである。その様式は三つに区別される。
 Ⅰ 主の言葉――単独で言い伝えられたイエスの言葉。
 Ⅱ アポフテグマ――イエスの言葉に中心を置きながらも、その言葉が語られた状況を物語る伝承の一形式。
 Ⅲ 物語――イエスの奇跡行為や生誕・受難・復活など「物語」の様式で言い伝えられた伝承単位。
 いわゆる「様式史的研究」の成果として、イエス伝承は、それを言い伝えた人々がその中で生活した「座」(「生活の座」)によって、「主の言葉」「アポフテグマ」「物語」などにそれぞれ「様式化」されたことが確認されている。その結果、各伝承「様式」の中にそれぞれに固有なイエス像が造型された。
 このような認識のもとに、本書の第Ⅰ部では「主の言葉」の中に、第Ⅱ部では「アポフテグマ」の中に、そして第Ⅲ部では「物語」の中に、これら各様式の中に造型された「イエス・キリスト」像が追跡される。その際、方法としては従来の様式史における「生活の座」を社会的広がりにおいて捉え直した文学社会学が採用されている。」
「なお、本書における考察の対象であるイエス伝承、とりわけその古層から遡行して推定された「歴史のイエス」構築の試みが拙著『イエスとその時代』(中略)である。他方、諸様式をもって言い伝えられたイエス伝承を統合・編集して最初に「福音書」を著したのがマルコであり、このマルコ福音書と――これに収録されていない――イエス語録(いわゆる「Q資料」)を資料として、それぞれ異なる視点から「福音書」を再編したのがマタイとルカであった。これらの三福音書に造型された「イエス・キリスト」像を明示したものが本書の上巻(中略)に当る。それゆえに、本書の内容は、遡って「歴史のイエス」を推定するためにも、降って「三福音書によるイエス・キリスト」を確認するためにも、いずれにも基礎資料となるものである。」







































































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荒井献 『新約聖書の女性観』 (岩波セミナーブックス)

「歴史の皮肉というのでしょうか。キリスト教会は元来ユダヤ人を基盤として成立したものですね。しかし主としてパウロの三回の伝道旅行によって地中海沿岸地域にキリスト教が広まっていき、そこに異邦人を中心として成立した教会が「正統」となっていきました。」
(荒井献 『新約聖書の女性観』 より)


荒井献 
『新約聖書の女性観』
 
岩波セミナーブックス 27

岩波書店
1988年10月24日 第1刷発行
409p 聖書索引3p
四六判 並装 カバー
定価2,500円
装幀: 万膳寛



本書「あとがき」より:

「昨年の十月から十一月にかけて六回(計十二時間)、「新約聖書の女性観」をテーマに、岩波市民セミナーを担当させていただいた。本書は、その時にとったテープを起こした速記録に、私が手を加えてできたものである。もっとも、第十講の「終章――まとめにかえて」は、本書のために新しく書き下ろしたものであり、二つの「付録」は、既刊の拙論のうち、本書第一―九講の中に完全に組み込めなかったものである。」


本書はアマゾンマケプレで最安値のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


荒井献 新約聖書の女性観


目次:

第一講 序章――課題と方法
 1 課題
 2 方法
第二講 イエス伝承の女性観
 1 イエスと女性達
 2 受難・復活物語の女性達
 3 顕現物語の女性達
 4 「父」なる神
 5 「知恵」――神の女性的属性
第三講 マルコ福音書の女性観
 1 女性評価
 2 女性批判
第四講 マタイ福音書の女性観
 1 受難・復活物語の女性達
 2 イエスと女性達
 3 イエスの母マリア
第五講 ルカ福音書の女性観
 1 受難・復活物語の女性達
 2 イエスと女性達
 3 イエスの母マリア
第六講 ヨハネ福音書の女性観
 1 アマリアの女
 2 姦淫の女
 3 ベタニアのマリア
 4 マグダラのマリア
 6 イエスの母マリア
第七講 パウロの女性観
 1 パウロ以前の教会における女性の位置
 2 「男も女もない」
 3 「女のかしらは男である」
 4 「婦人達は教会で黙っていなければならない」
 5 「父」のイメージ
第八講 パウロの名によって書かれた手紙の女性観
 1 ペテロの第一の手紙の場合
 2 第二パウロ書簡の場合
 3 牧会書簡の場合
第九講 「トマスによる福音書」の女性観
 1 ナグ・ハマディ写本と「トマスによる福音書」
 2 「私は彼女を御国へ連れていく」――女性をめぐる「正統」と「異端」
 3 「女性を男性にするために」
 4 「生ける霊となるために」
 5 男性としてのグノーシス者と「女から生れた者」としての非グノーシス者
 6 両性具有の原人神話
 7 「父にして母」
第十講 終章――まとめにかえて
 1 新約聖書の女性観の多様性
 2 女性観の多様性をどうとらえるか

付録1 「姦淫の女」の物語と「正典」の問題
付録2 イエスとマグダラのマリア

参考文献
あとがき

聖書索引




◆本書より◆


「第六講 ヨハネ福音書の女性観」より:

「ヨハネ福音書というのはいったいどういう状況で、どういう人たちによって書かれたのか、これは謎なのです。(中略)ただヨハネが属する共同体、ヨハネが念頭に置いている読者が、ユダヤ教の会堂から追放された人達だということは(中略)推定できます。(中略)この福音書では、信徒相互の「兄弟愛」が特に強調されますが、これは外側からの迫害に対処するために共同体倫理が強化された結果ではないでしょうか。他方、愛敵という思想は、この福音書には全然出てきません。
 そういうところから、ヨハネ共同体は、内でも外でも緊張した関係に置かれていた、比較的小規模な、いわゆるセクトだったのではないかと思えるのです。マタイとかルカはかなり大きな教団を想定してそれぞれの福音書を書いています。それに対してヨハネ福音書の対象は、かなり小規模な、外側からの圧迫に屈しないように自らを励まし続けた、セクト的な集団、キリスト教内部でも分派的な集団であったのではないかと思えます。そういうセクト的な団結が、一方ではユダヤ社会、あるいはローマ社会における男女観というものの浸透を防いだと思われます。そして他方、セクト的な共同体の内部で、お互いに神の前に平等に立って互いに愛し合うという倫理に生きないと生き延びていけないといった事情から、マタイやルカと比較して、ヨハネにおいては比較的に女性が高く評価されるという結果が出てきているのではないか。
 ですから、女性観にしても、やはり各福音書記者の置かれた歴史的な状況、社会的な状況と無関係ではありません。聖書を少なくともそういう状況との関わりにおいて読み取っていかないと、非常にドグマ的な考え方が出てくる危険性があるのではないかと思います。」



「第八講 パウロの名による手紙の女性観」より:

「さらに考慮に入れるべきは、牧会書簡が宛てられている教会がローマ帝国のアジア州(小アジアの西部)にあることです。当時、とりわけこの州の地元高官がローマ帝国の政策に迎合したことで有名でありました。」
「それでは、なぜ女性に対するこのような差別的発言が、ほかならぬ「牧会書簡」、すなわち教会を司牧するための指針を与える手紙に存在するのでしょうか。それは、この書簡の中で新約聖書における教会のいわゆる「家父長制化」が完成したからだ、といえるでありましょう。つまり、当時のヘレニズム・ローマ社会の中で期待されていた家父長制的家族が、「神の家族」としての教会のモデルとされた結果、女性はこのような「家族」の一員として位置づけられることとなった、ということです。」
「こうして監督ないしは長老を「家父長」として戴く「神の家族」としての教会において、女性が男性の下に位置づけられることになります。このような意味で教会が「家父長制化」されてきた外因は、教会の指導者がローマ社会に対してキリスト教を弁明する必要に迫られた事実にあるでしょう。パウロやペテロの第一の手紙の著者、あるいはコロサイ人への手紙の著者が「外の目」を気にしていたこと(中略)は、すでに確認したとおりです。」
「たとえば、テモテへの第一の手紙で見ますと、三章七節です。「さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。」とあります。」
「この牧会書簡の思想の特徴というのは、健全な言葉、あるいは健全な教えです。つまり社会的にいささかも問題の起らないような、という健全で穏健な立場が、この手紙全体の中で主張されております。そして、そうしていれば反対者にも非難されないからというのです。
 テモテへの第一の手紙の六章一節に、「くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。」とありますが、これは端的に奴隷制を肯定しております。(中略)これはローマの一般的な社会倫理のキリスト教的追認です。つまり、キリスト教徒がヘレニズム・ローマ社会に対して何か違和感を与えては困る。だからローマ社会の人倫にふさわしいように、その中に自らを統合することによってキリスト者の徳を完成していきなさい、というのが、この牧会書簡の立場であろうと思います。」
「もちろんそういうふうにしてキリスト教を守らなければならなかった必然性を、私は認めるにやぶさかではありませんけれども、しかし外部の者を気にして、知らず知らずのうちに外部に同化していって、キリスト教それ自体の本質を失うというのは、これは歴史の教えるところです。この牧会書簡において聖書がその第一歩を踏み出しているということです。」



「第九講 「トマスによる福音書」の女性観」より:

「「トマス福音書」の著者は、ユダヤ人キリスト教を背景として伝承されてきたイエスの言葉を、グノーシス主義の立場から編集して一つの福音書をつくりました。ですから、彼が採用した伝承そのものが言おうとしていることと、トマスがグノーシス主義という特定の立場からその伝承を意味づけようとする方向とは、違っている場合があるわけです。」

「いずれにしましても、「トマス福音書」には両性具有の原人神話というものを想定せざるを得なくなるわけでありまして、もしそうだとすれば、「トマス福音書」が想定している、最高の存在としての「父」(中略)は、何らかのかたちで女性的な本質とも関わっていなければならないということになります。つまり「父にして母」という性格がなければならない。」

「正統的教会と比較すれば、疑いもなくグノーシス派のほうに女性を評価する思想と現実があったということは、やはり確認されなければならない、と私は思います。
 そしてこのことは、その後のキリスト教の歴史を通じて言えることです。たとえば中世のグノーシス的「異端」といわれるカタリ派、あるいはボゴミル派においても、正統的教会に比べれば、圧倒的に高く女性が評価されます。このことはおそらく女性が歴史を通じて置かれてきた現実の位置と関係があるだろうと思います。つまり既成の思想とか、既成の社会的なエスタブリッシュメントの中で安住できるのは男性であって、(中略)そういう既成の思想や現実から飛び出るようなセクトができてくると、そこに女性が参加するという事情があったのだろうと思います。
 私は決して思想としてグノーシス主義を高く評価しているわけではありません。特に両性具有の神話はきわめて抽象的・脱歴史的でありますから、そういう形で私は男女平等を唱えているものではありません。私をグノーシス主義者だとは思わないでください。」



「第十講 終章――まとめにかえて」より:

「このように男女の伝統的役割の変更を直接求める記事は、新約聖書に一箇所しかありませんが、しかし若干のイエス伝承においては、ほぼ一貫して男と女は平等に位置づけられておりました。とくにイエスの受難・復活伝承において女達はイエスの十字架と復活の証人として、その場面でイエスを見捨てる男弟子達に対置されるかたちで高く評価されておりました。このような女性の位置づけは、当時の男性社会の中ではじめから差別されていた女性、とりわけその上に心身の障害や病気などで二重に差別されていた女性の位置に自ら立ち尽そうとしたイエスの振舞いの反映であったろうし、またイエスの召命に応じ、家父長制的家族から離脱して、脱社会的集団を形成し、一定の地域に定着しないで「遊行」という生活形態をとったイエス運動の必然であったかもしれません。
 このようなイエス運動における男女の平等な位置づけは、ユダヤ教内革新運動としてパレスチナとその周辺に限られることなく、その後シリア、小アジアからローマにまで拡大されていくキリスト教の、少なくとも最初期の時代にも確認されるのです。」
「しかし他方において、(中略)パウロがよっている、復活のイエスの顕現伝承において、その顕現に与った者は男性に限定されており、しかも彼らのみが「使徒」と呼ばれていくという事実もありました(中略)。つまり時代的に確認できる限り、イエスの死後十年あるいは二十年にして、成立しつつあるキリスト教には、男女平等を読みとれる伝承と男性上位の伝承とが並存していたことになります。
 男女の平等を反映するイエス伝承を受容し、それを固有な視座から編集して最初の福音書を著わしたのが、マルコでありました。彼は男弟子優位の伝承に男女平等のイエス伝承を批判的に対置し、男女の読者に共にイエスの「弟子」たらんことを促しています。
 ところが、このマルコ福音書を資料の一つとして利用しながらも、それ男性優位の立場から手を加え、独自の福音書を著わしたのが、マタイとルカでした。マタイはユダヤ人キリスト者としてイエス伝承をユダヤ社会の家父長制に、ルカは異邦人キリスト者としてイエス伝承をヘレニズム・ローマ社会の家父長制に、それぞれ適合させようとしたものと思われます。
 ヨハネ福音書の場合は、右の三福音書に伝承史的には必ずしもつながらないのですが、ヨハネに固有な伝承を多用することにより、独自な立場から、男女平等な弟子像を提示しております。これは、ユダヤ教から見ても、成立しつつあるキリスト教から見ても、いずれにしても非主流的な場所に自らを置いた、ヨハネ福音書のセクト的性格の反映であった可能性があります。
 パウロの女性観はアンビバレントです。一方において、彼は、彼以前のキリスト教では男女が平等に活躍していたことを知っており、それを元来は反映している「男と女の別もない」という洗礼定式を引用しながら、他方において使徒を男性に限定するイエス顕現伝承を「福音」として引用するにどまらず、「女のかしらは男である」ことを当時のユダヤ教の創世記釈義によって証明しようとさえしております。このようなパウロの立場は、一方において、イエス運動の担い手達と同様に遊行の伝道生活を続けながら、他方において地中海沿岸諸地域に教会共同体を創設し、しかもそれを家父長制的環境世界の中に統合する形で育成しようとした結果のように思われます。
 パウロの女性観の両義性のうち、男性優位の側面を継承し、「家の教会」を「家父長制化」していったのが、パウロの名によって書かれた手紙、すなわち第二パウロ書簡と牧会書簡の場合でありました。そしてこの立場が、初期カトリシズムから正統教会に至る、女性を排除した、教父達による聖職者位階制の確立を方向づけていくことになります。
 もちろん、第二パウロ書簡、とりわけ牧会書簡の著者達が、「神の家族」としての教会において、子は父に、奴隷は主人に、そして妻は夫に、それぞれに服従すべきことを繰り返して勧告しているということは、この勧告に従わない勢力が依然として教会内にあったということの間接的証しとなるでありましょう。その実体は必ずしも明確ではありませんが、(中略)それはグノーシス派、あるいはそれに連なるセクトであったと思われます。実際この派では、女性も男性と共に聖職に就き、洗礼や聖餐などの典礼を執行しております。しかも彼らにとって神的存在は、「母にして父」でありました。」
「以上をまとめると、次のようになるでしょうか。――パウロの女性観の両義性を真ん中に置くと、若干のイエス伝承、マルコによる福音書、ヨハネによる福音書が、それぞれの仕方で男女の平等を志向し、マタイによる福音書、ルカによる福音書、パウロの名によって書かれた手紙が、それぞれの仕方で男性優位化を志向している。後者の志向が貫徹されて正統となり、アンビバレントながらも辛うじて男女平等を保持しようとしたグノーシス派は、(中略)「異端」として排斥されるに至った、ということでありましょう。」

「私は、(中略)若干のイエス伝承、あるいはイエス伝承を編んで最初に福音書を著わしたマルコが志向するところに自らの信仰を重ねております。なぜなら私は、ここに描かれているイエスと彼をめぐる人々(中略)の姿から人間の尊厳に対する最も鋭い感受性を読みとることができるからです。」












































































荒井献 『ユダとは誰か』 (講談社学術文庫)

「しかし禍いだ、〈人の子〉を引き渡すその人は。その人にとっては、生まれて来なかった方がましだったろうに」
(「マルコによる福音書」 より)


荒井献 
『ユダとは誰か
― 原始キリスト教と
『ユダの福音書』
の中のユダ』
 
講談社学術文庫 2329 

講談社
2015年11月10日 第1刷発行
283p
文庫判 並装 カバー
定価960円(税別)
カバーデザイン: 蟹江征治
カバー写真: イグナチオ・ジャコメッティ「イスカリオテのユダの接吻」


「本書の原本は、二〇〇七年五月、岩波書店より刊行されました。」



モノクロ図版54点、部分拡大図10点。図版構成: 石原綱成。
本書はアマゾンマケプレで335円(送料込)で売られていたので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


荒井献 ユダとは誰か 01


カバー裏文:

「キリスト教世界で「裏切り者」「密告者」の汚名を一身に受けてきたユダ。イエスへの裏切りという「負の遺産」はどう読み解くべきなのか。原始キリスト教におけるユダ像の変容を正典四福音書と『ユダの福音書』に追い、初期カトリシズムとの関係から正統的教会にとってのユダと「歴史のユダ」に迫る。イエスの十字架によっても救われない者とは誰か。」


目次:

はじめに
旧約・新約聖書 諸文書略号表
凡例
ユダの共観表

Ⅰ 原始キリスト教とユダ
第一章 イスカリオテのユダ――名称の由来とその意味
第二章 イエスとの再会――マルコ福音書のユダ
第三章 銀貨三十枚の値打ち――マタイ福音書のユダ
第四章 裏切りと神の計画――ルカ文書のユダ
第五章 盗人にして悪魔――ヨハネ福音書のユダ
Ⅱ 使徒教父文書・新約聖書外典と『ユダの福音書』のユダ
第六章 正統と異端の境――使徒教父文書と新約聖書外典のユダ
 1 使徒教父文書におけるユダ
  『ヘルマスの牧者』
  『ポリュカルポスの殉教』
  『パピアスの断片』
 2 新約聖書外典におけるユダ
  『ペトロ行伝』
  『トマス行伝』
  『ヨハネ行伝』
第七章 十三番目のダイモーン――『ユダの福音書』読解
 1 古代教会の証言
 2 『ユダの福音書』の発見、本文の発表・公刊
 3 反異端論者の証言と新発見の『ユダの福音書』
 4 『ユダの福音書』の文学形式と宇宙・人間論
  序 
  「子ども」として
  感謝の祈り、あるいは聖餐式
  イエス、笑う
  「ほかの世代」と「聖なる世代」
  「完全なる人間」
  ユダの告白
  セツ派
  見えざる霊
  アウトゲネース
  ソフィア
  ヤルダバオート
  人間の創造
  星
 5 『ユダの福音書』におけるユダとイエス
  十三番目としてのユダ
  すべての弟子たちを超えるユダ
  ユダの変容?
  イエスの変容
  ユダの「引き渡し」
  表題
  ユダの復権
Ⅲ ユダとは誰か
第八章 歴史の中のユダ
 裏切りの理由
 裏切りの予告
 捕縛
 死
 イエスとの再会
 イエスの十字架はユダを受容した

ユダの図像学 (石原綱成)

あとがき
図版一覧
参考文献



荒井献 ユダとは誰か 02



◆本書より◆


「はじめに」より:

「かなり以前から私は、イエスを「裏切った」と言われるイスカリオテのユダについて気になっていた。新約聖書正典所収の四つの福音書において、ユダの「裏切り」の度合いが異なるだけではなく、それに対するイエスの対応にもかなりの差異が認められるからである。一般的に「裏切る」と訳されるギリシア語の paradidōmi は、もともと「引き渡す」の意味なのである。
 ところが、昨年(二〇〇六年)の四月に新約外典『ユダの福音書』のコプト語本文が英訳と共に公表された。この中で、ユダはイエスの「十二弟子」たちを超える存在であり、ユダはむしろイエスの使命を果たすために彼をユダヤ当局に「引き渡した」と言われている。
 このような四福音書、――『ユダの福音書』を含めれば五福音書――におけるイスカリオテのユダ像の差異はどのように説明されるべきであろうか。そのような差異を超えて、「歴史のユダ」を復元することは可能なのであろうか。諸福音書の著者にとって、ユダとは誰なのか。そして、もともとユダは誰であったのか。
 本書において私は、このような問いに対する応答を試みたい。」



「第六章 正統と異端の境」より:

「『パピアスの断片』」
「アポリナリオス(中略)の(言葉)。ユダは首をくくって死んだのではなく、窒息する以前に下におろされて生きのびた。そして、使徒行伝は、彼はふくれあがり、腹が破裂して、その内臓が流れ出た、と述べている。この点をヨハネの弟子パピアスは、「主の言葉の説明」の中で次のように述べて、一層明瞭に報告している。
 「ユダは不信仰の代表的見本として、この世で生を送った。彼の肉体は大層ふくれあがったので、車が容易に通り抜けるところを、彼は、それもその頭すらも、通り抜けることができないほどであった。彼の目のまぶたは大変はれあがったので、彼は光を全く見ることができず、また医者が器具を使って彼の目を見ることもできないほどであったという。それ(=目)は(彼の身体の)外表からこんなにも深く(おちこんで)いたのである。彼の恥部はあらゆる恥ずべきものよりも不愉快、かつ大きく見えた。そして、それを通して身体中から流れ集まる体液とうじ虫とが、ただ(身体の)必要性によって運び(出され)て、恥ずべき有様(となっていた)。彼は多くの責苦と(罪に対する)むくいと(をうけた)後で、自分自身の地所で死んだといわれる。その土地は(彼の)においのゆえに、今に至るまで荒れていて、人が住まない。また今日に至るまで誰も、鼻を手でふさがないでは、そのところを通りすぎることもできない。彼の肉を通して、地上で、このような流出がおこったのであった」。(佐竹明訳)」
「パピアスの報告はユダの死に関する使徒行伝一章16節以下を基にして拡張・拡大された猟奇的伝説とみて差し支えないであろう。いずれにしても、この報告は二世紀の正統的教会においてユダがどのように位置づけられていたかをみるために絶好の資料となる。」



「第七章 十三番目のダイモーン」より:

「『ユダの福音書』におけるユダ像を、次のようにまとめることができよう。
 成立しつつある二~三世紀の正統的教会において、金銭欲による教会の「裏切り者」「密告者」の元型にまで貶められていたユダ像は、『ユダの福音書』において百八十度逆転され、イエスの「福音」の伝達者として高く評価されている。
 この「逆転」の視座が、キリスト教史上最初・最大の異端と言われるグノーシス派の「グノーシス」にあることは、イエスに対するユダの「告白」を読めば明らかである――「あなたが誰か、どこから来たのか、私は知っています。あなたは不死のアイオーン、(すなわち)バルベーローからやって来ました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません」。
 グノーシス派、とりわけセツ派にとって、イエスは本来的自己の元型で、彼は人間の身体を含む天地万物を造った「創造神」を超える、不可視の至高神によって遣わされ、その本質は至高神の女性的属性の人格的存在(アイオーン)である「バルベーロー」に由来する。このことを「知っている」ユダは、イエスの「十二人」の弟子たちを否定的に超える「十三番目の神霊(ダイモーン)」である。
 イエスはユダに言う、「お前はすべての弟子たちを超える存在になるであろう。なぜなら、お前は真の私(霊魂)を担う人間(肉体)を犠牲にするであろうから」。イエスは、至高神――「バルベーローに由来」する「本来的自己」としての「霊魂」と、創造神に由来する「非本来的自己」としての「肉体」から成っている。ユダはイエスの「肉体」を犠牲にすることによって、「肉体」から「霊魂」を解放し、イエスを人間の元型たらしめるであろう、とイエスによって予告されている。
 このイエスの肉体を犠牲とする行為として、ユダはユダヤ当局から「いくらかの金を受け取り、彼を彼らに引き渡した」。ユダはイエスを「裏切った」のではない。彼はイエスの使命を果たしたのである。
 しかし、このような「逆転」の結果、ユダとイエスとの歴史的関係がグノーシス派によって復元されたとは必ずしも言えないであろう。ユダについて言えば、彼はイエスの弟子の一人であったにもかかわらず、何らかの理由で師を「裏切り」、彼をユダヤ当局に「引き渡した」ことの史実性は否定できない。これは成立しつつあるキリスト教にとって、抹消することのできない「負の遺産」であった。ただし、最古のマルコ福音書では、ユダがイエスを「引き渡」そうとした理由については一切言及されていない。これをユダの「金銭欲」ゆえの「裏切り」とみたのは、マタイ、ルカ、ヨハネの各福音書であり、「サタン」の業とみたのはルカとヨハネであった。ユダの縊死あるいは転落死については、八〇~九〇年代にマタイとルカが証言しているだけである。
 もし、『ユダの福音書』によるユダの「復権」に歴史的意味があるとすれば、正統的教会が自らの罪を負わせ、「スケープゴート」として教会から追放しようとしたユダを、イエスの「愛弟子」として取り戻したという一点にあるのではなかろうか。」



「ユダの図像学」(石原綱成)より:

「サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院のトマスの不信の石浮彫りでは、イエスの右の脇腹に触れるトマスのほかに十一人の弟子がいる。最上段の向って左から二番目の人物がユダである。それは、ニンブスに SANCTVS JVDAS 刻まれていることから判別できる。トマスの不信の場面にユダが居合わせていることが明らかになる。ということは、ユダはガリラヤにおける復活のイエスとの再会から排除されていないことになる。また、イエスを引き渡した後でも SANCTVS (聖なる)の文字がユダに与えらえていることも興味深い。」

「悪役としてのユダのイメージは中世末期からルネサンス期に確立したものであり、それまでは常に典型化された悪しきイメージで描かれてはいない。逆にユダのなした罪を過剰に表現する作例は、むしろ少数派であり、ユダの姿を、福音書のテキストに忠実かつ冷静に従い、再現した作例のほうが圧倒的に多数であると言える。」




















































































荒井献 『新約聖書とグノーシス主義』 

「特にグノーシス主義者は、当時一般的に「負」に評価されていた女性に自らの現実の姿を映し、彼女を「遊女」にまで貶しめた「諸権力」を拒否し、これを悪魔化することにより、自らの救済を、これら「諸権力」の支配下にある宇宙を超えた、充溢(プレーローマ)または叡智(ヌース)の世界に本来的自己の回復に求めたのである。」
(荒井献 「隠喩としてのマグダラのマリア」 より)


荒井献 
『新約聖書と
グノーシス主義』 


岩波書店
1986年1月16日 第1刷発行
xii 492p 
英文目次・人名索引10p
A5判 丸背バクラム装上製本 
機械函
定価8,000円



本書は学術書なので高いのでまだよんでいなかったのですがアマゾンマケプレで函付き最安値(送料込2,292円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


荒井献 新約聖書とグノーシス主義


目次:

まえがき
記号・略号

第Ⅰ部 新約聖書
 一 方法としての文学社会学――イエスと原始キリスト教研究によせて
 二 Q資料におけるイエスの譬の特徴
 三 イエスの諸像と原像――いなくなった羊の譬の伝承史的・編集史的考察
 四 イエスと福音書文学――「放蕩息子の譬話」によせて
 五 理念としての「貧者」――福音書・行伝記者ルカの「罪人」理解をめぐって
 六 ルカにおける「個人倫理」と「共同体倫理」
 七 コリント人への第一の手紙におけるパウロの論敵の思想とグノーシス主義の問題
 八 「十字架の言葉」と「知恵の言葉」

第Ⅱ部 グノーシス主義
 一 ナグ・ハマディ写本と新約聖書
 二 祭儀(クルトゥス)と認識(グノーシス)
 三 隠喩としてのマグダラのマリア――グノーシス主義における女性原理とその系譜をめぐって
 四 シモン派のグノーシス主義と『魂の解明』
 五 『真正な教え』と『雷(ブロンテー)――全き叡智(ヌース)について――シモン派のグノーシス文書?
 六 エイレナイオスとグノーシス主義――その教育思想をめぐって

補遺 ナグ・ハマディ写本――解説・翻訳・訳註
 一 『魂の解明』(ナグ・ハマディ写本Ⅱの6)
 二 『三体のプローテンノイア』(ナグ・ハマディ写本XIIIの1)

初出一覧
人名索引
英文目次(Table of Contents in English)




◆本書より◆


「方法としての文学社会学」より:

「ただ、ここで注意すべきは、当時少なくとも癩者や精神病者に近づくことは、彼らが「罪人」なるが故に法によって禁じられ、彼ら社会から遮断、隔離されていた事実である。この種の病人の治癒奇跡がラビ文献には極めて少ないだけではなく、彼らに対する忌避はヘレニズム世界に広く認められている。従って、彼らの願望(引用者注: 家族・社会への復帰)はそれ自体が当時の社会秩序に対する反逆志向を含むものであり(中略)、ましてやそのような願望に即する仕方で振舞う者は、「瀆神罪」を犯す者として処刑の対象とされたのである。それを敢えて犯す者がいたとすれば、それを最大の願望とする人々には、それこそ「奇跡」的振舞として映ったであろう。福音書におけるイエスの治癒奇跡物語伝承形成の原初には、このような事情があった、と私は想定するものである。」


「Q資料におけるイエスの譬の特徴」より:

「以上いずれもQ資料(引用者注: 福音書家マタイとルカが参照したと推定される現存しない資料)に属する三つの譬において共通しているのは、そこに佐竹(引用者注: 佐竹明)のいわゆる「劣者尊重」(優者批判)の動機が保持されてはいるが、この場合の「劣者」は必ずしも「劣者のままで」尊重されているのではない、ということである。(中略)すなわち、いなくなった羊の譬では「劣者」に正的存在への立ち返りが潜在的にではあるが求められており、(中略)いずれにしても、これらの譬の担い手(Q教団の成員)は、自ら「劣者」の位置に立ってはいない。」
「第一に、Q資料には主として「優者是認のたとえ」が含まれている事実から見ても明らかなように、Q資料の担い手(Q教団の成員)がいわゆる「劣者」の帰属する社会層(ユダヤ社会の下層)とは異なって恐らく小市民層によって代表されていた。しかも彼らは第二に、自らを「律法を厳格に守るべき者」として(中略)理解し、自己と自己の所属する共同体を、イエスによって厳格に解釈された律法の真の成就者たる終末論的「真のイスラエル」とみなしたのである。その結果彼らは第三に、イエスが元来そのもとに立った「取税人」あるいは「罪人」、さらには「異邦人」を、イエスによって徹底化された神の律法としての愛敵の戒めを守り得ない存在として負に評価している(中略)。」
「当然「劣者」は「劣者のままで」尊重されることができず、負的「劣者」にも何らかの形で正的「真のイスラエル」になることが求められることになる。」



「イエスの諸像と原像」より:

「ルカ一五・四
a あなたがたの中に百匹の羊を持つ人がいて、それらの中の一匹を失った。
b その人は九十九匹を荒野に放置しても、それを見つけるまで、いなくなった羊のもとに歩いていかないであろうか。」

「もしルカ一五・四に伝承の最古の層が保存されており、この層にはこれに続く部分がもともとなかったとすれば、この譬の比較点は、失われたものを見つけるまでそのもとに歩みゆく羊飼のひたすらな振舞にある。そして、それは同時にそのような振舞を非難するものに対する厳しい批判を伴うことになる。
 もしこのような私の想定が正しいとすれば、失われたものへと歩みゆく者(引用者注: 「歩みゆく者」に傍点)の像は、(中略)G・タイセンがイエスの言葉伝承の最古の層に文学社会学的に想定した「歩みゆく(引用者注: 「歩みゆく」に傍点)ラディカリズム」(Wanderradikalismus)を担った人々の像と偶然にも一致するのである。(中略)私見によれば、原始キリスト教の最初期においてユダヤ教徒による迫害の対象になったのは、(中略)他ならぬこのラディカリストたちであった。とすれば彼らの振舞にも迫害者たちに対する批判が含まれていたことになる。
 このことをわれわれの譬について見ると、彼らにとって「いなくなった一匹の羊」とは、彼ら自身を含めてイエスの振舞を自らに担い、その結果ユダヤ教徒の迫害にあった、ユダヤ教徒のいわゆる「罪人」の一人であろう。(中略)いずれにしても、このような状況に自らを置いた人々にとって、「九十九」も「一」も彼らが所属する教団内部の事柄ではありえない。これが、私が彼らのグループをイエスの言葉伝承の最初期の担い手として「Q集団」と名づけた所以である。彼らには、いずれにしても教団意識はないのである。
 とすれば、Q集団によって担われた譬(ルカ一五・四)を語るイエスは、「悔改めの宣教者」(ルカ)でも、「教会の司牧者」(マタイ)でも、「魂の救済者」(トマス)でも、「恵みのキリスト」(Q教団)でも必ずしもなく、失われた者と共に歩み、その振舞が批判的行動となった、いわば「批判的同行者」なのである。」

「イエスの原像の史的(引用者注: 「史的」に傍点)復元を試みようとするならば、イエスの出来事の史的核心からすべてが問われなければならない。私見によれば、この核心がイエスの十字架刑に他ならないのである。十字架刑(引用者注: 「十字架刑」に傍点)の史実性は否定できないであろうし、イエス伝承も、(中略)究極的にはこれ(引用者注: 「これ」に傍点)に極まるイエスの振舞のロゴス化であった。他方、この十字架刑に至る道として、イエスが当時社会的(政治的=宗教的)に差別されていた「罪人」と同行したこと、そしてそのような振舞が、この人々を差別することによって自らの社会体制を維持しえたユダヤの議会勢力(大祭司―祭司長たち―長老たち―律法学者たち)とその背後に立つローマの国家権力とを批判する結果を伴ったこともまた、史実として否定できないであろう。」



「ナグ・ハマディ写本と新約聖書」より:

「ナグ・ハマディ文書によって益々明確化されたグノーシス主義の特徴に、いわゆる「女性原理」の問題がある。(中略)これらの中でも注目すべきは、『トマスによる福音書』とりわけ『ピリポによる福音書』におけるマグダラのマリアの位置づけである。彼女は確実にイエスと対(つい)をなす人間の「元型」とみなされており、しかも彼女にはペテロを批判的に超える存在として最高の位置が与えられている。ここからわれわれは、初代の司教「ペテロ」の名によって聖職位階制から女性を締め出した正統教会に対するグノーシス主義による批判をも読みとることができるであろう。更に見過してならぬのは、(中略)「キリスト化」される以前の救済者が元来女性であった可能性のある文書が存在することである(『ヨハネのアポクリュフォン』の場合は「ソフィア」、『三体のプローテンノイア』の場合は「プローテンノイア」)。」


「隠喩としてのマグダラのマリア」より:

「福音書の中でまず目立つのは、当時のユダヤ教ラビの場合と比較して、イエスの場合、彼をめぐる人々の中に女性が異常に多いということである。このことは、イエスが当時のいわゆる男性社会における価値観に抗う仕方で振舞った事実の反映と見てよいであろう。中でも注目すべきは、次のようなイエスの言葉であろう。
  「取税人や遊女は、あなたがたよりも先に神の国に入る」(『マタイによる福音書』二一章三一節)。」
「この場合の「あなたがた」とは、この世の終末に際し自らが先ず「神の国」に入ると自負し、(中略)「取税人や遊女」はそれから排除されるとして、これらの人々を社会的・宗教的差別の対象としていたユダヤの支配者たちを指すと見て、ほぼ間違いないであろう。とすれば、この種のイエスの言葉が、当時のユダヤ社会において、支配者たちに対する批判的逆説として機能したことは、容易に推定されるところである。」
「マルコは一四章以下の受難物語において、(中略)イエスの逮捕と共にペテロをはじめとして弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去ったことを強調している。それに対して女たちは、黙してイエスに仕え、十字架の死に至るまで彼に従った、というのである。(中略)マルコによれば、イエスとの「共苦」に生きたのは、当時のキリスト教界において理想化されつつあったペテロをはじめとする「弟子たち」ではなくて、ベタニアの女、とりわけ名もなき「女たち」であった。」
「トマス福音書との関連で興味深いのは、ヨハネ福音書におけるイエスの復活物語の中でマグダラのマリアに帰されている役割であろう。ヨハネによれば、(中略)イエスの墓から石とりのけられているのを最初に発見したのは一人マグダラのマリアであり、最初に復活のイエスに出会い、イエスから(中略)言葉を受けて、これを弟子たちに報告したのもマグダラのマリア一人であった。
 このような復活のイエスによる啓示の授与者としてのマグダラのマリア像が、その後(中略)『マリアによる福音書』などの外典福音書、『ピスティス・ソフィア』をはじめとするグノーシス文書に拡大受容されていったことは注目に価しよう。この意味でもヨハネ福音書は、正典と外典福音書との、とりわけグノーシス文書との境界に位置づけられてよい。」



「「三体のプローテンノイア」」より:

「――すべての絆を
私はあなたがたのために解いた。そして
下界のダイモーンどもの鎖を私はたち切った。
それは私の成員を縛っており、彼らを妨げているものである。
そして闇の高い壁を
私は破壊した。そして憐みなき者どもの
堅き門を私は壊した。またその閂を
私は粉砕した。同様に、悪しき力と
あなたがたを打つ者と、あなたがたを妨げる者と、
暴政をふるう者と、敵対者と、
王なる者と、真実の敵とを。
これらのすべてを私は私に属する者に、
光の子らなる人々に教えた。
それは、彼らがこれらのすべてを無に帰して、
これらのすべての絆から救われ、
はじめに彼らのために存在した場所に入るためである。
私は、見捨てられた
私の部分(メロス)のために降った最初の者である。」

































































































荒井献 『原始キリスト教とグノーシス主義』

「グノーシス主義は元来、歴史的文脈とは無関係に、いつ、どこででも生起しうる、反宇宙的・二元的実存理解による現存在の解明なのである。」
(荒井献 『原始キリスト教とグノーシス主義』 より)


荒井献 
『原始キリスト教とグノーシス主義』


岩波書店
1971年9月25日 第1刷発行
1990年11月5日 第8刷発行
xvi 402p 
A5判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価3,800円(本体3,689円)



本書「序」より:

「本書は、既刊の拙著 Die Christologie des Evangelium Veritatis. Eine religionsgeschichtliche Untersuchung, Leiden 1964 の原稿脱稿(1963年)以後、1971年1月に至るまでの間に、わが国において、元来単独の形で公刊された19の論文から成り立っている。その意味で、本書はいわゆる論文集に過ぎない。しかし、われわれは各論文を本書の統一テーマに従って配列しただけではなく、それらに新しく手を加え、更に未発表の二つの論文を付加することによって、本書全体に一貫性を持たせたつもりである。」


横組み左開きです。


荒井献 原始キリスト教とグノーシス主義 01


目次:

はしがき
記号
略号
序: 本書の課題と構成

第Ⅰ部 原始キリスト教
 1 原始キリスト教の成立
  (1) 後期ユダヤ教
  (2) パレスチナ教団の成立
  (3) ヘレニズム教団の成立
  (4) 地域教会の成立
  (5) 初期カトリシズムの成立へ――結論にかえて
 2 エルサレム原始教団におけるいわゆる財産の共有制について
 3 エルサレム原始教団におけるいわゆる「ヘブライオイ」と「ヘレーニスタイ」の問題をめぐって――使徒行伝6章1―6節に関する教会史的考察
 4 義人ヤコブの殉教に関する新資料について
 5 原始キリスト教における教育思想の展開

第Ⅱ部 グノーシス主義
 第1章 いわゆる「グノーシス」とその発展
  1 反異端論者の「グノーシス」観――エイレナイオスの場合を中心として
  2 「魔術師」シモンとその伝承について
  3 バルベロ・グノーシス派とオフィス派について
  4 ヴァレンティノスの教説
  5 プトレマイオス派のグノーシス神話――その展開と構造
 第2章 ナグ・ハマディ文書のグノーシス主義
  1 ナグ・ハマディ文書の発見とグノーシス主義研究史上におけるその意義
  2 『アダムの黙示録』におけるフォーステール
  3 『ヨハネのアポクリュフォン』におけるソフィア・キリスト論
  4 いわゆる『この世の起源について』における創造と無知
  5 古代教会の伝承における使徒トマス――その宣教と神学
  6 『トマスによる福音書』――特に福音書正典との関係について
  7 『トマスによる福音書』におけるイエス
  8 『ピリポによる福音書』におけるイエス・キリスト
  9 『真理の福音』におけるキリスト論
 第3章 グノーシス主義の問題点
  1 グノーシス主義のイエス理解――いわゆる「グノーシス救済者神話」批判
  2 グノーシス主義の本質と起源について

引用文献
英文要約(Summary in English)
付記



荒井献 原始キリスト教とグノーシス主義 02



◆本書より◆


「グノーシス主義の本質と起源について」より:

「とにかく、動機史的方法が特定の宗教史的モチーフを史的に遡って説明しようとする限り、それは一種の regressus in infinitum のアポリアに陥らざるをえないであろう。」

「この意味で、ヨナス(H. Jonas)がグノーシス主義研究に導入した「実存論的」(existenzial)方法は、いままでの方法の持つアポリアを越えるものである。ヨナスは、グノーシス主義を、その内側からではなく、外側からとらえることに満足しない。彼によれば、グノーシス主義は決して単なる宗教混交現象ではなく、古代末期に固有な「反宇宙的」(akosmisch)「現存在の姿勢と、それに担われた根元的存在の説明」(Daseinshaltung und eine von dieser her getragene ursprüngliche Seinsdeutung)である。しかし、このようなヨナスによるグノーシス主義の実存論的解釈は、決してグノーシス主義の成立に関する既存の方法を排除するものではない。現にヨナス自身、グノーシス的 Daseinshaltung 成立の背景に、社会的「危機」に由来する人間の「不安」と「自己疎外」を想定しており、また、動機史的には明らかに「オリエント」の陣営に身を寄せているからである。」

「いずれにしても、われわれは現在、グノーシス主義に関する実存論的研究の成果を高く評価しなければならない。特に、それはたとえばビアンキ(U. Bianchi)による今日の宗教史的、なかんずく比較宗教学的研究の成果によっても支持されるからである。つまり、ビアンキによれば、グノーシス主義は、いつ、どこででも、お互いに史的な関係なしに自己を主張できる、反宇宙的・二元的 Geisteshaltung に基づく宗教思想運動であり、その意味でこれは、他の宗教思想から動機史的に導入できない、特定の実存理解なのである。シュンケが、「グノーシスはもともと導入できない」と言うとき、この場合の「グノーシス」とは、グノーシス主義に固有な実存理解のことを指しているのであろう。
 しかし、ここでわれわれが注意しなければならないことは、グノーシス的 Geisteshaltung または Daseinshaltung が、それだけでグノーシス主義の全体を覆うものではないということであろう。それは、ヨナスが言うように、Daseinshaltung と、それによって担われた Seinsdeutung をも含むのである。そしてグノーシス主義者が、彼に固有な Daseinshaltung によってその Sein を deuten するとき、その客観化としての Seinsdeutung に当然用いられる宗教的諸モチーフは史的に導入できる、否、歴史家にとって、それは導入されなければならぬのである。ここで、あの動機史的方法が新しくその意味を持ってくるであろう。」

「さて、このような性格を持つグノーシス的 Daseinshaltung が、ユダヤ教―キリスト教という歴史的文脈の中で自己を客観化して、一つの歴史的形体としてのいわゆるキリスト教的グノーシス主義を成立せしめるとき、われわれはその中に、その本質を形成すると思われる三つのモチーフを確認できるのである。
 その第一は、究極的存在と人間の本来的自己がその本質において一つであるという認識(グノーシス)に救済を見出すという、救済的自己認識のモチーフである。人間がどこから来て、どこへ行くか、人間の本来的自己は何か、という問いへの答が、グノーシス主義におけるいわば「福音」である。そしてこの福音は、ナグ・ハマディ文書全体に共通する根本モチーフであるが、これは、なかんずくいわゆる『真理の福音』の主題を形成する。」
「ここでは明らかに、人間の起源と目的、つまり本来的自己を「認識する」(saune=γινώσκειν)ことが、「自己自身」(ûaleef=έαυτός)に帰ること、「自己に属するもの」(ïnnetenûf=τά ἑαυτοῦ)を回復すること、すなわち、人間の救済であることが告知されている。」

「さて、ここで人間の本来的自己の認識が救済であるとみなされている限り、救済さるべき人間の現実は、非本来的倒錯状況にあることが前提されている。つまりここには、本来的自己と非本来的自己という二元的人間観が前提されているのである。ここから当然、もし本来的自己が究極的存在に直接由来するとすれば、非本来的自己は何に由来したのであろうか、という問が起こってくるであろう。それは、宇宙そのものの創造者に由来する。そして、この創造者は究極的存在に対して敵対関係に立つのである。ここにわれわれは、グノーシス主義の本質を形成する第二のモチーフとして、反宇宙的二元論をあげることができるであろう。」
「しかし、『真理の福音』の主題は、このような人間観に即応する宇宙論そのものではない。従って、われわれはそれをむしろ、人間論・宇宙論をテーマとする『ヨハネのアポクリュフォン』の中に確かめるべきであろう。」
「究極的存在(父)の末端(ソフィア)が「無知」によって degradieren した結果、創造神(ヤルダバオト)が生じる。人間の魂(ψυχή)とからだ(σώμα)はこの創造神と彼に属する「諸力」(δυνάμεις)または「アルコーンたち」に由来するが、その「霊」(πνεύμα)は究極的存在に遡源する。つまり、人間は霊・魂・からだという三つの実体から成立しているが、現実には創造神とそれによって遣わされた「模倣の霊」(άντίµιµον-πνεύµα)の支配下にあって、本来的自己(霊)の由来と目的に関して無知になっている。究極的存在はその女性的属性である πνεύµα、ἐπίνοια、なかんずくソフィアを人間に遣わして、人間を救済する認識をもたらす――。ここにわれわれは、父とヤルダバオト、霊と模倣の霊、霊とからだという、二元論的宇宙論・人間論を確認できるであろう。」

「以上要約すれば、グノーシス主義はそれに固有な Daseinshaltung に基づく創作神話を伴うが、その本質は次のような三つのモチーフによって形成されている。(1)究極的存在と人間の本来的自己は本質において一つであるという救済の認識。(2)その前提としての反宇宙的二元論。(3)その結果として要請される、「自己」の啓示者または救済者。」

「以上の考察から、グノーシス主義の起源に関してわれわれは次のような結論を導き出すことができるであろう。グノーシス主義の本質を形成する第一のモチーフの素材はプラトニズムに、第二、第三のモチーフの素材はユダヤ教に遡源される。この二つの素材が出会いえたのは、ヘレニズム・ユダヤ教の領域において――ヨナスと共に注意深く言えば、「ユダヤ教に隣接し、それに自己をさらしている領域において(in a zone of proximity and exposure to Judaism)」――であろう。この領域において――おそらく社会的・心理的原因に誘発されて――反宇宙的・グノーシス的 Daseinshaltung が突発した。人々はこれによって、この領域に属するテクストを解釈して、彼らに固有なグノーシス主義を形成した。その時期がキリスト教成立以前であったか否かを正確に確かめることはできないが、しかし、グノーシス主義は少なくともキリスト教とは無関係に成立した。ナグ・ハマディ文書で見る限り、その成立地はエジプトであろう。そして、それがキリスト教と接触し、それに固有な救済者(たとえば「ソフィア」)を「キリスト」化することによって、いわゆるキリスト教グノーシス主義が成立したのである。」



























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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