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富士川英郎 『西東詩話 ― 日独文化交渉史の側面』

「暗い夜の闇のなかでなにかの恐怖におののき、ふるえている幼な児の魂。これがまた、リルケと朔太郎が成人したのちまでも共通に持っていたものであった。」
(富士川英郎 「萩原朔太郎とリルケ」 より)


富士川英郎 
『西東詩話
― 日独文化
交渉史の側面』



玉川大学出版部 
昭和49年5月15日 初版発行
430p 
菊判 丸背布装上製本 機械函
定価3,800円



本書「あとがき」より:

「東西の文化や文学の交渉ということに関連して、筆者がいままでに折にふれて書きとめてきた論文やエッセイの類をまとめて、ここに一冊の書物を編むことにした。」


本文中図版(モノクロ)43点。
本書収録論文中「萩原朔太郎とリルケ」「萩原朔太郎とポー」「郷愁の詩人」「谷神不死」は『萩原朔太郎雑志』に再録されています。
本書はもっていなかったのでアマゾンマケプレで1,010円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



富士川英郎 西東詩話 01



富士川英郎 西東詩話 02



目次 (初出):

 Ⅰ
古方家と蘭学 (『世界史における日本の文化・三枝博音紀念論集』 第一法規 昭和40年7月)
ヒポクラテスの肖像 (「学鐙」 第65巻第4号 昭和43年4月/昭和48年6月補正)
フーフェラントの『医戒』 (昭和48年5月執筆)
ウィルヒョウと日本の医者たち (「全人教育」 第46巻第12号 昭和47年12月)
コッホ歓迎会 (「全人教育」 第46巻第10号 昭和47年10月)
 Ⅱ
明治時代とドイツ文化 (昭和46年6月20日 「文体論協会」 第19回大会講演)
日本文学とドイツ文学 (『比較文学』 矢島書房 昭和28年10月/但し註は昭和48年6月執筆)
 Ⅲ
詩集『沙羅の木』について (「比較文学研究」 第6号 昭和32年12月)
「わが星」について (『近代詩の成立と展開』 矢島書店 昭和31年11月)
『家常茶飯』についての対話 (「ユリイカ」 第4巻第11号 昭和47年10月)
萩原朔太郎とリルケ (「無限」 第10号 昭和37年8月)
萩原朔太郎とポー (「無限」 第25号 昭和44年3月)
郷愁の詩人 (「季節」 第4号 昭和32年4月)
谷神不死 (「ユリイカ」 第4巻第5号 (昭和47年4月)
 Ⅳ
李太白とドイツ近代詩 (「比較文学研究」 第12号 昭和42年4月)
唐詩のドイツ訳 (「無限」 第22号 昭和42年9月/昭和48年7月、改題及び補正)
柏木如亭の『聯珠詩格訳註』 (昭和48年7月執筆)
『海表集』の唐詩訳 (「本の手帖」 第4巻第8号 昭和39年10月)
 Ⅴ
フローレンツと日本学 (「全人教育」 第46巻第11号 昭和47年11月)
フリッツ・ルンプのこと (昭和48年8月執筆)
リルケと日本 (「比較文学研究」 第8号 昭和39年6月)

あとがき
人名索引
書名索引




富士川英郎 西東詩話 03



◆本書より◆


「李太白とドイツ近代詩」より:

「十九世紀勝から二十世紀へかけてのヨーロッパで、最もひろくひとびとに知られていた東洋詩人は、おそらく『ルバイヤート』の著者オーマー・カイヤムと、Li-Tai-Pe の名で喧伝されていた李白とのふたりであったろう。私は寡聞にして、李白の名を初めてヨーロッパに伝えた者が誰であるか、また何びとによって彼の詩が最初にヨーロッパ語に翻訳されたのかを詳らかにしないが、一八六二年にパリで出版されたエルベイ・サン・ドニイの『唐の詩』(Hervey-Saint-Denys : Poésies de l'époque des Thang, Paris 1862)と、一八六七年に出たジュディト・ゴーチエの『硬玉の書』(Judith Gautier : Le Livre de Jade, Poésies traduites du Chinois. Paris 1867)とは、おそらくヨーロッパで最も古く現われたシナ詩歌集のうちに属するばかりでなく、詩人李太白(リー・タイ・ペー)の名がひろくヨーロッパ中に知れわたったことについても、大きな寄与をした書物であったように思われる。このうち後者の訳者ジュディト・ゴーチエはロマン派の詩人テオフィール・ゴーチエの娘で、彼女にはほかに西園寺公望との共訳になる日本詩歌集『蜻蛉の詩』という訳書もあるが、Tin-Tun-Ling というシナ人の助けをかりたというその『硬玉の書』は、それが出版された当初からかなり永い時期にわたって、単にフランスばかりでなく、ヨーロッパの各地でひとびとの注目を惹き、日本でも大正十一年一月に芥川龍之介が「パステルの竜」という一文を草して、この書を紹介していることは周知のところだろう。
 ドイツで李白の名がひろく知られ、その詩に二、三の詩人たちが注目しだしたのは、概して一九〇五年にハンス・ハイルマンの『シナの詩』(Chinesische Lyrik. In deutscher Übersetzung, mit Einleitung und Anmerkungen von Hans Heilmann. Piper & Co. 1905)という訳詩集が出てからのことであると言っていい。」
「ハンス・ハイルマンの『シナの詩』は、主として前述のエルベイ・サン・ドニイとジュディト・ゴーチエの訳詩集によって、約九十篇のシナの詩をドイツ語に重訳したものであるが、そこに収録された詩は、李白のそれが二十六篇で首位を占め、十三篇の杜甫がそれにつづいている。この書はドイツにおける最初のまとまったシナ詩歌集と言ってもよいものであったせいか、或はその脚韻を用いない、自由な散文訳が、却って多くの詩人たちの創作慾をかりたてたせいか、その後のドイツに現われたシナの詩の翻訳は、ほとんどそのすべてがこのハイルマンのシナの詩によっていることはピーパーが言っている通りである。」



「唐詩のドイツ訳」より:

「マーラーがその「大地の歌」で六篇(実は七篇)の唐詩を作曲していることは周知の通りであるが、その歌詞はすべてハンス・ベトゲの訳詩集『シナの笛』(Die chinesische Flöte. Nachdichtungen von Hans Bethge. 1910)から採ってきたものなのである。そのなかに李白の詩として「陶器の亭」(Der Pavillon aus Porzellan)というのがあるが、そのベトゲ訳をさらに日本語に直訳すれば、およそ次のようなものになる。

  小さな池の真中に
  緑と白の陶器(すえもの)の
  一つの亭(ちん)がたっている

  虎の背中のように
  反(そ)りかえって 硬玉の橋が
  その亭(ちん)までとどいている

  小さな亭(ちん)のなかでは友人たちが
  美しく着飾って 飲んだり 喋ったり
  まま詩を書いている者もいる

  彼らの絹の袖は背後(うしろ)になびき
  彼らの絹の頭巾(ずきん)は楽しげに
  襟首の下にとまっている

  小さな池の静かな水面に
  すべてが奇妙に
  鏡の中のように映っている

  さかさまに反(そ)りかえった橋は
  半月のよう 美しく着飾って
  飲んだり 喋ったりしている友人たちも

  みんなさかさまに立っている
  緑と白の陶器(すえもの)の
  その亭(ちん)のなかに

 この訳詩の原作に当るものを李白の詩集のなかにさがしてみても無駄だろう。こんな詩は李白にはないからである。だが、それにも拘らず、この「陶器の亭」が欧米でかなり久しい間李白の詩と考えられていたその誤謬のもとは、フランス人ジュディト・ゴーチエの『硬玉の書』(中略)にあった。ゴーチエ女史は、そのヨーロッパ語に訳された中国詩歌集のうちでの最も古いものに属する『硬玉の書』のなかに、この詩を李白の詩として収めているが、その典拠は不明で、むしろこれは女史自身がなにかの中国の絵画か、それこそ陶器の装飾画かなにかを見て、それに刺戟されて作った、一種の創作詩であったと考えられるのである。(中略)そしてドイツにおいてもハイルマンをはじめとして、クラブントもベトゲもこの詩を訳しているが、そのうちでは右に掲げたベトゲの訳が最も軽快で、色彩に富み、最も新ロマン派的・印象主義的な特徴をそなえていると言ってもいい。グスターフ・マーラーの作曲はその特徴を十分に生かしたうえ、さらにそれを繊細化したものであったのである。」



「リルケと日本」より:

「ネルケ夫人は一八七四年にドイツのオルデンブルグ州のホレで生まれ、一九〇五年に技師ハンス・ネルケと結婚したのち、その年に夫とともに日本に渡来して、一九一四年まで足かけ十年間、東京で生活していたひとである。第一次世界大戦の勃発とともにネルケ一家はドイツに帰ったが、一九一七年にデュッセルドルフで夫のハンスが病死した。そして未亡人となったネルケ夫人は戦後三人の子供や、日本からつれて帰った家政婦松本朝子を伴って、スイスに移り住み、ゾリオで暮していたが、そこへちょうどリルケが現われたのである。」
「リルケがネルケ夫人のすすめによって読んだ書物に、岡倉覚三の『茶の本』がある。」
「一九一九年の暮にはこの『茶の本』が独訳されて、「インゼル文庫」の一冊として出版された(中略)。そしてネルケ夫人はそのことをいち早くリルケに報らせて、その一読をすすめたらしい。(中略)まもなく彼はバーゼルでこの本を買うことができたので、ただちにネルケ夫人にそのことを報告しながら、三月六日の手紙で、こう言っている。
 「私がこのバーゼルの書店で手に入れた最初の本は『茶の本』でした。《花》(Blumen)についての一章が私にはいちばん楽しく読めました。この本のなかのいろいろなデーターはあなたがご存じのことと一致するでしょうか? それから朝子はそれについて何と言っていますか」。
 「花」についての一章とは『茶の本』の第六章のことであって、先ず昔の中国人や日本人の花に対する愛を説き、ついで日本における花道や、茶室の活花のことが語られている一章であるが、生涯を通じて花を愛することの深かったリルケには、これがとりわけ興味が深かったのだろう。そしてリルケはその後もこの小冊子を折にふれては繙いていたらしく、例えば一九二二年十月三十一日附でネルケ夫人にあててバルテュス・クロソウスキーのことを語った手紙のうちに次のような一節がある。
 「私たちが九月にベアーテンベルグに彼(バルテュス)を訪ねたとき、彼はちょうど支那風の雪洞を、東洋の形の世界(Formenwelt)への吃驚するような才能を示しながら、画いていたところでした。それから私たちはいっしょに『茶の本』を読みました。支那の王朝や芸術家の系統についてのその確かな知識を、いったい彼が何処から得たのか、不思議でした……私はこの奇妙に東洋への嗜好をもっている少年が朝子と会って話しをしたらどんなことになるかと想像せざるを得ないのです」。
 バルテュスはリルケがスイス時代に最も親しくしていた女性のひとりバラディーヌ・クロソウスカ(Baladine Klossowska)の次男であり、この前年、彼が失われた飼猫を画いたスケッチ集『ミツウ』にリルケが序文を寄せて、それをスイスの或る書店から出版させたことは前述の通りである。」
「昭和三十七年八月十九日の「朝日新聞」に彼をインターヴューした記事が載っているが、そのなかに彼の談話として次のような言葉が伝えられている。
 「日本の美術? 日本の美を知ったのは岡倉天心の本でした。矢代幸雄氏の著書にも啓発されました。しかし、私は子供のころから日本の墨絵にひかれていたんですよ。水墨による山水の図、あれはおそるべきレアリスムですね」。
 これは新聞に載ったインターヴューの記事であるからバルテュスの言葉をどれだけ正確に伝えているかは分らないが、既に少年時代から日本美術に傾倒したことを告白しているバルテュスの右の言葉を、前に引用したリルケの手紙の一節と対照してみると面白い。バルテュスは「日本の美を知ったのは岡倉天心の本でした」と言っているが、岡倉天心をはじめて少年の彼に紹介し、その『茶の本』を彼といっしょに読んだのは、ほかならぬリルケだったのである。」






こちらもご参照ください:

富士川英郎 『萩原朔太郎雑志』
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 (新装復刊)
岡倉覚三 『茶の本』 村岡博 訳 (岩波文庫)


















































































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富士川英郎 『書物と詩の世界』

「雪が山中の草堂を静かに降りこめて、樹々の影がその中に深く沈んでいる。風もまったく落ちて、檐端(のきば)の鈴も鳴らず、しんしんと更けてゆく夜、書斎の詩人は周囲に乱雑に散らばった書物を閑かに片づけながら、心はなお、さきまでの読書の間に得た疑義を追いつづけている。一穂の青燈のもとで、心は書物の万古の世界に遊んでいるのである。」
(富士川英郎 「読書の詩」 より)


富士川英郎 
『書物と詩の世界』



玉川大学出版部 
昭和53年2月10日 第1刷 
343p 
四六判 角背クロス装上製本 貼函
定価2,500円



本書「あとがき」より:

「本書は著者がいままでに折にふれて書いてきたエッセイや随筆や雑記の類を集めたものである。その内容は、見られる通り、まちまちであって、全体を一貫するテーマのようなものはないが、書物や詩に関する文章が大部分を占めているので、『書物と詩の世界』という表題をつけてみた。」



本書はもっていなかったのでアマゾンマケプレで562円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



富士川英郎 書物と詩の世界 01



帯文:

「著者は独文学が専門で、特にリルケ研究の大家として知られている。訳書には『リルケ詩集』『ホーフマンスタール 詩についての対話』等がある。漢詩にも造詣が深く、『江戸後期の詩人たち』では第11回高村光太郎賞、第19回読売文学賞を受賞。本書は著者がいままで折にふれて書いた書物や詩に関するエッセイの類を集成したものである。」



富士川英郎 書物と詩の世界 02



帯背:

「碩学の人
ロマンと叙情」



目次 (初出):

 Ⅰ
蘭学のはじまり (「玉川通信」 第230号 昭和47年4月)
底野迦 (「比較文学研究」 第11号 昭和41年7月)
 Ⅱ
原勝郎『日本中世史』 (東洋文庫146 『日本中世史』 平凡社 解説 昭和44年9月)
勝長寿院 (大佛次郎編 『素顔の鎌倉』 実業之日本社 所収 昭和46年9月)
一遍聖絵 (「神奈川新聞」 昭和50年11月3日号)
老松堂日本行録 (「比較文学研究」 第20号 昭和46年11月)
 Ⅲ
隣人の詩 (「学鐙」 第71巻第9号 昭和49年9月)
樹木の詩 (「同時代」 第31号 昭和51年11月)
読書の詩 (昭和52年7月執筆)
萩原朔太郎 (昭和52年2月作)
鎌倉の詩 (河出書房新社 『日夏耿之介全集』 月報第5号 昭和50年7月)
『転身の頌』のこと (『詩人日夏耿之介』 新樹社 所収 昭和47年6月)
 Ⅳ
ホーフマンスタールの思い出 (河出書房新社 『ホーフマンスタール選集』 広告パンフレット 昭和47年1月/昭和52年7月補筆)
ホーフマンスタールと木下杢太郎 (夕刊 「読売新聞」 昭和49年8月12日号)
雑誌「コローナ」 (「文芸」 昭和37年11月)
リルケの思い出 (昭和52年8月執筆)
リルケの処女詩集 (「本の手帖」 第2巻第3号 昭和37年4月)
或るリルケ・コレクションの話 (「学鐙」 第73巻第1号 昭和51年1月)
ヴァイマルの蝶 (弥生書房 『リルケ全集』 月報13 昭和40年2月)
ヘッセ『ヴァンデルンク』 (「季節」 第9号 昭和33年3月)
メーリケ寸感 (筑摩書房 『世界文学大系』 月報84 昭和39年12月)
イヴァン・ゴルのこと (「季節」 第3号 昭和32年2月)
イヴァンとクレール (「季節」 第6号 昭和32年7月)
 Ⅴ
「オオルリ」の思い出 (「歴程」 第187号 昭和49年4月)
堀辰雄 
 1 思い出のなかから (筑摩書房 『堀辰雄全集』 月報1 昭和52年5月)
 2 「リルケ研究」号のことなど (『堀辰雄アルバム』 昭和37年7月)
 3 堀辰雄と「四季」 (「国文学」 第22巻第9号 昭和52年7月)
堀多恵子『片蔭の道』 (「週刊読書人」 昭和52年3月14日号)
神西清さんのこと (「同時代」 昭和32年12月)
堀大司氏の思い出 (「比較文学研究」 第15号 昭和44年4月)
三枝博音氏を悼む (「比較文学研究」 第8号 昭和39年8月)
森銑三氏のこと (中央公論社 『森銑三著作集』 月報Ⅷ 昭和46年7月)
 Ⅵ
父富士川游のこと (「書物展望」 第12巻第11号 昭和17年11月)
西片町九番地 (「中央公論」 第90巻第7号 昭和50年7月)
夏目漱石の手紙 (「本の手帖」 XII 昭和50年1月)
木下杢太郎の手紙 (昭和49年2月執筆)
斎藤茂吉の短歌三首 (「ももんが」 第19巻第11号 昭和50年11月)
 Ⅶ
わが偏読の記
 1 土肥慶蔵『世界黴毒史』 (「図書新聞」 昭和52年4月23日号)
 2 『杏林叢書』 (「図書新聞」 昭和52年4月30日号)
 3 『民族と歴史』 (「図書新聞」 昭和52年5月7日号)
 4 榊原政職『人類自然史』 (「図書新聞」 昭和52年5月14日号)
 5 リヒャルト・ヴィルヘルム訳『老子・道徳経』 (「図書新聞」 昭和52年5月21日号)
覚書 (「日本文化会議・月報」 第57号 昭和52年1月)
お伽のおじさん (「神奈川新聞」 昭和50年3月3日号)
 Ⅷ
長崎の思い出 (「海市帖」 第2輯 昭和33年1月)
ブレーメンの音楽師たち (「学園」 第27号 昭和36年7月)
ハーンの鎌倉紀行 (「山紫水明」 第23号 昭和42年11月)
黄葉夕陽村舎 (「神奈川新聞」 昭和50年9月29日号)

あとがき




◆本書より◆


「隣人の詩」より:

  「秋深き隣は何をする人ぞ

 これは芭蕉が元禄七年九月二十八日、大阪の弟子畦止(けいし)の家で詠み、その翌日招かれてその家に行こうと思っていた芝柏(しはく)に送った句であるという。だが、その二十九日に彼は病床に就き、十月十二日には多くの弟子たちに囲まれながら、五十一歳を以て永眠したのであるから、右の句はこの病床のなかで作られた例の「旅に病んで……」という辞世の句とともに、彼の最終吟のひとつであったと言うことができるだろう。これはまことに、「日々旅にして、旅を栖とした」この漂泊の詩人の孤独の境涯を象徴するような味わいの深い句である。
 秋も深まった頃の或る日、詩人はまたかりそめに宿った知人の家で一日をすごしながら、ふと隣りの家のただならぬ、もの静かな気配に気がつく。そして彼は、そのまるで誰も住んでいないかのように、妙にひっそりとした隣家を窺いながら、その主(あるじ)はいったい如何なるひとで、何を生業(なりわい)にしているのだろうかと、しばしの感慨に耽るのである。
 ところで、ここに注意すべきは、右の芭蕉の句における詩人と隣人の出会いは、運命の偶然による一時の出来事であるということである。彼らはもとより面識もなく、同じ町内に古くから住んでいる同市民という間柄でもない。それはひとりの漂泊者であり、一般の市民社会の外に立っている、いわゆるアウトサイダーである詩人が、その旅の人生の途上で、たまたま行きずりに出会ったひとりの隣人なのである。だが、思うに、芭蕉のような世外の詩人にとっては、一般に世間の人たちはいつもこのような「行きずりの隣人」として現れていたのではなかろうか。換言すれば、いつも互いに「行きずりの隣人」であることが、芭蕉のような詩人の一般的な対人関係であったのではあるまいか。例えばここに江戸後期の詩人菅茶山(ちゃざん)がその晩年に作った、「偶成」と題する次のような詩がある。

  独坐空悲清夜徂  独坐空しく悲しむ 清夜の徂(ゆ)くを
  隣荘無語一燈孤  隣荘 語無く 一燈孤なり
  半瓢残酒傾将尽  半瓢の残酒 傾けて将に尽んとす
  静聴芭蕉滴露珠  静かに聴く 芭蕉の露珠を滴らすを

 これは晩夏から初秋へかけての詩で、おそらくひと雨降ったのち、からりと霽れあがった夜に、詩人はひとりで酒瓢を傾けながら、時おり庭の芭蕉が水滴をこぼす音を聴いているのだろう。爽やかな佳い詩であり、その情景にただよう静けさは、「隣荘、語無く、一燈孤なり」という第二句のうちにもよく現れているが、しかし、この「隣荘」の主人は、茶山にとって、もとより「何をする人ぞ」というような見知らぬ者でもなければ、「行きずりの隣人」でもない。彼らは備後国神辺の同じ町内に、おそらく永年にわたって、隣りあって住んでいた者同士なのである。(中略)さらに蕪村の

  我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

という句のなかの「隣家」となれば、これはおそらく同じ長屋住いの壁一重しか隔っていない「隣家」であって、しかも、「行きずりの隣人」どころか、日頃、詩人と仲が悪く、詩人を嫌っているのだという。ここに見られる詩人対世間人の関係は、芭蕉とその隣人との関係とは、まさに正反対と言ってもよいくらい違っている。芭蕉における隣人は、くりかえして言うならば、たとえ一つ家の屋根の下に泊りあわせたときでさえも

  一家に遊女もねたり萩と月

というように、ロマンティックに、あわれ深くはあっても、どこまでも「行きずりの隣人」なのである。
 ところで、芭蕉の右のような「隣人」の句を読んで、筆者がいつも思い出すのは、リルケがそのさまざまな詩や散文で、歌ったり、語ったりした「隣人」のことである。というのは、芭蕉とリルケの「隣人」は、いろいろな点で、ひどく違っているにも拘らず、両方とも「行きずりの隣人」であるという点では、同じだからである。」

「一八九六年に、二十一歳で、故郷の町プラークを出てから、ドイツに、イタリアに、ロシアに、さらにフランスに、絶えず定住することのない放浪をつづけながら、最後にやっとスイス・ヴァレー州のミュゾットの館にその落着きの場所を見い出すことのできたリルケは、その永い漂泊の生涯において、さまざまな「行きずりの隣人」に出会ったのであった。小説『マルテの手記』のなかでそれを回顧して、リルケは(或はマルテは)、「孤独の放浪をつづけるようになってから、私は数限りない隣人を持ったのだった。階上(うえ)の隣人や、階下(した)の隣人や、右隣りや、左隣りの隣人を。ときにはこの四通りの隣人をいちどきに持ったこともあった。私は無造作にこれらの隣人の物語を書くことができるだろう。それは私の生涯の仕事となるだろう」と言ったのち、さまざまの隣人の具体的な例をあげているが、そのうちにペテルスブルクで出会った、夜も眠らずにヴァイオリンを弾いていた男の話も記されている。(中略)このペテルスベルクのホテルでの隣人について、リルケはずっとのちに、フランスの評論家シャルル・デュ・ボスに向っても、さらに詳しい話をしているのである。
 一九二五年一月二十九日、折柄パリに滞在していたリルケは、シャルル・デュ・ボスをそのイル・サン=ルイの邸宅に訪れて閑談したが、ボスはその会見のありさまを、翌三十日の日付けの日記のうちに詳しく書きとめている。そしてその最後のところに、リルケから聞いた不思議な次のような物語が記されているのである。
   リルケはまた私たちに次のようなすばらしい話をしてくれた。それは彼がロシアを去る前の晩のことであった。彼はセント・ペテルスブルグの或るホテルにいた。夏のことで、北国の特別に明るい、暑い夜々がつづき、その夜空をよぎって、生きのびた昼の光が、夜明けの最初の光と重なりあうように思われた。眠れないでいると、彼の隣りの男が部屋のなかをぐるぐる歩き廻る足音が聞え、その男は何時間もそうして往ったり来たりしたのち、ヴァイオリンを弾きはじめるのだった。ところが、或る晩のこと、ヴァイオリンがテーブルの上に置かれる異常な物音が聞えたのち、リルケの部屋の扉が開かれて、その見ず識らずの隣りの男が敷居のうえに姿を現わした。それは美しい、痩せた若者で、ぴったりと身についた服を着て、一輪の薔薇の花を口にくわえていた――それはおよそ想像し得る限りのロマンティックな恰好のひとつだった。そしてその男がリルケにこう言ったのである。《ぼくのように、あなたもお寝みになれないのですね。ぼくは是非とも、是非とも、ぼくの生涯の物語を誰かに聞いて貰いたいのです》。その男は自分が二人の姉妹に恋をしているが、その二人のうちのどちらに恋をしているのか、はっきりとは分らない。それに二人の姉妹の方でも、同じような状態にいるのではないかという、漠然たる予感がする。つまり彼女たちもどちらがよけいに彼を愛しているのか知ってはいないのだ。だから自分は悪い時に決断して、きっと彼を愛していない方の娘を選んでしまうような気がするとその男は語ったのだった。そしてそんな調子で三時間も喋りつづけていたが、やがて姿を現したときと同じようにふいに部屋を出ていってしまった。そしてリルケは二度とこの男の姿を見なかったという。
 だが、リルケがその一生の間に出会った隣人たちが、右のようなヴァイオリンを弾く男たちにだけ限られていなかったことは言うまでもない。例えばすでに同じペテルスブルクのホテルにおいても、一日中、ベッドにころがったまま、自分の生涯の「時」を秒に換算して、その莫大な数字をいつまでも計算していたニコライ・クスミッチュという不思議な男を、リルケは隣人にもっていた。また、パリではノイローゼに悩むひとりの医学生と隣りあって住んだことがある。その医学生は試験をまぢかに控えた或る日、急に片方の瞼が言うことをきかなくなって、いくらあげても落ちてくる窓のカーテンのように、自然に眼がふさがってしまったのだという。そしてその瞬間にきまって何かブリキ製の蓋のようなものが、その医学生の手から辷りおちて、それが部屋中に大きな騒音をたてるのだった。そしてリルケ(或はマルテ)は、その隣りの部屋との境の壁に身をすりよせて、その瞬間がくるのを、いつも同じような不安におののきながら、じっと窺っているのである。彼はその医学生が意志の力によって、それを克服することを期待している。そして場合によっては、この男のために自分の意志を提供してもよいと考えながら、ほとんど精根も尽きはててしまうのである。リルケは、「隣人を語ることは、むしろ彼らが私のなかに喚起したいろいろな病気の現象を物語ることになるだろう」と言っているが、これは彼の正直な述懐であったと言ってもよいだろう。
 その「隣人」が「行きずりの隣人」であることにおいて、リルケと芭蕉には共通のところがあった。それはこのふたりが世俗、或いは市民社会の外にあって、ひたすら風雅の道を追ったり、詩に自分の生命を托したりした、その漂泊の境涯の然らしむるところであったろう。だから、このふたりと世間の人たちとの間には、同僚とか、同業とか、同市民とかいうつながりはなく、しばしば「見知らぬ隣人」という関係がそこに生じているのである。しかし、芭蕉とリルケの間の共通な点はこのへんにとどまって、このふたりがその隣人と出会ったときの対応の仕方は、極端に違っていると言うことができるだろう。芭蕉が、「秋深き隣は何をする人ぞ」と言い、「一家に遊女もねたり萩と月」と詠ずるとき、その隣人との淡々とした関係の背後には、やはり「もののあわれ」といったようなものを感じさせる或る無常なものの流れのあることが感知されるが、リルケの場合、彼はいつもその異常な隣人たちに吸引され、ほとんど自己喪失に至る悲劇的なドラマがそこで演ぜられるのである。そしてその背景には、彼やその隣人たちをおしなべて流してゆく、近代都市の非情で、非人間的な、どす黒い生活の渦が巻いているのだと言えよう。」







こちらもご参照ください:

『マルテの手記/影のない女 他』 川村二郎 他 訳 (集英社版 世界文学全集 66)
富士川英郎 『萩原朔太郎雑志』































































富士川英郎 『読書好日』

「思うに、これらの人たち、つまり明治の末期から關東大震災前の大正時代へかけて活躍した人たちは、明治維新以來の日本人のうちで、おそらく最も浪漫的であり、最も「美的」な世代であったのではなかろうか。」
(富士川英郎 「萩原朔太郎の「西洋の圖」」 より)


富士川英郎 
『讀書好日』
 


小澤書店 
昭和62年3月20日 初版発行
392p 別丁図版(モノクロ)5葉
20.6×15.6cm 
丸背布装上製本 カバー
定価3,000円



本書「あとがき」より:

「本書は舊著『書物と詩の世界』(昭和五十三年、玉川大學出版部)につぐ、著者の第二隨筆集である。」


旧字・新かな。


富士川英郎 読書好日 01


帯文:

「江戸漢詩文から鷗外、杢太郎へ。近世と近代を繋ぐ硬文學の鑛脈にふれて、著者はその魅力を樂しく語る。知友、文學者との交流や囘想、また住みなれた鎌倉をめぐる小品などをおさめ、著者の文學的世界の深さと擴がりをあますところなくつたえる隨想・評論集。」


帯背:

「近世から近代詩文へ
文學的世界の深さと
擴がりを示す――
充實の隨想・評論集」



帯裏:

「本書は著者がこの數年來、折にふれて執筆してきたエッセイや隨筆の類を集めたものである。ほぼ同じ内容のものをまとめて配列して、全體を八部に分ったが、最後の第八部には、總稱して「鎌倉雜記」というべき小文が集められている。全體として囘想を述べた文章が多いのは、著者の年齢の然らしめたところだろう。
(「あとがき」より)」



目次 (初出):


森鷗外「委蛇録」 (「同時代」 第43号 昭和59年3月)
木下杢太郎のこと (「心」 昭和56年8月号)
木下杢太郎雜志 (岩波書店 『木下杢太郎全集』 第15巻月報 昭和57年10月)
木下杢太郎の隨筆 (「海燕」 昭和59年3月号)
『木下杢太郎選集』 (「東京新聞」 昭和59年1月20日)
「木下杢太郎文庫」瞥見 (「ちくま」 昭和61年1月号)


萩原朔太郎の「西洋の圖」 (「ユリイカ」 昭和55年7月号)
堀辰雄とドイツ文學 (「海燕」 昭和58年2月号)
蝙蝠の詩 (「アルプ」 昭和58年2月号)
夏の歌 (「短歌」 昭和56年7月号)


『狐の裁判』のこと (潮出版社 『ゲーテ全集』 第9巻月報 昭和54年9月(昭和61年7月改稿)
鷗外譯『ファウスト』が出るまで (「全人教育」 昭和53年11月号、54年2・3・5・7月号/原題: 「譯本『ファウスト』ものがたり」)
グロートのこと (「全人教育」 昭和48年3月号/原題: 「グロートと東大醫學部豫科」)


菅茶山 (汲古書院 『近世の漢詩』 昭和61年4月)
菅茶山と賴山陽 (山陽新聞社 『幕末維新と山陽道』 下巻 昭和59年6月)
菅茶山と大田南畝 (岩波書店 『大田南畝全集』 第3巻月報 昭和61年6月)
菅茶山と繪島 (「読売新聞」 昭和54年7月12日)
江戸漢詩文とわたし (「玉川学園学術教育研究所」所報8 昭和60年12月)


福原麟太郎氏の手紙 (「心」 昭和56年5月号/原題: 「福原麟太郎氏とわたし」)
尾崎喜八氏の手紙 (「アルプ」 昭和53年5月号)
山内義雄氏の手紙 (「海」 昭和56年9月号)


内田銀藏博士の手紙 (「創文」 昭和57年11月号)
岡野知十と「料理研究」 (「飲食史林」 第2号 昭和55年7月/昭和61年7月改稿)
私立奬進醫會と「醫談」 (復刻版「醫談」解説 昭和61年4月)
森銑三さんと宍戸俊治氏 (「ももんが」 昭和61年4月号)


小川鼎三博士を悼む (「日本醫史學雜誌」 昭和60年1月号)
竹山道雄氏を偲ぶ (「文化會議」 昭和60年1月号)
或る日の中山正善氏 (「文化會議」 昭和55年5月号)


斷橋 (「ももんが」 昭和56年12月号)
今昔横須賀線 (「同時代」 第45号 昭和60年7月)
大正時代の鎌倉と藤澤 (「江ノ電沿線新聞」 昭和54年10月1日)
湘南中學と岡倉由三郎 (「文藝春秋」 昭和59年2月号)
高濱虚子の俳句 (「かまくら春秋」 昭和56年7~10月号)
鎌倉の梅 (「電波新聞」 昭和53年3月27日)
句碑と歌碑 (「神奈川新聞」 昭和50年7月21日)
サンソムと梵竺仙 (「全人教育」 昭和48年1月号)
悼松記 (「現代」 昭和60年6月号/原題: 「松の木の日本」)
屏風山の道 (「かまくら春秋」 昭和60年8月号)
散歩道の猫たち (「電波新聞」 昭和59年8月14日)
おもかげ (「鎌倉文学館」 昭和60年10月)

あとがき
初出一覽



富士川英郎 読書好日 02



◆本書より◆


「木下杢太郎の隨筆」より:

「いま私は、私の空想するこの一冊の杢太郎の隨筆集の卷頭に、先ず「小學校時の回想」と「すかんぽ」という二篇を置きたいと思う。この二篇の隨筆では、ともに杢太郎の幼年、乃至は少年時の囘想が語られているが、前者では學校へ行くのがいやで、初めて姉に負われて、學校へ行ったときは、その背中で終始目をつぶっていたというような幼い天(あま)の邪鬼(じゃく)の杢太郎の姿や、日淸戰爭のあった前後の時代的雰圍氣が自(おのずか)ら當時の小學生の生活にも反映していたありさまなどが、そこに鮮かに描かれている。」
「右の二篇についで、その次に置かれるのは、「僻郡記」という隨筆である。」
「これは昭和十年に當時東北大學醫學部教授であった杢太郎が、醫療團を率いて、東北地方の農村を巡囘診療したときの記録である。」
「村のひとりの老婆が山で熊と出あって、押し倒され、面皮を剝がれてしまうが、その日の夕方、村人が山を登って行くと、「向うから顏の眞赤な人が歩いて來る。不思議に思つてそれに近づくと、顏の皮を剝き取られ、目と口だけになつた女の人である」という村人から聞いた話を記している行(くだり)には、ほとんど鬼氣せまるものがある。」



「萩原朔太郎の「西洋の圖」」より:

「幼い朔太郎がオルゴールのなかから聞えてくるエキゾティックな音樂に耳を傾けながら「海の向ふに」幻想した「空や都會」は、まさに彼が最初に思い描いた「西洋の圖」であったと言ってもよいだろう。」

「朔太郎が幼いときから幻想していたこの「西洋の圖」は、一面では確かに明治時代の「文明開化」を彩った浪漫的情操の現われの一つであったと言うことができるだろう。だが、明治の文化を築きあげた人たち、つまり朔太郎の父親と同じ世代に屬していた人たちの西洋への志向は、概して言えば、現實的で、或る明確な目的をもっており、それに伴った彼らの夢にはその目的にそって、實現の可能性を孕んでいたようなものが多かったが、これに反して、明治の中期に育った朔太郎などの世代の西洋への憧憬はひたむきで、純粹であるとともに夢想的で、一種の美的ユートピアを彼方に思い描いているようなところがあった。(中略)彼と同じ年齢の谷崎潤一郎が若い頃に見ていた西洋の夢もそれと似たようなものであったし、佐藤春夫の「美しき町」も當時の彼の「西洋の圖」であったと言うことができるだろう。(中略)思うに、これらの人たち、つまり明治の末期から關東大震災前の大正時代へかけて活躍した人たちは、明治維新以來の日本人のうちで、おそらく最も浪漫的であり、最も「美的」な世代であったのではなかろうか。」



「蝙蝠の詩」より:

「大正十年か、十一年、いずれにしても關東大震災より以前のことであるが、當時、中學生であった私は、冬の或るよく晴れた日に、二歳年うえの兄とふたりで、鎌倉の山道を歩いていた。鎌倉の山には、所どころ、その崖に穿たれている、「やぐら」と言われている方形の洞穴があるが、これは鎌倉時代から足利時代へかけての武士の墓窟であって、鎌倉及びその周邊の地帶にだけ見出されるものである。ところでその日、私たちが歩いていた山道に沿っても、いくつかのそうした「やぐら」があったが、そのうちの一つの大きな「やぐら」を覗いてみると、その天井になにか奇妙な恰好をしたものが二つぶら下っていた。何だろうと思って、私たちがそのうす暗い「やぐら」の中に入って、眼をこらして見たところ、それは二匹の蝙蝠が天井にさかさまにぶら下っているのであった。蝙蝠としてはそこで冬眠をしていたのかもしれない。けれども私たちがそれを捕(つか)まえようとしたとき、眼を覺ました蝙蝠はその「やぐら」の中をあちこち飛び廻って、なかなか捕まらない。なにしろそれは、兩手をさしのべてもその天井にとどかないほど大きくて、廣い「やぐら」であったので、私たちはいろいろ骨を折った末(すえ)に、やっと一匹の蝙蝠を捕まえることができたのであった。そして私たちはその蝙蝠を逃さないようにして家へ持って歸ると、家人に知られないように、そっと私たちの部屋に放った。というのは、この六疊ばかりの部屋は四方が壁になっていて、廊下に出る戸口を閉めて置きさえすれば、蝙蝠が逃げだす隙間はどこにもなかったからである。事實、蝙蝠はその部屋に放たれると、いきなりひらひらと舞い上って、天井の一角にぶらりと、さかさまにぶら下ったまま、じっとしていた。そのうち、私たちはほかのことに紛れて、その蝙蝠のこともすっかり忘れてしまっていたが、夜中になって、その部屋に蒲團を敷いて寢ていると、やがてなにか私の顏を掠めていったものがある。しかし、私は眠いので、なんだろうと思いながら、うとうとしていると、また、こんどはさっきと反對の方角から、なにかがひらひらと舞い下りてきて、私の顏を掠めんばかりにして、もとの天井の一角へ飛び上っていったのだった。そのときやっと私はそれが蝙蝠であることに氣がついたが、起き上って、電燈をつけると、彼は天井の私たちの手のとどかない高いところにとまって動かない。やむを得ず、部屋を暗くして、蒲團のなかでうとうとしかけると、また、その蝙蝠が天井から羽音をたてながら舞い下りてきては、私の顏を掠めるようにして、反對側の天井の片隅へ飛び上ってゆくのであった。そのうちその間隔が次第に狹まってきて、しまいにはしきりなしに、その時計の振子の運動のような飛翔がくりかえしなされるようになってきた。もちろん、私はとても寢ていられないので、電燈を明(あか)あかとつけ、窓をあけはなって、その蝙蝠を外へ追いだそうとしたが、彼は巧みに身をかわして、なかなか出てゆこうとしない。そのうちに、その騷ぎに起き出してきた母に、私はあきれられたり、叱られたりしたが、最後にやっと、その蝙蝠は私がふりまわしていた箒木の先端(さき)をのがれて、開(あ)いていた窓から夜の闇のなかへ飛んでいったのだった……」


「菅茶山と賴山陽」より:

「あとに妹などが生まれますが、男の子は山陽一人であった。母親の梅颸に溺愛されたといいますけれど、山陽は幼い時から病身であって、いろんな病氣に罹った。
 現在、母の梅颸がつけた日記が殘っておりまして、その中に幼年のころから少年時代にかけての山陽の動靜や、健康状態が丹念に書きつけられている。それによってみますと、天明七年(一七八七)に久太郎、つまり山陽が癇症を現わしたと書いてある。これは引きつけを起したのでありましょう。それも、輕い程度ではあるけれども、腦膜炎だったのではないかと思われます。この引きつけを山陽は幼い時にたびたび起している。やがて寛政五年(一七九三)、十四歳になった時に鬱病が現われてきました。山陽は躁鬱病だったのですが、それが十四歳の時から現れてきた。
 梅颸の日記を見ますと、久太郎が何も物をいわない、一日中一言もいわない。そして、たまに氣が狂ったようになってしまうというようなことが時々書いてあります。梅颸はそれを非常に心配して醫者に賴んで、しきりに山陽にお灸をすえて貰ったりしている。それから、叔父の杏坪に賴んで、山陽を温泉場に連れていって、湯治をさせたりしていますが、どうも効き目がない。そして、寛政七年、山陽が十六歳になった時、病勢はさらに惡化したのであります。この時には母親の梅颸は精神的なショックを受けたとみえまして、その前後の日記が空白になっている。一方、父親の春水が漢文でごく簡潔につけた日記がありますが、その日記によると久太郎の宿痾が暴發したと書いてる。つまり、躁病の激しい發作が起ったのでありましょう。一家の者がうろたえたというようなことが書いてあります。
 その翌々年の寛政九年、山陽が十八歳になった時、山陽は叔父の杏坪につれられて、はるばる江戸に出てきます。そして當時の最高學府であった昌平黌に入學しました。これは氣分もまぎれて、山陽の躁鬱病がいくらか治るかもしれないという希望を、兩親や叔父の杏坪も持っていたのでありましょう。ところが、この時、山陽は江戸にわずか一年いただけで、すぐ廣島へ歸って來ます。」
「この江戸滯在の一年間に、山陽は何をしていたのか、どうも詳しいことが分りません。始めのころは昌平黌で勉強していたのに違いないのですが、やがてよく分らなくなる。おそらく、この間に躁病がまた暴發したのではないかと考えられます。それで叔父の杏坪がまた廣島に連れて歸った。」
「ところが廣島へ歸って來ても山陽の病氣はたいしてよくならない。そうこうしているうちに或る大きな事件が起りました。寛政十二年の九月、山陽が二十一歳になった年に、賴家の父祖の地である竹原において、春水の叔父に當る傳五郎という人が死亡しました。ちょうどそのころ、春水は江戸に出張していて、廣島にはいなかった。そこで梅颸は杏坪と相談して山陽を春水の名代として竹原に弔問に行かせました。下男を一人付けて行かせたのですが、その途中で、山陽は下男をまいてしまって、どこかへ逐電してしまったのです。下男がいくら探しても山陽が見當らない。すごすご廣島へ歸ってくる。廣島では大騷ぎになります。というのは山陽は侍の嫡男であった。その當時のきまりは、士分の嫡男が無屆けで安藝の國の外へ出たら、つまり脱藩したら、見つかり次第死刑です。斬首ということに決っている。だから、山陽が行方不明になったというので賴家では非常に困惑狼狽するわけです。」
「この時の山陽の逃亡は大きな事件でありましたから、後になっていろいろそれについての傳説のようなものが生まれました。(中略)そのうちに、たとえばこんな話があります。追手の人たちが、廣島縣の西條という所へ來ると、道端に賴家の定紋のついている上下を着た乞食が坐っている。不審に思ってその乞食に質したところ、山陽が乞食と衣服を交換して逃げて行ったのだという。さらに追手が姫路に至ると、近ごろ非常に學問のある乞食がやって來て、道端で昔の源平合戰などの講釋をしていたという噂が街にひろがっていた。さてこそ山陽に違いないと思って探すのですが、彼の行方はやはり一向に分らない。このようにいろんな傳説が殘っているのですが、もちろん、これは後世の作り話で、事實を語ったものではありません。實際は九月二十八日に、京都の福井新九郎という醫者の家に隱れているところを見つけられて、山陽はただちに廣島に連れ戻されたのであります。
 ところで、山陽はまぎれもなく脱藩したわけですから、普通ならば死刑に處せられるところです。しかし、父賴春水に對する淺野侯の信賴が厚かったということもあって、家老の差し金で山陽は氣違いになったという屆けが出されました。狂人ならば罰せられないわけであります。そして、山陽は座敷牢に入れられる。父春水の家で座敷牢に三年間入っていた。この間、同じ邸宅に住んでおりながら母の梅颸と會うことは許されなかったのです。ところが、不思議なことに、座敷牢に入っている間に、山陽の鬱病はほぼ治ってしまったのです。そして、この間に山陽は例の『日本外史』の初稿をほぼ全部書いてしまった。座敷牢の外へは一歩も出られませんから書物を讀んだり、文章を書いたりするほかには仕方がなかったと思われますが、とにかく鬱病が治って、しかも『日本外史』の初稿が出來上がったのであります。そして山陽は享和三年(一八〇三)になって座敷牢から出ることを許されました。しかし、山陽は氣が狂ったのだという屆けを出していますから、彼が賴家の跡を繼ぐということは許されない。そこで彼は廢嫡されることになります。そして春水は弟の春風の子供を自分の養子にしました。山陽は廢嫡されて、藩に仕える希望はもちろんない。父のもとにあって、一種の浪人生活のような暮らしをしながら憂鬱な日々を送っている。そこで腹いせといいますか、やけくそになったといいますか、やがて山陽は――そのころは鬱病はほぼ治っていたのですが――今度は遊蕩生活に耽るようになりました。廣島市内だの宮島だのの遊里へ入りびたって何日も家に歸らない。ここでちょっと話が前後しますが、そのころすでに山陽は結婚しておりました。同じ藝藩の醫者で御園道英という人の娘の淳子と結婚していたのですが、これは脱藩事件を起す少し前のことです。そして、脱藩事件があったのち、山陽が座敷牢に入っていた間に、この結婚は破談になりました。こういうような次第で當時、兩親たちは山陽の扱いに困っていましたが、ちょうどその時、一種の救いの手が菅茶山から伸ばされたのであります。」



「高濱虚子の俳句」より:

 「鎌倉や牡丹の根に蟹遊ぶ

 これは昭和二十五年の句であるが、鎌倉の海に近いあたりにある家の砂地の庭などでは、こうした光景がよく見られたものであった。この句を讀んで、なんとなく思い出されるのは、戰前、殊に昭和の初期の頃、滑川の河口近くに掛っている海岸橋(これは當時は木の橋だった)に立って、川を見下すと、その兩岸の石垣の隙間から、大小無數の蟹が絶えず出たり入ったりしていた光景である。だが、當時はここに限らず、蟹などは鎌倉の到る所にいたと言ってもよいが、その蟹もいまは稀れにしか見られなくなってしまった。

  颱風の名殘の驟雨あまたたび

 八月も下旬になって、颱風のシーズンが近づくと、避暑客で賑わっていた鎌倉も急にさびれて、

  降りつづき避暑も終りとなるばかり

 と甞て星野立子氏が詠んだような日々がつづくが、それはまた鎌倉の夏の終りを告げる風雨なのであった。」





こちらもご参照ください:

森林太郎 訳 『フアウスト』 (岩波文庫) 全二冊
内田百間 『王様の背中』 (旺文社文庫)













































富士川英郎 『茶前酒後』

「坪井のコロボックル説は彼ひとりだけの説にとどまって、これを繼承する者は(中略)なかったが、(中略)このコロボックル説には坪井のロマンティックな夢がこめられていたと言ってよく、ひとつの學問がまだ若く、稚(おさな)いときに、往々にしてこのようなロマンティックな説が現れるのである。」
(富士川英郎 『茶前酒後』 より)


富士川英郎 
『茶前酒後』


小澤書店
平成元年12月20日 初版発行
179p
20.5×15.5cm
丸背布装上製本 貼函
定価2,884円(本体2,800円)



本書「あとがき」より:

「本書に收められた文章のうち、1から7までは、「新潮」に昭和六十年四月から隔月掲載され、8以下は、「ちくま」に昭和六十一年十二月から平成元年五月まで連載されたものである。茶前酒後の閑話であるが、その内容は讀書漫談、または書物隨筆とでも言うべきものだろう。」


旧字・新かな。
本書はもっていなかったのでヤフオクで1,840円(送料無料)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


富士川英郎 茶前酒後 01


帯文:

「老子「道德經」について、「唐詩選」について、また「千一夜物語」にまつわる話。東西の歴史と文學をめぐる氣儘な讀書隨想。新村出、三浦周行、喜田貞吉、中村直勝ら歴史家の著書の思い出は、著者の若き日の歴史學への憧れと現在にいたる關心の持續を物語る。」


帯背:

「讀書隨筆」


内容:

茶前酒後
 1~32

あとがき



富士川英郎 茶前酒後 02



◆本書より◆


「1」より:

「ところで、全部で八十一章から成っている『道德經』のうちに、たった一章だけ、その著者が自分のことを語ったと思われる次のような箇處がある。

  衆人は熙熙(きき)として
  太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く
  春 臺(うてな)に登れるが如し
  我獨り泊兮(はくけい)として 其れ未だ兆(ちょう)せざること
  嬰兒(えいじ)の未だ孩(がい)せざるが如し
  儽儽兮(るいるいけい)として歸する所無きが若(ごと)し
  衆人皆(みな)余(あま)り有り
  而(しこ)うして我は獨り遺(うしな)えるが若し
  我は愚人の心なる哉
  沌沌兮(とんとんけい)たり
  俗人は昭昭たり
  我は獨り昏(こん)なるが若し
  俗人は察察たり
  我は獨り悶悶たり
  澹兮(たんけい)として其れ海の若く
  飂兮(りゅうけい)として止(とど)まる無きが若し
  衆人皆以(もち)うる有り
  而うして我は獨り頑(がん)にして鄙(ひ)なるに似たり
  我は獨り人に異にして
  而うして母に食(やしな)わるることを貴(たっと)ぶ

 萩原朔太郎は嘗て「詩神」という雜誌(昭和四年十二月號)に「老書生」という短文を寄せて、そのなかで、「老子の道德經の中に、人は皆名利を思ひ、榮達富貴の功名を愛するけれども、《我レ獨リ人ト異リ、無爲ニシテ母ニ養ハレンコトヲ希ヒ願フ》といふ章があるが、三誦して涙を流し、しみじみ僕のことのやうに痛感する」と言ったことがある。朔太郎はここで老子の言葉を、おそらくうろ覺えのまま、勝手に自己流に變えてしまっているが、しかし、それが『道德經』の第二十章の右のような章句を讀んだ記憶から出ていることは間違いなかろう。
 思うに右の章句は、「道」を求めて孤獨であり、世俗の人々のなかにあって、ひとり異分子であった老子の、そうした境遇のなかでの嘆きを訴えたものなのだろう。そう解してみると、「衆人皆(みな)余(あま)り有り、而うして我は獨り遺(うしな)えるが若し」とか「我は愚人の心なる哉、沌沌兮(とんとんけい)たり」とか、「俗人は察察(さつさつ)(活發なこと)たり、我は獨り悶悶たり」というような言葉が、いかにも切々として、われわれの胸に迫ってくるように思われる。そしてこれがなんと『氷島』の詩人の嘆きと似ていることだろうか。」



「2」より:

「ところで、「谷神」は文字通り、「谷の神」であり、「玄牝」はすべての生命の母胎、萬物がそれから生まれでる母だろう。人類學者石田英一郎氏はその「桃太郎の母」という長い論文の末尾で、原始母神、つまり人類の始祖としての母神についての信仰が古代の漢民族にもあったらしいと言い、老子のこの「谷神不死」の章句にその痕跡を見ている。また、ドイツのシナ學者エルヴィン・ルッセールは「谷神」を die Gottheit des Quelltals (泉の谷の神)と言い、「玄牝」を die dunkle Tiergöttin (神秘な獸の女神)と譯しているが、これも太古の民族が信仰した、獸の姿をしている原始母神を思い浮かべてのことであったろう。」


「5」より:

「ヴィルヘルムの譯書『道德經』には《Das Buch des Alten vom Sinn und Leben》(道と人生についての老子の書)という副題がついている。ヴィルヘルムはこの書において、「道」(Tao)に Sinn という譯語をあてているが、これはゲーテのファウストが『新約聖書』のヨハネ傳を開いて、そこに「初めにロゴスありき」とある Logos を Sinn というドイツ語に譯したことに據っているのである。いったい、ヴィルヘルムはこの『道德經』を翻譯するにあたって、ゲーテ、殊にその『ファウスト』のなかのいろいろな言葉が頭のうちにあったらしく、右のほかにも、例えば、『道德經』第六章の冒頭の

  谷神(こくしん)は死せず、是れを玄牝(げんぴん)と謂う。

という言葉のうちの「玄牝」を、彼は das Ewig-Weibliche (永遠に女性的なるもの)と譯している。「玄牝」はすべての生命の母胎、萬物がそこから生まれでる母のことだろう。これに das Ewig-Weibliche という、ゲーテの『ファウスト』の最後の言葉をあてたのは、かなり大膽なことと言えるが、私が氷上英廣さんから聞いたところによれば、嘗て岩元禎氏はその舊制一高での講義において、逆にこの『ファウスト』の言葉を「玄牝」と譯したという。」
「因みにヴィルヘルム譯『道德經』の戰後に出た改訂版においては、「玄牝」は das dunkle Weib (神秘な女性)と譯されており、支那學者のエルヴィン・ルッセールはこれを die dunkle Tiergöttin (神秘な獸の女神)と譯している。」



「7」より:

「ヴィルヘルムその他による中國古典の翻譯がつぎつぎに現れたとき、それを眞劍にうけとめて、それらから強い影響をうけた詩人の膸一はヘッセであった。ヘッセはそのときの驚きや喜びを語って、次のように言っている。

  驚嘆すべき中國の古典があり、中國に特有の人間性や人間精神があって、それが私にとって好ましく、貴いものとなったばかりでなく、はるかそれ以上に、魂の隱れ家となり、第二の故郷となろうとは、私が三十歳を超えるまで、まったく豫想もしないことだった。だが、やがてそれまではリュッケルトが翻譯した『詩經』(Schi King)のほかには、中國の古典については何も知らなかった私が、リヒャルト・ヴィルヘルムその他の人たちの翻譯によって、それがなくてはもはや生きていけないものを知るという豫期しないことが起ったのであった。それは賢者と善人の中國的・道教的理想である。

 中國古代の思想家のうちで、ヘッセが最初に、そして最も傾倒したのは、老子であった。ヘッセは老子を中國最大の思想家であると言い、古代ギリシアの哲人たちや、佛陀や、キリストと肩を並ぶべき賢者であると言っているが、彼が老子や道教のうちに見出して、強い共感をもったのは、「戰鬪的」でなくて、「非戰鬪的」なもの、強者ではなく弱者、耐え忍ぶ者、靜かに冥想する者への志向であり、生の自然な流れと運命に身をゆだねる、その無爲自然の説であったろう。」
























































































富士川義之 『ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎』

「書斎から出て来ると、いつもうわの空で、しばらくぼんやりと庭をながめたりしている。そのうちはっとわれに返ったように、書斎から本を持ち出して来てあちこち拾い読みをしている。家族が何か話しかけても「うん」とか「ああ」とか「そうか」とか、ほとんど最低限の返事しかしない。視線はいつも読みかけの本にそそがれたままである。目の前にいるのにいないというか、存在感の薄い父親であった。」
(富士川義之 『ある文人学者の肖像』 より)


富士川義之 
『ある文人学者の肖像
― 評伝・富士川英郎』


新書館
2014年3月5日 第1刷発行
446p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,600円+税
装幀: SDR(新書館デザイン室)
装画: 三浦雅士



本書「あとがき」より:

「富士川英郎と言っても、今日、その名が広く知られているとはとうてい言えないだろう。」
「忘却の淵へと追いやられつつある、そんなドイツ文学者の評伝を、いま、なぜ書くのか。」
「富士川英郎は、五十代半ば頃まではリルケやホフマンスタールの研究や翻訳で知られたドイツ文学者である。だが、それ以後、江戸漢詩や日本医学史の研究に熱中し、九十三歳で他界するまでのおよそ三十数年間、その成果を次々に発表してその健筆ぶりが読書界で注目された文人学者である。専門家が重視される現在では、ほとんど絶滅危惧種と見なされてまともに相手にされることも少ない、そんな反時代的な滅びゆく「文人学者」のひとりである。そうした現代の風潮に逆らって、わたしは、そもそも「文人学者」とはどのような存在であったのか、ということを、このドイツ文学者の生涯と著作に可能な限り寄り添いながら、掘り下げてみたいと思い立った。わたしがそう思い立った理由には、馬齢を重ねるにつれて、消え去りゆくものやその美しさに対する愛惜の念が次第につのって来ているせいもたぶんあるだろう。これが本書執筆にあたっての、わたしの根本動機である。
 富士川英郎は、専門知を追いかけることのみに関わりがちな現代にはめったに見られぬ、自由闊達で、おおらかで、いかにもゆとりのある文学研究を、その長い生涯を通じてまことに見事に実践してみせている。わたしは近年、そのような文人学者としての富士川英郎に、また自分の好みを頑固なまでに貫き通したその潔い生き方に、以前にも増して少なからず共感を覚え強い興味を持つようになった。そうした心の動きに従って、その生涯と著作を読み解くことを試みたのが、この評伝である。
 富士川英郎はわたしの父である。」
「本書の最初の四章は、新書館より出ていた雑誌「大航海」第六十八号(二〇〇八年十月)から第七十一号(二〇〇九年七月)まで最初連載され、それに大幅な加筆修正を施したものである。そのあとの章はすべて「大航海」終刊後に新たに書き下ろしたものである。」



年譜と著書目録は二段組。巻頭に写真図版「晩年の富士川英郎」。
本書はヤフオクで1,627円(送料込)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


富士川義之 ある文人学者の肖像 01


帯文:

「美しく豊かな老年を過ごす!
『リルケ』『江戸後期の詩人たち』『菅茶山』などの名著で知られる文人学者・富士川英郎の一生
時代とともに描き出される、游、英郎、義之と続く学者三代の系譜」



帯裏:

「晩年に執筆された数多い回想の文章を読んでいると、老いることは哀しく、寂しいだけなどといったよく見かける悲観的な見方は少しも見出せない。それどころか、老いを生かすことは素晴らしいことだとする、一種の幸福感が随所から立ち昇って来るような趣さえ感じられる。やぐらへの熱中にしても、学問的熱意もさることながら、その根底には、記憶のなかの映像に向かってひらかれた、少年のように純真でみずみずしい感受性が生き生きと脈動していることがはっきりと感じられるのである。わたしはそのような回想の文章を読むのが好きである。
――本文より」



目次:

1 プロローグ 華やぎのある孤独
2 回想のなかの大正時代
3 詩的人間の誕生
4 リルケの方へ
5 昭和十年代
6 リルケ・ブームのなかで
7 昭和三十年代
8 『伊沢蘭軒』をめぐって
9 江戸後期の詩人たち
10 菅茶山の方へ
11 富士川游のこと
12 『儒者の随筆』
13 『茶前酒後』
14 『失われたファウナ』
15 父とわたし
16 晩年の父の記

あとがき

富士川英郎 年譜
富士川英郎 著書目録



富士川義之 ある文人学者の肖像 02



◆本書より◆


「プロローグ 華やぎのある孤独」より:

「父が戦後はじめて西村孝次と対面した場面である。」
「西村さんは緊張しているのかいつもほど口数が多くなく、父のほうはもっと寡黙で会話はあまりなめらかに進まない。(中略)少しは活気が出て来たのは、わたしが吉田健一を話題に持ち出してからである。」
「吉田健一は鼻っ柱が強く、議論をしても絶対に譲らない頑固さがあった。(中略)それに第一海外生活が長く、話し方や動作にどこか日本人離れしたぎこちないところがあって、時々面喰らうこともあった。西村さんの長女が生後数ヵ月で病死したとき、わざわざ通夜に来てくれてその友達思いには感激したが、通夜の席で彼の箸の使い方をじっと見ていた家主のおかみさんに、「西村さん、あの人、日本人なの」と訊かれたという。箸の使い方ひとつにしてもどう見ても日本人らしくない、ぎこちないところが目についた。また、勝手気ままに振舞ってもいて、とくにけたたましい彼の高笑いを嫌がる人もいた。しかしそれを一生貫き通したのが彼の偉いところではないかな。あのくにゃくにゃした軟体動物みたいな彼の文体はその最たるものだ。(中略)ともかくこんな男はいままで見たことがない、というのが、当時の実感だった。」
「ノートをもとに西村さんの話の概要を再現してみた。父もはじめて耳にする話が多かったらしく、時おり相づちを打ちながらじっと聴いていたが、(中略)「しかし吉田君は孤独だったのじゃないかな」とぽつりと言った。」

「振り返ってみると、父は若い頃から敢えて孤独の道を歩むことを選んでいたふしがある。
 たとえば一例を挙げると、ドイツ文学者でありながら、ドイツ文学会にはいつも欠席していた。(中略)つまりごく少数の身近なドイツ文学者以外とは、ほとんど交流というものがなかったのだ。特定の人を除いて英文学者とは全く疎遠だった吉田健一の場合と似ている。」



「回想のなかの大正時代」より:

「游とともに、鴎外は父の生涯にとってある意味でつねに導師としての役割を果たしていた。鴎外を読むことを通じて、のちにリルケや菅茶山などに深く傾倒してゆくいわば最初のきっかけを与えられたのである。それだけではない。仕事には並外れて勤勉であり、黙々として日々の勤めを果たし、読書のほかには散歩をほとんど唯一の趣味とし、栄誉や金銭などはあまり眼中になく、自分の関心事以外には、何事に対してであれ、傍観者的であるという人生態度を身につけていた点で、鴎外の生き方から少なからぬ示唆を受けていたのではなかろうか。」


「詩的人間の誕生」より:

「その当時、ときどき父とぶつかっていた母が、父のことをいつも「エゴイスト」と言って責めていたことを思い出す。」

「ところで詩的人間をめぐって、先に引いた『ナボコフ自伝』(中略)に、この作家が次のように述べていることに目がとまる。

   人間の精神がどのようにして誕生したかという謎にたいして、それは他の部分の成長を不埒に停止させたからだと、のらくらなにもしないで暮したからだと、考えるとまたなかなか楽しいではないか(学問研究といっても、所詮は楽しみを与えるだけのものなのだ)。そういう生活はまず詩的人間(ホモ・ポエティクス)の誕生を可能にする――そして詩的人間が誕生しなければ、知的人間(ホモ・サピエンス)も生まれなかったはずなのだ。「生存競争」の結果だなどと、馬鹿馬鹿しい! 闘争やあくせくした生活は人間を豚に戻すだけなのだ。」



「昭和十年代」より:

「このように、対比的存在とされるリルケとホフマンスタールの両方に父は強く惹かれていたのである。敢えて言えば、ドイツ文学のなかで、父がもっぱら熱心な研究対象とし、翻訳を手がけたのは、この二人だけであって、ゲーテにもヘルダーリンにもゲオルゲにもあまり深入りした形跡は見当たらない。これはと思うごく少数の対象にしっかりと的をしぼり、深入りしていくというのが、父の研究態度の基本であった。ドイツ文学の森のなかに入って行って、広く浅く研究対象をあちこちに拡大していくのはどうも性分ではなかったようだ。それに基本的には、父にも「ドイツ」が存在していなかったのではないかとも思われる。何度か強くすすめられながらも、一度もドイツやオーストリアを訪れることがなかったところに、ドイツ文学との関わりにおける父のユニークな姿勢がうかがえると言ってよいかもしれない。」


「リルケ・ブームのなかで」より:

「その後の現象としてはっきりしていることは、リルケは、同じくドイツ語圏の辺境都市プラハの出身者であるカフカに取って代わられたということである。リルケ研究者の多くは、一九三〇年代から一九五〇年代にかけて詩の聖人とも言うべきリルケ像が形成されていたことを指摘する。そうした神格化されたリルケ像の反動として、別のリルケ像が戦後になって徐々に形成されて来たという。」
「このようなリルケの女性関係の細部が次々と明らかになってゆくにつれて、数知れず関係を持ち、ほとんどつねに女性たちに依存し寄食しないではいられぬこの詩人の生き方がしばしば疑惑と反感を呼び寄せることとなる。「これはひどい女たらしであり、人間関係の偽善者と見えてしまうことは避けられない」(高橋英夫)と見なされたのである。こうして「手を洗っているときでも詩人だ」といった従来の純粋詩人像が崩れはじめ、リルケ・ブームの退潮の主因のひとつとなっていく。高橋氏はこう書き添えている。

   私はなぜか、そんなネガティヴなリルケのイメージがひたひたと自分を取り巻くように思ったときでも、詩人に対する反感や嫌悪をさして覚えはしなかった。こんな底知れぬ言語表現を達成した人間なら、実体は女たらしかもしれない、偽善者かもしれない。それは当然ではないのか。たぶんそんな気持だっただろう。(中略)(「伐り倒されたポプラ」)」

「リルケが一九一三年二月に書いた有名な「体験」という短いエッセイがある。」
「そのエッセイで彼は、イタリアの「ドゥイノの館」の海までかなり急な下り坂になってつづいている庭園のなかで出会った不思議な出来事について語っている。ある日、その庭園を散歩していた彼がふと一本の「灌木風の樹のほぼ人間の肩ほどの高さの叉(また)に身をもたらせかけて」、しばらくそのままの姿勢をして立っていると、「まるでその樹の内側から、ほとんどそれと認められないような震動が彼の体内へ伝わってくるような感じ」がしたのだった。そして彼がそのますます体内へ入ってくる震動に身をまかせていると、やがてまるで夢のなかにでもいるように、現在の「時」の外にある世界、いわば「自然の裏側」へと出てしまう。そして周囲の現実が一定の距離に遠ざかってゆくとともに、彼自身はまるで「永遠の現在」のなかに立っているような気がしたという。
 このときリルケは「開かれた世界」の存在を直観的、感覚的に把握し、それとの一体感のうちに生きたのである。このような状態を彼は純粋な「生の顕現」と呼ぶ。」
「「第七の悲歌」註解で、富士川英郎はわれわれ普通の人間にもそうした「生の顕現」の瞬間が稀には訪れることがあると言うのだ。

   だが、その英雄ならぬわれわれにもまた、自分自身や宇宙と一体となることのできる瞬間が、たとえ稀れであるにしても、与えられることがあるのではなかろうか。もちろん、それは詩人が最初の五篇の悲歌のなかでしばしば嘆いてきたように、われわれが人間本位に解釈した世界のなかにとどまって、絶えず「死への恐怖」にかられながら、それをごまかして生きようとしている間は駄目である。しかし、われわれが我を忘れ、すべてを放棄して、心の憧れに身をゆだねるようなとき、或は自然や物のなかに自分をまったく没入することができるようなとき、そんな瞬間には、われわれのなかにも純粋な「生の顕現」が見られるのではあるまいか。

 ここでもまたわれわれが自己中心主義、人間本位の世界から脱却して無私や無心の心境になることの重要性が示唆されている。そうした無私や無心の状態を先天的に達成している存在として、リルケは幼児や動物をたびたび引き合いに出している。無心な幼児や動物は、死の意識によっておびやかされていない、「開かれた世界」に住む無意識的存在であると見えるからだ。富士川英郎に関して言えば、(中略)幼児はむろんのこと、とりわけ動物への偏愛を示す場面を目にする機会は日常生活で少なくなかった。とりわけ猫好きで、一時は七匹も飼っていたほどである。」
「「樹木の詩」というエッセイで、日夏耿之介の「血」(『転身の頌』所収)と題した詩について語りながら、その詩のなかで、一本の百日紅の老樹のもとに佇んで、高い空にとどろきわたる深紅の血潮が詩人の体内に流れ入るのを感じた瞬時の体験を、リルケの不思議な「体験」と似たようなものではないかと述べている。そして「もっとも、大きな老樹のもとに立って一種異様な感じを持った経験は誰にでもあることだろう。筆者なども少年の頃、当時鎌倉の源氏山の頂上に高く聳えていた一本の巨大な松の木の下に立ち、その二抱(ふたかか)えもあるような太くて、たくましい幹がまるで鱗を逆立てた竜のように、うねりくねって、天へ向かって昇ってゆくのを見上げたとき、そしてあたりは風のない静かな春の日であったのに、その眼には見えない、はるかな高い梢のなかで絶えず鳴りひびいている松籟に耳をすませたとき、そのまま何か夢の世界にでも引き込まれたような気がして、しばらくそこに茫然と立ちつくしていたことがあるが、耿之介の詩やリルケのエッセイ、殊に後者を読んでいると、あの少年時の不思議な体験がまた記憶のなかによみがえってくることがしばしばあるのである」。」
「『猫町』をめぐって」は、短文ながら、英郎の異空間、異次元嗜好を感じさせる面白いエッセイである。」
「萩原朔太郎のこの『猫町』をめぐり、(中略)江戸川乱歩が(中略)、この小説に似た猫に関する怪奇譚として、イギリスの怪奇作家アルジャノン・ブラックウッドの「古き魔術」という中篇小説を挙げたことがある。
 フランスを旅行中のあるイギリス人が、とある田舎町で汽車から下りると、そこは古めかしい塔などのある静かな町である。彼は一軒の宿屋に泊るが、この宿の女主人は無口な大柄の女で、いつもホールの椅子に腰かけて、あたりを監視している。
 ある月の明るい晩に宿に帰って来ると、薄暗いホールに巨大な猫が横たわっていた。男を見た猫はさっと立ち上がるが、見ればそれは大柄な宿の女主人であった。そのあと、宿のまわりが騒がしくなって来たので見ると、中庭に猫の群れが集まっている。この猫の大群は町はずれの谷間に向かって移動してゆき、月夜の大通りは、猫の群れでいっぱいで、さらに谷間まであとを追うと、そこでは町中の人びとが集って狂喜乱舞しているが、それらの人々の顔はことごとく猫の顔であった。そしてその中心にいる女王こそは、あの宿の女主人である巨大な猫なのであった。
 この奇譚の作者ブラックウッドは、一九一二年三月に、イタリアのヴェニスで、リルケと知己の間柄となる。(中略)リルケはこの怪奇作家の頼もしい人柄が気に入り、彼の著書も少しは読んでいたらしい。直接の影響関係はないのかもしれないが、リルケが「体験」という短い散文を書いて、「自然の裏側」に立って、現実の事物を「まるで肩越しに振返って見る」ような不思議な体験に襲われたことを書き記すのは、ブラックウッドと出会ってからほぼ一年後の一九一三年二月のことであった。このように「猫町」の主人公も、「古き魔術」の語り手も、リルケも、いわば「第四次元の世界」を垣間見たのではないかとするエッセイである。」



「『茶前酒後』」より:

「このような朔太郎の「谷神不死」を読んでいるときに、わたしは、朔太郎経由とはいえ、英郎がなぜ老子に惹かれるのか、その理由が幾らかでもつかめたように思った。」
「朔太郎の「谷神不死」の世界に惹かれたからこそ、すでに述べたリルケの『ドゥイノの悲歌』における、純粋な「生の顕現」の場としての「開かれた世界」に対して鋭敏に反応することができたのだと思われるし、同じくリルケのエッセイ「体験」で語られている、自分自身が現在の「時」の外にある世界、つまりまるで「永遠の現在」のなかに立っているような瞬時の幻想に対して、ほとんどわが事のように共感する能力を持つことができたのではなかろうか。考えてみると、「開かれた世界」といい、「永遠の現在」といい、これらはある意味で本質的には老子的な無為自然の理想郷にかなり近いものではあるまいか。その意味で、英郎にとっては、朔太郎もリルケも、あるいは菅茶山でさえも、究極的には、老子的な無為自然の理想郷に憧れ、それを強く希求する人間として肌に感じる存在であったのではないかと、少なくともわたしには思われる。これらの詩人たちについての英郎の根本的理解が、彼の人間的資質に由来するのではないかと見えるのは、おそらくそのためでもあろう。言いかえれば、(中略)富士川英郎は、実際は詩を書かないけれども、紛れもなく詩的人間であったということである。」



「晩年の父の記」より:

「一九九〇年代初め頃であったが、(中略)作家・小島信夫氏とある会でお会いしたときに、父について言われた短い話がいまも印象深く記憶に残っている。そのとき小島氏は「このあいだ芸術院でお父さんに久しぶりにお目にかかって、二人だけで一時間ほどお喋りしました。お父さんがいつまでも少年のような純真さを保っておられることに感心しました。やぐらとか、富士川游や萩原朔太郎などについてとうとうとお話しになるのにすっかり圧倒されてしまいましてね」と言われたのであった。」

「ともかく、晩年の父には、けっして運命にあらがわず、あるがままを素直に受け入れるというところがあった。過去の自分を肯定的に受け入れるだけでなく、つねに現在の自分を愛し、認め、許そうとする心の動きが折にふれて感じられた。過去の「喜びの記憶」と積極的に関わり、それをいま生きる自分の拠りどころにするという素質を天性のように備えてもいた。(中略)思えば、晩年の父は自分の内なる自然の欲するがままに生きていたのである。そうやってつまらない狭小な自我へのこだわりや束縛を振り切り、一種の自己解放を成し遂げていたのではなかろうか。そういう平静な心的状態を、好んで「自然の流れのままに生きている」と表現していたのではないのか。わたしにはそのように思えてならないのである。これは父の死後、わたしが父から教わった最も大切な生き方の指針である。」





こちらもご参照ください:

A・ブラックウッド 『ブラックウッド傑作集』 紀田順一郎 訳 (創元推理文庫)
小海永二 『ガルシーア・ロルカ評伝』 (原点叢書)
萩原朔太郎 『猫町 他十七篇』 (岩波文庫)
Norton N. Cohen 『Lewis Carroll: A Biography』
富士川義之 『ある唯美主義者の肖像 ― ウォルター・ペイターの世界』




























































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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