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伊福部昭 『音楽入門』 (角川ソフィア文庫)

「したがって作家は、初めは野鄙の非難を受けるにしても、自己の語法と様式で語ることを恥じてはならないのです。」
(伊福部昭 『音楽入門』 より)


伊福部昭 
『音楽入門』
 
角川ソフィア文庫 F-160-1/角川文庫 19836

KADOKAWA
平成28年6月25日 初版発行
平成28年10月15日 再版発行
189p
文庫判 並装 カバー
定価760円(税別)
カバーデザイン: 國枝達也


「本書は全音楽譜出版社より二〇〇三年に刊行されました。文庫化にあたり「衝撃波Q 4号」(一九七五年)掲載のインタビューを収録しました。」



初版は1951年、改訂版は1985年、新装版が2003年、そしてこの文庫版が2016年です。
著者は本書で、エリック・サティをたいへん高く評価し、中世音楽や民族音楽を大きく取り上げていますが、サティや中世音楽が一般的に論じられ、演奏され、商品化されるようになったのが1970年代以降であることを思えば、そしてまた「チンドン屋」の音楽を称揚し、「ユングのいう集合的無意識の存在とその重要性」を説いているところなど、今でこそ当り前ですが、当時としては本書はたいへん尖がった「音楽入門」だったのではないでしょうか。


伊福部昭 音楽入門


カバー裏文:

「真の美しさを発見するためには、教養と呼ばれるものを否定する位の心がまえが必要です――。土俗的なアイヌ音楽に影響を受け、日本に根ざす作品世界を独学で追求した作曲家、伊福部昭。語りかけるように綴られた音楽芸術への招待は、聴覚は最も原始的な感覚であり、本能を揺さぶるリズムにこそ本質があるとする独自の音楽観に貫かれている。「ゴジラ」など映画音楽の創作の裏側を語った貴重なインタビューも収録。」


目次:


はしがき
第一章 音楽はどのようにして生まれたか
第二章 音楽と連想
第三章 音楽の素材と表現
第四章 音楽は音楽以外の何ものも表現しない
第五章 音楽における条件反射
第六章 純粋音楽と効用音楽
第七章 音楽における形式
第八章 音楽観の歴史
第九章 現代音楽における諸潮流
第十章 現代生活と音楽
第十一章 音楽における民族性
あとがき

一九八五年改訂版(現代文化振興会)の叙
二〇〇三年新装版(全音楽譜出版社)の跋

インタビュー(一九七五年)

解説 (鷺巣詩郎)




◆本書より◆


「はしがき」より:

「国立博物館が一般に開放されて間もない頃のことですが、教師に引率された中学生たちが熱心に見学しておりました。生徒たちは、(中略)忙しそうに、陳列品に付されている解説や、先生の説明をノートしておりました。しかし、生徒たちは、誰一人として肝心な陳列品そのものを見つめてはいませんでした。」
「この出来事は極めて些細(ささい)なことのようですが、少なくも次の二つの事柄を含んでいると思います。
 一つは、何かある作品に接した場合、作品そのものからくる直接的な感動とか、または、印象などよりも、その作品に関する第二義的な、いわば知識といわれるものの方をより重要だと考えることです。」
「他の一つは、たとえ、自分がある作品から直接に強烈な印象なり感動を受けたとしましても、これを決して最終的な価値判断の尺度とすることはなく、より権威があると考えられる他人の意見、いわば定評に頼ろうとする態度です。」
「このように、自分の見解を否定してまでも、何か絶対的な権威のようなものに頼ろうという態度は、恐らく、私たちの長い年月にわたる政治形態と教育の影響によるものかもしれませんが、(中略)私たちは第一にこのような態度から逃れねばなりません。それでなくては、音楽のように直覚的な、また、ある意味では極めて原始的でさえある感覚を基礎としている芸術の美しさを味わうことはほとんど不可能だからです。」
「極端な例を挙げれば、音響に対する反応は、鳥類や昆虫までがもっております。」
「このように直接的な感動力をもっている音響ないし音楽から、人類である私たちが、なんら感銘を受け得ないとするならば、恐らく、人類だけがもっている知性がわざわいしていると考えることも不可能ではないでしょう。(中略)音楽の分野のみならず一般のモラルにあっても、誤った知性が人類を動物以下にすることは、私たちの日常しばしば目撃するところなのです。」
「博物館の少年たちのような態度は、一見正統な努力の如く見えますが、このような態度からは、自主性の全然ない審美感しか学び得ないでしょう。この種の審美感は、あるいは立派な教養として通用するかも知れませんが、もはや本当の意味では審美感とは呼び得ないことは明らかです。
 アンドレ・ジイドは「定評のあるもの、または、既に吟味され尽したものより外、美を認めようとしない人を、私は軽蔑(けいべつ)する」と述べていますが、博物館の少年たちのような態度からここに指摘されているタイプの文化人が生まれるものなのです。
 私たちは、できるだけこのような陥穴(おとしあな)から逃れなければなりません。真の美しさを発見するためには、逆説のようですが、同年代の教養と呼ばれているものを、一応、否定する位の心がまえが必要です。」



第一章より:

「このように、私たちは音楽を受け取る場合、最初に律動に打たれますが、このことは、音楽にあっても、最も本質的なものは律動であるということを立証しているとみることができます。
 ただここに注意すべきことは、律動は、このように根元的なものであり、ほとんど本能的なものでさえあるので、(中略)逆に、律動または律動的な音楽は一般に下級であると考える風潮が生まれやすいことです。このような風潮を生む、一見野蛮を恐れるような妙な教養観以上に芸術、殊(こと)に音楽の真の理解をさまたげるものはないのです。」



第二章より:

「音響というものは、私たちがこれを聴いた場合、私たちの中にある特定の感覚とか心情をよび起こすものですが、この心情には二つの種類があります。一つは、その音響それ自体がもつ直接的なものであり、いま一つは、その音に付随した連想に基づく印象です。」
「もし、音楽の、直接的な印象に目を向けることなく、常に連想による印象のみに頼っていくとすれば、連想は連想を生み、更に、新たな幻想を作り上げ、終(つい)には、音楽が真に示しているところのものからは遥(はる)かに遠いところに行くことになるのです。」
「ロマン派および印象派の作品が圧倒的に喜ばれるのは、それらの作品が多くのロマンスと解説とにみち、それらに合うイメージを心に描くことが極めて簡単だからです。」
「標題の付されている音楽にあっては、それを拠(よ)り処(どころ)として、さまざまな幻想を試みることも可能ではありますが、これとても、前に述べましたように正しい鑑賞ではないのです。」
「要は、その作品がいかに音楽的に構築されているかを見れば足りるのです。」
「私たちが音楽作品を聴く場合に、第一に心がけねばならぬことはこのことです。すなわち、その作品にあって、音がどのように美しく構成され、また、どのような運動をするかということにかかっているのです。」



第四章より:

「「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」というのはストラヴィンスキーの有名な言葉です。」
「これもそういわれれば、わかりきったことなのですが、なかなか意味深そうなことを好む作曲家と鑑賞者が多いので、この言葉が吐かれたのです。
 たとえばエリック・サティの無類の傑作である「ジムノペデイ(裸形(らぎょう)の頌舞(しょうぶ))と、有名なシュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語れり」とを比べてみましょう。
 音楽の愛好者の中には、このニーチェの哲学の背景をもつシュトラウスの作品に接すると、あたかも自分もまた哲学者ででもあるかのような荘重な面持ちで、その音楽いかんにかかわらず、大いなる感動を示す人が多いのです。一方、サティの「ジムノペディ」は外見も単純であって、極めて緩(おだ)やかな一本の旋律が繰り返し奏される短少な曲なのでありまして、世俗的人気はシュトラウスに比ぶべくもありません。しかし、もし音楽を知る人であったら、その評価は完全に反対となるのです。「ジムノペディ」は人類が生み得たことを神に誇ってもいいほどの傑作であり、シュトラウスの作品は題名だけが意味ありげで、内容な口にするのも腹立たしいほどのものなのです。」
「したがって、もし一人の人が純粋な音楽観をもっていたとすれば、「ツァラトゥストラ」に感動しないのは当然です。またこれに感動する人のいう言葉も、またその意味もわからないのが当然です。そしてそのことは、むしろ正しい音楽を理解し得る能力をもつことを証明しているのです。百歩下っていいますと、音楽を少なくとも誤解し得ないだけの頭脳をもっているのです。
 私たちは、このように音楽以外のものの助けによって、その音楽に意味あらしめようとするような作品を軽蔑(けいべつ)しなければなりません。」

「しかし以上の話によって、音楽は哲学や宗教や思想と何も関係がないという意味にとってはならないのです。作品が見事に構成された場合は、作品それ自体が一つの哲学的表現となることは明らかです。」
「マラルメの有名な「詩は思想で創るのではなく言葉で創るものだ」という言葉がありますが、(中略)これを音楽に当てはめれば「音楽は思想で作るものではなく音で作るものだ」ということになります。また鑑賞の立場からいえば「音楽は思想で聴くものではなく、その音を聴くべきものだ」ということになるのです。」
「もう一度繰り返しますが、思想も哲学もなく音を組み合わせるという言葉を、単なる音楽理論や思いつきで音をならべる機械的な職人風な音楽が本当だという意味にとってはなりません。」
「無感動に理屈だけで配列した音群は、断じて音楽でさえもないことは申すまでもありません。」



第五章より:

「今、私たちの音楽観を考えてみますのに、もし不幸にして幼少の頃から、前述した種類の不純な思わせぶりな音楽を、何かこれが本格の音楽であり、また荘重なものであると教え込まれながら聴いていたとすれば、今急に考えを変えてみましても、そのような響きに接しますと、何か荘重な感じに打たれるという現象を呈するのです。これは感情面における一つの条件反射ということができましょう。」
「私もまた音楽に興味をもった初めの頃は、(中略)商業政策のために無理に誇張されたレコードの解説や、また誤った教師たちの意見に盲従するより外はありませんでした。そして実際につまらない作品に、自ら感動しようと努めたりも致しました。また、どうしても感動のできない作品であっても、あまり世評の高いものであれば、自ら感動しているはずであると、自分に、いい聞かせたりもしたものです。しかし、これは実に間違った努力でした。いわば、音楽を聴きながら音楽を聴かないように努力していたというべきものでした。
 音楽の世界では、この誤った鑑賞の勢力が極めて大きいので、(中略)誤った音楽教育を受けるよりは、むしろ音楽から遠ざかった方が賢明だったとさえ思われるほどです。
 何はともあれ真の音の美しさを味わうためには、自己の中にある既成の音楽上の観念を一度捨てて、純な素直な心がまえで、音楽にもう一度触れてみる必要があるのです。」
「少年の頃、チンドン屋を聴いて喜んだのと同じような素直な心で、音楽に触れる必要があるのです。ゲーテのいう、「真の教養とは、再び取り戻された純真さに他ならない」という言葉を、このような場合に流用してもさして大きな誤りではないでしょう。」



第十一章より:

「十八世紀の半ばを越しますと、外国の音楽家に教育された多くのロシア人作曲家が現われ、数多くの作品が生まれたのでした。しかし、作品が強力な西欧の影響の下にあった以上、もちろん、優れた西欧的作品となり得るわけもなく、ましてや、ロシアの作品と呼ばれ得るものではなかったのです。」
「しかし、私たちの周囲には、このような誤った単なる影響を真の教養と思い込み、私たちが私たちの語法で語ろうとすることを恥じ、そのような態度を無知無教養として受け取る風潮はないでしょうか。」
「しかし、この蒙昧(もうまい)な文化観は、十九世紀の中葉になり少数の真の芸術家たちによって破られるのです。(中略)ただここに一つ極めて注意を要することは、このロシア音楽様式の創設に貢献した作曲家たちの作品を、当時の最も教養あった芸術家やサロンの貴族が、口を揃えて「野鄙(やひ)」または「素人臭い」と非難したことです。
 したがって作家は、初めは野鄙の非難を受けるにしても、自己の語法と様式で語ることを恥じてはならないのです。」



「あとがき」より:

「現代の私たちから見れば、当然のことであっても、その時代には大きな議論のあったことを念頭においていただかねばなりません。これは現代にあっても同様なのです。」
「なんらかの見解が生まれるには、それ相当の理由のあることを思わねばなりません。
 音楽の鑑賞にあっても、作曲家の場合と同様に自己の見解の確立のために戦いが必然的なものとなるのです。自己の思考を労さずに、大勢の流れるところすなわち、時流についたのでは、決して真の途(みち)は発見できないものなのです。
 ゲーテは「不遜(ふそん)な一面がなくては芸術家といわれぬ」と述べていますが、鑑賞することもまた立派な芸術であることを忘れたくないものです。」





こちらもご参照ください:

木部与巴仁 『伊福部昭 ― 音楽家の誕生』
オルネラ・ヴォルタ 編 『エリック・サティ文集』 岩崎力 訳




















































































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木部与巴仁 『伊福部昭 ― 音楽家の誕生』

「音楽というのは、音の振動エネルギーを表現媒体としている芸術ですから、やはりエネルギーが必要なんです。」
(伊福部昭)


木部与巴仁 
『伊福部昭
― 音楽家の誕生』


新潮社 
1997年4月25日 発行
408p 年譜4p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,600円+税
装幀: 緒方修一
カバー写真: 伊福部昭ポートレート 昭和十年厚岸・栄儀一郎撮影/『土俗的三連画』楽譜



「きべ・よはに 1958年愛媛県生まれ。(中略)著書に『横尾忠則 365日の伝説』(新潮社)がある」


木部与巴仁 伊福部昭


帯文:

「この巨きな
作曲家について、
無性に語りたい!

映画音楽に『ゴジラ』という金字塔を打ち立て、
日本の作曲界に独自な世界を築いた伊福部昭の
人生の軌跡を描く重厚なノンフィクション!!

97年9月13日放送予定 北海道文化放送開局25周年ドラマ
「北の交響曲(シンフォニー)~映画音楽『ゴジラ』のもう一つの顔~」原作」



帯背:

「異色作曲家の
巨きな人生」



帯裏:

「今から八十年以上も前に、
この世に生を享けた伊福部昭。
彼という人物、芸術家が、
どのように成長してきたのか、
音楽の道を歩んできたのか、確めたい……。
伊福部昭という、音楽家の誕生。
そのありのままを、綴りたいのである。
(本書「序」より)」



目次:

序 伊福部昭と私
一 北の少年
二 因幡国
三 北海道・音更村
四 アイヌ音楽
五 札幌へ
六 青年
七 作曲への歩み
八 独りの道を
九 『日本狂詩曲』
十 チェレプニン
十一 師弟の肖像
十二 『土俗的三連画』
十三 大戦前夜
十四 映画音楽
十五 再び札幌にて
十六 戦火の時代
十七 勲の死
十八 『交響譚詩』
十九 東京へ
あとがき
伊福部昭年譜




◆本書より◆


「六 青年」より:

「伊福部昭が何かの拍子に口にした、次のような台詞を覚えている。それを聞いた時、これこそ最も伊福部らしい考えとして、強く心に刻まれたのである。
 「なめくじというのは、くにゃーとしているんだけど、あれはあれ自体で完成しているわけです。それ自体で生命の力を持っているんですよ」
 なめくじには手も足もない。臓器もいたって簡単な動物である。しかし、どんなに小さくても単純でも、なめくじにはなめくじの世界がある。人間にはうかがい知れぬ、彼だけの世界を持っているのだ。
 人はいうかもしれない。人間の方が複雑な肉体を持っている、思想だって文明だって持っている、と。しかし、思想や文明を持っていることが、どれほど立派であろうか。思想や文明が、他の生物をおびやかし、地球環境を歪める元凶になっているではないか。
 そんなものにしがみつくより、なめくじのようにただ自分の世界だけをまっとうして生きる方が、どれほど立派か。」



「七 作曲への歩み」より:

「それに「七夕」という曲もありますね。当時、和声学の規則では、平行五度は駄目だということになっていまして。和声が完全五度のままで進むのは気持ち悪く聞こえる、音楽になってないというわけです。それなら、自分は全部平行五度で行ってやろうと思って書いたんです。
 北海道などで暮らしておりますと、自然の中で生きていくためには絶対守らなければならない掟と、まあ、これは破ってもいいんじゃないかということの見境が、ずいぶん早くからつきます。平行五度を禁ずるというような、つまらない掟は守らない、ということです。
 そのころはラヴェルやストラヴィンスキーなどをよく聴いていましたが、中でも好きだったのが、エリック・サティでしたねえ。ブロマイドをフランスから取り寄せ、額にいれて飾っていたこともあるんですよ。かなり心酔していました。」
「『日本組曲』を書いた翌年、早坂君や三浦君に、兄の勲なども入って国際現代音楽祭という演奏会を開いたことがあります。そこで私は、私のヴァイオリンに早坂君のピアノで『右と左に見えるもの(眼鏡無しに)』という曲を演奏しています。手に良心を乗せてとか、奥歯の端で、などと指示されている、不思議な曲なんです。この曲は、本邦初演です。まさかあの当時、札幌でサティが初演されたとはほとんどの人が知らないと思いますが。
 私は作曲家になるつもりで曲を創っていたわけじゃないので、そういう異端の人に、必要以上に心をひかれたのかもしれません。(中略)リヒャルト・シュトラウスとかワーグナーとか、ヨーロッパの風通しの悪い音楽がありますよね。その中にスカーッと、風通しのいい音楽があった、ということでしょうか。(中略)風通しのいいものが好きだ、という要素は、感性の中にあるんです。臍の曲がったものが好きだ、ということかも知れませんが。」



「十一 師弟の肖像」より:

「伊福部に対するチェレプニンの指導を見ていると、後に伊福部が行うことになった音楽教育が彷彿としてくる。絶対に型にはめず、本人の感性をねじまげず損なうことなく、それを長所として伸ばしてゆく。こうあるべきだというより、こうありたいという方向性を与えてやる。その方向性に教わる側が気づいていない場合、教師は自分の発見としてでなく、生徒本人が発見するよう仕向けていく。」

「『音楽入門』(中略)は、出版社側から寄せられた企画で、伊福部の自発的な意志によるものではない。また、結局は副題になった“音楽鑑賞の立場”が、すでに題名として予定されていた。」
「ただ、伊福部は“音楽鑑賞の立場”を題名にすることはやめ、別の題名にしてもらえないかと提案した。それは、自らが音楽鑑賞者であるかのような印象を世間に与えかねないためである。自分は作曲家である。テーマは“音楽鑑賞の立場”でも、作曲家が書く、そのような内容の本であるという姿勢を貫きたかったのだ。
 結局、題名は『音楽入門』に決定する。『管絃楽法』と並行させつつ、完成寸前にはすべての時間を割いて、伊福部は『音楽入門』に打ちこんだ。(中略)その結果、現代の鑑賞者にも充分に訴える普遍性を持ち、もっといえば伊福部昭入門とでもいうべき内容の本が完成した。」
「“音楽は音楽以外の何ものも表現しない”の章で、伊福部はエリック・サティの『ジムノペディ』と、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語れり』を比べていう。
 「音楽の愛好者の中には、このニーチェ哲学の背景をもつシュトラウスの作品に接すると、あたかも自分もまた哲学者ででもあるかのような荘重な面持ちで、その音楽いかんに拘らず、大いなる感動を示す人が多いのであります。一方、サティのジムノペディは外見も単純であって、極めて穏やかな一本の旋律がくり返し奏される短少な曲なのでありまして、世俗的人気はシュトラウスに比ぶべくもありません。しかし、もし音楽を知る人であったら、その評価は完全に反対となるのであります。ジムノペディは人類が生み得たことを神に誇ってもいい程の傑作であり、シュトラウスの作品は題名だけが意味ありげで、内容は口にするのも腹立たしい程のものなのであります。」
 “音楽はどのようにして生れたか”には、「私の聴いたギリヤーク族の歌の中には、律動のみが変化して音はわずかに長二度音程の二ケの間を往復するに過ぎない、『シスカの河口』(シッカ・アムフゥ)というのがありました」という文章がある。(中略)“音楽観の歴史”では、「……短長格にあって行われる自然音の描写は、アイヌ等にあっては、現代なお行われているものであります。化物の足音を真似た『イケリ・ソッテ』、白鳥の声を真似た『ケタッチリ・ハッフェ』、熊が歩く音『チソマリ・ヤッカリ・フム』、狐を真似た『スマリ・フウ』、その他、実に多くの擬音的標題音楽がトンコリと呼ばれる五絃琴で奏されるのですが、恐らくギリシア時代も同様だったのでありましょう」と語る。
 このような記述は、すべて伊福部が自ら得た体験によっている。バッハやヘンデルやベートーヴェンなどを登場させれば事足れりとする音楽の入門書に、先住民族の音楽について記述できたのは、やはり伊福部ならではといえよう。」



「十九 東京へ」より:

「心敬という室町時代の歌人が、『さゝめごと』という連歌論の中で、こんなことをいっております。藤原定家の言葉を引いて、「……鬼とり拉(ひし)ぐ體を歌の中道と申し給へる……」というのです。つまり、鬼すらをも捕まえて押しつぶす、勢いをくじいてしまうほどの「鬼拉(きらつ)体」を、歌道のいちばん正しい道だという。」
「幽玄だとか静寂だとか神秘だとかは、日本人ならば誰でも行ける境地なんですね。幽玄なんて、芸術としては安易なものなんです。心敬がいう鬼拉体、鬼さえも引っ張ってくるほどの力強さがなければ、日本の芸術は駄目なんですよ。」
「日本人は鬼拉の世界を捨て過ぎていると思います。オーケストラを使おうと思うことが、すでに鬼を拉ぐくらいの神経でないとできないかもしれません。」
「江戸時代からあとのものは、何だか皆ちっちゃくて、温泉土産のように感じるんです。(中略)奈良の大仏というふうなものは、あまりない。まあ、あるにはあるんでしょうけど、そういうものが中心ではなくなったように思います。
 別に古くなろうと思ってるんじゃないんです。古代の、朴訥だけれども力のあるガーンとしたもの、自分たちの本当の伝統というものを、できたら音の上で表現したいと思っているのです。」





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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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