FC2ブログ

クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』 大橋保夫 訳

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。」
(クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』 より)


クロード・レヴィ=ストロース 
『野生の思考』 
大橋保夫 訳
 


みすず書房 
1976年3月30日 第1刷発行
1985年11月5日 第13刷発行
vii 366p 別丁図版(モノクロ)8p 
索引・文献30p 著者・訳者略歴1p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,300円
カバー: (表)野生のパンジー/(裏)クズリ



本書「訳者まえがき」より:

「本書は Claude Lévi-Strauss, *La Pensee sauvage* (Paris, Librairie Plon, 1962)の翻訳である。」


本書「訳者あとがき」より:

「本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる「未開の思考」なるものが存在するという幻想の解体である。未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は「野蛮人の思考」ではなく、われわれ「文明人」の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ「野生の思考」と呼ぶべきものである。それに対して「科学的思考」は、かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された「栽培思考」なのだ。この分析を通じてレヴィ=ストロースは野生の思考を復権させるとともに、神話の論理の探究への道を開いた。それは人間精神の普遍性の把握にもとづく異文化理解の基礎理論の建設であると同時に、(中略)西欧文化のエスノセントリズムの自己批判でもある。」
「レヴィ=ストロースのタイトルのつけ方が凝ったものであることはよく知られているが、中でも『野生の思考』は特別である。La Pensée sauvage が「野生のパンジー」にかけたものであることは広く知られているが、それではなぜ、一見だじゃれとも見えるようなかけことばを使うのだろうか。」
「たまたまフランス語では pensée が「思考」でもあり「パンジー」でもあるということ、また sauvage という形容詞が人間については「野蛮な」で植物については「野生の」であってその区別がないことを利用して、「思考」という名詞と「野生の」という形容詞との結合が成立したのである。」
「訳注にも記したように、sauvage は「文明人」 civilisé との区別を前面に出す、きわめて侮蔑的な用語であり、その点では進化主義的な primitif 「未開人」をはるかに上まわる。それゆえにこそ現在はおもて向きには用いられなくなっているのであるが、(中略)まさに西欧文化の偏見、自民族中心主義(エスノセントリズム)の凝集とも言える用語なのである。そのような見かたから「野蛮な思考」と考えられてきたものを「野生の思考」に転換させるという本書の直接の目的に、このタイトルはみごとに適合している。そして、その手法自体が本書に取り上げられているブリコラージュそのものなのである。」
「それだけではない。こんどは逆に、(中略)付録においてヨーロッパの民話に使われた「野生のパンジー」を取り上げ、ヨーロッパにおいてもトーテミズムと同じような、自然を利用した具体的思考、すなわち「野生の思考」がごくふつうに働いていることを示している。そしてこの巻末は、そのまま『神話論理』への道に開く出口になっている。」



「訳者あとがき」重版追記より:

「重版にあたり、誤植、原著新版の追加、変更箇所、原著の誤記、不適切な訳語や訳注などを象嵌の可能な範囲で訂正した。」


本文中に図11点。
でてきたのでひさしぶりによんでみました。



レヴィ・ストロース 野生の思考 01



カバーそで文:

「野生の思考 La Pensée sauvage は、1960年代に始まったいわゆる構造主義ブームの発火点となり、フランスにおける戦後思想史最大の転換をひきおこした著作である。
 sauvage (野蛮人)は、西欧文化の偏見の凝集ともいえる用語である。しかし植物に使えば「野生の」という意味になり、悪条件に屈せぬたくましさを暗示する。著者は、人類学のデーターの広い渉猟とその科学的検討をつうじて未開人観にコペルニクス的転換を与え sauvage の両義性を利用してそれを表現する。
 野生の思考とは未開野蛮の思考ではない。野生状態の思考は古今遠近を問わずすべての人間の精神のうちに花咲いている。文字のない社会、機械を用いぬ社会のうちにとくに、その実例を豊かに見出すことができる。しかしそれはいわゆる文明社会にも見出され、とりわけ日常思考の分野に重要な役割を果たす。
 野生の思考には無秩序も混乱もないのである。しばしば人を驚嘆させるほどの微細さ・精密さをもった観察に始まって、それが分析・区別・分類・連結・対比……とつづく、自然のつくり出した動植鉱物の無数の形態と同じように、人間のつくった神話・儀礼・親族組織などの文化現象は、野生の思考のはたらきとして特徴的なのである。
 この新しい人類学 Anthropologie の寄与が同時に、人間学 Anthropologie の革命である点に本書の独創的意味があり、また著者の神話論序説をなすものである。
 著者は1959年以来、コレージュ・ド・フランス社会人類学の教授である。」



目次:


第一章 具体の科学
第二章 トーテム的分類の論理
第三章 変換の体系
第四章 トーテムとカースト
第五章 範疇、元素、種、数
第六章 普遍化と特殊化
第七章 種としての個体
第八章 再び見出された時
第九章 歴史と弁証法
付録

訳注
訳者あとがき

文献
人名・書名索引
事項索引




レヴィ・ストロース 野生の思考 02



◆本書より◆


「具体の科学」より:

「土器、織布、農耕、動物の家畜化という、文明を作る重要な諸技術を人類がものにしたのは新石器時代である。」
「これらの技術はいずれも、何世紀にもわたる能動的かつ組織的な観察を必要とし、また大胆な仮説を立ててその検証を行ない、倦むことなく実験を反復して、その結果捨てるべきものは捨て、とるべきものはとるという作業を続けてはじめて成り立つものである。」
「野生植物を栽培植物に、野獣を家畜にかえ、もとの動植物にはまったく存在しないか、またはごく僅かしかみとめられない特性を発達させて食用にしたり技術的に利用したり、不安定で、壊れたり粉になったり割れたりしやすい粘土から、かたくて水のもれぬ土器をつくったり(中略)、土のない所や水のない所で栽培する技術、毒性をもった種子や根を食品にかえる技術、逆にその毒性を狩猟や戦闘や儀礼に利用する技術、多くの場合ながい時間を要するこれらの複雑な技術を作りあげたりするために必要なのは、疑いの余地なく、ほんとうに科学的な精神態度であり、根強くてつねに目ざめた好奇心であり、知る喜びのために知ろうとする知識欲である。」
「したがって、新石器時代ないし歴史時代初期の人間は、長い科学的伝統の継承者なのである。」

「原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」 bricolage (器用仕事)と呼ばれる仕事である。(中略)今日でもやはり、ブリコルール bricoleur (器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の器用仕事(ブリコラージュ)である。これで両者の関係が説明できる。
 工作面での器用仕事(ブリコラージュ)がそうであるように、知的面で神話的思索が思いがけぬすばらしいできばえを示すこともある。逆に器用仕事(ブリコラージュ)の神話創作的性格もしばしば述べられているところである。たとえば美術でのいわゆる「アール・ブリュット」や「アール・ナイフ」、郵便配達夫シュヴァルの邸宅の幻想的建築、ジョルジュ・メリエスの舞台装置、(中略)」
「器用人(ブリコルール)は多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬというようなことはない。彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内部構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。すなわち、いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりしたときの残りもので維持されているのである。(中略)器用人(ブリコルール)の用いる資材集合は、単に資材性〔潜在的有用性〕のみによって定義される。器用人(ブリコルール)自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められ保存された要素でできている。」

「周知のごとく、美術家は科学者と器用人(ブリコルール)の両面をもっている。職人的手段を用いて彼はある物体(オブジェ)を作り上げるが、それは同時に認識の対象(オブジェ)でもある。(中略)科学者と器用人(ブリコルール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人(ブリコルール)は出来事を用いて構造を作る。(中略)クルエの手になる女性の肖像画を見よう。そしてレースの襟飾りが綿密に糸一本一本まで実物と見まがうばかりに描かれていて、それが説明のつかぬ(と思われる)大へん深い感動をひき起こす理由を考えてみよう。」
「周知の通り、彼は実物より小さく描くことを好んでいた。したがって彼の絵は、箱庭やミニカーや壜の中の船のように、器用人(ブリコルール)の用語でいう「模型」なのである。」

「芸術哲学にとって本質的な問題は、作家が材料や製作手段に「話し相手」の資格を認めるかどうかを知ることである。(中略)美術が、(中略)われわれを感動させるとすれば、(中略)偶然性を作品にもり込み、それによって物それ自体としての尊厳を作品に与えることが条件になる。アルカイック美術、未開美術、および初期段階のプロ美術だけが古くさくならないのは、偶然事を生かして製作に役立てるからである。すなわち、与えらえた生のものを意味づけの経験的材料として完全に使おうとするからである。」



「トーテム的分類の論理」より:

「民俗思考で意味を付与されている存在は、人間とのあいだに何らかの類縁性をもつと見られている。オジブワ族は超自然的存在の世界を信じている。

    「……しかしながら、これらを超自然的存在と呼ぶのはインディアンの考えかたをいささか曲げることになる。それらも人間と同じように、世界の自然的秩序の中にはいっているのである。すなわち、知能と情意を備えているという点でそれらは人間に似ている。人間と同様にそれらにも雌雄があり、なかには家族をもちうるものもある。あるものははっきりきまった地点に定着し、あるものは自由に移動する。インディアンに対しては、好意的なものもあるし、敵意をもつものもある。」(Jenness *2*, p. 29)」

「現地人自身も時には自分たちの知の「具体」性について鋭い感情をもっており、それを白人の知につよく対立させている。

   「われわれは動物が何をしているか、海狸(ビーバー)や熊や鮭やその他の動物が何をもとめているかを知っている。それは、むかし人間の男は動物と結婚し、妻とした動物からその知識を得たからである。……白人はこの土地に暮すようになってからまだ日が浅い。したがって動物のことをあまりよく知らない。ところがわれわれは何千年も前からここに住んでおり、ずっと昔から動物に教えてもらっている。白人は何もかも本に書きとどめて忘れないようにする。ところがわれわれの先祖は動物を妻とし、彼らの習性をことごとく覚え、その知識を代々伝えてきたのである。」(Jenness *3*, p. 540)」

「現代人の中にも、好みや職業から、動物に対して、(中略)むかし狩猟民すべてに共通であった立場にわれわれの文化が許す範囲で非常に近い立場にある人たちがいる。それはサーカスや動物園で働く人びとである。(中略)チューリッヒの動物園の園長がはじめてイルカと差し向い――もしそう言ってよければ――になったときの話ほど示唆に富むものはない。(中略)著者はつぎのように自分の感動を記している。

   「フリッピーは魚とはまるっきり違う。一メートルに足りない距離からきらきら光る目で見つめられると、これがほんとうに動物なのかと自問せずにはいられない。まことに思いもおよばぬ、不思議な、まったく神秘な動物であって、魔法にかけられて姿をかえた人間かと思いたくなるほどであった。残念なことに動物学者の頭脳は、冷ややかな、いまの場合ほとんど苦痛でさえある事実から切り離して考えることができない。学名で言えばそれは *Tursiops truncatus* でしかないのだ……」(Hediger, p. 138)

 科学者の筆になるこのようなことばは、必要とあらば、つぎのようないろいろのことを明らかにするのに十分だろう。理論的知識が感情と両立しえぬものではないこと、認識は同時に客観的でも主観的でもありうること、さらに、人間と動物の具体的関係がときには、とくに学問が全面的に「自然科学」であるような文明において、科学的認識の世界全体を情的色合で彩っていることを。(中略)動物学者の意識の中に分類学と愛情が仲よく同居しうるとしたら、いわゆる未開民族の思考の中でこの二つの態度が結びついていることを説明するのに別の原理をひっぱり出す理由はないのである。」



「普遍化と特殊化」より:

「未開社会は人間の範囲を部族集団の中だけに限り、その外のものは異人、すなわち汚らわしく野蛮な亜人間としか考えないし、極端な場合は危険動物ないし亡霊といった非人間と見る場合さえあると言われてきた。それは根拠のない話ではないし、また正当な場合が多い。しかしながら、トーテム的分類法の本質的機能の一つはまさにこの集団の閉鎖性を打開して、無限界に近い人類観を促進することであるという点がそこでは無視されている。この現象は、いわゆるトーテミズム組織なるものの古典的地域とされてきたところではどこでも確認されている。西オーストラリアのある地方では、「全氏族とそのトーテムを部族の枠を越えていくつかのトーテム区分に分類する族際的体系」が存在する。」
「アメリカでもスー族やアルゴンキン族について同じような観察がなされている。アルゴンキン族に属するメノミニ・インディアンは、

   「……同じ部族に属して共通のトーテムをもつ個人の間だけでなく、別の部族でも、また話す言語が違った語族のものであっても、同じトーテムによって命名されている人間どうしの間には共通の関係が存在すると広く一般に信じられている。」(Hoffman, p. 43)」



「種としての個体」より:

「フランス語では、雀はピエロ、おうむはジャコ、カササギはマルゴ、アトリはギーヨーム、ミソサザイはベルトランもしくはロベール、水鶏はジェラルディーヌ、コキンメフクロウはクロード、ワシミミズクはユベール、カラスはコラ、白鳥はゴダール、というように呼ばれる。最後にあげたゴダールという名は社会的に意味のある条件にも関係している。すなわち十七世紀には、産褥にある妻をもつ夫をこの名で呼んでいたのである。*」
「* このように小さくて単純な系列でも、さまざまな論理レベルに属する項を含んでいることは、大きな意味をもつ。「ピエロ」は、たとえば「バルコニーにピエロ(雀)が三羽いる」と言えるから、クラス指標になりうる名である。しかし「ゴダール」は呼びかけ名である。トレヴーの辞書(一七三二年版)のこの項の筆者がみごとに記しているように、「ゴダールは白鳥につける名である。白鳥に呼びかけ、自分の方へ来るように言うとき、『ゴダール、ゴダール』とか、『おいで、ゴダール、こっちへおいで』とか、『ほら、ゴダール』というようにこの名を使う。」ジャコは、そしておそらくマルゴも、その中間的役割を果たすように思われる。」

「他のクラスの動物より鳥類の方が種ごとに人間の名をとりやすいのは、まさに、鳥が人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよいからなのである。鳥は羽毛に覆われ、翼があり、卵生であるし、また生理的にも、空気中を飛びまわれるという特権があって人間社会とは分離している。
 この事実によって鳥類は、人間のコミュニティから独立した別のコミュニティを形成している。しかし、そのコミュニティは、まさにその独立性そのもののゆえに、別個ではあるがわれわれの社会と相同の社会であるように思われるのである。鳥は自由を愛する。すみかを作って家庭生活をし、子供を育てる。同じ種の他の成員と社会関係をもつこともしばしばである。そして相互に、人間の言語を思わせる音響的手段でコミュニケーションを行なう。
 したがって、鳥の世界を人間社会の隠喩と考えるためのあらゆる条件が客観的に揃っている。それにまた人間社会は、別のレベルにおいて、鳥の世界と文字どおりパラレルなのではないか? 神話や民間伝承には、この表現様式が頻繁であることを示す無数の例がある。」



「再び見出された時」より:

「私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。栽培思考は地球上のあるいくつかの地点に、歴史上のあるいくつかの時期に現れたものであって、(中略)今日のわれわれには、この両者が共存し、相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、(中略)共存し交配されうるのと同じである。もっとも、栽培植物や家畜の存在は(中略)野生種を絶滅させるおそれがあるけれども。しかしながら、(中略)野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。芸術の場合がそれであって、(中略)また、社会生活の中にも、まだ開拓が進んでいなくて、とりわけてこれによくあてはまる領域がたくさんある。そこには、(中略)野生の思考が依然として繁茂している。
 私が野生の思考と呼びコントが自発的思考とするものの例外的性格は、とくにそれが自らに定める目的の広大さにある。この思考は分析的であるとともに同時に綜合的であろうとし、また両方向の極限にまで進むことを目指しつつ、同時にその両極間の調停能力を保有しようとする。」

「真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかも知れないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。(中略)それに対して呪術操作は、宇宙の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。」

「未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかを言いあてるオーストラリア原住民(Meggitt)のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらには目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いま相手の車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。(中略)われわれの能力がとぎすまされ、知覚が鋭敏になり、判断が確実性をますのは、(中略)まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。」

「私はほかの所で、「歴史なき民族」とそれ以外の民族を分けるのはまずい区別であって、それよりも、(中略)「冷い」社会と「熱い」社会とを区別する方がよかろうという考えを述べておいた。冷い社会は、自ら創り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力とする。(中略)さらに、史的連鎖にもいくつかの型を区別しなければならない。ある種の史的連鎖は、持続〔時間〕の中にあるとは言うものの、回帰性をもっている。たとえば四季の循環、人間の一生の循環、社会集団内の財物と奉仕の交換の循環などがそれである。これらの連鎖は、持続の中で周期的に繰返されてもその構造は必らずしも変わるわけではないので、問題とはならない。「冷い」社会の目的は、時間的順序が連鎖それぞれの内容にできるだけ影響しないようにすることである。」
「この点に関しては、あらゆる社会が歴史の中にあり発展してゆくものだということを証明するために論拠を積み上げたところで、おもしろくもないしまた何の役にも立たない。それは自明のことである。ところが、こういう余計な証明に一生懸命になっていると、この共通の条件に対する人類社会の対応のしかたが非常に多様であることを見落してしまう危険性がある。好んでかしぶしぶかは別としてこの条件を受け入れ、意識化することによってそのおよぼす結果(自らに対する、また他の社会に対する)を異常に増幅する社会もあるが、他方それを無視して、発展過程の中で「初原的」と考えられる状態を巧みに――われわれはその巧みさを過小評価している――可能な限り恒常化しようとする(そのためにわれわれが原始的と呼ぶ)社会もある。」
「あと解明すべき問題は、野生の思考が(中略)、いわば通時態を手なずけて共時態と協力させ両者の間に新しい軋轢が起らぬようにして、この矛盾を統一性のある体系を作り上げるための材料にしてしまうやり方である。
 儀礼があるおかげで、神話の「離接的」過去は、一方で生理的季節的周期性に、他方で全世代にわたって生者と死者とを結ぶ「連接的」過去につながる。」



「歴史と弁証法」より:

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。野生の思考の世界認識は、向き合った壁面に取りつけられ、厳密に平行ではないが互いに他を写す(そして間にある空間に置かれた物体をも写す)幾枚かの鏡に写った部屋の認識に似ている。多数の像が同時に形成されるが、その像はどれ一つとして厳密に同じものはない。したがって像の一つ一つがもたらすのは装飾や家具の部分的認識にすぎないのだが、それらを集めると、全体はいくつかの不変の属性で特色づけられ、真実を表現するものとなる。野生の思考は、imagines mundi (世界図――複数)を用いて自分の知識を深めるのである。この思考がいくつかの心的建造物を作り上げると、それらが世界に似ておれば似ているほど、世界の理解が容易になる。この意味において、野生の思考を類推思考と定義することができたのである。
 しかしまたこの意味において、野生の思考は家畜化された思考と区別される。歴史認識はこの家畜的思考の一面を構成するものである。」

「野生の思考で取り扱いうる特性は、もちろん科学者の研究対象とする特性と同じではない。自然界は、この二つの見方によって、一方で最高度に具体的、他方で最高度に抽象的という両極端からのアプローチをもつのである。言いかえれば、感覚的特性の角度と形式的特性の角度である。しかしながらこの二つの道は、少くとも理論的には、(中略)当然合流して一つになるべきものであった。これによって理解できるようになるのは、この二つの道がどちらも、時間および空間の中において相互に無関係に、まったく別々であるがどちらも正方向の、二つの知を作り出したことである。一方は感覚性の理論を基礎とし、農業、牧畜、製陶、織布、食物の保存と調理法などの文明の諸技術を今もわれわれの基本的欲求に与えている知であり、新石器時代を開花期とする。そして他方は、一挙に知解性の面に位置して現代科学の淵源となった知である。」
「科学精神は、そのもっとも近代的な形において、科学精神のみに予見しえた出会いにより、野生の思考の原理の正当化とその権利の回復に貢献しうるものである。それを認めることはすなわち、野生の思考の教えへの忠誠をまもることにほかならない。」



「付録」より:

「「むかし『三色スミレ』〔野生のパンジー〕は『三月スミレ』(ニオイスミレ)よりも甘美な香を放っていた。その頃は小麦畑の中に生えていたので、摘みに来る人たちがみな小麦を踏みつけた。スミレは小麦がかわいそうになり、香をなくして下さるようにと聖三位一体に懇願した。その願いは聞き届けられた。そのため、この花は『三位一体花』とも呼ばれる。」(Panzer, II, 203 - Perger, p. 151 の引用による。)」

「「ある日のこと、両親の知らぬ間に、兄が自分の妹と(妹であるとは知らないで)結婚してしまった。心ならずも罪を犯したと知って二人があまりに歎き悲しむので、神様は哀れに思し召され、二人をこの花(パンジー)の姿に変えておしまいになった。それ以来この花は bratky (キョウダイ)と呼ばれている。」(ウクライナ地方の伝説。*Revue d'Ethnographie* (ロシア語) t. III, 1889, p. 211 [Th. V.])」








こちらもご参照ください:

レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 上』 川田順造 訳
多田智満子 『鏡のテオーリア』
大林太良 『葬制の起源』 (中公文庫)
谷川健一 『黒潮の民俗学』















































スポンサーサイト



レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 下』 川田順造 訳

「このようにしてボロロ族は、彼らの人間としての姿を、或る魚(その名で彼らは自分たちを呼んでいる)の姿と、アララ鸚鵡(おうむ)(その姿になることで、ボロロ族は輪廻(りんね)のひと巡(めぐ)りを終る)の姿とのあいだの移行形と看做している。」
(レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 下』 より)


レヴィ=ストロース 
『悲しき熱帯 下』 
川田順造 訳
 


中央公論社 
1977年12月10日 初版発行
1994年4月20日 14版発行
v 367p 口絵(モノクロ)38p
地図(巻末折込)1葉
定価2,450円(本体2,379円)



本書「凡例」より:

「本書は、和訳の作業が十二年にわたったため、底本としては、章によって、一九六二年版以後の、Claude LÉVI-STRAUSS, *Tristes Tropiques* (Collection "Terre Humaine"), Plon, Paris. の様々な版を、その時々にパリで入手して用いたが、すべての訳稿が完成したのち、一九七六年版に合せて統一した。」


別丁口絵図版(モノクロ)53点。本文中に図17点。全二冊。



レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 下 01



帯文:

「ブラジルでの広汎な調査旅行と考古学的関心のなかで著者が培った、斬新な文化認識の方法は、現代思想界に鮮烈な衝撃を与えた。著者は、文化の幾つかの徴候の吟味を通して隠れた意味の解読に努め、ユニークな「熱帯」の比較文明論を展開して、この名著を結ぶ。愛弟子が十二年を費やした鏤骨の邦訳、遂に成る。」


帯背:

「構造主義
の原点」



カバー裏文:

「時間の秩序を敢えて交錯させた重層的な叙述。空間の秩序においても、可視的な対象を一旦分解したあとで、知的に一つの新しい実在を再構成してゆく叙述。言葉と言葉の破格な結び合わせ。言葉の多義性を通しての意味の啓示。ときに、曖昧な語法によって、観念はかえって厚みを帯びて定着する。そして、隠喩と換喩のふんだんな使用――これは、単なる修辞上の技法ではなく、レヴィ=ストロースの世界把握の方法の根底にもかかわる。
認識の方法としての隠喩と換喩は、人文科学における実証主義、経験主義の方法とは対照的なもので、後者の方法によっては明かにできない次元に隠れていたものを、一挙に発(あば)いてみせる力をもっている。隠れた次元に向って異常に発達した感受性を通して、この著者は、常人とは別の世界を知覚しながら生きているのではないかとさえ、思いたくなる。
レヴィ=ストロースのブラジルでの体験は、資料を蒐集する行為としてよりは、彼の文化認識の方法――というよりもっと根本的な、文化人類学者としての感性――を形作る上で、特に意味をもったように思われる。
(著者と訳者との対談・解説「二十二年ののちに」より)」



目次:

第六部 ボロロ族
 21 金とダイヤモンド
 22 善い野蛮人
 23 生者と死者
第七部 ナンビクワラ族
 24 失われた世界
 25 荒野(セルタウン)で
 26 電信線に沿って
 27 家族生活
 28 文字の教訓
 29 男、女、首長
第八部 トゥピ=カワイブ族
 30 カヌーで
 31 ロビンソン
 32 森で
 33 蟋蟀(こおろぎ)のいる村
 34 ジャピンの笑劇
 35 アマゾニア
 36 セリンガの林
第九部 回帰
 37 神にされたアウグストゥス
 38 一杯のラム
 39 タクシーラ
 40 チャウンを訪ねて

訳注
参考文献一覧
訳者あとがき

地図




レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 下 02



◆本書より◆


「22 善い野蛮人」より:

「一方は河で限られ、他の方角はすべて菜園を奥に隠している切れぎれの森に囲まれた空き地の真ん中に、いま私はいる。森の木のあいだからは、その向うに、急斜面を成した赤い砂岩の丘が幾つか見える。空き地のぐるりは、一列の環状に並んだ、私のに似た小屋――正確には二十六戸の小屋――で占められている。中央には、長さ約二十メートル、幅八メートルの、従って他のものより遙かに大きい小屋がある。これは「バイテマンナゲオ」つまり「男の家」で、独身の男はここで眠り、漁や狩りで男たちの手がふさがっていないか、あるいは踊りの広場で何か公けの儀式をしていない時には、彼らはここに来て一日を過すのである。(中略)女たちは、男の家への出入りを固く禁じられている。女たちは周縁部に家を持っており、彼女らの夫は、日に何度か、空地の藪を抜けて通じている細道を辿って、男の集会所と夫婦の住居のあいだを往復するのである。木や屋根の上から見ると、ボロロ族の村は荷車の車輪に似ている。家族の住居は輪に当るであろうし、小径(こみち)は輻(や)を、車輪の中央にある男の家は轂(こしき)を模(かたど)っていると言えるかもしれない。
 この興味深い家の配置は、村の人口が当時の平均人口(ケジャラでは、およそ百五十人だった)を著しく越えない限り、かつてはすべての村に見られたものだった。」
「男の家の周りに小屋を環状に配置することは、社会生活や儀礼の慣行にとって、極めて重要な意味をもっているので、ダス・ガルサス河地方のサレジオ会の宣教師たちは、ボロロ族を改宗させるのに最も確かな遣り方は、彼らの集落を放棄させ、家が真直ぐ平行に並んでいるような別の集落にすることにある、ということを直ぐに理解した。原住民たちは、東西南北の方位についても感覚が混乱し、彼らの知識の拠りどころとなる村の形を奪われて、急速に仕来りの感覚を失っていった。」



「23 生者と死者」より:

「敬意をもって死者を取り扱わない社会は、恐らく存在しないだろう。」
「或る社会は、死者をそっと休息させておく。定期的に敬意を捧げられることによって、死者は生者を煩(わずらわ)すことを差し控えるのである。死者が生者に会いに来るとしても、間をおいて、しかも予定された機会に来るのである。そして、死者の来訪は生者に福利をもたらすものであって、死者はその保護によって、季節の規則正しい再来や農作と女性の豊饒を保証する。まるで、死者と生者のあいだに契約が結ばれてでもいるかのように、すべては運ばれる。死者に捧げられる然るべき供養の報いとして、死者は彼らの住処(すみか)を離れず、生者との一時(いっとき)の出会いも、常に生者の利益への慮(おもんばか)りに充ちている。世界に広く見出される民間伝承の主題の一つである「感謝する死者」は、よくこの関係を表している。金持の主人公が、埋葬に反対している債権者たちから、一体の死骸を買い取る。彼は死者を正式に埋葬する。死者は恩人の夢に現われて一つの成功を約束する。ただし、この成功によって得られた利益が、彼ら二人のあいだに公正に配分されるという条件で。事実、主人公は、超自然の力をもつ彼の保護者の助けによって、一人の王女を数々の危険から救い、たちまち王女の愛を得る。(中略)だが、王女は魔法にかけられているのだ――半ば女性だが、半ばは竜もしくは蛇なのである。死者は彼の権利を要求する。主人公は要求に従う。(中略)死者は、自分の取り分として呪われた部分を除いてやり、人間に戻った花嫁を主人公に与える。
 こうした考え方に、もう一つのものが対置される。これも民間伝承の主題の一つが明かにしているもので、(中略)主人公は金持ではなく、貧しい。彼は全財産として麦を一粒もっているのだが、企みによって、それを一羽の雄鶏と、それから一匹の豚と、次には一頭の牛と、次には一体の死骸と取り換えるのに成功する。とうとう彼は、死骸を一人の生きた王女と交換する。ここでは、死者は対象であって、(中略)取引の相手ではなく、嘘や計略が幅をきかせる、投機をやってのける手立てなのである。或る社会は、死者に対してこの種の態度をとる。社会は死者に休息を与えず、死者を動員する。時として、それは語義通りの動員であり、例えば、死者の徳や力を身につけたいという願いに基づいた食人や死体嗜食の風習がそれに当る。(中略)こうした社会では、そうでない社会以上に、人々は、彼らがいいだけ利用している死者のために、社会の平安が乱されているのを感じている。死者は、うるさく付き纏われたお釣りを社会に返しているのだ、と人は思っている。生者が死者を利用しようとすればするだけ、死者は生者に対していっそう気難(きむずか)しく、喧嘩(けんか)腰になるのである。しかし、第一の場合のように公正な分配をするにせよ、あるいは第二の場合のように度外れの投機をするにせよ、そこに支配的に働いているのは、死者と生者との関係において、結局「二人で分け合う」ことになるのは避けられないという考え方なのである。」
「死者が無感覚で無名の存在になるヨーロッパでさえ、民間伝承は、死者には二つの種類があるという信仰によって、別の死者観のあり方の痕跡を保っているのである。それによると、自然な原因で斃(たお)れた者は保護者としての先祖の一群を形づくっているが、自殺した者や暗殺された者、呪い殺された者などは、禍いをもたらす嫉(ねた)み深い精霊に姿を変えるのである。」

「もし私が、ボロロ族にとって自然死は存在しない、と言ったとすれば、私は自分の考えを十分に言い表したとは言えない。彼らにとっては、一人の人間は一つの個体ではなく一つの人格なのである。人間は社会学的な宇宙の部分を成している。集落は、物理的宇宙と隣り合って、全き無窮のうちに存在しており、物理的宇宙そのものも、他の霊魂をもった存在――天体や気象現象――から成っている。このことは、実際に、ある村が(耕地の消耗のために)同じ場所に三十年以上留まることは滅多にないという、かりそめの性格をもっているにもかかわらず言えるのである。従って村を成しているのは、土地でも小屋でもなく、すでに記述したような或る一つの構造であり、その構造をすべての村が再現するのである。宣教師たちが村の伝統的な配置を妨げることによってすべてを破壊することも、このようにして理解できる。
 動物について見ると、彼らの一部、とくに魚と鳥は人間の世界に属しているが、或る種の陸棲動物は物理的宇宙のものである。このようにしてボロロ族は、彼らの人間としての姿を、或る魚(その名で彼らは自分たちを呼んでいる)の姿と、アララ鸚鵡(おうむ)(その姿になることで、ボロロ族は輪廻(りんね)のひと巡(めぐ)りを終る)の姿とのあいだの移行形と看做している。」

「先に私は、一人の呪術師と同じ小屋に私が住んでいる、と書いた。「バリ」たちは、物理的宇宙、社会的世界のどちらにも完全には属していず、二つの世界のあいだに媒介を成り立たせることを役目とする、人間存在の特別な一範疇を形作っている。(中略)バリになるのは天性によってだが、啓示の結果なることも多い。啓示の要諦は、邪悪な、あるいは単に怖れられている精霊から成る大層複雑な集団の、成員の何人かと契(ちぎ)りを結ぶことにある。これらの精霊は、一部は天界のもので、従って天体現象や気象現象を意のままにし、一部は獣(けだもの)で一部は地下のものである。全体としては死んだ呪術師の魂によって規則的に増大してゆくこれらの存在は、天体の運行や、風や、雨や、病気や、死を司っている。彼らは様々な恐ろしい姿のものとして語られる。毛むくじゃらで頭には穴があき、タバコを吸うとその蒸気が穴から洩れて来るとか、空の怪物で、目や鼻や、あるいは度外れに長い髪の毛や爪から雨を噴き出すとか、一歩足で腹はふくれ、体は蝙蝠(こうもり)のように綿毛で覆われている、などである。
 バリは非社会的な存在である。ひとりびとりがその絆で一つまたは幾つかの精霊と結び合わされているお蔭で、バリは特権を賦与されている。」
「しかしながらバリは、その守護霊によって支配されてもいる。守護霊はバリを利用してバリに乗り移るが、そのとき、守護霊の担い手であるバリは、憑依(ひょうい)状態になって、体を震わせるのである。」
「物理的世界の傍らで、社会学的な世界は全く別の性質を示している。普通の人間(私が言おうとしているのは、呪術師でない人たちという意味だ)の魂は、自然の諸力に同化する代りに、一つの社会として留まり続ける。しかし逆に、これらの魂は、人格としての個別性を失って「アロエ」という集合的な存在のうちに溶け込んでしまう。アロエという言葉は、古代ブルターニュ人の「アナオン」のように、「霊魂の社会」とでも訳されるべきなのであろう。」
「バリが、一方で人間社会と、他方で個別的および宇宙的な邪悪な魂との仲介者であるように(中略)、生者の社会と死者の社会――後者は福利をもたらし、集合的で人間の形をしている――との関係を司るもう一人の仲介者が存在する。これが「魂の道の主(あるじ)」、ボロロの言葉で「アロエトワラアレ」である。彼らはバリとは対照的な性格をもっており、(中略)彼らは互いに畏(おそ)れ合い、憎み合っている。」
「バリは病気や死を予見するが、道の主は看護し、治療する。それに、人の言うところでは、物質界の必然の表れであるバリは、自分の予測が間違っていないことを示すために、彼の不吉な予告が達成されるのにあまり長くかかりそうな病人は、意図して自分の力で片付けてしまうことがある。しかし、気を付けなければならないのは、ボロロ族は死と生の関係について、われわれと全く同じ観念をもってはいないということである。自分の小屋の片隅で高熱にうなされている一人の女のことを、人は或る日私に、彼女は死んでいるのですと言ったが、それは、彼女はもういないものと看做されている、という意味だったのであろう。ともあれ、こうしたものの見方は、われわれの軍隊で、死者と負傷者を等しく「損失」という同じ言葉で一括してしまう遣り方とよく似ている。」
「さらに、道の主がバリのような遣り方で獣(けだもの)に姿を変えることができるとしても、ジャガー(中略)の姿になることは決してない。道の主は、人に食物を与える動物に、自分の身を捧げる。果実を摘むアララとか、魚を獲る大鷲とか、部族の人たちが大喜びでその肉を食べる獏(ばく)などである。バリは精霊に憑(つ)かれているが、アロエトワラアレは人間を救うために自分を犠牲にする。道の主になる者に、使命を自覚させる啓示さえも苦痛を伴っている。選ばれた者はまず、自分に付き纏う悪臭に精通するようになる。これは恐らく、踊りの広場の中央に、死体を地面すれすれに浅く仮埋葬してある数週間のあいだ、村に充満する匂いを思い起させるのであろうが、この時この匂いは、「アイジェ」という神話上の存在に結び合わされている。この存在は、水の深みに棲む怪物で、胸のむかつくような悪臭を放ち、しかし慈愛に充ち、この新入者に現われ、新入者はこの怪物の愛撫を堪え忍んで受けなければならない。(中略)原住民たちはアイジェを、絵に描き表せるほどはっきりとした姿で自分たちの思考のうちに抱いている。彼らは唸(うな)り菱(びし)のことも同じ名で呼んでいるのだが、唸り菱の音は怪物の出現の前触れであり、怪物の声を真似ているのである。」



「25 荒野で」より:

「私たちが宿営したのは、あいにく、お馴染の虫が横行する場所だった。マリボンド蜂や蚊(か)や、群れを成して雲のように飛んでいる、血を吸う極く小さな羽虫、ピウンやボラシュードなど。他にパイ・デ・メル、つまり蜜蜂もいた。南アメリカにいる蜜蜂の種(しゅ)は、毒はもっていないが他の遣り方で人を苦しめる。汗が好物なこの蜂は、互いに争って、口や目の端(はた)や鼻の穴の周りなど、一番いい場所を占めようとする。そして犠牲者の分泌物に酔い痴(し)れたかのように、飛び去るよりは、むしろその場で叩かれるままになっている。皮膚の上で潰(つぶ)された虫が、また次々と新しいお客を惹きつけることになる。この蜜蜂のランベ・オリョスつまり「眼舐(な)め」という綽名(あだな)もそこから来ている。」


「30 カヌーで」より:

「五ヵ月このかた雨がなく、獲物になる動物は逃げてしまっていた。私たちが瘠(や)せこけた鸚鵡(おうむ)を撃(う)ち止めたり、大蜥蜴(とかげ)トゥピナンビスを捕まえて米の中に炊き込んだり、地亀か脂っぽくて黒い肉のアルマジロを、甲羅ごと焙(あぶ)ることができた時は、まだましだった。大抵はシャルケで我慢しなければならない。これはクイアバの肉屋が何ヵ月も前に拵(こしら)えた干した例の肉で、私たちは、虫のうようよするその厚い肉片を、毎朝消毒のため日に晒すのだが、明くる日はまた同じ状態でそれらを取り出すことになるのだった。だが一度、誰かが野豚を一頭仕留めたことがあった。血の滴(したた)るこの肉は、葡萄酒にも増して私たちを酔心地にした。」

「少しずつ風景は変化していった。高地地帯の中央部を形作っていた結晶性あるいは沈積性の古い地質は、粘土質の土壌に場所をゆずる。サヴァンナが終って、私たちは栗の木(ヨーロッパのでなく、Bertholletia excelsa というブラジルの栗の木だ)と、芳香のある樹脂を分泌する大樹コパイバのある乾性林地帯を突切り始めた。澄みきっていた小川にも泥が多くなり、黄ばんで腐った水が流れている。いたるところ、陥没が認められる。丘の斜面が侵蝕作用で蝕(むしば)まれ、その麓にサペザル(丈の高い草)やブリティザル(椰子)の生えた沼地が形成されている。沼地の縁を、騾馬は野生のパイナップルの原を、踏み拉(しだ)き踏み拉き渡って行く。その小さな実は、橙色がかった黄色をしており、果肉には大きな黒い種子がばらばらに詰っている。味は栽培種のパイナップルと極上の木苺(きいちご)の中間とでも言おうか。地面から立ち昇る、もう何ヵ月も忘れていた、チョコレートを入れた熱い煎じ薬のようなこの匂いは、他でもない熱帯の植物の匂い、有機質の分解する匂いだ。」



「38 一杯のラム」より:

「どんな社会も完全ではない。あらゆる社会は、その社会が宣揚する規範とは両立しない不純さを元来含んでおり、そうした不純さは、様々な割合いで配合された不正、無感覚、残忍となって具体的に表れている。この配合をどう評価すべきであろうか? 民族誌的な探索は、そこに至る道を開いてくれる。なぜなら、少数の社会を比較する時、それらが互いに著しく異なったものに見えることは確かだとしても、考察の範囲が拡がれば、そうした差異は縮小するからである。そのとき人は、どんな社会も真底(しんそこ)から善くはないが、だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはないということを発見する。あらゆる社会はその成員に或る種の利点を提供するが、一方、不正の澱(おり)はなくなるわけではなく、その分量はほぼ一定のように思われ、それはまた、社会生活の面では、組織の努力に対立する、その社会固有の惰性に相当しているのである。」
「あらゆる野蛮な習俗のうちでも、恐らくわれわれに最も恐怖と嫌悪を感じさせる食人を例にとってみよう。まずそこから、純粋に食物摂取としての形態、つまり人肉を食うという欲求がポリネシアの或る島々におけるように、他の動物性食料の欠乏によって説明される場合を除外すべきであろう。この種の渇望に対しては、どんな社会も道義的に保証されてはいない。飢餓は、人間に何でも構わず食べることを余儀なくさせる。」
「そこで残るのは、「積極的」と形容することのできる神秘的、呪術的あるいは宗教的な理由に基づく食人の諸形態である。例えば、死者の徳を身に着け、またさらには死者の力を無力にするための、親や祖先の体の一部や敵の死体の一片の嚥下(えんか)。このような儀式は、大抵は有機物の微量を粉にしたり、他の食物に混ぜたりすることから成る極めて慎ましい遣り方でなされるが、そうではなく、食人がもっと露骨な形を取る場合でさえ、食人に対する非難が含んでいるのは、物としての死体の毀損(きそん)によって危うくされる肉体の甦りへの信仰か、あるいは、霊魂と肉体の結び付きの肯定とそれに対応する二元論である。つまり、非難が立脚しているこれらの信念は、儀礼的な食人を行う名目となる信念と同じ性質のものなのであるから、われわれが食人よりもこちらを選ぶ理由はないということを人は認めるであろう。われわれが食人の習俗に非を唱える根拠ともなりうる、死者を思い出のうちに刻むことにかけての無頓着さは、死体解剖の階段教室でわれわれwが容認しているそれより、確かに大きくはないどころか、その逆であるだけになお、そのことは言えるのである。
 だが、とりわけわれわれが銘記しなければならないのは、われわれに固有の幾つかの習俗が、異なる一社会から来た観察者の目から見れば、文明の観念にとって異質であるとわれわれが思う、この食人の習俗と同じように映るであろう、ということである。私は、われわれの司法や懲役の慣わしのことを考えているのである。それらを外側から研究したとすれば、二つの型の社会を対立させてみたくなるかもしれない。アントロポファジー〔人間を食うこと〕の慣行をもつ社会、すなわち脅威となる力をもつ個人を食ってしまうことがその力を無力にし、さらに活用しさえするための唯一の方法であると看做している社会と、われわれの社会のようにアントロペミー〔人間を吐くこと〕(ギリシア語の「エイメン」(吐く)に基づく)と呼び得るかもしれないものを採用している社会とである。同一の問題を前にして、後者は逆の解決、つまり脅威となる存在を、人間と接触しないよう、この用途に当てられた施設の中に一時的または恒久的に隔離して、社会体の外に追い出すことから成る解決を選んだ訳である。われわれが未開と呼ぶ大部分の社会では、この習俗は深い恐怖を与えることだろう。それは、われわれが、これと対称をなす彼らの習俗のゆえに彼らに帰そうとし勝ちなのと同じ野蛮さをもつものとして、われわれを彼らの目に映じさせるに違いない。」

「民族学者は、彼の存在自体が罪の贖(あがな)いの試みとしてでなければ理解し難いものであるだけになお、彼自身の文明に無関心ではいられず、文明の犯した過ちについての連帯に無自覚ではあり得なくなる。彼は贖罪(しょくざい)の象徴である。しかし、他の幾つかの社会も同じ原罪に加担したのである。」

「他の社会は恐らく、われわれの社会より良くはないであろう。(中略)とはいえ、他の社会をよりよく知ることによって、われわれは、われわれの社会から自分を切り離すという方法を獲得する。それはわれわれの社会が絶対に、あるいは唯一の悪いものだからではなく、それが、そこからわれわれが自由になるべき唯一の社会だからである。」

「何も手は打たれていず、われわれには、すべてをまた始めることが可能だ。かつて為されたがうまく行かなかったものは遣り直すことができる。「或る盲目的な迷信が、われわれの後(あるいは前)に位置づけた黄金時代は、われわれのうちに(引用者注:「われわれのうちに」に傍点)ある。」」



「40 チャウンを訪ねて」より:

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終るだろう。」
「人間は、呼吸し、食物を獲得するようになってから、火の発見を経て原子力や熱核反応機関を発明するまで、人間を再生産する場合を除いて、喜々として無数の構造を分解し、もはや統合の可能性の失(う)せた状態にまで還元してしまう以外、何もしなかった。なるほど人間は都市を築き、畑を耕したかも知れない。だが考えてみれば、これらのもの自体、或るリズムで、そしてそれらのものが巻き込む組織の量を無限に上回る割合で、無活力を作り出すべく定められた機械なのである。人間の精神が創り出したものについて言えば、それらの意味は、人間精神との関りにおいてしか存在せず、従って人間の精神が姿を消すと同時に無秩序のうちに溶け込んでしまうであろう。(中略)文明の、この分解の過程の最高度の表現を研究することに捧げられた学問の名は、人類学(アントロポロジー)よりもむしろ「エントロポロジー〔エントロピーの学〕」と書かれるべきかもしれない。」
「歩みを止めること。そして人間を駆り立てているあの衝動、必要という壁の上に口を開(あ)けている亀裂を一つ一つ人間に塞がせ、自らの手で牢獄を閉ざすことによって人間の事業を成就させようとしている、あの衝動を抑えること。(中略)生にとって掛け替えのない解脱(引用者注:「解脱」に傍点)の機会、それは(中略)、われわれの種(しゅ)がその蜜蜂の勤労を中断することに耐える僅かの間隙に、われわれの種(しゅ)がかつてあり、引き続きあるものの本質を思考の此岸(しがん)、社会の彼岸(ひがん)に捉えることに存している。われわれの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦(ゆる)しの重い瞬(まばた)きのうちに。」




レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 下 03







こちらもご参照ください:

レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 上』 川田順造 訳
山口昌男 『文化人類学への招待』 (岩波新書)
ベルナツィーク 『黄色い葉の精霊 ― インドシナ山岳民族誌』 大林太良 訳 (東洋文庫)
宮田登 『ケガレの民俗誌』
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
谷川健一 『常民への照射』
グリオール+ディテルラン 『青い狐 ― ドゴンの宇宙哲学』 坂井信三 訳




















































レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 上』 川田順造 訳

「強いて言うなら、私は根底的(ラディカル)な悲観論者(ペシミスト)です。」
(レヴィ=ストロース)


レヴィ=ストロース 
『悲しき熱帯 上』 
川田順造 訳
 


中央公論社 
1977年10月25日 初版発行
1994年4月20日 17版発行
xxxvii 310p 口絵(モノクロ)1葉
別丁図版(モノクロ)10p
定価2,250円(本体2,184円)



本書「二十二年ののちに」(川田順造)より:

「『悲しき熱帯』の原著 Tristes Tropiques は、一九五四年十月十二日から翌年の三月五日のあいだに書かれ、一九五五年秋、パリで出版された。」


本書「凡例」より:

「本書は、和訳の作業が十二年にわたったため、底本としては、章によって、一九六二年版以後の、Claude LÉVI-STRAUSS, *Tristes Tropiques* (Collection "Terre Humaine"), Plon, Paris. の様々な版を、その時々にパリで入手して用いたが、すべての訳稿が完成したのち、一九七六年版に合せて統一した。」
「巻頭の「献辞」に引用されているルクレティウスの訳文は、藤沢令夫・岩田義一両氏共訳のもの(中略)を(中略)使用させていただいた。」



別丁図版(モノクロ)10点。本文中に図21点。全二冊。



レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 上 01



帯文:

「文化人類学の泰斗が、1930年代ブラジル奥地での豊富な体験によって、その民俗誌的知見を集成する。この主題を軸に、第二次大戦下のフランス脱出、少青年期の回顧、南アジア旅行の印象などを通して、思想形成の自己史を重層的に吐露した名著。十二年を費やした愛弟子による刻苦の邦訳、遂に成る。」


帯背:

「構造主義
の原点」



カバー裏文:

「15年の醸成のあと一気に書かれたこの本は、上等な木の樽の中でたっぷり時間をかけて濃(こく)と香りを身につけた酒のように、辛口でありながら豊かなひろがりをもった大人の読み物だ。そしてその全体を、暗いセピアのような色調で彩っているのが、自伝ないし、民族学者の告白としての、これもまた魅力に溢れた側面なのである。
己(おのれ)を語ることへの嫌悪と、それにもかかわらず敢えてそれを試みようとする自己との軋轢(あつれき)、逡巡――密度の高い文章に托した韜晦(とうかい)のうちに、それを一つの肯定にまでたかめてゆく第一部に始まって、自己の思想形成のあとを振り返り、或る時はアマゾンの奥地で、コルネイユの『シンナ』のパロディーを通して粉飾された自画像を描き、一匹の猫と交す瞬(まばた)きへと収斂してゆくこの絢爛たる長篇の散文は、20世紀前半の地球に生を享(う)けた、卓越した一見者(ヴォワイアン)の手記とみることもできるかもしれない。だがこの「手記」は、著者の実在との律儀な密着に支えられた「私記」や、ありのままと正直を尊ぶ日本的感性とは、何と異質なものの上に成り立っていることだろう。
(著者と訳者との対談・解説「二十二年ののちに」より)」



目次:

二十二年ののちに――レヴィ=ストロースにきく (川田順造)

悲しき熱帯
 日本の読者へのメッセージ
 第一部 旅の終り
  1 出発
  2 船で
  3 アンティール諸島
  4 力の探求
 第二部 旅の断章
  5 過去への一瞥
  6 どのようにして人は民族学者になるか
  7 日没
 第三部 新世界
  8 無風帯
  9 グヮナバラ
  10 南回帰線を越えて
  11 サン・パウロ
 第四部 土地と人間
  12 都市と田舎
  13 開拓地帯
  14 空飛ぶ絨緞(じゅうたん)
  15 群集
  16 市場
 第五部 カデュヴェオ族
  17 パラナ
  18 パンタナル
  19 ナリーケ
  20 原住民社会とその様式

訳注




レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 上 02



◆本書より◆


「お前と同じように、これまでそうした世代は亡びてきたし、これからも亡びるだろう。
     ――ルクレティウス『事物の本性について』第三巻九六九」



「1 出発」より:

「私は旅や探検家が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている。だが、そう心を決めるまでにどれだけ時間がかかったことか! 私が最後にブラジルを去ってから十五年が過ぎたが、そのあいだじゅう、私は幾度もこの本を書いてみようと思い立った。そのたびに、一種の羞恥(しゅうち)と嫌悪(けんお)が私を押し止(とど)めた。一体何だというのだ? あの沢山の味気ない些事(さじ)や、取るに足りない出来事を細々(こまごま)と物語る必要があるだろうか。」


「2 船で」より:

「ついに私は、「ポール・ルメルル大尉号」の切符を手に入れた。乗船の日、鉄兜(てつかぶと)をかぶり、軽機関銃を握りしめた機動部隊の兵士が埠頭(ふとう)を取り巻き、乗船者は、見送りに来た近親や友人たちからまったく遮(さえぎ)られ、兵士たちに小突かれたり怒鳴られたりしながら、別れの言葉もおちおち交してはいられなかった。その兵士たちの人垣をくぐり抜けながら、ようやく私にも事態が呑み込めてきた。そこに始まろうとしていたのは、まさしく乗船者一人一人の孤独な冒険であった。それはむしろ、徒刑囚の出発というべきものであった。」
「「賤民(せんみん)ども」――憲兵はそう呼んでいたが――の中には、アンドレ・ブルトンやヴィクトール・セルジュも含まれていた。この徒刑囚の船をひどく居心地悪く感じていたアンドレ・ブルトンは、甲板に空(あ)いている極めて僅かの部分を縦横(じゅうおう)に歩き回っていた。毛羽立ったビロードの服を着た彼は、一頭の青い熊のように見えた。彼と私とのあいだに、手紙の遣り取りによって、その後も続いた友情が始まろうとしていた。」



「4 力の探求」より:

「旅よ、夢のような約束に充ちた魔法の小箱よ、お前はもうお前の宝を無垢(むく)のまま与えてはくれまい。異常な発育を遂(と)げ、神経のたかぶりすぎた一つの文明によって乱された海の静寂は、もう永久に取り戻されることはないであろう。熱帯の香りや生命のみずみずしさは、怪しげな臭気を発散する腐蝕作用によって変質してしまっている。この腐蝕作用はわれわれの欲求をねじ曲げ、われわれはやっきになった半ば腐った追憶を拾い集めることになるのだ。
 ポリネシアの島々がコンクリートに埋まって、南の海深くずっしりと錨(いかり)を下した航空母艦に姿を変え、アジア全体が病んだ地帯の表情に変り、貧しいバラックの町がアフリカを蝕み、アメリカ大陸やメラネシアの天真爛漫(てんしんらんまん)な森が処女性を破壊されないうちからすでに、商業用、軍事用の飛行によって空から汚されている今日、旅行による逃避と称するものも、われわれの存在の歴史の最も不幸な姿に、われわれを直面させるだけのことしかできないのではないだろうか。(中略)西洋文明の生んだ最も高名な作品――窺(うかが)い知ることのできない複雑さで、さまざまな構造が入念に組み合されている原子炉――の場合のように、西洋の秩序と調和は、今日地上を汚している夥しい量にのぼる呪(のろ)われた副産物の排泄(はいせつ)を必要とするものなのである。旅よ、お前がわれわれに真っ先に見せてくれるものは、人類の顔に投げつけられたわれわれの汚物なのだ。」



「5 過去への一瞥」より:

「探検するということは、広く歩き回ってものを見ることであるよりは、むしろ一つの地点を発掘することである。迂闊に見逃してしまいがちな一つの光景、ほんの小さな景色、飛行中に考えたこと――こうしたものだけが、さもなければ不毛なままの地平を、理解し、解釈することを可能にしてくれる。」


「6 どのようにして人は民族学者になるか」より:

「今になって私は、民族学が研究の対象とする様々な文化の構造と、私自身の思考の構造とのあいだの親近性のために、それとは気づかないうちに私は民族学に心を惹かれたのではなかったか、と考えてみることがある。一定の土地を上手に耕しておき、年毎にそこから収穫を得るような資質が私には欠けていた。私の知能は新石器時代の人間の知能なのである。未開人が耕地にするために草原を焼く火のように、私の知能は、時に未墾の土地を焼くのである。それは、土壌(どじょう)を肥沃(ひよく)にし、そこから大急ぎで何がしかの取入れをするのには恐らく役立つであろう。そしてその後に、荒廃した土地を残すのである。」

「それは、まだ野性的な状態にあったカリフォルニアのインディアン諸部族が殲滅(せんめつ)された中で、唯ひとり、奇蹟的に生き残った一人のインディアンの男の逸話である。彼は何年ものあいだ、大都会の近くで誰にも知られずに、石を打ちかいて矢尻を作り、それで狩りをしながら生きていた。しかしながら、少しずつ獲物は少くなった。或る日人々は、このインディアンが、町の入口で、裸で飢え死にしそうになっているのを見つけた。彼は、カリフォルニア大学の守衛として平穏にその生涯(しょうがい)を終えた。」



「7 日没」より:

「その後、私は何度も同じような船出をすることになったので、私の記憶の中ですべての出発が混り合い、ただ幾つかの思い出が今まで保たれているに過ぎない。まず、南フランスの冬の、あの独特の朗らかさ。ひどく明るい青色をして、いつもよりなお一層質感を欠いて感じられる空の下で、刺すような空気が、喉(のど)の渇(かわ)いた人が冷えた炭酸水をあまり急いで飲んだ時に感じるのに似た、耐え難いような快さを与えていた。これと対照的に、重い異臭が、じっと止まったままの船の中の、煖房の効(き)き過ぎた通路に漂っていた。それは、海の匂いと、料理場や塗りたての油性塗料が発散する匂いの入り混ったものであった。それからまた私は、夜のさなかに、機関の震動と船体が蹴立てる水の音とが聴覚に鈍く伝わって来て、ほとんど静穏な幸福感とでも呼びたいような、満足と安らぎを与えていたことを思い出す。あたかも動いているということが、静止よりもさらに完全な本性を具えた、或る種の安定にまで達していたかのように。夜中に寄港する時には、反対に、静止しているということが、眠っている船客の目を乱暴に覚し、不安で居心地の悪い感覚を惹き起すのだった。それは様々な物事の、もう当り前になってしまった流れが、突然危機に瀕(ひん)したことによる苛立たしさであった。」

「その時、もう習(ならわ)しになりきっている、だがいつもながら知覚できない突然の移行によって、夕暮は夜に席を譲る。すべてのものは、自分の姿が変ってしまっているのに気づく。不透明な空では、残光に照らされた最後の雲が、水平線とその上方では生気のない黄色に、天頂に近づくにつれて青色へと移りながら散らばっていた。だがたちまち、それらは痩(や)せ細り、病み惚(ほう)けた影のようなものに過ぎなくなる。まるで芝居が済んだあと、照明の消えた舞台で、まだ装置を支えている柱のようだった。そのとき人は、装置の貧弱さや脆(もろ)さや、それが仮初(かりそめ)のものだったことなどを突然目(ま)の辺(あた)りに見て、それらが本物の幻想を与えていられたのも、それらの本性によるのではなく、照明や遠近法のちょっとした企みに過ぎなかったのだ、ということを悟るのである。つい先刻まで活(い)き活(い)きとしており、刻々形を変えていただけになおのこと、今それらのものは、大空の直中(ただなか)で、もう変ることのない痛ましい姿に凝固してしまっているように思えるのだった。だが、次第に深まって行く空の暗さは、まもなく、それらのものも空に溶け込ませてしまうはずであった。」



「12 都会と田舎」より:

「サン・パウロの市場で特に興味を惹くもう一つのものは、フィガであった。前腕(ぜんわん)の形をした古くからの地中海地方のお守りをフィガ、無花果(いちじく)と人は呼んでいる。この前腕の端は握りこぶしになっているのだが、親指の先が中央の二本の指の第一指骨のあいだから突き出ている。これはおそらく性交を象徴的に象(かたど)ったものなのであろう。市場で見かけるフィガは、黒檀(こくたん)や銀でできている装身具か、さもなければ、看板のように大きな、ざっと彫って、どぎつい色で様々に塗りたくったものであった。それを私は、町の高台の方に建っている、一九〇〇年代に再現されたローマ様式とも言うべき、黄土色(オーカー)塗りの私の家の天井に、メリー・ゴーラウンドのように吊しておいた。ジャスミンのアーチをくぐって、この家に入ると、裏には古ぼけた庭があって、その隅に私は家主(やぬし)に頼んでバナナの木を一本植えてもらったが、これは、私が熱帯にいるということを否応なしに思い出させてくれた。象徴的なこのバナナの木は、何年か後には小さな森になり、そこで私は穫入(とりい)れをしたのだった。」


「15 群集」より:

「しかしながら、ここで人間らしさを作り出すのには、何と僅かのもので済むことだろう! 見給え、唯ひとり、金物の幾かけらかと彼の道具を並べて、歩道に店開きしている職人がいる。彼は、このささやかな職に精出し、そこから彼と家族の生計を得ている。だが、どんな生計だろう? 吹き曝しの炊事場では、棒の周りに固められた肉片が、熾(おき)火の上で焙られている。乳飲料は円錐形の手鍋の中で煮詰っている。輪切りにした木の葉が、噛み蒟醬(きんま)を包むのに使うために螺旋形(らせんけい)に置かれている。ひよこ豆の金色の粒が熱い砂の中で焦げている。大匙一杯分ずつ大人が買って来るひよこ豆の幾粒かを、子供が一人、鉢の中で玩(もてあそ)んでいる。子供はやがて、しゃがんで食べ始めるが、すぐあとでは、同じ恰好で、通行人にはお構いなく小便をするのである。板造りの茶店では、することもない人たちが、乳で割った茶を飲んで何時間も過している。
 生きてゆくのには、ほんの僅かのものがあれば足りる。なけなしの空間と、食物と、娯楽と、器具や道具。(中略)その代り、そこには魂はたっぷりとある。そのことは、通りの賑いにも目差の強さにも、取るに足らぬ議論の激しさにも感じられる。そのことは、外国人が通りかかった時に見せる、イスラム圏ではよく「サラーム」という、手を額にやる仕草を伴う微笑の慇懃(いんぎん)さにも表れている。ほかにどうしたら、これらの人々が宇宙に座を占めているその気楽さを解釈することができよう? まさしくここに、祈禱用の絨緞(じゅうたん)が世界を表象する文明が、地面に描かれた四角形が礼拝の場所を設定する文明がある。彼らはそこにいる。道の真ん中に、めいめいが自分の小さな店を拡げ、蝿と通行人と喧騒の中で、落着いてめいめいの仕事に精出している。髭剃(ひげそ)り、代書屋、髪結い、細工師。耐えていられるためには、超自然との、極めて強く、極めて個人的な結び付きが必要であろう。そして世界のこの地域の、イスラムや他の宗教の秘密の一つも、恐らくは、めいめいがその神の前にいることを、絶えず自覚していることのうちに存しているのであろう。
 カラチに近い、インド洋に面したクリフトン・ビーチを散歩した時のことを私は思い出す。一キロも続く砂丘や沼の果てに、暗い色の砂の、長い浜に出る。その日は人影もなかったが、祭りの日には、主人たちより派手に着飾った駱駝の牽(ひ)く車で、大群集が押し寄せるという。大洋は白っぽい緑色をしていた。太陽が沈もうとしていた。逆光を受けている空の下で、砂と海から光が来るように思われた。ターバンを巻いた老爺がひとり、串焼肉(ケバブ)を焼いている近くの店から借りて来た鉄の椅子を二つ使って、即席で自分用の小さなモスクを拵(こしら)えた。砂浜に唯ひとり、彼は祈っていた。」



「16 市場」より:

「この土地のすべては、異常な甘美さに包まれている。ヒヤシンスで青味を帯びたこの植物の緑の中や、サンパンの行き交う沼や流れの水の中には、人の心を鎮め、眠り込ませるような何かがある。インド菩提樹(ぼだいじゅ)が蔓延(はびこ)ったために崩れてゆく赤煉瓦の古壁のように、人は喜んで自分を腐るに委せるかもしれない。
 しかし同時に、この甘美さには不安の影が付き添っている。この風景は正常ではない――水が多すぎるのだ。」



「19 ナリーケ」より:

「ところが、たちまち狭い谷間に入り込んだ。そこは背の高い草が生い茂っており、馬は骨折って道を開きながら進んだ。前進は沼地の泥(どろ)のために、なお一層骨が折れた。馬は足を取られ、もがき、堅い地面を探り当ててこれに取り付いた。するとまた、私たちは繁茂する植物に囲まれているのに気付くのだった。そんな時には、見掛けは何事もない一枚の葉の裏に、壁蝨(だに)の群れが作っている卵形のものが、蠢(うごめ)きながら垂れ下っていないかどうかに気をつけなければならない。橙色の無数の小動物が、着ている物の下に潜り込み、流動する布のように体(からだ)を包んでこびり付いてしまうのである。犠牲者にとって唯一の対策は、壁蝨の先を越して馬から飛び降り、着ているものをすっかり脱いでそれを力まかせに振るい、一方で、皮膚に虫が取り付いていないか、連れの者に調べてもらうことである。これほど大騒ぎにはならないが、一匹ずつ離れている太った鼠色の寄生虫が、皮膚に何の痛みも感じさせずに取り付いていることがある。手が触れて初めて虫がいたことに気づくのだが、何日か後には体全体が腫(は)れあがって、小刀で切開しなければならなくなる。」

「子供たちが木彫りの小像を手にしているのを見ることもあった。(中略)しかし別の像は、(中略)何人かの老女が籠の奥に大事そうに仕舞い込んでいる。それは玩具だったのだろうか。神像だったのか。あるいは祖先を表したものだろうか。(中略)現在、〔パリの〕人類博物館にある幾つかのものについては、宗教的な意味があることは疑いない。というのは、私たちはそれらの像の一つには双生児の母親を、他の一つのものには背の低い老人を、それぞれ認めることができるからである。この老人は地上に降りた神で、人間に虐待されたために人間を罰したが、彼を庇護した一家族だけは罰しなかったという。一方、このように聖物(サント)を無造作に子供たちに与えてしまっている状態を信仰の零落(れいらく)と看做すのは、あまりに安易な見方であろう。(中略)この状態の解釈は、(中略)むしろ聖と俗との関係の考え方――それは、われわれが思い込みがちなものより、もっと両者の区別が曖昧なものである――の中に求めなければならないのであろう。聖と俗の二者を対置させることは、人が好んでそう見なしたがるほどには、絶対的なものでも持続的なものでもないのである。」



「20 原住民社会とその様式」より:

「原住民は宣教師たちに向って訊ねた。「なぜ、あなたがたはそんなに愚かなのか」。「なぜ、われわれが愚かなのか」、宣教師たちは反問した。「なぜなら、あなたがたは、(中略)体に絵を描いていないからだ」。人間であるためには、絵を描いているべきであった。自然の状態のままでいる者は、禽獣(きんじゅう)と区別がつかないではないか。」
「堕胎や嬰児(えいじ)殺しの慣習と同様、ムバヤ族は彼らの顔を塗り飾ることによって、自然に対する一つの恐怖を表しているのである。この原住民の芸術は、神がわれわれを初めに造り給うた材料であるという、粘土への最高の侮蔑(ぶべつ)を表明している。この意味で、原住民の芸術は罪と境を接している。サンチェス・ラブラドールは、イエズス会の宣教師としての観点から原住民芸術の中に悪魔を見抜いたという点で、奇妙に鋭いものを示している。原住民が星の形をしたモティーフで体を覆う技術について彼が叙述する時、彼自身、この未開芸術のプロメテウス〔ギリシア神話で、ゼウスに反逆して人間のために天から火を盗んだ神〕的側面を強調している。」
「顔の塗飾は先ず、個人に人間であることの尊厳を与える。それは、自然から文化への移行を、「愚かな」動物から文明化された人間への移行を果すのである。次に、カーストによって様式も構成も異なるこの塗飾は、複合的な社会における身分の序列を表現している。このようにして顔面塗飾は、或る社会学的機能をもっているのである。」







こちらもご参照ください:

レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 下』 川田順造 訳
佐々木喜善 『遠野のザシキワラシとオシラサマ』 (宝文館叢書)
宮田登 『江戸の小さな神々』
ラフカディオ・ハーン 『日本の面影』 田代三千稔 訳 (角川文庫)
レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (上)』 山田吉彦 訳 (岩波文庫)























































丸山圭三郎 『ソシュールの思想』

「ソシュールの学問にとっては、広く浅い総花的知識と、深く狭い専門馬鹿的研究といった対立は存在しない。深く特殊化すればするほど、その掘り下げる道は広くなり、ついには地下水の如きエピステーメーに達するのであり、資料体(コーパス)の量がいかに多くとも、タクシノミー的方法にたつ限り、データ外の予見が不可能であるという、のちの科学経験主義的学問に対する批判でもあった。」
(丸山圭三郎 『ソシュールの思想』 より)


丸山圭三郎 
『ソシュールの思想』



岩波書店 
1981年7月15日 第1刷発行
1985年11月20日 第8刷発行
xvii 352p+32p 
A5判 並装(フランス表紙) 
機械函
定価3,600円



本書「まえがき」より:

「ソシュールの思想はさまざまな変奏の形をとるとはいえ、絶えずその底にはくり返し一つの主旋律が流れている。それは本来的に自由であるはずの人間が自らの手で非自由の世界を創り出し、その世界の虚像性に脅え真の実践の意味を見出せずにいる人間に、再び自由への道を奪回させようという営みであり、文化の中に自然法則的絶対性を見る幻想を打破することであり、バルト風に言えば、私たちから収奪されたコトバを再び「盗み」返すプロメテ的冒険への誘(いざな)いである。ソシュールは「開け、胡麻」を唱えてあまりにも早く世を去った。その宝庫の発掘は私たちに残された大きな義務の一つではあるまいか。」


本文中図版(モノクロ)5点。章扉図版(モノクロ)3点。

でてきたのでひさしぶりによんでみました。



丸山圭三郎 ソシュールの思想



本体そで文:

「ソシュールの思想
近代言語学の父、ソシュール。だが広く流布したその像をこえて、彼の仕事は何処に全体像を結ぶのか。言語機能と人間精神の関係への多様な思索は、人間諸科学の方法論と認識に実体(引用者注:「実体」に傍点)概念から関係(引用者注:「関係」に傍点)概念へというパラダイム変換を促し、構造主義以降現代まで、20世紀後半の思想の共通基盤を造った。本書は「一般言語学講義」原資料に拠って、原初の記号理論と思想の本質を明らかにする。精密な実証的裏付けと、神話やアナグラム研究の初の紹介とは、ソシュール研究の決定版として今後の眺望を拓くことになろう。」



目次:

まえがき

Ⅰ ソシュールの全体像
 第一章 ソシュールの生涯とその謎
  1 家族と幼年時代(一八五七―一八六九)
  2 処女作「諸言語に関する試論」と《鳴鼻音》の発見――中等学校時代(一八六九―一八七五)
  3 『覚え書』と学位論文――大学時代(一八七五―一八八〇)
  4 パリ時代(一八八〇―一八九一)
  5 ジュネーヴ時代(一八九一―一九一三)
 第二章 『一般言語学講義』と原資料
  1 ソシュール批判
  2 『講義』の成立事情と、原資料
 第三章 ソシュール理論とその基本概念
  1 言語能力と社会制度と個人
   ランガージュとラング
   ラングとパロール
  2 体系の概念
   価値体系としてのラング
   連辞関係と連合関係
   共時態と通時態
  3 記号理論
   言語名称目録観の否定
   シニフィアンとシニフィエ
   形相と実質
   言語記号の恣意性
   記号学と神話・アナグラム研究
 註

Ⅱ ソシュールと現代思想
 第一章 ソシュールとメルロ=ポンティ――語る主体への還帰
  1 ムーナンのメルロ=ポンティ批判
  2 コトバの非記号性
  3 経験主義批判
  4 主知主義批判
  5 真の命名作用
 第二章 ソシュールとテル・ケル派――貨幣と言語記号のアナロジー
  1 ソシュールの用いた比喩
  2 テル・ケル派の解釈と批判
  3 ラングの価値とパロールの価値創造
 第三章 ソシュールとバルト――記号学と言語学の問題をめぐって
  1 バルト批判
  2 ソシュールの記号学
  3 《原理論》としての記号学と、《構成された構造》の記号学
 第四章 ソシュールとサルトル――言語の非記号性と意味創造
  1 非記号の記号化と、記号の非記号化
  2 言語に内在する意味
  3 外示(デノテーション)と共示(コノテーション)
 註

Ⅲ ソシュール学説の諸問題
 第一章 ラングとパロールと実践
  1 ラング概念の多様性
  2 パロール概念に見られる矛盾
  3 《構成された構造》と《構成する構造=主体》
  4 《構成原理》の次元
  5 個人的実践とパロール
 第二章 シーニュの恣意性
  1 パンヴェニストのソシュール批判
  2 外的必然性と記号学的恣意性
  3 分節言語の自立性と恣意性
 第三章 言語における《意味》と《価値》の概念
  1 二重のソシュール現象
  2 『講義』自体に見出される疑問点
  3 ビュルジェの仮説
  4 二つの実現
  5 価値と意義(シニフィカシオン)と意味(サンス)
 註

参考文献
ソシュール手稿目録
ソシュール著作目録
事項索引
人名索引




丸山圭三郎 ソシュールの思想 02



◆本書より◆


「ソシュールの生涯とその謎」より:

「デュショザル Duchosal もその思い出のなかで、「ソシュールは白墨を手にして教室に入るや否や、一度も腰かけることなく、一切ノートに頼らずに、大きな黒板をありとあらゆる種類の単語で埋めつくした」と書いている。そして説明の合間には、「時として高窓から視線を空に向け、忘我の境に陥ること」も少なくなかったという。」
「一九〇〇年前後からはスイス・ロマンド地方およびスイス近隣のフランス領における方言研究やブルグンド族の研究に身を入れたり、ニーベルンゲンの詩に代表されるいくつかの伝説、神話の研究にもとりかかった。前者の俚言調査に関してはあまり知られていないので、ちょっとしたエピソードを紹介しておくのも無駄ではないかもしれない。或る日のこと、この高名な言語学教授は、フランスの片田舎でスパイと間違えられ大いに迷惑したことがあったのである。この小さな事件は、ソシュールの俚言調査ノートに日付入りで記されている。
                     一九〇一年十一月二十日
   セニー〔ジュラ山脈のふもとにあるフランス領 Segny〕にて俚言の調査中、そこの道路工夫からスパイ活動容疑で告発された。まもなく噂は宿屋中にひろまり、上記の語を私に提供した道路工夫は、「つい話に引きずりこまれちまったんだ。知らぬ間に祖国を売り渡していたようなもんだ」とくりかえす。
   彼らは、ほとんど脅かすようにして立ち去る。「お前さんは許可を貰っているのかね?」という質問である。「お前さんは百姓をまるきりの薄馬鹿だと思ってるだろうが、もしここに田園監視員がいたら、お前さんの身分証明書を無理矢理にでも出させてやるんだが。」
 ソシュールの受けたショックはかなり大きなものだったらしく、すぐさま村長あてに弁明の手紙を書いており、その下書きは今でも保存されている。」

「さて、右にそのおおよそを見て来たジュネーヴ時代には、どのような問題が潜んでいるのであろうか。それはまず第一に、パリ時代の生き生きとした生産的ソシュールと対比される謎の沈黙であり、あるいはたまにその沈黙を破る言葉があるとすれば、知的絶望感の表白でしかない沈痛な表情のソシュールである。
   かなり早い時期に沈黙の中に消えていった彼の人生をめぐっては、いささかの謎がある。……この沈黙は一つのドラマを秘めていて、そのドラマは苦痛に満ちたこのであったらしく、年とともに重くのしかかり、出口を見出すこともできないものであった。
   彼の晩年の風貌は、威厳を保ちながらも少し疲れたような、年老いた貴人の品位を感じさせるものであり、その夢みるような、不安なまなざしの中には問いかけがあって、彼の人生はその後この問いかけの上に自らを閉ざしてしまうのであった。
 ソシュールがその沈黙を破るのは、時折パリ言語学会や友人たちの記念論文集に寄せるかなり短い研究ノートぐらいのものであった。しかしこれも一八九四年の東洋語学者会議での口頭発表を最後に、あとは深い沈黙の世界に閉じこもる。」



「ソシュール理論とその基本概念」より:

「このようなごく身近な日常の言語現象への疑問から出発して、ソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化の能力およびその諸活動をランガージュ langage とよび、個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラング langue とよんで、この二つを峻別した。前者はいわば《ヒトのコトバ》もしくは《言語能力》と訳せる術語で、これこそ人間文化の根柢に見出される、生得的な普遍的潜在能力である。まことに、ヒトが homo faber であり homo sapiens であるためには、まず homo loquens である必要があったし、ランガージュの所有は、その間接性、代替性、象徴性、抽象性によって人間の一切の文化的営為を可能にせしめた。レヴィ=ストロース Lévi-Strauss は、自然と文化の境界線を《道具》の存在の中に見る従来の定説をくつがえし、《コトバ》の所有のうちにこそ、人間の真の飛躍があると言っているが、この考え方はソシュールの次の発言に照応している。
   ランガージュは、人類を他の動物から弁別するしるし(引用者注:「しるし」に傍点)であり、人類学的な、あるいは社会学的といってもよい性格をもつ能力と見做される。
 これに対して、ラングは一応《言語》という訳があてられる概念で、ランガージュがそれぞれの個別の社会において顕現されたものであり、その社会固有の独自な構造をもった制度である。(中略)ランガージュは自然に対置された人間文化 la culture の源であり、ラングは社会との関係において歴史的、地理的に多様化している個別文化 les cultures にあたるのである。」

「さて、ソシュールがランガージュとラングを峻別した視点に立つ限り、前者は潜在的(引用者注:「潜在的」に傍点)能力であるのに対し、後者は顕在的(引用者注:「顕在的」に傍点)社会制度であった。ところが、この顕在性も、決して物質性を表わすものではない。つまり社会制度としてのラングは、社会的実現という意味で顕在化していても、決して具体的・物理的な実体ではない。これは、母国語であれば幼年期に、第二言語であればもっとのちに個人の頭脳に作られる心的な構造であって、人々はこれによって自己の生体験を分析し、発話の際に必要な選択と結合を行うことが可能になる。すなわち、ある特定の言語にあっては、音声の組み合わせ方、語の作り方、語同士の結びつき、語のもつ意味領域等々には一定の規則があり、この規則の総体がラングであって、これはいわば超個人的な制度であり条件である。そうすると、現実の発話に現われる個々の言語行為とラングとを同一視することはできない。ソシュールが、特定の話し手によって発話される具体的音声の連続をパロール parole とよんでラングと区別したのは、右のような考えからであった。したがってラングとパロールの区別という視点に立つと、今度は前者が潜在的(引用者注:「潜在的」に傍点)構造であり、後者はこれを顕在化(引用者注:「顕在化」に傍点)し具体化したものと言うことになろう。」

「ソシュールにとっては、言語は社会的産物であると同時に歴史的産物以外の何物でもなく、換言すれば全くの人為(引用者注:「人為」に傍点)であり、文化の産物であり、恣意的価値体系なのである。」

「我々の生活世界は、コトバを知る以前からきちんと区分され、分類されているのではない。それぞれの言語のもつ単語が、既成の概念や事物の名づけをするのではなく、その正反対に、コトバがあってはじめて概念が生れるのである。たとえば、「牛」はフランス語では boeuf、英語では ox と呼ばれているから、第二の言語を学習することは、すでに知っている事物や概念の新しい呼び名を学ぶことであり、すべての概念は各言語に共通していると考えがちである。ところが、「牛」と bœuf と ox とは、それぞれに異なった意味範囲をもつ概念であり、それぞれの語が生れる以前は存在しなかった概念なのである。フランス語の bœuf は ox ばかりか beef をも包摂しているし、また例えば日本語の「木」は、机などを作っている材料でもあれば、庭の青々とした樹木でもあるが、英語では前者が wood、後者が tree だることは中学生でも知っている事実である。それでは材木の意味の「木」と wood が完全に重なりあう概念であるかというと、これもそうはいかない。wood には「森」という意味も含まれているからである。
 それぞれ「犬」と「狼」という語で指し示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならぬという必然性はどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして神羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。親族構造にしても、父母、祖父母、叔(伯)父母、兄弟、姉妹、子、孫、等々という概念は実に自然なもので、いかにも言語外にある血縁関係を反映しているように思われる。ところが、ヴァイスゲルバーの報告によれば、オーストラリア中部のアランタ族の言語の purula という語は「①父方の祖母の兄弟、②母方の祖母の兄弟の娘の息子、③自分の姉妹の息子の息子」を合わせたものを指し、ngala という語は、「①母方の祖父、②母方の叔父の息子、③自分の姉妹の息子」のいずれをも指すという。また、我々にとって、太陽光線のスペクトルや虹の色が、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色から構成されているという事実ほど、客観的で普遍的な物理的現実に基づいたものはないように思われる。ところが、英語ではこの同じスペクトルを purple, blue, green, yellow, orange, red の六色に区切るし、ローデシアの一言語であるショナ(Shona)語では(中略)三色、ウバンギの一言語であるサンゴ(Sango)語では vuko と bengwbwa の二色、リベリアの一言語であるバッサ(Bassa)語でも、hui と ziza の二色にしか区切らないという事実は何を物語っているのであろうか。言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。
 さらには同一言語を用いている人々ですら、はたしてどこまで同じプリズム、同じゲシュタルトを通じて現実を見ているか、という問題も残るであろう。ムーナンも指摘しているように、「樹木一般しか知らず、何でも木と呼ぶ都会人は、柏、クマシデ、ブナ、ハンノキ、樺、栗、トネリコを区別して知っている農夫と同じゲシュタルトを通じて世界を見てはいない」からである。この問題は、(中略)ここでは、「コトバは認識のあとにくるのではなく、コトバがあってはじめて事象が認識される。もしくはコトバと認識は同一現象である」という命題を提起するにとどめておこう。」
「ソシュール以前は、コトバは《表現》でしかなく、すでに言語以前からカテゴリー化されている事物や、言語以前から存在する純粋概念を指し示す道具と考えられていたが、ソシュール以後の考え方では、コトバは《表現》であると同時に《意味》であり、これが逆に、それ自体は混沌たるカオスの如き連続体に反映して現実を非連続化し、概念化するということになる。たとえば、「愛」という一般的普遍的純粋観念があらかじめ存在していて、日本人が「愛」、フランス人が amour、英米人が love というラベルを貼るのではなく、異なったいくつかの精神的態度の多様性を集めて一つの概念とするのは、この語があってはじめて可能となる。言語に先立つ観念はなく、言語以前には、何一つ明瞭に識別されない。」

「言語記号が表現と意味を同時にもつ二重の存在であることがはっきりしたため、ソシュールは前者をシニフィアン signifiant、後者をシニフィエ signifié と名づけた。」
「周知の如く、シニフィアン、シニフィエともに signifier (意味する)という動詞のそれぞれ現在分詞と過去分詞から作られており、前者の直訳は「意味するもの」、後者の直訳は「意味されるもの」である。我国における定訳は、長い間小林英夫氏の「能記」、「所記」であったが、著者らはその意味を勘案して「記号表現(シニフィアン)」、「記号内容(シニフィエ)」と訳したこともある。いずれにせよ、ソシュールがこの用語を最終的に用いた理由は、二つの項の相互依存性を強調したかったからにほかならず、他の用語では、別々の存在である二項が結合して記号(シーニュ)を構成するかの如き誤った考え方に立つ危険性があると考えたからであろう。」

「第一の点は、シニフィアン、シニフィエの相互依存性である。」
「第二に、これは第一の相互性の論理的必然として、シニフィアン、シニフィエの不分離性を挙げることができるだろう。」
「第三の点は、両者ともに心的存在でありラング内の要素であって、前者を言語外現実ないしは指向対象だとか、後者を物質音だなどと考えてはならないことである。たとえば、日本語の「ヤマ」という音声が「山」のシニフィアンで、言語外現実の山が「山」のシニフィエだなどと考えてしまうことは大きな誤りであり、言語命名論への逆もどりである。」

「くり返し述べるように、言語は一つの自立体系であって、その辞項の価値は言語外現実のなかに潜在的に存在する価値が反映しているのではない。その区切り方の尺度は、あくまでもその言語社会において歴史的・文化的に定められたものであり、自然法則にはのっとっていないのである。」

「そもそもアナグラムとは「一語あるいは一文中の数語の文字の配置を変えて、その文字が全く違う意味をもった他の一語または数語を構成するようにすること」の謂(いい)である。(中略)ソシュールはこの技法を慣習的・閉鎖的言語コードと記号関係の制約からの逃避もしくは解放とみなし、神話的思考が既存のイメージを用いたブリコラージュであるのと同様に、詩人たちはまさしく神話的思考がそのイメージの体系を構成するようなやり方で詩作するのではないかと考えたのである。当然ソシュールのアナグラムは単なる文字表記上の変綴ではなく、その音的要素の転倒やちりばめが問題となる。(中略)ソシュールがおそらく出版を頭において書いたアナグラム研究の手稿のうち、「前置きとして読むべき第一のノート」という題を付された用語法によると、
 アナグラム anagramme (キー・ワードがいくつかの単音に分けられて散在するもの)
 アナフォニー anaphonie (右の不完全な形)
 イポグラム hypogramme (キー・ワードがいくつかの複音に分けられて散在するもの)
 パラグラム paragramme (キー・ワードがアナグラムよりも広い範囲、すなわちテクスト中に隠れているもの)
の四種に分けられた。(中略)また、アナグラムの前後には、キー・ワードの頭音と末音から成る特定の語群が存在し、ソシュールはこれを《主座 locus princeps》とか《マヌカン mannequin》と呼び、アナグラム出現の指標と見做したのである。」

「ソシュールが達した一応の結論は、文学作品の諸語は先行する他の諸語から生成され、詩の背後に存在するものは、コトバを生み出すコトバ、テクストを生み出す前(プレ)テクストである、ということであり、(中略)言語の既成性を逆手に用いた新たなる関係の樹立であった。」
「そしてこのアナグラムによる言語破壊活動は、少なくとも次の諸点において従来の詩的言語観を超えるものであった。すなわち、これまでのレトリックの最大の焦点は、連合軸からの特異な《選択》によるメタフォールと連辞軸の特異な《結合》ないし《脱落》によるメトニミー的手法の相乗作用から生れる両義性に当てられていたが、ソユールのアナグラム研究によって浮彫りにされたものは、コトバの二つの基本原理である①シニフィアンとシニフィエの相互依存性と、②シニフィアンの線状性自体の破壊であり、(中略)これは詩的言語研究に未曾有の展望を拓くものなのである。②に関してのみ言えば、マラルメの「骰子の一擲」やアポリネールの「カリグラム」で試みられたと言えるかも知れないが、ソシュールにおいては、そういった活字の大小とか絵画化という《実質》の次元ではなく、《形相》の次元においてシニフィアンと連辞(サンタグム)の単線を複線化し、語の下に語を潜ませることによって音楽の如きポリフォニー化の可能性が指摘されたことに注目すべきである。換言すれば、この新しい手法によって、エクリチュールとレクチュールの二重性のもとに線的展開が対位法的な空間の場に変えられるのであり、更には一連の神話研究によって明るみに出された前述のブリコラージュの発展として、エクリチュールともう一つのエクリチュールの二重性、すなわち同時代や前の時代の文化のコンテクストという複数のテクスト間の対話をも示唆しているのである。こうしてディスクール活動は単に既成の語を新たな関係のもとに置くのみならず、記号化したコトバが閉じこめられている線(引用者注:「線」に傍点)的世界から空間(引用者注:「空間」に傍点)へ、そして空間から時間(引用者注:「時間」に傍点)へと次元を広げることによって言語を破壊し、言語化以前の欲動の世界(自然)と「構成された構造」(文化)の間を絶えず上向・下向運動を繰返しながら、クリステーヴァの言うル・セミオティークの再活性化によってル・サンボリークな体系の再布置化を可能にさせるものとなる。ソシュールの考えたコトバの本質は、まさにこの《意味形成性の運動過程》にほかならないからである。そうしてみると、ソシュールを挫折させたかに見えた詩人側の無意識性の問題も、アナグラム理論の否認どころか、コード違反によって得られるパラグラム的読解というレクチュールの視点のもとに、コトバと無意識の領域の法則に新たな照明が当てられる契機となったと言えるかも知れない。」



「言語における《意味》と《価値》の概念」より:

「一方から見れば、《意味》は《意義》に依存し、《意義》は《価値》から生まれるのも事実であるが、パロール活動によって産出される大きなシーニュは、「既成のものによってつくられたかつて存在しない関係」という逆説をはらむ言表であり得るのであるから、そこから生まれる《意味(サンス)》は、逆に《意義》の中心をずらし、改変させ、それらの《意義》が今度は《形相としてのラング》における関係をずらし、《価値》自体を変革する可能性も存在する。真の言語における創造性は、ソシュールのシーニュ理論自体の中に見出されるのである。」







こちらもご参照ください:

丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
佐竹昭広 『古語雑談』 (岩波新書)
ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)














































































丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)

「まことに、(中略)謎の沈黙が始まった一八九四年頃から科学的言語学に絶望して一切の出版活動を停止し、交霊術にのめりこんで、古代インドの王女とマリー・アントワネットと火星訪問者の三つの経験を同時に生きたエレーヌ・スミスなる女性の報告する〈火星語〉の分析に没頭した(T・フルールノワ『インドから火星へ』)後期ソシュールは、自らの内部に狂気、妄想、戦慄(おののき)があふれるような詩人でもあった。」
(丸山圭三郎 『言葉と無意識』 より)


丸山圭三郎 
『言葉と無意識』
 
講談社現代新書 871 


講談社 
昭和62年10月20日 第1刷発行
昭和62年12月8日 第3刷発行
232p 
新書判 並装 カバー
定価530円
装幀: 杉浦康平+赤崎正一
カバーカット: 荒川修作 “Webster's New Twentieth Century Dictionary”



本書「プロローグ」より:

「明晰(めいせき)にして合理的な言葉、その指示する対象が一つしかない〈信号〉のような言葉が一方にあるとすれば、二重三重の意味をはらみ、確たる対象をもたない〈象徴〉のような言葉が他方に存在するように見えないこともない。しかし私には、数学と神話、物理学と詩のいずれをも表すために用いる言葉は、二つであるように見えて実は一つであると思われる。それは光の秩序を維持するための〈道具としての言葉〉であると同時に、闇の豊饒(ほうじょう)から立ち昇る〈情念の言葉〉でもあるのだ。」
「文化とは、一面こそ秩序と制度からなるディジタルな二項対立の網であっても、同時にアナログな生命の波動でもある。私たちは二千数百年来西欧において支配的であった〈言語〉の桎梏(しっこく)を脱して、もう一度流動的な言葉と文化の問題をとらえなおさねばならないだろう。
 これはまた、意識の表層における言語風景から、意識の深層における言葉の風景へと錘鉛をおろす営(いとな)みだと言えるかもしれない。」
「言葉の探究を意識の深層にまで掘り下げることによって、私たちは文化の底に潜んでいる流動的な力に気づかされる。(中略)言葉とは、意識の表層における三段論法や演繹(えんえき)にもとづく説得の道具(引用者注:「道具」に傍点)だけではなく、人間と人間、人間と万物の交感を可能にする器官(引用者注:「器官」に傍点)でもあるのである。
 とは言っても、あたまから西欧の考え方を否定して東洋の神秘主義に立ち戻ればいいというのではない。私たちは西欧文化を知ることによって自らの文化を相対化するとともに、東洋の叡知(えいち)をテコにして西欧的価値観をも多元化すべきなのではないだろうか。」
「本書は右のような考え方から書き下ろされた小論である。全体は五つの章から構成されているが、その主旋律は、私たちの身(み)を縦に貫く〈意識〉の重層性と、言葉が生み出した〈無意識〉の非人称的な時・空をめぐって奏(かな)でられる。」



本文中図版(モノクロ)10点、図4点。章扉図版(モノクロ)5点。



丸山圭三郎 言葉と無意識 01



カバー文:

「深層のロゴス・アナグラム・生命の波動

現代思想の問いは、
言葉の問題に収斂(しゅうれん)する。
世界を分節し、文化を形成する
「言葉」は無意識の深みで、
どのように流動しているのか?
光の輝き(ロゴス)と闇の豊饒(パトス)が混交する
無限の領域を探照する
知的冒険の書。」



カバーそで文:

「言葉の力――ロゴスとしての言葉は、
すでに分節され秩序化されている事物にラベルを貼りつけるだけのものではなく、
その正反対に、名づける(引用者注:「名づける」に傍点)ことによって異(い)なるものを一つのカテゴリーにとりあつめ、
世界を有意味化する根源的な存在喚起力としてとらえられていたことになる。
くだいて言えば、私の「頭」と魚の「頭」、私の「脚」とテーブルの「脚」は、
それぞれ「頭」と「脚」という言葉によって同じカテゴリーに括られていくのである。
――本書より」



目次:

プロローグ
Ⅰ 情念という名の言葉――ロゴスとパトス
  ●頭と気持●
 1 ロゴスと言葉
  ハイデガーの言語観
  カタログに整理する
  神(エホバ)の言葉とアダムの言葉
  言霊(ことだま)の力
  電車は人間か、人形か?
  ヘレン・ケラーの“最初の一語”
  語る=聞く、書く=読む
  〈読む〉ことは〈創る〉ことである
 2 属性と考えられたパトス
  文化と自然の対立
  〈生ける自然〉観
  歴史的産物としての〈子供〉
  文化化された自然
  情念と受苦
  身体に原因する心の乱れ
 3 ロゴスの重層性
  左脳と右脳
  表層意識と深層意識
  パトスも言葉である
  非人称的活動
  ペーソスとユーモア
  光と闇の文化
  パトスとは〈思ふ〉こと
  影のパトス
Ⅱ ソシュール・人と思想
  ●ソシュールの言語革命●
 1 西欧における言語観の変遷
  ソシュール以前
  契約か、真理の黙示か
  サンスクリットの発見
  音変化の法則に例外なし
  形而上学と科学に共通するアポリア
 2 ソシュールの生涯
  自然科学者と詩人の血を引くフェルディナン
  ライプツィッヒ留学の俊英
  謎の沈黙
  幻の書物
  三回にわたる一般言語学講義と死
 3 一般言語学理論
  『講義』の成立事情
  言語能力と社会制度と個人の実践
  言葉による二重の疎外
  〈体系(システム)〉というキー・コンセプト
  〈現前の記号学〉批判
  記号とは何か
  共同幻想としての文化
  自存的意味の否定
  表層言語=ラング、深層の言葉=ランガージュ
Ⅲ アナグラムの謎
  ●二人のソシュール●
 1 アナグラムとは何か
  文字の入れ換えによる〈言葉遊び〉
  歌織物としての「百人一首」
  水無瀬の里の景観
  亡びゆく王朝への挽歌
 2 詩法としての〈音〉の法則
  古代ローマのサトゥルヌス詩
  従来の詩法――律動(リズム)と諧調(ハーモニー)
  畳韻法(アリテラシオン)ではない音の法則
  アナグラム研究の事実経過と原資料
  現実か、空想の産物か
  パスコリへの手紙
  パラグラム概念の重要性
  アナグラムの具体例
  暗号文(クリプトグラフ)としてのアナグラム
  ソシュールの確信
  浮かび上がる関係者の名前
  フランスの詩に現れたアナグラム
  神話的思考としての詩作
  伊勢物語の“かきつばた”
 3 深層意識の働き
  音楽の双生児
  意識的か、偶然か
  言語=意識の深層
  詩人たちの証言
  〈間テクスト性〉と意味生成
  〈本歌取り〉も間テクストの一種である
  引用の無限の連鎖
  言葉と言葉はエロティックな恋をする
  テクストの裏側に潜む力
  アナグラムとポリフォニー
  謡曲の声や能管の音色の幽玄
 4 複数の主体〈私〉=〈他者〉
  語るものは誰か?
  非人称的空間――マラルメ、ヴァレリー、ニーチェ、アルトー
  私はもう一人の他者である
  〈意味〉の不在
  イエスと葉巻とセックス
Ⅳ 無意識の復権
  ●心の奥にかくれているx●
 1 非合理的なもの
  既視現象・無意識的想起・集合的無意識
  〈光〉の文化としての西欧の伝統
  〈気〉と〈影〉をめぐって
  東洋の優等生たち
  表層の言葉(ロゴス)=ラングのみを対象とする学問
  東洋の言語思想
  唯識派の〈アラヤ識〉
 2 無意識と身体
  理性は万人の狂気である
  精神分析学の登場――フロイトとユング
  無意識は本能的なものか?
  ヒトと動物の間
  ゲシュタルトとは何か
  二つのゲシュタルト
  過剰なシンボル化能力とその所産
  同類殺しをする動物
  逆ホメオスタシス
  言分(ことわ)けられた身(み)
 3 人間存在の重層性
  自覚せざる精神分析学者・ソシュール
  出来事(エヴェヌマン)としての言葉
  ラング=ランガージュと意識=下意識
  言葉の産物である〈無意識〉
  欲動は言葉の産物か?
  カオス・コスモス・ノモス
  コスモスとランガージュの世界
  〈カオスモス〉の現出
  意味化の円環的運動
Ⅴ 文化と言葉と無意識
  ●金(かね)と性(セックス)と死●
 1 心身を蝕む〈物(もの)〉信仰
  貨幣は言葉である
  価値は関係から成立する
  関係が〈物〉を生み出す
  人間の性(セックス)も言葉である
  想像力が生み出す性感
  動物も神も羞恥しない
  自我の崩壊がもたらす羞恥の苦痛と快楽
  関係の産物であるエロティシズム
  〈死〉も言葉である
  最初の神秘である〈死〉の目撃
  人間は二度〈死〉を体験する
  動物は死なない
  万人が〈心の病い〉にかかっている
  管理社会とストレス
 2 無意識の解放
  科学という〈物神〉
  脳死判定と臓器移植
  〈正常〉〈異常〉とは何か
  マーラーの音楽と狂気
  〈表層のロゴス〉の産物
  臨床心理学の治療は抑圧でしかない
  〈カタルシス〉精神療法の効用と限界
  〈昇華〉という存在喚起作用
  〈知る〉ことは〈創る〉喜びをもたらす




丸山圭三郎 言葉と無意識 02



◆本書より◆


「Ⅰ 情念という名の言葉」より:

「古代から名称にまつわる神話や伝説は少なくない。たとえばエジプト神話には、太陽神ラーがそれまでひたすら隠していた本名を女神イシスに知られてしまったために、イシスがその力を奪って全能となる話がある。イギリスの民俗学者・J・G・フレーザーによれば、現代でも、オーストラリア南部に住むユイン族にあっては、父親は入団儀式の際に息子にだけ自分の名を打ち明けるが、他の人びとには隠し続けるという。
 また、その名を口にすると危険な動物が出て来て害をなすことを恐れるあまり、熊のことを「蜜蜂」(スラヴ語)とか「褐色のもの」(古代高地ドイツ語)という仮(かり)の名で呼んだ慣習も珍しくない。これはすべて「名が対象と同じ力をもつ、もしくは対象を出現させる」という言霊(ことだま)思想であり、アッカド語では「存在する」と「命名する」とはシノニムなのである。」
「世界のロゴス化とは、それまで分節されていなかったマグマの如き生体験の連続体に区切りを入れて、これを観念なり事物なりのカテゴリーとして存在せしめることなのである。(中略)同じ名づけ(引用者注:「名づけ」に傍点)と言っても、カテゴリー自体を生み出す命名作用(世界の分節)のような一次的機能と、生まれた犬に「ポチ」と名づける二次的命名作用(ラベルの貼付)としての機能の二つがあるのである。第一の命名作用について、フランスの現象学者・メルロ=ポンティは次のように言っている。

  「事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである」(『知覚の現象学』)。」



「Ⅱ ソシュール・人と思想」より:

「フランスの言語学者・E・バンヴェニストによれば、それはパリ時代の生き生きした生産的ソシュールと対比される謎の沈黙であり、あるいはたまにその沈黙を破る言葉があるとすれば、知的絶望感の表白でしかない沈痛な表情のソシュールであった。

   「かなり早い時期に沈黙のなかに消えていった彼の人生をめぐっては、いささかの謎がある。(……)この沈黙は一つのドラマを秘めていて、そのドラマは苦痛に満ちたものであったらしく、年とともに重くのしかかり、出口を見出すこともできないものであった」(『一般言語学の諸問題』)。

 確かに一八九四年頃からのソシュールは、学術論文の発表はおろか、友人への手紙さえ書かなくなり、自ら〈書簡恐怖症(エピストロフォビー)〉と名づけて無音(ぶいん)を詫びている。」
「この謎の沈黙に加えて、ソシュールが言語学とは直接関係のないように見えるニーベルンゲンの詩(うた)といったようなテーマに没頭したのは何故か。ロマンド地方におけるゴルゴンド族についての民俗学的研究に惹(ひ)かれた理由は何か、さらには、アナグラムとかイポグラムと呼んだ詩の謎解きにのめりこんだのは何故か。」
「彼のドラマは何よりもまず「思想上のドラマ」であった。そしてこのドラマは、自らが構築した一般言語学理論自体がはらむ〈体系〉的学問への疑問からくる苦しみであり、言葉によって言葉を語る矛盾、さらには言語化することのできない〈非-知(ノン・サヴォワール)〉を執拗(しつよう)に言語化せんとする闘いであって、その底を照らし出す暗い光線の束は、一八九四年という年に収斂(しゅうれん)されるように思われる。この年の一月四日付のメイエ宛の手紙では、次のような苦渋に満ちた言葉が書き連ねられているのである。

   「(……)言葉の事象に関してまともに意味の通ずるようなぐあいに何か書こうとするのは、ただの十行だけでもまず困難なことで、これにもつくづく嫌気がさします。(……)そしてまた同時に、結局のところ言語学がなし得ることの大きな空しさもわかってきました。(……)しかし、こういったことは、結局のところ私の意に反して一冊の書物になるでしょう。その書物のなかで、感動もなく、何故言語学で用いられている術語の一つたりとも私には意味があると思われないかを説明するでしょう。正直なところ、そのあとになってはじめて、私の仕事を放り出してあるところから、また始めることができるでしょう。」」

「一九一二年夏、ソシュールは病いに倒れて学年度の終りをまたずに一切の講義活動を中断する。(中略)死ぬ数ヵ月前から始めていたのは中国語の研究だったという。この、インド=ヨーロッパ諸語とは本質的に異なったエクリチュールをもつ東洋文化の研究が、彼の思想にどのような影響を与え、どのような展開を見せたであろうかということは、すべての研究者の興味を惹(ひ)く問題であるが、彼の死によってそれを知る手掛りが一切失われたのはまことに残念なことと言わねばならない。」

「初期のソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力・シンボル化活動を〈ランガージュ〉と呼び、これをその社会的側面である〈ラング〉(=社会制度としての言語)と個人的側面である〈パロール〉(=現実に行われる発話行為)とに分けた。」
「ある特定のラングのなかにあっては、音声の組み合わせかた、語同士の結びつきなどに一定の法則があり、この法則の総体がラングであってこれはあくまでも超個人的な抽象的条件であるとする。そうしてこれは一つの社会制度にほかならない。なぜならば、ラングは社会生活の所産であり、生理器官の本能的使用とは本質的に異なるその社会固有の価値観をもつ構造であり、社会成員の暗黙の契約のごときものにもとづいているからである。
 一方、現実の発話に現れた言行為は、特定の話者によって発せられた具体音の連続であり、ソシュールはこれをパロールと呼んだ。ラングはパロールの条件であり規則の体系であっても、パロールによってしか顕在化しない潜在構造である。」
「特にマス・コミュニケーション手段が途方もなく豊富になった現代にあっては、不特定の相手に一方的に送り出されるマス・メディアにのった言葉は、その非相互性によって大衆の意識操作の手段と化し、人びとはかえってその情報過剰によるディスコミュニケーションに悩まされる。」
「マス・メディアは、物質的生産の支配者に所有され管理されていて、国家レベルでの公教育やマス・コミ文化によって上から、外から与えられ、押しつけられるものとなっている。まことに「言語はもっとも巧妙に内部に滲透する抑圧の武器となる」(サルトル)のである。
 このような言語状況は、実は言葉自身のもつ宿命的ともいうべき二重の疎外現象の結果である。第一に、人間を他の動物から截然と分かつ分節言語=ランガージュは、その間接性、代替性、非現実性によって人間の一切の文化的営為を可能にしたが、(中略)人間は言葉をもったその瞬間からモノとの疎隔(引用者注:「疎隔」に傍点)の道をたどりはじめたのである。幼時、モノの名を知らなかった頃のあの新鮮なモノとの交流、(中略)欲動とみずみずしさは言語習得とともに失われ、あるいは抑圧されていく。
 第二に、これがラングの次元にいたると、その社会制度的性格から、言語による疎外(引用者注:「疎外」に傍点)はより深刻な様相を呈するのである。(中略)制度のなかにその自発性をほとんど死物化させてしまう惰性化と平行して、〈構成された構造〉は個を規制するものとして働き出す。いわば類(引用者注:「類」に傍点)としての人間の創造物である言葉が、個(引用者注:「個」に傍点)としての人間にとっては既成の支配物となって立ち向かってくる。メルロ=ポンティも言うように、「私たちは言葉が制度化している世界のなかに生きている」(『知覚の現象学』)のである。」
「アナグラム研究以前の前期ソシュールは、右のような言語という物神の解明と批判から出発した。そのために構造主義の祖とみなされたソシュールは、しかしながら、〈構造〉という術語を用いなかった。彼が依って立つキー・コンセプトは〈体系(システム)〉であり、これには次のような、従来とは異なった意味がこめられている。
 彼の考えた〈体系(システム)〉とは、個々の要素が相互に関わりあっている総体ではあっても、個は自存的実体ではなくて他の個との共存と全体との関連によってはじめて存在する関係態なのである。私(引用者注:「私」に傍点)という個人も、社会・歴史的な関係の網目の産物としての間我(引用者注:「間我」に傍点)にほかならない。また生産物それ自体が有するかに見える使用価値も、実は交換価値と同じようにその社会内の関係に媒介されてのみ存在する。しかし現実にはその関係が物化された形で現れ、私たちはこれを自存的実体と錯覚してしまうのである。
 言語の本質を闡明(せんめい)することによって文化一般の記号性とその物象化現象を明るみに出す方法を示唆したソシュールの戦略は、まずその第一歩として、古典ギリシア以降の西欧形而上学、キリスト教神学、近代科学のいずれをも否定し、一切の実体論的思考を解体することをめざした。そしてその内実は(中略)〈現前の記号学〉批判であった。
 〈現前の記号学〉とは、言葉をその典型とする記号を、実在の表象ないしは代行・再現物とみなす記号観をその根にもつ記号学のことである。くだいて言えば、(中略)「本物をゆびさす代用品」と言ってもよい。」
「ソシュールの記号観が従来のそれに対するラディカルな批判とみなされるのは、「実在とその表象」なる図式が、すでに言語や用具による分節が行われた後に歴史的化石となっている特定共時的文化現実内においてしか成立せず、汎時的視点から見た文化とは、そもそも本能図式に存在しなかった過剰物としての言葉によって生み出された〈記号の世界〉(=共同幻想)であると考えた点にある。」
「これはまた、自存的・超越的〈意味〉の否定でもある。つまり(中略)個々の辞項の〈意味〉は、それがおかれる顕在・潜在的な場に織りなされるテクストのなかにおいてのみ生ずるという考え方であって、これはドイツの哲学者・L・ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論や、イギリスの分析哲学者・J・L・オースティンの言語行為論をも包摂した意味論に近いと言えよう。」
「また「言語のなかには差異しかない」というソシュールのテーゼは、制度化した文化における〈構造的差異と同一性〉のメカニズムを解明し批判する装置である。私たちは、意識の表層面でこそ同じ構造のなかにいるように思えても、深層においては独自の生を特殊な体験として生きているにもかかわらず、恣意的分節である言語の網にからめとられ、その結果、各人の価値観が等質化・画一化されている現実に気づかないからである。」



「Ⅲ アナグラムの謎」より:

「ところで、ソシュールの関心をひいたアナグラムは、従来のそれのような文字(引用者注:「文字」に傍点)や詩句の配置がえの〈言葉遊び〉ではなく、古代ローマ詩のなかに聞きとられた詩の成立の原因そのものとみなされる音の法則(引用者注:「音の法則」に傍点)であった。
 彼はこの隠された技法を、慣習的言語コードの制約からの解放とみなし、詩人たちは神話的思考がそのイメージを構成するのと同じやり方で詩作するのではないかと考えたのである。」
「彼の仮説によれば、詩のなかでは、すべての音的要素が偶数のペアに分けられて相呼応する内的(引用者注:「内的」に傍点)な〈対化(ついか)の法則〉と、その詩の主題(多くの場合固有名詞、とくに神の名)となる語が、あらかじめいくつかの音に分解される外的(引用者注:「外的」に傍点)な〈テーマ語の法則〉の二つがある。後者は、語句の発想と成立にとっての母型がミニアチュアのような形をとって詩のなかに象嵌(ぞうがん)されている〈主題象嵌(ミーズ・アン・アビーム)〉(A・ジイドの用語)とも言うべきものである。」

「広義のアナグラムは、
 ① アナグラム(テーマ語がいくつかの単語に分けられて散在するもの)
 ② アナフォニー(右の不完全な形)
 ③ イポグラム(テーマ語がいくつかの複音に分けられて散在するもの)
 ④ パラグラム(テーマ語が、アナグラムよりも広い範囲、すなわちテクスト(引用者注:「テクスト」に傍点)中に散種(引用者注:「散種」に傍点)されているもの)
 の四種類に分類され、このうちでもパラグラムが最も重要な形とみなされた。」
「現代文学や思想に大きな影響を与えたのは、詩における〈テーマ語の散種〉が意味するものであた。(中略)パラグラムの概念は、テクストの背後にもう一つのテクストを同時存在せしめることによって、表層言語の線状性(引用者注:「線状性」に傍点)をゆるがし、深層言語のポリフォニー性(引用者注:「ポリフォニー性」に傍点)を回復させるからである。」

「アナグラム研究においてソシュールが到達した一応の結論は、レヴィ=ストロースがのちに言うところのブリコラージュ、すなわち神話的思考がそのイメージを作るのと同じやり方で詩人が詩をつくるという考えであった。つまり、作品の言葉は、これに先立つ他の言葉から生ずるのである。
 詩句のすぐうしろ側にあるのは何か? それは無から有を生み出す創造者ではなく、詩人を誘導する言葉である。とはいっても、ソシュールが芸術家の主体性の役割を消し去ろうとまでしたのではない。ただその主体性も、前(プレ)‐テクストを通過しなければテクストを生み出せない、と彼には思われたのであった。」

「ソシュールの期待もしくは確信は、アナグラムが詩人の意識的行為であることだった。(中略)ソシュールには知る由もなかったろうが、彼にはアナグラムが、我が国の文学にあらわれる「かきつばた」であってほしかったのである。」
「またソシュールにとってアナグラムは〈本歌取り〉であって欲しかったのだろう。」

「言葉が言葉を紡(つむ)ぎ出す。そこには意識的主体の明確な意図もなければ、まったくの偶然もない。詩を含めたすべてのテクストが生産される力域は、ソシュールが考えていたような意識の表層においてではなかった。」
「ヤーコブソンも言う通り、ソシュールの第二の革命は、「詩的言語が、本質的かつ普遍的に多声音楽的(ポリフォニーク)・多義的(ポリセミーク)性格をもつことを明らかにしたのであるが、これはメイエが見てとったように、当時のアカデミズムの通念であった合理主義的芸術観への挑戦であった」(『詩学の諸問題』、一九七三年)。」
「このパラグラマティスムが、ロシアフォルマリスト・M・M・バフチンやソヴィエトのタルトゥ学派の記号論者・L・メルの対話理論と結びついて、クリステヴァの〈間テクスト性〉なる概念を導いた道筋は容易に想像できよう。この考え方によれば、すべてのテクストは、これに先行する諸テクストとの連関において書かれ、かつ読まれる(引用者注:「書かれ」「読まれる」に傍点)。現に存在する現象(引用者注:「現象」に傍点)としての〈表層のテクスト(フェノテクスト)〉の背後には、このテクストを可能ならしめた発生(引用者注:「発生」に傍点)としての〈深層のテクスト(ジェノテクスト)〉が、「常に、すでに」存在するからである。」



「Ⅳ 無意識の復権」より:

「一般に、「ヒトと動物の間」をめぐって次のような二つの極端な考え方がある。第一のものは、キリスト教と近代ヨーロッパ精神と進化説とを見事に結びつけ、動物の世界から人間の世界への移行を、〈生物圏〉という茎の上に咲いた〈精神圏〉なる大輪の花として描くテイヤール・ド・シャルダン的オプティミズムであり、これは、人間を「動物プラスα」として捉える人間文化礼讃論もしくは万物の霊長としての人間至上主義である。
 第二のものは、その正反対に、人間を欠陥動物すなわち「動物マイナスα」とみなす人間文化否定論であり、「自然に還れ」式の発想から短絡的に文化破壊論へと通ずる立場である。」
「私がソシュールの示唆を受けて立つ立場は、人間が「動物プラスα」であることを認めながらも、この「プラスα」という自然からのはみ出し、過剰としての文化自体の非実体性、共同幻想性を知るべく、ランガージュというシンボル化能力にその原因を見ようとするものである。つまり人間は、ランガージュの所有によって〈関係する動物〉となり、二つのまったく質を異にする構造、すなわち種(引用者注:「種」に傍点)のゲシュタルトと文化のゲシュタルトのなかに生きているという考えから出発する。」
「〈ゲシュタルト〉とは、(中略)「要素に分割し得ない全体としてのまとまり、ないしは構造」のことである。」
「第一の分節が生み出す構造は、種(引用者注:「種」に傍点)のゲシュタルトで、これは人間が他の動物と共有する(中略)〈身分(みわ)け構造〉である。」
「「〈身分(みわ)け〉は、身(み)によって世界が分節化されると同時に、世界によって身(み)自身が分節化されるという両義的・共起的な事態を意味する」(市川浩、『〈身(み)〉の構造』)。」
「右の用語を借りた私の理論においては、一旦は、わざと(引用者注:「わざと」に傍点)〈身〉の概念を人間と動物に通底する生物学的な意味に解し、〈身分(みわ)け〉とは動物一般がもつ生(引用者注:「生」に傍点)の機能による種(引用者注:「種」に傍点)独自の外界のカテゴリー化であると考える。」
「そこでは身体的個体は定位されても自我(引用者注:「自我」に傍点)はなく、言葉以前の感覚=運動的な分節が行われる。人間を含めた一切の動物は、この本能図式にもとづく網の目によって、沸々と湧出する生のエネルギーを過不足なく掬(すく)いあげ、生存のために有用/無用、有害/無害、等々を弁別し、安全な道を選びとっているのである。」
「しかし、人間だけが右に見たような本能図式に加えて、もう一つのゲシュタルトを過剰物(引用者注:「過剰物」に傍点)としてもってしまったところに、人間の栄光と悲惨の原因があるのではないだろうか。これが第二の分節の結果生ずる〈言分(ことわ)け構造〉であり((中略)〈言(こと)〉すなわち言葉によるゲシュタルト)、このおかげで人間特有の文化が登場した。この文化は、記号・用具・制度によって身(み)を一定の環境から解放(引用者注:「解放」に傍点)する一方、身(み)の方もこれに組みこまれて支配される拘束(引用者注:「拘束」に傍点)という両義性をもっている。」
「それでは、その〈シンボル化能力〉としての言葉によって生み出されたものが何故過剰(引用者注:「過剰」に傍点)なのか。
 まず第一にそれは身の延長(引用者注:「身の延長」に傍点)だからである。」
「サルとかライオンには、(中略)時間意識がない。また彼らにとっては、視界から消えた動物は端的に存在しない。私たちは、視界から姿を消したものも、「さっきいたのだからまだどこかにいるはずだ」と考える、延長された空間意識をもつ。換言すれば、人間は言葉によって「今、ここ」という時・空の束縛からのがれ、「約束する動物」、「嘘をつく動物」となった。」
「第二に、シンボル化能力の産物は、そもそも生物体としての人間にとっては存在しなかった〈意味〉を文字通り身(引用者注:「身」に傍点)の延長である人工的道具によって拡大生産するからこそ、過剰(引用者注:「過剰」に傍点)である。望遠鏡や顕微鏡がなければ人間にとっての〈意味〉たり得ないほど遠方にある事物や微小なるものが、人間の生体的な閾(しきみ)を超えて現出する。」
「同類同士で殺しあいを演じる動物は人間だけだ、と言ったのはK・ローレンツであった。」
「では、何故であろうか。それは〈言分(ことわ)け構造〉の基底にあるものが、〈欲求〉ではなく〈欲望〉だからなのだ。
 まことに、欲望は生理的欲求とは違って限りなくふくれあがり、そのとどまるところを知らない。(中略)すべての欲望の根源には、言葉の産物である〈自我〉がある。パスカルもつとに指摘しているように、〈三つの邪欲〉すなわち官能欲、知識欲、支配欲は、〈自我(エゴ)〉の欲望なのであり、〈自己(セルフ)〉の生命維持活動とはまったく質の異なるものであろう。」
「外なる自然の征服は、内なる自然の破綻(はたん)を呼ぶ。文化は本能が退化したためにこれを補填(ほてん)すべく作り出されたものではなく、その逆に、人間は文化をもったが故に、本能の歯車を狂わせた。〈言分(ことわ)け〉の歴史は、〈身分(みわ)け〉破綻の歴史と併行的だったのである。」
「ところで、〈身分け構造〉というものが下方にあり、〈言分け構造〉というものがその上にあって、二つが重箱のように重なりあっている、と考えてはならない。(中略)実際に生きている私たちは〈言分(ことわ)けられた身(み)〉以外の何ものでもないのである。」
「言葉をもつことによってヒトとなった人間には、もはや無垢(むく)の生物性だとか感覚=運動的次元における純粋知覚などというものを基準に立てることができない。(中略)〈身分(みわ)け構造〉は、「常に、すでに」変形され破綻しているのである。」

「筆者の理論における〈コスモス〉発生の現場にあってランガージュが差異化するその対象は何か? (中略)そこで差異化され、意味化され、つまりは言語(ロゴス)化されるものは、すでに破綻した〈身分(みわ)け構造〉に生きざるを得ない人間の生体験(ル・ヴェキュ)であり、これが私のいう〈カオス〉なのである。」
「カオスなどというものはもともと(引用者注:「もともと」に傍点)存在しなかった。〈言分(ことわ)け構造〉をもたぬ動物たちは、これをコスモス化せねば生きていけないようなカオスを知らないのである。生のエネルギーは、ヒトがヒトとなる以前には、完全であったはずの〈身分(みわ)け構造〉の網によってきれいに分節され掬い上げられていたのだから、カオスなどは存在しなかったと考えてよいだろう。
 コスモスと共起するカオスはまた、エロスとタナトスの欲動(トリーブ)であり、リビドーである。「リビドーと呼ばれるものも〈一つの本能〉などではない」(メルロ=ポンティ、『知覚の現象学』)。そして筆者が、表層意識・下意識・潜意識と共起的(引用者注:「共起的」に傍点)と考える無意識も、また〈カオス〉なのである。この〈無意識〉は(中略)、実は言葉の産物(引用者注:「産物」に傍点)であった。」
「人間の一生は、身(み)が言(こと)によって壊される歴史であり、身(み)が言分(ことわ)けられる度に裂け目はますます大きくなってカオスが増大し、私たちはそのカオスを再び言分(ことわ)けていかねばならない。そして人間は、言葉をもったために生じたカオスへの恐怖と、それをまた言葉によって意味化する快楽に生きる。」
「このように、「今、ここ」でこそ、カオスが絶えずコスモス化されていても、カオス自体はコスモスの産物であり、しかもカオスが再びコスモス化されることによってしか新たなカオスは生じないという円環運動が起きている。だからこそ、〈外部〉は〈内部〉の産物として共起するし、アラヤ識を含めた一切の根源の如く見えるものも、逆に意識の表層・深層にわたる言葉(ロゴス)が生み出していると言えるのである。」



「Ⅴ 文化と言葉と無意識」より:

「さて、〈心身症〉やその他の心の病いの原因は何であろうか。」
「人びとは高等教育を受ければ受けるほど科学という名の〈物神〉信仰に陥り、その病状を悪化させていることは否めまい。」
「フランスの社会学者・H・ルフェーヴルによれば、世紀末から二十世紀にかけて起きた〈知〉の転換は、〈自然〉をめぐる二つの考え方の間に見られる移行のプロセスとして説明されるという。
 第一の考え方は(中略)機械論的かつ目的原因論的なものであり、身体の領域にあっても、精神の領域にあっても、ある目的を達成するためには最小の手段による経済性(エコノミー)が要求された。(中略)人間を含む物質的自然は機械的システムからできていて、常に自発的に安定を保とうとし、攪乱(かくらん)が度を超さない場合には必ず自らの均衡を回復する。
 第二の考え方は、ニーチェやバタイユの美学に属していると言えるだろう。すなわち、人間をも含めた生ける自然とは、驚くべき繁殖、過剰、とめどもない浪費であって、存在し生きること以外には何の目的ももたない。それは何よりもまず〈生〉であって、生きる能力と活動であり、絶えまない戯れであり、さまざまな形をとる奢侈(しゃし)であり、〈死〉すらもこのような豊饒(ほうじょう)の一つの側面に過ぎないのである。それ故、このような存在に対しては内的均衡やエコノミーの法則を当てはめることはできない。

  「後者の考え方は道徳的であるとはいえないが、正直に言って、私の好みに合うのである。病的なもの、そして怪物的なものですら、生きている自然のとめどもない奢侈(しゃし)の一部をなしている。(……)この考え方は、精神病者と呼ばれる人が、必ずしも最も精神病的であるのではなく、正常な人間、平均的な社会的な人間も多分同じように精神病的であると考えることを強いる」(アンリ・エー編『無意識』)。

 右に引いたルフェーヴルの考察は、ジェイムズ・ヒルマンにその典型を見るアメリカの臨床心理学者が考えている精神病者像とは正反対のものである点において特に興味深い。ヒルマンは「患者たちは皆、デカルトが仮想的に創造して見せた、あの、擬似事物界に住んでいるんです。そこでは、物は一様に、無機的な死物で、本来的に無意味な〈res extensa (延長をもった物体)〉にすぎない。患者は、まさに、そのことになやまされているんだと、私は思うんです」(井筒俊彦対談集『叡知の台座』)と言うが、こうした状態にあるのはむしろ健常とみなされている私たち、つまりは物象化した表層意識の世界に生きている一般人の方ではないのか。患者はその反対に、深層意識の流動的世界に住んでいるのではないのか。」
「ヴェニス生れの作曲家・指揮者であるジュゼッペ・シノポリは、好んでマーラーの曲を指揮するが、さるインタビューに答えて次のように述べている。

  「マーラーは二度ほどフロイトの診断を受けたことがあります。フロイトとの出会いはそれ以上発展しませんでした。フロイトの直感のようなものがそうさせたのだと思います。私も精神分析医としてマーラーを治療しようとはしなかったでしょう。なぜなら、本来マーラーの音楽は、彼の症状の現れだったからです。
 彼の偏執狂の症状だと言ってもよいと思います。そして彼の音楽を生み出したこの症状を治療してしまったなら、マーラーはもはや作曲できなかっただろうと思います。
 ですから、フロイトが彼を早く治療しなくてよかったと思っています。(……)マーラーの音楽は、テクノロジーによって支配されている現代社会ではますますその重要性をもつことでしょう。」

 まことに、京大教授・木村敏氏(精神病理学)も言うように、何を〈正常〉と呼び何を〈異常〉と呼ぶのか。「異常とは普通、正常が変化した状態、つまり正常の変種と考えられています。が、逆に正常を異常の変種と考えることはできないか。当たり前なのはむしろ異常の方であり、私たちが正常であることは実はそう当たり前ではない、と考えられないか」(「〈正常〉〈異常〉とは何か」、毎日新聞、一九八六年五月二十六日付)。」
「私たち健常人とみなされている人びとの心に巣くう病いの原因である〈デカルト的世界像〉は、一見近代以降のもののように考えられる。」
「しかし、科学的事実信仰の根はさらに深いのである。」
「私たちの病いの根はさらに深く、ヒトがヒトとなって以来もってしまった言葉、一切のドクサに先行するウア・ドクサとしての言葉にまでその源をさかのぼらなければならないのである。
 私たちの心の病いの真の原因は、恐らくは二百万年ぐらい以前から現代に至るすべての時代に汎通する言葉の〈ある状態〉がもたらすものなのであって、それは「関係でしかないものが実体と錯覚される」言語(ラング)の状況であり、これまで数章にわたって解明してきた言葉の物象化現象であり、〈表層のロゴス〉の産物以外の何ものでもないと言えるであろう。
 そうしてみると、いわゆる〈治療〉というものに対する考え方も、従来の発想を百八十度転換させねばならないように思える。」

「それ以上に問題とせねばならないのは、多くの臨床心理学者が治療の目的として「患者の社会復帰」という錦の御旗をたてる発想自体である。もし豊饒な生の働きをおさえて、均衡のとれた社会的人格を強制するのが治療であるとすれば、これは治療というよりは科学による新たな抑圧であるといわねばならないだろう。彼らが目指すところは、(中略)〈複数の自己(ゼルプスト)〉の対話を禁じ、〈私(イッヒ)〉の擬似同一性を錯視させることでしかない。こうした深層意識の抑圧による〈デカルト的世界像〉の押しつけこそ、心の病いの原因そのものなのだから、たとえ一時的には平均的ノモス人間に復帰できても、病状はさらに悪化の途をたどることになりかねないのである。
 もし治療(引用者注:「治療」に傍点)というものがあり得ると仮定しての話だが、私たちは従来の発想を逆転して、ノモスの抑圧から深層意識と無意識を解放することを目指さねばならないのではあるまいか。」







こちらもご参照ください:

丸山圭三郎 『ソシュールの思想』
ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)
井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)
豊田国夫 『日本人の言霊思想』 (講談社学術文庫)
Th・W・アドルノ 『アルバン・ベルク』 平野嘉彦 訳 (叢書・ウニベルシタス)
狩々博士 『ドグラ・マグラの夢』










































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本