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森鴎外 訳 『諸国物語 (上)』 (ちくま文庫)

「「クッケルッケルック。クッケルッケルック。」
 「それはなんだい。」兄は心配らしく問うた。
 「それですか。歓喜の声です。偉大な感情を表現するには、原始的声音をもってする外(ほか)ありません。」」

(ヴィーズ 「尼」 より)


森鷗外 訳 
『諸国物語 
(上)』
 
ちくま文庫 も-8-1 

筑摩書房 
1991年12月4日 第1刷発行
459p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価850円(本体825円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 安野光雅『西洋古都』(岩崎書店刊)より


「本書は「鷗外全集」(一九七一年一一月~一九七五年六月、岩波書店刊)を底本とし、表記を改め、作品の配列を一部変更した。」



全二冊。新字・新仮名。
石川淳による「解説」は『森鷗外』(昭和16年)の一部を再録したものです。


森鴎外 諸国物語 上


帯文:

「格調たかく、おもしろく。
ああ、こんな小説があったのか! と驚かされる名品珍品を、鷗外の文章で読むたのしさ。」



カバー裏文:

「いろいろな国の作家による、奇妙な話、ふしぎな話、おそろしい物語など、中、短篇を森鷗外の、格調高く文学の香り豊かな名訳で贈る。上巻は猿のもの悲しい運命を描く「猿」(クラルテー)、犬を捨てに行った男のドタバタ話「一疋の犬が二疋になる話」(ベルジエー)など今日入手しがたい話や、ポー、リルケ、シュニッツラーの名品25点を収録。」


目次:

尼 (ヴィーズ)
薔薇 (ヴィーズ)
クサンチス (サマン)
橋の下 (ブウテ)
田舎 (プレヴォー)
復讐 (レニエ)
不可説 (レニエ)
猿 (クラルティ)
一疋の犬が二疋になる話 (ベルジェエ)
聖ニコラウスの夜 (ルモニエ)
防火栓 (ヒルシュフェルト)
おれの葬い (エーヴァース)
刺絡 (シュトローブル)
アンドレアス・タアマイエルが遺書 (シュニッツラー)
正体 (フォルメラー)
祭日 (リルケ)
老人 (リルケ)
駆落 (リルケ)
破落戸の昇天 (モルナール)
辻馬車 (モルナール)
最終の午後 (モルナール)
襟 (ディモフ)
うずしお (ポー)
病院横町の殺人犯 (ポー)
十三時 (ポー)

著者紹介
『諸国物語』初出時の配列と表記

解説 諸国物語 (石川淳)




◆本書より◆


「尼」(ヴィーズ)より:

「「ちょうどそのころわたしはヘッケル先生と手紙の取遣(とりやり)をしていました。ヘッケル先生は御存じでしょう。」
 「あのダアウィニストのヘッケルじゃないのかい。」
 「むろんそうです。ダアウィニストですとも。わたしはこんな事を問いにやっていました。もし人間と猩々(しょうじょう)と交合させたら、その間に子が出来て、それが生存するだろうかと。まあ、兄いさん、黙って聞いて下さい。それが生存するだろうかと云う事と、それからそれが生存したら、人間と猩々とが同一の祖先を有すると云う一番明瞭な証拠ではあるまいかと云う事と、この二つを問いにやったのです。わたしはひどくこの問題に熱中していたものですから、往来を誰が通ろうと、たいていそんな事は構わずにいました。わたしは鍛冶屋町の道傍に腰を掛けて、そんな問題について沈思していました。ある日の事、ちょうどエナのヘッケル先生の所から手紙が来て、こんな事が云ってありました。そう云う試験を実行するには、随分困難な事情もあろうと思うが、それは問題外として、よしやその試験が出来て生存するに堪える子が生れたとしても、先生自己の意見では、それで問題の核心に肉薄し得たものとは認められないと云うのですね。その点はわたし先生と大いに所見を殊(こと)にしていたのです。わたしは。」
兄はおれを抑制するように、手をおれの臂(ひじ)の上に置いた。「ねえ、お前。お前の今言っている事には、大いに詩人的空想が手伝っているのだろうね。おれはそうありたいと思うのだが。」
 「いいえ。大違(おおちが)いです。なんなら内(うち)で先生の手紙を見せて上げましょう。」
 「でも、人間と猩々とが。」
 「いいえ。そう大した懸隔はないのです。それよりかもっと。」
 「それは褻瀆(せっとく)と云うものだ。」
 「そうでしょうか。わたしなんぞは敢(あえ)て自らその任に当ってもいいつもりです。」」

「「その若い女はどんな様子だったのだい。」兄も問題に興味を感じて来たらしい。
 「さあ。その時すぐにはわたしも、どんな様子だと、すぐには思い浮べることが出来ませんでした。わたしにはただ目の前にその女の脣(くちびる)がちらついていました。そこでわたしはとにかく立ち上がって、跡(あと)に附いて行きました。もうヘッケル先生の事も猩々(しょうじょう)の事も忘れていたのですね。やっぱり人間は人間同士の方が一番近い間柄なのです。道の行止(ゆきど)まりまで往くと、尼さん達はこっちへ引き返して来ます。わたしは体がぶるぶる震え出したので、そこのベンチに掛けて、二人を遣(や)り過しました。わたしは年を取った尼さんの方はちっとも見ないで、ただ若い方をじっと見詰(みつ)めていました。暗示を与えると云う風に見たのです。するとその若い尼さんが上瞼を挙げてわたしを見ました。わたしを見たのですね。兄いさん。クッケルッケルック。クッケルッケルック。」
 「それはなんだい。」兄は心配らしく問うた。
 「それですか。歓喜の声です。偉大な感情を表現するには、原始的声音をもってする外(ほか)ありません。余計な事を言うようですが、これもダアイニスムの明証の一つです。」」



「聖ニコラウスの夜」(ルモニエ)より:

「がっしりした体の男が、この部屋の赤みがかった薄暗がりの中へ這入って来た。物を打ち明けたような、笑(え)ましげな顔をしている。頭はほとんど天井に届きそうである。「おっ母さん、唯今。」
 男は帽子を部屋の隅に投げやって、所々の隠しの中から、細心に注意して種々の物を取り出して、それを卓の上に並べている。
 やっと並べてしまうと、母が云った。「ドルフや。牛乳を忘れやしないかと思ったが、やっぱり忘れたね。」
 ドルフは首を肩の間へ引っ込ませて、口を開いて、上下の歯の間から舌の尖(さき)を見せて、さも当惑したらしい様子をした。また桟橋を渡って買いに往かなくてはならぬかと云う当惑である。しかしこれと同時に、ドルフはそっとリイケに目食わせをした。これは笑談(じょうだん)だと云う知らせの目食わせである。」

「夜が大鳥の翼のように市を掩(おお)っている。この二三日雪が降っていたので、地面の蒼ざめた顔が死人の顔のように、ドルフに見えた。ちょうど干潟を遠く出過ぎていた男が、潮の満ちて来るのを見て急いで岸の方へ走るように、ドルフは岸に沿うて足の力の及ぶ限り走っている。それでも心臓の鼓動の早さには、足の運びがなかなか及ばない。遠い所の瓦斯(ガス)の街灯の並んでいるのを霧に透して見れば、蠟燭を持った葬いの行列のようである。どうしてそう思われるのだか、ドルフ自身にも分からない。しかしなんだかあの光の群の背後(うしろ)に「死」が覗(ねら)っているようで、ドルフはぞっとした。ふと気が附くと、忍びやかに、足音を立てぬように、自分の傍を通り過ぎる、ぎこちない、沈黙の人影がある。「あれは人の末期(まつご)に暇乞(いとまごい)をしに、呼ばれて往くのじゃあるまいか」と、ドルフは思った。しかし間もなく気が附いて思った。この土地ではニコラウスの夜に、子供が小さい驢馬(ろば)を拵(こしら)えて、それに秣(まぐさ)だと云って枯草や胡蘿蔔(にんじん)を添えて、炉の下に置くことになっている。金のある家では、その枯草や胡蘿蔔の代りに、人形や、口で吹くハルモニカや、おもちゃの胡弓や、舟底の台に載せた馬なんぞを、菓子で拵えたのを買うのである。
 「あの影はそれを買いに往く父親(てておや)や母親だろう」と思ったので、ドルフは重荷を卸したような気がして、太い息を衝いた。
 それでも霧の中の瓦斯灯(ガスとう)が葬いの行列の蠟燭のように見えることは、前の通りである。その上その火が動き出す。波止場の方で、集まったり、散ったり、往き違ったり、入り乱れたりする。まるで大きい蛾が飛んでいるようである。「どうもおれは気が変になったのじゃないか知らん。あの蛾(ちょうちょ)は、あれはおれの頭にいるのだろう」と、ドルフは思った。
 たちまち人声が耳に入った。岸近く飛びかうのは松明(たいまつ)である。その赤い焰を風が赤旗のようにゆるがせている。ちらつく火影にすかして、ドルフが岸を見ると、大勢の人が慌だしげな様子をして岸に立って何かの合図をしている。中には真っ黒に流れている河水を、俯(ふ)して見ているものもある。街灯は動きはしなかったが、人の馳せ違うのと、松明(たいまつ)が入り乱れて見えるのとで、街灯も動くように見えたのだと、ドルフは悟った。
 たちまち叫んだものがある。「ドルフ・イエッフェルスを呼んで来い。あいつでなくてはこの為事(しごと)は所詮出来ない。」
 「ちょうどいい。ドルフが来た。」じき傍で一人の若者がこう云った。
 ドルフはこの時やっと集まっている人達を見定めることが出来た。皆友達である。船頭仲間である。劇(はげし)く手真似をして叫びかわす群がたちまちドルフの周囲(まわり)へ寄って来た。中に干魚(ひもの)のような皺の寄った爺いさんがいて、ドルフの肩に手を置いた。「ドルフ。一人沈みそうになっているのだ。頼む。早く着物を脱いでくれ。」
 ドルフは俯して暗い水を見た。岸辺の松明を見た。仰いで頭の上にかぶさりかかっている黒い夜を見た。それから周囲(まわり)に集まって居る友達を見た。「済まないが、きょうはこらえてくれ。女房のリイケが産をしかけている。生憎おれの命がおれの物でなくなっている。」
 「そう云うな。おぬしの外には頼む人が無い。」こう云いさして爺いさんは水の滴(したた)る自分の着物を指さした。「おれも子供が三人ある。それでももう二度潜ってみた。どうもおれの手にはおえねえ。」
 ドルフは周囲の友達をずらっと見廻した。「いく地がないなあ。一人も助けにはいるものはないのかい。」
 爺いさんがまたドルフに薄(せま)った。「ドルフ。お主がはいらんと云えば、死ぬるまでだ、おれがもう一遍はいる。」
 川へ松明を向けている人達が叫んだ。「や。またあそこに浮いた。手足が見えた。早くしなくちゃ。」
 ドルフはいきなり上着をかなぐり棄てた。」



「アンドレアス・タアマイエルが遺書」(シュニッツラー)より:

「小生はいかにしても今日以後生きながらえ居ること難く候。何故と申すに小生生きながらえ居る限りは、世間の人嘲り笑い申すべく、誰一人事実の真相を認めくるる者は有之(これある)まじく候。仮令(たとい)世間にては何と申し候とも、妻が貞操を守り居たりしことは小生の確信するところに有之、小生は死をもって之を証明する考えに候。今日まで種々の書籍について、この困難なる、また疑団多き事件につき取調べ候処、著述家の中には斯様(かよう)なる事実の有り得べきことを疑う者少からず候えども、知名の学者にしてかくのごとき事実の有り得べきことを認め居る者も少からざるよう相見え候。マルブランシュの記録するところによれば、某氏(なにがし)の妻、聖ピウスの祭の日にピウスの肖像を長き間凝視し居りしに、その女の生みし男子の容貌全くかの肖像に似たりし由に候。(中略)ルウテルの食卓演説の中に左のごとき物語有之候(これありそうろう)。ルウテルがウィッテンベルヒに在りし時、頭の形、髑髏に似たる男を見しことありて、その履歴を問いしに、その男の母は妊娠中死骸を見て甚しく驚きしことありし由に候。(中略)エチオピアの王ヒダスペスは后ペルシナを娶(めと)りて十年の間子無かりしに、十年目に姫君誕生ありし由に候。しかるにその姫君は白人種に異らざりしゆえに、父王に見せなばその怒りに触るべしと思い、密(ひそか)に人に托して捨てさせし由に候。さりながらその子を捨つる時、この不思議なる出来事の原因を記(しる)したる帯を添えて捨てさせし由に候。帯に記したるところは、后が王の寵愛を受けし場所は王宮の花園にして、そこには希臘(グレシア)の男女の神体を彫(きざ)める美しき大理石の立像数多(あまた)有りし由に候。后は王の寵愛を受くる時、常にその石像を見守りし由に候。(中略)ハンベルヒの著述『自然における不思議なる事実』の七十四頁にも似寄りの記事有之候。ある婦人の生みし子、獅子の頭(かしら)を有し居りしが、その婦人は妊娠して七箇月目に母と良人とに伴われて獅子使いの見世物を見物せし由に候。」

「水曜日の晩は夏の末に有勝(ありがち)なる霧深き晩なりし由に候。かようなる晩には小生も動物園にて出会いしことありしが、芝生の上に灰色の靄(もや)立ち罩(こ)め、灯火の光これに映り居りしを見しこと有之候。思うに妻が一人にて取残されしはかかる夕(ゆうべ)なりしならむと存じ候。妻はかかる夕かの黒き髯簇(むらが)り生ぜる、赤き眼の驚くべく輝ける大男どもの群に取残されしものに候。」

「小生の子はあくまでも小生の子に相違なく候。しかしてこの妻子をば小生最後の息を引取るまで愛し居候。ただ小生をして一命を捨てしむるに至りしは、世の人の愚にして、根性悪しきがために候。」




◆感想◆


「正体」はどういう話かというと、キリスト教を否定した現代の神(マシーン)の「正体」は生贄を求める原始宗教の神である、という話です。
ところで、本書所収「アンドレアス・タアマイエルが遺書」が夢野久作「押絵の奇蹟」に影響を与えたであろうことは明白ですが、「尼」の「ヘッケル先生」のくだりの「わたしなんぞは敢(あえ)て自らその任に当ってもいいつもりです。」というせりふは、なにやら宮沢賢治「青森挽歌」の「ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます」を連想させるではありませんか。さらにいえば「聖ニコラウスの夜」の「おっ母さん」と「牛乳」のくだりなどは「銀河鉄道の夜」を連想させます。




こちらもご参照ください:

森鴎外 訳 『諸国物語 (下)』 (ちくま文庫)






















































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森鴎外 訳 『諸国物語 (下)』 (ちくま文庫)

「「どうせわたくしは流浪人だから、流浪人で果てますよ。」」
(コロレンコ 「樺太脱獄記」 より)


森鷗外 訳 
『諸国物語 
(下)』
 
ちくま文庫 も-8-2 

筑摩書房 
1991年12月4日 第1刷発行
390p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価800円(本体777円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 安野光雅『西洋古都』(岩崎書店刊)より


「本書は「鷗外全集」(一九七一年一一月~一九七五年六月、岩波書店刊)を底本とし、表記を改め、作品の配列を一部変更した。」



全二冊。新字・新仮名。


森鴎外 諸国物語 下


帯文:

「世にも不思議な物語もある。
ロシア文学のゆたかさと、鷗外文学の香気。小さな文庫の大きな世界。」



カバー裏文:

「この巻はロシアの作家を集める。きびしい追及をくぐっての逃亡行「樺太脱獄記」(コロレンコ)鰐に呑まれた男をめぐる奇想天外な物語「鱷」(ドストエフスキー)ほかにゴーリキー、アルツィバーシェフなど、物語の宝庫ロシアの息吹をたたえた佳品9点を収める。」


目次:

パアテル・セルギウス (レフ・トルストイ)
樺太(カラフト)脱獄記 (コロレンコ)
鱷(わに) (ドストエフスキー)
センツァマニ (ゴーリキー)
板ばさみ (チリコフ)
笑 (アルツィバーシェフ)
死 (アルツィバーシェフ)
フロルスと賊と (クズミン)
馬丁 (アレクセイ・トルストイ)

著者紹介
『諸国物語』初出時の配列と表記

解説 鷗外のたくらみ (池内紀)




◆本書より◆


「パアテル・セルギウス」(レフ・トルストイ)より:

「ステパンは幼年学校時代に優等生であった。それに非常な名誉心を持っていた。どの学科もよく出来たが、中にも数学は好きで上手であった。また前線勤務や乗馬の点数も優等であった。(中略)品行の上からも、模範的生徒にせられなくてはならぬものであった。しかるに一つの欠点がある。それは激怒を発する癖のある事である。ステパンは酒を飲まない。女に関係しない。それに譃(うそ)を衝くと云う事がない。ただこの青年の立派な性格に瑕(きず)を付けるのは例の激怒だけである。それが発した時は自分で抑制することがまるで出来なくなって、猛獣のような振舞をする。ある時こう云う事があった。ステパンは鉱物の標本を集めて持っていた。それを一人の同窓生が見て揶揄(からか)った。するとステパンが怒って、今少しでその同窓生を窓から外へ投げ出すところであった。」

「ステパンと云う男は余所目(よそめ)にはふつうの立派な青年近衛士官で、専念に立身を望んでいるものとしか見えない。しかしその腹の中に立ち入って見ると、非常に複雑な、緊張した思慮をめぐらしている。その思っている事は子供の時から種々に変化したようである。それは真に変化したのではない。煎じ詰めて見ればただ一つの方針になる。即ち何事によらず完全にし遂げて、衆人の賞讃と驚歎とを博せようとするのである。(中略)遊戯の中で将棋なども、習い始めてからは、生徒仲間で一番になるまで息(や)めなかった。」



「板ばさみ」(チリコフ)より:

「午後一時ごろに、門口のベルがあらあらしい音を立てた。誰も彼も足を爪立てて歩いて、小声で物を言っている家の事だから、この音は不似合に、乱暴らしく、無情に響いた。グラフィラ夫人はびっくりして、手で耳を塞ぎそうにした。耳を塞いだら、ベルの方で乱暴をしたのを恥じて黙ってしまうだろうとでも思うらしく、そんなそぶりをした。それから溜息を衝いて、玄関の戸を開けに立った。来たのが医者だと云うことは知っているのである。しかし学生が一足さきに出て、戸を開けた。
 「先生です。」学生は隕星(いんせい)のように室内を、滑って歩きながら、こう云った。
 学生は学士シメオン・グリゴリエウィッチュを信頼している。学生の思うには、いまこの家で抜き足をせずに歩いて、声高に物を言って、どうかすると笑ったり、笑談(じょうだん)を言ったりすると云う権利を有しているものは、この学士ばかりである。
 学士は玄関でそうぞうしい音をさせている。ゴム沓(ぐつ)がぎいぎい鳴る。咳払いの音がする。それからいつもの落ち着いた、平気な、少々不遠慮な声で、こう云うのが聞えた。
 「どうですな。新聞に祟(たた)られた御病人は。」
 「眠っていますが。」
 「結構結構。それが一番いい。」
 「おや。いらっしゃいまし。」戸を開けた学士を見て、夫人がこう云った。哀訴するような声音である。
 「いや。奥さん。ひどい寒さですね。雪が沓(くつ)の下できゅっきゅと云っています。こう云う天気が僕は好きです。列氏(れっし)の十八度とは恐れ入りましたね。御病人は。」
 「あのやはり休んでいます。先ほどお茶とパンを一つ戴きました。右の手はまだちっとも動きません。足の方も動きませんの。それに目も片方はよく見えないと申しますが。」
 「ようがす、ようがす。何もそんなに心配なさらなくてもよろしい。沓がきゅっきゅと云うには驚きましたよ。列氏十八度ですからね。」
 学士はカナリア鳥をちょいと見て、ニノチュカの少し濃い明色の髪を撫でて、こう云って揶揄(からか)った。
 「どうだい。蜻蜒(とんぼ)。旨く飛べるかい。」
 「あたい蜻蜒なんかじゃなくってよ。」
 「そんなら蚤(のみ)だ。」
 「あたいが蚤なら、あなたは南京虫よ。」不服らしい表情で、頭を俯向けて、こう云った。
 「ははは。」学士は声高に笑った。」



「フロルスと賊と」(クズミン)より:

「「はあ。夢を見ましたか。」
 「ええ、手に取るような、はっきりした夢を見たのです。そして不思議にもその夢がいまだに続いているようなのです。もしわたしがそうしようと思ったら、わたしは疑いも無くその夢を今でも見続けていて、たとえば話をしているあなたなんぞを、かえって幻だと思うでしょう。」」





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森鴎外 訳 『諸国物語 (上)』 (ちくま文庫)











































































森林太郎 訳 『即興詩人』 複刻 (全二冊)

「嗚呼、われは素とカムパニヤの野の棄兒なり。」
(森林太郎 訳 『即興詩人』 より)


森林太郎 譯 
『即興詩人』

名著複刻全集
 
近代文学館 
昭和43年12月
上: 213p 例言1p 目次3p 
下: 220p 目次3p 附録23p
菊判 丸背クロス装上製本 カバー 



アンデルセン原作、森鴎外訳『即興詩人』(春陽堂版 明治35年)復刻本。


即興詩人 01


即興詩人 02


即興詩人 03


即興詩人 10


即興詩人 11


上巻 目次:

例言

わが最初の境界
隧道、ちご
美小鬟、即興詩人
花祭
蹇丐
露宿、わかれ
曠野
水牛
みたち
學校、えせ詩人、露肆
神曲、吾友なる貴公子
めぐりあひ、尼君
猶太の翁
猶太をとめ

謝肉祭
歌女
をかしき樂劇
即興詩の作りぞめ
謝肉祭の終る日
精進日、寺樂
友誼と愛情と
をさなき昔
畫廊
蘇生祭
燈籠、わが生涯の一轉機
基督の徒
山寨
血書
花ぬすびと
封傳
大澤、地中海、忙しき旅人
一故人



下巻 目次:

旅の貴婦人
慰藉
考古學士の家
絶交書
好機會
古市
噴火山
囊家
初舞臺
人火天火
もゆる河
舊羈靮
苦言
古祠、瞽女
夜襲
たつまき
夢幻境
蘇生
歸途
教育
小尼公
落飾
なきあと
未錬
梟首
妄想
水の都
感動
末路
流離
心疾身病
琅玕洞

附録 即興詩人不翻語一覽



即興詩人 05



◆本書より◆


「わが最初の境界」より:

「僧はそちは心猛き童なり、いで死人を見せむといひて、小き戸を開きつ。こゝは廊より二三級低きところなりき。われは延かれて級を降りて見しに、こゝも小き廊にて、四圍悉く髑髏なりき。髑髏は髑髏と接して壁を成し、壁はその並びざまにて許多の小龕(せうがん)に分れたり。おほひなる龕には頭のみならで、胴をも手足をも具へたる骨あり。こは高位の僧のみまかりたるなり。かゝる骨には褐色の尖帽を被(き)せて、腹に繩を結び、手には一卷の經文若くは枯れたる花束を持たせたり。贄卓(にへづくゑ)、花形(はながた)の燭臺、そのほかの飾をば肩胛(かひがらほね)、脊椎(せのつちほね)などにて細工したり。人骨の浮彫(うきぼり)あり。」


「曠野」より:

「時は暑に向ひぬ。カムパニヤの野は火の海とならんとす。潴水(たまりみづ)は惡臭を放てり。朝夕のほかは、戸外に出づべからず。かゝる苦熱はモンテ、ピンチヨオにありし身の知らざる所なり。かしこの夏をば、我猶記えたり。乞兒は人に小銅貨をねだり、麪包をば買はで氷水を飲めり。二つに割りたる大西瓜の肉赤く核黑きは、いづれの店にもありき。これをおもへば唾(つ)湧(わ)きて堪へがたし。この野邊にては、日光ますぐに射下せり。我が立てる影さへ我脚下に沒せんばかりなり。水牛は或は死せるが如く枯草の上に臥し、或は狂せるが如く駈けめぐりたり。われは物語に聞ける亞弗利加沙漠の旅人になりたらんやうにおもひき。」


「即興詩の作りぞめ」より:

「汝は素より蛙なんどに等しき水陸兩住の動物なり。現の世のものか、夢の世のものか、そを誰か能く辨ぜん。」


「山寨」より:

「友を殺し、女に別れ、國を去りて、兇賊の馬背に縛(いまし)められ、カムパニヤの廣野を馳す。一切の事、おもへば夢の如く、その夢は又怪しくも恐ろしからずや。あはれ此夢いつかは醒めん、醒めてこの怖るべき形相は消え淪びなん。心を鎭めて目を閉づれば、冷なる山おろしの風は我頰を繞りて吹けり。」


「夜襲」より:

「小き中庭を歩みて宿るべき部屋々々に登り着きぬ。我室の窓より見れば、烟波渺茫として、遠きシチリヤのあたりまで只ゞ一目に見渡さる。地平線の際(きは)に、しろかね色したるものゝ點々數ふべきは舟なり。」

「我等は市街に歩み入りぬ。アマルフイイの市は裹(つゝ)める貨物をみだりに堆積したる状をなせり。羅馬なる猶太街の狹きも、これに比べては尚通衢大路と稱するに足るならん。こゝの街といふは、まことは家と家との間に通じ、又は家を貫きて通じたるろぢの類のみ。或るときは狹く長き歩廊を行くが如く、左右に小き窓ありて、許多の暗黑なる房に連れり。或るときは巖壁と石垣との間に、二人並び歩むに堪へざるばかりの道を開けるが、暗くして曲り、濕りて穢れ、級を登り級を降りて、その窮極するところを知らず。我等はをりをり身の戸外に在るを忘れて、大いなる廢屋の内を彷徨(さまよ)ふ念をなせり。所々燈を懸けて闇を照すを見る。而して山上は日獨高かるべき時刻なりしなり。」

「日の入り果てし頃、われは獨り山上なる寺院の一房に坐して、窓より海を眺め居たり。波頭の殘紅は薔薇色をなして、岸打つ潮に自然の節奏を聞く。舟人は漁舟を陸に曳き上げたり。暮色漸く至れば、新に點したる燈火その光を増して、水面は碧色にかゞやけり。(中略)一の流星あり。その疾きこと撃石火の如く、葡萄の林のあなたに隕ちぬとぞ見えし。」



「たつまき」より:

「僧堂を辭し去る朝、大空は灰色の紗を被せたる如くなりき。」
「舟のゆくては杳茫たる蒼海にして、その抵(いた)る所はシチリヤの島なり、あらず、亞弗利加の岸なり。」
「舷下の水は碧くして油の如し。試みに手をもて探れば、手も亦水と共に碧し。舟の影の水に落ちたるは極て濃き靑色にして、艪の影は濃淡の紋理ある靑蛇を畫けり。」
「舟はイ、ガルリといふ巖より成れる三小嶼の傍を過ぎぬ。そのさま海底より石塔を築き上げて、その上に更に石塔を僵し掛けたる如し。靑き波は綠なる石を洗へり。想ふに風雨一たび到らば、このわたりは群狗吠ゆてふ鳴門(なると)(スキルラ)の怪(くわい)の栖(すみか)なるべし。」不毛にして石多きミネルワの岬は、眠るが如き潮これを繞れり。いにしへ妙音の女怪の住めりきといふはこゝなり。」
「灰色なる巨石の直立すること千丈なるあり。その頂は天を摩し、所々僅に一石塊を容るべき罅隙(かげき)を存じて、蘆薈若くは紫羅欄これに生じたり。靑き熖の如き波に洗はれたる低き岩根には、紅殻の毛星族(クリノイデア)いと繁く着きたるが、その紅の色は水を被りて愈ゝ紅に、岩石の波に觸れて血を流せるかと疑はる。」既にして我等は海を右にし島を左にする處に至りぬ。水を呑吐する大小の窟許多ありて、中には波の返す毎に僅かに其天井を露すあり。こは彼妙音の女怪のすみかにして、草木繁茂せるカプリの島は唯ゞこれを盖へる屋上(やね)たるに過ぎざるにやあらん。」漕手の一人なる白髪の翁のいふやう。這裏(このうち)には惡しきもの住めり。人若し過ちて此門に入るときは、多くは再びこれを出づることを得ず。その或は又出づるものは、痴なるが如く狂せるが如く、復た尋常人間の事を解せずといふ。(中略)柁取りの年少き男のいふやう。これ魔窟なり。黄金珠玉その内にみちみちたれど、これを探らんとするものは妖火のために身を焚かる。げにいふだに恐ろしき事なり。尊きルチヤよ、(サンタ、ルチヤ)我を護り給へといふ。」



「小尼公」より:

「われは詩を作るごとに、我詩の前世の記憶の如く、前身の搖籃中にて聞きし歌の名殘の如きを感ず。われは創作すと感ぜず、われは復誦すと感ず。」

「われは世の人の皆我敵にして、唯ゞ小尼公のみ味方なるを覺えき。」



「落飾」より:

「姫は海のいかなるものなるを想ひ見ること能はずと宣給ふ。そは親しく海と云者を觀給ひしは唯一たびにて、それさへ山の巓より、地平線を限れる一帶の銀色したる物を認め給ひしに過ぎざればなり。」


「妄想」より:

「自然と云ひ人事と云ひ、一として我心の憂を長ずる媒とならざるものなし。暗黑なる橄欖の林はいよいよ濃き陰翳を我心の上に加へ、四邊の山々は來りて我頭を壓せんとす。われは飛ぶが如くに、里といふ里を走り過ぎて、早く海に到らんことを願へり、風吹く海に、下なる天の我を載すること上なる天の我を覆ふが如くなる處に。」
「海に往かん、往いて海の驚くべき景を觀ん。是れ我が新なる境界なり。ヱネチヤよ、水に泛べる都城よ、ハドリヤの海の王女よ、願はくは我をして重れる山と黑き林とを過ぐることを須ゐず、空に翔り波を凌ぎて汝と會することを得しめよとは、我が當時の夢なりき。」



即興詩人 06


即興詩人 07


即興詩人 08


即興詩人 09




森鴎外訳 即興詩人 (青空文庫)













































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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