ねこぢるy 『ねこぢるyうどん』 (全三冊)
「 《幻想が向ふから迫つてくるときは
もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
あんまりひどい幻想だ
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきつと斯ういふことになる
きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです」
(宮沢賢治「小岩井農場」より)
ねこぢるy 『ねこぢるyうどん①』
青林堂 2000年11月20日初版発行
122p A5判 角背紙装上製本 カバー 定価1,200円+税
あとがき: 根本敬
挿画・装幀: ねこぢるy
ねこぢるy 『ねこぢるyうどん②』
青林堂 2001年3月23日初版発行/同年4月25日第2刷発行
110p A5判 角背紙装上製本 カバー 定価1,200円+税
挿画・装幀: ねこぢるy
ねこぢるy 『ねこぢるyうどん③』
青林堂 2002年1月30日初版発行
133p A5判 角背紙装上製本 カバー 定価1,200円+税
挿画・装幀: ねこぢるy
駿河屋に全巻セットがあったので、買うつもりではなかったのですが、買ってみました。というか、気付いたら買っていました。
さいきんは、赤信号で渡りそうになったり、ついつい屋上の手すりをのりこえていたり、お釣りだけもらって商品を持たずに店を出そうになったり、逆に商品だけ持ってお金を払わずに店を出そうになったりと、突っ込みどころ満載の日々を送っています。こうなるとあとはもう神さまとか仏さまだけが頼りです。なぜなら人は見て見ぬふりをするからです。
えーっと、なにをしようとしていたんだっけ。

「ねこぢるy」は、山野一氏が、今は亡き「ねこぢる」の画風で描くときの名前です。『ねこぢるyうどん』には、長編まんが一本と、短篇二十八本が収録されています。
本家「ねこぢる」の元祖『ねこぢるうどん』と、まぎらわしいので、気をつけてください。

オールカラーCGまんがです。ねこぢる作品の名場面や、名キャラクターが再登場して、永劫回帰/endless knot の夢のトリップ曼荼羅を繰り広げます。
中心としての「ねこぢる」を探しての、内向的な(そして危険な)螺旋運動の旅です。

本書で活躍する「コロぺた号」というのは、元祖「ねこぢるうどん」では、人がされるとイヤだなと思っていることをあえてする(人が無意識のうちに望んでいることをする)、フロイト心理学的な無意識の形象化でしたが、本書「ねこぢるyうどん」には、「コロぺた号」の「中(なか)」の世界というのがでてきて、それは「やまのかみさま」の説明によると、「あらゆるものは深いとこでつながってる」ということなのだそうで、よくわかりませんが、ユンギアンな集合的無意識というか、チベッタンというか、よりいっそうスケールが大きくなっているようです。
ここで大雑把に「ねこぢる」と「ねこぢるy」との相違ということでいえば、フロイト的(ねこぢる)とユング的(ねこぢるy)ということになるのではないかと思います。あまりテキトーなことをいうのもどうかと思うので、分析とかはしませんが、ねこぢるがフロイト的なファミリー・ロマンス(じつは私は猫の子なのだ)だとすると、ねこぢるyは、「汝はそれなり Tat Tvam Asi」(自己 the self とはすなわち超越的実在 ultimate reality なのである)の境地をめざしているようです。
それはそれとして、フロイトは論文「無気味なもの」で、アンハイムリッヒ(無気味なもの)とはハイムリッヒ(親しいもの)に他ならないと喝破して、女性性器は、人がそこからこの世に出てきたという意味でハイムリッヒだが、それゆえにアンハイムリッヒなものとして認識されるのだといっています。そこから出てきたのに、そこに戻ることは禁止されている、そこに戻ることの禁止によって文明というものが成立している、そういう意味で「ヴァギナ・デンタータ」(歯のある女性性器)の民間伝承は、胎内回帰願望の抑圧の表象であり、原始的・無知蒙昧であるというよりは、高度な文明意識の所産であるといえます。ところが、ユング心理学はそのような「ヴァギナ・デンタータ」の向こう側に、あえて潜り込んでいこうとする、これは文明的に度し難い行為です。
ところで、「コロぺた号」こそまさに「ヴァギナ・デンタータ」ではないでしょうか。そして本書でにゃーことにゃっ太は、こともあろうに、「コロぺた号」の「中」に入ってしまうのです。
そして光速を超え、時間と空間と物質が崩壊した先で(そのように本書には説明されています)、にゃーことにゃっ太は、白度母(White Tara 白ターラー菩薩)に会うのです。
それは「救済」なのです。

ねこまんだら。
内容:
『ねこぢるyうどん①』
「ねこぢるうどん/コロぺたが町にやってくる」
第1回 (「ガロ」 2000年2月号)
第2回 (「ガロ」 2000年3月号)
第3回 (「ガロ」 2000年4月号)
第4回 (「ガロ」 2000年5月号)
ちょーねこ神さま (「ねこぢる通信」 第9号)
ねこ神さまGTR (「ねこぢる通信」 第13号)
ねこ神さま(半ライス) (「ねこぢる通信」 第14号)
偽ねこ神さま・人工ライス (「ねこぢる通信」 第16号)
ねこ神さま/ママライス(かーちゃんごはん) (「ねこぢる通信」 第17号)
「ねこぢるどんぶり」
ロボ工員 (「ラクダス」 1999年5月号)
はたらくおとーちゃんの巻 (「ラクダス」 1999年6月号)
たねうおの巻 (「ラクダス」 1999年7月号)
はやいライダーの巻 (「ラクダス」 1999年8月号)
ライスの巻 (「ラクダス」 1999年9月号)
ホースの巻 (「ラクダス」 1999年10月号)
わかんないの巻 (「ラクダス」 1999年11月号)
クリスマスの巻 (「ラクダス」 1999年12月号)
ヤングの巻 (「ラクダス」 2000年1月号)
おりこうおやこの巻 (「ラクダス」 2000年2月号)
「ねこぢるうどん」
老人の巻 (「ガロ」 2000年1月号)
『ねこぢるyうどん②』
「ねこぢるうどん/コロぺたが町にやってくる」
第5回 (「ガロ」 2000年6月号)
第6回 (「ガロ」 2000年7月号)
第7回 (「ガロ」 2000年11月号)
第8回 (「ガロ」 2000年12月号)
第9回 (「ガロ」 2001年1月号)
第10回 (「ガロ」 2001年2月号)
第11回 (「ガロ」 2001年3月号)
第12回 (「ガロ」 2001年4月号)
にゃんごどん (「ねこぢる通信」 第3号)
にゃんごさま (「ねこぢる通信」 第4号)
にゃんごちゃん (「ねこぢる通信」 第5号)
にゃんごさん (「ねこぢる通信」 第6号)
直子さまと啓一どの (「ねこぢる通信」 第7号)
ねこぢるたまご (「ねこぢる通信」 第10号)
ねこぢるらーめん (「ねこぢる通信」 第11号)
はやいごうかねこ (「ねこぢる通信」 第12号)
パねこンぢVIIラるイス (「ねこぢる通信」 第18号)
アメリカ人のかんさつ (「ねこぢる通信」 第19号)
つるつるうろん (「ねこぢる通信」 第23号)
ねこぢるどんぶり (「ラクダス」 1999年4月号)
『ねこぢるyうどん③』
「ねこぢるうどん/コロぺたが町にやってくる」
第13回 (「ガロ」 2001年5月号)
第14回 (「ガロ」 2001年6月号)
第15回 (「ガロ」 2001年8月号)
第16回 (「ガロ」 2001年10月号)
第17回 (「ガロ」 2001年12月号)
第18回 (「ガロ」 2002年2月号) および描き下ろし
かくのごとく「ねこぢる」世界が継承されていくのはすばらしいことだとおもいます。が、「ねこ神さま」シリーズはもういらないです。つまらないからです。
もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
あんまりひどい幻想だ
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきつと斯ういふことになる
きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです」
(宮沢賢治「小岩井農場」より)
ねこぢるy 『ねこぢるyうどん①』
青林堂 2000年11月20日初版発行
122p A5判 角背紙装上製本 カバー 定価1,200円+税
あとがき: 根本敬
挿画・装幀: ねこぢるy
ねこぢるy 『ねこぢるyうどん②』
青林堂 2001年3月23日初版発行/同年4月25日第2刷発行
110p A5判 角背紙装上製本 カバー 定価1,200円+税
挿画・装幀: ねこぢるy
ねこぢるy 『ねこぢるyうどん③』
青林堂 2002年1月30日初版発行
133p A5判 角背紙装上製本 カバー 定価1,200円+税
挿画・装幀: ねこぢるy
駿河屋に全巻セットがあったので、買うつもりではなかったのですが、買ってみました。というか、気付いたら買っていました。
さいきんは、赤信号で渡りそうになったり、ついつい屋上の手すりをのりこえていたり、お釣りだけもらって商品を持たずに店を出そうになったり、逆に商品だけ持ってお金を払わずに店を出そうになったりと、突っ込みどころ満載の日々を送っています。こうなるとあとはもう神さまとか仏さまだけが頼りです。なぜなら人は見て見ぬふりをするからです。
えーっと、なにをしようとしていたんだっけ。

「ねこぢるy」は、山野一氏が、今は亡き「ねこぢる」の画風で描くときの名前です。『ねこぢるyうどん』には、長編まんが一本と、短篇二十八本が収録されています。
本家「ねこぢる」の元祖『ねこぢるうどん』と、まぎらわしいので、気をつけてください。

オールカラーCGまんがです。ねこぢる作品の名場面や、名キャラクターが再登場して、永劫回帰/endless knot の夢のトリップ曼荼羅を繰り広げます。
中心としての「ねこぢる」を探しての、内向的な(そして危険な)螺旋運動の旅です。

本書で活躍する「コロぺた号」というのは、元祖「ねこぢるうどん」では、人がされるとイヤだなと思っていることをあえてする(人が無意識のうちに望んでいることをする)、フロイト心理学的な無意識の形象化でしたが、本書「ねこぢるyうどん」には、「コロぺた号」の「中(なか)」の世界というのがでてきて、それは「やまのかみさま」の説明によると、「あらゆるものは深いとこでつながってる」ということなのだそうで、よくわかりませんが、ユンギアンな集合的無意識というか、チベッタンというか、よりいっそうスケールが大きくなっているようです。
ここで大雑把に「ねこぢる」と「ねこぢるy」との相違ということでいえば、フロイト的(ねこぢる)とユング的(ねこぢるy)ということになるのではないかと思います。あまりテキトーなことをいうのもどうかと思うので、分析とかはしませんが、ねこぢるがフロイト的なファミリー・ロマンス(じつは私は猫の子なのだ)だとすると、ねこぢるyは、「汝はそれなり Tat Tvam Asi」(自己 the self とはすなわち超越的実在 ultimate reality なのである)の境地をめざしているようです。
それはそれとして、フロイトは論文「無気味なもの」で、アンハイムリッヒ(無気味なもの)とはハイムリッヒ(親しいもの)に他ならないと喝破して、女性性器は、人がそこからこの世に出てきたという意味でハイムリッヒだが、それゆえにアンハイムリッヒなものとして認識されるのだといっています。そこから出てきたのに、そこに戻ることは禁止されている、そこに戻ることの禁止によって文明というものが成立している、そういう意味で「ヴァギナ・デンタータ」(歯のある女性性器)の民間伝承は、胎内回帰願望の抑圧の表象であり、原始的・無知蒙昧であるというよりは、高度な文明意識の所産であるといえます。ところが、ユング心理学はそのような「ヴァギナ・デンタータ」の向こう側に、あえて潜り込んでいこうとする、これは文明的に度し難い行為です。
ところで、「コロぺた号」こそまさに「ヴァギナ・デンタータ」ではないでしょうか。そして本書でにゃーことにゃっ太は、こともあろうに、「コロぺた号」の「中」に入ってしまうのです。
そして光速を超え、時間と空間と物質が崩壊した先で(そのように本書には説明されています)、にゃーことにゃっ太は、白度母(White Tara 白ターラー菩薩)に会うのです。
それは「救済」なのです。

ねこまんだら。
内容:
『ねこぢるyうどん①』
「ねこぢるうどん/コロぺたが町にやってくる」
第1回 (「ガロ」 2000年2月号)
第2回 (「ガロ」 2000年3月号)
第3回 (「ガロ」 2000年4月号)
第4回 (「ガロ」 2000年5月号)
ちょーねこ神さま (「ねこぢる通信」 第9号)
ねこ神さまGTR (「ねこぢる通信」 第13号)
ねこ神さま(半ライス) (「ねこぢる通信」 第14号)
偽ねこ神さま・人工ライス (「ねこぢる通信」 第16号)
ねこ神さま/ママライス(かーちゃんごはん) (「ねこぢる通信」 第17号)
「ねこぢるどんぶり」
ロボ工員 (「ラクダス」 1999年5月号)
はたらくおとーちゃんの巻 (「ラクダス」 1999年6月号)
たねうおの巻 (「ラクダス」 1999年7月号)
はやいライダーの巻 (「ラクダス」 1999年8月号)
ライスの巻 (「ラクダス」 1999年9月号)
ホースの巻 (「ラクダス」 1999年10月号)
わかんないの巻 (「ラクダス」 1999年11月号)
クリスマスの巻 (「ラクダス」 1999年12月号)
ヤングの巻 (「ラクダス」 2000年1月号)
おりこうおやこの巻 (「ラクダス」 2000年2月号)
「ねこぢるうどん」
老人の巻 (「ガロ」 2000年1月号)
『ねこぢるyうどん②』
「ねこぢるうどん/コロぺたが町にやってくる」
第5回 (「ガロ」 2000年6月号)
第6回 (「ガロ」 2000年7月号)
第7回 (「ガロ」 2000年11月号)
第8回 (「ガロ」 2000年12月号)
第9回 (「ガロ」 2001年1月号)
第10回 (「ガロ」 2001年2月号)
第11回 (「ガロ」 2001年3月号)
第12回 (「ガロ」 2001年4月号)
にゃんごどん (「ねこぢる通信」 第3号)
にゃんごさま (「ねこぢる通信」 第4号)
にゃんごちゃん (「ねこぢる通信」 第5号)
にゃんごさん (「ねこぢる通信」 第6号)
直子さまと啓一どの (「ねこぢる通信」 第7号)
ねこぢるたまご (「ねこぢる通信」 第10号)
ねこぢるらーめん (「ねこぢる通信」 第11号)
はやいごうかねこ (「ねこぢる通信」 第12号)
パねこンぢVIIラるイス (「ねこぢる通信」 第18号)
アメリカ人のかんさつ (「ねこぢる通信」 第19号)
つるつるうろん (「ねこぢる通信」 第23号)
ねこぢるどんぶり (「ラクダス」 1999年4月号)
『ねこぢるyうどん③』
「ねこぢるうどん/コロぺたが町にやってくる」
第13回 (「ガロ」 2001年5月号)
第14回 (「ガロ」 2001年6月号)
第15回 (「ガロ」 2001年8月号)
第16回 (「ガロ」 2001年10月号)
第17回 (「ガロ」 2001年12月号)
第18回 (「ガロ」 2002年2月号) および描き下ろし
かくのごとく「ねこぢる」世界が継承されていくのはすばらしいことだとおもいます。が、「ねこ神さま」シリーズはもういらないです。つまらないからです。
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