池内紀 『幻獣の話』 (講談社現代新書)

「自分たちのなかにもまた、ひそかなフリークスがひそんでいるのではあるまいか。」
(池内紀 『幻獣の話』 より)


池内紀 
『幻獣の話』
 
講談社現代新書 1188 

講談社
1994年2月20日第1刷発行
201p 
新書判 並装 カバー
定価600円(本体583円)
装幀: 杉浦康平+赤崎正一



本書「あとがき」より:

「ボルヘスは『幻獣辞典』英語版の序(一九六九年)のなかで述べている。「むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」」
「想像のなかの生きものをめぐるこの本は、三年前に出した同じ現代新書の『悪魔の話』の姉妹篇にあたる。むろん、それぞれ別個に読んでもらってかまわないが、もし二つをともにお読みになったかたがいれば、きっと著者の意図がおわかりになるはずだ。幻獣をめぐってひととおりのことはあげているが、もっとも語りたかったのは幻獣そのものではない。これら奇妙な生きものを生み出した人間である。その意識のなかに、あるいは無意識のうちにひそんでいる「幻の獣」について書きたかった。」



図版(モノクロ)多数。


池内紀 幻獣の話 01


カバー文:

「一角獣(ユニコーン)から鳳凰、ゴジラまで――。人はどこまで空想の翼を翔(はばた)かせえたか?
神話・伝説、宗教、芸術が生んだおびただしい幻獣は、何を物語るか?
絶対の美、恐怖の極、珍妙笑止な獣など、
人間の華麗な精神絵巻をひもとく。」



カバーそで文:

「輪廻転生する幻獣――いたるところに奇妙な生きものがいる。……
ロンドンのウェストミンスター寺院付属の図書室には、この種の一覧表といったものがあり、
ベルギーの古都ブリュージュにも、ドイツの古都アウグスブルクにも同様のものがそなわっている。……
架空の生きものが博物誌から消えるのは十八世紀後半以降で、
リンネの分類体系にはサテュロスなど若干の生きのこりはあったものの、
ビュフォンの『博物誌』にいたり、現実の生物分類から完全に消し去られた。……
おもてだっては地上から姿も消したが、
この知的遺産は目に見えない水路によるかのようにして、のちのちの時代につたわっている。
しずかに意識の下を流れ、イメージの重なりのなかにまじって、
やがてときならぬところにあふれ出る。
――本書より」



目次:

1 一角獣――マルコ・ポーロが見たもの
 ホラ吹きマルコ 
 樽のような蛇がのし歩く
 一角獣はスマトラにすむ
 マルコ・ポーロのメモ
 一角獣とは何だったか
 チパング島の金と真珠

2 アジアとヨーロッパ――幻獣という知の遺産
 不思議の国、インド
 ヨーロッパ千五百年を呪縛
 耳で全身をつつむ
 神は幻獣を認めない
 いたるところに奇妙な生きものがいる
 目に見えない水路
 時がいのちをくらい
 頭が星に接する巨竜
 ケンタウロス
 獣性と精神性
 わが子をくらうサトゥルヌス
 ヨーロッパの文化的鉱脈

3 不思議な生きもの、不思議な人――狂気と文学のあいだ
 女になりたい
 世界没落の幻覚
 数ミリの大きさの男たち
 奇妙な二人組
 謎のオドラデク
 カフカとシュレーバー
 刻一刻と崩れてゆく内面

4 幻獣紳士録Ⅰ
 幻獣界の名士を収める
 アスカラポス――不幸を告知するみみずく
 アンティオクス――人間麒麟
 海の司祭――海底の住人
 エコー――悲しい恋の妖精
 カトブレパス――巨頭カモシカ
 ゴジラ――水爆実験が生んだ巨獣
 コーボルト――こびと伝説
 サデュザーク――無数の角をもつ獣
 サラマンドラ――火の中の竜
 黒眚(しい)――俊足の狸犬
 スキヤポデス――単脚族
 スフィンクス――人面獅子胴
 スマラ――悪夢をひきおこす夜の霊

5 幻獣紳士録Ⅱ
 現実と空想、どちらが創造的か
 セイレーン――美しい声の妖鳥
 つつが(漢字は犭+恙)――虎、豹を食べる獣
 トッカッピ――放火する独脚鬼
 ニクセ――水の精
 ニスナス――半人半魔
 鵺(ぬえ)――『平家物語』の怪物
 馬頭人――半人半馬
 バルトアンデルス――千変万化
 鼻行類――南海の珍獣
 ブロントサウロス――世界の果ての獣
 マルティコラス――サソリやまあらし
 マンドラゴラ――人の形の植物
 ミユルミドン――蟻男
 ヤマタノオロチ――八頭八尾の怪物
 蜮(よく)――水中の淫毒

6 百鬼の奇――日本の幻獣
 筆の先から幻獣があらわれる
 怪なるかな怪なるかな
 柳田国男と河童
 河童を描きつづけた小川芋銭
 傍流の人
 水魅山妖への偏愛

7 霊獣たちの饗宴――日光東照宮の場合
 八百体の霊獣
 家光の家康崇拝
 東照宮の謎
 将軍が頭を下げる
 建物がかたる物語

8 中国の宝の書――『山海経』入門
 魯迅の驚き
 天下の賢者だけが理解する
 奇想の大盤ぶるまい
 さらに奇怪な海外篇
 日本に渡る幻獣たち
 常ならぬ何かを前触れする

9 私という幻の獣――寺山修司の夢
 超自然的恐怖
 娯楽や見世物から国民をよむ
 寺山修司が問題としたもの
 等身大の人間の限界
 イメージの略歴
 顔三つ、腕千本の神
 私の意識深くに隠れているもの
 
10 ゴーレムからロボットへ――二十世紀の幻獣
 ロボット誕生
 ゴーレムを生んだ都プラハ
 土にもどるゴーレム
 苦役を代わってくれる別の生きもの
 ロボットへの恋
 文学のあとを科学が追いかける
 人間が幻獣になるとき

あとがき



池内紀 幻獣の話 02



◆本書より◆


「不思議な生きもの、不思議な人――狂気と文学のあいだ」より:

「『シュレーバー回想録』には世界没落のイメージが克明に記されている。」
「ある夕方おそく、病院の庭の木々の上に、燃えるような目をもった猫たちが現われた。」
「その間にも女性への変身は刻々とすすんでいた。まず男性生殖器(中略)が体内へと「撤収(てっしゅう)」され、ついで内生殖器の同時的改造のもとで、相当する女性生殖器へと変化せしめられる、というぐあいに生じたという。それはおそらく「幾百年もの眠りの中」で起こったのだろうとシュレーバーは述べている。退化あるいは発達過程の逆転が生じたのであって、そのような「脱男性化の奇蹟」を彼は二度にわたって体験した。」
「『シュレーバー回想録』は、刻一刻と崩れていく内面を書きとめた、もっとも壮烈な記録として知られている。ところで、これをつづった人の外的生活は、極端なまでに単調だった。一日に二度、病院の庭を散歩する。庭でも彼はいつも好んで同じ場所にすわりつづけた。黒い外套(がいとう)と黒いシルクハット。彼は部屋にもどっても机の前にじっとすわったままで、窓から外をながめたりもしなかった。」



「百鬼の奇――日本の幻獣」より:

「明治以後の日本画のなかで、小川芋銭は終始、傍流の画家だった。時流からそれ、みずからも世間から遠ざかって、ひっそりと、反時代的な、あるいは超時代な絵をかきつづけた。南画風のその絵は既成の南画のかたちからはみ出した一種独特のものだった。南画あるいは文人画は、そもそも画壇の主流をなす官展の流派やアカデミズムに追随しようとしない自由な精神から生まれたものであって、傍流は当然だとしても、反官展の日本美術院の同人になってからも、芋銭はきわだった孤立のままに終始した。」
「昭和七年(一九三二)、彼はある人への手紙に近況をつたえている。毎朝五時に起きて観音経二百遍を誦(しょう)しているという。声をはりあげ、声帯も破れよとばかり唱えている。
 「夜の漸くしらしら明けんとする時木菟及名も知らぬ野鳥の一斉に和して歌ひ候、此時宇宙と一体になりたる心地芸術三昧ここにありと歓喜至極に存候」」



「私という幻の獣――寺山修司の夢」より:

「たとえば一寸法師だが、それはしばしば権力者のかたわらにいる道化として、ふつうの人間の及びもつかない特権を享受(きょうじゅ)してきた。お伽噺(とぎばなし)にはいろいろなフリークスが出てくるが、彼らはたいてい、夢のような幸運にめぐまれる。あるいは畸形のおかげで並の人間には閉ざされている世界へと入っていける。いいかえれば「選ばれた者たち」であり、地上のもうひとりの王なのだ。あるいは一身に男と女の特徴を合わせもっている。あるいは一人にして二人である。人間であって同時にすこぶる幻想的な生きものとして、なんなく人間の条件を踏みこえる。それは人体において示された最後の辺境というものだ。
 寺山修司が「シンボリズム」の名のもとに意図したところは、この先だろう。並の人間にとって無限に遠いはずのその辺境は、しかしながら私たちのほんの身近なところにありはしないか。(中略)自分たちのなかにもまた、ひそかなフリークスがひそんでいるのではあるまいか。自分の内なる逸脱者である。意識をかすめ、血のなかに、生理のなかに生きつづけている畸形である。
 くり返しいえば、神話や伝説やメルヘンや民話のなかには、さまざまな「はずれ者」がひしめいている。ドラキュラやフランケンシュタインやせむし男や一寸法師など、人々はくり返しフリークスを生み出してきた。人類の想像力の根源には畸形の記憶といったものがしみついているとしか思えない。」
「たしかに私の記憶のなかには、フリークスが忍んでいる。意識と無意識の合わせ目に佇(たたず)んでいる。」
「私自身、「ヘンな生きもの」にちがいない。たえず巧みに鏡から目をそらして、みずからの畸形を見逃しているだけなのだ。」















































































































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池内紀 『悪魔の話』 (講談社現代新書)

「村人たちは、たとえば旅廻りのジプシーを魔女だと言いそやして、村境いから入れようとはしなかった。ひとり住いで少し変わり者の女性に魔女だという噂をたてて、何かにつけてのけ者にしてきた。村という共同体の中では、自分たちと違ったふうに生きる生き方があってはならない。自分たちとは違った人間が、この世にいてはならないのだ。」
(池内紀 『悪魔の話』 「小さな町――魔女狩り 2」 より)


池内紀 
『悪魔の話』 

講談社現代新書 1039 

講談社
1991年2月20日 第1刷発行
1993年4月16日 第6刷発行
206p
新書判 並装 カバー
定価600円(本体583円)
装幀: 杉浦康平+赤崎正一



本書「あとがき」より:

「かなりの本を参照したが、ことごとしくあげるまでもない。主なものは文中に訳者・出版社とも記しておいた。(中略)とりわけ私はノーマン・コーンとグリヨ・ド・ジヴリに啓発された。コーンによってヨーロッパの悪霊を社会的に見る手がかりを得た。ジヴリの本を通して、悪魔を楽しむすべを学んだ。」


本文中図版(モノクロ)多数。


池内紀 悪魔の話 01


カバー文:

「現われる時間は夜、好きな色は黒。人に禍(わざわ)いと死をもたらし、宇宙をも破壊しつくすすさまじい力……。
世界の半分を支配する闇の帝王たちが物語るものはなにか?
その誕生から性格、分類、材質まで、「悪魔」の観念が生みだした華麗な精神絵巻をよむ。」



カバーそで文:

「悪魔の総数――カネッティは二つの説をあげている。
一つはすこぶる厳密であって、四四六三万五五六九。もう一つはいたって大ざっぱで、計十一兆。……
まったく別の数字ものこされている。それによれば悪魔には六軍団があって、おのおの六六大隊を擁し、
一大隊はそれぞれ六六六小隊をもち、一小隊は六六六六の悪魔で編成されている。
とすると悪魔の総計は十七億五八〇六万四一七六ということになる。
いかにもこの数は大きすぎるだろう、とジヴリは述べている。
地球上の人口を一五億とすると、人間一人につき悪魔一人の割合すらも上まわる。
海千山千の悪魔相手に、人間はもともと形勢不利だというのに、
数の方でもこうだとしたら、とても対抗できないだろう。
古来、定式とみなされてきた計算法があった。
「ピュタゴラスの数」の六倍、1234321×6=7,405,926 これが悪魔の正確な数だという。
見方にもよるだろうが、ともかく人類を悩ますのに十分な数にちがいない。
――本書より」



目次:

1 サタン紳士録
 夕方、ひとけない通りで
 現代の悪魔紳士
 異種合体のうす気味悪さ
 悪魔のシンボルとしてのヘビ
 醜悪な悪魔像
 前身は天使
 いま、悪魔は

2 悪魔学入門
 世にも恐ろしい絵
 悪魔とは何か
 闇を選ぶか、光を選ぶか
 一元説と二元説
 神はなぜ悪魔を創造したか
 悪魔の分類
 悪魔の名前
 契約は二十年

3 闇の力
 悪魔との記者会見
 総数十一兆?
 悪魔の材質とは
 『神曲』天国篇
 天使語と悪魔語

4 黒と白
 黒ずくめの男
 黒のもつイメージ
 白というフィクション
 ボードレールと黒
 威厳あふれた黒
 紙切れの眩惑
 
5 飛行幻想――魔女狩り 1 
 ドイツの小さな町で
 魔女の乗り物
 「魔男」はいない?
 魔女の香油
 ワルプルギスの夜
 理性が眠る時

6 小さな町――魔女狩り 2 
 魔女狩り市長
 魔女という罪の発明
 テンプル騎士団の「犯罪」
 無から有は生じない
 ヘンゼル・グレーテル神話
 グリム童話の中のファシズム
 テレビと魔女狩り

7 ファウスト博士
 黒魔術師ファウスト
 黄金をつくってほしい
 もっとも完璧な錬金術師
 悪魔がもち出した条件
 二十四年契約
 契約か賭か
 悪魔の黒い魔術

8 不思議博物館
 謎めいた国王、ルドルフ二世
 悪魔とまじわる皇帝
 国王のひそかな楽しみ
 悪魔と論争したルター
 教会の中にも悪魔がいる
 悪魔の家

9 流刑の神々
 神々の悪魔化
 かくれ家に住む神
 追われた神、河童
 ハイネと柳田国男
 神々の衰頽

10 気の好い悪魔たち
 影をなくした男
 悪魔の足あと
 橋造りが得意
 悪魔もヘマをする
 大建造物は神への挑戦
 恩知らずは人間の方
 悪魔も驚く珍品

11 魔除け
 愛の霊薬
 マンドラゴラの根かワニの脳髄か
 媚薬を飲ませる方法
 ゴーレムとオドラデク
 ジャンボ機操縦席のお札
 さまざまな悪魔祓い

12 いたるところに悪魔がいる
 最後の審判
 禁止された闇の王たちの肖像
 グリューネヴァルトの見た闇
 ボスの奇怪な世界
 ゴヤの辛辣な目
 ゴヤの悪夢の世界
 ゴーゴリとロシアの悪霊たち

あとがき



池内紀 悪魔の話 02



◆本書より◆


「サタン紳士録」より:

「このように悪魔は永いあいだ、ひたすら醜悪で、おぞましい存在だった。」
「しかし、これは元来、美しい光の天使ではなかったか。かつては天国の朝に輝く第一天使であり、聖天使のあいだにあって一段と高貴さできこえていた。とすると堕ちた天使、反逆の天使は必ずしも卑しく、醜悪なものとかぎらない。悲しみをたたえ、〈高貴な悪〉の姿をとってあらわれてもいいではないか。」
「マリオ・プラーツによると、悪魔が恐ろしい中世の仮面を取り去るのはミルトンの『失楽園』(一六六七年)にはじまるという。ここにようやく、堕ちたりとはいえ、いまだに大天使の面影をのこした、美しい悪魔が語られた。蒼ざめた頬には懊悩(おうのう)のあとが色濃い。眉の下には不屈の勇気と誇りが漂っている。」
「これは堕ちてなお威厳を失ってはいないのだ。」
「マリオ・プラーツは(中略)ミルトン以来、十九世紀ロマン主義文学につぎつぎあらわれる〈高貴な悪〉の紳士たちをたどり直した。たとえばシラーの『群盗』(一七八一年)の主人公カール・モールは、人品卑しからざる悪党であり、「威風堂々たる怪物」だった。他人に支配されることが我慢ならず、全能の神に決闘を挑んだ悪魔の現代版。」



「悪魔学入門」より:

「悪魔が悪いのは生まれつきのことではないのだ。宇宙に存在するすべてのものと同じように善いものとして創造された。そして天使にふさわしいあらゆる賜物(たまもの)を受けていた。
 それがどうして悪となったのか?
 みずからの自由意志を自由に用いて善でないもの、存在しないものを求めたからだ。非存在へと向かうにしたがい、善であり、存在であり、実存である神からはなれ、空虚に近づく。まるで台風の中心にある「目」のようなものであって、空虚であり同時におそるべき破壊的な力をひめている。」

「「虚(うつろ)なもの」、光と闇の比喩をかりれば、影と闇。」



「闇の力」より:

「かつて私たちのまわりにも、いたるところに闇があった。深い闇があった。山は昼でも暗く、森陰には黒々とした闇が隠れていた。町の通りは暗く、夜の空には満天の星の背後に底知れない闇があった。
 人の住居もまた暗かった。玄関も、座敷も、納戸も、はばかりも、物置きも、屋隅には昼間から闇がひそんでいた。とっぷり日が昏(く)れると、たちまち墨を流したような一面の闇につつまれた。
 闇の中には何がいただろう? そこにはあきらかに死者がいた。見えない死者の群れがいた。暗い通りや、玄関や、庭をとおり抜けるとき、私たちは子ども心に、何よりも死者を思った。死者を連想し、死の観念におびえて足がすくんだ。」
「私たちのまわりから闇が追い払われてすでに久しい。いまやどこもかしこも眩しいばかりに明るいのだ。」
「闇を駆逐した。ついては私たちは、同時に何かも喪失したのではあるまいか。ひそかに生者を見はっていた死者の群れ。死の観念を失った。死にしたしまずして、どうして生を尊重できるだろう。外界の闇はまた、自分のなかの闇の部分の警告ではなかったか。息を殺して自分のなかにひそんでいる黒々とした悪の部分。おのれのなかの悪を知らずして、どうしてこの世の悪が識別できようか。おそかれ早かれ私たちは駆逐したはずの闇の力の報復を受けるにちがいない。」



「黒と白」より:

「いかにも悪魔は比喩(アレゴリー)によって、たとえば蛇や竜や豚や山羊や獅子や鷲などによって表わされ、下等な、軽蔑すべきものであったが、と同時に(中略)意味が百八十度逆転して、とりわけ価値の高いもの、神的なものそれ自体をさえあらわす比喩に転じる。ユング流にいえば、こうである。
 「そして変容とはまさしく、最も低きものから最も高きものへの、動物的で太古的(アルカイック)な幼児性から神秘的な『ホモ・マクシムス(最高の人間)』への変容に他ならないのである」(池田紘一・鎌田道生訳)
 これはまさしく悪魔たちの変身原理でもあるだろう。そういえばボードレールは巧みにこの原理を応用してサタンへの祈りを書いた。」

「おお「天使」らのうちで最も博識にして最も美しき者よ
 運命に裏切られ ほめ歌を捧げられなくなった神よ

 これが長い連祷のはじまり。あいまに「おお サタンよ、わが長き悲惨を憐み給え!」のリフレーンがくり返される。
 『悪の華』の詩人にとってサタンは「流謫(るたく)の王者」であり、不当におとしめられた者であって、敗れてもつねに倍する力をもって再び立ち上がる。すべてを知る故に、むしろ万物の王たる者、人類のかずかずの苦悩を親しく癒(いや)してくれるのである。父なる神が、「その黒き怒り」のおもむくままに地上の楽園から追い出した者たちの庇護者であった。
 「祈り」と銘打たれたしめくくりの前半三行。
 
  栄光あれ たたえられてあれ、サタンよ、かつて君臨した
  「天」の高みにおいても、また、いま、事やぶれて、
  沈黙のうちに夢想にふける、「地獄」の深みにおいても!」」



「気の好い悪魔たち」より:

「パリに近いサン=クルーの町に伝わる話によると、いくつものアーチをもった石の橋を造るのに人々が難儀していたところ、悪魔が助力を申し出てきた。返礼として、最初に橋をわたる者の魂をいただく。美しい橋が完成したとき、町の住人たちは相談のあげく、まっ先きって一匹の黒猫をわたらせた。いっぱい食ったことに気がついたが、もはやせんかたない。悪魔は歯がみしつつ、黒猫を抱いて立ち去ったというが、十九世紀の民衆画では、司教杖をもった橋の守護聖人から黒猫を手わたされ、目をつりあげ、牙をむき出してくやしがっている悪魔の姿が描かれている。」



こちらもご参照下さい:

松山巖 『乱歩と東京』 (PARCO PICTURE BACKS)
ノーマン・コーン 『魔女狩りの社会史 ― ヨーロッパの内なる悪霊』 山本通 訳







































































































池内紀 『ドイツ 町から町へ』 (中公新書)

「ヨーロッパでは富の大半は地下にある。地上ではつつましく、質素な生活ぶりであっても、貧しいなどと早合点してはならない。家々の地下には、先祖代々の貯えが眠っている。」
(池内紀 「ベルンカステル」 より)


池内紀 
『ドイツ 町から町へ』 

中公新書 1670 

中央公論新社
2002年11月15日 印刷
2002年11月25日 発行
224p まえがきii 
目次・地図(「ドイツの各州とその州都」)6p
新書判 並装 カバー
定価760円+税
写真: 池内紀



本書「あとがき」より:

「「ドイツ 宝さがし」というタイトルで読売新聞日曜版に連載した。一九九八年六月から二〇〇〇年四月にかけてのこと。活字では足かけ三年、日曜日ごとにドイツ旅行をしていたことになる。」
「連載分から三分の一ちかくを捨て、新しく十五の都市を書き足した。」



本文中図版(モノクロ)多数。


池内紀 ドイツ町から町へ


カバーそで文:

「ドイツの町には、おどろくほど個性がある。通りや建物、広場から、民家の屋根や壁の色、窓のつくりにいたるまで、土地ごとに様式があり、みごとな造形美を生み出している。長らく領邦国家が分立していた歴史的背景から、町ごとの自治意識が強く、伝統や風習に誇りを持っている。港町、川沿いの町、森の町、温泉の町――。ドイツ各地をめぐり、見過ごされがちな風物や土地に根ざした人々の息づかいを伝える紀行エッセイ。」


目次:

まえがき

Ⅰ 北ドイツ
 リューゲン島
 フーズム
 リューベック
 フランクフルト・アン・デア・オーダー
 ベルリン
 ケペニック
 ポツダム
 散歩道 『三文オペラ』
 ボーデンヴェルダー
 ハンブルク
 ブレーメン
 ゲルリッツ
 バウツェン
 リューネブルク
 イェーナ
 散歩道 漫画『マックスとモーリッツ』
 ハルツ地方
 ヴェルニゲローデ
 クヴェートリンブルク
 マグデブルク
 デッサウ
 散歩道 カバレット
 ドレスデン
 マイセン
 ケーニヒシュタイン
 ピルナ
 ライプツィヒ
 ワイマール
 ゼーバッハ
 ゴータ
 散歩道 道化ティル・オイレンシュピーゲル

Ⅱ 中部ドイツ
 ボン
 ケルン
 アーヘン
 アレンドルフ
 ハーナウ
 カッセル
 フルダ
 散歩道 『ぼうぼうあたま』
 ヴィースバーデン
 ヴュルツブルク
 ゾーリンゲン
 シンデルフィンゲン
 フランクフルト
 バート・ホンブルク
 マンハイム
 散歩道 大盗シンデルハンネス
 ダルムシュタット
 ハーメルン
 バイロイト
 アイゼナッハ
 マールブルク
 ゴスラー
 散歩道 ライン下り

Ⅲ 南ドイツ
 トリアー
 フロイデンシュタット
 シュヴェニンゲン
 テュービンゲン
 ハイデルベルク
 散歩道 組曲「カルミナ・ブラーナ」
 ミュンヘン
 シュタルンベルク
 ダッハウ
 アウクスブルク
 ネルトリンゲン
 ハイルブロン
 ニュルンベルク
 散歩道 みなし児カスパール・ハウザー
 エルヴァンゲン
 ベルンカステル
 カールスルーエ
 バーデン・バーデン
 レンヒェン
 ドナウエッシンゲン
 シグマリンゲン
 ウルム
 ケンプテン
 散歩道 ボイロン修道院
 パッサウ
 ベルヒテスガーデン
 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン
 ヘーガウ地方
 メールスブルク
 コンスタンツ
 バーデンワイラー
 カイザーシュトゥール地方

あとがき




◆本書より◆


「ゲルリッツ」より:

「町の人々が川岸のベンチにすわり、のんびりとポーランドをながめていた。対岸の家族が、同じくのんびりとドイツをながめている。人間は国境などというへんてこなものをつくりたがるが、魚や鳥たちはおかまいなしだ。キラキラ光る川波のなか、こちら、またあちらでポチャリとはね、あるいは忙しく水面を飛びまわり、気ままに「国境侵犯」をやらかしていた。」


「散歩道 漫画『マックスとモーリッツ』」より:

「マックスとモーリッツのいたずらは、とびきり残酷で、容赦がない。とどのつまり二人は、これまたとびきり残酷な仕方で、この世からあとかたもなく消え失せる。これが名作となり、三代にわたり読みつがれてきたのは、どうやらいたずらの引きおこすおかしさのせいではなさそうだ。
 レンペルさん、ボルテおばさん、ベック氏は、いずれも村の好人物であって、「この世に満ち足りている」人々である。その人々がいたずらをされて、ふらつき、よろけ、頭から落下し、お尻をつき上げてすっころぶ。好人物性のもとにうぬぼれ、自己満足にひたり、温和に固定していた日常世界が、「ズドン」の一発でふっとんだ。」



「ハルツ地方」より:

「詩人ハイネは若いころハルツめぐりをして『ハルツ紀行』を書いた。口の悪い詩人は小さな町の貴族や市民たちをからかったが、樅(もみ)の木には脱帽した。ハイネによると、この地方の生きもののなかで、この木がもっとも高貴なのだそうだ。」


「ピルナ」より:

「ピルナの本来の見ものは、町ではなく背後の丘である。ゾネンシュタイン城がそびえている。「太陽石」といった意味。いつのころか城が使われなくなって、一八一一年、ドイツで最初の精神・神経科専用病院が開かれた。やがて背後の高台に一つ、また一つと病棟がふえていった。
 それは町の名誉であった。ところがナチス・ドイツ時代の到来とともに一変した。一九三九年から四一年にかけて、ここで一万三千人にあまる患者たちが「生きるに値しない生命の持ち主」として「処理」された。ふだんはせいぜい数百が住人だったところへ、千単位の人々が送られてきた。丘に上がったきり、もどってこない。その異様さを町の人々が気づかなかったはずはない。町当局は一切関知しない方針をつらぬいた。
 現在、ピルナの病棟跡は当時のままのこされている。」



「散歩道 『ぼうぼうあたま』」より:

「すべて「わるい子」が主人公で、散髪がいや、爪を切るのが嫌い、スープもいや、強風の日に親の目を盗んで凧(たこ)あげにいく……。そんなペーターやカスパールやパウリの物語。」
「『ぼうぼうあたま』が大ベストセラーになったのは、子供にとって「よい子」のはなしがつまらなく、「わるい子」であるのがとても楽しいからだ。「スープいやいや、だいきらい」などといっていると、カスパールのように糸みたいに痩(や)せてしまうかもしれないが、しかし、いやなスープはやはりいやなものなのだ。大嵐の日に凧あげにいった少年は風に吹きあげられて帰ってこなかったが、「だれもしらない、くものうえ」にいるほうが、学校に行くよりずっとおもしろい。」



「フランクフルト」より:

「オフィス街のまっただ中に、お伽噺(とぎばなし)から抜け出てきたような白い塔がそびえている。「エッシェンハイムの城門の塔」といって、この町がまだ城壁に囲まれていたころ、こんな塔が六十ばかりもあった。十五世紀に建てられたもので、高さ四十二メートル、中世のフランクフルトを伝える唯一の生きのこりだ。外に向いて帝国の鷲(わし)が、市中に向かってもう一つの鷲が紋章として羽ばたいている。
 上に四つの可愛らしい小塔があって見張りの窓がのぞいている。てっぺんに旗の形をした鉄の風見がついている。双眼鏡でながめると、その風見に九つの穴があるのがわかる。
 由緒ある穴だそうだ。むかし、ハンス・ヴィンケルゼーという野盗がいて、この塔を根城にしていた。射撃の名手で、あるとき賭(か)けをして、みごとに九発を命中させた。
 鉄が朽ちるので百年おきぐらいに取りかえられる。そのたびにきちんと九つの穴あき風見鶏をとりつける。」



「散歩道 大盗シンデルハンネス」より:

「昔、ひとりの泥棒がいた。名前はシンデルハンネス。」
「ちょっとした悪さを親方にとっちめられて、人前で鞭(むち)打たれた。それで悪の道に走ったといわれている。」
「文豪シラーが『群盗』という劇を書いている。当時、ドイツ各地に野盗がいた。盗みをするだけではない。シラーがえがいたように、封建領主にたてついて自由に生き、権力を笠にきる連中の鼻をあかした。シンデルハンネスが民衆のヒーローになったのは、そんな背景があったからだ。」



「ゴスラー」より:

「古い町並みだが、むろん人々が日々、生活しており、内部はきれいにつくり換えてある。スーパーもあれば安売り店もあり、週末には広場いっぱいに市(いち)がたつ。古いものと新しいものとの組み合わせが、なんとも絶妙だ。古い建物を維持しながら新しくつくるというのは、手間も費用もずっとかかると思うが、人々は永い時間をかけて、古くて新しい町をつくってきた。」


「散歩道 ライン下り」より:

「ハイネは詩人のかたわら、ドイツ各地の伝えばなしや民俗を丹念に集めた人だった。『精霊物語』という、とてもすてきな本がある。古いドイツの山や峡谷に棲んでいた木の精や水の精や巨人たちを探してまわった記録で、この世の気の好い仲間たちだった。山の精が宝のありかを教えてくれたし、水の精が危険を警告してくれた。やがて意地悪な人間に追われて姿を消した。」


「ベルンカステル」より:

「ホテルにたのんでワイン蔵を紹介してもらうといい。たいていワイン造りの家に隣合っている。見かけは小さな建物だが、階段を下りていくと、地下室が途方もなく広い。ほの暗くて、隅は闇(やみ)に沈んでいる。そのなかに古酒、新酒が整然とならんでいる。これはブドウ酒にかぎらず、またドイツにかぎったことでもないが、ヨーロッパでは富の大半は地下にある。地上ではつつましく、質素な生活ぶりであっても、貧しいなどと早合点してはならない。家々の地下には、先祖代々の貯えが眠っている。」


「ガルミッシュ=パルテンキルヒェン」より:

「二百年あまり前に、民家の壁に絵を描く風習がはじまった。代々の壁絵描きがいて、腕を振るってきた。素朴な宗教画や風景画、またグリム童話の場面もある。壁を見て歩くだけで夢のような一日が暮れていく。
 観光地として知られたところだが、ミュンヘンからの高速道路は町の手前十キロほどのところでプツリと切れる。町の人々が拒否したからだ。より多くの観光客が来てくれるのはありがたいが、それよりも自分たちの生活環境のほうが大切だ。発展するのはうれしいが、それは一定の範囲にとどめておく。
 何よりも自分たちの町であって、自分たちが町を守る。環境は自分たちでつくっていく。そのための権限が市民の手にあり、地域の行政にゆだねられているからこそ実現した「ノー」だった。」














































































































池内紀 編訳 『象は世界最大の昆虫である ― ガレッティ先生失言録』

池内紀 編訳
『象は世界最大の昆虫である
― ガレッティ先生失言録』

白水Uブックス

白水社 
2005年5月30日 印刷
2005年6月20日 発行
218p 
新書判 並装 カバー 
定価900円+税
ブックデザイン: 田中一光/プラスミリ
カバー装画: 池内紀



J. G. A. Galletti: Das groesste Insekt ist der Elefant。
1980年、創土社から全訳が『ガレッティ先生失言録』として刊行されたのち、1992年に「どうしても意味のとれないもの、おかしみのつたわらないものを省き、多少の訳注をほどこした」新版が白水社から刊行されました。本書はその「Uブックス」版です。


池内紀 象は世界最大の昆虫である


カバー裏文:

「「水は沸騰すると気体になる。凍ると立体になる」(物理学)。「カエサルはいまわのきわの直後に死んだ」(ローマ史)……18世紀から19世紀初頭のドイツの高校で教壇に立っていた名物教授が残した、想像を絶する“名”失言の数々。」


カバーそで(裏)文:

「●著者紹介
ヨーハン・G・A・ガレッティ
1750年、ドイツの小都市アルテンブルクに生まれ、ゲッティンゲン大学で法律・地理・歴史を学ぶ。1778年母校ゴータ・ギムナージウムの教授に就任。引退後は著作執筆に励んだが、不幸にしてその名が世に知られるようになったのは彼が教壇で発した膨大な量の失言のおかげだった。」



目次:

古代の世界
歴史学
自然地理、ならびに政治地誌学
天文学と物理学
数学、幾何学、算術
年代記
博物学
人類学
言語学と文学
授業風景
私事
経験と省察

あとがき (池内紀)
Uブックス版によせて (池内紀)




◆本書より◆


「怒りで腹わたが煮えくり返るなどのことは、古代においては日常茶飯のことであった。」

「ホメロスが実在の人物であるのかどうかは不明である。だが、彼が盲目であったということに疑問の余地はない。」

「セネカいわく、力ある悪徳が徳と称せられる。」

「めったにないが、しかしながら、しばしば生じる現象がある。」

「ホラチウスのこの個所には、何か別の典拠があったにちがいない。おもうにホラチウスが、ずっと後世の文献をよりどころにしたことはあきらかである。」

「いかにもペルシャに「ペルシャ史」といった書物はある。だが、そこに記された歴史はペルシャの歴史と大きく矛盾している。」

「ナイル川は海さえも水びたしにする。」

「もし、人が心眼でわれとわが身を眺めると、亡霊のように見えるにちがいない。」

「羊は衣食住のうちの衣と食に奉仕している。」

「ナマケモノは南アメリカの熱帯地方に棲む動物で、努めて何もしない点で、このけものの右に出るものはない。」

「紙幣とは、思い上がった貨幣にすぎない。」

「かつては持つことの少ない者が富んでいた。」

「勝つための方法は二つしかない。勝つか負けるかだ。」

「教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも。」




原文:

Gallettiana - Wikisource





































池内紀 編訳 『ウィーン世紀末文学選』 (岩波文庫)

「あえていえば当時のウィーンは「精神の世界都市」と言えただろう。二十世紀に大きな意味をもった数々の知的革新が、古い帝国の首都で芽ばえたのは偶然ではなかったはずだ。それがおおむねユダヤ人によったのもまたそうである。彼らの多くは、父あるいは祖父の代にウィーンへやってきて、一代で富を築いた家庭に生まれあわせ、それぞれが自身の流儀と表現法で、父の世代に、ひいては過去に対し三下り半を突きつけた。世紀末のウィーンに、一つの文化の末期的状態を感じていたからにちがいない。そしてその種の、ひとしお敏感な精神が育ったのは、まわりの世界に同化しながら、しかしなお同化しきらない「よそ者」としての強烈な意識が働いていたからではなかろうか。」
(池内紀 『ウィーン世紀末文学選』 「解説」 より)


池内紀 編訳 
『ウィーン世紀末文学選』
 
岩波文庫 赤 32-454-1

岩波書店 
1989年10月16日 第1刷発行
363p 
文庫判 並装 カバー 
定価520円(本体505円)
カバー: 中野達彦
カバー版画: コーロ・モーザー



本書「解説」より:

「『ウィーン世紀末文学選』として計十六篇を収録した。つまるところ、訳者がこれまで、永らく親しんできたこの時代の作家たちの作品から、面白いと思うものを選んだわけである。小説とならんでエッセイ風の小品、パロディ、戯文調のものがかなりを占めているのは、あきらかに訳者の好みを示している。」
「「ウィーン世紀末」という名のもとに、ここではさしあたり、一八九〇年代からナチス・ドイツによるオーストリア併合までを想定している。」



本文中図版(モノクロ)38点。「解説」中図版(モノクロ)1点(「ウィーン万国博全景」)。


ウィーン世紀末文学選 01


カバーそで文:

「学問・芸術が絢爛たる花々を咲かせた「精神の世界都市」ウィーン。文学界にはシュニッツラーやホフマンスタールなど、いずれも一筋縄では行かぬ文人たちが輩出し才を競いあった。その多彩な世界を一望し、特異な精神風土を浮び上がらせる待望のアンソロジー。」


目次:

レデゴンダの日記 (シュニッツラー)
ジャネット (バール)
小品六つ (アルテンベルク)
バッソンピエール公綺譚 (ホフマンスタール)
地獄のジュール・ヴェルヌ/天国のジュール・ヴェルヌ (ヘヴェジー)
シャイブスの町の第二木曜日 (ヘルツマノフスキー=オルランド)
ダンディ、ならびにその同義語に関するアンドレアス・フォン・バルテッサーの意見 (シャオカル)
オーストリア気質 (フリーデル)
文学動物大百科(抄) (ブライ)
余はいかにして司会者となりしか (クー)
楽天家と不平家の対話 (クラウス)
すみれの君 (ポルガー)
落第生 (ツヴァイク)
ある夢の記憶 (ベーア=ホフマン)
ファルメライヤー駅長 (ロート)
カカーニエン (ムージル)

解説 (池内紀)



ウィーン世紀末文学選 02



◆本書より◆


「文学動物大百科」(フランツ・ブライ)より:

「アルテンベルク
 神の気まぐれにより唯一の器官をもって生み落とされたこの生きものは、「ペーター」の名でしたしまれてきた。唯一の器官とは、すなわち一個の眼球である。これはハエの目玉と同じように無数の網膜をもち、可視の世界を極小にちぢめて鮮明にうつしだした。この種の奇態な生きものは短命ときまっているものだが、ペーターは自然の法則に反し、かつまた神のご意志にさからって誇りたかく、何かしら肉体のようなものを造りだした。とまれ肉体は脆弱で、ペーターの扱いも粗略をきわめた。眼球ペーターはもっぱら消化器系統に意をそそいで、おぼつかない胃の中身に汲々としはじめ、以後、もはや眼球はまわりの世界を映さない。映しても、せいぜいのところ排泄物の色ばかり。
 (本名リヒャルト・エングレンダー。ウィーンの富裕な家庭に生まれ、大学で法学、医学を学んだが中退、ウィーンのボヘミアンとしての生涯を送る。さりげない市井の情景を印象主義的に記しとめた多くの小品がある。)」

「ヴァルザー
 可愛い、気まぐれな、一角獣科の小獣。亭々(ていてい)とそびえる大木の梢を探しても見つからない。そんなところへは登ろうとしないのだから。このすてきな、いたずらっぽいヴァルザーを枝にとまらせると、ごくありきたりの木さえ、さもたのしげに歌いだす。
 (ローベルト・ヴァルザー 一八七八―一九五六。スイスの作家。千にちかい小品を残した。)」

「カフカ
 めったに目にできない、まっさおな色をしたネズミ。肉は口にせず、にがい味の薬草をたべる。このネズミに見つめられると身動きができない。人間の眼をもつからだ。」

「ホフマンスタール
 羚羊(かもしか)に似て異常なまでに脚の細い、誇らかな、みごとな毛皮をもったこの動物は、興味深い雑種であって、母はイタリア産グレーハウンド犬の牝、父はイギリス産エゾシカの牡。その生誕に人々は目をみはり、世のならわしにしたがって「神童」の名でよんだ。以来、これは俗に言ういい齢(とし)になってもいぜんとして神童でありつづけた。いずれ八十の齢(よわい)をめぐまれようとも、さだめし神童として死ぬだろう。とびきり手のかかる、かよわい獣は、おそろしく上品な匂いをもった人工の空気のなかでしか呼吸ができない。まためずらしやかな生まれ育ちのため胃がいたって脆弱で、うかつに食べると内臓に詰まりかねず、その結果、何ヵ月も何ひとつ口にしないことがある。それがひそかな悩みなのだ。そんなときこの動物は銀色のテラスに立って、七月の日曜の午後の愁いをおびた大気のなかでさも悲しげに鳴く。ときおりホフマンスタール獣は田舎の草地へいきたがる。さっそくつれていってもらえると、おかしげな格好でピョンピョン跳ねる。涙なくして見られない感動的なシーンだが、当の獣自身はたのしくてならないらしい。いずれにせよ、すぐに疲れはてる。女性たちはこのいとしの動物を「わたしの天使」とよんできた。そしてとっくに声変わりしたというのに、むかしに変わらず耳をそば立てて鳴き声に聴きほれている。半分はいとしさ、もう半分は愁いから。ともあれ当代きっての美獣の一つ。」

「マラルメ
 おそろしく精巧なからだをもち、紫水晶色をした高貴な昆虫である。透明な琥珀(こはく)の容器に入れてある。その容器自体が一つの見もので、水晶形をしている。おどろくべきは、こんなにとじこめられているのに、虫がちゃんと生きていることだ。」

















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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