出口裕弘 『帝政パリと詩人たち』
「『マルドロールの歌』には、いくつか、独特の調子というものがある。人間たちに向けられた絶対的な拒否も、その一つであろう。文学の世界で類例を求めれば、牢獄文学者サドしかみつからない絶対的な人間拒否が、『マルドロールの歌』の全篇をつらぬいている。(中略)サドは投獄という形で人間社会に拒絶され、完全に自由を剥奪された人間だから、人間に対する絶対的拒否という思想を組み立てたとしてもふしぎではない。しかし、ロートレアモンは、別に投獄されたわけではないし、(中略)社会から「人外」の者として排除されるような目に遭ってはいない。」
(出口裕弘 『帝政パリと詩人たち』 より)
出口裕弘
『帝政パリと詩人たち
― ボードレール・
ロートレアモン・
ランボー』
河出書房新社
1999年5月15日初版印刷
1999年5月25日初版発行
338p 付記1p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,800円+税
装幀: 中島かほる
装画: 柄澤齊
本書「付記」より:
「はたちの頃から、一度はまとまったランボー論を書きたいと希(ねが)ってきた。しかし、ついに断片的なことしか、この詩人については書けずじまいだった。そこへ(中略)、すでに著書になっているボードレール論、ロートレアモン論と合わせて、三人の詩人が主人公の本を作ってみないかと提案があった。つまりはランボー論を書き下ろすということである。」
「まず一九六九年に紀伊國屋新書の一冊として『ボードレール』が出版された。一九八三年、その新版が小沢書店から刊行され、同じ八三年に筑摩書房から書下ろしの『ロートレアモンのパリ』が出た。基本的にはこの二著にランボー論を合体させたわけだが、一冊の本として成立するよう、“強力接着剤”のつもりで数篇のエッセーを書き加えた。
『ボードレール』にも『ロートレアモンのパリ』にも大幅な改稿を施すことはしなかったが、あきらかな間違いを正したほか、言葉づかいを今の私として納得のゆくものに改めたところがかなりある。」
本文中図版(モノクロ)多数。

帯文:
「パリを生きたボードレール、パリに漂着したロートレアモン、そしてパリを捨てたランボー。
ガス燈、水晶宮、パッサージュ……
幻の交替劇を演じた詩人たちの生涯と、散文詩に結晶した壮麗な首都のイメージ。
都市と詩人たちをめぐり、30年にわたってなされた思索の集大成。」
帯裏:
「……ランボー、ボードレール、ロートレアモンの三人に、昔から私の関心は集中してきたが、実をいうと彼らは、第二帝政の末期、パリで奇妙な交替劇を演じている。ロートレアモンがパリに登場した一八六七年は、パリの一角で、四十六歳のボードレールが息を引き取った年でもある。そしてロートレアモンが、「未来の書」の本文を書こうとして、悪戦苦闘していたと推定される一八七〇年八月には、ランボーが故郷の家を出奔し、はじめてパリへ来ている。……ランボーがいよいよパリで生活を開始するのは、ロートレアモンが死んだ翌年、一八七一年のことだった。当人たちはあずかり知らぬことだとはいえ、三人の詩人たちは、形としてはバトン・タッチしたように見える。
――本書「幻の交替劇」より」
目次:
I ボードレール
パリを生きる
1 なぜボードレールか
2 散文詩
3 行動のダイモニオン
4 革命
5 ジョゼフ・ド・メーストル
6 「進歩」とアポカリプス
7 夢の言語
8 エロスの罠
9 群集
10 ワグナーもドーミエも
II ロートレアモン
パリに漂着する
1 サン・マロの城壁
2 パッサージュのほうへ
3 野心と一等地
4 ヴェルリー街の大工
5 鶫(つぐみ)とタイプライター
6 七番地の家
7 舞踏のマルドロール
8 イジドールの素顔
9 マーヴィンを誘(おび)き出す
10 橋の上の惨事
11 シャントル通り
12 ヴァンドームの円柱
13 飢えるパリ
14 幻の交替劇
III ランボー
パリを捨てる
1 君主と精霊
2 核融合
3 北極の花々
4 ロンドン変相
5 アクロポリスから伯爵領へ
6 金の鎖を
付記

◆本書より◆
「ボードレール」より:
「私がこの極端に暗い詩人、自然をまっくろに塗りつぶしてしまった邪悪な詩人に、かつての少々斜にかまえた敬愛を打ちきってあらためて首まで漬かる気になったのは、ヨーロッパ近代と(紙の上で!)つきあうことが生活の大半を占めてきた人間にとって、そうすることがいささか刑罰に似た論理的帰結だと考えたからである。ヨーロッパ近代はそうやすやすと超克されるようなしろものではない。どうやらそれは諸悪の元兇でもあり地獄でもあるような気配だが、行けるところまでは行ってみなければ超克も脱出もあったものではなかろう。そして現代ヨーロッパも現代日本も、ボードレールという西欧近代人が四十数年の生涯をさらして提起した問題を、義理にも解いてみせたとは言えないのである。」
「これは、たとえばT・S・エリオットの言うように、ボードレールが一般に信じられているほど完璧な詩人ではないかもしれず、逆にもっと偉大な人間であったかもしれないということにもかかわるだろう。」
「書簡集のボードレールが身ぐるみ剥がれた無防備の姿をさらしているとしても、さらしている方が高貴で、意地の悪い眼でじろじろ見る方が低劣なのだということは承知しておく必要があろう。」
「ボードレールの破壊は、その破壊がかならず同時に彼自身に向けられるものであるだけに、一種凄惨なものである。しかし一切を廃墟にもしかねないその凄惨な破壊の運動の描いた軌跡が、それ自体、後世の私たちに巨大な泉とも沃野とも見えるのはどうしたわけか。ロマン派の、高踏派の、サンボリスムの、自然主義の、さらにはダダの、シュルレアリスムのあとで、なおそれが即時現存性を持っていることの秘密は何か。彼のたぐい稀な共犯性だと答えても見当はずれではあるまいと思う。自他の傷という傷を押しひろげて歩いたこの詩人は、そのことで私たちを圧倒し去るよりも、むしろいっそう深く私たちの内部に浸透してきて私たちを親密な共犯者に変えるのである。」
「かつて、一八五六年三月十三日付のシャルル・アスリノー宛の手紙を読んだとき、勝手な話だがボードレールを見る私の眼が一変した。サンボリスムの祖とか美の殉教者とかいう評判のボードレールとは別の人間をそこに見ることができた、ということである。」
「要約しつつ紹介しよう。
手紙だからまず前置きがある。自分が見てきた無数の夢の標本の「完全な奇抜さ、おしなべて僕の個人的な仕事とも情事ともまったく縁がないという性質からして、そうした夢は僕自身解くべき鍵を持たない古代象形文字的言語なのだと信ずるほかはない」という風にボードレールは書きはじめる。
夢の中で「僕」は大きな売春宿に入ろうとする。出版されたばかりの自分の本をぜひそこの女主人に献呈しなければ、というのが心理的口実だ。ベルを鳴らして玄関に入ったとたん、ズボンのボタンが外れていて、割目からペニスが垂れさがっているのに気付いたり、自分が裸足で歩いていて、しかもその足が濡れているのに気付いたりする。
さて「僕」はたがいに通じあっている広大な歩廊に出る。あちこちに娼婦たちがたむろしていて男たちと喋っている。」
「「驚いたことにこの広大な歩廊の壁は、ありとあらゆる種類の額縁入りのデッサンで飾られている。全部が全部、猥褻なものだというわけではない。」」
「「これらの歩廊の奥まった一角に、僕は大変奇妙なシリーズを見つける。――一群の小さな額縁の中にデッサンやら細密画やら写真やらが納まっている。あるものはきらきら輝く羽毛を持った彩色された鳥の絵で、それらの鳥の眼は生きているのだ。中には鳥の体が半分しかないものもある。またあるものは奇怪な、化物じみた、まるで隕石のように無定形な生きものを象っている。――それぞれのデッサンの一隅にはこんな註がついている。「娼婦某、××歳、某々年この胎児を出産す。」ほかにもそうした類いの註がある。」」
「やがて「僕」はこの家に居並ぶ怪物(畸型児)たちの中で、現に生きて動いている一匹の化物に出会う。この娼家に生れ、永遠の台座の上にさらされて生きる化物だ。」
「「化物は別に醜悪ではない。顔はむしろ美しく、東洋的な色彩を帯びた日焼けした顔だ。体色にはおびただしい薔薇色と緑がある。しゃがみこんでいるのだが、奇妙なねじれた恰好をしている。その上、胴のまわり手足のまわりに、何やら黒ずんだものが幾重にも巻きついている。」」
「そのグロテスクなゴム状の長い付属物は彼の頭から生えていて、頭に弁髪のように巻いておきたくても重くて倒れてしまうから、余儀なく手足のまわりに巻いておくのだと化物は言う。さらに彼はいろいろと惨苦の打明け話をしながら、食事の時がいちばん辛くて、体の平衡を保つためには、この長大な黒い付属物をかたわらの椅子に一巻きのロープみたいに載せておかねばならない、などと愚痴をこぼす。
その時、妻(ジャンヌ・デュヴァルのこと)が何か物音をたてて、「僕」は目をさます。体の節々が痛いところを見ると「僕」は夢の中の化物のようにねじれた姿勢で寝ていたらしい。」
「ロートレアモン」より:
「カラデックのいうように、イジドールは、まったく孤立して生きていたのではないだろう。(中略)出版社ラクロワとの交渉や、シルコスやダメとの「人類」「社会」をめぐる議論で、口角泡を飛ばしたり、執拗な粘りを示したりするイジドールを、私たちは想像することができる。
しかし、このイメージは、すぐにも修正される可能性がある。そうした交際は、イジドールのような本質的な余所者を、まったくの表層でしか救ったはずはないからだ。おそらくイジドールは、最後まで、パリに住む人間たちの「家」には踏みこめぬまま、他界へ移住してしまったのだと思う。どこをどう歩きまわっても、肝心なときにはいつも鼻の先で戸を閉(た)てられてしまう。(中略)パリでのイジドールは、煎じつめれば、(中略)父親が振り込む金だけが頼りだったのにちがいない。
時として、そういう余所者のイメージが、根っからのパリジャンだったボードレールの幻よりも、私には慰めになった。それはまちがいないことだ。」
「『マルドロールの歌』には、いくつか、独特の調子というものがある。人間たちに向けられた絶対的な拒否も、その一つであろう。文学の世界で類例を求めれば、牢獄文学者サドしかみつからない絶対的な人間拒否が、『マルドロールの歌』の全篇をつらぬいている。ボードレールのような屈折を持たない、留保なしの拒否だ。サドは投獄という形で人間社会に拒絶され、完全に自由を剥奪された人間だから、人間に対する絶対的拒否という思想を組み立てたとしてもふしぎではない。しかし、ロートレアモンは、別に投獄されたわけではないし、(中略)社会から「人外」の者として排除されるような目に遭ってはいない。」
「『ロートレアモンの生涯』の著者ペルーゼは、自分の本の序章に、『マルドロールの歌』と『ポエジー』の読みかたの変貌について、感慨めいたことを書いた。かつてロートレアモンを「発見」した人々のように(シュルレアリストたちのように、といってもいい)、この詩人を熱狂的に読む者は、もういなくなった。『マルドロールの歌』は、いまでは「テクスト」として、実証的に読まれはじめている。そういう「感慨」である。」
「ロートレアモンが、顔を持たぬまま、透明な「書く手」のごときものにまで非人間化される傾向は、年を追って露骨になっていった。そのことに気づいてから、私は、好奇心の域を越えて、ロートレアモンが生身の顔を持つことを希うようになった。」
「詩人、作家の生活を索引にして作品を読むような立場は、すでに久しく基盤を揺さぶられてきたのだが、最近になって決定的に効力を失った。それはそれで慶賀すべきことだと思う。だが、時間のなかで作品を書いて去っていった人間を、その作品の脱殻のように扱うのはよくない冗談だ。人間は人間として直視しなければならない。ロートレアモン=イジドール・デュカスは、「テクスト」を成立させるための、諸条件の組合せのごときものに還元されはしない。」

(出口裕弘 『帝政パリと詩人たち』 より)
出口裕弘
『帝政パリと詩人たち
― ボードレール・
ロートレアモン・
ランボー』
河出書房新社
1999年5月15日初版印刷
1999年5月25日初版発行
338p 付記1p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,800円+税
装幀: 中島かほる
装画: 柄澤齊
本書「付記」より:
「はたちの頃から、一度はまとまったランボー論を書きたいと希(ねが)ってきた。しかし、ついに断片的なことしか、この詩人については書けずじまいだった。そこへ(中略)、すでに著書になっているボードレール論、ロートレアモン論と合わせて、三人の詩人が主人公の本を作ってみないかと提案があった。つまりはランボー論を書き下ろすということである。」
「まず一九六九年に紀伊國屋新書の一冊として『ボードレール』が出版された。一九八三年、その新版が小沢書店から刊行され、同じ八三年に筑摩書房から書下ろしの『ロートレアモンのパリ』が出た。基本的にはこの二著にランボー論を合体させたわけだが、一冊の本として成立するよう、“強力接着剤”のつもりで数篇のエッセーを書き加えた。
『ボードレール』にも『ロートレアモンのパリ』にも大幅な改稿を施すことはしなかったが、あきらかな間違いを正したほか、言葉づかいを今の私として納得のゆくものに改めたところがかなりある。」
本文中図版(モノクロ)多数。

帯文:
「パリを生きたボードレール、パリに漂着したロートレアモン、そしてパリを捨てたランボー。
ガス燈、水晶宮、パッサージュ……
幻の交替劇を演じた詩人たちの生涯と、散文詩に結晶した壮麗な首都のイメージ。
都市と詩人たちをめぐり、30年にわたってなされた思索の集大成。」
帯裏:
「……ランボー、ボードレール、ロートレアモンの三人に、昔から私の関心は集中してきたが、実をいうと彼らは、第二帝政の末期、パリで奇妙な交替劇を演じている。ロートレアモンがパリに登場した一八六七年は、パリの一角で、四十六歳のボードレールが息を引き取った年でもある。そしてロートレアモンが、「未来の書」の本文を書こうとして、悪戦苦闘していたと推定される一八七〇年八月には、ランボーが故郷の家を出奔し、はじめてパリへ来ている。……ランボーがいよいよパリで生活を開始するのは、ロートレアモンが死んだ翌年、一八七一年のことだった。当人たちはあずかり知らぬことだとはいえ、三人の詩人たちは、形としてはバトン・タッチしたように見える。
――本書「幻の交替劇」より」
目次:
I ボードレール
パリを生きる
1 なぜボードレールか
2 散文詩
3 行動のダイモニオン
4 革命
5 ジョゼフ・ド・メーストル
6 「進歩」とアポカリプス
7 夢の言語
8 エロスの罠
9 群集
10 ワグナーもドーミエも
II ロートレアモン
パリに漂着する
1 サン・マロの城壁
2 パッサージュのほうへ
3 野心と一等地
4 ヴェルリー街の大工
5 鶫(つぐみ)とタイプライター
6 七番地の家
7 舞踏のマルドロール
8 イジドールの素顔
9 マーヴィンを誘(おび)き出す
10 橋の上の惨事
11 シャントル通り
12 ヴァンドームの円柱
13 飢えるパリ
14 幻の交替劇
III ランボー
パリを捨てる
1 君主と精霊
2 核融合
3 北極の花々
4 ロンドン変相
5 アクロポリスから伯爵領へ
6 金の鎖を
付記

◆本書より◆
「ボードレール」より:
「私がこの極端に暗い詩人、自然をまっくろに塗りつぶしてしまった邪悪な詩人に、かつての少々斜にかまえた敬愛を打ちきってあらためて首まで漬かる気になったのは、ヨーロッパ近代と(紙の上で!)つきあうことが生活の大半を占めてきた人間にとって、そうすることがいささか刑罰に似た論理的帰結だと考えたからである。ヨーロッパ近代はそうやすやすと超克されるようなしろものではない。どうやらそれは諸悪の元兇でもあり地獄でもあるような気配だが、行けるところまでは行ってみなければ超克も脱出もあったものではなかろう。そして現代ヨーロッパも現代日本も、ボードレールという西欧近代人が四十数年の生涯をさらして提起した問題を、義理にも解いてみせたとは言えないのである。」
「これは、たとえばT・S・エリオットの言うように、ボードレールが一般に信じられているほど完璧な詩人ではないかもしれず、逆にもっと偉大な人間であったかもしれないということにもかかわるだろう。」
「書簡集のボードレールが身ぐるみ剥がれた無防備の姿をさらしているとしても、さらしている方が高貴で、意地の悪い眼でじろじろ見る方が低劣なのだということは承知しておく必要があろう。」
「ボードレールの破壊は、その破壊がかならず同時に彼自身に向けられるものであるだけに、一種凄惨なものである。しかし一切を廃墟にもしかねないその凄惨な破壊の運動の描いた軌跡が、それ自体、後世の私たちに巨大な泉とも沃野とも見えるのはどうしたわけか。ロマン派の、高踏派の、サンボリスムの、自然主義の、さらにはダダの、シュルレアリスムのあとで、なおそれが即時現存性を持っていることの秘密は何か。彼のたぐい稀な共犯性だと答えても見当はずれではあるまいと思う。自他の傷という傷を押しひろげて歩いたこの詩人は、そのことで私たちを圧倒し去るよりも、むしろいっそう深く私たちの内部に浸透してきて私たちを親密な共犯者に変えるのである。」
「かつて、一八五六年三月十三日付のシャルル・アスリノー宛の手紙を読んだとき、勝手な話だがボードレールを見る私の眼が一変した。サンボリスムの祖とか美の殉教者とかいう評判のボードレールとは別の人間をそこに見ることができた、ということである。」
「要約しつつ紹介しよう。
手紙だからまず前置きがある。自分が見てきた無数の夢の標本の「完全な奇抜さ、おしなべて僕の個人的な仕事とも情事ともまったく縁がないという性質からして、そうした夢は僕自身解くべき鍵を持たない古代象形文字的言語なのだと信ずるほかはない」という風にボードレールは書きはじめる。
夢の中で「僕」は大きな売春宿に入ろうとする。出版されたばかりの自分の本をぜひそこの女主人に献呈しなければ、というのが心理的口実だ。ベルを鳴らして玄関に入ったとたん、ズボンのボタンが外れていて、割目からペニスが垂れさがっているのに気付いたり、自分が裸足で歩いていて、しかもその足が濡れているのに気付いたりする。
さて「僕」はたがいに通じあっている広大な歩廊に出る。あちこちに娼婦たちがたむろしていて男たちと喋っている。」
「「驚いたことにこの広大な歩廊の壁は、ありとあらゆる種類の額縁入りのデッサンで飾られている。全部が全部、猥褻なものだというわけではない。」」
「「これらの歩廊の奥まった一角に、僕は大変奇妙なシリーズを見つける。――一群の小さな額縁の中にデッサンやら細密画やら写真やらが納まっている。あるものはきらきら輝く羽毛を持った彩色された鳥の絵で、それらの鳥の眼は生きているのだ。中には鳥の体が半分しかないものもある。またあるものは奇怪な、化物じみた、まるで隕石のように無定形な生きものを象っている。――それぞれのデッサンの一隅にはこんな註がついている。「娼婦某、××歳、某々年この胎児を出産す。」ほかにもそうした類いの註がある。」」
「やがて「僕」はこの家に居並ぶ怪物(畸型児)たちの中で、現に生きて動いている一匹の化物に出会う。この娼家に生れ、永遠の台座の上にさらされて生きる化物だ。」
「「化物は別に醜悪ではない。顔はむしろ美しく、東洋的な色彩を帯びた日焼けした顔だ。体色にはおびただしい薔薇色と緑がある。しゃがみこんでいるのだが、奇妙なねじれた恰好をしている。その上、胴のまわり手足のまわりに、何やら黒ずんだものが幾重にも巻きついている。」」
「そのグロテスクなゴム状の長い付属物は彼の頭から生えていて、頭に弁髪のように巻いておきたくても重くて倒れてしまうから、余儀なく手足のまわりに巻いておくのだと化物は言う。さらに彼はいろいろと惨苦の打明け話をしながら、食事の時がいちばん辛くて、体の平衡を保つためには、この長大な黒い付属物をかたわらの椅子に一巻きのロープみたいに載せておかねばならない、などと愚痴をこぼす。
その時、妻(ジャンヌ・デュヴァルのこと)が何か物音をたてて、「僕」は目をさます。体の節々が痛いところを見ると「僕」は夢の中の化物のようにねじれた姿勢で寝ていたらしい。」
「ロートレアモン」より:
「カラデックのいうように、イジドールは、まったく孤立して生きていたのではないだろう。(中略)出版社ラクロワとの交渉や、シルコスやダメとの「人類」「社会」をめぐる議論で、口角泡を飛ばしたり、執拗な粘りを示したりするイジドールを、私たちは想像することができる。
しかし、このイメージは、すぐにも修正される可能性がある。そうした交際は、イジドールのような本質的な余所者を、まったくの表層でしか救ったはずはないからだ。おそらくイジドールは、最後まで、パリに住む人間たちの「家」には踏みこめぬまま、他界へ移住してしまったのだと思う。どこをどう歩きまわっても、肝心なときにはいつも鼻の先で戸を閉(た)てられてしまう。(中略)パリでのイジドールは、煎じつめれば、(中略)父親が振り込む金だけが頼りだったのにちがいない。
時として、そういう余所者のイメージが、根っからのパリジャンだったボードレールの幻よりも、私には慰めになった。それはまちがいないことだ。」
「『マルドロールの歌』には、いくつか、独特の調子というものがある。人間たちに向けられた絶対的な拒否も、その一つであろう。文学の世界で類例を求めれば、牢獄文学者サドしかみつからない絶対的な人間拒否が、『マルドロールの歌』の全篇をつらぬいている。ボードレールのような屈折を持たない、留保なしの拒否だ。サドは投獄という形で人間社会に拒絶され、完全に自由を剥奪された人間だから、人間に対する絶対的拒否という思想を組み立てたとしてもふしぎではない。しかし、ロートレアモンは、別に投獄されたわけではないし、(中略)社会から「人外」の者として排除されるような目に遭ってはいない。」
「『ロートレアモンの生涯』の著者ペルーゼは、自分の本の序章に、『マルドロールの歌』と『ポエジー』の読みかたの変貌について、感慨めいたことを書いた。かつてロートレアモンを「発見」した人々のように(シュルレアリストたちのように、といってもいい)、この詩人を熱狂的に読む者は、もういなくなった。『マルドロールの歌』は、いまでは「テクスト」として、実証的に読まれはじめている。そういう「感慨」である。」
「ロートレアモンが、顔を持たぬまま、透明な「書く手」のごときものにまで非人間化される傾向は、年を追って露骨になっていった。そのことに気づいてから、私は、好奇心の域を越えて、ロートレアモンが生身の顔を持つことを希うようになった。」
「詩人、作家の生活を索引にして作品を読むような立場は、すでに久しく基盤を揺さぶられてきたのだが、最近になって決定的に効力を失った。それはそれで慶賀すべきことだと思う。だが、時間のなかで作品を書いて去っていった人間を、その作品の脱殻のように扱うのはよくない冗談だ。人間は人間として直視しなければならない。ロートレアモン=イジドール・デュカスは、「テクスト」を成立させるための、諸条件の組合せのごときものに還元されはしない。」

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