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高階秀爾 『西欧芸術の精神』 

「芸術家が「自由に」自己の個性を主張すればするほど、社会から隔絶され、疎外されるということは、歴史が物語る通りである。ドラクロワはサロンに出品した作品に対して強い批判を受けたが、マネや印象派の画家たちは批判以上に社会の憤激を買い、アンリ・ルソーは憤激以上に嘲笑を浴びせかけられた。芸術家は「個性」を武器として手に入れた自由にちょうど見合うだけの代償として、社会からの非難や無理解を覚悟しなければならなかったように見える。」
(高階秀爾 「近代における芸術と人間」 より)


高階秀爾 
『西欧芸術の精神』 



青土社 
昭和54年3月10日 印刷
昭和54年3月20日 発行
518p 索引xiv 
四六判 丸背布装上製本 函
定価3,600円
装幀: 高柳裕



本書「あとがき」より:

「本書は、これまで専門誌、一般雑誌その他に発表された論文、評論十九編をまとめたものである。内容は、ルネッサンス期から現代までの西欧芸術のさまざまな問題にわたっているが、基本的な関心においては、私自身にとって一貫した問題を追求している心算である。」


各編扉および本文中に図版(モノクロ)計50点。本書は1986年に増補版が刊行されています。



高階秀爾 西欧芸術の精神



帯文:

「西欧芸術の本質を考える
芸術家たちは、どのようにして時代の意識につながり、どのようにして芸術の歴史をつくりだしてゆくのか。ボッス、ラファエルロ、ロダン、ドラクロワ、ゴッホらが生きた時代の精神風土を検証しながら、現代美術の思想と動向を探る美の精神史。」



帯背:

「美術史の
新しい地平」



目次 (初出):


マニエリスムにおける歴史と現代 (「すばる」 創刊号 1970. 6)
ヒエロニムス・ボッス――幻想的ヒューマニスト (『ヒエロニムス・ボッス全作品』 中央公論社 1978)
ラファエルロの「小椅子の聖母」 (「美術史」 第60号 1966)
ヴァザーリの歴史観 (「心」 1974. 2)
フランス・ロマン派におけるミケランジェロ (ミケランジェロ学会報告 『ミケランジェロ研究』 平凡社 1978)
ドラクロワとロダン (「国立西洋美術館年報」 1970)
ドラクロワにおける芸術家像 (「研究論文集」 21巻 文科系学会連合 1970)
ドラクロワの「ゲネザレツ湖上のキリスト」連作について (「美術史」 第75冊 1969)
町のなかの修道院芸術――ナビ派の歴史と美学 (「美術手帖」 1976. 1)


「詩は絵の如く」の伝統をめぐって (『岩波講座文学 1 文学表現とはどのような行為か』 岩波書店 1975)
絵の中の本――ゴッホとフランス文学をめぐる一考察 (『講座比較文学 8 比較文学の理論』 東京大学出版会 1976)
「サロメ」――イコノロジー的試論 (「美術史」 第51冊 1963)
切られた首――世紀末想像力の一側面 (「季刊芸術」 1974 夏)
マラルメと造形美術 (「無限」 第39号 1976. 7)


のろわれた玩具――不安な状況の予兆 (「美術手帖」 1968. 12)
近代における芸術と人間 (「人間の世紀 3 文化の発見」 潮出版社 1974)
手さぐりする絵画 (「現代の美術 art now 別巻 現代美術の思想」 講談社 1972)
美の冒険 (「現代人の思想 6 美の冒険」 平凡社 1968)
現代美術の思想と動向 (「講座日本の将来 1 現代思想の展開」 潮出版社 1970)

あとがき
人名索引




◆本書より◆


「ドラクロワにおける芸術家像」より:

「今、ドラクロワの全作品のなかから、直接芸術家を主題としたものを拾い出してみると、次ぎのようなものがある。」
「(1)「狂人の家のタッソー」 一八二四年作 チューリッヒ、ビュルレ・コレクション
 (2)「狂人の家のタッソー」 一八二七年作 ウィンテルトゥール、ラインハルト・コレクション
 (3)「娘たちの看護を受けるミルトン」 一八二八年頃作 ウィリアムスタウン・ハミルトン・コレクション
 (4)「蛮族の中のオヴィディウス」 一八四四年作 パリ、ブルボン宮図書室
 (5)「アトリエのミケランジェロ」 一八五一年作 モンペリエ、ファブル美術館」
「これら芸術家を主題とする作品群を眺めて見て、きわめて特徴的なことは、それらがいずれも、社会から見棄てられて、逆境のなかに苦しんでいる芸術家たちを描いているということである。ドラクロワが取り上げた三人の詩人たちは、タッソーは狂人と嘲けられて牢屋で幽囚の日を送らなければならなかったし、オヴィディウスはローマを追われてスキタイ人たちの許に亡命し、故国を憧れながら遂に戻ることが出来なかった。また『失楽園』の詩人ミルトンは、晩年に盲目となって、詩を書く時はもちろん、日常の生活においても、娘たちの世話を受けなければならなかった。彼らはいずれも何らかの意味で不幸な、失意の境遇にあり、苦悩と絶望のうちに毎日を送った人びとなのである。」
「ドラクロワの「文学好き」は、彼の絵画作品の主題から見ると、その作品に惹かれる場合と、その生涯に惹かれる場合とはっきりふたつあって、しかもその生涯に惹かれる場合はつねに不幸な生涯なのである。」
「このことは、一八五一年に描かれた「アトリエのミケランジェロ」において、いっそうはっきりと見られる。」
「「アトリエのミケランジェロ」というテーマにしては、このミケランジェロは、いささか奇妙なポーズを見せている。すなわち、アトリエにおいて一生懸命制作に励んでいるところでもなければ、出来上った作品を前にして満足しているところでもなく、むしろ逆に、きわめて投げ槍に台の上にどっかと腰を下し、頰杖をついた姿で描かれているのである。
 このポーズが、(中略)かなり意図的に「仕事を放棄した」状態を示すものであることは、彫刻家にとって生命とも言うべき大切な道具であるノミが、だらしなく足許に投げ棄てられていることからも、明らかと言ってよい。」
「すなわち、この作品では、ミケランジェロは(中略)、何故か、絶望のあまり仕事も手につかないで茫然としている姿で描き出されているのである。とすれば、このミケランジェロも、ある意味で「失意の芸術家」だと言わなければならない。
 溢れるような創作力を持っていたミケランジェロが、時にこのドラクロワの絵に見るような無気力な状態に陥入ることがあったことは、コンディヴィ以来、多くの証言がある。少くともドラクロワは、(中略)ミケランジェロが時にそのような絶望的な気分に襲われたことを信じていた。先に触れた『パリ雑誌』に掲載された「ミケランジェロ」と題する評論のなかで、ドラクロワは、次ぎのように述べている。

 「…三年か四年の間、ミケランジェロはノミも、絵筆も、クレヨンも手に取ろうとはしなかった。彼はフィレンツェにあって何も仕事をせずに暮し、詩人の作品を読んだり、自分自身で詩を作ったり、旧約聖書を研究したりして日を送った……。
 …おそらく、このような憂欝症に襲われた時には、彼は一度ならず自分自身にこう言って聞かせたに違いない、俺はもう駄目な人間だ、何の創意も湧いて来ない、競争相手の仲間の方が俺よりずっと優れている、なぜなら人びとは奴等の方を褒め上げるではないか。人びとは俺を軽蔑する、多分俺はその通りの人間なのだろう。ああ栄光が何だ、未来が何だ……」

 ここではミケランジェロは、明らかに、世人の無理解という不幸を背負っている悩める芸術家として描き出されている。」
「美術の歴史を大きく動かすほどの大作を次ぎ次ぎと発表しながら、その成果を世の人に理解して貰うことができず、その業績にふさわしい栄誉も報いも受けることができなかったドラクロワは、やはりもうひとりの「失意の芸術家」であった。そのような時、ドラクロワはつねに同じような運命を耐え忍んだ過去の偉大な芸術家のなかに心の友を求め、ひそかな共感と慰めとを味わっていた。」
「そして、ミケランジェロの場合のみならず、タッソーにしても、オヴィディウスにしても、おそらくはドラクロワの心の世界の反映であった。ドラクロワにとっては、自己自身も含めて偉大な芸術家は、つねに世の無理解と自己の内部の疑いとに悩まされ続ける存在なのである。
 そのような内面的な苦悩を背負った芸術家の姿を画面に定着するのに、ドラクロワが、ミケランジェロに頰杖をついたポーズをとらせたということは、はなはだ興味深い。」
「西欧の芸術の表現においては、この特徴的なポーズは、さらにもうひとつ別の意味を与えられていることも、見逃してはならない。それは、一言で云えば、行動する人に対して、思索する人のイメージなのである。
 芸術家は本来、ペンを手にして詩を書いたり、ノミによって石を刻んだりするという実際の制作活動をする人である。それに対し、頰杖をつくというポーズは、逆に活動をしない人間を表わす。したがってそれは、例えば中世の一般的なイメージにおいては、「怠け者」の姿であった。ところが、ルネッサンス期に至って、その「怠け者」のイメージが、思索する人のイメージにまで高められるようになる。頰杖をついた人物像の代表的な例であるデューラーの「メレンコリア」が、思索する芸術家のイメージであることは、パノフスキーが証明した通りである。(中略)そして、ルネッサンス期のこの伝統が十九世紀までずっと生き続けていたことは「思索する人」の典型であるロダンの「考える人」が同じようなポーズをとっており、しかも最初は「詩人」という題名を与えられていたことからも明らかである。」



「ドラクロワの「ゲネザレツ湖上のキリスト」連作について」より:

「ドラクロワの生涯はたしかに闘いの連続であった。しかしその闘いの真の相手は、アカデミー派や新古典派の画家たちなどではなく、人間世界を超えた何ものかであった。」


「絵の中の本」より:

「ゴッホが、生涯を通じて熱心な読書家であったことは、広く知られている通りである。彼は、絵画なしには生きられなかったと同じように、本なしでもやはり生きられなかった。彼の厖大な書簡集を読んでみれば、ほとんど毎回のように、自分の読んだ本、今読んでいる本、読みたいと思っている本等についての感想や意見が出て来るのに気づかされる。時には彼は、感動した本の一節を何ページにもわたって手紙のなかに書き写したりもするのである。
 ゴッホがいかに「本」を大切なものと考えていたかは、一八八四年に、ヌエネンからパリにいる弟テオに宛てた手紙のなかで、彼が「ある古い伝説」について感動的に語っているところからも明らかである。その「伝説」というのは、人類の先祖は二人の兄弟で、その二人は、あらゆるもののなかから、望むものをひとつだけ選ぶことを許されたという。一人は「黄金」を選び、もう一人は「本」を選んだ。「黄金」を選んだ方は最初は大いに栄えたがやがて没落し、「本」を選んだ方は、はじめは貧しく、孤独であったが、やがて力を得るようになった。

  「これはひとつの伝説に過ぎない。しかし僕にとっては、それは深い意味を持っており、たしかに真実だと思われる。
  〈本〉というのは、文字で書かれたあらゆる本を指すだけではない。それはまた、良心であり、理性であり、芸術でもあるのだ。」

 ゴッホが、この「伝説」の話を弟に書き送った意図は明白である。当時すでに彼は、「黄金」と「本」のいずれを選ぶかという問題に悩まされていた。そしてもちろん、彼は「本」を選ぶ。」
「本は、ゴッホにとって、それほどまで重要なものであった。その内容も、文学はもとより、歴史、宗教、芸術論等、きわめて広い範囲にわたっている。」



「「サロメ」」より:

「中世の諸作品においては、サロメは、何よりもまず若々しく健康で、しなやかな肢体を持った踊り子(引用者注:「踊り子」に傍点)として表現される。きわめて古い時代の作例では、彼女は立ったまま腰をくねらせて、いわゆる「東洋風」の舞踊を見せているに止まるが、十二世紀以降十四世紀頃までの作品においては、非常にしばしば、両手を床について逆立ちしていたり、体を海老のように後にそらせたり、さまざまにアクロバティックな演技を見せながら、自由奔放に踊りまくっている。そこではサロメは、踊り子であると同時に曲芸師であり、官能的な舞踊によってよりもむしろ普通の人には真似の出来ない特異なポーズによってヘロデを始め饗宴の場に列席する人々を楽しませるのである。」
「中世において、何故このようなサロメの図像が好まれたかということを理解するためには、当時きわめて一般的であった旅芸人の存在を思い出さなくてはならない。彼等は、きまった住居を持たず、町から町へと流浪の旅を続けながら、あるいは領主たちの宴席に招かれて座興として芸を披露し、あるいは祭の日に町の広場で道行く人々を相手に曲芸を演じ、歌を歌っては生計を営んでいた。(中略)中世の教会の門扉や柱頭にまぎれこんだあのアクロバット舞踊の踊り子は、実はこれら旅芸人たちのイメージに他ならなかったのである。
 旅芸人の曲芸師と伝説上のサロメとがいつのまにか同一視されていたことは、当時の受難劇において、サロメがしばしば、単に「踊る小娘」 danserelle とか、「跳びはねる小娘」 saulterelle 等の名で呼ばれていたことからも証明される。そして事実、受難劇の上演にあたっては、(中略)例えばヘロデの饗宴の場で、これら旅芸人たちがいわば息抜きのためにその芸を披露したのである。その結果後になると、受難劇中のサロメが単に「踊る小娘」と呼ばれていたのとは逆に、サロメには関係のない純粋な宴席の座興の踊りが「サロメの踊り」という名で呼ばれるようにすらなったのである。」



「近代における芸術と人間」より:

「ロマン派時代のドイツの画家ルードヴィッヒ・リヒテルの『生涯の回想』のなかに若い頃の思い出を語った次のようなエピソードがある。彼がイタリアに学んでいた頃、ある日、三人の仲間といっしょにティヴォリに写生に出かけた。その時、四人の画家たちは目の前の自然の姿を、いずれもそっくりそのまま描き出すよう申し合わせ、事実皆、できるだけ忠実に自然を再現するよう努めた。ところが、それにもかかわらず、出来上がった作品は同じ自然を描きながら四枚ともまるで違ったものになっていたという。このことから、リヒテルは、色とか形の把握は人によってそれぞれに異なるものであり、客観的な視覚像というものは存在しないと結論を下している。」
「同じ対象を、同じように忠実に再現しようという意識に導かれて写し出しながらなお、そこに異なった結果が生まれて来るとすれば、とりもなおさず、それこそが芸術の本質なのではないか。逆にいえば、われわれがひとつの芸術作品を前にして心動かされるのは、他の誰のものでもないその芸術家の見た世界が表現されているからではないか。」
「ゾラの言葉を借りるなら、芸術は「ある気質を通して見た自然」にほかならないのであり、われわれは、何よりもその「気質」に、芸術というものの根を見ようとするのである。」

「「世界は、われわれのすべてにとって真実でありながら、一人一人にとって皆違っている。……ひとつの世界があるのではなく、何百万という世界が、毎朝目覚める人間の瞳と知性とほとんど同じ数だけの世界が存在しているのだ……」

というプルーストの言葉は、おそらくそのまま、現代芸術にもあてはまるものであろう。芸術家はいずれも、一人一人、自分自身の世界を持っている。それを表現することこそが、芸術家の役割だというのである。とすれば、当然のことながら、それは「個性」を反映したものにならざるを得ないのである。」

「われわれはここで、もう一度あの冒頭に引いたリヒテルのエピソードに立ち戻ってみる必要があるだろう。四人の画家が、皆できるだけ忠実に眼の前の同じ自然を再現しようとして、しかもお互いにまったく違った結果を生み出したとしたら、その理由は、当然一人一人の芸術家のものの見方、ないしは自然の把握の仕方の違いによるものといわなければならない。美の普遍性に対する信頼が支配的であった時代なら、その違いは、万人共通の「理想の美」に至るステップとして、いわば程度の差に過ぎないと考えられたであろう。しかし、その違いにこそ芸術の本質があると考えるなら、それはもはやどのようにしても解消することのできない絶対的な違いとなる。とすれば、その当然の結果として、「理想の美」は成立し得ないことになる。「個性の美学」は、「理想の美」を否定することによってはじめて確立されるものなのである。
 それは、別のいい方をすれば、「理想の美」を支えていた人間の普遍性への信頼が失われたということでもあるだろう。人間はさまざまの違いにもかかわらずやはり同じ人間だという考え方に代わって、今や人間は同じ人間でありながら一人一人皆違うのだという考えがクローズアップされて来たといってもよい。そして、おそらくそれこそが、新古典主義の美学に対するロマン主義の美学の最も大きな対立点となるものなのである。
 事実、ロマン主義の芸術家たちは、その鋭敏な感受性によって、自分自身と他人とのあいだに、越えることのできない深い深淵があることを、本能的に感じ取っていた。人は誰しも自己の内部に、沈黙のうちに生まれ、沈黙のうちに死んで行くひとつの世界を持っている、とミュッセは語っているし、ドラクロワは、その日記に、「私の魂と私に最も親しい友人の魂の間にも、越え難い障壁がある」と書き記した。ジャン・ジャック・ルソー以来の「孤独な」魂が、芸術家たちのものになったのである。」

「実をいえば、表現するに先立って、現実をまず「見る」時に、芸術家の想像力が働くのである。想像力こそが「あらゆる能力の女王」であると考えていたドラクロワは、そのことをよく知っていた。(中略)「個性の美学」の優れた実現者であったばかりでなく、またその理論家でもあったドラクロワは、二十六歳の時の日記に、自己の進むべき道を明確にした生涯のプログラムを、こう書きつけている。

  「お前は、それぞれに独自なやり方で自然を眺めた多くの魂にもうひとつ別の魂をつけ加えることができる。彼らは、眼に見える事物を描きながら、実は自分たちの魂を描いた。お前の魂もまた、お前に同じことを望んでいる。」

 そしてさらに、晩年になってから、彼は同じ思想を別のいい方でこう述べている。

  「偉大な芸術家たちにおいて創造と呼ばれているものは、自然を眺め、秩序づけ、表現する際の、それぞれの人に特有なやり方のことにほかならない。」」

「印象派から後期印象派を経て、フォーヴィスム、キュビスムと続く絵画の「前衛運動」が、歴史上どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらあらためて指摘するまでもなく明らかである。しかしそれと同時に、これらの多くの優れた試みが、当時の人びとからいかに手酷しい批判と嘲笑を受けたかも、またあまりに有名である。もともと、「印象派」にしても、「フォーヴィスム」、「キュビスム」にしても、その名称自体が彼らに対して与えられた悪口に基づいていることは、しばしば指摘されている通りである。そして、何回受験しても遂に美術学校に入学することのできなかったセザンヌや、そのセザンヌとともに生涯ほとんど作品を売ることのできなかったシスレーやゴッホから、珠玉のような美しい作品を数多く残しながら、貧窮のどん底で世を去った放浪画家モディリアニにいたるまで、世間の無理解に苦しめられた芸術家の悲劇は、例を挙げだせばほとんどかぎりがない。」
「だが、それらの興味深い多くのエピソードは、単に歴史に多少の彩りを添えるいわばこぼれ話であったのではない。世に容れられない芸術家というのは、おそらくどの時代にもいたに違いないが、歴史の流れを大きく変えるような重要な働きを演じた主要な芸術家たちが揃って世に容れられなかったというような事態は、この時代までかつてなかったことだからである。」

「「創作の自由」は、それまでの社会において欠けていたからこそ、強く求められたのである。そして、その「自由」への憧れが、「個性」の自覚と密接に結びついていたことは、いうまでもない。」
「「サロン」と呼ばれる公の展覧会は、すでに見たように、アカデミーが主催するものであるので、個々の芸術家は自由に自分の好きな作品を出品することができるといっても、表現様式の上でアカデミーの考える基準に合わないものは拒否された。(中略)印象派の画家たちが、自分たちの仲間だけのグループ展を企てたのも、結局はそのためであった。」
「しかしながら、印象派のグループ展は、まだ完全な意味で「自由な」展覧会ということはできなかった。なるほど、各メンバーは、自分の好むところの作品を展示することができたが、しかし誰でもが自由にメンバーになれるというわけではなかったからである。」
「とすれば、この枠をも否定して、完全に「自由な」展覧会が求められるようになるのも、充分うなづけるところであろう。印象派グループの第一回展からちょうど十年ほど遅れて結成された「サロン・デザンデパンダン」、いわゆる「アンデパンダン展」というのは、まさにそのようなものであった。(中略)この展覧会は、文字通り誰でもが自由に出品できるという点で、印象派のグループよりもさらに徹底した「個性」尊重の催しであるといってもよい。(中略)例えばアンリ・ルソーのような素人(と一般には考えらえていた)画家が十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、まったくの型破りの作品を世に公開することができたのは、この「アンデパンダン展」のおかげだったのである。」
「もちろん、だからといってルソーのような画家でさえ、ともかくも作品を発表する場所をもち得たということは、芸術に対する社会の理解と関心が深まったからだと簡単に断定するわけにはいかない。むしろ社会との関係からいうなら、それは芸術に対する社会の無関心がいっそう強まった結果だといえないこともない。」
「アンリ・ルソーの時代において、ルソーのような「自由な」表現が許されたのは、芸術がそれだけ社会から遠いものとなったためである。エドガー・ヴィントは、『芸術と狂気』において、近代におけるこのような芸術の社会的状況を、「芸術が社会の中心から周辺の部分に追いやられてしまった状態」といういい方で指摘している。芸術の方からすれば、なるほど芸術家は自己の作品の自由な創造主になることによって自分自身の王国を作り上げることができたが、その王国は、現実の社会のなかには、ほとんどその領土をもっていないという結果になってしまったのである。」
「社会から離れた芸術家たちは、創作にあたってまったく自己の自由を享受することが出来るようになったが、それにともなって、社会のなかでそれだけ不安定な立場とならざるを得ない。(中略)というよりも、芸術家が「自由に」自己の個性を主張すればするほど、社会から隔絶され、疎外されるということは、歴史が物語る通りである。ドラクロワはサロンに出品した作品に対して強い批判を受けたが、マネや印象派の画家たちは批判以上に社会の憤激を買い、アンリ・ルソーは憤激以上に嘲笑を浴びせかけられた。芸術家は「個性」を武器として手に入れた自由にちょうど見合うだけの代償として、社会からの非難や無理解を覚悟しなければならなかったように見える。」



「手さぐりする絵画」より:

「「現実」というものがもしどこかにあるとしても、それはわれわれの手の届く範囲にあるのではなく、われわれは単に感覚を通してその「幻影」を受け取るにすぎない。その「幻影」は、文字通り実体のない「幻影」でしかないかもしれない。少くとも、その「幻影」と「現実」とを結びつけてくれるものは、何もなくなってしまったのである。」

「外部にある「現実」をもはや信ずることができないとすれば、自らそれを創り出す以外に方法はない。そして、セザンヌにとっては、それは「描く」ことによってしか成し得ないものであった。
 セザンヌがそれほどまでして「現実」を創り出そうとしたのは、ひとつには、彼が生活の面においても、「現実」と和解することができなかったからであるかもしれない。たとえばモネは、セザンヌから「ひとつの眼に過ぎない」と言われても、その自己の眼が受け取る感覚世界の彼方に「現実」があることを信じて疑わなかった。それは、認識論の問題というよりも、ほとんど生活感覚に根ざすものである。(中略)だがその種の生活感覚は、セザンヌにはまったく欠けていたのである。
 セザンヌのそのような性格については、彼と接した人びとが皆口をそろえて証言している。ヴォラールがセザンヌの女性に対する無知をからかっているのは有名な話だが、女性はもちろんのこと、男の仲間に対しても、彼は病的なほど臆病であり、対人関係においては、子供のような無邪気さと猜疑心とを合わせ持っていた。若い頃、ゾラのすすめで無理に父親を説得してパリに出てきた時も、カフェやアトリエでの仲間たちの議論に加わることができず、決まって急に怒り出したり、場違いなことをしでかしたり、わざと突慳貪になったりするのであった。彼のこの生まれつきの性向は、年とともにいよいよ激しくなり、後半生においては、たまにパリに出てきた時でも、知っている人が見えると、急いで自分から身を隠したという。エミール・ベルナールは、晩年のセザンヌを訪れていっしょに歩いていた時、何かの拍子でセザンヌがよろめいたので思わず手を差しのべてセザンヌを支えると、セザンヌが急に激しく怒り出したという話を伝えている。晩年のセザンヌは、どのようなものでも、他人との「接触」は病的なまでにこれを嫌悪した。このような極端なまでの人間嫌い、「人間との柔軟な接触の喪失、新しい状況に対処してそれを支配することに対する無力さ、習慣の世界への逃避、理論と実生活との激しい対立」等の性格は、病理学的に言えば分裂症的性格を思わせる、とメルロー=ポンティは指摘している。そして、メルロー・ポンティは、さらにそれに続けて、

  「自然と色彩に対するセザンヌの極端なまでの集中、彼の絵画の非人間的な性格(彼は、人間の顔も物体のように描かなければならないと言った)、視覚世界に対する彼の没頭も、実は人間世界からの逃避、彼の人間性の異常さの表われにすぎなかったのかもしれない……」

と言っている。」



「美の冒険」より:

「レンブラントも、ゴヤも、ドラクロワも、社会の「無理解」のためにいかに苦しんだかというのが、多くの伝記者の筆をきわめて語るところである。しかしながら、十九世紀以前、もう少し正確に言って印象派以前の歴史における芸術家のそのような「反社会性」と、印象派以後の近代芸術家たちの示す「反社会性」とは、本質的に性質の違うものである。ミケランジェロにしてもレンブラントにしても、あるいはゴヤやドラクロワにしても、たしかにいろいろな点で社会の「無理解」に悩まされたには違いないとしても、少くとも彼らが優れた芸術家であるということは当時からはっきりと一般に認められていた。彼らを世間には容れられない孤高の天才にしたものは、あるいはその人づきあいの悪い個人的性格であり、あるいはその政治的立場であり、あるいは芸術家にありがちな処世術のまずさであり、(中略)決して彼らの芸術に対する当時の社会の根本的な不信ないしは無理解ではなかった。事実、彼らはいずれも、教皇、国王、同業者組合、共和国政府等の権力者、保護者の庇護や注文を受けて活躍しており、むしろ芸術家としては十分に恵まれた環境にあったとすら言えるのである。少くとも、生前に一点しか絵が売れなかったというヴァン・ゴッホや、満足に作品を見せることもできなかったセザンヌの場合とは、はっきりと違っている。ゴッホやセザンヌは、生前は優れた芸術家どころか、単なる芸術家とさえ認められなかったのである。
 あるいは、こういう言い方をしてもよいかもしれない。フランスの例を引くと、ルイ十四世の治世以来、フランスには国家的組織としてアカデミーというものがあり、アカデミーの主催する官展(サロン)があり、国立の美術学校があった。このことは、王制が共和制になった現在でも、基本的には変わらない。国立の美術学校で学んで最優秀者に与えられるローマ賞を取り、官展(サロン)で作品を発表してやがてはアカデミーにはいるというのが、社会に認められた芸術家のコースである。十九世紀の中ごろにいたるまで、フランスの美術の歴史は、ごく少数の例外を除いて、ほとんどこれら社会に認められた芸術家たちによって作られてきた。ところが、印象派以降、歴史の担い手となったのは、いずれも美術学校や官展(サロン)とはほとんど縁のない芸術家たち、すなわち、社会には認められていない人びとであった。(中略)現在でもなお、たとえば地方の公共自治体が戦没者記念碑と建てるというような場合には、ローマ賞受賞者とかアカデミー会員とかに注文するのが普通である。つまり彼らは依然として社会的には認められた芸術家である。ただ、彼らは、二十世紀の美術の歴史にはほとんど参加していない。つまり、近代になってはじめて、社会に一般に認められた芸術家と、歴史を作って行く創造的芸術家とのあいだに、はっきりと分裂が生じたのである。
 とすれば、十九世紀末以来の現代芸術の歴史が、社会の無理解と芸術家の反抗というパターンをとるようになったのも、当然の成行きと言わねばならないであろう。二十世紀においては芸術家は、好むと好まざるとにかかわらず、もし真に創造的活動を行なおうとすれば、さまざまなかたちで社会と衝突しなければならないのである。」
「芸術家の側からの「反抗」ないしは「挑発」がある前に、まず一般社会の方に芸術家たちに対する根強い反感があるのである。」







こちらもご参照ください:

高階秀爾 『十二人の芸術家』 (講談社現代新書)
若桑みどり 『イメージを読む ― 美術史入門』 (ちくまプリマーブックス)
ヴァザーリ研究会 編 『ヴァザーリの芸術論』
W・S・ギブソン 『ボス 光と闇の中世』 佐渡谷重信 訳
井村君江 『「サロメ」の変容 ― 翻訳・舞台』
マリオ・プラーツ 『記憶の女神ムネモシュネ』 前川祐一 訳



































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高階秀爾 『十二人の芸術家』 (講談社現代新書)

「われわれが子供でなくなった時、われわれは死んだも同然だ」
(ブランクーシ)


高階秀爾 
『十二人の芸術家
― 現代を拓いた人々』
 
講談社現代新書 339 


講談社 
昭和49年1月20日 第1刷発行
昭和54年4月12日 第5刷発行
204p 
新書判 並装 カバー
定価390円
装幀: 杉浦康平+辻修平  
カバー写真: ルネ・マグリット・勝利〈部分〉



本書「あとがき」より:

「本書に集められた十二の文章は、十二人の芸術家の作品それぞれ一点ずつを選んで、その作品をいわば軸として芸術家を論じたものである。それらは、最初は、「現代への道標」というタイトルのもとに、『美術手帖』誌昭和四十四年一月号から十二月号まで連載された。今回一冊に纏(まと)めるにあたって、若干の補訂は加えたが、主要な部分はほとんどそのままである。」


本文中図版(モノクロ)38点。



高階秀爾 十二人の芸術家 01



カバー文:

「ピカソ・ノルデ・キリコ・
ピカビア・マグリット・
マティス・クレー……。
彼らは〈現代〉に何を見、
何を求め、そして、
何を表現しようと
したのか。本書は、
現代芸術の旗手十二人を選んで、その代表作を主軸にすえ、テーマ、問題意識、
表現方法、さらには生涯や思想的背景、時代相にも筆をすすめながら、作品の示す豊饒な美的世界を明快犀利に描き出し、現代芸術の
見方・本質を教えてくれるユニークな〈美〉への誘いの書である。」



カバーそで文:

「一点の作品と芸術家の全体――芸術を語るにあたって、
何よりもまず作品が出発点となることは言うまでもない。
作品は芸術家によって作られるものであるが、同時に芸術家は、
作品によってはじめて自己の本質を明らかにする。
一本の野の花にも大宇宙の神秘がひめられているように、
一点の作品にも、その芸術家の内面の世界が隠されているはずである。
ただ一点の作品を中心に、芸術家の全体を論じてみたいというのは、
かねてからの私の欲求であった。……本書に登場する芸術家も作品も
おそらく誰にでも親しまれている有名な人々あるいは作品であるばかりでなく、
現代美術の歴史で大きな意味をもつ存在であることは確かである。
――著者のことば」



目次:

Ⅰ セザンヌ 〈水浴図〉をめぐって――見たまえ、あの青を
Ⅱ マティス 〈モロッコ人たち〉をめぐって――光は東方より
Ⅲ ボッチオーニ 〈空間のなかのユニークな連続の形態〉をめぐって――動きそのもの
Ⅳ ノルデ 〈トリオ〉をめぐって――幻想と現実のあいだ
Ⅴ ピカソ 〈ゲルニカ〉をめぐって――女たちよ子供たちよ
Ⅵ ブランクーシ 〈空間のなかの鳥〉をめぐって――飛翔への讃歌
Ⅶ キリコ 〈占師の償い〉をめぐって――地中海の白昼夢
Ⅷ シュヴィッタース 〈メルツ19〉をめぐって――予言された現代
Ⅸ ピカビア 〈ウッドニー〉をめぐって――色と形のオルフェウス
Ⅹ カンディンスキー 〈縞〉をめぐって――二十年後の抽象
Ⅺ マグリット 〈六つの要素〉をめぐって――火の洗礼
Ⅻ クレー 〈美しき女庭師〉をめぐって――天使と悪魔と

参考文献
あとがき




◆本書より◆


「セザンヌ」より:

「だが、いずれにしても、さしあたりセザンヌにはモデルになってもらう女性がいないことは確かだった。職業モデルの大勢いるパリならともかく、エクスの町では、セザンヌは気狂いではないとしても偏屈で気味の悪い老人と考えられていた。セザンヌのためにわざわざモデルを引き受けるような物好きは誰もいなかった。仕方なくセザンヌは、昔若い頃に描いたスケッチを引っ張り出して利用したり、近くに駐屯する兵隊がエクスの町のなかを流れるアルコ河のほとりで休憩中に水浴びをしているのを遠くから眺めているというぐらいなものであった。ある時は、友人に裸婦の写真を頼んだりまでしている。「大水浴図」について言えば、結局モデルはいなかったのである。」

「セザンヌの特に晩年の作品において支配的となる「青」は、「空気の印象」を与えるためのものであり、空気の印象によって「奥行」を表現するためのものであった。「私はただ色彩だけによって遠近法を表現したい」と言った時、セザンヌがそのための武器として考えていた色彩は、何よりも「青」だったのである。」
「彼は、仲間の画家たち、特にモネに対しては、いつも深い尊敬の念を抱いていた。「モネはひとつの眼に過ぎない」というセザンヌの批評はよく引かれるが、しかし彼はその後ですぐ、「だが何という眼だろう」と讃辞を捧げているのである。セザンヌはまた、「われわれのうちで一番偉いのはモネだ」とも言っているが、さらに後には、アンドレ・リヴィエールに向かってこうも語っている。
 「見給え、空は青い。そうだろう。そしてそれを見つけたのはモネなんだ……」
 モネに教えられ、セザンヌもまた「空は青い」ということを知った。晩年、「大水浴図」に熱中していた頃、午前中アトリエでこの大作と取り組むと、いったん昼食に家に帰って、午後には雇いの四輪馬車で写生に出かけるのが日課であった。馬車の馭者(ぎょしゃ)は、毎日のことなので、言われなくても行先はわかっていた。シャトー・ノワールの近く、サント・ヴィクトワール山がその堂々たる威容を惜しげもなく示す場所である。そこまで行く途中の道筋でも、セザンヌの眼は「モティーフ」を見逃しはしない。彼は突然馭者に語りかける。
 「ああ、あの青を見給え。松の樹の下のあの青を……」
 馭者はなるほどというようにゆっくりうなずくが、心の中では、また始まったと思っていた。彼の眼には、どこにも青など見えはしないのである。普通人の眼には、空気は見えないのは当然である。しかしセザンヌは、その空気の深みのなかに、はっきりと自分の「青」を見ていたのである。(なお余談ながら、セザンヌはこの従順な馭者が大変お気に入りで、自分の作品を一点与えたことがあった。「彼は大変喜んで丁寧にお礼を言ったんだけど、帰りがけにそれを持って行くのを忘れてしまったんだ」とセザンヌはヴォラールに語っている。)
 「水浴」のシリーズと並んで晩年のセザンヌが心血を注いだ「サント・ヴィクトワール山」のシリーズも、彼にとっては、山との闘いというよりも、山を取りまく空気と光、彼と山とのあいだに拡がる距離、そしてそれらすべてをすっぽりと包む空間との闘いであった。後に彼はこう述懐する。
 「長いあいだ私は、サント・ヴィクトワール山を描くことができなかった。それは、見ることを知らない多くの人びとと同じように私は影の部分はひっこんでいると思いこんでいたからだ。ところが影の部分は実はとび出しているのだ。影は中心から遠くへ逃れようとする。影はかたまりになる代わりに、気体となってまわりに流れ出す。それは、青に染められて、周囲の空気の息づかいに参加するのだ……。私はそれを描かなければいけない」
 事実、セザンヌの筆の下で、サント・ヴィクトワール山は、次第に周囲の空気のなかに融けこんで、輝かしい青の交響楽に同化するように思われる。時には、山のかたちすらさだかには見えないほどになるのである。
 「私の眼は私の見る場所にあまりにぴったりとくっついて離れないので、おしまいには血が流れ出るんじゃないかと思うほどだ。ねえ君、私は少し気狂いなんじゃないだろうか。自分でも時々そう思うことがあるよ」
 彼はガスケに向かってこう告白している。
 彼はそれほどまでして、自分の見た「青」を画面に「実現」しようとした。」



「ノルデ」より:

「ノルデがこのような幻想的主題を好んだのは、もちろん彼自身異常な幻想力を備えていたからである。彼は、悪魔とか妖精のような非現実的存在でも、はっきりと自分の眼で見ることができた。ノルデの母親は今でいう千里眼の能力の持ち主で、いろいろ未来のことを予告したと伝えられているが、その真偽はともかくとして、ノルデ自身語っているところでは、ノルデが母親の超能力に信頼を置いていたことはたしかである。また彼自身も、しばしば幻覚に襲われる時があり、そのような場合には、悪魔のような姿を現実の人間のようにありありと見ることができたという。」
「つまりノルデにとっては、現実の世界と幻想の世界は、それほど明確に区別されたものではなかった。現実の花もいつか幻想の世界のものとなり、白昼の幻覚もいつか現実の存在となる。ノルデは一九〇九年ごろ、
 「次の新しい時代には、現実と幻想とのいわば中間にある芸術を作らなければならない。つまり、例えていえばベックリンの『楽園』ときわめて写実的に描かれた牛とのちょうど中間にあるような芸術が必要なのだ」
 と述べているが、それはまさしく彼自身の芸術のことを語っていたといってよいのである。ノルデがしばしばマスク(仮面)を主題に取り上げるのも、マスクがまさしく「現実と幻想の中間にあるもの」にほかならなかったからであろう。」

「孤独な幻想家で、しばしば自己の夢の世界にとじこもりがちであったノルデは、それだけにいっそう、華やかな色彩の乱舞を見せる激しくダイナミックな動きに惹かれたもののようである。フェールの思い出によれば、ノルデはキャバレーやダンスホールを訪れてその華麗な動きをスケッチするのを好んだという。ある時などは、あまりじろじろ踊る人を見て描いたので、若者たちに因縁をつけられて、描くのを諦めなければならなかったほどである。」
「ノルデがそれほどまで舞踊に惹かれたのは、その華麗多彩なアラベスクの魅力の虜となったこともひとつの理由だが、それと同時に、あらゆる想念を拒否してただひたすら熱狂的に踊り続けるそれら踊り子たちの姿に、人間の生命の根源的なものの姿を見たからである。例えばオーストラリアの踊り子サハレットの舞踊について、彼は次のように語っている。
 「黒い髪をふり乱しながら、激しく野性的に動き廻るその旋回運動のなかで、彼女は、ある幻想的な、原世界的な存在にまで高められていった……」
 この「原世界的存在」という言葉が、ノルデの作品を解く鍵であることは、坂崎乙郎氏がその著書『夜の画家たち』のなかで指摘しているとおりである。つまりノルデは、決して単に風俗的興味からそのような多彩な踊りに惹かれたのではなく、その奥にはもっと根源的なものへの衝動があった。それなればこそ、彼の宗教的主題の作品のなかでも、人物たちはしばしば似たような激しい動きを示すのである。その意味では、幻想と現実との区別がつかなくなるほどの幻想家であったノルデと、激しく捩れる踊り子の姿を描き出すノルデとは、本質的にひとつのものといってよい。」
「むしろノルデは、踊り子たちのポーズのなかに、騒がしい現実を離れて永遠の存在に結びつくものを求める。彼がいみじくも「原世界的存在」と呼んだものは、そのような永遠性にほかなるまい。激しく捩れるノルデの踊り子の姿は、そのまま祈りの姿に通じるのである。」



「ブランクーシ」より:

「事実ブランクーシは、(中略)生涯「無心な子供の眼」を保ち続けた。子供たちの世界は、つねになまなましい現実と結びついている。それは、われわれ大人の知っている冷たく形骸化した現実ではなく、不思議な生命の息吹きに満ちた現実である。ボードレールは、「天才とは意志によって取り戻された子供の魂だ」といったが、ブランクーシも、「子供の魂」を死ぬまで保ち続けた天才であった。彼自身も、
 「われわれが子供でなくなった時、われわれは死んだも同然だ」
 と語っている。」

「ブランクーシにとっては、彫刻作品とは、決してただ眺めるだけのものではなかった。
 「彫刻作品はただ出来がよいというだけでは不十分である。それは手で触れてここちよく、近づきやすく、しかもいっしょに住んで気持のよいものでなければならない」
 ブランクーシは、かねがねこう語っていたが、そこには、手仕事によって自己の作品を作り上げた職人の愛情と自負とがこめられている。それだけに、彼が「見る」彫刻ではなく、「触る」彫刻を作ろうとしたことも、十分に納得がゆく。一九〇八年頃から構想された「眠れるミューズ」連作、一九一五年の「新生児」、一九一一年の「プロメテウス」等を経て、一九二四年の「世界の始まり」(盲人のための彫刻)にいたる一連の作品がそうである。この最後のものは、はっきりと「盲人のための彫刻」と題がつけられているが、それ以外の作品も、やはり同じように「触覚的効果」を意図しているものといってよいであろう。その意味で、これらの作品が、(中略)いずれも視覚を奪われた、眼のない存在であることは暗示的である。事実、「眠れるミューズ」は瞼を閉じているし、「新生児」はまだ眼を開いていない。「プロメテウス」や「世界の始まり」になると最初から抽象的な卵型だけになっている。」

「「私の彫刻を尊敬してはいけない。それを愛して、それと遊びたいと思わなければいけない。私は人びとに喜びを与えるかたちを創り出そうとしたのだ……」」



「シュヴィッタース」より:

「同じくダダの仲間といいながらシュヴィッタースが歴史のなかでこのように独自の地位を占めることができるようになったのは、(中略)彼がダダの破壊運動をそのまま自己の創造に利用することができたからである。というよりも、シュヴィッタースの場合は、自己の内部の詩を作品を通して歌い上げるために、それまでの芸術観の枠を打ち破ることが必要だったのである。つまりシュヴィッタースは、「ものを創り出す人」という最も原初的な意味での詩人であった。電車の古切符や、新聞の切れ端や、破れた包装紙など、要するに屑籠の中身にふさわしい材料で作り上げた彼のコラージュ作品が、もともとはキュビスムの美学を受け継いだものであり、そしてその後も多くの追随者を生んでいるにもかかわらず、ほかの作家たちの作品とはっきりと異なった独自の詩情をたたえており、決して見紛うことがないという事実は、この間の事情を雄弁に物語るものといってよいであろう。」

「したがって、シュヴィッタースの「メルツ」作品は、他の多くのダダの作家たちの作品のように、それまで卑しいものとして顧みられなかった廃物や屑を材料として利用したという「反逆性」ないしは「反伝統性」のゆえに意味があるのではなく、そのような材料を、彼が自己の詩を歌うためにどのように利用したかという点にこそ意味があるのである。もちろん、シュヴィッタース自身そう認めているように、ベルリンやチューリッヒのダダの運動は、彼にとって大きな意味を持っていた。それは、彼に「完全な自由と解放」とを与えてくれたからである。当時の前衛芸術家としては珍しく長いアカデミックな修業期間を経験したシュヴィッタースにとっては、そのアカデミスムを克服するために、ダダの仲間たちの強力な破壊力が必要だったのである。
 しかし、いったん必要な自由を手に入れてからは、その自由を利用して心のままに自己の詩を表現することだけがシュヴィッタースの求めたところであった。」

「彼こそは、もしかしたら、現代には珍しい永遠の抒情詩人であるのかもしれないのである。」









こちらもご参照ください:

『エミール・ノルデ展』 (1981年)
『シュヴィッタース展』 (1983年)
坂崎乙郎 『夜の画家たち』 (講談社現代新書)




































高階秀爾 『ルネッサンス夜話』

「ルネッサンスの人びとが、このような星占いを堅く信じていたという事実は重要である。人びとは、一五〇〇年には世界の終末がやって来ると本気で信じていたと同じように、この星のお告げも信じていたのである。そのことは、ルネッサンスの精神的風土に、特異な色合いを与えずにはおかないのである。」
(高階秀爾 「占星術」 より)


高階秀爾 
『ルネッサンス夜話
― 近代の黎明に
生きた人びと』



平凡社
昭和54年6月29日 初版第1刷発行
昭和54年9月25日 初版第5刷発行
238p
20×15.4cm 角背紙装上製本 カバー
定価1,500円
造本: 中垣信夫



本書「あとがき」より:

「本書の第一章から第七章までは、もと、「ルネッサンス夜話」の標題のもとに、『月刊百科』昭和五〇年五月号から同五一年一二月号まで連載された。また第八章の「人相学――四性論と動物類推」は、『みづゑ』昭和三五年五月から九月まで、「デューラーと人相学」の標題で発表されたものである。いずれも、本書に纏めるにあたって、若干の補筆を施してある。最終章「ルネッサンスの女たち」は、本書のための書き下しである。」


本文中図版(モノクロ)27点。巻頭に図版(モノクロ)3点、系図1点。章扉図版(モノクロ)9点。



高階秀爾 ルネッサンス夜話 01



帯文:

「中世から
近代への曲り角、
激動の
ルネッサンスを
めぐる歴史夜話
†――第一章
フィレンツェに君臨した
メディチ家の資産は
今に換算して何億?
†――第四章
延々四時間にわたる
傭兵隊同士の〈激闘〉で
死者はたった一人
†――第七章 第八章
盛んだった占星術と
人相学
†――第九章
〈理想の女性〉はやはり
ブロンドだった」



目次:

1 メディチ家の金脈と人脈
2 一市民の日記
3 フランス病かナポリ病か
4 マルスの休息
5 傭兵隊から常備軍へ
6 学者たちの世界
7 占星術
8 人相学――四性論と動物類推
9 ルネッサンスの女たち

参考文献
あとがき




◆本書より◆


「人相学――四性論と動物類推」より:

「イタリアのネオ・プラトニズムは、言うまでもなくフィレンツェの優れた人文主義者マルシリオ・フィチーノによって大成され、ルネッサンス期の芸術活動にも見逃すことのできない深い影響を与えているが、彼自身憂欝質に属していたフィチーノは、その『人生論』の中で「知識人は何故憂欝質になるか」を論じ、芸術の霊感源であるあのプラトンの「神の狂気」を黒胆汁の作用と結びつけたのである。このようにして、フィチーノが言う通り、「哲学においても、国の政治においても、または詩や芸術の領域においても、すべて真に傑出した人々は皆憂欝質である」という公理が成立した。この考えはただちに当時の人文主義者、芸術家たちの間に拡まり、後世にも長く伝えられた。たとえば、一七世紀英国の詩人ミルトンは、イタリア語をそのまま題名にした長詩、Il Penseroso (沈思の人)の中で、

  いと神々しい「憂欝」よ、
  その聖なる相貌はあまりに強く輝き
  人の眼を眩ませるので、
  われわれの弱い視力のために
  深い智慧の色、黒で顔を覆う……

と歌っている。つまりここでも「憂欝」は、プラトンの「神々しい狂気」にも比すべき「いと神々しい」ものと考えられているのである。」
「ミルトンの詩におけるように、憂欝質が Penseroso と結びつくのは、これまた極めて普通のことであった。デューラーの「憂欝の女性」も、多くの手業の道具を前にしながら、膝の上に肘をついた左手に頭をもたせかけて、じっと考えこんでいる。この姿態は、瞑想にふける人のいわば古典的なポーズで、デューラーの木版画《男たちの入浴》の中の憂欝質の男もまったく同じポーズをしていたが、さらに有名な例では、ミケランジェロの Penseroso (メディチ家の墓)や、ロダンの《考える人》など、数多く挙げられる。
 ということは、デューラーの《メレンコリア》の姿勢が決して偶然のものではなく、瞑想、すなわち行動の拒否、ないしは行動の不能をことさら強調しようという意図にもとづいたものであることをはっきりと物語っている。つまり彼女が「憂欝の芸術家」であるなら、行動しない、ないしは行動できない芸術家なのである。翼を持ちながら飛ぶことができず、さまざまの道具にかこまれながら、制作活動をすることのできない芸術家――それがこのメレンコリアの姿である。では沈思しながら鋭く輝く彼女の眼は、芸術以上の何を求めているのだろうか。そして、蝙蝠の背中の数字の意味は……?
 ここでわれわれは、フィチーノの説をさらに体系づけたもう一人の人文主義者アグリッパ・フォン・ネッテスハイムの『神秘哲学論』(一五〇九年)をひもとかねばならない。アグリッパはその中で、憂欝質の優れた特性は、人間の三つの能力、即ち想像力、知性、精神のいずれかを通って表われるとし、それぞれ、芸術家、哲学者、神学者の活動に相当すると考えた。そして、この三者は単に並列的な関係にあるのではなく、段階的な関係にあり、最後の精神の段階に至って、神の世界に最も近くなると説いた。このような思想的背景が明らかになれば、《メレンコリア・Ⅰ》の謎も今や自ら明瞭であろう。彼女は「憂欝の芸術家」でありながら、より高い段階を求めて芸術を顧みない。彼女の目指すものは、芸術をも越えたより高い神の世界である。しかしその神の世界は、ここでは達し得ない。そのためには、第二の段階、第三の段階を経なければならない。このように解して初めて、蝙蝠の背中の「Ⅰ」の数字の意味も明らかとなるであろう。それは四性論のひとつとしての憂欝質を示すものではなく、最も優れた「神々しい」気質としてのメレンコリアの、第一段階ということを表わしているのである。恐らくデューラーは、この後に、第二、第三のメレンコリアを描くつもりであったのだろう、もしその意図が実現されていたとしたら……、だがそれは遂に実現されなかった。」











こちらもご参照ください:

高階秀爾 『ルネッサンスの光と闇 ― 芸術と精神風土』 (中公文庫)
若桑みどり 『イメージを読む ― 美術史入門』 (ちくまプリマーブックス)
クリバンスキー/パノフスキー/ザクスル 『土星とメランコリー』 田中英道 監訳


























































































高階秀爾 『ルネッサンスの光と闇』 (中公文庫)

「それにしても、自分が「最も望ましからぬ気質」で、「最も悪い星」の下に生まれたというのは、もちろん面白いことではない。そこでフィチーノは、この「最も悪いもの」を「最も良いもの」に変える大きな価値転換をやってのけたのである。ちょうどトランプでスペードのマイナス点を全部集めた者はいっきょにすべてがプラスに転換し得るように、諸性の中で悪いところばかり集めている憂鬱質も、まさにその故に、時に優れた存在になり得るということを説いたのである。」
(高階秀爾 『ルネッサンスの光と闇』 より)


高階秀爾 
『ルネッサンスの光と闇
― 芸術と精神風土』
 
中公文庫 M335


中央公論社
昭和62年3月25日 印刷
昭和62年4月10日 発行
416p
文庫判 並装 カバー
定価560円
カバー画: ボッティチェルリ《ヴィーナスの誕生》


「『ルネッサンスの光と闇』昭和四十六年四月 三彩社刊」



本文中図版(モノクロ)172点。



高階秀爾 ルネッサンスの光と闇



カバー裏文:

「人間性の開放と現実世界の肯定という明るい光の部分の裏側に、世界の終りに対する恐れ、死の執念、混乱と破壊への衝動、破滅へのひそかな憧れ、非合理的幻想世界への陶酔といった別の一面を持つルネッサンス……。ボッティチェルリの《春》や、ヴァティカン宮殿の署名の間、メディチ家の礼拝堂といった傑作を輩出したその精神的風土と芸術のからみあいを、多数の挿図とともに明快に説き明かす好著。」


目次:

序文

第一部 サヴォナローラ
 第一章 虚飾の焼却
 第二章 偽預言者
 第三章 世界の終り
 第四章 神秘の降誕
 第五章 最後の聖体拝受

第二部 メランコリア
 第六章 華麗なる保護者
 第七章 カレッジのアカデミア
 第八章 パンの饗宴
 第九章 四性論
 第十章 考える人

第三部 愛と美
 第十一章 三美神
 第十二章 貞節・愛・美
 第十三章 キューピッド
 第十四章 宇宙的オクターブ
 第十五章 西風との出会い
 第十六章 生命復活の祭儀

第四部 二人のヴィーナス
 第十七章 ヴィーナスの誕生
 第十八章 聖愛と俗愛
 第十九章 騎士の夢
 第二十章 女神と娼婦

第五部 神々の祝祭
 第二十一章 パルナッソス
 第二十二章 純潔と愛欲の争い
 第二十三章 婚姻記念画
 第二十四章 神々の祝祭
 第二十五章 バッカナーレ
 第二十六章 ヴィーナスの礼拝

あとがき
文庫版あとがき
参考文献
図版目録
人名索引




◆本書より◆


「第九章」より:

「四性論というのは、あらためて説明するまでもなく、人間の体内を流れる四種の液体のバランスによって人間の気質が定まると考えるもので、それは同時に、アリストテレスによって確立された物質の本性である冷と熱、乾と湿の四つの組合わせである四大(大地、水、火、空気)や、春夏秋冬の四季や、東西南北の四方や、夜明け、昼、夕暮、夜の一日の四つの時や、少年、青年、壮年、老年の人間の一生や、その他さまざまなものと結びついて、当時の人間観、世界観の根本を形づくっていたものである。」
「中世末期からルネッサンスにかけて、広く流行したこの四性論の挿絵の中で、きわだった特徴は、憂鬱質の人間はほとんどつねに片手を頬にあてて、物想いにふける恰好を示していることである。例えば、ごく通俗的なものとして、十五世紀後半に作られた「四性」をあらわす木版画を見てみると、ちょうど日本の花札を思わせるような縦長の四つの画面にそれぞれ四人の人物がいて四性をあらわし、その下の方に、それぞれの気質の特徴を述べた説明がつけられている。そして、四人ともそれぞれの気質にふさわしいポーズや、動作や、附属品を示している。」
「一番左の端の鷹狩りをしている若者は、「サングィネウス」、すなわち多血質で、したがってこの気質にふさわしく、若々しく、行動的である。彼の足許に雲と星が見えるのは、空、つまり四元素のうちの空気に対応することをあらわす。
 二番目の、大きな青竜刀のようなものをふり上げているのは、「コレリクス」、すなわち胆汁質で、服装も多血質の若者よりやや大人びており、足許には火を踏まえている。胆汁質は、(中略)すぐかっとして逆上し易い性質を持っている。ここで彼が刀を振り上げているのはそのためであるし、その上御丁寧に腰にはもう一本、別の短剣をぶらさげている。」
「第三番目の気質は、珠数のようなものを持って「水」の中に立っている「フレンマティクス」、すなわち粘液質である。粘液質と水との結びつきはきわめて深く、普通粘液質の人は酒飲みだということになっている。
 そして最後に、「メランコリクス」、すなわち憂鬱質が来る。彼は大地の上に立って、片手を頬にあて、もう一方の手に財布をしっかりと握っている。(中略)というのは、「冷たくて乾いている」憂鬱質は、その性質上、しばしば守銭奴としてあらわされるからである。そして、最初のふたつの「暖い」気質が若々しく行動的であるのに対し、あとのふたつの冷たい気質は、年老いて非活動的であり、その中でも憂鬱質は、頬杖をついてぼんやりしていることから明らかなように、最も怠け者なのである。
 頬杖をついた憂鬱質というこのポーズは、ルネッサンス盛期にいたっても、ずっと利用されている。おそらく誰しもがただちに思い浮かべるのは、一五一四年に作られたデューラーの有名な銅版画《メレンコリア・Ⅰ》であろう。」
「差当ってここでは、この「メランコリア」もまた、何もしないで座ったまま、じっと頬に手をあてて沈思黙考していることを指摘すれば足りる。」
「もともと古代ギリシアから伝えられた四性論の考え方では、憂鬱質は四性の中では最も悪い性質である。すでに見たように、四性は冷熱(または寒暖)と乾湿の四つの組合わせに対応する。このうち、熱と湿とは生命の活動にとって都合のよい状況であり、したがって望ましいものである(このような考え方の背後には、明らかに、植物の生育に必要な高温多湿の気候を望む農耕社会特有の価値観が働いているが、詳しいことはここでは触れない)。したがって、温かくて湿っている多血質が人間にとって最も望ましい気質であり、(中略)冷たくて乾いている憂鬱質というのは、逆に最も良くない状態ということになる。(中略)憂鬱質ばかりは悪いところばかりを集めた救い難い存在というわけである。事実、十五世紀中葉までの四性論では、そのような価値づけが当然のことであった。それなればこそ、先に例に引いた木版画やその他の例に見るように、憂鬱質は何ら生産的な仕事をしない「怠け者」であり、冷酷な「守銭奴」としてあらわされるのが普通だったのである。
 このように悪いことずくめの憂鬱質に、逆に積極的な価値づけを与えたのは、ここでもマルシリオ・フィチーノであった。
 フィチーノは、彼自身もともと生まれつき身体が弱く、したがって多くのルネッサンス人のように自由奔放に行動することができず、しかも、気質から言ってはっきりと憂鬱質であった。フィチーノが生まれたのは、彼自身友人に宛てた手紙で語っているところによると、

  「一四三三年の十月十九日のことで、医者であった父親は時刻を記録するのを忘れたが、父や母の言うところから考えて、宵の二十一時のことであった……」

という。この日付け(秋)と時刻(宵の口)は明らかに憂鬱質のものであり、しかも後にフィチーノ自身が占星術によって占ったところによると、この日時は星辰すべてがサテュルヌス(土星)の支配のもとに最も望ましからぬ結びつきを示した時であって、この「星の下に生まれた」人の子は、きわめて不幸な運命を背負っているのだそうである。」
「フィチーノ自身認めているように、彼はサテュルヌスの星(土星)の支配下にあるわけだが、この土星は、当時知られていた惑星の中では最も太陽から遠く、したがって「冷たくて乾いている」星であった。つまり、土星の神であるサテュルヌスは、同時に四元素の中の大地を支配する神であり、四性の中の憂鬱質と結びつく神であった。」
「以上見たところから明らかなように、サテュルヌスの支配する憂鬱質は、どう考えても良いところのない気質で、フィチーノもそれを自覚して、しきりと音楽や読書で自己の「悪しき性質」を改めようとした。孤独で非活動的な音楽や読書が憂鬱質の治療法として有効であることは、古くから知られていたからである。しかし、それにしても、自分が「最も望ましからぬ気質」で、「最も悪い星」の下に生まれたというのは、もちろん面白いことではない。そこでフィチーノは、この「最も悪いもの」を「最も良いもの」に変える大きな価値転換をやってのけたのである。ちょうどトランプでスペードのマイナス点を全部集めた者はいっきょにすべてがプラスに転換し得るように、諸性の中で悪いところばかり集めている憂鬱質も、まさにその故に、時に優れた存在になり得るということを説いたのである。
 フィチーノにとってその手がかりとなったものは、アリストテレスの『プロブレマータ』の中の一節である。(中略)アリストテレスは、生まれながらの憂鬱質は、正常なバランスを欠いた存在である故にしばしば狂気や愚行に走るが、しかし「まさにその故に」、時に正常の人間の水準をはるかに越える存在にもなり得ると説いて、その異常さをうまく働かせることに成功すれば、常人のとても及ばない偉大なことを成就し得ると考えたのである。

  「すべて真に衆に抜きん出た人々は、それが哲学においてであろうと、(中略)詩や芸術においてであろうと、いずれも憂鬱質の人間である――そして彼らのある者は、その程度があまりにひどいので、黒胆汁の作用による病疾に悩むことも珍しくない……」

というアリストテレスの一節は、フィチーノにとって、大きな慰めであった。すなわち、憂鬱質は、正常なバランスを欠いた気質の持主である故に、とんでもないことも仕でかすかわりに、常人ではできない創造的事業も果すことができる。それ故に、それは創造的才能と結びつき得るものなのである。
 デューラーの《メレンコリア・Ⅰ》には、すでにそのような価値転換がはっきりと見られる。なるほど、憂鬱質を象徴する女性は、頬杖をついてはいるが、それはもはや眼を閉じた怠け者の姿ではなく、きらきら輝くその眼差しに明瞭にあらわれているように、その頭脳は厳しい思索に耽っている。すなわち、彼女は強い知的活動に従事しているのである。(中略)彼女は自己の思索に没頭して、地上の富のような俗世間のことはすっかり忘れている。そしてそのことが、彼女を平常の人間の水準以上に高めるものであることは、彼女がただの人間ではないしるしとして翼をつけていることからも、明らかと言える。つまりここでは「メランコリア」は、その知的、創造的活動故に、人間を越える存在にまで高められているのである。」











こちらもご参照ください:

クリバンスキー/パノフスキー/ザクスル 『土星とメランコリー』 田中英道 監訳
若桑みどり 『イメージを読む ― 美術史入門』 (ちくまプリマーブックス)














































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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