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ロラン・バルト 『明るい部屋 ― 写真についての覚書』 花輪光 訳

「「観客」としての私は、ただ《感情》によってしか「写真」に関心を寄せなかった。私は「写真」を、一つの問題(一つの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。」
(ロラン・バルト 『明るい部屋』 より)


ロラン・バルト 
『明るい部屋
― 写真についての覚書』 
花輪光 訳



みすず書房
1985年6月20日 第1刷発行
1986年3月5日 第3刷発行
152p 一覧・索引・文献v 
著者・訳者略歴1p
別丁口絵(カラー)1葉 
別丁図版(モノクロ)24p
四六判 丸背並装上製本 カバー
定価2,000円
カバー: 「カメラ・ルシダ」を用いて絵を描いているところ



本書「訳者あとがき」より:

「本書はバルトの遺著となった左記の写真論の全訳である。
Roland Barthes: La chambre claire. Note sur la photographie, Cahiers du Cinéma, Gallimard, Seuil, 1980.」



本書はカバーが銀で、パラフィン紙が掛けてあります。



バルト 明るい部屋 01



カバー裏文:

「「マルパが息子の死によっていたく心を動かされていると、弟子たちの一人が言った。《師は常々、すべては幻影にすぎないとおっしゃっていたではありませんか。御子息の死もまたしかり、幻影にすぎないのではありませんか?》と。マルパはこれに答えて言った。《しかり、されどわが息子の死は超幻影なり》と」
(『チベットの道の実践』)」



カバーそで文:

「《狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる》(ロラン・バルト)
 本書は、現象学的な方法によって、写真の本質・ノエマ(《それはかつてあった》)を明証しようとした写真論である。細部=プンクトゥムを注視しつつ、写真の核心に迫ってゆくバルトの追求にはまことにスリリングなものがある。
 本書はまた、亡き母に捧げられたレクイエムともいえるだろう。私事について語ること少なかったバルト、その彼がかくも直接的に、母の喪の悲しみを語るとは! 本書は明らかに、著者のイメージ論の総決算であると同時に、バルトの『失われた時を求めて』となっている。《『明るい部屋』の写真論の中心には、光り輝く核としての母の写真の物語が据えられている》(J・デリダ)」



目次:

 Ⅰ
1 「写真」の特殊性
2 分類しがたい「写真」
3 出発点としての感動
4 「撮影者」、「幻像」、「観客」
5 撮影される人
6 「観客」――その無秩序な好み
7 冒険としての「写真」
8 鷹揚な現象学
9 二重性
10 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
11 「ストゥディウム」
12 知らせること
13 描くこと
14 不意にとらえること
15 意味すること
16 欲望をかきたてること
17 単一な「写真」
18 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の共存
19 「プンクトゥム」――部分的特徴
20 無意志的特徴
21 悟り
22 事後と沈黙
23 見えない場

 Ⅱ
25 《ある晩……》
26 分け隔てるもの、「歴史」
27 再認・認識すること
28 「温室の写真」
29 少女
30 アリアドネ
31 「家族」、「母」
32 《それはかつてあった》
33 ポーズ
34 光線、色彩
35 「驚き」
36 確実性の証明
37 停滞
38 平板な死
39 プンクトゥムとしての「時間」
40 「私的なもの」/「公的なもの」
41 子細に検討する
42 似ているということ
43 家系
44 明るい部屋
45 《雰囲気》
46 「まなざし」
47 「狂気」、「憐れみ」
48 飼い馴らされた「写真」

訳者あとがき

参考文献
写真家索引
掲載写真一覧




◆本書より◆


「分類しがたい「写真」」より:

「何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。
 要するに、指向対象が密着しているのだ。そしてこの特異な密着のために、「写真」そのものに焦点を合わせることがきわめて困難になるのである。「写真」のことを扱った本という本は、(中略)いずれもこの困難の犠牲となっている。ある本は、技術的である。(中略)また他の本は、歴史的ないし社会的である。(中略)しかしどの本も、まさしく私の関心を引く写真、私に快楽や感動を与える写真については語ってくれない、ということがわかって私はいらだたしさを感じた。風景写真の構図の規則など、私にとって何のかかわりがあろう? 「写真」について書かれたものを読むたびに、私は、自分の好きなあれこれの写真のことを考えて、腹が立った。それというのも、私の目には、ただ指向対象だけ、欲望の対象だけ、最愛の人の肉体だけしか見えなかったからである。しかし、その都度、ある執拗な声(科学の声)が、おごそかな口調で私に命じるのだった。《「写真」一般にもどりたまえ。君が眺めて苦しんでいる写真は、ある社会学者のチームが研究した、“素人写真”の範疇に属するものだ。「家」を立て直すためにおこなわれる、成員統合の社会的儀式の痕跡にほかならない》、等々。しかし私は従わなかった。もう一つのさらに強力な声が、そうした社会学的な説明を否定するように私を駆り立てていた。私はある種の写真に対して、野生の状態で、教養文化を抜きにして、向かい合いたいと思っていたのである。」



「出発点としての感動」より:

「そこで私は、こう思った。「写真」について書きたいと望んだ結果、以上のような無秩序とディレンマが明らかになったが、確かにこの状態は、私がいつも味わってきた一種の居心地の悪さを反映するものだ。それは主体が二種類の言語活動、つまり一つは表現的言語活動、もう一つは批評的言語活動の板ばさみになったとき感ずる居心地の悪さであり、さらにこの後者の言語活動の内部において、何種類かの言説、たとえば社会学や記号学や精神分析などの言説の板ばさみになったとき感ずるものである。しかし他方、私がそうした言語活動のいずれにもついに満足していないということは、私のうちにある唯一の確実なもの(たとえそれがいかに素朴なものであっても)を証明している。つまり、あらゆる還元的な体系に反発する私の激しい抵抗感である。(中略)いっそのこと、これをかぎりに、私の個別性から発する抗議の声を逆に道理と見なし、《古代の自我の至高性》(ニーチェ)を、発見のための原理にしようとするほうがよいのだ。そこで私は、自分の探求の出発点として、わずか数枚の写真、私にとって存在することが確実な数枚の写真を採用することに決めた。それは資料体(コルプス)とは何の関係もない、ただいくつかの肉体(コール)にすぎなかった。主観性と科学の関係については、要するに型にはまった例のとおりの議論がおこなわれているが、その議論を通して私は、つぎのような奇妙な考えに到達したのである。いったいなぜ、いわば個々の対象を扱う新しい科学がないのか? なぜ(「普遍学」 Mathesis universalis ならぬ)「個別学」(Mathesis singularis)がないのか? と。そこで私は、自らを「写真」全体の媒介者と見なすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような、「写真」の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。」


「「撮影者」、「幻像」、「観客」」より:

「というわけで、いまや、「写真」に関する《知》の尺度となるのは、私自身である。」


「「観客」――その無秩序な好み」より:

「ここで問題になっているのは、たあいない心情の動きであって、私は好きだ/私は嫌いだと言ってしまえば、それで事がすんでしまう、ということは私にもよくわかっていた。(中略)だがしかし、まさしくそれが問題だったのだ。私はつねに自分の気分を論じたいと思っていたのである。といっても、自分の気分を正当化するためではないし、ましてや自分の個性をテクストの舞台いっぱいに繰り広げるためではない。それどころか、その個性を、主体の科学といったものに捧げ、提供するためである。その科学の名前は大して問題ではないが、ただその科学は、私を還元することも圧殺することもないような、ある一般性に到達するのでなければならない(これは、まだおこなわれたことのない賭である)。そこで、とにかく試してみる必要があった。」


「「ストゥディウム」と「プンクトゥム」」より:

「第一の要素は、明らかに、ある広がりをもつものである。それは、私が自分の知識や教養に関してかなり日常的に認めているような、ある一つの場の広がりをもつ。その場は、(中略)必ず、ある典型的な情報に関係している。(中略)何千という写真が、そうした情報の場によって成り立っており、確かに私はそうした写真に対して、一種の一般的関心、ときには感動に満ちた関心をいだくことができるが、しかしその感動は、道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとしている。そうした写真に対して私が感ずる感情は、平均的な感情に属し、ほとんどしつけから生ずると言ってよい。(中略)私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである(ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという共示的意味(コノテーション)が含まれているのである)。
 第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(中略)写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた標識(しるし)を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい痛点のようなものがあり、ときにはそれが斑点状になってさえいるのだ。(中略)それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもあり――しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。」



「欲望をかきたてること」より:

「一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって座っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られる樹木(チャールズ・クリフォード撮影の「アルハンブラ」)。この古い写真(一八五四年)は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。この願望は、私の心の奥深いところに、私の知らない根を下ろしている。私を引きつけるのは、気候の暑さか? 地中海の神話か? アポロン的静謐か? 相続人のいない状態か? 隠棲か? 匿名性か? 気高さか? いずれにせよ(私自身、私の動機、私の幻想がどのようなものであるにせよ)、私はそこで繊細に暮らしたいと思う――その繊細さは、観光写真によっては決して満足させられない。私にとって風景写真は(中略)、訪れることのできるものではなく、住むことのできるものでなければならない。(中略)この欲望は幻想的なものであり、一種の透視力に根ざしている。透視力によって私は未来の、あるユートピア的な時代のほうへ運ばれるか、または過去の、どこか知らぬが私自身のいた場所に連れもどされるように思われる。ボードレールが「旅への誘(いざな)い」と「前の世」でうたっているのは、この二重の運動である。そうした大好きな風景を前にすると、いわば私は、かつてそこにいたことがあり、いつかそこにもどっていくことになる、ということを確信する。ところでフロイトは、母胎について、《かつてそこにいたことがあると、これほどの確信をもって言える場所はほかにない》と言っている。してみると、(欲望によって選ばれた)風景の本質もまた、このようなものであろう。私の心に(少しも不安を与えない)「母」をよみがえらせる、故郷のようなもの(heimlich)であろう。」


「少女」より:

「ギリシア人たちは、あとずさりしながら「死の国」に入っていったという。つまり彼らの目の前にあったのは、彼らの過去であった。同様にして私は、一つの人生を、私の一生ではなく私の愛する母の一生を遡っていった。死ぬ前の夏に撮った母の最後の映像(中略)から出発して、私は四分の三世紀を遡り、一人の少女の映像に到達したのだ。」
「時間を遡る「写真」のこの運動(中略)を、私は実生活でも経験していた。(中略)生涯の終わりにさしかかった母は衰弱していた。(中略)母の病気のあいだ、私は母を看病し、(中略)母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。ブレヒトの作品では、(中略)息子のほうが母親を(政治的に)教育する。しかし私の母の場合、私は母を教育して、それが何であるにせよ、何かに変えようとは決してしなかった。(中略)母と私は、互いに口にこそ出さなかったが、言葉がいくぶん無意味になり、イメージが停止されるときこそ、愛の空間そのものが生まれ、愛の調べが聞かれるはずだと考えていた。あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。私はこうして、私なりに、「死」の問題に答を出していた。多くの哲学者が言うように、「死」とは種(しゅ)の冷酷な勝利にほかならず、特殊なものは普遍的なものを満足させるために死ぬのであり、個体は、自分自身以外の個体として自己を再生したのち、否定され乗り越えられて死んでいくというのが事実なら、私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生みだしたのだ。その母が死んだいま、私にはもはや高次の「生命体」(種(しゅ))の歩みに身をゆだねる理由はまったくない。私の特殊性は、もはや決して普遍的なものとなりえないだろう(ただ、ユートピアとしては、書くこと(エクリチュール)によってそれが可能となるのだから、今後は書く企てが私の人生の唯一の目的となるのでなければならないのである)。いまや私は、私自身の完全な、非弁証法的な死を待つしかなかった。」

 

「「狂気」、「憐れみ」」より:

「「写真」と「狂気」と、それに名前がよくわからないある何ものかとのあいだには、ある種のつながり(結びつき)がある、ということを私は理解したと思った。私はその何ものかをとりあえず愛の苦悩と呼んでみた。(中略)しかしながら、そうとばかりも言い切れなかった。その何ものかは、恋愛感情よりももっと豊かな感情のうねりだった。「写真」によって(ある種の写真によって)呼び覚まされる愛のうちには、「憐れみ」という奇妙に古くさい名前をもった、もう一つの調べが聞き取れた。私は最後にもう一度、私を《突き刺した》映像(中略)を、残らず思い浮かべてみた。それらの映像のどれをとっても、まちがいなく私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを腕に抱きしめたのだ。ちょうどニーチェが、一八八九年一月三日、虐待されている馬を見て、「憐れみ」のために気が狂い、泣きながら馬の首に抱きついたのと同じように。」


「飼い馴らされた「写真」」より:

「狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(中略)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる。つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。」
「「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。」




バルト 明るい部屋 02



◆感想◆


本書でロラン・バルトは、写真をみる時の関心の基礎をなす二つの要素を「ストゥディウム」「プンクトゥム」と名づけています。
「ストゥディウム(studium)」は、「道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとし」「人間的関心」であり、「ある種の一般的な思い入れ」である。
一方、「プンクトゥム(punctum)」は、「ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るもので」あり、「写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る」「プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり、しかもまた、骰子の一振りのことでもある」「ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである」
ストゥディウムは約束事であり、「単一」なものである。それに関心を持ち、理解するとか賛成したり反対したりすることはできるが、「愛」の対象とはなりえない。
「ごく普通には単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある《細部》が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした《細部》が、プンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである。」

よくわからないですが、「プンクトゥム」とは校長先生のお説教中に校庭に迷い込んだ犬みたいなものなのではないでしょうか。






























































































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ロラン・バルト 『ミシュレ』 藤本治 訳

「私は重い病気にかかっていた。そのため私の青年時代は陰鬱なものになったが、しかしこの病気は歴史家にはきわめて適切な病気なのだ。私は死を愛していたのである。ペール=ラシェーズ墓地の入口のところに私は九年間住んでいたことがあるが、その頃はこの墓地が私の唯一の散歩場であった。」
(ミシュレ 『フランス史』 より)


ロラン・バルト 
『ミシュレ』 
藤本治 訳
 


みすず書房
1974年4月25日 第1刷発行
1986年8月15日 第2刷発行
3p+294p 別丁口絵(モノクロ)8p 
「ミシュレの作品/参考書目」ii 
著者・訳者略歴1p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、「永遠の作家たち」と題する有名な叢書のなかの一冊として、一九五四年に刊行された MICHELET par lui-même. Images et textes présentés par Roland Barthes. Aux Editions du Seuil の全訳である。(この叢書の本はいずれも「……自身による」という意味の par lui-même という言葉が各作家の名前のあとに付いている。そのことからもうかがわれるように、この叢書はすべて、たんなる評論もしくは評伝ではなくて、各作家の要領のよい選文集(アントロジー)を兼ねている。)」
「原書では挿画がふんだんに用いられていて、しかもそれが本書の構成上なかなか重要な役目をになっているのであるが、訳書はさまざまな事情のため、その多くを割愛しなければならなかった。」



口絵図版17点、本文中図版7点。



バルト ミシュレ



カバー裏文:

「ジュール・ミシュレは、『フランス革命史』『魔女』『鳥』『虫』などでわが国にも広く知られ、1830年の7月革命、1848年の2月革命およびその反動、1871年のパリ・コミューンと、歴史の光と闇が交錯する激動期を生きたフランスの大歴史家である。
 現実を叙述する際、ミシュレの文体は事実との符合より、さまざまな形容の過剰にみたされ、この点が従来フランスの歴史家たちから現実を歪曲したと批判されてきたのであるが、バルトは本書によって、ミシュレをミシュレたらしめている本来の作家的特質、歴史を知覚と官能のレベルに置きかえる特異な言語の使い方(エクリチュール)に光をあて、ミシュレの新しい読み方を展開している。
 本書は、スイユ社の“永遠の作家たち”と題する叢書の一冊であるが、バルトのミシュレ評論と、バルトが選択したミシュレの文章とがみごとに呼応しあって有機的な統一をなしている点で、この叢書のなかでももっともすぐれたものの一つである。」



目次:

凡例

Ⅰ メモとして
Ⅱ 歴史を食う人ミシュレ
Ⅲ オランダ舟
Ⅳ われわれがきわめて愚かにも女性形にしている歴史
Ⅴ 眠りとしての死と太陽としての死
Ⅵ 血の華
Ⅶ いとやんごとなき存在としての女
Ⅷ 超セックス
Ⅸ ミシュレの読み方
Ⅹ ミシュレについてのさまざまの評価

訳者あとがき




◆本書より◆


「歴史を食う人ミシュレ」より:

「ミシュレの持病、それはめまいと嘔吐の複合した偏頭痛である。一切のものが彼には偏頭痛のたねとなる。寒さも、雷雨も、春も、風も、そして彼が物語る「歴史」も。六十巻に及ぶ著作のいつ果てるともしれぬ長広舌から成る百科全書的な作品を残したこの男は、誰彼かまわずつかまえて、自分のことを《頭がくらくらする、私は悩んでいる、力がでない、からっぽな感じだ》と述べたてる。彼はいつでも何かを書いていた(中略)が、しかも正真正銘深い悩みのなかで書かなかったものは一つもない。こうした人生にあっては、人を息苦しくさせる雷雨、人をほっとさせてくれる雨、また戻ってきた秋、どれもこれもが大事件となるのだ。いまいましい風が吹くと痛み出すこの身体を、ミシュレはたえずあちこちへと運んでゆく。」


「血の華」より:

「なお、血の最高の形態は究極において海である。原初的な生殖の要素である海は、血と乳、《温かい乳と熱い血》の原型を構成する。海は、一種の漸進的な有機化、自然発生(これをミシュレは固く信じていた)のすべての現象に類似した一種の腫脹によって、血と乳とを産み出すのである。自由な状態において、海はすでに、その魚たちの出す白濁した脂肪質をふくんだ物質によって乳化せられている。より高い段階において、海は、《地上の全創造にはるかに優る》ところの、《世界の真の華》であり、完璧な神話的生物である鯨の内部において血となり乳となるのだ。塩と血と乳とのこの結婚こそが、ミシュレにとっては、宇宙的な、ほとんどグノーシス主義的な次元の一物質――なぜなら、これは起源であると同時に終極であり、要素であると同時に華でもあるからだ――を決定する。すでに一八四二年、瀕死の床にある愛人(デュメニル夫人)を看取りながら、ミシュレはある百科事典で鯨目についての記述を読んでいて、ついそれに夢中になってひきつけられ、死者のことを忘れてしまったことがある。《海》のなかで、鯨は、生物の階梯の最高の栄光ある地位を占めている。」
「血は創造の終極の実体であるのだから、《血の華》はしたがってミシュレにとって完成の形象そのものとなるだろう。血は宇宙的であると同時に美的で、しかも道徳的なもの(オブジェ)である。それは、対立するものが廃絶せられた共同世界を意味する。」








こちらもご参照下さい:

ロラン・バルト 『明るい部屋 ― 写真についての覚書』 花輪光 訳

































ロラン・バルト 『テクストの快楽』 沢崎浩平 訳

「テクストの快楽(プレジール)、それは幸せなバベルだ。」
(ロラン・バルト 『テクストの快楽』 より)


ロラン・バルト 
『テクストの快楽』 
沢崎浩平 訳



みすず書房
1977年4月10日 第1刷発行
1986年3月10日 第7刷発行
160p 目次4p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円



本書「あとがき」より:

「本書は Roland Barthes: le plaisir du texte, Éditions du Seuil, 1973 の全訳である。」



バルト テクストの快楽



カバー裏文:

「現代において、ロラン・バルトはもっとも創造的で、知的刺戟に富んだ批評家である。1973年に刊行された本書で、彼は、テクストと快楽・悦楽との関係を、アフォリズムに似た断章のかたちで探究している。つねに転位してゆくバルト的批評の現在を示すと同時に、本書はまた、バルト独自の、ユニークな「読書の詩学」でもある。
 「われわれは、テクストについて何を知っているか。最近、理論がこれに答え始めた。しかしまだ、一つの問題が残っている。われわれはどのようにしてテクストを楽しむかという問題が。
 この問題を課さねばならない――たとえ戦術的な理由だけでしかないとしても。科学の公平無私、イデオロギー的分析のピューリタニズムに対して、テクストの快楽を確立しなければならない。文学の単なる娯楽化に対して、テクストの悦楽を確立しなければならない。
 どのようにして、この問題を課すか。悦楽の特質は語り得ない所にある。だから、断章の無秩序の連続に身を委ねなければならなかった。眼に見えない構図の切子面、鍵盤、泡、巻紙。単なる問題の提出、テクスト分析の学問外的ひこばえ。」(ロラン・バルト)」



目次:

凡例

肯定 Affirmation
バベル Babel
おしゃべり Babil
縁 Bords
ブリオ Brio
引き裂かれ Clivage
共同体 Communauté
肉体 Corps
註釈 Commentaire
漂流 Dérive
語る Dire
右翼 Droite
交換 Échange
聞く Écoute
感動 Émotion
退屈 Ennui
裏側 Envers
正確さ Exactitude
物神 Fétiche
戦い Guerre
想像物 Imaginaires
相互関連テクスト Inter-texte
等方性 Isotrope
言語 Langue
読書 Lecture
特権階級 Mandarinat
現代的 Moderne
ニヒリズム Nihilisme
命名行為 Nomination
愚民主義 Obscurantisme
オイディプース Œdipe
恐怖 Peur
文 Phrase
快楽 Plaisir
政治 Politique
日常的 Quotidien
取り込まれ Récupération
表象 Représentation
抵抗 Résistances
夢 Rêve
科学 Science
意味形成性 Signifiance
主体 Sujet
理論 Théorie
価値 Valeur
声 Voix

訳註
あとがき (沢崎浩平)

目次




◆本書より◆


「テクストの快楽。それは、ベイコンの模倣者のように、次のようにいうことができる。決して弁解せず、決して釈明せず、と。それは決して何物も否定しない。《私は眼をそむけるだろう。それが、今後、私の唯一の否定となるだろう。》」

「エクリチュールとは言語活動の悦楽の科学、言語活動のカーマスートラである。」

「文化もそれの破壊もエロティックではない。エロティックになるのは両者の断層である。」

「快楽はテクストの一要素ではない。(中略)それは悟性や感覚の論理に左右されない。それは漂流だ。革命的であると同時に、非社会的で、どんな集団も、どんな精神状態も、どんな個人言語(イディオレクト)も、引き受けることのできないものだ。中性的なもの? テクストの快楽が顰蹙を買うものであることは明らかだろう。それが不道徳だからではなく、アトピックだからである。」

「悦楽の非社会的性格。それは社会性の突然の喪失だ。しかし、だからといって、主体(主観性)、個人、孤独の方に再び落ち込むことは決してない。すべてが失われるのだ。完全に。隠密性の極致、映画館の闇。」

「現代社会の疎外を免れるには、もはやこの手しかない。すなわち、前方への逃走である。(中略)ステレオタイプは政治的事実だ。イデオロギーの主要な顔だ。それに対して、「新しいこと」は悦楽である。(中略)「新しいこと」への(周辺部の、常軌を逸した)熱中――言述の破壊にまでいきかねない、気違いじみた熱中、ステレオタイプに抑圧された悦楽を再び歴史的に出現させようとする試み。」
「規則、それは濫用だ。例外、それは悦楽だ。例えば、時には、「神秘主義者」の例外を支持することもあり得る。規則(一般性、ステレオタイプ、個人言語(イディオレクト)、すなわち、凝着した言語活動)でなければ、何でもいい。」

「ステレオタイプに対する警戒が絶対的不安定性の原理である。それは何物も大事にしない(どんな内容も、どんな選択も)。二つの重要な単語の結びつきが当り前になると、すぐに吐き気を催す。あるものが当り前になると、私はすぐ放棄する。それが悦楽だ。」

「「テクスト」は「織物」という意味だ。しかし、これまで、この織物は常に生産物として、背後に意味(真実)が多かれ少なかれ隠れて存在するヴェールとして考えられてきたけれど、われわれは、今、織物の中に、不断の編み合せを通してテクストが作られ、加工されるという、生成的な観念を強調しよう。この織物――このテクステュール〔織物〕――の中に迷い込んで、主体は解体する。自分の巣を作る分泌物の中で、自分自身溶けていく蜘蛛のように。」

「快楽が宙吊りにする力については、どんなに強調してもしすぎることはない。それは真のエポケーだ。公認された(自分自身が認めた)あらゆる価値をはるか彼方で凍結させる停止だ。快楽は中性(悪魔的なものの最も倒錯的な形式)である。」










こちらもご参照下さい:

ロラン・バルト 『明るい部屋 ― 写真についての覚書』 花輪光 訳














ロラン・バルト 『物語の構造分析』 花輪光 訳

「問題は、少なくともわたしが身に課す問題は、実際「テクスト」を、何であれ一つの記号内容(中略)に還元せず、テクストの表意作用(シニフィヤンス)を開かれた状態に保つようにすることなのである。」
(ロラン・バルト 「天使との格闘」 より)


ロラン・バルト 
『物語の構造分析』 
花輪光 訳



みすず書房
1979年11月15日 第1刷発行
1988年12月5日 第10刷発行
1p+219p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,800円



本書「訳者解題」より:

「本書は、著者が指定した十五編のテクストのうち、(中略)八編を選んで収めたものである。」



バルト 物語の構造分析



カバー裏文:

「「物語はまさに人類の歴史とともに始まるのだ。物語をもたない民族はどこにも存在せず、また決して存在しなかった。あらゆる社会階級、あらゆる人間集団がそれぞれの物語をもち、しかもそれらの物語はたいていの場合、異質の文化、いやさらに相反する文化の人々によってさえ等しく賞味されてきた。物語は、良い文学も悪い文学も差別しない。物語は人生と同じように、民族を越え、歴史を越え、文化を越えて存在する」
 フランスにおける〈物語の構造分析〉は事実上、「コミュニカシヨン」誌、八号の物語の構造分析特集に始まると云ってよかろう。その巻頭を飾った、バルトの「物語の構造分析序説」は今や〈古典〉として名高い。この論文は現在においても、依然としてその重要性を失っていない。本書は、この記念碑的な労作をはじめ、批評家バルトの基調を示す「作者の死」「作品からテクストへ」、さらに、バルト的神話学ないし記号学の新しい方向を示す「対象そのものを変えること」等、八篇を収める。つねに変貌してゆくバルトの、60年代から70年代にかけての軌跡を明らかにする評論集。」



目次:

物語の構造分析序説
天使との格闘――「創世記」三二章二三-三三節のテクスト分析
作者の死
作品からテクストへ
現代における食品摂取の社会心理学のために
エクリチュールの教え
逸脱
対象そのものを変えること

原注
訳注
訳者解題




◆本書より◆


「作者の死」より:

「土俗的な社会では、物語は、決して個人ではなく、シャーマンや語り部という仲介者によって引き受けられ、必要とあれば彼の《言語運用》(つまり、物語のコードの制御)が称讃されることはあっても、彼の《天才》が称讃されることは決してなかった。作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。」

「「作者」の支配は、今もなお非常に強い(中略)が、言うまでもなく、ある作家たちは、すでにずっと以前から、その支配をゆるがそうとつとめてきた。フランスでは、おそらく最初にマラルメが、それまで言語活動(ことば)の所有者と見なされてきた者を、言語活動(ことば)そのものによって置き換えることの必要性を、つぶさに見てとり予測した。彼にとっては、われわれにとってと同様、語るのは言語活動(ことば)であって作者ではない。書くということは、それに先立つ非人称性(中略)を通して、《自我》ではなく、ただ言語活動(ことば)だけが働きかけ《遂行する》地点に達することである。マラルメの全詩学は、エクリチュールのために作者を抹殺することにつきる(ということは、これから見るように、作者の地位を読者に返すことだ)。(中略)彼は、(中略)「作者」を疑い嘲笑することをやめず、自分の活動の言語学的な、いわば《偶発的な》性質を強調し、散文の著作を通じて終始文学の本質的に言語的な条件を擁護した。この条件に比べれば、作家の内在性に頼ることはすべて、まぎれもない迷信であると彼には思われたのである。」
「言語学が示すところによれば、言表行為は、全体として一つの空虚な過程であり、対話者たちの人格によって満たされる必要もなしに完全に機能する。言語学的には、作者とは、単に書いている者であって、決してそれ以上のものではなく、またまったく同様に、わたし とは、わたし と言う者にほかならない。」

「われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(中略)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。」



「逸脱」より:

「言語(ラング)は無限です(終わりがありません)。そしてこのことから帰結を引き出さなければなりません。言語(ラング)は言語(ラング)以前に始まります。わたしは日本に関してこのことを言いたかったので、わたしがこの地でおこなったコミュニケーションを賞揚したのです。わたしは、自分の知らない話しことばのまさに外にありながら、この未知の言語のざわめきや感情的な息づかいを通して、それをおこなったのでした。ことばのわからない国で生活すること、観光地以外の場所で広く生活することは、あらゆる冒険のなかでもっとも危険なものです(この表現が青少年向きの小説のなかでもちうる素朴な意味において、そうです)。それは(主体にとって)ジャングルに挑戦することよりも危険です。というのも、言語を越えて、言語の補足的周辺に、ということは、深さをもたない言語の無限のひろがりのなかに、身を置かなければならないからです。新しいロビンソン〔・クルーソー〕を想像しなければならないとしたら、わたしは彼を無人島には置かず、彼が音声言語(パロール)も文字言語(エクリチュール)も理解できない、人口一千二百万の都市に置くでしょう。これこそロビンソンの神話の現代版であろうと思います。」





















ロラン・バルト 『言語のざわめき』 花輪光 訳

「今日、私は、ヘーゲルが語っているギリシア人に自分がいささか似ていると思う。ヘーゲルの言うところによれば、古代ギリシア人は、木の葉や泉や風のざわめき、要するに「自然」のふるえに、熱心に、たえまなく問いかけ、そこにある種の知性の姿を見出そうとしたという。そして私はと言えば、言語活動のざわめきに耳を傾け、意味のふるえに問いかけるのだ――現代の人間である私にとっては、「自然」とは、言語活動にほかならないのである。」
(ロラン・バルト 「言語のざわめき」 より)


ロラン・バルト 
『言語のざわめき』 
花輪光 訳



みすず書房
1987年4月3日 第1刷発行
1987年12月5日 第2刷発行
267p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円
カバー: ギリシアの詩人アラトスの詩のラテン語訳。カロリンガ朝のコピーによる。(大英博物館蔵)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、左記の原書(七部四二篇)の第五部までを訳出したものである。
Roland Barthes: Le bruissement de la langue - Essais critiques IV, Editions du Seuil, 1984.
ただし、第二部六篇のうち、(中略)四篇は割愛した。(中略)この四篇は、すでに『物語の構造分析』(拙訳、みすず書房)に収められているので、併読をお願いしておきたい。」



そういうわけで、本書はF・ヴァール編による著者没後刊行評論集の抄訳です。



バルト 言語のざわめき



目次:

第一部 科学から文学へ
 1 科学から文学へ
 2 書くは自動詞か?
 3 読書のエクリチュール
 4 読書について
 5 ある文学史提要についての考察
 6 綴りの自由を認めよう

第二部 作品からテクストへ
 7 言語のざわめき
 8 若い探究者たち

第三部 言語活動と文体
 9 文化が強制する平和
 10 言語活動の分裂
 11 言語活動の戦い
 12 修辞の分析
 13 文体とそのイメージ

第四部 歴史から現実へ
 14 歴史の言説(ディスクール)
 15 現実効果
 16 五月の事件のエクリチュール

第五部 記号の愛好家(アマチュア)
 17 眩惑
 18 実に素晴らしい贈物
 19 なぜバンヴェニストを愛するか
 20 異邦の女
 21 詩学者の回帰
 22 学ぶことと教えること

原注・訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「科学から文学へ」より:

「一神教によって「罪」の観念を徹底的に教え込まれた文明においては、あらゆる価値は苦悩によって生み出されるものとされるから、快楽という語は耳に心地よく響かない。(中略)コールリッジは言った。《詩作品とは、真理ではなく快楽を、その直接の目的とすることによって、科学の著作と対立するたぐいの作品である》と。だが、この宣言は両義的である。というのも、それは詩(文学)のいわばエロティックな性質を受け入れてはいるが、まだ依然として詩(文学)に、真実の本拠地とは別の、特殊な、いわば、監視つきの地区を割り当てているからである。しかし《快楽》というものは(中略)《趣味》の単なる満足よりもはるかに広く、はるかに意味深い敬虔を含意しているのである。ところが、言語活動の快楽は、これまで一度も真面目に評価されたことがない。(中略)ただバロック芸術だけが、言語活動の「エロス」とでも呼べるものを、あえていささか追求したが、その文学的実験は、西欧諸国の社会、少なくともフランスの社会においては、ただ単に黙認されていたというにすぎなかった。科学的言説は、言語活動の「エロス」からはほど遠い。というのも、科学的言説は、もしそうした考えを受け入れたら、社会的な制度が身にまとわせてくれているあらゆる特権を放棄しなければならず、ボードレールがエドガー・アラン・ポーについて言ったあの《文学の世界》、つまり、《落ちこぼれたある者たちが、息をすることのできる唯一の環境》、にもどることを承知しなければならなくなるからである。
 科学的言説の意識、構造、目的を変革すること、今日おそらく要求しなければならないのはこれであるが、しかし今日、人文諸科学は確固として繁栄し、一般に非現実的、非人間的であるとして非難される文学の場は、次第にせばめられつつあるように見える。だが、ほかでもない、文学の役割は、科学的体制が拒否するもの、すなわち言語活動の至上権を、科学的体制に対して積極的に突きつける=代表することにあるのだ。」



「読書のエクリチュール」より:

「ある本を読んでいるとき、興味がもてないからではなく、むしろ逆に、思いつきや刺激や連想の波が押し寄せてきて、読書のとちゅうでたえず立ち止まる、というようなことが、かつてなかったであろうか? 一言で言えば、顔を上げながら読む、というようなことがなかったであろうか?
 私が〔『S/Z』で〕試みたのは、そうした読書の記述(エクリチュール)である。」

「私はある一人の読者(中略)を再構成したわけではなく、読書というものを再構成したのである。私がここで言いたいのは、いかなる読書も個人を超えた形式から派生する、ということだ。テクストの字義どおりの意味(中略)が引き起こすさまざまな連合作用は、どのようにおこなわれたところで、決して無秩序なものではない。それは常に、何らかのコード、何らかの言語(ラング)、何らかのステレオタイプのリストからのがれられない(中略)。想像しうるもっとも主観的な読書といえども、何らかの規則に従っておこなわれる戯れ以外の何ものでもないのだ。では、その規則は、どこからやって来るのか? もちろん作者からやって来るわけではない。作者はただその規則を、自分のやり方で適用するだけである(中略)。作者よりもはるか以前に認められるその規則は、物語の大昔からある論理、われわれが生まれる前からすでにわれわれを形づくっている象徴形式、つまり要するに、あの果てしない文化の空間からやって来るのだ。われわれ(作者や読者)個人は、そうした文化の空間を通過するものにすぎないのである。それゆえ、テクストを開いたものにするということ、テクストの読みのシステムを想定するということは、単に、テクストが勝手に解釈できるということを要求したり、示したりするということではない。それはとりわけ、そしてはるかにラディカルに、つぎのことを認めさせようとすることなのである。すなわち、読書には、客観的または主観的な真実など存在せず、ただ戯れの真実だけが存在するということ。といっても、その戯れは、この場合、(中略)労働――ただし、一切の苦痛が拭い去られた労働――として理解されるのでなければならない。読むということは、われわれの身体を働かせて、テクストの記号の呼びかけに応ずるということであり、テクストを横切ってさまざまな文のいわばモアレ織りの深層を織り成している、あらゆる言語活動の呼びかけに応ずるということなのである(そしてその身体が、われわれの記憶や意識をはるかに超えるものであるということは、精神分析が登場して以来、よく知られたことだ)。」



「読書について」より:

「まず第一に、読書の抑圧について語らなければならない。私が思いつく抑圧には、二つの種類がある。
 第一の抑圧は、読書を一つの義務に変える、社会的なあらゆる拘束、または無数の媒介を経て内面化されたあらゆる拘束から生ずる。この場合には、読む行為そのものが、あるおきてによって定められ、読む行為というよりもむしろ、こう言ってよければ、読んだという行為となり、通過儀礼のほとんど儀式的な痕跡となる。(中略)つまり、(『クレーヴの奥方』や『アンチ・オイディプス』を)読んでおかなければならないということなのだ。このようなおきては、どこからやって来るのか? それは、いずれもある価値やイデオロギーに立脚する、さまざまな審級からやって来るのだ。(中略)つまり私が言いたいのは、さまざまな集団のおきて、小さなおきてが存在するということであり、そうしたおきてに対しては、自由でいる権利をもたなければならない、ということである。あるいはまた、読書の自由とは、いかなる代価を支払わねばならぬとしても、読まない自由でもある、ということである。」
「第二の抑圧は、おそらく、「図書館」による抑圧であろう。」
「1 「図書館」は、その規模がどのようなものであっても、本来的に、際限のないものである。というのも、「図書館」は常に(中略)、欲求を下回ると同時に上回るからである。「図書館」にはある癖があって、欲しい書物は決してない、かわりに別の書物を提供する。「図書館」は、欲望の対象の代理物に満ちた空間なのである。(中略)「図書館」は、常に大きすぎるか小さすぎて、「欲望」とは根本的に合致しないのだ。」
「2 「図書館」は、人が訪れる空間であって、住む空間ではない。(中略)自宅の(公共的でない)空間では、書物は、社会的、文化的、制度的な見せかけの機能をすべて失う。」
「読書のエロティシズムといったものが存在することはたしかである(読書においては、欲望がその対象と水いらずでいる――これがエロティシズムの定義である)。」

「読む快楽には、少なくとも三つのタイプがある、あるいはもっと正確に言うなら、読書の「イメージ」が読む主体をとりこにするには三つの方法がある、と私には思われる。第一のやり方の場合、読者は、自分が読んだテクストに対してフェティシスト的な関係を結ぶ。彼は語句に、ある種の語句に、語句のある種の配列に、快楽を見出す。(中略)これは、隠喩的または詩的タイプの読書ということになろう。(中略)第二のやり方は、第一のやり方と正反対であって、それによると、読者は、いわばある力によって書物の先のほうへと引き寄せられていく。その力というのは、(中略)サスペンスの範疇に属するものである。書物が次第に読み尽くされていく、その待ちきれない、はやりにはやる消尽のうちに、快楽があるのだ。それはもちろん、あらゆる物語に共通する、主として換喩的な快楽なのであるが、知識そのものや思想もまた、サスペンスの動きに従って語られうるということを忘れてはなるまい。(中略)最後に、読書の第三の冒険(アヴァンチュール)がある(中略)。それは、もしこう言ってよければ、「エクリチュール」の冒険である。読者は、書く「欲望」を伝導する(中略)。といっても、必ずしも、われわれが読んで気に入った作家のように書きたいと欲する、というわけでは決してない。われわれが欲するのは、ただ単に、書き手がいだいていた、書く欲望だけである。あるいはまた、われわれが欲するのは、作者が書くときにいだいていた読者に対する欲望である。(中略)読書とはまさしく生産なのである。(中略)同時に書くこと(エクリチュール)を解放しないかぎり、読書(レクチュール)を解放することは決してできないだろう。」

「ある物語を語る――あるいは単にあるテクストを言表する――にあたって、作者はさまざまな視点に立つことができるが、(中略)「語り」の理論、あるいはもっと広くいって「詩学」に、読者を導入する一つのやり方は、読者自身が一つの視点をとる(あるいは、いくつかの視点をつぎつぎにとる)ものと見なすことであろう。言いかえれば、読者を、一人の登場人物として扱うこと、フィクションおよび/または「テクスト」の登場人物の一人(といっても、必ずしも特権的な人物である必要はない)にすることであろう。」
「一般に、読むということは、文字を、語句を、意味を、構造を、コード解読することである、とされていて、これには異論の余地がないが、しかし読みは、権利上無限であるから、コード解読を積み重ね、意味の歯止めを取り払い、自由自在に読む(それが読みの構造的天性である)ことによって、読者は、ある弁証法的な逆転現象に巻き込まれる。つまり読者は、最終的に、コード解読(décoder)するのではなく、多重コード化(sur-coder)することになるのだ。読者は読解するのではなく、生産し、言語活動を積み重ね、それらの言語活動によって無限に倦むことなく横断される。読者とは、その横断運動そのものとなるのである。」



「綴りの自由を認めよう」より:

「理不尽なのは、フランス語の正書法の恣意的な性格ではない。その恣意性が合法化されているということだ。一八三五年以降、アカデミー・フランセーズ公認の正書法が、まさに国家的見地から、おきてとしての価値をもつようになる。フランスの青少年は、最初の勉強を始めるやいなや、《綴りの過ち》を罰せられる。いくつかの綴りの誤りのために、どれほど多くの人生が台無しにされたことか!
 正書法の第一の効力は、選別することにあるが、しかしまた、正書法には、心理的次元に属するいくつかの二次的効力もある。仮に正書法が自由になったら――主体の欲求に従って略すのも略さないのも自由ということになったら――、正書法は、きわめて積極的な表現活動を生み出すようになるだろう。語が書かれたときの姿形が、まさしく詩的な価値をおびるようになるだろう。というのも、その姿形は、一律で還元的なおきてからではなく、書き手の幻想系(ファンタスマティック)から生ずるようになるからである。昔の写本や、子供が書いたテクストや、外国人の手紙のなかで、綴りの《錯乱》を通して爆発する、一種の陶酔、バロック的な歓喜の情を考えていただきたい。そうした綴りの開花のなかで、主体は自由を求めている、と言えないだろうか? 綴る自由、夢想する自由、思い出す自由、聴き取る自由を求めている、と言えないだろうか? われわれは実に《幸運な》綴りの誤りに出くわすことがないであろうか? そのような場合、書き手は、学校で教えるおきてに従って書いているのではなく、自分自身の生活史――いやおそらく自分の身体から発する神秘な命令に従って書いている、とでもいうかのようである。
 それとは逆に、正書法が、まさにその煩雑さと不合理性とを含んだまま、国家によって統一され、合法化され、承認されるやいなや、強迫神経症が蔓延する。綴りの誤りが「罪」となるからである。私は、自分の人生を変えるかもしれぬある就職口に、応募の手紙を出したところである。だが、あの複数形にたしかに s をつけたろうか? appeler(呼ぶ)という動詞に、p を二つ、l を一つ、たしかにつけたろうか? 私は疑いをもち、ひどく不安になる。ヴァカンスに出かけた人が、自宅のガスや水道をたしかに止めてきたかどうか、火事や洪水が起こらないようにしてきたかどうか、思い出せないのと同じである。そして、こうした疑いがヴァカンスを楽しむことをさまたげるのと同じく、合法化された正書法は、書き手がエクリチュールを、あの幸福な行為を、享受するのをさまたげるのである。その行為によってこそ、ある語の描線のうちに、単なる伝達の意図よりも少しばかり多くのものを含ませることができるというのに。
 正書法を改革すること? それは何度も試みられてきたし、いまも周期的に試みられている。しかしたとえ改善されても、それがふたたび強制され、合法化され、著しく恣意的な選別の道具になるとしたら、コードを変えても何になろう? 改革しなければならないのは、正書法ではなく、正書法の細々とした規則を命ずるおきてである。要求しうるのは、ただ、つぎのことだけである。すなわち、制度のある種の《寛容主義》。もし私が、《正確に》、つまり《規則どおりに》書くことを好むなら、そうするのはいっこうにかまわないし、(中略)合法的な正書法にも魅力がないわけではないのだ。なにしろそこには、倒錯した面がないわけではないからである。だがしかし、《無知》と《不注意》が、もはや不利益とならないようにしなければならない。それらを非常識や弱点と見なすことはやめなければならない。(中略)つまり要するに、正書法を理由にして排除することをやめるようにしなければならないのだ。」



「言語のざわめき」より:

「ざわめきというのは、順調に動いているものの音のことである。そこで、つぎのような逆説が生ずるのだ。すなわち、ざわめきとは、極限の音、不可能な音であり、完璧に動いているために音をたてないものが発する音である。ざわめくということは、音の消滅そのものを聞かせるということである。かすかな音、ごちゃ混ぜの音、ふるえる音が、音の抹消を示す記号として受け取られるのだ。
 それゆえ、ざわめきを発しているのは、幸福な機械なのである。(中略)実際、ざわめきというものは(中略)、肉体の共同体を含意しているのだ。《進行する》快楽の響きのなかでは、いかなる声も高められず、他を導かず、遠ざけられない。いかなる声も構成されない。ざわめきとは、複数的な――しかし決して集団的ではない悦楽の、響きそのものなのである(それとはまったく反対に、集団は、ただ一つの、それも恐ろしく強力な声をもつ)。」

「言語のざわめきとは、一つのユートピアなのである。では、それは、いかなるユートピアなのか? 意味の音楽というユートピアである。私がこの意味の音楽という言葉によって言いたいのは、こういうことだ。つまり、ユートピアの状態においては、言語は拡大されて、いやむしろその本性を変えられて、果てしない音の織物を形成するにいたり、そこでは意味論的装置が働かなくなるだろうということである。(中略)言語はざわめき、われわれの合理的な言説(ディスクール)の聞いたことも見たこともない動きによって記号表現にゆだねられるが、だからといって、意味の地平から離れることはないだろう。分割されない、不可解な、名指しえない意味が、やはり、蜃気楼のように遠くに置かれ、それが音声的営為を、ある一つの《内容》をもった二重の風景に変えるだろう。しかし(中略)音素の音楽がメッセージの《内容》となるということではなく、ここでは意味が悦楽の消尽点となるだろう。そして機械の場合、ざわめきは、音の不在を示す音にほかならなかったが、それと同じく、言語の場合、ざわめきは、意味の免除を告げる意味となるだろう。あるいは――こう言っても同じことだが――遠くにある一つの意味を告げる無=意味となるだろう。遠くにあるその意味は、以後、《人類の悲しく野蛮な歴史》を通じて形成された記号、つまりパンドラの箱、によって表わされる一切の攻撃性から、完全に解放されたものとなるだろう。
 なるほど、それはユートピアである。しかしユートピアというものは、往々にして前衛の探究を導くものとなる。それゆえ、ざわめきの実験とでも呼べそうな試みが、ときおりあちこちに存在することになるのだ。」

「今日、私は、ヘーゲルが語っているギリシア人に自分がいささか似ていると思う。ヘーゲルの言うところによれば、古代ギリシア人は、木の葉や泉や風のざわめき、要するに「自然」のふるえに、熱心に、たえまなく問いかけ、そこにある種の知性の姿を見出そうとしたという。そして私はと言えば、言語活動のざわめきに耳を傾け、意味のふるえに問いかけるのだ――現代の人間である私にとっては、「自然」とは、言語活動にほかならないのである。」



「言語活動の戦い」より:

「現代の社会においては、言語活動のもっとも単純な分裂は、「権力」との関係から生ずる。一方には、「権力」とそのさまざまな国家的、制度的、イデオロギー的装置との光(または陰)に包まれて言表し、発展し、幅をきかすさまざまな言語活動がある。これを権力内的(encratique)な言語活動ないし言説と呼ぶことにしよう。これに対して、「権力」の外で、および/または「権力」に反対して、自らを構築し、自らを知ろうとつとめ、武装するさまざまな言語活動がある。これを権力外的(acratique)な言語活動ないし言説と呼ぶことにしよう。」

「言語活動の戦いは全面的であるのだから、われわれはどうすればよいのか? (中略)もちろん、外にのがれることはできない。文化教養や政治的選択によって、われわれは、われわれの世界や歴史がわれわれに強制する種々の特殊な言語活動の一つに参加(アンガジェ)し、それを共有しなければならないのである。とはいえ、われわれは、たとえそれがユートピアであるとしても、脱状況化され、脱疎外化された言語活動の悦楽をあきらめることはできない。それゆえ、われわれは、参加(アンガージュマン)と悦楽の二つの手綱を同じ手に握り、言語活動の複数主義的な哲学を受け入れる必要があるのだ。ところで、もしこう言ってよければ、依然として言語活動の内部にあるそうした外部には、名前がついている。それが「テクスト」である。「テクスト」とは、もはや作品ではなく、エクリチュールの生産である。その社会的消費は、たしかに中立的ではない(「テクスト」は、ほとんど読まれていない)が、しかしその生産は、このうえもなく自由である。というのも、それは(中略)、言語活動の「全体」(「おきて」)を尊重しないからである。
 実際、ただエクリチュールだけが、もっとも真面目な、しかももっとも暴力的な、種々の語法の虚構的性格を引き受け、それらを演劇的距離に応じて位置づけなおすことができるのだ。」
「さらにまた、ただエクリチュールだけが種々の語法(中略)を混ぜ合わせ、知の異質論理(héterologie)と呼ばれるものを構成し、言語活動にカーニヴァル的な次元を与えることができるのだ。
 そして最後に、ただエクリチュールだけが、起源となる場所をもたずに自己を展開することができるのだ。ただエクリチュールだけが、ありとあらゆる修辞学的規則、ありとあらゆるジャンルの法則、ありとあらゆる体系の傲慢さをはぐらかすことができるのだ。エクリチュールは、アトピックなもの(場所をもたないもの)である。言語活動の戦いに対して、エクリチュールは、戦いをなくそうとするのではなく、それを転位させる。エクリチュールは、支配関係ではなく欲望が循環する、読書(レクチュール)とエクリチュールの実践の、ある種の状態を先取りしているのである。」









こちらもご参照ください:

ロラン・バルト 『物語の構造分析』 花輪光 訳


































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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