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富士川英郎 『読書好日』

「思うに、これらの人たち、つまり明治の末期から關東大震災前の大正時代へかけて活躍した人たちは、明治維新以來の日本人のうちで、おそらく最も浪漫的であり、最も「美的」な世代であったのではなかろうか。」
(富士川英郎 「萩原朔太郎の「西洋の圖」」 より)


富士川英郎 
『讀書好日』
 


小澤書店 
昭和62年3月20日 初版発行
392p 別丁図版(モノクロ)5葉
20.6×15.6cm 
丸背布装上製本 カバー
定価3,000円



本書「あとがき」より:

「本書は舊著『書物と詩の世界』(昭和五十三年、玉川大學出版部)につぐ、著者の第二隨筆集である。」


旧字・新かな。


富士川英郎 読書好日 01


帯文:

「江戸漢詩文から鷗外、杢太郎へ。近世と近代を繋ぐ硬文學の鑛脈にふれて、著者はその魅力を樂しく語る。知友、文學者との交流や囘想、また住みなれた鎌倉をめぐる小品などをおさめ、著者の文學的世界の深さと擴がりをあますところなくつたえる隨想・評論集。」


帯背:

「近世から近代詩文へ
文學的世界の深さと
擴がりを示す――
充實の隨想・評論集」



帯裏:

「本書は著者がこの數年來、折にふれて執筆してきたエッセイや隨筆の類を集めたものである。ほぼ同じ内容のものをまとめて配列して、全體を八部に分ったが、最後の第八部には、總稱して「鎌倉雜記」というべき小文が集められている。全體として囘想を述べた文章が多いのは、著者の年齢の然らしめたところだろう。
(「あとがき」より)」



目次 (初出):


森鷗外「委蛇録」 (「同時代」 第43号 昭和59年3月)
木下杢太郎のこと (「心」 昭和56年8月号)
木下杢太郎雜志 (岩波書店 『木下杢太郎全集』 第15巻月報 昭和57年10月)
木下杢太郎の隨筆 (「海燕」 昭和59年3月号)
『木下杢太郎選集』 (「東京新聞」 昭和59年1月20日)
「木下杢太郎文庫」瞥見 (「ちくま」 昭和61年1月号)


萩原朔太郎の「西洋の圖」 (「ユリイカ」 昭和55年7月号)
堀辰雄とドイツ文學 (「海燕」 昭和58年2月号)
蝙蝠の詩 (「アルプ」 昭和58年2月号)
夏の歌 (「短歌」 昭和56年7月号)


『狐の裁判』のこと (潮出版社 『ゲーテ全集』 第9巻月報 昭和54年9月(昭和61年7月改稿)
鷗外譯『ファウスト』が出るまで (「全人教育」 昭和53年11月号、54年2・3・5・7月号/原題: 「譯本『ファウスト』ものがたり」)
グロートのこと (「全人教育」 昭和48年3月号/原題: 「グロートと東大醫學部豫科」)


菅茶山 (汲古書院 『近世の漢詩』 昭和61年4月)
菅茶山と賴山陽 (山陽新聞社 『幕末維新と山陽道』 下巻 昭和59年6月)
菅茶山と大田南畝 (岩波書店 『大田南畝全集』 第3巻月報 昭和61年6月)
菅茶山と繪島 (「読売新聞」 昭和54年7月12日)
江戸漢詩文とわたし (「玉川学園学術教育研究所」所報8 昭和60年12月)


福原麟太郎氏の手紙 (「心」 昭和56年5月号/原題: 「福原麟太郎氏とわたし」)
尾崎喜八氏の手紙 (「アルプ」 昭和53年5月号)
山内義雄氏の手紙 (「海」 昭和56年9月号)


内田銀藏博士の手紙 (「創文」 昭和57年11月号)
岡野知十と「料理研究」 (「飲食史林」 第2号 昭和55年7月/昭和61年7月改稿)
私立奬進醫會と「醫談」 (復刻版「醫談」解説 昭和61年4月)
森銑三さんと宍戸俊治氏 (「ももんが」 昭和61年4月号)


小川鼎三博士を悼む (「日本醫史學雜誌」 昭和60年1月号)
竹山道雄氏を偲ぶ (「文化會議」 昭和60年1月号)
或る日の中山正善氏 (「文化會議」 昭和55年5月号)


斷橋 (「ももんが」 昭和56年12月号)
今昔横須賀線 (「同時代」 第45号 昭和60年7月)
大正時代の鎌倉と藤澤 (「江ノ電沿線新聞」 昭和54年10月1日)
湘南中學と岡倉由三郎 (「文藝春秋」 昭和59年2月号)
高濱虚子の俳句 (「かまくら春秋」 昭和56年7~10月号)
鎌倉の梅 (「電波新聞」 昭和53年3月27日)
句碑と歌碑 (「神奈川新聞」 昭和50年7月21日)
サンソムと梵竺仙 (「全人教育」 昭和48年1月号)
悼松記 (「現代」 昭和60年6月号/原題: 「松の木の日本」)
屏風山の道 (「かまくら春秋」 昭和60年8月号)
散歩道の猫たち (「電波新聞」 昭和59年8月14日)
おもかげ (「鎌倉文学館」 昭和60年10月)

あとがき
初出一覽



富士川英郎 読書好日 02



◆本書より◆


「木下杢太郎の隨筆」より:

「いま私は、私の空想するこの一冊の杢太郎の隨筆集の卷頭に、先ず「小學校時の回想」と「すかんぽ」という二篇を置きたいと思う。この二篇の隨筆では、ともに杢太郎の幼年、乃至は少年時の囘想が語られているが、前者では學校へ行くのがいやで、初めて姉に負われて、學校へ行ったときは、その背中で終始目をつぶっていたというような幼い天(あま)の邪鬼(じゃく)の杢太郎の姿や、日淸戰爭のあった前後の時代的雰圍氣が自(おのずか)ら當時の小學生の生活にも反映していたありさまなどが、そこに鮮かに描かれている。」
「右の二篇についで、その次に置かれるのは、「僻郡記」という隨筆である。」
「これは昭和十年に當時東北大學醫學部教授であった杢太郎が、醫療團を率いて、東北地方の農村を巡囘診療したときの記録である。」
「村のひとりの老婆が山で熊と出あって、押し倒され、面皮を剝がれてしまうが、その日の夕方、村人が山を登って行くと、「向うから顏の眞赤な人が歩いて來る。不思議に思つてそれに近づくと、顏の皮を剝き取られ、目と口だけになつた女の人である」という村人から聞いた話を記している行(くだり)には、ほとんど鬼氣せまるものがある。」



「萩原朔太郎の「西洋の圖」」より:

「幼い朔太郎がオルゴールのなかから聞えてくるエキゾティックな音樂に耳を傾けながら「海の向ふに」幻想した「空や都會」は、まさに彼が最初に思い描いた「西洋の圖」であったと言ってもよいだろう。」

「朔太郎が幼いときから幻想していたこの「西洋の圖」は、一面では確かに明治時代の「文明開化」を彩った浪漫的情操の現われの一つであったと言うことができるだろう。だが、明治の文化を築きあげた人たち、つまり朔太郎の父親と同じ世代に屬していた人たちの西洋への志向は、概して言えば、現實的で、或る明確な目的をもっており、それに伴った彼らの夢にはその目的にそって、實現の可能性を孕んでいたようなものが多かったが、これに反して、明治の中期に育った朔太郎などの世代の西洋への憧憬はひたむきで、純粹であるとともに夢想的で、一種の美的ユートピアを彼方に思い描いているようなところがあった。(中略)彼と同じ年齢の谷崎潤一郎が若い頃に見ていた西洋の夢もそれと似たようなものであったし、佐藤春夫の「美しき町」も當時の彼の「西洋の圖」であったと言うことができるだろう。(中略)思うに、これらの人たち、つまり明治の末期から關東大震災前の大正時代へかけて活躍した人たちは、明治維新以來の日本人のうちで、おそらく最も浪漫的であり、最も「美的」な世代であったのではなかろうか。」



「蝙蝠の詩」より:

「大正十年か、十一年、いずれにしても關東大震災より以前のことであるが、當時、中學生であった私は、冬の或るよく晴れた日に、二歳年うえの兄とふたりで、鎌倉の山道を歩いていた。鎌倉の山には、所どころ、その崖に穿たれている、「やぐら」と言われている方形の洞穴があるが、これは鎌倉時代から足利時代へかけての武士の墓窟であって、鎌倉及びその周邊の地帶にだけ見出されるものである。ところでその日、私たちが歩いていた山道に沿っても、いくつかのそうした「やぐら」があったが、そのうちの一つの大きな「やぐら」を覗いてみると、その天井になにか奇妙な恰好をしたものが二つぶら下っていた。何だろうと思って、私たちがそのうす暗い「やぐら」の中に入って、眼をこらして見たところ、それは二匹の蝙蝠が天井にさかさまにぶら下っているのであった。蝙蝠としてはそこで冬眠をしていたのかもしれない。けれども私たちがそれを捕(つか)まえようとしたとき、眼を覺ました蝙蝠はその「やぐら」の中をあちこち飛び廻って、なかなか捕まらない。なにしろそれは、兩手をさしのべてもその天井にとどかないほど大きくて、廣い「やぐら」であったので、私たちはいろいろ骨を折った末(すえ)に、やっと一匹の蝙蝠を捕まえることができたのであった。そして私たちはその蝙蝠を逃さないようにして家へ持って歸ると、家人に知られないように、そっと私たちの部屋に放った。というのは、この六疊ばかりの部屋は四方が壁になっていて、廊下に出る戸口を閉めて置きさえすれば、蝙蝠が逃げだす隙間はどこにもなかったからである。事實、蝙蝠はその部屋に放たれると、いきなりひらひらと舞い上って、天井の一角にぶらりと、さかさまにぶら下ったまま、じっとしていた。そのうち、私たちはほかのことに紛れて、その蝙蝠のこともすっかり忘れてしまっていたが、夜中になって、その部屋に蒲團を敷いて寢ていると、やがてなにか私の顏を掠めていったものがある。しかし、私は眠いので、なんだろうと思いながら、うとうとしていると、また、こんどはさっきと反對の方角から、なにかがひらひらと舞い下りてきて、私の顏を掠めんばかりにして、もとの天井の一角へ飛び上っていったのだった。そのときやっと私はそれが蝙蝠であることに氣がついたが、起き上って、電燈をつけると、彼は天井の私たちの手のとどかない高いところにとまって動かない。やむを得ず、部屋を暗くして、蒲團のなかでうとうとしかけると、また、その蝙蝠が天井から羽音をたてながら舞い下りてきては、私の顏を掠めるようにして、反對側の天井の片隅へ飛び上ってゆくのであった。そのうちその間隔が次第に狹まってきて、しまいにはしきりなしに、その時計の振子の運動のような飛翔がくりかえしなされるようになってきた。もちろん、私はとても寢ていられないので、電燈を明(あか)あかとつけ、窓をあけはなって、その蝙蝠を外へ追いだそうとしたが、彼は巧みに身をかわして、なかなか出てゆこうとしない。そのうちに、その騷ぎに起き出してきた母に、私はあきれられたり、叱られたりしたが、最後にやっと、その蝙蝠は私がふりまわしていた箒木の先端(さき)をのがれて、開(あ)いていた窓から夜の闇のなかへ飛んでいったのだった……」


「菅茶山と賴山陽」より:

「あとに妹などが生まれますが、男の子は山陽一人であった。母親の梅颸に溺愛されたといいますけれど、山陽は幼い時から病身であって、いろんな病氣に罹った。
 現在、母の梅颸がつけた日記が殘っておりまして、その中に幼年のころから少年時代にかけての山陽の動靜や、健康状態が丹念に書きつけられている。それによってみますと、天明七年(一七八七)に久太郎、つまり山陽が癇症を現わしたと書いてある。これは引きつけを起したのでありましょう。それも、輕い程度ではあるけれども、腦膜炎だったのではないかと思われます。この引きつけを山陽は幼い時にたびたび起している。やがて寛政五年(一七九三)、十四歳になった時に鬱病が現われてきました。山陽は躁鬱病だったのですが、それが十四歳の時から現れてきた。
 梅颸の日記を見ますと、久太郎が何も物をいわない、一日中一言もいわない。そして、たまに氣が狂ったようになってしまうというようなことが時々書いてあります。梅颸はそれを非常に心配して醫者に賴んで、しきりに山陽にお灸をすえて貰ったりしている。それから、叔父の杏坪に賴んで、山陽を温泉場に連れていって、湯治をさせたりしていますが、どうも効き目がない。そして、寛政七年、山陽が十六歳になった時、病勢はさらに惡化したのであります。この時には母親の梅颸は精神的なショックを受けたとみえまして、その前後の日記が空白になっている。一方、父親の春水が漢文でごく簡潔につけた日記がありますが、その日記によると久太郎の宿痾が暴發したと書いてる。つまり、躁病の激しい發作が起ったのでありましょう。一家の者がうろたえたというようなことが書いてあります。
 その翌々年の寛政九年、山陽が十八歳になった時、山陽は叔父の杏坪につれられて、はるばる江戸に出てきます。そして當時の最高學府であった昌平黌に入學しました。これは氣分もまぎれて、山陽の躁鬱病がいくらか治るかもしれないという希望を、兩親や叔父の杏坪も持っていたのでありましょう。ところが、この時、山陽は江戸にわずか一年いただけで、すぐ廣島へ歸って來ます。」
「この江戸滯在の一年間に、山陽は何をしていたのか、どうも詳しいことが分りません。始めのころは昌平黌で勉強していたのに違いないのですが、やがてよく分らなくなる。おそらく、この間に躁病がまた暴發したのではないかと考えられます。それで叔父の杏坪がまた廣島に連れて歸った。」
「ところが廣島へ歸って來ても山陽の病氣はたいしてよくならない。そうこうしているうちに或る大きな事件が起りました。寛政十二年の九月、山陽が二十一歳になった年に、賴家の父祖の地である竹原において、春水の叔父に當る傳五郎という人が死亡しました。ちょうどそのころ、春水は江戸に出張していて、廣島にはいなかった。そこで梅颸は杏坪と相談して山陽を春水の名代として竹原に弔問に行かせました。下男を一人付けて行かせたのですが、その途中で、山陽は下男をまいてしまって、どこかへ逐電してしまったのです。下男がいくら探しても山陽が見當らない。すごすご廣島へ歸ってくる。廣島では大騷ぎになります。というのは山陽は侍の嫡男であった。その當時のきまりは、士分の嫡男が無屆けで安藝の國の外へ出たら、つまり脱藩したら、見つかり次第死刑です。斬首ということに決っている。だから、山陽が行方不明になったというので賴家では非常に困惑狼狽するわけです。」
「この時の山陽の逃亡は大きな事件でありましたから、後になっていろいろそれについての傳説のようなものが生まれました。(中略)そのうちに、たとえばこんな話があります。追手の人たちが、廣島縣の西條という所へ來ると、道端に賴家の定紋のついている上下を着た乞食が坐っている。不審に思ってその乞食に質したところ、山陽が乞食と衣服を交換して逃げて行ったのだという。さらに追手が姫路に至ると、近ごろ非常に學問のある乞食がやって來て、道端で昔の源平合戰などの講釋をしていたという噂が街にひろがっていた。さてこそ山陽に違いないと思って探すのですが、彼の行方はやはり一向に分らない。このようにいろんな傳説が殘っているのですが、もちろん、これは後世の作り話で、事實を語ったものではありません。實際は九月二十八日に、京都の福井新九郎という醫者の家に隱れているところを見つけられて、山陽はただちに廣島に連れ戻されたのであります。
 ところで、山陽はまぎれもなく脱藩したわけですから、普通ならば死刑に處せられるところです。しかし、父賴春水に對する淺野侯の信賴が厚かったということもあって、家老の差し金で山陽は氣違いになったという屆けが出されました。狂人ならば罰せられないわけであります。そして、山陽は座敷牢に入れられる。父春水の家で座敷牢に三年間入っていた。この間、同じ邸宅に住んでおりながら母の梅颸と會うことは許されなかったのです。ところが、不思議なことに、座敷牢に入っている間に、山陽の鬱病はほぼ治ってしまったのです。そして、この間に山陽は例の『日本外史』の初稿をほぼ全部書いてしまった。座敷牢の外へは一歩も出られませんから書物を讀んだり、文章を書いたりするほかには仕方がなかったと思われますが、とにかく鬱病が治って、しかも『日本外史』の初稿が出來上がったのであります。そして山陽は享和三年(一八〇三)になって座敷牢から出ることを許されました。しかし、山陽は氣が狂ったのだという屆けを出していますから、彼が賴家の跡を繼ぐということは許されない。そこで彼は廢嫡されることになります。そして春水は弟の春風の子供を自分の養子にしました。山陽は廢嫡されて、藩に仕える希望はもちろんない。父のもとにあって、一種の浪人生活のような暮らしをしながら憂鬱な日々を送っている。そこで腹いせといいますか、やけくそになったといいますか、やがて山陽は――そのころは鬱病はほぼ治っていたのですが――今度は遊蕩生活に耽るようになりました。廣島市内だの宮島だのの遊里へ入りびたって何日も家に歸らない。ここでちょっと話が前後しますが、そのころすでに山陽は結婚しておりました。同じ藝藩の醫者で御園道英という人の娘の淳子と結婚していたのですが、これは脱藩事件を起す少し前のことです。そして、脱藩事件があったのち、山陽が座敷牢に入っていた間に、この結婚は破談になりました。こういうような次第で當時、兩親たちは山陽の扱いに困っていましたが、ちょうどその時、一種の救いの手が菅茶山から伸ばされたのであります。」



「高濱虚子の俳句」より:

 「鎌倉や牡丹の根に蟹遊ぶ

 これは昭和二十五年の句であるが、鎌倉の海に近いあたりにある家の砂地の庭などでは、こうした光景がよく見られたものであった。この句を讀んで、なんとなく思い出されるのは、戰前、殊に昭和の初期の頃、滑川の河口近くに掛っている海岸橋(これは當時は木の橋だった)に立って、川を見下すと、その兩岸の石垣の隙間から、大小無數の蟹が絶えず出たり入ったりしていた光景である。だが、當時はここに限らず、蟹などは鎌倉の到る所にいたと言ってもよいが、その蟹もいまは稀れにしか見られなくなってしまった。

  颱風の名殘の驟雨あまたたび

 八月も下旬になって、颱風のシーズンが近づくと、避暑客で賑わっていた鎌倉も急にさびれて、

  降りつづき避暑も終りとなるばかり

 と甞て星野立子氏が詠んだような日々がつづくが、それはまた鎌倉の夏の終りを告げる風雨なのであった。」





こちらもご参照ください:

森林太郎 訳 『フアウスト』 (岩波文庫) 全二冊
内田百間 『王様の背中』 (旺文社文庫)













































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富士川英郎 『茶前酒後』

「坪井のコロボックル説は彼ひとりだけの説にとどまって、これを繼承する者は(中略)なかったが、(中略)このコロボックル説には坪井のロマンティックな夢がこめられていたと言ってよく、ひとつの學問がまだ若く、稚(おさな)いときに、往々にしてこのようなロマンティックな説が現れるのである。」
(富士川英郎 『茶前酒後』 より)


富士川英郎 
『茶前酒後』


小澤書店
平成元年12月20日 初版発行
179p
20.5×15.5cm
丸背布装上製本 貼函
定価2,884円(本体2,800円)



本書「あとがき」より:

「本書に收められた文章のうち、1から7までは、「新潮」に昭和六十年四月から隔月掲載され、8以下は、「ちくま」に昭和六十一年十二月から平成元年五月まで連載されたものである。茶前酒後の閑話であるが、その内容は讀書漫談、または書物隨筆とでも言うべきものだろう。」


旧字・新かな。
本書はもっていなかったのでヤフオクで1,840円(送料無料)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


富士川英郎 茶前酒後 01


帯文:

「老子「道德經」について、「唐詩選」について、また「千一夜物語」にまつわる話。東西の歴史と文學をめぐる氣儘な讀書隨想。新村出、三浦周行、喜田貞吉、中村直勝ら歴史家の著書の思い出は、著者の若き日の歴史學への憧れと現在にいたる關心の持續を物語る。」


帯背:

「讀書隨筆」


内容:

茶前酒後
 1~32

あとがき



富士川英郎 茶前酒後 02



◆本書より◆


「1」より:

「ところで、全部で八十一章から成っている『道德經』のうちに、たった一章だけ、その著者が自分のことを語ったと思われる次のような箇處がある。

  衆人は熙熙(きき)として
  太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く
  春 臺(うてな)に登れるが如し
  我獨り泊兮(はくけい)として 其れ未だ兆(ちょう)せざること
  嬰兒(えいじ)の未だ孩(がい)せざるが如し
  儽儽兮(るいるいけい)として歸する所無きが若(ごと)し
  衆人皆(みな)余(あま)り有り
  而(しこ)うして我は獨り遺(うしな)えるが若し
  我は愚人の心なる哉
  沌沌兮(とんとんけい)たり
  俗人は昭昭たり
  我は獨り昏(こん)なるが若し
  俗人は察察たり
  我は獨り悶悶たり
  澹兮(たんけい)として其れ海の若く
  飂兮(りゅうけい)として止(とど)まる無きが若し
  衆人皆以(もち)うる有り
  而うして我は獨り頑(がん)にして鄙(ひ)なるに似たり
  我は獨り人に異にして
  而うして母に食(やしな)わるることを貴(たっと)ぶ

 萩原朔太郎は嘗て「詩神」という雜誌(昭和四年十二月號)に「老書生」という短文を寄せて、そのなかで、「老子の道德經の中に、人は皆名利を思ひ、榮達富貴の功名を愛するけれども、《我レ獨リ人ト異リ、無爲ニシテ母ニ養ハレンコトヲ希ヒ願フ》といふ章があるが、三誦して涙を流し、しみじみ僕のことのやうに痛感する」と言ったことがある。朔太郎はここで老子の言葉を、おそらくうろ覺えのまま、勝手に自己流に變えてしまっているが、しかし、それが『道德經』の第二十章の右のような章句を讀んだ記憶から出ていることは間違いなかろう。
 思うに右の章句は、「道」を求めて孤獨であり、世俗の人々のなかにあって、ひとり異分子であった老子の、そうした境遇のなかでの嘆きを訴えたものなのだろう。そう解してみると、「衆人皆(みな)余(あま)り有り、而うして我は獨り遺(うしな)えるが若し」とか「我は愚人の心なる哉、沌沌兮(とんとんけい)たり」とか、「俗人は察察(さつさつ)(活發なこと)たり、我は獨り悶悶たり」というような言葉が、いかにも切々として、われわれの胸に迫ってくるように思われる。そしてこれがなんと『氷島』の詩人の嘆きと似ていることだろうか。」



「2」より:

「ところで、「谷神」は文字通り、「谷の神」であり、「玄牝」はすべての生命の母胎、萬物がそれから生まれでる母だろう。人類學者石田英一郎氏はその「桃太郎の母」という長い論文の末尾で、原始母神、つまり人類の始祖としての母神についての信仰が古代の漢民族にもあったらしいと言い、老子のこの「谷神不死」の章句にその痕跡を見ている。また、ドイツのシナ學者エルヴィン・ルッセールは「谷神」を die Gottheit des Quelltals (泉の谷の神)と言い、「玄牝」を die dunkle Tiergöttin (神秘な獸の女神)と譯しているが、これも太古の民族が信仰した、獸の姿をしている原始母神を思い浮かべてのことであったろう。」


「5」より:

「ヴィルヘルムの譯書『道德經』には《Das Buch des Alten vom Sinn und Leben》(道と人生についての老子の書)という副題がついている。ヴィルヘルムはこの書において、「道」(Tao)に Sinn という譯語をあてているが、これはゲーテのファウストが『新約聖書』のヨハネ傳を開いて、そこに「初めにロゴスありき」とある Logos を Sinn というドイツ語に譯したことに據っているのである。いったい、ヴィルヘルムはこの『道德經』を翻譯するにあたって、ゲーテ、殊にその『ファウスト』のなかのいろいろな言葉が頭のうちにあったらしく、右のほかにも、例えば、『道德經』第六章の冒頭の

  谷神(こくしん)は死せず、是れを玄牝(げんぴん)と謂う。

という言葉のうちの「玄牝」を、彼は das Ewig-Weibliche (永遠に女性的なるもの)と譯している。「玄牝」はすべての生命の母胎、萬物がそこから生まれでる母のことだろう。これに das Ewig-Weibliche という、ゲーテの『ファウスト』の最後の言葉をあてたのは、かなり大膽なことと言えるが、私が氷上英廣さんから聞いたところによれば、嘗て岩元禎氏はその舊制一高での講義において、逆にこの『ファウスト』の言葉を「玄牝」と譯したという。」
「因みにヴィルヘルム譯『道德經』の戰後に出た改訂版においては、「玄牝」は das dunkle Weib (神秘な女性)と譯されており、支那學者のエルヴィン・ルッセールはこれを die dunkle Tiergöttin (神秘な獸の女神)と譯している。」



「7」より:

「ヴィルヘルムその他による中國古典の翻譯がつぎつぎに現れたとき、それを眞劍にうけとめて、それらから強い影響をうけた詩人の膸一はヘッセであった。ヘッセはそのときの驚きや喜びを語って、次のように言っている。

  驚嘆すべき中國の古典があり、中國に特有の人間性や人間精神があって、それが私にとって好ましく、貴いものとなったばかりでなく、はるかそれ以上に、魂の隱れ家となり、第二の故郷となろうとは、私が三十歳を超えるまで、まったく豫想もしないことだった。だが、やがてそれまではリュッケルトが翻譯した『詩經』(Schi King)のほかには、中國の古典については何も知らなかった私が、リヒャルト・ヴィルヘルムその他の人たちの翻譯によって、それがなくてはもはや生きていけないものを知るという豫期しないことが起ったのであった。それは賢者と善人の中國的・道教的理想である。

 中國古代の思想家のうちで、ヘッセが最初に、そして最も傾倒したのは、老子であった。ヘッセは老子を中國最大の思想家であると言い、古代ギリシアの哲人たちや、佛陀や、キリストと肩を並ぶべき賢者であると言っているが、彼が老子や道教のうちに見出して、強い共感をもったのは、「戰鬪的」でなくて、「非戰鬪的」なもの、強者ではなく弱者、耐え忍ぶ者、靜かに冥想する者への志向であり、生の自然な流れと運命に身をゆだねる、その無爲自然の説であったろう。」
























































































富士川義之 『ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎』

「書斎から出て来ると、いつもうわの空で、しばらくぼんやりと庭をながめたりしている。そのうちはっとわれに返ったように、書斎から本を持ち出して来てあちこち拾い読みをしている。家族が何か話しかけても「うん」とか「ああ」とか「そうか」とか、ほとんど最低限の返事しかしない。視線はいつも読みかけの本にそそがれたままである。目の前にいるのにいないというか、存在感の薄い父親であった。」
(富士川義之 『ある文人学者の肖像』 より)


富士川義之 
『ある文人学者の肖像
― 評伝・富士川英郎』


新書館
2014年3月5日 第1刷発行
446p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,600円+税
装幀: SDR(新書館デザイン室)
装画: 三浦雅士



本書「あとがき」より:

「富士川英郎と言っても、今日、その名が広く知られているとはとうてい言えないだろう。」
「忘却の淵へと追いやられつつある、そんなドイツ文学者の評伝を、いま、なぜ書くのか。」
「富士川英郎は、五十代半ば頃まではリルケやホフマンスタールの研究や翻訳で知られたドイツ文学者である。だが、それ以後、江戸漢詩や日本医学史の研究に熱中し、九十三歳で他界するまでのおよそ三十数年間、その成果を次々に発表してその健筆ぶりが読書界で注目された文人学者である。専門家が重視される現在では、ほとんど絶滅危惧種と見なされてまともに相手にされることも少ない、そんな反時代的な滅びゆく「文人学者」のひとりである。そうした現代の風潮に逆らって、わたしは、そもそも「文人学者」とはどのような存在であったのか、ということを、このドイツ文学者の生涯と著作に可能な限り寄り添いながら、掘り下げてみたいと思い立った。わたしがそう思い立った理由には、馬齢を重ねるにつれて、消え去りゆくものやその美しさに対する愛惜の念が次第につのって来ているせいもたぶんあるだろう。これが本書執筆にあたっての、わたしの根本動機である。
 富士川英郎は、専門知を追いかけることのみに関わりがちな現代にはめったに見られぬ、自由闊達で、おおらかで、いかにもゆとりのある文学研究を、その長い生涯を通じてまことに見事に実践してみせている。わたしは近年、そのような文人学者としての富士川英郎に、また自分の好みを頑固なまでに貫き通したその潔い生き方に、以前にも増して少なからず共感を覚え強い興味を持つようになった。そうした心の動きに従って、その生涯と著作を読み解くことを試みたのが、この評伝である。
 富士川英郎はわたしの父である。」
「本書の最初の四章は、新書館より出ていた雑誌「大航海」第六十八号(二〇〇八年十月)から第七十一号(二〇〇九年七月)まで最初連載され、それに大幅な加筆修正を施したものである。そのあとの章はすべて「大航海」終刊後に新たに書き下ろしたものである。」



年譜と著書目録は二段組。巻頭に写真図版「晩年の富士川英郎」。
本書はヤフオクで1,627円(送料込)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


富士川義之 ある文人学者の肖像 01


帯文:

「美しく豊かな老年を過ごす!
『リルケ』『江戸後期の詩人たち』『菅茶山』などの名著で知られる文人学者・富士川英郎の一生
時代とともに描き出される、游、英郎、義之と続く学者三代の系譜」



帯裏:

「晩年に執筆された数多い回想の文章を読んでいると、老いることは哀しく、寂しいだけなどといったよく見かける悲観的な見方は少しも見出せない。それどころか、老いを生かすことは素晴らしいことだとする、一種の幸福感が随所から立ち昇って来るような趣さえ感じられる。やぐらへの熱中にしても、学問的熱意もさることながら、その根底には、記憶のなかの映像に向かってひらかれた、少年のように純真でみずみずしい感受性が生き生きと脈動していることがはっきりと感じられるのである。わたしはそのような回想の文章を読むのが好きである。
――本文より」



目次:

1 プロローグ 華やぎのある孤独
2 回想のなかの大正時代
3 詩的人間の誕生
4 リルケの方へ
5 昭和十年代
6 リルケ・ブームのなかで
7 昭和三十年代
8 『伊沢蘭軒』をめぐって
9 江戸後期の詩人たち
10 菅茶山の方へ
11 富士川游のこと
12 『儒者の随筆』
13 『茶前酒後』
14 『失われたファウナ』
15 父とわたし
16 晩年の父の記

あとがき

富士川英郎 年譜
富士川英郎 著書目録



富士川義之 ある文人学者の肖像 02



◆本書より◆


「プロローグ 華やぎのある孤独」より:

「父が戦後はじめて西村孝次と対面した場面である。」
「西村さんは緊張しているのかいつもほど口数が多くなく、父のほうはもっと寡黙で会話はあまりなめらかに進まない。(中略)少しは活気が出て来たのは、わたしが吉田健一を話題に持ち出してからである。」
「吉田健一は鼻っ柱が強く、議論をしても絶対に譲らない頑固さがあった。(中略)それに第一海外生活が長く、話し方や動作にどこか日本人離れしたぎこちないところがあって、時々面喰らうこともあった。西村さんの長女が生後数ヵ月で病死したとき、わざわざ通夜に来てくれてその友達思いには感激したが、通夜の席で彼の箸の使い方をじっと見ていた家主のおかみさんに、「西村さん、あの人、日本人なの」と訊かれたという。箸の使い方ひとつにしてもどう見ても日本人らしくない、ぎこちないところが目についた。また、勝手気ままに振舞ってもいて、とくにけたたましい彼の高笑いを嫌がる人もいた。しかしそれを一生貫き通したのが彼の偉いところではないかな。あのくにゃくにゃした軟体動物みたいな彼の文体はその最たるものだ。(中略)ともかくこんな男はいままで見たことがない、というのが、当時の実感だった。」
「ノートをもとに西村さんの話の概要を再現してみた。父もはじめて耳にする話が多かったらしく、時おり相づちを打ちながらじっと聴いていたが、(中略)「しかし吉田君は孤独だったのじゃないかな」とぽつりと言った。」

「振り返ってみると、父は若い頃から敢えて孤独の道を歩むことを選んでいたふしがある。
 たとえば一例を挙げると、ドイツ文学者でありながら、ドイツ文学会にはいつも欠席していた。(中略)つまりごく少数の身近なドイツ文学者以外とは、ほとんど交流というものがなかったのだ。特定の人を除いて英文学者とは全く疎遠だった吉田健一の場合と似ている。」



「回想のなかの大正時代」より:

「游とともに、鴎外は父の生涯にとってある意味でつねに導師としての役割を果たしていた。鴎外を読むことを通じて、のちにリルケや菅茶山などに深く傾倒してゆくいわば最初のきっかけを与えられたのである。それだけではない。仕事には並外れて勤勉であり、黙々として日々の勤めを果たし、読書のほかには散歩をほとんど唯一の趣味とし、栄誉や金銭などはあまり眼中になく、自分の関心事以外には、何事に対してであれ、傍観者的であるという人生態度を身につけていた点で、鴎外の生き方から少なからぬ示唆を受けていたのではなかろうか。」


「詩的人間の誕生」より:

「その当時、ときどき父とぶつかっていた母が、父のことをいつも「エゴイスト」と言って責めていたことを思い出す。」

「ところで詩的人間をめぐって、先に引いた『ナボコフ自伝』(中略)に、この作家が次のように述べていることに目がとまる。

   人間の精神がどのようにして誕生したかという謎にたいして、それは他の部分の成長を不埒に停止させたからだと、のらくらなにもしないで暮したからだと、考えるとまたなかなか楽しいではないか(学問研究といっても、所詮は楽しみを与えるだけのものなのだ)。そういう生活はまず詩的人間(ホモ・ポエティクス)の誕生を可能にする――そして詩的人間が誕生しなければ、知的人間(ホモ・サピエンス)も生まれなかったはずなのだ。「生存競争」の結果だなどと、馬鹿馬鹿しい! 闘争やあくせくした生活は人間を豚に戻すだけなのだ。」



「昭和十年代」より:

「このように、対比的存在とされるリルケとホフマンスタールの両方に父は強く惹かれていたのである。敢えて言えば、ドイツ文学のなかで、父がもっぱら熱心な研究対象とし、翻訳を手がけたのは、この二人だけであって、ゲーテにもヘルダーリンにもゲオルゲにもあまり深入りした形跡は見当たらない。これはと思うごく少数の対象にしっかりと的をしぼり、深入りしていくというのが、父の研究態度の基本であった。ドイツ文学の森のなかに入って行って、広く浅く研究対象をあちこちに拡大していくのはどうも性分ではなかったようだ。それに基本的には、父にも「ドイツ」が存在していなかったのではないかとも思われる。何度か強くすすめられながらも、一度もドイツやオーストリアを訪れることがなかったところに、ドイツ文学との関わりにおける父のユニークな姿勢がうかがえると言ってよいかもしれない。」


「リルケ・ブームのなかで」より:

「その後の現象としてはっきりしていることは、リルケは、同じくドイツ語圏の辺境都市プラハの出身者であるカフカに取って代わられたということである。リルケ研究者の多くは、一九三〇年代から一九五〇年代にかけて詩の聖人とも言うべきリルケ像が形成されていたことを指摘する。そうした神格化されたリルケ像の反動として、別のリルケ像が戦後になって徐々に形成されて来たという。」
「このようなリルケの女性関係の細部が次々と明らかになってゆくにつれて、数知れず関係を持ち、ほとんどつねに女性たちに依存し寄食しないではいられぬこの詩人の生き方がしばしば疑惑と反感を呼び寄せることとなる。「これはひどい女たらしであり、人間関係の偽善者と見えてしまうことは避けられない」(高橋英夫)と見なされたのである。こうして「手を洗っているときでも詩人だ」といった従来の純粋詩人像が崩れはじめ、リルケ・ブームの退潮の主因のひとつとなっていく。高橋氏はこう書き添えている。

   私はなぜか、そんなネガティヴなリルケのイメージがひたひたと自分を取り巻くように思ったときでも、詩人に対する反感や嫌悪をさして覚えはしなかった。こんな底知れぬ言語表現を達成した人間なら、実体は女たらしかもしれない、偽善者かもしれない。それは当然ではないのか。たぶんそんな気持だっただろう。(中略)(「伐り倒されたポプラ」)」

「リルケが一九一三年二月に書いた有名な「体験」という短いエッセイがある。」
「そのエッセイで彼は、イタリアの「ドゥイノの館」の海までかなり急な下り坂になってつづいている庭園のなかで出会った不思議な出来事について語っている。ある日、その庭園を散歩していた彼がふと一本の「灌木風の樹のほぼ人間の肩ほどの高さの叉(また)に身をもたらせかけて」、しばらくそのままの姿勢をして立っていると、「まるでその樹の内側から、ほとんどそれと認められないような震動が彼の体内へ伝わってくるような感じ」がしたのだった。そして彼がそのますます体内へ入ってくる震動に身をまかせていると、やがてまるで夢のなかにでもいるように、現在の「時」の外にある世界、いわば「自然の裏側」へと出てしまう。そして周囲の現実が一定の距離に遠ざかってゆくとともに、彼自身はまるで「永遠の現在」のなかに立っているような気がしたという。
 このときリルケは「開かれた世界」の存在を直観的、感覚的に把握し、それとの一体感のうちに生きたのである。このような状態を彼は純粋な「生の顕現」と呼ぶ。」
「「第七の悲歌」註解で、富士川英郎はわれわれ普通の人間にもそうした「生の顕現」の瞬間が稀には訪れることがあると言うのだ。

   だが、その英雄ならぬわれわれにもまた、自分自身や宇宙と一体となることのできる瞬間が、たとえ稀れであるにしても、与えられることがあるのではなかろうか。もちろん、それは詩人が最初の五篇の悲歌のなかでしばしば嘆いてきたように、われわれが人間本位に解釈した世界のなかにとどまって、絶えず「死への恐怖」にかられながら、それをごまかして生きようとしている間は駄目である。しかし、われわれが我を忘れ、すべてを放棄して、心の憧れに身をゆだねるようなとき、或は自然や物のなかに自分をまったく没入することができるようなとき、そんな瞬間には、われわれのなかにも純粋な「生の顕現」が見られるのではあるまいか。

 ここでもまたわれわれが自己中心主義、人間本位の世界から脱却して無私や無心の心境になることの重要性が示唆されている。そうした無私や無心の状態を先天的に達成している存在として、リルケは幼児や動物をたびたび引き合いに出している。無心な幼児や動物は、死の意識によっておびやかされていない、「開かれた世界」に住む無意識的存在であると見えるからだ。富士川英郎に関して言えば、(中略)幼児はむろんのこと、とりわけ動物への偏愛を示す場面を目にする機会は日常生活で少なくなかった。とりわけ猫好きで、一時は七匹も飼っていたほどである。」
「「樹木の詩」というエッセイで、日夏耿之介の「血」(『転身の頌』所収)と題した詩について語りながら、その詩のなかで、一本の百日紅の老樹のもとに佇んで、高い空にとどろきわたる深紅の血潮が詩人の体内に流れ入るのを感じた瞬時の体験を、リルケの不思議な「体験」と似たようなものではないかと述べている。そして「もっとも、大きな老樹のもとに立って一種異様な感じを持った経験は誰にでもあることだろう。筆者なども少年の頃、当時鎌倉の源氏山の頂上に高く聳えていた一本の巨大な松の木の下に立ち、その二抱(ふたかか)えもあるような太くて、たくましい幹がまるで鱗を逆立てた竜のように、うねりくねって、天へ向かって昇ってゆくのを見上げたとき、そしてあたりは風のない静かな春の日であったのに、その眼には見えない、はるかな高い梢のなかで絶えず鳴りひびいている松籟に耳をすませたとき、そのまま何か夢の世界にでも引き込まれたような気がして、しばらくそこに茫然と立ちつくしていたことがあるが、耿之介の詩やリルケのエッセイ、殊に後者を読んでいると、あの少年時の不思議な体験がまた記憶のなかによみがえってくることがしばしばあるのである」。」
「『猫町』をめぐって」は、短文ながら、英郎の異空間、異次元嗜好を感じさせる面白いエッセイである。」
「萩原朔太郎のこの『猫町』をめぐり、(中略)江戸川乱歩が(中略)、この小説に似た猫に関する怪奇譚として、イギリスの怪奇作家アルジャノン・ブラックウッドの「古き魔術」という中篇小説を挙げたことがある。
 フランスを旅行中のあるイギリス人が、とある田舎町で汽車から下りると、そこは古めかしい塔などのある静かな町である。彼は一軒の宿屋に泊るが、この宿の女主人は無口な大柄の女で、いつもホールの椅子に腰かけて、あたりを監視している。
 ある月の明るい晩に宿に帰って来ると、薄暗いホールに巨大な猫が横たわっていた。男を見た猫はさっと立ち上がるが、見ればそれは大柄な宿の女主人であった。そのあと、宿のまわりが騒がしくなって来たので見ると、中庭に猫の群れが集まっている。この猫の大群は町はずれの谷間に向かって移動してゆき、月夜の大通りは、猫の群れでいっぱいで、さらに谷間まであとを追うと、そこでは町中の人びとが集って狂喜乱舞しているが、それらの人々の顔はことごとく猫の顔であった。そしてその中心にいる女王こそは、あの宿の女主人である巨大な猫なのであった。
 この奇譚の作者ブラックウッドは、一九一二年三月に、イタリアのヴェニスで、リルケと知己の間柄となる。(中略)リルケはこの怪奇作家の頼もしい人柄が気に入り、彼の著書も少しは読んでいたらしい。直接の影響関係はないのかもしれないが、リルケが「体験」という短い散文を書いて、「自然の裏側」に立って、現実の事物を「まるで肩越しに振返って見る」ような不思議な体験に襲われたことを書き記すのは、ブラックウッドと出会ってからほぼ一年後の一九一三年二月のことであった。このように「猫町」の主人公も、「古き魔術」の語り手も、リルケも、いわば「第四次元の世界」を垣間見たのではないかとするエッセイである。」



「『茶前酒後』」より:

「このような朔太郎の「谷神不死」を読んでいるときに、わたしは、朔太郎経由とはいえ、英郎がなぜ老子に惹かれるのか、その理由が幾らかでもつかめたように思った。」
「朔太郎の「谷神不死」の世界に惹かれたからこそ、すでに述べたリルケの『ドゥイノの悲歌』における、純粋な「生の顕現」の場としての「開かれた世界」に対して鋭敏に反応することができたのだと思われるし、同じくリルケのエッセイ「体験」で語られている、自分自身が現在の「時」の外にある世界、つまりまるで「永遠の現在」のなかに立っているような瞬時の幻想に対して、ほとんどわが事のように共感する能力を持つことができたのではなかろうか。考えてみると、「開かれた世界」といい、「永遠の現在」といい、これらはある意味で本質的には老子的な無為自然の理想郷にかなり近いものではあるまいか。その意味で、英郎にとっては、朔太郎もリルケも、あるいは菅茶山でさえも、究極的には、老子的な無為自然の理想郷に憧れ、それを強く希求する人間として肌に感じる存在であったのではないかと、少なくともわたしには思われる。これらの詩人たちについての英郎の根本的理解が、彼の人間的資質に由来するのではないかと見えるのは、おそらくそのためでもあろう。言いかえれば、(中略)富士川英郎は、実際は詩を書かないけれども、紛れもなく詩的人間であったということである。」



「晩年の父の記」より:

「一九九〇年代初め頃であったが、(中略)作家・小島信夫氏とある会でお会いしたときに、父について言われた短い話がいまも印象深く記憶に残っている。そのとき小島氏は「このあいだ芸術院でお父さんに久しぶりにお目にかかって、二人だけで一時間ほどお喋りしました。お父さんがいつまでも少年のような純真さを保っておられることに感心しました。やぐらとか、富士川游や萩原朔太郎などについてとうとうとお話しになるのにすっかり圧倒されてしまいましてね」と言われたのであった。」

「ともかく、晩年の父には、けっして運命にあらがわず、あるがままを素直に受け入れるというところがあった。過去の自分を肯定的に受け入れるだけでなく、つねに現在の自分を愛し、認め、許そうとする心の動きが折にふれて感じられた。過去の「喜びの記憶」と積極的に関わり、それをいま生きる自分の拠りどころにするという素質を天性のように備えてもいた。(中略)思えば、晩年の父は自分の内なる自然の欲するがままに生きていたのである。そうやってつまらない狭小な自我へのこだわりや束縛を振り切り、一種の自己解放を成し遂げていたのではなかろうか。そういう平静な心的状態を、好んで「自然の流れのままに生きている」と表現していたのではないのか。わたしにはそのように思えてならないのである。これは父の死後、わたしが父から教わった最も大切な生き方の指針である。」





こちらもご参照ください:

A・ブラックウッド 『ブラックウッド傑作集』 紀田順一郎 訳 (創元推理文庫)
小海永二 『ガルシーア・ロルカ評伝』 (原点叢書)
萩原朔太郎 『猫町 他十七篇』 (岩波文庫)
Norton N. Cohen 『Lewis Carroll: A Biography』
富士川義之 『ある唯美主義者の肖像 ― ウォルター・ペイターの世界』




























































































































富士川英郎 『菅茶山』 全二冊

富士川英郎 
『菅茶山』


福武書店
1990年5月10日 第1刷印刷
1990年5月15日 第1刷発行
上: 556p 口絵(モノクロ)4p
下: 539p 「あとがき」1p 「人名索引」27p
A5判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価8,500円(本体8,252円)



本書「あとがき」より:

「この『菅茶山』は雑誌「海燕」の昭和五十九年五月號以降、隔月に、平成六年十月號まで三十二囘にわたって連載された。それは第一章から第百二十二章までであるが、第百二十三章以下は本書においてはじめて印刷に附されたのである。」


上・下二冊が一つの函に入っています。
正字・新かな。上巻に口絵図版6点。本体は色違いのクロスの継表紙です。


富士川英郎 菅茶山


函文:

「江戸文化の爛熟した時代を代表する文人の生涯を、情と景とが調和した清新な詩文や晩年に至るまでの日記を基に、綿密に辿った畢生の大作!」



◆本書より◆


下巻より:

「神邊へ來たのは、もともと彼の意志ではなく、彼は不本意ながら、やむを得ず此處に來たのであるという山陽の言葉は、その僞らざる告白であったとしても、茶山にとっては不快に感ぜられたことに違いない。」
「廉塾を山陽に繼がせて、自分は悠々自適の餘生を送るつもりであった茶山にとっては、山陽が京都へ高飛びすることは、もとより不快な、腹だたしいことであったに相違ない。しかし、山陽のその意志が意外に強固で、他人の言に少しも耳をかそうとしないのを見ては、結局、その思いのままに任すよりほかに仕方はなかったものと思われる。
 山陽がいよいよ神邊を立って京都へ向ったのは、前にも述べた通り、文化八年閏二月六日のことであった。この日は生憎雨がふったらしいが、山陽は廉塾の塾生だった三省という者を伴って出立し、それを藤井暮庵をはじめとする二、三の人たちが平野堂まで送っていったらしい。そして茶山はこの別れに際して、「子成將東行」という次のような七絶を賦して、これを山陽に贈ったのであった。

 僻處偏悲歳月移 僻處(へきしょ) 偏(ひと)えに悲む 歳月の移るを
 擔簦千里訪親知 擔簦(たんとう) 千里 親知を訪わんとす
 由來上國饒才子 由來 上國は才子饒(おお)し
 誰伴樊川作水嬉 誰か樊川(はんせん)に伴うて 水嬉(すいき)を作(な)さん

 「擔簦」は「さしがさを荷う」ことから轉じて、「遊學すること」を意味し、「水嬉」は「舟遊び」である。「樊川」は晩唐の詩人杜牧の號であるが、この「靑樓薄倖の詩人」と言われた杜牧に、茶山は當時の山陽を擬したのであった。右の轉結の二句は、もともと上方には才子が多くいるが、そのうちの誰が山陽と伴って舟遊びをするだろうか、というほどの意味だろう。茶山のこの七絶には、山陽に對する輕い揶揄の氣持がただよっているように思われる。」

「棲碧がその夜具の下に屑籠をしのばせて、自分がまだ寢ているように見せかけ、廉塾からどこともしれず出奔したというのは、滑稽な話であるが、その理由は、茶山も認めているように、廉塾での生活が棲碧にとって退屈であったからなのだろう。これが文化八年のことであったとすれば、その少し前、閏二月六日に山陽が京都へ向って高飛びをしており、その頃、廉塾はまことに多事多難であったと言ってもよい。
 神邊を出奔した棲碧は、その後どこを流浪していたのか、ほぼ一ヶ年たったのち、彼はまた忽然と廉塾に現われ、佐々木大次なる者を介して、茶山に陳謝したという。」
「菊池五山の『五山詩話』卷九のなかに、棲碧のことがかなり詳しく述べられており、二、三の面白い逸話も紹介されているが、その一つに次のような話がある。
 「棲碧、懶にして事に耐えず、蒙被して句を索め、或は終日起たず。蓋し詩淫なり。聞く、棲碧、家に在りて、一夕、吟じ苦む。妻、謂いて曰く、呻吟、聲を促せる、何を苦んで此(かく)の如くなる、殆んど我曹が免身(ぶんしん)の時に似たりと。棲碧、答えて曰く、卿が曹の免身、腹に自ら物有り。我が腹中、空洞にして一物も無し。而るに強いて奇を出さんことを要す。苦も亦た勝(まさ)らずやと。此れ一時の諧謔と雖も其の人の天眞爛漫、亦た想い見る可し矣」(もと漢文)。
 詩作の際に、聲を張りあげて苦吟している棲碧を見たその妻が怪しんで、「なにをそんなに苦しんでいるか、まるで、わたしなどがお産をするときのようだ」と言ったところ、棲碧は、「お前さんなどがお産をするときは、お腹(なか)に物があるのだが、俺の場合は腹中になにもないのに、強いて産みだそうとするのだから、もっと苦しいのだ」と答えたという。
 この棲碧が或る年、江戸へ向って木曾路を旅したとき、道に迷って、山中の山賊の家で一夜をあかし、翌朝、その家を去るにあたって、

 投宿山中三戸村 投宿す 山中の三戸村
 綠林豪客夜相親 綠林の豪客と夜相い親しむ
 披襟同語君休怪 襟を披らきて同じく語る 君怪しむことを休(や)めよ
 我亦陳編剽竊人 我も亦た陳編剽竊(ひょうせつ)の人

という七絶を壁間に題していったという話も、よく知られている挿話であるが、「綠林の豪客」は盗賊、「陳編」は古書である。」









































































































富士川英郎 『詩の双生児 朔太郎と犀星』

富士川英郎 
『詩の雙生兒 
朔太郎と犀星』


小澤書店 
昭和60年9月20日 初版発行
252p 20×16cm 
丸背布装上製本 カバー 
定価3,000円



萩原朔太郎と室生犀星の各詩集から、それぞれ人口に膾炙した詩や、著者が愛唱する詩を数篇ずつ引用しながら、詩集刊行の背景・詩壇の反応・当時の批評などについて、著者自身の評言や思い出を交えつつ語られています。

本文中モノクロ図版(書影)21点。

なお、『萩原朔太郎雑誌』には、朔太郎と犀星の関係について「詩の双生児」という観点から論じた文章が収録されています。また、『黒い風琴』は、著者の鍾愛する訳詩集を対象とした、本書の姉妹編ともいえる内容になっています。


富士川英郎 詩の双生児 01


帯文:

「萩原朔太郎「月に吠える」「靑猫」「定本靑猫」「純情小曲集」「氷島」、室生犀星「愛の詩集」「忘春詩集」「故郷圖繪集」ほか、著者が若き日から愛讀する詩集をめぐって、詩について、時代について、出版の經緯、裝幀・挿繪について、思い出とともに語る、たのしくなつかしい詩集のはなし。」


帯背:

「萩原朔太郎と室生犀星――詩集のはなし」


帯裏:

「私は、むかし學生だった頃、朔太郎や犀星の詩集を、古本屋で手に入れたり、或は新刊書として出版されたのをその都度、ただちに買い求めたりして、これを耽讀した。そしてそれらの詩集はいまなお私の書架に立ち並んでいるが、私は、これらの詩集のことを語りたかったのである。……私は、それらの詩集を、それが出版された當時の雰圍氣のなかに具體的に置いてみたかったのである……。
(「あとがき」より)」



目次 (初出):


萩原朔太郎『月に吠える』
室生犀星『愛の詩集』
室生犀星『抒情小曲集』
室生犀星『忘春詩集』
萩原朔太郎『靑猫』
萩原朔太郎『定本靑猫』
室生犀星『高麗の花』
萩原朔太郎『純情小曲集』
室生犀星『故郷圖繪集』
萩原朔太郎『氷島』
(昭和58年2月より10回にわたって「詩集のはなし」として雑誌「海」に連載)


堀口大學『遠き薔薇』 (昭和57年5月 『堀口大學全集』月報3)
佐藤惣之助『華やかな散歩』と『季節の馬車』 (昭和60年2、3月 「かまくら春秋」)
黄瀛『瑞枝』 (昭和54年2月 「抒情文藝」)

あとがき



富士川英郎 詩の双生児 02



◆本書より◆


「あとがき」より:

「私はこれらの諸篇において、今更のように、萩原朔太郎や室生犀星の詩を論じようとしたのではない。私は、むかし學生だった頃、朔太郎や犀星の詩集を、古本屋で手に入れたり、或は新刊書として出版されたのをその都度、ただちに買い求めたりして、これを耽讀した。そしてそれらの詩集はいまなお私の書架に立ち並んでいるが、私は右の諸篇において、これらの詩集のことを語りたかったのである。つまりそのなかの詩とともに、それぞれの裝幀や挿繪について述べ、さらにそれ以上に、それらの詩集が編まれて、出版されるまでのいきさつや經過、それらの詩集が出版されたとき、その著者の友人たちや、當時の人々の間でそれがうけた評価。そしてまた、それらの詩集にまつわる私自身の思い出などを私は語りたかったのであった。いわば私はそれらの詩集を、それが出版された当時の雰囲氣のなかに具體的に置いてみたかったのであるが、その叙述に際して、朔太郎と犀星の詩集をそれぞれ一纏めにして述べるという普通のやり方をしないで、それらの詩集が出版された年月の順序に從って配列したのも、ひとつにはそんな意圖があったからにほかならない。
 朔太郎と犀星の友人としての強い、切っても切れない結びつきは、周知のところであるが、このふたりは詩人としても一種の雙生兒であったと言ってもよく、その詩風も、藝術觀や人生觀も、互いに對極的に相い反していながら、それにも拘らず、ふたりは同じ一つの根から生えて、地上で相い反する方向へ向かってのびていった詩人であった。そして彼ら自身、そのことを自覺していたらしく、その詩作に際しては、心の奧で、互いに相手をライヴァルとして絶えず意識していたようである。」



「萩原朔太郎『純情小曲集』」より:

「だが、當時、朔太郎の近くにいた人々のうちで、「郷土望景詩」を高く評價した者の筆頭には芥川龍之介が擧げられる。「郷土望景詩」を讀んで、感激した芥川が、寢卷姿のまま、朔太郎を訪ねてきたというエピソードは周知のところだが、そのときのありさまを朔太郎自身、その「芥川龍之介の死」という追憶記で次のように語っている。
 「或る日の朝、珍らしく早起きして床を片づけてゐる所へ、思ひがけなく芥川君が跳び込んできた。此處で「跳び込む」といふ語を使つたのは、眞にそれが文字通りであつたからだ。實際その朝、彼は疾風のやうに訪ねてきて、いきなり二階の梯子を驅け登つた。いつも、あれほど禮儀正しく、應接の家人と丁寧な挨拶をする芥川君が、この日に限つて取次の案内も待たず、いきなりづかづかと私の書齋に蹈み込んできた。
 自分はいささか不審に思つた。平常の紳士的な芥川君とは、全で態度がちがつてゐる。それに第一、こんなに早朝から人を訪ねてくるのは、芥川君として異例である。何事が起つたかと思つた。
 「床の中で、今、床の中で君の詩を讀んで來たのだ。」
 私の顏を見るとすぐ、挨拶もしない中に芥川君が話しかけた。それから氣がついて言ひわけした。
 「いや失敬、僕は寢卷をきてゐるんだ。」
 成程、見ると寢卷をきてゐる。それから面喰つてゐる私に對して、ずんずん次のやうなことを話し出した。この朝、彼はいつもの通り寢床に居て、枕元に積んである郵便物に目を通した。その中に詩話會から送つてくる「日本詩人」といふ詩の雜誌があつた。始めから一通り讀んで行く中に、私の「郷土望景詩」といふ小曲に來た。それは私の故郷の景物を歌つたもので、鬱憤と怨恨とにみちた感激調の數篇を寄せたものであつたが、彼がその詩を讀んで行く中に、やみがたい悲痛の感動が湧きあがつてきて、心緒の興奮を押(ママ)へることができなくなつた。そこで勃然として床を蹴り、一直線に私の所へ飛んで來たのだといふ。さう語つたあとで、顏も洗はず衣服も換へず、朝寢姿で訪ねたことの非禮を謝罪した」
 朔太郎の「郷土望景詩」が載った「日本詩人」は、その大正十四年六月號で、そこには「小出新道」「新前橋驛」「大渡橋」「公園の椅子」の四篇と、その解説の散文が載っていたのである。
 芥川龍之介はやがて昭和二年一月、雜誌「近代風景」に「萩原朔太郎君」というエッセイを載せた。そのなかで芥川は「郷土望景詩」について、
 「僕は『純情詩集』を讀んだ時、前橋(まへばし)の風物(ふうぶつ)を歌ひ上げた詩に沈痛と評したい印象を受けた。同時に又『月に吠える』『靑猫』等(とう)よりも萩原君の眞面目(しんめんもく)はここにあるかも知れないと云ふ印象を受けた。では萩原君の眞面目は何かと言へば、それは人天(じんてん)に叛逆する、一徹な詩的アナアキストである。」
 と注目すべき考察を述べ、さらにまた、朔太郎の作品に「完成」の極印を打たれるものが存外に少いことを指摘したのち、そのために却って朔太郎は「今日(こんにち)の詩人たちよりも恐らくは明日(みやうにち)の詩人たちに大きい影響を與へるであらう」と言い、そして最後に、「僕はいつか萩原君が故(こ)山村暮鳥(やまむらぼてう)君の『聖三稜玻璃(せいさんりようはり)』を讃(ほ)めてゐるのを讀んだ。が、僕に言はせれば、萩原朔太郎(はぎはらさくたらう)君自身こそ正(まさ)に『聖三稜玻璃』である。或は天上の神々が「詩」を造らうとした試驗管である」と興味深い結論を下しているのである。」







































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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