中井英夫 『磨かれた時間』

「そう、乱歩は生涯を通じて、ただ胸奥に紡がれる漆黒の夢を語り続けただけなのだ。」
(中井英夫 「乱歩変幻」 より)


中井英夫 
『磨かれた時間』


河出書房新社 
1994年6月1日初版印刷
1994年6月10日初版発行
322p 編集後記1p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,900円(本体3,786円)
装幀・装画: 建石修志



本書「編集後記」より:

「本書『磨かれた時間』は、昨年末、肝不全により死去した中井英夫の第七エッセイ集である。第六エッセイ集『溶ける母』(一九八六年、筑摩書房)以降に執筆されたものを中心に、それ以前の単行本未収録作品も収めた。
 表題及び目次構成、カバー写真は、中井の生前に了解を得て決定していたものである。」



同年4月には没後刊行短篇集『黄泉戸喫(よもつへぐい)』が東京創元社から刊行されています。この二冊は、創元ライブラリ版『中井英夫全集』には収録されていません。


中井英夫 磨かれた時間 01


カバー写真は本書の編集者であり著者の晩年の助手であった本多正一氏による「影ふたつ」(中井英夫とともに)。本多氏には著書として、晩年の中井を撮影した写真集『彗星との日々』、中井英夫とのかかわりを豊富な写真図版とともに綴ったエッセイ集『プラネタリウムにて――中井英夫に』があります。


帯文:
 
「時はただ静かにふりつもり、
磨き上げられてゆく……
乱歩、澁澤龍彦、寺山修司など偏愛する作家たちへ捧げられたオマージュ。
そして、都市、書物、時間をめぐる断章。
'85~'87年にかけての長期連載を含む、中井英夫最後のエッセイ集。」



帯背:

「最後の、エッセイ集」


中井英夫 磨かれた時間 02


目次 (初出):

流刑地の弁 (三一書房版 『中井英夫作品集』 内容案内、1986)

I 乱歩変幻
孤独の呟き (『言論は日本を動かす』 第2巻 「人間を探究する」、1986、講談社)
乱歩変幻 (『江戸川乱歩集』 解説、1984、創元推理文庫)
『孤島の鬼』を読む (「中井英夫さんと孤島の鬼を読む」改題/「朝日新聞」、1986年8月31日)
喜びと不安と――乱歩と英太郎と (江戸川乱歩 『孤島の鬼』 解説、1987、創元推理文庫)
江戸川乱歩『貼雑年譜』 (「エスクアイア」、1989年12月号)

II 双つ星の終焉
幻想の回廊もしくは狂気の微光もしくは…… (「幻想文学」、1982年4月号)
「死」を想う、「死」を語る (「アサヒグラフ」、1988年10月28日号)
寺山修司『ぼくが狼だった頃』 (「週刊文春」、1979年4月19日号)
唾を吐く人たちへ (「早稲田文学」、1983年7月号)
彗星に献ず (「彷書月刊」、1987年5月号)
三島と寺山と (「三田文学」、1990年春季号)
贋の金貨 (「鳩よ」、1991年4月号)
かくれんぼ (寺山修司 『黄金時代』 解説、1993年、河出文庫)
知の触手 (「週刊読書人」、1987年8月10日号)
三島も澁澤もいないこの地上なんて (「図書新聞」、1987年8月22日号)
双つ星の終焉 (「ユリイカ」、1987年9月号)
澁澤龍彦『高丘親王航海記』 (「週刊文春」、1987年11月26日号)

III 夢の跡
桝目の幻想 (「小説推理」、1974年3月号)
『幻想博物館』について (「新刊展望」、1972年2月号)
『幻想博物館』について (「新刊ニュース」、1972年2月15日)
屍体透視 (「夜想 5」、1982年1月)
家畜人ヤプーについて (「都市」 別冊、1972年2月)
黒い翼=渡辺啓助の特異性 (「幻影城」、1975年7月号)
怪人十蘭相 (「幻影城」、1975年11月号)
緑の茱萸酒(パンジェンス) (「幻影城」、1975年5月号)
小栗虫太郎私記 (『小栗虫太郎集』 解説、1987年、創元推理文庫)
寂しい巨人 (稲垣足穂 『ヰタ・マキニカリスII』 解説、1986年、河出文庫)
田端のひと・龍之介 (「芥川龍之介」 第1号、1991年4月)
鳥の軌跡 (「芸術生活」、1975年12月号)
夢の跡 (第十九次「新思潮」 第2号、1977年5月)
汚濁の海と死と (「芸術生活」、1972年7月号)
俳句の訪れ (「季刊俳句」創刊号、1973年10月)
弟の旅 (「短歌」、1985年4月号)

IV 幻想旅行者
香りの予感 (「コスメティック・レポート」 第103号、1988年1月)
白い夕映え (「NHK婦人百科」、1971年4月~72年3月号)
生活の中の匂い (「グラフィケーション」、1975年9月号)
緑の安らぎと水の憎しみ (「環境緑化新聞」、1985年10月1日号)
非薔薇の日々 (「風景」、1975年5月号)
花と恐竜 (「gap DEUX」、1990年10月号)
薔薇と透明人間 (「花のように」、1984年夏号)
“時分の花”讃 (「月刊アドバタイジング」、1976年12月号)
幻想旅行者 (「問題小説」、1973年1月号)
的としての東京 (モダン都市文学VII 『犯罪都市』 月報、1990、平凡社)
古き良き田端 (「東京新聞」、1980年11月27日)
上野ふたむかし (「うえの」、1974年9月号)
山住みの記 (「季刊湯川」 第5号、1978年)
五色不動再訪 (「ブルータス」、1990年4月15日号)
野川の明と暗 (「FRONT」、1990年2月号)

V 磨かれた時間
夕映の彼方に (「求人タイムス」、1985年7月18日~86年3月27日号)
 1 初めまして
 2 夏への旅
 3 夢の中で
 4 祭りのあと
 5 綠の微風
 6 地に住める者ども
 7 ミステリーの曲がり角
 8 闇の底で
 9 同時代人
 10 空しい掌
 11 メロンと生ハム
 12 三畳御殿の新春
 13 さらなる彼方
 14 戦後は遠く…
 15 少女歌劇のスタア達
 16 抜け殻
 17 残照
磨かれた時間 (「THE GOLD」、1987年1月~12月号)
 1 遡る
 2 孔雀の羽根
 3 包む
 4 からくり御殿
 5 遅れてきた観客
 6 夢の時間割り
 7 幻のパーティ
 8 二人敏郎
 9 草かげらふの恋
 10 茸の赤ちゃん
 11 死の神秘
 12 空前の奇書
 
編集後記 (本多正一)



中井英夫 磨かれた時間 03


各章の扉に建石修志氏による鉛筆画。



◆本書より◆


「孤独の呟き」より:
 
「“人外(にんがい)”という言葉の初出は詳らかではないが、ひとでなしという意味とは別に、この世の涯、通常の道徳や愛の通じない異次元の世界という意味も乱歩にはあった。『孤島の鬼』の中の“人外境便り”という一章で語られている、細い鉛筆書きの雑記帖の中味。その一節を旧かなのまま引いておこう。
 
  ……不幸(これは近頃覚えた字ですが)といふことが、私にもよくよく分つて来ました。本当に不幸といふ字が使へるのは、私だけだと思ひます。遠くの方に世界とか日本とかいふものがあつて、誰でもその中に住んでゐるさうですが、私は生まれてから、その世界や日本といふものを見たことがありません。
 
 この奇怪な告白をする“私”という少女は、おびただしい片輪者、通常の意味ではない片輪者に囲まれて暮しているのだが、この設定にも乱歩の悲哀が色濃く漂っている。
 
   うつし世はゆめ
   よるの夢こそまこと
 
 と、好んで色紙に記したのもそのせいで、地球という名の流刑地で乱歩は、人間という名のおびただしい片輪者をただ呆然と見つめていたことだろう。
 人でなしの意味の“人外”は、昭和三十年から『面白倶楽部』に連載された『影男』の冒頭に出てくる。本筋とはまったく関係のないアル中のボロ男が、酒場から放り出され、影男に援け起こされるとこういうのだ。
 
  「ほっといてくれ。おれは人外なんだ。人外とは人間ではないということだ。お前さんにゃわかるまい」
 
 その声が何かしら惨憺たる哀調をおびていたので、と乱歩は続けているが、その調子と三島由紀夫の『仮面の告白』の次の一節とはあまりにも似ている。若い女たちに囲まれ、めくれたスカートからのぞく腿の肉の白さにもまったく羞恥を感じぬまま、主人公は自分にこういい聞かせる。
 
  ……お前は人間ではないのだ。お前は人交はりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ。
 
この告白を媒介として、人でなしの“人外”と、流刑囚としての“人外”はみごとに重なってゆく。」



「乱歩変幻」より:

「そう、乱歩は生涯を通じて、ただ胸奥に紡がれる漆黒の夢を語り続けただけなのだ。その夢の源泉は怯えであり鋭い恥の感覚であり、無類のはにかみにあった。それほど孤独だった乱歩が、自分こそ人外(にんがい)だ、人間ならぬ何か悲しい生物(いきもの)だという思いを深めるとき、どうしてせめてもの仲間を作り出さずにいられよう。乱歩のいう変格物の主人公たち。これこそが同類であり分身であり、すなわち乱歩自身だった。乱歩の憂鬱が激しければ激しいほど彼らは生彩を帯び、読者の心に沁みた。」

「それにしても生涯を通じて乱歩の見続けた夢はあまりにも華麗で、それを実現させるためのトリックの希求もまた多彩を極めた。一人二役、その裏返しの二人一役すなわち変身願望、活(いき)人形趣味、レンズへの偏愛、小動物嗜好、狂気、同性愛、夢遊病、影の世界、鏡と迷宮。ありとあらゆる異端と神秘に彩られた、これこそ本物の綺想異風派(コンチェッティスモ)と称すべきだろう。
 活人形といえば、この解説を書いている合間に、乱歩に敬意を表して新宿のデパートにドゥエン・ハンソン展を見に行ったが、これは会場に入るなり失望した。本人はポリビニールアセテートを用いた新しい彫刻だと得意らしいが、こんなものは作品とはいえない。蝋人形の方がよっぽどまし、というのは、彫刻のいずれもが何ともいえず不自然で不健康だったからだ。新聞広告で見て感心した「フットボール選手」も、いざ面と向ってみると額の汗も腕の縮れ毛も、動かないだけにあざとい作り物にしか見えない。皮肉なことに「麻薬患者」という一体だけが中でただひとつ健康だった。」
「大体ドゥエン・ハンソンはこんなもので教訓を垂れようとするからもっての他なので、その点乱歩は徹底してお化け屋敷のお化け以外のものを書こうとはしなかった。」



「『孤島の鬼』を読む」より:

「江戸川乱歩は、その温厚な外面(中略)と違って、無類のはにかみ屋であり、自己嫌悪の度がいちじるしかったことは、(中略)長編『一寸法師』に自分で我慢がならなくなり、隆子夫人に下宿屋を営ませ、放浪の旅に出たことからもうかがわれる。
 その一生を通じて血みどろな残虐さ、人でなしの物語ばかりを書きつづり、恐怖というものがりっぱな読み物になることを日本人に教えてくれたこの人は、(中略)その律義さとは裏腹に、人間を嫌い地上を嫌い、一刻も早くこの世からおさらばをしたいと願っていたことは、すでに昭和六年、雑誌『新青年』のハガキ・アンケートに答えて、生まれ変わったら何になりたいか、どんなものでも二度とこの世に生まれるのは御免ですという返事からもその嫌悪の度合いの深さが偲ばれる。
 これは三島由紀夫がその自決の寸前、人生なんて鼻をつまんで通りすぎたにすぎないと親しい知人に漏らしたように、ふたりながら人外(にんがい)という、人間が嫌で嫌でたまらない、地上はスウィフトが『ガリバー旅行記』の最後に描いたヤフーの臭気に満ち満ちているという認識から発しられたもので、そう思ってふたりの作品を読み返せば、なるほどという感慨がわれわれにも湧いてくる気がする。
 ことに乱歩は、その生涯を通じての代表的長編『孤島の鬼』で、その怯えを語り尽している。いまどき奇形などといい出せば、すぐ人道的立場からベトナムの惨禍にまで話は及び、その擁護などもってのほかと責め立てられるだろうが、乱歩が望んだのはその奇形を通してのみ初めて人間の悲しみ、人間として生まれたことの意味がわかるという(中略)鋭い指摘なのだ。」


























































スポンサーサイト

中井英夫 『月蝕領宣言』

「いまのところ私にはただ待つという行為の他にすることはないらしい。」
(中井英夫 「影の訪問者」 より)


中井英夫 
『月蝕領宣言』


立風書房
昭和54年11月10日印刷
昭和54年11月30日初刷発行
122p
菊判 丸背紙装上製本 貼函
定価2,300円
装幀・装画: 建石修志



本書「あとがき」より:

「小説とエッセイを綯交(ないま)ぜにし、全体でどこから読んでもよく、どこで終ってもいい形式の、ひとつの別な小説にならないものか。そんな興味でこの『月蝕領宣言』を纏めてみた。」
「七八年六月から九月までに執筆した数編をうまく並べると、全体で奇妙な私小説まがいのものが出来はしないかという興味が湧いた。」
「私小説風な発想はまだ私にはあまりにも遠い。(中略)大体がどんなエッセイも半ば小説のつもりで書くのが、いつか私には慣わしとなった。」



中井英夫 月蝕領宣言01


帯文:

「黒鳥館主人、流薔園園丁からさらに狭く暗い所領への意味をこめて月蝕領主を宣言するまでの過程を、小説、エッセイ、リラダンの翻訳で構成する幻想の世界………………。」


帯背:

「私小説指向の
幻想の世界!」



中井英夫 月蝕領宣言02


目次 (初出):

殺人者の憩いの家 (「幻影城」 78年6・7月合併号)
 1・月光療法について
 2・月蝕領主の野心
 3・再び月光療法について
ポオ断章 (「翻訳の世界」 78年8月号)
 頭蓋骨について
 二重の太陽について
 その水脈について
 偏見について
影の訪問者 (「文学界」 78年9月号)
翼のあるサンダル――あるいは蟾蜍の記 (「カイエ」 78年10月号)
異形の者 (「週刊読書人」 78年10月2日号)
カニバリズムの夜 (「現代の眼」 78年11月号)
リラダン 「ヴィルジニーとポール」 (世界文化社 「世界の文学」 別冊 「世界幻想文学」)
不在 (「小説春秋」 79年6月号)

あとがき



中井英夫 月蝕領宣言03



◆本書より◆


「殺人者の憩いの家」より:

「橅(ぶな)や水楢(みずなら)の巨木に囲まれて建つこの高原療養所は、古めかしい尖塔や櫓樓を備えた石造りの館で、ここにはただ冴え冴えとした月光だけがふさわしいと思われた。」

「「あなたがお書きになった“月光浴”という言葉。あれはいいですね。いや、実にいい。うちでも療法に取り入れてみようかと思っているくらいでして、月光療法なんて、第一あなた、しゃれてるじゃありませんか」
 所長の高笑いにつられて、私も仕方なく曖昧に笑った。それは数か月前のY新聞に連載したコラムの一節で、双生児ブームを揶揄するついでに、私自身がかつては黄色に輝く茸だったこと、仲間が大勢いたこと、落葉の中で息づきながら冷え冷えとした月光浴を繰り返していたことなどを、確かな記憶として記したのだが、そんな片隅の小さな囲み記事に眼を留めていてくれたというのが、そもそも意外だった。」
「しかし所長は、なおも熱心に、一葉の切り抜きを持ち出してくると、こういった。
 「これは偶然あなたの書かれた翌日のM紙に出ていたんですがね、どうです、いい話じゃありませんか。月光療法を思いついたのも実はこちらからなんです」
 見るとそれは“サーカスこそ命”という見出しで、柿沼サーカスの柿沼利男氏の半生を紹介している写真入りの記事だったが、冒頭にこんな談話が載っている。
 “そのころ、私はプールの掃除もやりました。二十五メートルプールを深夜一人で掃除するんです。月の光で膚がヒリヒリするほど焼けました。ウソだと思ったらやってごらんなさい。”」
「夜に生き、荒野に生きることの意味。
 もともと虎にしろ縞馬にしろ、本当は月の光の中を跳ぶときだけ虎であり縞馬なのではないか。闇の中に溶けて名づけがたい何物かが、その一瞬に限って名前を与えられ、またすぐ無明の闇に帰ってゆくというのが、それらの生物の正しい在り様なのだから。そして思えば、巨大な天幕を張ったままくろぐろと鎮まる夜のサーカス小屋ほど月光浴にふさわしいものはないだろう。」

「「しかし考えてみると、本当にここに似合うのは、月光より月蝕の方かも知れませんな。前にお話しましたがどうか、実はこの館を買ったときから、敷地一帯を月蝕領と名付けたくらいですが」
 月蝕領。
 いかにもその名は、前に聞かされて以来、私には忘れがたいものになっていた。さりげない呼び方ではあるけれども、その名に秘められた哀しみが、僅かながらでも伝わる気がした。この土地も館も、本来は影に涵(ひた)された部分・影に沈むべき部分であって、かりに月光が黄の雫となって樹々の下枝(しづえ)から地面の朽葉にまで及び、そこに潜む地(つち)斑猫や毒蜥蜴ばかりでなく、ついにこの館の住人たちまでを他人眼(ひとめ)に立つほどに浮き上らせようとするなら、それはいちはやく秘匿されなければならなかった。というのは、名称こそ高原療養所となっているものの、ここに収容されているのは蒼ざめた結核患者でも月に憑かれた狂人でもなく、ことごとくが法の手を逃れた殺人者だったからである。」
「ただひとつ私の聞かされていたのは、彼らの殺人の動機が、情痴・金銭欲・怨恨・狂信のいずれとも無縁だということで、それだけは正門の鉄扉にもまして厳然とした入所の掟であり条件でもあるらしい。」

「これまで私は幻影の黒鳥と倶に棲んで、久しく黒鳥館主人を名乗ってきたが、八年前、タスマニアを旅して、首尾よく渠(かれ)を中部の湖に返すことによってその館を出た。さらに四年前、バガテルやライレローズ、あるいはジャルダン・マルメゾン等の薔薇園をめぐってのち、我家の薔薇はことごとく彼の地から流刑されたと気づいて流薔園の園丁を志した。だがそれはどこかしら充たされぬ、不満な旅であって、どこか必ずもうひとつの、本当におちつける終(つい)の栖(すみか)があると思い続けてきた。それを、ワインを仲立ちとして高原療養所の設立を知り、その土地を月蝕領と呼ぶと事もなげにいわれたときの愕き! 私は表情を匿すのに懸命だった。聞えないふりさえしようと思った。それくらい私はその名に憧れ、自分で考えつかなかった愚かさを悔やみ、果ては激しい嫉妬さえ感じた。
 月蝕領主。
 あといくらも残されていない生の最後に、もしその名を名乗ることが許されるならば――。私が続いて何を考えたかは、もうお判りいただけたと思う。目的を果すためにはまずこの所長をひそかに抹殺して、私が代らなければならぬと思ったのだ。」



「影の訪問者」より:

「過ぎてしまえばいずれ短くはかない季節といえるだろうが、この夏の炎暑はただごとと思えず、おまけに家の周りの三方の道路で、のべつまくなしの下水工事が続いているため、騒音は俄かに身近かなものとなった。そこへもってきて身内のひとりが尿毒症を起し、救急車に三回も同乗する破目になってみると、これまで黙殺してきた外界は文字どおり堰を切ってこちらになだれこんできたと覚しい。」

「幸い病人も私も二人ながら独り身で、この代で中井の家の血すじが絶えるとは何という喜ばしいことだろう。……」

「透析というのは動脈からじかに血液を取り、リンゲル液に老廃物を析出させて綺麗にしてから静脈に返すという大がかりな処置だが、病人は血管が二ミリ以下に細って、いわばつげ義春の『ねじ式』といったあんばいの栓をつける(らしい)外シャント・内シャントの手術もうまくゆかない。」
「いまのところただ待つているのは、九月十七日という私の誕生日に起る皆既月蝕で、そのとき望んだように月蝕領主になれるかどうかという疑問は『殺人者の憩いの家』という小説に記した。(中略)それを眺めるうちに俄かに狼男さながら全身に毛が生えてきて“悪い種子”にふさわしい変身が完了するのか、それとも影の訪問者たちが一人殖え二人殖えして私を取り囲み、本来そこに住むべき地底の王国に連れ去ろうとするのか、いまのところ私にはただ待つという行為の他にすることはないらしい。」



「翼のあるサンダル」より:

「久しいあいだ私の中に巣喰って離れない思い。それはたぶん眼に慣れた道に、あるときふっと異次元界へ通う穴なり入口なりが出現するに違いないという、子供じみた願望であった。(中略)ふだんでも螢光燈だけがしらしらと点った人気(ひとけ)のない地下道を歩いていると、次第に夢見心地となり、歩くというより漂っている気分に陥るのがいつものことだった。それは現実と非現実との境に存在する、おぼめかしい幽暗の地帯であって、いつ知らずその王国へ誘われてゆく思いに浸されずにいない。」

「ところが家の前の道路は無残に掘り返され、覗いてみると四メートルもの深さの底に巨大な下水管が沈んでいる。」



「異形の者」より:

「オレにも読者がいてくれるんだなと知ったのは「幻想博物館」が本になった七二年一月以降のことで、十代後半から二十代前半を主とする熱狂的な読者カードの殺到に、私はただただ呆気に取られた。」
「で、結局その読者カードの山に対して何をしたかというと私はあらぬ方に逃げ出すということしかできなかった。何とかして期待に添わぬよう、できるだけ興味を持たれぬようというのは潜越すぎるいい方だろうが、そうでもしなければ恥ずかしくていたたまれなかったのである。」

「これまで黒鳥館から流薔園へと居を移してきて、さらにこの日以降はひそかに月蝕領主を名乗ろうというのが私の企みである。」
「もっともらしいそんな名称を自分に与えるのは、あまりにも大それた高望みは承知ながら、短編作家としてのポオとリラダンに心酔して久しい以上、今後は少しでもその二人に近い作品を作りあげること以外いっさい何も考えるなという自戒のためである。ただその結果としておそらく中井英夫なる存在は、(中略)見も知らぬ異形の者になり果てることだろうけれども。」



「カニバリズムの夜」より:

「皆既日蝕にこだわるのはその日がたまたま誕生日だったせいで、黒鳥館主人、流薔園園丁と名乗ってきて今日からは月蝕領主を宣言することになっている。そんな名をつけてでも自分を規制したい痴(こけ)の一心で、この夏のあいだ、炎暑と下水工事と身内の病人とに悩まされながら準備してきたリラダン『残酷物語』の意述を初仕事に決めてある。」


「ヴィルジニーとポール」「注」より:

「『ヴィルジニーとポール』は、ベルナルダン・ド・サン・ピエールの長編『ポールとヴィルジニー』のもじりで、こちらはマダカスカル島沖にあるモリシャス島に住む少年少女の純愛悲恋の物語として知られている。もっとも二百年前の作品だけに、いま読むと甘ったるい砂糖菓子の趣だが、リラダンはそれを少しの嫌味もなく、苦く哀しい諷刺の利いた近代人のためのデセールに変えた。」
「十五歳の少年少女がまことに無心にお金と詩情について語り、しかも少女のほうは上流階級の寄宿舎にいるのでしきりと上品ぶりながら、ついつい興奮して地金を出すところがおもしろい。そしてこの新鮮さは末文にあるように、リラダン自身が優しく涙を流しながら人間を見守る行人(un passant)だったからに他ならない。」



「不在」より:

「父母の故郷の山口まで、姉の骨壷を持って行って埋葬する旅だから楽しいわけはない。」
「家族はもう誰もいない。申し合わせたように子供を持たなかったので、おれが一族で最後の人間になった。」
「これはひとりの弟とひとりの姉との旅だ。」
「新幹線は怠りなく走って岡山へ着いた。岡山で一組、広島で二組の新婚さんが乗ってきた。」
「そういえばおやじとおふくろも明治の末、出来たばかりの山陽本線に乗って上京し、どこでどう知りあったのか、熱烈な恋愛の末に結ばれた。ところが五人めのおれが生まれる前後、おやじのほうが勝手に別な女性と愛し合い、二人して外国へ行ってしまうと、もう家の灯は消えた。(中略)父と母が夫婦だと聞かされ、男と女は夫婦になるものだといわれてもおれにはよく判らなかったし、いまも判っているとはいえない。それでいてテレビの“新婚さんいらっしゃい”という番組は欠かさず見るし、若い父親が子供に頬ずりせんばかりでいる情景を見かけると、羨ましいのでもない憧れとも違う、すっかり妙な気分になって眺めるのは何のせいだろう。一度も話し合ったことはないが、姉もずっとそんな気持でいたのだろうか。」

「菩提寺の広い本堂で、読経は長く続いた。七十八歳の住職は骨壷の軽さを気にするようすもなく、足が悪いので、腰掛けてお勤めしている。おれひとりが正面に坐って、しびれのきれた足をゆさぶりながら、それでもひととき霊界と現世を繋ぐ黒い坑道めいた穴を感じた。
 骨壷は仏前から戻されても相変らず軽かった。深い墓窖へおろすためビニール紐を借り、針金に結びつけて静かに吊り下げると、それは頼りなく揺れて、かるがると地下の幽暗に達した。」



中井英夫 月蝕領宣言04


中井英夫 月蝕領宣言05

本体表紙。背の部分は革風のデザインになっています。



こちらもご参照下さい:

モーパッサン 『水の上』 吉江喬松・桜井成夫 訳 (岩波文庫)



























































































別冊幻想文学 『中井英夫スペシャル II』

「とにかく本当に僕って物知らずなんですよ。何かいろんなこと知ってるような顔はしててもね。(中略)いちいち何かにびっくり驚いて書いてる。それがかえってよかったのかもしれませんね。」
(中井英夫 インタビュー「塔晶夫は語る」 より)


別冊幻想文学 
『中井英夫スペシャル II 
虚無へ捧ぐる』


幻想文学出版局 
1993年2月15日初版
240p 
A5判 並装 
定価1,700円(本体1,650円)
編集人: 東雅夫
表紙デザイン: 建石修志



巻頭グラビア16p、本文中図版(モノクロ)多数。


中井英夫スペシャルII 01


中井英夫スペシャル II 虚無へ捧ぐる 目次:

翳の祭典 乱歩と私 (中井英夫)

【新作短篇】
若い豹への手紙 (中井英夫)

【未収録作品復刻】
地底から (中井英夫/画: 建石修志)
光あれ (中井英夫/画: 梅木英治)

【秘蔵資料公開】
虚無なる日々に――未公開日記抄 (中井英夫)

【インタビュー】
塔晶夫は語る (中井英夫)
奈々村久生の回想 (尾崎左永子)

【虚無への供物論集成】
私の見つけた本/可能性の極限 (埴谷雄高)
十年間の孤独な情熱 (日高普)
虚無への〈書物〉 (相澤啓三)
ひろく読者の手へ (大井廣介)
たくらみぬいた不可能犯罪 (開高建)
『虚無への供物』の回想 (荒正人)
難攻不落の城の企み (赤江瀑)
中井英夫論 (斎藤慎爾)
完全犯罪としての作品 (笠井潔)
ペダントリーの饗宴 (原田邦夫)
サファイアの光芒 (渡辺啓助)

【充実の資料集】
中井英夫研究・参考文献目録 (本多正一 編)
『虚無への供物』幻学百科事典 (幻想文学編集部 編)

【虚無へのコラム】
実録・乱歩賞選考委員会 迹見富雄氏に聞く
カルト〈虚無〉 
戸川安宣氏に聞く 文庫版中井英夫全集発刊について



中井英夫スペシャルII 02



◆本書より◆


「塔晶夫は語る 中井英夫インタビュー」より:

中井 (中略)そのころ有吉佐和子さんと二人で原稿用紙を作ったのね、一連四千枚を二千枚ずつ分けて、彼女はそれを全部、原稿料に換えて、あっという間に売り出しちゃったけど、こっちは全部書き損じにして、それからそのあと自分だけでまた何回か、一連ずつぐらいかな、作っては潰し、作っては潰し。だから一万枚以上は書き潰してるわけです。だって、四十一枚目で失敗をすると、そこから書き直せばいいのに、始めへ戻って、もう一回通して書かないと、その四十一枚目の壁が飛び越せないんですよね。(中略)そこを飛び越すためには、またスタートへ戻らないと。それが四十枚、五十枚ならいいけど、四百枚ぐらいいってもやってたの(笑)。反故もできるわけだよね。
――そうまで難航したいちばんの理由は?
中井 話言葉でそれぞれの人物が明らかになるように、つまり「~と藍ちゃんは言った」とか、「~と、久生は言った」なんて書かなくても、喋り言葉だけで、そのキャラクターが出るようにしたかった。ところが牟礼田というのが、それが出ないんですよ。それでやっと「氷沼家の悲劇は悲劇で、それらしい終りにしてやるのが、友情といったものだろう。ところが奈々じゃ、それを喜劇にしかねない。そんな立会いはお断りだね」という、最後に藍ちゃんたちが蒼司と対決しようとする前に牟礼田が言うセリフ、それが思い浮かんでね、ああ、この口調で喋らせれば、というんで、また第一章から書き直して(笑)。つまり喋り言葉の文体まで気にする奴って、あまりいないかもしれないけれど。僕にとってはそうだったですね。」

「――特に印象に残っているスピーチなどは。
中井 それがせっかく三島や寺山が話をしてくれてるのに、ちっとも覚えてないんです。ドイツ文学者の高橋義孝さんに「中井さんて、あなた、本当にヘンな人ですね。どうせならこのままヘンな人を貫きなさい」って言われたのはよく覚えてますけど。確かに貫いちゃったわけです(笑)。」

「最近も、朝の九時半から、八チャンネルかな、「おはようナイスデイ」とかいうのをやるんですよね。まったくそれはネタにことかかない。全国津々浦々から、やれ、少年が教師に突き飛ばされて意識不明になったとか、連続首吊り自殺が起こったとか、そういうことってすごく気になるけれど、それはつまり、どこかに裏側がほの見えてこないかということですね。それは現実と呼ばれることだけれど、もしかして非現実が根本にあって、それが顔を出してきた事件ではなかろうか、と。そうでないと僕はまったく興味がないんです。
 ただ、このごろ困るのは、僕自身が非現実に住んでるもんだから(笑)、とにかく有名になることとお金儲けが何より嫌いなので、うまく現実に適応できなくなってきた。」



「サファイアの光芒」(渡辺啓助)より:

「ここではその全部に触れる余裕がないので試みにこの多面体の一つの面――特に私が心惹かれる――だけを取りだしてみよう。その面の作品は、いわゆる未熟児的発想にもとづくと考えられがちであり、いわゆる現実的な生活の知恵とやらに毒されてしまった分別ありげな成人者たちからすればおよそ無縁な系列がある。――『黒鳥の旅』『幻想博物館』『悪夢の骨牌』『人外境通信』などの類である。」
「とりわけ私が偏愛するのは『人外境通信』中の諸篇である。
 人外は、にんがいと呼ぶべきであると彼は考える。一口言うとにんがいとは広辞苑によると①人倫にははずれること。ひとでなし。②普通の人間の取扱いを受けられぬ下賤のものとなっている。
 しかし、中井英夫のいわゆる「人外」はもっと含蓄のあるリリカルな余韻を漂わしているもののごとくである。
 冒頭の一篇「薔薇の縛め」には――
  
  人外(にんがい)
  それは私である
  ことごとしくいい立てることでもない、殊更に異端の徒めかすつもりもない。ただ、いまは用いられることも少なくなったこの言葉に、私はなお深い愛着を持つ。人非人というニュアンスともまた異なる、あるいは青春の一時期に誰しもが抱くあの疎外感、いわれもなく仲間外れにされたような寂しさなどではもとよりない、ついにこの地上にふさわしくない一個の生物とでも定義すれば、やや近いかも知れない。どこかしら人間になりきれないでいる、何か根本に欠けたところのある、おかしな奴。そう呟きながらも、なお長く地球の片隅の小さな席にへばりついている哀れな微生物。

 これが作者の人外なるものの定義である。この『人外境通信』よりもずっと前に書かれた『幻想庭園』には、その第一頁に、

  子供のころ、母の訳してくれたバーネット夫人の『秘密の花園』に読み耽ってからというもの、私にはいつかこの地上のどこかに、この世ならぬ神秘な花の咲き乱れている庭があるという確信が棲みついたらしい。それも突飛な場所ではなく、ふだん見慣れてよく知っているところに、ある日思いもかけぬ小さな入口が見つかり、猫のように体をしなわせて潜りこんでみると、妖しい色の花がいちめんに咲いている人外境に突然出る筈だといういわれない確信である。

 以上によって作者のいわゆる人外ならびに人外境なるものの概念が、おぼろげながら解る気がするのであるが、しかし、だまされてはいけない。何か根本に欠けたところがあるおかしな奴とか、地上の片隅にへばりついている哀れな微生物などという劣等感めいた言葉の魔術にひっかかってはいけない。そのレトリックの口裏には、常に、したたか幻夢者の傲慢(ごうまん)さがかくされていると見るべきであろう。なぜならば、詩人であるかぎり、この種の傲慢さは当然持っているはずであるから。
 そしてあの程度の傲慢さがなかったら、血紅と漆黒のみが支配する人外境館(やかた)のあの華麗無残な薔薇綺譚は生まれるはずがないのだから、」






































































































































































別冊幻想文学 『中井英夫スペシャル I』 (改訂版)

「ぼくはあなたのおっしゃったようにちょっとかわいがっていただくという発想はとても持てないですね。むしろ手袋をたたきつけるという発想でしか向かえないものがありますね。」
(中井英夫 対談「怪奇と幻想の周辺」 より)


別冊幻想文学 
『中井英夫スペシャル I 
反世界の手帖』


幻想文学出版局 
1986年6月15日初版
1993年2月15日改訂版
240p
A5判 並装 
定価1,700円(本体1,650円)
編集人: 東雅夫
表紙デザイン: 建石修志



巻頭グラビア16p、本文中図版(モノクロ)多数。


中井英夫スペシャルI 01


中井英夫スペシャル I 反世界の手帖 目次:

少年とカメレオンの話 (中井英夫/画: 建石修志)
不思議の町のハネギウス (文: 中井英夫/写真・構成: 編集部)
 猫と少女
 踏切と死
 花と地蔵と抜け道
 店と人々
 法王庁にて

【幻の初期作品復刻】
燕の記憶 (緑川弓雄)

第十四次「新思潮」について (渡辺一考)

【インタビュー】
「燕の記憶」の頃――生い立ちを語る

【対談】
怪奇と幻想の周辺 (半村良/中井英夫)
『虚無への供物』にはじまる (笠井潔/竹本健治)

【エッセイ】
中井さんのこと (澁澤龍彦)
私と中井英夫氏 (椿実)
作家の後姿 (春日井健)
『虚無への供物』の世界 (泡坂妻夫)
かつて黒峠にて (須永朝彦)
十年目の薔薇 (山尾悠子)
「おゝ、厳格なる数学よ」とその後 (建石修志)

【評論】
黒鳥幻想 (金子博)
〈不条理〉への供物 (川村湊)
少年たちの時間旅行 (川崎賢子)
『とらんぷ譚』論 (倉阪鬼一郎)
黒衣の使者・中井英夫 (斎藤慎爾)
月蝕領測地図 (大橋喜之)
虚無への贅言 (加藤幹也)

【ブックガイド&リスト】
中井英夫主要著作ガイド (小林孝夫・倉阪鬼一郎 編)
中井英夫全著作目録&書評選 (幻想文学編集部 編)
 珍重すべき“壮大な愚挙” (都筑道夫)
 華麗な反推理小説 (権田萬治)
 脱生活の快感 (まつもとつるを)
 中井英夫の負記号の宇宙感覚 (種村季弘)
 優美な室内楽の追憶 (種村季弘)
 超越する“反世界”の魔――泉鏡花賞受賞の中井英夫氏に聞く (抄)
 さらば、われらが黒鳥の日々 (加藤郁乎)
 汚辱と悲しみにあふれた闘い (田中美代子)
 幻想の闇の中の聖痕 (磯田光一)
 エピキュールの園の人形芝居 (奥野健男)
 譚(はなし)の名手の高揚と抑制と (出口裕弘)
 数少ない語り手としての資質 (鷲巣繁男)
 秘教的な時間の揺成 (堂本正樹)
 整然とした迷宮世界 (松田修)
 狂気と俘囚への憧れ (伊東守男)
 「流刑の時空」の隔差 (由良君美)
 贅沢としての「言語地獄」 (高田宏)
 菊から菊へ (椿実)
 幻想作家の永遠の不幸の相 (高橋慎哉)
 “界隈”の光茫をつくる名人 (松岡正剛)
 青春の妖しい情念世界を描く (佐々木国広)
 主旋律は死・狂気 (市村繁幸)
 反地上性・美の継承・人外境 (佐藤通雅)



中井英夫スペシャルI 02



◆本書より◆


「「燕の記憶」の頃――生い立ちを語る」より:

「そういうふうに、血筋としてはまあ良いものを享けてるはずなんですけども、私めは、小学生の頃から変なことばっかり考えててね、たとえば地理ってのが分かんない。(中略)どこそこは物資の集散地で、人口がいくらなんて覚える必要あるかと。だから後にコンピュータが好きになったのもそれなんです。そんなこと全部コンピュータがやってくれりゃいいって。あれがまた足し算しか出来ないでしょう。引き算も足し算の裏返しでやっちゃう、掛け算はもとより。それがまた嬉しくって、ワケも分からずに出来たばかりのコンピュータ学院に通ったりしましたけれど。」


「怪奇と幻想の周辺」より:

中井 (中略)ぼくはもう一つ、仲間が少ないというのは、つまりみんな器用すぎて、推理小説でもSFでも何でも書けちゃう。それは一面で結構だと思いますけど、ただその場合、本気で“向こう”を信じてないんだなということ。どうも半村さんとか赤江瀑さんなんていう方は本気で“向こう”を信じてるというか、向こう側の非現実世界にむしろできたら行きたいんだというような感じがあるでしょう。それはどうなんですか。
半村 そうですね。まったくおっしゃるとおりなんですけど、(中略)そういうおっしゃり方とても苦手なんですよね。(中略)中井さんがおっしゃるように、向こう側を信じてるか、「はい、そうなんです。信じてます」って、とっても言いづらいんですね。こいつ気ちがいじゃないかと思われやしないかという……。
中井 (中略)三島由紀夫なんていう人は完全に向こう側を信じてた人ですよね。そういう人の持ってた、もうちょっと本気な推進力がないといけないんじゃないかという気がする。それがもう少しこの世界をおもしろくするゆえんで、器用さにまかせて書くということもいいでしょうけども、やはり読者にとっては……。」

半村 (中略)ただ、わたしはとっても発想法というか、人間のこしらえ方が、自分を芸人的にこしらえちゃったものですからね。ですから何をおっしゃられても、まずかわいがっていただくという姿勢ができちゃってるものですからね。」
中井 (中略)ぼくはあなたのおっしゃったようにちょっとかわいがっていただくという発想はとても持てないですね。むしろ手袋をたたきつけるという発想でしか向かえないものがありますね。」



「『虚無への供物』にはじまる」より:

竹本 (中略)あるときお酒をだいぶ召しあがってね、縁側に出て、そのままツツツと庭を横切って玄関のアーチの所に咲いてる薔薇とお喋りをはじめたそうです(笑)。そのうち急に“痛いッ”と仰って“お前は私に棘を刺すのかい”って。こんなこと話すと叱られるかな。
笠井 いいじゃないですか、美しい。」



泡坂妻夫「『虚無への供物』の世界」より:

「中井英夫はポウが書きたかったこと――幻想の世界を現実のものとして描き出そうとして発見した技術を使い、現実を幻想のものとして描くという放れ業を演じたのだ。反世界を突き付けられた読者は、もう、醒めるわけにはゆかない。
 私は『幻影城』の編集長に紹介され、何度か中井さんとお会いして奇術など演じたことがあるが、その表情はいつもあまり楽しそうではない。中井さんを本当に満足させるのは、本物の魔法使いしかいないからだ。」




中井英夫スペシャルI 04

建石修志「落下するアリスもしくは五時の行進」(1973年)。




































『秘文字』

「DIRP OKscp tblPW WNuxR MLZbf mwhpo hfhqf llpop nwnms kiokf eqtCJ Tkxei HZHFs wAFgf ysqzp rdofy oetrl iou」
(日影丈吉 「こわいはずだよ狐が通る」 より)


『秘文字』
泡坂妻夫/中井英夫/日影丈吉
監修: 長田順行
企画編集: 田中敏郎

社会思想社
1979年2月28日初版第1刷発行
198p
26.4×17.6cm
丸背紙装上製本 機械函
定価4,800円
装釘・挿画: 建石修志


「本書は、泡坂妻夫、中井英夫、日影丈吉三氏の、暗号をテーマにした書下ろし短篇小説をそれぞれ代表的な形式により暗号化したものである。
監修と解説執筆は暗号研究の権威、長田順行氏。
暗号の原理と基本的な解読法は“解説”で述べられている。

暗号に封じ込められた三篇の暗号譚。
封印を解くのは読者自身である。」

「〈解答篇〉
愛読者カードで請求された方には、三作品の原文と具体的な解読法を解説した小冊子をカード到着時より三箇月後にお送りします。」



秘文字01


帯文:

「暗号研究の第一人者と異色三作家の手による
知的チャレンジの極致、「暗号の書」登場!
暗号をテーマにした小説の全文をそれぞれ代表的な形式で暗号化(巻末に解読法を示唆した解説を付す)した二重底構成

寺山修司 言語はそれ自体の裡に、暗号性をはらんでいるものだが、『秘文字』では暗号を主題にした暗号小説を暗号で出版するというのだから、その面白味が一段と重層化されることになる。顔ぶれも、日影丈吉、中井英夫、泡坂妻夫と、耽美的な陰翳をもつ「月蝕文学」の揃いぶみで、読者を知的遊戯へと誘ってくれるだろう。少年時代に森下雨村の「謎の暗号」を読み、すっかり暗号の虜になってしまった私は、一度は暗号で小説を書いてみたいと思っていたが、『秘文字』で先を越されてしまった。

■ご購読の方には作品の原文と具体的な解読法を示した小冊子送付。■三作家直筆の色紙プレゼント(読者カード参照)」



秘文字02


帯背:

「世界初!書き下し
暗号小説を暗号化」



帯裏:

長田順行■一八四一年、エドガー・アラン・ポオは編集長をしていたグレアム誌上で読者から暗号文を募集し、そのすべてを解いたといわれている。それから百三十有余年、こんどは、読者が挑戦を受ける番となった。
欧米では暗号解読を知的遊戯として楽しむ人も多く、同好会もある。
わが国でも、これを機会に暗号解読を楽しむひとが一人でも増えることを望みたい。
日影丈吉■(小説を暗号化するというこの書の形式は)暗号文の殻と中味をいっしょに味わおうという、ひとつの料理法である。チョコレートを着せた砂糖菓子(コンフィズリー)を想定してもらえばわかると思う。
中井英夫■この書物は、(かつて暗号に関係する仕事に携ったことのある)私にとっては、暗号と暗合のないまぜとなった奇書という他はない。
泡坂妻夫■うっかり(暗号小説の執筆を)引き受けると、とんでもないことになるぞと思いながらも、暗号の虫がもそもそ動き出し、全身にはしゃぎはじめるのを押えることができなかった。

[「秘文字」構成]
作品(暗号文)
 かげろう飛車/泡坂妻夫
 薔薇への遺言/中井英夫
 こわいはずだよ狐が通る/日影丈吉
暗号のための序
 暗号三昧/泡坂妻夫
 暗号と暗合/中井英夫
 偽装の論理/日影丈吉
暗合法とその解き方/長田順行」



秘文字03


扉。本を左側から開くと暗号小説、右側から開くと作者のコメントと暗号解説。扉は巻頭と巻末に二枚あって、巻末の方は鏡像のように左右反転されています。


目次:

かげろう飛車 (泡坂妻夫)
薔薇への遺言 (中井英夫)
こわいはずだよ狐が通る (日影丈吉)

暗号三昧 (泡坂妻夫)
暗号と暗合 (中井英夫)
偽装の論理 (日影丈吉)

暗合法とその解き方 (長田順行)
 はじめに
 1 暗号法の原理と六つの形式
 2 暗号解読の基礎
 3 三つの解読問題
 4 「秘文字」の暗号について
 付記



秘文字04

「かげろう飛車」(泡坂妻夫)


秘文字05

「薔薇への遺言」(中井英夫)


秘文字06

「こわいはずだよ狐が通る」(日影丈吉)


秘文字07




































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本