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西谷修 『不死のワンダーランド』

「この廃墟には雨が降る(放射能さえ降りかかる)。なぜならそこは天空に開けているからだ。もはやこの天を遮るいかなる幻想もなく、地上が人間のありのままの住処となる。この〈開け〉が「公共の開け」とならなければならず、この地上が、いかなる権力にも覆われずいかなる権力ともならない無名の単独者たちの原野とならなければならないのだ。」
(西谷修 「民主主義の熱的死」 より)


西谷修 
『不死のワンダーランド』



青土社
1990年6月21日 印刷
1990年7月15日 初版発行
396p+1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円(本体2,330円)
装幀: 菊地信義



本書「あとがき」より:

「この本は一九八七年秋からあるモチーフに従って書きつがれ、雑誌『現代思想』に断続的に掲載された論文をまとめたものである。(中略)当初の意図は、戦後ながらくサルトル的言説の支配のもとで見えにくい位置におかれ、サルトル以後しだいにその「現代性」をあらわにしてきたバタイユやレヴィナスやブランショ等の思考を、ハイデガーをひとつの指標として検討し、彼らの思考が対応しようとしていた〈時代〉の基本的様相を呈示するとともに、ともすれば個別にそれぞれの特殊性において語られがちな彼らの思考の同時代性を、思考の〈現在〉との関連で浮き彫りにしてみることだった。」



西谷修 不死のワンダーランド



帯文:

「ハイデガーを
超えて

サルトルは、実存の名のもとに、失なわれた主体性の恢復をもくろんだ。だが、バタイユ、ブランショ、レヴィナスなどは、自我の喪失を受け入れるところから思考を展開する。彼らの思索の跡を辿り、意味が崩壊し、存在が先行する時代の情況に対応する
現代
思想の
核心を、
克明に
描く。」



帯背:

「現代
フランス
思想の
展望」



内容:

Ⅰ 〈ある〉、または〈存在〉の夜と霧
Ⅱ 〈ある〉と〈非-知〉の夜
Ⅲ 死の不可能性、または公共化する死

Ⅳ ハイデガーの褐色のシャツ
Ⅴ 数と凡庸への否と諾

Ⅵ 〈不安〉から〈不気味なもの〉へ
Ⅶ 〈不死〉のワンダーランド
Ⅷ 民主主義の熱的死

エピローグ 四つの名前


あとがき
初出一覧




◆本書より◆


「〈ある〉、または〈存在〉の夜と霧」より:

「〈不安〉による世界の無化を、ハイデガーは個的な主体の充実の契機とした。日常性のなかで人称性を失った〈ひと〉として共存在に埋もれていた現存在は、この「無」の体験をつうじて「存在の運命」を担う本来的実存となり、ふたたび世界に立つ。ハイデガーはこのような実存の覚醒のドラマを演出したが、そのドラマが成り立つためにはハイデガーが固執したように、〈存在〉とはあくまで「存在者の存在」でなければならず、存在者のない「存在一般」というものはここでは問題にならない。だがレヴィナスは存在論的差異をラジカルに受けとめ、その「存在一般」をただ「存在する」という無名の事実として、ほとんど現実に生起する出来事のようにしてテーマ化する。それはすべての存在者(主語となりうる実体)が闇に沈み、いっさいが主語のない「存在する」という純粋な出来事に還元される事態だという。それをレヴィナスは〈ある(il y a)〉と呼ぶ。〈ある〉は実詞に転用される動詞の不定形としての〈存在=存在する(être)〉とは違い、「何かがある(Il y a quelque chose)」という非人称的な呈示の表現から、呈示すべき、そしてこの呈示に続く命題で主語となるべき実詞が消えてしまった状態、すなわち実詞の欠如を身をもって示す呼称である。
 「世界の無化」のうちに宣明されるないしは露呈する非人称の〈存在〉をモチーフとしながら、このふたつの思考は眩暈を誘うほどの違ったシナリオをあるいはドラマを語り出す。ハイデガーにとって「世界の無化」は現存在を「存在の明るみ」に導き、本来性へと復帰させる契機となる。しかしレヴィナスにとってそれは、純粋な「存在する」という出来事の露呈、というよりその非人称性によって強調された非情の夜としての〈ある〉への還元であり、この全面的無化の暴威と「存在」の非人称性に抗してこそ、主体は生まれ出なければならないとする。ここには時代が思考の課題として浮上させた〈存在〉に対する、まったく異なる受けとめかたがある。」

「たとえば新プラトン派のプロティノスは「純粋な質料(悪)」というものを想定し、存在に与かるのが〈善〉であるかぎり原理的に「存在しない」はずの質料が、「ある意味では存在する」と言っている。しかしその存在しない「非存在」としての「純粋な質料」には、形相を離脱することによって、つまりいっさいの光と生命の要素をみずから失うことによってしか近づけない。したがって「質料を知る」ということは、闇に沈む「泥沼」の体験だとプロティノスは言っている。プロティノスの哲学が「一者」に発しそこへと帰る「一」の哲学であり、あくまで精神の側に生命を認める観念論(引用者注:「観念論」に傍点)的哲学だったとしても、彼はこの「非存在」の体験を知のまったき不在の体験として、「肉体の泥沼」として記述せずにはいられなかった。それは観念論のことばで語られた〈ある〉の体験あったと言ってもいいだろう。」

「レヴィナスはまた「存在することは、存在しないことよりも善い」と言う。この断言と「存在は悪だ」ということとは矛盾しない。この場合〈存在〉とは「存在一般」つまり非人称的な「存在する」という出来事であり、それは実存にとっては〈災厄〉として現れる。「世界の無化」のなかで実存はこの「存在する」(〈ある〉)の夜に浸されるが、それでもこの「夜」のなかで「無化」をこうむりながら、非人格化した実存の残滓としてでも「存在する」ことの方が、その残滓の物理的「殲滅」よりも、つまり「存在しない」ことよりも善いという主張が、このことばには籠められている。」
「「世界の無化」のなかで、ひとは死を覚悟して運命に目醒めるのではなく、〈ある〉の恐怖に呑まれ、〈ある〉のなかに自己を失う。〈ある〉は目醒めだが、この目醒めはもはや誰の目醒めでもない。「私」はない。レヴィナスはすべてを夜に沈めるこの〈ある〉から、いかにしてふたたび主体が生まれ出るのか、この無辺在で永遠の(つまり無時間的な)非人称的な〈実存〉の支配から、いかにして実存者が離脱するのかを語る。」
「おそらくここにレヴィナスのもっとも独創的な、「常識と国をもつすべての民の叡知」を揺るがす、そしてそのためにこの哲学を捉えがたくもする観点があるのだが、レヴィナスはこの主体の誕生を「意識の眠る能力」にもとづけている。〈ある〉は永遠の目醒めであり、眠りだけがこの目醒めを中断することができる。不眠に眠気がまさって思わず(引用者注:「思わず」に傍点)体を横たえるとき、はじめて〈ある〉の目醒めは私的(引用者注:「私的」に傍点)に中断され、ひとは〈ある〉から退避する。どこへ? 〈無意識〉へ、眠る身体へ。この眠りという身心的な行為、無活動の活動によって、そして眠る身体によって、主体の場が〈ある〉から裁断されるようにして確保される。このとき身体はまだ眠っているこの主体、やがて私的な目醒めをもつ自我によって〈自己〉として、無意識として抱えこまれることになる。ここには二つの重要な観点がある。ひとつは、一般に意識は目醒めとして規定されているが、レヴィナスはこの目醒めが、それ自体では主体性には結びつかず、眠りの能力に裏うちされてはじめて人称的(私的な)主体の意識たりうるとしていること、言いかえれば意識は無意識に裏うちされてはじめて主体の意識となるということ、そしてその主体の概念は、はじめから〈無意識〉でありまた〈質料〉そのものでもある身体によって定位され、身体を抱え込むことで成立していることである。」

「レヴィナスはこのような思考を、実際に捕虜収容所で育んだ。だが収容所で練り上げられたという事情は、この思考にとって単なる挿話的事実にとどまらない。というのは、彼のこの最初の主著の主題、無名の存在のなかでの主体の誕生というテーマそのものが、まさに収容所を生きるという課題に暗黙のうちに呼応するものだからだ。主体性を奪われ、人称性を失い、自分で存在する力を失って、非情な〈ある〉の遍在に呑み込まれる恐怖とは、捕えられ、無名の権力の意のままになる捕囚の恐怖であり、さらにはその境遇を不可避にした全面戦争の恐怖ではないだろうか。(中略)私的な生活は何もなく、もはや何者でもなく、裸の一個の実存にすぎない。そこには強制労働がある。疲労に浸されて労役から戻るとき、この孤独な貧しい主体は、その裸の実存すら解体しようとする疲労に抗する努力のなかで、かろうじて自分の(引用者注:「自分の」に傍点)実存を維持することができる。(中略)夜の帳が落ち、すべての明かりが消えて、あたり一面がくまなく闇に包まれるとき、目醒め続ける意識はもはや自分の意識というより、この闇そのものの意識となる。(中略)この不眠の闇のなかで、〈私〉はまったく夜の無名性のなかに溶解してしまう。(中略)しかし耐えがたい疲労がふとその目醒めを断ち切り、ひとを眠りに誘い込む。(中略)そんな兵士にとって、眠りだけが唯一自分に属する自分だけのもの(私的なもの)である。毛布にくるまり体を抱えて眠りにおちるとき、意識の中断というかたちで不眠を断ち切り、非人称の目醒めから退避して兵士も私的な実存を取り戻す。」
「だがこの実存はそれ自身に、身体に繋縛されている。(中略)そして外界から隔離された貧しい場所がこの実存者にとっての世界となる。収容所の外の歴史の進行から切り離されたこの世界では〈企て〉も成り立たない。行為は未来に向けてなされる根拠を失っている(中略)。行為は現在で消尽される。しかしこの貧しさ、窮乏は、逆に事物を「手段」として捉えさせない(手段は未来を前提とするものだ)。事物は直に消尽され、〈享受〉を約束する〈糧〉である。享受は感覚であり、光であり、そこにはすでに〈自由〉が兆している。その〈自由〉は囚われの身のままで実現するのか、あるいは脱走の〈企て〉へとひとを導くのか。」

「ハイデガーは〈死〉を〈私〉に属する最後の可能性と考えている。だから「英雄的な死」をつねに〈私〉はえらびとることができるわけだ。ところが、レヴィナスにとっては企ての解体は〈私〉を〈死〉に向かわせることはない。むしろ死ぬことを不可能にする逃げ場のない〈存在〉へと〈私〉を委ねる。」
「企ての解体は死へはみちびかない。企ての解体は「死の可能性」をも解体してしまう。別なふうにいえば、ハイデガーの〈死〉は、可能なこと、自分の可能性に属する最後のこと(それに到達すれば自分は消滅するから)である。ところがレヴィナスの〈死〉は〈私〉に属さない。なぜなら、〈死〉がそこにあるときもはやこの〈死〉をつかむ自分はおらず、〈死〉はけっして自分のものにはならないからである。」

「眠りを奪われること、非人称的なものの支配、そして死ぬことができないということ(死という救いすら遠のくこと)、それが〈ある〉を特徴づけている。(中略)主体化を語るレヴィナスの哲学は、そんな実存の状況のなかで、その実存を〈ある〉を引き受けつつ、「眠り」を取り戻し、そのことによって人称性的な生を回復しようとする試みだということもできる。」



「〈ある〉と〈非-知〉の夜」より:

「「至高性」と言う。しかしバタイユの至高性にはなんらの特権性もない。それはむしろ無能力の極みであり、現実の世界に対していかなる優位をも主張しない。ただその裸の無能力を、いかなる権威の支えも救いも求めず担うことにおいて、人間は「至高」なのだ。」


「死の不可能性、または公共化する死」より:

「ハイデガーが「共生起」を欠いた非本来的な共同性の意味で用いる「公共性(Öffentlichkeit)」とはもともと公けに開かれてあるもののことだ。ブランショはそれを文字どおり開かれた共同性として肯定し、そこに無定形のそれゆえに自由なコミュニケーションの空間を見出そうとする。エドモン・ジャベスが語り出す美しくしなやかな「都会の砂漠」をここに想起することもできるだろう。もちろんこの砂漠は無秩序で定まりなく、気ままで無責任であてにならないし、この拡散する無名の自由が、ときに名前への渇望と拝跪をわれ知らず求めないわけでもない。それにこのランダムな分散は、ある磁気をうけて励起され強力な磁場としてそこにあるすべてのものを整列させたり、ときには憑かれたように御しがたい奔流になって流れたりすることもある。ただこの〈公共性〉が「公安の秩序」や励起した「全体」へと転化するのは、〈ひと〉がこの〈開け〉のなかで誰でもないことに〈不安〉をいだき、身を支える何かを求めるとき、あるいは認知される「誰か」であろうとして〈ひと〉のなかでの権威を求めようとするときだ。だが〈公共性〉それ自体は開けであり、そこは〈ひと〉の行き通う無限定な広がりである。「違っていることの拒絶」とは、そこでだれもが同じであろうとするということではない。非人称化は人間を差異の秩序に収めているあらゆる社会的な属性を無化するのだ。その秩序の目からは一様にみえる〈ひと〉の隣接から、還元不能な差異が生まれる。そこは無差別で一様な空間であるどころか、裸の差異の生い立つ空間なのだ。だからブランショはこの非人称性・無名性を肯定し、その拡散の中に歩み入る。そして死が〈ひと〉のものであること、公共のものであることをも肯定する。誰のものでもない〈作品〉のことばが生い立つのもその開けのなかからだ。」

「人間が非人称化し非人格化するということは近代世界の根本的特徴である。(中略)ブランショやバタイユの思考は、この非人称化に防衛的に身構えるのではなく、むしろその非人称化と無限への散逸を、未知の〈開け〉として肯定し、もはや超越性をもたず階層のないこの偏平な〈開け〉のなかに彫りこまれる、別の単独性(有限性)と共同性を見出そうとする試みだということができるだろう。」



「数と凡庸への否と諾」より:

「すでに『放下』で、「人間はすでに地球を離れて、宇宙の中に突進し始めている」と語ったハイデガーは、数年の宇宙開発の展開を見た後に、月から送られてきた地球の写真を見て茫然とし、そこに「人間の無根化」の端的なイメージを見てとった。」
「丸い地球が虚空に浮かぶ様が視覚に呈示されるとき、もはや大地は感覚的にも根づくべき確かな基盤ではなく、まさしく「惑いの星」(中略)としての実相をさらけ出されてしまう。(中略)近代技術はこのとき、大地に根ざすという「存在」の神話を無効にしてしまった。この大地が揺るぎない起源ではないということ、もはや基盤はないということ、それこそはハイデガーにとって人間が決定的に故郷を失うことであり、もっとも「不気味な」ことだったのだ。
 だが、ここで鮮やかに思い起こされるのはエマニュエル・レヴィナスの「ハイデガー、ガガーリン、そしてわれわれ」と題された一文である。人類史上初めて宇宙空間を飛び、虚空に浮かぶ地球をその眼に確認して「地球は青かった」と語ったユーリー・ガガーリンの「壮挙」の、反ハイデガー的な意味をレヴィナスはこの文ではっきりと指摘している。」
「「あらゆる地平の外に存する(引用者注:「外に存する」に傍点)こと」そしてそれが「均質空間」の絶対的な〈開け〉であること、あたかも「実存する(ex-ister)」という語がここで初めて「外に-存する」という十全の意味を獲得したかのようにレヴィナスは語る。人間を風景のなかに植えつけること、〈場所〉に固着すること、それが人間を「生え抜き」と「他処者」とに分離する。しかし科学技術はそうした土着を重んずる「ハイデガー的な世界」や「場所の神話」から人間を解放する。そのときから、人間を所与の状況の外で見るチャンス、「人間の顔を裸のままで輝き出させるチャンス」が生まれる、そうレヴィナスは言って技術のもたらす「解放」の功徳を強調している。ハイデガーが慨嘆した「無根化」、固有の場所の喪失であり、故郷の喪失であり、「不気味なこと」として捉えられた事態は、レヴィナスにとっては「場所の神話」からの人間の解放であり、裸の〈顔〉の現れるチャンスなのである。」
「「技術」が人間を超えたものだとして、その技術はあらゆる地平から人間を「解放」してゆく。「人間主義」の地平からさえ。」

「数であることを拒まない。砂粒のように凡庸であることを拒まない。しかしその砂粒が七彩に輝くこともある。それはにぎやかに散乱するこの砂粒が、磁石をあてた鉄粉のようにはしたなく励起して「本来性」をかたどる文様を描き出してしまうときではなく、いかなる一体性をも形成せず、無規定な「分割」の網目がそれぞれに特異な接触として生起として、多彩な光りを散乱させるときである。それがあらゆる共同体の〈外〉に生じる出来事としての共生起だ。」









こちらもご参照ください:

モーリス・ブランショ 『明かしえぬ共同体』 西谷修 訳 (ちくま学芸文庫)
ジャン=リュック・ナンシー 『無為の共同体』 西谷修・安原伸一朗 訳
清水徹・出口裕弘 編 『バタイユの世界』 (新版)
宇野邦一 『アルトー 思考と身体』












































































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ジャン=リュック・ナンシー 『無為の共同体』 西谷修・安原伸一朗 訳

「それが〈無為の共同体〉と呼ばれるのは、〈分割=分有〉という〈共存在〉が、個々の主体の営為の展開される地平においてではなく、主体が可能になる手前の、あるいは主体が消失してゆく、〈無為〉の場面つまりは〈営み〉の体勢が解消される場面ではじめて露わになるからである。」
(西谷修 「〈分有〉、存在の複数性の思考――あとがきに代えて」 より)


ジャン=リュック・ナンシー 
『無為の共同体
― 哲学を問い直す
分有の思考』 
西谷修・安原伸一朗 訳



以文社 
2001年6月15日 初版第1刷発行
2003年8月15日 初版第3刷発行
8p+291p+1p 口絵(モノクロ)1葉
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,500円
装画・装幀: 宇佐美圭司



本書「あとがきに代えて」より:

「本書は Jean-Luc Nancy, *La communauté désœuvrée*, Paris, Christian Bourgois, 1999 の全訳である。」
「訳者は、(中略)フランスではまだ単行本になっていなかったナンシーのテクストを訳出し、著者から日本語版のための追記「私たちの共通の果敢なさ」を得て、『無為の共同体』(一九八五年、朝日出版社)として刊行した。(中略)フランスでは、一九八六年、最初の論文に新たに〈神話〉と〈文学〉を主題とした二編の論文を加え、全三章のかたちで『無為の共同体』が初めて単行本として刊行された。そしてその後、さらに〈共同存在〉と〈歴史〉を扱った二編を増補した新版が一九九〇年に刊行され、これに多少の補正を加えた第三版が一九九九年に出された。本書は、(中略)朝日出版社版を併合するかたちで、この一九九九年版を訳出したものである。」
「翻訳の分担について。第一部は西谷の既訳を安原が点検し、第二部以下は安原が訳出したものに西谷が手を入れるという手順を重ねた。」




ナンシー 無為の共同体



帯文:

「共同性を編みあげるのは何か? 神話か、歴史か、あるいは文学なのか? あらゆる歴史=物語論を超えて、世界のあり方を根源的に問う、いま最もアクチュアルな存在の複数性の論理!」


帯裏:

「「壁の崩壊」以降のいわゆる「グローバリゼーション」が、各所でナショナリズムを再燃させ、また〈歴史〉というものに年季が来てそれが「物語」に過ぎないといわれるようになり、〈歴史〉の公然たる虚構化や神話化、あるいは質の悪い文学化によって、〈国民共同体〉のフィクションをシニカルに賦活しようとする運動が組織されるようになった今日ほど、二〇世紀世界の経験を踏まえて〈共同体〉の問いを根源的に論じたこの本が、アクチュアリティをもつときはまたとないと思われる。(「あとがきに代えて」より)」


内容:

第二版への注記(一九九〇年)
第三版への注記(一九九九年)

凡例

第一部 無為の共同体
 注記
第二部 途絶した神話
第三部 「文学的共産主義」
第四部 〈共同での存在〉について
 Ⅰ (〈共同での存在〉について)
 Ⅱ (〈共同での〉の意味)
 Ⅲ (〈共同での〉ということ)
第五部 有限な歴史

私たちの共通の果敢(はか)なさ(日本語版のために)

訳注
〈分有〉、存在の複数性の思考――あとがきに代えて (西谷修)
謝辞 (安原伸一朗)

著者紹介・訳者紹介




◆本書より◆


「無為の共同体」より:

「共同体は、ブランショが無為と名づけた(59)もののうちに必然的に生起する。営み-作品の手前あるいはその彼方にあって、営み-作品から身を引き、生産することとも何ごとかを成就することとももはや関わりをもたず、中断と断片化と宙吊りのみを事とするもの。共同体は諸特異性の中断によって、あるいは特異存在たちがそうである(引用者注:「である」に傍点)宙吊りによってできている。共同体は特異存在たちの作品ではないし、それらが共同体の作品なのでもない。コミュニケーションもまたそれらの営みでもなければそれらの活動でもない。コミュニケーションとは端的に言って特異存在たちの存在――おのれの限界上に宙吊りにされたそれらの存在――だからだ。コミュニケーションとは、社会的、経済的、技術的、制度的な営み(*)の解体としての無為なのだ。」

「* 私はここに政治的なものを加えなかった。国家という形態のもとで、あるいは党派(中略)という形態で、政治的なものは営みに属しているようにみえる。けれどもおそらくその只中で、共同体的無為が抵抗しているのだ。これについては後述しよう。」

「訳注(59) 通常、なすべきことが何もない〈無為〉の状態を意味する〈désœuvrement〉という語を、ブランショは彼にとって本質的な書く(引用者注:「書く」に傍点)という行為との関連で独得の転位を施して用いる。
 書くことは、日常の活動的な世界での「営み(œuvre)」ではないが、それでもひとつの行為ではあり、他のさまざまな有為の活動同様、「書物」という形で「作品(œuvre)」を生み出しはする。だがこの「作品」は他の「営み」とはちがって「この世の真実に属さぬもの」「営みとしての現実性も、この世での真の労働の真面目さももたない」(粟津・出口訳『文学空間』現代思潮社、一三頁参照)、その意味ではほとんど空しいものである。そればかりか、「書物はまだ作品ではない。作品は作品に固有なある始まりの激しさのうちに、それ自身によって存在するという語が発言されるときはじめて作品となる」(同、一二頁)。つまり文学作品はそれを書く作家に属しているのではなく、逆に作家が作品に属しているのであって、「作家は決して作品の前にいない、また作品の存在するところにいながらそのことを知らない」(同、一六頁)という関係にある。このように「書く」という行為は「営み-作品」に向かいながら二重にそれから逸脱してゆく。ひとつはこの世の堅実な「営み」から、そしてまた「作品」との結びつきを失うという形で。作家が時として覚える「異様な無為の思い」や、作品を書き終えたときの「営みを解かれた(désœuvre)」思いはその証左でもある。だがブランショはこの「無為(désœuvrement)」のうちに、「営み-作品(œuvre)」からの逸脱、あるいはその消失といった消極的な規定ではなく、書くという行為をとおして能動的に貫かれるそれ自体積極的な作用を見出す。つまり書くことは人間の生を、そして世界を作品へと組織する営み(あるいはそれを企て、労働と言いかえてもいいだろう)を解体する、あるいは営みとしてのおのれを解体する(désœuvre)能動的行為であり、同時に、言語に「営み-作品」を組織する力を与えるものから言語を解放する行為だとする。「書くとは、ことばを私自身に結びつけるつながりを断ち切ることだ[…]。またそれは言語をこの世の流れから引き出すこと、言語をひとつの権能とするものから言語を解放することである。この権能のために、もし私が語れば、この世がおのれを語るのであり、労働と行為と時間によって、昼がつくり上げられることになるのだが」(同、一七頁)(以上『明かしえぬ共同体』訳註より再録)。
 ただ、〈œuvre〉、〈désœuvrement〉が、文学という場合に限られたものではなく、人間の「営み」全体に関係するものだと考える必要があるだろう。なぜならブランショの〈œuvre〉の概念は、ヘーゲル-ハイデガー的な〈Werk〉と切り離して考えることはできないからである。(訳注(5)参照)。そのとき「共同体」の問題が、「作品」あるいは「無為」のそれとじかに結びついていることが納得される。ただその場合も、書くことによって体験される「無為」が、この「共同体」あるいは「コミュニケーション」の特権的な場面であることに変わりはない。書くことは、生産的な活動の世界にあってすぐれて「脱-営為的」な行為だからだ。付言すれば、書くことをめぐるブランショの考察のうち、作品の代替物たる一冊の「書物」の位置に既存の多かれ少なかれ制度的な共同体を、そして作者がけっして読みえぬ「作品」の位置に「無為の共同体」をおいてみれば、書くことと共同体との関係はいっそうよく理解される。」



「〈分有〉、存在の複数性の思考――あとがきに代えて」(西谷修)より:

「第一部は他人の〈死〉のうちに露わになる〈共にある〉こと、つまりは〈共存在〉の〈共同性〉(中略)が、主体の〈営み〉(あるいは〈企て〉)の地平で構想され維持されるいなかる「想像の共同体」でもなく、〈死〉の訪れのもとで、あらゆる〈営み〉をも解除された地平の不在のうちに到来する〈分割=分有〉に他ならないことを示し、そのことによってすでにひとは、「想像の共同体」に合一すべき〈個〉である以前に、他者と〈有限性〉を分かち合う誰とも置き換えのきかない単独の異なる存在(特異な存在)なのだとしている。それが〈無為の共同体〉と呼ばれるのは、〈分割=分有〉という〈共存在〉が、個々の主体の営為の展開される地平においてではなく、主体が可能になる手前の、あるいは主体が消失してゆく、〈無為〉の場面つまりは〈営み〉の体勢が解消される場面ではじめて露わになるからである。」
「第四部でナンシーは〈分有〉の概念が書き変える共同性の思考を、存在論により密着したかたちで展開している。そこで、〈存在する〉という事態そのものが複数的にしか生起しないものだということが強調される。そしてその複数性を招来する〈分割=分有〉の共同性が、ある全体と対をなす〈個〉ではなく、それ以前にすでに還元不能な独自の〈特異存在〉を規定していることを示している。〈共存在〉とは、〈存在すること〉のひとつの局面なのではなく、その根本的様態であり、〈と共に〉あるいは〈共同で〉しか〈存在する〉という事態はありえない。そしてその〈と共に〉が抹消されるとき、存在者たちは〈分割=分有〉の共存在を失って全体主義的〈内在〉のうちに溶解することになる。
 第五部「有限な歴史」とは同時に「終わった歴史」でもあり、「歴史の終焉」のテーゼを背後に感じさせる。〈歴史〉は〈神話〉に代わって近代の〈われわれ〉の正統性を支えてきたが、それは当初から〈終わり〉によって規定されてきた。〈神話〉が途絶した世界で、〈歴史〉にもつねにすでに年季がきている。その〈歴史〉が曝しだす〈有限性〉の汀で、〈われわれ〉はどんな〈時〉を分かち合うのかが問われている。」
「あらゆる「融合」願望に抗して、〈分割=分有〉にこそ裸形の〈共同性〉を認めるナンシーの議論は、今日一サイクル回って再燃している〈国民共同体〉をめぐる論議にも、その方向を変えるものとして逐一参照されることだろう。」








こちらもご参照ください:

モーリス・ブランショ 『明かしえぬ共同体』 西谷修 訳 (ちくま学芸文庫)
西谷修 『不死のワンダーランド』



































































P・D・ウスペンスキー 『奇跡を求めて ― グルジェフの神秘宇宙論』 浅井雅志 訳 (mind books)

「つまり、すべてのものは他のすべてのものに依存しており、すべては関連していて独立したものは一つもないということだ。だから、すべてはそれがとりうる唯一の道を進んでいるのだ。人々が違ってくればすべては違ってくるだろう。」
(P・D・ウスペンスキー 『奇跡を求めて』 より)


P・D・ウスペンスキー 
『奇跡を求めて
― グルジェフの
神秘宇宙論』 
浅井雅志 訳
 
mind books


平河出版社 
1981年2月25日 第1刷発行
1984年8月1日 第7刷発行
606p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 並装 カバー
定価1,900円
装丁: 中垣信夫



本書「あとがき」より:

「本書はP・D・ウスペンスキーの *In Search of the Miraculous*, 1949 の全訳である。」



ウスペンスキー 奇蹟を求めて



カバー文:

「人間を知るには宇宙を、宇宙を知るには人間を理解しなければならない。
存在の謎を解明しようとする飽くなき情熱は、人間・宇宙をともに貫く壮大な
コスモロジーを生みだした。運命的な出会いを経て、ウスペンスキーは
知られざる神秘思想家グルジェフの
全体像を浮き彫りにしていく。」



帯裏文:

「真の自己とは? 宇宙とは?
三の法則、七の法則を基にすべての人に
開かれた第四の道とは何なのか。
出会いから別離まで、フルジェフと共に
過ごした8年間のドキュメント」



目次:

1 Gとの出会い
2 第四の道
3 複数の〈私〉
4 知識・存在・理解
5 創造の光
6 センター
7 三の法則・七の法則
8 〈本質〉と〈人格〉
9 水素論・食物論
10 道・宇宙論
11 グループ
12 性エネルギー
13 奇蹟
14 エニアグラム
15 宗教とワーク
16 時間・呼吸・生命
17 一九一七年夏
18 離脱

あとがき (浅井雅志)




◆本書より◆


「Gとの出会い」より:

「G――何をする(引用者注:「する」に傍点)かだって?〔とGは驚いたように聞き返した〕。何であれ為す(引用者注:「為す」に傍点)のは不可能だ。まず最初にあることを理解(引用者注:「理解」に傍点)しなくてはならない。人間は無数の誤った考えや概念をもっている。特に自分自身に関してはひどいものだ。だから新しいものを手に入れる前にそれらを破棄しなければならない。さもないと、新しいものは誤った土台の上に乗せられ、前よりもっと悪い結果になるだろう。
   「どうしたら誤った考えを棄てられるのですか。我々は自分の知覚形態に依存しており、誤った考えはその知覚形態の産物だと思うのですが」。Gは頭を横に振った。
G――また君は何か別のことを話している。君は知覚から生じる誤りのことを言っているようだが、私はそんなことは言っていない。与えられた知覚の限界内では、人は多かれ少なかれ誤るだろう。しかし、前に言ったように、人間の最大の妄想は、自分は為すこと(引用者注:「為すこと」に傍点)ができると思いこんでいることだ。人はみな何かできると思いこみ、またしたいと思う。だから、誰もが最初にする質問は、私は何をすべきか、となる。しかし実際は、誰一人何もしないし、またできもしない。これをまず理解しなさい。すべてはただ起こるのだ(引用者注:「すべてはただ起こるのだ」に傍点)。人間に生じること、彼によって為されたこと、彼から出てくるもの――これらはすべて起こるのだ(引用者注:「これらはすべて起こるのだ」に傍点)。しかもそれは、上空の気温の変化で雨が降ったり、陽の光で雪が溶けたり、風でほこりがまいあがったりするのと全く同じように起こるのだ。
 人間は機械だ。彼の行動、行為、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これらすべては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。人間は、自分自身では、一つの考え、一つの行為すら生みだすことはできない。彼の言うこと、為すこと、考えること、感じること、これらすべてはただ起こるのだ。人間は何一つ発見することも発明することもできない。すべてはただ起こるのだ。
 この事実を自ら確証し、理解し、それが真実だと納得するということは、すなわち、人間に関する無数の幻想、つまり自分は創造的で、自らの生を意識的に生きている等々の幻想を放棄することにほかならない。そのようなものは何一つとしてない。すべては起こるのだ。(中略)人は生まれ、生き、死に、家を建て、本を書くが、それは自分が望んでいるようにではなく、起こるにまかせているにすぎない。すべては起こるのだ。人は愛しも、憎みも、欲しもしない。それらはすべて起こるのだ。
 しかし、君が誰かにあなたは何もすることができないと言っても、誰も信じはしないだろう。それは、君が人々に言うことの中で最も侮辱的で不快なことだ。それが特別不快で侮辱的なのは、それが真実だからで、そして誰一人真実を知りたいとは思っていないのだ。
 君がこれを理解すれば、話がしやすくなるだろう。しかし、心情で理解するのと〈全身全霊〉で感じ、心底確信し、決して忘れないこととは別のことだ。
 この為すこと(引用者注:「為すこと」に傍点)〔Gはこの語に力を入れた〕についての問題には、別の問題が関連している。つまり誰もが、他人はまちがった行動をしている、ものごとを正しくやっていないと思っている。誰もが、自分はもっとうまくやれると思っている。彼らは、今やられていることや、特にすでにやられた(引用者注:「すでにやられた」に傍点)ことを、それとは別のようにやったり、あるいはやりかえしたりすることはできないことを理解しないし、またしようともしない。今みんなが戦争についてどんなふうに話しているか気づいているだろうか。みながみな自分の見解や理論をもっていて、為すべきことが為されていないと考えている。実際は、すべてはなるようになっているのだ。しかもそれは一通りしかない。もし一つのこと(引用者注:「一つのこと」に傍点)が違うようになりうるのなら、すべて(引用者注:「すべて」に傍点)は違うようになりうるだろう。そうなれば、おそらく戦争など起こらなかっただろう。
 これを理解してみなさい。つまり、すべてのものは他のすべてのものに依存しており、すべては関連していて独立したものは一つもないということだ。だから、すべてはそれがとりうる唯一の道を進んでいるのだ。人々が違ってくればすべては違ってくるだろう。(中略)
   私は理解に苦しんだ。「為しうることは何一つ、絶対に何一つないのですか」と私は聞いた。
G――絶対に何一つない。
   「では、誰一人として何かをすることはできないのですか」
G――それは別の問題だ。為す(引用者注:「為す」に傍点)ためには存在し(引用者注:「存在し」に傍点)なければならない。そして第一に存在する(引用者注:「存在する」に傍点)とはどういう意味かを理解しなくてはならない。話を続けていけば、我々が特殊な言語を使っており、我々と話すためにはこの言語を学ぶ必要があることに気づくだろう。普通の言語で話しても意味はない。それでは理解しあうことは不可能だからだ。(中略)これを理解するには、別の言語を学ぶ必要がある。人々が使う言語では理解しあうことはできない。なぜそうなのか、いずれわかるだろう。
 それから、真実を話せるようにならねばならない。これも奇妙に聞こえるだろう。君は、人間は真実を話せるようにならねばならないということをはっきりつかんでいないのだ。君は、そんなことは、そうしようと望むか決心するだけで十分だと思うだろう。それから、人が故意にうそをつくことは比較的まれだということを言っておこう。ほとんどの場合、彼らは真実を話していると思っている。にもかかわらず、彼らは常にうそをつく――そうしたいと思うときも、真実を話そうとするときも。彼らは自分にも他人にもいつもうそをつく。だから誰も、自分も他人も理解できないのだ。考えてもみなさい。もし人々が互いに理解しあえるのなら、これほどの不調和、これほどの深い誤解、他人の見方や意見に対するこれほどの憎悪が可能だろうか。しかし彼らは、うそをつかざるをえないために理解しあえないのだ。真実を話すことは世界で最も難しいことで、それができるようになるには、長時間、多大の修練を積まなければならない。そうしたいと思うだけでは十分ではない。真実を話すためには、何よりもまず自己の中で、真実とは何か、うそとは何かを知らなくてはならない(引用者注:「真実を話すためには~」以下に傍点)。ところが誰もこれを知りたいとは思わないのだ。」



「第四の道」より:

「Gが〈演技〉をしているのだという感じは、特別に強いものであった。仲間うちではよく、我々は彼を一度もわかったことがないし、またこれからもわからないだろうと話しあった。他の者なら誰でも、あれほどの〈演技〉は虚偽の印象を生みだしたにちがいない。ところが彼が〈演技〉をすると、前にも言ったようにいつもではないにせよ、力の印象を生みだし、ときにはその印象があまりに強いことさえあった。
私は特に、彼のユーモアのセンスと、〈神聖さ〉とか〈奇蹟的な〉力の所有者といった気どりが全くない点にひかれた。とはいえ、これは後になって確信したことだが、彼はそのとき、心理的性質をもつ異常な現象を起こす知識と能力をもっていたのである。しかし彼はいつも、自分に奇蹟を期待する人々を笑っていた。
彼は驚くほど多才な人間であった。あらゆることを知っており、またあらゆることができた。あるとき、彼は私に、東方旅行から多量のカーペットをもち帰ったが、その中には、複製品や、芸術的観点からすれば何の価値もないものもたくさん入っていると言った。彼はペテルスブルグにくるたびにカーペットをもってきては売ったのである。
他の人によれば、彼はただモスクワの〈トルクチカ〉でカーペットを買ってペテルスブルグへ運んでいただけだということだった。私は、なぜ彼がこんなことをするのかよくわからなかったが、〈演技〉ということと何か関係があるのだろうとは感じていた。
カーペットの売り上げは大したものだった。Gは新聞に公告を出し、あらゆる種類の人々が買いにきた。彼らはもちろん彼をただのコーカサスからのカーペット商人と見ていた。私はよく何時間も坐って彼がお客と話すのを見ていた。」
「ある日、彼は急いでいたか、それともカーペット売りの演技に疲れたかしたのだろう。見るからに金持ちだが非常に貪欲そうで、選んだ一ダースもの見事なカーペットを死にもの狂いで値切っている婦人に、彼女が選んだカーペット全部の値段の約四分の一の値で、部屋にあるカーペット全部を売ろうと言った。最初彼女は驚いたが、しかしそれから、また値切りはじめたのである。Gはニヤリと笑い、考えてから翌日返事すると言った。しかし翌日彼はペテルスブルグにはいず、彼女は一枚も買えなかったのである。
これと似たようなことがことあるごとに起こった。カーペットを使い、行商人の役を演ずることによって、ここでも彼は、ハルーン・アル・ラシッドのような変装の名人、あるいはおとぎ話の中の見えない帽子をかぶった男のような印象を与えたのである。
私が不在のときに一度、山師タイプの〈オカルティスト〉が彼のところへやってきた。(中略)自分はGや彼の知識についてかなり聞いており、彼と知り合いになりたい、と男は口を切った。
Gは、彼自身が私に語ったところによると、正真正銘のカーペット商人として振るまった。ものすごいコーカサスなまりのロシア語で、彼はその〈オカルティスト〉に、あなたは人違いしている、自分はただカーペットを売っているだけだと言いきるが早いか、カーペットを広げて彼に売りつけはじめたのである。
その〈オカルティスト〉は、友だちに一杯くわされたのだと信じて帰っていった。
「あいつは明らかに一文もなかった」とGはつけ加えた。「でなかったら無理やりカーペットを二、三枚売りつけてやったんだが」
一人のペルシア人がカーペットを直しにGのところにきていた。ある日私は、そのペルシア人がどんなふうに働いているかをGが非常に注意深く見守っているのに気づいた。
「私は、彼がどんなふうにそれをやるのか知りたいのだが、まだわからない」とGは言った。「彼のもっているあのカギ針が見えるかね。すべてはあの中にあるのだ。買いとりたいのだが彼は売ってくれないだろう」
翌日私はいつもより早く行った。Gは床に坐って、あのペルシア人がやっていたのと全く同じようにカーペットを直していた。(中略)彼の手には、あのペルシア人がもっていたのと全く同じカギ針があった。話を聞くと彼はそれを安い懐中ナイフの刃から普通のやすりを使って切りぬき、朝のうちにカーペット直しの奥義をすべて悟ったという。
Gはカーペットについていろいろなことを話してくれた。彼はかねがね、カーペットは最も古い芸術形態の一つだと言っていた。アジアのある地方の、カーペットづくりに関連した古い習慣について、また村全体が一つのカーペットを共同でつくることについて彼は話した。(中略)男も女も子供も老人も、みな各自の伝統的な仕事をもっているのである。そしてすべての仕事は音楽と歌の中で進められる。女の紡ぎ手たちは、手に紡錘(つむ)をもって働きながら特別の踊りを踊り、各自の仕事をしている人々のさまざまな動きは、同じリズムをもつ一つの動きのように見えるのである。
そのうえ、地方ごとに、遠い昔からのカーペットづくりと関連した独自の旋律や歌、踊りをもっているのである。彼がこれを話したとき、たぶんカーペットのデザインと色は音楽に関係していて、つまりそれを線と色で表現しており、またおそらくカーペットは、この音楽の記録、旋律を再生するための楽譜(引用者注:「楽譜」に傍点)ではないか、という考えが私の心をよぎった。」
「Gと何度か話して、私は彼の以前の生活についていくらか知ることができた。彼の幼年時代は、小アジアの境界に近い、不思議な、人里離れた、聖書的ともいえる雰囲気の中で送られた。数えきれないほどの羊の群れがいて、彼は、あちらこちらへ移動しながら、さまざまな変わった人々と接するようになった。彼の想像力は、とりわけ〈悪魔崇拝者〉、すなわちイェジディに刺激された。彼らは、その不可解な習慣と、門外不出の規則の不可思議なまでの遵守によって、ほんの幼い頃からGの注意をひいてきたのであった。また子供の頃、イェジディの子供たちが地面にひかれた円の外に踏みだすことができないのをよく見たものだ、とも言った。」



「〈本質〉と〈人格〉」より:

「G――(中略)人間は二つの部分から、すなわち本質(引用者注:「本質」に傍点)と人格(引用者注:「人格」に傍点)とから成り立っていることを理解しなければならない。本質は彼自身の(引用者注:「彼自身の」に傍点)ものであり、人格は〈彼自身のものではない〉あるものだ。〈彼自身のものではない〉というのは外からきたものということであり、彼の学んだもの、考えたこと、記憶や感覚の中に残っている外的な印象のあらゆる痕跡、学んだ言葉や動作、模倣によってつくられた感情、これらすべては〈彼自身のものではない〉もの、すなわち人格である。」
「小さな子供はまだ人格をもっていない。彼は真にありのままだ。つまり彼は本質なのだ。彼の欲求、好み、嗜好、嫌悪はありのままの彼の存在を表現している。
 しかし、いわゆる〈教育〉が始まるやいなや人格が形成されはじめる。人格は、部分的には他人による意識的な影響、すなわち〈教育〉から生じ、また部分的には子供が他人を無意識的に模倣することから生じる。まわりの人々に対する〈反抗〉や、〈彼自身の〉、すなわち〈真実の〉ものを人々から隠そうとすることも、人格の形成においては大きな役割を演じている。
 本質とは人間の内なる真実であり、人格は虚偽だ。しかし人格が生長するにつれて、本質はしだいに自己を表現することがまれになり、また弱くなり、そして本質は非常に初期の段階でその生長をやめ、それ以上生長しないということもしばしば起こる。成人の本質、非常に知的で、一般に認められている意味で高度の〈教育を受けた〉人間の本質でさえ、五、六歳の段階で止まっていることもよくある。これは、この人間の内に我々が見るすべてのものは、現実には〈彼自身のものではない〉ということだ。人間の内の彼自身のもの、つまり彼の本質は、普通彼の本能、または最も単純な感情の中でのみ顕現する。とはいえ、本質が人格と平行して生長するケースもあるにはある。そのようなケースは、とりわけ文化生活という環境のもとでは非常にまれな例だ。絶え間ない闘争と危険に満ちた困難な条件のもとで自然に近い生き方をする者の方が、その本質が発達する可能性は大きいのだ。
 しかし一般に、このような人々の人格はごくわずかしか発達しない。彼らは自分自身のものはたくさんもっているが、〈自分自身のものでない〉ものはわずかしかもっていない。つまり、彼らは教育や指導、そして文化を欠いているのだ。文化は人格をつくりだし、また同時に文化は人格の産物であり結果でもある。生活全体や、文明、科学、哲学、芸術、政治と呼んでいるものすべては、人々の人格から、つまり彼らの内の〈彼らのものではない〉ものから生みだされたものであることを我々は認識していない。
 〈彼自身のものではない〉要素は、失われ、変えられ、人工的な手段によってとり去ることができるという点で彼〈自身の〉ものから区別される。」
「自己修練における非常に重要な瞬間は、自分の人格と本質とを識別しはじめる時点である。自分の中の真の〈私〉、すなわち個体性はその本質からのみ生長することができる。個体性は、生長し、成熟した本質だとも言える。しかし本質の生長を可能にするためには、まず第一に、絶え間ない人格からの抑圧を弱めなければならない。というのは、本質の生長を妨害するものは人格の中に含まれているからだ。
 平均的な教養ある人間をとりあげてみると、非常に多くの場合、彼の本質が受動的要素であるのに対し、人格は能動的要素であることがわかるだろう。この状態が変化しないで残っている限り、彼の内的生長は始まることができない。つまり人格が受動的になり、本質が能動的にならなくてはならないのだ。そして、これは〈緩衝器〉がとり除かれるか弱められるかしたときにだけ起こりうる。なぜなら、〈緩衝器〉は人格が本質を服従させるための主要な武器だからだ。
 前に言ったように、教養の低い人々の場合には、本質は教養のある人よりも高度に発達している。それなら彼らは進化の可能性にもっと近づいているべきだと思うかもしれないが、現実にはそうではない。なぜなら、彼らの場合、明らかに人格が十分発達していないからだ。つまり内的生長、自己修練のためには、本質のある程度の強さとともに人格のある程度の発達も必要なのだ。人格は〈記録装置〉と、複数のセンターのある働きの結果である〈緩衝器〉とから成っている。人格が十分に発達していないということは、〈記録装置〉、すなわち自己修練の土台となるべき知識、情報、材料を欠いているということだ。知識のある程度の蓄積、一定量の〈自分のものではない〉材料がなくては、自己修練はもちろん、自己研究、機械的な習慣との闘いさえ始めることはできない。」
「自己修練をうまく始めるためには、人格と本質との平等な発達という幸運が必要となる。(中略)もし本質がほんのわずかしか発達していなければ、長期の準備的ワークが必要であり、もしくは本質が内部で腐っているか、あるいは何かとりかえしのつかない欠陥を生じさせているなら、このワークは全く実りのないものになるだろう。こういう状態はよく起こる。人格の異常な発達はしばしば初期の段階で本質の発達を妨害するので、本質はちっぽけなできそこないになってしまう。(中略)さらに、人格と肉体はまだ生きているのに、本質が死んでいるというのもかなりよくあるケースだ。大都市の通りで我々が見るかなりの割合の人々は内部はからっぽ、つまり実際にはすでに死んだ(引用者注:「すでに死んだ」に傍点)人間なのだ。
 我々がそれを見ず、知りもしないということは幸運だ。もしいかに多くの人々が実際には死んでおり、またいかに多くの死せる人々が我々の生活を統治しているかを知れば、我々は恐怖で気が狂ってしまうだろう。」








こちらもご参照ください:

ルネ・ゲノン 『世界の王』 田中義廣 訳
高橋巌+荒俣宏 『神秘学オデッセイ』 (新装版)
マーベル・コリンズ 『道を照らす光』





































クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』 大橋保夫 訳

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。」
(クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』 より)


クロード・レヴィ=ストロース 
『野生の思考』 
大橋保夫 訳
 


みすず書房 
1976年3月30日 第1刷発行
1985年11月5日 第13刷発行
vii 366p 別丁図版(モノクロ)8p 
索引・文献30p 著者・訳者略歴1p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,300円
カバー: (表)野生のパンジー/(裏)クズリ



本書「訳者まえがき」より:

「本書は Claude Lévi-Strauss, *La Pensee sauvage* (Paris, Librairie Plon, 1962)の翻訳である。」


本書「訳者あとがき」より:

「本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる「未開の思考」なるものが存在するという幻想の解体である。未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は「野蛮人の思考」ではなく、われわれ「文明人」の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ「野生の思考」と呼ぶべきものである。それに対して「科学的思考」は、かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された「栽培思考」なのだ。この分析を通じてレヴィ=ストロースは野生の思考を復権させるとともに、神話の論理の探究への道を開いた。それは人間精神の普遍性の把握にもとづく異文化理解の基礎理論の建設であると同時に、(中略)西欧文化のエスノセントリズムの自己批判でもある。」
「レヴィ=ストロースのタイトルのつけ方が凝ったものであることはよく知られているが、中でも『野生の思考』は特別である。La Pensée sauvage が「野生のパンジー」にかけたものであることは広く知られているが、それではなぜ、一見だじゃれとも見えるようなかけことばを使うのだろうか。」
「たまたまフランス語では pensée が「思考」でもあり「パンジー」でもあるということ、また sauvage という形容詞が人間については「野蛮な」で植物については「野生の」であってその区別がないことを利用して、「思考」という名詞と「野生の」という形容詞との結合が成立したのである。」
「訳注にも記したように、sauvage は「文明人」 civilisé との区別を前面に出す、きわめて侮蔑的な用語であり、その点では進化主義的な primitif 「未開人」をはるかに上まわる。それゆえにこそ現在はおもて向きには用いられなくなっているのであるが、(中略)まさに西欧文化の偏見、自民族中心主義(エスノセントリズム)の凝集とも言える用語なのである。そのような見かたから「野蛮な思考」と考えられてきたものを「野生の思考」に転換させるという本書の直接の目的に、このタイトルはみごとに適合している。そして、その手法自体が本書に取り上げられているブリコラージュそのものなのである。」
「それだけではない。こんどは逆に、(中略)付録においてヨーロッパの民話に使われた「野生のパンジー」を取り上げ、ヨーロッパにおいてもトーテミズムと同じような、自然を利用した具体的思考、すなわち「野生の思考」がごくふつうに働いていることを示している。そしてこの巻末は、そのまま『神話論理』への道に開く出口になっている。」



「訳者あとがき」重版追記より:

「重版にあたり、誤植、原著新版の追加、変更箇所、原著の誤記、不適切な訳語や訳注などを象嵌の可能な範囲で訂正した。」


本文中に図11点。
でてきたのでひさしぶりによんでみました。



レヴィ・ストロース 野生の思考 01



カバーそで文:

「野生の思考 La Pensée sauvage は、1960年代に始まったいわゆる構造主義ブームの発火点となり、フランスにおける戦後思想史最大の転換をひきおこした著作である。
 sauvage (野蛮人)は、西欧文化の偏見の凝集ともいえる用語である。しかし植物に使えば「野生の」という意味になり、悪条件に屈せぬたくましさを暗示する。著者は、人類学のデーターの広い渉猟とその科学的検討をつうじて未開人観にコペルニクス的転換を与え sauvage の両義性を利用してそれを表現する。
 野生の思考とは未開野蛮の思考ではない。野生状態の思考は古今遠近を問わずすべての人間の精神のうちに花咲いている。文字のない社会、機械を用いぬ社会のうちにとくに、その実例を豊かに見出すことができる。しかしそれはいわゆる文明社会にも見出され、とりわけ日常思考の分野に重要な役割を果たす。
 野生の思考には無秩序も混乱もないのである。しばしば人を驚嘆させるほどの微細さ・精密さをもった観察に始まって、それが分析・区別・分類・連結・対比……とつづく、自然のつくり出した動植鉱物の無数の形態と同じように、人間のつくった神話・儀礼・親族組織などの文化現象は、野生の思考のはたらきとして特徴的なのである。
 この新しい人類学 Anthropologie の寄与が同時に、人間学 Anthropologie の革命である点に本書の独創的意味があり、また著者の神話論序説をなすものである。
 著者は1959年以来、コレージュ・ド・フランス社会人類学の教授である。」



目次:


第一章 具体の科学
第二章 トーテム的分類の論理
第三章 変換の体系
第四章 トーテムとカースト
第五章 範疇、元素、種、数
第六章 普遍化と特殊化
第七章 種としての個体
第八章 再び見出された時
第九章 歴史と弁証法
付録

訳注
訳者あとがき

文献
人名・書名索引
事項索引




レヴィ・ストロース 野生の思考 02



◆本書より◆


「具体の科学」より:

「土器、織布、農耕、動物の家畜化という、文明を作る重要な諸技術を人類がものにしたのは新石器時代である。」
「これらの技術はいずれも、何世紀にもわたる能動的かつ組織的な観察を必要とし、また大胆な仮説を立ててその検証を行ない、倦むことなく実験を反復して、その結果捨てるべきものは捨て、とるべきものはとるという作業を続けてはじめて成り立つものである。」
「野生植物を栽培植物に、野獣を家畜にかえ、もとの動植物にはまったく存在しないか、またはごく僅かしかみとめられない特性を発達させて食用にしたり技術的に利用したり、不安定で、壊れたり粉になったり割れたりしやすい粘土から、かたくて水のもれぬ土器をつくったり(中略)、土のない所や水のない所で栽培する技術、毒性をもった種子や根を食品にかえる技術、逆にその毒性を狩猟や戦闘や儀礼に利用する技術、多くの場合ながい時間を要するこれらの複雑な技術を作りあげたりするために必要なのは、疑いの余地なく、ほんとうに科学的な精神態度であり、根強くてつねに目ざめた好奇心であり、知る喜びのために知ろうとする知識欲である。」
「したがって、新石器時代ないし歴史時代初期の人間は、長い科学的伝統の継承者なのである。」

「原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」 bricolage (器用仕事)と呼ばれる仕事である。(中略)今日でもやはり、ブリコルール bricoleur (器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の器用仕事(ブリコラージュ)である。これで両者の関係が説明できる。
 工作面での器用仕事(ブリコラージュ)がそうであるように、知的面で神話的思索が思いがけぬすばらしいできばえを示すこともある。逆に器用仕事(ブリコラージュ)の神話創作的性格もしばしば述べられているところである。たとえば美術でのいわゆる「アール・ブリュット」や「アール・ナイフ」、郵便配達夫シュヴァルの邸宅の幻想的建築、ジョルジュ・メリエスの舞台装置、(中略)」
「器用人(ブリコルール)は多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬというようなことはない。彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内部構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。すなわち、いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりしたときの残りもので維持されているのである。(中略)器用人(ブリコルール)の用いる資材集合は、単に資材性〔潜在的有用性〕のみによって定義される。器用人(ブリコルール)自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められ保存された要素でできている。」

「周知のごとく、美術家は科学者と器用人(ブリコルール)の両面をもっている。職人的手段を用いて彼はある物体(オブジェ)を作り上げるが、それは同時に認識の対象(オブジェ)でもある。(中略)科学者と器用人(ブリコルール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人(ブリコルール)は出来事を用いて構造を作る。(中略)クルエの手になる女性の肖像画を見よう。そしてレースの襟飾りが綿密に糸一本一本まで実物と見まがうばかりに描かれていて、それが説明のつかぬ(と思われる)大へん深い感動をひき起こす理由を考えてみよう。」
「周知の通り、彼は実物より小さく描くことを好んでいた。したがって彼の絵は、箱庭やミニカーや壜の中の船のように、器用人(ブリコルール)の用語でいう「模型」なのである。」

「芸術哲学にとって本質的な問題は、作家が材料や製作手段に「話し相手」の資格を認めるかどうかを知ることである。(中略)美術が、(中略)われわれを感動させるとすれば、(中略)偶然性を作品にもり込み、それによって物それ自体としての尊厳を作品に与えることが条件になる。アルカイック美術、未開美術、および初期段階のプロ美術だけが古くさくならないのは、偶然事を生かして製作に役立てるからである。すなわち、与えらえた生のものを意味づけの経験的材料として完全に使おうとするからである。」



「トーテム的分類の論理」より:

「民俗思考で意味を付与されている存在は、人間とのあいだに何らかの類縁性をもつと見られている。オジブワ族は超自然的存在の世界を信じている。

    「……しかしながら、これらを超自然的存在と呼ぶのはインディアンの考えかたをいささか曲げることになる。それらも人間と同じように、世界の自然的秩序の中にはいっているのである。すなわち、知能と情意を備えているという点でそれらは人間に似ている。人間と同様にそれらにも雌雄があり、なかには家族をもちうるものもある。あるものははっきりきまった地点に定着し、あるものは自由に移動する。インディアンに対しては、好意的なものもあるし、敵意をもつものもある。」(Jenness *2*, p. 29)」

「現地人自身も時には自分たちの知の「具体」性について鋭い感情をもっており、それを白人の知につよく対立させている。

   「われわれは動物が何をしているか、海狸(ビーバー)や熊や鮭やその他の動物が何をもとめているかを知っている。それは、むかし人間の男は動物と結婚し、妻とした動物からその知識を得たからである。……白人はこの土地に暮すようになってからまだ日が浅い。したがって動物のことをあまりよく知らない。ところがわれわれは何千年も前からここに住んでおり、ずっと昔から動物に教えてもらっている。白人は何もかも本に書きとどめて忘れないようにする。ところがわれわれの先祖は動物を妻とし、彼らの習性をことごとく覚え、その知識を代々伝えてきたのである。」(Jenness *3*, p. 540)」

「現代人の中にも、好みや職業から、動物に対して、(中略)むかし狩猟民すべてに共通であった立場にわれわれの文化が許す範囲で非常に近い立場にある人たちがいる。それはサーカスや動物園で働く人びとである。(中略)チューリッヒの動物園の園長がはじめてイルカと差し向い――もしそう言ってよければ――になったときの話ほど示唆に富むものはない。(中略)著者はつぎのように自分の感動を記している。

   「フリッピーは魚とはまるっきり違う。一メートルに足りない距離からきらきら光る目で見つめられると、これがほんとうに動物なのかと自問せずにはいられない。まことに思いもおよばぬ、不思議な、まったく神秘な動物であって、魔法にかけられて姿をかえた人間かと思いたくなるほどであった。残念なことに動物学者の頭脳は、冷ややかな、いまの場合ほとんど苦痛でさえある事実から切り離して考えることができない。学名で言えばそれは *Tursiops truncatus* でしかないのだ……」(Hediger, p. 138)

 科学者の筆になるこのようなことばは、必要とあらば、つぎのようないろいろのことを明らかにするのに十分だろう。理論的知識が感情と両立しえぬものではないこと、認識は同時に客観的でも主観的でもありうること、さらに、人間と動物の具体的関係がときには、とくに学問が全面的に「自然科学」であるような文明において、科学的認識の世界全体を情的色合で彩っていることを。(中略)動物学者の意識の中に分類学と愛情が仲よく同居しうるとしたら、いわゆる未開民族の思考の中でこの二つの態度が結びついていることを説明するのに別の原理をひっぱり出す理由はないのである。」



「普遍化と特殊化」より:

「未開社会は人間の範囲を部族集団の中だけに限り、その外のものは異人、すなわち汚らわしく野蛮な亜人間としか考えないし、極端な場合は危険動物ないし亡霊といった非人間と見る場合さえあると言われてきた。それは根拠のない話ではないし、また正当な場合が多い。しかしながら、トーテム的分類法の本質的機能の一つはまさにこの集団の閉鎖性を打開して、無限界に近い人類観を促進することであるという点がそこでは無視されている。この現象は、いわゆるトーテミズム組織なるものの古典的地域とされてきたところではどこでも確認されている。西オーストラリアのある地方では、「全氏族とそのトーテムを部族の枠を越えていくつかのトーテム区分に分類する族際的体系」が存在する。」
「アメリカでもスー族やアルゴンキン族について同じような観察がなされている。アルゴンキン族に属するメノミニ・インディアンは、

   「……同じ部族に属して共通のトーテムをもつ個人の間だけでなく、別の部族でも、また話す言語が違った語族のものであっても、同じトーテムによって命名されている人間どうしの間には共通の関係が存在すると広く一般に信じられている。」(Hoffman, p. 43)」



「種としての個体」より:

「フランス語では、雀はピエロ、おうむはジャコ、カササギはマルゴ、アトリはギーヨーム、ミソサザイはベルトランもしくはロベール、水鶏はジェラルディーヌ、コキンメフクロウはクロード、ワシミミズクはユベール、カラスはコラ、白鳥はゴダール、というように呼ばれる。最後にあげたゴダールという名は社会的に意味のある条件にも関係している。すなわち十七世紀には、産褥にある妻をもつ夫をこの名で呼んでいたのである。*」
「* このように小さくて単純な系列でも、さまざまな論理レベルに属する項を含んでいることは、大きな意味をもつ。「ピエロ」は、たとえば「バルコニーにピエロ(雀)が三羽いる」と言えるから、クラス指標になりうる名である。しかし「ゴダール」は呼びかけ名である。トレヴーの辞書(一七三二年版)のこの項の筆者がみごとに記しているように、「ゴダールは白鳥につける名である。白鳥に呼びかけ、自分の方へ来るように言うとき、『ゴダール、ゴダール』とか、『おいで、ゴダール、こっちへおいで』とか、『ほら、ゴダール』というようにこの名を使う。」ジャコは、そしておそらくマルゴも、その中間的役割を果たすように思われる。」

「他のクラスの動物より鳥類の方が種ごとに人間の名をとりやすいのは、まさに、鳥が人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよいからなのである。鳥は羽毛に覆われ、翼があり、卵生であるし、また生理的にも、空気中を飛びまわれるという特権があって人間社会とは分離している。
 この事実によって鳥類は、人間のコミュニティから独立した別のコミュニティを形成している。しかし、そのコミュニティは、まさにその独立性そのもののゆえに、別個ではあるがわれわれの社会と相同の社会であるように思われるのである。鳥は自由を愛する。すみかを作って家庭生活をし、子供を育てる。同じ種の他の成員と社会関係をもつこともしばしばである。そして相互に、人間の言語を思わせる音響的手段でコミュニケーションを行なう。
 したがって、鳥の世界を人間社会の隠喩と考えるためのあらゆる条件が客観的に揃っている。それにまた人間社会は、別のレベルにおいて、鳥の世界と文字どおりパラレルなのではないか? 神話や民間伝承には、この表現様式が頻繁であることを示す無数の例がある。」



「再び見出された時」より:

「私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。栽培思考は地球上のあるいくつかの地点に、歴史上のあるいくつかの時期に現れたものであって、(中略)今日のわれわれには、この両者が共存し、相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、(中略)共存し交配されうるのと同じである。もっとも、栽培植物や家畜の存在は(中略)野生種を絶滅させるおそれがあるけれども。しかしながら、(中略)野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。芸術の場合がそれであって、(中略)また、社会生活の中にも、まだ開拓が進んでいなくて、とりわけてこれによくあてはまる領域がたくさんある。そこには、(中略)野生の思考が依然として繁茂している。
 私が野生の思考と呼びコントが自発的思考とするものの例外的性格は、とくにそれが自らに定める目的の広大さにある。この思考は分析的であるとともに同時に綜合的であろうとし、また両方向の極限にまで進むことを目指しつつ、同時にその両極間の調停能力を保有しようとする。」

「真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかも知れないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。(中略)それに対して呪術操作は、宇宙の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。」

「未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかを言いあてるオーストラリア原住民(Meggitt)のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらには目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いま相手の車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。(中略)われわれの能力がとぎすまされ、知覚が鋭敏になり、判断が確実性をますのは、(中略)まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。」

「私はほかの所で、「歴史なき民族」とそれ以外の民族を分けるのはまずい区別であって、それよりも、(中略)「冷い」社会と「熱い」社会とを区別する方がよかろうという考えを述べておいた。冷い社会は、自ら創り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力とする。(中略)さらに、史的連鎖にもいくつかの型を区別しなければならない。ある種の史的連鎖は、持続〔時間〕の中にあるとは言うものの、回帰性をもっている。たとえば四季の循環、人間の一生の循環、社会集団内の財物と奉仕の交換の循環などがそれである。これらの連鎖は、持続の中で周期的に繰返されてもその構造は必らずしも変わるわけではないので、問題とはならない。「冷い」社会の目的は、時間的順序が連鎖それぞれの内容にできるだけ影響しないようにすることである。」
「この点に関しては、あらゆる社会が歴史の中にあり発展してゆくものだということを証明するために論拠を積み上げたところで、おもしろくもないしまた何の役にも立たない。それは自明のことである。ところが、こういう余計な証明に一生懸命になっていると、この共通の条件に対する人類社会の対応のしかたが非常に多様であることを見落してしまう危険性がある。好んでかしぶしぶかは別としてこの条件を受け入れ、意識化することによってそのおよぼす結果(自らに対する、また他の社会に対する)を異常に増幅する社会もあるが、他方それを無視して、発展過程の中で「初原的」と考えられる状態を巧みに――われわれはその巧みさを過小評価している――可能な限り恒常化しようとする(そのためにわれわれが原始的と呼ぶ)社会もある。」
「あと解明すべき問題は、野生の思考が(中略)、いわば通時態を手なずけて共時態と協力させ両者の間に新しい軋轢が起らぬようにして、この矛盾を統一性のある体系を作り上げるための材料にしてしまうやり方である。
 儀礼があるおかげで、神話の「離接的」過去は、一方で生理的季節的周期性に、他方で全世代にわたって生者と死者とを結ぶ「連接的」過去につながる。」



「歴史と弁証法」より:

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。野生の思考の世界認識は、向き合った壁面に取りつけられ、厳密に平行ではないが互いに他を写す(そして間にある空間に置かれた物体をも写す)幾枚かの鏡に写った部屋の認識に似ている。多数の像が同時に形成されるが、その像はどれ一つとして厳密に同じものはない。したがって像の一つ一つがもたらすのは装飾や家具の部分的認識にすぎないのだが、それらを集めると、全体はいくつかの不変の属性で特色づけられ、真実を表現するものとなる。野生の思考は、imagines mundi (世界図――複数)を用いて自分の知識を深めるのである。この思考がいくつかの心的建造物を作り上げると、それらが世界に似ておれば似ているほど、世界の理解が容易になる。この意味において、野生の思考を類推思考と定義することができたのである。
 しかしまたこの意味において、野生の思考は家畜化された思考と区別される。歴史認識はこの家畜的思考の一面を構成するものである。」

「野生の思考で取り扱いうる特性は、もちろん科学者の研究対象とする特性と同じではない。自然界は、この二つの見方によって、一方で最高度に具体的、他方で最高度に抽象的という両極端からのアプローチをもつのである。言いかえれば、感覚的特性の角度と形式的特性の角度である。しかしながらこの二つの道は、少くとも理論的には、(中略)当然合流して一つになるべきものであった。これによって理解できるようになるのは、この二つの道がどちらも、時間および空間の中において相互に無関係に、まったく別々であるがどちらも正方向の、二つの知を作り出したことである。一方は感覚性の理論を基礎とし、農業、牧畜、製陶、織布、食物の保存と調理法などの文明の諸技術を今もわれわれの基本的欲求に与えている知であり、新石器時代を開花期とする。そして他方は、一挙に知解性の面に位置して現代科学の淵源となった知である。」
「科学精神は、そのもっとも近代的な形において、科学精神のみに予見しえた出会いにより、野生の思考の原理の正当化とその権利の回復に貢献しうるものである。それを認めることはすなわち、野生の思考の教えへの忠誠をまもることにほかならない。」



「付録」より:

「「むかし『三色スミレ』〔野生のパンジー〕は『三月スミレ』(ニオイスミレ)よりも甘美な香を放っていた。その頃は小麦畑の中に生えていたので、摘みに来る人たちがみな小麦を踏みつけた。スミレは小麦がかわいそうになり、香をなくして下さるようにと聖三位一体に懇願した。その願いは聞き届けられた。そのため、この花は『三位一体花』とも呼ばれる。」(Panzer, II, 203 - Perger, p. 151 の引用による。)」

「「ある日のこと、両親の知らぬ間に、兄が自分の妹と(妹であるとは知らないで)結婚してしまった。心ならずも罪を犯したと知って二人があまりに歎き悲しむので、神様は哀れに思し召され、二人をこの花(パンジー)の姿に変えておしまいになった。それ以来この花は bratky (キョウダイ)と呼ばれている。」(ウクライナ地方の伝説。*Revue d'Ethnographie* (ロシア語) t. III, 1889, p. 211 [Th. V.])」








こちらもご参照ください:

レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 上』 川田順造 訳
多田智満子 『鏡のテオーリア』
大林太良 『葬制の起源』 (中公文庫)
谷川健一 『黒潮の民俗学』















































レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 下』 川田順造 訳

「このようにしてボロロ族は、彼らの人間としての姿を、或る魚(その名で彼らは自分たちを呼んでいる)の姿と、アララ鸚鵡(おうむ)(その姿になることで、ボロロ族は輪廻(りんね)のひと巡(めぐ)りを終る)の姿とのあいだの移行形と看做している。」
(レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 下』 より)


レヴィ=ストロース 
『悲しき熱帯 下』 
川田順造 訳
 


中央公論社 
1977年12月10日 初版発行
1994年4月20日 14版発行
v 367p 口絵(モノクロ)38p
地図(巻末折込)1葉
定価2,450円(本体2,379円)



本書「凡例」より:

「本書は、和訳の作業が十二年にわたったため、底本としては、章によって、一九六二年版以後の、Claude LÉVI-STRAUSS, *Tristes Tropiques* (Collection "Terre Humaine"), Plon, Paris. の様々な版を、その時々にパリで入手して用いたが、すべての訳稿が完成したのち、一九七六年版に合せて統一した。」


別丁口絵図版(モノクロ)53点。本文中に図17点。全二冊。



レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 下 01



帯文:

「ブラジルでの広汎な調査旅行と考古学的関心のなかで著者が培った、斬新な文化認識の方法は、現代思想界に鮮烈な衝撃を与えた。著者は、文化の幾つかの徴候の吟味を通して隠れた意味の解読に努め、ユニークな「熱帯」の比較文明論を展開して、この名著を結ぶ。愛弟子が十二年を費やした鏤骨の邦訳、遂に成る。」


帯背:

「構造主義
の原点」



カバー裏文:

「時間の秩序を敢えて交錯させた重層的な叙述。空間の秩序においても、可視的な対象を一旦分解したあとで、知的に一つの新しい実在を再構成してゆく叙述。言葉と言葉の破格な結び合わせ。言葉の多義性を通しての意味の啓示。ときに、曖昧な語法によって、観念はかえって厚みを帯びて定着する。そして、隠喩と換喩のふんだんな使用――これは、単なる修辞上の技法ではなく、レヴィ=ストロースの世界把握の方法の根底にもかかわる。
認識の方法としての隠喩と換喩は、人文科学における実証主義、経験主義の方法とは対照的なもので、後者の方法によっては明かにできない次元に隠れていたものを、一挙に発(あば)いてみせる力をもっている。隠れた次元に向って異常に発達した感受性を通して、この著者は、常人とは別の世界を知覚しながら生きているのではないかとさえ、思いたくなる。
レヴィ=ストロースのブラジルでの体験は、資料を蒐集する行為としてよりは、彼の文化認識の方法――というよりもっと根本的な、文化人類学者としての感性――を形作る上で、特に意味をもったように思われる。
(著者と訳者との対談・解説「二十二年ののちに」より)」



目次:

第六部 ボロロ族
 21 金とダイヤモンド
 22 善い野蛮人
 23 生者と死者
第七部 ナンビクワラ族
 24 失われた世界
 25 荒野(セルタウン)で
 26 電信線に沿って
 27 家族生活
 28 文字の教訓
 29 男、女、首長
第八部 トゥピ=カワイブ族
 30 カヌーで
 31 ロビンソン
 32 森で
 33 蟋蟀(こおろぎ)のいる村
 34 ジャピンの笑劇
 35 アマゾニア
 36 セリンガの林
第九部 回帰
 37 神にされたアウグストゥス
 38 一杯のラム
 39 タクシーラ
 40 チャウンを訪ねて

訳注
参考文献一覧
訳者あとがき

地図




レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 下 02



◆本書より◆


「22 善い野蛮人」より:

「一方は河で限られ、他の方角はすべて菜園を奥に隠している切れぎれの森に囲まれた空き地の真ん中に、いま私はいる。森の木のあいだからは、その向うに、急斜面を成した赤い砂岩の丘が幾つか見える。空き地のぐるりは、一列の環状に並んだ、私のに似た小屋――正確には二十六戸の小屋――で占められている。中央には、長さ約二十メートル、幅八メートルの、従って他のものより遙かに大きい小屋がある。これは「バイテマンナゲオ」つまり「男の家」で、独身の男はここで眠り、漁や狩りで男たちの手がふさがっていないか、あるいは踊りの広場で何か公けの儀式をしていない時には、彼らはここに来て一日を過すのである。(中略)女たちは、男の家への出入りを固く禁じられている。女たちは周縁部に家を持っており、彼女らの夫は、日に何度か、空地の藪を抜けて通じている細道を辿って、男の集会所と夫婦の住居のあいだを往復するのである。木や屋根の上から見ると、ボロロ族の村は荷車の車輪に似ている。家族の住居は輪に当るであろうし、小径(こみち)は輻(や)を、車輪の中央にある男の家は轂(こしき)を模(かたど)っていると言えるかもしれない。
 この興味深い家の配置は、村の人口が当時の平均人口(ケジャラでは、およそ百五十人だった)を著しく越えない限り、かつてはすべての村に見られたものだった。」
「男の家の周りに小屋を環状に配置することは、社会生活や儀礼の慣行にとって、極めて重要な意味をもっているので、ダス・ガルサス河地方のサレジオ会の宣教師たちは、ボロロ族を改宗させるのに最も確かな遣り方は、彼らの集落を放棄させ、家が真直ぐ平行に並んでいるような別の集落にすることにある、ということを直ぐに理解した。原住民たちは、東西南北の方位についても感覚が混乱し、彼らの知識の拠りどころとなる村の形を奪われて、急速に仕来りの感覚を失っていった。」



「23 生者と死者」より:

「敬意をもって死者を取り扱わない社会は、恐らく存在しないだろう。」
「或る社会は、死者をそっと休息させておく。定期的に敬意を捧げられることによって、死者は生者を煩(わずらわ)すことを差し控えるのである。死者が生者に会いに来るとしても、間をおいて、しかも予定された機会に来るのである。そして、死者の来訪は生者に福利をもたらすものであって、死者はその保護によって、季節の規則正しい再来や農作と女性の豊饒を保証する。まるで、死者と生者のあいだに契約が結ばれてでもいるかのように、すべては運ばれる。死者に捧げられる然るべき供養の報いとして、死者は彼らの住処(すみか)を離れず、生者との一時(いっとき)の出会いも、常に生者の利益への慮(おもんばか)りに充ちている。世界に広く見出される民間伝承の主題の一つである「感謝する死者」は、よくこの関係を表している。金持の主人公が、埋葬に反対している債権者たちから、一体の死骸を買い取る。彼は死者を正式に埋葬する。死者は恩人の夢に現われて一つの成功を約束する。ただし、この成功によって得られた利益が、彼ら二人のあいだに公正に配分されるという条件で。事実、主人公は、超自然の力をもつ彼の保護者の助けによって、一人の王女を数々の危険から救い、たちまち王女の愛を得る。(中略)だが、王女は魔法にかけられているのだ――半ば女性だが、半ばは竜もしくは蛇なのである。死者は彼の権利を要求する。主人公は要求に従う。(中略)死者は、自分の取り分として呪われた部分を除いてやり、人間に戻った花嫁を主人公に与える。
 こうした考え方に、もう一つのものが対置される。これも民間伝承の主題の一つが明かにしているもので、(中略)主人公は金持ではなく、貧しい。彼は全財産として麦を一粒もっているのだが、企みによって、それを一羽の雄鶏と、それから一匹の豚と、次には一頭の牛と、次には一体の死骸と取り換えるのに成功する。とうとう彼は、死骸を一人の生きた王女と交換する。ここでは、死者は対象であって、(中略)取引の相手ではなく、嘘や計略が幅をきかせる、投機をやってのける手立てなのである。或る社会は、死者に対してこの種の態度をとる。社会は死者に休息を与えず、死者を動員する。時として、それは語義通りの動員であり、例えば、死者の徳や力を身につけたいという願いに基づいた食人や死体嗜食の風習がそれに当る。(中略)こうした社会では、そうでない社会以上に、人々は、彼らがいいだけ利用している死者のために、社会の平安が乱されているのを感じている。死者は、うるさく付き纏われたお釣りを社会に返しているのだ、と人は思っている。生者が死者を利用しようとすればするだけ、死者は生者に対していっそう気難(きむずか)しく、喧嘩(けんか)腰になるのである。しかし、第一の場合のように公正な分配をするにせよ、あるいは第二の場合のように度外れの投機をするにせよ、そこに支配的に働いているのは、死者と生者との関係において、結局「二人で分け合う」ことになるのは避けられないという考え方なのである。」
「死者が無感覚で無名の存在になるヨーロッパでさえ、民間伝承は、死者には二つの種類があるという信仰によって、別の死者観のあり方の痕跡を保っているのである。それによると、自然な原因で斃(たお)れた者は保護者としての先祖の一群を形づくっているが、自殺した者や暗殺された者、呪い殺された者などは、禍いをもたらす嫉(ねた)み深い精霊に姿を変えるのである。」

「もし私が、ボロロ族にとって自然死は存在しない、と言ったとすれば、私は自分の考えを十分に言い表したとは言えない。彼らにとっては、一人の人間は一つの個体ではなく一つの人格なのである。人間は社会学的な宇宙の部分を成している。集落は、物理的宇宙と隣り合って、全き無窮のうちに存在しており、物理的宇宙そのものも、他の霊魂をもった存在――天体や気象現象――から成っている。このことは、実際に、ある村が(耕地の消耗のために)同じ場所に三十年以上留まることは滅多にないという、かりそめの性格をもっているにもかかわらず言えるのである。従って村を成しているのは、土地でも小屋でもなく、すでに記述したような或る一つの構造であり、その構造をすべての村が再現するのである。宣教師たちが村の伝統的な配置を妨げることによってすべてを破壊することも、このようにして理解できる。
 動物について見ると、彼らの一部、とくに魚と鳥は人間の世界に属しているが、或る種の陸棲動物は物理的宇宙のものである。このようにしてボロロ族は、彼らの人間としての姿を、或る魚(その名で彼らは自分たちを呼んでいる)の姿と、アララ鸚鵡(おうむ)(その姿になることで、ボロロ族は輪廻(りんね)のひと巡(めぐ)りを終る)の姿とのあいだの移行形と看做している。」

「先に私は、一人の呪術師と同じ小屋に私が住んでいる、と書いた。「バリ」たちは、物理的宇宙、社会的世界のどちらにも完全には属していず、二つの世界のあいだに媒介を成り立たせることを役目とする、人間存在の特別な一範疇を形作っている。(中略)バリになるのは天性によってだが、啓示の結果なることも多い。啓示の要諦は、邪悪な、あるいは単に怖れられている精霊から成る大層複雑な集団の、成員の何人かと契(ちぎ)りを結ぶことにある。これらの精霊は、一部は天界のもので、従って天体現象や気象現象を意のままにし、一部は獣(けだもの)で一部は地下のものである。全体としては死んだ呪術師の魂によって規則的に増大してゆくこれらの存在は、天体の運行や、風や、雨や、病気や、死を司っている。彼らは様々な恐ろしい姿のものとして語られる。毛むくじゃらで頭には穴があき、タバコを吸うとその蒸気が穴から洩れて来るとか、空の怪物で、目や鼻や、あるいは度外れに長い髪の毛や爪から雨を噴き出すとか、一歩足で腹はふくれ、体は蝙蝠(こうもり)のように綿毛で覆われている、などである。
 バリは非社会的な存在である。ひとりびとりがその絆で一つまたは幾つかの精霊と結び合わされているお蔭で、バリは特権を賦与されている。」
「しかしながらバリは、その守護霊によって支配されてもいる。守護霊はバリを利用してバリに乗り移るが、そのとき、守護霊の担い手であるバリは、憑依(ひょうい)状態になって、体を震わせるのである。」
「物理的世界の傍らで、社会学的な世界は全く別の性質を示している。普通の人間(私が言おうとしているのは、呪術師でない人たちという意味だ)の魂は、自然の諸力に同化する代りに、一つの社会として留まり続ける。しかし逆に、これらの魂は、人格としての個別性を失って「アロエ」という集合的な存在のうちに溶け込んでしまう。アロエという言葉は、古代ブルターニュ人の「アナオン」のように、「霊魂の社会」とでも訳されるべきなのであろう。」
「バリが、一方で人間社会と、他方で個別的および宇宙的な邪悪な魂との仲介者であるように(中略)、生者の社会と死者の社会――後者は福利をもたらし、集合的で人間の形をしている――との関係を司るもう一人の仲介者が存在する。これが「魂の道の主(あるじ)」、ボロロの言葉で「アロエトワラアレ」である。彼らはバリとは対照的な性格をもっており、(中略)彼らは互いに畏(おそ)れ合い、憎み合っている。」
「バリは病気や死を予見するが、道の主は看護し、治療する。それに、人の言うところでは、物質界の必然の表れであるバリは、自分の予測が間違っていないことを示すために、彼の不吉な予告が達成されるのにあまり長くかかりそうな病人は、意図して自分の力で片付けてしまうことがある。しかし、気を付けなければならないのは、ボロロ族は死と生の関係について、われわれと全く同じ観念をもってはいないということである。自分の小屋の片隅で高熱にうなされている一人の女のことを、人は或る日私に、彼女は死んでいるのですと言ったが、それは、彼女はもういないものと看做されている、という意味だったのであろう。ともあれ、こうしたものの見方は、われわれの軍隊で、死者と負傷者を等しく「損失」という同じ言葉で一括してしまう遣り方とよく似ている。」
「さらに、道の主がバリのような遣り方で獣(けだもの)に姿を変えることができるとしても、ジャガー(中略)の姿になることは決してない。道の主は、人に食物を与える動物に、自分の身を捧げる。果実を摘むアララとか、魚を獲る大鷲とか、部族の人たちが大喜びでその肉を食べる獏(ばく)などである。バリは精霊に憑(つ)かれているが、アロエトワラアレは人間を救うために自分を犠牲にする。道の主になる者に、使命を自覚させる啓示さえも苦痛を伴っている。選ばれた者はまず、自分に付き纏う悪臭に精通するようになる。これは恐らく、踊りの広場の中央に、死体を地面すれすれに浅く仮埋葬してある数週間のあいだ、村に充満する匂いを思い起させるのであろうが、この時この匂いは、「アイジェ」という神話上の存在に結び合わされている。この存在は、水の深みに棲む怪物で、胸のむかつくような悪臭を放ち、しかし慈愛に充ち、この新入者に現われ、新入者はこの怪物の愛撫を堪え忍んで受けなければならない。(中略)原住民たちはアイジェを、絵に描き表せるほどはっきりとした姿で自分たちの思考のうちに抱いている。彼らは唸(うな)り菱(びし)のことも同じ名で呼んでいるのだが、唸り菱の音は怪物の出現の前触れであり、怪物の声を真似ているのである。」



「25 荒野で」より:

「私たちが宿営したのは、あいにく、お馴染の虫が横行する場所だった。マリボンド蜂や蚊(か)や、群れを成して雲のように飛んでいる、血を吸う極く小さな羽虫、ピウンやボラシュードなど。他にパイ・デ・メル、つまり蜜蜂もいた。南アメリカにいる蜜蜂の種(しゅ)は、毒はもっていないが他の遣り方で人を苦しめる。汗が好物なこの蜂は、互いに争って、口や目の端(はた)や鼻の穴の周りなど、一番いい場所を占めようとする。そして犠牲者の分泌物に酔い痴(し)れたかのように、飛び去るよりは、むしろその場で叩かれるままになっている。皮膚の上で潰(つぶ)された虫が、また次々と新しいお客を惹きつけることになる。この蜜蜂のランベ・オリョスつまり「眼舐(な)め」という綽名(あだな)もそこから来ている。」


「30 カヌーで」より:

「五ヵ月このかた雨がなく、獲物になる動物は逃げてしまっていた。私たちが瘠(や)せこけた鸚鵡(おうむ)を撃(う)ち止めたり、大蜥蜴(とかげ)トゥピナンビスを捕まえて米の中に炊き込んだり、地亀か脂っぽくて黒い肉のアルマジロを、甲羅ごと焙(あぶ)ることができた時は、まだましだった。大抵はシャルケで我慢しなければならない。これはクイアバの肉屋が何ヵ月も前に拵(こしら)えた干した例の肉で、私たちは、虫のうようよするその厚い肉片を、毎朝消毒のため日に晒すのだが、明くる日はまた同じ状態でそれらを取り出すことになるのだった。だが一度、誰かが野豚を一頭仕留めたことがあった。血の滴(したた)るこの肉は、葡萄酒にも増して私たちを酔心地にした。」

「少しずつ風景は変化していった。高地地帯の中央部を形作っていた結晶性あるいは沈積性の古い地質は、粘土質の土壌に場所をゆずる。サヴァンナが終って、私たちは栗の木(ヨーロッパのでなく、Bertholletia excelsa というブラジルの栗の木だ)と、芳香のある樹脂を分泌する大樹コパイバのある乾性林地帯を突切り始めた。澄みきっていた小川にも泥が多くなり、黄ばんで腐った水が流れている。いたるところ、陥没が認められる。丘の斜面が侵蝕作用で蝕(むしば)まれ、その麓にサペザル(丈の高い草)やブリティザル(椰子)の生えた沼地が形成されている。沼地の縁を、騾馬は野生のパイナップルの原を、踏み拉(しだ)き踏み拉き渡って行く。その小さな実は、橙色がかった黄色をしており、果肉には大きな黒い種子がばらばらに詰っている。味は栽培種のパイナップルと極上の木苺(きいちご)の中間とでも言おうか。地面から立ち昇る、もう何ヵ月も忘れていた、チョコレートを入れた熱い煎じ薬のようなこの匂いは、他でもない熱帯の植物の匂い、有機質の分解する匂いだ。」



「38 一杯のラム」より:

「どんな社会も完全ではない。あらゆる社会は、その社会が宣揚する規範とは両立しない不純さを元来含んでおり、そうした不純さは、様々な割合いで配合された不正、無感覚、残忍となって具体的に表れている。この配合をどう評価すべきであろうか? 民族誌的な探索は、そこに至る道を開いてくれる。なぜなら、少数の社会を比較する時、それらが互いに著しく異なったものに見えることは確かだとしても、考察の範囲が拡がれば、そうした差異は縮小するからである。そのとき人は、どんな社会も真底(しんそこ)から善くはないが、だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはないということを発見する。あらゆる社会はその成員に或る種の利点を提供するが、一方、不正の澱(おり)はなくなるわけではなく、その分量はほぼ一定のように思われ、それはまた、社会生活の面では、組織の努力に対立する、その社会固有の惰性に相当しているのである。」
「あらゆる野蛮な習俗のうちでも、恐らくわれわれに最も恐怖と嫌悪を感じさせる食人を例にとってみよう。まずそこから、純粋に食物摂取としての形態、つまり人肉を食うという欲求がポリネシアの或る島々におけるように、他の動物性食料の欠乏によって説明される場合を除外すべきであろう。この種の渇望に対しては、どんな社会も道義的に保証されてはいない。飢餓は、人間に何でも構わず食べることを余儀なくさせる。」
「そこで残るのは、「積極的」と形容することのできる神秘的、呪術的あるいは宗教的な理由に基づく食人の諸形態である。例えば、死者の徳を身に着け、またさらには死者の力を無力にするための、親や祖先の体の一部や敵の死体の一片の嚥下(えんか)。このような儀式は、大抵は有機物の微量を粉にしたり、他の食物に混ぜたりすることから成る極めて慎ましい遣り方でなされるが、そうではなく、食人がもっと露骨な形を取る場合でさえ、食人に対する非難が含んでいるのは、物としての死体の毀損(きそん)によって危うくされる肉体の甦りへの信仰か、あるいは、霊魂と肉体の結び付きの肯定とそれに対応する二元論である。つまり、非難が立脚しているこれらの信念は、儀礼的な食人を行う名目となる信念と同じ性質のものなのであるから、われわれが食人よりもこちらを選ぶ理由はないということを人は認めるであろう。われわれが食人の習俗に非を唱える根拠ともなりうる、死者を思い出のうちに刻むことにかけての無頓着さは、死体解剖の階段教室でわれわれwが容認しているそれより、確かに大きくはないどころか、その逆であるだけになお、そのことは言えるのである。
 だが、とりわけわれわれが銘記しなければならないのは、われわれに固有の幾つかの習俗が、異なる一社会から来た観察者の目から見れば、文明の観念にとって異質であるとわれわれが思う、この食人の習俗と同じように映るであろう、ということである。私は、われわれの司法や懲役の慣わしのことを考えているのである。それらを外側から研究したとすれば、二つの型の社会を対立させてみたくなるかもしれない。アントロポファジー〔人間を食うこと〕の慣行をもつ社会、すなわち脅威となる力をもつ個人を食ってしまうことがその力を無力にし、さらに活用しさえするための唯一の方法であると看做している社会と、われわれの社会のようにアントロペミー〔人間を吐くこと〕(ギリシア語の「エイメン」(吐く)に基づく)と呼び得るかもしれないものを採用している社会とである。同一の問題を前にして、後者は逆の解決、つまり脅威となる存在を、人間と接触しないよう、この用途に当てられた施設の中に一時的または恒久的に隔離して、社会体の外に追い出すことから成る解決を選んだ訳である。われわれが未開と呼ぶ大部分の社会では、この習俗は深い恐怖を与えることだろう。それは、われわれが、これと対称をなす彼らの習俗のゆえに彼らに帰そうとし勝ちなのと同じ野蛮さをもつものとして、われわれを彼らの目に映じさせるに違いない。」

「民族学者は、彼の存在自体が罪の贖(あがな)いの試みとしてでなければ理解し難いものであるだけになお、彼自身の文明に無関心ではいられず、文明の犯した過ちについての連帯に無自覚ではあり得なくなる。彼は贖罪(しょくざい)の象徴である。しかし、他の幾つかの社会も同じ原罪に加担したのである。」

「他の社会は恐らく、われわれの社会より良くはないであろう。(中略)とはいえ、他の社会をよりよく知ることによって、われわれは、われわれの社会から自分を切り離すという方法を獲得する。それはわれわれの社会が絶対に、あるいは唯一の悪いものだからではなく、それが、そこからわれわれが自由になるべき唯一の社会だからである。」

「何も手は打たれていず、われわれには、すべてをまた始めることが可能だ。かつて為されたがうまく行かなかったものは遣り直すことができる。「或る盲目的な迷信が、われわれの後(あるいは前)に位置づけた黄金時代は、われわれのうちに(引用者注:「われわれのうちに」に傍点)ある。」」



「40 チャウンを訪ねて」より:

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終るだろう。」
「人間は、呼吸し、食物を獲得するようになってから、火の発見を経て原子力や熱核反応機関を発明するまで、人間を再生産する場合を除いて、喜々として無数の構造を分解し、もはや統合の可能性の失(う)せた状態にまで還元してしまう以外、何もしなかった。なるほど人間は都市を築き、畑を耕したかも知れない。だが考えてみれば、これらのもの自体、或るリズムで、そしてそれらのものが巻き込む組織の量を無限に上回る割合で、無活力を作り出すべく定められた機械なのである。人間の精神が創り出したものについて言えば、それらの意味は、人間精神との関りにおいてしか存在せず、従って人間の精神が姿を消すと同時に無秩序のうちに溶け込んでしまうであろう。(中略)文明の、この分解の過程の最高度の表現を研究することに捧げられた学問の名は、人類学(アントロポロジー)よりもむしろ「エントロポロジー〔エントロピーの学〕」と書かれるべきかもしれない。」
「歩みを止めること。そして人間を駆り立てているあの衝動、必要という壁の上に口を開(あ)けている亀裂を一つ一つ人間に塞がせ、自らの手で牢獄を閉ざすことによって人間の事業を成就させようとしている、あの衝動を抑えること。(中略)生にとって掛け替えのない解脱(引用者注:「解脱」に傍点)の機会、それは(中略)、われわれの種(しゅ)がその蜜蜂の勤労を中断することに耐える僅かの間隙に、われわれの種(しゅ)がかつてあり、引き続きあるものの本質を思考の此岸(しがん)、社会の彼岸(ひがん)に捉えることに存している。われわれの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦(ゆる)しの重い瞬(まばた)きのうちに。」




レヴィ・ストロース 悲しき熱帯 下 03







こちらもご参照ください:

レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 上』 川田順造 訳
山口昌男 『文化人類学への招待』 (岩波新書)
ベルナツィーク 『黄色い葉の精霊 ― インドシナ山岳民族誌』 大林太良 訳 (東洋文庫)
宮田登 『ケガレの民俗誌』
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
谷川健一 『常民への照射』
グリオール+ディテルラン 『青い狐 ― ドゴンの宇宙哲学』 坂井信三 訳




















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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