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増田義郎 『太陽と月の神殿』 (中公文庫)

「旧大陸の人間にとってはたいした病気でもない麻疹やインフルエンザが、抵抗力を持たないアメリカ大陸の原住民のあいだにひろまったとき、どんなにおそろしい事態がおこったかは、一六世紀スペイン人の記録にまざまざと記されている。」
(増田義郎 『太陽と月の神殿』 より)


増田義郎 
『太陽と月の神殿
― 古代アメリカ文明の
発見』
 
中公文庫 ま-4-3 


中央公論社 
1990年5月25日 印刷
1990年6月10日 発行
440p 付記1p 口絵(カラー)1葉
文庫判 並装 カバー
定価680円(本体660円)
カバー: 表 チチェン・イツァの戦士の神殿/裏 オルメカの石頭像(ラ・ベンタ)


「本書は『太陽と月の神殿/新大陸』(「沈黙の世界史 12」 一九六九年一〇月、新潮社刊)を増補したものです。」



本文中に図版(モノクロ)125点、地図25点、表13点。



増田義郎 太陽と月の神殿 01



カバー裏文:

「一六世紀のスペイン人征服者の侵入による社会変動のなかでも生きつづけた新大陸の原住民文化。メキシコからペルーにかけて、神殿を核に、文明形成をはたしたアステカ、マヤ、インカなどの巨大文明の謎を解明し、滅亡した民族の悲劇を語りつつ、考古学における発見の魅力とその歴史的真実に迫る。」


目次:

Ⅰ プロローグ
 政治的に生きる
  最初のアメリカ移住者
  パタゴニアの巨人
  火の国の住民
  火の国の住民の祖先
  移住の速度
  自然と政治
 アダムの形成
  アダムの風貌
  バーゼルの説
  どんな道を通ったか
  ベーリンジアから南へ
 言語年代学は語る
  言語の変化と年代
  基本語は変らない
  新大陸言語への適用
  五つの大語族
 マンモスを追って
  狩猟者の時代
  微妙な変化
  植物に注目する
 一粒のトウモロコシから
  トウモロコシの起源
  タマウリーパスの調査
  植物栽培の時代
  「乾いた洞穴」をさがす
  テワカン計画の成功
 はじめに神殿ありき
  最初の農村
  神殿の発生
  土器の起源
  南アメリカのトウモロコシ
  コトシュの発掘
  異様な建物
  神殿は農耕発生より早かった
  メキシコとペルーの関連

Ⅱ 発見された都市文明
 神殿と文明
  なぜ神殿は文明を生むか
  神殿の機能
  都市文明の成立
 聖都テオティワカン
  新大陸の都市
  平和の都テオティワカン
  規模の大きさ
  テオティワカンの諸階級
 マヤ地域への侵入
  メソアメリカ
  マヤ遺跡カミナルフユ
  マヤ地帯のテオティワカン文化
  ケツァルパパロトルの宮殿
  亡命者マヤ地帯へ?
 メキシコのヒクソス
  侵入する狩猟民
  チチメカの破壊
  トルテカ人の興隆
  トルテカ王国の軍事的性格
  王国の内紛
 古典マヤ文化の終焉
  密林に花咲く文化
  マヤに憑かれた人々
  学問的調査のはじまり
  古典マヤ文化の栄光
  マヤ文化におけるトルテカの要素
  メキシコとマヤ
 ククルカン王とはだれか
  古い記録
  ククルカン王の登場
  イツァ族の興亡
 新しい征服説
  古典マヤ滅亡の原因
  オレンジ色の土器
  メキシコ文化侵入の仮説
  征服とマヤ文化
 アマディスの都
  トルテカの末裔
  チチメカの文明化
  アステカ族の登場
  白い征服者
  夢幻の都

Ⅲ マヤ文字の解読
 最古の文字
  マヤの文字とは?
  暦の表記の解読
  オルメカの暦
  古典マヤ文化の日付
  モンテ・アルバンの文字
  最古のマヤの日付
  古典マヤの石碑
 マヤ文字とはなにか
  マヤ文字の解読
  絵文字と判じ絵
  マヤの表音文字
 「黒い石」の解読
  八つの町の紋章
  石碑は王朝の歴史を表わす!
  タティアナの推理
  ある王の年代記
 マヤ記念碑の性格
  ふたりのハグアル王
  鳥ハグアル王の征服
  諸王朝の関係

Ⅳ アンデス古代帝国の没落
 発見
  南の海のかなた
  ある文明の発見
  本格的な探検
  トゥンベスへ
  高原の都をめざして
 征服
  カハマルカ
  インカの敗北
  皇帝の処刑
  首都クスコ
 マンコの反乱
  マンコの即位
  太陽神殿
  マンコの反乱
  オリャンタイタンボ城の攻防
 征服者の死闘
  アルマグロとインカ
  征服者の決戦
 秘境の新インカ帝国
  マンコの死
  サイリ・トゥパック帝
  最後のインカ皇帝
 三五〇年ののちに
  ビルカバンバの探検
  ビンガム探検に乗出す
  チョッケキラウに着く
 マチュ・ピチュの発見
  ウルバンバに注目する
  オリャンタイタンボの奥に
  大遺跡の発見
 クシの都
  さらに遺跡を求めて
  明るみに出る遺跡群
  エスピリトゥバンバ
  間道をさがす
  マチュ・ピチュの謎

Ⅴ インカ帝国は実在したか
 ヨーロッパ人のインカ観
  問題の再考
  インカ・ガルシラーソ
  ユートピアと高貴な蛮人
  ニュー・イングランドの文人
  プレスコットの後継者
  マーカムの後継者
 神権的社会主義帝国
  インカの土地制度
  政治組織
  人口の再編成
  社会政策
  神権的社会主義帝国
 インカ帝国は存在しなかった?
  難問
  野蛮・未開・文明
  国家の成立
  アステカ帝国の否定
  クノーの学説
  インカ帝国は存在しなかった
 考古学上の証拠
  インカの遺物
  インカの土器のホライズン
  建造物
  インカリャクタ
  文書の傍証
  文化と政治は別
 史料の新しい解釈
  征服期の記録
  征服者の見たペルー
  地域差の問題
  「選ばれた処女」の館
  アクリャコーナ制の意味
  古典的記録者の限界
 三つの水平面
  チャビン文化の水平面
  地方文化の開花
  第二の水平面
  ホライズンの意味
 遺跡と文書の発掘
  新しい史料
  高原地方へのインカの拡大
  南海岸とインカ
  チンチャの社会
  考古学の物語るところ
  微妙な差異
  ティティカカ地方
  インカの征服
  北海岸の独自性
  インカ帝国の性格

核アメリカ文化編年表
参考文献

文庫版あとがき




増田義郎 太陽と月の神殿 02



◆本書より◆


「Ⅱ 発見された都市文明」より:

「テオティワカンは聖都であった。純粋に宗教的な目的に捧げられて作られた、巨大な神殿都市だった。その名前そのものが町の性質をよく表わしていた――テオテイワカンとは「神の家」の意味である。征服者のスペイン人たちが、メキシコ中央高原に侵入したときには、すでに荒れはてた廃墟となっていたこの大都市のはじまりは、遠く紀元前の時代にまでさかのぼる。」
「テオティワカンが神々のつどう場所であったことは、その廃墟の壁画や土器のおもての絵に描き残された多くの神体の図からもあきらかである。たとえば、トラロックという雨の神がいたが、その配偶者の水の神とともに、平和な農耕民にはなくてはならぬ存在であった。また、太陽、太陰の神もいたし、のち、ケツァルコアトルの名で呼ばれるようになった、羽毛のはえた蛇の神もいた。蛇神は、世界の多くの神話において、水と関係の深い神であるが、メキシコの神話では、蝶と蛇を生贄(いけにえ)に捧げることを要求する文化神だった。注目されるのは、のちのアステカ、トルテカ期に見られるような、人間の犠牲を求める血なまぐさい軍神がいなかったことである。」
「都の中央には死者の大通りと呼ばれる幅約五五メートルの広い道が南北に三キロメートル半にわたってまっすぐ走り、その北端には月のピラミッドが立つ。それよりも大きな太陽のピラミッドは、通りの東側に立ち、その南には城砦(シウダデーラ)という名の整然たる建物群がある。そして、それらをめぐって、数多くの宮殿、住居址が町の領域内に見出され、ほぼ長方形をなすその全体は、約一六平方キロメートルの面積がある。太陽のピラミッドは、底辺の面積が二一〇メートル平方で、高さが六八メートルだから、総体積はエジプトのファラオのピラミッドより大きい。」
「月のピラミッドはやや小さいが、基底面積は約一五〇×一二〇メートル、高さは四二メートルある。構造は太陽のピラミッドと似ていて五層の基壇より成り、そのうえに木造の神殿が立っていたものらしい。メキシコにおいては、エジプトとちがって、ピラミッドは、頂上に神殿をのせる基壇だったのである。だから、月のピラミッドでも、太陽のピラミッドでも、頂上には十分な空間が取られている。」

「一六世紀に、征服者スペイン人がユカタン半島のマヤの社会に侵入したとき、彼らはマヤ人の「邪教」を厳しく取りしまって、キリスト教への改宗を強要した。マヤの神官、暦学者、「偶像」崇拝者たちは弾圧され、はなはだしい場合には火刑に処せられた。教会の聖職者たちは、あらゆる「邪教」のしるしを探したが、彼らは、マヤの神官たちが、屏風(びょうぶ)折りの奇妙な絵本を所蔵しているのに気がついた。よく調べてみると、それらは、マヤの宇宙観や、神話や、暦法、天文学などについて記した絵文書(コディセ)であることがわかった。本の材料は、なめした動物(主に鹿)の皮か、アマトルという植物から作った紙で、その上に多色の絵具で、絵や符号や文字が描いてあった。数限りなく発見されたこれらの絵文書は、もし現在まで保存されていたら、マヤ文化研究のため、このうえない貴重な資料となったろう。しかし、残念なことに一六世紀なかばに、ひとりのカトリック神父が、ユカタン半島のマニの町に集まっていた絵文書類を、邪教の書としてひとところにまとめ、焼いてしまった。
 この神父の名はディエゴ・デ・ランダ。一五四九年、ユカタンのイサマルの修道院にスペインから赴任してきたフランシスコ会の修道士だった。彼は異端裁判の精神に燃え、マヤ人の宗教の撲滅(ぼくめつ)のためにひたむきな努力をはらったが、おかしなことに、そのくせ彼は、マヤ人の宗教、言語、歴史、習俗などについて詳細な調査をおこない、マヤの神官の子などを助手に使って材料を集めた。そして、一五六六年ごろから、それらの材料にもとづいて執筆を開始し、同時代のスペイン人の歴史家の書なども参照して、『ユカタン事物記』という本を書きあげた。皮肉なことに、マヤ文明の破壊者が残したこの本が、今日われわれが持つマヤ文化についてのもっとも重要な資料なのである。そのなかには、チチェン・イツァやトルテカ=マヤの歴史伝承も書きこまれている。
 つぎに、ユカタン半島北部で、スペインの教会人たちが、原住民にアルファベットを教え、マヤ語をローマ字化して書き綴らせた伝承、神話、宗教、歴史などの諸記録がある。教会の人々は、もちろん、布教の参考にするためにこれらの資料を集めたのだが、マヤ古来の重要な諸事実が記録されるにいたった。これらの記録は、一括して『チラム・バラムの書』と呼ばれ、それぞれが作られた場所の地名を付して、『マニのチラム・バラムの書』とか『チュマエルのチラム・バラムの書』とかいうふうに呼ばれる。チラム(またはチラン)とは、マヤの予言者的神官のことであり、バラムとは、文字どおりにはハグアルのことだが、神秘なもの、謎(なぞ)めいたもの、ていどの意味である。だから、チラム・バラムの書、とは、「神秘な、秘密のことがらに関する予言者の書」という意味なのである。」
「一方、グァテマラ高原のカクチケル族やキチェ族のマヤ記録も残っている。前者については、『カクチケルの年譜』という記録がある。カクチケル語で書かれ、宇宙観、神話、宗教よりも歴史にくわしい。キチェ語の記録としては、有名な『ポポル・ヴフ』がある。一五五七年ごろ、ディエゴ・レイノーソというマヤ人によって書かれたというが、グァテマラ高地のマヤ族の起源神話、歴史などにかんして告げるところが多い。」



「Ⅲ マヤ文字の解読」より:

「もし絵文字の表音的側面だけを強調してゆくと、絵の元来の意味を無視して、音の表現だけを重視するような文字体系ができあがる。たとえば、日本語のしけん(試験)という言葉を表わすのに、剣を四本描いて表わすようなやり方である。これは、週刊誌のパズルなどでよく見かける。いくぶんふざけた表音法だが、英語などでも、リーバス rebus (判じ絵)といってよくおこなわれるものである。たとえば、蜜蜂(bee)の絵と 4 (four)の字を組み合わせて、before (前)の発音を表わしたり、猫(cat)の絵の下に丸太(log)の絵を書いてカタログ(catalog)の音を表わしたりするのである。」


増田義郎 太陽と月の神殿 03


「この判じ絵式表音法は、メソアメリカでも、アステカやミシュテカなどの部族などがおこなっていた。(中略)たとえば上右図はチマルパンという地名を表わす文字である。なぜなら、絵全体は楯(チマル)を表わし、そのなかの旗(パントリ)によって、パンという音を表わしているからである。また、左の図はカモトランという地名を表わす。図全体はサツマイモ(カモテ)を表わし、その右に突き出たものは歯(トラントリ)の表示で、トランという音を表現しているのである。」


増田義郎 太陽と月の神殿 04


「ひとつの注目すべき事実は、音節文字と表意文字(絵文字)のどれを使っても同一の事物を表現できる、というマヤ文字の特性である。
 たとえば、貴族、首長を意味するアハウ ahaw ということばがある。これは、貴族のしるしである頭飾りの帯を巻いた人の横顔によってあらわすこともできるし(上図左)、a, ha, wa という三つの音節を示す記号の組み合せによってもあらわせる(上図右)。この場合、前者が漢字で後者がカナのようなもの、と言うこともできよう。
 おもしろいことに、この両者を組み合わせることもある。たとえば、楯(たて)を意味するパカル pakal は表意文字と音節文字であらわせることがわかっているが、図のように両者を組み合わせ、いわば漢字に振りガナのような表記をするのである。」









こちらもご参照ください:

増田義郎 『古代アステカ王国』 (中公新書)
『ポポル・ヴフ』 A・レシーノス 原訳/林屋永吉 訳 (中公文庫)









































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増田義郎 『古代アステカ王国』 (中公新書)

「コルテスとモンテスマの出会いは、根本的に異質な、ふたつの文化の運命的な出会いだったのだ。」
(増田義郎 『古代アステカ王国』 より)


増田義郎 
『古代アステカ王国
― 征服された
黄金の国』
 
中公新書 6 


中央公論社 
1963年1月18日 初版
1988年12月30日 40版
iii 238p 
新書判 並装 カバー
定価560円(本体544円)
装幀: 白井晟一



カバーそで文:

「太陽神と黄金の平和郷アステカ王国(現メキシコ)は独特の文化をもち豊かな生活を営んでいた。しかしその平和はスペイン人の侵入によってあえなく崩れ去った。恐るべき宇宙観をもち、湖上に浮ぶ壮麗な首都の大ピラミッドでは毎日多くの人たちが犠牲に捧げられていた不思議な国である。この王国にいどんだスペイン人たちの冒険と王国のはげしい抵抗と滅亡の歴史を、スペイン語の原史料と現地踏査によって鮮明に描き出す。」


図版(モノクロ)67点、地図13点。



増田義郎 古代アステカ王国



目次:

黄金国を求める者たち
 コロンブスの見出したもの
 騎士道小説に憑かれた人たち
 不死の泉を求めて
 キューバの征服
 コルドバの探検
 マヤ神殿の儀式
 最初の接触

征服者コルテスの登場
 運命の人
 征服への出発
 最初の戦い
 謎の女マリンチェ
 モンテスマ王の使者
 根拠地の建設
 センポアラの太った領主
 高原にむかって出発する

姿をあらわしたアステカ王国
 モンテスマ王の苦悶
 テソソモクの記録
 アステカ族の歴史
 恐怖の宇宙観
 羽毛ある蛇の神
 使者の報告

夢の都テノチティトラン
 トラスカラにむかって
 トラスカラ軍の降伏
 羽毛の蛇の神の都
 大虐殺
 湖の上の夢幻境
 コルテスとモンテスマの出会い

コルテスの決断
 首都を見学する
 クーデター
 捕われのモンテスマ王
 モンテスマの黄金
 反乱のきざし

悲しき夜
 ベラスケスの復讐
 夜襲
 アステカ人の怒り
 モンテスマの死
 悲しき夜
 オトゥンバの奇蹟

英雄の敗北と死
 反攻の準備
 テスココ市にむかう
 攻撃開始
 最後の抵抗
 英雄の敗北と死

古代メキシコの諸文化について
メキシコ古文化図解
年表

あとがき




◆本書より◆


「姿をあらわしたアステカ王国」より:

「ベラ・クルスのはるか西方の高原に、ポポカテペトルとイスタシワトルという美しい火山が、頭に雪をいただいてそびえている。そのかなたのひろい盆地に、テスココと呼ばれる大きな湖がひろがっているが、その水上に浮かぶひとつの島に、アステカ王国の首都テノチティトランはあった。
 その首都のまん中にある壮麗な王宮で、モンテスマ王はここ数ヵ月間、どうしようもない憂悶のとりこになっていた。われわれがいままでの物語に参照してきたのは、みなスペイン側の記録だが、それによれば、モンテスマ王はメキシコ湾地方にまで絶大な権力をもって君臨する偉大な王で、信じられないほどの財宝をかかえて、高原のかなたの謎の土地に、安泰な毎日を送っているように見えた。しかし、われわれは、もう片一方に、インディオの側の記録をたくさん持っていて、それらの語るところは、ぜんぜんそれとはことなっているのだ。
 たとえば、今日、『コディセ・フロレンティーノ』という名で知られているインデイオの古記録によれば、スペイン人の渡来する前に、八つの不吉な前兆があらわれたという。
 「スペイン人がはじめてやってきた時より十年前に」と十六世紀のその古記録は語りはじめる。「悪い前兆が空にあらわれた。それは燃えるトウモロコシの穂か、のろしか、夜明けの日の光に似ていた。それは空が傷ついたかのように、一滴一滴火の血がしたたり落ちてくるような感じだった。それは下が広く、上が狭く、天のまん真中で輝いていた。そのあらわれ方は次のようだった。真夜中に、それは東の空で燃えていた。それは深夜にあらわれ、夜明けまで燃えたが、日の出とともに消えるのだった。そのあらわれていた期間は、“十二の家の月”に始まって、一年間だった。それがはじめてあらわれたとき、大きな叫び声と混乱がまきおこった。人々は口にしっかりと手をあてがい、おどろき、おそれ、いったいこれはなにを意味するものかと自問した」
 次に、第二の悪兆についてはこう書いてある。
 「ウイツィロポチトリ(太陽と戦いの神)の神殿が、焰にどっと包まれた。人々の意見では、だれも放火した者はなく、ひとりでに燃えおちたとのことだった。この聖域の名はトラカテカンであった。ああそれは目の前で燃えている! その木の柱が燃えている! 焰が、火の舌が、吹き出し、その火の柱が天までとどかんばかりだ! 焰はまたたく間に、神殿の木造部を焼きつくした。火が最初見つけられたとき、人々は叫んだ、『メキシコ人よ、走ってこい! 火は消せる! 水がめを持ってこい!』しかし焰に水をかけたとき、火の手は上るばかりだった。消すことは不可能だった。そして神殿は地に燃えおちた」
 中でもうす気味わるいのは、第六の凶兆である。
 「人々は、夜な夜な女の泣き声を聞いた。その女は真夜中に道をかよって泣きわめき、大声で叫ぶ、『子供たち、この都から逃げ出さなくてはいけません!』またこうも叫んだ、『子供たちよ、わたしはお前たちをどこに連れて行ったらいいのだ?』」
 第七の凶兆は不思議な鳥についてであった。
 「ふしぎな生きものが、網にとらえられた。湖ですなどりする漁夫たちが、灰色の、鶴に似た鳥をつかまえた。彼らは黒の家にいるモテクソーマ(モンテスマ)のところに、それを持って行った。この鳥は、頭の冠に、ふしぎな鏡をもっていた。鏡は、真中で、紡錘車のように穴があき、そこをのぞきこむと、夜の空が見えた。時は正午だった。しかし星やママルウアストリ(雄牛座の三つの星)がその鏡のおもてに見えた。モテクソーマは、それらの星々を見て、ひじょうに悪い兆(きざし)と考えた。ところが、二度目に鏡を見たとき、遠くの平原が見えた。人間たちがそれを横切って動きつつあった。隊伍を組み、たいへんな急ぎ足だ。おたがいに戦い合い、鹿に似た動物の背にまたがっている。モテクソーマは、魔法使や賢者たちを呼び、質問した。『私の見たものを、どう説明するか? 人間のような生き物が、走り、戦っている』だが彼らが答えるために鏡をのぞきこんだとき、映像はすべて消えて、なにも見えなかった」
 最後は第八の凶兆である。
 「怪物が都の大路にあらわれた。からだがひとつで頭がふたつの片輪ものが。人々は、黒の家に連れていって、モテクソーマに見せた。だが彼がそれを見た瞬間、消えうせてしまった」
 これらの兆は、不吉なものとして、モンテスマの心をおもくした。なにか不吉な出来事が、滅亡と没落の運命が、彼の目の前に迫りつつあるのではなかろうか。
 ある日、この不吉な予感を、いやが上にもあおりたてるようなおそろしい出来事がおこった。ひげのはえた白い人間たちが、東の海岸にやってきたというのである。」

「密使の報告を聞いて、モンテスマ王がすっかり意気銷沈(しょうちん)したのには、ふかいわけがあった。」

「アステカは、太陽の民だった。太陽こそ彼らの信仰の中心だった。なぜなら太陽は、宇宙の暗黒を照らし、夜と死と悪の恐怖から人類を救ってくれるものだったからだ。だが、太陽への熱烈な讃歌は、彼らの暗黒と虚無に対する底知れぬ恐怖とうらはらになっていた。根本的にいって、宇宙とは、アステカにとって、破壊力と無慈悲さの支配する恐怖の場所だった。」
「アステカ人は考えた。――太陽は、夜の闇の中の無数の星とたたかっている。その星の数のようにたくさんの捕虜を戦争でつかまえて、いけにえに捧げなくてはならない。ひとりひとりの捕虜が、ひとつひとつの星を意味する。破壊的な宇宙の力ときわどい戦いをつづける太陽に栄養をあたえ、人間世界の生存を確保するために、いけにえの捕虜はピラミッドの頂上で虐殺され、どくどくと流れるその血や、生身から取り出された心臓が、太陽に捧げられなければならない――そしてアステカ人は、この考えを実行にうつしたのである。」
「毎日毎日、首都の大ピラミッドでは、多くの人間が犠牲に捧げられた。アステカの神官とは神に祈る者でなく、犠牲の生身から心臓をとりだす屠殺者だった。そして最高の神官であるモンテスマ自身も、しばしばじぶんの手で神にいけにえを捧げた。
 このようにして、太陽への奉仕と、暗黒の神へのとりなしの努力を不断につづける一方、あぶなっかしい宇宙のバランスが、ちょっとしたことでくずれ、人間のせっかくの骨折りが水泡に帰すのをふせぐため、アステカ人は毎日毎日、注意ぶかく星のうごきを観察した。そして、すこしでもおかしな運行が発見されると、目前に迫った宇宙の危機を未然に防止するため、ふだん以上の数の犠牲が捧げられた。」

「アステカの複雑にして怪奇きわまる宗教の中に、シンボルとしてあらわれてくる神々も、同様に奇々怪々なものである。(中略)その奇怪さ、不気味さは、アステカがどのように混乱して救いのない宇宙観の重圧のもとにあえいでいたかを、はっきりと見せつけてくれる。
 彼らの宇宙観が、闇と光明、殺戮(さつりく)と平和、救済と破滅など、元来は二元的に対立すべき要素を、パラドクシカルにまぜ合わせて、矛盾と混沌のるつぼになっているのを反映するかのように、アステカの神々も、矛盾した属性(ぞくせい)のかたまりである。」
「さて、アステカの、変幻自在の神々のひとりに、ケツァルコアトルというのがあった。羽毛の生えた蛇、という意味で、起源はテオティワカン期にあるらしく、したがって、中米のひろい地域に、その神体の彫刻が見られるが、アステカ族にとっても、重要な神で、いろいろな属性をもっていた。ところが、おもしろいことに、この神の根本的な性格は、文化と教養を地上のひとびとに教えこむことにあった。そして、ケツァルコアトルは、人身犠牲に反対する神だった。
 人身犠牲のうえに成り立っているアステカの社会の中に、このような神、いわばアステカ社会の存在を根底から否認するような神がうけいれられ、信仰されていたことは、注目に価する。」
「伝えられるところによれば、偉大な教師ケツァルコアトルは、遠いむかし天から降(くだ)って、人間のかたちをとり、軍神ウイツィロポチトリに反対して、人身犠牲を止めるように説き、農耕をはじめ多くの文化を人々にさずけた。もちろん軍神はだまっているわけはなかった。彼は、宇宙の闇の神テスカトリポカのかたちをとって、ケツァルコアトルに対抗し、人々を説いて彼を排斥し、追放させるのに成功した、という。
 アステカは、この神話によって、ある一面では、じぶんたちの社会のために、羽毛ある蛇の神が、害になる、排斥すべき神であることを、はっきりと自認している。ところがおもしろいのは、にもかかわらず彼らは、じぶんたちの宗教体系からケツァルコアトルを完全に抹殺することができない、どころか、彼の崇拝すらずっと続けてきたことである。元来が異族トルテカからうけついだ神だ、アステカの世界観にとってつごうの悪い神ならば、どうして簡単に棄てさることができなかったのか?」
「アステカ人にとって、ケツァルコアトルの神とは、自分たちのものとはまったくちがう、他の文化圏ないし文化の形態の予感と肯定を意味したのではなかろうか。
 ケツァルコアトル伝説の後半の部分は、この意味でひじょうに暗示的である。
 ――軍神にアステカの土地を追われた彼は、タバスコ付近で魔法の筏(いかだ)に乗り、東方の未知の国にむかって姿を消した。しかしメキシコを去るにあたって、次のような予言を残していった――「私は一の葦の年(引用者注:「一の葦の年」に傍点、以下同)に帰って来て、政治をふたたび自分の手ににぎる。それは人民にとって、大へんな災厄の年となるだろう」
 アステカ人のカレンダーで、一の葦の年は、不規則な間隔を置いて来た。一三六三年と一四六七年がそれにあたり、ケツァルコアトルはそのどちらにも姿をあらわさなかった。次の一の葦の年は一五一九年だった。なんという不思議な偶然の一致だろうか。それはコルテスがメキシコ海岸に姿をあらわした年だった。」
「しかも、暗合の一致はそれのみにとどまらなかった。伝説によればケツァルコアトルは白い肌をして、黒いヒゲをたっぷりとたくわえていた。まさしくスペイン人たちはそういう風貌だった。」



「悲しき夜」より:

「五月の中旬には、アステカの祭りのうち、もっとも重要なもののひとつ、暗黒の神テスカトリポカの祭典が祝われることになっていた。その祭りの行事のうちでいちばん大切なのは、主にトルテカ系の貴族によって行なわれる舞踏だった。(中略)所は、中央広場の大ピラミッドの前の広場。もちろん見物人もたくさん集まる。アルバラードとその部下たちは、群衆の中にまじってその踊りを見物していたが、いきなり非武装のアステカ人やトルテカ人たちにおそいかかり、大虐殺をやってのけた。」
「いくつかのインディオ側の資料がある。(中略)これらのどれを見ても、ただアステカの伝統的なやり方で、軍神の祭りが祝われ、「蛇の踊り」が盛大に行なわれようとしたにすぎないことがわかる。特に(中略)『サアグンの記録』は、祭りの準備の模様をくわしく伝えたうえ、身の毛もよだつような虐殺の場面を、ナワトル・スタイルの叙述法で、このうえなく印象的に描きだしている。
 祭りは「ウイツィロポチトリ(軍神)の兄弟」と呼ばれるベテランの勇者の指揮のもとに、歌と音楽にあわせて、長時間おこなわれる。踊りのなかばで大勢が「来たれ、同志、お前の勇敢さを見せてくれ、全力をつくして踊ってくれ!」と叫びだす。すると、実際にいままで戦場で捕虜をつかまえたことのある勇者の一団が、ドッと押しよせて踊りに加わる。
 「この瞬間、踊りが最高潮に達し、歌に歌が重ねあわされたそのとき、スペイン人たちは、祭りを祝う者たちを殺したいという衝動にかられた。彼らはいっせいに前に走りだした。まるで戦争のような武装をして。そして入口といわず通路といわず、広場の門という門をすべてふさいでしまった。……誰も逃げられないように歩哨を置いた。祭りの人々を殺すために聖なる広場に殺到した。徒歩で、剣を持ち、木か金属の楯をかかえて近づいてきた。踊り手のまん中に走りこんで、太鼓の場所に無理やりに近づいた。そして太鼓をたたいている男に襲いかかり、両腕を切りおとした。それから頭を切りおとしたので、それは床(ゆか)の上にころがった。彼らはぜんぶの人を襲った。刺し殺し、槍で突き、剣で叩き切った。うしろからも襲いかかった。地面にたおれる者の腹わたが飛びだしてたれ下った。頭を切られたものもあった。頭を切ったのだ。頭をめった切りにしたのだ。
 「肩を切られた者もあった。その腕は胴体から離れた。彼らは股(もも)やふくらはぎにも切りつけた。腹にも切りつけた。すると腹わたがぜんぶ床にこぼれ出た。それでも逃げようとする者があった。だが腹わたを引きずって、それに足がからまって倒れたらしかった。どうあがいても、逃げみちはなかった。むりやりに逃げようとする者もいたが、スペイン人が門のところで虐殺した。壁によじ登るものもいた。しかし助からなかった。公共建物に逃げこんだ者は、しばらくは安全だった。死体の間にたおれ伏し、死んだふりをしたものもなんとか安全だった。しかし立ち上ったら最後、スペイン人の目にとまって、殺された。
 「勇者の血は、水のように流れ、池ができた。池の幅は見る見るうちにひろがり、血と腹わたの悪臭が空中に満ち満ちた。スペイン人は公共建物のなかに走りこみ、かくれている者を殺した。彼らはそこらじゅうを走り廻り、隅まで探した。部屋という部屋に押し入り、狩りたて、殺した」」








こちらもご参照ください:

増田義郎 『略奪の海 カリブ』 (岩波新書)





















増田義郎 『略奪の海 カリブ』 (岩波新書)

「一航海で半分以上の奴隷が死ぬこともめずらしくなかった。ひどい船長になると、病人の奴隷を海に投棄することさえ平気でやった。すると、船主たちは「積荷」の保険金を保険会社に要求するのである。
 こうした地獄の中をくぐってなんとか生きぬいた奴隷たちは、上陸すると競売に付せられ、持主がきまると焼印を押された。」

(増田義郎 『略奪の海 カリブ』 より)


増田義郎 
『略奪の海 カリブ
― もうひとつの
ラテン・アメリカ史』
 
岩波新書 (新赤版) 75 


岩波書店 
1989年6月20日 第1刷発行
vi 227p 索引3p
新書判 並装 カバー
定価520円(本体505円)



本書「あとがき」より:

「本書は、一六世紀から一九世紀初頭までのラテン・アメリカの歴史を扱っているが、副題に「もうひとつの」とことわってあるように、(中略)やや変った角度から書かれている。南北アメリカの歴史は、コロン(コロンブス)の「発見」を境に、ふたつの対照的な時期に分けることができる。
 まず人間居住のはじまりからヨーロッパ人との接触までの数万年間。この期間は、アメリカ大陸およびその周辺の島々が、他の大陸とほとんど接触なしに孤立していたので、そこで展開された人間の歴史も、それ自体のものとして扱うことができる。
 第二の時期は一四九二年以後、「発見」に触発されてヨーロッパ人がアメリカ大陸をまたたく間に乗っ取り、旧世界の政治、経済組織の中にしっかりと組み入れてしまった近代。はじめはエスパニャ、ポルトガル、つぎにイギリス、フランス、オランダ、最後にアメリカ合衆国が、アメリカ世界を呑みこみ、世界経済のネットワークの中に位置づけたから、第一の時期とは正反対に、この時期のどんな歴史現象を解釈するにも、それを包みこむ外の脈絡を考慮に入れることがどうしても必要である。
 本書は、この第二の時期のラテン・アメリカを扱い、はじめイベリア二国が占有したアメリカ大陸の広大な地域を、後発のイギリスが、ねばりづよくわがものにしようと三世紀間頑張りつづけたあげく、ついに一九世紀中にわがものにした経過を述べる、いわば壮大な国盗み物語である。」



本文中に「図」15点、「表」8点。章扉図版14点。巻頭に地図1点。



増田義郎 略奪の海 カリブ



カバーそで文:

「十六世紀から十七世紀にかけてカリブで大暴れした海賊たちとは、スペインから中南米の覇権を奪おうとしたイギリスの尖兵であった。以後イギリスは各国の独立を支援しつつ、十九世紀へ向けて、中南米全域に経済的従属を強いていく。砂糖産業、奴隷貿易の話を交えながら、イギリスによる世界市場支配成功の謎を探る。」


帯文:

「海賊、砂糖、奴隷――
イギリスとスペインの
壮大な覇権抗争」



帯裏:

「オリノコ河口の陸地を望むロビンスン・クルーソウの目差(まなざ)しのなかには、このような植民地獲得のデフォーの期待がこめられていたと言っていい。……この期待は、ひとりデフォーだけでなく、多くのイギリス人たちのものでもあった。
(本書「プロローグ」より)」



目次:

プロローグ――ロビンスン・クルーソウとエル・ドラード
 ロビンスン・クルーソウ再考
 イギリスとエスパニャの覇権争い
 ウォルター・ローリと「ギアナ計画」
 ハクルートの『西方植民論』

Ⅰ インディアス王国
 海外志向のエスパニャ
 黄金から砂糖へ
 アメリカ大陸部への進出
 インディアス王国の空白地帯
 
Ⅱ 初期のイギリスとエスパニャの関係
 地中海時代から大西洋時代へ
 メディナ・デル・カンポ条約
 ヘンリ八世時代の大西洋航海
 イギリス、エスパニャ間の関係の陰り

Ⅲ サン・ホアン・デ・ウルーアを忘れるな
 イギリスの気がね
 西アフリカへの進出
 ジョン・ホーキンズの航海
 エスパニャ側の奇襲計画
 高まる緊張

Ⅳ 全面戦争へ
 ドレイクの略奪
 エリザベス女王の財政事情
 北アメリカ植民の始まり
 戦争状態へ突入
 イギリス人の南アメリカ進出

Ⅴ 西インドへの進出
 ギアナからアマゾンへ
 英領植民地の誕生
 海賊バッカニアたちの登場
 クロムウェルの「西方計画」
 ヨーロッパ諸国の抗争

Ⅵ 私掠船と海賊
 私掠船の由来
 バッカニアの生活スタイル
 ヘンリ・モーガン
 私掠船のその後

Ⅶ 砂糖と奴隷
 カリブの砂糖ブーム
 不在地主の優雅な生活
 年季奉公人から奴隷へ
 アフリカ黒人奴隷の導入
 奴隷船残酷物語
 三角貿易としての奴隷貿易
 西インドと北アメリカ植民地

Ⅷ インディアスとイギリス帝国
 エスパニャ帝国の衰退
 アシエントの運用
 ジェンキンズの耳戦争
 アメリカ独立戦争とフランス革命の影響
 エスパニャ貿易独占の崩壊
 独立運動のはじまり
 インディアスの富はイギリスへ

エピローグ――エル・ドラードの発見
 イギリス軍のブエノス・アイレス侵入
 ブラジルの「独立」
 乗っ取られたラテン・アメリカ

参考文献
あとがき
主要人名索引




◆本書より◆


「Ⅰ インディアス王国」より:

「周知のように、コロンははじめ黄金国シパンゴ(日本)を求めていた。第一回航海のとき、カリブ海のエスパニョラ島を発見した彼は、これをシパンゴであろうと考えた。内陸のシバヨという土地に金が出ることを知った彼は、シバヨすなわちシパンゴであるにちがいないと確信した。さらに一四九三年の第二回航海のときには、彼はキューバの南岸を沿岸航海して、それがカタヨ、すなわち中国大陸の一部であると考えた。
 シバヨがシパンゴであるかどうかはとにかくとして、そこに金が出る以上、コロンの部下たちが黙っているわけはなかった。彼らはエスパニョラ島の原住民を使役して、金さがしと採掘に乗りだした。」
「エスパニョラ島の金の産出高は年ごとに増大していった。近くのキューバ島やプエルト・リコ島でも砂金採集がはじまり、ちょっとしたゴールド・ラッシュがおこった。」
「カリブ海における金生産のピークは、一五一一年から一五一五年で、それ以後は減少の一途をたどった。金の魅力がなくなると、エスパニョラ島の白人人口も急激に減少しはじめ、一五〇九年には八〇〇〇人あまりいたエスパニャ人も、大陸の地峡部にパナマ市が建設された一五一九年までには、数百人にへっていた。なにか代替産業が必要になった。そこで登場したのが砂糖産業である。」
「砂糖産業が開始されたとき、そのためにぜひとも必要な労働力は、外から求めなければならなかった。カリブ海のゴールド・ラッシュ時代に原住民は根こそぎ徴発され、苛酷な労働と伝染病のため絶滅にひんしていた。一五〇一年に、早くも黒人奴隷の導入がエスパニャ国王によって認可された。対象となったのはエスパニャ生れのキリスト教徒の奴隷たちであったが、一五一八年から本格的な奴隷輸入がはじまった。」



「Ⅵ 私掠船と海賊」より:

「「黒ひげ」とあだ名された海賊エドワード・ティーチとか、女海賊のアン・ボニーとメアリ・リードなどの物語はひじょうに有名で、映画化までされているが、当時の海賊の列伝は、一七二四年にロンドンで出版された、『悪名この上なく高き海賊たちの略奪と殺人の全いきさつ』に尽されている。著者は、チャールズ・ジョンスン船長となっているが、これは偽名で、ダニエル・デフォーがほんとうの著者であろうと言われている。」
「なかでも後世に名を残した有名な海賊はウィリアム・ダンピアである。彼は、はじめウッズ・ロジャーズ船長の世界一周航海のときパイロットをつとめ、のち彼自身も船長として太平洋、大西洋をまたにかけて航海し、その体験を『新・世界周航記』として一六九七年にロンドンで出版した。この本はベストセラーとなり、その後流行した航海記もののさきがけとなった。」
「一六世紀来、二世紀近くにわたり、海外に領土をもたない小国イギリスが、強敵エスパニャとわたり合うために利用してきたのが、合法的であり同時に非合法的でもある、私掠船による略奪である。宣戦布告なしに、一応外交関係は維持しながら、エリザベス女王はエスパニャの経済力を、私掠船の活動によって弱体化し、自国の資本蓄積につとめることができた。
 一七世紀になると、免許状による私掠活動は、戦時における海上攻撃力の充実のために大いに利用され、敵にたいする攻撃だけでなく、プロヴィデンスやジャマイカなど、新しくイギリスがカリブ海に獲得した植民地の防衛力ともなった。
 しかし、イギリス、フランスが、カリブ海に植民地や基地を確保して、国力が衰退しつつあったエスパニャの領域を十分におびやかすことが可能になった一七世紀末になると、もはや私掠船という非常手段は不必要となり、邪魔にすら感ぜられてきたのである。」



「Ⅶ 砂糖と奴隷」より:

「たしかに植民者農園主の生活は、砂糖からあがる巨額の収入で、見ちがえるほどよくなった。しかし、彼ら以上に砂糖貿易でもうけた人々が本国にいたのである。」
「不在地主たちは、本国できわめて優雅な生活を送っていた。もっとも有名な例は、ウィルトシャに邸宅を持つベックファド家の場合であろう。
 ベックファド家は、一二世紀まで家系をさかのぼることのできる旧家だが、ジャマイカの不在地主になってにわかに富をたくわえた。一七三七年、家督を相続したウィリアム・ベックファドは、イギリス一の西インド不在地主となって、ウィルトシャに、フォントヒル・マンションと名づける四階だての大邸宅を建てた。その子のウィリアム・ベックファド・ジュニアは、五〇万ポンドの大金を投じ、ゴシック趣味の粋をこらして、フォントヒル・アビという、馬鹿馬鹿しいばかりに豪奢な邸を建てた。
 このウィリアム・ジュニアは、英文学上有名な東洋趣味のゴシック小説『ヴァセック』(一七八六年)を書いた人物で、一七九六年以後は、フォントヒル・アビにとじこもりきりになって、幻想にふけったという。一七九七年に彼が西インドから得た収入は、一五万五〇〇〇ポンドだったと伝えられる。
 ゴシック文学のべつの代表者、ホレス・ウォルポールも西インドの不在地主だった。一五〇版をかさねたというベストセラー小説『オトラントの城』(一七六五年)が彼の代表作だが、妖怪や巨人の出るオトラントの城さながらのストロベリイ・ヒル城を、ロンドンの近くに建てて住んだ。
 おもしろいことに、ゴシック派文人には西インドの不在地主が多く、これもベストセラー小説となった『修道士』(一七九六年)の著者、マシウ・グレゴリイ・ルイスもジャマイカの大地主だった。だが彼はベックファドやウォルポールよりやや良心的で、二度ばかり西インドに渡航して、彼の奴隷たちの悲惨な生活状態にショックをうけ、その改善をおこなおうとしている。
 これらのゴシック文学者ほどではないが、西インドからのあがりで贅のかぎりをつくした金持はたくさんいた。それほど砂糖製造はもうかる商売だったのである。」

「砂糖と奴隷貿易、そして東洋の茶や綿花製品でしこたまもうけ、アイルランドの農民をしぼり取って巨大な富を蓄積したイギリス人は、ジェイムズ・ワットが一七七五年に蒸気機関を発明したとき、新しいテクノロジイを利用して、産業と貿易の一大構造改革をおこなう準備ができていた。カリブ海の砂糖産業はもはやイギリス経済を支える根幹ではなくなり、砂糖製品にたいする特恵待遇は廃止されようとしていた。」
「西インドの経済体制がイギリスにとって絶対必要ではなくなり、それどころか経済的損失をもたらすことが明白になったころから、奴隷制にたいするイギリス人の道徳的反省の声がさわがしくなり、一八〇七年に、イギリス議会は奴隷貿易廃止、一八三三年に奴隷制廃止という崇高なる決断をくだしたのである。」




































飯塚一郎 『大航海時代へのイベリア』 (中公新書)

「グラナーダのアルアンブラ宮殿の「獅子の中庭」をはじめ、王宮内の各所に水をひき、夏の離宮ヘネラリーフェのみごとな噴水、離宮の中庭にたたえられた水面に映える糸杉の緑、ハイビスカスやブーゲンビリアの赤い花、これらすべては、もし水がなければ不可能であった。マーラガのアルカーサル(宮城)の塔の上まで水をひいた技術、まるで魔術のようにいたるところから水を出す技術、すべてが高度なアラビア科学の作った傑作であり、モーロ人がアル=アンダルスにもたらした最大の貢献の一つである。」
(飯塚一郎 『大航海時代へのイベリア』 より)


飯塚一郎 
『大航海時代へのイベリア
― スペイン植民地主義の形成』
 
中公新書 603 


中央公論社 
昭和56年2月15日 印刷
昭和56年2月25日 発行
iii 218p 
新書判 並装 ビニールカバー
定価440円
装幀: 白井晟一



本書「あとがき」より:

「本書を執筆しながら、常時、私の念頭からはなれなかった問題は、つぎの二点であった。一つは、イベリアには近代資本主義の自律的発生がみられなかったのはなぜかということ、もう一つは、近代植民地主義のさきがけとしてのイベリアには、なぜ、かくも鮮明な明暗両面が対照的に現われたのであろうかということであった。そして、この二つのあいだには、重要な内的関連が秘められているのではなかろうかということであった。
 これらの二つを縦糸として、後者の明暗両面である「新大陸」の原住民に対する極悪非道の殺戮と、ラス・カーサスに代表される原住民の人権擁護の立場を横糸とし、さらに前者の縦糸に対して、異教徒追放と新大陸からの財宝を、スペイン国内での生産と流通に結びつけることができなかったことを横糸とし、これらが織りなすイベリア独自の経済構造が、つかのまの黄金時代のあとに、長い経済衰退の時期を迎えることになるのである。」



本文中に図版(モノクロ)11点、地図3点、図1点。



飯塚一郎 大航海時代へのイベリア



帯文:

「初の植民地主義帝国を築いたスペインの没落の謎を解明する」


帯裏:

「世界史上初の植民地帝国を築き上げたスペインはなぜ、かくも急速に没落したのか。一四九一年のアルアンブラ落城まで数百年余におよぶイスラーム支配はイベリア半島に当時ヨーロッパ一の文化をもたらした。しかし、スペインのレコンキスタのなかっでカトリックによる異端審問によりユダヤ人は追放され、新大陸の発見で流入した財宝は蕩尽された。以後、イベリアで資本主義の自律的な発生の機会は潰え、「スペインの悲劇」が始まる。」


目次:

序章 スペインの二つの顔
 ヨーロッパでないイベリア半島
 スペインの光と影
 伝統と革新
 ドン・キホーテの国
 スペイン内戦の源
 宿命の過去
 レコンキスタ

Ⅰ イスラーム教徒の侵入
 「ターリクの山」=ヒブラルタール
 一〇世紀の全盛時代
 繁栄の基礎
 栄光のコルドバ

Ⅱ イベリア半島のイスラーム文化
 イスラームの学問
 トレードの翻訳工房
 イスラームの法および法学者
 イスラームの哲学
 アヴェロエスとその西欧文化への影響
 イスラームの歴史学

Ⅲ イベリア半島のユダヤ人
 レコンキスタのなかのユダヤ人
 イベリア半島の反ユダヤ意識
 ユダヤ人の経済活動と思想

Ⅳ レコンキスタとグラナーダの落城
 「サンティアーゴ」と聖ヤコブの伝説
 レポブラシオン
 「シッドの歌」
 グラナーダ王国
 アルアンブラの落城

Ⅴ イベリアの国土統一と異端審問
 カトリック両王
 異端審問
 ユダヤ人追放
 イスラーム教徒の追放

Ⅵ 大航海時代
 開幕
 ポルトガルの探検
 クリストーバル・コロンの登場
 「シパング」への計画
 スペインへ
 審査委員会の否決
 大転換

Ⅶ 植民地主義の光と影
 トルデシリャス条約
 コンキスタドーレス
 「植民地」統治
 ラス・カーサスの『報告』
 「バリャドリー大論争」
 新大陸の「財宝」

終章 近代への「試金石」
 植民地主義の遺産
 サラマンカ学派の意義

あとがき
年表
参考文献




◆本書より◆


「序章 スペインの二つの顔」より:

「しかし、イベリア半島が他のヨーロッパと違うのは、まず第一に人種的に東洋の血の混入という点である。そもそも紀元前三〇〇〇年のころ、中央ヨーロッパからインド・ヨーロッパ系のケルト人が、東スペインの地方に入ってきたといわれる。それとほぼ同じころ、アフリカから南スペインへ、西アジア系のハム族が侵入してきた。彼らは地中海沿岸にやってきたギリシアの貿易商人たちから、イベリア人と呼ばれ、この半島がイベリアと呼ばれるようになった。」
「ケルト人はダニューヴ河の渓谷からピレネー山脈を越えて、イベリア半島に侵入したようだが、それは、紀元前九〇〇年ごろから前六五〇年ごろだという説もある。いずれにせよ、ケルト人はイベリア半島に、文化的にも社会経済的にも、大きな影響をもたらした。そしてこのケルト人はイベリア人と混血し、ケルト・イベリア人(原音 セルティベロ)と呼ばれるようになった。その後、紀元前三世紀に、第二次ポエニ戦争が西地中海の支配権をかけて勃発し、紀元前二一九年にはローマとカルタゴが、イベリア半島で雌雄を決することになった。その結果イベリア半島の大半はローマの支配下に入り、ローマ人はイベリア半島を「イスパニア」と呼んでいたから、ケルト・イベリア人を「イスパニア仁」と呼ぶようになった。以後ローマの支配が七〇〇年つづくあいだに、両者が混血して「イスパノ・ローマン」となったのである。
 キリスト教がイベリア半島に伝えられたのは、聖パウロによる一世紀の半ばごろといわれるが、五世紀に入ると、さしものローマの栄光も昔日の夢と化し、空前の大帝国の黄金は色あせていった。そのころ、ローマの支配権の衰えに乗じて、四〇九年(一説には四一四年)に北方ゲルマン民族が、ピレネーの渓谷を抜けてイベリア半島に侵入してきた。ゲルマンの一派ビシゴード族である。ただし、ビシゴード族は、イベリア半島ではローマ帝国の追従者としてふるまった。このビシゴード王国は、カトリックの信仰によって王国を統一することに努力し、国内の法体系の統一を聖職者によって達成し、「ビシゴード法典」(Les romana visigothorum)を完成させ、イベリア半島に昔日のローマの栄光を再現することに懸命の努力を傾けた。」
「このようにイベリア半島の過去は、人種的にもかなり複雑ではあるが、それをさらに複雑にし、しかも他のヨーロッパには見られないイベリア半島独自の大事件が、八世紀初めに突然起こった。七一一年、北アフリカのベルベル人を含むアラブ人のイスラーム教徒が、ヒブラルタール(ジブラルタル)海峡を越えてイベリア半島へ侵入し、わずか数年のうちに半島北辺の山岳地帯に、キリスト教徒を追いつめ、ビシゴード王国を瓦解させ、首都トレード(マドリーの南七一キロ)を占領して、イベリア半島の大半を支配下に収めた。さらにピレネー山脈を越えて、フランク王国にまで侵入したが、七三二年、ポワティエ付近の戦闘に敗れて、イスラーム軍はピレネー以西の支配にとどまった。
 しかし、イスラーム教徒は、その最後の王国グラナーダの滅亡する一四九二年までのあいだ、その後半は、しだいにその版図をせばめたとはいえ、約八世紀間にわたるイベリア半島支配を実現する。
 この八世紀間が、イベリア半島の歴史を変えたといえよう。それは他のヨーロッパとは異質の文化をつくりあげた時期である。たんに政治・経済・社会の問題だけでなく、学問・芸術にいたるまで、ヨーロッパでは見られない独特のものであった。」

「イベリア半島には古くから、とりわけユダヤ教徒の移入が多かった。そして、その社会経済的活動はきわめて活発であった。そのため、キリスト教徒の、これらユダヤ人に対する憎悪やねたみ、そして排斥もイベリア半島特有の様相を呈した。(中略)この三者の相互関係は、ときに妥協する点もみられるが、(中略)根本的には宗教の相違がその融合を困難にしたようである。したがって、イベリア半島の異端審問は、他のヨーロッパに比較してかなり複雑な面をもっていたし、三つの宗教がたがいに改宗か追放かといった、単純な選別を迫るのではなかった。さらに三つの宗教は、その宗教的寛容の程度も異なり、改宗者の取り扱いもさまざまであった。
 ユダヤ教徒でキリスト教に改宗した「コンベルソス」、あるいは軽蔑の意味をこめて「マラーノス」(豚の意味)と呼ばれる者がいた。彼らは改宗ユダヤ人であるが、本来のキリスト教徒から何かにつけて区別されていたようであり、クリスティアーノ・ヌエボ(新キリスト教徒)と呼ばれた。またイスラーム支配下で改宗せず、なおキリスト教の信仰を守りつづけたモサラベがいたし、国土回復戦の過程でキリスト教に改宗したモーロ人で、「モリスコ」と呼ばれる者がいた。キリスト教徒の異端審問の過程では、いわゆる「改宗者」(トルナディーソ)が、とりわけ苛酷な扱いをうけた面もあったようである。とくにコンベルソスのなかで、表面はキリスト教徒であっても、ひそかにユダヤ教を信じ、その信仰上の慣習を守る「隠れユダヤ教徒」は極刑に処せられた。これらの問題は、イベリア半島に特有な社会的経済的役割を演じたものと考えられる。」



「Ⅶ 植民地主義の光と影」より:

「コルテスやピサーロの新大陸征服は、当時スペイン人の新発見地征服の実例のなかでも、もっとも有名な一例にすぎないが、そのほかに、大小のコンキスタドーレスによる掠奪や虐殺のあとは、記録に伝えられるだけでも、枚挙にいとまがない。しかし、スペイン人たちが、コロンの到達した地域をさらに拡大して、そこへ本国から多数の植民者が侵入し、コンキスタドーレスとして、この地でおよそどのようなことを行なったかを想像することは、むつかしいことではない。原住民を強制労働によって死ぬまで酷使し、やがて労働力が不足してくると、アフリカの黒人奴隷によって補充することで、奴隷貿易の隆盛をみるにいたるのである。本国では、原住民を奴隷として扱うことを禁止する勅令が出されても、遠く離れた新大陸では、極悪非道がくり返されていたのである。」










こちらもご参照ください:

『世界の名著 41  ラスキン  モリス』  責任編集: 五島茂

































































石川達夫 『黄金のプラハ ― 幻想と現実の錬金術』 (平凡社選書)

「「オドラデク(Odradek)」という名前は、チェコ語的な形態を持っていて、チェコ語の odradit (断念させる、不興をかう)から派生した名詞のように思えるし、odpadek (ゴミ、クズ)や odpadlík (背教者、変節者、離反者、脱落者)を連想させもする。だが同時に、「オドラデク」が星形の糸巻のように見えるということからすると、ドイツ語の Rad (紡ぎ車)と関係のある言葉のようにも思われる。」
(石川達夫 『黄金のプラハ』 より)


石川達夫 
『黄金のプラハ
― 幻想と現実の
錬金術』
 
平凡社選書 205 


平凡社 
2000年5月24日 初版第1刷発行
393p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円(税別)
基本デザイン/カバーデザイン: 中垣信夫+吉野愛
カバー写真: カレル・プリツカ「美しき祖国」1979年から



本文中図版(モノクロ)47点、図表3点。巻頭にプラハ市街図1点。



石川達夫 黄金のプラハ



帯文:

「ヨーロッパの歴史と文化の十字路
宗教改革、民族運動、ナチズム、社会主義、民主化、……
歴史の激動に翻弄されながらも、その記憶と伝説によって夢幻の美に
彩られた、中欧の古都プラハ。幾重にも積み重なった記憶の深みに分け入り、
幻想と歴史が織りなすプラハの魅力へと読者を誘う。」



カバー裏文: 

「ゲルマンとスラヴ、プロテスタントとカトリック、ナショナリズムとナチズム、社会主義と民主化、……プラハは、ヨーロッパの十字路として、民族、宗教、イデオロギーのさまざまな対立と抗争を身に被りながら、それを記憶と伝説に形象化し、夢幻のうちに共存する新たな現実を生み出していった。輻輳する文化と歴史の坩堝の中で、錬金術さながら形成・変容されてきたこの町には、多様性の中にも統一性を保つ、独特の地霊がある。「黄金のプラハ」とか「百塔の町」とか呼ばれ、中世以来の美しい町並みを保つ、幻想と現実の錬金術の町プラハに、我々はヨーロッパ文化の一つの典型的なあり方を見ることができよう。」


目次:

序――ヨーロッパの十字路、プラハの地霊(ゲニウス・ロキ)

Ⅰ プラハの名前をめぐって
 一 「鴨居」から「敷居」へ
 二 「モルダウ」から「ヴルタヴァ」へ
 三 「民族劇場」から「国民劇場」へ
 四 「牢獄の廊下」から「黄金の小道」へ

Ⅱ プラハの歴史をめぐって
 一 創設からマニエリズムまで
 二 バロックからネオ・ルネサンスまで
 三 アール・ヌーヴォーから現代まで

Ⅲ プラハの聖者像をめぐって
 一 聖ヴァーツラフとブルンツヴィーク
 二 聖ヤン・ネポムツキーとプラハの幼子イエス
 三 ヤン・フスとヤン・ジシュカ

Ⅳ プラハのユダヤ人街をめぐって
 一 チェコのユダヤ人とプラハのユダヤ人街
 二 ラビ・レーフとゴーレム伝説
 三 フランツ・カフカとプラハのユダヤ人

跋――夢を育み、夢に育まれる町


プラハ年表
人名索引




◆本書より◆


「Ⅰ プラハの名前をめぐって」より:

「一八一七年に、東ボヘミアの町ドゥヴール・クラーロヴェーの教会の地下室で、古いチェコ語の手稿(『ドゥヴール・クラーロヴェーの手稿』)が「発見」された。それは、それまで知られていたあらゆるチェコ語の文学作品よりも古い、一三世紀のものと思われる作品で、より大きな手稿の「断片」だった。更に、慾一八年には、西ボヘミアの町ネポムクのゼレナー・ホラの城の地下室で、やはり古いチェコ語の手稿(『ゼレナー・ホラの手稿』)が「発見」された。それは、『ドゥヴール・クラーロヴェーの手稿』よりも更に古い、一〇世紀のものと思われる作品で、やはりより大きな手稿の「断片」だった。」
「『手稿』は、偽作説も出されたにもかかわらず、チェコ人社会に熱狂的に受け入れられ、また各国語に訳されて、『手稿』に関心を抱いた外国人たちにも受け入れられ、ゲーテやグリムにも感銘を与えた。」
「こうして、『手稿』はチェコ民族の誇りとなり、チェコ民族主義の活性剤となった。『手稿』は、実際には偽作だったのだが、文学的に優れた作品も含まれていて、一九世紀のチェコの芸術家たちに大きな影響を与え、彼らの霊感を呼び起こした。(中略)チェコの一流の芸術家たちが『手稿』から霊感を得て作品を作った。」
「更に、有名な歴史家パラツキーなどの学者も影響を受けて、『手稿』に描かれた古代チェコ人の姿を取り入れた学問的著作を書いた。つまり、『手稿』は、チェコ人の歴史(像)をも変容させたのである。
 『手稿』については、その後、その真偽をめぐって激烈な「手稿論争」が展開された後、ようやくそれを偽作とする見方が根付いた。現在では、『手稿』は、反ドイツ的なチェコの民族主義者だった詩人ハンカと作家リンダが作ったものと考えられている。
 実は、『手稿』のような偽作は、この二つの作品だけではなくて、チェコの「民族復興運動」の「ユングマン時代」と呼ばれる、プレ・ロマン主義的、ロマン主義的時代には、偽作が横行していたのである。それは、当時のチェコの社会的・文化的貧困を偽作によって補おうとする志向、幻想によって現実を補おうとする志向の産物であると同時に、当時の芸術的規範の所産でもあった。チェコの文芸学者マツラが指摘しているように、「ユングマン時代」には mystification がはやり、「偽作」と「真の創作」との区別が極めて曖昧だった。(中略)更に、「ユングマン時代」には、偽作と遊技・冗談の区別も曖昧で、ふざけた偽作も少なからずあったという。」
「このような偽作者たちはみな、一種の錬金術師だったと言えるかもしれない。その中でも、いわば偽金を金貨に仕立て上げた上に、幾つもの本物の金貨まで創り出させたハンカとリンダは、一流の錬金術師だったのだと言えるかもしれない。」

「プラハでは、現実が幻想を生むばかりか、それ以上に幻想が幻想を生み、それどころか幻想が現実を生んできた。考えてみれば、プラハはリブシェが幻視して出来たというリブシェ伝説がもしも事実だったとすれば、「黄金のプラハ」の町そのものも、そもそもリブシェの幻想が生み出した現実ということになる。プラハとその文化は、幻想と現実が双方向に影響し合い、支え合い、混ざり合って、形成されてきたものである。つまり、Praha は、幻想と現実の práh (敷居・境界)の上にある町なのである。」

「「民族復興運動」は、自分たちの祖国の様々な名前を取り戻す闘いだったとも言える。ドイツ語の「プラーク」をチェコ語の「プラハ」に、ドイツ語の「モルダウ」をチェコ語の「ヴルタヴァ」に……。自分たちの言葉チェコ語で発音した時に初めて、自分たちの町も川も、祖国のすべてのものが、疎外されたよそよそしいものではなくて、自分たちに近しい、本当に自分たちの祖国のものとして感じられるようになったはずなのである。」



「Ⅱ プラハの歴史をめぐって」より:

「産業の発展、チェコ民族運動の高揚、記念博覧会、「衛生化措置」、技術革命などと共に進行したプラハの近代的変容は、「黄金のプラハ」という表象を流通させるようになった。」
「ところが、主としてチェコ人の間で「黄金のプラハ」というイメージが流通する一方で、主として非チェコ人の間では魔術的・オカルト的なプラハ、いわば「黒鉛のプラハ」というイメージが一九世紀中葉から国際的に流通し始め、それは世紀転換期のデカダン派および表現主義において頂点に達し、プラハは両極的な二つのイメージに分裂する。これは恐らく、世界的に近代化が進行する中で、ロンドンやパリなどに比べれば近代化の後発都市であり、中世以来の古い町並みを多く残し、かつてヨーロッパ最大のユダヤ人街を擁していたプラハに、ある種の人々が非近代的で魔術的・オカルト的な闇の部分を(懐旧的に)求めた結果であろう。プラハに生まれて生涯をプラハで過ごし、プラハを舞台にした怪奇的作品も書いたドイツ語作家レッピンは、『古きプラハの思い出』(一九一七)というエッセイの中で次のように書いているが、ここにもそのような心性が認められよう。

  ひたすら真昼の栄光を求め、その達成のみを望む新しいプラハは、偉大で有能かもしれない。活気あふれる未来を約束された、まばゆく輝くプラハ。しかしそこには、もはや何の不思議も奇跡もない。

 既にフランスの女流作家ジョルジュ・サンドは、長編小説『コンスエロ(Consuelo)』(一八四二~四三)の中で、神秘的な夜のプラハを描き、フス派の将軍ジシュカの生まれ変わりで千里眼を持つ超能力者を登場させている。サンドは実際にはプラハを訪れずに資料だけで描いたようだが、イギリスの女流作家ジョージ・エリオットは実際にプラハを訪れ、そのときの印象をもとに、彼女の作品としては異色の怪奇小説『かかげられし帷(The Lifted Veil)』(一八五九)を書き、その中でやはり、(中略)千里眼を持つ人物を登場させている。またアメリカの作家クロフォードも、長編小説『プラハの妖術師』(一八九一)の中で、妖しい女妖術師を登場させ、プラハを魔術的・オカルト的な闇の町として描いている。そして、このような系譜の頂点が、ヴェーゲナーの映画『ゴーレム』(一九一四)とマイリンクの小説『ゴーレム』(一九一五)などに代表されるゴーレム文学・映画である(中略)。
 もっとも、非チェコ人のみならず、チェコ人作家・詩人でも、デカダン派の中には、このような「黒鉛のプラハ」の系譜に繋がる作品を書いた者たちがいる。「衛生化措置」による歴史的なプラハの破壊に対する反対運動の先頭に立ったムルシュチークは、その小説『サンタ・ルツィア』(一八九三)において、プラハを、「ヴルタヴァ川の白い霧のネグリジェの中に隠れた、黒い女誘惑者」として表象している。」
「このような、不幸をもたらす魔性の女としてのプラハは、オリヴァの絵「黄金のプラハ」に描かれた、幸福の象徴としてのリブシェ的女神の表象の対極にあるものである。この対極的な二種類の女性像は、近代化の光と闇の二面性の表象化と言えるだろう。
 プラハはまた、その中を(とりわけ夜)人がさまよう一種の迷宮として捉えられる(中略)。そして、ババーネクの詩「プラハの上に」(一九一二)におけるように、夜さまようときに闇の中に浮かんで見えるプラハのシルエットは、オリヴァの「黄金のプラハ」の絵などに描かれたシルエットとは対極的に、暗く悲劇的なものの象徴となる。

  僕は夜の中を歩く。幻影のように、大聖堂が過ぎ去った時代の中から空へと聳え、
  かつての栄光が、黙した墓のように……。
  そして、川向こうの、霧と煙の中、そこではもはや別の日々を
  疲れた町がまどろみ、不安な夢を見ている。」

「ヴルチェクによれば、「過去は、デカダン派的様式化の主要なモチーフの一つとなった。過去への接近によって、デカダン派詩人は、自らの存在の意味と、人間の運命と町との神秘的な関係を問うのである」。そして、マイリンクに代表されるプラハのドイツ文化は、「チェコ文化よりも更に明瞭に、古いプラハの神話に刻印されている。プラハのドイツ文化にとって、古いプラハは、消えゆく静かな故郷の世界へのノスタルジックな回想だった。チェコ文化は日に日に、より際立った力となり、ますます己れの未来に目を凝らした。それとは逆に、プラハのドイツ文化は、その芸術的表現において、より切実に過去を、プラハの神秘的な絆と魅力を問い、それを何よりもまず自らの遺産、自らの生の絆と見なしたのである」。
 確かに、プラハを詠ったリルケの詩集『家神への捧げ物』(一八九五)も、ノスタルジアとメランコリーに満ちている。」
「リルケは、(中略)「古時計」という詩で、あやうく時を告げることが許されなくなるところだった旧市街市庁舎の古時計のことを詠っているが、更にドイツ語詩人ザルスは、日に一度だけそれが指している時間と出会う、完全に止まった時計についての詩を書いている。ドイツ系詩人・作家の作品において、プラハは、ザルスの詩に出てくる、止まった時計に象徴されるものとなり、プラハを詠う音調におけるノスタルジアとメランコリーが強まり、プラハの表象における幻影性・夢想性が高まったのである。」



「Ⅳ プラハのユダヤ人街をめぐって」より:

「かつてのユダヤ人街から残ったもののうち、ユダヤ市庁舎もまた、その特異さでプラハの訪問者の目を引くものである。この建物の上部には、通常の大時計のほかに、ヘブライ文字盤の大時計も付けられ、その針は時計回りとは逆に回るのである。これについて、フランスの詩人アポリネールは、その詩集『アルコール』(一九一三)の冒頭の詩「地帯(Zone)」の中で、「ユダヤ人街の大時計の針が逆向きに動き/君も自分の人生をゆっくりと逆行する」と詠っている。」

「先に紹介した旧ユダヤ人墓地の奇妙な光景は、次のようにして出来た。ユダヤ教では、死者の墓を壊してはならない。そこで、この墓地に空き地がなくなると、既にある墓の上に土を盛って、その上に次の墓を作っていった(場所によっては、一二層も墓が重なっているという)。その際、前の墓の墓碑は、土の上に出るように持ち上げられた(墓地の壁に埋め込まれた墓碑も多い)。これを繰り返すうちに、奇妙な墓碑の集積が生じたのである。」

「「完全なドイツ人」ではないのにドイツ人と見なされている、「完全なユダヤ人」ではないユダヤ人が、矛盾した自己像から逃れる道は、自分のユダヤ性を極力消し去って完全な同化――しばしば「完全なドイツ人」以上に完全な同化――に努めるか、さもなければ逆に、意識的にユダヤ性へと回帰して「完全なユダヤ人」に戻るように努めるかの、どちらかであろう。」

「前述のように、チェコスロヴァキア共和国成立後、チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人の間には確かに緊張・軋轢関係が残ってもいたが、三者は同じチェコスロヴァキア国民として接近・交流を深めてもいった。そして、しばしばユダヤ人が、その仲介者として重要な役割を果たしたのだった。
 それからもう一つ指摘しておくべきことは、先に指摘した、ユダヤ人における同化と回帰との間の揺れという現象は主に、いわば社会・文化的エリートにおける現象であり、下層の庶民的レベルでは別の現象も見られる、ということである。
 それは、カフカと同様にプラハ生まれのユダヤ系ドイツ語作家であるハース、ウルツィディール、ヴェルフェルなどがその生涯について書き留めている、ユダヤ人の放浪者ヴァイセンシュタイン・カレルのような場合である。ドイツ語作家たちがたむろしていたプラハのカフェ・アルコに出入りしていたこの放浪者は、ドイツ語とチェコ語とイディッシュがまぜこぜになった言葉を話していたという。同化か、さもなくば回帰か、という二者択一ではなく、三つの民族の町プラハの混合状態をそのままに生きる、ある意味で逞しい生命力を持ったユダヤ人もまた、もちろんいたのである。」








こちらもご参照ください:

ヴラスタ・チハーコヴァー 『新版 プラハ幻影 ― 東欧古都物語』
グスタフ・マイリンク 『ゴーレム』 今村孝 訳 (河出海外小説選)
Klaus Wagenbach 『Franz Kafka: Bilder aus seinem Leben』
澁澤龍彦 『ヨーロッパの乳房』
巖谷國士 『ヨーロッパの不思議な町』 (ちくま文庫)
フェルナンド・ペソア 『ペソアと歩くリスボン』 近藤紀子 訳 (ポルトガル文学叢書)
石井洋二郎 『パリ ― 都市の記憶を探る』 (ちくま新書)
陣内秀信 『ヴェネツィア ― 水上の迷宮都市』 (講談社現代新書)
池内紀 『ウィーン ― ある都市の物語』 (ちくま文庫)





















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

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将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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