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富士川英郎 『読書游心』

「もともと杢太郎はこのキューバ島に、綠、紅、紫等の五色の斑點でぎらぎらしている皮膚病があると聞いて來たのであったが、それはついに見出すことができなかった。」
(富士川英郎 「旅の木下杢太郎」 より)


富士川英郎 
『讀書游心』
 


小澤書店 
平成元年6月20日 初版発行
229p 図版8p
20.6×15.6cm
丸背布装上製本 カバー
定価2,884円(本体2,800円)



本書「あとがき」より:

「本書は前著『讀書好日』が刊行された以後に執筆したエッセイや隨筆の類を集めたものである。題して『讀書游心』という。その書名においても、内容においても、前著と姉妹篇をなす、著者の新しい隨筆集である。」


旧字・新かな。
「木下杢太郎の裝本」に別丁カラー図版4点、「個人雜誌の話」に別丁モノクロ図版4点。



富士川英郎 読書游心 01



帯文:

「「夕陽、無限に好し。只だ是れ、黄昏に近し。」――忘れえぬ人、なつかしい本。杢太郎、朔太郎、大學、そして父・富士川游のことなど、盡きせぬ思い出を語る「觀相の生」の境地。當代第一級の文人學者として、その文學世界の圓熟をしめす、待望の最新評論隨筆集。」


帯背:

「「觀相の生」のなかに
思い浮かぶ、懷しい
詩集、忘れえぬ人々」



目次 (初出):

 Ⅰ
旅の木下杢太郎 (用美社 『木下杢太郎畫集』 第二巻(紀行篇) 解題 昭和61年1月)
木下杢太郎の裝本 (季刊「銀花」 第65号 昭和61年3月/用美社 『木下杢太郎畫集』 第4巻(装幀篇) 解題 昭和62年4月)

 Ⅱ
岸田敏子『萩原朔太郎』 (「文化会議」 昭和62年6月号)
堀口大學の詩集 (別刷「かまくら春秋」〈想い出の堀口大學〉 昭和62年3月)
尾崎喜八とドイツ詩人 (「尾崎喜八資料」 第4号 昭和63年2月)

 Ⅲ
本とわたし (「読売新聞」 昭和63年3月19日夕刊)
高校時代の讀書 (「らてるね」 昭和63年秋季号)
インゼル袖珍文庫 (「ももんが」 昭和61年12月号/原題「ドイツ語の本」)
個人雜誌の話 (「同時代」 第50号 昭和63年4月)
「* 右の四篇は纏めて、平成元年一月十五日に大阪市の湯川七二倶樂部から、『本とわたし』という百部限定本として刊行された。」

 Ⅳ
兪樾撰『東瀛詩選』 (「朝日ジャーナル」 昭和56年11月13日号)
『黄葉夕陽村舍詩』 (児島書店 復刻『黄葉夕陽村舍詩』 序文 昭和56年12月)
『賴山陽書翰集』 (名著普及会 『賴山陽書翰集』 内容パンフレット 昭和55年3月)
依田學海『墨水別墅雜録』 (「週間読書人」 昭和62年6月22日号)

 Ⅴ
醫史學と私 (「日本医史学雑誌」 第34巻第4号 昭和63年10月)
土肥慶藏と富士川游 (思文閣出版 『富士川游著作集』 月報9・10 昭和56年12月―同57年2月)

 Ⅵ
矢野峰人先生 (「英語青年」 昭和63年10月号/平成元年5月補正)
菊池榮一氏 (人文書院 『菊池榮一著作集』 第4巻月報 昭和59年9月)
氷上英廣氏の思い出 (「比較文学研究」 第51号 昭和62年4月)
山本太郎君のこと (「尾崎喜八資料」 第5号 平成元年2月)

 Ⅶ
私の東京 (「文化会議」 昭和61年10月号)
東京の碑と墓 (「東大新報」 昭和61年4月16日号)
少年時代の鎌倉 (「かまくら春秋」 昭和63年12月号)
夕陽無限好 (「東京新聞」 昭和61年4月3日夕刊)

あとがき
初出一覧




◆本書より◆


「旅の木下杢太郎」より:

「キューバではその自然も、都市の家屋や、そこでの人々の生活も、見るもの聞くものすべてが不可思議で、杢太郎はしばしば『千一夜物語』の世界に迷い込んだような思いがしたという。ハバナの市街は道は狹く、「殊に家の敷石を形ばかり延ばしたと思はれるほどの人道は、人一人歩くのが關(せき)の山」で、その家屋はみな漆喰塗りで、その面(おもて)はしばしば甚だしく剝落していた。しかし、杢太郎が特に興味をもったのは、道路に面したそれらの家屋の大きな窓にはめてある、唐草模樣をした鐵格子であった。(中略)殊に夜、そんな家の二階の鐵格子のうしろで、「籐椅子に腰かけて、行儀あしく讀書する人の黑影は、まるで實物の造るところの滑稽影畫(おどけかげゑ)」であったという。
 また、或日、ハバナから電車でサンチャゴ・デ・ラス・ベガスへ行ったときの車窓から見た田園の風景はすばらしかった。「驟雨が到る前に、廣い空の色はまるで暴(あ)れの日の大海のやうです。その時に地平線に一列の椰子の白い樹が並んで居るのは、一種の光景でした」と杢太郎は言っている。
 もともと杢太郎はこのキューバ島に、綠、紅、紫等の五色の斑點でぎらぎらしている皮膚病があると聞いて來たのであったが、それはついに見出すことができなかった。」

「杢太郎はまた、ナイル河沿岸の住民の閒に、黄癬という禿頭病がひろがっていることに興味をそそられているが、この病氣は彼が嘗て中國揚子江沿岸の多くの勞役者たちに見出したものであった。」

「ついで杢太郎はサラゴッサに至った。そして昔この都市を訪れた九州諸侯の四人の若い使者たちや、支倉常長のことを偲びながら市街を散歩していると、「少し入りこんだ小さい路次にふと心を引く家家を見出した」のだった。「家の前に狹い前庭があつて、疎らに木が生えてゐる。廣い入口からは暗い奧がふかぶかと見透される。家は三階で黑塗である。第一階には入口の左右に大きな窓が二つ、二階には三つあり、孰れもその腰に出窓の欄干が設らはれてある。第三階には狹い窓が澤山並ぶ。そして繁き飾の附いた蛇腹の上に屋根がある。この家の左右には、前庭に面して、鉤の手に二棟の家が立つ。一瞥の印象は懷しさであつた。それは多分(震災前の)東京の河岸に立つ土藏造りの家などと共通の分子があつたからであらう。同時に亦この家の構造にヱネチア風の所があつて、それが異國趣味(エキゾチツク)的且羅曼底(ロマンチツク)の或る響を鳴らしてゐたものと見える」と杢太郎は言っている。」



「本とわたし」より:

「學者の家に生まれて、育ち、自分も學者の端くれとなった私は、幼いときから、數え歳で八十歳になったこんにちに至るまで、ずっと本に圍まれて生きてきた。そんな私が本好きなのは、當然のことのようだが、しかし私はいわゆる愛書家ではないし、もちろん、書癡などというものではない。ただ本を讀むことが好きな平凡な一讀書家にすぎないが、幼いときからの環境のしからしむるところか、いつ、どこにいても、自分の圍りに本がないと、どうも落ち着かないのである。私が旅行をあまり好まない理由の一つもここにある。ホテルなり、旅館なりの、本が一冊もない部屋にいると、水槽のそとに投げだされた魚のようで、なんとなくそわそわとして落ち着かない。」

「幼いときに愛讀した童話集や、少年時代に夢中になって讀んだ小説などのことが忘れられず、その愉しかった讀書の思い出を、そっと胸の奧深くにしまっているような人は、ずいぶんと多くあるに違いない。(中略)しかし、たいていは學校を卒業して、社會へ出ると、次第に讀書の習慣をなくし、本から遠ざかって、しまいには新聞や週刊誌しか讀まなくなってしまうのが普通だろう。
 私は幸いにして、讀書の愉しみを、少年時代からそのまま、こんにちに至るまで、持ちつづけてくることができた。無能無藝で、ほかに趣味といえるものは何一つ持っていないが、この愉しみがあるために、老後の日々も決して無聊ではないのである。」



「インゼル袖珍文庫」より:

「ドイツにインゼル諸天という出版社がある。リルケやカロッサの著書を出版していることでよく知られているが、この書店から戰後に「インゼル袖珍文庫」(it.=insel taschenbuch)という叢書が出ている。我邦の「新書版」とほぼ同じ大きさと型のペイパーバックであるが、異る點は、この「袖珍文庫」のうちには、色刷りの插繪が幾葉も入っている美しい本がたくさんあることである。それらの繪入り本はみなアートペイパーに刷られており、表紙には白い、淸楚な厚紙が用いられているので、これは袖珍本であるとはいえ、その一冊々々が、觀賞に堪える美裝本となっている。その内容は、主としてドイツの作家の短篇(稀れに中篇)小説や、童話や、エッセイであって、しかも、たいていその一篇だけが收められているので、頁數は概して百頁から百五十頁程度のものが多く、活字も比較的に大きいので、老眼には大へん讀み易い。そんなわけで近頃私は、福本書院やその他のドイツ書專門の書店を訪れると、いつもその書棚に並んでいるこの「インゼル袖珍文庫」のうちから幾冊かを買うのを常とし、また、愉しみとしている。そして書店を出て、近くの喫茶店で、一杯の珈琲を飲みながら、買ってきたそれらの本を開いて見る愉しさには、筆紙に盡し難いものがあるのである。」
「昨年の暮、私が愉しく手に入れたものに、E・T・A・ホフマンの『除夜綺譚』と『胡桃割り人形と鼠の王樣』の二冊がある。ともにモニカ・ヴルムドープラーがそれに面白い插繪を畫いているが、殊に後者のそれは無邪氣で、可憐な味わいがある。」
「ところで、「インゼル袖珍文庫」の以上のような插繪本を手にして、私はしばしば、我邦でも同じような叢書を作ることができないだろうかと思う。例えば萩原朔太郎の『猫町』や、佐藤春夫の『西班牙犬の家』『女誡扇綺譚』、芥川龍之介の『羅生門』『鼻』などに、その插繪を然るべき畫家に畫かせて、「新書版」型の廉價な、しかし、愛玩するに足る美裝本として出版する書肆はないものだろうか。そしてその叢書にはさらに内田百閒の『冥途』や『旅順入城式』、中勘助の『鳥の物語』のなかの諸篇、特に『鶴の話』などが加えられなければならないと、私はひそかに空想を逞しくしているのである。」



「『賴山陽書翰集』」より:

「嘗て廣瀨淡窓は山陽を評して、山陽は才を恃んで傲慢、貪って禮がないため、到る所で人々に憎まれているけれども、その才能は實に秀逸であると言ったのち、漢土(中國)には山陽のようなタイプの文人が多く、人々も敢えてこれを怪しまないが、「我國ノ風俗ハ質朴ニシテ、書ヲ讀ム者ヲ見テハ、必ズ之ヲ責ムルニ行義ヲ以テス。故ニ此ノ如キ人、世ニ容レラルルコト能ハズ。惜ムベシ」と同情のある見方を示した。(中略)つまり彼の生涯は新しい文人の生き方の意識的な試みであったのであり、當時の人々がこういう山陽の生活に、好惡いずれにせよ、強い關心をもって、これを見まもったのも當然のことと言わなければならない。」


「氷上英廣氏の思い出」より:

「人としての氷上さんの印象は「重厚」というのがいちばん近いかと思うが、一面、君はウイットに富み、豐かな諧謔の持主でもあった。これは氷上さんの精神の柔軟性を語るものであったが、その諧謔がその談話に獨特の魅力を添えていたと言ってもよい。今年の三月頃であったか、氷上さんは風邪をこじらせたとかで、虎の門病院に暫く入院していたことがあった。そこから、おそらく退屈しのぎのために、私宛に書かれたハガキのなかに、「今年はトラ(寅)年なので、『ツァラツストラ(引用者注:「トラ」に傍点「○」)』をもう一勉強するつもりだったのが、トラ(虎)の門病院いれられてしまいました」という文句があったが、これが氷上さんの、私が聞いた最後の Wortspiel となったのである。」


「私の東京」より:

「幼い私にとって、東京は賑やかで、さまざまの町並みが萬華鏡のように眼の前に展開する、華やかなパノラマであった。また、その多彩な町並みは無限の彼方までつづいていて、その果ては何處ともしれない神秘のうちに消えていたのだった。
 幼い私が父や他の大人たちにつれられてよく行ったのは、上野と淺草だった。(中略)そしてたびたび動物園に遊んだが、私はとりわけ、象や虎やライオンを見ることがすきであった。或るとき、ちょうど猛獣たちの食事時に出會ったことがあるが、園丁が生きたままの兎を大きなバケツに入れて、虎の檻の前へ運んできた。その兎は恐怖のあまり、すでに失神していて、その白い體がかすかに震えていたが、私はさすがにその後の成り行きを見るに忍びなかった。
 だが、上野では、その池の端に、大正三年の春から夏へかけて開催された大正博覽會を見たときの強い印象が忘れられない。不忍池の上を横切って、空中ケーブルカーが往き來していたが、私はケーブルカーというものに、そのときはじめて乘ったのだった。」
「當時は映畫という言葉はまだなく、もっぱら活動寫眞と言っていたが、私はやはりその頃、淺草で「新馬鹿大將」というアメリカの活動寫眞を見たことを覺えている。それはごく短いドタバタ喜劇で、ひとりの太った男とひとりの痩せた男とが、往來で、追いつ追われつしているうちに、その太った男が自動車の下敷となり、一枚の平べったい板のようにぺちゃんこになってしまう。驚いた痩せた男が、自轉車用の空氣ポンプを使って、そのぺちゃんこになった男を膨らますと、男は見るみるうちにもとの肥滿漢になって、また相手を追いまわすというそのギャグが、そんなものをはじめて見た私には面白くてたまらなかった。淺草ではまた、いわゆる十二階(凌雲閣)にもいちど登ったことがあるが、これはたくさんの階段を息を切らしながら登ったということのほかには、特別な記憶がない。」
「このようにして、幼い小學生であった頃、私はたびたび鎌倉から東京へ出てきて、上野や淺草で遊んだが、それはまさに大正デモクラシー時代の東京であった。あの頃の東京は、道路などはまだ舗裝されていないところが多く、すべてが雜然としていたが、不思議な活氣が到るところに漲っていた。」
「所澤に陸軍の飛行場があって、德川大尉(?)が飛行機を操縦したのは、大正何年のことだったろうか。その飛行機が東京の空を飛んだのを、私は本郷西片町の家の物干し臺にのぼって見たし、その後、アメリカ人スミスがやって來て、飛行機の宙返りをしてみせたときも、東京の或る街角で、群衆のなかに立って、それを見た。」
「ところで、市電といえば、先ず思い出されるのは、神田須田町の交叉點である。いまの國電中央線のお茶の水驛より少し神田寄りに萬世橋という驛があって、(中略)この驛の前に少しばかり廣場があり、そこに廣瀨中佐と杉野上等兵の銅像がたっていた。そしてこの銅像の前で、市電の線路(レール)が十字路をなして交叉していた。日本橋の方から來て、本郷へ向う線路と、神保町から來て錦絲町の方へ延びている線路とが、十字路をなして交叉していたのである。そのあたりは、いまでは東京市中でのもの靜かな、忘れられたような一角となっているが、震災前には、銀座尾張町や、上野廣小路と並んで、東京市中で最も雜踏した廣場であった。十字路になった線路のうえを、ガタンゴトンと喘ぎながら、次から次へ、數珠つなぎになって、東西南北へ走っていった電車。架線から外(はず)れたポールをもとに戻そうとして、電車の後部の窓から半身を反(の)けぞらして、ポールを引張っていた車掌。埃りをかぶりながら、無言でそれを見おろしていた廣瀨中佐の銅像。街角に佇んで、しきりに鈴を鳴らしていた新聞賣り。そんな光景がいまでもかなりはっきりと思い浮ぶのである。」



「少年時代の鎌倉」より:

「私は東京で生まれたが、明治四十五年に滿三歳になったとき、大病後の母につれられて鎌倉へ移ってきた。そして小學校は神奈川師範附屬小學校(中略)に入って、雪ノ下にあった父の家から通學したが、當時、というのは震災前の大正時代の鎌倉は、まだ自動車も走っていず、町のほとんど到る所が子供たちの遊び場になっていた。(中略)あの頃の鎌倉には蛇が横行していたが、道ばたを匍っているそんな靑大將を見つけると、惡童のひとりがたちまち驅けよってつかまえ、その尻尾を持って、さかさまに振りまわしたり、擧句のはてには、そのぐったりと死んだようになった蛇を、橋の上から滑(なめり)川へ抛りこんだりする光景がよく見られたものであった。
 當時、鎌倉には、私たち少年が「外套乞食」という綽名をつけていたひとりの乞食がいて、町をうろついていた。なんでも、もとは大學生だったという噂があり、蓬頭垢面ではあったが、なんとなくインテリらしい、賢そうな顏つきをしていた。ほかの乞食たちがたいていお寺や神社などの境内に筵を敷いて坐り、人々の施(ほどこし)を乞うていたのと違って、この「外套乞食」は汚いお椀を持って、絶えず町をうろつき廻り、商店などの軒先きに默って立って、さしだしたその椀に殘飯などを入れて貰っていたのであった。彼を「外套乞食」と言ったのは、ぼろぼろに裂けて海草のようになり、わずかにそれと見分けられるような一枚の外套がその肩からぶら下っていたからであった。そして少年たちは、街頭で彼に出會うと、たちまちその後(あと)に踉(つ)いたり、遠卷きに圍んだりしながら、口をそろえて、大きな聲で、「ガイトー、ガイトー」と囃(はや)したてて、彼をからかった。或るときなど、白旗神社の石の手水鉢のなかで晝寢をしていた彼を、そのようにして追い出してしまったことがあるが、そんなときにも彼は怒らず、ただ、無言で、憂わしげな表情をしながら、靜かに立ち去っていったのだった。」
「それから數年たって、少年たちがみな中學生になっていた頃、冬の或る寒い日に、「外套乞食」は海岸橋のほとりの草地にころがしてあった大きな土管のなかに入って寢たまま、凍死體となって發見されたのであった。彼の年齢はたぶん三十四、五歳であっただろう。」

「思い出はなおも盡きないが、このような私の少年時代の樂園を閉(とざ)し、そこから私を追放したのは、大正十二年九月一日のあの關東大地震であったのである。」



「夕陽無限好」より:

「なにしろ、私はたいへんな朝寢坊で、午前十一時頃に起る。そして朝食と晝食を兼ねた輕い食事をとったのち、新聞を讀んだり、手紙を書いたりして一時(いっとき)をすごす。それからたいてい午後一時半か、二時頃に散歩に出かけるが、この散歩は、雨天でない限り、四季を通じて毎日するのである。」
「私は一年の四分の三ほどの期閒(中略)、炬燵で本を讀んだり、ものを書いたりするが、これがなかなか快適である。」
「現在は數年前から詳細な菅茶山傳を執筆中であるが、いろいろ分らないことがあって、人名辭典などを引っ張りだして調べているうちに、夜が更けて、午前二時、三時となることが稀れではない。いずれにしても、午前二時以前に就寢することは滅多にないのである。
 これが現在の私の日々である。これを毎日型に押したように、規則正しくくりかえしているが、決して退屈ではない。この私の毎日はいわば、「讀み、書き、散歩」の日々であって、この三つとも、それぞれ多少とも愉しく、僅かながらいつも變化があるからである。」
「近頃、私はヘッセの「老年について」という隨筆を久しぶりに再讀して、同感するところが多かった。この隨筆のなかでヘッセは、人生の他の段階と同じように、「老年」にもその固有の特徴があり、使命があると言い、「老年」は vita contemplativa (觀想の生)であると言っている。
 だが、この「觀想の生」の小春日和には何處からともなく、死の影がいつもさしている。その「死」はもはや靑年の頃の甘美な、憧れの對象としての「死」ではなく、また、ひたすらに恐怖し、嫌惡すべき暗闇でもないが、「老年」の地平線の彼方にあって、夕日が沈んでゆくように、われわれがそこに辿りつく場所として、いつも意識されているものなのである。
 このような「觀想の生」のうちにある老年の心境を最もよく語っているのは、晩唐の詩人李商隱の「夕陽、無限に好し。只だ是れ、黄昏に近し」という詩句だろう。」




富士川英郎 読書游心 02



「木下杢太郎の裝本」より:

「杢太郎のこの表紙繪は、赤・綠・灰色の縦縞模樣の地を背景として、坐っている猫の姿を薄い墨色で畫いたものである。杢太郎は他にも猫のスケッチなどをかなり多く畫いているが、それらの繪を見ると、彼は猫が好きだったのだと思う。猫の姿態を畫いたその曲線にまぎれもなく、愛情がこめられているからである。」



富士川英郎 読書游心 03



カバーは薄い紙の上下を折って芯になる黄色い紙を包んだ凝ったものになっています。














































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富士川英郎 『読書間適』

「朔太郎は口語詩の完成者であるとか、病的な鋭い感覺と、近代人の憂鬱を自由に歌いあげた象徴詩人であるとか、いろいろ言われているが、しかし、もっと重大なのは、彼がなによりも先ず詩の解放者であったということである。(中略)朔太郎は詩の新しい地平線を展開したのであり、そこには多くの未來の詩が生まれでる可能性が孕まれていた。」
(富士川英郎 「萩原朔太郎のこと」 より)


富士川英郎 
『讀書閒適』



小澤書店 
平成3年12月20日 初版発行
236p
20.6×15.6cm 
丸背布装上製本 カバー
定価3,090円(本体3,000円)



本書「あとがき」より:

「本書は『讀書好日』『讀書游心』につぐ著者の第三隨筆集である。全體を九つの部門に分ったが、この體裁もほぼ前二著と同じと言えよう。」


旧字・新かな。



富士川英郎 読書間適 01



帯文:

「菅茶山から萩原朔太郎、日夏耿之介にいたる、近世・近代の詩文の世界と戲れ、座右に親しむ書物の來歴を辿る。日本醫史學の創始者、父・富士川游の思い出を淡々と語り、鎌倉の散歩道の四季に遊ぶ。簡明な文章に綴られた、「最後の文人學者」の豁達自在な境地。」


帯背:

「豁達自在な境地に
遊ぶ、文人學者の
最新評論隨想集。」



目次 (初出):

 Ⅰ
『菅茶山』雜記 (「海燕」 平成2年3月号)
六如と茶山 (岩波書店 『江戸詩人選集』 月報2 平成2年5月)
福原さんと菅茶山 (『福原麟太郎追悼録』 昭和62年1月)

 Ⅱ
森鷗外と富士川游 (「鷗外」 第47号 平成2年7月)
富士川游と雜誌 (「日本医史学雑誌」 第37巻第1号 平成3年1月)
内藤湖南と醫學史 (平成3年2月執筆)

 Ⅲ
呉健『池の素描』 (「朝日新聞」 平成3年5月10日夕刊/原題は「御殿池のこと」)
入澤達吉の隨筆 (「朝日新聞」 平成3年5月17日夕刊)
土肥慶藏『乙丑周游記』 (「朝日新聞」 平成3年5月24日)
緒方富雄『日本におけるヒポクラテス賛美』 (「朝日新聞」 平成3年5月31日)

 Ⅳ
萩原朔太郎のこと (「聖教新聞」 昭和61年4月5日)
萩原朔太郎の散文 (平成3年3月執筆)
日夏耿之介の詩 (「流域」 第十巻第三冊 平成元年12月)

 Ⅴ
緒方富雄氏 (平成3年2月執筆)
矢内原伊作君 (「同時代」 第55号 平成2年7月)

 Ⅵ
鷗外全集 (岩波書店 『鷗外全集』 内容見本パンフレット 昭和61年11月)
續日本隨筆大成 (吉川弘文館 『續日本隨筆大成』 内容見本パンフレット 昭和54年6月)
柴田宵曲『蕉門の人々』 (小澤書店 『柴田宵曲文集』 第一巻 平成2年11月)
堀口大學全集 (小澤書店 『堀口大學全集』 内容見本パンフレット 昭和56年12月)
齋藤磯雄著作集 (東京創元社 『齋藤磯雄著作集』 内容見本パンフレット 平成3年2月)

 Ⅶ
江戸時代の漢詩集 (「しにか」 第2巻第1号 平成3年1月)
第一書房の本 (「神奈川近代文学館」 第31号 平成3年1月)
繪畫のなかの本 (平成3年2月執筆)
書について (「同時代」 第53号 平成元年7月)

 Ⅷ
北山十八閒戸 (「電波新聞」 昭和53年11月20日)
鎌倉の散歩道 (「ミセス」 平成2年9月号)
路傍の花 (「ミセス」 平成3年7月号)

 Ⅸ
C・W・フーフェラント (『ゲーテ年鑑』 第24巻 昭和57年)

あとがき
初出一覽




◆本書より◆


「緒方富雄『日本におけるヒポクラテス賛美』」より:

「江戸時代の醫者の閒では、毎年、冬至の日に神農の像を床の閒に掛けて、これを祭る習慣があったが、これは神農が醫藥の祖として崇められていたからである。ところが、やがて江戸時代の中期以後、いわゆる蘭學が勃興し、蘭學者たちが次第に多く現れるようになると、その蘭學者たちは毎年、太陽暦の正月に、西洋醫學の祖とされているヒポクラテスの肖像を床の閒に掛けて、これを祭ったのであった。」


「萩原朔太郎のこと」より:

「朔太郎は口語詩の完成者であるとか、病的な鋭い感覺と、近代人の憂鬱を自由に歌いあげた象徴詩人であるとか、いろいろ言われているが、しかし、もっと重大なのは、彼がなによりも先ず詩の解放者であったということである。(中略)朔太郎は詩の新しい地平線を展開したのであり、そこには多くの未來の詩が生まれでる可能性が孕まれていた。」


「萩原朔太郎の散文」より:

「「秋宵記」は「四季」の昭和十三年一月號に載った隨筆であるが、これはその氣質のうちに、「あいむざあむ(引用者注:「あいむざあむ」に傍点)」という感じ、「人生孤獨」という感じを、宿命的に持って生まれた朔太郎が、その妻と離婚したのちの獨身生活と、孤獨感とを自ら語って、惻々として讀者の胸に迫ってくるようなエッセイである。」


「繪畫のなかの本」より:

「ドイツの《Philobiblon》(「愛書」)という雜誌に、嘗て「繪畫に畫かれた本」という面白いエッセイが載ったことがある。(中略)西歐の主として十六世紀以後の繪畫について、そのうちに本が畫かれているいろいろな肖像畫や靜物畫などを紹介しているのである。私はこのエッセイを興味深く讀んだが、同時に、日本の繪畫についても似たような觀察をすることができるのではないかと思ったのであった。」
「先ず『源氏物語繪卷』では、(中略)「宇治の中君が浮舟に繪物語をみせ、右近が詞をよむ」という畫面があって、その左端下方に後姿を見せて坐り、その長い黑髪を侍女に梳らせている中の君が畫かれており、彼女と向いあって、畫面の上方の中央に浮舟が對坐しているが、この浮舟の前には繪草紙が置かれていて、彼女はそれをじっと見つめている。そして畫面の中央のやや下方に、几帳の端から半身を出して、草紙の詞書を讀んでいる右近の姿が畫かれているが、ここで繪草紙とその詞書とが別々の冊子となっているのは注目すべきことである。
 次に『紫式部日記繪卷』には、紫式部が中宮彰子に『白氏文集』を講じている場面がある。」
「最後に、『法然上人繪傳』のなかに畫かれている本は、當然のことながら、經典であるが、そのさまざまの畫面のうちで殊に印象深いのは、法然上人が「暗夜に眼から光を放つて讀書」しているさまを畫いた場面である。赤い机の上に開かれている經典を片手でおさえながら、夕闇のなかで、眼から光を放って、それを讀んでいる上人と、その部屋の外に立って、ひそかにその樣子を窺っている弟子の正信房の姿が、そこに畫かれている(中略)。」
「繪卷物のなかに畫かれている本は、ほぼ以上のようなものであるが、これと比べれば、江戸時代の儒者や醫者などの肖像畫のうちに本が畫かれていることは甚だ多く、また、その本の種類もさまざまである。」



「書について」より:

「私は字が下手だが、それは小學校や中學校の授業のとき以外に、正式な習字をしたことがなかったからだと思っている。」
「習字は大切ではあるが、そのお手本の形にだけとどまっているような字は感心できない。昔から「書家の書」は面白くないものとされているが、それは本來、個性の表現であり、人柄のあらわれであるべき書が、彼らにおいては類型的なものとなってしまっているからだろう。」

「詩人の字では、私は萩原朔太郎のそれが好きである。凡そ氣取りのない書というものがあるとすれば、朔太郎のそれがまさにそれだろう。朔太郎の字は決して上手な字ではなく、むしろ金釘流と言ってもよいほどだが、そこに彼の好ましい人柄がありのままに現れていて、なんとも言えない魅力のある字となっているのである。」



「北山十八閒戸」より:

「奈良市川上町坂の上にある北山十八閒戸を初めて訪れたのは、昨年(昭和五十二年)の八月の、ある日のことであった。」
「北山十八閒戸については、光明皇后がここの湯殿で癩者の體を洗ったという傳説があって、森鷗外もその「寧都訪古録」(大正七年十一月)のなかで、「八日……歸途、北山十八閒戸を訪う。傳えて謂う、光明子の澡浴場は即ち是なり、と」(もと漢文)と言っているが、これは史實ではないらしい。こんにち一般に信じられているところによれば、この北山十八閒戸は鎌倉時代に僧忍性(にんしょう)が、癩者を收容するために創建したもので、わが國で最古の救癩施設であるという。」
「現存する北山十八閒戸は、奈良の北郊の丘陵の上に南面して建っており、東西に長くのびている十八戸建ての平屋造り、瓦葺きの棟割長屋である。その一室の廣さは約四疊敷であるが、その東端には一閒半の浴室がある。だが、この十八閒戸が癩者の收容所として實際に使用されていたのは江戸時代の終りまでであって、明治になってからは空家のままに放置されてかなり荒廢していたらしい。」
「忍性は奈良坂にこの北山十八閒戸を創設したのち、鎌倉へ下って、極樂寺の開祖となった。そして長谷の大佛に近い桑ケ谷(くわがやつ)に療病所を開いたり極樂寺のうちにも療病院・癩宿・藥湯室などを設けた。(中略)その療病院はいまは跡形もない。また、癩宿の跡も失われているが、これは北山十八閒戸と似たようなものであったろう。
 いずれにしても、鎌倉時代の極樂寺や奈良坂のあたりには、數多くの癩者が、おそらく乞食などをしながら、群がっていたらしい。そして當時は業病(ごうびょう)と見なされていた癩病に惱むこれらの人たちを救濟するのは、寺院のつとめとされていたが、しかし、忍性のように大規模に、永い年月にわたって、その救癩の事業を行った者は他になかった。
 彼が生きながらにして、忍性菩薩と言われた所以である。」




富士川英郎 読書間適 02



カバーは薄い紙の上下を折って芯になる朱鷺色の紙を包んだ凝ったものになっています。






































































富士川英郎 『西東詩話 ― 日独文化交渉史の側面』

「暗い夜の闇のなかでなにかの恐怖におののき、ふるえている幼な児の魂。これがまた、リルケと朔太郎が成人したのちまでも共通に持っていたものであった。」
(富士川英郎 「萩原朔太郎とリルケ」 より)


富士川英郎 
『西東詩話
― 日独文化
交渉史の側面』



玉川大学出版部 
昭和49年5月15日 初版発行
430p 
菊判 丸背布装上製本 機械函
定価3,800円



本書「あとがき」より:

「東西の文化や文学の交渉ということに関連して、筆者がいままでに折にふれて書きとめてきた論文やエッセイの類をまとめて、ここに一冊の書物を編むことにした。」


本文中図版(モノクロ)43点。
本書収録論文中「萩原朔太郎とリルケ」「萩原朔太郎とポー」「郷愁の詩人」「谷神不死」は『萩原朔太郎雑志』に再録されています。
本書はもっていなかったのでアマゾンマケプレで1,010円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



富士川英郎 西東詩話 01



富士川英郎 西東詩話 02



目次 (初出):

 Ⅰ
古方家と蘭学 (『世界史における日本の文化・三枝博音紀念論集』 第一法規 昭和40年7月)
ヒポクラテスの肖像 (「学鐙」 第65巻第4号 昭和43年4月/昭和48年6月補正)
フーフェラントの『医戒』 (昭和48年5月執筆)
ウィルヒョウと日本の医者たち (「全人教育」 第46巻第12号 昭和47年12月)
コッホ歓迎会 (「全人教育」 第46巻第10号 昭和47年10月)
 Ⅱ
明治時代とドイツ文化 (昭和46年6月20日 「文体論協会」 第19回大会講演)
日本文学とドイツ文学 (『比較文学』 矢島書房 昭和28年10月/但し註は昭和48年6月執筆)
 Ⅲ
詩集『沙羅の木』について (「比較文学研究」 第6号 昭和32年12月)
「わが星」について (『近代詩の成立と展開』 矢島書店 昭和31年11月)
『家常茶飯』についての対話 (「ユリイカ」 第4巻第11号 昭和47年10月)
萩原朔太郎とリルケ (「無限」 第10号 昭和37年8月)
萩原朔太郎とポー (「無限」 第25号 昭和44年3月)
郷愁の詩人 (「季節」 第4号 昭和32年4月)
谷神不死 (「ユリイカ」 第4巻第5号 (昭和47年4月)
 Ⅳ
李太白とドイツ近代詩 (「比較文学研究」 第12号 昭和42年4月)
唐詩のドイツ訳 (「無限」 第22号 昭和42年9月/昭和48年7月、改題及び補正)
柏木如亭の『聯珠詩格訳註』 (昭和48年7月執筆)
『海表集』の唐詩訳 (「本の手帖」 第4巻第8号 昭和39年10月)
 Ⅴ
フローレンツと日本学 (「全人教育」 第46巻第11号 昭和47年11月)
フリッツ・ルンプのこと (昭和48年8月執筆)
リルケと日本 (「比較文学研究」 第8号 昭和39年6月)

あとがき
人名索引
書名索引




富士川英郎 西東詩話 03



◆本書より◆


「李太白とドイツ近代詩」より:

「十九世紀勝から二十世紀へかけてのヨーロッパで、最もひろくひとびとに知られていた東洋詩人は、おそらく『ルバイヤート』の著者オーマー・カイヤムと、Li-Tai-Pe の名で喧伝されていた李白とのふたりであったろう。私は寡聞にして、李白の名を初めてヨーロッパに伝えた者が誰であるか、また何びとによって彼の詩が最初にヨーロッパ語に翻訳されたのかを詳らかにしないが、一八六二年にパリで出版されたエルベイ・サン・ドニイの『唐の詩』(Hervey-Saint-Denys : Poésies de l'époque des Thang, Paris 1862)と、一八六七年に出たジュディト・ゴーチエの『硬玉の書』(Judith Gautier : Le Livre de Jade, Poésies traduites du Chinois. Paris 1867)とは、おそらくヨーロッパで最も古く現われたシナ詩歌集のうちに属するばかりでなく、詩人李太白(リー・タイ・ペー)の名がひろくヨーロッパ中に知れわたったことについても、大きな寄与をした書物であったように思われる。このうち後者の訳者ジュディト・ゴーチエはロマン派の詩人テオフィール・ゴーチエの娘で、彼女にはほかに西園寺公望との共訳になる日本詩歌集『蜻蛉の詩』という訳書もあるが、Tin-Tun-Ling というシナ人の助けをかりたというその『硬玉の書』は、それが出版された当初からかなり永い時期にわたって、単にフランスばかりでなく、ヨーロッパの各地でひとびとの注目を惹き、日本でも大正十一年一月に芥川龍之介が「パステルの竜」という一文を草して、この書を紹介していることは周知のところだろう。
 ドイツで李白の名がひろく知られ、その詩に二、三の詩人たちが注目しだしたのは、概して一九〇五年にハンス・ハイルマンの『シナの詩』(Chinesische Lyrik. In deutscher Übersetzung, mit Einleitung und Anmerkungen von Hans Heilmann. Piper & Co. 1905)という訳詩集が出てからのことであると言っていい。」
「ハンス・ハイルマンの『シナの詩』は、主として前述のエルベイ・サン・ドニイとジュディト・ゴーチエの訳詩集によって、約九十篇のシナの詩をドイツ語に重訳したものであるが、そこに収録された詩は、李白のそれが二十六篇で首位を占め、十三篇の杜甫がそれにつづいている。この書はドイツにおける最初のまとまったシナ詩歌集と言ってもよいものであったせいか、或はその脚韻を用いない、自由な散文訳が、却って多くの詩人たちの創作慾をかりたてたせいか、その後のドイツに現われたシナの詩の翻訳は、ほとんどそのすべてがこのハイルマンのシナの詩によっていることはピーパーが言っている通りである。」



「唐詩のドイツ訳」より:

「マーラーがその「大地の歌」で六篇(実は七篇)の唐詩を作曲していることは周知の通りであるが、その歌詞はすべてハンス・ベトゲの訳詩集『シナの笛』(Die chinesische Flöte. Nachdichtungen von Hans Bethge. 1910)から採ってきたものなのである。そのなかに李白の詩として「陶器の亭」(Der Pavillon aus Porzellan)というのがあるが、そのベトゲ訳をさらに日本語に直訳すれば、およそ次のようなものになる。

  小さな池の真中に
  緑と白の陶器(すえもの)の
  一つの亭(ちん)がたっている

  虎の背中のように
  反(そ)りかえって 硬玉の橋が
  その亭(ちん)までとどいている

  小さな亭(ちん)のなかでは友人たちが
  美しく着飾って 飲んだり 喋ったり
  まま詩を書いている者もいる

  彼らの絹の袖は背後(うしろ)になびき
  彼らの絹の頭巾(ずきん)は楽しげに
  襟首の下にとまっている

  小さな池の静かな水面に
  すべてが奇妙に
  鏡の中のように映っている

  さかさまに反(そ)りかえった橋は
  半月のよう 美しく着飾って
  飲んだり 喋ったりしている友人たちも

  みんなさかさまに立っている
  緑と白の陶器(すえもの)の
  その亭(ちん)のなかに

 この訳詩の原作に当るものを李白の詩集のなかにさがしてみても無駄だろう。こんな詩は李白にはないからである。だが、それにも拘らず、この「陶器の亭」が欧米でかなり久しい間李白の詩と考えられていたその誤謬のもとは、フランス人ジュディト・ゴーチエの『硬玉の書』(中略)にあった。ゴーチエ女史は、そのヨーロッパ語に訳された中国詩歌集のうちでの最も古いものに属する『硬玉の書』のなかに、この詩を李白の詩として収めているが、その典拠は不明で、むしろこれは女史自身がなにかの中国の絵画か、それこそ陶器の装飾画かなにかを見て、それに刺戟されて作った、一種の創作詩であったと考えられるのである。(中略)そしてドイツにおいてもハイルマンをはじめとして、クラブントもベトゲもこの詩を訳しているが、そのうちでは右に掲げたベトゲの訳が最も軽快で、色彩に富み、最も新ロマン派的・印象主義的な特徴をそなえていると言ってもいい。グスターフ・マーラーの作曲はその特徴を十分に生かしたうえ、さらにそれを繊細化したものであったのである。」



「リルケと日本」より:

「ネルケ夫人は一八七四年にドイツのオルデンブルグ州のホレで生まれ、一九〇五年に技師ハンス・ネルケと結婚したのち、その年に夫とともに日本に渡来して、一九一四年まで足かけ十年間、東京で生活していたひとである。第一次世界大戦の勃発とともにネルケ一家はドイツに帰ったが、一九一七年にデュッセルドルフで夫のハンスが病死した。そして未亡人となったネルケ夫人は戦後三人の子供や、日本からつれて帰った家政婦松本朝子を伴って、スイスに移り住み、ゾリオで暮していたが、そこへちょうどリルケが現われたのである。」
「リルケがネルケ夫人のすすめによって読んだ書物に、岡倉覚三の『茶の本』がある。」
「一九一九年の暮にはこの『茶の本』が独訳されて、「インゼル文庫」の一冊として出版された(中略)。そしてネルケ夫人はそのことをいち早くリルケに報らせて、その一読をすすめたらしい。(中略)まもなく彼はバーゼルでこの本を買うことができたので、ただちにネルケ夫人にそのことを報告しながら、三月六日の手紙で、こう言っている。
 「私がこのバーゼルの書店で手に入れた最初の本は『茶の本』でした。《花》(Blumen)についての一章が私にはいちばん楽しく読めました。この本のなかのいろいろなデーターはあなたがご存じのことと一致するでしょうか? それから朝子はそれについて何と言っていますか」。
 「花」についての一章とは『茶の本』の第六章のことであって、先ず昔の中国人や日本人の花に対する愛を説き、ついで日本における花道や、茶室の活花のことが語られている一章であるが、生涯を通じて花を愛することの深かったリルケには、これがとりわけ興味が深かったのだろう。そしてリルケはその後もこの小冊子を折にふれては繙いていたらしく、例えば一九二二年十月三十一日附でネルケ夫人にあててバルテュス・クロソウスキーのことを語った手紙のうちに次のような一節がある。
 「私たちが九月にベアーテンベルグに彼(バルテュス)を訪ねたとき、彼はちょうど支那風の雪洞を、東洋の形の世界(Formenwelt)への吃驚するような才能を示しながら、画いていたところでした。それから私たちはいっしょに『茶の本』を読みました。支那の王朝や芸術家の系統についてのその確かな知識を、いったい彼が何処から得たのか、不思議でした……私はこの奇妙に東洋への嗜好をもっている少年が朝子と会って話しをしたらどんなことになるかと想像せざるを得ないのです」。
 バルテュスはリルケがスイス時代に最も親しくしていた女性のひとりバラディーヌ・クロソウスカ(Baladine Klossowska)の次男であり、この前年、彼が失われた飼猫を画いたスケッチ集『ミツウ』にリルケが序文を寄せて、それをスイスの或る書店から出版させたことは前述の通りである。」
「昭和三十七年八月十九日の「朝日新聞」に彼をインターヴューした記事が載っているが、そのなかに彼の談話として次のような言葉が伝えられている。
 「日本の美術? 日本の美を知ったのは岡倉天心の本でした。矢代幸雄氏の著書にも啓発されました。しかし、私は子供のころから日本の墨絵にひかれていたんですよ。水墨による山水の図、あれはおそるべきレアリスムですね」。
 これは新聞に載ったインターヴューの記事であるからバルテュスの言葉をどれだけ正確に伝えているかは分らないが、既に少年時代から日本美術に傾倒したことを告白しているバルテュスの右の言葉を、前に引用したリルケの手紙の一節と対照してみると面白い。バルテュスは「日本の美を知ったのは岡倉天心の本でした」と言っているが、岡倉天心をはじめて少年の彼に紹介し、その『茶の本』を彼といっしょに読んだのは、ほかならぬリルケだったのである。」






こちらもご参照ください:

富士川英郎 『萩原朔太郎雑志』
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 (新装復刊)
岡倉覚三 『茶の本』 村岡博 訳 (岩波文庫)


















































































富士川英郎 『書物と詩の世界』

「雪が山中の草堂を静かに降りこめて、樹々の影がその中に深く沈んでいる。風もまったく落ちて、檐端(のきば)の鈴も鳴らず、しんしんと更けてゆく夜、書斎の詩人は周囲に乱雑に散らばった書物を閑かに片づけながら、心はなお、さきまでの読書の間に得た疑義を追いつづけている。一穂の青燈のもとで、心は書物の万古の世界に遊んでいるのである。」
(富士川英郎 「読書の詩」 より)


富士川英郎 
『書物と詩の世界』



玉川大学出版部 
昭和53年2月10日 第1刷 
343p 
四六判 角背クロス装上製本 貼函
定価2,500円



本書「あとがき」より:

「本書は著者がいままでに折にふれて書いてきたエッセイや随筆や雑記の類を集めたものである。その内容は、見られる通り、まちまちであって、全体を一貫するテーマのようなものはないが、書物や詩に関する文章が大部分を占めているので、『書物と詩の世界』という表題をつけてみた。」



本書はもっていなかったのでアマゾンマケプレで562円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



富士川英郎 書物と詩の世界 01



帯文:

「著者は独文学が専門で、特にリルケ研究の大家として知られている。訳書には『リルケ詩集』『ホーフマンスタール 詩についての対話』等がある。漢詩にも造詣が深く、『江戸後期の詩人たち』では第11回高村光太郎賞、第19回読売文学賞を受賞。本書は著者がいままで折にふれて書いた書物や詩に関するエッセイの類を集成したものである。」



富士川英郎 書物と詩の世界 02



帯背:

「碩学の人
ロマンと叙情」



目次 (初出):

 Ⅰ
蘭学のはじまり (「玉川通信」 第230号 昭和47年4月)
底野迦 (「比較文学研究」 第11号 昭和41年7月)
 Ⅱ
原勝郎『日本中世史』 (東洋文庫146 『日本中世史』 平凡社 解説 昭和44年9月)
勝長寿院 (大佛次郎編 『素顔の鎌倉』 実業之日本社 所収 昭和46年9月)
一遍聖絵 (「神奈川新聞」 昭和50年11月3日号)
老松堂日本行録 (「比較文学研究」 第20号 昭和46年11月)
 Ⅲ
隣人の詩 (「学鐙」 第71巻第9号 昭和49年9月)
樹木の詩 (「同時代」 第31号 昭和51年11月)
読書の詩 (昭和52年7月執筆)
萩原朔太郎 (昭和52年2月作)
鎌倉の詩 (河出書房新社 『日夏耿之介全集』 月報第5号 昭和50年7月)
『転身の頌』のこと (『詩人日夏耿之介』 新樹社 所収 昭和47年6月)
 Ⅳ
ホーフマンスタールの思い出 (河出書房新社 『ホーフマンスタール選集』 広告パンフレット 昭和47年1月/昭和52年7月補筆)
ホーフマンスタールと木下杢太郎 (夕刊 「読売新聞」 昭和49年8月12日号)
雑誌「コローナ」 (「文芸」 昭和37年11月)
リルケの思い出 (昭和52年8月執筆)
リルケの処女詩集 (「本の手帖」 第2巻第3号 昭和37年4月)
或るリルケ・コレクションの話 (「学鐙」 第73巻第1号 昭和51年1月)
ヴァイマルの蝶 (弥生書房 『リルケ全集』 月報13 昭和40年2月)
ヘッセ『ヴァンデルンク』 (「季節」 第9号 昭和33年3月)
メーリケ寸感 (筑摩書房 『世界文学大系』 月報84 昭和39年12月)
イヴァン・ゴルのこと (「季節」 第3号 昭和32年2月)
イヴァンとクレール (「季節」 第6号 昭和32年7月)
 Ⅴ
「オオルリ」の思い出 (「歴程」 第187号 昭和49年4月)
堀辰雄 
 1 思い出のなかから (筑摩書房 『堀辰雄全集』 月報1 昭和52年5月)
 2 「リルケ研究」号のことなど (『堀辰雄アルバム』 昭和37年7月)
 3 堀辰雄と「四季」 (「国文学」 第22巻第9号 昭和52年7月)
堀多恵子『片蔭の道』 (「週刊読書人」 昭和52年3月14日号)
神西清さんのこと (「同時代」 昭和32年12月)
堀大司氏の思い出 (「比較文学研究」 第15号 昭和44年4月)
三枝博音氏を悼む (「比較文学研究」 第8号 昭和39年8月)
森銑三氏のこと (中央公論社 『森銑三著作集』 月報Ⅷ 昭和46年7月)
 Ⅵ
父富士川游のこと (「書物展望」 第12巻第11号 昭和17年11月)
西片町九番地 (「中央公論」 第90巻第7号 昭和50年7月)
夏目漱石の手紙 (「本の手帖」 XII 昭和50年1月)
木下杢太郎の手紙 (昭和49年2月執筆)
斎藤茂吉の短歌三首 (「ももんが」 第19巻第11号 昭和50年11月)
 Ⅶ
わが偏読の記
 1 土肥慶蔵『世界黴毒史』 (「図書新聞」 昭和52年4月23日号)
 2 『杏林叢書』 (「図書新聞」 昭和52年4月30日号)
 3 『民族と歴史』 (「図書新聞」 昭和52年5月7日号)
 4 榊原政職『人類自然史』 (「図書新聞」 昭和52年5月14日号)
 5 リヒャルト・ヴィルヘルム訳『老子・道徳経』 (「図書新聞」 昭和52年5月21日号)
覚書 (「日本文化会議・月報」 第57号 昭和52年1月)
お伽のおじさん (「神奈川新聞」 昭和50年3月3日号)
 Ⅷ
長崎の思い出 (「海市帖」 第2輯 昭和33年1月)
ブレーメンの音楽師たち (「学園」 第27号 昭和36年7月)
ハーンの鎌倉紀行 (「山紫水明」 第23号 昭和42年11月)
黄葉夕陽村舎 (「神奈川新聞」 昭和50年9月29日号)

あとがき




◆本書より◆


「隣人の詩」より:

  「秋深き隣は何をする人ぞ

 これは芭蕉が元禄七年九月二十八日、大阪の弟子畦止(けいし)の家で詠み、その翌日招かれてその家に行こうと思っていた芝柏(しはく)に送った句であるという。だが、その二十九日に彼は病床に就き、十月十二日には多くの弟子たちに囲まれながら、五十一歳を以て永眠したのであるから、右の句はこの病床のなかで作られた例の「旅に病んで……」という辞世の句とともに、彼の最終吟のひとつであったと言うことができるだろう。これはまことに、「日々旅にして、旅を栖とした」この漂泊の詩人の孤独の境涯を象徴するような味わいの深い句である。
 秋も深まった頃の或る日、詩人はまたかりそめに宿った知人の家で一日をすごしながら、ふと隣りの家のただならぬ、もの静かな気配に気がつく。そして彼は、そのまるで誰も住んでいないかのように、妙にひっそりとした隣家を窺いながら、その主(あるじ)はいったい如何なるひとで、何を生業(なりわい)にしているのだろうかと、しばしの感慨に耽るのである。
 ところで、ここに注意すべきは、右の芭蕉の句における詩人と隣人の出会いは、運命の偶然による一時の出来事であるということである。彼らはもとより面識もなく、同じ町内に古くから住んでいる同市民という間柄でもない。それはひとりの漂泊者であり、一般の市民社会の外に立っている、いわゆるアウトサイダーである詩人が、その旅の人生の途上で、たまたま行きずりに出会ったひとりの隣人なのである。だが、思うに、芭蕉のような世外の詩人にとっては、一般に世間の人たちはいつもこのような「行きずりの隣人」として現れていたのではなかろうか。換言すれば、いつも互いに「行きずりの隣人」であることが、芭蕉のような詩人の一般的な対人関係であったのではあるまいか。例えばここに江戸後期の詩人菅茶山(ちゃざん)がその晩年に作った、「偶成」と題する次のような詩がある。

  独坐空悲清夜徂  独坐空しく悲しむ 清夜の徂(ゆ)くを
  隣荘無語一燈孤  隣荘 語無く 一燈孤なり
  半瓢残酒傾将尽  半瓢の残酒 傾けて将に尽んとす
  静聴芭蕉滴露珠  静かに聴く 芭蕉の露珠を滴らすを

 これは晩夏から初秋へかけての詩で、おそらくひと雨降ったのち、からりと霽れあがった夜に、詩人はひとりで酒瓢を傾けながら、時おり庭の芭蕉が水滴をこぼす音を聴いているのだろう。爽やかな佳い詩であり、その情景にただよう静けさは、「隣荘、語無く、一燈孤なり」という第二句のうちにもよく現れているが、しかし、この「隣荘」の主人は、茶山にとって、もとより「何をする人ぞ」というような見知らぬ者でもなければ、「行きずりの隣人」でもない。彼らは備後国神辺の同じ町内に、おそらく永年にわたって、隣りあって住んでいた者同士なのである。(中略)さらに蕪村の

  我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

という句のなかの「隣家」となれば、これはおそらく同じ長屋住いの壁一重しか隔っていない「隣家」であって、しかも、「行きずりの隣人」どころか、日頃、詩人と仲が悪く、詩人を嫌っているのだという。ここに見られる詩人対世間人の関係は、芭蕉とその隣人との関係とは、まさに正反対と言ってもよいくらい違っている。芭蕉における隣人は、くりかえして言うならば、たとえ一つ家の屋根の下に泊りあわせたときでさえも

  一家に遊女もねたり萩と月

というように、ロマンティックに、あわれ深くはあっても、どこまでも「行きずりの隣人」なのである。
 ところで、芭蕉の右のような「隣人」の句を読んで、筆者がいつも思い出すのは、リルケがそのさまざまな詩や散文で、歌ったり、語ったりした「隣人」のことである。というのは、芭蕉とリルケの「隣人」は、いろいろな点で、ひどく違っているにも拘らず、両方とも「行きずりの隣人」であるという点では、同じだからである。」

「一八九六年に、二十一歳で、故郷の町プラークを出てから、ドイツに、イタリアに、ロシアに、さらにフランスに、絶えず定住することのない放浪をつづけながら、最後にやっとスイス・ヴァレー州のミュゾットの館にその落着きの場所を見い出すことのできたリルケは、その永い漂泊の生涯において、さまざまな「行きずりの隣人」に出会ったのであった。小説『マルテの手記』のなかでそれを回顧して、リルケは(或はマルテは)、「孤独の放浪をつづけるようになってから、私は数限りない隣人を持ったのだった。階上(うえ)の隣人や、階下(した)の隣人や、右隣りや、左隣りの隣人を。ときにはこの四通りの隣人をいちどきに持ったこともあった。私は無造作にこれらの隣人の物語を書くことができるだろう。それは私の生涯の仕事となるだろう」と言ったのち、さまざまの隣人の具体的な例をあげているが、そのうちにペテルスブルクで出会った、夜も眠らずにヴァイオリンを弾いていた男の話も記されている。(中略)このペテルスベルクのホテルでの隣人について、リルケはずっとのちに、フランスの評論家シャルル・デュ・ボスに向っても、さらに詳しい話をしているのである。
 一九二五年一月二十九日、折柄パリに滞在していたリルケは、シャルル・デュ・ボスをそのイル・サン=ルイの邸宅に訪れて閑談したが、ボスはその会見のありさまを、翌三十日の日付けの日記のうちに詳しく書きとめている。そしてその最後のところに、リルケから聞いた不思議な次のような物語が記されているのである。
   リルケはまた私たちに次のようなすばらしい話をしてくれた。それは彼がロシアを去る前の晩のことであった。彼はセント・ペテルスブルグの或るホテルにいた。夏のことで、北国の特別に明るい、暑い夜々がつづき、その夜空をよぎって、生きのびた昼の光が、夜明けの最初の光と重なりあうように思われた。眠れないでいると、彼の隣りの男が部屋のなかをぐるぐる歩き廻る足音が聞え、その男は何時間もそうして往ったり来たりしたのち、ヴァイオリンを弾きはじめるのだった。ところが、或る晩のこと、ヴァイオリンがテーブルの上に置かれる異常な物音が聞えたのち、リルケの部屋の扉が開かれて、その見ず識らずの隣りの男が敷居のうえに姿を現わした。それは美しい、痩せた若者で、ぴったりと身についた服を着て、一輪の薔薇の花を口にくわえていた――それはおよそ想像し得る限りのロマンティックな恰好のひとつだった。そしてその男がリルケにこう言ったのである。《ぼくのように、あなたもお寝みになれないのですね。ぼくは是非とも、是非とも、ぼくの生涯の物語を誰かに聞いて貰いたいのです》。その男は自分が二人の姉妹に恋をしているが、その二人のうちのどちらに恋をしているのか、はっきりとは分らない。それに二人の姉妹の方でも、同じような状態にいるのではないかという、漠然たる予感がする。つまり彼女たちもどちらがよけいに彼を愛しているのか知ってはいないのだ。だから自分は悪い時に決断して、きっと彼を愛していない方の娘を選んでしまうような気がするとその男は語ったのだった。そしてそんな調子で三時間も喋りつづけていたが、やがて姿を現したときと同じようにふいに部屋を出ていってしまった。そしてリルケは二度とこの男の姿を見なかったという。
 だが、リルケがその一生の間に出会った隣人たちが、右のようなヴァイオリンを弾く男たちにだけ限られていなかったことは言うまでもない。例えばすでに同じペテルスブルクのホテルにおいても、一日中、ベッドにころがったまま、自分の生涯の「時」を秒に換算して、その莫大な数字をいつまでも計算していたニコライ・クスミッチュという不思議な男を、リルケは隣人にもっていた。また、パリではノイローゼに悩むひとりの医学生と隣りあって住んだことがある。その医学生は試験をまぢかに控えた或る日、急に片方の瞼が言うことをきかなくなって、いくらあげても落ちてくる窓のカーテンのように、自然に眼がふさがってしまったのだという。そしてその瞬間にきまって何かブリキ製の蓋のようなものが、その医学生の手から辷りおちて、それが部屋中に大きな騒音をたてるのだった。そしてリルケ(或はマルテ)は、その隣りの部屋との境の壁に身をすりよせて、その瞬間がくるのを、いつも同じような不安におののきながら、じっと窺っているのである。彼はその医学生が意志の力によって、それを克服することを期待している。そして場合によっては、この男のために自分の意志を提供してもよいと考えながら、ほとんど精根も尽きはててしまうのである。リルケは、「隣人を語ることは、むしろ彼らが私のなかに喚起したいろいろな病気の現象を物語ることになるだろう」と言っているが、これは彼の正直な述懐であったと言ってもよいだろう。
 その「隣人」が「行きずりの隣人」であることにおいて、リルケと芭蕉には共通のところがあった。それはこのふたりが世俗、或いは市民社会の外にあって、ひたすら風雅の道を追ったり、詩に自分の生命を托したりした、その漂泊の境涯の然らしむるところであったろう。だから、このふたりと世間の人たちとの間には、同僚とか、同業とか、同市民とかいうつながりはなく、しばしば「見知らぬ隣人」という関係がそこに生じているのである。しかし、芭蕉とリルケの間の共通な点はこのへんにとどまって、このふたりがその隣人と出会ったときの対応の仕方は、極端に違っていると言うことができるだろう。芭蕉が、「秋深き隣は何をする人ぞ」と言い、「一家に遊女もねたり萩と月」と詠ずるとき、その隣人との淡々とした関係の背後には、やはり「もののあわれ」といったようなものを感じさせる或る無常なものの流れのあることが感知されるが、リルケの場合、彼はいつもその異常な隣人たちに吸引され、ほとんど自己喪失に至る悲劇的なドラマがそこで演ぜられるのである。そしてその背景には、彼やその隣人たちをおしなべて流してゆく、近代都市の非情で、非人間的な、どす黒い生活の渦が巻いているのだと言えよう。」







こちらもご参照ください:

『マルテの手記/影のない女 他』 川村二郎 他 訳 (集英社版 世界文学全集 66)
富士川英郎 『萩原朔太郎雑志』































































富士川英郎 『読書好日』

「思うに、これらの人たち、つまり明治の末期から關東大震災前の大正時代へかけて活躍した人たちは、明治維新以來の日本人のうちで、おそらく最も浪漫的であり、最も「美的」な世代であったのではなかろうか。」
(富士川英郎 「萩原朔太郎の「西洋の圖」」 より)


富士川英郎 
『讀書好日』
 


小澤書店 
昭和62年3月20日 初版発行
392p 別丁図版(モノクロ)5葉
20.6×15.6cm 
丸背布装上製本 カバー
定価3,000円



本書「あとがき」より:

「本書は舊著『書物と詩の世界』(昭和五十三年、玉川大學出版部)につぐ、著者の第二隨筆集である。」


旧字・新かな。


富士川英郎 読書好日 01


帯文:

「江戸漢詩文から鷗外、杢太郎へ。近世と近代を繋ぐ硬文學の鑛脈にふれて、著者はその魅力を樂しく語る。知友、文學者との交流や囘想、また住みなれた鎌倉をめぐる小品などをおさめ、著者の文學的世界の深さと擴がりをあますところなくつたえる隨想・評論集。」


帯背:

「近世から近代詩文へ
文學的世界の深さと
擴がりを示す――
充實の隨想・評論集」



帯裏:

「本書は著者がこの數年來、折にふれて執筆してきたエッセイや隨筆の類を集めたものである。ほぼ同じ内容のものをまとめて配列して、全體を八部に分ったが、最後の第八部には、總稱して「鎌倉雜記」というべき小文が集められている。全體として囘想を述べた文章が多いのは、著者の年齢の然らしめたところだろう。
(「あとがき」より)」



目次 (初出):


森鷗外「委蛇録」 (「同時代」 第43号 昭和59年3月)
木下杢太郎のこと (「心」 昭和56年8月号)
木下杢太郎雜志 (岩波書店 『木下杢太郎全集』 第15巻月報 昭和57年10月)
木下杢太郎の隨筆 (「海燕」 昭和59年3月号)
『木下杢太郎選集』 (「東京新聞」 昭和59年1月20日)
「木下杢太郎文庫」瞥見 (「ちくま」 昭和61年1月号)


萩原朔太郎の「西洋の圖」 (「ユリイカ」 昭和55年7月号)
堀辰雄とドイツ文學 (「海燕」 昭和58年2月号)
蝙蝠の詩 (「アルプ」 昭和58年2月号)
夏の歌 (「短歌」 昭和56年7月号)


『狐の裁判』のこと (潮出版社 『ゲーテ全集』 第9巻月報 昭和54年9月(昭和61年7月改稿)
鷗外譯『ファウスト』が出るまで (「全人教育」 昭和53年11月号、54年2・3・5・7月号/原題: 「譯本『ファウスト』ものがたり」)
グロートのこと (「全人教育」 昭和48年3月号/原題: 「グロートと東大醫學部豫科」)


菅茶山 (汲古書院 『近世の漢詩』 昭和61年4月)
菅茶山と賴山陽 (山陽新聞社 『幕末維新と山陽道』 下巻 昭和59年6月)
菅茶山と大田南畝 (岩波書店 『大田南畝全集』 第3巻月報 昭和61年6月)
菅茶山と繪島 (「読売新聞」 昭和54年7月12日)
江戸漢詩文とわたし (「玉川学園学術教育研究所」所報8 昭和60年12月)


福原麟太郎氏の手紙 (「心」 昭和56年5月号/原題: 「福原麟太郎氏とわたし」)
尾崎喜八氏の手紙 (「アルプ」 昭和53年5月号)
山内義雄氏の手紙 (「海」 昭和56年9月号)


内田銀藏博士の手紙 (「創文」 昭和57年11月号)
岡野知十と「料理研究」 (「飲食史林」 第2号 昭和55年7月/昭和61年7月改稿)
私立奬進醫會と「醫談」 (復刻版「醫談」解説 昭和61年4月)
森銑三さんと宍戸俊治氏 (「ももんが」 昭和61年4月号)


小川鼎三博士を悼む (「日本醫史學雜誌」 昭和60年1月号)
竹山道雄氏を偲ぶ (「文化會議」 昭和60年1月号)
或る日の中山正善氏 (「文化會議」 昭和55年5月号)


斷橋 (「ももんが」 昭和56年12月号)
今昔横須賀線 (「同時代」 第45号 昭和60年7月)
大正時代の鎌倉と藤澤 (「江ノ電沿線新聞」 昭和54年10月1日)
湘南中學と岡倉由三郎 (「文藝春秋」 昭和59年2月号)
高濱虚子の俳句 (「かまくら春秋」 昭和56年7~10月号)
鎌倉の梅 (「電波新聞」 昭和53年3月27日)
句碑と歌碑 (「神奈川新聞」 昭和50年7月21日)
サンソムと梵竺仙 (「全人教育」 昭和48年1月号)
悼松記 (「現代」 昭和60年6月号/原題: 「松の木の日本」)
屏風山の道 (「かまくら春秋」 昭和60年8月号)
散歩道の猫たち (「電波新聞」 昭和59年8月14日)
おもかげ (「鎌倉文学館」 昭和60年10月)

あとがき
初出一覽



富士川英郎 読書好日 02



◆本書より◆


「木下杢太郎の隨筆」より:

「いま私は、私の空想するこの一冊の杢太郎の隨筆集の卷頭に、先ず「小學校時の回想」と「すかんぽ」という二篇を置きたいと思う。この二篇の隨筆では、ともに杢太郎の幼年、乃至は少年時の囘想が語られているが、前者では學校へ行くのがいやで、初めて姉に負われて、學校へ行ったときは、その背中で終始目をつぶっていたというような幼い天(あま)の邪鬼(じゃく)の杢太郎の姿や、日淸戰爭のあった前後の時代的雰圍氣が自(おのずか)ら當時の小學生の生活にも反映していたありさまなどが、そこに鮮かに描かれている。」
「右の二篇についで、その次に置かれるのは、「僻郡記」という隨筆である。」
「これは昭和十年に當時東北大學醫學部教授であった杢太郎が、醫療團を率いて、東北地方の農村を巡囘診療したときの記録である。」
「村のひとりの老婆が山で熊と出あって、押し倒され、面皮を剝がれてしまうが、その日の夕方、村人が山を登って行くと、「向うから顏の眞赤な人が歩いて來る。不思議に思つてそれに近づくと、顏の皮を剝き取られ、目と口だけになつた女の人である」という村人から聞いた話を記している行(くだり)には、ほとんど鬼氣せまるものがある。」



「萩原朔太郎の「西洋の圖」」より:

「幼い朔太郎がオルゴールのなかから聞えてくるエキゾティックな音樂に耳を傾けながら「海の向ふに」幻想した「空や都會」は、まさに彼が最初に思い描いた「西洋の圖」であったと言ってもよいだろう。」

「朔太郎が幼いときから幻想していたこの「西洋の圖」は、一面では確かに明治時代の「文明開化」を彩った浪漫的情操の現われの一つであったと言うことができるだろう。だが、明治の文化を築きあげた人たち、つまり朔太郎の父親と同じ世代に屬していた人たちの西洋への志向は、概して言えば、現實的で、或る明確な目的をもっており、それに伴った彼らの夢にはその目的にそって、實現の可能性を孕んでいたようなものが多かったが、これに反して、明治の中期に育った朔太郎などの世代の西洋への憧憬はひたむきで、純粹であるとともに夢想的で、一種の美的ユートピアを彼方に思い描いているようなところがあった。(中略)彼と同じ年齢の谷崎潤一郎が若い頃に見ていた西洋の夢もそれと似たようなものであったし、佐藤春夫の「美しき町」も當時の彼の「西洋の圖」であったと言うことができるだろう。(中略)思うに、これらの人たち、つまり明治の末期から關東大震災前の大正時代へかけて活躍した人たちは、明治維新以來の日本人のうちで、おそらく最も浪漫的であり、最も「美的」な世代であったのではなかろうか。」



「蝙蝠の詩」より:

「大正十年か、十一年、いずれにしても關東大震災より以前のことであるが、當時、中學生であった私は、冬の或るよく晴れた日に、二歳年うえの兄とふたりで、鎌倉の山道を歩いていた。鎌倉の山には、所どころ、その崖に穿たれている、「やぐら」と言われている方形の洞穴があるが、これは鎌倉時代から足利時代へかけての武士の墓窟であって、鎌倉及びその周邊の地帶にだけ見出されるものである。ところでその日、私たちが歩いていた山道に沿っても、いくつかのそうした「やぐら」があったが、そのうちの一つの大きな「やぐら」を覗いてみると、その天井になにか奇妙な恰好をしたものが二つぶら下っていた。何だろうと思って、私たちがそのうす暗い「やぐら」の中に入って、眼をこらして見たところ、それは二匹の蝙蝠が天井にさかさまにぶら下っているのであった。蝙蝠としてはそこで冬眠をしていたのかもしれない。けれども私たちがそれを捕(つか)まえようとしたとき、眼を覺ました蝙蝠はその「やぐら」の中をあちこち飛び廻って、なかなか捕まらない。なにしろそれは、兩手をさしのべてもその天井にとどかないほど大きくて、廣い「やぐら」であったので、私たちはいろいろ骨を折った末(すえ)に、やっと一匹の蝙蝠を捕まえることができたのであった。そして私たちはその蝙蝠を逃さないようにして家へ持って歸ると、家人に知られないように、そっと私たちの部屋に放った。というのは、この六疊ばかりの部屋は四方が壁になっていて、廊下に出る戸口を閉めて置きさえすれば、蝙蝠が逃げだす隙間はどこにもなかったからである。事實、蝙蝠はその部屋に放たれると、いきなりひらひらと舞い上って、天井の一角にぶらりと、さかさまにぶら下ったまま、じっとしていた。そのうち、私たちはほかのことに紛れて、その蝙蝠のこともすっかり忘れてしまっていたが、夜中になって、その部屋に蒲團を敷いて寢ていると、やがてなにか私の顏を掠めていったものがある。しかし、私は眠いので、なんだろうと思いながら、うとうとしていると、また、こんどはさっきと反對の方角から、なにかがひらひらと舞い下りてきて、私の顏を掠めんばかりにして、もとの天井の一角へ飛び上っていったのだった。そのときやっと私はそれが蝙蝠であることに氣がついたが、起き上って、電燈をつけると、彼は天井の私たちの手のとどかない高いところにとまって動かない。やむを得ず、部屋を暗くして、蒲團のなかでうとうとしかけると、また、その蝙蝠が天井から羽音をたてながら舞い下りてきては、私の顏を掠めるようにして、反對側の天井の片隅へ飛び上ってゆくのであった。そのうちその間隔が次第に狹まってきて、しまいにはしきりなしに、その時計の振子の運動のような飛翔がくりかえしなされるようになってきた。もちろん、私はとても寢ていられないので、電燈を明(あか)あかとつけ、窓をあけはなって、その蝙蝠を外へ追いだそうとしたが、彼は巧みに身をかわして、なかなか出てゆこうとしない。そのうちに、その騷ぎに起き出してきた母に、私はあきれられたり、叱られたりしたが、最後にやっと、その蝙蝠は私がふりまわしていた箒木の先端(さき)をのがれて、開(あ)いていた窓から夜の闇のなかへ飛んでいったのだった……」


「菅茶山と賴山陽」より:

「あとに妹などが生まれますが、男の子は山陽一人であった。母親の梅颸に溺愛されたといいますけれど、山陽は幼い時から病身であって、いろんな病氣に罹った。
 現在、母の梅颸がつけた日記が殘っておりまして、その中に幼年のころから少年時代にかけての山陽の動靜や、健康状態が丹念に書きつけられている。それによってみますと、天明七年(一七八七)に久太郎、つまり山陽が癇症を現わしたと書いてある。これは引きつけを起したのでありましょう。それも、輕い程度ではあるけれども、腦膜炎だったのではないかと思われます。この引きつけを山陽は幼い時にたびたび起している。やがて寛政五年(一七九三)、十四歳になった時に鬱病が現われてきました。山陽は躁鬱病だったのですが、それが十四歳の時から現れてきた。
 梅颸の日記を見ますと、久太郎が何も物をいわない、一日中一言もいわない。そして、たまに氣が狂ったようになってしまうというようなことが時々書いてあります。梅颸はそれを非常に心配して醫者に賴んで、しきりに山陽にお灸をすえて貰ったりしている。それから、叔父の杏坪に賴んで、山陽を温泉場に連れていって、湯治をさせたりしていますが、どうも効き目がない。そして、寛政七年、山陽が十六歳になった時、病勢はさらに惡化したのであります。この時には母親の梅颸は精神的なショックを受けたとみえまして、その前後の日記が空白になっている。一方、父親の春水が漢文でごく簡潔につけた日記がありますが、その日記によると久太郎の宿痾が暴發したと書いてる。つまり、躁病の激しい發作が起ったのでありましょう。一家の者がうろたえたというようなことが書いてあります。
 その翌々年の寛政九年、山陽が十八歳になった時、山陽は叔父の杏坪につれられて、はるばる江戸に出てきます。そして當時の最高學府であった昌平黌に入學しました。これは氣分もまぎれて、山陽の躁鬱病がいくらか治るかもしれないという希望を、兩親や叔父の杏坪も持っていたのでありましょう。ところが、この時、山陽は江戸にわずか一年いただけで、すぐ廣島へ歸って來ます。」
「この江戸滯在の一年間に、山陽は何をしていたのか、どうも詳しいことが分りません。始めのころは昌平黌で勉強していたのに違いないのですが、やがてよく分らなくなる。おそらく、この間に躁病がまた暴發したのではないかと考えられます。それで叔父の杏坪がまた廣島に連れて歸った。」
「ところが廣島へ歸って來ても山陽の病氣はたいしてよくならない。そうこうしているうちに或る大きな事件が起りました。寛政十二年の九月、山陽が二十一歳になった年に、賴家の父祖の地である竹原において、春水の叔父に當る傳五郎という人が死亡しました。ちょうどそのころ、春水は江戸に出張していて、廣島にはいなかった。そこで梅颸は杏坪と相談して山陽を春水の名代として竹原に弔問に行かせました。下男を一人付けて行かせたのですが、その途中で、山陽は下男をまいてしまって、どこかへ逐電してしまったのです。下男がいくら探しても山陽が見當らない。すごすご廣島へ歸ってくる。廣島では大騷ぎになります。というのは山陽は侍の嫡男であった。その當時のきまりは、士分の嫡男が無屆けで安藝の國の外へ出たら、つまり脱藩したら、見つかり次第死刑です。斬首ということに決っている。だから、山陽が行方不明になったというので賴家では非常に困惑狼狽するわけです。」
「この時の山陽の逃亡は大きな事件でありましたから、後になっていろいろそれについての傳説のようなものが生まれました。(中略)そのうちに、たとえばこんな話があります。追手の人たちが、廣島縣の西條という所へ來ると、道端に賴家の定紋のついている上下を着た乞食が坐っている。不審に思ってその乞食に質したところ、山陽が乞食と衣服を交換して逃げて行ったのだという。さらに追手が姫路に至ると、近ごろ非常に學問のある乞食がやって來て、道端で昔の源平合戰などの講釋をしていたという噂が街にひろがっていた。さてこそ山陽に違いないと思って探すのですが、彼の行方はやはり一向に分らない。このようにいろんな傳説が殘っているのですが、もちろん、これは後世の作り話で、事實を語ったものではありません。實際は九月二十八日に、京都の福井新九郎という醫者の家に隱れているところを見つけられて、山陽はただちに廣島に連れ戻されたのであります。
 ところで、山陽はまぎれもなく脱藩したわけですから、普通ならば死刑に處せられるところです。しかし、父賴春水に對する淺野侯の信賴が厚かったということもあって、家老の差し金で山陽は氣違いになったという屆けが出されました。狂人ならば罰せられないわけであります。そして、山陽は座敷牢に入れられる。父春水の家で座敷牢に三年間入っていた。この間、同じ邸宅に住んでおりながら母の梅颸と會うことは許されなかったのです。ところが、不思議なことに、座敷牢に入っている間に、山陽の鬱病はほぼ治ってしまったのです。そして、この間に山陽は例の『日本外史』の初稿をほぼ全部書いてしまった。座敷牢の外へは一歩も出られませんから書物を讀んだり、文章を書いたりするほかには仕方がなかったと思われますが、とにかく鬱病が治って、しかも『日本外史』の初稿が出來上がったのであります。そして山陽は享和三年(一八〇三)になって座敷牢から出ることを許されました。しかし、山陽は氣が狂ったのだという屆けを出していますから、彼が賴家の跡を繼ぐということは許されない。そこで彼は廢嫡されることになります。そして春水は弟の春風の子供を自分の養子にしました。山陽は廢嫡されて、藩に仕える希望はもちろんない。父のもとにあって、一種の浪人生活のような暮らしをしながら憂鬱な日々を送っている。そこで腹いせといいますか、やけくそになったといいますか、やがて山陽は――そのころは鬱病はほぼ治っていたのですが――今度は遊蕩生活に耽るようになりました。廣島市内だの宮島だのの遊里へ入りびたって何日も家に歸らない。ここでちょっと話が前後しますが、そのころすでに山陽は結婚しておりました。同じ藝藩の醫者で御園道英という人の娘の淳子と結婚していたのですが、これは脱藩事件を起す少し前のことです。そして、脱藩事件があったのち、山陽が座敷牢に入っていた間に、この結婚は破談になりました。こういうような次第で當時、兩親たちは山陽の扱いに困っていましたが、ちょうどその時、一種の救いの手が菅茶山から伸ばされたのであります。」



「高濱虚子の俳句」より:

 「鎌倉や牡丹の根に蟹遊ぶ

 これは昭和二十五年の句であるが、鎌倉の海に近いあたりにある家の砂地の庭などでは、こうした光景がよく見られたものであった。この句を讀んで、なんとなく思い出されるのは、戰前、殊に昭和の初期の頃、滑川の河口近くに掛っている海岸橋(これは當時は木の橋だった)に立って、川を見下すと、その兩岸の石垣の隙間から、大小無數の蟹が絶えず出たり入ったりしていた光景である。だが、當時はここに限らず、蟹などは鎌倉の到る所にいたと言ってもよいが、その蟹もいまは稀れにしか見られなくなってしまった。

  颱風の名殘の驟雨あまたたび

 八月も下旬になって、颱風のシーズンが近づくと、避暑客で賑わっていた鎌倉も急にさびれて、

  降りつづき避暑も終りとなるばかり

 と甞て星野立子氏が詠んだような日々がつづくが、それはまた鎌倉の夏の終りを告げる風雨なのであった。」





こちらもご参照ください:

森林太郎 訳 『フアウスト』 (岩波文庫) 全二冊
内田百間 『王様の背中』 (旺文社文庫)













































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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