富士川英郎 『詩の双生児 朔太郎と犀星』

富士川英郎 
『詩の雙生兒 
朔太郎と犀星』


小澤書店 
昭和60年9月20日 初版発行
252p 20×16cm 
丸背布装上製本 カバー 
定価3,000円



萩原朔太郎と室生犀星の各詩集から、それぞれ人口に膾炙した詩や、著者が愛唱する詩を数篇ずつ引用しながら、詩集刊行の背景・詩壇の反応・当時の批評などについて、著者自身の評言や思い出を交えつつ語られています。

本文中モノクロ図版(書影)21点。

なお、『萩原朔太郎雑誌』には、朔太郎と犀星の関係について「詩の双生児」という観点から論じた文章が収録されています。また、『黒い風琴』は、著者の鍾愛する訳詩集を対象とした、本書の姉妹編ともいえる内容になっています。


富士川英郎 詩の双生児 01


帯文:

「萩原朔太郎「月に吠える」「靑猫」「定本靑猫」「純情小曲集」「氷島」、室生犀星「愛の詩集」「忘春詩集」「故郷圖繪集」ほか、著者が若き日から愛讀する詩集をめぐって、詩について、時代について、出版の經緯、裝幀・挿繪について、思い出とともに語る、たのしくなつかしい詩集のはなし。」


帯背:

「萩原朔太郎と室生犀星――詩集のはなし」


帯裏:

「私は、むかし學生だった頃、朔太郎や犀星の詩集を、古本屋で手に入れたり、或は新刊書として出版されたのをその都度、ただちに買い求めたりして、これを耽讀した。そしてそれらの詩集はいまなお私の書架に立ち並んでいるが、私は、これらの詩集のことを語りたかったのである。……私は、それらの詩集を、それが出版された當時の雰圍氣のなかに具體的に置いてみたかったのである……。
(「あとがき」より)」



目次 (初出):


萩原朔太郎『月に吠える』
室生犀星『愛の詩集』
室生犀星『抒情小曲集』
室生犀星『忘春詩集』
萩原朔太郎『靑猫』
萩原朔太郎『定本靑猫』
室生犀星『高麗の花』
萩原朔太郎『純情小曲集』
室生犀星『故郷圖繪集』
萩原朔太郎『氷島』
(昭和58年2月より10回にわたって「詩集のはなし」として雑誌「海」に連載)


堀口大學『遠き薔薇』 (昭和57年5月 『堀口大學全集』月報3)
佐藤惣之助『華やかな散歩』と『季節の馬車』 (昭和60年2、3月 「かまくら春秋」)
黄瀛『瑞枝』 (昭和54年2月 「抒情文藝」)

あとがき



富士川英郎 詩の双生児 02



◆本書より◆


「あとがき」より:

「私はこれらの諸篇において、今更のように、萩原朔太郎や室生犀星の詩を論じようとしたのではない。私は、むかし學生だった頃、朔太郎や犀星の詩集を、古本屋で手に入れたり、或は新刊書として出版されたのをその都度、ただちに買い求めたりして、これを耽讀した。そしてそれらの詩集はいまなお私の書架に立ち並んでいるが、私は右の諸篇において、これらの詩集のことを語りたかったのである。つまりそのなかの詩とともに、それぞれの裝幀や挿繪について述べ、さらにそれ以上に、それらの詩集が編まれて、出版されるまでのいきさつや經過、それらの詩集が出版されたとき、その著者の友人たちや、當時の人々の間でそれがうけた評価。そしてまた、それらの詩集にまつわる私自身の思い出などを私は語りたかったのであった。いわば私はそれらの詩集を、それが出版された当時の雰囲氣のなかに具體的に置いてみたかったのであるが、その叙述に際して、朔太郎と犀星の詩集をそれぞれ一纏めにして述べるという普通のやり方をしないで、それらの詩集が出版された年月の順序に從って配列したのも、ひとつにはそんな意圖があったからにほかならない。
 朔太郎と犀星の友人としての強い、切っても切れない結びつきは、周知のところであるが、このふたりは詩人としても一種の雙生兒であったと言ってもよく、その詩風も、藝術觀や人生觀も、互いに對極的に相い反していながら、それにも拘らず、ふたりは同じ一つの根から生えて、地上で相い反する方向へ向かってのびていった詩人であった。そして彼ら自身、そのことを自覺していたらしく、その詩作に際しては、心の奧で、互いに相手をライヴァルとして絶えず意識していたようである。」



「萩原朔太郎『純情小曲集』」より:

「だが、當時、朔太郎の近くにいた人々のうちで、「郷土望景詩」を高く評價した者の筆頭には芥川龍之介が擧げられる。「郷土望景詩」を讀んで、感激した芥川が、寢卷姿のまま、朔太郎を訪ねてきたというエピソードは周知のところだが、そのときのありさまを朔太郎自身、その「芥川龍之介の死」という追憶記で次のように語っている。
 「或る日の朝、珍らしく早起きして床を片づけてゐる所へ、思ひがけなく芥川君が跳び込んできた。此處で「跳び込む」といふ語を使つたのは、眞にそれが文字通りであつたからだ。實際その朝、彼は疾風のやうに訪ねてきて、いきなり二階の梯子を驅け登つた。いつも、あれほど禮儀正しく、應接の家人と丁寧な挨拶をする芥川君が、この日に限つて取次の案内も待たず、いきなりづかづかと私の書齋に蹈み込んできた。
 自分はいささか不審に思つた。平常の紳士的な芥川君とは、全で態度がちがつてゐる。それに第一、こんなに早朝から人を訪ねてくるのは、芥川君として異例である。何事が起つたかと思つた。
 「床の中で、今、床の中で君の詩を讀んで來たのだ。」
 私の顏を見るとすぐ、挨拶もしない中に芥川君が話しかけた。それから氣がついて言ひわけした。
 「いや失敬、僕は寢卷をきてゐるんだ。」
 成程、見ると寢卷をきてゐる。それから面喰つてゐる私に對して、ずんずん次のやうなことを話し出した。この朝、彼はいつもの通り寢床に居て、枕元に積んである郵便物に目を通した。その中に詩話會から送つてくる「日本詩人」といふ詩の雜誌があつた。始めから一通り讀んで行く中に、私の「郷土望景詩」といふ小曲に來た。それは私の故郷の景物を歌つたもので、鬱憤と怨恨とにみちた感激調の數篇を寄せたものであつたが、彼がその詩を讀んで行く中に、やみがたい悲痛の感動が湧きあがつてきて、心緒の興奮を押(ママ)へることができなくなつた。そこで勃然として床を蹴り、一直線に私の所へ飛んで來たのだといふ。さう語つたあとで、顏も洗はず衣服も換へず、朝寢姿で訪ねたことの非禮を謝罪した」
 朔太郎の「郷土望景詩」が載った「日本詩人」は、その大正十四年六月號で、そこには「小出新道」「新前橋驛」「大渡橋」「公園の椅子」の四篇と、その解説の散文が載っていたのである。
 芥川龍之介はやがて昭和二年一月、雜誌「近代風景」に「萩原朔太郎君」というエッセイを載せた。そのなかで芥川は「郷土望景詩」について、
 「僕は『純情詩集』を讀んだ時、前橋(まへばし)の風物(ふうぶつ)を歌ひ上げた詩に沈痛と評したい印象を受けた。同時に又『月に吠える』『靑猫』等(とう)よりも萩原君の眞面目(しんめんもく)はここにあるかも知れないと云ふ印象を受けた。では萩原君の眞面目は何かと言へば、それは人天(じんてん)に叛逆する、一徹な詩的アナアキストである。」
 と注目すべき考察を述べ、さらにまた、朔太郎の作品に「完成」の極印を打たれるものが存外に少いことを指摘したのち、そのために却って朔太郎は「今日(こんにち)の詩人たちよりも恐らくは明日(みやうにち)の詩人たちに大きい影響を與へるであらう」と言い、そして最後に、「僕はいつか萩原君が故(こ)山村暮鳥(やまむらぼてう)君の『聖三稜玻璃(せいさんりようはり)』を讃(ほ)めてゐるのを讀んだ。が、僕に言はせれば、萩原朔太郎(はぎはらさくたらう)君自身こそ正(まさ)に『聖三稜玻璃』である。或は天上の神々が「詩」を造らうとした試驗管である」と興味深い結論を下しているのである。」







































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富士川英郎 『黒い風琴』

富士川英郎 
『黑い風琴』


小澤書店 
昭和59年4月20日 発行
226p 19.5×15.5cm 
角背バクラム装上製本 貼函 
定価2,800円



本書「あとがき」より:

「森鴎外らの『於母影』をはじめとして、明治・大正から昭和の初期へかけて現われた、卓れた譯詩集が、その當時や、それ以後の、わが國の詩壇に強い影響を及ぼしたことは、いまさらここで事新しく述べるまでもないだろう。少し大まかな見方をすれば、島崎藤村以後、昭和の初期に至る日本の新しい詩の變遷は、「『於母影』とそれ以後」、「『海潮音』とそれ以後」、「『月下の一群』とそれ以後」というふうに、大きく三つの時期に分って、これを考えることができるのではなかろうか。
 いずれにしても、翻譯文學がそこで重大な位置を占めていることは、他の國の文學史にその比を見ない、わが國の文學史、殊に詩の歴史の特徴であるということができるだろう。
 先年亡くなった福永武彦氏の最後の著書『異邦の薫り』は、明治以後に現われた十三冊の重大な、卓れた譯詩集について語った好著である。そこには『於母影』をはじめとして、『海潮音』『珊瑚集』『月下の一群』等々、のちの詩人たちに大きな影響を及ぼしたばかりでなく、それ自體としても、卓れた、言わば譯詩の古典というべきものが採りあげられているが、これらの譯詩集は、わが國の譯詩について語るとき、誰しもがその名を擧げなければならないものなのである。
 だが、これらの譯詩集のほかにも、なお多くの卓れた譯詩、好ましい譯詩、面白い譯詩があることは言うまでもない。福永氏がその『異邦の薫り』で採りあげた譯詩集は、いずれも言わばわが國の翻譯文學の銀座通りに、その軒をつらねている大厦高屋の群であるが、そのほかに裏通りのささやかで、瀟洒な店舗のような譯詩や譯詩集が、たくさんにとまでは言えないまでも、あちこちにかなり見出されることは否定できないところである。
 本書は筆者が年來愛讀しつづけ、嬉し、好ましと思ってきた、そのような譯詩、裏通りのささやかで、特色のある店舗のような譯詩について語ったものである。従って福永氏の『異邦の薫り』のなかに採りあげられている譯詩集 ――このほとんどすべては筆者もかねてから愛讀しているものである―― には觸れず、専らそれ以外の比較的に目立たない譯詩や譯詩集のことが、ここでは述べられている。」



正字・新かな。本文中モノクロ図版(書影)19点。


富士川英郎 黒い風琴 01


帯文:
 
「「於母影」「海潮音」「月下の一群」など、近代詩の変遷に大きな役割をはたした名譯詩集のかげで、忘れられた、しかし愛すべき懷しい瀟洒な譯詩集への思い出をつづる。
生田春月「ハイネ詩集」、大山定一「ドイツ詩集」、平田禿木「近代英詩選」、堀辰雄「晩夏」、竹友藻風「希臘詞花抄」、西條八十「白孔雀」、矢野峰人「しるえっと」など……」



富士川英郎 黒い風琴 02


帯背:
 
「忘れられた譯詩集
なつかしい思い出
譯詩ものがたり」



目次 (初出は特記以外は昭和57年1月―12月、雑誌「海」に連載):

生田春月編『泰西名詩名訳集』 (「學鐙」 昭和53年4月号)
生田春月の訳詩
生田長江の訳詩
茅野蕭々の訳詩
石川道雄の訳詩 (「同時代」 昭和56年9月号)
小松太郎訳『人生処方詩集』
大山定一訳『ドイツ詩抄』
堀辰雄の訳詩
平田禿木『近代英詩選』
竹友藻風『希臘詞花抄』
西條八十『白孔雀』
矢野峰人『しるえっと』
日夏耿之介『唐山感情集』
忘れ難い訳詩

あとがき



富士川英郎 黒い風琴 03



◆本書より◆


「生田春月編『泰西名詩名訳集』」より:

「生田春月編『泰西名詩名訳集』は大正八年四月に越山堂という書店から出版された詞華集である。いつぞや河盛好蔵さんがこの詞華集をそのむかし愛読したと書いておられたが、河盛さんあたりから、下っては私などにいたる世代の多くの者にとって、この詞華集はいろいろななつかしい思い出のある詩集なのだと言えよう。
 こんにちならばこの種の詞華集はたくさんあって、むしろその選択に迷うほどであるが、私が旧制中学の上級生になって、いろいろな詩集を読み漁っていた頃には、さまざまな訳者によって翻訳された西洋のさまざまな詩人の詩を一冊のうちに収めている詞華集は、この『泰西名詩名訳集』のほかにはなかったのである。」



「生田長江の譯詩」より:

「だが、朔太郎が長江譯のニーチェの詩のうちで、右の「仇敵の間にありて」以上に深い感銘を以て讀み、愛誦して措かなかったのは、おそらく「寂寥」という次のような一篇の詩であったろう。

  鴉等は鳴き叫び、
  風を切りて町へ飛び行く。
  間もなく雪も降り來らむ――
  今尚ほ、家郷ある者は幸なるかな!

  今汝は凝然として立ち、
  嗚呼、背後を眺めてあり! 如何に久しきかな!
  如何なる愚者なれば、なんぢ、
  冬にさきだちて世界に逃げ込まむとはするぞ!

  世界は、無言にして冷かなる
  幾千の沙漠への門戸!
  汝の失ひし物を失ひし者は、
  何處にも停留することなし。

  今汝は冬の旅路へと宿命づけられて、
  色蒼ざめて立てるかな、
  つねにより冷き天(そら)を求むる
  かの煙の如くにも。

  飛べ、鳥よ、汝の歌を
  沙漠の鳥のきいきい聲に歌へかし!
  汝愚者、汝の血の出づる心臟を
  氷と侮蔑との中にかくせよかし!

  鴉等は鳴き叫び、
  風を切りて町へ飛び行く。
  間もなく雪も降り來らむ――
  家郷なき者は禍なるかな!

 朔太郎はその「ニイチェに就いての雜感」というエッセイのなかで、右の「寂寥」という詩の初聯の四行を引用しながら、この詩を「その情感の深く悲痛なることに於て、他に全く類を見ないニイチェ獨特の名篇である」と言い、また、「ニイチェの抒情詩」のなかでは、「ああ家郷あるものは幸なるかな。僕の如く久しく迷ひ、懷疑につかれ、人生の歸すべき宿を持たないものは、秋風の中に氣死して、愴浪たる路を行く外はないであらう。季節は冬に向ひ、まもなく雪も降り來らむ。いかにしてこの寂寥と寒氣の中に、人は耐へることができるか」という感慨を述べている。そして

  何に此師走の市(まち)へ行(ゆく)烏

 という芭蕉の句をこの詩と結びつけて、「東西古今、詩人の惱むところは符節してゐる」と言っているが、詩集『氷島』の卷頭に收められた「漂泊者の歌」の

  ああ汝 寂寥の人
  悲しき落日の坂を登りて
  意志なき斷崖を漂泊ひ行けど
  いづこに家郷はあらざるべし。
  汝の家郷は有らざるべし!

 という最後の一節の詩句などには確かに右の「寂寥」の影響が見い出されると言ってよいだろう。いずれにしても『氷島』一卷の詩のうちには、その漢文口調の語法やスタイルばかりでなく、その内容のうえにも、長江譯のニーチェ詩を讀んだ感動の餘韻のようなものが到るところに鳴りひびいているのであって、長江譯のニーチェ詩と朔太郎の間には、卓れた譯詩がのちの詩人に創造的な影響を及ぼした一つの顯著な例證が認められるのである。」







































富士川英郎 『萩原朔太郎雑志』

富士川英郎 
『萩原朔太郎雜志』


小澤書店 
昭和54年9月15日 第1刷発行
264p 19.5×15.5cm 
丸背布装上製本 貼函 
定価2,600円
装画: 川上澄生



本書「あとがき」より:

「萩原朔太郎について折にふれて書いてきたエッセイや雜記の類を集めて、ここに一冊の本を編むことにした。」


正字・新かな。


富士川英郎 萩原朔太郎雑志 02


帯文:

「書き下し論考「萩原朔太郎と日夏耿之介」(160枚)をはじめポー、リルケ、鴎外、犀星らとの比較のなかに浮びあがる朔太郎詩の思想性。個人的な囘想を交えた隨想は、朔太郎の生きた大正・昭和の時代相を傳える。詩と學問の接點を追究する碩學が、積年の課題にこたえる決定版朔太郎論。」


帯背:

「朔太郎體驗から
詩の核心に迫る
全論集」



帯裏:

「――詩人とは朔太郎にとって、もちろん彼自身を含めて、不可能を可能にしようとして苦鬪している、一種のドン・キホーテ的な、悲劇的な存在なのでした。そしてそれに伴う一種の悲壮感は、ロマンティストとしての朔太郎が遠い實在に憧れて、到達し得ないイデアを希求する詩人であったことの悲壮感と微妙に重なりあっていたのであります。(「萩原朔太郎寸感」より)」


富士川英郎 萩原朔太郎雑志 01


目次 (初出):

萩原朔太郎 (『書物と詩の世界』 玉川大学出版部 昭和53年2月)


萩原朔太郎寸感 (「心」 昭和54年4月/昭和53年5月14日「朔太郎忌」記念集会講演)
谷神不死 (「ユリイカ」 昭和47年4月/玉川大学出版部『西東詩話』に所収)
郷愁の詩人 (「季節」 昭和32年4月/『西東詩話』に所収)


萩原朔太郎とポー (「無限」 昭和44年3月/『西東詩話』に所収)
萩原朔太郎とリルケ (「無限」 昭和49年3月/『西東詩話』に所収)


森鴎外と萩原朔太郎 (「ちくま」 昭和52年4月)
萩原朔太郎と室生犀星 (「ちくま」 昭和49年3月)
萩原朔太郎と日夏耿之介 (未発表 昭和53年4月執筆)


萩原朔太郎の手紙 (「泉」 昭和53年8月)
萩原朔太郎と鎌倉 (「かまくら春秋」 昭和53年6-9月)


「洋燈の下で」のことなど (筑摩書房『萩原朔太郎全集』第十巻「研究ノート」 昭和50年9月)

あとがき
初出一覧



富士川英郎 萩原朔太郎雑志 03



◆本書より◆


「萩原朔太郎寸感」より:

「私がはじめて讀んだ朔太郎の詩は「猫」でした。「中央公論」の大正十四年六月號に、日夏耿之介の「日本輓近詩潮の鳥瞰景」という長い論文が載って、當時、舊制中學の五年生だった私はこれを耽讀したものでしたが、そのなかに朔太郎の「猫」という詩が引用されていたのです。私はこれによってはじめて朔太郎という詩人を知り、はじめてその詩を讀みました。それまでに私は、主として上田敏の『海潮音』や、島崎藤村、北原白秋などの詩を少しばかり讀んでおりましたが、このときはじめて知った朔太郎のその「猫」という詩は、當時の私にとってひとつの大きな驚きだったのであります。」
「こうして私は朔太郎にすっかり魅惑されてしまい、それ以後は、いろいろな詞華集や雜誌などを漁って、それらに載っていた朔太郎の詩を片端からノートに書き冩したものでした。というのは、大正十四年頃の當時は、まだ岩波文庫などもなく、朔太郎の詩を讀みたいと思っても、その詩集が簡單には手に入らなかったのですから。彼の詩集では、當時すでに『月に吠える』も『靑猫』も出ていましたが、いずれも絶版になっていて、本屋の店頭にはない。稀れに古本屋の店さきに現われることがあっても、それには目がとびでるような高い値段がついていて、到底、中學生などの手がでるものではなかったのでした。」



「森鴎外と萩原朔太郎」より:

「森鴎外が萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』を推稱したということについては、その言葉を鴎外から直接に聞いた二、三の人たちの證言がある。例えば川路柳虹は「日本詩人」の大正十一年九月號に「森先生のこと、その他」という隨筆を載せたが、(中略)そのなかに次のような一節がある。
 「それから自分は今の詩をお讀みですかと訊いてみた。するとちよいちよいは見てゐるといはれる。誰の詩をお好きですかときくと、『さうね』と言はれたが、急に『君は萩原朔太郎君を知つて(ゐ)ますか』といふ。『よく知つてます』といふと、『あの人の此間逢つてみたが、あの人のものが面白いね。しかしあの人の人間そのものが更に詩より面白いね、アハヽヽ』と笑はれた。」
「證言の第二は齋藤茂吉のそれである。齋藤茂吉は「四季」の「萩原朔太郎追悼號」(昭和十七年八月)に載せた「萩原さんについて」という短文で、次のように言っている。
 「萩原さんとは生涯のうち數囘しか會つてゐない。詩集『月に吠える』の發行は、大正六年だといふから、さうすれば大正六年のことになるが、萩原さんが突然、私の勤めてゐた東京府巣鴨病院に私をたづねて來られ、私もその『月に吠える』といふ詩集の寄贈を受けた。」
「程經て鴎外先生に會つて談たまたま萩原さんに及んだが、先生いはれるに、萩原君は率直な人でなかなかおもしろい。また詩も特色のあるものだ、さういふことであつた」。
 次に第三の證言は、佐藤春夫によって傳えられた與謝野晶子のそれであるが、佐藤春夫はその「朔太郎の思ひ出」(新潮社版『萩原朔太郎全集』月報2、昭和三十四年七月)のなかで、與謝野晶子から初めて『月に吠える』を示された往時を囘顧して、次のような興味深い逸話を傳えている。
 「或る日の新詩社(與謝野邸)の話題に、新刊の『月に吠える』の噂が出て晶子夫人は
 『もうお讀みになつて?』
 と聞く。僕はまだ讀んでゐなかつたのでそのとほり云ふと、寛先生はすぐ、
 『あれは急いで讀むにも及ばない』
 とほんの一口で片づけてしまつたやうな口調であつたが、晶子夫人はそれをたしなめ抑へるかのやうに、
 『でも鴎外先生も面白いと仰言つてゐたではありませんか』
 と云ひ出した。與謝野家にあつては當時(ばかりでもなかつたが)鴎外先生の意見といふのは最高の權威を持つたものであつた。さうして晶子夫人は寛先生の詩に對する先入觀を打ち壊して朔太郎君の獨創的な詩業を認めさせたい樣子がよく見えてゐた。さうしてわたしにもこの詩人を注目させたいと思つたものか、晶子夫人はご自身の書齋からわざわざ『月に吠える』を持つて來て
 『ごらんになりません?』
 と渡してくれたから、僕はそれを手にとつてしばらく讀み耽つてゐた。(中略)しかし寛先生は
 『月に吠えるなんて犬か何かのような。何とかで竹が生え、どうとかして竹が生えかい、あんまり智惠のない話ではないか』
 寛先生はやつぱり、この詩人にはどこまでも感心したくない樣子なのである」。」
「實はこれらの證言がなくても、鴎外自身がそのことを筆にしているのである。鴎外は朔太郎の訪問をうけた同じ三月五日に、岡山の正宗敦夫に宛て一通の短い手紙を出しているが、その末尾に次のような言葉が見い出される。
 「今日萩原朔太郎ト云フ詩人初對面イタシ候衒氣ナドナキ好キ人ト存候」。」




































富士川英郎 『儒者の随筆』

富士川英郎 
『儒者の隨筆』


小澤書店 
昭和58年8月20日 初版発行
261p 
A5判 丸背布装上製本 貼函 
定価3,500円



本書「あとがき」より:

「本書は「儒者の隨筆」と「短檠漫筆」の二部から成っている。
 「儒者の隨筆」は雜誌「新潮」の昭和四十九年八月號から翌五十年九月號まで、十四囘にわたって連載された。江戸時代の儒者たちが漢文で書いた隨筆や雜記のうちから、筆者がかねて興味を以て讀んでいるものを十数冊選びだし、それを一般に紹介しようとして執筆したものである。特に漢文で書かれているものだけに限ったのは、それらの興趣の深い隨筆が、漢文で書かれているというだけの理由で、こんにちではもはや讀まれもせず、まったく忘れ去られていることを、筆者はかねがね遺憾に思っているからである。篇中、菊池五山の『五山堂詩話』についての一章は、嘗て筆者の前著『鴟鸺庵閑話』(筑摩書房)のなかにも收録したことがある。
 「短檠漫筆」は雜誌「海」の昭和五十四年二月號から五十六年十二月號まで、三十三囘にわたって連載されたが、このたびそれを本書に收めるに当って、さらに二項目を増補した。主として江戸時代の詩や詩人についての逸事や閑話を次第もなく書き綴ったもので、筆者の前著『鴟鸺庵閑話』と姉妹篇をなすものと言ってもよいが、なかに二三、この前著のなかのそれと重複する記事があることをお斷りして置く。」



正字・新かな。函(表・背)と本体表紙に題箋が貼付されています。


富士川英郎 儒者の随筆 01


帯文:

「江戸時代の儒者によって漢文で書かれた隨筆十四篇を紹介する「儒者の隨筆」、江戸期の詩や詩人の逸事を三十五囘に亙って誌す「短檠漫筆」。豐かな學識に支えられた二つの隨想は、樂しい語り口で讀者を興趣つきぬ近世文藝の詞藻の園へと誘ふ。


帯背:

「近世文藝の
詞藻の世界」



富士川英郎 儒者の随筆 02


目次:

儒者の隨筆
 林梅洞 『史館茗話』
 祇園南海 『湘雲瓚語』
 永富獨嘯庵 『葆光秘録』
 西山拙斎 『間牕瑣言』
 賴春水 『在津紀事』
 尾藤二洲 『靜寄餘筆』
 菊池五山 『五山堂詩話』
 田能村竹田 『隨縁沙彌語録』
 北條霞亭 『霞亭渉筆』
 西島蘭溪 『慎夏漫筆』
 長野豐山 『松陰快談』
 故賀侗庵 『侗庵筆記』
 東夢亭 『鉏雨亭隨筆』
 中根香亭 『香亭雅談』

短檠漫筆
 鐘馗の詩
 花影滿簾春晝永
 蘭人短命の説
 凡山凡水
 肉食僧
 豚の詩
 富士山
 化政期の江戸
 儒者の言葉
 漢字の遊戲
 聯句
 對句
 咸宜園
 夢の詩
 徒然草
 餅搗きの詩
 漢文の書簡
 蘭館の詩
 外國詠史
 佛郎王歌
 那波列翁傳
 讀那波列翁傳
 佛蘭王詞
 横槊深山看晩花
 依卜加得賛
 倫敦禽獸園
 上野動物園
 女學校
 汽車の詩
 讀罪與罰
 蠅の詩
 蟻の詩
 蚯蚓の詩
 幽靈の詩
 百鬼夜行圖

あとがき




◆本書より◆


「夢の詩」より:

  「身踞芙蓉頂  身は芙蓉の頂きに踞し
  天關手自開  天關手自(みづか)ら開く
  夢中知是夢  夢中に是夢と知り
  猶恐喚醒來  猶(なお)恐る喚び醒しに來(きた)るを

 これは廣瀨淡窓の「記夢」という題の詩である。富士山(芙蓉)の頂上に腰をおろし、自分の手で天の門をあけている夢をみている一方で、それを自分で夢だと知りながら、誰かがそんな自分を起しに來はしまいかと恐れているというのである。その一生の間、九州の外には一歩も出なかった淡窓が富士山の夢を見たというのも面白いが、その富士山の頂上に坐って、天に通ずる門を自分の手であけているというのも、珍しい夢と言えよう。だが、同じく淡窓の

  夢裏逢吾友  夢裏(むり) 吾が友に逢い
  相携花下迷  相い携えて 花下に迷う
  醒來見孤蝶  醒め來って 孤蝶を見る
  飛在小欄西  飛びて小欄の西に在り

 という五絶の夢は、ロマンティックで、美しい夢である。夢のなかで友と會い、ともにつれだって、櫻の花の下で遊んだ夢を見て、醒めてみると、一羽の蝶が小さな欄(てすり)のほとりに舞っていたという。
 だが、淡窓はいつもこのような明るい夢ばかりを見ていたわけではもちろんなく、時には凶夢とも言うべき、ずいぶん不吉な夢も見たらしい。例えば文化十一年二月末、淡窓は一夜、地上に燒けた灰のようなものがうず高くつもっているのを何者(なにもの)かが手で拂いのけながら、「南冥先生この下にあり」と叫んだ夢を見た。南冥先生とは淡窓が曾てその門に學んだ筑前の儒者龜井南冥のことであるが、事實、その後まもなくして、福岡の龜井家に火事があり、老齢の南冥は燒けおちた壁の下敷きになって死んでいたという。淡窓の見た凶夢は不思議にも正夢となって現われたのであった。
 さらに淡窓は、夢のなかで詩を作り、目覺めたのちにその夢中で得た句をもとにして、五言乃至は七言の詩にしたことも、しばしばあったらしい。(中略)彼の詳しい自敍傳である『懐舊樓筆記』にはそれらの夢中で得られた詩句が、かなり多く書き留められている。その一例をあげると、天保四年七月四日の夜、淡窓は何處かの古戰場を過ぎた夢を見て、その夢のなかで

  天空野闊望茫然  天空 野闊 望めば茫然たり
  竹杖行吟落日邊  竹杖 行吟(こうぎん)す 落日の邊(ほとり)
  借問戰場何處是  借問(しゃもん)す 戰場は何(いず)れの處か是れなる
  唐時流水漢時畑  唐時の流水 漢時の畑

 という七絶を賦したという。淡窓はこの詩について、「結句通ジ難シ。但シ廿八字、皆夢中ノ得ル處ニシテ、一字ヲ改メズ」と言っているが、さらに奇抜なのは、彼が文政十二年二月二十八日の夜の夢のなかで作った

  修竹當窓三兩枝  修竹 窓に當る 三兩枝
  此中城市即天涯  此の中 城市 即ち天涯
  娟娟獨愛雲端月  娟娟(えんえん) 獨り愛す 雲端の月
  落入池中魚不知  落ちて 池中に入りて 魚(うお)知らず

 という七絶である。この詩について淡窓自身は、「ソノ意通ジ難シ」と言っているが、これはまるでシュールレアリズムの詩のように面白い詩ではあるまいか。」














































富士川英郎 『失われたファウナ』

富士川英郎 
『失われたファウナ』


小澤書店 
昭和55年1月30日 第1刷発行
263p 
四六判 角背紙装上製本 貼函 
定価2,000円
装丁・装画: 串田孫一



本書「あとがき」より:

「本書は著者が、東大比較文學會發行の雜誌「比較文學研究」に昭和四十九年三月から足掛け五年間、連載した動物に關する詩話を集めたものである。題して『失われたファウナ(動物群)』という。この二、三十年來、われわれの身邊から急速に遠のいていった自然とともに、失われてしまったり、失われなくても、非常に稀れになってしまった動物についての詩話が、本書の主要な部分を占めているからである。著者の筆がそれらの失われた動物のあとを追って、すでに半世紀以上も昔となってしまった少年期の追想の世界へ、しばしば及んでいるのも、從って自然な事の成り行きであったと言えよう。本書の諸篇はいずれも閑文字にすぎないが、串田孫一氏が面白い挿繪やカットの繪を畫いて下さったので、本書は美しく、樂しい外裝の本となることができた。」


正字・新かな。


富士川英郎 失われたファウナ 01


帯文:

「ファウナ(Fauna=動物群)――古今東西の詩歌の森を逍遥し、木洩日のなかに少年の日を回想し、失われゆくものの躍動する姿を見い出す長篇動物詩話。
少年時の追憶のなかに溢れる自然の光、身辺に戯れる小動物たち。昼下りの動物園の思い出。……」



帯背:

「動物詩随想」


富士川英郎 失われたファウナ 02


目次:
 
蠅の詩
蛇の詩
蛙の詩
蝶の詩
蝉の詩
象の詩
獅子の詩
虎の詩
鶏の詩
鴉の詩
鼠の詩

あとがき



富士川英郎 失われたファウナ 03



◆本書より◆


「蛇の詩」より:

  「醍醐の地、蛇多し。その大なる者は六七尺、間(ま)ま一丈有餘の者あり、田野に横行し、人家に侵入す。簇々として聚(あつま)り、紛々として散る。喜べば則ち蠢然(しゆんぜん)として轉展徜徉(てんてんしようよう)し、怒れば則ち、艴然(ふつぜん)として奮起して、人に著く。その尤毒なる者を蝮と曰う。謂う所の鱉鼻蛇(べつびじや)、是れなり。若し之に觸れば則ち或は手足を頽敗し、或は肌骨(きこつ)を潰爛(かいらん)す。而して死に至る者亦た之(これ)あり。誠に畏るべきなり。かの燕雀を噬(か)み、蛙鼠を呑むに至りては、亦た以て憐れならずや。春宵千金の夕、月に嘯き、花を弄せんと欲すれば、則ち樹蔭草間に爾(なんじ)が衆の多きを奈(いかん)せん。夏日一榻の閑、暑を避け、涼を納めんと欲すれば、則ち堤傍池畔、爾の徉徊するを患(うれ)う。菊を東籬の下に採り、車を楓林の邊りに停むれば、則ち園裏の茂み、茅徑の塞、爾の彷彿たるを見るを嘆く。盃を啣み、靜かに爐を圍み、氷を敲きて、茶を煮れば、則ち坐間の暖、灰底の熱、爾の蟄伏(ちつぷく)に驚かされんことを畏る。嗚呼、爾の形、柔脆懦弱(じゆうぜいだじやく)にして、手なく、足なく、繩の如く、帶の如し。曷奚(いずくん)ぞ、害を爲(な)すことの斯くの如(ごと)く大なるや矣。

 これは寛文十年頃に刊行された『醍醐隨筆』という本のなかの一節である。」

「筆者は鎌倉に住むことすでに六十餘年になるが、震災前の大正時代、筆者がまだ少年であった頃のことを思うと、あの頃の鎌倉やその周邊の田野には、いかにも蛇が多かった。あの頃の鎌倉は若宮大路や長谷通りや、その他の二、三の表通りを除けば、人家はまばらにたっているだけで、あとは田畑がいちめんにひろがっているのであった。そして春から夏へかけて、それらの田圃で、夜にしばしば蛙の合唱が耳も聾せんばかりに鳴りひびいていたが、それだけにそのあたりを「徜徉」する蛇もまた甚だ多かつたのである。いまでもはっきり覺えているのは、或る年の六月であったか、田谷(たや)の洞窟を見ようとして、大船驛からそこまで至る間の道を歩いたときのことである。その徑の兩側には麥畠と田圃とがいちめんにつらなっていたが、そこには無數といってもよいほど、蛇が群がっていて、ほとんど五歩あるくごとに、左右の草むらや畠のなかから、靑大將が匍いだしてきて、吃驚りして、立ちすくんだ筆者の足もと近く、或はす早く、或は悠々と、のたうっていったのである。そして片側の麥が林立していた畠をうかがって見ると、そこにもあっちにもこっちにも畝と畝との間に、無數の蛇が入り亂れてその長い體をずるずると引きずっていたのであった。筆者はこのときの光景を五十年後のいまでもありありと惡夢のように思い出すことができるが、それはまことに、「簇々として聚(あつま)り、紛々として散る」といいう形容句がふさわしいようなおびただしい蛇の群の蠢動であった。
 もっともこれは、ちょうど蛇の交尾期に當っていたのかもしれない。(中略)筆者の住んでいた家は鶴岡八幡宮の程近くにあって、周囲に畠が多かったが、いちどなどは、雨戸の戸袋のなかに大きな靑大將がとぐろを巻いていたのに驚かされたことがある。」
「また、或るときは家で飼っていた黑猫が大きな靑大將に胴體をぐるぐる卷きつかれたままで歸ってきたことがある。」



「鴉の詩」より:

「四、五年前、鎌倉の海岸沿いの坂道を歩いていたとき、その道の行手に下りて何かしていた五六羽の鴉の群れが、筆者が近づいていくのに從って、一羽去り、二羽飛び去って、だんだんいなくなってしまったが、ただ一羽だけ、いつまでも道のうえに立ったまま、じっと筆者を見つめていた。その樣子が少し へん なので、さらに近よってみても、やはりその鴉は立ちのかない。見ればその片脚が無殘にも眞中から「く」の字に、折れた矢のように、折れ曲っていたのだった。そして彼は飛び立つことができず、殘った一本の脚でそこに立ったまま、近づいた筆者に向って、黑い翼をひろげて威嚇したり、嘴をつきだして、いまにも突こうと身構えたりした。實は筆者がそんなに近くから、片手をのばせばすぐにそれを掴むことができるほどの近くから、一羽の鴉を見たのは、そのときが二度目であった。最初は既に六十年近い以前に、やはり鎌倉で小學校へ通う道の途中でのことであった。當時、その道に沿って一軒の小さな桶屋があり、或日、その桶屋がその飼っていた一羽の鴉を紐でつないで、往來に面した店先きに出していたのである。その頃、小學生だった筆者は學校からの歸途、もの珍しい思いで、その鴉の近くに立って、しげしげとそれを見た。その鴉はもはや人馴れがしていたのか、別に嘴をつきだしたりして、攻撃の姿勢をとることはなかったが、その濁った硝子玉のような兩眼の表情は妙にうつろで、なにか底しれない不氣味さをたたえていた。そしていま、それからほとんど六十年後のいま、その同じ濁った硝子玉の眼が二つ、海に近い坂の道のうえで、敵意に燃えて、不氣味に、じっと筆者を見つめていたのである。その片脚の鴉は筆者がさらに一歩近よろうとすると、渾身の力をふるって、地上すれすれに、折れた片脚をぶらさげながら、まるで鷄が飛ぶような恰好をして、道の脇の海まで下(くだ)っている崖の草むらのなかへよろけ落ちていったが、さすがに一聲も唖々と鳴くことはなかった。筆者はその後、この鴉のことを、ふと、なんのきっかけもなく、思い出すことがよくある。そしてあの鴉はあれからどうなったのか、もしも犬や猫などに見つかったらひとたまりもなかったろうと思って、それが妙に氣にかかるのである。」




こちらもご参照下さい:

多田智満子 『動物の宇宙誌』
柴田宵曲 『新編 俳諧博物誌』 小出昌洋 編 (岩波文庫)








































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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