大岡昇平  『ルイズ・ブルックスと「ルル」』

「私にはハリウッドの生活は夢魔でした。私は大ホテルで自分の部屋が見付けられない女みたいでした。私は逃げ出しました。それからいつも自分から逃げ続けています。もはや69歳、自分を再び見付けるのをあきらめています。私は何者でもなかったのです」
(ルイズ・ブルックス)


大岡昇平 
『ルイズ・ブルックスと「ルル」』
 

中央公論社 
昭和59年10月10日 印刷
昭和59年10月20日 発行
116p 
25.5×25.5cm 
丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円
デザイン: 田淵裕一



本書「おわりに」より:

「本文は私が1983年末文芸雑誌「海」1月号に載せた「あるアンチ・スター」と、その補遺として書かれた「ブルックスふたたび」(同誌3月号)を合せたものです。補足、訂正を一文としたため、もとのテクストにあった古い恋人探求のリズムが失われ、少し固苦しくなったのではないか、と心配です。その後得た情報をできる限り入れました。
 『ハリウッドのルル』のなかから、ルイズ自身の文章二篇を選んで翻訳し、出演映画のリストと執筆論文の書誌を作って下さった四方田犬彦氏に感謝しなければなりません。」
「ルイズのルルはトリックスターでもあり、スケープ・ゴートでもあった――それは終りのタナトス的死顔のクローズ・アップに極めて、パセティックに現われています。」
「私たちはフィルムセンター版(引用者注: 映画「パンドラの箱」)を、殆んどひとこまひとこまみて、四百枚の写真をとりました。その中から四方田氏と二人で選んだのが、この写真群です。私たちが改めて感心したのは、ルイズの表情変化が極めて多様で、多彩な魅力が含まれていることでした。(中略)私たちはこの喜びを読者と共にわかちたいので、写真はできるだけ多く収録しました。」



本文中図版(モノクロ)多数。


大岡昇平 ルイズブルックスとルル 01


帯文:

「殺人と少女
疾走する1920年代
アンチ・スターの運命
世紀のはざまにて
悪女の極北

悪女の系譜
少女悪の誕生
透明な誘惑

稀有の女優
ルイズ・ブルックスと
「ルル」伝説への
華麗な招待状

(幻の名画「パンドラの箱」
を再現させる写真300枚!)

LOUISE BROOKS」



大岡昇平 ルイズブルックスとルル 02


目次:

ルイズ・ブルックスと「ルル」 (大岡昇平)

ギッシュとガルボ (ルイズ・ブルックス/四方田犬彦 訳)
パプストとルル (ルイズ・ブルックス/四方田犬彦 訳)

Filmography & Bibliography

おわりに (大岡昇平/四方田犬彦)



大岡昇平 ルイズブルックスとルル 03


ルイズ・ブルックス(Louise Brooks) は1906年11月14日生、1985年(本書刊行の翌年)8月8日に逝去したアメリカのダンサー/映画女優です。1929年のヴァン・ダイン原作『カナリヤ殺人事件』、同年ドイツで撮影したパプストの『パンドラの箱』(原作はヴェデキント、ルルはその主人公の名前)および『淪落の女の日記』などに主演し、一躍人気女優となりましたが、その後まもなく映画界から引退。1950年代に再評価の兆しがみえはじめ、1972年には回想録『ハリウッドのルル(Lulu in Hollywood)』を出版、大岡昇平はその文才を高く買っていたようです。
本書を書くにあたって、著者は戦前の「キネマ旬報」から当時最新のジル・ドゥルーズの映画論まで参照しています。それも興味深いですが、「ルイズ・ブルックス」を中心として資料提供者として埴谷雄高、蓮実重彦、山口昌男、大江健三郎、筒井康隆といった人脈図が浮かび上がってくるあたりも興味深いです。

 
大岡昇平 ルイズブルックスとルル 04



◆本書より◆
 
「アイスナーは1929年にパプストが「淪落の女の日記」を撮っている現場を度々訪れて、記事を書いた(中略)。ルイズに英語で話しかけたが、はかばかしい返事が返って来ない。パプストに聞くと、もともと無口なのだという。彼女は撮影中、ブルックスの奇妙なカメラに対する受動性と「そこにいること」 présence の価値に気が付いた。
 1929年当時、彼女は書いた。
 「ルイズ・ブルックスは驚くべき首尾一貫(アンシスタンス)で存在する。彼女はこの二つの映画(「パンドラ」と「淪落の女」)で、謎のように無感動だ。これはほんとの大女優なのだろうか、それともただの娘ざかりというだけのことなのだろうか。その美しさにまどわされて、観客は彼女自身は知らない複合体を、彼女に付与するようにいざなわれるのだろうか」。
 トーキーの出現が、「無言でいること」を特異性とするルイズの経歴をたち切った。彼女の声もまた「特異性」を持っていた、とアイスナーはいう。(中略)しかしルイズが意見を率直にいい、人間と事物の観察の透徹、自己の思想をあからさまにいう術を心得ているのを知ったいま、『悪魔の映写幕』の再版(1963年)が出た時、「われわれは彼女が驚くべき演技者であったことを今日では知っている。桁はずれの知性にめぐまれていて、ただの娘ざかりだけではなかったのだ」と改めたという。」

「彼女の父は蔵書家で、ゲーテからディケンズに到るヨーロッパ文学書を持っていた。彼女は幼女の頃から読書の習慣を持ち、当時、ハリウッドで唯一人の本を読む俳優だったという。」

「しかしこの驚くべき女は、自己について、なんのイリュージョンも持たなかった。」
「「私にはハリウッドの生活は夢魔でした。私は大ホテルで自分の部屋が見付けられない女みたいでした。私は逃げ出しました。それからいつも自分から逃げ続けています。もはや69歳、自分を再び見付けるのをあきらめています。私は何者でもなかったのです」。」

「ルルは自分の殺し手である「切り裂きジャック」を、好きになってしまう。ヴェデキントもベルクも、ジャックを冷酷な殺人者として描き、舞台に三つの死体が横たわる(中略)。シェイクスピア劇のような終幕になるのだが、パプストではアルヴァもゲシュヴィッツも死なない。それだけ微温的エンターテインメント的といわれ、封切当時、批評はよくなかった。(中略)だがここに私はパプストが「切り裂きジャック」に加えた、新しい解釈を見逃してはなるまいと思う。」
「つまりジャックは刃物を見ると、それを使って人を殺したくなる自分を制することができない。彼はルルと同じく他界から遣わされた者なのだ。この二人の異星人は相惹かれるが、それぞれの使命を遂行することによって終る。その寓意は、キリスト教の精神によるパンドラの抹殺だが、それはそれぞれの実行者による無意識の行為と解することができる。」

「「ルル」以前の西欧の悪女、「椿姫」も「カルメン」も「サロメ」ですら、一人の男の運命を狂わせただけだった。ところが「ルル」は結婚の破壊者、制度の否定者として現われる。司法も警察もどうすることもできず、同類の犯罪者「切り裂きジャック」によって、やっと抹殺される。
 そして「切り裂きジャック」が、街に娼婦のあふれるヴィクトリア朝末期の世相の、トリックスター的、行動的批判者であると同じく、ヴェデキントのルルは、ウィルヘルム二世治世のベルリンの頽廃を、男たちを破滅させることによって曝き出す役割を果していると見なすことができる。それが1920年代のワイマール体制末期、大恐慌前夜に移されてアクチュアリティを失わなかった。」

「結論的にいって、「ルル」という人格には19~20世紀にまたがる制度破壊者としての問題と、サーカス的、トリックスター的道化の一面がある。二つの戦争にまたがる「生真面目な」世代に属する私には問題は主に前者にあるけれど、清澄なルイズの面影は、立ち去ったスクリーン・ラバーとして残っていた。それが西欧のリヴァイヴァルの気運でうかれ出したわけだが、この一文には忘れっぽい日本の映画界に対するトリックスター的いたずら気もなかったわけではない、といおう。」



大岡昇平 ルイズブルックスとルル 05


Pandora's Box (1929)






こちらもご参照下さい:

F・ヴェデキント 『地霊・パンドラの箱 ― ルル二部作』 岩淵達治 訳 (岩波文庫)
大岡昇平 『中原中也』 (講談社文芸文庫)





















































































スポンサーサイト

ポール・D・ジンマーマン 『マルクス兄弟のおかしな世界』 中原弓彦・永井淳 訳

ポール・D・ジンマーマン 
『マルクス兄弟のおかしな世界』
中原弓彦・永井淳 訳


晶文社 
1972年12月15日 初版
1987年4月30日 9刷
302p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,800円
ブックデザイン: 平野甲賀

 

本書「マルクス兄弟論をふくむ解説」より:

「本書は、"The Marx Brothers at The Movies" (1968) の全訳である。
 原書は、マルクス兄弟の喜劇映画のギャグをこまかく記述したこともさることながら、二百枚を越す写真(スチルとコマ撮り)をおさめている点で、評判になった。だが、コマ撮りの不鮮明な写真をさらに複製するのは不可能なので(中略)訳書においては、写真のすべてをのせることはできなかった。
 この本は、のちにポケットブックになって広く読まれ、仏語訳のポケットブックも出版されている。マルクス映画を知るための、すぐれた手引書として定評がある。
 著者のポール・D・ジンマーマンは、げんざい、『ニューズウィーク』の映画評を担当している映画批評家である。この本に関していえば、(中略)スマートな書き方をしようとつとめたあげく、かえって、文章が、ぎくしゃくしている部分がある。その弱点は、マルクス映画のプロットとギャグを同時に辿るという難事業のプラス面にくらべれば、わずかなものであるが。」




マルクス兄弟のおかしな世界 01


目次:
 
シュルレアルな喜劇の出発 (植草甚一)

序章
ココナッツ The Cocoanuts (1929)
けだもの組合 Animal Crackers (1930)
いんちき商売 Monkey Business (1931)
ご冗談でショ Horse Feathers (1932)
我輩はカモである Duck Soup (1933)
オペラは踊る A Night At The Opera (1935)
マルクス一番乗り A Day At The Races (1937)
ルーム・サーヴィス Room Service (1938)
マルクス兄弟珍サーカス At The Circus (1939)
マルクスの二挺拳銃 Go West (1940)
マルクス兄弟デパート騒動 The Big Store (1941)
マルクス捕物帖 A Night In Casablanca (1946)
ラヴ・ハッピー Love Happy (1949)
終章
 
マルクス兄弟論をふくむ解説 (中原弓彦)
訳者あとがき (中原/永井)



マルクス兄弟のおかしな世界 03



◆本書より◆


「序章」より:

「事実マルクス兄弟は“およそありえないようなこと”の暗喩となった。彼らはアメリカの正気の時代において、アメリカを代表する狂人たちであった。彼らは大恐慌の逼迫した数年間を通じて、終始極端で放埓であった。ヨーロッパおよび合衆国内におけるファシズム擡頭のさなかにあって、彼らは自由な精神にもとづくアナキーの旗を高く掲げた。」
「チャップリン、キートン、フィールズの場合と同じように、彼らの喜劇もまた二つの大きな力、すなわち貧困とヴォードヴィルによって形成された。チコ、ハーポ、グルーチョはそれぞれレナード、アドルフ、ジュリアスとして――この順で――あまり華やかでなかった九〇年代に、マンハッタンのヨークヴィル地区のスラム街で生まれた。スラム街は喜劇のアナキストたちを育てる申し分のない土壌だった。」



マルクス兄弟のおかしな世界 02

マルクス兄弟。上からグルーチョ、ゼッポ、ハーポ、チコ、ガモ。




























































































エリック・ロメール 『美の味わい』 梅本洋一/武田潔 訳

「身振り(ミミック)というものを、この世で最も美しい散文よりもさらに繊細で、さらに雄弁なものにした芸術の美点」
(エリック・ロメール 「『恋多き女』――猿たちとヴィーナス」 より)


エリック・ロメール 
『美の味わい』
梅本洋一/武田潔 訳


勁草書房 
1988年1月25日 第1版第1刷発行
265p 序・目次vii 作品索引vi 
著者・訳者紹介1p
A5判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー
定価3,300円



本書「序」より:

「本書は、エリック・ロメールが映画について書いた最も重要な文章を四部に分けた批評集である。それらは一九四八年から一九七九年の間に様々な場所に発表され、中でも重要なのは「カイエ・デュ・シネマ」誌である。」


本書「あとがきにかえて」より:

「なお翻訳は、冒頭のインタビュー、第二部、第三部を梅本、第一部、第四部を武田が担当した。」


Eric Rohmer : Le goût de la beauté, textes réunis et présentés par Jean Narboni, Editions de l'Etoile, 1984
本文二段組。本文中図版(モノクロ)多数。



ロメール 美の味わい 01

カバー表。写真は「ストロンボリ」(ロッセリーニ)のイングリッド・バーグマン。


帯文:

「ヌーヴェルヴァーグの正統を
疾走しつづける男の映画論」



帯背:

「ヌーヴェルヴァーグ
映画作家の映画論」



ロメール 美の味わい 02

カバー裏。写真は「O侯爵夫人」(ロメール)のブルーノ・ガンツとエディット・クレヴァー。


ロメール 美の味わい 03


目次:

序 (ジャン・ナルボニ)
批評の時代――ジャン・ナルボニによるエリック・ロメールへのインタビュー

Ⅰ 映画の古典時代
 映画――空間の芸術
 トーキー映画のために
 もう映画を愛してはいない
 色彩についての考察
 映画の古典時代
 絵画の空しさ
 イズー、あるいはありのままの事物――アヴァンギャルドについての意見
 三本の映画作品と、ある一つの流派について
 趣味と色彩について
 美の味わい
 ある批評家への手紙――『教訓話』シリーズについて
 映画作品と、話法の三つの面――間接/直接/超直接
 
Ⅱ 不純な映画のために
 アンドレ・バザンの「集大成」
 ある失敗の教訓――ジョン・ヒューストン『白鯨』
 票決の解説――ジョシア・ローガン『南太平洋』
 信仰と山々――マルセル・イシャク『正午の星』
 スポーツのフォトジェニー――『ローマ・オリンピック』
 
Ⅲ 作家主義(一九五〇~一九五八)
 ロベルト・ロッセリーニ『ストロンボリ』
 ハワード・ホークス『果てしなき蒼空』
 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『ピカソ――天才の秘密』
 オーソン・ウェルズ『アーカディン氏/秘密調書』
 ニコラス・レイ『ビガー・ザン・ライフ』
 ルイス・ブニュエル『アルチバルド・デ・ラ・クルスの犯罪的人生』
 フランク・タシュリン『ロック・ハンターは成功でダメになるか』
 ジョージ・キューカー『魅惑の巴里』
 ジョセフ・L・マンキーウィッツ『静かなるアメリカ人』
 イングマール・ベルイマン『女たちの夢』
 アルフレッド・ヒッチコック『めまい』
 
Ⅳ ジャン・ルノワール
 アメリカのルノワール
 『恋多き女』――猿たちとヴィーナス
 ジャン・ルノワールの若さ
 『ジャン・ルノワールの小劇場』

あとがきにかえて (梅本洋一・武田潔)
作品索引



ロメール 美の味わい 04

ロメールとゴダール。



◆本書より◆


「映画――空間の芸術」より:

「動作と運動が新たな意味を担うような空間世界が、我々の前に確固たるものとして現前するのは(中略)とりわけバスター・キートンの映画においてである。バスター・キートンはスクリーンにおける最も偉大な喜劇俳優の一人であるだけでなく、映画の最も真正な天才の一人である。人はこれまで彼の喜劇の持つ機械的な性格を強調してきたし、またある種の無味乾燥さのために、そうした性格がはじめの内はいささか人をとまどわせることも事実である。(中略)彼が頻繁に用いる暗示的なスタイルにも、取り立ててすぐれたアイデアは見られないとする見方も、あながち間違いではないだろう。というのも、彼にとっては、動作の心理的な意味合いよりも、運動がスクリーンの空間に描き出されるやり方自体から生ずる喜劇性の方が、はるかに重要だからである。たとえば、『ラスト・ラウンド』の中で、我々は十五分近くもの間、見習いボクサーがマネージャーの指示する実に単純なアッパー・カットの動作をまねようとして、それができずに苦労する様子を見る。この失敗の喜劇性は、もし動作の不器用さが、言わばそれ自体のために展開されていなかったとしたら――すなわち、その無器用さが、反復ということによって、ある美学的な正当性を得るに至らなかったとしたら――、何ら独創的なものにはならなかっただろう。しかし、それにもまして重要なのは、この無器用さが空間についての一種の問いかけ、三次元「根拠」に関する探索(中略)のように見えることである。同じ作品について言えば、その最も驚くべき瞬間は、おそらく、心ならずもボクサーになった主人公が、リングに上がろうとしてロープにはさまってしまう瞬間だろう。そうした「格好」のおかしさを、この映画を見なかった人に伝えることは不可能だが、そのことがまさに、この場面の映画的価値の真実性を証明している。」
「例外的な瞬間を取り上げているのではない。バスター・キートンは、その映画作品全体を通じて、映画においては他に類を見ない、ある種の無器用さと孤独の空間への執着を表現しているのである。マックス・ブロートは、カフカの「アメリカ」の出版に際して付けた注の中で、この本のいくつかの部分は否応なく「チャップリンを想起させる」と述べている。絶対的な厳密さ、幾何学的な行動といった性格から、カフカの非人間的な世界に通ずる世界観を求めるとすれば、それはチャップリンではなく、またラングドンですらなく、むしろバスター・キートンにおいてでなければならないだろう。チャップリンにおいては、孤独というものは、『サーカス』や『黄金狂時代』の名高い映像によって独特に表現されている場合ですら、無関心な社会の中での人間の孤独でしかありえないのである。一方、キートンにおいては、人や物の孤立は空間の本性そのものを形作っている。そうした孤立は、とりわけ往復運動の主題によって示され――すべてが絶えず自らに向かって「投げ返される」かのように――、また急激な落下や地上への激突によって、あるいは無器用に物をつかもうとして、その物が手をすり抜けたり壊れたりすることによって示される、あたかも、外界がその本質自体のために「把握する」ことが困難であるかのように。」



「絵画の空しさ」より:

「『極北の怪異』は映画作品の中でも最も美しいものである。(中略)映画作家の努力は、時間が一度に我々を閉じ込めるこの現在というものの境界を壊すことに向けられてきた。しかし、その第一の目標は、瞬間というものに対して、他の芸術が与えることを拒否している重みを付与することだった。待つことの悲愴感は、他の場合には至るところで卑俗な手段と化しているが、映画においては、神秘的なやり方で、事物の理解そのものの中に我々を投げ入れる。」
「例を一つだけあげておこう。主人公のエスキモーが、浜辺で寝ているアザラシの一群を捕える機会を窺って、画面の隅にしゃがみ込んでいるくだりである。このショットの美しさはどこから来るのか。それはひとえに、カメラが我々に示す視点が、ドラマの当事者のそれでも、また人間の眼のそれですらもない、ということからくるのである。(中略)ここでは行動の悲愴感以上に、時間の神秘そのものが我々の不安を形作っているのである。」




拳闘屋キートン(キートンのラストラウンド)
Buster Keaton - Battling Butler (1926)





























































































ルイス・ブニュエル 『映画、わが自由の幻想』 (矢島翠 訳)

「場合によっては、科学に向ってくそくらえというべきだ。」
(ルイス・ブニュエル)


ルイス・ブニュエル 
『映画、わが自由の幻想』 
矢島翠 訳


早川書房 
1984年7月15日 初版発行
1991年2月28日 4版発行
466p(うち別丁モノクロ口絵16p) 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,200円(本体3,107円)
装幀: 辰巳四郎



本書「訳者あとがき」より:

「この自伝は Mon Dernier Soupir (《わが最後の吐息》)の原題で、一九八二年、パリの Editions Robert Laffont から出版された。ブニュエルは翌八三年七月二十九日、メキシコ市で、八十三歳の生涯を閉じた。」


本書より:

「わたしはもの書きではない。ジャン=クロード・カリエールがわたしと長時間話し合ったあとで、この本を書く手助けをしてくれたのだが、わたしのいったことはすべてそのまま、いかされている。」


ブニュエル 映画わが自由の幻想 01


カバーそで文:

「■本書は、モラリストで、慎み深く、きわめて機知に富んだ偉大な映画作家の、ありきたりからはほど遠い自伝である。
――フランソワ・トリュフォー
■本書で驚くのは幾つかの国と文化にまたがった長い生涯における豊かさと多様性である。それは中世に始まり、間にシュルレアリスム、スペイン内戦、ハリウッド、メキシコを挟んで現代に終り、諷刺、孤独、友情、想像力から成っている。そして現代で最も鋭く、最も奥深い視線の一つ、時に憂うつな嘲笑する隠者の視線でとらえられている。
次に驚くのはまるでスペインのピカレスク小説のような閑談、逸話、余談の面白さだ。ルイスは突然立ち止り、道端の木陰に腰を下ろすと、肝心なこと――酒、愛、神、偶然、夢、死について語り始める。それから陽の当る道に戻るのだ。
並外れた人物の心象、波瀾に満ちた世紀の驚くべき、時に背徳の散策である本書はまた、個人の厳格な倫理だけが人生を支配しうる唯一のものであるということの、粘り強い確認の書でもある。
人間はいかにして自己を形成するのか? 本書はこの古くからの問いに答えようともしている。運命への接近、すべての生と同じく偶然と自由の間で揺れる生の秘かな冒険が本書である。
――ジャン=クロード・カリエール」



目次:

1 記憶
2 中世の回想
3 カランダの太鼓
4 サラゴーサ
5 コンチータの回想
6 現世のたのしみ
7 マドリード――学生館 一九一七~一九二五年
8 パリ 一九二五~一九二九年
9 夢と夢想
10 シュルレアリスム 一九二九~一九三三年
11 アメリカ
12 スペイン、フランス 一九三一~一九三六年
13 愛情とそのさまざまな顔
14 スペイン内戦 一九三六~一九三九年
15 わが無神論も、神のおかげ
16 またアメリカで
17 ハリウッド、これにて完結
18 メキシコ 一九四六~一九六一年
19 好きなもの、きらいなもの
20 スペイン、メキシコ、フランス 一九六〇~一九七七年
21 白鳥の歌

訳註
ルイス・ブニュエル監督作品
訳者あとがき
映画タイトル索引



ブニュエル 映画わが自由の幻想 02



◆本書より◆


「記憶は絶え間なく想像と夢想の侵略をうけている。そして想像の現実を信じたいという誘惑がある以上、われわれは結局自分たちのうそを真実にしてしまう。だがその重要性は相対的なものだ。なぜなら、うそも真実も、ともにわれわれが生きたものであり、われわれ自身のものであることに変りはないのだから。」

「『アンダルシアの犬』
 この映画は、二つの夢の出会いから生れた。フィゲラースのダリの家に二、三日泊りに来ないかという誘いをうけて行った時、わたしは、少し前に見た夢の話をした。細い横雲が月をよぎり、かみそりの刃が目を切り裂く。ダリの方も昨夜夢に見たばかりだといって、てのひらにアリがいっぱいいる光景を話した。彼が続けていうには、「そこを出発点にして、二人で映画をつくったらどうだい?」
 この提案にはじめのうちわたしは迷っていたが、話は一足飛びに運んで、わたしたちはフィゲーラスで仕事に入った。
 シナリオは、二人が意見一致で採択した、簡単きわまる規則によって、一週間足らずで書きあげられた。合理的、心理的ないし文化的な説明を成り立たせるような発想もイメージも、いっさい、うけいれぬこと。非合理的なるものに向けて、あらゆる戸口を開け放つこと。われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について、穿鑿(せんさく)しないこと――である。
 ダリとの間には、わずかな意見の相違だろうと一度も生じなかった。完璧な一身同体の一週間だった。たとえば、一方がこういう。「男がコントラバスを引きずる」。相手は、「そうじゃない」という。するとアイデアを出した方は、この拒否をその場でうけいれるのだった。拒否されるのが当然という気になるのだ。その反対に、ひとりが提案したイメージを相手もうけいれた場合には、そのイメージはとたんに異論をさしはさむ余地のない名案に思えて、即座にシナリオにとりあげられた。
 シナリオが完成してみると、これはまったく異例の、挑発的な映画で、普通の製作システムにはおよそうけいれてもらえないということに気がついた。そこでわたしは自主製作するために、母にまとまった金を無心した。公証人が口をきいてくれたので母も納得し、金を出してくれた。」

「お前はあと二十年しか生きられない。これから毎日二十四時間を生きる間に、何をするつもりだね、と聞かれたとしよう。わたしの答えはこうだ。二時間は活動的に、二十二時間は夢のうちに過させて下さい。ただし、その夢を思い出せるという条件で。――なぜなら夢というものは、それをいとおしむ記憶によってしか、存在しないのだから。
 たといわたしの夢が悪夢であるにせよ、わたしは夢を熱愛する。悪夢である場合が一番多いのだが。いつも夢の中には、それとわかる、おなじみのさまざまな邪魔物が、あちこちに顔を出している。だがそれでも構いはしない。
 夢――夢見ることの快楽に対するこの物狂いは、どんな説明を加えようとしてもまったく手がかりは見つからない。それはわたしに深く根ざし、わたしをシュルレアリスムに近づけた好みのひとつである。」

「それでもわたしが(中略)シュルレアリスムの隊列に身を置いていたことは、生涯、わたしにとって何かを残した。残ったもの、それはまず、認識と願望を問わず、存在の深みにこうして自由に立ち入りできること、非合理を、曖昧さを、われらの内奥の自我から生じるありとあらゆる衝動をよび出そうとする、この声である。最初あれほど力強く(中略)ひびき渡った呼び声に付随して、稀有の不遜が、あそび心が、われらにとってまがまがしく映るものすべてに向って闘うときの、生き生きとした持続力が、あった。それらすべてのうち、ひとつとして、わたしは否認していない。
 付け加えていえば、シュルレアリストの直観はそのほとんどが正確だった。例をひとつだけあげておくが、労働についての――(中略)社会における聖なるきわみの価値、不可侵のことばである労働についての、直観である。シュルレアリストは労働に組織的な攻撃をかけ、その虚偽をあばき、賃金労働は恥であると天下に告げた、最初の人々だった。『哀しみのトリスターナ』でドン・ロペが、口のきけない青年に向っていうことばに、この誹謗がこだましていることがわかるだろう。
 「あわれなるかな、働く者よ。(中略)サトゥルノ、労働は呪いだよ。生計のためにやむを得ざる労働なんて、棄てちまえ! (中略)それとは反対に、たのしみでする仕事、自分に向いてるからする仕事は、人間を高貴にする。(中略)わたしをご覧、働いていないだろ。首をくくられたって、働くものか。ご覧の通り、わたしは生きているぞ。(中略)働かずに生きているぞ」」

「だがわたしは、科学には関心がない。科学は生意気で、分析的で、浅薄に思える。夢、偶然、笑い、感情、矛盾、すべてわたしにとって大切なものを、科学は無視している。(中略)わたしが選んだ自分の居場所は、神秘のうちにある。あとはそれを尊重するまで。」

「わたしの作品について、ありとあらゆるたぐいの精神医学者や分析家が、ふんだんに書きまくった。(中略)分析家のなかには、(中略)わたしは〈分析不可能〉だと断じた奴がいることを、つけ加えておく。まるでわたしがほかの文化、ほかの時代に属しているかのようないい分だが、とどのつまり、それは大いにあり得ることだ。
 このとしになっては、人にいわせておこう。わが想像力はつねに健在で、わが末期のときに至るまで、指一本させぬその無垢の力をもって、わたしを支えてくれるだろう。理解することのおぞましさよ。予期せぬことを迎えるしあわせよ。そうした、むかしからの性向は、歳月とともに強まってきた。」

「その時までわたしは、サドのことをまったく知らなかった。読むにつれてわたしは心底から驚かされた。(中略)教師のごとく、系統立てて、社会をあらゆる視点から検討し、文化を白紙状態(タブラ・ラサ)に戻すことを提案しているこのどえらい本の存在を、なぜわたしは知らなかったのか?(中略)わたしは心につぶやいた。何より先にサドを読ませてもらえればよかったのに! 何とまあ無駄に本を読んだことか!」「自分を焼いた灰はどこでもいいから棄ててしまい、作品も、名前までも、人類の記憶に残らないでほしいというサドの遺言にも、わたしは深く心をうたれた。自分も同じことをいえたらいい、と思う。(中略)忘却万歳だ。わたしにとって、尊厳は虚無のうちにしかない。」

「わたしは雨の音が好きだ。記憶のなかにこの世で最も美しい音として残っている。(中略)雨は偉大な民族をつくる。」

「わたしは群集にはぞっとする。」

「わたしは職人が好きだ。」

「わたしは統計がきらいだ。」

「わたしは蛇と、特にねずみが好きだ。」

「わたしは生体解剖がこわい。学生時代のある日のこと、蛙をはりつけにして、生きたままかみそりの刃で解剖し、その心臓のはたらきを観察しなければならなかった。それはひとつの体験であり――なおかつ、まるきり役に立たぬまま――わたしに生涯残る印象を与え、今日でもまだわたしはみずからを赦しかねている。甥のひとりに、アメリカ人で、行く行くはノーベル賞ものの大神経学者だったのに、生体解剖が理由で研究を途中でやめてしまったのがいるが、わたしは彼に熱烈な拍手を送りたい。場合によっては、科学に向ってくそくらえというべきだ。」

「わたしは変装が好きでたまらないが、子供のころからそうだった。」

「わたしは宴会が死ぬほどきらいだし、賞の授与もだ。」

「わたしはきまったことを守るのと、前から知っている場所が好きだ。トレドかセゴビアに行く時には、いつも同じ道を通って行く。いつも同じ場所に降り立って、あたりを眺め、同じものを食べる。」

「わたしはマニアが実に好きだ。(中略)マニアは生きて行く助けともなり得る。マニアのない人たちはかわいそうだ。」

「わたしは政治がきらいだ。この領域においては、わたしは四十年来、あらゆる迷夢から解放されている。もはや政治は、信じていない。」

「いまや、これだけはたしかだ――科学は、人類の敵である。科学はわれらのうちなる全能たらんとする本能をおだてあげるが、その道はわれわれの破滅に通じている。(中略)何年か前から黙示録のラッパがわれらの戸口で吹き鳴らされているが、われわれは耳をふさいでいる。この新たな黙示録は、いにしえの場合と同様に、疾駆する騎馬の四者となって来たる。人口過剰、科学、テクノロジー、それに情報。」

「想像の上では人間の生命は、わたしにとって蠅の生命とひとしなみだ。実際にはわたしにとってあらゆる生命は尊く、蠅の生命でさえ例外ではない。こいつは妖精と同じくらい謎めいていて、感嘆すべき生きものである。」











































































































三木宮彦 『ベルイマンを読む』

「あらゆることが起こる。起こり得る。
時間も空間も存在せぬ。
浅薄な現実を土台にして、
空想が新しい模様をつむぎ出してゆく。」

(ストリンドベルイ 『夢の曲』)


三木宮彦 
『ベルイマンを読む』

Book Cinémathèque 8

フィルムアート社 
1986年3月3日第1刷発行
344p 
21.8×15.3cm 並装 カバー 
定価2,000円
ブック・デザイン: 中垣信夫・早瀬芳文
編集: 成瀬輝美



『人間の精神の冬を視つめる人――ベルイマンを読む』。
イングマール・ベルイマン(Ernst Ingmar Bergman)の全映画のデータ、ストーリー、解説等を収録した便利な本です。


ベルイマンを読む 01


カバー文:

「人間の精神の冬を視つめる人
スウェーデン、フォール島に孤立して
降誕した神々の病をいやす人
やがて、夏の夜が微笑むとき
罪の叫びと愛欲のささやきに耳を傾け
崩壊する形而上の深くへ
物を言わぬカメラを向ける人
ベルイマンを読む」



目次:

謝辞
まえがき

パズルの世界 Ingmar Bergman biography

イングマール・ベルイマン全映画 1944-1985
 危機
 われらの恋に雨が降る
 インド行きの船
 闇の中の音楽
 愛欲の港
 牢獄
 渇望
 歓喜に向って
 それはここでは起こらない
 夏の遊び
 女たちの期待
 不良少女モニカ
 道化師の夜
 愛のレッスン
 女たちの夢
 夏の夜は三たび微笑む
 第七の封印
 野いちご
 女はそれを待っている
 魔術師
 処女の泉
 悪魔の眼
 鏡の中にある如く
 冬の光
 沈黙
 この女たちのすべてを語らないために
 ペルソナ
 ダニエル
 狼の時刻
 恥
 夜の儀式 (テレビ作品)
 情熱
 フォール島の記録I (テレビ作品)
 ザ・タッチ
 叫びとささやき
 ある結婚の風景
 魔笛
 鏡の中の女
 蛇の卵
 秋のソナタ
 フォール島の記録II
 操り人形の人生から
 ファニーとアレクサンデル
 リハーサルの後で (テレビ作品)
脚本のみの作品
 もだえ
 顔のない女
 エヴァ
 都会が眠る時
 離婚
 最後のカップル外へ
 快楽の園

ベルイマン・イコノロジー
 夢
 北欧
 時計
 神
 愛
 言霊

演劇人としてのベルイマン

Data
 ベルイマンの戯曲
 おもなベルイマン演出演劇作品
 《ベルイマン一家》の人たち
  ●俳優たち
  ●カメラマンたち
  ●音楽家たち
  ●美術・衣裳家たち
  ●製作者および監督たち

ベルイマン関係資料案内
 北欧史
 スウェーデン映画総記
 スウェーデン映画史
 スウェーデン演劇史
 ベルイマン関係文献

人名索引



ベルイマンを読む 02



◆本書より◆


「第七の封印」より:

「ベルイマンの《これ一本》と言えば、これか『野いちご』を挙げる人が多いだろう。とにかく、彼の代表作の一つであるだけでなく、世界映画史上でもっとも異色の存在であることは疑いがあるまい。
 ベルイマンの父はストックホルムの上級聖職者で、いくつかの教会を管理する地位にあった。父が教区を巡回する時、幼いベルイマンもたいていつれて行かれて途中で花や星の名を教わった。だが、いちばん印象に残ったのは、古い教会の壁に描かれた素朴な壁画だった。この映画の中のモティーフの多く――例えば《死神とチェスをする男》や《自分が登っている木を死神に切り倒される男》などのいくつもの作例は、そうした時に見て忘れられなかったものである。それらは、今でも各地の教会で見ることができる。スウェーデンは、ドイツや東欧ともつながりが深いこうした民衆芸術の宝庫である。」

「★再現――騎士「懺悔をしたいのです。しかし私の心は空しい」格子窓に手をかけて、苦悩の表情で語りだす。騎士「私の心をうつす鏡には、空虚しか映りません。自分の姿をみると恐怖と嫌悪におそわれます。……私は仲間たちにかかわりあいをもたず、孤独に生きてきました。今はまったく妖怪の世界に住んでいます。夢と幻の中に閉じこめられているのです……」死神「それでもお前は死を避けているではないか」騎士「はい、避けています」死神「お前は何を求めているのだ」騎士「私は知識がほしいのです」死神「保証がほしいのだな」騎士「何とお呼びになろうとかまいません」騎士、うずくまる。格子の奥の死神。見下ろすキリスト像。騎士「人間の五官で神の存在を知ろうとすると、どうしてこのように難しいのでしょう。なぜ半分話しかけた約束や、目にみえぬ奇跡の中に身をおかくしになるのです。おのれを信じられぬ私たちの間で、どうしてお互いが信じあえるでしょう。信じることもできず、信じたいとも思わない人間はどうなるのです」死神、無言のまま格子の窓の手前で動かない。騎士「私は心の中にある神をなぜ斬り捨てることができないのでしょう。神を呪い心の中から追い出そうとしているのに、どうしていつまでも私を苦しめ辱しめながら、神は私の心のうちに残っているのでしょうか。どうして神は私にとってふりほどけない存在なのでしょう」死神「……」騎士「聴いておいでですか」死神「うん、聴いている」騎士「私は知識がほしい。誠意もいらない。想像もほしくない。ただ知識だけほしいのです。私に手をさしのべ、お姿を現わし、私に話しかけてくださる神様がほしいのです」死神「しかし、神は語らぬものだ」騎士「私は暗闇に向かって呼んでみるが何の返事もありません」死神「きっと誰もいないのであろう」騎士「それでは人生など馬鹿げたものではありませんか。すべてが無意味だと知りながら死神を道づれに生きていくなんてできません」死神「たいていの人間は死神や無意味には反応しないものだ」騎士「しかし、人間いつかは生の最期の瞬間に立って暗黒の世界に直面するものです」死神「そうだ、その時になれば……」騎士「わかります。恐怖におののきながらも心にえがくものがあります。それを私たちは神とよぶのです」」



「ベルイマン・イコノロジー 時計」より:

「ベルイマンがモティーフとしてさまざまな作品でくり返し使っているものは一つ一つ彼自身の幼少年期の思い出を代表する。」
「ベルイマンの場合、思い出と言っても単なる懐かしさではなく、心の傷に近いことが多い。」
「もっとも重要なのはなんと言っても《時計》である。時計の思い出は祖母アンナに結びつくもので、ウプサラ市ネードレ・スロッツガータンの彼女の住まいには、大小さまざまな時計がどの部屋にも必ず一つは置かれていた。その時計はキチンと時刻があっているのもいないのもあり、さまざまな音色で後から後からと鳴り立てるさまは、平凡な日常風景ではあるのだが、ふと気になり始めるとまるで夢魔の世界の現象のようにも思われるのだった。」
「もっとも印象的なのは『野いちご』の場合で、老医イーサクは冒頭の夢に針のない時計の看板を見るが、のちに老母の家で見せられたおもちゃ箱の中の懐中時計にも針がない。」
「奇妙なことに、ベルイマンの映画の中では時刻を知るために人が時計を見ることはほとんどないし、ドラマ上で時間や時刻が重要な機能を持つのは『狼の時刻』くらいなものである。(中略)時計そのものは画面に現われず、時を刻む秒音だけが効果音として使われている。」



ベルイマンを読む 03

「第七の封印」より。


ベルイマンを読む 04

「野いちご」より。



















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本