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池内紀 『道化のような歴史家の肖像』

「ゲンツ通りの隣人でツェラーという女性が証言を残している。フリーデルは窓わくにつかまったまま、しばらくためらっていたという。それから通りの人に、危いから脇にどいているようにと声をかけた。ついで大きな石のように落ちてきた。」
(池内紀 『道化のような歴史家の肖像』 より)


池内紀 
『道化のような
歴史家の肖像』



みすず書房 
1988年11月12日 印刷
1988年11月22日 発行
173p 著者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,900円




池内紀 道化のような歴史家の肖像



帯文:

「『近代文化史』を著した《偉大なるディレッタント》、文学キャバレーの《笑う哲学者》。ウィーンを舞台に八面六臂の活躍をした鬼才の思想と時代をたどる初の評伝。」


帯背:

「わが友 フリーデル」


目次:

落第生の遍歴
《こうもり座》デビューの頃
ある世紀末作家の肖像
二人のボヘミアン
二人の働き者
二列目の男
積み木箱の原理
ウィーンのユダヤ人
ある《ウィーン貴族》の場合
《小さな家》の周辺
一週間の栄光
喜劇の時代
オーストリア気質
『文化史』の方法
死の威嚇のもとに

あとがき




◆本書について◆


著者が「学生時代から人一倍したしんできた」そして「おりおりは何くわぬ顔をして盗んだ」エーゴン・フリーデル。その『近代文化史』について、

「通常、歴史の叙述にあたっては、何よりも客観性がたっとばれる。著者がいるのは叙述の背後である。(中略)フリーデルはそうではないのだ。どの章にも、どの描写にも、厳密にいえばどの一行にも、著者がぴったりとはりついている。書き手は歴史の背後ではなく、当のその中にいる。(中略)読者が対面するのは史的経過の叙述ではなく、私的手続きの叙述である。ついぞ飽かせない語り手の身ぶり、手ぶりと発音である。この点、『近代文化史』は一つの長大な告白であり、エーゴン・フリーデルその人の自叙伝にもひとしい。」

フリーデルも興味深いですが、フリーデルが私淑したペーター・アルテンベルクも興味深いです。

「ウィーンの富裕な商人の家に生まれ、大学を中退したあと、のらくら者として親の遺産を食いつぶした。(中略)このペーターは世紀末ウィーンで知られた畸人だった。市中の安ホテルの一室を住居として、『椋鳥通信』(森鴎外)のいうとおり、「夜どほし遊び歩いて、翌日寝て、午後六時に起きて朝食を食べる」。おりおりカフェで文章を書いた。短いが鮮やかな印象で切りとった、とてもすてきな散文だった。」
「エーゴン・フリーデルがいつ頃、ペーター・アルテンベルクと知己を結んだのか、正確にはわからない。大学に出ない大学生と宿なしの詩人とが落ち合うところは、たいがい決っている。それに一方は若い身空でひと財産を相続した独身者であり、もう一方は友人や知人にたかるのを仕事にしている風来坊である。さらにもう一つ、これが一番の理由にちがいないが、青年はアル中の詩人を心から尊敬していた。フリーデルはのちにアルテンベルクについてのセッセイを書き、『アルテンベルク読本』を編むだろう。それはアンソロジーのお手本といいたいほどの美しい一巻である―たえず誤解され、世間の嘲笑に傷ついていた世紀末詩人への鎮魂のような。」


そしてまた、映画監督のエーリヒ・フォン・シュトロハイム。

「シュトロハイムが自称した長い名前はこうだった。エーリッヒ・オスヴァルト・ハンス・カール・マリーア・フォン・シュトロハイム、ノルトヴァル公爵である。いかにも由緒ありげな貴族名だ。」
「シュトロハイムは述べている。陸軍幼年学校を経て、一九〇二年より七年間、竜騎連隊に配属、一九〇七年のボスニア=ヘルツェゴビナの騒擾には指揮官として出没。
 事実はかなりちがう。
 商業学校を終えてから帽子職人の父を継いだ。一九〇六年、志願兵としてオーストリア陸軍に入隊。軍文書にはこの志願兵の名前に aek の略字がついているという。くわしい説明は省くとして、良家の子弟の場合、ついぞつけられることのない記号であるらしい。」
「なぜシュトロハイムは生まれ故郷を捨てたのか。さすがの研究者もサジを投げている。事実は杳としてわからない。(中略)真実はむろん味けないものだったことだろう。詮索してみてもどうなるものではないのである。後世の研究者が手づるにできるような事実などなかったのだ。だからこそシュトロハイム自身は平然として、いかにも書き割りめいた「詩」を代用した。まさしくそれこそ貧しい青年がせい一杯あこがれた真実だったからにちがいない。その「詩」の真実を前にするとき、乏しく汗くさい事実など何ほどでもないと言わなくてはならない。」


『近代文化史』巻末の人名索引を開くと、

「抜きん出て数多く登場する名前がある。ルターやヴォルテールやシェイクスピアやルイ十四世やナポレオンやゲーテや(中略)つまるところ、それぞれの時代に見出し語を与えた「時代全体の所有者」を代理する者たちである」

池内氏の『眼玉のひっこし』で批判的に取り上げられていたのが、まさにこの「時代全体の所有者」たちでした。日本の片隅で学校の先生をしていた著者の目玉は、いながらにして高等遊民フリーデルの出没する遠い黄昏のウィーンに引越ししていたようです。






こちらもご参照ください:

Peter Altenberg 『Telegrams of the Soul: Selected Prose』 tr. by Peter Wortsman




































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池内紀 編訳 『リヒテンベルク先生の控え帖』 (平凡社ライブラリー)

「彼はいつもの怠けぐせで、長いこと窓ぎわで眠っていた。気がつくと燕が耳のうしろに巣をつくっていた。」
(池内紀 編訳 『リヒテンベルク先生の控え帖』 より)


池内紀 編訳 
『リヒテンベルク先生の
控え帖』
 
平凡社ライブラリー い-2-2 

平凡社
1996年7月15日 初版第1刷
221p
B6変型判(16.0cm) 並装 カバー
定価780円(本体757円)
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー画: 18世紀後半ドイツの風俗画


「本書は平凡社ライブラリー・オリジナル版です。」

「各章扉のイラストは十八世紀の風俗誌
“Journal des Luxus und der Moden”より採録した。」



本書「あとがき」より:

「当書は平凡社ライブラリーのために新しく編訳したもので、テクストは左記による。
 Georg Christoph Lichtenberg: Aphorismen, Schriften, Briefe; hrsg. von Barbara Promies, Carl Hanser Verlag, München 1974
 Lichtenberg: Sudelbücher; hrsg. von Franz H. Mautner, Insel Verlag, Frankfurt am Main 1983
 選択にあたっては、一、当時の具体的な事柄にかかわっていて、それを知らないとわからないもの、二、古典ギリシアやローマの知識を前提にしているもの、三、引用にあたるもの、四、ドイツ語やラテン語のことば遊びによるもの、五、物理学の専門分野にわたるもの、などは省いた。それ以外から編者の好みによって選んだ。原書はいずれも年代順に収録しているが、ここではそれによらなかった。大きく十章に分けているが、読者の便宜をはかったまでで、さして意味はない。」



リヒテンベルク肖像1点。本文中図版7点。章扉カット10点。
各章冒頭に編訳者による短いエッセイが付されています。


池内紀 リヒテンベルク先生の控え帖 01


カバー文:

「池内紀が選りすぐった、18世紀ドイツの物理学者の不思議な警句集。
軽妙、皮肉、気のきいた人物スケッチとほのかなユーモア……
最良の散文のエッセンス、きわめつきの人間観察の一冊。」



目次:

はじめに

Ⅰ ゲッティンゲンのこと
Ⅱ ゴータ暦の神々たち
Ⅲ 元日の賀
Ⅳ 酔っぱらいの言い方
Ⅴ 花売り娘
Ⅵ 尻尾について
Ⅶ ホーガースの銅版画
Ⅷ 家具調度リスト
Ⅸ 8の演説
Ⅹ 妻への手紙

あとがき



池内紀 リヒテンベルク先生の控え帖 02



◆本書より◆


「Ⅱ」より:

「人間はこの世のすべての動物のうちでもっとも猿に近い。」

「すべてを少なくとも一度は疑うこと。2×2=4ですらも。」



「Ⅲ」より:

「まっ黒に覆った部屋、天井に黒い布、床の敷物も黒、黒い椅子、黒いソファー、そこにまっ黒な服を着て、ローソクのそばにすわり、黒服ずくめの召使の世話を受けるとすると、はたしてそれは私にどんな効果を及ぼすだろう?」

「カンパー氏によると、グリーンランドのある村で、伝道師が地獄の炎についてつぶさに語り、その熱で焼かれる人々のことを話したところ、全員が地獄へ行きたいといいだした。」



「Ⅴ」より:

「子供を「籠」に閉じこめるのがいい。ただし籠そのものは、なるたけ快適にしてやること。ヴァイオリンの名手になりたければ、手にヴァイオリンが握れる齢になると直ちに、日に八時間はヴァイオリンを弾かせる。これがつまり籠であって、その中でのみ、すべてが快適になるだろう。」

「この考えはいつも彼の良心のなかで死の時計のように機能していた。昼間は仕事や人との交わりにまぎれて、ろくに聞こえない。だが夜のしじまのなかでは魂をふるわすように聞こえていた。」

「性格というもの。彼について、だれもがまちがったイメージをもち、それによって憎み、迫害する。」

「誓いを立てるのは誓いを破るよりも罪が深い。」

「もし天使が自分の哲学を語るとしたら、その語りの節ぶしは、2×2=13といったふうに響くのではあるまいか。」



「Ⅵ」より:

「無党派とはナンセンスである。人間はいつも党派的であって、それ以外にはありえない。無党派ですら党派的であって、無党派の党をなしている。」

「「水を飲むのが罪でないのは残念だ」と、あるイタリア人がいった。「もしそうだと、ずっと甘い味がするだろうに」」

「最初の人間アダムとイヴについては、実にさまざまなことが語られてきた。とすれば最後の二人についても、もっと語られていいはずだ。」

「あの人の家に重なりあっている珍品のうち、とびきりの珍品はあの人だ。」



「Ⅶ」より:

「いつも暇のない人は、何もしない。」

「われとわが身との三十年戦争ののち、ついに和平がきた。しかし、失われた時はもどらない。」

「われわれは同時代の独創的な頭脳を、多くの場合、少なくともそれと同等のレベルになるまでは、イカレた頭と思うものだ。」



「Ⅷ」より:

「いとこの天使といとこの猿とが、あそこで人間を笑っている。」

「人は夢の中で、目覚めているときと同じように生きているし、感じている。なんら劣らない。夢をみて、しかもそれを夢だと知っている(引用者注: 「知っている」に傍点)ことは、人間の特徴の一つである。まだ夢の利用の仕方を知らないだけだ。夢は一つの生であって、目覚めと組み合わされ、人間の生とよべるものになる。夢が日常に忍び入り、どこで目覚めがはじまるのかわからない。」

「人は(少なくとも私は)よく夢をみる。おりおり死者と、当の死者について、まさしく死者として話している。(中略)これもよくみる夢であるが、私は料理された人肉を食べている。」

「夢はしばしば思ってもみなかった状態に導くし、目覚めているときなら、まずもって立ち入らない状況に巻き込んでいく。夢が感じさせる独特の不快感は、子供のころ、かすかに感じながら無視してきたものであって、それが時とともに顕(あら)わにったのではあるまいか。だから夢はしばしば、決断に影響を及ぼすし、廻り道してたどりつく教義よりも、はるかに強くわれわれの道徳心を支えている。」

「一七九九年二月九日から十日にかけての夜にみた夢。私は旅の途中で、とある食堂にいた。いたってあやしげな店で、外で食べていた。奥では、さいころ賭博をしている。向かいに若い男がすわっていた。きちんとした身なりだが、どこか少しだらしがない。まわりにすわったり、立ったりしている人に頓着なく、スプーンですくってスープを飲んでいる。二匙か三匙ごとにポンとスープを放りあげ、またスプーンで受けとめて、それから悠然と口に運ぶ。(中略)さいころ台のそばに、背の高い、痩せた女がすわっていた。編物をしている。勝つと何がもらえるのかとたずねると、女は「なんにも」と答えた。負けると何かとられるのかと訊くと、「とんでもない!」といった。どうやら、もっと真剣な勝負らしかった。」



「Ⅸ」より:

「ほかに何ができたか、あれこれ思案するのは、いまできるうちの最悪のことだ。」

「彼はいつもの怠けぐせで、長いこと窓ぎわで眠っていた。気がつくと燕が耳のうしろに巣をつくっていた。」

「私にはこの考えを捨てることができないのだが、自分は生まれる前は死んでいたのであり、死によって再びあの状態にもどるのではなかろうか。(中略)死人で、その前の記憶をもってよみがえるのを失神という。あらためて形成しなくてはならない別の組織でよみがえるのを生まれるという。」



「Ⅹ」より:

「今後、何も約束しないと、ここにかたく約束しよう(中略)。」

「想像は、いま一つの人生であり、いま一つの世界である。」





こちらもご参照ください:

池内紀 編訳 『象は世界最大の昆虫である ― ガレッティ先生失言録』  (白水uブックス)















































池内紀 『幻獣の話』 (講談社現代新書)

「自分たちのなかにもまた、ひそかなフリークスがひそんでいるのではあるまいか。」
(池内紀 『幻獣の話』 より)


池内紀 
『幻獣の話』
 
講談社現代新書 1188 


講談社
1994年2月20日 第1刷発行
201p 
新書判 並装 カバー
定価600円(本体583円)
装幀: 杉浦康平+赤崎正一



本書「あとがき」より:

「ボルヘスは『幻獣辞典』英語版の序(一九六九年)のなかで述べている。「むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」」
「想像のなかの生きものをめぐるこの本は、三年前に出した同じ現代新書の『悪魔の話』の姉妹篇にあたる。むろん、それぞれ別個に読んでもらってかまわないが、もし二つをともにお読みになったかたがいれば、きっと著者の意図がおわかりになるはずだ。幻獣をめぐってひととおりのことはあげているが、もっとも語りたかったのは幻獣そのものではない。これら奇妙な生きものを生み出した人間である。その意識のなかに、あるいは無意識のうちにひそんでいる「幻の獣」について書きたかった。」



本文中に図版(モノクロ)18点、章扉図版(モノクロ)10点。



池内紀 幻獣の話 01



カバー文:

「一角獣(ユニコーン)から鳳凰、ゴジラまで――。人はどこまで空想の翼を翔(はばた)かせえたか?
神話・伝説、宗教、芸術が生んだおびただしい幻獣は、何を物語るか?
絶対の美、恐怖の極、珍妙笑止な獣など、
人間の華麗な精神絵巻をひもとく。」



カバーそで文:

「輪廻転生する幻獣――いたるところに奇妙な生きものがいる。……
ロンドンのウェストミンスター寺院付属の図書室には、この種の一覧表といったものがあり、
ベルギーの古都ブリュージュにも、ドイツの古都アウグスブルクにも同様のものがそなわっている。……
架空の生きものが博物誌から消えるのは十八世紀後半以降で、
リンネの分類体系にはサテュロスなど若干の生きのこりはあったものの、
ビュフォンの『博物誌』にいたり、現実の生物分類から完全に消し去られた。……
おもてだっては地上から姿も消したが、
この知的遺産は目に見えない水路によるかのようにして、のちのちの時代につたわっている。
しずかに意識の下を流れ、イメージの重なりのなかにまじって、
やがてときならぬところにあふれ出る。
――本書より」



目次:

1 一角獣――マルコ・ポーロが見たもの
 ホラ吹きマルコ 
 樽のような蛇がのし歩く
 一角獣はスマトラにすむ
 マルコ・ポーロのメモ
 一角獣とは何だったか
 チパング島の金と真珠

2 アジアとヨーロッパ――幻獣という知の遺産
 不思議の国、インド
 ヨーロッパ千五百年を呪縛
 耳で全身をつつむ
 神は幻獣を認めない
 いたるところに奇妙な生きものがいる
 目に見えない水路
 時がいのちをくらい
 頭が星に接する巨竜
 ケンタウロス
 獣性と精神性
 わが子をくらうサトゥルヌス
 ヨーロッパの文化的鉱脈

3 不思議な生きもの、不思議な人――狂気と文学のあいだ
 女になりたい
 世界没落の幻覚
 数ミリの大きさの男たち
 奇妙な二人組
 謎のオドラデク
 カフカとシュレーバー
 刻一刻と崩れてゆく内面

4 幻獣紳士録Ⅰ
 幻獣界の名士を収める
 アスカラポス――不幸を告知するみみずく
 アンティオクス――人間麒麟
 海の司祭――海底の住人
 エコー――悲しい恋の妖精
 カトブレパス――巨頭カモシカ
 ゴジラ――水爆実験が生んだ巨獣
 コーボルト――こびと伝説
 サデュザーク――無数の角をもつ獣
 サラマンドラ――火の中の竜
 黒眚(しい)――俊足の狸犬
 スキヤポデス――単脚族
 スフィンクス――人面獅子胴
 スマラ――悪夢をひきおこす夜の霊

5 幻獣紳士録Ⅱ
 現実と空想、どちらが創造的か
 セイレーン――美しい声の妖鳥
 つつが(漢字は犭+恙)――虎、豹を食べる獣
 トッカッピ――放火する独脚鬼
 ニクセ――水の精
 ニスナス――半人半魔
 鵺(ぬえ)――『平家物語』の怪物
 馬頭人――半人半馬
 バルトアンデルス――千変万化
 鼻行類――南海の珍獣
 ブロントサウロス――世界の果ての獣
 マルティコラス――サソリやまあらし
 マンドラゴラ――人の形の植物
 ミユルミドン――蟻男
 ヤマタノオロチ――八頭八尾の怪物
 蜮(よく)――水中の淫毒

6 百鬼の奇――日本の幻獣
 筆の先から幻獣があらわれる
 怪なるかな怪なるかな
 柳田国男と河童
 河童を描きつづけた小川芋銭
 傍流の人
 水魅山妖への偏愛

7 霊獣たちの饗宴――日光東照宮の場合
 八百体の霊獣
 家光の家康崇拝
 東照宮の謎
 将軍が頭を下げる
 建物がかたる物語

8 中国の宝の書――『山海経』入門
 魯迅の驚き
 天下の賢者だけが理解する
 奇想の大盤ぶるまい
 さらに奇怪な海外篇
 日本に渡る幻獣たち
 常ならぬ何かを前触れする

9 私という幻の獣――寺山修司の夢
 超自然的恐怖
 娯楽や見世物から国民をよむ
 寺山修司が問題としたもの
 等身大の人間の限界
 イメージの略歴
 顔三つ、腕千本の神
 私の意識深くに隠れているもの
 
10 ゴーレムからロボットへ――二十世紀の幻獣
 ロボット誕生
 ゴーレムを生んだ都プラハ
 土にもどるゴーレム
 苦役を代わってくれる別の生きもの
 ロボットへの恋
 文学のあとを科学が追いかける
 人間が幻獣になるとき

あとがき




◆本書より◆


「不思議な生きもの、不思議な人――狂気と文学のあいだ」より:

「『シュレーバー回想録』には世界没落のイメージが克明に記されている。」
「ある夕方おそく、病院の庭の木々の上に、燃えるような目をもった猫たちが現われた。」
「その間にも女性への変身は刻々とすすんでいた。まず男性生殖器(中略)が体内へと「撤収(てっしゅう)」され、ついで内生殖器の同時的改造のもとで、相当する女性生殖器へと変化せしめられる、というぐあいに生じたという。それはおそらく「幾百年もの眠りの中」で起こったのだろうとシュレーバーは述べている。退化あるいは発達過程の逆転が生じたのであって、そのような「脱男性化の奇蹟」を彼は二度にわたって体験した。」
「『シュレーバー回想録』は、刻一刻と崩れていく内面を書きとめた、もっとも壮烈な記録として知られている。ところで、これをつづった人の外的生活は、極端なまでに単調だった。一日に二度、病院の庭を散歩する。庭でも彼はいつも好んで同じ場所にすわりつづけた。黒い外套(がいとう)と黒いシルクハット。彼は部屋にもどっても机の前にじっとすわったままで、窓から外をながめたりもしなかった。」



「百鬼の奇――日本の幻獣」より:

「明治以後の日本画のなかで、小川芋銭は終始、傍流の画家だった。時流からそれ、みずからも世間から遠ざかって、ひっそりと、反時代的な、あるいは超時代な絵をかきつづけた。南画風のその絵は既成の南画のかたちからはみ出した一種独特のものだった。南画あるいは文人画は、そもそも画壇の主流をなす官展の流派やアカデミズムに追随しようとしない自由な精神から生まれたものであって、傍流は当然だとしても、反官展の日本美術院の同人になってからも、芋銭はきわだった孤立のままに終始した。」
「昭和七年(一九三二)、彼はある人への手紙に近況をつたえている。毎朝五時に起きて観音経二百遍を誦(しょう)しているという。声をはりあげ、声帯も破れよとばかり唱えている。
 「夜の漸くしらしら明けんとする時木菟及名も知らぬ野鳥の一斉に和して歌ひ候、此時宇宙と一体になりたる心地芸術三昧ここにありと歓喜至極に存候」」



「私という幻の獣――寺山修司の夢」より:

「たとえば一寸法師だが、それはしばしば権力者のかたわらにいる道化として、ふつうの人間の及びもつかない特権を享受(きょうじゅ)してきた。お伽噺(とぎばなし)にはいろいろなフリークスが出てくるが、彼らはたいてい、夢のような幸運にめぐまれる。あるいは畸形のおかげで並の人間には閉ざされている世界へと入っていける。いいかえれば「選ばれた者たち」であり、地上のもうひとりの王なのだ。あるいは一身に男と女の特徴を合わせもっている。あるいは一人にして二人である。人間であって同時にすこぶる幻想的な生きものとして、なんなく人間の条件を踏みこえる。それは人体において示された最後の辺境というものだ。
 寺山修司が「シンボリズム」の名のもとに意図したところは、この先だろう。並の人間にとって無限に遠いはずのその辺境は、しかしながら私たちのほんの身近なところにありはしないか。(中略)自分たちのなかにもまた、ひそかなフリークスがひそんでいるのではあるまいか。自分の内なる逸脱者である。意識をかすめ、血のなかに、生理のなかに生きつづけている畸形である。
 くり返しいえば、神話や伝説やメルヘンや民話のなかには、さまざまな「はずれ者」がひしめいている。ドラキュラやフランケンシュタインやせむし男や一寸法師など、人々はくり返しフリークスを生み出してきた。人類の想像力の根源には畸形の記憶といったものがしみついているとしか思えない。」
「たしかに私の記憶のなかには、フリークスが忍んでいる。意識と無意識の合わせ目に佇(たたず)んでいる。」
「私自身、「ヘンな生きもの」にちがいない。たえず巧みに鏡から目をそらして、みずからの畸形を見逃しているだけなのだ。」




池内紀 幻獣の話 02



















































池内紀 『悪魔の話』 (講談社現代新書)

「村人たちは、たとえば旅廻りのジプシーを魔女だと言いそやして、村境いから入れようとはしなかった。ひとり住いで少し変わり者の女性に魔女だという噂をたてて、何かにつけてのけ者にしてきた。村という共同体の中では、自分たちと違ったふうに生きる生き方があってはならない。自分たちとは違った人間が、この世にいてはならないのだ。」
(池内紀 『悪魔の話』 「小さな町――魔女狩り 2」 より)


池内紀 
『悪魔の話』 

講談社現代新書 1039 


講談社
1991年2月20日 第1刷発行
1993年4月16日 第6刷発行
206p
新書判 並装 カバー
定価600円(本体583円)
装幀: 杉浦康平+赤崎正一



本書「あとがき」より:

「かなりの本を参照したが、ことごとしくあげるまでもない。主なものは文中に訳者・出版社とも記しておいた。(中略)とりわけ私はノーマン・コーンとグリヨ・ド・ジヴリに啓発された。コーンによってヨーロッパの悪霊を社会的に見る手がかりを得た。ジヴリの本を通して、悪魔を楽しむすべを学んだ。」


本文中に図版(モノクロ)22点。



池内紀 悪魔の話 01



カバー文:

「現われる時間は夜、好きな色は黒。人に禍(わざわ)いと死をもたらし、宇宙をも破壊しつくすすさまじい力……。
世界の半分を支配する闇の帝王たちが物語るものはなにか?
その誕生から性格、分類、材質まで、「悪魔」の観念が生みだした華麗な精神絵巻をよむ。」



カバーそで文:

「悪魔の総数――カネッティは二つの説をあげている。
一つはすこぶる厳密であって、四四六三万五五六九。もう一つはいたって大ざっぱで、計十一兆。……
まったく別の数字ものこされている。それによれば悪魔には六軍団があって、おのおの六六大隊を擁し、
一大隊はそれぞれ六六六小隊をもち、一小隊は六六六六の悪魔で編成されている。
とすると悪魔の総計は十七億五八〇六万四一七六ということになる。
いかにもこの数は大きすぎるだろう、とジヴリは述べている。
地球上の人口を一五億とすると、人間一人につき悪魔一人の割合すらも上まわる。
海千山千の悪魔相手に、人間はもともと形勢不利だというのに、
数の方でもこうだとしたら、とても対抗できないだろう。
古来、定式とみなされてきた計算法があった。
「ピュタゴラスの数」の六倍、1234321×6=7,405,926 これが悪魔の正確な数だという。
見方にもよるだろうが、ともかく人類を悩ますのに十分な数にちがいない。
――本書より」



目次:

1 サタン紳士録
 夕方、ひとけない通りで
 現代の悪魔紳士
 異種合体のうす気味悪さ
 悪魔のシンボルとしてのヘビ
 醜悪な悪魔像
 前身は天使
 いま、悪魔は

2 悪魔学入門
 世にも恐ろしい絵
 悪魔とは何か
 闇を選ぶか、光を選ぶか
 一元説と二元説
 神はなぜ悪魔を創造したか
 悪魔の分類
 悪魔の名前
 契約は二十年

3 闇の力
 悪魔との記者会見
 総数十一兆?
 悪魔の材質とは
 『神曲』天国篇
 天使語と悪魔語

4 黒と白
 黒ずくめの男
 黒のもつイメージ
 白というフィクション
 ボードレールと黒
 威厳あふれた黒
 紙切れの眩惑
 
5 飛行幻想――魔女狩り 1 
 ドイツの小さな町で
 魔女の乗り物
 「魔男」はいない?
 魔女の香油
 ワルプルギスの夜
 理性が眠る時

6 小さな町――魔女狩り 2 
 魔女狩り市長
 魔女という罪の発明
 テンプル騎士団の「犯罪」
 無から有は生じない
 ヘンゼル・グレーテル神話
 グリム童話の中のファシズム
 テレビと魔女狩り

7 ファウスト博士
 黒魔術師ファウスト
 黄金をつくってほしい
 もっとも完璧な錬金術師
 悪魔がもち出した条件
 二十四年契約
 契約か賭か
 悪魔の黒い魔術

8 不思議博物館
 謎めいた国王、ルドルフ二世
 悪魔とまじわる皇帝
 国王のひそかな楽しみ
 悪魔と論争したルター
 教会の中にも悪魔がいる
 悪魔の家

9 流刑の神々
 神々の悪魔化
 かくれ家に住む神
 追われた神、河童
 ハイネと柳田国男
 神々の衰頽

10 気の好い悪魔たち
 影をなくした男
 悪魔の足あと
 橋造りが得意
 悪魔もヘマをする
 大建造物は神への挑戦
 恩知らずは人間の方
 悪魔も驚く珍品

11 魔除け
 愛の霊薬
 マンドラゴラの根かワニの脳髄か
 媚薬を飲ませる方法
 ゴーレムとオドラデク
 ジャンボ機操縦席のお札
 さまざまな悪魔祓い

12 いたるところに悪魔がいる
 最後の審判
 禁止された闇の王たちの肖像
 グリューネヴァルトの見た闇
 ボスの奇怪な世界
 ゴヤの辛辣な目
 ゴヤの悪夢の世界
 ゴーゴリとロシアの悪霊たち

あとがき




◆本書より◆


「サタン紳士録」より:

「このように悪魔は永いあいだ、ひたすら醜悪で、おぞましい存在だった。」
「しかし、これは元来、美しい光の天使ではなかったか。かつては天国の朝に輝く第一天使であり、聖天使のあいだにあって一段と高貴さできこえていた。とすると堕ちた天使、反逆の天使は必ずしも卑しく、醜悪なものとかぎらない。悲しみをたたえ、〈高貴な悪〉の姿をとってあらわれてもいいではないか。」
「マリオ・プラーツによると、悪魔が恐ろしい中世の仮面を取り去るのはミルトンの『失楽園』(一六六七年)にはじまるという。ここにようやく、堕ちたりとはいえ、いまだに大天使の面影をのこした、美しい悪魔が語られた。蒼ざめた頬には懊悩(おうのう)のあとが色濃い。眉の下には不屈の勇気と誇りが漂っている。」
「これは堕ちてなお威厳を失ってはいないのだ。」
「マリオ・プラーツは(中略)ミルトン以来、十九世紀ロマン主義文学につぎつぎあらわれる〈高貴な悪〉の紳士たちをたどり直した。たとえばシラーの『群盗』(一七八一年)の主人公カール・モールは、人品卑しからざる悪党であり、「威風堂々たる怪物」だった。他人に支配されることが我慢ならず、全能の神に決闘を挑んだ悪魔の現代版。」



「悪魔学入門」より:

「悪魔が悪いのは生まれつきのことではないのだ。宇宙に存在するすべてのものと同じように善いものとして創造された。そして天使にふさわしいあらゆる賜物(たまもの)を受けていた。
 それがどうして悪となったのか?
 みずからの自由意志を自由に用いて善でないもの、存在しないものを求めたからだ。非存在へと向かうにしたがい、善であり、存在であり、実存である神からはなれ、空虚に近づく。まるで台風の中心にある「目」のようなものであって、空虚であり同時におそるべき破壊的な力をひめている。」

「「虚(うつろ)なもの」、光と闇の比喩をかりれば、影と闇。」



「闇の力」より:

「かつて私たちのまわりにも、いたるところに闇があった。深い闇があった。山は昼でも暗く、森陰には黒々とした闇が隠れていた。町の通りは暗く、夜の空には満天の星の背後に底知れない闇があった。
 人の住居もまた暗かった。玄関も、座敷も、納戸も、はばかりも、物置きも、屋隅には昼間から闇がひそんでいた。とっぷり日が昏(く)れると、たちまち墨を流したような一面の闇につつまれた。
 闇の中には何がいただろう? そこにはあきらかに死者がいた。見えない死者の群れがいた。暗い通りや、玄関や、庭をとおり抜けるとき、私たちは子ども心に、何よりも死者を思った。死者を連想し、死の観念におびえて足がすくんだ。」
「私たちのまわりから闇が追い払われてすでに久しい。いまやどこもかしこも眩しいばかりに明るいのだ。」
「闇を駆逐した。ついては私たちは、同時に何かも喪失したのではあるまいか。ひそかに生者を見はっていた死者の群れ。死の観念を失った。死にしたしまずして、どうして生を尊重できるだろう。外界の闇はまた、自分のなかの闇の部分の警告ではなかったか。息を殺して自分のなかにひそんでいる黒々とした悪の部分。おのれのなかの悪を知らずして、どうしてこの世の悪が識別できようか。おそかれ早かれ私たちは駆逐したはずの闇の力の報復を受けるにちがいない。」



「黒と白」より:

「いかにも悪魔は比喩(アレゴリー)によって、たとえば蛇や竜や豚や山羊や獅子や鷲などによって表わされ、下等な、軽蔑すべきものであったが、と同時に(中略)意味が百八十度逆転して、とりわけ価値の高いもの、神的なものそれ自体をさえあらわす比喩に転じる。ユング流にいえば、こうである。
 「そして変容とはまさしく、最も低きものから最も高きものへの、動物的で太古的(アルカイック)な幼児性から神秘的な『ホモ・マクシムス(最高の人間)』への変容に他ならないのである」(池田紘一・鎌田道生訳)
 これはまさしく悪魔たちの変身原理でもあるだろう。そういえばボードレールは巧みにこの原理を応用してサタンへの祈りを書いた。」

「おお「天使」らのうちで最も博識にして最も美しき者よ
 運命に裏切られ ほめ歌を捧げられなくなった神よ

 これが長い連祷のはじまり。あいまに「おお サタンよ、わが長き悲惨を憐み給え!」のリフレーンがくり返される。
 『悪の華』の詩人にとってサタンは「流謫(るたく)の王者」であり、不当におとしめられた者であって、敗れてもつねに倍する力をもって再び立ち上がる。すべてを知る故に、むしろ万物の王たる者、人類のかずかずの苦悩を親しく癒(いや)してくれるのである。父なる神が、「その黒き怒り」のおもむくままに地上の楽園から追い出した者たちの庇護者であった。
 「祈り」と銘打たれたしめくくりの前半三行。
 
  栄光あれ たたえられてあれ、サタンよ、かつて君臨した
  「天」の高みにおいても、また、いま、事やぶれて、
  沈黙のうちに夢想にふける、「地獄」の深みにおいても!」」



「気の好い悪魔たち」より:

「パリに近いサン=クルーの町に伝わる話によると、いくつものアーチをもった石の橋を造るのに人々が難儀していたところ、悪魔が助力を申し出てきた。返礼として、最初に橋をわたる者の魂をいただく。美しい橋が完成したとき、町の住人たちは相談のあげく、まっ先きって一匹の黒猫をわたらせた。いっぱい食ったことに気がついたが、もはやせんかたない。悪魔は歯がみしつつ、黒猫を抱いて立ち去ったというが、十九世紀の民衆画では、司教杖をもった橋の守護聖人から黒猫を手わたされ、目をつりあげ、牙をむき出してくやしがっている悪魔の姿が描かれている。」



池内紀 悪魔の話 02








こちらもご参照下さい:

松山巖 『乱歩と東京』 (PARCO PICTURE BACKS)
ノーマン・コーン 『魔女狩りの社会史 ― ヨーロッパの内なる悪霊』 山本通 訳
グリヨ・ド・ジヴリ 『妖術師・秘術師・錬金術師の博物館』 林瑞枝 訳


























































池内紀 編訳 『象は世界最大の昆虫である ― ガレッティ先生失言録』

池内紀 編訳
『象は世界最大の昆虫である
― ガレッティ先生失言録』

白水Uブックス

白水社 
2005年5月30日 印刷
2005年6月20日 発行
218p 
新書判 並装 カバー 
定価900円+税
ブックデザイン: 田中一光/プラスミリ
カバー装画: 池内紀



J. G. A. Galletti: Das groesste Insekt ist der Elefant。
1980年、創土社から全訳が『ガレッティ先生失言録』として刊行されたのち、1992年に「どうしても意味のとれないもの、おかしみのつたわらないものを省き、多少の訳注をほどこした」新版が白水社から刊行されました。本書はその「Uブックス」版です。


池内紀 象は世界最大の昆虫である


カバー裏文:

「「水は沸騰すると気体になる。凍ると立体になる」(物理学)。「カエサルはいまわのきわの直後に死んだ」(ローマ史)……18世紀から19世紀初頭のドイツの高校で教壇に立っていた名物教授が残した、想像を絶する“名”失言の数々。」


カバーそで(裏)文:

「●著者紹介
ヨーハン・G・A・ガレッティ
1750年、ドイツの小都市アルテンブルクに生まれ、ゲッティンゲン大学で法律・地理・歴史を学ぶ。1778年母校ゴータ・ギムナージウムの教授に就任。引退後は著作執筆に励んだが、不幸にしてその名が世に知られるようになったのは彼が教壇で発した膨大な量の失言のおかげだった。」



目次:

古代の世界
歴史学
自然地理、ならびに政治地誌学
天文学と物理学
数学、幾何学、算術
年代記
博物学
人類学
言語学と文学
授業風景
私事
経験と省察

あとがき (池内紀)
Uブックス版によせて (池内紀)




◆本書より◆


「怒りで腹わたが煮えくり返るなどのことは、古代においては日常茶飯のことであった。」

「ホメロスが実在の人物であるのかどうかは不明である。だが、彼が盲目であったということに疑問の余地はない。」

「セネカいわく、力ある悪徳が徳と称せられる。」

「めったにないが、しかしながら、しばしば生じる現象がある。」

「ホラチウスのこの個所には、何か別の典拠があったにちがいない。おもうにホラチウスが、ずっと後世の文献をよりどころにしたことはあきらかである。」

「いかにもペルシャに「ペルシャ史」といった書物はある。だが、そこに記された歴史はペルシャの歴史と大きく矛盾している。」

「ナイル川は海さえも水びたしにする。」

「もし、人が心眼でわれとわが身を眺めると、亡霊のように見えるにちがいない。」

「羊は衣食住のうちの衣と食に奉仕している。」

「ナマケモノは南アメリカの熱帯地方に棲む動物で、努めて何もしない点で、このけものの右に出るものはない。」

「紙幣とは、思い上がった貨幣にすぎない。」

「かつては持つことの少ない者が富んでいた。」

「勝つための方法は二つしかない。勝つか負けるかだ。」

「教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも。」




原文:

Gallettiana - Wikisource





































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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