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種村季弘 『遊読記』

「落ちこぼれはここでは、世の中から捨てられた土壇場で世の中の方を捨てる、当意即妙の返し技の免許皆伝に達する幸運である。」
(種村季弘 「当意即妙の返し技」 より)


種村季弘 
『遊読記
― 書評集』
 

河出書房新社 
1992年8月20日 初版印刷
1992年8月31日 初版発行
263p 初出一覧v 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,200円(本体2,136円)
装丁: 中島かほる
カバー装画: 美濃瓢吾



書評125篇。
本書はもっていなかったのでヤフオクで600円(+送料185円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


種村季弘 遊読記 01


帯文:

「コレハ本デハナイ
無類の本好き、読書家の
1200字の書評芸
奇芸、珍芸、至芸のおたのしみ」



帯背:

「仮書幻想」


帯裏:

「おあとがよろしいようで……」


目次 (初出):

▼1991
楽園としての書物 † 川崎寿彦 『楽園のイングランド』 (「朝日新聞」 4.14)
姿をくらますエロス † アラン・コルバン 『娼婦』 (同 3.30)
マダム・キラーの悪霊祓い † 高田衛 『江戸の悪霊祓い師』 (同 3.10)
花街という学校 † 明田鉄男 『日本花街史』 (同 2.10)
偽書の真実 † ピーター・アクロイド 『チャタトン偽書』 (同 1.13)
▼1990
まっ白の本 † 堀内正和 『坐忘録』 (同 12.16)
総合空間としての本 † ウォルター・クレイン 『書物と装飾』 (同 11.25)
夢想言語博物館 † マリナ・ヤグェーロ 『言語の夢想者』 (同 11.11)
予言する死後解剖図 † クラウディオ・マグリス 『オーストリア文学とハプスブルグ神話』 (同 10.21)
無人称の声 † 岡谷公二 『南海漂泊 土方久功伝』 (同 10.14)
「退屈な話」の循環 † 佐々木基一 『私のチェーホフ』 (同 9.30)
島の入れ子構造 † 伊井直行 『湯微島訪問記』 (同 9.23)
大福が食いたい † 鹿島茂 『馬車が買いたい!』 (同 8.26)
奇人伝が何だ † トーマス・ベルンハルト 『ヴィトゲンシュタインの甥』 (同 7.29)
旅をする巨鳥 † 宮本徳蔵 『相撲変幻』 (同 7.22)
狼を待ちながら † ジャック・ザイプス 『赤頭巾ちゃんは森を抜けて』 (同 7.8)
とり落とした掌中の珠 † スティーヴン・ミルハウザー 『イン・ザ・ペニー・アーケード』 (同 6.10)
裏面物のカタルシス不足 † フィリップ・ヘンダースン 『ウィリアム・モリス伝』 (同 5.27)
ふきんがこわい † 長谷川集平 『絵本未満』 (同 5.20)
のんびり世紀末散策 † ホルブルック・ジャクゾン 『世紀末イギリスの芸術と思想』 (同 5.6)
物理人間の系譜 † 巖谷國士 『澁澤龍彦考』 (「公明新聞」 4.23)
情報と輪廻 † 椎名誠 『アド・バード』 (「朝日新聞」 4.15)
東京の片隅へ † 出口裕弘 『ペンギンが喧嘩した日』『ろまねすく』 (同 4.1)
死と共生して † 小池寿子 『死者たちの回廊』 (同 3.18)
道草からの逆襲 † ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』 (上・下) (同 3.4)
コレハ本デハナイ † 別役実 『別役実の当世病気道楽』 (同 2.8)
美女舞姫のライン・ダンス † 市川雅 『舞姫物語』 (同 2.11)
だまされてみたい † リチャード・D・オールティック 『ロンドンの見世物 Ⅰ』 (同 2.4)
専門バカの葬送 † M・H・ニコルソン 『暗い山と栄光の山』 (同 1.14)
脱力する芸術へ † 多木浩二 『それぞれのユートピア』 (同 1.7)
▼1989
ワイマールの現在完了 † ヘンリー・パクター 『ワイマール・エチュード』 (同 12.10)
世界言語という白痴夢 † 亀山郁夫 『甦えるフレーブニコフ』 (同 11.12)
キノコのような女たち † 村田喜代子 『ルームメイト』 (同 10.29)
地中海の自伝 † アミン・マアルーフ 『レオ・アフリカヌスの生涯』 (同 10.22)
片隅のきらめき † 飯吉光夫編訳 『ヴァルザーの小さな世界』 (同 9.24)
無力な人の戦略 † 谷崎終平 『懐かしき人々』 (同 9.10)
成り上がる温泉町 † 小林章夫 『地上楽園バース』 (同 9.3)
東西笑いくらべ † 佐々木みよ子/盛岡ハインツ 『笑いの世界旅行』 (同 7.30)
伏せ字の戦略 † 木本至 『「団団珍聞」「驥尾団子」がゆく』 (同 7.23)
ある戦いの記録 † 高橋悠治 『カフカ/夜の時間』 (同 7.2)
立ち上がる平面 † 中西夏之 『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』 (同 6.4)
人類の少年時代へ † 堀内誠一 『堀内誠一の空とぶ絨緞』 (同 5.28)
円居のある食卓 † 戸板康二 『食卓の微笑』『慶応ボーイ』 (同 5.7)
宇宙模型としての箱 † 横山正 『箱という劇場』 (同 4.9)
わるい乞食の名演技 † H・ベーンケ/R・ヨハンスマイアー編 『放浪者の書』 (同 4.2)
軽く細く弱く † 長沢節 『弱いから、好き』 (同 3.26)
ひしめく静止 † マルタ・モラッツォーニ 『ターバンを巻いた娘』 (同 3.12)
町内のサロン † 今野信雄 『江戸の風呂』 (同 3.5)
あるボヘミアンの貴族 † ヘルムート・フリッツ 『エロチックな反乱』 (同 2.19)
人生の入門書 † マレーネ・ディートリッヒ 『ディートリッヒのABC』 (同 2.12)
いずれ終る芝居 † 増井和子 『7つの国境』 (同 1.23)
快楽グッズの自己消費 † 秋田昌美 『倒錯のアナグラム』 
あるいて出会った † 中沢厚 『石にやどるもの:』 (同 1.16)
風水の秘密 † 三浦国雄 『中国人のトポス』 (同 1.9)
▼1988
はじめていた場所 † マーリオ・ヤコービ 『楽園願望』 (同 12.19)
全部ポンコツ † マルシオ・ソウザ 『アマゾンの皇帝』 (同 11.21)
マゾヒズムの偽装 † 西成彦 『マゾヒズムと警察』 (同 11.15)
裏と表の二重人 † フランソワ・ヴィドック 『ヴィドック回想録』 (同 10.31)
歌を忘れたカナリア † ハインツ・グロイル 『キャバレーの文化史』 (Ⅰ・Ⅱ) (同 10.24)
石のことばは石 † 金森敦子 『旅の石工』 (同 10.17)
多様さのなかの秩序 † ワイリー・サイファー 『ロココからキュビスムへ』 (同 9.25)
仮面の裏も仮面 † 池内紀 『ザルツブルク』 (同 9.5)
顔のない皇帝 † R・J・W・エヴァンズ 『魔術の帝国』 (同 8.29)
非良導体のポエジー † 富士正晴 『富士正晴作品集 一』 (同 7.25)
歴史は顔を隠す † ジル・ラプージュ 『ユートピアと文明』 (同 7.18)
進歩ゆえの放浪 † フレデリック・フェイエッド 『ホーボー アメリカの放浪者たち』 (同 6.20)
非領域化する現場 † 田之倉稔 『演戯都市と身体』 (同 6.14)
女庭師の帰還 † 室生朝子 『大森 犀星 昭和』 (同 5.30)
小間物の世界横断性 † 原田豊 『銀座百年の定点観測』 (同 5.2)
二つの世界を舞う † クルツィア・フェラーリ 『美の女神 イサドラ・ダンカン』 (同 4.18)
悪魔を信じたい † 日影丈吉 『地獄時計』 (同 4.11)
▼1987
民衆本の真実 † ハンスヨルク・マウス 『悪魔の友 ファウスト博士の真実』 (「日本経済新聞」 11.1)
▼1985
砂の中の動物群 † 伊藤立則 『砂のすきまの生きものたち』 (「朝日新聞」 5.27)
うじ虫のような天使 † カルロ・ギンズブルグ 『チーズとうじ虫』 (未発表)
虚無に立つ花火 † 中井英夫 『金と泥の日々』『名なしの森』 (「朝日新聞」 4.1)
目撃という証言 † 赤瀬川原平 『いまやアクションあるのみ!』 (同 3.25)
西と非西との交換 † ミゲール・セラノ 『ヘルメティック・サークル』 (同 3.25)
コロンブスとは誰か † A・カルペンティエール 『ハープと影』 (同 2.25)
読みとしての政治 † 大西巨人 『天路の奈落』 (同 2.11)
周縁の食べもの † 武田百合子 『ことばの食卓』 (同 2.4)
うらみは深い † 未来社編集部編 『十代に何を食べたか』 (同 1.14)
▼1984
最後に乗る乗り物 † 井上章一 『霊柩車の誕生』 (同 12.17)
秘密の花園の花譜 † 若桑みどり 『薔薇のイコノロジー』 (同 12.17)
にぎやかな廃棄物王国 † 安部公房 『方舟さくら丸』 (同 12.10)
解決なきパラドックス † ジャン・アメリー 『罪と罰の彼岸』 (同 11.19)
イニシエーションの島 † 池沢夏樹 『夏の朝の成層圏』 (同 10.29)
空白のある文学史 † 黎波 『中国文学館』 (同 10.28)
遺民としての画人 † 陳舜臣 『中国画人伝』 (同 10.8)
当意即妙の返し技 † 高木護 『忍術考』 (同 10.8)
毒性キノコ図鑑 † 山田宏一 『美女と犯罪』 (同 9.3)
分水嶺の男 † 丸山健二 『雷神、翔ぶ』 (同 9.3)
魔術的哲学のパノラマ † フランセス・イエイツ 『魔術的ルネサンス』 (同 8.20)
なまめかしい老年 † 円地文子 『菊慈童』 (同 8.7)
脱自我空間の博物誌 † 筒井康隆 『虚構船団』 (同 7.9)
病気が主役だ † 立川昭二 『病いと人間の文化史』 (同 6.12)
ミニアチュール風景画集 † 三木卓 『海辺で』 (同 6.4)
水のような追想 † 足立巻一 『親友記』 (同 4.30)
言葉に化ける器物 † 別役実 『道具づくし』 (同 4.16)
硬派の魚河岸 † 尾村幸三郎 『日本橋魚河岸物語』 (同 4.9)
科学派の眼 † 赤瀬川原平 『東京ミキサー計画』 (同 4.9)
空海入唐記 † 陳舜臣 『曼陀羅の人』(上・下)『録外録』 (同 4.2)
不定時法の道草 † 角山栄 『時計の社会史』 (同 2.27)
虚実を包む愛 † 山田風太郎 『八犬伝』(上・下) (同 2.13)
監禁のパラドックス † 吉村昭 『破獄』 (同 1.17)
玉の話 † 澁澤龍彦 『ねむり姫』 (同 1.9)
▼1983
なまめきと哄笑 † 津島佑子 『火の河のほとりで』 (同 12.12)
意外な素朴画家 † 岡谷公二 『アンリ・ルソー楽園の謎』 (同 12.5)
幻想の日本列島像 † 室賀信夫 『古地図抄』 (同 11.21)
ウィーン、絢爛たる没落 † カール・E・ショースキー 『世紀末ウィーン』 (同 11.14)
音楽の辺境王国 † 瀬川昌久 『ジャズで踊って』 高木史朗 『レヴューの王様』 (同 10.24)
部屋の生と死 † 海野弘 『部屋の宇宙誌』『風俗の神話学』 (同 10.3)
脳の交換 † ビオイ=カサーレス 『日向で眠れ 豚の戦記』 (同 9.26)
犯罪としての教育 † アリス・ミラー 『魂の殺人』 (同 9.15)
庭のたのしみ † 川崎寿彦 『庭のイングランド』 (同 9.5)
いかにも遊びの果てに † 尾辻克彦 『雪野』 (同 8.15)
ビックリ絵本 † ブルーノ・エルンスト 『エッシャーの宇宙』 (同 8.9)
大河としての生命 † エイモス・チュツオーラ 『薬草まじない』 (同 7.25)
偽書という情報犯罪 † 高橋俊哉 『ある書誌学者の犯罪』 (同 7.11)
あなたにそっくり † アンドルー・J・フェナディ 『ボガートの顔をもつ男』 (同 5.23)
読めなかった絵画論 † 磯崎康彦 『ライレッセの大絵画本と近世日本洋風画家』 (同 5.16)
戦後の戯画 † 中井英夫 『黒鳥館戦後日記』 (同 5.9)
余禄の人生 † 深沢七郎 『ちょっと一服、冥土の道草』 (同 4.25)
▼1979
技術のファンタジー † 尾崎幸男 『地図のファンタジア』 (「週刊現代」 1.25号)
▼1978
艶なる宴の方へ † 窪田般彌 『ロココと世紀末』 (「公明新聞」 10.9号)
功利的な怪談 † J・ミッチェル/R・リカード 『フェノメナ幻象博物館』 (「週刊文春」 9.7特別号)

あとがき




◆本書より◆


「楽園としての書物」より:

「無限にひろがる外の世界に対してそこだけ囲われた小宇宙。それが洋上にあれば島の楽園であり、陸上にあれば庭の楽園、不安な生そのものに対して最終的に囲われた小宇宙であれば墓の楽園である。島、庭、墓は、いずれも外界の激動から逃れた先で無為寂滅の至福をゆあみしている、ほとんどあられもない胎内還帰願望の対象としてのトポス(場所)といえよう。」


「まっ白の本」より:

「坐忘。荘子内篇のことばだそうだ。「坐忘とは、端座して形を忘れ我を忘れ天地万物一切を忘れること」。なにもかも忘れるのだから、なにもなくなる。では、なにもなくなるからなにもなくなったかというと、じつはそのなにもない(引用者注: 「なにもない」に傍点)が現れてくる。ということは、天地万物一切から我を引いた、金無垢の天地万物一切が現れてくるわけだ。」


「奇人伝が何だ」より:

「その哲学者の甥にパウル・ヴィトゲンシュタインがいた。彼が何者かというと、奇人とでもいうほかない。巨額の遺産を、自動車レースとヨットとオペラと極上のスーツであっというまにすっからかんにした。ウィーン市内でタクシーをつかまえて、行き先をパリと告げたりした。スーツのあつらえ方なら、最高級の仕立て屋に二着の燕尾服を注文し、何か月も手直しに通ったあげくの果てに、燕尾服など注文したおぼえはないという。ツケはヴィトゲンシュタイン家にまわり、彼は精神病棟にぶちこまれる。おじのルートヴィヒとともに一族の除け者、それでいて天才演奏家たちをふるえあがらせた。音楽を、とりわけオペラを聞かせると、天才的な耳の持ち主だったのだ。落魄してからは運動靴をはき、買い物籠をぶらさげてウィーンの町をさまよった。」


「コレハ本デハナイ」より:

「仮書という言葉を手近の辞書で調べてみた。ない。仮病というのは――これはある。病気でもないのに病気のふりをすること。それなら書物でもないのに書物のふりをしている本をなんといえばいいのか。」
「病気になったら、なったで、くよくよしてもはじまらないから病気を楽しむ。そこまではだれでも考える。そのうち病気道楽が嵩じて、病気でもないのにわざわざ病気になってみたり、まだ罹ったことのない病気に罹ってみたりする。これもまあ分かる。おつぎはもう現実に存在する病気という病気を病みつくしてしまって、それでもまだ病気道楽が抜けないので、架空の病気を発明してそれに罹る。」

「病気を治す必要はない。一切の病気はこれを仮病にしてしまうがよろしい。それがドクターの千編一律の処方である。」



「無力な人の戦略」より:

「正面から対等の人間関係をむすぶより、対人関係はあくまでも消極的に、腰を低くして下手にでる。むやみにテレたり、はにかんだりする。根は人間嫌いなのに、にぎやかな社交関係の場にほうりこまれておろおろする。裏を返せば、人間関係の希薄な幼少年時代の孤独な日々こそが至福の時間だった。」


「宇宙模型としての箱」より:

「箱は「閉じると密閉した空間が限り取られる」内部にかならずひとつの完結した世界を、いいかえれば覗き見をゆるさぬ秘密を蔵している。」

「モンゴル人の包(バオ)はそれ自体がワンルームの箱だが、そのなかには「いろいろな箱が整然と置かれてさまざまなものの容器となっている」。ここでは箱が、住まいである包の、包がまた宇宙の、重層的な入れ子であって、大宇宙からはじまるこの箱根細工めいた入れ子構造の最小単位が箱なのである。」



「進歩ゆえの放浪」より:

「もともと移住者として旧大陸から渡ってきたアメリカ人には、当初からつよい移動性がついてまわった。はてしないフロンティアのあるうちは、アメリカ人すべてが放浪者といってもよかったのである。アメリカ人を放浪者と定住者に二分したのは、十九世紀後半に急速に発達した鉄道だった。物質的進歩の象徴たる鉄道が、一方でフロンティアを消滅させながら、同時に大量のホームレスの移動型季節労働者を生み出すことになる。フロンティアの存在と裏腹に発生した初期のホーボー(放浪労働者)はしたがって、フロンティアそのもののように大らかで楽天的、いたるところに、とりわけ人びとと共有の路上に、あらゆる可能性を見いだす文化英雄だった。」
「放浪の途上いたるところにチャンスを発見することができた新大陸は、その「物質的進歩」ゆえに、みるみる管理社会という小人国にちぢまり、その一方で東洋的虚無思想というもう一つの内面的フロンティアに直面してゆく。」



「うじ虫のような天使」より:

「メノッキオは辛うじて文字が読めた。俗語訳聖書や諸聖人伝、マンドヴィルの東方旅行記、ボッカチオの『デカメロン』、それにどうやらコーランをも読んでおり、雑多な知識のなかからキリスト教文化圏以外の文化の可能性を彼流に構想していたのだ。
 といって、同時代の人文主義者のようにそれらの異端の書を教養として受容したのではない。「あらかじめうち立てられているあらゆるモデルの外にあって、かれの読書をいったん粉々に砕き」、「全て意識せず礼を欠いたやり方で……他人の思想の破片を石や煉瓦として利用したのだ」。」



「うらみは深い」より:

「人口五千万人当時の日本人は「三里四方のものを食べ」、「たべものは季節にのって」(近藤とし子)自給自足していたのだ。圧巻は溝上泰子の「村ぜんぶが食べものだった」。広島県郡部のその村では、子供たちは山野を走りまわって、タズナ、木の実、蜂の子など、何でもとって分かち合った。農耕と縄文以来の採集食でまかなっていた食生活の原点が、明治末期までは厳然と存在し、戦中にさえその余韻が、ユリの根、山菜採りで飢えをしのいだ経験(太田愛人)につたわっている。」


「当意即妙の返し技」より:

「誰しもが子供のころは、何とかして忍術使いになりたいと思う。土にもぐり、水をくぐる。見えたかと思うとふいに姿をくらます。石になり、虫になり、魚になり、風になる。ところが忍術使いになる夢は、これまた誰しもが、大人になるとすっかり忘れてしまうのだ。そんなことをしていたらメシの食いあげではないか、と。そう言った途端に、メシなんか食わなくても平気の平左なのが、まずは忍術会得の要諦だということを、きれいさっぱり忘れはてているのである。」

「作者は落ちこぼれを自称しているが、落ちこぼれはここでは、世の中から捨てられた土壇場で世の中の方を捨てる、当意即妙の返し技の免許皆伝に達する幸運である。」



「犯罪としての教育」より:

「少年非行や家庭内暴力が問題になると、「教育が悪いからだ」という声が起こる。間違った教育をしたから、甘やかしたから、親が無関心だったから、子供は非行に走った。だから教育をし直さなければならない。
 ところが『魂の殺人』の著者の診断はまるでちがう。教育することこそが暴力の原因なのだ。(中略)教育をしたために、子供は暴力や麻薬や自殺に走ったのである。なぜなら(中略)教育と名のつく教育一切が、教育をしている当事者(両親・教師)が気がつかないままに、幼児虐待の実情をはぐらかすカムフラージュにほかならないからだ、とA・ミラーは言う。」
「かりに手を上げずに、いい子になるようにいたれり尽くせりの教育的配慮をしたところで、すでに前史のなかで形成された両親の「いい子」幻想とは、生きている子供にとっては、生命の多様性の芽をつみとる暴力的な強制措置にほかならない。」












































































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種村季弘 『詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想 ― 種村季弘単行本未収録論集』

「現世の生活を放棄しないと、本当の文学はできないよ。誰がどうなろうと、自分だけは自分の好きなことをやるっていうんじゃなきゃ。人に悪くいわれることも含めて、自分のエゴイズムをつらぬき通さなきゃやっていけないですよ。」
(種村季弘 「落魄の読書人生」 より)


種村季弘 
『詐欺師の勉強
あるいは
遊戯精神の綺想
― 種村季弘
単行本未収録論集』


幻戯書房 
2014年8月29日 第1刷発行
702p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価8,500円+税
装幀: 緒方修一
装画: 山本もえ美「植物教会の授業」二〇一四



本書「凡例」より:

「本書は、既刊の単行本に未収録だった種村季弘の、一九六五年から二〇〇三年までの三十八年間に、様々な媒体に発表された批評などを集成した論集です。」
「内容については、大まかにⅠ(ドイツ文学)、Ⅱ(ブックガイド)、Ⅲ(博物学)、Ⅳ(エロティシズム)、Ⅴ(恐怖)、Ⅵ(アルチザン)、Ⅶ(ユートピア)、Ⅷ(バロック、ナニエリスム、シュルレアリスム)、Ⅸ(宗教、権力)で構成し、各章を貫く世界観の象徴として、前後に Prolog とEpilog を配しています。さらに、その世界への扉として、巻頭に「夢記」を収録しました。」



スピン(栞紐)二本付(黒&水色)。
本書は高価なので買い控えていたのですが、アマゾンマケプレで3,400円(+送料257円)で売られていたので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


種村季弘 詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想 01


帯文:

「文学、美術、吸血鬼、怪物、悪魔、
錬金術、エロティシズム、マニエリスム、
ユートピア、迷宮、夢――
聖俗混淆を徘徊する博覧強記の文章世界。

没後10年・愛蔵版

あたかも美しい
無権力状態(アナーキー)の螺旋

あらゆる色の不在であるような夜は、ついにあらゆる色の共存であるような夜に転位され……巨匠と奇人芸術家、大芸術といかがわしいポルノグラフィー……世界を普遍性においてではなく、その分裂性と多様性においてそのまま救済する……すなわち世界は、そしておそらく宇宙もまた、玩具の集合体でなければならぬ……、まぁ、本を読むなら、今宣伝している本、売れている本は読まない方がいいよ。世間の悪風に染まるだけだからね。」



帯背:

「遍在の、
多様で
ありながら
一であることの
神話」



帯裏:

「ニュートンの林檎が万有引力を証明する以前には、ものみな重力の汚染を知らなかった。それなら人は万有引力の法則の成立不能を証明して、ニュートン以前の空間に立ち戻るのでなくてはならぬ。
万有引力の失効したその空間では、宇宙ロケットなんぞなくても、だれでも秋空のトンボのようにすいすいとび、遠いものは近く、近いものは遠くなって、とぶ男と堕ちる男との分身関係は消滅し、人はいまここで何をしていようと飛行しているのである。
……中略……

「さよう、それが世界史の最終章なのです。」(本文より)」




目次 (初出):

夢記 (「たまや」4号 2006年)

凡例

 Prolog
落魄の読書人生 (「I・DO」 1994年10月号)
ペテン師、世界を駆ける (「BRUTUS」337号 1995年3月15日号)
小説の生体解剖――ローベルト・ムージル『特性のない男』 (「週刊現代」 1977年6月21日号/連載「一冊の本」第13回)

 Ⅰ
転んだあとの杖 (『ドイツ・ロマン派全集8』月報 1984年1月 国書刊行会)
変身の万華鏡――ホフマン『ブランビラ王女』 (「すばる」 1989年10月号)
ホフマンの百面相 (『集英社ギャラリー 世界の文学10 ドイツⅠ』 1991年5月25日)
『ホンブルク公子』と病める言語 (「駒澤大学文学部紀要」23号 1965年3月15日)
非人間的なものの浮力について (『ドイツ・ロマン派全集11 ジャン・パウル…クライスト』 1990年7月30日 国書刊行会)
ヒュメナイオスの死 (「MRh ミスター・ハイファッション」 1999年6月号)
否定の弁証法――M・ブランショ『カフカ論』 (「日本読書新聞」 1968年10月21日)
マイナーの文体について (「文体」6号・1979年新年号 1978年12月1日)
鏡の此方側の弱い男から鏡の向う側の強い男へ (「話の特集」 1976年11月号)
もう一つの「イマーゴ」 (「イマーゴ」 1990年1月号)
パニッツァ復活 (「ちくま」 1991年6月号)
道化服を着たマイリンク (『バベルの図書館12 ナペルス枢機卿』月報 1989年4月 国書刊行会)
遅れてきたSF作家――パウル・シェーアバルト (「週刊朝日百科 世界の文学19」 1999年11月21日)
まだ殺されていない子供たちのために――笑うペシミズムの哲学者ヴィルヘルム・ブッシュ (「図書」 1986年9月号)
言語=死体の分身――飯吉光夫『パウル・ツェラン』 (「現代詩手帖」 1978年1月号)
みじろぐ声 (『パウル・ツェラン全詩集』全三巻 1992年4月 内容見本 青土社)
のらくら者の国――ローベルト・ヴァルザー『ヴァルザーの詩と小品』 (「朝日新聞」 2003年12月7日)
未成年幻想 (「海」 1982年12月臨時増刊号)
のっそりと我もゆかん――ハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』 (「朝日新聞」 2002年12月22日)
パトリック・ジュースキント『香水』 (「文藝春秋」 1989年4月号)

 Ⅱ
綺想と驚異の十篇 (「幻想文学」17号 1987年1月15日)
二十世紀の名著――私の三冊 (「東京新聞」 1996年10月6日、13日、20日)
百鬼夜行西欧中世お化け屋敷案内図 (「朝日ジャーナル」 1986年4月1日臨時増刊号)
『カルミナ・ブラナ』を聴きながら (「世界」 1988年6月臨時増刊号)
ヴァイキング式百冊の本 (「リテレール」3号 1992年9月1日)

 Ⅲ
鉱物学的楽園 (「ちくま」 1973年1月号)
聖女の宝石函――ビンゲンのヒルデガルドの『石の書』 (「ミセス」 1991年2月号)
宝石と王と錬金術 (「mon oncle」6号 1981年12月)
宝飾の歴史と文化 (『The 宝石 PART II』 1976年1月15日 読売新聞社)
花の怪物 (「いけばな草月」74号 1970年12月)
魔草マンドラゴラ (「幻想と怪奇」創刊号 1973年4月)
無頭人の戴冠式――マンドラゴラの変身 (「FRONT」 1999年5月号)
一角獣 (『夢万年 聖獣伝説』 1988年4月24日 講談社)
バロックの蒐集理論――フェルディナントとルドルフ (『バロック・コレクション1 バロックの愉しみ』 1987年7月20日 筑摩書房)

 Ⅳ
エロチシズムの世界意志 (『性の思想』 1969年6月15日 太平出版社)
霊のポルノグラフィー――クロソウスキー『肉の影』 (「日本読書新聞」 1967年5月15日)
死とエロスの戯れ――レオノール・フィニのサテュリコン (「芸術生活」269号 1972年1月号)
海洋的退行願望――アナイス・ニン『近親相姦の家』 (「日本読書新聞」 1969年10月20日)
生と死の二元論的対立――N・O・ブラウン『エロスとタナトス』 (「日本読書新聞」 1970年7月6日)
冥婚とネクロフィリー (『日本古典評釈全註釈叢書 雨月物語評釈』月報 1969年3月10日)
黄金時代と歌 (『変態大画報』 発行年月日不詳 駿河台書房)

 Ⅴ
悪魔についての五問五答 (「ニューミュージック・マガジン」 1973年2月号)
VAMPIRE――吸血鬼 (「an-an ELLE JAPON」2号 1970年4月5日号)
暗い美青年 (「ドラキュラ――その愛」パンフレット 1979年5月4日 サンシャイン劇場)
私の吸血鬼研究 (「図書新聞」979号 1968年9月21日)
東西の感性の二人三脚――レイモンド・T・マクナリー、ラドゥ・フロレスク『ドラキュラ伝説』 (「週刊ポスト」 1979年5月11日号) 
篤学の愉悦――栗原成郎『スラヴ吸血鬼伝説考』 (「週刊ポスト」 1980年8月8日号)
洋の東西怪談比較 (「第11回 江戸東京自由大学 怖い、見たい、面白い――ミステリアス江戸」パンフレット 1999年10月2日 財団法人東京都歴史文化財団/「江戸東京自由大学 洋の東西怪談比較」講演原稿 1999年10月5日 於江戸東京博物館ホール)
ポー、あるいは時間の恐怖 (エドガー・アラン・ポー 『黒猫』 1992年5月25日 集英社文庫)
郷愁としての恐怖――『アーサー・マッケン作品集成』 (「日本読書新聞」 1973年6月11日)
自動車と怪談 (「小説現代」 1969年2月号)
本格的怪談の醍醐味 (『世界怪談名作集 下』 1987年9月4日 河出文庫)
幻視者の推理小説――コリン・ウィルソン『ガラスの檻』 (「日本読書新聞」 1967年11月6日)
双面の悪魔 (「海」 1972年12月号/連載「惡魔禮拜」最終回)
黒い案内書(ギド・ノアール) (「芸術新潮」 1971年11月号)

 Ⅵ
神話の中の発明家 (『東京大学教養講座11 機械と人間』 1985年1月10日 東京大学出版会)
十八世紀文学的骨董品――アレン・カーズワイル『驚異の発明家の形見函』 (「朝日新聞」 2003年2月16日)
編集者の伝記 (「日本近代文学館」第103号 1988年5月15日)
ミヒャエル・フェッターあるいは遊戯三昧としての宇宙 (「エピステーメー」 1978年6月号)
空想文学博物館 (『イメージの冒険3 文字』 1978年8月30日 河出書房新社)
ヤヌスの文字 (『人間と文字』 1995年4月17日 平凡社)
隠秘論的夢想の世界――シャルル・フーリエ『四運動の理論』 (「週刊読書人」第869号 1971年3月29日)
ポストモダン小説の極致――薫若雨『鏡の国の孫悟空 西遊補』 (「朝日新聞」 2002年4月21日)

 Ⅶ
東西島物語考 (『集英社版 世界の文学17 ゴールディング』月報14 1977年4月)
まじめな顔した遊び (「朝日新聞」 1984年5月21日)
空想名所案内 (「太陽」 1976年9月号)
夢遊者の宇宙旅行 (「季刊NW-SF」第1号 1970年7月1日)
とぶ男・寝ている男 (「is」 Vol. 45 1989年9月10日)
ユートピアの終焉 (「週刊にんげん百科」103号 1975年8月25日)
世界の終りの日から (「週刊にんげん百科」104号 1975年9月1日)
終末と発端のはざま (「太陽」 1977年2月号)

 Ⅷ
古典主義者の愛の冒険譚――エウヘーニオ・ドールス『バロック論』 (「美術手帖」 1970年8月号)
バロックの本 (「EYES」5号 1993年12月31日)
奇抜なメランコリーの世界――マニエリスム文学について (「週刊朝日百家 世界の美術」 1979年2月25日号)
「疎外」と「自己愛」――アーノルド・ハウザー『マニエリスム』 (「週刊読書人」 1970年12月21日)
本格的かつ野心的なマニエリスム研究――若桑みどり『マニエリスム芸術論』 (「朝日新聞」 1981年2月2日)
迷宮としての世界――現代芸術とマニエリスム (「美術手帖」 1965年3月号)
色濃いペシミズム――G・R・ホッケの『絶望と確信』を読んで (「読売新聞」 1975年4月14日)
神を感じる技術としての日記――グスタフ・ルネ・ホッケ『ヨーロッパの日記』 (「朝日ジャーナル」 1991年5月31日号)
物体の軌跡 (『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』栞 1974年12月25日 学芸書林)
ブラック・ユーモア その後――アンドレ・ブルトン『黒いユーモア選集』 (「週刊読書人」 1969年4月7日)
悪の分光器――ホルヘ・ルイス・ボルヘス『悪党列伝』/ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサレス『ボルヘス怪奇譚集』 (「日本読書新聞」 1976年9月27日)

 Ⅸ
暗黒小説のきわめつき――J‐K・ユイスマンス『彼方』 (「週刊読書人」 1975年6月23日)
空間表象の考察――ミルチャ・エリアーデ『聖と俗 宗教的なるものの本質について』 (「SD」63号 1970年1月号)
聖化された宗教的人間論――ロジェ・カイヨワ『人間と聖なるもの』 (「出版ニュース」 1970年2月中旬号)
二つの世界の間で――ケレーニイ断想 (「現代思想」 1973年8月号/特集「ケレーニイ 新しいギリシァ像の発見」)
よみがえる古代的実存――カール・ケレーニイ『神話と古代宗教』 (「中央公論」 1972年8月号)
太古の老婆を離れて (「現代思想」 1977年5月臨時増刊号/特集「フロイト」)
無意識の言語の解読――C・G・ユング『人間と象徴』 (「日本読書新聞」 1972年10月23日)
孤独者ライヒ (「情況」 1971年増刊号 5月25日/「W・ライヒ特集 性の抑圧と革命の論理」)
逆さ吊りのフールが演ずるアクロバット――ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』 (「中央公論」 1983年8月号)
解体の様式、様式の解体――ヴォルフガング・カイザー『グロテスクなもの』 (「日本読書新聞」 1968年4月29日)
普遍宇宙へのメッセージ――ワイリー・サイファー『現代文学と美術における自我の喪失』 (「出版ニュース」 1971年12月中旬号)
透明な文体――エリアス・カネッティ『群衆と権力』 (「朝日ジャーナル」 1972年1月21日号)
ここに第二のフェデリコと……――ダンテとフリードリヒ二世 (「國學院雑誌」 1989年11月号)

 Epilog
災害解釈の精神史――クライストの地震小説について (「地震ジャーナル」24号 1997年12月20日)

解題 (齋藤靖朗)
種村季弘略伝 (齋藤靖朗)



種村季弘 詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想 02



◆本書より◆


「夢記」より:

「のらいぬ」
「真黒な雲がコールタールを流したように動いている。ところどころに金色の縁取りが輝いて、暗雲の凄みがいっそうギラつく。モスクワで原発が爆発した。それをテレビで放映している。私は寝ころがってそのテレビを見ているらしいが、窓の外に目をやると同じ黒雲が流れている。すみやかに流れている。世界は終わりである。」
「ではもう逃げる余地はない。街は無人となり、放射能が充満し、人々は家に閉じ籠もって食料の備蓄を数えはじめている。よそ者に分ける食料・燃料の余裕はもうなくなった。たとえ家々にわずかな蓄えがあったとしても――それがはたして何日もつか――私には無関係のこと。私は何もないところに投げ出され、まもなく野良犬のようにくたばる。」

「夢 79・1・2」
「一人になり、坂を下りる。
 坂の上からすばらしい景色が見える。」
「列車が通る。東海道線に似ているようでもあるが、もっとドイツ風に硬い感じもする。上りと下りがすれちがう。
 どちらへ行けばいいのか。
 もう家へ帰れないという、途方に暮れた感じ。
 それでいて風景の全体は狂気のように美しく、無責任な感じで、それに恍惚としている。」

「83・日時不明」
「腹黒い人間にのせられたという悔恨がヒリヒリうずく一方で、このまま失墜し続けてゆくのも悪くないという気が裏側から忍び寄っている。今更ながら、世の中というものに関わりあった罰であり、その不毛な味をかみしめている。」



「落魄の読書人生」より:

「詐欺師の勉強っていうのは、生きる上で大いに役に立つ話じゃないかな。」
「人生を普通の人と同じように生きながら、違うレベルでも生きているというのは立派な詐欺だからね。
 本音と公の生き方の間にズレがあるのは当たり前。人前では普通の人と同じように振る舞って、腹の中では全然違うことを考えるのは、今の社会で自分の好みを守っていくための、最低の原理だよ。その関係をどう調整するか。それを一番うまくやっているのは、完全な詐欺師ですよ。
 国家とか社会とか会社とか組織はね、個人を使おうとするわけでしょ。逆に制度を、個人が使うものだと逆転していく方法もある。対決するだけじゃなくね。」

「幸田露伴って人は大変博学な人で……氷っていうのは、いっぺんに凍るんじゃなくて、水の上にゴミが浮いて、それがまず凍る。それがいくつもできて、それが線でつながって、一気に氷になるわけ。だから知識っていうのも、本なんかを点々と読んでいくんだけど、ある瞬間にそれがパッとつながるってなことを言ってる。」
「読書の世界というのは、どんな入り方をしても、つながっていくからね。自分が面白そうだと思うものを読んでいったら、必ず同じようなタイプの作家に触手が伸びていくし、解説なんか読むと作者の系譜がわかったりするよね。」
「多少抜けてもいいから、いろんなものを読み漁った方がいいと思う。何が好きかっていうのも、ある程度読み漁らないとわからない。そのうちどういう作家にアプローチしていけば、自分の正体がわかるかが見えてくるよ。」

「現世の生活を放棄しないと、本当の文学はできないよ。誰がどうなろうと、自分だけは自分の好きなことをやるっていうんじゃなきゃ。人に悪くいわれることも含めて、自分のエゴイズムをつらぬき通さなきゃやっていけないですよ。」
「書かなくても自分の中にその世界はこっそり持っているというね。これっきりしかない現実の他にもう一つ自分だけの世界を持っているというのは、生きていく上での張り合いにもなると思うんですよ。」

「押しつけられたんじゃなくて、誰がなんといおうと、僕はこれが好きだっていえる作品を選んでいくわけね。自分の実存みたいなものを通じて接触した作家は読むけど、他は読まない。僕は今でもそうだよ。」

「あるマニュアルを他の人と共有していれば、安全かもしれないけど、予想外の事件に遭遇したときには、全く役に立たないんじゃないですか。むしろそんなもの知らない人、自分だけでやってきた人の方が、切り抜けられると思うよ。」

「ダメになるってのは悪くない。どういうふうにダメになるか、どういう没落の仕方をするかっていうのは、過去の世紀末現象を知っておくといい。
 いずれは滅亡はするんですよ。その滅亡の仕方が面白くて、楽しければいいんじゃないの。落ちぶれる楽しさってのはあると思うんだ。」



「ペテン師、世界を駆ける」より:

「正史というもののパロディー。抑圧された連中が、抑圧する人々の歴史をパロディーにしていく。これが、(中略)偽書なるもののいわば典型である。
 偽書とは、本質的に、ある文化圏の外部からやってきて、その文化をひっくり返そうという人々の手になるものだ。」
「シェイクスピアの未発見の原稿を捏造したアイアランドは、まだ十代の少年だった。少年もまた、その社会性を持たないという無垢性において、社会の外にあってその有害性を告発する存在だ。」



「非人間的なものの浮力について」より:

「話しているのに、相手に声が届かない。向こうがなにか話しているのがまざまざと目に見えていて、ことばが聞こえない。対話者同士の間に、伝達不能、接触不能の透明な薄膜がびっしりと張りつめ、こちら側とあちら側は決して交わることのない二つの別々の世界のように平行し続ける。かりに接触すれば、原理の異なる二つの世界の住人たちはそれぞれ相手を誤解し、猜疑し、不信をはぐくみ、ついにはどちらか一方が他方を殺戮しないわけにはいかなくなる。
 これは、対話が本質的に成り立たない状況である。(中略)したがって、対話がすすめばそれだけ相互理解が深まるのではなくて、対話を続ければそれだけ裂け目がひろがり、行手に虚無が巨大な口をぱっくり開くのが手に取るように見えてくる。」
「なぜか。対話の具であることばがすでに病んでいるからだ。汚れのないアダムの言語はうしなわれて久しい。ことばは病み、分裂し、相反する二つの意味を同時に語り、したがって理解させるよりは理解させないために語られ、直線的に相手に届くよりは迂回し、迂回に迂回をくり返すうちに迷子になって、途中に待ちうける虚無に呑みこまれてしまう。」
「ハインリヒ・フォン・クライスト、(中略)生まれつき軽い吃りで癲癇の傾向があった。十一歳のときに父が死んだ。それから五年後に母が死んだ。少年時代にすでに庇護者をうしなっていた。
 以後三十四年の短い生涯は挫折に次ぐ挫折の連続である。」
「たえずとりとめのない放心状態に恍惚と浸っている。実際、クライストに会った同時代人たちは、この青年の奇妙な放心状態に気がつかざるを得なかった。一八〇三年のさる記述から――
 「彼にあって人目をそばだたせないわけにはいかないいくつかの挙動不審のひとつに、一種奇妙な放心状態があった。彼と話していると、たとえばたった一語がつぎつぎに組鐘(グロッケンシュピール)のように一連のイデーをその脳に引きつけるようで、ためにもはや彼は人の言うことを耳にしておらず、したがって答えを返すということもしなくなるのであった」
 軽度の癲癇発作、あるいは夢遊病の徴候である。生身の人間でありながら石像のように、眼前の現実に対して突如として不感無覚になる。向こうの声はこちらに届かず、こちらの思考は向こうに伝わらない。対話はたちまちアダムの言語ではなくバベルの言語の支配する場となる。しかしながら未完のエッセイ『話をしながらだんだんに考えを仕上げていくこと』をお読みになった読者は、このバベル的な言語の混乱、対話不能の只中にこそうしなわれたアダムの言語の生成する唯一のチャンスがひそんでいるというパラドックスを、つとに了解されておられよう。
 現実には発語不能の吃りで赤面恐怖症の青年は、夢遊病的な不感無覚においてこそ純粋な言語生成の現場に立ち会う。クライストの劇中の人物の例でいうなら、遺稿『ホンブルク公子』の主人公が彼の分身である。夢遊病者ホンブルク公子は、夢遊のさなかにこそ栄光に輝く勝利を収め、果ては夢遊のうちにこの世ならぬ言語の流通する聖なる世界へ昇天してゆく。ゆくりなくもジークフリート伝説が思い起こされる。悪龍(地上の現実)を退治したジークフリートの身体は不感無覚の鉄の皮膚によろわれ、森の小鳥のことばをらくらくと理解するようになるのである。」

「一口に言えば、やることなすことが裏目に出た。地上とは別の真理が支配している他の天体からやってきて、この地上でそれを実現しようとしてそのつど場違いをさとらされ、手ひどく地べたに叩きつけられるのである。現実との和解はついにやってこない。彼はあらかじめ現実不適応なのだ。発語という発語がことごとく対話を破綻させてしまうか、孤独な独白のほうへ差し戻してしまう。この吃音青年は行動においても、なにか行為に手をつけるや、現実との幸福な和解にはいっかな到達せずにそのつど孤独の淵へと突き戻されてしまう。あたかも、この地上に彼のための場はない、とでもいうように。」

「最後にふれておきたいのが、夢と眠りの恩寵について。耐え難い現実とのストラッグルのなかで、クライストにとって睡眠こそは唯一の救済であったらしい。アルニムは、クライストが「しばしば一日中ベッドの中にいて、そこで煙草パイプをくわえてだれにも邪魔されずに仕事をするという奇妙な生活」をしていた、と回想している。」
「「世界は、私には、小さい箱が大きい箱にそっくりの入れ子のように思える」と(中略)書くクライストにとって、睡眠という「小さな箱」が(現実の生と相容れない彼にとっての)最大の恩寵である死という「大きな箱」そっくりの入れ子だったのである。『ホンブルク公子』では、実際睡眠(夢遊)の小さな箱に外界の現実と隔絶し、カプセルに入るように閉じこもって、公子は最大の箱たる死に向かって恍惚と昇天してゆく。」
「夢、睡眠、放心状態、言語遊戯には現実原則が不在であり、現実の秩序とは異なる秩序もしくは無秩序が支配している。現実には敵対的な表象もここでなら宥和のうちに迎えることがあり得るのである。ここには地上の重力の拘束を免れ、悪しき意志をあらかじめ免責されたもう一つの力の法則、「聖ツェツィーリエ」(中略)の音楽の力や、あの卓抜なエッセイ「マリオネット芝居について」(中略)の引力の拘束を知らないマリオネットのかろやかな浮力の法則が、この地上空間にさえあまねく行き渡っているのだから。」



「遅れてきたSF作家」より:

「シェーアバルトの小説、エッセイは、(中略)どこまでも現実離れしていて同時代には受け入れられなかった。徹底した平和主義者だったシェーアバルトは、第一次世界大戦に際して抗議の絶食の末に餓死した。」


「のらくら者の国」より:

「何ごとにも気づかぬ男がいた。頭の中は空っぽで、一切に無頓着。財産をすっかり失っても気がつかない。帽子を忘れても、靴底が抜けても、平気ですたすた歩いている。ある日、道を歩いているうちに、コロンと首が落ちた。誰かがそれを見て、「首はどうしました?」と声をかけてもどこ吹く風。なにしろ首がないので聞く耳がないからだ。
 上の空で生きている。だから目の前の現実に適応できない。何をやらせてもダメ。第三者から見れば変ちくりんなダメ人間である。とんまで、のらくら者で、どこかみんなからはずれた所にいて、そこでなら「ひっそりかんと、言葉もなく」、心おだやかに過ごしていられるらしい。彼はここでは変人かもしれない。でも、彼のような人間こそがまともでいられる国がある。世界の中心にある遠い帝国(中略)では、あべこべに誰もがそんなふうなのだ。
 「そこでは、すべてが実に穏やかに展開するのだった。快くも健やかな(中略)物憂さが、人びとの生活をおおっていた。人びとは、ある意味で、物ぐさだった。」こちらののらくら者は、あちらではごく当たり前の人間たち。かれらはあくせくと人を出し抜いたりしない。
 「かれらはさながら花のように生き、枯れ萎(しぼ)んでいった。」
 スイスの詩人・小説家ローベルト・ヴァルザーの詩と小品集である。現実にも夢想家肌の生活無能力者だったヴァルザーは、兄たちの庇護を受けながらかつがつに生き、五十歳にさしかかると自らの意志で精神病院に入院し、そこで二十七年間生きて七十八歳で没した。」



「未成年幻想」より:

「だがこの子供はあらゆる子供と同様、大人になるのでなければ、やがてかならず死ななければならないのだ。
 とはいえ死なない子供もいないわけではない。かつてルドルフ・シュタイナーは、「これ以上の進化を放棄した」ダウン症候群モンゴル児に元型人としての天使のイメージを見出した。あらかじめ「私」のないこれらの子供たちは、自我の目覚めにも、その死にも、てんから無縁だからである。」



「鉱物学的楽園」より:

「「孤児」と称されているのは別名単玉石(ソリテール)、巨大な乳色オパールである。孤児の別名は錬金術に由来するが、この場合には賤称ではなくて、かけがえのない「唯一者」の意味である。アルベルトゥス・マグヌスの説明によれば、「他の場所では絶対に見られないので、オルファヌス、すなわち孤児と称され、夜の暗闇のなかでも光を発する。そしてたとえ発光力を喪失しても、なおその独特の美しさのために王の栄誉を護る」のであった。単玉石はしたがって中世を通じて至高の王者の石であった。」


「神話の中の発明家」より:

「ハンガリーの精神分析家サンドール・フェレンツィは『タラッサ』の中で、大洋的退行、巨大な海に反進化論的に戻っていく身体感覚について述べていますが、(以下略)」

「神話的発明家たちは島や船のような、あるいは洞窟や海底のような、この世を離れた隔地(ディスタント)に生息しています。ということは連続的な大陸(コンティネント)(=連続)の住人ではないということです。その非連続性が身体的不具としても表現されているのですが、しかしこの不具性はそれ自体として完結された形象ではなく、不完全性とはさまざまに可能な完全性へ向う生成過程そのもののメタファーにすぎません。孤島に生きている彼らは、大陸の住人がその「正常」の身体においてすでに実現し固定してしまった一つの完全性のイデーには汚染されていない。ちょうど子どもがおさなく未成であることによって生成過程を体現し、それゆえに大人の完結してしまった進化過程を越えているように、身体的不完全はたえず変形しながら一つの形態に固定されることを嫌う生成のメタファーであり、だからこそ発明的な神々はある形態の量産的コピーである生産や生殖とは無縁であります。彼らは人びとに生産のための道具を贈与しはするが、みずからは生産に(また生殖にも)携わらない。彼らが火山の住人であるのは、彼ら自身が火の変形する力によってたえず造り変えられている途上の一つの形態であるからであり、また彼ら自身がすでに完全に達したと思い込んでいる思い上った世界の不完全性を指摘して、それを変える火のエレメントだからです。不完全なのは彼らではなく、彼らを一つの(引用者注: 「一つの」に傍点)完全性の視点から不具と見なすこの世の方なのです。だからこそ、その固定し硬化した一つの完全性を壊して、それを別の次元へと変えるための道具を彼らは次々に提示してくれる。」
「神話のなかでは、蛭子もヘーパイストスも、その身体的畸型ゆえに海の彼方の島=隔地に追放されます。(中略)けれども連続性の世界たる大陸の人びとは、その連続的思考が行き詰ると、かつて法則の例外として排除した彼らに救いを求める。非連続的思考によってしか越えられない局面があることにそのときはじめて気がつくのです。」
「発明的な知はどこにどういう形で存在するか。
 世界の果ての海で、法則の例外であるために追放された例外者たちが、例外の集合体たるユートピアを造営しながら、その創造物をせっせと世界に贈与している光景が目に浮かびます。彼らが私たちに贈与してくれるのはこの世の外、絶対的な外部にほかなりません。」



「夢遊者の宇宙旅行」より:

「ハーンによれば、人類はもともと地球以外の他の天体に住んでいて、その星にあっては重力の支配力が地上ほど強固ではなかったので、人間は自由自在に空を飛行することが可能だった。しかるに人間は重力の束縛のある地球に移住してきていらい、かつての飛行能力を忘却し、かろうじて夢のなかでだけ思い出すことがある、というのである。」


「ユートピアの終焉」より:

「ユートピア物語の常套は、その舞台の多くが人里はなれた森林や山の奥の桃源郷のような隠れ里であるか、それとも大洋にへだてられた島や未知の大陸となっていることである。(中略)なぜなら旧大陸(ヨーロッパ)本土はもはや手のくだしようのないほど腐敗しているので、これをすてて別大陸か島にうつりすむのでもないかぎり、理想の共和国は実現不可能とおもわれたからである。」
「このユートピアの水や高山にへだてられた現世からの純潔な隔絶という図式は、ほとんどのユートピア小説がなんらかの意味でプラトンのアトランティスを発想の源にあおいでいることをものがたっている。アトランテイスは、(中略)「ヘラクレスの柱」の外側にかつて存在した大きな島で、常春の地上楽園であったが、アテナイとの戦争にやぶれたのち、一夜にして海中に没した。伝説のなかのムー大陸やレムリアとおなじく、現在の大陸の栄える以前に滅亡した「沈める大陸」である。
 モアは、プラトンのアトランティスを彼のユートピアの典範と考えていた。すなわち、ユートピアは再発見されたアトランティスなのである。したがって、この沈める国がふたたび浮上してくれば、かつてこの理想国をほろぼした現にある国々とその歴史のほうが沈没するのでなければならない。」
「ユートピアのもう一つの重要な特徴は、その幾何学的な秩序のもとに生前と統制された、異様な「静謐」である。そこには時間の苛酷なむちのもとに生産や闘争に明け暮れる歴史の無秩序とは正反対の静けさが、あまねくゆきわたっているようにみえる。なぜなら、ユートピアは空間的に現世である大陸本土から隔絶しているばかりではなく、時間的に歴史から隔絶した“無時間(ユークロニア)”のなかに存在しているからである。したがって、外部からながめたそれは、時間のながれのない、あるいは極端に時間の流れの緩慢な、死の国のようにみえる。人びとは彫像のように凝然と佇立(ちょりつ)しているか、それとも、ゆったりとした長衣のなかで労働のリズムとは考えられるかぎり無縁な優雅なくつろぎの身振りでうごく。水のなかでのようにあらゆる動きが緩慢である。生産も進歩もなく、人びとが時間の破壊作用にしたがって老いを知ることもない、この国は、要するに、歴史嫌悪の表現なのである。」



「世界の終りの日から」より:

「しかし終末の予言はあたらなくてもいっこうにさしつかえないのである。なぜならそれは、本来、(中略)世界の滅亡の後におとずれる精神の王国への期待から、死のヴィジョンをつうじて再生の力をくむ精神の瞑想(スペキュレーション)のための糧にほかならないからである。」


「災害解釈の精神史」より:

「混乱と無秩序に対抗して、それを理性や力で押え込むのではなく、混乱と無秩序と、この場合なら地震の振動と、身体的に共振し、ともに戯れ遊ぶことによって(成人という意識的人間には失われた)優美さを取り戻しながら危機を切り抜けること。」
「子供と美的人間(芸術家)。それは最悪の災害にも共振して、いわば悪を相手にしてさえ遊戯するすべを心得ています。」
「自然(災害)の巨大な力をいわばロゴセントリックな対抗力によって圧服せしめるのではなく、ときには荒らぶる自然と共振し共戯しながら変則的な逃走線に沿って力をズラし、力線をはぐらかすこと。災害解釈の精神史が行きつく先にこのような遊戯精神の奇想が出現してくるのは、まことに意味深長ではありますまいか。」





幻戯書房の本:

中井英夫 『ハネギウス一世の生活と意見』
塚本邦雄 『異国美味帖』























































ウド・トゥウォルシュカ 『遍歴』 種村季弘 訳 (【叢書】象徴のラビリンス)

「すなわち、大本のところでは多くの宗教は皆一つなのだ、と。それらは皆、同じ目的に通じる複数の道と見られるのである。」
(ウド・トゥウゥルシュカ 『遍歴』 より)


ウド・トゥウォルシュカ 
『遍歴
― 約束の土地を求めて』 
種村季弘 訳
 
【叢書】象徴のラビリンス

青土社
1996年11月10日 第1刷印刷
1996年11月20日 第1刷発行
337p 別丁図版(カラー)6葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
装幀: 戸田ツトム+岡孝治



本書「訳者あとがき」より:

「本書は以下のテクストの全訳である。
 Udo Tworuschka: Sucher, Pilger, Himmelsstürmer. Reisen im Diesseits und Jenseits. Kreuz Verlag. Stuttgart 1991.
 題名を文字通りに訳せば、『探究者、巡礼、天界突撃者――此岸の旅と彼岸の旅』とでもなろうか。」
「もっとも本書はかならずしも聖地詣でのみをモティーフにしていない。副題にもあるように「此岸の旅と彼岸の旅」であり、天上界を経めぐる旅がそのまま模型的に地上を漂泊する各種の旅になり、その逆もまた真、という、上にあるものと下にあるものとの錬金術的対応の原理から構想されている。それかあらぬか、伝統的な聖地詣で、神社仏閣めぐりに加えて、きわめて現代的擬似イヴェント的聖地詣でとしてのディズニーランドなどのテーマ・パーク詣でが顔を見せたりもする。こうして、マス・トゥーリズムが繁盛し旅行がパック商品化し尽くすと、かえって「最後の楽園」式のコピーにつれてたましいの古層が浮かび上がってくるというパラドックスに読者はあらためて当面させられる。」



本文中図版(モノクロ)多数。


トゥウゥルシュカ 遍歴 01


カバー文:

「楽園表象の起原はどこにあるのか? 楽園――それは宗教史の最古の日々から伝えられてきた、
約束という魔法の呪文だ。もともとは――古代イランでは――楽園とは、生垣で囲われて塀囲いをした庭園を意味した。
庭園を造営すること――はじまりのカオスの世界に型を組み入れ、不要のものを排除して、秩序、すなわちコスモスを創出すること――、
秩序づける創造という思想が楽園思想と大いに関わっている。」



目次:



探究の旅
 回り道を経て目的地へ
 楽園の旅
  ザラスシュトラと神の王国
  阿弥陀と浄土への旅
  イスラームの「平和の家」
 幸福の旅
 約束の地
  「あなたは国を出て……」
  「アブラハムの脱出」――約束の地と神殿共同体
  「第二のイスラエルのように……」
 天上のエルサレム
 西方の救済
  「虹の端に至るまで……」
  モルモン教徒の西部移住
  「はるか海のなか、スペインの西に、その名もコカーニエンという国ぞある」
  ユートピア
 救世主をもとめて
  聖なる三人の王の探究
  「魔術師の旅」
  シメオンとアジタ
 牛探し

脱出と逃走
 逃走の理由
 動物のパニック逃走
 家出と帰宅: 放蕩息子
 エクソダス(脱出)
 エジプト逃亡
 教祖の放浪と逃亡
  ムハンマドのヒジュラとその象徴表現
  ザラスシュトラ(ゾロアスター)の逃亡

先に立つ者と後に従う者
 教祖の「さすらいの運命」
  イエス――放浪の奇蹟救済者
  「我が騎獣は我が足なり」
  仏陀の出家遁世の旅
  老子出関
 イエスと仏陀における後に従う思想
  イエス
  仏陀
 十字架への道の祈禱とボロブドゥール

巡礼旅行
 世俗的巡礼旅行
 聖地詣で
 探究の道
 イスラームのハジュ
 トゥーリズムと巡礼旅行

内部への道、上方への道
 神秘の旅
 神秘的上昇と神秘的合一の舞踏
 『闇の奥』
 「たましい」のさすらいと旅
 天界旅行と脱魂
 イエスとムハンマドの天路歴程
 グノーシスの天界旅行
 シャーマンの天界旅行
 トランスパーソナル体験旅行

人生行路のイメージ
 卓越せる人生-象徴
 「さすらう神の民」
 巡礼旅行としての生
 ジョン・バニヤンの『天路歴程』
 世界旅行者と諸世界旅行者
  生きものの諸世界迷行(輪廻転生)
  筏と船について: 災厄の大海を渉る海


 道と街道の象徴表現
 「天のタオ」と「地のタオ」
 「故郷を出て無故郷に入るあゆみ」、「覚醒への道」と「禅-仏教の道」
 「精霊たちの道」
 ヒンドゥーのマルガ
 「神の道と人間の道」
 「道に所属する者たち」
 イニシエーションの道
 コーランの道
 「岐路」
 救済にいたる多くの道

原註

訳者あとがき



トゥウゥルシュカ 遍歴 02



◆本書より◆


「探究の旅」より:

「古代チグリス、ユーフラテスの住人たち、エジプト人、ギリシア人、ローマ人、またケルト人も、その時々に、楽園の庭という夢想を夢見た。古代ヘブライ人は「エデンの園」の光景をまざまざと思い浮べた。個々の楽園にどれだけ差異があろうと、すべて楽園は創造の朝の時刻のうちにある。楽園の再帰は、しばしばあらゆる時代の暮れ方に待望されるのである。」


「内部への旅、上方への旅」より:

「アッタールは旅をするたましいを鳥になぞらえる。鳥は宗教説話にしばしば登場する形象である。薬物学者にして壮大な物語作家たるアッタールは慰撫への旅のための一種の時刻表をのこした。地上の鳥たちが、とアッタールはその『鳥の言葉』のなかで語っている、むかし自分たちの王様をみつけに一堂に会した。地上のどの国にも王様のいない国はないからだ。集まった鳥たちにヤツガシラが重要な情報を教えてくれた。鳥たちの神秘的な王様はシムルグという名だというのだ。シムルグは、聞くところによれば、世界を包む山であるクアフに棲んでいる。そこまでたどりつく旅は長く、不案内で、危険に満ちている。すでに命を落としたものがすくなくない。結局何千羽という鳥がヤツガシラの案内で飛び立ってゆく。旅は七つの谷を横断しなくてはならない。愛の谷、悟りの、無欲の、一体性の、奇蹟と驚異の、最後に無と死の谷の七つである。鳥たちの旅はまことに長かった。(中略)旅路の終わりまできても鳥はまだ三十羽いた。シムルグの許まできて彼らは、シムルグとは彼ら自身にほかならないと分かる。つまり、シムルグとは語義的には「三十羽の鳥」という意味なのだ。

  彼らはいまや至高の平和のうちにあった。ある新たな生命がシムルグとともに彼らに語りかけていた。これまでの旅のあらゆる心労、あらゆる苦難が一挙にけしとんだ。彼らは驚きのうちに、自分たちがシムルグそっくりであり、シムルグが自分たちにそっくりなのに気がついた。そしてもう、自分たちがシムルグなのか、シムルグが自分たちなのか、訳が分からなかった……。汝らの存在を我がうちによろこんで消滅せしめよ、さすれば汝らは我がうちにて汝ら自身を見出すであろう。」

「ギリシア人の間では美しい調和的神的秩序の総括概念であったコスモスは「闇の住い」と化し、「牢獄」と化す。人間の肉体はこの疎ましいコスモスの一部と目され、救済を必要とする自己が解放されるのを待ってひそんでいる「悪臭を放つ肉体」として蔑視される。この未救済の孤立している光の火花は痛切な悲嘆に暮れて根源的故郷を思い出しており、マンダ教のさるテクストでは次のように絶望的に問いかける。「世界の苦患に私を投げ入れたのは何者なのか?」、「なにゆえにそなたたちは私を私の場所から離して牢獄に入れ、悪臭を放つ肉体に投げ入れたのか?」。みずからに何の負い目もないのに、自己はみずからが遠方と故郷喪失に「投げ込まれている」のを目のあたりにし、そこで孤独に救出を待ち焦がれている。分離の苦痛と憧憬――この対照をなす感情が、超越的な光の火花の実存的孤独体験を創出する。(中略)グノーシス主義者は、かつて光の火花が生まれてきた場所へこそふたたび立ち帰らんとするのである。」



「道」より:

「いかなる宗教伝統も人間に、その信仰を生き、みずからにふさわしい道を見出す一連の可能性をゆだねている。ある人に適合するものが、他の人にはまるでしっくりこないこともあるかもしれない。結局、宗教の道はほとんど無限に多数主義(プルラリスムス)化する傾向があるのである。

 神に向かう道は、人類一人ひとりのたましいの数とほぼ同数なのである。」



























































































種村季弘 『東海道寄り道紀行』

「旅は一直線ではなく、方々に好奇心を引っ張られて寄り道をするのがおもしろい。また現地のほうも思いもかけない隅々まで寄り道をしてもらわなければ、うれしくないだろう。私はむしろ不器用な旅をするのが好きだ。」
(種村季弘 「水源は富士山」の錯覚」 より)


種村季弘 
『東海道寄り道紀行』


河出書房新社 
2012年7月20日 初版印刷
2012年7月30日 初版発行
156p 初出一覧ほか2p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,600円(税別)
装幀: 山元伸子


「*本書は単行本未収録のエッセイ集です。」



没後刊行紀行文集。本文中地図14点、図版3点。


種村季弘 東海道寄り道紀行 01


帯文:

「探索踏査の途中下車旅!
待望の単行本未収録紀行集ついに刊行
歴史・民俗・伝説・温泉・酒を訪ねて出かけよう。
鉄道に揺られて街道の奥のまた奥へ、まだまだ知らない日本に出会う。」



目次 (初出):

「水源は富士山」の錯覚 狩野川流域 (〈東海道寄り道紀行〉 1 『ラパン』 1998. 11)
奈良王の隠れ里 富士川・早川を上って西山・奈良田温泉へ (2、同上、1999. 1)
湯中浮遊の極楽 奥大井の旅 (3、同上、1999. 5)
花祭の里紀行 天竜の支流 (4、同上、1999. 7)
今昔木曾街道繁盛記 名古屋駅から中央線へ (5、同上、2000. 1)
奥美濃 花奪い祭の里 美濃白山馬場への道 (6、同上、2000. 4)
だじゃの木訪問記 美濃・揖斐川流域 (7、同上、2000. 7)
足助街道 塩の道 矢作川・巴川流域 (8、同上、2001, 1)
塩の道・星の糞 水窪から青崩峠へ (9、同上、2001. 7)
妖怪かワニか 川の町・三次散策 JR三江駅・三次駅 (『ラパン』 1999. 3)
列車は我輩と同年配 高山本線・奥飛騨列車旅行 (『ラパン』 1999. 10)
鬼ノ城 古代山城と桃太郎伝説 (『ラパン』 2000. 10)
おむすび温泉 倉真温泉+法泉寺温泉 (『うるおい倶楽部』 1998. 1号)
金色の極楽浄土 芝川・瓜島温泉 (『うるおい倶楽部』 1998. 2号)
縮地気妖の怪 (『群像』 1988. 9)



種村季弘 東海道寄り道紀行 02



◆本書より◆


「鬼ノ城」より:

「ところで、桃太郎の鬼ヶ島征伐の話はどなたもご存じだろう。(中略)このおとぎ話の桃太郎が大和朝廷から派遣された吉備津彦(きびつのひこ)、征伐される鬼のほうは製鉄技術に長けた温羅(うら)という渡来人だったという、いわばある種の原話が吉備国に古くから行われていたらしい。そしてその温羅が立てこもって吉備津彦軍を迎えたのが、今回探訪する謎の山城=鬼の城だというのである。」

「吉備津彦が温羅を捕らえて首をさらし物にした。それでも温羅の首がうなり続けたので、首を犬に食わせてこの釜の下に埋めた。それでもまだ首は十三年間うなり続けた。よくよく「まつろわぬ民」だったのだ。」

「そういえばご当地のパンフレットに、表紙からは「桃太郎伝説――ヒーロー・吉備津彦」の物語、裏表紙からは「温羅伝説――アンチヒーロー・温羅」の物語が読める、リヴァーシブルな編集をした一冊がある。体制好きと反体制ファン、その両者とも無関心ではいられない鬼ノ城の謎というわけだ。その謎はしかし簡単には解けそうにない。」




◆感想◆


「妖怪や盗賊が出現しやすい」「境になる場所」「血なまぐさい戦争の地」であり、そこでは「熊坂長範」(盗賊)が旅人を襲い、「吉備津彦」「ヒーロー」「体制」)が「温羅」「アンチヒーロー」「反体制」)を退治する。とはいうものの、「いまや正義の味方の桃太郎=吉備津彦より鬼の温羅に人気がある」。そうすると、「ヤクザ」を殺して温泉客を人質に籠城した「金嬉老」はヒーローなのかアンチヒーローなのか。「日光の射し加減で」人が「異形の化物」に見える「四五六(しごろく)谷」や、遠くのものが近くに見える「縮地気妖の怪」のように、対立する二元が入りまじり、「稲生物怪録」の武勇少年「稲生武太夫」と魔王「山本太郎左衛門」が友情を交わす、人も妖怪も悪も正義も体制も反体制も現実も夢も生も死もリヴァーシブルな「極楽浄土」「温泉」こそが、寄り道しつつ到達すべき目的地だということなのでしょうか。

















































































































































フリードリヒ・グラウザー 『外人部隊』 種村季弘 訳

「「いつもこうだったんだよ」と彼は言った、「ごく小さいときからだ。皆がおれを憎むんだ。(中略)おれにはどうしようもないし、他の人たちもどうしようもない……根っからこういうふうらしいんだ。おれには他人(ひと)を苛立たせる何かがあるみたいだな。これはもうどうしようもないことなんだよ。」」
(フリードリヒ・グラウザー 「贖罪の山羊」 より)


フリードリヒ・グラウザー 
『外人部隊』 
種村季弘 訳

文学の冒険 第58回配本

国書刊行会 
2004年7月20日 初版第1刷発行
484p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,600円+税
装幀・造本: 前田英造
装画: 勝本みつる



本書「解説」より:

「四歳で生母と死別した。ウィーンで高等学校(ギムナジウム)第三級まで履修してからスイスの田園教育舎、さらにジュネーヴのコレージュに学び、そこで教師と悶着を起こす。次いでチューリヒ・ダダに最年少のメンバーとして加わる。やがてモルヒネ依存症になり、それが原因でウィーン商科大学フランス語教授だった父親により精神病院に強制隔離される。以後は精神病院、外人部隊、炭坑夫、庭師、のような二十世紀初頭の独身者集団のあいだを転々と放浪する。以上の消息は本書(中略)「自伝的ノート」に報告されている。
 生前はもっぱら特異なミステリー作家として知られていた。だが死後出版された一連の作品によって、狂気作家ローベルト・ヴァルザーと戦後の不条理劇作家フリードリヒ・デュレンマットを結ぶ二十世紀スイスの先駆的アウトサイダー作家として評価される。これがフリードリヒ・グラウザーの簡略なポートレートである。
 訳出したのは『外人部隊』、ほかに自伝『ダダ、アスコーナ、その他の思い出』、短篇小説集『モルヒネ、および自伝的テクスト』。いずれも自伝的要素の色濃い作品である。」



グラウザー 外人部隊


帯文:

「ランボーのほのめく光を盾に
プルーストの主題を
コンラッドの文体で書く」



帯背:

「ダダイストの生涯」


カバー裏文:

「男爵家の血筋を引きながら殺人犯として外人部隊に逃げ込んできたピエラール、
麻薬売人のスミス、少年たちを漁った男色家のシラスキー、
オスカー・ワイルドに愛されたと自称するパチョウリ……
ヨーロッパ、スラブ、アフリカから集まった人間たちの奇怪な絵模様が渦巻く
フランス外人部隊を舞台に、みずからの破天荒な生を描き、
セリーヌやブレーズ・サンドラールの精神的系譜に連なる傑作長篇小説『外人部隊』。
他に、モルヒネ依存症だった自己の生涯を濃密に反映させた短篇小説集『モルヒネ』と、
ダダイズム運動の貴重な証言『ダダ、アスコーナ、その他の思い出』を収録。
先駆的アウトサイダー作家の待望の作品集。」



目次:

外人部隊

モルヒネ
 割れたグラス
 書く……
 精神病院日記
 七月十四日
 コロン-ベシャール-オラン
 簡易宿泊施設
 秩序攪乱者
 園芸場
 音楽
 パリの舞踏場
 モルヒネ――ある告白
 贖罪の山羊
 道路
 同僚
 忘れられた殉教者
 隣人
 村祭
 自動車事故
 十一月十一日
 鶏の運動場
 夏の夜
 インシュリン
 魔女とジプシー
 旅行会社
 ネルヴィの六月

ダダ、アスコーナ、その他の思い出
 [自伝的ノート]
 田園教育舎で
 ダダ、ダダ
 アスコーナ――精神の市場
 アフリカの岩石の谷間にて
 階級と階級の間で
 付録(「探偵小説のための十戒」に関する公開状)

解説 (種村季弘)




◆本書より◆


「精神病院日記」より:

「しばらくきみに手紙を書かなかったね。ぼくはとても落ち込んでいた。ついこのあいだのぼくの診断調書でジュネーヴで下された診断を読んだ。早発性痴呆症(ディメンティア・プラエコックス)ならびに体質的精神病質。合併症:モルヒネ依存症。この診断書を消化するには二三日余裕が必要だ。この問題では特にH・シュテーリが助けになってくれた。われわれはヘルダーリンのことを話し合った。ヘルダーリンの場合どんな精神病が認められたのですか、とぼくは質問した。きみのと同じさ。それはすべての詩人の場合に起こるものと立証できるよ、ゲーテを除けばね、と彼はイーロニッシュにつけ加えた。これですこしはなぐさめられた。それからやってきたのは、精神医学に対する反抗と正当な異議申し立てだった。きみに会えさえしたらなあ。(中略)ぼくはときどき、気が狂うんじゃないかと不安になる。たえずおろかな質問が鎌首をもたげる。やっぱりみんなの言うことが正しいんじゃないか? 助けてくれ、ねえ、ぼくは弱い、きみは大きい。ときにはぼくのことを考えてくれてるかい? それはそうと狂気ってのは実現なんじゃないのかな? ヘルダーリンの場合はまちがいなくそうだ。『盲目の歌い手』草稿(狂気の時代の前)と『ヒュロン』(同じ『盲目の歌い手』を狂気のさなかで新たに、われわれ向きに改変したもの。第一稿はこれに対して、蒼白で、理想主義的-ギリシア的)を読みくらべて見給え。ぼくはヘルダーリンとショーペンハウアーを読んでいる。なぐさめになる、とても。」


「秩序攪乱者」より:

「世にはいわゆる反社会的分子なるものが存在する。小文の冒頭に申したようなタイプの人間、つまり泥棒常習犯、強盗殺人犯、風俗犯罪者など、この種のタイプをきちんと認識すべく、人びとはずっと彼らを観察し彼らについて論じてきた。社会秩序の代表者たちのこの種の人間たちに対する考え方は、信じられないほど混乱し不安定だ。」
「わたしはさしたる政治的信念を持っていない。永遠の平和を信じることもできない。現政権とは別の政党が実権を握れば生活がより公正になるかと言えば、これは絵空事もはなはだしいと思う。陳腐な言い種(ぐさ)ではあるが、存在の全体は、それが対立物の組み合わせであるからこそ存立する。光はそれだけで存在するのではなく、わたしたちが光を認識するのはその反対物である闇を通じてこそなのである。単独の慈悲としての神というものは考えられない、神は悪魔の悪業にその補完物を有するにちがいないとは、つとに神智学者ヤーコプ・ベーメの説くところだ。されば神も悪魔も根底においては一者である、と。おそらくいかなる体(てい)の秩序もこれと同断であろう。秩序は混沌なしには知覚され得ない。これで実際もう一歩で次のように言えなくもないのである。「反社会的分子」は、その名がすでに語っているように無秩序の代表者であり、それゆえに必要不可欠であって根絶し難く、それがなくては秩序が存在しないのだから、彼らを根絶することは不可能だと。誠実たらんとするならば、わたしたちは自分のなかにも例外なく犯罪者が巣くっているのを認めないわけには行かないことも、先に確認したとおりである。」



「モルヒネ――ある告白」より:

「わがヨーロッパ社会はモルヒネ中毒者があらかじめ「アブノーマル」と見なされるような仕組みにでき上がっている。おそらくこの薬物が人をあまりにも個人主義的にしてしまうからだろう。アルコールは人づきあいを促し、ある種の残忍さを促す。阿片は劣等感を生じさせる。いや、おそらくそれ以上なのだ。そう、あまりにも強い劣等感にさいなまれている人だけがモルヒネをやるのだ。」


「贖罪の山羊」より:

「寛容は今日では評判がよくない。それは承知だ。寛容を云々すると、自堕落、卑怯、無責任、のそしりを招きかねない……本当にそうなのかどうか、ぼくは疑問に思う。具体例がないとうまく説明しにくい。そこでこの種の具体例を一つ挙げる。外人部隊に部隊の憎まれ者随一の将校がいた。なぜ憎まれ者なのか、だれにもわからない。(中略)当の将校はそれに気がつかないふりをした。ある行進の際に一度ぼくと話をしたことがある。そこでぼくはたずねた。どうしてこうなったんでしょう、だってあなたはだれ一人いじめたわけじゃないのに。将校はちょっと悲しげな顔をした。「いつもこうだったんだよ」と彼は言った、「ごく小さいときからだ。皆がおれを憎むんだ。(中略)おれにはどうしようもないし、他の人たちもどうしようもない……根っからこういうふうらしいんだ。おれには他人(ひと)を苛立たせる何かがあるみたいだな。これはもうどうしようもないことなんだよ。」その後のある戦闘で将校は射殺された。(中略)しかしこの将校の寛容は、本当に卑怯と見まがいかねなかったものなのか?」
「人びとをあるがままに受け入れること、彼らを自分の好みに合わせようとしないこと、これは至難の業だろう。しかしすべての人間がお互いに似てしまったらどうなるか、という問題を、いつかはよく考えてみなければならない――」



「解説」より:

「しかしもう時間がなかった。生き永らえてそこそこ小市民的な作家生活に安住するつもりもなかった。「文学三昧の生活なんかぞっとする」と、筋金入りの放浪詩人はうそぶき、結婚後は新たな伴侶ベルタ・ベンデルとともにチュニジアに渡って病院看護士として生きる計画を抱いていたという。
 
 おれたちは断じて角縁眼鏡なんぞ掛けやしない、
 おれたちは虫けら、そこらのだれか、いやまったく。
 おれたちは子供たちが、犬が、海が、大好き。
 人類の目的なんて知ったことかよ。

 動物と子供たちと老婦人が大好き。「シャツを着ていない人がいたら、自分のシャツを脱いでその人に上げてしまうだろう」、と身近の友人はグラウザーの人となりを評した。
 「彼はやさしすぎて生きて行くことができなかった」とも。
 どのみち念願の作家生活は永くなかった。一九三八年十二月八日、イタリア、ジェノヴァ郊外ネルヴィの寓居で、ミュンジンゲン精神病院の看護婦として知り合ったベルタ・ベンデルとの「永い春」のあげくの結婚式を明日に控えながら、夕食の席で突然意識を失って帰らぬ人となった。享年四十二歳。」




























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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