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守屋毅 『京の芸能 ― 王朝から維新まで』 (中公新書)

守屋毅 
『京の芸能
― 王朝から
維新まで』
 
中公新書 555 

中央公論社  
昭和54年10月15日 印刷
昭和54年10月25日 発行
目次6p 285p
新書判 並装 ビニールカバー
定価460円
装幀: 白井晟一



本書「あとがき」より:

「私は本書を、新たな発想のもとに構成しましたが、その各部分は、内容的には、過半がすでに発表の機会を得たもので占められております。
 第一章には、かつて雑誌『淡交』に連載した原稿(昭和四十九年七月号~十二月号)を、ほぼ原型のままで収めました。第二章の一部は、『宇治市史』に分担執筆したものが挿入されています。第四章以下は、『京都の歴史』第五巻~第八巻に分担執筆したもののうちより、芸能に関する箇所を選んで再構成し、全体にわたって補訂の筆を加えたものです。」



本文中図版(モノクロ)25点、図表7点。


守屋毅 京の芸能


帯文:

「古都一千年の歴史を華やかに彩る祭礼・諸芸・諸道の様ざま」


帯裏:

「都造りからまもない平安京の町に、華美な祭礼が催され、路次の雑芸人の諸芸に見物人が群がる。芸能を芸能として楽しむ都市民が成長してきたのである。爾来一千年、この町には多彩な芸能の数かずが花開く。中世の呪師の活動と田楽・猿楽の流行、応仁の乱後の能から歌舞伎への狂熱、それを支える町衆の活力と風流、近世四条河原の芝居の隆盛、町人と茶道・生花、そして明治…。京と京の人々を描き、京をこえて広がる芸能文化史。」


目次:

一 王朝の祭りと芸能
 御霊の祭礼
  平安楽土の幻想
  神泉苑の御霊会
  祇園御霊社
  山鉾縁起
 念仏と迎講
  市の念仏
  空也念仏と六斎
  末法の世の到来
  来迎会の盛行
 志多良の神
  志多良神入京
  石清水八幡宮
  石清水の祭り
  童謡の予兆
 洛陽の田楽
  清少納言のみた田植え
  農夫田婦の芸能
  洛陽田楽記
 新しい猿楽
  稲荷の社
  七条堀川辺
  新猿楽記
 賀茂の風流
  賀茂の厳神
  賀茂祭
  桟敷と物見車
  過差と傾奇
二 中世の社寺と芸団
 呪師の演芸
  修正会の盛行
  呪師の登場
  呪師の芸態
 丹波の猿楽
  丹波呪師の後裔
  神事と芸能
  矢田座の動向
 本座の田楽
  離宮祭の盛観
  宇治白川等座々法師原
  宇治殿田楽
 宇治の猿楽
  宇治猿楽の誕生
  延年の結構
  離宮祭と猿楽
  御田植神事と式三番
  南山城での活躍
  大和の宇治猿楽
 散所と雑芸
  千秋萬歳
  琵琶法師
  声聞師の猿楽
 大和の猿楽
  大和猿楽の児童
  観世二代
  小犬事件の背景
三 町衆の文化と芸能
 祇園御霊会
  祇園会復興
  下京の祭り
  山鉾の結構
 町衆手猿楽
  勧進興行
  大和猿楽と手猿楽
  謡の流行
 下京の茶湯
  わび茶への道
  市中の山居
 風流踊りの輪
  盆の夜の踊り
  風流の旋風
  華麗なる建設
  普請と芸能
  踊る民衆
 かぶき誕生
  浄瑠璃と女房狂言
  ややこ踊り
  かぶき踊り
 豊国の祭礼
  日本帝国の景況
  馬揃えと法楽
  風流の乱舞
四 近世の芝居と興行
 四条の芝居
  京都の興行地
  四条河原の賑わい
  若衆歌舞伎の擡頭
  佐渡島座の伝承
  能太夫権之助
 芸団の動向
  人形浄瑠璃
  放下と蜘蛛舞
  歌舞伎と狂言
 元禄の劇壇
  寛文の名代再興
  興行の仕組
  芝居街の発展
  加賀掾と近松と義太夫と
  藤十郎の芸風
  団十郎の上洛
  京都劇壇の黄昏
 劇場の消長
  四条河原の変貌
  劇界の沈滞
  小芝居の擡頭
  名代の推移
  劇壇の動き
 芝居の風俗
  顔見世の伝統
  手打連
  芝居茶屋と芝居見物
  京の劇場
 天保の改革
  芝居の統制
  寄席興行
五 町人の遊芸と家元
 茶道と立花
  京の四流
  宗旦四天王
  立花の普及
 「諸芸」の世界
  諸師諸芸
  伝統工芸と芸事
 京都の家元
  千家と薮内家
  池坊永代門弟帳
  志野流と蜂谷家
 観世五軒家
  京観世
  五軒家の成立
 新しい音曲
  都一中
  祇園町踊
  鉄扇節ほか
 京舞の新風
  井上流
  篠塚流
六 近代の遊所と盛場
 浮業の改正
  明治の遊里
  遊女解放令
  浮業遊所への課税
  遊芸稼人
  興行制度
  芝居と寄席
 京都博覧会
  茶道と近代
  都踊りの創始
  能楽界の再興
 明治の祭典
  祇園祭と葵祭
  奠都紀念祭と時代祭
  豊公三百年祭
 盛場と演劇
  新京極の造設
  新京極の様相
  寺町の伝統
  劇場の変遷
 演劇の改良
  俄から新派へ
  演劇改良運動
  松竹の誕生

主要参考文献
あとがき




◆本書より◆


「王朝の祭りと芸能」より:

「民間における御霊の祭り方はさまざまであったが、ともかくも歌舞をもって荒ぶる御霊を慰め、呪法の助けによって厄を払うことが眼目であった。天慶元年(九三八)の秋、京中の辻々に岐神なるものを祭ることがはやった。『本朝世紀』の伝えるところでは、それは男女一対の神像に彩色を施し、幣帛(へいはく)を捧げ香花を供えて祭ったとある。ところがその像には、臍下に陰陽が刻まれていたというから、その姿は後世の道祖神を想わせるが、人々はこれをまた御霊とも称していた。おそらくは、厄災を籠めて流し去る形代(かたしろ)だったのであろう。」

「ところで、長徳四年(九九八)の祇園会に際し、無骨法師(むこつほうし)と呼ばれた雑芸人が、京中の人々に見せようと柱を作り、これを祇園社頭に渡そうとしたところ、その作法が朝廷の大嘗会(だいじょうえ)の標山(しめやま)に似ているということで、当局は検非違使を派遣してこれを禁止するとともに、あわせて無骨の捕縛を試みたが、無骨は素早く逃亡してしまったという事件が起こっている。『本朝世紀』に載る右の逸話は、実は、祇園会についてわれわれが手にしうるもっとも古い具体的記述なのである。ちなみに同書は、柱の停止に「天神大いに忿怒」して、祝師僧が礼盤(らいばん)の上から転落する珍事を生み、さらに翌年に発した内裏焼亡の火も、その祟りとの取り沙汰が広がった由を記している。
 この時、無骨の作った標山に似た柱こそが、のちの祇園会山鉾の原型をなすものと見てよい。」

「天慶八年(九四五)七月、京洛の間に「訛言(かげん)」が広まり、東西の国より「諸神」が入京するという噂が流れた。その「諸神」というのが、あるいは「志多良(したら)神」と号し、あるいは「小藺笠(いがさ)神」、また「八面神」と称す。「志多良」とは手を打つこと、「小藺笠」は田植などに用いる笠、「八面」とあるのは顔がたくさんあるのであろうか。いずれも耳なれない新しい神々であった。そして七月も下旬となれば、噂は現実となる。七月二十六日付で摂津国豊島(てしま)郡(現、大阪府豊能郡)よりの報告が、朝廷に届いた。その文面によると――。
 今月すなわち七月の二十五日辰刻(午前八時前後)のこと、数百人の群集に担がれた「志多良神」の神輿三基が、河辺(かわべ)郡(現、兵庫県)より豊島郡へ到着したのである。「幣を捧げ鼓を撃ち、歌舞羅列す」とある。喧騒な行進のさまがしのばれる。豊島郡へ着くや、「道俗男女、貴賤老少」が会集して市を成し終日神輿を巡って歌いかつ舞った。「歌舞、山を動かす」とも見えるし、衆庶の捧物は数え切れぬほどであったともいう。一昼夜にわたって大騒ぎがつづいたが、その翌朝、神輿はやはり囃されながら、嶋下郡へ向かって進発していった。(中略)いったん嶋下郡に赴いたそれらは、二十八日朝には、河辺郡児屋寺に担われて来た。
 ところが八月三日になると、今度は石清水(いわしみず)八幡宮より、「志多良神」が石清水を目指して動坐中であるとの知らせが、宮廷にもたらされた。すなわち、八月の一日、例の神輿が数千万人の大群集に奉ぜられて、にわかに石清水の対岸、山崎の地に移って来たのだった。しかも、つい先日まで三基であったはずの神輿は六基に倍増していた。さらに驚くべきことには、「文江自在天神」がいつしか「宇佐八幡大菩薩」と名乗りをかえているのである。それはどうやら、二十九日、摂津国嶋上郡と行進中に、ある女が神がかりして、「吾は早、石清水宮へ参らん」と口走ったのに依拠していたようである。石清水八幡宮の側では、「この宮、始め奉りてこのかた、かくのごときこと、無し」と報告した。
 世にいう「志多良神入京事件」の経過である。(中略)この事件は、われわれにいくつかのことを考えさせる。まず第一は、諸神入京ということの意味である。都の人士にとって聞いたこともない珍奇な神の入京は、何もこれ一回切りではなかったはずである。かの祇園社の神にしてからが、牛頭天王と称する異国の神であり、一説には、はじめ播磨国明石の浦に垂迹(すいじゃく)して、同じ国の広峯(ひろみね)に移り、やがて京岡崎の東光寺に動坐し、ようやく東山山麓八坂に社地を占めるのは元慶年中(八七七~八五)であったと伝える。おそらく、その動坐・入京は、「志多良神」の場合に似通った行粧をとったことであろう。「志多良神」それ自身にしても、この後、長和元年(一〇一二)二月、また鎮西より上洛して船岡・紫野に着したという。ひとことでいえば、地方にあって、古代的な信仰の体系、既存の神々の世界が崩壊しはじめ、新たなる信仰の対象とその担い手が成長しつつあったことの、如実な反映なのである。」
「「志多良神入京事件」を記録する『本朝世紀』には、その時、群衆が歌い遊んだ曲として、「童謡六首」が載っている。(中略)きわめて興味深い内容なので、次に紹介しておこう。
 〇月は笠着る 八幡は種蒔く いざ我らは 荒田開かむ
 〇しだら打てと 神は宣(のた)まふ 打つ我らが 命千歳(せんざい)
 〇しだら米 はや買はば 酒盛れば その酒 富める始めぞ
 〇しだら打てば 牛は湧ききぬ 鞍打ち敷け 米負はせむ
 〇朝より 蔭はかげれど 雨やは降る 米こそ降れ
 〇富は揺(ゆす)み来ぬ 富は鎖かけ 揺み来ぬ 宅儲けよ 煙儲けよ さて我等は 千年(ちとせ)栄えて
 その歌うところ、まことに高らかな農村讃歌ではないか。(中略)田の豊穣をつかさどる神としての八幡、つまり、村々の鎮守の八幡さまの登場である。それは八幡神の新たな変貌であった。
 けだし「童謡(わざうた)」とは、古代人にとっては世の変革を予告する不思議の歌であった。」



「中世の社寺と芸団」より:

「京都の場合、奈良のように声聞師(しょうもじ)が座を組むことこそみられなかったが、室町時代に入ると北畠・桜町などの散所から出る声聞師の活動が目立ってくる。その活躍のなかで注目しておいてよいのが、声聞師の猿楽への進出である。もともと彼らは猿楽を専業としたわけではなく、例年正月に松囃子(まつばやし)と称して寿祝の参賀を勤めた折、余興に当時の流行にそって猿楽を演じたことに発している。伝統的な専業猿楽座に対して、素人だというところから彼らの猿楽は手猿楽と呼ばれた。『看聞御記』によれば、応永二十七年(一四二〇)正月に伏見御所を訪れた「松拍(まつばやし)」は犬若というものであり、「猿楽、例の如し。……乱舞、興有り」と見える。また永享三年(一四三一)の場合は、小犬が参勤し、「猿楽、夜に入って仕る。手鞠等、其芸甚殊勝、堪能也」とあって、弄玉の伎を添えていたことも知られる。ここに名の見える犬若・小犬は、いずれも北畠の声聞師であり、ことに小犬は、後崇光院をして「猿楽の上手」「芸能はなはだ神妙」といわしめた実力の持ち主で、いわゆる声聞師手猿楽を代表する人物であった。そして観世座など大和の猿楽が京中に勢力を扶植しようとする時、まっさきに排除しなくてはならなかったのが、小犬ら声聞師手猿楽の存在であった。この一事が、彼らの芸能者としての人気と水準をものがたっていた。
 永和四年(一三七八)六月、将軍足利義満は、祇園会見物の席に臨んだ。この時、世人の目は、青年将軍の姿とともに、それに同席した「大和猿楽の児童」にも注がれていた。『後愚昧記(のちのぐまいき)』は、「大和猿楽の児童、去頃より大樹(将軍)之を寵愛し、席を同じくし、器を伝う。かくの如き散(猿)楽は乞食(こつじき)の所行(しょぎょう)なり。しかるに近仕に賞翫する条、世以つて傾寄(奇)の由」と記している。この「大和猿楽の児童」は、名を藤若といった。のちの世阿弥その人である。
 これより前の応安七年(一三七四)、今熊野に猿楽をみた若き将軍義満は、この時、父観阿弥とともに舞った藤若の風姿に心奪われ、ただちにいわゆる同朋として近習の列に加えたのである。猿楽もまた「乞食の所行」としてさげすまれていた時代のこと、それが貴族たちの批判を招いたことは、先引の『後愚昧記』の伝えるとおりであるが、この邂逅が世阿弥個人はもとより、大和猿楽のその後の歴史に、決定的な出来事となった。
 大和猿楽というのは、「春日神事相随」の四座の猿楽を指す。すなわち観世(結崎(ゆうざき))・金春(円満井(えまい))・宝生(外山(とやま))・金剛(坂戸(さかと))の四座である。」
「とくに幕府が柳原散所の声聞師小犬に加えた弾圧は、観世座をはじめとする大和猿楽に対する保護策との関連でみないと、理解を絶するものである。
 小犬がその技芸を激賞され、各権門へ年頭の松囃子を奉じて参上していたことは、すでに述べた。しかし幕府はこれを禁じ、永享九年(一四三七)正月のごときは、室町殿に参った小犬らに対し、門番衆がこれを散々に打擲して追い返した事件もあった。ために禁裏でも小犬を松囃子に招くにあたり、わざわざ公方の許容を求めたほどである。大和猿楽が、洛中における松囃子演能の独占を果たすのは、時間の問題であった。
 松囃子への出仕の道をせばめられた小犬党は、新たなる活路を勧進興行という大衆的興行に求めたようである。しかし、ここでもまた大和猿楽の勢力との競合をさけえず、ふたたび幕府よりの迫害にあうことになる。
 宝徳二年(一四五〇)というから、世阿弥の死後すでに七年を経ているが、六道珍皇(ろくどうちんこう)寺で声聞師小犬の勧進猿楽が催されようとした時、侍所京極氏輩下のものが、これを追い散らす事件が起こっている。」
「この小犬事件には、さらに後日談がある。京都を追われた小犬らは、文正元年(一四六六)、江州において勧進興行を行なったのであるが、この時の猿楽に面を着けたという罪科によって、小犬自身、捕縛されてしまうのである。「著面の罪科」は、いわばいいがかりであった。それは執拗な追跡であり、徹底した弾圧であったといわねばならない。そこには、大和猿楽の京都芸能市場への強い関心と、放置しがたい声聞師小犬の声望とを、あわせうかがわせるものがある。」



「町衆の文化と芸能」より:

「中納言鷲尾隆康(わしおたかやす)は、大永六年(一五二六)の正月、粟田口青蓮院の庭で催された茶会に出席した際、当時「下京地下入道」「数奇の上手」と言われた茶人宗珠に会っている(『二水記』)。この宗珠は、村田珠光の嗣子で、「下京茶湯」として連歌師宗長の手記にも、その名の見える人物である。享禄五年(一五三二)五月に、隆康は因幡薬師参詣の帰路、四条の北にあった宗珠の茶室をたずねた(同前)。そのありさまはまさしく「山居の躰」で感銘深いものがあり、まことに「市中の隠」と称すべきで、宗珠こそ当代を代表する茶人だと隆康の日記に記されている。
 喧騒な都の一隅に山居の静寂を求めて庵を結ぶ風は、すでに三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の書斎「角屋」や(『実隆公記』)、「都のうちの松の下庵」(『碩礫集』)と宗長に歌われた伶人豊原統秋の「山里庵」に、その先蹤を見ることができるが、それが珠光の目指したわび茶と結合して、下京の地に営まれたところに、宗珠の茶室の意義があった。」
「ところで、「下京茶湯」はひとり宗珠に限らなかった。やはり珠光の門弟の一人で、武野紹鷗の師となった十四屋宗悟(じゅうしやそうご)は、現存する茶人の肖像としてはもっとも古い画像を残し、その賛に「茶を嗜むの名、一世に高し」と称されたが、彼もまた「下京宗悟、茶湯スキタル人」にほかならなかった(『山上宗二記』)。(中略)下京という商工業者の集住する市中に、町衆らの生活のなかから、唐物荘厳の「殿中茶湯」とはちがった、新しい茶湯が生まれつつあったことを知るのである。
 珠光に見られた草庵の茶への志向をさらに進めた武野紹鷗のデビューも、こうした「下京茶湯」の環境においてであった。」
「天文五年(一五三六)、京都では天文法華(てんぶんほっけ)の騒乱が起こり、町衆の信仰を集めていた洛中の法華宗諸寺が焼き払われるという事態に至る。都を追われた法華の本山は、ことごとく堺に難を逃れた。ちょうどそれに相前後して、紹鷗も故郷堺に戻った。その堺は、当時発展めざましく、京都の下京に似通った商業都市の様相を呈していた。(中略)もちろんこの地も奈良・京とともに茶湯の盛んな所であったが、なかでも興味をそそられるのは、堺でもまた、茶湯者の間で「市中の山居」が、その理想の境地とされていたことである。
 このことは、『日本教会史』の著者ジョアン・ロドリゲスがくわしく記しているが、彼の説明によると、xichû no san kiv は、プラザ(広場)に孤独の閑寂を発見する心であるという。」

























































































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守屋毅 『元禄文化 ― 遊芸・悪所・芝居』 (シリーズ・にっぽん草子)

「しかし、『町人考見録』の著者がいうように、「凡て一芸ありといはるゝ者は、大方、身体を持ち崩す」のが世の常なのである。」
「このようにみてくれば、元禄期以降、町人社会のすみずみにまでおよんだ遊芸の実情は、われわれがおもうよりはるかに、複雑で深刻な内容をはらんでいたことにおもいいたるにちがいない。いや、身の破滅をかけた遊芸の充実感など、今日では想像を絶する愉悦であったやもしれないのである。」

(守屋毅 『元禄文化』 より)


守屋毅 
『元禄文化
― 遊芸・
悪所・
芝居』
 
シリーズ・にっぽん草子

弘文堂 
昭和62年6月20日 初版1刷発行
iv 202p 口絵(モノクロ)1葉
18×12cm 
丸背紙装上製本 カバー
定価1,200円



本書は講談社学術文庫版も出ていますが、“もったいない本舗”楽天市場店で元版が679円で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。使用感は少ないもののカバーの背から表紙にかけてこんがり焼けた古本が届きましたが、ポイントが400円分あったので実質279円で買えたのでそれはそれでよいです。


守屋毅 元禄文化


カバー文:

「消費と蓄財の均衡に存亡をかける
町人たちのまえに、
不思議な誘惑がたちはだかる。
趣味の世界――遊芸である。
性の饗宴ともいうべき遊里である。
そして、もうひとつの饗宴――
芝居という芸能の場の存在も……。」



帯文:

「生活水準の底あげが、従来 富裕層の独占していた奢侈を解き放ち、幅広い消費人口を生み出した。日本史上初の大衆消費社会“元禄”――豊富な史料をもとに「遊芸」「悪所」「芝居」という三つのキーワードを駆使し、元禄文化の実相を活写するヒストリカル・エスノグラフィー。」


帯裏:

「シリーズ・にっぽん草子

歴史、宗教、民俗などから日本の「もの」や「こと」について世界とのつながりのなかで考える異色のシリーズ。全巻書き下し。ハンディな新書変型判 上製シックなカバー巻き 平均二〇〇頁 平均定価一二〇〇円。
★印は既刊

★乞食の精神史 山折哲雄
★日本史のエクリチュール 大隅和雄
★元禄文化 守屋毅
終末論の民俗学(仮題) 宮田登
骨のフォークロア 藤井正雄
飛礫と撮棒(仮題) 網野善彦
海の民(仮題)  沖浦和光
日本のフォークレリジョン 荒木美智雄
祖先崇拝のシンボリズム O・ヘルマン
子ども絵本の誕生(仮題) 岡本勝
金と銀の島日本(仮題) 田中久夫
江戸-東京のサロン(仮題) 小木新造
など」



目次:

口絵 
 師宣筆 歌舞伎図屏風(中村座内外図屏風) 六曲一双(部分)

序章 「町人」の時代――『日本永代蔵』の世界から
 町人の登場
 「才覚」と「仕合せ」のめぐりあい
 奢侈と「元禄風」
 町人の生活倫理
 不思議な誘惑――遊芸・悪所・芝居

第一章 「遊芸」という行為
 一 ものみな遊芸――遊芸の構図
  「諸師諸芸」の名簿
  西鶴のえがいた町人の遊芸
  近世文化の遊芸性
  芸能者の変貌と「諸師」の誕生
 二 「外聞」としての遊芸――芸事の機能
  都市と余暇
  芸が身をたすける
  人づきあいとしての遊芸
  女性と遊芸
  遊芸にもとめられたもの
 三 遊芸をささえるもの――遊芸の周辺
  町家の成立と「座敷」
  美術工芸品と遊芸
  遊芸と出版文化
 四 破滅をかけて――遊芸批判の背景
  「芸自慢」の危険性
  『町人考見録』にみえる町人たち
  二代目の遊芸
  遊芸批判の系譜
  遊芸の歴史的位置

第二章 「悪所」という観念
 一 「悪所」という言葉
  町人語としての「悪所」
  「悪所」とその仲間たち
  「悪所」と「悪性」
  悪所・好色・浮世
 二 遊里批判の論理
  なぜ「悪所」なのか
  遊里史のうえの元禄期
  消費もしくは浪費の誘惑
 三 虚偽と虚構
  遊里の虚偽性
  「辺界」の「悪所」
  「いつはり」と「まこと」
 四 「悪所」の悪所性
  欲望の抑制
  「地女」と「女郎さま」
  町人における「家」の形成と性
  「遊び」としての性

第三章 「芝居」という空間
 一 「芝居」と芝居見物
  櫓・木戸・看板
  札場と札銭
  桟敷の客・平土間の客
  見物の数
 二 「芝居小屋」をめぐって
  「芝居」という建物
  「芝居」の規模
  「常芝居」について
  芸能上演の臨時性と野外性
  差別される「小屋」
 三 とざされた「小屋」
  鼠木戸
  「芝居」の分布と「芝居町」
  「芝居」の数
 四 饗宴の場としての「芝居」
  「悪所図」をよむ
  もうひとつの「悪所図」
  正徳の禁令から
  桟敷の風景
  芝居茶屋というもの
  役者の男娼性

元禄文化史覚書――「あとがき」をかねて
参考文献




◆本書より◆


「序章」より:

「そして、蓄財と消費という、あい反する性格の行為がもちあいになっているところに、元禄期の状況の複雑さがあり、当時の町人生活の深刻さがあったといわねばならなかった。」
「しかしてここに、西鶴によってえがきだされた成功者の生涯が一貫して、勤労と禁欲という、ピューリタン精神をおもわせる厳格な倫理観にうらうちされていたことの意味があった。」
「それは、その一生を、あげて好色という快楽の追求にかけた「一代男」の気概とは、まったく好対照の人生哲学というほかない。
 たとえば――である。
 藤市という人物は、当時随一の長者としてしられたが、身をいましめて、一生「二間口の借棚」ですごし、「借家大将」の異名をとったという。」
「大衆消費の拡大こそが、彼らの商人としての成長を促進したにもかかわらず、しかし同時に、当人がその消費におぼれるならば、彼らは、たちまち破滅の淵にたたねばならなかったのである。」
「ところが、ここに――消費と蓄財の均衡に存亡をかける町人たちのまえに、不思議な誘惑がたちはだかる。たとえば、趣味の世界――遊芸である。性の饗宴ともいうべき遊里である。そして、もうひとつの饗宴――芝居という芸能の場の存在も視野にいれておいてよい。
 これらは、すべからく、生産と消費という現実生活の枠のそとにあって、第三の価値ともいうべきものとかかわる領域をかたちづくる。その第三の価値領域を、かりにいま、「遊び」と名づけることができるかもしれない。」
「元禄期の町人社会が、これら、名状しがたい価値をとりこんだとき、その内部で、一体なにがおこったのか――というのが、本書に託す筆者の課題なのである。あるいは、こういってもよい。本書は、その、いわくいいがたい「遊び」の側からする、元禄町人文化論なのである、と。」



「第一章」より:

「井原西鶴は、このんで、その作品のなかに、芸事におぼれたあげく身の破滅にいたった町人の姿をえがいている。そこには、はからずも、当時の町人たちがもとめていた諸芸の多様性、そして京都を中核とする芸能教授の実態が、概観されるのであった。」
「『日本永代蔵』(巻二)にでてくる泉州堺の町人の場合に、一例をみることにしよう。
 諸芸に没頭したあまり、「筋なき乞食」におちて品川、東海寺門前にたたずむこの町人、もとはといえば、書は青蓮院(しょうれんいん)流の平野仲庵におしえをうけ、茶湯は金森宗和のながれをくみ、詩文は深草の元政上人にまなび、俳諧は談林の西山宗因の門にいり、能は小畠吉右衛門に免許の扇をさずけられ、鼓は生田与右衛門の手筋、朝に伊藤仁斎に道をきき、夕に飛鳥井家の蹴鞠(けまり)、昼は名人玄斎の碁会にまじわり、夜は八橋検校(やつはしけんぎょう)に琴をならい、一節切(ひとよぎり)は宗三の弟子となり、浄瑠璃は宇治加賀様の節をたしなみ、踊りは大和屋甚兵衛に立ちならんだ――というのだから、かなりなものであった。」
「まず、学問や文芸といった教養に類するものが、歌舞・音曲はては遊戯などと、まったくおなじ質のものとして、違和感なく同居して、ともに町人たちの遊芸の世界を構成している点に、読者の注意を喚起しておきたい。」
「医術から歌舞・音曲までが、「諸師諸芸」の範疇で同列にあつかわれている所以は、それらが、当時、ひとしく芸事、稽古事――総じて遊芸の対象となるものだったからなのであった。町人たちは、これらを遊芸として修得しようとしていたのである。」
「いずれにせよ、今日のわれわれの常識では、学問と芸術・文学、あるいは科学・技術と趣味といった具合に、さまざまな分野に分裂してしまっているものが、この時代の人びとにとっては、一体にして不可欠のものであり、しかも、遊芸と認識され、そして実践されるものだったというわけなのである。」
「町人社会に支持された文化は、分野をとわず、あたかも、〈ものみな遊芸化する〉という顕著な特色をもっていたかのようにみえる。その意味では、近世町人文化なるものの実体は、遊芸であったと断言しても、かならずしも、いいすぎではなかった。」
「ここでわれわれは、一七世紀を通じて、芸能者の社会的な存在におおきな変化がおきていたことに留意する必要がある。言葉をえらばずにいえば、それは中世的な芸能者から近世的な芸能者への変貌の過程であった。すなわち、道をもとめ、自己の鍛錬にはげむ求道的な芸能者が、素人を相手に芸を教授する啓蒙家として、あらたな存在の形態を確立していったのである。」
「いうまでもなく、都市社会は村落にくらべて、いちじるしく流動的で多様性をもった社会であった。村人は先祖代々にわたっての氏素性をたがいにしりあった者があつまって生活している。しかし、都市では、みずしらずの他人と隣あわせ、背なかあわせに生活する覚悟こそ必要であった。
 異質な人間が高密度で住居するのが都市であり、浮沈つねならぬ町人社会なのである。しかも、その異質性をこえて、人々は、まじわりをむすばねばならない。元禄の都市民は、そのまじわりの媒介のひとつとして、共通した趣味の世界――遊芸をみいだしていたといえるのではなかろうか。」
「世間にみとめられたひとかどの町人であれば、そして彼らの社交の場にでいりするためには、ぜひとも、「会釈」としての諸芸に通じておかねばならなかったのである。」
「遊芸への期待は、プラグマティックな機能というよりは、むしろ、彼らのソーシャル・ステイタスのシンボルとしての、それなのであった。」
「「俄分限」(成り上り)の町人がこぞって、その子弟に芸事をならわせる様子は、(中略)それなりに切実な必然性にかられるところがあったのであり、いちがいに虚栄とみてしまっては、当をえていないのである。」

「「分別」と「始末」、このふたつは、この時代の商人にとって、かかすことのできない徳目であったことは、すでに冒頭で、のべたとおりである。これを無視すれば、かならず、彼は破滅の淵にたつのであった。」
「そういえば、西鶴が点描してみせた「芸自慢」たちは、なぜか、すべて破滅の道をたどるのである。東海寺門前の乞食ばかりではない。『西鶴織留』にでる伊丹の男も、遊芸ゆえに身をもちくずし、ついに父親から「商売さすこと無用」といいわたされる破目になった。禁治産者あつかいである。」
「つまり、町人社会に浸透した遊芸は、ほかならぬ町人たちのあいだで、かならずしも全面的な肯定と支持をえていなかったのである。」
「遊芸が、それに熱中して家業をおろそかにし、あげくのはてに、身代を無にする危険をともなっていたとすれば、たしかにそれは、彼らの信条たる生活倫理に抵触するにちがいないものであった。」
「三井家の四代目三井高房(たかふさ)は、『町人考見録(こうけんろく)』と題する書物をのこして、子孫の庭訓とした。」
「誰あろう、三井家二代目の浄貞(じょうてい)がそうであった。(中略)彼は、栄華に日をおくることばかりをのぞんていたという。彼は、ほしいままに茶道具をかいあさり、数寄をこらした茶室をいとなみ、庭いじりにいれあげて、風流三昧(ふうりゅうざんまい)にふけったというのである。「遊芸には無類」との世評をえた彼であるが、その没後、同家には不祥事がうちつづいた。そしてそのよってきたる事由は、「二代目浄貞、おのが町人の家業をわすれ、勤めざる故、其の報い」と、子孫のそしりをこうむることとはなったのである。
 同様の事例は、おなじ『町人考見録』のなかから、いくらでもあげることができる。
 京都三条通新屋伊兵衛の一人息子は、幼少のころから能をならって熟達し、長じてますますこれに没頭して、ついに身代をつぶすこととなり、しかたなく蜂須賀侯お抱えの能太夫として、一生をおえた。
 やはり京都室町大門町の大黒屋善兵衛の場合も、浄瑠璃をこのんで家は没落、われとわが身を芝居町の太夫にしずめたという。
 あるいはまた、京都きっての薬屋と評判のたかかった播磨屋の二代目長右衛門は、若年から和歌・蹴鞠に心をうばわれて、家業をかえりみることなく、あまつさえ山師の餌食となって、二〇年もたたぬうちに、さしもの家産を無にしてしまった。」
「これらの逸話に共通する傾向として、遊芸に身をもちくずす者のおおくが、二代目であるという事実を指摘できるであろう。」
「みずからに鞭うって立身を至上の課題とした家祖は、それこそ勤勉・禁欲一点ばりで、芸事などとは縁もゆかりもない無骨者であった。しかし、その教養のなさのゆえに、成り上がり者としてつねに肩身のせまいおもいを余儀なくされてきたであろうことは、推測にあまりある。」
「せめて子供たちには、そのみじめさを味わわせたくないものと、もの心がつくやつかぬかのころから、稽古事にはげませるのは、今昔かわらぬ親心だった。と同時に、それは、おくればせながら子供に託して、みずからの社会的地位のシンボルをえようとする屈折した行為でもあったのである。
 しかし、『町人考見録』の著者がいうように、「凡て一芸ありといはるゝ者は、大方、身体を持ち崩す」のが世の常なのである。」
「このようにみてくれば、元禄期以降、町人社会のすみずみにまでおよんだ遊芸の実情は、われわれがおもうよりはるかに、複雑で深刻な内容をはらんでいたことにおもいいたるにちがいない。いや、身の破滅をかけた遊芸の充実感など、今日では想像を絶する愉悦であったやもしれないのである。
 しかし、かんがえようによっては、鎖国という状況のもと、限定した市場しかもちえなかった当時の町人にとって、ひとたび蓄積した富に、はたしてどのような活用の途がひらかれていたというのであろうか。
 西川如見が『町人袋』で、家財は「先祖よりの預り物」であり、無傷で「先祖へかへす」のが道理にかなうといっているのは、(中略)かんがえようによっては、これは、まさしく絶望的な状況だといわねばならなかった。」
「もしかすると、だからこそ泰平の世の町人たちは、みずからの余剰を、けっして利をうむ心配のない遊芸にいれあげる衝動を禁じえなかったのかもしれないのである。」
「かくなりゆくと、ゆくすえがみえていても、それが町人を魅了して、はなさないのである。」
「遊芸というものが、悪所と同様、閉塞の時代をいきる町人たちにとって、わずかに自己をときはなつ時と場をあたえるものであったのかともおもわれる。
 にもかかわらず、その破滅を賭した遊芸は、近世文化の培養土であった。」



「第二章」より:

「「始末」と「才覚」を信条にして家業をはげみ、それゆえに今日の地位をえた元禄町人であった。その彼らを、大衆化した遊里がさそう。「悪所」の意識は、彼らに門戸をひらいた遊里の誘惑に対して町人たちがいだいた自戒の念にきざすものかもしれなかった。あるいは、その魅惑への、いいしれない恐怖感とでもいうべきではなかったのか。
 西鶴はいう。「近年、町人身体(身代)たたみ、分散(破産)にあへるは、好色・買置(かいおき)(先物買)、此の二つなり」(『西鶴織留』巻一)と。」
「もっとも、おなじ西鶴でも、「鎌倉屋の何がし、分限長者経にも入り、九千貫目、家継ぎにゆずりしに、色あそびさかんになって、跡なくつかい捨てしとかや。一生の思ひ出、是なるべし。とても死んでは持ちてゆかず(中略)。人間万事は夢の見残し、ただ緋緞子の長枕、まことの極楽、遠きにあらず」(『諸艶大鏡』巻一)となると、かなり論調がことなっている。
 これは、放蕩(ほうとう)それ自体に価値をみとめた、数すくない言辞として、記憶にとどめておいてよい。
 親の遺産を「色あそび」で「跡なくつかい捨て」るのは、これこそ「一生の思ひ出」だというのである。(中略)これもまた当時の町人にとって、たしかに、ひとつの感慨だったのである。
 「ねがひあれどもかなへず、銭あれども用ゐざるは、全く貧者とおなじ、何を楽とせんや」(『好色破邪顕正』巻下)という意識が、あからさまに自覚されるのも、元禄の世相なのであった。彼らは、すでに浪費というものの魅力にそまってしまっていたのだった。」

「いま、かりに虚と実といういいかたをすれば、遊里というものの存在は、あきらかに虚の側に属していた。日常的な生活領域を実とみれば、それは、そもそも非日常的な虚なのである。批判にさらされた遊里の虚偽性は、実は、その虚構性と裏腹であったといえる。
 遊里の側から、実生活の論理を排斥するのに、ためらうところはなかった。遊里には遊里の論理があったからである。
 ここでは現実の秩序をかたちづくる身分でさえも、たいして意味をもたない。」
「たしかに、遊里は金がものをいう世界である。にもかかわらず、太夫は金だけでは客の自由にならぬことをほこりにしていた。廓の女性は、自分たちのことを、「売りものとは申しながら、神仏の奉加と同じことで、銀出しながら拝まするは、恐らく世界に傾城(けいせい)ばつかし」(『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』)といって、はばかるところがなかった。売買の感覚についても、この遊里では、世間の常識が通用しなかったのである。」
「虚といっても、それは実ととなりあわせの虚であった。しかして、もし遊里が「悪所」と観念されるとすれば、その理由は、まさにその虚が実と領域をおかしあうほどに接近し、かつ持続して存在していたことにもとめられるのかもしれない。」
「現実の「色の里」は、とうてい、隔絶した別天地ではありえなかった。遊里は、深山幽谷にあったわけでもなく、絶海の小島にあったのでもない。(中略)それは、日常空間のすぐ傍に、しかも、恒常的に立地していたのである。「色の里」は、「常の里」と不断に緊張関係を余儀なくされる距離に位置する存在だった。
 逆にまた、「常の里」の側も、本来は虚構であるべきはずの遊里の論理の侵犯にさらされていたともいえよう。その意味で、遊里を、彼岸でもなく、此岸でもなく、その境界、つまり「辺界」に位置づけた広末保の見解は、きわめて説得的である。」
「近松が、浄瑠璃についていった虚実皮膜(ひにく)の論が、おもいおこされる。彼はいう、「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、その間に慰みがあつたものなり」と(『難波土産』発端)。虚と実のあいだにこそ「慰み」があるのだというこの主張は、浄瑠璃にかぎらず、元禄期の世相認識として、普遍性をもつ言葉であったようにおもわれるのである。
 ちなみに、元禄期に流行した心中は、まさしく二つの里のおかしあいがうみだした現象のひとつにほかならなかった。」
「おもえば、あの道行という時間は、遊里という夢幻の浮世から、もうひとつの幻、あの世へむかう短絡の道程であったといえようか。」
「遊里が虚構であるということは、実の日常性の規制にわずらわされることなく、そこに純粋な愛情によって男女がむすばれる可能性さえ示唆するのである。虚なるがゆえに実が生じるという倒錯が、遊女の主張のなかだけでなく、現実としてあったのではないか。
 遊里にあそぶ客たちにしても、その虚構性――あえていえば虚偽性に武装されることによって、はじめて自己を解放するという屈折を実現することがあったとみるべきなのではないのか。廓の女たちにしても、実世界から隔離され、なにひとつその恩恵をうけていないがゆえに、現実には実現不可能な純愛を、遊里のなかでこそ達成することができたのではないのか。」
「広末はいう――、「現世的な連続の時間から切り離されている性だったからこそ、男たちはその性のなかで、一挙に極楽往生することができたというようなことが、意識するしないにかかわらず、あったかもしれない」と。」



「第三章」より:

「京都と大坂の「芝居町」の立地に、ある理知的な共通性をみとめることができる。それは、都市の中心部からみて、いずれも川のむこうに位置したということである。京都の四条河原の芝居は川東、つまり鴨川のむこう側にあった。大坂の道頓堀も、道頓堀川のむこうが、「芝居町」なのであった。
 「芝居町」は、川むこうに、おいはらわれていたのである。おいはらったのは為政者であったが、それは、芸能が河原のものであったという伝統的な性格に合致していた。(中略)そしてそれが、興行関係者への蔑視につながったことは、すでにのべたとおりである。
 しかも川むこうというところは、都市と郊外の境界に位置するところであった。その境界の地において、本来、非日常的であるべき芸能の上演が、現実には恒常的にいとなまれている。芝居の場合にも、「悪所」とおなじような辺界性をみとめることができるのかもしれない。」

「「芝居」という話題の最後にぜひとも問題にしておかなくてはならないのは、「芝居」の饗宴性・遊興性についてなのである。その饗宴性ゆえに、近世の「芝居」は近代の劇場でなく、そしてその遊興性こそが、遊里と芝居が共有せねばならなかった「悪所」性なのであった。
 すでにどこかでひいておいたはずだが、遊里と芝居の対比の実質は、「傾城狂ひ」と「冶郎遊び」(『日本永代蔵』巻三)の対比にほかならなかったのである。それはまた、西鶴の好色物に、遊女列伝の『諸艶大鑑』(別名『好色二代男』に対するに衆道列伝の『男色大鑑』のあるごとくであった。そして、その『男色大鑑』の後半部のことごとくが、職業的な男色のにない手ともいうべき歌舞伎役者の逸話でしめられていたのである。
 ――だとすれば、最後になって、またしても、われわれは困難な課題をかかえこんでしまったようである。遊里と芝居が共有せねばならなかった「悪所」性を問題にするのならば、遊里の女色に対する芝居の男色を話題にしなければならなくなるからである。」
「さきに、元禄期の舞台芸能者は、興行という大衆的制度に依存することで、権力とのあいだの隷属関係から解放されたとのべた、しかし、それだけの指摘では、実は、近世の舞台芸能者を説明するのに充分ではなかったことになる。彼らの属性として、その男娼的な性格を、われわれは、あわせて視野にいれておかなくてはならないからである。
 なるほど、特定の保護者とのあいだの関係はきれたかもしれない。しかし、(中略)彼らの芸能者としてのつとめは、芝居にかかわる遊興の場に、芸能の饗宴性とともに、なお濃厚に残存していたのであった。パトロンとのあいだの個人的で人身的な隷属関係は、「芝居」につどう客との関係に、擬制的・遺制的に温存されていたといえようか。」





こちらもご参照ください:

服部幸雄 『大いなる小屋 ― 近世都市の祝祭空間』 (叢書 演劇と見世物の文化史)





















































































守屋毅 『日本中世への視座』 (NHKブックス)

「世に京童(きょうわらべ・きょうわらわ)という。(中略)童とはいえ、子供ではない。京中無頼の徒の謂である。それが童と呼ばれたのは、おそらく彼らが童形のザンバラ髪のまま生涯をおくったからであろう。」
(守屋毅 『日本中世への視座』 より)


守屋毅 
『日本中世への視座
― 風流・ばさら・かぶき』
 
NHKブックス 459 

日本放送出版協会
昭和59年6月20日 第1刷発行
vi 250p
B6判 並装 カバー
定価750円
装幀: 栃折久美子



本書「はじめに」より:

「古代と近世のはざまにあって、中世という時代は、いかにも影が薄い。
 ただ、私にとって中世という時代のイメージは、きわめて鮮明である。
 それは、一つには、平安時代の「風流(ふうりゅう)」に始まり南北朝期の「ばさら」を介して近世初期の「かぶき」をもって終わる時代にほかならない。すなわち、異類・異形の風俗が荒々しく歴史を彩る時代だったということなのである。そして本書は、〈「風流」から「かぶき」まで〉という、私の中世像に忠実に構成されている。
 そして二つには、都市的な性格と風貌をもった人間群像が出現し、文化と風俗の主役を演じる時代だったということである。それは平安時代の「京童」に萌芽し、南北朝期の「ばさら大名」を経て、やがて「かぶき者」に屈折していく異端者の系譜をなすとともに、室町時代の「町衆」から近世の「町人」、近代の「市民」に至る都市民の系譜をつくり出すものでもあった。
 もっとも、私がこの本のなかで展開しようとしている中世像は、正直なところ、かなり我流というべきものであって、極端な偏向をきたしている。」
「私は、偏向を承知のうえで、中世という時代の魅力を、あえて、この角度から語ってみたいと思うのである。」



図版(および図表)47点。


守屋毅 日本中世への視座 01


目次:

序章 ふりゅう・ばさら・かぶき
  洛陽の田楽
  田楽の狂気
  乱世の予感
  風流と傾奇
  ばさら大名
  豊国の祭礼
第一章 都市の風景
 一 京童の風貌
  東人と京童
  京童の口遊
  印地の冠者
  世知の京童
 二 『方丈記』のなかの京都
  長明の時代
  大火
  遷都
  飢饉
  地震
 三 町と町家の形成
  「町家」の源流
  市町の構造
  色好・祭礼・聖
  平安京の「町」
  町小路と「町座」
  「町」の変遷
  街路の意味
  「町」の住民
  町衆の「町」
第二章 町衆の文化
 一 「町衆文化」論
  中世文化と都市
  都市文化のにない手としての「町衆」
  「マチシュウ」か「チョウシュウ」か
 二 「市中の山居」とその周辺
  町衆と「わび茶」
  「雑談」の場
  村田珠光
  「下京茶湯」と「市中の隠」
  武野紹鷗
  「市中の山居」と「堺普請」
  「有徳者」の文化
  「わび茶」その後
 三 町衆と能と謡
  勧進興行
  大和猿楽と町衆手猿楽
  町衆手猿楽と謡の流行
  光悦謡本
第三章 室町生活誌
 一 乱世の群像
  百姓
  女
  遊女
 二 生活の意匠
  花
  扇
  唐物
  紙
  筆
  表具
  畳
  釜
  盆踊り
  油
 三 食事の源流
  庖丁
  酒
  茶
  そうめん
  豆腐
  味噌・醤油
  納豆
  かまぼこ
 四 物と情報の流通
  行商
  道
  車
  船
  貨幣
  金・銀
  カルタ
  地図
 五 武の造型
  刀
  鉄砲
  城
第四章 芸能史――京都と地方
 一 鷺舞と小京都
  津和野の鷺舞
  祇園会の笠鷺鉾
  山口の鷺舞
  鷺舞のたどった道
 二 村里の風流
  政基下向
  日根野庄の一年
  風流と猿楽
  雨乞いと宮座の伝承
  翁そのほか
  地方芸能史の試み
 三 広場の芸能史
  四季と風俗画
  賀茂の競馬
  祇園御霊会
  盆の夜の風流踊
  風流の旋風
  踊る民衆
  華麗なる建設
  普請と風流
  豊国の祭り
  「かぶき」
  六条三筋町
第五章 中世の終焉
 一 天下人と京都
  二つの「天下」
  洛中洛外図屏風を欠く時代
  信長と町衆
  上京焼打
  幻の安土屏風
  聚楽第と方広寺
  秀吉の京都改造
  その後の京都
 二 秀吉と町衆と芸能
  黄金の茶室
  城中の山里
  町衆の文化
  太閤と能楽
  太閤の笑顔
終章 異端としての天下人
  「うつけ」「たわけ」の正体
  描かれた武将たち
  安土城の威容と異様
  異端者の南蛮好み
  お馬揃えの風流
  天下人より「かぶき者」へ
  描かれた「かぶき」

解題
あとがき



守屋毅 日本中世への視座 02



◆本書より◆


「異端としての天下人」より:

「時は天文二十年(一五五一)春であった。所は織田家菩提寺尾張万松寺。折りしも亡き織田信秀葬儀の場での出来事である。
  其時、信長公御仕立、長柄の大刀・脇差を三五縄にて巻かせられ、髪は茶筅にて巻立て、袴も召し候はず、仏前へ出有て、抹香をくハつと御つかみ候て、仏前へ投げ懸け、御帰る。
 『信長公記』の伝える信長の、その場における形振りのあらましである。『公記』はつづけて、
  御舎弟勘十郎ハ、折目高なる肩衣、袴召し候て、有るべき如くの御沙汰也。
 と尋常にふるまった弟信行の様子を対比し、信長の奇行をいっそう強調する文飾を忘れていないし、さらにはまた、席に居並ぶ面々が、
  例の大うつけよ
 ととりどりの評判をするなかに唯一人、筑紫の客僧だけが、
  あれこそ国は持つ人よ
 とつぶやいた。――といったと、もっともらしいエピソードを挿入して、話の首尾をととのえている。
 信長にして十八歳の春であった。
 当面の話題の中心は、凡人の眼には必ずや「うつけ」としか映らなかったにちがいない、信長の、その「うつけ」の意味にある。
 信秀の葬儀における信長の奇行は、周囲の警戒心をかわすための演出であったとか、あるいは亡父への精一杯の愛情の吐露であったとかいわれる。それも、たしかにあるであろう。しかし、果たしてそれだけが真相であったのか。
 信長のこのような出で立ちは、実は、このときに限ったことではなかったのである。ふだんから信長は髪を茶筅に結って湯かたびらの片肌脱ぎ、半袴に朱鞘の大小を差し、町を歩く時には人に寄りかかって肩にぶらさがり、あまつさえ、歩きながら食べ物をほおばる有様であった。異形の振る舞いといわねばなるまい。」
「すでに先学の指摘もあるが、もしこれらの奇行が策略ゆえの偽装であったとすれば、すでにそれを必要とせぬ時期に至った信長が「天人の御仕立に御成候て、小鼓遊し、女おどりを被成候」といった行為は、どう説明すればよいのであろうか。
 つまるところ、信長の、少なくとも若き日の信長の実像は、掛け値なしの「うつけ」「たわけ」そのものであったにちがいないというのが、私見なのである。むろん「うつけ」とか「たわけ」とかいうのは、ある偏見にもとづく表現であって、今日風に表わせば「異端」とでもいうべきであろう。
 すでに史料を引いて示した風体はまさしく傍若無人の無頼漢にふさわしい。」
「そして一挙に飛躍して申すなら、その「うつけ」「たわけ」こそが、信長をして天下人の覇道を進ましめた原動力の、少なくとも一つにほかならなかった。」
「時代は人を人とも思わぬ無頼によって、切り開かれようとしていた。無頼はさっそうと戦国の野を駆けていた。」
「しかして、その「うつけ」「たわけ」が、やがて天下人としての権力によろわれた時、都の常識人の目には王法・仏法に刃向かうとしか思えぬ数々の蛮行が、彼の政治史に刻まれて、その先に本能寺の変を自ら招きよせる結果となるのである。
 もっとも、ここでは政治史上の信長を扱おうというのではない。風俗史上の人物としての信長を考えてみたいのである。」
「ふたたび飛躍して勝手な推測を働かせば、いわゆる無頼の風体こそは、下剋上の世相の生み出した新しいトップ・モードだったといえなくもない。下剋上という歴史の動向は、権力争奪の局面に矮小化すべきではなく、文化や風俗のあらゆる分野においても著しい現象だったことに、あらためて注意を促しておこう。
 信長の異形も、そうした流れのなかで、はじめて正当な位置を与えられるものと思うからである。」

「信長が陳腐な旧風俗に対して示したあからさまな侮蔑の表情は、いくつもの挿話にうかがえる。おそらく、有職故実にしか依るべき価値をもたぬ人びとには、「うつけ」「たわけ」としか見えぬ、彼の生涯を貫いた奇行こそ、信長の天下人としてのアイデンティティーなのであった。」

「これまで、信長について多くを語りすぎたようである。そして異端を信長個人についてのみ強調しすぎたように思う。
 信長における異端は、彼にとっていささか激烈に過ぎたとはいえ、大なり小なり、下剋上の世をたくましく生きようとしたものに共通の、そして不可避の行動様式だったのであり、信長は偶々、その頂上をきわめたにすぎないともいえようか。
 それにしても、ものの本に記されることなく、しかし、したたかに下剋上を実践した多くの異端の栄光の存在を、われわれは記憶にとどめておかなくてはならないであろう。」





こちらもご参照ください:

守屋毅 『中世芸能の幻像』












































































守屋毅 『中世芸能の幻像』

「中世を乱世といい下剋上というが、それは階級関係の上下の攪乱であったばかりでなく、常民的価値と異端のそれとの確執という側面をもっていたことを否定できない。」
守屋毅 『中世芸能の幻像』 より


守屋毅 
『中世芸能の幻像』


淡交社
昭和60年7月29日 初版発行
238p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円



本書「中世芸能史覚書―あとがきにかえて―」より:

「本書のもとになった原稿は、茶道誌『淡交』の昭和五十八年七月号から五十九年十二月号まで十八回にわたって連載した「中世芸能の世界」である。」
「それと並行して、同じ題材を、大阪大学文学部で行っている〈芸能史〉の講義で扱い、また筑波大学の集中講義〈日本文化論〉でも話した。その間、もとの原稿は大幅に加筆・改訂がくりかえされ、そしてそれをさらに整理しなおしたのが、本書なのである。」



本文中図版10点、扉挿図6点。


守屋毅 中世芸能の幻像 01


帯文:

「時代と終焉をともにした
真に中世的なる
芸能を求めて」



帯背:

「異形が乱舞する
独自の芸能史論」



帯裏:

「真に「中世的」と呼びうるものは、むしろ中世という時代と運命をともにして滅び去った芸能にこそ求められるのではあるまいか―と著者はいう。中世芸能史を能楽形成史と同一視する風潮に対し、本書では意識的に能楽に関する叙述を省き、田楽・散楽・さるごうといった中世にのみ存在するさまざまな芸能にスポットをあてる。その分析と叙述には「中世芸能にかかわる用語とその用法に注目することにより、言葉の喚起するイメージを芸能世界に接近する通路とする」独特の手法を用いる。
祭礼という非日常と芸能という反秩序に彩られた中世舞台に乱舞する異形の姿を鮮やかに再現、中世芸能史を新たな展開に導く意欲作である。」



目次:

もう一つの中世芸能―田楽―
 永長大田楽
 田楽という芸能
 成立と芸態
服飾にみる傾奇―風流―
 芸能とその衣裳
 禁色・過差・傾奇
 風流の源流から
芸能という行為―物狂―
 芸能の不思議さ
 「狂ふ」「走る」「舞ふ」
 「遊び女」と「狂女」のあいだ
祭礼の場の暴力―印地―
 祭礼と飛礫と禁制
 印地の周辺
 印地の党
滑稽の芸脈―猿楽―
 稲荷祭の風流と猿楽
 「さるごう」と「をこ」の系譜
 「狂言」の原像
中世における「異形」の系譜―ばさら―
 「ばさら」の出現
 異形・悪党・ばさら
 「ばさら」群像

中世芸能史覚書―あとがきにかえて―
中世芸能の幻像・略年譜



守屋毅 中世芸能の幻像 02



◆本書より◆


「もう一つの中世芸能―田楽―」より:

「嘉保三年(永長元、一〇九六)の夏、京都は異様な興奮につつまれていた。
 この年、五月から八月にかけて、「田楽(でんがく)」という芸能が爆発的に流行し、京都の住人がこぞって田楽にうかれ狂うという大騒動がつづいたからである。おそらく、その間、京都の政治は一時的な麻痺状態に陥っていたにちがいなかった。」

「そしてまた、田楽の騒動は「永長大田楽」で終ったわけでもなかった。」

「なお類似の事件は、枚挙にいとまがなかった。
 これらの記事はなかなか意味深長である。―というのも、これらは、田楽という芸能が、不思議なことに、ややもすれば、集団的な混乱―ひいては一種の暴動状態さえ惹起せずにおかなかったことを示唆しているからである。」

「芸能というものは、程度の差こそあれ、そもそも誘惑的なものであって、大なり小なり人をとりこにせずにはおかないものであるが、こと田楽についていえば、それが人々を深く魅了したこと、およそ他の芸能の及ぶところではなかった。」
「田楽は、その文字面からして、いかにも田園・牧歌的な芸態を想起させるところがある。(中略)しかし、残された歴史史料が示す田楽の光景は、騒然として物狂わしく、我々のそうした先入観を裏ぎってあまりあるものがあったのである。」
「ひとたび田楽が流行するや、はてしなくその輪が広がり、ついには暴動状態にまでいきつくのは、まさに不特定の群衆を陶酔にまきこむ構造を、踊りである田楽が、本来的にそなえていたからだと考えて、大きな誤りはないはずである。」

「もっとも、田楽の不思議なところは、かならずしも集団的な熱狂にのみ認められるわけではなかった。田楽の流行とあいまって、田楽に魅いられて身を破滅させた―あるいは破滅させたと噂される人物が出現することになる。鎌倉幕府の滅亡をもたらした執権北条高時がその人であった。」
「鎌倉幕府がほろんだ直後、その原因が、政権の中枢にいた高時の闘犬と田楽への傾倒にあったとささやかれたというのであるから、もののたとえにもせよ、幕府一つを倒壊させるだけの力を、田楽という一芸能がもっていたということになる。」

「さらに興味深いことには、田楽への執心は天狗という妖怪を招きよせ、その報復をうけるという考えかたが、広く存在したようなのである。」
「田楽と天狗の連想は、「桟敷(さじき)倒れ」の異名で知られる貞和五年(一三四九)六月十一日の四条河原勧進田楽についてもみられる。この勧進田楽は、開催中に桟敷が倒壊して多数の死者をだしたことで知られるのであるが、口さがない京童たちのあいだに、桟敷を倒壊させたのは天狗のしわざだという噂が広がり、『太平記』はこれを称して「天狗倒し」と呼んだのであった(巻二十七〈田楽の事〉)。」



「服飾にみる傾奇―風流―」より:

「この時代、神事の領域は、世俗の規制の外にあるという観念が、なお生き生きとみなぎっていたのである。「神事と称し」「ことを神祀に寄せ」ることで、人々は日常では実現できない「過差」をためらわず敢行し、権力の頂点にいるものまでが無法の「傾奇(けいき)」に走りえたのであった。
 田楽に代表される中世の祭礼芸能が、今日の我々からみれば異様なまでに緊迫した雰囲気をはらみ、その結果、現実の社会秩序と鋭く対決せざるをえなかったのは、祭礼という場の保証した、この無法性・倒錯性に起因していたといえようか。」

「平安時代中期の貴族たちのあいだに、人工的な造型物の出来ばえ―主としてその美しさ、意匠の妙、工芸的な精巧さなどについて、とくに「風流」という表現をあたえる用例が現れ、やがて貴賤を問わず、ひときわ人の目をひくような、趣向を凝らした人工的な造型物を、総じて「風流」の名で呼ぶようにもなる。」
「しかし我々が、当面の話題に関連して追跡すべき「風流」は、やはり祭礼と芸能にともなう「風流」でなくてはなるまい。
 ―というのも、祭りや芸能の場における「風流」には、単なる意匠・技能・趣向の妙味の域をこえて、また格別の意味あいがこめられていたとみられるからである。そこには、「過差」「美麗」「奢侈」「傾奇」にも通じあう、絢爛たる異相がみなぎっていたのであった。
 そしてその祭礼の「風流」の中核に、異様なまでに人の目をひきつける衣裳があったこと、(中略)そのような衣裳で装うことそのものが、すでに「風流」なのであったとみてよい。」
「したがって人々は、装束の「過差」「美麗」とともに、さらに「風流」を競うことで、己の存在をいっそう誇示しようとしていたのである。」



「芸能という行為―物狂―」より:

「古代や中世の人々のあいだには、なんらかの異常性がみなぎらないかぎり、芸能という行為も発動しないと信じられていたふしがある。」
「この時代の人にとって、芸能へかりたてられる衝動は、人間をはるかにこえた不思議な力の発動とでもいわねば、とうてい了解しようのないものであったようなのである。」

「中世において、芸能を演じることを、人々は「狂ふ」という言葉で表現する場合が、少なくなかったのである。」

「当時、「くるふ」という行為がつまりは憑依状態(トランス)の一形態と考えられていたことに、疑いをさしはさむ余地はないであろう。」

「そもそも「くるふ」という言葉の「くる」は、「くるくる回る」などという時の「くる」と同じで、したがって「くるふ」とは旋回動作―すなわち回ることを表すものであったと考えられる。」
「その旋回はとりもなおさず、人が「現し心」を欠いた時、つまり人の狂った際の動作にほかならなかった。あるいは、「現し心」を失った途端、我々は誰しも、等しく、ぐるぐると旋回をはじめるものなのであろうか。
 しかもそれは、これまでの議論のおもむくところからして、人間以外のなんらかの「もの」が、人をして回らしめるという理屈になる。人間以外のなんらかの「もの」が、人をして回らしめる場といえば、さしあたり、それは祭式の場の「神懸り」を想定するのが適当であろう。「狂ふ」とは、そうした行為を前提にした言葉だったと了解しておかねばなるまい。」

「つまるところ、「くるふ」といい、「まふ」「はしる」といい、中世において芸能を演じる様子を表すに際して用いられる動詞は、いずれも、もともと祭りの場における、非日常的な動作に発したものであったこと、そして中世芸能も、その深層においてその感覚をひきずっていたことは、まず間違いのないところであった。
 しかも、芸能そのものが、ほかでもない、憑依にともなう行為であったことの痕跡を、言葉のみならず、人々が意識のなかに、はっきりととどめていたのが、中世という時代の芸能の歴史的特徴であったのである。」

「『梁塵秘抄』巻二に収める神歌にいう―。
  遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。
 芸能はその根源において、「遊び」でもあり「浮かれ」「戯れ」でもあったというわけなのである。
 そしてここで、遊女のはるかなる起源を巫子に求める有力な説のあることをいいそえておくのも、けっして無駄ではない。遊女と巫子をつなぐものは、ほかでもない、「遊び」にあった。遊女が、その稼業に「遊び」をともなわねばならなかったのは、彼女たちが、祭式の場で「遊び」を演じた巫子たちの末裔だったからだというのである。遊女は、零落した巫子であった。
 神につかえる巫子の「遊び」といえば、それは、まさしく心ここにあらざる神懸りということになる。我々は、「遊び」すなわち芸能の究極が神懸りのトランスにあったことに気づいておかねばならない。
 ―だとすれば、芸能にたずさわるという、その行動は、とりもなおさず、我れと我が身を、あえて、現実から心ここにあらざる状態に追いやることにほかならなかった―ということになる。」

「なるほど、中世の人にとって、狂うて、舞って、遊ぶのは、分かちがたく連動する、ひとつづきの行動なのであった。」
「なればこそ、中世には芸能者のことを、「舞ひ人」「遊び者」というとともに、また「狂ひ者」とも称していたのである。」



「滑稽の芸脈―猿楽―」より:

「『看聞御記』の応永三十一年(一四二四)三月十一日の条にみえる狂言の記事は、多少とも、実際に演じられた狂言の内容をうかがわせる記録として、かなり早い時期のものとみてよい。」
「伏見の御香宮の祭礼で、丹波矢田座による猿楽(この時代になると猿楽はいわゆる能楽を指している)が行われた。その時、狂言として「公家人疲労の事」(「落ちぶれた公家の物語」とでもいおうか)という演目が演じられた。伏見は、(中略)公家が大勢住んでいるところであった。
 そのような土地で、こともあろうに「公家人疲労」を主題にした狂言を演じるとは「尾籠の至り」というわけで、この一座は、あえなく追放されてしまったというのである。」
「『看聞御記』のこの記事において、筆者の非難は、かならずしも狂言の諷刺性そのものにあったのではなく、場所柄をわきまえぬ一座の態度にむけられていると解釈するのが正しい読みであろうが、創始期の狂言が、かつていくつかの猿楽がそうであったように、みるものの激しい怒りをかうほどの諷刺を含んでいたことだけは、これらの例によって、容易に肯けるところなのである。」



「中世における「異形」の系譜―ばさら―」より:

「もっとも、「ばさら」とは、かならずしも、我々にとって耳なれた言葉ではない。
 『建武式目』では「婆佐羅」とあるが、「婆娑羅」と書かれることが多いこの言葉は、もともと仏教の用語で、サンスクリットの Vajra を語源とするといわれている。それを漢訳すれば金剛―要するにダイヤモンドの意であった。金剛石がすべてを打ち砕くところから、密教で煩悩を砕き外部の魔神を降伏させる力をもつ象徴として用い法具を金剛杵(しょ)などともいう。」
「それが転じて、『続教訓抄』に「下郎の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな」とあるのが例となるように、音楽・舞楽の調子はずれをいったりもし、さらに転じて、遠慮会釈なく驕慢・放埓にふるまうことを「ばさら」、あるいは単に「ばさ」というにいたったのであった。
 史料上の所見からすると、「ばさ」のほうが早く、中国においても『神女賦』(戦国時代の人、宋玉の作という)に「婆娑、放逸の貌」とあって、すでに日本中世の「ばさら」と同様に、常軌をはずれた行動を意味して「婆娑」という表現が行われていたことがうかがえるのである。」
「その「ばさら」が、祭礼の場の風流の「異形」とつながっていたことは、「風流」に「ばさら」というルビを施した『恩地左近太郎聞書』の例からして、容易に推察されるところであった。」

「あの風流の面目が、法をこえた過差の極限としての「傾奇(けいき)」にあったように、「ばさら」においても、その核心は、むしろその異常性―「物狂」に求められるのかもしれない。」
「一方の価値観の持ち主には「物狂」としかみえないものが、今日の目からすると、なんと颯爽として、潑溂たるものがあったか。」

「平安時代から鎌倉時代にかけて、祭礼のなかに「風流」の名で顕著にみいだされた「異形」は、実は、祭礼といった非日常の時間・空間にのみみられたものではなく、ある一群の人々にとっては、その集団を表示する風俗でもあったことを、ここで指摘しておかなくてはならない。」
「「風流」の「異形」が、祭りの場における無法―反秩序的行動を保証するものであったとするならば、無頼の徒は、みずから仮りの「異形」に身をやつすことで、社会秩序の埒外に生きる表象としていたということなのであろうか。」

「柳田国男の「鬼の子孫」には、かつて「年老いる迄童子を以て呼ばれ、又童子相応の風をして居た」人々の存在したことを指摘している。ここで「童子相応の風」といわれるのは、髪を結わずに、子供のようなかむろ頭のザンバラ髪のままの姿を指しているのである。」
「童子の名をもち、童形によって特色づけられる集団に「鬼」があった。」
「しかして、これらの「鬼」のイメージが形成されていく背後に、山間に居所をかまえる人たちの姿が想起されていたことは、確かであった。山中異界の住人にとって、その童形は異界性の象徴であったということになろう。」

「田楽における「異形」は、芸能というその場かぎりの逸脱行為にすぎなかったが、「年老いる迄童子を以て呼ばれ、又童子相応の風をして居た」人々は、まさにその「異形」を常の風体とする人々なのであって、童形であることをその集団の表示としていたのである。」



「中世芸能史覚書―あとがきにかえて―」より:

「筆者が本書で明らかにした事実のなかには、既存の祝祭論の安易な適応を拒むものがある。つぎにそれを二点ばかり指摘しておく。
 第一に問題となるのは、従来の祝祭論が、表現こそちがえ、その機能を社会秩序の刷新・回復・再生に求めていることである。しかし中世日本についてみれば、祝祭の混乱がただちに現実世界―常民の生活領域の混乱に直結する場合があったのである。それは、すでに本書で指摘したごとく、田楽の騒乱がしばしば現実の合戦に拡張し、芸能の異常な流行が乱世の予兆と観念された事実などから、疑いを入れないところであった。その都度、社会秩序は混迷に陥るのであって、その刷新・回復・再生は、祝祭とは別の、いちじるしく世俗的な力の発動によってはかられざるをえないのである。
 日常的秩序と非日常的反秩序は、対立的に乖離するものではなく、日常的秩序は非日常的反秩序の側から挑発をうけ、攪乱されることがあったというのが真相ではなかったか。筆者はむしろその点に、祝祭の一般理論の枠組に収まりきらない、中世の芸能や祭礼の歴史的特色を認めるのである。 
 第二に考慮したいのは、祝祭にみられた反日常的な逸脱行為―とりわけ「異形」を日常のものとしている集団の存在をどう理解するかである。それは、摺衣(しゅうい)をまとった双六・博奕の徒であり、ザンバラ髪の盗賊や京童であり、異相の印地の党であり、照りかがやくばかりの美装の悪党たちであった。しかも、彼らの集団の表象は、祝祭の場の聖なる「異形」の表出と共通していたのである。
 彼らは祝祭の場にのみ許容された反秩序を祝祭の場以外の時と場所で行う集団にほかならなかった。あるいは、祝祭の混乱が、現実世界に結びつくに際して、この種の集団がそれを媒介する場合があったと考えることもできる。」
「彼らは、間違いなく異端として反秩序の側におり、常民の生活領域から忌避される存在であったが、南北朝期の「ばさら」大名のように、時として世の常ならざるものが時代の英雄になりうる現実があったのである。秩序と日常性によって保護される常民の領域のすぐとなりにあって、しかも現実世界を侵犯する可能性をもつ集団の存続したことが、筆者には日本中世の特色の一つであったように思える。
 さらに付言しておくなら、中世を乱世といい下剋上というが、それは階級関係の上下の攪乱であったばかりでなく、常民的価値と異端のそれとの確執という側面をもっていたことを否定できない。」





こちらもご参照ください:

守屋毅 『日本中世への視座』 (NHKブックス)






































































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ひとでなしの猫

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うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

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趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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