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西脇順三郎 『詩集 人類』 (普及版)

「人間の存在は自然の存在だから
人間が考えることも感じることも
猿やスミレの存在と同じものだ」

(西脇順三郎 「タンポポ」 より)

「だがすべての人間の夢は
アメンボのようにぐるぐるまわるだけだ
オイモイ」

(西脇順三郎 「蛇」 より)


西脇順三郎 
『詩集 人類』 
普及版



筑摩書房 
昭和54年6月20日 限定版発行
昭和54年11月15日 普及版発行
297p 
A5判 角背布装上製本 貼函
定価2,400円
装幀: 吉岡実

「詩集 人類 に寄せて」(4p):
ああ(会田綱雄)/《人類》出現(吉岡実)/私なりに学んだこと(長谷川龍生)/初稿と定稿のあいだ(新倉俊一)



本書「後記」:

「本詩集は、一九七〇年以降一九七八年までの作品を集めたものである。そのうち、ⅠからⅢまでは、先に筑摩書房より刊行された『西脇順三郎全集』第十巻および『西脇順三郎 詩と詩論Ⅵ』の「未刊詩篇」に所収のものである。詩集にまとめるに際し、若干の訂正と削除を行なった。Ⅳはそれ以降に発表されたものである。」



西脇順三郎 人類 01



帯文:

「『アムバルワリア』以来半世紀、輝かしい足跡を残した巨匠究極の詩境。詩集『鹿門』以後十年間の詩作六十六篇を収めた名詩集。」


西脇順三郎「プレリュード」(『第三の神話』所収)より:

「人間は魚だ」



西脇順三郎 人類 02



帯背:

「名詩集
普及版」




西脇順三郎 人類 03



新倉俊一「初稿と定稿のあいだ」(本書栞掲載)より:

「この扉に使われた紋章は、「ヒルガホ」の末尾の詩行にちなんでいる(「ところであなたは紋章学を/やつたことがおありでしようが/あの赤坊をたべようとしている/蛇の紋は何といいましたかね」)。その正式の名は念のため〈Serpent vorant〉である。」


目次:

  Ⅰ
秋の乾杯
橋上
愁人
草野心平君
元旦
君の名は
舌代
リムボウ

ホーラ
三田山
青写真
元旦
たで科
パイ
スフィンクス・イケダ
夏至
しほつち
地蜂
青銅
キササゲ
ウーズル
桂樹切断

  Ⅱ
ヒルガホ
ドングリ
タンポポ
ケヤキノキ

空地
ウグイス
郁李


月桂樹
アブラゼミ

ドゼウ
モヂズリ
スカンポ
栄光


あの人
エロス
茶碗
フルート
カミキリ
河骨


  Ⅲ

ある日
トゲ
風景

元旦
憂酒


夏の日
元旦


  Ⅳ
夏日
年始
三月の末
元旦
郷愁

後記




西脇順三郎 人類 04



◆本書より (括弧内は新倉俊一『西脇順三郎全詩引喩集成』より)◆


「ヒルガホ」:

「ああ
夏がまた来てしまつた
もう何もいうことはない
野原の方へ歩きだすだけだ
道ばたの藪にからむ
あのヒルガホのやわらかな蔓なら
馬もたべられそうだが (「芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」への言及。」)
あの花の色のうすもも色は
地球上何属にも見られない
薄暮の最高の哀愁の色だ
まひるに見ても
どんな放浪の旅人がみても
つかれた眼になみだがにじみ
夕暮を感じたであろう
放浪の心はその名を悲しそうに
呼んで顔をそむけるだろう
漢人は「セン」といつて心の中で反動する (「(植)「旋花(せんか)」(ヒルガオ)。」)
ミルトンはあくどい声で
バインド・ウィードとささやいて
ホートンの方へ街道を下つてゆく (「ヒルガオのこと。英詩人ミルトンの「リシダス」四六行の言葉‘woodbine’(スイカズラ)への言及か。Horton は彼の別荘があったバッキンガム州の寒村。」)
ランボーは「空腹の饗宴」で
リズローンといつてその豪華な毒を
しやぶる芭蕉の馬のように (「仏詩人ランボーの詩「空腹の饗宴」九―一〇行への言及。liseron (仏)ヒルガオ。」)
また羅馬人はコンウォルウォルスと
泣きそうに呼ぶ (「convolvulus (拉)ヒルガオ。」)
希人はヘルクシネーとかキサムペロスとか
キサンセモンとかオイモイエゴー (「(希)ともにヒルガオの意。末尾の οιμοι έγώ (希)は悲嘆を表わす感嘆詞。」)
このまひるの眼のくらやみの中で
白い崖のくずれの下の小路を
青ぶくれの旅人はゴッホの
むぎわら帽子の中に (「ゴッホの絵「自画像」(一八八七年)への言及。」)
たでの葉を入れて
ひようたんふくべのように
背中をまげて歩いている
女と自転車にのつて
タカイドの男が走つて通つた
向うの山の先端に立つて
一人のロマンティカーが手をかざして
海原のような野原を眺めている
地平線を圧迫して
ブランクーシムーアの入道雲が
画面の四分の三を占めている (「現代彫刻家ブランクーシーとムアの名を連結したもの。」)
よく見ると藪の下へ
やせた黒い蛇がスルスルとはいる
ゴボウ畑のわきの水たまりに
ミズスマシがくるくるまわつている
まだ老人の家は遠い
ああ
太陽のことを忘れていた
この燃えているおつさんの
ふりまわす火がなければ
植物も生物も存在しない
四季の回転も存在しない
これはイヌタデやミゾソバの神話でなく
近代人の物体の論理
いずれにしても太陽の生殖力のクライマックスの季節だ
アポローンよ
生物にも植物にも生命を与えてくれたが
不死の神々とちがつて死をなおす
療法もなく老いを防ぐ力もない
生物は苦しむばかりだ
神々には無限の楽しさばかりだ (「『ホメーロス讃歌』第三歌への言及。」)
ああ
どんよりしたつつみに
風船のようにふらふらと雲が写つてくる
時々旅人のまじめな青ざめた顔も
写ることもある
静かにゲンゴロウムシが小さい足で
水をかいて游いでいる
おばあさんがジュンサイの中で
太古の微笑をもらしている (「‘archaic smile’(英)の意。(植)ジュンサイ(蓴菜)はスイレン科の多年草。」)
壁のくずれた山寺の門に
サルスベリの
曲つた幹を黒いアリが行列をつくつて
のぼつたりくだつたりしている
閻魔堂の森のわきを行くと
アブラゼミの地獄の釜の
煮える音がおばあさんの背中に
しみいるその静けさは
野原をあまねくみたしている (「芭蕉の「閑さや岩にしみ入蟬の声」のもじり。なお閻魔堂は深大寺にある。」)
誰も通らない
草いきれのする小路をすぎると
キリギリスが時々鳴いている
骨接ぎの入口のザクロの花に
ヤマバチがからみついてまわつている
クマバチが旅人の耳たぶを
ブルブルとかすめて行く
この悲しそうな音は
代数の先生の和げる声を
おもいおこしてひそかに感謝する (「英詩人コールリッジのソネット「ボールズ先生に捧ぐ」の詩行の引用。」)
もう一つ山路をこえて行かなければ
ならないこの辺の路傍でまだ早いが
ほしてシソの汁でつけた梅と
焼いたにぎりの米を食つてみようか
スカンボとイタドリとクズの上に
新聞紙をしいて腰をおろした
路の向う側にトコロが
焼けどのような花をつけている (「(植)野老、萆薢(ヤマイモ科の多年生蔓草)。」)
ヤマユリがところどころ咲いている
なんとも夏のやるせないにおいがする
自分という生物の紫の影が
ヘンリ・ムアの「横わる女の像」のように
赤土の路の上に写る
ムアの彫刻は影の立体だ (「前出、英彫刻家の作品「横わる女の像」への言及。」)
太陽の直射する野原の
影の彫刻だ
それから立ちあがつて考える
これは真夏の夜でなく
ひるの太陽の夢をつづけているのだ
路はだんだん下つて行く
トチの森がみえてきた
ああ
たずねる人の家はあのうらの
小川の近くにあるカヤぶきだ
あの老いた漢文学者に
エロスについてきいてみたいのだ
知らないと言つたら荘子だ (「諸橋轍次。『荘子』は色欲に言及していない。」)
相当長い紫のヘビが
ゆつくり道をよこぎつた
理由なく急いでいたために
丸木橋を渡るとき
綱渡りの風格におちいつた
クイナが鳴く声がした
ヒツ門をくぐつて行くと (「「畢門」。貧しい者の家の意。」)
ホウセン花が咲いている
なんとなく哀れな絃琴の音がする
玉堂のように小さい箏をひいているのか (「浦上玉堂の「鼓琴余事帖」などへの言及。」)
ごめん下さい
劉生の村娘が出てきた (「岸田劉生の絵「村嬢」に擬したもの。」)
「こちらでごぜーやす」
二階の小間にとおされた
壁のくずれた床に
小さい細長い一幅の文人画
よく見るとまだ誰も知らない
本物の玉堂だパパパパーイ (「前出、浦上玉堂。「パパパパーイ」(希)は驚きを表わす感嘆詞。」)
宋人の作らしい大きい青磁に
ヤマゴボウが一茎さされている
櫛もかろうじてたえる
オリーヴ色の髪の先生が
現われて夏の会話が始まる
「生物存在のエピックは四時にわたる
夏はたしかに万物生殖の季節
まことによろこびである
杯をあげて乾杯しよう
でもそれは人間の宿命であつて
また煩悩の起原である
美は天地の大美でなければならないし (「『荘子』外篇、知北遊篇第二十二。「天地、大美有れども言わず。四時(しいじ)、明法有れども而も議せず」。」)
こうして美は善でなければならない
美は善であり善は美である
美は煩悩をボクメツすることから始まる
美は神性の法則である
『我は小さきパンの種也』よ (「聖書マタイ伝第十三章三十三節「天国はパンだねのごとし」ほか。」)
またこの辺の村落のすべての神々よ
あの銀座うまれのパンよ (「「牧神」の意。」)
この肉体の中にひそむ
わたしのたましいが美しくなることを
おゆるし下さい (「プラトン『パイドロス』二七九Bのソクラテスの言葉。」)
それからわたしのもつものが
みなわたしの中にある内面の人間に
調和することを許したまえ」
美を求める心の祈願も終り
タニシのしおづけをひもろぎとして
黄色のヒョウタンから
地酒を曲つた杯についでくれた (「ランボーの詩「言葉の錬金術」への言及。」)
グールモンさんの美論は
あまりにボンノウ的だ (「仏批評家レミ・ド・グールモンの『ビロードの道』への言及。」)
ベルやマルローの美術論は
最高の美意識に
ピッタリのうめき声だ (「英批評家クライヴ・ベルの『美術』(一九一三年)および仏批評家アンドレ・マルローの『沈黙の声』(一九五一年)への言及。」)
あなたの杯の中でクモがおぼれています
正午は夕顔の幽霊が
もつとも美しくみえる時ですね
ああまた
正午にはもうヒグラシがこの辺の
杉森ではゲロのように鳴きます (「岐阜県下呂温泉のこと。」)
今晩はこの室にとまつていきなさい
この窓から天狼星が見えます
ところであなたは紋章学を
やつたことがおありでしようが
あの赤坊をたべようとしている
蛇の紋は何といいましたかね (「‘Serpent vorant’のこと。」)
すつかり忘れてしまつたわい
ああ
野原のセンリツ
カイレ (「Χαίρε (希)英語の welcome や good-by の意。」)」







こちらもご参照ください:

Millard Meiss and Edith W. Kirsch 『The Visconti Hours』





























































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西脇順三郎 『第三の神話』 (復刻版)

「深い深い夢はわれわれをみる
われわれは夢をみない」
「終りは果てしない」

(西脇順三郎 「第三の神話」 より)


西脇順三郎 詩集 
『第三の神話』 
復刻版



恒文社 
1994年8月10日 発行
126p 
菊判 角背バクラム装上製本 
本体カバー 機械函
定価4,500円(本体4,369円)


「本書は昭和33年発行東京創元社版の復刻です。」



本書と『人類』(普及版)をヤフオクの甘露書房さんで計2,108円(送料込)で落札しておいたのが届いたのであらためてよんでみましたよ。
「第三の神話」はもちろん映画「第三の男」のもじりでありましょう。そういえば本書に登場する女神たちはどこかアリダ・ヴァリをおもわせるではありませんか。「第三の神話」の「第三」は神々の世界・人間(動物)の世界に対する植物の世界、神・アダム(男)に対するイヴ(女)、そんなところではなかろうか。



西脇順三郎 第三の神話 01


復刻版保護函。



西脇順三郎 第三の神話 02


カバー表。



西脇順三郎 第三の神話 03


カバー裏。



西脇順三郎 第三の神話 05



目次:

 Ⅰ

十月
正月三日
デッサン
雪の日
六月の朝
旅の一日
二人は歩いた
元旦
春の日
自伝
しゆんらん
あかざ
茶色の旅行
夏の日
内海
はるののげし
プレリュード
呪文
人間の没落について
より巧みなる者へ

 Ⅱ

神話
阿修羅王のために

スカーフ
ジューピテル
第三の神話




西脇順三郎 第三の神話 04



◆占い◆


例によって本書をタロット(ユニバーサル・マルセイユ)で占ってみたところ、


tarot 01tarot 02tarot 03


このようになりました。

ざくっと説明すると、直面している深刻な問題は「戦車」逆位置(敗戦・不能)、著者の心を占めているのは「審判」逆位置(当惑・憂患・叱責)、解決策は「恋人」(感情・エロス・トリオ的関係性)――ホドロフスキーのタロット本を参考にしつつリーディングすると、大宇宙とのつながりを保った状態で自分が好きなことに没頭して生きるよろこびを得るがよい、そんなところではなかろうか。



◆本書より◆


「猪」より:

「山茶花の大木が曲つていた
花が咲いていてこわかつた」

「紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする。」



「十月」より:

「二十年ほど前は
まだコンクリートの堤防
を作らない人間がいた。」

「終りは困難である。
登戸のケヤキが見えなくなるまで
畑の中で
将棋をさして来た。」



「正月三田」より:

「眼だけ残つている。
考えることも感じたりすることも
危険な海の限界線である。」



「デッサン」より:

「このとりくずされたノートは藪にからむ
灰色のつる草の言葉であると思う。
人間に関する神話は植物性の中へ進化
して来た。」

「地平線に女が立つている
地平線は極まりなくつづいている。
この限りない幻想は生物的な殆ど
物理的な放射線であつてここに
すべての生物の発生条件がある。」

「変化しないことは永遠に変化すること
であるがこれはパラドックスである
しかしそれは永遠のパラドックスである。」

「始める必要も終る必要もない
世界を作ろうとしてもがいている。」

「自分と土を分解すると分離すること
の出來ない存在がある
われわれは暗いところを歩いて来た」

「あの地平線にさまよう女の言葉などは
夕暮の会話としては
銀のコップのようにくもつている。
人間の終りではつまらないものほど
リリカであると思う
「近所に果物屋がなくて実に
こまる」などは夕霧のように
リリカである
来るともなしに来た女などは
無常を感じさせるほど美しい
淋しみのないところに淋しみを
感じる時はすべての始めである
グロテスクに美を感じる正直者は
「光」のタバコの箱のあの色に
無常を感じる人と等しく偉大だ。」



「雪の日」より:

「女神は木像で梨の木でほられていた
女神の白い顔
女神の歌の真黒さ
手に握つているあの半開の
ザクロの実は青ざめていた。」

「男がはいらない女神の世界は
透明な野原だ。」

「考えることを避けたいのは
より深く考えたいからだ。
人間はなぜ繁殖しなければならないのか。」

「これは女のために書こうとした歌で
あつたが結局楽園に住む蛇のため
に書いたように見えるのは情ない。
考えるということは実存の世界にとゞまる。
人間が感覚出来ない世界が共存している
ということを女と静かにコニャクを
のみながら話し合つたのだ。」



「六月の朝」より:

「二人は樹から樹へと皮の模様
をつたつて永遠のアーキタイプをさがした。
会話に終りたくない。
彼はまた四十五度にまがつている
古木へのぼつていつた。
手をかざして野ばらの実のようなペンキを塗つた
ガスタンクの向うにコーバルト色の
鯨をみたのか
       アナバースの中のように
海 海 海
群馬のアテネ人は叫んだ」



「二人は歩いた」より」

「九月の初め二人は歩いた
流動的哲学はもう二人の中を流れ去つた
もう何も考えるものが失くなつた
ただ生物的特に植物的追憶がすこし残るだけだ
苔類はお寺へまかして置いてもいゝのだ
キノコとキチガイナスとが人間の最後の象徴に達してい
 たことを発見して
二人はひそかによろこんだ」

「百姓家の庭に鳳仙花が咲いていた
二人は子供の時を憶つて
『ほうせんかを知らない人間はいないでしようね』とさ
 さやいてみた
なにしろ近頃はほうせん花の文明が滅亡に近づいている
 ことを二人は歎いた」



「元旦」より:

「きつゝきが欅の木をたゝく音がする。
手紙を書いている女は筆をくわえて
心は野辺にさまよう――」

「もうアカザの藪も消えて
大地の背骨がみえる
オリオン座の簪がみえる。
冬は追憶の女神の月だ」



「春の日」より:

「土へもどる季節がまた来た
神々の黄昏(たそがれ)の時をよろこぶ。
人間はあまり高慢であつた。」

「悲しみは永遠の宗教である。」



「自伝」より:

「「ラオコオーン」のような自伝が
描けないただ
とんぼ

かたばみ鬼百合
ほうせんか
しおん
と殆ど区別が出来なく溶けこんで
発生したことは僕という牧人の
田舎暦だ。」

「もう
うす暗い菫をくれる
詩の女神は考えられない。」

「フローベルとペイタが
僕の頭のくらやみに
しずかにしやべりつゞけた。
赤煉瓦の建物のバルコニーで
夕暮の空をながめて
アイルランドの百姓の幽霊
ばかり思いつゞけた。
今はしかし
唐の詩人のように城外へ出て
この辺を歩いて
生垣になるサンザシの実や
ホウコグサなどを摘んだり
はてしない存在
を淋しく思うだけだ。」



「しゆんらん」より:

「「君達と一緒に行くもうひとりの人は
誰か」
「これか、これは女の影だ。」
猪を防ぐ電気を通す鉄条網はこわれていた。」

「千年の都をはなれて梨の女神を
さがすのは無理なことだ。
「君達と話をしていたもうひとりの
存在は誰か」
「それは尼寺の庵主で蛙のようになめらかな
小さい女で丁度庭をそうじしていた。」
「わたくしの親類で北野神社の近くに
庵主をしている人を知りませんか」
「知りません」」



「茶色の旅行」より:

「この女にも平行線のように
永遠に於て会うのだ。
女の心には紫の菫を灰色に変化させる
染物やの術がある
ポンク。ポンク。」



「夏の日」より:

「にわやなぎの茎に足をとられ
頭髪はすでに簪(しん)にたえず
夏の冠はとれ人間の夢は破れて
永遠のまばたきの中に仏陀を見た
おにゆりの咲く石屋の庭で
しばらく休んだ。」



「内海」より:

「人間の言葉はきりの中へ
消えて行くばかりだ」

「人間のまぼろしは遠ざかる」



「はるののげし」より:

「よく
女の人がみる夢に
出てくるような
うす雪のかゝる
坂道の石垣に
春ののげしが
金色の髪をくしけずつている。
これは危険なめぐり合いだ。」

「「そうですかア」」



「プレリュード」より:

「伊豆の岩に仙人草が咲いていた時分は
九月の初めで
人間の没落もまだ早い頃であつた。
十月の間はまだ望みもなく
すべて見当がつかなかつた
青黒い蜜柑のなる林の中で
老人とばくちうちの話をして
日の暮れるのを待つていた。
眼の下には港が明りをつけ始めた
松林が水の中から浮んでみえるが
それは天女を憧れるフランスの女が
どうしても見ることが出来なかつた
あのやるせないニムフィーという
さなぎ的なものだ」

「湖水を渡つて西下し始めた。
夕暮の空は野ばらに染まつた。
われわれはまだ何物かに近づいて行つた
のだということを知らなかつた。」

「時ならぬ水仙の香りがした
存在自身の香りである
この発見は人類に悲しみをますものだ。
秋の野に流れる水のような女だ。
存在の淋しさを写す真珠だ
この女を見るものは岩に頭をぶつけて
くだける他ないのだ。
この女に会つて初めて人類の無常
を感じ悲しみを悲しむのだ。
美は悲しさであるのだ
夕陽は悲しい女の影だ
松葉は屋根につもつていた
古い庭はもうよく見えなくなつた
髪はもう柊の森では流行していない。」

「予言は果しなくつゞくのだ
しかしこの女によつてすべて
人間はわからなくなるのだ。
しかし明日から新しい野原へ
この女と
かめ山のおくへにげこむのだ
鈴鹿山脈の下で
猿の鳴く声をきいてくらすのだ
〈そうですかァ〉という女の声は
暗い野原へ消えてゆくのだ。
人間は魚だ
人間は魚だ
こどもが生れる
こどもが生れる
ニムフィー ニムフィー
雪が降る日には籠をもつて
オギヨウを採りに行くのだ」



「呪文」より:

「なるべく人間に会釈したくない。」


「人間の没落について」より:

「崖のところにのびているなめらかな樹は
女の舌のようなにおいがする」

「追憶の女神は追憶にだけ生きている。
ひゆの藪が無くなつて
オリオン座のかんざしが見えないうちに
ミューズが夏の街路を歩く姿が見たい
のであるが。
追憶のカーテン
あけぼのゝ帳(とばり)に写つている
ひばりと麦の穂
人間の没落の芝居」



「弓」より:

「永遠の女に会うと思つて
イボタの実が落ちるところをみたり
カリマコス街道の斑猫を追つてみたり
堰の下で鱸を釣る二人の男の帽子の
尖りをみたりする時
ツクシと踊つてみたりする時
第三の女の迷信に終る」

「海の音をきゝながら
黒いいちごを摘んで
山の路をおりて来ると
落葉の中にたそがれのような宝石
をひろつた どういう女のものかな
どこへ行つても女のものばかりだ」

「ブランクースィーの卵のように
奇蹟は奇蹟の中に起るだけだ
ものはそれ自身でない時に
初めてそれ自身となるのだ」



「神話」より:

「毛虫のような穂先きから
白い口唇を出している
つゆ草が
コバルト色の夏を地獄へつき落そうと
している以外に
人間と神話との混同をみることが
出来ないのだ」

「人間は音もなく岩の中へ
とけこむ場合である
神話は殆ど見えないところで行われる
永遠に近づくとつまらないものを
憧れるようになつてくるだろう
ひようたんふくべの類だの
茄子だの甘酒だのこわれた門だの」

「チェリーニーの作つた舟の形をした
塩壺などはあまりに人間的だ
あまりに悲劇的な哲学なものだ
テルスという土の女神とネプチューンと
いう海の男神とが
足をからめて向きあつて
身をそらして
人間の旅の果てを示すのだ
テルスの舌に触れる時
あたゝかい土の悲しさがわかる」



「阿修羅王のために」より:

「いゝ会話がない」

「路ばたのもち草の中から
天人唐草と蓮華草と摘んで
地獄への旅の誓いをたてた
フクーケンザクという
おそろしい漆の精は
人間の失墜をおびやかす」

「われわれは片足をあげて
イカルスのまねをして
とおりすがりの旅人を慰めた」



「スカーフ」:

「崖や
路傍に十月が来た
ぬるでは白い小さい花をつけた
男の口唇に
野ばらの夢が残ることを
恐れる第三の女の
はてしない迷信がある
灰色の岩に
仙人草が枯れている
ひまわりは種子になつた
茄子は神話に落ち入つた
矢にうたれた鷺が首をまげて
中天から落ちて来る
葦もアリアドネの悲しみになる
存在はすべて悲しい
タラスコン街道に出てみた
蝶々がとんでいた
「みせて、これはすばらしいわ、いゝわ」
スカーフのはじをもつて女はいつた
このコバルト色の
世界を歩いて
悲しんだ」



「ジューピテル」より:

「季節の中で考えることが出来ない
突然に行くとどんな人間も留守だ」

「薔薇と百合との境界線がなくなり
アリアドネと杏子と葦の区別
がなくなつてしまつた
ミレーの種播きは地獄にまいて
いるようなものだ」

「二人は岸の石垣に坐つて
サメのようなカマスを釣るのだ」

「指先についているみゝずの匂いは
若い人魚の香りであつた」

「ミューズの女神よ
なんとかうまい言葉を発明して
このアンペロエッサの男の
帽子を飾つて下さい」



「第三の神話」より:

「深い深い夢はわれわれをみる
われわれは夢をみない」

「再び神々の世界にはもどれない
人間は人間として歩くほかない
海の崖の上で農夫が畑を耕している
るり草のような海が下に見える
よくみると帆船の近くに
イカルスの足が見える
いまイカルスが落ちたばかりだ
イカルスの失墜が人が注意しない
どこかのすみで行われている」

「しかしこゝは庭の中にある言葉の塔
であるが四つの庭をみおろしている
鷺の巣だ
第三の庭ではメリヤスのスカートを
はいているおくさんが無花果を
摘んで籠の中へ入れている
何も言わない
これは近代劇の最高点だ」

「黄ばんだ欅の葉先に舌の先が触れた
あの暗い晩
永遠の先に舌の先が触れた時
死に初めて生きながらふれるのだ
それは生命の初めであつて終りだ
言葉の塔の人々はみな話した
「男の言葉を女の言葉に
近づけることを考えなければならない」
葡萄のような夕暮になつた
もう訪ねるような人はいないだろう
もう自分自身の中にもどらなければ
ならなくなつた
自分自身の言葉を飾らなければ
ならなくなつた
「見せて
この古い庭にとび出ている
この梅の木
わたくしのドレスに染めてみたいわ
この薔薇の胎児
この一つ眼のキュクロスの河童
この木の木このやるせない木
没落の天使のひそむこの芋虫
このコリドンの庭に
やがてもどりたいものだわ」」

「終りは果てしない」

「小雨が降り出して埃の香いがする
ヘリックという僧は美とは
中心と尖端の間にきらめく
光線にほかならないと説教した
言葉の夢で眼を飾るほかない
もう飾るものはないかもしれない
美しいものほど悲しいものはない
どこかで茶を飲んでいる時
二十三の時のレンブラントの自画像に
似ている男に会つた
女神の舌にふれた時の
よろこびに驚いたような眼つきをした
突然に愛にふれる
突然に死にふれる
そういう風に考えた女は
急に車をおりて
第三の女として駅の中へ入つて行つた
ふれることは最大な神秘だしかし
永遠の愛は永遠に満たされない
永遠に駅へはいらなければならない
女は男のために
キツネノマゴを摘む
自分の胎児をカッパとして
無意識に愛するのだ
この第三の女は第一の女を越え
すべての女を越え唯一の女となる」

「エルムの樹のたそがれ
アンドロメダの子宮に
胚胎する永遠の愛のくらやみ
終りはまだ無限につゞくらしい
種子のない風が吹いている」

「そういう秋のイメヂが
夜明けの空に混交するまで
秋分の女神のために
おとぎをしたのである」






こちらもご参照ください:

西脇順三郎 『近代の寓話』 (復刻版)
稲垣足穂  『覆刻  第三半球物語』
西條八十 『砂金』 (復刻)






























新倉俊一 『評伝 西脇順三郎』

新倉俊一 
『評伝 西脇順三郎』


慶應義塾大学出版会
2004年11月10日 初版第1刷発行
viii 362p 口絵(モノクロ)16p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,000円+税
装丁: 中島かほる
装画: 西脇順三郎
カバー装画: 「ヴェニス――Basilica of the Salute」(西脇順三郎画)



本書「まえがき」より:

「晩年に幾人かの詩人たちと西脇先生を囲んで自作の解説を聞く会(通称「西脇セミナー」)に私も長いあいだ参加して、「超現実」とか「超自然」を説いて詩の中には一人称を使わないこの詩人が、個々の作品の背後にいかにしたたかな現実を踏まえているかを知って驚嘆した。むろん、それらの体験は詩の中では豊かな想像力によってみごとに変容しているが、現実を踏まえている点では変わりない。」
「したがって、西脇順三郎の伝記を書くには、彼の詩と現実とをできるかぎり想起することが必要であろう。(中略)この詩人と三十年あまり質疑を繰り返してきたが、やはり詩を通して以外にその内面の肖像を語ることはできないと私は痛感した。(中略)「詩よ、語れ」という言葉を呪文のように唱えながら、この伝記を書いた。」



新倉俊一 評伝西脇順三郎 01


帯文:

「おお、ポポイ!
西脇と30年あまり質疑を繰り返してきた著者が、
その作品と実生活とを見据えて丹念に描く
詩人の内面の肖像。」



帯背:

「幻影の人、
西脇順三郎を
旅する」



目次:

まえがき

Ⅰ 信濃川、静かに流れよ
 小千谷紀行
 幼時の追憶
 ナショナル・リーダーズ
 曙町と藤島武二
 父の死
Ⅱ それから三田へ来た
 理財科予科
 アーサー・シモンズと早稲田
 ラテン語の卒業論文
 ペイターと美の宗教
 フローベールのスタイル
Ⅲ ディオニソスは夢みつつ航海する
 北野丸船客
 緑の夜明け――ロンドン
 オックスフォード生活
 マージョリとの結婚
 英文詩集『スペクトラム』
 旅人よ、帰れ――未刊のフランス語詩集
Ⅳ 馥郁タル火夫ヨ
 浮き上がれ、ミューズよ――復刊「三田文学」と「詩と詩論」の頃
 テンゲンジ物語――瀧口修造君へ
 「純粋な鶯」――北園克衛への手紙
 覆された宝石――『アムバルワリア』
 トリトンの噴水学
Ⅴ 幻影の人の淋しき
 萩原・春山論争
 「ゴーガンの村」を求めて
 「幻影の人」の成立
 流謫――鎌倉から小千谷へ
 土星の苦悩
Ⅵ なぜ深沢をさまよわねばならないのか
 豊饒の女神
 『第三の神話』前後
 ノーベル賞候補
 『失われた時』
 イタリア紀行
 詩画集――池田満寿夫たちと
Ⅶ 野原をさまよう神に
 モントリオール世界詩人会議
 イギリスの野原
 撃壌歌または冗歌
 はせをの芸術――加藤楸邨との対談
 鹿門先生
 自然に返る
Ⅷ また追放の人はかえるだろう
 永劫の旅人
 詩人・画家 西脇順三郎――生誕百年
 燈台へ行く道
 世田谷/奥の細道――没後二十年
 北園・瀧口の帰還

主要参考文献
年譜
あとがき



新倉俊一 評伝西脇順三郎 02



◆本書より◆


「ペイターと美の宗教」より:

「こうして就職を断念して、半年近く静岡県の三保に転地療養することになり、その時期の心象風景は、『アムバルワリア』の中に含まれている。」
「西脇順三郎にとって最大のピンチがこのとき訪れていた。しかし、この療養中に耽読したペイターの『ルネッサンス』(一八七三)が、思いがけない精神の救いをもたらした。「この本は私にとって致命的な存在であった。私の人生を支配することになった。そしてこの本は私にとって精神修養の本でもあった。ペイターの思想は哲学と芸術が美しく融合したものであったからである」(「芸術と詩の研究」)。これは大変意義深い述懐であると思う。西脇順三郎はこれ以上この経験の実態にふれず、その後も美学ばかりを論じて、人生論はあまりやらないので、ペイターの思考をここに少し立ち入って説明したい。同書の有名な「結論」の章には、次のように述べられている。

 私たちはみな、ヴィクトル・ユゴーが言っているように、死刑囚なのである。私たちはみな死刑を宣告されていて、ただある種の不確定な執行猶予を与えられているにすぎない。私たちはある期間を与えられているが、やがてこの地上から姿を消してしまう。ある者はこの期間をものぐさに過し、またある者は崇高な情熱に、また少なくとも「この世の子らたち」のうちで最も賢明な人びとは、芸術と歌で過す。というのも、私たちに与えられた唯一の機会は、その期間を引きのばし、できる限り多くの脈動を、その与えられた時間のなかにつぎ込むためにあるからだ。大いなる情熱は、この生き生きとした生の感覚、愛の恍惚と悲哀、無私のものであれ、利己的なものであれ、私たちの多くに自然に訪れる、さまざまの形式の熱烈な活動を私たちに与えることだろう。ただ注意すべきは、この生き生きとした、多様な意識においてその成果をもたらすものは、情熱だということである。詩的情熱、美への欲求、芸術のための芸術を愛好する心によってこそ、そうした英知が最も多く得られる。なぜなら、芸術は、刻々過ぎてゆく瞬間に、またただそれらの瞬間のためだけに、最高の特性のみをあたえることをはっきりと意図しているからである(富士川義之訳)。

これほど明確なメッセージは、他には見出せないだろう。この美の宗教は西脇順三郎にとって、まさに渇望していた指針だった。イギリスでもオスカー・ワイルドをはじめ多くの文学青年を心酔させた文章である。だが、十九世紀のキリスト教道徳のもとでは、社会の善良な精神を惑わすものと非難され、この「結論」は次の版で削除された。このような事情は日本の文学青年には理解を超えていた。むしろ、西脇にはこれまでの功利主義的文学観や宗教思想に煩わされない、真の意味での芸術の自立がここに発見されたのであろう。彼はこの瞬間から、もはや臆することなく芸術家の道を邁進する決意をしたにちがいない。ペイターの説くように、「激しい、宝石のような焰で絶えず燃えていること、この恍惚状態(エクスタシー)を維持すること、これこそが人生における成功ということにほかならない」と。
 三保で半年近く療養してもまだ全快には至らないで、郷里の生家に帰って休養を続けた。そのあいだに第一次大戦が終結した。」



「北野丸船客」より:

「『アムバルワリア』の初版本には図版が数葉挿入されており、その一葉「蛇づかい」に土人がカゴから蛇を出して笛を吹いて踊らせている写真がある。(中略)ちなみに小泉信三の航海日誌にも、よく似た記述がある。「昨日待ってても来なかった蛇使いが、出帆間際に迫ってからやって来た。コブラを使うと聞いていたが蛇はあたり前の蛇らしかった。ただその蛇使いの顔と服装と蛇を踊らす為めに吹く瓢箪(ひょうたん)でこしらえた笛とは如何にも気に入った。蛇の外に手品を使う。それが如何にも手ぎわよく使うので面白い」(『青年小泉信三の日記』)。西脇はほかにも、エジプトのカイロで船を下りてピラミッド見物に出かけた経験を取り扱っている。

  カイロの市で知合になつた
  一名のドクトル・メヂチネと共に
  シカモーの並木をウロウロとして
  昨夜噴水のあまりにやかましきため睡眠不足を
  来たせしを悲しみ合つた
  ピラミッドによりかゝり我等は
  世界中で最も美しき黎明の中にねむり込む
  その間ラクダ使ひは銀貨の音響に興奮する
  なんと柔軟にして滑らかな現実であるよ   (「風のバラ」)

「ドクトル・メヂチネ」とは医学博士のことで、これは日本から同船してきた船客の一人である。彼とホテルに同宿して、翌朝早くラクダに乗ってピラミッドを見に出かけ、馭者たちに代金をぼられた経験を戯画化したものにすぎない。最後にもうひとり、目立たない同船者を紹介しておこう。それは(中略)「皿」の末尾に出てくる人物である。「宝石商人と一緒に地中海を渡つた」という詩行を、萩原朔太郎はこの作品の分析において西脇自身をさすものと受け止めている。詩の読み方としてはそれもなかなか面白いが、西脇の記憶の中では船に乗り込んで客に宝石を売りつける、もっと現実的な商人であった。当時の欧州航路にはそういう人物が少なくなかったらしく、ちなみに前出の小泉信三の旅日記(九月十日の項)にもこんな記述がある。

 甲板へ宝石屋が押しかけて来る。自分は勿論買う気はないのだからただ冷かして見物していた。日本人がやった名刺を出して見せる。「遺憾ながら一割以上割引せず」などと書いてあるのがある。買方が拙劣で一割以上値切る事の出来なかった奴が書いた文句である。熱田丸入れ違いに出港した平野丸に乗込んでいた与謝野晶子の名刺を持ってて見せた。「この人は何をあきなふ恋人の白き涙と紅き涙と」と云う一首が添えてある。

 西脇はギリシャ人の宝石商人に執拗につきまとわれて、地中海をわたり、やっとロンドンで別れた。」



「自然に返る」より:

「『壌歌』から『鹿門』までの東洋回帰の過程で、いつのまにか膨大な漢語ノートが西脇の手許に累積されるようになった。(中略)やがて、漢語とギリシャ語との類似が頭にこびりついて、だれを捕まえてもその説明に熱中しては飽きることを知らなかった。(中略)「触らぬ神に祟り無し」の態度で、みな西脇の姿をみると避けてしまうのが常であった。」
「私の知るかぎりで、西脇の漢語研究に本当の興味を示したのは、井筒俊彦ただひとりだった。あるとき、だいぶ以前に借りていた貴重本を返すように西脇先生から頼まれて、北鎌倉の高台にある言語学者のお宅を訪ねたことがあった。せっかく見えたのだから少し話してらっしゃい、と書斎に招じ入れられた。「西脇先生は最近どんなことをしてらっしゃいますか」と問われるままに上述の比較研究の話をしたところ、「それはいかにも西脇先生らしくて面白い。漢語の起源はまだ誰にもわからないのですから」と、きっぱりした口調で返事が返ってきた。
 井筒俊彦はその十数年後に亡くなってしまったが、そのときの反応はいまでも新鮮で忘れ難い。彼は昭和十年前後に慶應の英文科で西脇に師事している。ちなみに折口信夫の講義にもよく出て、その話を西脇にしたのも彼であった。「西脇先生の詩論の中で私は、言語についての、いかにも詩人的な感受性の繊細さを偲ばせる考察を見出した。それが何ともいえず嬉しかったものだ。コトバというものの底知れぬ深さに私は触れた」と述べている。これが「言語学こそわが行くべき道と思い定めるに至った」動機であった。」




































































































チョーサー 『カンタベリ物語 (下)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)

「「夢というものはあまり軽々しく考えないことだ。たいていの夢はこわいものだ。馬鹿にはできねえ。」」
(チョーサー 「尼院侍僧の話」 より)


チョーサー 
『カンタベリ物語 
(下)』 
西脇順三郎 訳
 
ちくま文庫 ち-2-2 

筑摩書房
1987年5月27日 第1刷発行
435p
文庫判 並装 カバー
定価740円
装幀: 安野光雅
カバー装画: 大矢英雄「春の形態についてⅡ」


「この作品は一九七二年一一月七日、筑摩書房が刊行した「筑摩世界文学大系12」の中に収録された。」



全二冊。
「チョーサー年譜」(繁尾久 編)は二段組です。


チョーサー カンタベリ物語 02


カバー裏文:

「14世紀イギリスの詩人、チョーサーの代表作。けちんぼな亭主にたいする女の悪口。死をもって処女を守る話等々、当時の貴族から農民にいたる各階層の人々の、思想、風俗、人情を巡礼たちの口を通して、活き活きととらえた中世物語文学の傑作を、詩人西脇順三郎の名訳で贈る。」


目次:

郷士の話
医者の話
赦罪状売りの話
船長の話
尼寺の長の話
チョーサーの話
修道院僧の話
尼院侍僧の話
第二の尼の話
僧の従者の話
大学賄人の話
牧師の話

解説 (西脇順三郎)
チョーサー年譜 (繁尾久 編)




◆本書より◆


「郷士の話」より:

「ローマの詩にあるパムフィルスがガラテーという女を恋していることを、かくしていたという話よりも、まだ秘密に、彼は自分の恋を胸中深くかくしていた。彼の胸は、外面からみると、かすり傷一つないが、その心臓の中には、いつもするどい矢がささっていたのである。」

「「きくところによると、王侯の饗宴では、余興としての催しに、奇術師が大広間いっぱいに水をつくり出し、小舟を浮かべて、あちらこちらと、座敷じゅうをのりまわすそうだ。
 またある時は、恐ろしい獅子が出て来たり、牧場のように花が咲き出したり、つるに、紅白のぶどうがなったり、ときには、石灰と石で造った城が出てくる。だが、それをまたすぐに消してしまえる。とにかく、誰の眼にもそう思えるのだ。」」

「夕食前に散歩に出て、この奇術家は、森や、野生の鹿がたくさんいる猟園などを案内して、客に見せた。長い角の生えた牡鹿で珍しく大きいものがいた。と猟犬が現われて百匹もの鹿が殺され、また矢に当たって可哀そうに血を流しているものもあった。
 鹿がいなくなると、こんどは、きれいな川のほとりで、鷹匠が、鷹を使って、あおさぎをとっているところを見せた。
 その次には、騎士が野試合をしているところ。
 そのあとで、奇術家はアウレリュウスの恋人がダンスをしているところを見せた。アウレリュウスも一緒にダンスをしているような気がしたので、非常によろこんだ。
 この奇術家は、そういうまぼろしをアウレリュウスに見せたが、時間が来たので、手をたたいた。そうすると、お名残り惜しや、この楽しいまぼろしがことごとく消えてしまった。
 しかも、この驚くべきまぼろしを見物しているあいだ、彼らは、外へ出かけていたのではなく、奇術家の蔵書を置く書斎に、たった三人きりで静かに坐っていたのであった。
 奇術家は従者を呼んで言った。
 「夕食の用意はできたか。お客様が書斎にはいられてから、もうかれこれ一時間になるが」
 「用意はできております。いつでもおはじめください。ただいまからすぐでもよろしゅうございます」」



「尼院侍僧の話」より:

「「ああ、情けないね、おまえさんは夢なんかにおどかされるなんて。ばかばかしい、夢なんてありゃしないことばかりだ。夢というものは食べすぎた時か胃から毒ガスが発散する時か、また人の体質によって、体の中に体液が溜りすぎる時に見るのだよ。まったく、おまえさんが昨夜見たというその夢は、あまりおまえさんの黄胆汁が多すぎるからだよ。この体液のために、あたしたちは夢のなかでは弓矢とか紅い焰をみたり、大きな獣が出て来て咬みつきそうにするので驚いてみたり、また喧嘩をしてみたり、大小のワン公がたくさん出てきておどかされてみたりするのさ。また黒胆汁のために憂鬱症にかかった人は、夢のなかで黒熊だとか黒牛におどかされたり、また黒い魔物につかまりそうになって、悲鳴をあげる人が大勢あるわよ。他にもいろいろ眠っている人をおどかす体液の話があるんだけれど、そんなことはくどくど言いたくはないわ。カトーンというえらい方も『夢を気にするなかれ』とちゃんと言っているじゃないの」」

「「昔、二人連れの男が信心で巡礼に出かけた。そしてある町へ着いたのだが、人が多いのに宿屋が少なくて二人が一緒に泊まる家は一軒もない。そこで、二人はその晩はどうしても別々に泊まらなければならなくなり、めいめい行き当たりばったりどこでもかまわず宿をとったのだ。一人は遠く離れた屋敷の中の牛舎で百姓牛と一緒に寝た。ところが、われわれすべての者を支配する運命の女神の常で、もう一人はまったく立派な家に泊まった。すると夜明けにまだ間があり、寝床の中で横になっていた時、この男が夢を見た、それは連れが彼のところへやって来て、『ああ、悲しい、おれは今夜牛小屋で殺されるのだ。どうか、兄弟、おれを助けてくれ、急いでおれのところへ来ておくれ』と言っている夢をみた。この男はびっくりして眼が覚めたが、夢だと思って、また寝返りを打ち、なんの気なしにまた眠った。こうして彼はまた眠ると同じ夢を二度見た。そして三度目の夢に彼の連れはまた彼のところへやって来て、こう言っているように思えた。『おれはいま殺された。おれのこの深い大きな血だらけの傷を見てくれ、夜が明けたら早く起きてみてくれ。そうすれば、おまえは町の西門で肥料(こやし)車に会うだろう。その中におれの死体が隠されているのだ。その車を思いきって止めてくれ。ほんとうにおれの持ち金がもとで、おれは殺されてしまったのだ』と、彼はまっさおな、見るも哀れな顔つきで彼の殺された仔細を語ったのだ。
 これは実話なんだ。この連れは夢が正夢であったことがわかった。というのはあくる朝早くに、彼は連れの宿へ急いでいって、牛舎へ着くと、彼は連れの名を呼びつづけた。するとすぐ宿の亭主が出てきて言った。
 『旦那、お連れはもうお発ちですぜ。あの方は夜が明けるとすぐに町を出て行かれましたよ』と答えた。
 この男は自分の見た夢を思い出し、疑わしくなってきたので、早速、西門へかけていってみた。すると、どうだい、死人の言葉どおり、肥料車がちょうど畑に肥料(こやし)をやろうとしているところだったので、彼はむっとして、あたりかまわずこの殺人事件をあばいて仇をとってやろうと思って、叫んだ。
 『おれの連れは今朝殺されて、この車の中で、あおむけにされて口をあけて倒れているのだ、おれはこの町の奉行のところに申し出るぞ。助けてくれ、おれの連れがのびているのだ』
 そういうわけで、それから人が出て来て、車を投げ倒した。するとどうだ、肥料(こやし)の中からいま殺されたばかりの死体が出て来た。」」

「「夢というものはあまり軽々しく考えないことだ。たいていの夢はこわいものだ。馬鹿にはできねえ。」」



「解説」(西脇順三郎)より:

「「チョーサーの話」 著者自らする二つの話である。」
「この話に出ている娘ソフィヤは智恵のことを意味しているが、人間の智恵のことを言っている。そしてその娘が三人の敵に傷つけられたというたとえは、すなわち人間の智恵を亡ぼすものは現世の名利と人間の肉欲と悪魔であるということを意味している。この悪魔という意味は、神に反する者を総称しているので、要するに、神を信じない人間のことをいうのである。
 中世紀文学では女を尊敬する場合の例として、女が男に智恵を教えることである。ボエーチュウスの『哲学の慰安』、ダンテの『神曲』は有名であるが、この話もその点でやはり同様なものである。」





こちらもご参照ください:

チョーサー 『カンタベリ物語 (上)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)












































































チョーサー 『カンタベリ物語 (上)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)

「だが、おかみさん、わしらが旅の慰めとしては、冗談を言うことが必要なのだ。だから、本当は、典拠などというのは説教や神学者に任しておくほうがよいのだ。」
(チョーサー 「托鉢僧の話」 より)


チョーサー 
『カンタベリ物語 
(上)』 
西脇順三郎 訳
 
ちくま文庫 ち-2-1 

筑摩書房
1987年4月23日 第1刷発行
433p
文庫判 並装 カバー
定価740円
装幀: 安野光雅
カバー装画: 大矢英雄「春の形態について」


「この作品は一九七二年一一月七日、筑摩書房が刊行した「筑摩世界文学大系12」の中に収録された。」



本書「訳者付記」より:

「底本としては、(中略)F・N・ロビンスンの全集本を用いた。物語の配列の順序もこれに従っている。(中略)訳出にあたっては口語的な散文訳を試みた。(中略)本翻訳の一部は、故森田草平氏などの手により、わかりやすい日本語に訂正された個所があることを、ここにつけ加えておきたい。」


全二冊。


チョーサー カンタベリ物語 01


カバー裏文:

「時は14世紀末の4月のある日、ロンドンのとある旅館に、カンタベリへ巡礼に行く、種々の身分、職業をもつ29人の者が泊り合わせた。そこで道中の退屈しのぎに各々が順番に物語を始めた――女房を寝とられた大工の滑稽話、欲深い修道僧が屁をもらって分配させられる話……。中世物語文学のあらゆるジャンルが集められた傑作を、詩人西脇順三郎の名訳で贈る。」


目次:

訳者付記

ぷろろぐ
騎士の話
粉屋の話
親分の話
料理人の話
法律家の話
バースの女房の話
托鉢僧の話
刑事の話
学僧の話
貿易商人の話
騎士の従者の話

解説 (西脇順三郎)




◆本書より◆


「ぷろろぐ」より:

「時は四月。
 夕立ちがやわらかにやってきて、三月ひでりの根本(ねもと)までしみとおってしまう。そのおしめりの精気で花が生まれて咲いてくる。
 そよ風もまた、香ばしい息を吹いて、どこの山林地にも荒野にも、柔かい新芽が枝にふいてきた。
 まだ若い太陽も、春分からめぐり出して、白羊宮を半分以上もめぐってきた四月の初旬。
 ナイチンゲールという小鳥は、夜中もおちおち眠らないで、美しい節回しで鳴いている。
 それほどまでに、自然の力というものは、小鳥の心でさえも、やるせなく突くものか。
 こんな季節になると、人々は霊廟(れいびょう)の巡礼にあこがれて、遠い諸国の国々へ旅立つのだ。
 パレスチナの聖地巡礼をする人は、海を越えて、外国へとあこがれる。
 とくにイギリスでは、どの州のはてからも、カンタベリの巡礼を思いたち、病気をいやしてくだされた、聖トマスの参詣に出かけるのだ。
 そんな季節の、ある日のこと私は神妙にも信心ごころをおこして、カンタベリの参詣に出かけることにしたのである。」



「騎士の話」より:

「それは太陽の輝く清らかな朝であった。不幸な捕虜(とりこ)のパムランは、いつものように、獄吏の許可を得て、起き上がると、高い塔の中の、部屋の中を行ったり来たりしていた。部屋の中からは、立派なアテネの都市が見おろされた。またその美しいエメリーが散歩しながらあちこちさまよっていた。あの緑の枝の茂った庭園もすっかり見おろされた。哀れな捕虜のパラムンもまたおのれの不幸を歎きながら、部屋の中をあちこち歩きまわっていた。「ああ! 生まれてさえ来なかったら!」と、時々溜息をついた。」


「法律家の話」より:

「ご承知のように、時は夜となく昼となく流れ去っています。わっしどもが知らずに眠っているときも、油断をすると起きているときでも、時はこっそりと流れ去っています。山から平野へ流れて行く水流と同じように、けっして、帰ることはありません。セネカというローマの哲人をはじめとして、他の多くの哲学者も、千両箱よりは、時の流れを惜しんだものですわい。
 『失われた財産は取り返せるが、失われた時はどうにもならぬ』とセネカは言ってますよ。」

「ところが、不幸にして、天界とよばれるあの広大無辺な書物の中に、彼は恋のために死ぬということが、この世に生まれてきた時すでに、星でもってちゃんと書かれていたのだ。星の中に、すべての人の死がガラスの中よりもっと鮮明に書かれていることは、それを読める人なら、誰でも知っていることである。ヘクター、アキレス、ポムペイ、ジューリアスといったような英雄の死も、彼らが生まれる幾年もまえに、すでに星の中に書かれていた。」



「バースの女房の話」より:

「偉い星学者プトレミ先生は、誰からも尊敬されていらっしゃる。それもそのはずだわ、その『天文学大全』にこんな格言があるわ。
 『人間最高の知恵は、誰が天下の財宝を握ろうが、それを少しも意に介せざることである』」



「托鉢僧の話」より:

「だが、おかみさん、わしらが旅の慰めとしては、冗談を言うことが必要なのだ。だから、本当は、典拠などというのは説教や神学者に任しておくほうがよいのだ。」


「解説」(西脇順三郎)より:

「チョーサーが人間や自然の解説者としてもっていた思想の新しい点は、彼の自然観である。彼の自然(ナチュール)という観念は、宗教的なものでなく近代的であった。生物界には自然の力というものがあって、これは善悪の観念を超越して、自然は自然の法則であって、これはいかんとすることもできないものと認めた。彼の男女の恋愛論も自然論であって、宗教的でも、プラトン的でもない。春になると生殖の関係から、ナイチンゲールという夜の鳥が、夜もねずに鳴いているのはその小鳥の本能を自然が刺戟するからであると考えた。そうした自然論は、主としてフランス十三世紀の名著『薔薇物語』などの説からきている。
 『薔薇物語』には前篇と後篇とがあるが、その著者は別であって、しかも二人の著者の思想はまったく異なっていた。この『薔薇物語』は中世最大の恋愛論であって、寓意譚として書かれた学者の作品である。前篇の著者の恋愛観は封建制度的見地からプラトニック・ラヴを説いたものだが、後篇はこれと反対に、自然主義的で、生物の法則として恋愛をみている。恋愛は生物の法則であって、結局は人間生命のために生殖に終わるものとみた。その物語は二万二千六百八行ほどある長詩であるが、その最後の行に、
  「恋愛の学問のすべて言いつくされている
  この薔薇物語は終わった。
  ヒックとヘックが一緒に結ばれるとき
  自然はほほえむように思われる」
とある。」

「チョーサーは女の世界の作家であった。女の自然を描こうとする。」





こちらもご参照ください:

チョーサー 『カンタベリ物語 (下)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)
斎藤勇 『カンタベリ物語 ― 中世人の滑稽・卑俗・悔悛』 (中公新書)
『The Works of Geoffrey Chaucer, Second Edition』 Edited by F. N. Robinson







































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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