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中地義和 『ランボー ― 精霊と道化のあいだ』

「持続や忘却の侵蝕を受けない非時間的なもの、不変なるものの獲得への有無を言わせぬ希求が、呪文の根底にあることがわかる。」
(中地義和 『ランボー』 より)


中地義和 
『ランボー
― 精霊(ジェニー)と
道化のあいだ』


青土社 
1996年11月6日 第1刷印刷
1996年11月14日 第1刷発行
315p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円(本体2,330円)
装幀: 菊地信義



本書「序」より:

「本書のささやかな企図は、ランボーの詩に固有の両義性を、いくつかの具体的な顕れに則して吟味することである。(中略)もとより、翻訳に依拠する詩論には限界がある。(中略)以下の各章は、そのような限界を弁えながらなおかつ言葉の姿(引用者注: 「姿」に傍点)にこだわろうとするジレンマの産物でもある。
 ランボーの主要作品は、一八七〇-七一年の定型韻文詩(一般に「ポエジー」と呼ばれる)、七二年の「新しい韻文詩」または「後期韻文詩」、七三年の『地獄の一季節』、そして正確な成立時期は不明であるが、ヴェルレーヌの証言によれば七三-七五年の『イリュミナシオン』の四つに大別できる。本書第一部(Ⅰ~Ⅴ)では、(中略)最初の原理「語による驚異の創出」をめぐって、広義の修辞(レトリック)の観点からの分析が試みられる。これに対し、第二部(Ⅵ~Ⅹ)では、もうひとつの原理「みずからを他に変える企図」が、メタポエティックな視点から考察される。第一部では、時間的変遷はとくに考慮せず、韻文作品と散文作品を共時的平面に置いて、詩人固有の想像力と表現のかたち(引用者注: 「かたち」に傍点)を見ることが試みられるだろう。逆に第二部では、「見者の手紙」を出発点とする「狂気への接近」の跡づけをはじめ、通時的考察が主軸になる。
 本書を構成する十の章の多くは、元来別々の機会に書かれたものなので、一冊に集めるにあたっては、通読することで一つの像が結ぶよう、大幅な加筆修正を加え、全体の配列を考慮した。(中略)「詩を放棄した詩人」の伝説を待たずとも、詩のなかに詩を否定する力が渦巻くこの特異なポエジーの生命的な緊張を、その危機的な燃焼を、いささかなりとも伝えられるならば、本書の目的は達せられるだろう。」



中地義和 ランボー


帯文:

「新しい詩人のすがた
没後百年をはさんで長足の進歩を遂げた
ランボー学の成果を背景に、「語による驚異の創出」と
「みずからを他に変える企図」というランボー詩の二つの原理を明らかにし、
そこに刻印された亀裂を浮き彫りにする。
世界のランボー学の最先端にいる著者の
日本語による初の著作。」



帯背:

「ランボー詩の両義性」


目次:



第一部
Ⅰ アニミスム ディナミスム――「酔いしれた船」の修辞
Ⅱ 小さな造物主――転移と反-転移
Ⅲ 魔女 吸血鬼 精霊――形象化とアレゴリー
Ⅳ 水の記憶――連想と開示の詩学
Ⅴ もうひとつの至高性――パロディと創造

第二部
Ⅵ 「狂気」のしるしのもとに
Ⅶ 驚異のオペラ
Ⅷ 我慢の祭
Ⅸ 自作の演出
Ⅹ 終わりを書くこと 書くことの終わり

補遺1 『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」
補遺2 『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」反故草稿


あとがき

初出一覧




◆本書より◆


「Ⅰ アニミスム ディナミスム――「酔いしれた船」の修辞」より:

「ここでは一貫して、「船」が、みずから生きた、そして生きつつある冒険を物語る。現実に船が語ることはありえないから、ここに「擬人法」を見るのはまちがいではない。しかしそれは、「人間以外の生物や無生物に、あるいは抽象観念にまで、一個のイメージによって人間的な感情や動作を付与すること」と定義されるような擬人法とは相当に異質なものである。「船」の擬人化は、「人間的な感情や動作を付与すること」以前に、言葉を語る能力を付与することによっている。それによって語る船(引用者注: 「語る船」に傍点、以下同)となる。つまり、「船」の擬人化よりも詩人のもの化(引用者注: 「もの化」の「もの」に傍点、以下同)化が、物象の世界にとって異質な人間性の抹消が問題なのである。水の動きに翻弄される「語る船」に変貌することで、詩人は純粋な運動と化し、また同時に、みずからの冒険を言葉で表象する能力を保持する。詩の開始以前に成立し、絶対的前提になっているこの詩人のもの化が、物質の祝祭空間ともいうべき活力と動性に満ちた詩の宇宙を現出させる最大の力をなしている。」


「Ⅱ 小さな造物主――転移と反-転移」より:

「シャトーブリアンからランボーにいたる十九世紀文学において、魔術的なものが文学のなかにいかに転移されているかを跡づけた『文学と魔法』という興味深い書物を一九九〇年に上梓したイヴ・ヴァッデは、近代人類学の考え方を援用しながら、こういう――「すべての子どもはマジシャンであり、世界を魔術的なやり方で知覚し、存在や事物に対して魔術的に働きかけようとする」。そして、子供にあってはまず「身振りの魔術」があり、言語習得が始まると「言葉の魔術」が支配的になるという。長じた子供が、そしてすべての大人がその記憶を失ってはおらず、何かの機会にふと忘却の淵から回帰することがありうるような、世界への幼児的な対し方を、ランボーはポエジーの強力な源泉として前面に押し出す。」
「持続や忘却の侵蝕を受けない非時間的なもの、不変なるものの獲得への有無を言わせぬ希求が、呪文の根底にあることがわかる。」

「人間と動物、生物と無生物の間に境界が存在せず、万象が生命をもち、視線を備え、言葉を話し、人間的な形象と感性を担いながら、同一平面に立って自由なコミュニケーションを交わすおとぎ話的世界とは、すぐれて、幼児が表象する世界のイメージである。「夜明け」や「大洪水のあとで」のテクストを養うこのようなアニミスム的思考は、世界の中心に位置を占め、自分の意志のままに世界を動かさんとする造物主的意志に、いわば画布を提供している。(中略)主観化された世界は終始幼い造物主の意志に寄り沿いながらも、最後には客観性の側に後退してしまう。それを目をつぶることで押し止めようとする「子供」の仕草には、現実に対する詩の、素朴で無力な、しかし最も純粋な抵抗がある。」



「Ⅵ 「狂気」のしるしのもとに」より:

「ランボーの企図は、当の〈私〉も気づかないほどに〈私〉を規定し、その視野を限界づけている社会的、道徳的、性的(そして以下で見るように、言語的)諸レヴェルでの秩序を、「攪乱」=侵犯し、〈私〉を幾重にも覆う規範や禁止のヴェールを剝ぎ取ること、それによって世界と新たな関係を取り結ぶことである。」
「このように、ランボーが構想する計画は主体の変容を第一の条件とするのだが、それは身体にみずから暴力を加える自己破壊的試練、虐待者と犠牲者が同一であるような「拷問」を通じての、存在の改造学に他ならない。その基盤には、感覚の通常の機能を狂わせ、身体的、社会的、倫理的規範を侵犯するかぎりにおいて「病人」「罪人」「呪われ人」である詩人が、昇華とは正反対の道を通って「最高の〈智者〉」=「見者」になりうるという希望的観測が――「あらゆる形の〔……〕狂気」の実践が「理性」の極みに導くというパラドックスへの信頼が――横たわっている。」

「このように、ランボーの詩作の中心部は、一八七一年五月に書かれた二通の手紙をプログラムとし、その二年後に書かれる『地獄の一季節』を決算書とする枠のなかに位置づけられる。そこでの詩的創造は、「狂気」のしるしのもとに展開されている。詩人が生きたのは、手紙で構想された、狂気への「理詰めの」接近、つまり狂気の擬態が、「理詰め」でも「擬態」でもなくなってゆく事態であった。」



「Ⅹ 終わりを書くこと 書くことの終わり」より:

「『地獄の一季節』が提示するのは、他者のいない世界である。主人公=話者はたえず自分自身と向かい合う。」
「「地獄」巡りのトポロジーを枠として選んだ作品は、展開のなかでその枠を、その空間性と時間性を壊してしまう。「地獄」の出口なるものに向かう歩みを跡づける作品は、そこに到達することの不可能を確認しながら、「出口」の観念そのものの無効化を遂行している。「朝」における「地上の降誕祭」のヴィジョンや、「訣別」中の「流れ入る生気と現実の優しさをそっくりと受入れよう。そして明け方には、熱烈な我慢で身を鎧って、壮麗な街から街に入場してゆこう」という記述が素描するのは、「地獄」にとどまりながら「地獄」を越える可能性である。『地獄の一季節』が最終的に示すのは、「地獄」から出るという発想そのものが「地獄」なるものに絡め捕られることの証である、という認識ではないか。それはすでに「新しい韻文詩」のなかで、「我慢」を「祭」として引き受けることを考えたランボーが素描していたものである。
 「地獄」で過ごされた「ひとつの季節」、「ひとつの季節の間しか滞在しなかった地獄」を意味するタイトルは、脱出不可能な「永劫の罰」の場としてのキリスト教的「地獄」を嘲笑しながら、話者を捉えていた思考の枠組の解体を暗示している。それは、「原罪」という観念によって(中略)、今、ここでの生を呪われたものと化し、たえずもうひとつの生、彼岸の生、を渇望させるような救済観を無化するものである。」
「笑止でかつ悲痛なもの、「非腐蝕性のデリジオン」と呼ばれるものは、話者の推論が出口なしの状況に陥るたびに回帰しては、思考の逸脱、後退、低下を印す。しかしまた、言葉によるその反復・変奏は、主人公=話者の精神に倦怠と磨滅をもたらす。そして、「地獄」なるものの内部にとどまりながら「地獄」を変質させることを可能にする。」

























































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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