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『ルドルフ・シュタイナー選集 第9巻 社会の未来』 高橋巖 訳

「経済生活へのこの迷信をよく意識しておくことがとても大切です。この迷信のために今日の非常に数多くの人びとが、経済生活によって望ましい社会秩序が生み出されるばかりではなく、望ましい社会秩序に対応した新しいタイプの人間までもが産み出される、と思い込んでしまっているのです。」
(ルドルフ・シュタイナー 『社会の未来』 より)


『ルドルフ・
シュタイナー選集 
第9巻 
社会の未来』 
高橋巖 訳
 

イザラ書房 
1989年3月20日 第1刷発行
299p
A5判 丸背布装上製本 
貼函 本体カバー
定価3,900円
造本: 横尾忠則



Soziale Zukunft
スピン(栞紐)二本付。


シュタイナー 社会の未来


帯文:

「霊学の光に照らされた超国家論の全貌
ナチス台頭期、迫害のさなかに、シュタイナーが全身全霊を込めて
展開した社会有機体三分節化論。その驚くべき予言性と熱い祈り。」



帯裏:

「霊界においては、魂のもっとも内面的な力が発揮されているのに対して、国家においては、人間と人間の関係におけるもっとも外面的なものだけが働いているのです。……国家は精神生活と何の関係もありません。それは精神生活の反対物なのです。私たちが現在のおそろしい現実を理解しようとするのでしたら、このことを見通すことができなければなりません。現代人は、外的現実をしっかりと見据えるために、霊的現実を理解しようと努めなければなりません。
シュタイナー」



目次:

第一部
 近代社会主義の思想形態
 史的唯物論、階級闘争、剰余価値
 ヘーゲルとマルクス 霊的社会主義による両者の調和
第二部 社会の未来
 第一講 精神問題、法律問題、および経済問題としての社会問題
 第二講 連合体を基礎にした経済―市場の変化―価格形成、貨幣と税の本質、信用
 第三講 法律問題、民主主義の課題と限界、公権の在り方と刑法の管理
 第四講 精神問題、精神科学(芸術、科学、宗教)、教育制度―社会芸術
 第五講 精神生活―法生活―経済生活、三分節化された社会有機体の統一化
 第六講 三分節化された社会有機体における国民生活と国際生活

付録
 一 世界問題
 二 世界問題における精神生活の忘却
 三 ドイツ民族と文化世界に訴える

訳者の解説とあとがき




◆本書より◆


第一部より:

「大切なのは、思考の内容よりも思考の形態を観察することです。何を(引用者注: 「何を」に傍点)考えているかよりも、いかに(引用者注: 「いかに」に傍点)考えているかの方に注意を向けて下さい。ですから誰かが反動的であるか、それとも民主的、社会主義的またはボルシェヴィズム的であるかは、現代の社会運動の本質にとってそれほど重要ではありません。私たちが何を(引用者注: 「何を」に傍点)語るのかはまったく重要ではなく、重要なのはいかに(引用者注: 「いかに」に傍点)考えるかであり、どのようにして思想を形成するかなのです。思想や綱領において過激な社会主義者でありながら、その思考形態においては古い封建主義者であるような人が今日いくらでも活動しているのです。
 ですから私たちは魂の深層に注意を向けなければなりません。(中略)今私たちの間を徘徊している諸思想はミイラのようなもので、時代の動きの中ではごくわずかな影響しか及ぼしません。これまでとは別様に考え、別様に思想を形成することに多くがかかっているのですが、現在のところ、人間の思考を本当に新しい方向へ導くことのできる思想として、霊学以外のものはまだ見出せません。だからこそ霊学は大抵の人にとって空想的なものに思えるのです。」

「人びとはルツィフェル(人間を物質界から引き離そうとする働き。シュタイナーはそれを悪の働きの一方の極と考えている――訳者)とアーリマン(同様に、人間を霊界から引き離して物質界にのみ関わらせようとする働き。悪の働きのもう一方の極――訳者)について聞かされ、「ああいやだ、そんなことは考えたくない。私はルツィフェルやアーリマンには関係ない。善き神様の下にいる」と言います。――そういう人たちこそ、ルツィフェルとアーリマンの誘惑に深く陥っているのです。それはその人たちが抽象的な考え方をしているからです。大切なのは正直に、誠意を持って、私たちが現代の社会過程の中に組み込まれて生きていることを意識し、自己幻想に陥ることなく、社会過程が全体として健全になるために可能な限りのことをすることです。」
「今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるということが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではなく、克服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いているからなのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、(中略)他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人びとを深く捉えている睡眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょうから。」

「思想の自由(引用者注: 「思想の自由」に傍点)、つまり思想の内なる自発性もまた、現代の深い無意識が求めているものです。しかし意識の表面はまさにその反対を求めているように見えます。または求めねばならないと思っているようです。ですから無意識はなおさら過激に反抗し、それが現在の恐ろしい階級闘争となって現れているのです。権威から自由になろうとした近代の支配的な市民層は、新しい種類のさまざまな権威信仰の中にまた落ち込んでしまいました。特にそれらの権威の中で最高の権威となった国家に由来するすべてのものに対して、盲目的な信仰を捧げるようになってしまいました。近代市民階級にとって、たとえば「専門家」の判断以上に高い権威はあるでしょうか。社会生活上のすべての事柄について、人びとは国家が認める「専門家」の判断に頼ろうとします。国家の資格試験に合格した人なら事柄の本質に通じているに違いない、というのです。(中略)国家がその国民のために設けた精神上の実験室で、つまり国立大学で、人間理性の内容全体が醸造されている事実に対しては、近代の指導層の人たちは全面的に信仰しているのです。この指導層は各人が各自の意識をもつようになることを求めず、意識にユニフォームを着せ、それが根本において広義での国家意識となるように、ひたすら求めるのです。近代意識は、本来人びとが信じているよりはるかに徹底して「国家意識」となってしまったのです。人びとは国家のことを、自分たちに必要なすべてを与えてくれる神であると思っています。」

「人生を真に支えてくれるものは「現代の三位一体」の意味を考えるときにのみ、見つけ出すことができるのです。すなわち人間が中央に位置しています。そしてその一方の側にはルツィフェル的なものが、他方の側にはアーリマン的なものが位置しています。アーリマン的唯物論とルツィフェル的唯心論とが両極端に位置し、人間はその中心に位置して両者のバランスをとるのです。
 皆さんが真実を知ろうとするのでしたら、理想主義者か現実主義者、または唯物論者か唯心論者に留まり続けることはできません。そのいずれにもなれなければならないのです。皆さんは精神を徹底して探し求め、それを物質の中にも見出せなければなりません。つまり物質を通して精神を見出すことができる程にまで、物質の本質を洞察しなければなりません。
 これが新しい時代の課題なのです。唯心論と唯物論について論争を続けるのではなく、バランスをとる位置を見つけるのです。なぜなら両極端であるヘーゲル的ルツィフェル主義とマルクス的アーリマン主義とは、すでに十分に生きてきたのですから。(中略)今日の人びとは両者を調和させうるものを本当に見出さなければならないのです。そしてそれが人智学的霊学の課題なのです。」

「現実に従うことは大切です。しかしそれは妥協することではありません。(中略)それは世界大戦による破壊がこれまでの戦争の場合とは悪い意味で異なっていたことに気がつき、以前の思考とは異なった思考でこの現実に対処しようと本当に決心することなのです。この大戦の結果生じた恐ろしい不幸に直面して、これまでの歴史の中でこんなことは一度もなかった、と人びとは語っていますが、思想に対しても「こんな思想はこれまでの歴史の中にまったく存在しなかった」と言えるような思想を、この恐るべき不幸を通して、身につけるべきなのです。」



第二部より:

「一般社会での自由の概念の例としてウッドロウ・ウイルソンの場合を取り上げてみましょう。彼の考え方は、現代文化の特徴をよく示しております。ウイルソンは真実、心の底から、現代の政治生活のために自由を求めております。しかし彼の言う自由とは何なのでしょうか。それは彼の次のような言葉からも明らかです。彼によれば、船が自由に航海できるのは、船の構造が風向き、海流その他、航行中の周囲のあらゆる条件によく適応できたときなのです。したがって船を先へ進めるためには、風や波から生じる力による障害がどこにも生じないようにしなければなりません。同じように人間生活が自由でありうるには、生活環境から来る力にさからわず、どこからも障害が起こらないようにすることなのです。――ウイルソンは人間の自由な生活を機械の部品とも比較しています。つまり機械もまた、自由に働くためには、組み込まれた部品がどこからも妨げられず、まさに機械の中で自由に働けるような構造をもっていなければならないのです。
 私はただひとつのことだけを言おうと思います。このような環境への適応の正反対を行うときにのみ、人間の自由が語れるということをです。最高の仕方で風や波に適応する海上の船のような在り方が人間の自由なのではありません。周囲から来る力の働きなどにかまうことなく、風や波にさからってグルグルまわったり、立ち止まったりする船なら、人間の自由と比較できるでしょう。ウイルソンの自由観の根底には世界に対するまったく機械主義的な考え方があるのですが、今日の人びとはそのような考え方を唯一可能な考え方だと思っています。このような考え方は、近代になって表面に現れてきた主知主義の産物なのです。」

「人間とは何かを知るためには、人間の究極の目標を知らねばなりません。たしかに人間の本性の一部分は遺伝されて存在していますが、人間はその体的本性が備えていない別の本性をも、自分自身の中から生じさせることができるのです。自分の内部にまどろんでいる人間を目覚めさせることによってです。ですから「人間は自由か」ではなく「内的発展を通して、私は自由な存在になることができるのか」と問うべきなのです。――人間が自由になりうるのは、自分の中にまどろんでいるもの、目覚めさせて自由にすることのできるものを、自分の中に育て上げたときなのです。言い換えれば、人間にとっての自由は生まれたときから与えられているものではありません。それは自分の中から目覚めさせることによって可能となるものなのです。」

「主知主義者であることが楽なのは、抽象的な概念で自然を研究するので、現実から距離を置くことができ、現実そのものからの影響を受けずにいられる、と思えるからです。実際、ここで主張されている認識を真剣に受けとめ、自力で内的進化を遂げようとしますと、人生の現実の中に深く沈潜していかなければならなくなります。人間存在そのものの中にも深く下りていかなければなりません。主知主義者の自己教育によるよりもはるかに深くです。主知主義は人生の表面からあまり深く入っていくことができません。ここで述べられているような認識によって、人間の内的本性の深みにまで下りていくと、外界の像である単なる思考内容や知覚内容だけではなく、内的本性の現実にまで行きあたるのです。そこでの諸事象は知的な認識に留まろうとする人の心を脅えさせますが、それらは大自然、大宇宙の奥深くで生じるものと同じ種類のものなのです。自分自身の内部で、人は宇宙の本質そのものと出会うのです。
 けれども単なる抽象的な概念や自然法則に留まる限り、そのような出会いには到りません。私たちは現実の本質部分と融合するところまで行かねばなりません。現実の側に立つことに恐れを抱いてはなりません。内的に進化を遂げることで、現実の中にしっかりと立ち、しかも現実にのみ込まれたり、焼き尽くされたり、窒息させられたりせずにいなければなりません。現実の内部に居り、知的な態度でそこから距離を置いたりはせずに、事物の真実とひとつになるところにまで到らなければなりません。」

「日常生活のための芸術形成がどれ程大きな社会的な意味をもつか、どうぞ考えてください。すでに述べたように、そしてこれからも述べるつもりですが、日常生活の在り方は人間がどのように考え、かつ感じるかによってきまります。私たちの周囲の生活空間の中の事物が芸術的に形成され、どのスプーンもどのグラスも、単に使用目的に応えるだけでなく、美しいと感じられるような形態をもって使用目的に役立つとき、それは非常に大きな社会的意味があるのです。精神生活が実際生活と直接結びついているとき、芸術も生きるのに必要であると感じられるでしょう。」































































『ルドルフ・シュタイナー選集 第8巻 自由の哲学』 高橋巖 訳 

「私を直接導いているのは、一般的な慣習や普遍道徳や一般人間的な原理や道徳規範などではなく、行為に対する私の愛である。私は私に衝動を促す自然の強制も道徳的至上命令の強制も感じない。私はもっぱら私自身の中にあるものを実現しようと欲する。」
(ルドルフ・シュタイナー 『自由の哲学』 より)


『ルドルフ・
シュタイナー選集 
第8巻 
自由の哲学』 
高橋巖 訳
 

イザラ書房 
1987年12月27日 第1刷発行
317p
A5判 丸背布装上製本 
貼函 本体カバー
定価3,900円
造本: 横尾忠則



Die Philosophie der Freiheit
スピン(栞紐)二本付。


シュタイナー 自由の哲学


帯文:

「究極の自由のありかを探る
「神智学」・「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」と並ぶ
シュタイナー畢生の大著。高橋巖渾身の訳業ついに完成!」



帯裏:

「私は自由を宇宙過程を表す概念として論じようとしました。人間の内部には地上的なものだけでなく、偉大な宇宙過程も働いているのです。このことを感じとれる人だけが自由を理解でき、自由を正しく感じとれる、ということを『自由の哲学』の中で示そうとしました。この宇宙過程が人間の内部に取り入れられて、その内部で生かされるときにのみ、そして人間の最も内奥のものを宇宙的なものと感じとるときにのみ、自由の哲学へ到ることができるのです。
シュタイナー」



目次:

一九一八年の新版のためのまえがき
初版の第一章 あらゆる知識の目標

第一部 自由の科学
 第一章 人間の意識的行為
 第二章 学問への根本衝動
 第三章 世界認識に仕える思考
 第四章 知覚内容としての世界 
 第五章 世界の認識
 第六章 人間の個体性
 第七章 認識に限界はあるのか
第二部 自由の現実
 第八章 人生の諸要因
 第九章 自由の理念
 第一〇章 自由の哲学と一元論
 第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命
 第一二章 道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳
 第一三章 人生の価値――楽観主義と悲観主義
 第一四章 個と類
第三部 究極の問いかけ
 第一五章 一元論の帰結

付録
 一 一九一八年の新版のための補遺
 二

訳者あとがき




◆本書より◆


「初版の第一章」より:

「われわれの時代の特質を正しく言い当てようとするならば、現代は人間の個体の崇拝をあらゆる関心の中心に据えようとしている、と言うことができよう。どんな形であれ、一切の権威の克服が力の限り求められている。個性を根拠にしているものだけが、有効と認められる。個人の能力の完全な展開を妨げるものはすべて排除される。(中略)どんな理想といえどもわれわれを抑圧することはできない。十分に深く自分の本性の根底にまで降りてゆくことができるならば、われわれひとりひとりの内部には高貴であり、価値あり、発展するにふさわしい何かが必ず存在している、と確信することができる。すべての人が追従しなければいけないような人間が存在するなどと、われわれはもはや信じていない。完全な全体はひとりひとりの個体の独自の完全さの上に成り立っているものでなければならない。われわれが作り出そうと望んでいるのは、別な誰かにもできるような何かではなく、われわれの存在の独自性に従って、ただわれわれだけに可能なような何かなのである。そのような何かがささやかな寄与として宇宙進化に組み込まれていくべきなのである。今日ほど芸術家たちが芸術の規範や規則について何も知ろうと望まなくなった時はない。誰もが自分に固有のものを芸術的に形成する権利があると主張している。文法が要求する通りの正しい標準語で書くことよりも、方言で書くことの方が好ましい、と考える劇作家たちもいる。
 このような現象を表現するのに最もふさわしい言葉は、「これらの現象は個体の最高度に高められた自由衝動から生じている」であろう。われわれはどうんな芳香においても従属的でありたいとは思わない。」
「このような時代には真理(引用者注: 「真理」に傍点)もまた人間存在の深みの中だけから取り出されることを望んでいる。」
「われわれはもはや信じよう(引用者注: 「信じよう」に傍点)とは思わない。知りたい(引用者注: 「知りたい」に傍点)と思う。(中略)個的なものはすべて自分の最も深い内なるものに従って生きようと望む。ただ知ること(引用者注: 「知ること」に傍点)だけがわれわれを満足させてくれる。それはどんな外的な規範にも服従せず、人格の内なる生活から生み出されてくる。
 凍りついてしまった学則の中で作り上げられた知識も欲しいとは思わない。あらゆる時代に当てはまるようなハンドブックの中にしまい込まれた知識も同様である。ひとりひとりが手近な経験から、直接的な体験から出発して、そこから宇宙全体を認識するところまで上っていくことを可能にしてくれるすべてのものを正当なものと認める。われわれは確かな知識を得ようと努めるが、それぞれが独自な仕方でそうするのである。
 また、われわれの学説は、もはやそれを認知することが無条件の強制を伴うような形を取ってはならない。」



「第二章 学問への根本衝動」より:

「われわれは自然へ帰る道を再び見つけ出さなければならない。この道がどこにあるのかを、ひとつの単純な考え方が教えてくれる。確かにわれわれは自然から切り離されてしまった。しかしわれわれはそこから何かを内なる自然として自分の本質の中に持ち込んでいるに違いない。この内なる自然を見出さねばならない。(中略)自然をまず自分の内部に認めるのでなければ、それを外に見出すこともできないであろう。われわれ自身の内部にあって、自然と同質の働きをするものが導き手となってくれる筈である。(中略)自分自身の存在の深みへ降りていこうと思う。そしてかつて人間精神が自然から逃れ出た時に、そこから持ち出してきた要素を、今この深みの中に見つけ出そうと思う。
 われわれの本質を探求することこそが謎を解く鍵を提供してくれるに違いない。ここにいるわれわれは、もはや単なる「自我」ではない、「自我」以上の何かなのだ、と言えるような地点にまで到達できなければならない。」



「第九章 自由の理念」より:

「「私はこの行為を行うべきなのか」を世間に、あるいは何かの権威に私は問いかけようとはしない。行為についての理念が把握できたとき、私はそれをすぐ実行に移す。だからこそそれは私の(引用者注: 「私の」に傍点)行為なのである。特定の道徳規範がそこに認められるという理由だけで行為する人の行為は、その人の道徳法典に記載されている原則の賜物である。その人は単なる執行人にすぎない。高級自動人形でしかない。(中略)対象への愛に従うときにのみ、私は行為する主体であることができる。この段階の道徳においては、私は主人の命に服するから行動するのではない。外的権威やいわゆる内なる声に従って行動するのでもない。私は自分の行動の外的原則を必要としない。なぜなら私自身の内部に行動の根拠を、行為への愛を見出したのだから。私の行為が良いか悪いかを悟性的な手段で調べようとも思わない。私が行為するのは、それを愛している(引用者注: 「愛している」に傍点)からである。愛に浸った私の直観が直観的に体験されるべき世界関連の中に正しく存在しているとき、その行為は「善」になり、そうでない場合の行為は「悪」になる。私はまた、他の人ならこの場合どのような態度をとるかと尋ねようとは思わない。私という特別な個性がそうしようと私を促すからこそ、私は行為するのである。私を直接導いているのは、一般的な慣習や普遍道徳や一般人間的な原理や道徳規範などではなく、行為に対する私の愛である。私は私に衝動を促す自然の強制も道徳的至上命令の強制も感じない。私はもっぱら私自身の中にあるものを実現しようと欲する。」

「或る行為が自由な行為と感じられるのは、その根拠が私の個体存在の理念的部分に見出せるときである。そうでない時の行為は、それが自然の強制によるものであろうと、倫理的規範が要求するものであろうと、すべて自由でない(引用者注: 「自由でない」に傍点)と感じられる。
 どんな瞬間にも自分自身に従える人間だけが自由なのである。どんな道徳的な行為も、この意味で自由であると言えるときにのみ、私の(引用者注: 「私の」に傍点)行為となる。」

「外から枠づけされたものの中にのみ道徳の体現を見ようとする俗物は、おそらく自由な精神の中に危険な生き方を見ようとさえするであろう。そうするのは、その人の眼が特定の時代状況にとらわれているからである。」

「人間は自分の外にある道徳的世界秩序を実現するために存在しているのではない。(中略)人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって(引用者注: 「によって」に傍点)道徳行為が存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なのである。
 個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。(中略)好ましい仕方で再び個人に作用し返すためにこそ、社会秩序が形成されるのでなければならない。」



「訳者あとがき」より:

「ルドルフ・シュタイナー(中略)の哲学上の主著『自由の哲学』は、一八八〇年代の末から一八九〇年代のはじめにかけて構想が練られ、一八九四年の春、著者三二歳の時に初版が出された。その後久しく絶版のまま放置されていたが、一九一八年に新版が出され、その際部分的には大巾の加筆訂正がなされ、特に章の終りに詳しい補遺がつけられた。本書はその新版(中略)の全訳であるが、新版では初版の第一章が省略され、その後半部分だけが付録二として最後に加えられているので、この第一章をそのまま生かして、(中略)訳出して付加した。ちょうど一世紀前の一九世紀末に若きシュタイナーが力をこめて、いわば宣言のように記したメッセージが、今日のわれわれにも重要な意味をもっていると思うからである。

「当時のシュタイナーは、同時代人としては、ニーチェとヘッケルとエドゥアルト・フォン・ハルトマンの三人を特別尊敬していた。いずれも偉大な自由主義者であり、個のために集団と戦い、自由のために権威を否定して戦った「時代の闘士」だった。彼らが、そしてすでにその半世紀も前にマクス・シュティルナーやフォイエルバッハが闘いとろうとしていた「自由」の問題は、それが何千年単位の壮大な規模の歴史的転換期の主要課題であったから、その百年後の今日でもこの課題は課題として生き続けているどころか、今日では世界的な規模での「人類の問題」になっている。シュタイナーが本書の中で行った試みは、それ故単なるドイツ哲学史上の問題にとどまらず、今や全人類にとっての切実な課題に応えようとしている。」





































『ルドルフ・シュタイナー選集 第10巻 死後の生活』 高橋巖 訳 

「そのようにして、私たちは誕生と受胎を越えて、時の流れをさらに遡り、最後には私たちが遺伝の力と結びつく以前に生きていた霊界にまで到るのです。人生を逆に辿って霊界にまで到るのです。」
(ルドルフ・シュタイナー 「人間の内的本性と死から新しい誕生までの生活」 より)


『ルドルフ・
シュタイナー選集 
第10巻 
死後の生活』 
高橋巖 訳 


イザラ書房 
1989年9月30日 第1刷発行
225p
A5判 丸背布装上製本 
貼函 本体カバー
定価3,270円(本体3,175円)
造本: 横尾忠則



Inneres Wesen des Menschen und Leben zwischen Tod und neuer Geburt
スピン(栞紐)二本付。


シュタイナー 死後の生活


帯文:

「その日が来てからではもう遅い
この地上での一回限りの生を超えて存続していく、不滅なるものとは?
人間の内なる霊の転生を明らかにし、生の意義と人間の尊厳を問う。」



帯裏:

「死すべき存在の真の内的本性が不死なるものに基礎づけられているという霊学の認識は、ゲーテの次の言葉の中に要約されているのです。現代という時代に特有の事情から、別の人生のことなどまったく考えようとしない人に対して「私は言いたい」――これがゲーテの言葉なのです――「ロレンツォ・ディ・メディチと共に言いたい、別の人生を願わない人はすべて、この世の人生においても死んでいるのだ、と」。
シュタイナー」



目次:

第一部
 霊学の課題と目標――現代人の霊的要求に応えて
 人間の生と死並びに魂の不死について霊学は何を語るのか

第二部 人間の内的本性と死から新しい誕生までの生活
 第一講
 第二講
 第三講
 第四講
 第五講
 第六講

訳者あとがき




◆本書より◆


「人間の生と死並びに魂の不死について霊学は何を語るのか」より:

「霊学とは、不死の根拠をあれこれ考え出そうとする思弁的な空想なのではありません。それはどうしたら魂の本質を知るようになれるのか、魂の本質とは何なのかを示すのです。霊学はいわば魂を発掘します。そして、発掘された魂が外的な身体の所産なのではなく、むしろ外的な身体そのものがこの魂の所産なのだということを明らかにします。私たちが自分の中に魂の胚種を発見し、その胚種が次なる地上生活のための胚種なのだということを感じ取るとき、この実感の中で、私たちがこの世に存在するようになる以前に、すでに存在しており、そして人間の体的・物質的本性の中へ受胎もしくは誕生によって入ってきたものを感じ取るのです。
 そのとき私たちが体験するのは、空間の中に存在するものとして知覚される脳も魂によって形成されるということ、そのような脳を形成する魂は、すでに誕生もしくは受胎以前から霊界に存在していたこと、そしてそれが父母によって与えられた肉体の素材と結びつき、その素材に浸透し、それを組織化する、ということです。人間がこの世に生を享けるということは、父母によって産み出されたというよりは、霊界から降下した霊的・魂的なものが物質的なものと結びついて存在する、ということなのです。私たちの霊的・魂的存在は、最後の死から新しい誕生までの間は霊界に在り、そしてその霊界から降下してきたのです。」

「人生の本当の神秘は、犯罪者がいるということです。霊学研究者は、犯罪者が罰せられるべきでないというような、ユートピア論者であろうとはしませんけれども、人間生活の中に存在するものであれば、どんなことでも理解しようとします。」



「人間の内的本性と死から新しい誕生までの生活」より:

「私たちは知覚と思考を通して、外界の一部分だけしか内面生活の中に取り入れませんが、感情と意志を通しては、魂の奥底にある内界(引用者注: 「内界」に傍点)を、その一部分だけでも取り出すことができるのえす。こう考えることによって、私たちは魂のいとなみの四つの分野を二つに大別できるのです。一方では知覚と思考、他方では感情と意志です。
 思弁によって顕教的に説明できることに、今私たちが秘教の光を当てようとすれば、内面生活のこの四つの分野はまったく別様に現れます。
 皆さんが夜眠っているとき、一方では自我とアストラル体が、他方では肉体とエーテル体が、昼間の覚醒時とは別の在り方をして現れます。覚醒時には、肉体、エーテル体、アストラル体および自我は互いに結びついているのが普通です。眠りに入ると、この関連がほどけて、意識的に感覚と思考を働かせることが、アストラル体と自我にはできなくなります。そして夜の闇が意識の上に拡がり、そして感情も消えます。ところが秘教的な訓練によって魂の働きを強めますと、体から離れて、意識なく存在しているはずの夜の霊魂は、霊的に認識し、霊的に知覚するようになります。そして体の外で、霊魂を自分の人間的なものとして実際に体験するのです。昼間、感覚器官と脳を働かせているときには、物質界が眼前に拡がっているように、今や霊的環境という新しい世界が私たちの前に現れてくるのです。」

「見霊意識は、私たちが通常の眠りの中で無意識のままに行うように、霊魂を身体から離脱させます。そしてその上で、この霊魂のいとなみを認識しようと努力します。」
「見霊的な意識の前に現れる最初のものは、世界に対する一切の見方の完全な逆転です。私たちは、身体の中に留まる限り、身体の感覚器官を通して周囲を眺め、脳と結びついた悟性を通して考えます。山、河、雲、星々などを眺め、そしてその宇宙の一隅に、この上なくちっぽけな、点のような存在である私たち自身を見出します。見霊意識が身体の外で働き始めますと、この宇宙と人間との関係がまったく逆転するのです。私たちの眼前に拡がっていた世界、悟性が思考の対象としてきた世界が、眼の前から消えてしまいます。私たちは、自分がまるで宇宙の中に注ぎ込まれてしまったかのように感じるのです。身体から離脱した私は、これまで外界として見てきた宇宙の中に注ぎ込まれ、自分がその内部に入っているように感じます。私たちは空間全体を満たし、時間の流れの中に織り込まれるのです。」
「――そして、これまでは感覚世界の地平の一点に立っていた私という小さな存在が、見霊意識の発達と共に、今は宇宙そのものになるのです。」

「昨日述べたのは、魂が身体から離れて霊的空間の中へ赴き、空間的(引用者注: 「空間的」に傍点)に身体の外で生き始める道でした。しかし「身体離脱」には次の道もあるのです。それはこれまで以上に自分の内部に没入することで、自分から脱する道です。私たちは魂の内部の、霊的経験にもっとも似ている働きである記憶力の助けを借りて、霊界へ赴くことができます。」
「記憶が遡りうる一番はじめの幼年体験の時点から今日に到る長い年月の自我体験に眼を向け、そして何にも妨げられずに、記憶内容の中からいつもは意識していない記憶内容までも引き出せるようにするのです。(中略)ずっと以前に忘れてしまったことまでも思い出せるほどに強い想起力を発達させることができたとしますと、そのとき、牧場で緑の茎と茎の間から美しい花が浮かび上がるように、記憶像と記憶像の間から、これまで知らなかった像が、イマジネーションとして浮かび上がってくるのです。牧場の緑の中に美しい花が現れるように、私たちの記憶の中で、それとはまったく異なる何かが霊の深みから浮き上がってくるのです。私たちは単なる記憶像と霊の深みから浮き上がってくるものとを区別することを学び、そして次第に霊の深みから、霊的内容を取り出してくる力を発達させるようになります。
 そして私たちはそれによって、昨日述べた場合とは異なる仕方で、身体から離脱するのです。昨日述べた仕方では、私たちはいわば直接的に身体を離れます。今日述べた仕方では、まずこれまで過ごしてきた人生を遡行し、これまでの人生を逆の方向に通り抜けます。そのようにして私たちの内面生活に没入し、想起力を強めることを通して、記憶像と記憶像との間から霊的なものを引き出してくるのです。そのようにして、私たちは誕生と受胎を越えて、時の流れをさらに遡り、最後には私たちが遺伝の力と結びつく以前に生きていた霊界にまで到るのです。人生を逆に辿って霊界にまで到るのです。これが身体を離脱して霊界へ参入するもうひとつの道です。」



「訳者あとがき」より:

「本書の全篇を読み通すと、本書がこの世での人間関係を論じている『社会の未来』と対をなす、あの世での人間関係論であるかのような印象を受ける。つまり本書『死後の生活』は霊界の社会学を論じており、その意味でこの二つの書物は相互に補い合っているのである。
 本書が何よりも強調しているのは、現界と霊界とが決して切り離されてはおらず、むしろ相互に深く関連し合っている、ということである。霊界のことを考えなければ、現界の本当の姿本当の意味は理解できない。だからシュタイナーは、今日の社会の危機を乗り越えるために、死者との関係の回復をわれわれに求め続けてきた。地上のわれわれはいつでも、覚醒時にも睡眠時にも、死者との共同社会の中に生きている。そのような社会の中にいて、もし死者からの働きかけがないと思えるとしたら、それはわれわれの心がこの世的なものに向きすぎているからである。」








































































































ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 高橋巖 訳 (ちくま学芸文庫)

「数年来、人智学運動の中で、私がひどくつらいと感じているのは、老人も若者も、しっかりと自分の足で立ち続けていることなのです。人びとがどんなに自分の足でしっかりと立っているかを考えてみましょう。いいですか。ニーチェは本質的にそうではありませんでした。たとえ彼がそのため病気になったとしてもです。彼はツァラトゥストラを踊り手として描きました。皆さんも踊り手になるべきなのです。ツァラトゥストラの意味においてです。」
(ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 より)


ルドルフ・シュタイナー 
『治療教育講義』 
高橋巖 訳
 
ちくま学芸文庫 シ-8-6 

筑摩書房 
2005年5月10日 第1刷発行
294p 付記1p 口絵(カラー)2p
文庫判 並装 カバー
定価1,200円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 神田昇和
装画: 『ルドルフ・シュタイナーの100冊のノート』より



本書「訳者あとがき」より:

「本書は一九八八年に角川書店から出版されたが、今回あらためて全体に眼を通し、より読みやすくなるように手を加えた。」
「本文庫版では新たに付録として、アルブレヒト・シュトローシャインの「人智学的治療教育の成立」(中略)を加えた。本書の内容をなすシュタイナーの連続講義が行なわれた頃の現場での思いが直接伝わってくる貴重な文献だと思えたからである。」



シュタイナー 治療教育講義 01


カバー裏文:

「「ゲーテは植物が異常を現わすとき、そこに〈原植物の理念〉を見つけ出す最上の手がかりを見ています。……霊的な生きものである人間の場合にも、基本的には同じことが言えるのです。人体に潜んでいる異常性は、人間本来の霊性を外に開示してくれるのです」。この直観を宇宙大に拡張し、人類を巨大な障害児と見れば、〈原人間の理念〉探究に捧げられた人智学の使命が理解できよう。本書は医療と教育の現場に向けて語られた唯一の治療教育本質論であるとともに、シュタイナー思想の極北でもある。貴重な証言「人智学的治療教育の成立」(A. シュトローシャイン)を併載。改訳決定版。」


目次:

第一講 治療教育の基本的観点
第二講 本来の魂のいとなみ
第三講 精神遅滞とてんかん
第四講 ヒステリーの本質
第五講 硫黄過多の子と硫黄不足の子
第六講 治療教育の実際 その一
第七講 治療教育の実際 その二
第八講 治療教育の実際 その三
第九講 治療教育の実際 その四
第十講 治療教育の実際 その五
第十一講 治療教育の実際 その六
第十二講 まとめの話

付録 人智学的治療教育の成立――『われわれはルドルフ・シュタイナーを体験した――弟子たちの回想』一九六七年より (アルブレヒト・シュトローシャイン)

訳者あとがき



シュタイナー 治療教育講義 02



◆本書より◆


第一講より:

「私たちは病気の本質の中に深く入っていかなければなりません。」
「例を挙げて説明しましょう(口絵表・図例1――以下同)。ここに人間の肉体(白い線)があります。成長期にある幼児の肉体です。この肉体から魂のいとなみ(黄色い点線)が立ち現われてきます。私たちはこの魂のいとなみを正常であるとか、異常であるとか言いますが、本来子どもの魂、あるいはそもそも人間の魂の正常か異常かを決めようとしても、平均して「正常」とする以外に、どこにもそれを決めるよりどころはありません。常識人の眼が一般に通用させているもの以外のどこにも、判断の基準はないのです。ですから何かを理にかなっているとか賢いとかと言う常識人の眼から見て、「正常」な魂のいとなみでないものはすべて、「異常」な魂のいとなみなのです。
 目下のところそれ以外の判断の基準は存在しません。ですから私たちが異常であることを確定しようとして、いろいろな試みをすればするほど、その判断は混乱したものになります。正しい判断をしていると思っている人が、その反対に天才的な素質を追い出してしまうことにもなりかねないのです。そのような評価の試みをいくらしてみても、そもそも何も始まりません。なすべきことのまず第一は、医者と教育者がそのような評価を拒否して、賢いとか理にかなっているとかと評価する思考を超えたところに立とうとすることです。実際この分野でこそ、すぐに判断するのではなく、事柄を純粋に観察することが、この上もなく必要なのです。」
「今取り上げたのは、どんなひどい教育者にも分かるような、表面にはっきりと現われている魂のいとなみ(黄色い点線)ですが、私たちはこれから、そのような魂のいとなみとは別に、身体の背後に存するもう一つの霊魂の働き(赤い線)にも眼を向けようと思います。それは受胎と誕生のあいだに霊界から降りてくるのですが、地上の意識はそれを外から見ることができずにいます。(中略)この霊魂は霊界から降りてきますと、先祖代々の遺伝の力(青い線)によって作られる身体(白い線)に働きかけます。
 この働きかけが異常な仕方で行なわれますと、たとえば肝臓に働きかけて病的な肝臓を生じさせてしまいます。また、遺伝的に肉体とエーテル体に病的なところがあった場合にも、身体は一定の病気を現わします。同じことは他のどんな身体器官についても言うことができます。どんな身体器官でも霊界から降りてくるものと間違った結びつき方をすることがあるのです。そしてこの結びつきが、つまり霊界から降りてくるものと遺伝されたものとの結びつきが作られたときはじめて、通常、思考と感情と意志として観察される私たちの魂(黄色い点線)が生み出されるのです。思考と感情と意志はそもそも単なる鏡の像のようなものですから、眠ると消えてしまいます。本来の持続的な魂はその背後にあるのです。背後に降りてきて、転生(てんしょう)を重ねる地上生活を貫いて存在し続けるのです。」

「さてここで次のような考察をしてみましょう。誰か大人のことを考えてください。この人は、たぶん七歳の頃に歯が生え変わり、十四歳の頃に思春期を迎え、そして二十一歳の頃には人格がしっかりとしてきたことでしょう。人間はそのように七年毎に大きな節目を迎えます。(中略)この転換期には、人体の変化がいつも目立って現われています。人体は毎年変化していきます。絶えず体内からは何かが外へ排出されています。体内成分を輩出するこの外への絶えざる遠心的な流れは、七年か八年かけて、体内の成分のすべてを一新させます。
 そこで考えていただきたいのは、この身体成分の更新が、歯の生え変わる七歳の頃に特別重要な意味を持っている、ということです。
 生まれてから歯の生え変わる頃までの身体は、いわば単なるモデルにすぎません。この身体は遺伝の力を通して、両親からこのモデルを受け取ります。祖先が子どもの身体形成に協力しています。さて私たちは最初の七年間にこの最初の身体成分を外に排出しますが、それによって何が起こるのでしょうか。まったく新しい身体が生じるのです。歯の生え変わった後の身体は、もはや遺伝の力によってではなく、前述した霊魂の力によって作られるのです。(中略)この時期には、遺伝による身体成分を排出する一方で、その人の個性の力で新しい身体が作り出されるのです。」



第二講より:

「個性の力が遺伝の力よりも強い場合には、歯の生え変わる頃に、子どもは遺伝の力を多かれ少なかれ克服して、身体も魂の在り方も個性的になるでしょう。けれども子どもの個性が弱ければ、個性は遺伝の力に抑えられ、魂も身体もそのモデルに従った模像を示すことになります。本来の意味での遺伝的特徴はその場合にのみ見られるのです。(中略)ですからこの時期に遺伝的な特徴が現われるのは、個性がそれを克服するにはあまりに弱すぎて、カルマの求めるような個性的な働きができず、そのため本来のカルマ衝動が遺伝的な特徴に圧倒されている場合です。」

「精神疾患は最高の叡智の歪(ゆが)んだ模像なのです。」

「障害のある子を教育するということは、そうしなければ、あるいは間違った教育を与えたならば、その子が死に、そしてふたたび次の地上生活に生まれ変わるまで、待たねばならないであろうようなことを行なうことなのです。それほどにまで深く子どものカルマに関わることなのです。」



第四講より:

「障害のある子どものための先生になろうとする人は、完全な先生では決してありえません。どの子もそれぞれが新しい課題であり、新しい謎です。ですから子どもの本質に導かれて、個々の場合にどのようになすべきかを理解しようとすることが大切です。」
「病気の徴候を深い関心をもって辿るとき、私たちは最上の自己教育を行なっています。病気の徴候は、本来何かすばらしいものだ、という感情を持つことが大切です。(中略)すなわち異常な徴候が現われるとき、そこには、霊的に見て、健全な身体を持った人間の活動よりも、もっと霊的な働きが見られるのです。この霊的なものに近い状態は、健全な身体においてはそのようにはっきりとは示されません。」



第六講より:

「この子を教育するには、何が必要でしょうか。重たい雰囲気ではなく、ユーモアです。本当のユーモア、生活のユーモアです。必要な生活のユーモアがなければ、どんな頭のいい手段を講じたとしても、こういう子どもを教育することはできません。ですから人智学運動においても、軽やかさの感覚を持つ必要があるのです。」


第十講より:

「今後私たちに必要なのは、(中略)「細事への畏敬」です。特に青年はこのことを身につけなければなりません。青年はあまりに抽象的な事柄に安住しています。しかしそうするとすぐに虚栄心のとりこになってしまうのです。」
「俗人が障害児について語ることばはたいていの場合、間違っていますが、そういうときに大切なのは、眼の前にある事実を直視することです。」

「大事なのは、真実を体験したときの熱狂なのです。今必要なのはこのことです。数年来、人智学運動の中で、私がひどくつらいと感じているのは、老人も若者も、しっかりと自分の足で立ち続けていることなのです。人びとがどんなに自分の足でしっかりと立っているかを考えてみましょう。いいですか。ニーチェは本質的にそうではありませんでした。たとえ彼がそのため病気になったとしてもです。彼はツァラトゥストラを踊り手として描きました。皆さんも踊り手になるべきなのです。ツァラトゥストラの意味においてです。」



第十一講より:

「仕事をしようとするときには、(中略)正しい見方は、未来へ向かって働くカルマを求める熱意から生じるのです。(中略)家具付きの家に移り住んだとき、私たちはその家具をすべて外へ放り出したりはしません。可能なら(中略)次のように考えるでしょう。「すでにそこにある家具をどのように利用することができるだろうか」。
 「すでにあるものを、どのように利用できるのか」。このように問うことが皆さんにとっては大切なのです。」



「付録 人智学的治療教育の成立」(アルブレヒト・シュトローシャイン)より:

「会話が始まった。ルドルフ・シュタイナーは私たちよりイェーナのことをよく知っていた。彼は私たちに、昼間でも星を見ることのできる塔があると語った。」
「ルドルフ・シュタイナーは庭を歩きながら、「本当はどの子もここにあるすべての樹木と草花の名が言えなければならないのです」、と私たちに言った。」



「訳者あとがき」より:

「シュタイナーによれば、今から数百万年以前にまで遡る太古の時代に、人間の霊魂ははじめて、進化の過程を辿って発展してきた身体の中に降りてくることができるようになった。それ以前は人間の霊魂を受容できるほどにまで身体は進化を遂げていなかったので、人間の霊魂は物質素材によって創られた肉体の中に受肉したくても、肉体の方でそれを自分の中に宿らせることができない状態が続いた。かろうじて受肉できたとしても、初めの頃は決して正常な受肉のプロセスを辿ることができず、一度受肉した霊魂も、肉体を通して自己を表現できぬままに、ふたたび肉体を去って、本来の故郷である霊界へ戻っていった。そのような過程が繰り返される中で、肉体そのものも進化を続け、ある段階に達してからは、霊魂を正常に受容できるようになった。
 この過程は諸民族の神話の中でもさまざまな仕方で語られているが、そのもっともよく知られた例はアダムとエバの楽園追放の話であろう。この二人の人類の祖先の霊魂は、はじめて天国から離れて、地上の世界に受肉することになったが、そうなると人間は肉体を通してしか自己を意識できなくなってしまい、いわば「受肉の苦しみ」を、つまりドイツ・ロマン派のいう「世界苦」を背負わされる。もし人間の霊魂が肉体に受肉しないですますことができるのなら、人間は老いることも、病むことも、死ぬこともないし、障害を背負うこともない。仏陀が人間の根源的な苦悩と呼んだ生老病死の四苦は、地上におけるどんな人間も避けることのできない基本的な生活条件になっている。しかし人間はそのような条件の下に甘んじて生きていくべき存在なのだろうか。
 『治療教育講義』はこのような問題意識から出発している。」






























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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