富士川英郎 『江戸後期の詩人たち』 (筑摩叢書)

富士川英郎 
『江戸後期の詩人たち』

筑摩叢書 208

筑摩書房 
1973年12月20日 初版第1刷発行
397p 索引XI 
口絵(モノクロ)2p 目次2p
四六判 並装(フランス表紙) 
ビニールカバー 
装幀: 原弘



本体に定価表記なし(たぶん1,400円)。
初版は昭和41年12月、麦書房刊。東洋文庫版(平凡社、2012年)も出ています。


富士川英郎 江戸後期の詩人たち 01


目次:

六如上人
混沌社の詩人たち――葛子琴・頼春水
菅茶山
頼春風と頼杏坪
江湖社の詩人たち――市川寛齋・柏木如亭・小島梅外・大窪詩佛・菊池五山
化政期の江戸詩壇
龜田鵬齋
岡本花亭
館柳灣
廣瀬淡窓
草場佩川
田能村竹田
梅辻春樵・貫名海屋・中島棕隠
篠崎小竹
頼山陽
齋藤拙堂
藤井竹外と森田節齋
佐藤一齋と安積艮齋
梁川星巖
閨秀詩人たち――緗桃女史・文姫・蘭香女史・少琴女史・原采蘋・江馬細香・紅蘭女史
廣瀬旭荘
村上佛山
菊池溪琴・大槻磐溪・齋藤竹堂
玉池吟社の詩人たち――梅癡上人・南園上人・竹内雲濤・遠山雲如・寺門静軒・大沼枕山・小野湖山・鈴木小塘・森春濤

あとがき
索引



富士川英郎 江戸後期の詩人たち 02



◆本書より◆


「あとがき」より:

「明治以前の日本人が作った詩歌には長歌や短歌があり、今様があり、また連歌や俳句などがあったが、そのほかに中国の言語や文字を使って、中国の詩の形式に従って作られた、いわゆる漢詩があったことを忘れてはならない。というのは、漢詩を作ったり、読んだりしたのは、いつもそれぞれの時代の知識階級の人々に限られていたけれども、歴史的には漢詩は近江朝(六六七-七二)の頃から明治時代の後期まで、連綿として千数百年間にわたって作られており、その起源の古いことにおいては短歌につぎ、日本文学のなかでの一つの重大なジャンルをなしているからである。
 ところで、この日本における千年にわたる漢詩の歴史をふりかえってみると、それは大まかに言って、三つの時代に分たれ、しかもその各々の時代にそれぞれ異った階級の人たちによって作られていたように思われる。その第一は主として平安朝時代の宮廷の官吏たちによって、第二は鎌倉から室町時代へかけて、五山の僧侶たちによって、そして第三は江戸時代の儒者たちによってである。(明治時代は暫く措く)。いま、右の第一と第二の場合についてはここで詳しく述べることはできないが、漢詩が一般にひろく普及し、これを作る詩人と、これを読む人たちの数がおびただしくあったという点では、なんといっても、第三の江戸時代、とりわけその後期にあたる安永・天明の頃から幕末に至る約百年間にまさる時期はなかったのである。この時期には、いわゆる三都における文化の爛熟、地方の各藩における文教事業の発展等を背景として、漢詩文が盛に行われ、おびただしい数の詩集が刊行されて、それを読んだり、自分でも折にふれて詩を作ったりする人々が、ほとんど全国の津々浦々に至るまで見出されたと言っても過言ではなかった。いわば漢詩文は、この時代に激増した知識階級の人々が彼らのその時どきの心情を託した文学になっていたのである。
 だが、明治以後、とりわけ昭和になってからは、右のような江戸時代の漢詩文がまったくと言ってもいいほど忘れられ、江戸時代の文学といえば専ら町人文学であり、また、俳句や和歌のほかに、同時代には詩がなかったかのように、一般に考えられてきたことは事実である。そして文学史においても江戸時代の漢詩文が顧られることは極めて稀れであった。もっともこのことは、一面において、それだけの必然の理由をもった現象であったのであり、従って今日それをいちがいに非難ばかりするのは当を得たことではないが、しかし、江戸時代、殊にその後期において、漢詩文があれだけ知識層の間にひろがって、作られたり、読まれたりしていた事実がまるでなかったかのように、抹殺されたり、無視されたりしてきたことには、やはり問題があったと言わなければならないだろう。
 本書はこの江戸後期、つまり安永・天明の頃から幕末に至る約百年間の漢詩文の変遷のごくあらましを記述したものである。」



「江湖社の詩人たち」より:

「柏木如亭(一七六三―一八一九)は名を昶、字を永日といって、宝暦十三年に神田参河町に生まれた。生粋の江戸っ子である。家は世々幕府の大工職を務め、従って生計もかなり豊かであったらしいが、幼いときに父を失った如亭は、早く家業を弟に譲ったのち、自分は薙髪して如亭山人と号し、詩画を売ってわずかに口を餬しながら諸国を放浪していた。その足跡は常に定まりがなかったが、最も信濃と新潟と京都を愛して、これらの土地にしばしば数年間にわたって滞在したばかりでなく、最後には京都の東山の麓において窮死したのである。頼山陽はその「如亭山人遺稿序」において、「嗚呼、山人(如亭)をして少しく節を折り、行いを飾らしめば、即ち軟輿に安座して、美しき衣食、好き妻妾、その嗜好するところ、致すべからざる無からん。何ぞ必ずしも霜雪に蹩躠(へつさつ)して、字を売りて活を為し、客土に窮死するに至らんや。然りといえども是その山人たる所以なり、かの河翁(市河寛斎)諸人、皆上游に拠り、王侯と交通して、声華意気、一時を傾くるに足る。而して山人は一落魄の羇人を以て、之と名を斉しくす。以てその才気を見るべし」(もと漢文)と言っているが、如亭はまさしく所謂「無用者」の系譜に属し、江戸時代における「呪われた詩人」の筆頭にあげらるべき詩人であったと言えよう。
 如亭の詩は江戸っ子らしい歯切れのいい表現と、颯爽たる才気にいろどられていながら、一方ではまた清純な感傷主義(センチメンタリズム)を発揮している。彼が晩年に及んで次第に宋詩より唐詩を重んずるようになったのも、その本来の資質によることと思われるが、いずれにせよ、彼は江湖社中の髄一の純情詩人であり、生れつきの抒情詩人であったのである。」

「晩年の如亭は絶えず貧乏に追われ、或は越後や信濃に、或は京都に、或は伊勢や吉備に、東征西行して浪々の日々を送り、心は常に故郷の江戸に走りながら、脚はそれに向わなかった。それは彼自身がその「遠行」という七絶で

  東生西活休何日   東生西活(とうせいせいかつ) 何(いず)れの日にか休(や)めん
  復向天涯與影雙   復(ま)た天涯に向って 影と雙(なら)ぶ
  堪笑飯籮驅我出   笑うに堪えたり 飯籮(はんら) 我を驅りて出(いだ)し
  少時不許臥幽窓   少時も許さず 幽窓に臥するを

 と歌っている通りの有様であったが、此間に彼が作った詩には、その持前の才気が適度に抑えられて、純一な情緒がよどみなく滲みでている、如亭生涯中の絶唱と言うべきものに乏しくないのである。嘗て彼自身が言ったように、まさしく「得意の詩は失意より来た」のであろうか。」



「広瀬淡窓」より:

「稗史怪談の類を好んだことは淡窓の趣味の一面であったらしく、その『遠思楼詩鈔』のなかにも、怪奇と凄愴の詩趣を追った作品が往々にして見い出されるのである。

  松痩石多苔   松痩せて 石に苔多し
  梵城何代開   梵城(ぼんじょう) 何代か聞く
  洞門雲不鎖   洞門 雲も鎖(とざ)さず
  山鬼夜深來   山鬼(さんき) 夜深くして来る

 これは「鬼城」という題の五絶であるが、梵城は言うまでもなく寺院で、ここでは何処か険しい山のうえの荒廃した寺をわれわれに思いださせる。」

「淡窓はまたしばしば不思議な夢を見た。

  身踞芙蓉頂   身は芙蓉の頂きに踞し
  天關手自開   天関(てんかん) て自(みずか)ら開く
  夢中知是夢   夢中に是れ夢と知り
  猶恐喚醒來   猶お恐る 喚び醒して来るを

という五絶はその一つを記したものであり、

  夢裏逢吾友   夢裏(むり) 吾が友に逢い
  相携花下迷   相い携えて 花下に迷う
  醒來見孤蝶   醒め来って 孤蝶を見る
  飛在小欄西   飛びて 小欄の西に在り

は美しい夢であるが、実際にはむしろ凶事を予告するような夢を淡窓は多く見たらしい。わけても先師亀井南冥の死とつながる夢は不吉な夢であった。文化十一年二月末、淡窓は一夜、地上に焼けた灰のようなものがうず高くつもっているのを何びとかが手で払いのけながら、「南冥先生この下にあり」と言ったという夢を見た。ところがそれからまもなくして、三月二日に、福岡の亀井家に火事があり、南冥は焼けおちた壁の下から死体となって発見されたのである。淡窓の夢は不思議にも正夢となって現われたのであった。しかも、このような例は他にもなお数回あったらしいが、さらに淡窓は夢の中で詩句を得たこともしばしばであったという。そして目覚めたのちにその夢中で得た句をもとにして五言乃至は七言の詩を作った例も二三にとどまらなかったらしい。」

「淡窓は温厚篤実な儒者であり、極めて謙譲なうちに、一世を籠罩(ろうとう)するほどの気概を蔵していたとはよく言われるところであるが、そのほかにその一生を病身ですごしたせいか、彼にはどことなく異常な、超自然的と言ってもいいような詩人的感性がそなわっていたように思われるのである。」







































スポンサーサイト

富士川英郎 『菅茶山』 (日本詩人選 30)

富士川英郎 『菅茶山』

日本詩人選 30
筑摩書房 昭和56年四月10日第1刷発行
261p 口絵(モノクロ図版)iv
四六判 丸背布装上製本 機械函 定価1,800円



著者には、菅茶山を主人公とする「史伝」として、本書の他に『菅茶山と頼山陽』(平凡社・東洋文庫、1971年)と、上・下二冊の大著『菅茶山』(福武書店、1990年)がある。


菅茶山1


「江戸後期の監視人のうち備後神辺に廉塾を営んだ菅茶山は、学芸の百花ひらく小春日和の時代を、儒者、詩人、文人、画人と交遊して愉しい生涯をおくった。温雅なその生活と詩を旅日記のかたちでつづる一巻。」


目次:

I
菅茶山

II
菅茶山と混沌社の人々
菅茶山と大原呑響
菅茶山の東遊

III
菅茶山と華岡青洲
廉塾
黄葉夕陽村舎

あとがき



菅茶山2


本書「あとがき」より:

「菅茶山が江戸時代における最も卓れた詩人のひとりであったことはいまでは周知のことと言ってもよいが、筆者がいつ頃からこの茶山を知り、どのように彼の作品に親しんできたかというようなことについては、本書の巻頭に収めた「菅茶山」という章のなかで述べた通りである。
筆者は久しい以前から茶山の詳細な伝記を書きたいと思って、その資料を集め、すでにニ、三の雑誌にその一部を執筆発表したりしたが、丸善の「学鐙」に昭和四十三年八月から二十八回にわたって連載され、のちに平凡社の「東洋文庫」の一冊として出た『菅茶山と頼山陽』(昭和四十六年)は、その最初のものである。これは茶山と山陽と、このふたりの文人の運命的な出会いからはじまるその個人的関係のあとを年次を追って詳細に辿ったものであったが、筆者はそれに引きつづいて、さらに「菅茶山の東遊」「菅茶山と混沌社の人々」「菅茶山と大原呑響」の三篇を執筆した。いずれも茶山の伝記の一節をなすものであるが、このうち、「菅茶山の東遊」は茶山が文化十一年五月に備後国神辺(かんなべ)を立って江戸に至り、翌年の二月末まで同地に滞在したのち、再び郷里へ帰っていった間の出来事や、彼の生活を、主として彼がその折りおりに作った詩を引用しながら述べたものであり、「菅茶山と混沌社の人々」は安永九年、大阪において茶山が葛子琴をはじめとする混沌社の詩人たちと詩酒徴逐(ちょうちく)した日々を、「菅茶山と大原呑響」は茶山と大原呑響との、主として寛政六年の京都における交遊のさまを語ったものである。以上の三篇はいずれも甞て雑誌「歴史と人物」に掲載されたが、このたび本書にそれらを収めるについては、その後に得た新しい資料を参照して、殊に「菅茶山の東遊」において、多くの補正を加えることができた。篇中に数多くの詩を引用し、時には簡単ながらその解説めいた文字も記して置いたから、それらによって茶山の詩のおもかげや特徴をほぼ窺い知ることができるだろう。
本書の第三部に収められた諸篇は、神辺の廉塾における主人や学童たちの生活を素描したものである。「菅茶山と華岡青洲」は雑誌「新医療」(昭和五十五年三月)に、「廉塾」は『玉川学園創立五十年記念論文集I』に、「黄葉夕陽村舎」は『江戸時代図誌・山陽道』(昭和五十一年)に載った。」








































































富士川英郎 『黒い風琴』

富士川英郎 『黒い風琴』

小澤書店 昭和59年4月20日発行
226p 19.5×15.5cm 角背バクラム装上製本 貼函 定価2,800円
正字・新かな



本書は明治から昭和初期にかけての、ややマイナーな訳詩集を対象とした評論集。
萩原朔太郎・室生犀星の主要詩集を対象とした『詩の双生児 朔太郎と犀星』の姉妹篇といえる内容。


黒い風琴1


帯文:
 
「「於母影」「海潮音」「月下の一群」など、近代詩の変遷に大きな役割をはたした名譯詩集のかげで、忘れられた、しかし愛すべき懐しい瀟洒な譯詩集への思い出をつづる。
生田春月「ハイネ詩集」、大山定一「ドイツ詩集」、平田禿木「近代英詩選」、堀辰雄「晩夏」、竹友藻風「希臘詞花抄」、西條八十「白孔雀」、矢野峰人「しるえっと」など……」



黒い風琴2


帯背:
 
「忘れられた譯詩集
なつかしい思い出
譯詩ものがたり」


帯裏は本書「あとがき」抜粋。


目次および初出:

生田春月編『泰西名詩名訳集』(「學鐙」昭和53年4月号)
生田春月の訳詩
生田長江の訳詩
茅野蕭々の訳詩
石川道雄の訳詩(「同時代」昭和56年9月号)
小松太郎訳『人生処方詩集』
大山定一訳『ドイツ詩抄』
堀辰雄の訳詩
平田禿木『近代英詩選』
竹友藻風『希臘詞花抄』
西條八十『白孔雀』
矢野峰人『しるえっと』
日夏耿之介『唐山感情集』
忘れ難い訳詩
(特記以外は昭和57年1月-12月、雑誌「海」に連載。)

あとがき



黒い風琴3


本書より:

「生田春月編『泰西名詩名訳集』は大正八年四月に越山堂という書店から出版された詞華集である。いつぞや河盛好蔵さんがこの詞華集をそのむかし愛読したと書いておられたが、河盛さんあたりから、下っては私などにいたる世代の多くの者にとって、この詞華集はいろいろななつかしい思い出のある詩集なのだと言えよう。
こんにちならばこの種の詞華集はたくさんあって、むしろその選択に迷うほどであるが、私が旧制中学の上級生になって、いろいろな詩集を読み漁っていた頃には、さまざまな訳者によって翻訳された西洋のさまざまな詩人の詩を一冊のうちに収めている詞華集は、この『泰西名詩名訳集』のほかにはなかったのである。」



本書「あとがき」より:

「森鴎外らの『於母影』をはじめとして、明治・大正から昭和の初期へかけて現われた、卓れた訳詩集が、その当時や、それ以後の、わが国の詩壇に強い影響を及ぼしたことは、いまさらここで事新しく述べるまでもないだろう。少し大まかな見方をすれば、島崎藤村以後、昭和の初期に至る日本の新しい詩の変遷は、「『於母影』とそれ以後」、「『海潮音』とそれ以後」、「『月下の一群』とそれ以後」というふうに、大きく三つの時期に分って、これを考えることができるのではなかろうか。
いずれにしても、翻訳文学がそこで重大な位置を占めていることは、他の国の文学史にその比を見ない、わが国の文学史、殊に詩の歴史の特徴であるということができるだろう。
先年亡くなった福永武彦氏の最後の著書『異邦の薫り』は、明治以後に現われた十三冊の重大な、卓れた訳詩集について語った好著である。そこには『於母影』をはじめとして、『海潮音』『珊瑚集』『月下の一群』等々、のちの詩人たちに大きな影響を及ぼしたばかりでなく、それ自体としても、卓れた、言わば訳詩の古典というべきものが採りあげられているが、これらの訳詩集は、わが国の訳詩について語るとき、誰しもがその名を挙げなければならないものなのである。
だが、これらの訳詩集のほかにも、なお多くの卓れた訳詩、好ましい訳詩、面白い訳詩があることは言うまでもない。福永氏がその『異邦の薫り』で採りあげた訳詩集は、いずれも言わばわが国の翻訳文学の銀座通りに、その軒をつらねている大厦高屋の群であるが、そのほかに裏通りのささやかで、瀟洒な店舗のような訳詩や訳詩集が、たくさんにとまでは言えないまでも、あちこちにかなり見出されることは否定できないところである。
本書は筆者が年来愛読しつづけ、嬉し、好ましと思ってきた、そのような訳詩、裏通りのささやかで、特色のある店舗のような訳詩について語ったものである。従って福永氏の『異邦の薫り』のなかに採りあげられている訳詩集 ――このほとんどすべては筆者もかねてから愛読しているものである―― には触れず、専らそれ以外の比較的に目立たない訳詩や訳詩集のことが、ここでは述べられている。」






































富士川英郎 『萩原朔太郎雑志』

富士川英郎 『萩原朔太郎雑志』

小澤書店 昭和54年9月15日第1刷発行
264p 19.5×15.5cm 丸背布装上製本 貼函 定価2,600円
装画: 川上澄生
正字・新かな



本書「あとがき」より:

「萩原朔太郎について折にふれて書いてきたエッセイや雑記の類を集めて、ここに一冊の本を編むことにした。」


萩原朔太郎雑志1


帯文:

「書き下し論考「萩原朔太郎と日夏耿之介」(160枚)をはじめポー、リルケ、鴎外、犀星らとの比較のなかに浮びあがる朔太郎詩の思想性。個人的な回想を交えた随想は、朔太郎の生きた大正・昭和の時代相を伝える。詩と学問の接点を追究する碩学が、積年の課題にこたえる決定版朔太郎論。」


帯背:

「朔太郎体験から詩の核心に迫る全論集」


帯裏:

「――詩人とは朔太郎にとって、もちろん彼自身を含めて、不可能を可能にしようとして苦闘している、一種のドン・キホーテ的な、悲劇的な存在なのでした。そしてそれに伴う一種の悲壮感は、ロマンティストとしての朔太郎が遠い実在に憧れて、到達し得ないイデアを希求する詩人であったことの悲壮感と微妙に重なりあっていたのであります。(「萩原朔太郎寸感」より)」


萩原朔太郎雑志2


目次(初出):

萩原朔太郎 (『書物と詩の世界』 玉川大学出版部 昭和53年2月)

I
萩原朔太郎寸感 (心 昭和54年4月/昭和53年5月14日「朔太郎忌」記念集会講演)
谷神不死 (ユリイカ 昭和47年4月/玉川大学出版部『西東詩話』に所収)
郷愁の詩人 (季節 昭和32年4月/『西東詩話』に所収)

II
萩原朔太郎とポー (無限 昭和44年3月/『西東詩話』に所収)
萩原朔太郎とリルケ (無限 昭和49年3月/『西東詩話』に所収)

III
森鴎外と萩原朔太郎 (ちくま 昭和52年4月)
萩原朔太郎と室生犀星 (ちくま 昭和49年3月)
萩原朔太郎と日夏耿之介 (未発表 昭和53年4月執筆)

IV
萩原朔太郎の手紙 (泉 昭和53年8月)
萩原朔太郎と鎌倉 (かまくら春秋 昭和53年6-9月)

V
「洋燈の下で」のことなど (筑摩書房『萩原朔太郎全集』第十巻「研究ノート」 昭和50年9月)

あとがき
初出一覧










































富士川英郎 『儒者の随筆』

富士川英郎 『儒者の随筆』

小澤書店 昭和58年8月20日初版発行
261p A5判 丸背布装上製本 貼函 定価3,500円
正字・新かな



本書「あとがき」より:

「本書は「儒者の随筆」と「短檠漫筆」の二部から成っている。
「儒者の随筆」は雑誌「新潮」の昭和四十九年八月号から翌五十年九月号まで、十四回にわたって連載された。江戸時代の儒者たちが漢文で書いた随筆や雑記のうちから、筆者がかねて興味を以て読んでいるものを十数冊選びだし、それを一般に紹介しようとして執筆したものである。特に漢文で書かれているものだけに限ったのは、それらの興趣の深い随筆が、漢文で書かれているというだけの理由で、こんにちではもはや読まれもせず、まったく忘れ去られていることを、筆者はかねがね遺憾に思っているからである。篇中、菊池五山の『五山堂詩話』についての一章は、嘗て筆者の前著『鴟鸺庵閑話』(筑摩書房)のなかにも収録したことがある。
「短檠漫筆」は雑誌「海」の昭和五十四年二月号から五十六年十二月号まで、三十三回にわたって連載されたが、このたびそれを本書に収めるに当って、さらに二項目を増補した。主として江戸時代の詩や詩人についての逸事や閑話を次第もなく書き綴ったもので、筆者の前著『鴟鸺庵閑話』と姉妹篇をなすものと言ってもよいが、なかに二三、この前著のなかのそれと重複する記事があることをお断りして置く。」



儒者の随筆1


帯文:

「江戸時代の儒者によって漢文で書かれた随筆十四篇を紹介する「儒者の随筆」、江戸期の詩や詩人の逸事を三十五回に亙って誌す「短檠漫筆」。豊かな学識に支えられた二つの随想は、楽しい語り口で読者を興趣つきぬ近世文芸の詞藻の園へと誘ふ。


帯背:

「近世文芸の詞藻の世界」


目次:

儒者の随筆
 林梅洞 『史館茗話』
 祇園南海 『湘雲瓚語』
 永富独嘯庵 『葆光秘録』
 西山拙斎 『間牕瑣言』
 頼春水 『在津紀事』
 尾藤二洲 『静寄余筆』
 菊池五山 『五山堂詩話』
 田能村竹田 『随縁沙弥語録』
 北條霞亭 『霞亭渉筆』
 西島蘭渓 『慎夏漫筆』
 長野豊山 『松陰快談』
 故賀侗庵 『侗庵筆記』
 東夢亭 『鉏雨亭随筆』
 中根香亭 『香亭雅談』

短檠漫筆
 鐘馗の詩
 花影満簾春昼永
蘭人短命の説
 凡山凡水
 肉食僧
 豚の詩
 富士山
 化政期の江戸
 儒者の言葉
 漢字の遊戯
 聯句
 対句
 咸宜園
 夢の詩
 徒然草
 餅搗きの詩
 漢文の書簡
 蘭館の詩
 外国詠史
 仏郎王歌
 那波列翁伝
 読那波列翁伝
 仏蘭王詞
 横槊深山看晩花
 依卜加得賛
 倫敦禽獣園
 上野動物園
 女学校
 汽車の詩
 読罪与罰
 蠅の詩
 蟻の詩
 蚯蚓の詩
 幽霊の詩
 百鬼夜行図

あとがき


















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本