チョーサー 『カンタベリ物語 (下)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)

「「夢というものはあまり軽々しく考えないことだ。たいていの夢はこわいものだ。馬鹿にはできねえ。」」
(チョーサー 「尼院侍僧の話」 より)


チョーサー 
『カンタベリ物語 
(下)』 
西脇順三郎 訳
 
ちくま文庫 ち-2-2 

筑摩書房
1987年5月27日 第1刷発行
435p
文庫判 並装 カバー
定価740円
装幀: 安野光雅
カバー装画: 大矢英雄「春の形態についてⅡ」


「この作品は一九七二年一一月七日、筑摩書房が刊行した「筑摩世界文学大系12」の中に収録された。」



全二冊。
「チョーサー年譜」(繁尾久 編)は二段組です。


チョーサー カンタベリ物語 02


カバー裏文:

「14世紀イギリスの詩人、チョーサーの代表作。けちんぼな亭主にたいする女の悪口。死をもって処女を守る話等々、当時の貴族から農民にいたる各階層の人々の、思想、風俗、人情を巡礼たちの口を通して、活き活きととらえた中世物語文学の傑作を、詩人西脇順三郎の名訳で贈る。」


目次:

郷士の話
医者の話
赦罪状売りの話
船長の話
尼寺の長の話
チョーサーの話
修道院僧の話
尼院侍僧の話
第二の尼の話
僧の従者の話
大学賄人の話
牧師の話

解説 (西脇順三郎)
チョーサー年譜 (繁尾久 編)




◆本書より◆


「郷士の話」より:

「ローマの詩にあるパムフィルスがガラテーという女を恋していることを、かくしていたという話よりも、まだ秘密に、彼は自分の恋を胸中深くかくしていた。彼の胸は、外面からみると、かすり傷一つないが、その心臓の中には、いつもするどい矢がささっていたのである。」

「「きくところによると、王侯の饗宴では、余興としての催しに、奇術師が大広間いっぱいに水をつくり出し、小舟を浮かべて、あちらこちらと、座敷じゅうをのりまわすそうだ。
 またある時は、恐ろしい獅子が出て来たり、牧場のように花が咲き出したり、つるに、紅白のぶどうがなったり、ときには、石灰と石で造った城が出てくる。だが、それをまたすぐに消してしまえる。とにかく、誰の眼にもそう思えるのだ。」」

「夕食前に散歩に出て、この奇術家は、森や、野生の鹿がたくさんいる猟園などを案内して、客に見せた。長い角の生えた牡鹿で珍しく大きいものがいた。と猟犬が現われて百匹もの鹿が殺され、また矢に当たって可哀そうに血を流しているものもあった。
 鹿がいなくなると、こんどは、きれいな川のほとりで、鷹匠が、鷹を使って、あおさぎをとっているところを見せた。
 その次には、騎士が野試合をしているところ。
 そのあとで、奇術家はアウレリュウスの恋人がダンスをしているところを見せた。アウレリュウスも一緒にダンスをしているような気がしたので、非常によろこんだ。
 この奇術家は、そういうまぼろしをアウレリュウスに見せたが、時間が来たので、手をたたいた。そうすると、お名残り惜しや、この楽しいまぼろしがことごとく消えてしまった。
 しかも、この驚くべきまぼろしを見物しているあいだ、彼らは、外へ出かけていたのではなく、奇術家の蔵書を置く書斎に、たった三人きりで静かに坐っていたのであった。
 奇術家は従者を呼んで言った。
 「夕食の用意はできたか。お客様が書斎にはいられてから、もうかれこれ一時間になるが」
 「用意はできております。いつでもおはじめください。ただいまからすぐでもよろしゅうございます」」



「尼院侍僧の話」より:

「「ああ、情けないね、おまえさんは夢なんかにおどかされるなんて。ばかばかしい、夢なんてありゃしないことばかりだ。夢というものは食べすぎた時か胃から毒ガスが発散する時か、また人の体質によって、体の中に体液が溜りすぎる時に見るのだよ。まったく、おまえさんが昨夜見たというその夢は、あまりおまえさんの黄胆汁が多すぎるからだよ。この体液のために、あたしたちは夢のなかでは弓矢とか紅い焰をみたり、大きな獣が出て来て咬みつきそうにするので驚いてみたり、また喧嘩をしてみたり、大小のワン公がたくさん出てきておどかされてみたりするのさ。また黒胆汁のために憂鬱症にかかった人は、夢のなかで黒熊だとか黒牛におどかされたり、また黒い魔物につかまりそうになって、悲鳴をあげる人が大勢あるわよ。他にもいろいろ眠っている人をおどかす体液の話があるんだけれど、そんなことはくどくど言いたくはないわ。カトーンというえらい方も『夢を気にするなかれ』とちゃんと言っているじゃないの」」

「「昔、二人連れの男が信心で巡礼に出かけた。そしてある町へ着いたのだが、人が多いのに宿屋が少なくて二人が一緒に泊まる家は一軒もない。そこで、二人はその晩はどうしても別々に泊まらなければならなくなり、めいめい行き当たりばったりどこでもかまわず宿をとったのだ。一人は遠く離れた屋敷の中の牛舎で百姓牛と一緒に寝た。ところが、われわれすべての者を支配する運命の女神の常で、もう一人はまったく立派な家に泊まった。すると夜明けにまだ間があり、寝床の中で横になっていた時、この男が夢を見た、それは連れが彼のところへやって来て、『ああ、悲しい、おれは今夜牛小屋で殺されるのだ。どうか、兄弟、おれを助けてくれ、急いでおれのところへ来ておくれ』と言っている夢をみた。この男はびっくりして眼が覚めたが、夢だと思って、また寝返りを打ち、なんの気なしにまた眠った。こうして彼はまた眠ると同じ夢を二度見た。そして三度目の夢に彼の連れはまた彼のところへやって来て、こう言っているように思えた。『おれはいま殺された。おれのこの深い大きな血だらけの傷を見てくれ、夜が明けたら早く起きてみてくれ。そうすれば、おまえは町の西門で肥料(こやし)車に会うだろう。その中におれの死体が隠されているのだ。その車を思いきって止めてくれ。ほんとうにおれの持ち金がもとで、おれは殺されてしまったのだ』と、彼はまっさおな、見るも哀れな顔つきで彼の殺された仔細を語ったのだ。
 これは実話なんだ。この連れは夢が正夢であったことがわかった。というのはあくる朝早くに、彼は連れの宿へ急いでいって、牛舎へ着くと、彼は連れの名を呼びつづけた。するとすぐ宿の亭主が出てきて言った。
 『旦那、お連れはもうお発ちですぜ。あの方は夜が明けるとすぐに町を出て行かれましたよ』と答えた。
 この男は自分の見た夢を思い出し、疑わしくなってきたので、早速、西門へかけていってみた。すると、どうだい、死人の言葉どおり、肥料車がちょうど畑に肥料(こやし)をやろうとしているところだったので、彼はむっとして、あたりかまわずこの殺人事件をあばいて仇をとってやろうと思って、叫んだ。
 『おれの連れは今朝殺されて、この車の中で、あおむけにされて口をあけて倒れているのだ、おれはこの町の奉行のところに申し出るぞ。助けてくれ、おれの連れがのびているのだ』
 そういうわけで、それから人が出て来て、車を投げ倒した。するとどうだ、肥料(こやし)の中からいま殺されたばかりの死体が出て来た。」」

「「夢というものはあまり軽々しく考えないことだ。たいていの夢はこわいものだ。馬鹿にはできねえ。」」



「解説」(西脇順三郎)より:

「「チョーサーの話」 著者自らする二つの話である。」
「この話に出ている娘ソフィヤは智恵のことを意味しているが、人間の智恵のことを言っている。そしてその娘が三人の敵に傷つけられたというたとえは、すなわち人間の智恵を亡ぼすものは現世の名利と人間の肉欲と悪魔であるということを意味している。この悪魔という意味は、神に反する者を総称しているので、要するに、神を信じない人間のことをいうのである。
 中世紀文学では女を尊敬する場合の例として、女が男に智恵を教えることである。ボエーチュウスの『哲学の慰安』、ダンテの『神曲』は有名であるが、この話もその点でやはり同様なものである。」





こちらもご参照ください:

チョーサー 『カンタベリ物語 (上)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)












































































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チョーサー 『カンタベリ物語 (上)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)

「だが、おかみさん、わしらが旅の慰めとしては、冗談を言うことが必要なのだ。だから、本当は、典拠などというのは説教や神学者に任しておくほうがよいのだ。」
(チョーサー 「托鉢僧の話」 より)


チョーサー 
『カンタベリ物語 
(上)』 
西脇順三郎 訳
 
ちくま文庫 ち-2-1 

筑摩書房
1987年4月23日 第1刷発行
433p
文庫判 並装 カバー
定価740円
装幀: 安野光雅
カバー装画: 大矢英雄「春の形態について」


「この作品は一九七二年一一月七日、筑摩書房が刊行した「筑摩世界文学大系12」の中に収録された。」



本書「訳者付記」より:

「底本としては、(中略)F・N・ロビンスンの全集本を用いた。物語の配列の順序もこれに従っている。(中略)訳出にあたっては口語的な散文訳を試みた。(中略)本翻訳の一部は、故森田草平氏などの手により、わかりやすい日本語に訂正された個所があることを、ここにつけ加えておきたい。」


全二冊。


チョーサー カンタベリ物語 01


カバー裏文:

「時は14世紀末の4月のある日、ロンドンのとある旅館に、カンタベリへ巡礼に行く、種々の身分、職業をもつ29人の者が泊り合わせた。そこで道中の退屈しのぎに各々が順番に物語を始めた――女房を寝とられた大工の滑稽話、欲深い修道僧が屁をもらって分配させられる話……。中世物語文学のあらゆるジャンルが集められた傑作を、詩人西脇順三郎の名訳で贈る。」


目次:

訳者付記

ぷろろぐ
騎士の話
粉屋の話
親分の話
料理人の話
法律家の話
バースの女房の話
托鉢僧の話
刑事の話
学僧の話
貿易商人の話
騎士の従者の話

解説 (西脇順三郎)




◆本書より◆


「ぷろろぐ」より:

「時は四月。
 夕立ちがやわらかにやってきて、三月ひでりの根本(ねもと)までしみとおってしまう。そのおしめりの精気で花が生まれて咲いてくる。
 そよ風もまた、香ばしい息を吹いて、どこの山林地にも荒野にも、柔かい新芽が枝にふいてきた。
 まだ若い太陽も、春分からめぐり出して、白羊宮を半分以上もめぐってきた四月の初旬。
 ナイチンゲールという小鳥は、夜中もおちおち眠らないで、美しい節回しで鳴いている。
 それほどまでに、自然の力というものは、小鳥の心でさえも、やるせなく突くものか。
 こんな季節になると、人々は霊廟(れいびょう)の巡礼にあこがれて、遠い諸国の国々へ旅立つのだ。
 パレスチナの聖地巡礼をする人は、海を越えて、外国へとあこがれる。
 とくにイギリスでは、どの州のはてからも、カンタベリの巡礼を思いたち、病気をいやしてくだされた、聖トマスの参詣に出かけるのだ。
 そんな季節の、ある日のこと私は神妙にも信心ごころをおこして、カンタベリの参詣に出かけることにしたのである。」



「騎士の話」より:

「それは太陽の輝く清らかな朝であった。不幸な捕虜(とりこ)のパムランは、いつものように、獄吏の許可を得て、起き上がると、高い塔の中の、部屋の中を行ったり来たりしていた。部屋の中からは、立派なアテネの都市が見おろされた。またその美しいエメリーが散歩しながらあちこちさまよっていた。あの緑の枝の茂った庭園もすっかり見おろされた。哀れな捕虜のパラムンもまたおのれの不幸を歎きながら、部屋の中をあちこち歩きまわっていた。「ああ! 生まれてさえ来なかったら!」と、時々溜息をついた。」


「法律家の話」より:

「ご承知のように、時は夜となく昼となく流れ去っています。わっしどもが知らずに眠っているときも、油断をすると起きているときでも、時はこっそりと流れ去っています。山から平野へ流れて行く水流と同じように、けっして、帰ることはありません。セネカというローマの哲人をはじめとして、他の多くの哲学者も、千両箱よりは、時の流れを惜しんだものですわい。
 『失われた財産は取り返せるが、失われた時はどうにもならぬ』とセネカは言ってますよ。」

「ところが、不幸にして、天界とよばれるあの広大無辺な書物の中に、彼は恋のために死ぬということが、この世に生まれてきた時すでに、星でもってちゃんと書かれていたのだ。星の中に、すべての人の死がガラスの中よりもっと鮮明に書かれていることは、それを読める人なら、誰でも知っていることである。ヘクター、アキレス、ポムペイ、ジューリアスといったような英雄の死も、彼らが生まれる幾年もまえに、すでに星の中に書かれていた。」



「バースの女房の話」より:

「偉い星学者プトレミ先生は、誰からも尊敬されていらっしゃる。それもそのはずだわ、その『天文学大全』にこんな格言があるわ。
 『人間最高の知恵は、誰が天下の財宝を握ろうが、それを少しも意に介せざることである』」



「托鉢僧の話」より:

「だが、おかみさん、わしらが旅の慰めとしては、冗談を言うことが必要なのだ。だから、本当は、典拠などというのは説教や神学者に任しておくほうがよいのだ。」


「解説」(西脇順三郎)より:

「チョーサーが人間や自然の解説者としてもっていた思想の新しい点は、彼の自然観である。彼の自然(ナチュール)という観念は、宗教的なものでなく近代的であった。生物界には自然の力というものがあって、これは善悪の観念を超越して、自然は自然の法則であって、これはいかんとすることもできないものと認めた。彼の男女の恋愛論も自然論であって、宗教的でも、プラトン的でもない。春になると生殖の関係から、ナイチンゲールという夜の鳥が、夜もねずに鳴いているのはその小鳥の本能を自然が刺戟するからであると考えた。そうした自然論は、主としてフランス十三世紀の名著『薔薇物語』などの説からきている。
 『薔薇物語』には前篇と後篇とがあるが、その著者は別であって、しかも二人の著者の思想はまったく異なっていた。この『薔薇物語』は中世最大の恋愛論であって、寓意譚として書かれた学者の作品である。前篇の著者の恋愛観は封建制度的見地からプラトニック・ラヴを説いたものだが、後篇はこれと反対に、自然主義的で、生物の法則として恋愛をみている。恋愛は生物の法則であって、結局は人間生命のために生殖に終わるものとみた。その物語は二万二千六百八行ほどある長詩であるが、その最後の行に、
  「恋愛の学問のすべて言いつくされている
  この薔薇物語は終わった。
  ヒックとヘックが一緒に結ばれるとき
  自然はほほえむように思われる」
とある。」

「チョーサーは女の世界の作家であった。女の自然を描こうとする。」





こちらもご参照ください:

チョーサー 『カンタベリ物語 (下)』 西脇順三郎 訳 (ちくま文庫)
斎藤勇 『カンタベリ物語 ― 中世人の滑稽・卑俗・悔悛』 (中公新書)
『The Works of Geoffrey Chaucer, Second Edition』 Edited by F. N. Robinson







































































新倉俊一 『増補新版 西脇順三郎 変容の伝統』

「英詩 'January in Kyoto' をめぐっては、エズラ・パウンドと岩崎良三氏のあいだに興味ぶかい数通の手紙のやりとりがある。
 一九五六年のクリスマスに岩崎訳『パウンド詩集』と一緒に、(中略)この英詩を受けとったパウンドは、感動して即座に「このような立派な詩人が存在することを知るのは、心温まることです」と岩崎氏のところへ書き送ってきた。」

(新倉俊一 『西脇順三郎 変容の伝統』 より)


新倉俊一 
『増補新版 
西脇順三郎 
変容の伝統』


東峰書房
1994年1月15日 増補新版発行
328p+2p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,700円(本体2,621円)
カバー表: 西脇順三郎画「ヤヌス」
カバー裏: エクゼキアスのキュリックス



本書「はじめに」より:

「この本の第一部は、(中略)昭和五十一年六月から五十二年の三月まで十回にわたって「英語青年」誌上に発表したものを骨子としてまとめたものである。」
「第二部は西脇順三郎の詩業全体にわたって、伝統とその変容という観点から論じたものである。」
「数年にわたって水曜日ごとに私の質問に辛抱づよく答えて下さった詩人に感謝したい。」



本書「増補新版の刊行に当たって」より:

「再刊に際して、(中略)「西脇詩の現在――記号と象徴の詩学」を巻末に加えた。」


旧版は1979年、花曜社より刊行されています。
本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで738円(+送料257円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


新倉俊一 西脇順三郎 変容の伝統


帯文:

「いわば本書は西脇詩の「解体新書」とでも呼ばれるべき本であろう。第一部は西脇順三郎の詩句に徹底的に密着しつつ、詩人の生いたちから英文詩集『スペクトラム』を経て『旅人かへらず』へ至る西脇順三郎の詩の旅程を一枚の新しい地図を描くようにたどってみせる。(裏へ)」


帯裏:

「そして第二部は『アンバルワリア』から『鹿門』にいたる各詩集について、新倉俊一氏は一貫して、西脇順三郎の詩の最大の特色である「パロディ」にしぼって腑分けしてみせてくれる。見事な解明は、練達の料理人の庖丁さばきをみているようだ。
――鶴岡善久氏評――」



目次:

増補新版の刊行に当たって
はじめに――ジョン・コリア訪問記

Ⅰ 初期詩篇の成立
 「アムバルワリア」以前
  プレリュード――詩人の生い立ち
  「ケンジントン牧歌」――ロンドン酒場のミューズ
  『スペクトラム』――オックスフォード生活
  『センチメンタルな時計』――未刊の仏語詩集
  『ポエムズ・バーバラス』――ギリシア的抒情詩の萌芽
 「アムバルワリア」以後
  変形譚――津田塾時代
  『旅人かへらず』草稿――幻影の人を求めて
  「京都の一月」――「しゅんらん」との比較

Ⅱ 変容の伝統
 『アムバルワリア』――パウンド流に
 『トリトンの噴水』――サチュラの文学
 『旅人かへらず』――ニイチェへの反歌
 『近代の寓話』の前後――エリオットのパロディ
 『失われた時』――プルーストとジョイス
 『壌歌』――ジョイスとシェイクスピア
 『鹿門』その他――芭蕉の精神
 わが妖術の建築家――ボードレールと西脇
 絵画の世界――メモリとヴィジョン
 西脇詩の現在――記号と象徴の詩学

西脇順三郎詩書一覧




◆本書より◆


「プレリュード」より:

「西脇家の本家というのは、二千坪に近い敷地をもっていて、大きな塀により四方を囲まれており、世間から隔絶したひとつの世界をなしている。西脇順三郎の生家の方は、そのすぐ近くの「茶郷川」という小川のほとりにあった。今では取りこわされてしまって跡かたもないが、(中略)「雑草と記憶」というエッセイのなかで、詩人はこの生家についてこう語っている。「小学校時代まではあまり近所の子供と遊ばないで殆んど毎日自分の家の屋敷の中で暮した子供にとっては、一つの大きな世界で、一日中その中で遊んでもたいくつはしなかった。」また今ひとつ「故園の情」というエッセイのなかで言っていることを聞いてみよう。「私は小学校にはいるまで町の子供とあまりあそばないで、このやしきの中で冒険をした。その小川でオーバコの葉で蛙をつったり、小学校の時ははりでフナをつることに興味をもった。……人間が花を好む習性は土人時代の遺物であり、少女が摘み草を好むのは采女(うねめ)の伝統であろうか。私には姉が二人いたので、草花でままごとをやった。茄子を切って手から血を出したことをおぼえている。またこの二人の少女とホーズキをしゃぶって遊んだ。あの甘ずっぱい味はクコの実ににていた。いまのわたしの花への思い出は悪の華である。」もし私がプルーストのようなすぐれた作家なら、このホーズキの味のなかに西脇順三郎の生涯の憂うつの源泉を、一辺に開示することもできるだろう。だがそのような文学的誇張をやめて、ただこの詩人の幼時の環境が全く社会から隔絶した〈囲まれた庭〉の中であったことを指摘するにとどめたい。プルーストは周知のように幼いときから喘息やみで、その病的体質のために外面の世界を拒否して内面の世界に住みつづけた。いささかそれと似たようなことが、この姉たちとの楽園に感じられる。やがて小学校にいくようになってからも、町の悪童たちにいじめられるので、このひ弱な少年は学校恐怖症になり、ますます外部との孤立を深めていった。」

















































































『回想の西脇順三郎』 (三田文学ライブラリー)

「順三郎は一生我儘で通した人でした。通す力を持っていた人でした。」
「順三郎は一生孤独でした。生涯誰一人にも心を開かなかったと同時に、誰からも覗き込まれなかったことでしょう。順三郎のあの神秘な薄笑いの奥に潜む寂しさは深い根を持っていました。」

(西脇孝三郎 「回想の西脇順三郎」 より)


『回想の西脇順三郎』 
編集: 安東伸介・鍵谷幸信・山本晶

慶應義塾三田文学ライブラリー
昭和59年3月10日 発行
547p 口絵(モノクロ)2p
四六判 並装(フランス表紙) 
貼函
非売品



本文二段組(草野心平による「弔詩」と「あとがき」は一段組)。本文中図版3点(葉書1点、デッサン2点)。
本書はもっていなかったのでヤフオクで税込1,971円+送料700円で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


回想の西脇順三郎 01


回想の西脇順三郎 02


目次 (初出):

草野心平 弔詩―西脇順三郎に捧ぐ― (「三田評論」 昭和57年10月号)


阿部良雄 オックスフォードにて (「英語青年」 昭和57年10月号)
相崎貴子 叔父西脇順三郎を想う (「無限」 特集 花 西脇順三郎 昭和53年)
会田綱雄 お通夜には参りません―西脇順三郎先生に― (「ユリイカ」 昭和57年7月号)
天沢退二郎 西脇順三郎の死にふれて (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
鮎川信夫 師 (「ユリイカ」 昭和57年7月号)
荒木徹郎 追想
荒木良治 西脇先生の思い出
粟津則雄 西脇さんについて (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
安西均 俳諧の人
安東伸介 バベルの幻影 (「英語青年」 昭和57年10月号/「言語文化」 昭和58年創刊号)
井筒俊彦 西脇先生と言語学と私 (『西脇順三郎全集別巻』月報 昭和58年7月)
井上輝夫 存在と諧謔のポエジについて―西脇順三郎序章― (「三田評論」 昭和55年8・9月号)
伊藤勲 素朴―昭和四十八年―
飯田善國 病院の西脇先生 (「現代詩手帖」 昭和57年8月号)
池上忠弘 西脇先生と英文学
池田恒雄 西脇順三郎先生のこと
池田満寿夫 おゝ、ポポイ! (「海」 昭和57年8月号)
石寒太 田園に帰る旅人―西脇順三郎の死― (「寒雷」 昭和57年9月号)
石橋裕 先生のこと
磯部洋一郎 終った一つの時代
市浦英子・小林百合 唯一の想い出 (「英語青年」 昭和57年10月号)
入澤康夫 天地不仁―西脇順三郎の「淋しさ」― (「海燕」 昭和57年8月号)
岩崎春雄 不思議の人 (「英語青年」 昭和57年10月号)
上田和夫 訳詩の宿題
海上雅臣 その美術観の一端を
海野厚志 游戯の人 (「三田評論」 昭和57年10月号)
江森國友 神田神保町の西脇さん (「図書新聞」 昭和57年6月26日号)
小川和夫 淋しい詩人
小野田耕三郎 西脇順三郎の古代回帰 (「言語文化」 昭和58年創刊号)
御輿員三 不羈の人 (「英語青年」 昭和57年10月号)
大岡信 弔詞 (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
大久保房男 戸惑い
大橋吉之輔 思い出すこと (「英語青年」 昭和57年10月号)
大柳英二 出会い
岡井隆 『旅人かへらず』の青春性 (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
岡田隆彦 西脇順三郎と絵画 (『西脇順三郎全集別巻』 昭和58年7月)
加賀谷一良 回想
加藤郁乎 朴散華―巻き舌の奇想も江戸好みの風流― (「図書新聞」 昭和57年6月19日号)
加納秀夫 作品「えてるにたす」について
海保眞夫 西脇先生の思い出
鍵谷幸信 西脇先生を悼む (「東京新聞」 昭和57年6月9日号)
掛貝芳男 西脇順三郎先生最終講義 (短歌二首 歌集『雲の峰』 昭和42年)
上村達雄 「小千谷」のこと
川口昌男 ぼくの西脇順三郎コンティニュイティ
菅野昭正 トスカナの夏 (「すばる」 昭和57年8月号)
木下常太郎 審美院幻影求道大師よ!
北村太郎 J・Nの死んだ日 (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
北村太郎 晩年まで緩まなかった詩人 (「毎日新聞」 昭和57年6月7日号)
楠本憲吉 回想の西脇先生
窪田般彌 西脇さんの思い出 (「ユリイカ」 昭和57年7月号)
厨川圭子 アイヌ人の髭 (「英語青年」 昭和57年10月号)
黒沢茂 西脇先生
桑原三郎 童心への回帰 (「三田評論」 昭和57年10月号)
小池銈 西脇先生を偲ぶ断章 (「英語青年」 昭和57年10月号)
小長谷彌高 影向寺の西脇先生
近藤いね子 思い出すこと
近藤晋二 西脇先生と順一君
佐久間直子 お蕎麦と先生
佐藤朔 西脇スコラ再入学 (「三田評論」 昭和57年10月号)
佐藤朔 西脇順三郎とフランス文学 (「英語青年」 昭和57年10月号)
佐藤順一 わが横町の“順さま”
斎藤公一 一通の手紙―「カプリの牧人」について (慶應義塾「普通部会誌」)
坂本幸児 西脇先生の思い出 (「英語青年」 昭和57年10月号)
笹山隆 学匠詩人との対話 (「英語青年」 昭和57年10月号)
薩摩忠 ピヒョークサイ!
志道保夫 別世界の人
清水康弘 来て見れば/海潮をきく/沖田原
繁尾久 教壇の西脇先生 (「言語文化」 昭和58年創刊号)
篠田一士 「幻影の人」 (「朝日新聞」 昭和57年6月7日号)
柴崎武夫 日本女子大学の西脇先生 (「英語青年」 昭和57年10月号)
渋沢孝輔 西脇順三郎氏を悼む (「ちくま」 昭和57年7月号)
島田謹二 初見の西脇順三郎氏 (「英語青年」 昭和57年10月号)
寿岳文章 天成の芸術家 (「英語青年」 昭和57年10月号)
白井浩司 西脇先生の思い出 (「読書人」 昭和57年6月28日号)
白井浩司 無地のネクタイ (「三田評論」 昭和55年8・9月号)
諏訪優 ふたりは電車に乗っていた
菅沼貞三 西脇順三郎の絵画 (「三田評論」 昭和57年2月号)
鈴木孝夫 のびた蕎麦 (「英語青年」 昭和57年10月号)
瀬下良夫 若き二十のころなれや
関源司 詩人西脇順三郎と小千谷
関口篤 盛唐三家を西脇さんと論ず
関口研日麿 変な来訪者
田村隆一 ワインレッドの夏至 (詩 「ユリイカ」 昭和57年7月号)
田村隆一 人類の夏至 (「新潟日報」 昭和57年6月10日号)
多田智満子 物悲しいスフィンクス
高橋康也 永遠の初対面 (「英語青年」 昭和57年10月号)
高宮利行 ビアズリー
瀧口修造 西脇さんと私 (「FRONTIER・別冊1 西脇順三郎特集号 昭和31年6月)
都留久夫 カプリの牧人
辻井喬 旅人かえらず (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
土橋俊一 脈絡のない挿話
鶴岡善久 「あなたは誰ですか?」 (「読書新聞」 昭和57年6月21日号)
鶴岡善久 西脇順三郎のチンプ (「暦象」99集)
寺尾誠 門下生に成り損ねて一言
外山滋比古 ワン・サット・アプリルレ…… (「英語青年」 昭和57年10月号)
富岡多恵子 詩人の死 (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
那珂太郎 旅人かへらず (「ユリイカ」 昭和57年7月号)
中桐雅夫 思い出 (「ユリイカ」 昭和57年7月号)
中野嘉一 西脇先生と私と「暦象」 (「暦象」99号)
永田耕衣 冗談の闌位
成田成寿 思い出西脇順三郎先生 (「英語青年」 昭和57年10月号)
二宮孝顕 西脇先生の思い出
新倉俊一 晩年の西脇先生と詩人としての遺産 
 知性の人聖性の詩 (「読売新聞」 昭和57年6月7日号)
 日本モダニズムの栄光 (「新潟日報」 昭和57年6月8日号)
 別れの歌 (「ユリイカ」 昭和57年7月号)
新倉俊一 白金余録 (「言語文化」 昭和58年2月号)
西川正身 西脇さんを偲ぶ (「英語青年」 昭和57年10月号)
西村孝次 ひとときの対話
西脇孝三郎 回想の西脇順三郎
西脇緑 小千谷への旅 (「英語青年」 昭和57年10月号)
野坂参三 遠くて近き友 (「三田評論」 昭和57年10月号)
野島秀勝 幻影の人 (「英語青年」 昭和57年10月号)
野田宇太郎 野道に消えた詩人
野村光一 英語と詩と音楽と (「三田評論」 昭和57年10月号)
羽賀善藏 西脇先生酒席話
橋元四郎平 遠くて近かった大詩人
橋本靖雄 高峰遠望
檜谷昭彦 先生は〈文学〉を語らなかった……
富士川義之 ディラン・トマスから西脇順三郎へ
深田甫 木造校舎のなかの詩人
福田陸太郎 信濃川静かに流れよ (「日本女子大学図書館だより」53号)
藤井昇 西脇先生を想う
藤井治彦 三枚の葉書
藤富保男 夏を歩く
本庄桂輔 美しい笑顔 (「英語青年」 昭和57年10月号)
松原秀一 先生の叱言
松本正夫 画展での自画像 (「三田評論」 昭和57年10月号)
三浦孝之助 話から知ったことなど (「FRONTIER・別冊1 西脇順三郎特集号 昭和31年6月)
三神勲 思い出 (「言語文化」 昭和58年創刊号)
三雲夏生 晩年の西脇先生
三沢進 想い出あれこれ
宮下啓三 西脇順三郎氏の酒席談話 (「北葉」 昭和57年第31号)
村松暎 拳拳服膺
村松英子 「教授の放心」
目崎徳衛 詩人と故郷
森武之助 Lampas and Amaryllis (「三田評論」 昭和57年10月号)
師岡愛子 西脇順三郎先生と日本女子大学 (「英米文学研究」)
八代修次 西脇先生と美術
安岡章太郎 西脇先生のカンシャク (「英語青年」 昭和57年10月号)
山田隆一 追憶 (「英語青年」 昭和57年10月号/「三田評論」 昭和57年10月号)
山本清 西脇順三郎先生終焉の記 (「小千谷文化」91・92号)
山本健吉 初代西脇教室 (「三田評論」 昭和57年10月号)
山本晶 西脇先生の側面 (「英語青年」 昭和57年10月号)
山本太郎 「永遠」と「淋しさ」と (「週刊読書人」 昭和57年6月28日号)
由良君美 学匠 西脇先生 (「三田評論」 昭和57年8・9月号)
横部得三郎 順様のこと (「無限」 特集 花 西脇順三郎 昭和53年)
横山潤 一冊の詩集
吉岡実 西脇順三郎アラベスク (「新潮」 昭和57年8月号)
吉田精一 西脇先生の追想 (「英語青年」 昭和57年10月号)
吉増剛造 悲哀 (「英語青年」 昭和57年10月号)
和田旦 幻影の人 (「三田評論」 昭和57年10月号)
若林真 西脇先生を偲ぶ


西脇順三郎・安東伸介
 対談 初夏の一夕 (「三田評論」 昭和55年8・9月号)
吉岡実・大岡信・那珂太郎・入澤康夫・鍵谷幸信
 座談会 比類ない詩的存在 (「現代詩手帖」 昭和57年7月号)
木下常太郎・由良君美・鍵谷幸信・岡田隆彦・安東伸介
 座談会 西脇順三郎の世界 (「三田評論」 昭和57年10月号)


報道記事
 現代詩に未到の境地開き…… (「朝日新聞」 昭和57年6月5日号 夕刊)
 現代詩、英文学、絵筆……多彩な活躍 (「毎日新聞」 昭和57年6月12日号 夕刊)
 燃えつきた現代詩の巨星 (同)
 現代詩の巨峰、言葉の旅人 (「読売新聞」 昭和57年6月5日号 夕刊)
 朔太郎以来の最大の詩人を失う (「週刊読売」 昭和57年6月20日号)
 PROFESSOR J. NISHIWAKI (「The Times」 June 19, 1982)
 詩人プロフェッサー (「サンケイ新聞」 昭和57年6月5日号)
 日本現代詩の“巨星” (「京都新聞」 昭和57年6月5日号)
鍵谷幸信 小伝 (「英語青年」 昭和57年10月号))

あとがき (安東伸介)



回想の西脇順三郎 03


◆本書より◆


「叔父西脇順三郎を想う」(相崎貴子)より:

「五十年五月、冴子叔母(妻)に先立たれた叔父を妹の里子と慰めると、「私は孤独に慣れてるよ、ものを究める者は皆孤独だ」と、毅然として答えた。」


「西脇先生と言語学と私」(井筒俊彦)より:

「今でこそ羊のようにおとなしくなってしまった私だが、思えば、あの頃は実に生意気な学生だった。(中略)とにかく他人にたいして批判的、特に先生たちにたいしてはそれが、極端で、はっきり言ってしまえば、たいての先生を軽蔑していた。」
「しかしそんななかで、西脇先生だけは私が心から先生と呼びたくなる、呼ばずにはいられない、本当の先生(引用者注: 「先生」に傍点)だった。西脇教授の教室には、溌溂たる新鮮さがみなぎっていた。それからもう一人、国文学の折口信夫。」
「西脇先生の詩論のなかで私は、言語についての、いかにも詩人的な感受性の繊細さを偲ばせる考察を見出した。それが何ともいえず嬉しかったものだ。コトバというものの底知れぬ深さに私は触れた。コトバにたいする強烈な立体的関心が、そんな経験を通じて、私の内部でひそかに育まれていった。」
「言語学こそ、わが行くべき道、と思い定めるに至ったのは、大学の文学部の教室で西脇教授の講義をじかに聴くようになってからのことだ。先生の言語学講義の純理論的部分は、大体においてソスュールを中心軸としていた。(中略)詩人西脇順三郎の心を濾過したソスュールの思想には、当のソスュールに見られない華麗な感性の迫力があった。
 ポーランの『言語の二重機能』も、先生はかなり気に入っておられたようだった。言語の二重機能、つまり事物、事象を、コトバが概念化して、それによって存在世界を一つの普遍妥当的な思考の場(フィールド)に転成させる知性的機能と、もうひとつ、語の意味が心中に様々なイマージュを喚び起す、心象喚起の感性的機能との鋭角的対立を説く。(中略)詩人、西脇順三郎は、コトバのこの心象喚起機能の理論に、シュルレアリストとしてのご自分の内的幻想風景の根拠付けの可能性を見ておられるようだった。」
「其後、(中略)私はイスラーム学の道に入り、さらにはイスラームをも含めて東洋哲学一般の共時的構造化というような主題を追うようになって現在に至る。思えば、ずいぶん出発点から離れ、西脇先生の世界から遠ざかってしまったものだ。だが、コトバにたいする関心だけは、終始守り続けてきた。コトバにたいする、やむにやまれぬこの主体的関心の烈しさを通じて、結局、私は今でも西脇先生の門下生の一人なのだ、と思う。他人(はた)が私をどう見るかは知らない。自分では、そうだと思っている。」



「西脇先生と英文学」(池上忠弘)より:

「文学と語学を両方やらなければいけないとつねづね言われ、(中略)「一行でも大切なことが書いてあればその本を買いなさい」とよく言われた。先生には「詩の全体より一行でも一語でも面白いところだけを独立させ」て鑑賞する面があった。」


「不思議の人」(岩崎春雄)より:

「西脇先生といえば、その話は私の理解力を超えていた。憶えているのは、「遠いものの連結」とか「そばは淋しさを食べるものです」ぐらいである。」


「戸惑い」(大久保房男)より:

「昭和二十七年の二月号の「群像」に、先生に「冬の日」という詩をいただいたのだが、翌朝、西脇さんという方が御面会です、と受付から電話があり、何事かと思って応接室に行くと、先生は、昨日渡した詩に訂正したいところがあるので原稿を見せてほしい、と言われた。印刷所に送るばかりになっていたのを取り寄せると、先生はただ一ヶ所だけ言葉を変えて、すぐ帰って行かれた。」


「西脇先生」(黒沢茂)より:

「「粘土をこねるでしょう」と先生は土をこねる手つきをされる。「形が気に入らないとつぶしてまたこねる。繰り返しているとそのうち面白い形のものができる。ぼくの詩はこれと同じです。」」

「ある夜勤め先の数人の同僚に連れられて新宿の飲み屋に行き、そこで先生にお会いした。(中略)大きな声で連れの人と言語学か何かの話をされていた先生は、やがてふらふらとこちらの席に来ると私をつかまえ、「きみはぼくの知っているあの人ですね」と言われた。」



「日本女子大学の西脇先生」(柴崎武夫)より:

「「詩人は無慾恬淡な人間と思われるようだがそれは誤りだ。人間のあらゆる慾望や情念が強く燃えて渦を巻いている。それを抑制するところにこそ詩が生れるのだ」とも言われた。」


「のびた蕎麦」(鈴木孝夫)より:

「しかし学問や芸術を離れた日常の人間関係では、先生はひどく気の弱い所があった。ある日、研究室で先生のために注文したソバが、すっかりのびてしまったことがある。ひたすら恐縮する女事務員に、先生は「僕はソバはのびたヤツが好きなんだ」と言われ、いかにもうまそうに食べられた。これ以後、先生はいたる所で、のびたソバの歓迎に会われることになった。
 ふとした機会に、私が「先生は本当にのびたソバがお好きですか」と伺うと、「いやあれは本当に不味いね」と、テレ臭そうに言われた。」



「回想の西脇順三郎」(西脇孝三郎)より:

「小千谷の人々の温かい心に包まれて、よし、医学的には脳軟化症であろうとも、まさに子供に還った姿でありました。入院して間もなくの頃のことです。付添婦さんとテレビのある休憩室に行きました。そこでは五、六人の患者さん達がテレビを見ていました。順三郎が開口一番「私は西脇順三郎であります」と言いますと、その人達はキョトンとして何の反応も示さなかったので、一言「ああ、これはだめだ」を残して、さっさと付添婦さんを連れて自分の病室に戻ったとのことでした。」

「順三郎は一生我儘で通した人でした。通す力を持っていた人でした。感情家でした。その感情を表に現わすまいと努力に努力を重ねて、理性の衣で粧って生きて来ました。それが、時によるといかにも冷たい人に見えた原因であったかと思われます。
 順三郎は一生孤独でした。生涯誰一人にも心を開かなかったと同時に、誰からも覗き込まれなかったことでしょう。順三郎のあの神秘な薄笑いの奥に潜む寂しさは深い根を持っていました。」



「話から知ったことなど」(三浦孝之助)より:

「奥様の話『どんな苦心した料理でもおいしそうな顔をしたことは殆どない。又おいしいと言うことも殆んどない。大抵途中で箸をつけない。けれどもまずいと言って怒ることもない。食物には全く無関心らしい。』」
「雑草を手にした姿をよく見かける。人を訪問した折などにも。散歩の時の歩調は異常に速い。珍しい雑草のあるところで歩調と時間とを忘れる。じめじめした険しい崖を木の枝や草の根をつかんでよじ登るうしろ姿はいたましい。(中略)『映画に出てくる雑草も気にかかる。』」
「『オトナになるまで床屋へ行くのを嫌った。鏡に写る自分の顔が醜くて見れなかったから。だから若い時の写真は一、二枚しかない。』」
「『一緒に歩いていた時、母が川に落ちこんだことがある。自分は手を差出さないで眺めるだけであった。恥かしかったのだ。母は一人であがってきても何も言わないで歩いた。』」
「『小学校や中学の頃よくいじめられた。これを思うと今でも腹が立ってくる。』」
「『若い頃強度の神経衰弱にかかり一ヵ月程土蔵にひきこもっていた。』」
「『詩を書くといつも徹夜になる。絵でも夜が明けていることがよくある。詩を作っている時はどうしても自分で作っているようには思われない。いつも誰か書かしているように思われてならない。』」
「『誰も本当に自分を面白がらせてくれる詩を作ってくれないから作っているようなものだ。面白い詩を作ってくれる人がいたらこれほどいいことはない。』」
「訪ねて行った家のベルを押してから戸が開くまでいつもその戸に背を向けて立っている。」



「思い出」(三神勲)より:

「なにしろ先生ときたらなにごとにも執念深く、しつこいのだから、かんたんに自説を諦めない。とくに(中略)正統でない考え、反伝統的な説を面白がるようである。」


「座談会 比類ない詩的存在」より:

那珂 とにかく大変な学識のある偉い先生だったけれども、普通の人が常識的に知ってることは全然御存知ない。その知識の広さと欠如が非常にアンバランスに共存していましたね。(中略)いわゆる「学者詩人」とは全く違って、根っからの詩人、生来の詩人で、よくあんな人に大学教授や文学部長が勤まったと思いますね。」

鍵谷 たしかに先生には動物的な敏感さみたいなものがありましたね。警戒心が非常に強いんですよ。臆病に近い。
大岡 ぼくもはじめて会った時に西脇さんが非常に警戒的だったことだけは覚えてる。特にぼくは瀧口さんと親しかったでしょ。瀧口さんと西脇さんとの関係っていうのも非常に微妙だったと思うんですよ。瀧口さんのほうは無一物的な生き方をしているわけですね。西脇さんもそういう生活に大きな憧れを持っていたし、世俗的、物質的なことには関係ないとしていたんだけれど、瀧口さんの方が勤めも持ってないし、フリーな立場にあったわけですよ。(中略)何となく西脇さんの方が瀧口さんを意識していたんじゃないかと思いますね。ぼくが瀧口さんと親しいっていうことは西脇さんは御存知だから、ちょっとぼくにもぎこちなかったような気がするんです。でもすぐに氷解しましたね。「大岡君、大岡君」ってすぐにぼくを呼ぶんですよ。それはぼくが西脇順三郎論を書いてたことを御存知で、「君はぼくのことをほめてくれたね。だからぼくは君が好きだよ」(笑)って言って近づいてらしたわけなんです。」

鍵谷 西脇さんには詩を書くしか才能がないんですよ。ある日「今日はぼくは何をすればいいですか」ってぼくに電話をかけていらしたので「じゃあ詩をお書きになったらいいんじゃないですか」って言ったんですね。しばらくすると「できたから見においで」っておっしゃるんですよ(笑い)。」



回想の西脇順三郎 04


「その美術観の一端を」(海上雅臣)より:

「かるくあかみがかったテラコッタのひねり裸婦が、西脇邸の玄関を入るとすぐのアルコーブに飾ってあった。」
「玄関往還の瞥視で、この彫刻家(引用者注: 木内克)の裸婦作法の特長をつかんでいた詩人は、(中略)スケッチブックをひらき、木内さんのオンナはこうだ、といいながら、サインペンの音をきしませた。」
「このペン画の股間に(中略)ある克のサインは、木内克自身が書きこんだもので、下のサインは西脇さんが書いたものだ。股をひろげて中心をあけ、両脚の線をかろやかにひいてから、サインはこうだ、といって書き終えた絵を詩人が笑いながら手渡すと、彫刻家は、じゃあ私は本物のサインを入れましょうと云い、股間に書いたのがみごとにおさまり、お二人はとても心地よげにオン・ザ・ロックのコップを傾けた。」

































































































西脇順三郎 編 『ギリシア語と漢語の比較研究ノート』

「ぼくなんかは、いろいろ自分かってなことばかりやってきましたから、(中略)漢詩、漢語というものに興味があったのは、全くそれがぼくを引きつけたからなんですよ。なぜそんなことを調べているかというと、全く同じものじゃないかということの研究、そうじゃないと興味なかったかもしれないな……。」
(西脇順三郎 『詩のこころ』 より)


西脇順三郎 編 
『ギリシア語と漢語の
比較研究ノート』


発行: 西脇順三郎先生の米寿を祝う会(明治学院大学言語文化研究所内)
発売: 開明書院
1982年1月20日
本文595p 
凡例1p あとがき7p
口絵(モノクロ)3葉
B5判 
丸背バクラム装上製本
貼函



セピア印刷。本文は西脇順三郎のノートの複写です。定価表記はありませんが、頒価は送料共15,000円だったようです。
本書はもっていなかったのでヤフオクで5,480円で売られていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。学術書のような体裁ですが学術書ではないです。西脇順三郎は大学教授ではありましたが、あえていえば生(き)のままの学術、シアンス・ブリュット、アウトサイダー学術であります。


西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 01


西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 02


本書「あとがき」(三神勲)より:

「西脇先生のギリシア語と漢語の比較研究に関する原稿は一部行衛不明のものを除いて、そのほとんど全部が明治学院大学の言語文化研究所に寄贈され、(中略)保管されている。(中略)大ざっぱに数えて、大小2種類乃至3種類の大学ノートが124冊、原稿用紙は行衛不明のものを含めて7,400枚に達する。
 この膨大な量の原稿は(中略)次の7つのグループに分類されるだろうという。第1グループは行衛不明の分だが、これは(中略)原稿がそのまま複写され、787頁の本となって刊行されている。第2のグループは複写本になった原稿につぐもので、コクヨB4 400字詰原稿用紙、782枚。第3グループは「グリーク・アンド・漢」とタイトルのついた普通型ノート93冊。第4グループはコクヨ400字詰原稿、「希―漢」のタイトルのもの、13包と10冊、「漢―希」のタイトルのもの6包、希漢研究参考資料1冊、原稿総数約3,250枚。第5グループは大型400字詰原稿用紙1,840枚。第6グループはコクヨ60枚綴り大学ノート「ギリシア語と漢語」、(ア行からワ行)のタイトルのある21冊、追加3冊。最後は第7グループのコクヨ大学ノート7冊で、今回の出版の原稿である。
 この7つのグループの順序は原稿の製作年代順によるものであるが、各グループ間の正確な関係は必ずしも明確ではない。(中略)第5グループは明らかに(中略)研究の1つの頂点を示す。」
「実はこの第5グループの原稿は先生の研究の最終的な成果とわれわれは考えていた。それゆえ先生の米寿を祝う出版を考えた時この(中略)原稿をそのまま写真で複写して出版する計画を立てた。(中略)ところが意外にも先生はわたしの申し出を断わられた。その代りにこれを出してくれと言って第7グループの原稿を渡された。」

「西脇先生を囲んで『詩経』を読む会が発足したのは、1963年(昭和38年)11月26日(中略)である。」
「その前後から先生はギリシア語の特定の単語と漢語の特定の単語との類似性をよく指摘していたことの記憶がある。当時の大学院の学生たちもそれを聞かされているし、われわれ周囲の者もしょっちゅう聞かされた。『詩経』を読む会は先生の漢詩や漢語に対する従来の興味をいっそう刺激し、漢語とギリシア語の語彙の比較研究へ先生を向かわせる契機になったように思われる。」

「1968年(昭和43年)、先生の『ギリシア語・漢語比較研究―材料集1―』が明治学院大学の言語文化研究所(中略)から刊行された。(中略)先生の自筆の原稿をそのまま写真で複写したもので、B5判・仮綴じ781頁の本である。」
「巻頭の短い序文が先生の研究の立場を語っている。

  漢語とインド・ヨーロッパ語系の言語との比較言語学が成立するか否かは未だ不可解のものであるが、私は一つの仮定のもとでこれらの両言語の語彙の比較をすることが最初の仕事と考えたい。
 漢語はインド・ヨーロッパ語系の言語というのではなく、しかし古代から伝承されている中国語はインド・ヨーロッパ語系の言語がその文法においても、その語彙においても、破壊された歴史的基盤の上に立っているものと想像される。」




◆本書より◆


西脇順三郎 ギリシャ語と漢語 03


「禹 ウ


中国夏代の開祖の
聖天子

インド ヨーロッパ民族最高の神?
Ζεύς [jü-yü-ü-u]
vocative - Ζεῦ

the obrative cases - DIS からつくられる
genitive - διός
dative - διΐ, δΐ
accusative - δία

In poets - Ζηνός, Ζηνί, Ζῆνα
In later Doric - Zan/Ζανός

禹跡(ウセキ)/禹域(ウヰキ)―中国本部の總稱」



「禹(ウ)」はゼウスの「ウ」である、中国の聖天子「禹」の語源はインド=ヨーロッパ最高の神「ゼウス」である、両者は本質的に同じものである、といいたいのだとおもいますが(括弧[ ]内は音の変化。以下は「ゼウス」の格変化、詩語(poetic diction)、ドリス方言における「ゼウス」)、無茶であります。しかしながら、バベル崩壊以前の楽園を取り戻したい、「古代」という手術台の上でギリシア語と漢語を出会わせたい、「遠いもの」を「連結」したい、という切なる気持ちはよくわかります。


西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 04


「惡 アク」
「1 人間のくそ」
「2 くそをする」



西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 05


「想 サウ」
「8 大便がしたくなる」
「9 小便がしたくなる」



西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 07


「商 シヤウ」
「12 “Hellenist”といって“Greek-jew”
これが初め中国に遊牧の民として
入国した。周のギリシヤ人が中
国に食物を求めて黄河の地域に
移住した。紀元前1200年頃から。」



西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 09


「蛇」
「星の名」
「うねり行くさま」
「風になびくさま」
「自ら足れりとするさま」



西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 06


西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 08


西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 10


西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 11


西脇順三郎 ギリシア語と漢語の比較研究ノート 12



◆参考◆


小野田耕三郎「西脇順三郎の古代回帰」(『回想の西脇順三郎』所収)より:

「西脇順三郎のギリシア語と漢語との音・義による比較研究は、“取り憑(つ)かれた”とか“執念”とか言われただけあって、察するところ周辺にさまざまな波紋を描いたようであった。私は一介の褄(つま)取りに過ぎなかったものの、それでも助長させたようにとられたふしがなくはなかった。(中略)たのしかったこともあるし、牽強付会に聊か閉口したこともあった。」
「この研究のはしりは、一九六四年末から六五年にかけてで、その後急速に深まっていったと記憶している。」
「使用した漢語の辞書についていえば、当初からの上田萬年、岡田正之等編『大字典』(これは敗戦后、占領軍が持ち込んできて払下げたオックスフォード版一巻本と啓成社大正九年版の二巻本)のほかに、暫くして持ち運びに便利な音引きの宇野哲人編『明解漢和辞典』(三省堂、昭和三十一年版)が愛用された。(中略)のちに諸橋轍次の『大漢和辞典』が用いられ、片っ端から比較検討された。その他『漢和中辞典』(角川版)、『中日大辞典』(愛知大学編)等も参考の為併用され、中国版の詞典も三、四種用いられた。ギリシア語についても何種か使われていたようであった。(中略)ギリシア語の音・義がのべられると、即座に『大字典』が開かれ、漢語の音・義がさがしもとめられる風景が続いた。
 ギリシア語と漢語との音・義、それが単語と成語にわたって次々に合わさってくると、それはまるで両者の呼吸がぴったり合ったようで、互いに“この世の秘密を暴いているような戦(おのの)きを感じる”などと言い合いながら、言葉は酔漢のように声高になった。」



西脇順三郎・安東伸介「対談 初夏の一夕」(『回想の西脇順三郎』所収)より:

西脇 私が今やっていることは、漢語はギリシャ語であったという問題です。ゲジゲジというのがあるでしょう。それはギリシャ語でも、漢語でも、同じ音なのだから、素晴らしいもんですよ。「蚰蜒」――、ユウエンと日本語で読んでいる、これ、ゲジゲジのことです。この「蚰」は、いまの中国語では yóu と読む。この yóu (ヨウ)というのがギリシャ語の ίουλος (ゲジゲジ)の ίου- に残っている。素晴らしいもんですよ、ゲジゲジが似ている、あんなどうでもいいものまでがね。(笑)何でも似ているんです。動植物について比較してみると、みんなよく似ているんです。もちろん普通の動詞だとか、人間の行為とか、やってみると、みんなギリシャ語と漢語は似ている。」


西脇順三郎・山本健吉『詩のこころ』より:

「私は要するに西洋の古典から始めて、それから現代の一般ヨーロッパ、それから日本のことも、日本人ですから考えている。(中略)漢詩も中学時代から好きでしたから、そういういろんな自分の材料で考えてみるわけですし、ヨーロッパのほうも、できるだけ知ろうとして、それも好き、漢詩のほうも好きで、こういうふうに両方やってみるとね、それはたまたま西洋と東洋の違いとか、そういう単純な対立になれば……話はかんたんですが、そうではなく、いろいろ深くしらべてみると、あまり違わないと思う。ただ東洋といっても広いですからね。それにぼくはインドのことはよく知らないんです。けど東洋というとまあ漢文ですね。(中略)そういう二つの関係では、いいものはあんまり違わないんじゃないですか。(中略)普遍的なものを持っていなくちゃいけないわけですから。」
「中国の古代からの詩のことを考えた場合は、その形式も大体ヨーロッパに似ているんですよ。(中略)それから――内容も、内容というか哲学も、(中略)ヨーロッパ的なんですね。詩にあらわれた思想もね。私はそう思うんですよ。(中略)だから中国の詩に関する限りはそうあまり西洋と東洋の違いが、ぼくはないように思うんです。

「だからぼくは、少なくともシナの詩とギリシャの詩、一般ヨーロッパの詩とは、同じものだと思うんですよ。」

「陶淵明の酒の歌の中に、陶淵明の哲学というか宗教というものがあるんです。(中略)死ということは、人間である条件であり、それでその運命に安んじて服するという哲学があるんです。つまりいまでいえば自然の法則に服するわけです。(中略)人間には死というものがあるということ、それから老人になるということを悲しむ歌だけれども、それをあきらめるという歌があるわけです。これは、ぼくには非常に大切なものなんです。
 この思想は古代人がみんな持っていたものなんです。」
「ギリシャでは昔から(中略)、人間の苦しみというものは、老人になることと、死ぬことである、それが人間の最大の不幸なんだという認識があるんですね。」
「自然の法則として死ななきゃならないことがわかっている、それでわれわれはあきらめていますけど、このあきらめ、悲しみを持ってあきらめるということは、古代人が何千年も前からやっていることなんですね。それが詩の重大なる内容だったでしょう。」
「こういう点から見ても、決して東洋と西洋は違わないということなんですよ。」
「だからぼくは、少なくともシナの詩とギリシャの詩、一般ヨーロッパの詩とは、同じものだと思うんですよ。」

山本 一番レトリックの豊富なのはシナじゃないですか。
西脇 その先にはギリシャがあるわけですよ。インド・ヨーロッパ語族……。
山本 ギリシャはそんなに豊富ですか。
西脇 同じです。ぼくはギリシャから来たという説をいま出しているんですよ、すべて還元してみると。(中略)シナもそれと同じことば、文法は違いますけれども、ワーズ、ことばというものは向こうから全部入った……ギリシャ語というより、ギリシャ語に近いものなんですね。そういうことで、それがために漢語に非常な興味を持つようになったんです。(中略)与謝野さんが日本語の切字を漢語に結びつけようとして最初にやったんですからね。
山本 だれですか。
西脇 与謝野寛ですよ。だけどこれはあんまり科学的じゃなかったから、非常にむずかしいんですよね。いまのシナ語と漢語は非常に音の変化がありましたから。ぼくはシナ語と漢語と両方からやってますから……。
山本 昔の音に還元して、そして考えられるわけですか。
西脇 いや、漢語を参照にして。漢語といまの中国語、北京語。北京で漢語の発音がちゃんと読めるように、ローマ字で音が出てますから、シナ語をやるときにあれを使う……。
山本 あれは昔の音とはまた違うでしょう。ずいぶん変化して……。
西脇 いやあ、違うけどね、大体のところは、非常にこう関連があるんだ……たとえば“豈にはからんや”の「豈」という字は、あれは「チ」というんですね。「キ」はたいてい「チ」になるんです。だけどそれはふしぎにインド・ヨーロッパ語だと「チ」のほうがほんとうなんです。だから漢語ではチという音をみんな「キ」と発音する癖があったんですね。ところがキとチでどっちがインド・ヨーロッパ語に近いかを一つ一つのことばによってしらべると、それがことばによって違ってくる。(中略)いまの“豈にはからんや”の「豈」というのは、インド・ヨーロッパ語、ギリシャ語では少なくとも「チ」と言うんですね。(中略)昔からギリシャ人も「チ」と言うし、シナ人まで「チ」と言うんですから。えらいもんですねえ、ことばというのは。日常使うことばというのは言語の原則で、忘れられないんですね。変化が少ないんです。」
「「ギョ」っていうのは、いまの中国語では「ヨ」なんです。「ヨ」というのはみんな「ギョ」に変わったんですね。「ヨ」が「イオ」になり、それから「ギョ」になる。だから魚のことを「ヨ」と言うでしょう。平安時代でも「ヨ」と言って、「魚」ということばは日本語で、「ヨ」と言うんです。「ヨ」釣りに行く、といなかの子供は言いますよ、いまでも。
 ああいう古いのはいまでも残っているんですよ。「ヨ釣りに行く」、と。
山本 ヨ釣りですか。「夜」でしょう、それは。
西脇 いや、「ヨ釣りに行く」と言いますよ。「ヨ」と言いますよ。もう「ヨ」になってしまったんです。「ヨウ」じゃない。シナ人は「ヨウ」と言うんですね、そのままずっと。だから日本の古い言語は、漢人がいて決まったものに違いないと思うんですね。ぼくの言語の上の考証ではね。
山本 帰化人がずいぶんいましたね。
西脇 帰化人じゃそんなことばは残らないと思うんですね。全国に行き渡るような。だからやっぱり初めから漢語を使った……朝鮮も漢人だろうと思うんですけど、もとはね。
山本 だけど、文脈とか何とかいうのはまるで違うでしょう。
西脇 ええ、文脈は違うんです。壊してしまってますから。日本語の文脈はどうしても複雑でね。
 シナは、ことばだけはまるでもうひどい破壊なんです、ことばだけは。音節が三つでできている一つのことばでも、みんな一つにしてしまっているでしょう。二音節以上の一つのことばでもみんな一音節に直しちゃって。しかし音節が残っているやつもあります。
山本 中国語というのはみんな一音節ですね。
西脇 だから、それはもとは一音節じゃなかったけれども、初めから一音節のやつは一音節なんです。二音節以上になるとみんな一音節にしてしまうんです。けれども、そのものは残っているんです。「融和する」ね。ギリシャ語でも「ワユー」です、やっぱり。その「ワユー」なんかは「和」というのも「和する」という意味があるし、「融」というのも「和する」という意味なんです。それで「和」と「融」がそこで分かれてしまうんです。」
「実にたくさんそういうのがあって、ぼくの言っていることは相当期間、何年もかけてやったことですから、たいていだいじょうぶだと思うけど、ぼくが生きているうちには認めてくれませんね。ヨーロッパでも、それは、漢語がインド・ヨーロッパ語であるということを言うことはたいへんなことですからね。」

「ぼくなんかは、いろいろ自分かってなことばかりやってきましたから、ぼくはシナのものに、漢詩、漢語というものに興味があったのは、全くそれがぼくを引きつけたからなんですよ。なぜそんなことを調べているかというと、全く同じものじゃないかということの研究、そうじゃないと興味なかったかもしれないな……。」




◆感想◆


西脇順三郎は石川淳との対談で、ギリシア語と漢語の比較研究は「言語考古学」であるといっていますが、しかしそれはむしろ「駄じゃれ」に似ています。

「緞子(どんす)っていうでしょう。緞子(どんす)っていうのは絹、ギリシャ語で「シンドーン」っていう。そのドンは、だからシナでは、ちゃんとギリシャ語そのまま残ってる。日本でもシナからきてるから、緞子っていう。シンドーンだから、ひくり返ると緞子となるわけ。シナとギリシャ語比較すると、みんなひっくり返るんですよ。「ユウワ」っていうけど、ワユウっていうのはギリシャ語、そういうふうにひっくり返っている。いまのシンドーンなんかそうです。緞子、「ス」はどこから出るのか、シンドーン。」
(石川淳との対談「雑談」――『西脇順三郎対談集』より)

しかしながら、「駄じゃれ」でもよいのであります。

「でも、ジェイムズ・ジョイスなんかいうのは駄洒落(だじゃれ)ですよ。駄洒落というのは、文学の形としてはヨーロッパでもよくないということになっているでしょう。ところがジョイスはそれを平気でやるんです。駄洒落ほどすばらしいものはない。だからぼくが書くのはジョイスの影響なんです。人が悪口いうに違いないと思っても、ジョイスが一生かけて保障したんですからね。」
(加藤楸邨・安東次男との対談「芭蕉の俳句」――『西脇順三郎対談集』より)












































































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ひとでなしの猫

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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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