平島正郎 『ドビュッシー』 (大音楽家・人と作品 12)
「《ペレアス》作曲に十年をついやし、「四分休止符一つの長さを与えるにも、ちょうどボードレエルがコンマ一つを打つ場合と同じように、何週間もためらったドビュッシー」(クレール・クロワザ)」
(平島正郎 『ドビュッシー』 より)
平島正郎
『ドビュッシー』
大音楽家・人と作品 12
claude achille debussy/1862-1918
音楽之友社
昭和41年1月28日 第1刷発行
昭和61年8月20日 第13刷発行
226p+20p 口絵(モノクロ)1葉
17.6×11.4cm 紙装 カバー
定価1,200円
装幀: 杉浦康平
本書「まえがき」より:
「〈人と作品〉のシリーズは、叙述を生涯と作品の二部に大別するきまりになっている。当然私もそのきまりにしたがったが、比率としては、生涯にはるかに多くの紙面を割くこととなった。」
本書「12 《海》」注より:
「附記すれば、ドビュッシーと印象主義、あるいは音楽上の印象主義について、筆者は最近、本書にのべたのとすこしちがう考えをもつようになった。(中略)結論の一つは、ドビュッシーを印象主義者とよぶべきではないだろう、ということである。そうよぶことによって、ドビュッシーはとかく誤解の淵に沈められてきた。すでに本書でもそうよぶのを筆者がしばしばためらっていることは、わかっていただけるのではないだろうか。(八三・五・二記)」

目次:
まえがき
生涯
1 幼年時代
2 クレマンティーヌとモォテ夫人
3 ヴィルトゥオーソへの道
4 ロシア旅行・ヴァニエ家
5 ローマでの日々
6 《選ばれたおとコ(le damoiseau élu》
7 風土・影響・ヴァーグナー
8 艶なる宴・牧神の午後
9 《ペレアス》着手
10 ビリティスの歌
11 一九〇二年四月三十日
12 《海》
13 エンマ
14 殉教・晩年
作品
1 概説
2 声楽曲
歌曲
重唱・合唱曲 カンタータ
3 器楽曲
ピアノ曲
器楽独奏曲・室内楽曲
バレエ曲
4 劇場音楽
歌劇(Drames lyriques)
付随音楽
年表
交友人名リスト
作品表

◆本書より◆
「1 幼年時代」より:
「ドビュッシーは、小学校に行かせてもらえず、扱いにくい弟以外にろくな遊び友だちもなくて、ただでさえ孤独が生来の気質の内向性に拍車をかけていたと思われる。」
「何かが救いにならなかったら、並外れて感受性が鋭くかつ繊細な彼は、いったいどうなっていたことだろう。幸い、彼は、たまたま音楽と出会ったばかりだった。彼の自己にこもって閉ざされがちな殻に、外へ自我の通う口をのこしたのは、その音楽であった。」
「2 クレマンティーヌとモォテ夫人」より:
「彼の内面的な性格については前にすこし触れたが、カンヌでも彼は、妹アデールの思い出によれば、時として彼女のおもちゃの紙芝居に熱中することがあっても、たいてい日がないちにち椅子にすわり、何を考えているのか誰も知らない夢想にふけって、時を過ごしていたそうである。」
「3 ヴィルトゥオーソへの道」より:
「コンクールに成功し一等賞(プルミエ・プリ)となっていたら、果たしてドビュッシーは、名声高きヴィルトゥオーソになっただろうか。それはきわめて疑わしい。後に彼は、経済的な必要から、ピアニストとして、あるいは指揮者として、たまにステージに立つ機会があったが、その際公衆の面前に自分をさらすのが、鋭敏すぎる感受性をもった彼の内向的な気質には、とても堪えがたく嫌であったらしい。」
「4 ロシア旅行・ヴァニエ家」より:
「ギローの評価がだんだんきびしくなってゆくのは、彼のアカデミックな立場に追随することを、ドビュッシーが、次第に強く拒否するようになったおかげでは、なかったろうか。すでにデュランの和声法を学んでいたころから、ドビュッシーが既存の公式に安閑とよりかかっていられなかったのは、前に見たとおりである。ギローの生徒になってからも、たとえばこんな逸話がある。
……一八八三年のある冬の日、ギローがいつものように(授業に)遅れて姿を見せずにいると、ドビュッシーは、教室のピアノに向かってそれをならしはじめた。ポアッソニエールの通りを走る、乗合馬車のがらがらいう音を、真似してみせたのである。長くて奇妙な即興演奏だった。その半音階的(クロマティック)な悲鳴のごとき音に、級友やほかの教室からのぞきにきた幾人かは、冷やかし半分の耳を傾けた。「驚いておいでの諸君!」と彼は叫んだ。「君たちは和音を聴くのに、身分証明や貨物運送状を調べなくちゃ、聴けませんか? どこから来たね? どこへゆく? そんなことを知る必要があるでしょうか。お聴きなさい。それで十分さ。でももしなんにもきこえないんだったら、気味たち、院長殿のところに言いつけにゆくんですな。ぼくが君たちの耳を台なしにしたって……」。こういった演説をぶつものだから、彼は、変り者とか、もっと悪いことに、憂うべき宣伝者(プロパガトゥール)とか、そんな評判をとってしまった。本部書記の厳格なエミール・レティなど、彼の耳を赤くなるほど殴って、こうした生徒にギローがなにがしかの評価を与え得るということに、おどろいたものだ。彼はある日クロードを、バザン嘲弄の現行犯でとっつかまえて、尋問した。「では君は、不協和音が協和音に解決なんかしなくていい、と主張するんだな? それならいったい、君のモノサシはなんだね?」
「私の喜び(モン・プレージール)です!」
「どんな喜びが不協和音から見つけ出せるというんだな?」
「今日の不協和音は、明日の協和音ですよ!」
レティは、腹立ちのあまり青ざめて、尋問をうちきってしまった。
(モーリス・エマニュエル《ペレアスとメリザンド》より)
これらの逸話は、すでに後の作曲家ドビュッシーの面目すら、十分うかがわせるものといっていい。それは、公式をうまくのみこんであやつりさえすれば、自分が不在なままでもすべてことが足りると考えるような、ある種のアカデミズムの不毛さを、するどく衝いたものだ。そして自分の「耳」を究極のよりどころとして、常にまず音と自分とのかかわりあいを確かめてかかれ、というのである。それで納得がゆけば、協和音と不協和音の形式上の区別をやかましく問うような作曲教科書の規則なぞ、無視したってかまわない、というのである。」
「5 ローマでの日々」より:
「元来、ドビュッシーは、人見知りするたちというか、押しつけられる新しい対人関係には気後れするほうだったらしい。」
「6 《選ばれたおとコ(le damoiseau élu》」より:
「彼はますます熱心に本を読んだ。シェイクスピア、ヴェルレーヌ、ポー、ヴィリエ・ド・リィラダン、シェレー、スインバーン、ユイスマンス。マラルメの「牧神の午後」。」
「詩人のレニエは、当時を回想して、こう書いた。
一八九〇年、ショッセ・ダンタン九番地に、一軒の狭い店があった。店の飾り窓は、道ゆくひとに、本をならべて見せていた。本は、絵や版画を連れにして、並んでいた。この家の傾向は象徴派だと、疑うべくもないほどに、その飾り窓が語っていた。(中略)はじめてドビュッシーに会ったのが、独立芸術書房だったかどうか、わからない。だが彼のことを考えると、私には、とかくそこでの彼の姿が目に浮かんでくるのだ。彼は音を殺して重たげな感じの、独特な足どりで、はいって来た。やわらかくて無頓着なあの体つきが、目に浮かぶ。あおざめて冴えぬいろの、あの顔。重い瞼の内側で黒い瞳がいきいきとしている、あの目。長い縮れ毛を垂らしてかくした、異様につきでて広いあの額。猫のような感じでいながらジプシーみたいで、火のように燃えていながら沈潜しているあの風貌。そんな彼が目に浮かぶ。(中略)彼は、本や細々した飾りものが、好きだった。しかし話は、何時も音楽に戻っていった。自分のことは、まるで言わなかった。しかし仲間には、きびしかった。ヴァンサン=ダンディとエルネスト・ショーソン以外は、ほとんど容赦しなかった。そうした会話について、私は、とくにめだつような話を何もおぼえていないが、彼は教養のある人間の話し方をした。何時も何か距離をおき、身をかわすようなふうを持ちつづけていたので、興味がそそられたものだ。私は、彼に、しょっちゅう会った。おおいに心をこめて、彼を尊敬していたが、親しい知り合いでは少しもなかった。ピエール・ルイスのような具合には、ついに彼と結ばれなかったのである。(アンリ・ド・レニエ「ドビュッシーの思い出」ルヴュー・ミュジカル一九二六年五月一日号)」
「7 風土・影響・ヴァーグナー」より:
「「ぼくは、ヴァーグナーのなかで感心していることでも、真似しようとは思いませんね。別な劇のかたちを考えているんです。言葉が表現する力のなくなったところ、そこから音楽がはじまる。いうにいわれぬもののために、音楽が作られる。影から出てきたような気配があって、そして瞬時にしてそこに戻ってしまう、そんな音楽。いつも控え目にしているひとみたいな、そんな音楽が書きたいのです」
(モーリス・エマニュエル著「ペレアスとメリザンド」三四―三五頁)」
「13 エンマ」より:
「そんなわけで、〈イベリア〉や、これに続く管弦楽のための《映像》第三曲〈春のロンド(Rondes de Printemps)〉(一九〇八―九)、同第一曲〈ジーグ(Gigues)〉(一九〇九―一二)に見られる憂愁、あるいは《子供の領分》のさり気ないタッチの奥にすら思いがけずひそめられている、一種の翳りは、個人的な愁訴といったようなものではないのである。それは、ドビュッシーが、数年来――もしかすると物心ついて以来であったかもしれないが――否応なしにむきあわせられてきた、癒しがたい孤独、人間の生活ないし存在そのものの底に横たわる不可避な条件である寂生(ソリテュード)を、彼の無類に深刻な視覚がみつめ、とらえて表現しようとしたとき、おのずと滲み出てこざるを得なかった憂愁と、いうべきではないだろうか。」
こちらもご参照ください:
ピエール・シトロン 『バルトーク』 北沢方邦・八村美世子訳 (永遠の音楽家 8)
Th・W・アドルノ 『アルバン・ベルク』 平野嘉彦 訳 (叢書・ウニベルシタス)
『作曲家別名曲解説ライブラリー 10 ドビュッシー』
(平島正郎 『ドビュッシー』 より)
平島正郎
『ドビュッシー』
大音楽家・人と作品 12
claude achille debussy/1862-1918
音楽之友社
昭和41年1月28日 第1刷発行
昭和61年8月20日 第13刷発行
226p+20p 口絵(モノクロ)1葉
17.6×11.4cm 紙装 カバー
定価1,200円
装幀: 杉浦康平
本書「まえがき」より:
「〈人と作品〉のシリーズは、叙述を生涯と作品の二部に大別するきまりになっている。当然私もそのきまりにしたがったが、比率としては、生涯にはるかに多くの紙面を割くこととなった。」
本書「12 《海》」注より:
「附記すれば、ドビュッシーと印象主義、あるいは音楽上の印象主義について、筆者は最近、本書にのべたのとすこしちがう考えをもつようになった。(中略)結論の一つは、ドビュッシーを印象主義者とよぶべきではないだろう、ということである。そうよぶことによって、ドビュッシーはとかく誤解の淵に沈められてきた。すでに本書でもそうよぶのを筆者がしばしばためらっていることは、わかっていただけるのではないだろうか。(八三・五・二記)」

目次:
まえがき
生涯
1 幼年時代
2 クレマンティーヌとモォテ夫人
3 ヴィルトゥオーソへの道
4 ロシア旅行・ヴァニエ家
5 ローマでの日々
6 《選ばれたおとコ(le damoiseau élu》
7 風土・影響・ヴァーグナー
8 艶なる宴・牧神の午後
9 《ペレアス》着手
10 ビリティスの歌
11 一九〇二年四月三十日
12 《海》
13 エンマ
14 殉教・晩年
作品
1 概説
2 声楽曲
歌曲
重唱・合唱曲 カンタータ
3 器楽曲
ピアノ曲
器楽独奏曲・室内楽曲
バレエ曲
4 劇場音楽
歌劇(Drames lyriques)
付随音楽
年表
交友人名リスト
作品表

◆本書より◆
「1 幼年時代」より:
「ドビュッシーは、小学校に行かせてもらえず、扱いにくい弟以外にろくな遊び友だちもなくて、ただでさえ孤独が生来の気質の内向性に拍車をかけていたと思われる。」
「何かが救いにならなかったら、並外れて感受性が鋭くかつ繊細な彼は、いったいどうなっていたことだろう。幸い、彼は、たまたま音楽と出会ったばかりだった。彼の自己にこもって閉ざされがちな殻に、外へ自我の通う口をのこしたのは、その音楽であった。」
「2 クレマンティーヌとモォテ夫人」より:
「彼の内面的な性格については前にすこし触れたが、カンヌでも彼は、妹アデールの思い出によれば、時として彼女のおもちゃの紙芝居に熱中することがあっても、たいてい日がないちにち椅子にすわり、何を考えているのか誰も知らない夢想にふけって、時を過ごしていたそうである。」
「3 ヴィルトゥオーソへの道」より:
「コンクールに成功し一等賞(プルミエ・プリ)となっていたら、果たしてドビュッシーは、名声高きヴィルトゥオーソになっただろうか。それはきわめて疑わしい。後に彼は、経済的な必要から、ピアニストとして、あるいは指揮者として、たまにステージに立つ機会があったが、その際公衆の面前に自分をさらすのが、鋭敏すぎる感受性をもった彼の内向的な気質には、とても堪えがたく嫌であったらしい。」
「4 ロシア旅行・ヴァニエ家」より:
「ギローの評価がだんだんきびしくなってゆくのは、彼のアカデミックな立場に追随することを、ドビュッシーが、次第に強く拒否するようになったおかげでは、なかったろうか。すでにデュランの和声法を学んでいたころから、ドビュッシーが既存の公式に安閑とよりかかっていられなかったのは、前に見たとおりである。ギローの生徒になってからも、たとえばこんな逸話がある。
……一八八三年のある冬の日、ギローがいつものように(授業に)遅れて姿を見せずにいると、ドビュッシーは、教室のピアノに向かってそれをならしはじめた。ポアッソニエールの通りを走る、乗合馬車のがらがらいう音を、真似してみせたのである。長くて奇妙な即興演奏だった。その半音階的(クロマティック)な悲鳴のごとき音に、級友やほかの教室からのぞきにきた幾人かは、冷やかし半分の耳を傾けた。「驚いておいでの諸君!」と彼は叫んだ。「君たちは和音を聴くのに、身分証明や貨物運送状を調べなくちゃ、聴けませんか? どこから来たね? どこへゆく? そんなことを知る必要があるでしょうか。お聴きなさい。それで十分さ。でももしなんにもきこえないんだったら、気味たち、院長殿のところに言いつけにゆくんですな。ぼくが君たちの耳を台なしにしたって……」。こういった演説をぶつものだから、彼は、変り者とか、もっと悪いことに、憂うべき宣伝者(プロパガトゥール)とか、そんな評判をとってしまった。本部書記の厳格なエミール・レティなど、彼の耳を赤くなるほど殴って、こうした生徒にギローがなにがしかの評価を与え得るということに、おどろいたものだ。彼はある日クロードを、バザン嘲弄の現行犯でとっつかまえて、尋問した。「では君は、不協和音が協和音に解決なんかしなくていい、と主張するんだな? それならいったい、君のモノサシはなんだね?」
「私の喜び(モン・プレージール)です!」
「どんな喜びが不協和音から見つけ出せるというんだな?」
「今日の不協和音は、明日の協和音ですよ!」
レティは、腹立ちのあまり青ざめて、尋問をうちきってしまった。
(モーリス・エマニュエル《ペレアスとメリザンド》より)
これらの逸話は、すでに後の作曲家ドビュッシーの面目すら、十分うかがわせるものといっていい。それは、公式をうまくのみこんであやつりさえすれば、自分が不在なままでもすべてことが足りると考えるような、ある種のアカデミズムの不毛さを、するどく衝いたものだ。そして自分の「耳」を究極のよりどころとして、常にまず音と自分とのかかわりあいを確かめてかかれ、というのである。それで納得がゆけば、協和音と不協和音の形式上の区別をやかましく問うような作曲教科書の規則なぞ、無視したってかまわない、というのである。」
「5 ローマでの日々」より:
「元来、ドビュッシーは、人見知りするたちというか、押しつけられる新しい対人関係には気後れするほうだったらしい。」
「6 《選ばれたおとコ(le damoiseau élu》」より:
「彼はますます熱心に本を読んだ。シェイクスピア、ヴェルレーヌ、ポー、ヴィリエ・ド・リィラダン、シェレー、スインバーン、ユイスマンス。マラルメの「牧神の午後」。」
「詩人のレニエは、当時を回想して、こう書いた。
一八九〇年、ショッセ・ダンタン九番地に、一軒の狭い店があった。店の飾り窓は、道ゆくひとに、本をならべて見せていた。本は、絵や版画を連れにして、並んでいた。この家の傾向は象徴派だと、疑うべくもないほどに、その飾り窓が語っていた。(中略)はじめてドビュッシーに会ったのが、独立芸術書房だったかどうか、わからない。だが彼のことを考えると、私には、とかくそこでの彼の姿が目に浮かんでくるのだ。彼は音を殺して重たげな感じの、独特な足どりで、はいって来た。やわらかくて無頓着なあの体つきが、目に浮かぶ。あおざめて冴えぬいろの、あの顔。重い瞼の内側で黒い瞳がいきいきとしている、あの目。長い縮れ毛を垂らしてかくした、異様につきでて広いあの額。猫のような感じでいながらジプシーみたいで、火のように燃えていながら沈潜しているあの風貌。そんな彼が目に浮かぶ。(中略)彼は、本や細々した飾りものが、好きだった。しかし話は、何時も音楽に戻っていった。自分のことは、まるで言わなかった。しかし仲間には、きびしかった。ヴァンサン=ダンディとエルネスト・ショーソン以外は、ほとんど容赦しなかった。そうした会話について、私は、とくにめだつような話を何もおぼえていないが、彼は教養のある人間の話し方をした。何時も何か距離をおき、身をかわすようなふうを持ちつづけていたので、興味がそそられたものだ。私は、彼に、しょっちゅう会った。おおいに心をこめて、彼を尊敬していたが、親しい知り合いでは少しもなかった。ピエール・ルイスのような具合には、ついに彼と結ばれなかったのである。(アンリ・ド・レニエ「ドビュッシーの思い出」ルヴュー・ミュジカル一九二六年五月一日号)」
「7 風土・影響・ヴァーグナー」より:
「「ぼくは、ヴァーグナーのなかで感心していることでも、真似しようとは思いませんね。別な劇のかたちを考えているんです。言葉が表現する力のなくなったところ、そこから音楽がはじまる。いうにいわれぬもののために、音楽が作られる。影から出てきたような気配があって、そして瞬時にしてそこに戻ってしまう、そんな音楽。いつも控え目にしているひとみたいな、そんな音楽が書きたいのです」
(モーリス・エマニュエル著「ペレアスとメリザンド」三四―三五頁)」
「13 エンマ」より:
「そんなわけで、〈イベリア〉や、これに続く管弦楽のための《映像》第三曲〈春のロンド(Rondes de Printemps)〉(一九〇八―九)、同第一曲〈ジーグ(Gigues)〉(一九〇九―一二)に見られる憂愁、あるいは《子供の領分》のさり気ないタッチの奥にすら思いがけずひそめられている、一種の翳りは、個人的な愁訴といったようなものではないのである。それは、ドビュッシーが、数年来――もしかすると物心ついて以来であったかもしれないが――否応なしにむきあわせられてきた、癒しがたい孤独、人間の生活ないし存在そのものの底に横たわる不可避な条件である寂生(ソリテュード)を、彼の無類に深刻な視覚がみつめ、とらえて表現しようとしたとき、おのずと滲み出てこざるを得なかった憂愁と、いうべきではないだろうか。」
こちらもご参照ください:
ピエール・シトロン 『バルトーク』 北沢方邦・八村美世子訳 (永遠の音楽家 8)
Th・W・アドルノ 『アルバン・ベルク』 平野嘉彦 訳 (叢書・ウニベルシタス)
『作曲家別名曲解説ライブラリー 10 ドビュッシー』
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