出口裕弘 『帝政パリと詩人たち』

「『マルドロールの歌』には、いくつか、独特の調子というものがある。人間たちに向けられた絶対的な拒否も、その一つであろう。文学の世界で類例を求めれば、牢獄文学者サドしかみつからない絶対的な人間拒否が、『マルドロールの歌』の全篇をつらぬいている。(中略)サドは投獄という形で人間社会に拒絶され、完全に自由を剥奪された人間だから、人間に対する絶対的拒否という思想を組み立てたとしてもふしぎではない。しかし、ロートレアモンは、別に投獄されたわけではないし、(中略)社会から「人外」の者として排除されるような目に遭ってはいない。」
(出口裕弘 『帝政パリと詩人たち』 より)


出口裕弘 
『帝政パリと詩人たち
― ボードレール・
ロートレアモン・
ランボー』


河出書房新社 
1999年5月15日初版印刷
1999年5月25日初版発行
338p 付記1p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価4,800円+税
装幀: 中島かほる
装画: 柄澤齊



本書「付記」より:

「はたちの頃から、一度はまとまったランボー論を書きたいと希(ねが)ってきた。しかし、ついに断片的なことしか、この詩人については書けずじまいだった。そこへ(中略)、すでに著書になっているボードレール論、ロートレアモン論と合わせて、三人の詩人が主人公の本を作ってみないかと提案があった。つまりはランボー論を書き下ろすということである。」
「まず一九六九年に紀伊國屋新書の一冊として『ボードレール』が出版された。一九八三年、その新版が小沢書店から刊行され、同じ八三年に筑摩書房から書下ろしの『ロートレアモンのパリ』が出た。基本的にはこの二著にランボー論を合体させたわけだが、一冊の本として成立するよう、“強力接着剤”のつもりで数篇のエッセーを書き加えた。
 『ボードレール』にも『ロートレアモンのパリ』にも大幅な改稿を施すことはしなかったが、あきらかな間違いを正したほか、言葉づかいを今の私として納得のゆくものに改めたところがかなりある。」



本文中図版(モノクロ)多数。


出口裕弘 帝政パリと詩人たち1


帯文:

「パリを生きたボードレール、パリに漂着したロートレアモン、そしてパリを捨てたランボー。
ガス燈、水晶宮、パッサージュ……
幻の交替劇を演じた詩人たちの生涯と、散文詩に結晶した壮麗な首都のイメージ。
都市と詩人たちをめぐり、30年にわたってなされた思索の集大成。」



帯裏:

「……ランボー、ボードレール、ロートレアモンの三人に、昔から私の関心は集中してきたが、実をいうと彼らは、第二帝政の末期、パリで奇妙な交替劇を演じている。ロートレアモンがパリに登場した一八六七年は、パリの一角で、四十六歳のボードレールが息を引き取った年でもある。そしてロートレアモンが、「未来の書」の本文を書こうとして、悪戦苦闘していたと推定される一八七〇年八月には、ランボーが故郷の家を出奔し、はじめてパリへ来ている。……ランボーがいよいよパリで生活を開始するのは、ロートレアモンが死んだ翌年、一八七一年のことだった。当人たちはあずかり知らぬことだとはいえ、三人の詩人たちは、形としてはバトン・タッチしたように見える。
――本書「幻の交替劇」より」



目次:

I ボードレール
   パリを生きる
 1 なぜボードレールか
 2 散文詩
 3 行動のダイモニオン
 4 革命
 5 ジョゼフ・ド・メーストル
 6 「進歩」とアポカリプス
 7 夢の言語
 8 エロスの罠
 9 群集
 10 ワグナーもドーミエも

II ロートレアモン
   パリに漂着する
 1 サン・マロの城壁
 2 パッサージュのほうへ
 3 野心と一等地
 4 ヴェルリー街の大工
 5 鶫(つぐみ)とタイプライター
 6 七番地の家
 7 舞踏のマルドロール
 8 イジドールの素顔
 9 マーヴィンを誘(おび)き出す
 10 橋の上の惨事
 11 シャントル通り
 12 ヴァンドームの円柱
 13 飢えるパリ
 14 幻の交替劇

III ランボー
   パリを捨てる
 1 君主と精霊
 2 核融合
 3 北極の花々
 4 ロンドン変相
 5 アクロポリスから伯爵領へ
 6 金の鎖を

付記



出口裕弘 帝政パリと詩人たち2



◆本書より◆


「ボードレール」より:

「私がこの極端に暗い詩人、自然をまっくろに塗りつぶしてしまった邪悪な詩人に、かつての少々斜にかまえた敬愛を打ちきってあらためて首まで漬かる気になったのは、ヨーロッパ近代と(紙の上で!)つきあうことが生活の大半を占めてきた人間にとって、そうすることがいささか刑罰に似た論理的帰結だと考えたからである。ヨーロッパ近代はそうやすやすと超克されるようなしろものではない。どうやらそれは諸悪の元兇でもあり地獄でもあるような気配だが、行けるところまでは行ってみなければ超克も脱出もあったものではなかろう。そして現代ヨーロッパも現代日本も、ボードレールという西欧近代人が四十数年の生涯をさらして提起した問題を、義理にも解いてみせたとは言えないのである。」
「これは、たとえばT・S・エリオットの言うように、ボードレールが一般に信じられているほど完璧な詩人ではないかもしれず、逆にもっと偉大な人間であったかもしれないということにもかかわるだろう。」

「書簡集のボードレールが身ぐるみ剥がれた無防備の姿をさらしているとしても、さらしている方が高貴で、意地の悪い眼でじろじろ見る方が低劣なのだということは承知しておく必要があろう。」

「ボードレールの破壊は、その破壊がかならず同時に彼自身に向けられるものであるだけに、一種凄惨なものである。しかし一切を廃墟にもしかねないその凄惨な破壊の運動の描いた軌跡が、それ自体、後世の私たちに巨大な泉とも沃野とも見えるのはどうしたわけか。ロマン派の、高踏派の、サンボリスムの、自然主義の、さらにはダダの、シュルレアリスムのあとで、なおそれが即時現存性を持っていることの秘密は何か。彼のたぐい稀な共犯性だと答えても見当はずれではあるまいと思う。自他の傷という傷を押しひろげて歩いたこの詩人は、そのことで私たちを圧倒し去るよりも、むしろいっそう深く私たちの内部に浸透してきて私たちを親密な共犯者に変えるのである。」

「かつて、一八五六年三月十三日付のシャルル・アスリノー宛の手紙を読んだとき、勝手な話だがボードレールを見る私の眼が一変した。サンボリスムの祖とか美の殉教者とかいう評判のボードレールとは別の人間をそこに見ることができた、ということである。」
「要約しつつ紹介しよう。
 手紙だからまず前置きがある。自分が見てきた無数の夢の標本の「完全な奇抜さ、おしなべて僕の個人的な仕事とも情事ともまったく縁がないという性質からして、そうした夢は僕自身解くべき鍵を持たない古代象形文字的言語なのだと信ずるほかはない」という風にボードレールは書きはじめる。
 夢の中で「僕」は大きな売春宿に入ろうとする。出版されたばかりの自分の本をぜひそこの女主人に献呈しなければ、というのが心理的口実だ。ベルを鳴らして玄関に入ったとたん、ズボンのボタンが外れていて、割目からペニスが垂れさがっているのに気付いたり、自分が裸足で歩いていて、しかもその足が濡れているのに気付いたりする。
 さて「僕」はたがいに通じあっている広大な歩廊に出る。あちこちに娼婦たちがたむろしていて男たちと喋っている。」
「「驚いたことにこの広大な歩廊の壁は、ありとあらゆる種類の額縁入りのデッサンで飾られている。全部が全部、猥褻なものだというわけではない。」」
「「これらの歩廊の奥まった一角に、僕は大変奇妙なシリーズを見つける。――一群の小さな額縁の中にデッサンやら細密画やら写真やらが納まっている。あるものはきらきら輝く羽毛を持った彩色された鳥の絵で、それらの鳥の眼は生きているのだ。中には鳥の体が半分しかないものもある。またあるものは奇怪な、化物じみた、まるで隕石のように無定形な生きものを象っている。――それぞれのデッサンの一隅にはこんな註がついている。「娼婦某、××歳、某々年この胎児を出産す。」ほかにもそうした類いの註がある。」」
「やがて「僕」はこの家に居並ぶ怪物(畸型児)たちの中で、現に生きて動いている一匹の化物に出会う。この娼家に生れ、永遠の台座の上にさらされて生きる化物だ。」
「「化物は別に醜悪ではない。顔はむしろ美しく、東洋的な色彩を帯びた日焼けした顔だ。体色にはおびただしい薔薇色と緑がある。しゃがみこんでいるのだが、奇妙なねじれた恰好をしている。その上、胴のまわり手足のまわりに、何やら黒ずんだものが幾重にも巻きついている。」」
「そのグロテスクなゴム状の長い付属物は彼の頭から生えていて、頭に弁髪のように巻いておきたくても重くて倒れてしまうから、余儀なく手足のまわりに巻いておくのだと化物は言う。さらに彼はいろいろと惨苦の打明け話をしながら、食事の時がいちばん辛くて、体の平衡を保つためには、この長大な黒い付属物をかたわらの椅子に一巻きのロープみたいに載せておかねばならない、などと愚痴をこぼす。
 その時、妻(ジャンヌ・デュヴァルのこと)が何か物音をたてて、「僕」は目をさます。体の節々が痛いところを見ると「僕」は夢の中の化物のようにねじれた姿勢で寝ていたらしい。」



「ロートレアモン」より:

「カラデックのいうように、イジドールは、まったく孤立して生きていたのではないだろう。(中略)出版社ラクロワとの交渉や、シルコスやダメとの「人類」「社会」をめぐる議論で、口角泡を飛ばしたり、執拗な粘りを示したりするイジドールを、私たちは想像することができる。
 しかし、このイメージは、すぐにも修正される可能性がある。そうした交際は、イジドールのような本質的な余所者を、まったくの表層でしか救ったはずはないからだ。おそらくイジドールは、最後まで、パリに住む人間たちの「家」には踏みこめぬまま、他界へ移住してしまったのだと思う。どこをどう歩きまわっても、肝心なときにはいつも鼻の先で戸を閉(た)てられてしまう。(中略)パリでのイジドールは、煎じつめれば、(中略)父親が振り込む金だけが頼りだったのにちがいない。
 時として、そういう余所者のイメージが、根っからのパリジャンだったボードレールの幻よりも、私には慰めになった。それはまちがいないことだ。」
「『マルドロールの歌』には、いくつか、独特の調子というものがある。人間たちに向けられた絶対的な拒否も、その一つであろう。文学の世界で類例を求めれば、牢獄文学者サドしかみつからない絶対的な人間拒否が、『マルドロールの歌』の全篇をつらぬいている。ボードレールのような屈折を持たない、留保なしの拒否だ。サドは投獄という形で人間社会に拒絶され、完全に自由を剥奪された人間だから、人間に対する絶対的拒否という思想を組み立てたとしてもふしぎではない。しかし、ロートレアモンは、別に投獄されたわけではないし、(中略)社会から「人外」の者として排除されるような目に遭ってはいない。」

「『ロートレアモンの生涯』の著者ペルーゼは、自分の本の序章に、『マルドロールの歌』と『ポエジー』の読みかたの変貌について、感慨めいたことを書いた。かつてロートレアモンを「発見」した人々のように(シュルレアリストたちのように、といってもいい)、この詩人を熱狂的に読む者は、もういなくなった。『マルドロールの歌』は、いまでは「テクスト」として、実証的に読まれはじめている。そういう「感慨」である。」
「ロートレアモンが、顔を持たぬまま、透明な「書く手」のごときものにまで非人間化される傾向は、年を追って露骨になっていった。そのことに気づいてから、私は、好奇心の域を越えて、ロートレアモンが生身の顔を持つことを希うようになった。」
「詩人、作家の生活を索引にして作品を読むような立場は、すでに久しく基盤を揺さぶられてきたのだが、最近になって決定的に効力を失った。それはそれで慶賀すべきことだと思う。だが、時間のなかで作品を書いて去っていった人間を、その作品の脱殻のように扱うのはよくない冗談だ。人間は人間として直視しなければならない。ロートレアモン=イジドール・デュカスは、「テクスト」を成立させるための、諸条件の組合せのごときものに還元されはしない。」



出口裕弘 帝政パリと詩人たち3






























































































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「カイエ 特集: ロートレアモン」  (1979年6月号)

「続いて第四のストローフでは、そうした人間どもの非人間的な悪虐にかかってこちらもいつ非人間化されてしまうか分らないのであってみれば、こちらが一足先に、人間の形をしたまま ひとでなし になって、人間及びその創り主たる神とどこまでも闘いぬいてみようという決意が、正直すぎると言っていいほど正直に表明される。」
(阿部良雄 「ひとでなしの詩学」 より)


「カイエ」 
特集: ロートレアモン 
1979年6月号(第2巻第6号)

Cahiers de la Nouvelle Littérature

冬樹社 1979年6月1日発行
238p 出版図書案内8p
22×14cm 並装 
定価760円
編集人: 小野好恵
表紙・目次・扉作品・特集カット: 古川タク



カイエ ロートレアモン1


目次:

◆手帖
海外文学 円環の時間 (木村栄一)
現代音楽 聴いているものと聴こえているもの (安芸光男)
美術 死の意識を切り裂こうとする芸術――エゴン・シーレ展 (鈴木志郎康)
◆詩
ニーナへの手紙 (白石かずこ)
赤いコップ (清水哲男)
◆短篇
履き物 (黒井千次)
薔薇と柩と (中井英夫)
◆評論
滅亡過程の文学 方法としてのイロニー――保田與重郎 (松本健一)
◆連載
同時代の文学 二つの「青春小説」――村上春樹と立松和平 (川本三郎)
いつも音楽があった 赤とんぼ (倉本聰)
らくがき帖 やさしい男とやさしい女 (樹木希林)

特集: ロートレアモン
◆エッセイ
ロートレアモンと私 (栗田勇)
ラ・プラタ河のロートレアモン (小中陽太郎)
◆討議
ロートレアモンをどう読むか (渋沢孝輔/阿部良雄/豊崎光一)
◆翻訳
ロートレアモンとわれわれ (ルイ・アラゴン/訳: 松浦寿輝)
彼自身によるロートレアモン (マルスラン・プレネ/訳: 豊崎光一)
インタビュー ロートレアモン再論 (フィリップ・ソレルス 聞き手: フランス・ド・アース/訳: 岩崎力)
◆エッセイ
現場のロートレアモン (出口裕弘)
ロートレアモンと楕円球またはタルブの花 (豊崎光一)
言葉の壁・夏の沼――ロートレアモンとコルターサル (土岐恒二)
◆評論
絶望と希望の弁証――ロートレアモンについての二章 (渡辺広士)
ひとでなしの詩学 (阿部良雄)
◆翻訳
ロートレアモン、筋肉と叫びの詩人 (ガストン・バシュラール/訳: 及川馥)
マルドロールの引用 (ミシェル・ドゥギイ/訳: 及川馥)
◆資料
イジドール・デュカス/ロートレアモン伯爵書誌 (豊崎光一 編)

◆短篇
春雨 (立松和平)
◆翻訳
新たなアナロジー――詩とテクノロジー (オクタビオ・パス/訳: 野谷文昭)
◆連載
犯罪調書 ピルトダウン人偽造事件 (井上ひさし)
手帖 VIII (柄谷行人)
小林秀雄を歩く 12 (高橋英夫)



カイエ ロートレアモン2



◆本書より◆


「ロートレアモンをどう読むか」より:

豊崎 その神の問題には直接かかわらないんですけど、一九三〇年代ぐらいのフランスの文学界で、非常に流行ったことばの一つにオータンティシテ、むしろ形容詞のオータンティックっていうのがありますね。訳しにくいことばだけれど、要するに個人としての実感、体験というものに根ざした考えでなければいかん、作りものはだめだ、というようなことです。そうなるとランボーはどこをとってもいかにもオータンティックだ。ところが、そういう眼でみると、ロートレアモンはどうも信用できない。『マルドロール』にしろ『ポエジー』にしろ、どこまで本気か、どこまで冗談か、全体が巨大な冗談みたいな感じもする。そういうような不信感も一般にあったんじゃないかな。」

阿部 ロートレアモンはなにかっていうと、真面目になろうじゃないかって言うでしょう。笑うっていうことは人間の尊厳を喪失して動物に似ることであると。涙を浮かべるか、涙が出ない場合は小便をしろと。なにか液体がなきゃいかん、それも大変なユーモアだと思うんだけど。
豊崎 ユーモアってのは、必ずしも笑いじゃないですからね。
阿部 アンドレ・ブルトンも『黒いユーモア選集』の中で、ロートレアモンのユーモアというのを、そのテクストを貫く、強力な否定の論理みたいなものとして把えていると言えるような気がしますね。」



カイエ ロートレアモン3


阿部良雄「ひとでなしの詩学」より:

「たった独りのマルドロールが、全人類および彼らの創り主たる神を敵に廻して闘うという、思えば月並なロマン主義的=堕天使物語的=悪魔主義的筋立てないし配役は、ロートレアモンが事あるごとに飽きもせず念を押すところだが、この闘いのさまざまな位相の一つを、非人間化 deshumanisation と名付けることにしよう。この位相は、第四の歌の冒頭、「これから第四の歌を始めようとする者は一人の人間もしくは一個の石もしくは一本の樹木である」という宣言が掲げられた後、さながらこの歌章のライト=モチーフとして展開される。そしてさまざまな非=人間化の様相は、同類(サンブラーブル)、類似(ルサンブランス)、差異(ディフェランス)……等々の縁語の使用を促し、同類=似て非なるものと定式化される弁証法の、豊かな形象化と、執拗な論理的追究を可能にするのだ。
 そしてこの非人間化がさらに二つの位相、すなわち書法の主体としての「私」あるいは主人公マルドロールの非人間化、そして他方、敵である人類の非人間化という二つの位相を含みつつ進行するのであることは、先ほどの力学的考察からしても当然のことと予想されよう。今しがた引いた有名な宣言の直後に来る比喩(コンパレゾン)を次に掲げることにするが、それらの比喩に基づいての結論は、厭うべき同類どもを非人間化するまでもなく彼らはすでに非人間的な実相をもつそのことの認識・表現はその認識・表現の主体の非人間化を伴わずには遂行され得ぬ捨身の業でありその捨身の決断こそが文学的(修辞的)エネルギーの源泉であるという、先ほど措定した力学(ディナミーク)を、すでになまなましい様相の下に呈示する。

 ★足が一匹の蛙を踏めば、嫌悪の感覚(サンサシオン)が感じられる。だが、人間の身体に手でもって軽く触れるか触れぬかに、指の皮は、槌で打ちこわす雲母の塊の鱗片のようにひび割れる。そして、一時間も前から死んでいる鱶(ふか)の心臓が甲板の上で執拗な生命力をもって動悸し続けるのと同じように、われわれの内臓は、接触の後も長い間、隅々まで鳴動し続ける。さほどに人間は彼自らの同類(サンブラーブル)にぞっとするような嫌悪を覚えさせるのだ。

 そして、一見とりとめもない比喩の連続として展開されるこのストローフ全体は、「意識」ゆえに自らを同類と似て非なるものとして非人間化せずにはいられず、そのことによって、天使ならぬ身の浅ましさ、もとの自分とも似ても似つかぬものになってしまう悲劇(=喜劇)の、明晰な認識の過程なのである。」

「続いて第四のストローフでは、そうした人間どもの非人間的な悪虐にかかってこちらもいつ非人間化されてしまうか分らないのであってみれば、こちらが一足先に、人間の形をしたままひとでなしになって、人間及びその創り主たる神とどこまでも闘いぬいてみようという決意が、正直すぎると言っていいほど正直に表明される。」

「豚どもに嘔吐をもよおさせるほど汚いこの「私」は、一つ間を置いた第六のストローフでは、「断崖の上に眠りこんでしまった」ある日のこと、今度は自分自身が豚に変身する夢を見るのであって、非人間化の過程のまことに論理的な進行は、ここで一つの終点に達すると見てよい。

 ★私は夢見たのだ、自分が一匹の豚の身体の中に入ってしまい、そこから出ることは容易でなく、自分の毛をこの上もなく泥んこな沼地の上にころがしているさまを。これは何かの報酬だったのだろうか? 私の願(がん)はついに叶って、私はもう人類に属してはいなかったのだ!

 〈豚(プールソー)の身体の中へ入る〉という表現はただちに、新約聖書(『ルカによる福音書』第八章)で、レギオンという名の人にとりついた悪霊たちが豚の群の身体の中へ入ることをイエスに願い出て許されそのまま豚の身体もろとも湖へなだれこんで溺れ死んでしまうくだり――われわれには、ドストエフスキーの小説のエピグラフでなじみ深いくだり――を思い起させて、ロートレアモンの想像力の跳梁する場の悪魔学的境界ともいうべきものが改めて強く浮き出てくるのでもある。だがそれよりもここでは、「一つの完全な幸福の高く堂々たる反響」としての「変身」を久しい前から希(こいねが)ってきた「私」が、その願望の実現を機会に、自らのかくもみごとな非人間化を可能ならしめた原理と力を逆用して、敵なる人類の非人間化を執拗に推進するのであることを、特記しておかなければならない。

 ★ついにやってきたのだ、私が一匹の豚となる日が! 私は自分の歯で木々の表皮をかじってみた。自分の豚鼻をうっとりして眺めた。もはや神性のほんのわずかな破片も残ってはいなくて、私はこの筆舌に尽し難い悦楽の過度の高見にまで能(よ)く私の魂を高めることを得たのだ。だからして私に耳を傾けるがよい、そして顔を赤らめるな、美の尽きることなきカリカチュアどもよ、この上もなく侮蔑に値する汝らの魂の笑うべきろばのような鳴き声を真に受ける者どもよ。そして、至高の権力者たる神が、たしかにグロテスクの一般的大法則を超えるものでないとはいえそれなりに優秀な道化ぶりを思いついた稀な機会に、とある惑星の上に奇妙な顕微鏡的存在、人呼んで人類〔原文イタリック〕と言い、その材質は朱色の珊瑚のそれに似るものたちを住まわせるというすばらしく楽しいことをやってのけたのは何故であるか、理解せぬ者どもよ。

 非人間化とは、ここまでくれば、肉を斬らせて骨を斬る戦術であり、また思えば、貴重な自由――ここでは、具体的には、一個の言語的自由――を身に備えるために自らに施さねばならぬ変身の手術でもあるのだ。それにしてもこの武器、この自由を獲得するためにロートレアモンの踏む手続きは慎重と言っていいほど入念であることが、強調されなければならない。それは後に、シュルレアリスム俗流の影像(イマージュ)作法にとりこまれるような、ただ恣意的に語と語を結びつけるだけの術ではない、というか、むしろ、そういう「万人によって」利用され得る術が出来上る前の、苦心の段階なのだ。
 第四の歌第七のストローフは、非人間化というのが、堕天使マルドロールを初め本来は邪悪でなかったかも知れぬ者たちの側にあっては、同類にして同類ならざる者たちの元来非人間的である性質をこちら側へ引き受けさせられる=引き受ける過程なのであることを、もう一度念押しして示すエピソードを含む。

 ★大陸(おか)の住人たちに嫌気がさして、というのも、あの人たちは、私の同類と名乗っていながら、それまでのところいかなる点でも私に似ているようには私には見えなかったからなのですが(もし彼らが、私は彼らに似ていると思っていたのなら、なぜ私に危害を加えたのでしょうか?)、私は浜辺の小石たちの方へ足を向けたのです。自らに死を与えようという確固たる決意を抱いて……

 こう語るのは水かきをもって水禽のようにみごとに泳ぐ男なのだが、彼は、両親およびその溺愛する兄弟(双生児の片割れ)に迫害され、土牢の中で十五年間蛆虫と泥水を糧に生きのび、「詭計によって自由をとりもどすことに成功した」後、死ぬつもりで入った海の中で「摂理によって、部分的に白鳥の身体を与えられた」のであって、非人間化が半ば自発的半ば他律的な現象であることが、正確に示されている。」

























































































































『Œuvres complètes d'Isidore Ducasse, Comte de Lautréamont』 (Librairie José Corti)

"Eh bien, soit ! que ma guerre contre l'homme s'éternise, puisque chacun reconnaît dans l'autre sa propre dégradation . . . puisque les deux sont ennemis mortels."


Comte de Lautréamont
Isidore Ducasse
『Œuvres Complètes』


Les Chants de Maldoror, Poésies, Lettres
avec les préfaces de L. Genonceaux, R. de Gourmont, Ed. Jaloux, A. Breton, Ph. Soupault, J. Gracq, R. Caillois, M. Blanchot
les portraits imaginaires de S. Dali et F. Vallotton
des fac-similés de correspondance et une bibliographie

Librairie José Corti, Paris, 1969
427pp, 18.5x11.8cm



ジョゼ・コルティ版ロートレアモン全集。
序文がいっぱい入っています。


lautreamont 1


口絵(モノクロ)はダリによるロートレアモンの架空の肖像。


lautreamont 2


ずーっとまえに田村書店で買って
アンカットだったのでとりあえずページを切って
おいといたら表紙とれちゃった。


lautreamont 3


ヴァロットンによる架空の(でも後で発見された写真とよく似てる)肖像。
レミ・ド・グールモン『仮面の書』より。
Remy de Gourmont "Le Livre des masques"


Table:

PRÉFACES
L. Genonceaux (Edition Genonceaux, Paris, 1890)
Remy de Gourmont (Edition de la Sirène, Paris, 1921)
Edmond Jaloux (Edition Librairie José Corti, Paris, avril 1938)
André Breton (Edition G.L.M., Paris, août 1938)
Philippe Soupault (Edition Charlot, Paris, 1946)
Julien Gracq (Edition la Jeune Parque, Paris, 1947)
Roger Caillois (Edition Librairie José Corti, Paris, 1947)
Maurice Blanchot (Edition du Club Français du Livre, Paris, 1949)

LES CHANTS DE MALDOROR
Chant premier
Chant deuxième
Chant troisième
Chant quatrième
Chant cinquième
Chant sixième

POÉSIES
Dédicace
Poesies I
Poesies II

LETTRES
Lettres

ÉTAT CIVIL
Acte de naissance
Acte de décès

BIBLIOGRAPHIE
Éditions
Répercussions

REPRODUCTIONS
Portraits par Salvador Dali (frontispice)
Portraits par Félix Vallotton
Lettre de Lautréamont
Fragments de lettres de Lespès






























































































ル・クレジオ 『来るべきロートレアモン』 (エピステーメー叢書)

「ロートレアモンにとって、夢はそれ自体として一個の目的ではあり得ない、(中略)夢はただ単に自己自身のもう一つの部分、最も危険で、外在的権力によって最も脅かされている部分に出会う一個の手段なのである。」
(ル・クレジオ 「マルドロールの夢」 より)


ル・クレジオ 
『来るべきロートレアモン』
豊崎光一 訳

エピステーメー叢書

朝日出版社 昭和55年5月25日第1刷発行
154p
19×11.5cm 並装(フランス表紙) カバー 
定価880円
装幀: 辻修平



本書「訳者あとがき」より:

「本書には、彼が今日までにロートレアモンについて書いた文章のうち、一篇を除く全部を収めた。これらが一本にまとめられるのはこれが初めてである。総題『来るべきロートレアモン』は訳者がつけた。」


本書未収録の「マルドロールの二つの神話」(初出: 「Nouvelle Revue Française」1978年11月、12月、1979年1月号)は、望月芳郎による邦訳が「ユリイカ」1980年3月、4月号に掲載されています。

本文中図版(別丁8p)4点。「白い巨人」(アルジェリア、セファールの岸壁画)、ゴヤ「わが子を食うサトゥルヌス」はカラー、ルドン「盃の上」、グランヴィル「罪と贖い」はモノクロ。
カバー絵と本体表紙は駒井哲郎「老いたる海」、本体裏表紙は同じく「鱶とマルドロオル」。


ルクレジオ 来るべきロートレアモン1


帯文:

「ル・クレジオによる
本書のための
書下し論文収録」



カバーそで文:

「この詩という異様な記念碑の下、この言語の内部には、
何かしら強烈な、暴力的な、燃えるようなものがあります。
それはいかなる文学のおかげでもなく、
いかなる洗練された文化=教養にも基準を求めず、
権力的知性へのあらゆる同化の試みを拒否するものです。
何かしら緊急なもの、想像界の共同の場、
あらゆる創造の、つまりは人間の生の原点のようなもの。
私はこの場こそ、日本の読者が「マルドロールの歌」においてただちに、
過まつことなく出会うことのできる場だと信じています。
たぶんそれはこの詩がまさしく文化=教養的な飾りを最も脱ぎすてた、
原初の言葉に最も近いものだからです。
そしてまた日本文化が、神話の必然性の
最も近くにとどまるものの一つだからです。
官能的で、死に魅され、暴力と幻にすみずみまで浸され、
それでいてまた動物界への近接、鳥のオブセッション、
水底と地下の世界のオブセッションをも表現し、
しかもユーモアと懐疑のおよそ最大の離れわざを
してのけることもできる文化だからです。
(本書まえがき「日本の読者へ」より)」



ルクレジオ 来るべきロートレアモン2


目次 (初出):

日本の読者へ (1979年12月執筆)

ロートレアモン (1967年4月25日執筆。ガリマール社「ポエジー」叢書『ロートレアモン全集』、1973年)
別人ロートレアモン (「entretiens」ロートレアモン特集号、1971年。豊崎訳の初出は「ユリイカ」ロートレアモン特集号、1971年9月)
来るべきポエジー (「Les Cahiers du Chemin」第13号、1971年10月)
マルドロールの夢 (未発表)

訳者あとがき




◆本書より◆


「ロートレアモン」より:

「この原始的な作品は唯一無二のものである。文学の中にこれと比べ得るものは何一つない。もろもろの類似を求めるためには、非常に遠いところ、他処の世界に探しに行かねばなるまい、例えば口承文藝のカオスとか、イメージがまだ書き言葉によって定着されていない歌の野獣めいた波動とかの中に。朗誦、罵言、祈りの中に。」

「ロートレアモンが属しているのはあの世界、大人の言語という喜劇を受け容れる者誰しもにとって取り戻す術もなく失われてしまった、文字表現(エクリチュール)に先立つ世界なのである。彼の不完全さの数々、その言語システムの不安定さと尨大さ、その思考の絶え間ないつまづきは、彼の王国の真の国境の標識である。つまりこれはまったく別な領域、前-文学のそれであり、まだ来ていない作品が作り上げられ得た堅固な要塞なのだ。ロートレアモンはそこにおいて彼の言語的領土の中心におり、絶えずそこに絶対君主として君臨しつつ、一つ一つの不完全な言葉、一つ一つの揺れ動く文、一つ一つの叫びにおいて、あの快楽とあの大いなる不幸、つまり絶対的孤独の秘密を教えているのだ。」



「別人ロートレアモン」より:

「形成途上の言語。われわれにはそれを完全に解読する可能性はまったくない。狂気と同様、前-文学的な言語というものは知り得ないのである。せいぜいそこからあれこれのことを、偶然にもぎとることができるだけだ。事実、既知の諸形式とのあいだにそれだけは打ち立て得るような関係、それは他処に、例えば口承文藝のうちに求めなければならない。その際、類似は驚くべきものである。(中略)ロートレアモンの叫びや、仕種や、暗喩の数々、それらがまさに、純粋な状態で、インディアンの神話や、ヨルバ族の歌の中にあるのだ。魔術的な呪文、動物の性器への、母性への、本源的な両性具有への、神的な放蕩への祈願。死にゆく象への祈願――

  二百の丘陵の合したほどに大いなるクドゥよ、汝は船頭である! 象の存命中、女らは逃れ去り、ワギナを遠ざける。象の死したるのちに、私の去年の妻とおととしの妻に会うとしよう。(…)
  象ラアイ、巨大な動物よ! 象ラ-ヌ-デデよ、汝の名は《死よ、どうかどいてくれ》である!(…)
  象は一本の腕を持つにすぎぬ、だがそれでも棕櫚の木を引き抜くことができる。もし二本の腕があったなら、空などぼろきれのように引き裂いてしまうことだろう。夜のようにすっぽりと子を包みこむ母よ!

 魔祓(ばら)いであり、祈りである。自然の力、諸元素(水、火、風)の力への呼びかけ。そしてまた動物的な残酷さ、血への渇きの想起だ。」































































































『Entretiens 30 Lautreamont』

『Entretiens
30
Lautreamont』

Publie sous la direction de Max Chaleil

Editions Subervie, 1971
237pp, 25 plates, 22.8x18.2cm, paperback



雑誌「アントルティアン」のロートレアモン特集号(1971年)。ル・クレジオが「別人ロートレアモン」(豊崎光一訳『来るべきロートレアモン』収録)を寄稿しています。アンリ・ミショーが編集に携った「ディスク・ヴェール」誌ロートレアモン特集号(1925年)の記事再録が全体の約三分の一を占めています。別丁図版(アート紙、モノクロ)はミロやマッソン、ヴァランティーヌ・ユゴーらの絵画作品や19世紀パリ写真その他ヘンリー・ミラーの直筆の手紙など。


lautreamont - entretiens 01


SOMMAIRE :

Avant-propos : Max Chaleil

HOMMAGE au "DISQUE VERT"
(Reedition du numero special de 1925 : Le cas Lautreamont au sommaire : M. Arland, C. Arnaud, A. Breton, J. Cassou, J. Cocteau, R. Crevel, J. Delteil, P. Dermee, A. Desson, H. Dommartin, E. Dujardin, G. Eekhoud, P. Eluard, L. Fabre, B. Fay, A. Gide, R. Gomez de la Serna, A. Harlaire, F. Hellens, J. Hytier, E. Jaloux, M. Maeterlinck, H. Michaux, O.J. Perier, L. Pierre-Quint, H. Read, G. Robin, J. Rodker, J. Slauerhoff, Ph. Soupault, J. Supervielle, A. Thibaudet, G. Ungaretti, P. Valery, F. Vanderem, Dr J. Vinchon.)

CORRESPONDANCES
(Extraits de correspondances de :
Louis Aragon, Maurice Blanchot, Jean Cassou, Max-Pol Fouchet, Julien Gracq, Henry Miller, Maurice Nadeau, Pascal Pia, Claude Seignolles, Philippe Soupault)

LAUTREAMONT ET LE FANTASTIQUE
(Presentation / Metamorphoses : A.C. / Illustrations de : Yves Aubry, Thierry Blits, Valentine Hugo, Andre Masson, Joan Miro, Orlando Pelayo, Kurt Seligmann, Francoise Selloron.)

L'ESPRIT DU MAL ET LA REVOLTE
(Poesies : Hubert Juin / Les Faux-freres : Pierre Minet / Contentons-nous de trois petits elephants qui viennent a peine de naitre : Henry Miller)

MYTHES ET CREATION POETIQUE
(L'homme aux levres de soufre : Donato Pelayo / L'eraflure et le feu : Paul Aubert / L'autre est Lautreamont : Jean-Marie Le Clezio / Lautreamont ou la lumiere de l'anteriorite : Jose-Angel Valente)

DE L'HUMOUR NOIR A LA DESTRUCTION DU LANGAGE
(Un piege a rats perpetuel : Jacques Durand / Notes pour une rhetorique des "Chants" : Jean-Marie Agasse / "Inflation verbale", surrealisme, Tel Quel, Lautreamont : Frans de Haes)

UN VISIONNAIRE DE NOTRE TEMPS
(Chants de Maldoror : Marius Constant / Rue Vivienne : Andre Laude / Lautreamont est mort : Alain Jouffroy)

BIOGRAPHIE
BIBLIOGRAPHIE



lautreamont - entretiens 02


クルト・セリグマン。
「あらし吹きすさぶ夜々、わたしが人間どもの棲息地に乗り込むと……」
"Et quand je rode autour des habitations des hommes, pendant les nuits orageuses..."


lautreamont - entretiens 04


ヴァランティーヌ・ユゴー「1929年12月21日の夢」
Valentine Hugo "Rêve du 21 décembre 1929"


lautreamont - entretiens 05


ヴァランティーヌ・ユゴー「マルドロール」
Valentine Hugo "Maldoror"


lautreamont - entretiens 03


19世紀のパリ。
「わたしの父はヴェレリー街の大工だった。」
"Mon père était un charpentier de la rue de la Verrerie."


lautreamont - entretiens 06


19世紀のパリ。
「日課の散歩で、わたしは毎日狭い路を通った。」
"Faisant ma promenade quotidienne, chaque jour je passais dans une rue étroite."

































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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