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ヒッチコック/トリュフォー 『定本 映画術』 山田宏一・蓮實重彦 訳

「そう、映画とは、夜みる夢とはちがうが、白昼夢そのものだ。」
(ヒッチコック/トリュフォー 『映画術』 より)


ヒッチコック/トリュフォー 
『定本 映画術』 
山田宏一・蓮實重彦 訳
 

晶文社 
1990年12月10日 初版
2008年4月5日 13刷
359p xxv
B5判 角背布装上製本 カバー
定価4,000円+税
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「凡例」より:

「本書は一般に《HITCHCOCK/TRUFFAUT》の題で知られている、フランソワ・トリュフォーがアルフレッド・ヒッチコックにインタビューして構成した《LE CINÉMA SELON ALFRED HITCHCOCK》(Robert Laffont, Paris 1966)およびその英語版《HITCHCOCK by François Truffaut》(Simon and Schuster, New York 1967)の全訳であり、これにさらに一九七八年版(《HITCHCOCK―Updated Edition》、Granada Publishing, London 1978)および本書(日本語版)のためにトリュフォーによって書かれた序文および後記を訳出して加えたものである。」
「写真図版も原著どおりのブロックに分けてほぼ全点採録し(主としてヒッチコックの初期の作品のスチールをほんの数点カットしたが)、原著にはない珍らしい写真(中略)を七十五点加え、全五百二十点の図版を使用した。」



スピン(栞紐)付。
本文(ヒッチコックとトリュフォーの対談)は三段組、トリュフォーによる文章は二段組、「原註」は四段組。


ヒッチコック 映画術 01


目次:

凡例

序――ヒッチコック式サスペンス入門 (フランソワ・トリュフォー)

1 1899―1926
 幼年時代
 警察ぎらい
 イエズス会と鞭打ちの刑
 科学への好奇心
 映画との出会い
 未完の処女作
 女対女
 未来の妻
 マイケル・バルコン
 快楽の園
 映画監督第一日
 山鷲
2 1926―1928 
 下宿人――最初の真のヒッチコック映画
 純粋に視覚的な形式の創造
 ガラス板の効果
 手錠とセックス
 ヒッチコック登場
 下り坂
 ふしだらな女
 リング
 ワン・ラウンド・ジャック
 農夫の妻
 シャンペン(シャンパーニュ)
 グリフィスのように
 マンクスマン――サイレント時代の最後の作品
 スクリーンをエモーションで埋めつくすこと
3 1929―1933
 恐喝――最初のトーキー映画
 シュフタン・プロセス
 ジュノーと孔雀
 文学と映画
 サスペンスとは何か
 殺人!
 アメリカ映画の言語と文体
 いかさま勝負(スキン・ゲーム)
 金あり怪事件あり(リッチ・アンド・ストレンジ)
 パリで一緒に
 十七番地(第17番)
 猫騒動
 プロデューサーとして
 ローマの休日
 ウィーンからのワルツ
 低迷と不調の時期
4 1934―1935 
 暗殺者の家――知りすぎていた男
 チャーチルが警視総監だった
 ピーター・ローレ
 シンバルが打ち鳴らされるとき
 単純であること、明晰であること
 三十九夜
 ジョン・バカン
 〈アンダーステートメント〉とは何か
 チキン・パイとセックス
 ミスター・メモリー
 批評家を批評する
 人生の断面(きれはし)、ケーキの断片(きれはし)
5 1936―1939 
 間諜最後の日
 スイスには何があるか
 サボタージュ
 子供と爆弾
 殺意と同化
 エモーションを生みだすこと、そしてそのエモーションを最後まで持続させること
 第3逃亡者
 サスペンスの模範
 バルカン超特急
 〈らしさ〉ということ
 デヴィッド・O・セルズニックからの電報
 イギリス時代の最後の作品――巌窟の野獣
 チャールズ・ロートンという俳優
 イギリス時代の総括
 のるかそるか――Hollywood or bust! 
6 1940-1941 
 タイタニック号の企画は沈没した
 レベッカ――アメリカ映画第一作
 シンデレラ物語
 オスカーをもらったことがない
 海外特派員
 ゲイリー・クーパーからジョエル・マックリーへ
 オランダには何があるか
 血まみれのチューリップ
 〈マクガフィン〉とは何か
 スミス夫妻
 俳優は家畜だ
 断崖
 ミルクの白さ
7 1942―1944 
 逃走迷路
 アイデアに溺れすぎて
 群衆のなかの閉鎖状況
 疑惑の影
 ソーントン・ワイルダー
 メリー・ウィドウ
 理想主義者の殺人犯
 救命艇
 戦争の縮図
 獲物にとびかかる猟犬のように
 ロンドンに帰って
 二本の戦争宣伝映画
8 1945―1947 
 ふたたびアメリカに戻って
 白い恐怖
 サルバドール・ダリとともに
 汚名
 ウラニウムという名の〈マクガフィン〉
 FBIに監視されて
 愛のサスペンス・ドラマ
 映画づくりを主題にした映画のアイデア
 パラダイン夫人の恋
 グレゴリー・ペックはミスキャストだった
 興味ある撮影の試み
 悪魔さながらの角のように堅い手
9 1948―1950 
 ロープ――全篇ワン・カットの映画
 絵はがきのカラー
 映画の基本はカット割り
 街の雑音が立ちのぼってくるように
 山羊座のもとに
 Run for cover――確実な地点に戻ってやり直せ
 たかが映画じゃないか
 舞台恐怖症
 いつわりの回想
 悪役がうまく描かれていなければ映画は成立しない
10 1950―1952 
 見知らぬ乗客
 レイモンド・チャンドラーとの確執
 サスペンス――時間の収縮と拡張
 時間表(ダイヤ)のように
 私は告白する
 交換殺人のテーマ
 ユーモアの欠如
 野蛮なソフィスティケーション
 懺悔の秘密
 事実とフィクション
 警察恐怖症
 パイプのけむり――ある三角関係の話
11 1954―1955 
 ダイヤルMを廻せ!
 3D方式
 映画と演劇――ドラマの集約
 裏窓
 クレショフ効果
 人間はみなのぞき屋である
 小犬の死
 〈サプライズ〉としてのキス、〈サスペンス〉としてのキス
 パトリック・マホーン事件とドクター・クリッペン事件
 泥棒成金
 セックスがスクリーンに描かれるとき
 ハリーの災難
 〈アンダーステートメント〉の笑い
 知りすぎていた男
 背中にナイフをぐさりと突き刺されて
 再びシンバルが打ち鳴らされるとき
12 1957―1959 
 間違えられた男
 まったく嘘のない映画
 めまい
 屍姦症の男の物語
 キム・ノヴァクはノーブラを誇りにしていた
 メリー・ディア号の遭難
 フラミンゴの羽根
 ベルリンの壁
 政治サスペンス映画のアイデア
 北北西に進路を取れ
 それはグリフィスにまでさかのぼる
 本物のセット、原寸大のセット
 時間と空間をいかに操作するか
 不条理にもとづく荒唐無稽な遊び
 死体が転げ落ちる……
13 1960 
 夢かジョークか
 わたしはいつも恐怖でいっぱいだ
 深夜のアイデア
 史上最長のキス
 愛のすがた
 空間を生かさなければならない
 イメージの創造――映像は映るものではなく、つくるものだ
 クローズアップを持続させること
 サイコ
 ジャネット・リーのブラジャー
 燻製にしん
 観客を演出する
 アーボガストの殺しかた
 俯瞰撮影
 シャワーと殺人
 剝製の鳥
 大衆のエモーションをゆさぶる
 映像作家の映画、わたしたちの映画
 製作費八〇万ドル、配収一三〇〇万ドル
 批評家は映画の主題や物語にしか興味を持たない
14 1963 
 鳥
 なぜ鳥が人間を襲うのか
 メラニー・ダニエルズの金ピカの鳥籠
 即興演出
 無言のシーンほどサスペンス・タッチが冴える
 電子音響(エレクトロニック・サウンド)
 トラックの叫び
 わるい冗談
15 1964―1966 
 マーニー
 性的フェティシズム
 企画流れになった三本のシナリオ
 三人の人質
 メアリー・ローズ
 R・R・R・R
 引き裂かれたカーテン
 殺しのリアリズム
 親切なバス、意地悪なバス
 ポール・ニューマンとアクターズ・ステュディオ方式の演技
 照明(ライティング)なしの撮影
 カットされた工場のシーン
 一作一作が新しい冒険だ
 上昇曲線――ドラマチックな盛り上がり
 シチュエーションの映画と人物の映画
 新聞はロンドンの「ザ・タイムズ」しか読まない
 わたしは視覚人間である
 ヒッチコックはカトリック作家か?
 ストーリーよりもディテールの工夫に力をいれなければならない
 都会の二十四時間

一九七八年版のための序文 ヒッチコックはひとつの映画の制度、映画の法則になった――「引き裂かれたカーテン」から「みじかい夜」まで (フランソワ・トリュフォー)
日本語版のためのあとがき ヒッチコックとともに (フランソワ・トリュフォー)

訳者あとがき (山田宏一)

付録 略歴・フィルモグラフィー・参考資料
索引



ヒッチコック 映画術 03



◆本書より◆


「序」より:

「インタビューの目的と内容は――
(1) 一本一本の作品がどのようにして生まれてきたか。その具体的な製作事情、発想。
(2) 一本一本の映画のシナリオがどのようにして組み立てられたか。その具体的な構想、展開。
(3) 一本一本の作品を演出するにあたって生じた諸問題をどのようにして解決したか。その具体的な個々の例、ディテール、等々。
(4) 一本一本の作品をヒッチコック自身がどのように評価するか。当初の抱負とできあがった作品の商業的および芸術的な価値についての判定。」

「ヒッチコックほど恐怖を描いた映画作家もいないが、じつは彼自身がだれよりもこわがりで臆病なのである。そして、わたしは、そこにこそヒッチコックの特質があり、その成功の秘密があるのではないかと考えている。」

「ヒッチコックの作品は最も大衆的な商業性を帯びていると同時に最も前衛的な実験精神に彩られており、ウイリアム・ワイラーの『ベン・ハー』のように普遍的であると同時に、ケネス・アンガーの『花火』のようにひそかにこっそりと見られる個人的な映画でもあるのだ。」

「ルイ=フェルディナン・セリーヌは人間を〈露出狂〉と〈のぞき魔〉という二種類にわけたが、この分類にしたがえば、アルフレッド・ヒッチコックが後者の部類に属することは明らかだ。彼はけっして人生のドラマにかかわりあわない。彼はただそれをながめているだけだ。(中略)アルフレッド・ヒッチコックが心をときめかせるのは、映画に対してだけなのである。この映画へのひたすらな情熱は、『裏窓』の〈のぞき〉の悪趣味ぶりを攻撃されたときに答えたヒッチコックのつぎのような言葉によっても、はっきりとうかがえよう――「どんなことがあってもわたしはこの映画を撮っただろうと思うね。だって、これこそ映画じゃないか。のぞきがいかに悪趣味だって言われようと、そんな道徳的観念よりもわたしの映画への愛のほうがずっと強いんだよ」。」



第1章より:

「わたしはとてもおとなしい子だったんだよ。家族どうしが集まったときなんかでも、わたしはいつも片隅にひとり静かにすわっていて、なんにも言わずに、ただじっと見ていた。まわりのいろいろなものをね。そっと観察していた。わたしはいつもそうやってきたし、いまも変わらない。内向性で、自分の感情をさらけだせないタチなんだと思うね。ひとりで遊ぶのが好きだったし、それが性に合っていたんだと思う。実際、みんなといっしょに遊んだという思い出がないし、いつもひとりぼっちで、自分だけでたのしめる遊びを考えだしていた。」
「イエズス会の先生たちのしつけはおそろしくきびしかった。おそらく、このイエズス会の寄宿学校にいた時期に、わたしのなかに恐怖という感情がはぐくまれたんだろうと思う。いつも何かわるいことをしたのではないかという恐怖心――そこからわたしはいつものがれようとしてきた。」
「よくボンヤリしているって先生に叱られたな。」
「大人になったら何になりたいかという問いに対して、わたしは――これだけは誇りを持って言えるんだが――警官、とだけは答えたことがない。」



第3章より:

「犯人さがしのミステリーというやつはあまり好きじゃないんだよ。映画的じゃないんだよ。ジグソーパズルとかクロースワードパズルみたいなもんだからね。殺人事件が起こって、あとは、犯人がだれかという答えが出るまでじっと静かに待つだけだからね、エモーションがまったくない。」


第4章より:

H (中略)〈アンダーステートメント〉Understatement という言葉があるんだが……。」
「このうえなくドラマチックな事柄をこのうえなく軽快に表現すること、とでも言ったらいいかな。
T 『ハリーの災難』のあのタッチですね。
H そう、あのタッチだ。〈アンダーステートメント〉こそわたしにとっていちばん重要なものだ。」



第5章より:

「映画づくりというのは、まず第一にエモーションをつくりだすこと、そして第二にそのエモーションを最後まで失わずに持続するということにつきる。映画づくりのきちんとした設計ができていれば、画面の緊迫感やドラマチックな効果をだすために、かならずしも演技のうまい俳優の力にたよる必要はない。わたしが思うに、映画俳優にとって必要欠くべからざる条件は、ただもう、何もしないことだ。演技なんかしないこと、何もうまくやったりしないこと。」


第6章より:

「これもある日突然傍観者が事件の渦中に巻きこまれてしまうという、わたしのイギリス時代からの古いテーマだ……。」

「そう、たしかに〈マクガフィン〉はひとつの〈手〉だ。仕掛けだ。しかし、これにはおもしろい由来がある。きみも知ってのとおり、ラディヤード・キプリングという小説家はインドやアフガニスタンの国境で原地人とたたかうイギリスの軍人の話ばかり書いていた。この種の冒険小説では、いつもきまってスパイが砦の地図を盗むことが話のポイントになる。この砦の地図を盗むことを〈マクガフィン〉と言ったんだよ。つまり、冒険小説や活劇の用語で、密書とか重要書類を盗みだすことを言うんだ。それ以上の意味はない。だから、ヘンに理窟っぽいやつが〈マクガフィン〉の内容や真相を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ。わたし自身はいつもこう考えている――砦の地図とか密書とか書類は物語の人物たちにはたしかに命と同じように貴重なものにちがいない。しかし、ストーリーの語り手としてのわたし個人にとってはなんの意味もないものだ、とね。」
「しかし、そんなわたしのやりかたに慣れてないシナリオライターと仕事をするときには、きまって、〈マクガフィン〉のことでもめるんだよ。相手は〈マクガフィン〉とは何かということにどうしても執着する。なんでもないんだ、とわたしは言うんだよ。たとえば『三十九夜』だ。スパイたちの真の目的は何か。小指のない男の正体は? それに、映画の最初のほうで殺される若い女は何を求めていたのか。他人のアパートで背中を刺されて殺されるほどの重要な秘密をにぎっていたとしたら、それはいったい何なのか。そんなことはどうでもいいんだよ。わたしたちは映画をつくるんだからね。プロットのための口実が大きくリアルになりすぎると、シナリオとしてはおもしろくても、映画としてはややこしくてわかりにくくなってしまう。」



第10章より:

「たぶん、わたしの〈被害者意識〉というのは、まえにも言ったように、わたしの小さいころからの警察恐怖症から来ているにちがいないと思う。わたしは、映画を撮りながら、警察に捕えられた人物の不安やおののきだけは、いつも、まるで自分がその罠にかかったように、強烈に感じてきた。逮捕され護送車に乗せられて署に連行されていく途中、鉄格子の窓から街を歩くひとやら劇場に入っていくひとやらカフェから出てくるひとやら、毎日の生活をたのしむひとたちの姿が目に入る、そんなときの囚人(引用者注: 「囚人」に傍点)の思いがわたしには痛切に伝わってくる。そんなときに、車の前部(まえ)の運転席ではおまわりたちが気軽に冗談なんか言いあって笑っている。おそろしいことだ。」


第12章より:

「一九五二年に、ニューヨークの〈ストーク・クラブ〉で働いていたバンドの楽師が、いつものように仕事を終えて、午前二時ごろ家に帰ったところ、入口のまえで待ち構えていたふたりの男に呼びとめられた。それから、そのふたりの男は彼を酒場とか、いろいろな場所に連れていっては、そのつど、その場のひとびとに「この男か? この男か?」とたずねた。こうして、彼は強盗罪で逮捕された。彼はまったくの無実だったのだが、裁判にかけられ、ありとあらゆる試練に耐えなければならなかった。しまいには、妻が発狂した。そして精神病院にいれられ、いまもまだ入ったきりのはずだ。裁判のとき、おぞましいことだが、被告の弁護士が検事側の証人のひとりに反対訊問をおこなっていると、陪審員のなかから、被告の有罪を頭から信じて疑わなかったひとりが立ち上がって、こう言ったというんだね――裁判長殿、いまさら、あらためて、そんなこと(引用者注: 「そんなこと」に傍点)を問いただす必要があるのでしょうか?
 こうした陪審員の誠意を欠いた無責任な態度のゆえに、弁護士の提言で審理無効ということになり、陪審員をえらびなおしてあらためて公判をひらくことになった。ところが、第二審を待つあいだに、真犯人が逮捕された。わたしは、この事件をすべて、無実の罪を負わされた男の視点から描いてみたら、興味深い映画になるだろうと考えた。彼は他人の犯した罪のせいで自分の命をかけて苦しまなければならない。(中略)まったくおそろしいことだ!」

「『北北西に進路を取れ』には、どうしてもうまく組み込むことができなくてカットしてしまったシーンがひとつあるんだよ。(中略)ニューヨークから北西に向かう途中にデトロイトという町がある。フォードの自動車工場が林立している町だ。その工場のすさまじい流れ作業の列を見たことがあるかね?」
「この見事な流れ作業の列に沿ってケイリー・グラントと工場の監督が歩きながら話をするシーンを撮ろうと考えた。(中略)彼らの背後では、ベルトコンベアのうえで、一台の自動車がいろいろな部品からしだいに組み立てられていく。そして、ガスもオイルもつめこまれて、すぐそのまま乗って走れる一台の自動車ができあがるところまで見せる。まったくの無から、単なるナルトとボルトから、完全に組み立てられた自動車を目のまえにして、工場の監督がケイリー・グラントに言う。「どうです、すばらしいものでしょう」。それから、自動車のドアをあけてみせると、なかから死体が転げ落ちる。」



第13章より:

T (中略)あなたの映画は夢そのもの、まったく夢魔的なものだとおっしゃいましたが……。
H そう、映画とは、夜みる夢とはちがうが、白昼夢そのものだ。」

「ただひとつ、たしかなことは、わたしがエロチックな夢だけはみないことだよ!」



「一九七八年版のための序文」より:

「アルフレッド・ヒッチコックのすばらしい作品歴(キャリア)は、映画監督というものが、商業主義に妥協(引用者注: 「妥協」に傍点)しながらも、なおかつ自分自身に誠実でありつづけることができること――自分自身の主題をえらび、自分自身の方法でそれを描くことによって自分の狂気を世界にうけいれさせることができること――を証明するものである。」

「他の偉大な映画作家たち――チャップリンやエルンスト・ルビッチやフランク・キャプラやジョン・フォード――とちがって、ヒッチコックはヒューマニズムのメッセージを表面に押しだしたことはない。観客が自分を同化できる、〈感情移入のしやすい人物〉、ヒーローあるいはヒロインが、ドラマチックなシチュエーションに投げ込まれて、崇高なキャラクターに変貌してゆく、というようなことが、ヒッチコック映画にはないのである。ほとんどの偉大な映画監督が観客を主人公に同化させた。しかし、ヒッチコックは、むしろ、二次的な人物にわたしたちを同化させる――裏切られ、笑いものにされた人間や悪党に。(中略)ヒッチコックがわたしたちを同化にみちびくこれらの二次的な人物は、いずれも、愛から見放された人間たちである。」



ヒッチコック 映画術 02













































































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大岡昇平  『ルイズ・ブルックスと「ルル」』

「私にはハリウッドの生活は夢魔でした。私は大ホテルで自分の部屋が見付けられない女みたいでした。私は逃げ出しました。それからいつも自分から逃げ続けています。もはや69歳、自分を再び見付けるのをあきらめています。私は何者でもなかったのです」
(ルイズ・ブルックス)


大岡昇平 
『ルイズ・ブルックスと「ルル」』
 

中央公論社 
昭和59年10月10日 印刷
昭和59年10月20日 発行
116p 
25.5×25.5cm 
丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円
デザイン: 田淵裕一



本書「おわりに」より:

「本文は私が1983年末文芸雑誌「海」1月号に載せた「あるアンチ・スター」と、その補遺として書かれた「ブルックスふたたび」(同誌3月号)を合せたものです。補足、訂正を一文としたため、もとのテクストにあった古い恋人探求のリズムが失われ、少し固苦しくなったのではないか、と心配です。その後得た情報をできる限り入れました。
 『ハリウッドのルル』のなかから、ルイズ自身の文章二篇を選んで翻訳し、出演映画のリストと執筆論文の書誌を作って下さった四方田犬彦氏に感謝しなければなりません。」
「ルイズのルルはトリックスターでもあり、スケープ・ゴートでもあった――それは終りのタナトス的死顔のクローズ・アップに極めて、パセティックに現われています。」
「私たちはフィルムセンター版(引用者注: 映画「パンドラの箱」)を、殆んどひとこまひとこまみて、四百枚の写真をとりました。その中から四方田氏と二人で選んだのが、この写真群です。私たちが改めて感心したのは、ルイズの表情変化が極めて多様で、多彩な魅力が含まれていることでした。(中略)私たちはこの喜びを読者と共にわかちたいので、写真はできるだけ多く収録しました。」



本文中図版(モノクロ)多数。


大岡昇平 ルイズブルックスとルル 01


帯文:

「殺人と少女
疾走する1920年代
アンチ・スターの運命
世紀のはざまにて
悪女の極北

悪女の系譜
少女悪の誕生
透明な誘惑

稀有の女優
ルイズ・ブルックスと
「ルル」伝説への
華麗な招待状

(幻の名画「パンドラの箱」
を再現させる写真300枚!)

LOUISE BROOKS」



大岡昇平 ルイズブルックスとルル 02


目次:

ルイズ・ブルックスと「ルル」 (大岡昇平)

ギッシュとガルボ (ルイズ・ブルックス/四方田犬彦 訳)
パプストとルル (ルイズ・ブルックス/四方田犬彦 訳)

Filmography & Bibliography

おわりに (大岡昇平/四方田犬彦)



大岡昇平 ルイズブルックスとルル 03


ルイズ・ブルックス(Louise Brooks) は1906年11月14日生、1985年(本書刊行の翌年)8月8日に逝去したアメリカのダンサー/映画女優です。1929年のヴァン・ダイン原作『カナリヤ殺人事件』、同年ドイツで撮影したパプストの『パンドラの箱』(原作はヴェデキント、ルルはその主人公の名前)および『淪落の女の日記』などに主演し、一躍人気女優となりましたが、その後まもなく映画界から引退。1950年代に再評価の兆しがみえはじめ、1972年には回想録『ハリウッドのルル(Lulu in Hollywood)』を出版、大岡昇平はその文才を高く買っていたようです。
本書を書くにあたって、著者は戦前の「キネマ旬報」から当時最新のジル・ドゥルーズの映画論まで参照しています。それも興味深いですが、「ルイズ・ブルックス」を中心として資料提供者として埴谷雄高、蓮実重彦、山口昌男、大江健三郎、筒井康隆といった人脈図が浮かび上がってくるあたりも興味深いです。

 
大岡昇平 ルイズブルックスとルル 04



◆本書より◆
 
「アイスナーは1929年にパプストが「淪落の女の日記」を撮っている現場を度々訪れて、記事を書いた(中略)。ルイズに英語で話しかけたが、はかばかしい返事が返って来ない。パプストに聞くと、もともと無口なのだという。彼女は撮影中、ブルックスの奇妙なカメラに対する受動性と「そこにいること」 présence の価値に気が付いた。
 1929年当時、彼女は書いた。
 「ルイズ・ブルックスは驚くべき首尾一貫(アンシスタンス)で存在する。彼女はこの二つの映画(「パンドラ」と「淪落の女」)で、謎のように無感動だ。これはほんとの大女優なのだろうか、それともただの娘ざかりというだけのことなのだろうか。その美しさにまどわされて、観客は彼女自身は知らない複合体を、彼女に付与するようにいざなわれるのだろうか」。
 トーキーの出現が、「無言でいること」を特異性とするルイズの経歴をたち切った。彼女の声もまた「特異性」を持っていた、とアイスナーはいう。(中略)しかしルイズが意見を率直にいい、人間と事物の観察の透徹、自己の思想をあからさまにいう術を心得ているのを知ったいま、『悪魔の映写幕』の再版(1963年)が出た時、「われわれは彼女が驚くべき演技者であったことを今日では知っている。桁はずれの知性にめぐまれていて、ただの娘ざかりだけではなかったのだ」と改めたという。」

「彼女の父は蔵書家で、ゲーテからディケンズに到るヨーロッパ文学書を持っていた。彼女は幼女の頃から読書の習慣を持ち、当時、ハリウッドで唯一人の本を読む俳優だったという。」

「しかしこの驚くべき女は、自己について、なんのイリュージョンも持たなかった。」
「「私にはハリウッドの生活は夢魔でした。私は大ホテルで自分の部屋が見付けられない女みたいでした。私は逃げ出しました。それからいつも自分から逃げ続けています。もはや69歳、自分を再び見付けるのをあきらめています。私は何者でもなかったのです」。」

「ルルは自分の殺し手である「切り裂きジャック」を、好きになってしまう。ヴェデキントもベルクも、ジャックを冷酷な殺人者として描き、舞台に三つの死体が横たわる(中略)。シェイクスピア劇のような終幕になるのだが、パプストではアルヴァもゲシュヴィッツも死なない。それだけ微温的エンターテインメント的といわれ、封切当時、批評はよくなかった。(中略)だがここに私はパプストが「切り裂きジャック」に加えた、新しい解釈を見逃してはなるまいと思う。」
「つまりジャックは刃物を見ると、それを使って人を殺したくなる自分を制することができない。彼はルルと同じく他界から遣わされた者なのだ。この二人の異星人は相惹かれるが、それぞれの使命を遂行することによって終る。その寓意は、キリスト教の精神によるパンドラの抹殺だが、それはそれぞれの実行者による無意識の行為と解することができる。」

「「ルル」以前の西欧の悪女、「椿姫」も「カルメン」も「サロメ」ですら、一人の男の運命を狂わせただけだった。ところが「ルル」は結婚の破壊者、制度の否定者として現われる。司法も警察もどうすることもできず、同類の犯罪者「切り裂きジャック」によって、やっと抹殺される。
 そして「切り裂きジャック」が、街に娼婦のあふれるヴィクトリア朝末期の世相の、トリックスター的、行動的批判者であると同じく、ヴェデキントのルルは、ウィルヘルム二世治世のベルリンの頽廃を、男たちを破滅させることによって曝き出す役割を果していると見なすことができる。それが1920年代のワイマール体制末期、大恐慌前夜に移されてアクチュアリティを失わなかった。」

「結論的にいって、「ルル」という人格には19~20世紀にまたがる制度破壊者としての問題と、サーカス的、トリックスター的道化の一面がある。二つの戦争にまたがる「生真面目な」世代に属する私には問題は主に前者にあるけれど、清澄なルイズの面影は、立ち去ったスクリーン・ラバーとして残っていた。それが西欧のリヴァイヴァルの気運でうかれ出したわけだが、この一文には忘れっぽい日本の映画界に対するトリックスター的いたずら気もなかったわけではない、といおう。」



大岡昇平 ルイズブルックスとルル 05


Pandora's Box (1929)






こちらもご参照下さい:

F・ヴェデキント 『地霊・パンドラの箱 ― ルル二部作』 岩淵達治 訳 (岩波文庫)
大岡昇平 『中原中也』 (講談社文芸文庫)





















































































ポール・D・ジンマーマン 『マルクス兄弟のおかしな世界』 中原弓彦・永井淳 訳

ポール・D・ジンマーマン 
『マルクス兄弟のおかしな世界』
中原弓彦・永井淳 訳


晶文社 
1972年12月15日 初版
1987年4月30日 9刷
302p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,800円
ブックデザイン: 平野甲賀

 

本書「マルクス兄弟論をふくむ解説」より:

「本書は、"The Marx Brothers at The Movies" (1968) の全訳である。
 原書は、マルクス兄弟の喜劇映画のギャグをこまかく記述したこともさることながら、二百枚を越す写真(スチルとコマ撮り)をおさめている点で、評判になった。だが、コマ撮りの不鮮明な写真をさらに複製するのは不可能なので(中略)訳書においては、写真のすべてをのせることはできなかった。
 この本は、のちにポケットブックになって広く読まれ、仏語訳のポケットブックも出版されている。マルクス映画を知るための、すぐれた手引書として定評がある。
 著者のポール・D・ジンマーマンは、げんざい、『ニューズウィーク』の映画評を担当している映画批評家である。この本に関していえば、(中略)スマートな書き方をしようとつとめたあげく、かえって、文章が、ぎくしゃくしている部分がある。その弱点は、マルクス映画のプロットとギャグを同時に辿るという難事業のプラス面にくらべれば、わずかなものであるが。」




マルクス兄弟のおかしな世界 01


目次:
 
シュルレアルな喜劇の出発 (植草甚一)

序章
ココナッツ The Cocoanuts (1929)
けだもの組合 Animal Crackers (1930)
いんちき商売 Monkey Business (1931)
ご冗談でショ Horse Feathers (1932)
我輩はカモである Duck Soup (1933)
オペラは踊る A Night At The Opera (1935)
マルクス一番乗り A Day At The Races (1937)
ルーム・サーヴィス Room Service (1938)
マルクス兄弟珍サーカス At The Circus (1939)
マルクスの二挺拳銃 Go West (1940)
マルクス兄弟デパート騒動 The Big Store (1941)
マルクス捕物帖 A Night In Casablanca (1946)
ラヴ・ハッピー Love Happy (1949)
終章
 
マルクス兄弟論をふくむ解説 (中原弓彦)
訳者あとがき (中原/永井)



マルクス兄弟のおかしな世界 03



◆本書より◆


「序章」より:

「事実マルクス兄弟は“およそありえないようなこと”の暗喩となった。彼らはアメリカの正気の時代において、アメリカを代表する狂人たちであった。彼らは大恐慌の逼迫した数年間を通じて、終始極端で放埓であった。ヨーロッパおよび合衆国内におけるファシズム擡頭のさなかにあって、彼らは自由な精神にもとづくアナキーの旗を高く掲げた。」
「チャップリン、キートン、フィールズの場合と同じように、彼らの喜劇もまた二つの大きな力、すなわち貧困とヴォードヴィルによって形成された。チコ、ハーポ、グルーチョはそれぞれレナード、アドルフ、ジュリアスとして――この順で――あまり華やかでなかった九〇年代に、マンハッタンのヨークヴィル地区のスラム街で生まれた。スラム街は喜劇のアナキストたちを育てる申し分のない土壌だった。」



マルクス兄弟のおかしな世界 02

マルクス兄弟。上からグルーチョ、ゼッポ、ハーポ、チコ、ガモ。




























































































エリック・ロメール 『美の味わい』 梅本洋一/武田潔 訳

「身振り(ミミック)というものを、この世で最も美しい散文よりもさらに繊細で、さらに雄弁なものにした芸術の美点」
(エリック・ロメール 「『恋多き女』――猿たちとヴィーナス」 より)


エリック・ロメール 
『美の味わい』
梅本洋一/武田潔 訳


勁草書房 
1988年1月25日 第1版第1刷発行
265p 序・目次vii 作品索引vi 
著者・訳者紹介1p
A5判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー
定価3,300円



本書「序」より:

「本書は、エリック・ロメールが映画について書いた最も重要な文章を四部に分けた批評集である。それらは一九四八年から一九七九年の間に様々な場所に発表され、中でも重要なのは「カイエ・デュ・シネマ」誌である。」


本書「あとがきにかえて」より:

「なお翻訳は、冒頭のインタビュー、第二部、第三部を梅本、第一部、第四部を武田が担当した。」


Eric Rohmer : Le goût de la beauté, textes réunis et présentés par Jean Narboni, Editions de l'Etoile, 1984
本文二段組。本文中図版(モノクロ)多数。



ロメール 美の味わい 01

カバー表。写真は「ストロンボリ」(ロッセリーニ)のイングリッド・バーグマン。


帯文:

「ヌーヴェルヴァーグの正統を
疾走しつづける男の映画論」



帯背:

「ヌーヴェルヴァーグ
映画作家の映画論」



ロメール 美の味わい 02

カバー裏。写真は「O侯爵夫人」(ロメール)のブルーノ・ガンツとエディット・クレヴァー。


ロメール 美の味わい 03


目次:

序 (ジャン・ナルボニ)
批評の時代――ジャン・ナルボニによるエリック・ロメールへのインタビュー

Ⅰ 映画の古典時代
 映画――空間の芸術
 トーキー映画のために
 もう映画を愛してはいない
 色彩についての考察
 映画の古典時代
 絵画の空しさ
 イズー、あるいはありのままの事物――アヴァンギャルドについての意見
 三本の映画作品と、ある一つの流派について
 趣味と色彩について
 美の味わい
 ある批評家への手紙――『教訓話』シリーズについて
 映画作品と、話法の三つの面――間接/直接/超直接
 
Ⅱ 不純な映画のために
 アンドレ・バザンの「集大成」
 ある失敗の教訓――ジョン・ヒューストン『白鯨』
 票決の解説――ジョシア・ローガン『南太平洋』
 信仰と山々――マルセル・イシャク『正午の星』
 スポーツのフォトジェニー――『ローマ・オリンピック』
 
Ⅲ 作家主義(一九五〇~一九五八)
 ロベルト・ロッセリーニ『ストロンボリ』
 ハワード・ホークス『果てしなき蒼空』
 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『ピカソ――天才の秘密』
 オーソン・ウェルズ『アーカディン氏/秘密調書』
 ニコラス・レイ『ビガー・ザン・ライフ』
 ルイス・ブニュエル『アルチバルド・デ・ラ・クルスの犯罪的人生』
 フランク・タシュリン『ロック・ハンターは成功でダメになるか』
 ジョージ・キューカー『魅惑の巴里』
 ジョセフ・L・マンキーウィッツ『静かなるアメリカ人』
 イングマール・ベルイマン『女たちの夢』
 アルフレッド・ヒッチコック『めまい』
 
Ⅳ ジャン・ルノワール
 アメリカのルノワール
 『恋多き女』――猿たちとヴィーナス
 ジャン・ルノワールの若さ
 『ジャン・ルノワールの小劇場』

あとがきにかえて (梅本洋一・武田潔)
作品索引



ロメール 美の味わい 04

ロメールとゴダール。



◆本書より◆


「映画――空間の芸術」より:

「動作と運動が新たな意味を担うような空間世界が、我々の前に確固たるものとして現前するのは(中略)とりわけバスター・キートンの映画においてである。バスター・キートンはスクリーンにおける最も偉大な喜劇俳優の一人であるだけでなく、映画の最も真正な天才の一人である。人はこれまで彼の喜劇の持つ機械的な性格を強調してきたし、またある種の無味乾燥さのために、そうした性格がはじめの内はいささか人をとまどわせることも事実である。(中略)彼が頻繁に用いる暗示的なスタイルにも、取り立ててすぐれたアイデアは見られないとする見方も、あながち間違いではないだろう。というのも、彼にとっては、動作の心理的な意味合いよりも、運動がスクリーンの空間に描き出されるやり方自体から生ずる喜劇性の方が、はるかに重要だからである。たとえば、『ラスト・ラウンド』の中で、我々は十五分近くもの間、見習いボクサーがマネージャーの指示する実に単純なアッパー・カットの動作をまねようとして、それができずに苦労する様子を見る。この失敗の喜劇性は、もし動作の不器用さが、言わばそれ自体のために展開されていなかったとしたら――すなわち、その無器用さが、反復ということによって、ある美学的な正当性を得るに至らなかったとしたら――、何ら独創的なものにはならなかっただろう。しかし、それにもまして重要なのは、この無器用さが空間についての一種の問いかけ、三次元「根拠」に関する探索(中略)のように見えることである。同じ作品について言えば、その最も驚くべき瞬間は、おそらく、心ならずもボクサーになった主人公が、リングに上がろうとしてロープにはさまってしまう瞬間だろう。そうした「格好」のおかしさを、この映画を見なかった人に伝えることは不可能だが、そのことがまさに、この場面の映画的価値の真実性を証明している。」
「例外的な瞬間を取り上げているのではない。バスター・キートンは、その映画作品全体を通じて、映画においては他に類を見ない、ある種の無器用さと孤独の空間への執着を表現しているのである。マックス・ブロートは、カフカの「アメリカ」の出版に際して付けた注の中で、この本のいくつかの部分は否応なく「チャップリンを想起させる」と述べている。絶対的な厳密さ、幾何学的な行動といった性格から、カフカの非人間的な世界に通ずる世界観を求めるとすれば、それはチャップリンではなく、またラングドンですらなく、むしろバスター・キートンにおいてでなければならないだろう。チャップリンにおいては、孤独というものは、『サーカス』や『黄金狂時代』の名高い映像によって独特に表現されている場合ですら、無関心な社会の中での人間の孤独でしかありえないのである。一方、キートンにおいては、人や物の孤立は空間の本性そのものを形作っている。そうした孤立は、とりわけ往復運動の主題によって示され――すべてが絶えず自らに向かって「投げ返される」かのように――、また急激な落下や地上への激突によって、あるいは無器用に物をつかもうとして、その物が手をすり抜けたり壊れたりすることによって示される、あたかも、外界がその本質自体のために「把握する」ことが困難であるかのように。」



「絵画の空しさ」より:

「『極北の怪異』は映画作品の中でも最も美しいものである。(中略)映画作家の努力は、時間が一度に我々を閉じ込めるこの現在というものの境界を壊すことに向けられてきた。しかし、その第一の目標は、瞬間というものに対して、他の芸術が与えることを拒否している重みを付与することだった。待つことの悲愴感は、他の場合には至るところで卑俗な手段と化しているが、映画においては、神秘的なやり方で、事物の理解そのものの中に我々を投げ入れる。」
「例を一つだけあげておこう。主人公のエスキモーが、浜辺で寝ているアザラシの一群を捕える機会を窺って、画面の隅にしゃがみ込んでいるくだりである。このショットの美しさはどこから来るのか。それはひとえに、カメラが我々に示す視点が、ドラマの当事者のそれでも、また人間の眼のそれですらもない、ということからくるのである。(中略)ここでは行動の悲愴感以上に、時間の神秘そのものが我々の不安を形作っているのである。」




拳闘屋キートン(キートンのラストラウンド)
Buster Keaton - Battling Butler (1926)





























































































ルイス・ブニュエル 『映画、わが自由の幻想』 (矢島翠 訳)

「場合によっては、科学に向ってくそくらえというべきだ。」
(ルイス・ブニュエル)


ルイス・ブニュエル 
『映画、わが自由の幻想』 
矢島翠 訳


早川書房 
1984年7月15日 初版発行
1991年2月28日 4版発行
466p(うち別丁モノクロ口絵16p) 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,200円(本体3,107円)
装幀: 辰巳四郎



本書「訳者あとがき」より:

「この自伝は Mon Dernier Soupir (《わが最後の吐息》)の原題で、一九八二年、パリの Editions Robert Laffont から出版された。ブニュエルは翌八三年七月二十九日、メキシコ市で、八十三歳の生涯を閉じた。」


本書より:

「わたしはもの書きではない。ジャン=クロード・カリエールがわたしと長時間話し合ったあとで、この本を書く手助けをしてくれたのだが、わたしのいったことはすべてそのまま、いかされている。」


ブニュエル 映画わが自由の幻想 01


カバーそで文:

「■本書は、モラリストで、慎み深く、きわめて機知に富んだ偉大な映画作家の、ありきたりからはほど遠い自伝である。
――フランソワ・トリュフォー
■本書で驚くのは幾つかの国と文化にまたがった長い生涯における豊かさと多様性である。それは中世に始まり、間にシュルレアリスム、スペイン内戦、ハリウッド、メキシコを挟んで現代に終り、諷刺、孤独、友情、想像力から成っている。そして現代で最も鋭く、最も奥深い視線の一つ、時に憂うつな嘲笑する隠者の視線でとらえられている。
次に驚くのはまるでスペインのピカレスク小説のような閑談、逸話、余談の面白さだ。ルイスは突然立ち止り、道端の木陰に腰を下ろすと、肝心なこと――酒、愛、神、偶然、夢、死について語り始める。それから陽の当る道に戻るのだ。
並外れた人物の心象、波瀾に満ちた世紀の驚くべき、時に背徳の散策である本書はまた、個人の厳格な倫理だけが人生を支配しうる唯一のものであるということの、粘り強い確認の書でもある。
人間はいかにして自己を形成するのか? 本書はこの古くからの問いに答えようともしている。運命への接近、すべての生と同じく偶然と自由の間で揺れる生の秘かな冒険が本書である。
――ジャン=クロード・カリエール」



目次:

1 記憶
2 中世の回想
3 カランダの太鼓
4 サラゴーサ
5 コンチータの回想
6 現世のたのしみ
7 マドリード――学生館 一九一七~一九二五年
8 パリ 一九二五~一九二九年
9 夢と夢想
10 シュルレアリスム 一九二九~一九三三年
11 アメリカ
12 スペイン、フランス 一九三一~一九三六年
13 愛情とそのさまざまな顔
14 スペイン内戦 一九三六~一九三九年
15 わが無神論も、神のおかげ
16 またアメリカで
17 ハリウッド、これにて完結
18 メキシコ 一九四六~一九六一年
19 好きなもの、きらいなもの
20 スペイン、メキシコ、フランス 一九六〇~一九七七年
21 白鳥の歌

訳註
ルイス・ブニュエル監督作品
訳者あとがき
映画タイトル索引



ブニュエル 映画わが自由の幻想 02



◆本書より◆


「記憶は絶え間なく想像と夢想の侵略をうけている。そして想像の現実を信じたいという誘惑がある以上、われわれは結局自分たちのうそを真実にしてしまう。だがその重要性は相対的なものだ。なぜなら、うそも真実も、ともにわれわれが生きたものであり、われわれ自身のものであることに変りはないのだから。」

「『アンダルシアの犬』
 この映画は、二つの夢の出会いから生れた。フィゲラースのダリの家に二、三日泊りに来ないかという誘いをうけて行った時、わたしは、少し前に見た夢の話をした。細い横雲が月をよぎり、かみそりの刃が目を切り裂く。ダリの方も昨夜夢に見たばかりだといって、てのひらにアリがいっぱいいる光景を話した。彼が続けていうには、「そこを出発点にして、二人で映画をつくったらどうだい?」
 この提案にはじめのうちわたしは迷っていたが、話は一足飛びに運んで、わたしたちはフィゲーラスで仕事に入った。
 シナリオは、二人が意見一致で採択した、簡単きわまる規則によって、一週間足らずで書きあげられた。合理的、心理的ないし文化的な説明を成り立たせるような発想もイメージも、いっさい、うけいれぬこと。非合理的なるものに向けて、あらゆる戸口を開け放つこと。われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について、穿鑿(せんさく)しないこと――である。
 ダリとの間には、わずかな意見の相違だろうと一度も生じなかった。完璧な一身同体の一週間だった。たとえば、一方がこういう。「男がコントラバスを引きずる」。相手は、「そうじゃない」という。するとアイデアを出した方は、この拒否をその場でうけいれるのだった。拒否されるのが当然という気になるのだ。その反対に、ひとりが提案したイメージを相手もうけいれた場合には、そのイメージはとたんに異論をさしはさむ余地のない名案に思えて、即座にシナリオにとりあげられた。
 シナリオが完成してみると、これはまったく異例の、挑発的な映画で、普通の製作システムにはおよそうけいれてもらえないということに気がついた。そこでわたしは自主製作するために、母にまとまった金を無心した。公証人が口をきいてくれたので母も納得し、金を出してくれた。」

「お前はあと二十年しか生きられない。これから毎日二十四時間を生きる間に、何をするつもりだね、と聞かれたとしよう。わたしの答えはこうだ。二時間は活動的に、二十二時間は夢のうちに過させて下さい。ただし、その夢を思い出せるという条件で。――なぜなら夢というものは、それをいとおしむ記憶によってしか、存在しないのだから。
 たといわたしの夢が悪夢であるにせよ、わたしは夢を熱愛する。悪夢である場合が一番多いのだが。いつも夢の中には、それとわかる、おなじみのさまざまな邪魔物が、あちこちに顔を出している。だがそれでも構いはしない。
 夢――夢見ることの快楽に対するこの物狂いは、どんな説明を加えようとしてもまったく手がかりは見つからない。それはわたしに深く根ざし、わたしをシュルレアリスムに近づけた好みのひとつである。」

「それでもわたしが(中略)シュルレアリスムの隊列に身を置いていたことは、生涯、わたしにとって何かを残した。残ったもの、それはまず、認識と願望を問わず、存在の深みにこうして自由に立ち入りできること、非合理を、曖昧さを、われらの内奥の自我から生じるありとあらゆる衝動をよび出そうとする、この声である。最初あれほど力強く(中略)ひびき渡った呼び声に付随して、稀有の不遜が、あそび心が、われらにとってまがまがしく映るものすべてに向って闘うときの、生き生きとした持続力が、あった。それらすべてのうち、ひとつとして、わたしは否認していない。
 付け加えていえば、シュルレアリストの直観はそのほとんどが正確だった。例をひとつだけあげておくが、労働についての――(中略)社会における聖なるきわみの価値、不可侵のことばである労働についての、直観である。シュルレアリストは労働に組織的な攻撃をかけ、その虚偽をあばき、賃金労働は恥であると天下に告げた、最初の人々だった。『哀しみのトリスターナ』でドン・ロペが、口のきけない青年に向っていうことばに、この誹謗がこだましていることがわかるだろう。
 「あわれなるかな、働く者よ。(中略)サトゥルノ、労働は呪いだよ。生計のためにやむを得ざる労働なんて、棄てちまえ! (中略)それとは反対に、たのしみでする仕事、自分に向いてるからする仕事は、人間を高貴にする。(中略)わたしをご覧、働いていないだろ。首をくくられたって、働くものか。ご覧の通り、わたしは生きているぞ。(中略)働かずに生きているぞ」」

「だがわたしは、科学には関心がない。科学は生意気で、分析的で、浅薄に思える。夢、偶然、笑い、感情、矛盾、すべてわたしにとって大切なものを、科学は無視している。(中略)わたしが選んだ自分の居場所は、神秘のうちにある。あとはそれを尊重するまで。」

「わたしの作品について、ありとあらゆるたぐいの精神医学者や分析家が、ふんだんに書きまくった。(中略)分析家のなかには、(中略)わたしは〈分析不可能〉だと断じた奴がいることを、つけ加えておく。まるでわたしがほかの文化、ほかの時代に属しているかのようないい分だが、とどのつまり、それは大いにあり得ることだ。
 このとしになっては、人にいわせておこう。わが想像力はつねに健在で、わが末期のときに至るまで、指一本させぬその無垢の力をもって、わたしを支えてくれるだろう。理解することのおぞましさよ。予期せぬことを迎えるしあわせよ。そうした、むかしからの性向は、歳月とともに強まってきた。」

「その時までわたしは、サドのことをまったく知らなかった。読むにつれてわたしは心底から驚かされた。(中略)教師のごとく、系統立てて、社会をあらゆる視点から検討し、文化を白紙状態(タブラ・ラサ)に戻すことを提案しているこのどえらい本の存在を、なぜわたしは知らなかったのか?(中略)わたしは心につぶやいた。何より先にサドを読ませてもらえればよかったのに! 何とまあ無駄に本を読んだことか!」「自分を焼いた灰はどこでもいいから棄ててしまい、作品も、名前までも、人類の記憶に残らないでほしいというサドの遺言にも、わたしは深く心をうたれた。自分も同じことをいえたらいい、と思う。(中略)忘却万歳だ。わたしにとって、尊厳は虚無のうちにしかない。」

「わたしは雨の音が好きだ。記憶のなかにこの世で最も美しい音として残っている。(中略)雨は偉大な民族をつくる。」

「わたしは群集にはぞっとする。」

「わたしは職人が好きだ。」

「わたしは統計がきらいだ。」

「わたしは蛇と、特にねずみが好きだ。」

「わたしは生体解剖がこわい。学生時代のある日のこと、蛙をはりつけにして、生きたままかみそりの刃で解剖し、その心臓のはたらきを観察しなければならなかった。それはひとつの体験であり――なおかつ、まるきり役に立たぬまま――わたしに生涯残る印象を与え、今日でもまだわたしはみずからを赦しかねている。甥のひとりに、アメリカ人で、行く行くはノーベル賞ものの大神経学者だったのに、生体解剖が理由で研究を途中でやめてしまったのがいるが、わたしは彼に熱烈な拍手を送りたい。場合によっては、科学に向ってくそくらえというべきだ。」

「わたしは変装が好きでたまらないが、子供のころからそうだった。」

「わたしは宴会が死ぬほどきらいだし、賞の授与もだ。」

「わたしはきまったことを守るのと、前から知っている場所が好きだ。トレドかセゴビアに行く時には、いつも同じ道を通って行く。いつも同じ場所に降り立って、あたりを眺め、同じものを食べる。」

「わたしはマニアが実に好きだ。(中略)マニアは生きて行く助けともなり得る。マニアのない人たちはかわいそうだ。」

「わたしは政治がきらいだ。この領域においては、わたしは四十年来、あらゆる迷夢から解放されている。もはや政治は、信じていない。」

「いまや、これだけはたしかだ――科学は、人類の敵である。科学はわれらのうちなる全能たらんとする本能をおだてあげるが、その道はわれわれの破滅に通じている。(中略)何年か前から黙示録のラッパがわれらの戸口で吹き鳴らされているが、われわれは耳をふさいでいる。この新たな黙示録は、いにしえの場合と同様に、疾駆する騎馬の四者となって来たる。人口過剰、科学、テクノロジー、それに情報。」

「想像の上では人間の生命は、わたしにとって蠅の生命とひとしなみだ。実際にはわたしにとってあらゆる生命は尊く、蠅の生命でさえ例外ではない。こいつは妖精と同じくらい謎めいていて、感嘆すべき生きものである。」











































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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