エンマ・ミケレッティ 『ドメニコ・ギルランダイオ』 林羊歯代 訳 (イタリア・ルネサンスの巨匠たち)

エンマ・ミケレッティ 
『ドメニコ・ギルランダイオ』 
林羊歯代 訳
 
イタリア・ルネサンスの巨匠たち 15 フィレンツェの美神

東京書籍
1994年2月26日 第1版第1刷発行
80p
28×21cm 並装 カバー
定価2,000円(本体1,942円)



Emma Micheletti: DOMENICO GHIRLANDAIO, 1990 (I grandi maestri dell'arte)
図版90点。


ギルランダイオ 01


カバーそで文:

「ドメニコ・ギルランダイオ(フィレンツェ1449―94年)
ギルランダイオは、15世紀のフィレンツェでもっとも活気のある工房を2人の弟とともに経営していた。その様式は、マザッチョとフィリッポ・リッピをもとにした折衷的なものではあるが、フレスコ画による物語場面の描写を得意とし、フィレンツェを中心に非常に数多くの作品を残した。彼の絵画には、当時の街の景観や風俗、流行の衣装、そして注文主や有力者、著名人の肖像が好んで描かれ、親しみやすいものとなっている。若きミケランジェロが修業したのも、ギルランダイオの工房であった。」



目次:

ギルランダイオの生涯
初期の作品
サン・ジミニャーノにおける《聖女フィーナの生涯》
《最後の晩餐》
システィナ礼拝堂のフレスコ画
円熟期の作品
 《百合の間》およびサッセッティ礼拝堂のフレスコ画
 トルナブオーニ礼拝堂
板絵

主要文献




◆本書より◆


ギルランダイオ 02


「聖女フィーナの生涯 聖女フィーナに死の告知をする聖グレゴリウスとその部分」(サン・ジミニャーノ、聖堂参事会聖堂)。


ギルランダイオ 03


「書斎の聖ヒエロニムスとその部分」(フィレンツェ、オニッサンティ聖堂)。


ギルランダイオ 04


「聖フランチェスコの生涯 スピーニ家の子どもの蘇生とその部分」(フィレンツェ、サンタ・トリニタ聖堂)。


ギルランダイオ 05


「洗礼者ヨハネの生涯 聖母のエリサベツ訪問(部分)」(フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂)。

















































































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J・ホイジンガ 『中世の秋』 堀越孝一 訳

「末期中世の精神の本質を示す諸徴表(中略)。はなはだしく感じやすいこと、あらゆる細目を独立の事物とみること、感じとられた性質のすべてをなにか実体をもつものとみなすこと、視野にはいる事物の世界の多様性、多彩性に没入すること」
(J・ホイジンガ 『中世の秋』 より)


J・ホイジンガ 
『中世の秋』 
堀越孝一 訳


中央公論社
昭和46年8月30日 初版
昭和51年6月25日 8版
608p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背バクラム装上製本 貼函 
定価1,800円



Johan Huizinga: Herfsttij der Middeleeuwen, 1919

本書は「世界の名著」版(1969年)を単行本化したもので、訳者による新版への「あとがき」が追加されていますが、それは「史学雑誌」昭和39年3月号に発表された「中世ナチュラリズムの問題(一)」のホイジンガに関する章を独立させ「表現を若干あらため、あとがきにかえ」たものだとあります。
後に中公文庫版と中公クラシックス版が出ています。

二段組。図版(モノクロ)多数。


ホイジンガ 中世の秋 01


目次:

ホイジンガの人と作品 (堀米庸三)
 ホイジンガの故国で
 歴史への道
 『中世の秋』
 『ホモ・ルーデンス』の哲学
 ブルゴーニュ侯国、歴史と伝統
 地理的景観
 ゲルマン時代からカペー朝成立まで
 カペー朝時代のブルゴーニュ
 ヴァロワ家時代のブルゴーニュ


中世の秋
 第一版緒言
 I はげしい生活の基調
 II 美しい生活を求める願い
 III 身分社会という考えかた
 IV 騎士の理念
 V 恋する英雄の夢
 VI 騎士団と騎士誓約
 VII 戦争と政治における騎士道理想の意義
 VIII 愛の様式化
 IX 愛の作法
 X 牧歌ふうの生のイメージ
 XI 死のイメージ
 XII すべて聖なるものをイメージにあらわすこと
 XIII 信仰生活のさまざま
 XIV 信仰の感受性と想像力
 XV 盛りを過ぎた象徴主義
 XVI 神秘主義における想像力の敗退と実念論
 XVII 日常生活における思考の形態
 XVIII 生活のなかの芸術
 XIX 美の感覚
 XX 絵と言葉
 XXI 言葉と絵
 XXII 新しい形式の到来

史料解題
年譜
索引

歴史学が『中世の秋』に負うている負債――あとがきにかえて (堀越孝一)



ホイジンガ 中世の秋 02



◆本書より◆


「I はげしい生活の基調」より:

「世界がまだ若く、五世紀ほどもまえのころには、人生の出来事は、いまよりももっとくっきりとしたかたちをみせていた。悲しみと喜びのあいだの、幸と不幸のあいだのへだたりは、わたしたちの場合よりも大きかったようだ。すべて、ひとの体験には、喜び悲しむ子供の心にいまなおうかがえる、あの直接性、絶対性が、まだ失われてはいなかった。」
「すべてが、多彩なかたちをとり、たえまない対照をみせて、ひとの心にのしかかる。それゆえに、日常生活はちくちくさすような情熱の暗示に満たされ、心の動きは、あるいは野放図な喜び、むごい残忍さ、また静かな心のなごみへと移り変わる。このような不安定な気分のうちに、中世都市の生活はゆれうごいていたのである。」

「一四二五年、パリでのこと、ある「おなぐさみ」が催された。武装した四人のめくらが一匹の子豚をめぐって闘う、という悪ふざけである。その前日、かれらは、武具をつけさせられて、市中をひきまさわれた。風笛吹きと、子豚の描かれた大きな旗をもつ男に先導されて。
 ヴェラスケスは、小人の娘たちの深くもの悲しい顔をかき残してくれた。当時まだ、スペインの宮廷では、小人の女たちが道化役として珍重されていたのである。十五世紀、かの女たちは、各地の君侯の宮廷からひっぱりだこにされた遊びの道具だった。宮廷の大祝宴の趣向をこらした「余興(アントルメ)」に、かの女たちは芸を披露(ひろう)し、奇形の姿をさらした。ブルゴーニュ侯フィリップの金髪の小人女、黄金夫人(マダーム・ドール)は、広く知られていた。かの女は、アクロバットのハンスと格闘させられている。
 一四六八年、シェルル突進侯とマーガレット・オブ・ヨークとの結婚の祝宴には、「マドモワゼル・ド・ブルゴーニュの小人女」たるマダーム・ド・ボーグランが、羊飼い女の服装で、馬よりも大きい黄金のライオンにのってあらわれた。このライオンは、口をあけたりとじたりすることができ、しかも歓迎の歌までうたったという。羊飼い女は、若い侯妃への贈りものとして、テーブルの上におかれた。
 このような娘たちの運命についての嘆きの声を、わたしたちは耳にしない。会計簿の記録が、かの女たちのことをわずかに伝えている。どんなふうに、某侯妃は、ある小人娘を両親の家から連れてこさせたか、その父母が娘を連れてやってきたか、その後、どんなにかしばしば、かれらは、娘に会いにやってきて、そのたびに心づけをいただいたか。会計簿は記している、「その娘に会いにきた道化女ブロンの父に、なにがし」。その父親は、娘の宮仕えに得意になり、喜び勇んで家路についたのだろうか。同じ年、ブロワのさる錠前師は、鉄の首環(くびわ)をふたつ納めている。ひとつは「道化女ブロンをつなぐため、他は侯妃の牝猿(めすざる)の首にはめるため」
 心を病んでいるものがどんな取扱いをうけたかは、シャルル六世についての報告から推し測ることができる、王であるのだから、ふつうとはちがって、ずっとていねいに世話されていたではあろうが。このかわいそうな気ちがいに着替えをさせるためには、悪魔がかれを迎えにきたかのように、黒ずくめの十二人の男がかれをおどすというやりかたよりもよい方法を、人びとは知らなかったのである。」



「II 美しい生活を求める願い」より:

「子供っぽい大喜び、いちずな楽しみから、ふとわれにかえり、考えに沈むとき、この世の悲惨に対するはげしい失意がかれらの心を占める。その心のかまえが、日々の現実をみるかれらの目つきをきめ、かれらは、そのようにしか現実をみなかったのである。
 いつの時代にもひとのあこがれ求める、もっと美しい世界は、どこにあるのか。

 より美しい世界を求める願いは、いつの時代にも、遠い目標をめざして三つの道をみいだしてきた。第一の道は、世界の外に通じる俗世放棄の道である。美しい生活とは、ただに、彼岸にいたることを意味し、つまりは、俗世のことがらからの解放であるといえる。(中略)すべて高い文明は、この道を歩んできた。」
「第二の道は、世界そのものの改良と完成をめざす道である。中世は、この志向をほとんど知らなかった。」
「より美しい世界への第三の道は、夢みることである。(中略)この世の現実は、絶望的なまでに悲惨であり、現世放棄の道はけわしい。せめては、みかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和しよう。
 ひとつの単純なテーマ、たったひとつの和音があればよい。それだけでひとの心をうっとりとさせるフーガをひびかせることができる。美しかった過ぎし日の幸福を想いしのぶだけでよい。」



「XI 死のイメージ」より:

「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。「死を想え(メメント・モリ)」の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた。」

「あたかも、中世末期の精神は、ただ、人生無常との観点からしか、死を考えることを知らなかったかのようなのだ。
 すべて、この世のおごりには終りがあるとの、永遠につきない嘆きをかなでる三つのメロディーがあった。第一のメロディーをかなでるのは、かつてその栄光一世を風靡(ふうび)した人びとは、いまいずこにある、というテーマ。第二のメロディーをかなでるのは、ひとたびは、この世の美とうたわれたものすべてが、腐り崩(くず)れていくさまをみて恐れおののくというテーマ。そして、第三に、死の舞踏のテーマ、この世のなりわいを問わず、老幼の別なく、死はすべての人をひきずりまわす、という。」

「肉のからだの解体をはげしく忌む気持の裏側には、たとえばヴィテルボの聖ローザの場合のように、聖者の死体が腐らずに残されたという事実を、おおいに高く評価したいという要請があった。」
「ときとすると、死体が、異常なまでの配慮をもって取り扱われることがあったが、そのことのうちにも、この精神のはたらきが認められるのだ。高貴の人が死んだ場合、その死の直後に、顔の輪郭を顔料でなぞり、埋葬のときまで腐敗のさまがみえないようにするという習慣があった。」
「パリの牢獄で、判決のおりるまえに死んだテュルリュパン派異端の某説教師の遺体は、十四日間、石灰の樽(たる)につめられて保存された。ある異端女といっしょに焚刑(ふんけい)に処するためであったという。
 これは当時、一般にひろまっていた風習であったが、その生地から遠く離れたところで貴人が死ぬと、その遺体はこまぎれにされ、肉が骨から分離するまで、気ながに煮つめられる。そして、骨はきれいに洗われて、箱につめられ、故郷に送られて、おごそかに埋葬される。一方、内臓と煮だし汁(じる)とは、その地に葬られるのである。このやりかたは、十二、三世紀に大流行し、国王はもちろん、司教についてもしばしば行なわれた。」

「マカーブル、いや、もともとのかたちではマカブレというふしぎな言葉があらわれたのは、十四世紀のことであった。「わたしは、マカブレのダンスをした」、ジャン・ルフェーヴルは、一三七六年に、こう書いている。この言葉の語源については、ずいぶん議論されたものだが、要するにこれは一個の固有名詞なのだ。はじめに、ラ・ダンス・マカーブル、すなわち「死の舞踏」といういいまわしがあり、のちになってマカーブルという形容詞が分離して、微妙なニュアンスの意味をもつ言葉になったのである。そのニュアンスは、たいへん鋭く、独特のものであって、わたしたちは、この言葉を使って、後期中世の死のヴィジョンを、あますところなく表現することができるほどだ。」
「すべてを律しようとする宗教思想は、このマカーブルのアイデアをもその倫理のうちにとりこみ、これを、「死を想え」の想念に合致せしめようとした。」
「「死の舞踏」のほかにも、これを中心として、なおいくつかの、これに似た、死に関連するイメージのグループがあった。いずれも、これと同様、人びとの心に恐れの念をよびさまし、警告を与える役割を果たしていた。「三人の死者と三人の生者」の物語が成立したのは、死の舞踏のイメージ形成よりもはやかったのである。
 すでに十三世紀に、この物語は、フランスの文学に登場している。その骨子は、三人の若い貴人が、たまたま、恐ろしげな三人の死者に出会う。死者は、若者たちに、かつては貴顕の座にあったこの世での前身を語り、遠からぬ先に、かれら若者たちを待ちうけている死のことを教える、というのである。」



「XII すべて聖なるものをイメージにあらわすこと」より:

「イメージに描かれることによって、聖者は肉体を獲得したわけであるが、この、聖者もまた肉の身であるという考えを助長したのは、聖者のからだの遺物について、教会は、これの崇敬を認め、かつ、勧めさえもしていたという事情であった。この物質への執着、遺物崇敬の影響するところ、信仰の物質主義化は、いわば必然であり、ときとすると、それは、おどろくほどの極端さをみせたのである。
 中世の強烈な信仰は、こと聖遺物に関するとあれば、どんな興ざまし、どんな涜神に出会おうとも、恐れるようなことはなかったのだ。一〇〇〇年ごろのこと、ウンブリア山中の民衆は、聖ロムアルドゥスをなぐり殺そうとした。その骨がほしかったからだという。一二七四年、トマス・アクィナスは、フォッサヌォーヴァ修道院で死んだ。そこの修道士たちは、高価な聖遺物の散逸を恐れ、このけだかい師のからだを、文字どおり、加工保存したという。頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ。
 一二三一年に死んだハンガリーの聖エリザベートの遺骸(いがい)が、埋葬のため安置されていたときのこと、一群の信者がやってきて、かの女の顔をつつんでいた布の切れ端を、切りとったり、ひきちぎったりしたばかりか、髪の毛は切る、爪(つめ)は切りとる、はては、耳たぶのはしや乳首までもむしりとっていったという。
 サン・ドニの修道士の報告によれば、一三九二年、ある盛大な祝宴の席上でのこと、シャルル六世は、その先祖、聖王ルイの肋骨(ろっこつ)を列席者に分け与えたという。」



「XIII 信仰生活のさまざま」より:

「敬虔ぶかさと罪ぶかさとの対照は、ルイ・ドルレアンのような人にあっては、不可解なほど極端にあらわれている。ぜいたくと享楽とを情熱的に追い求める、あまたの王侯貴族のうちでも、かれは、群をぬいた俗物であった。かれは、魔術に熱中し、けっしてそれをやめようとはしなかった。にもかかわらず、その同じオルレアン侯が、実はたいへんに信心ぶかく、セレスタン派修道院の宿坊に個室をもち、修道士と同じ生活を送り、真夜中に起きては、早朝のおつとめに参列し、日に五、六度も、ミサにあずかることがよくあった、というのである。
 ジル・ド・レの場合の信心と悪行との結合には、恐ろしいまでのものがある。かれは、マシュクール城で小児殺害の悪行にふけるかたわら、魂の救いのために、と、「罪なき子ら」崇敬のミサを、教会に寄進しているのだ。また、この悪行ゆえに裁(さば)かれたかれは、裁判官たちに異端と裁定されて、おどろいたという。」
「これらすべての事例に、みせかけの敬虔、やみくもの頑固(がんこ)ぶりをみてはなるまい。むしろ、両極にひきさかれた精神の緊張を知るべきだろう。近代の心をもってしては、ほとんど理解しがたい精神の状況なのである。」
「中世人の意識にあっては、いわば、ふたつの人生観が、よりそいあって存在していたのである。敬虔にして禁欲的な人生観は、すべての道徳感情を、おのれの側にひきつけた。それに反発するかのように、世俗的人生観は、ますます奔放に、悪魔にすっかり身をゆだねることになった。このふたつの人生観のうちどちらかが、他を完全におさえて支配的となるとき、聖者が、あるいは度しがたい罪人がみられることになろう。だが、一般に、両者は、針の大きな振幅を示しつつ、からくも均衡を保っていたのであって、だから、血みどろの罪にまっかにそまっていればこそ、それだけいっそう激烈に、あふれんばかりの敬虔の想(おも)いを、ときとすると爆発させることもあるという、激情の人間像がみられたのであった。
 中世の詩人は、卑俗卑猥(ひわい)にわたる詩を、さまざまに作っているかと思えば、敬虔あふれる頌歌(しょうか)をもまた歌っている。(中略)これが近代の詩人の場合ならば、この詩は、世俗に溺(おぼ)れていた時期の作、この作品は、これは悔い改めた時期のものと、制作年代を仮定して考えるところかもしれないが、中世の詩人の場合には、そう考えてしかるべき理由は、すこしもない。ほとんどわたしたちには理解しがたい矛盾は、そのまま矛盾としてうけとるべきである。」

「ピエール・ド・リュクサンブールは、なみはずれて背の高い、肺病やみの若者であり、子供のころから、厳格きわまる信心を、ただひたすらまじめに守ることしか知らなかったという。かれは、幼い弟が笑ったというので、これをしかり、こういったという、聖書には、われらが主は泣きたもうたとはあるが、笑いたもうたとはどこにも書かれていない、と。
 「やさしく、礼儀正しく、おだやかで」とフロワサールは評している、「からだつきは処女のごとく、ほどこしをすこしも惜しまない。日がな一日、かれは祈っていた。その生涯は、これ、謙譲以外のなにものでもなかった」
 最初のうちは、家族のものたちは、世を捨てるというかれを思いとどまらせようとした。旅に出て説教して歩きたいというかれの望みをきいて、かれらは、こう返事したという、おまえは、背が高すぎる、すぐおまえだとわかってしまうよ。それに、寒さには耐えられまい。十字軍勧説(かんぜい)の説教だって。いったい、どうやってやるつもりなのだい。
 「わたしには、よくわかっています」と、ピエールはいう。(中略)「みんなして、わたしを正しい道から悪い道へとひきずりこもうとしているのです。たしかに、たしかに、もしもそんなことになったなら、わたしのすることを、世間じゅうの人がみんなでうわさをするようになるでしょう」。」
「この少年の禁欲主義の傾向が、けっきょく矯(た)めがたいものであると知ったとき、身内のものたちが、このことに関し、おどろきと誇りの感情をもちはじめるようになったのは、はなはだ無理からぬことであった。聖者が、しかもこんなに若い聖者が、身内から出て、自分たちといっしょに暮らしているのだ。かれらの目に映る、この病身の若者は、教会の要職の重責にけなげにも耐え、ベリー侯、ブルゴーニュ侯の華麗尊大をきわめる宮廷生活のただなかにあって、みっともなくもよごれはてた恰好(かっこう)で、虫をたからせ、いつも、自分のあわれな罪のことばかり気にしていたという。
 懺悔は、かれの場合、ついに悪癖となったかのようであった。かれは、毎日、自分の罪のリストを書きあげた。旅やなにかでそれができなかった場合には、あとで、長い時間をかけてその穴埋めをするのであった。夜中にそれを書いている、あるいは、ろうそくの光で、書きあげたリストをよんでいるかれの姿が、よくみられたという。
 突然、夜中に起きあがり、聴罪司祭に懺悔することもあったという。司祭の寝室の扉をいくらたたいてもむだなことがよくあった。なかでは、つんぼをきめこんでいたのである。きいてくれる人がみつかると、かれは、紙片にかきつけた罪のかずかずをよみあげるのであった。懺悔の回数もしだいにふえて、週に二回ないし三回だったのが、死期の近づいたころには、一日二回になっていたという。司祭は、かれのそばから離れられなくなった。貧しいものとして葬ってくれと願いつつ、ついにかれが肺の病にみまかったあとには、紙片のいっぱいつまった箱が残された。その無数の紙片には、かれの短い生涯の毎日毎日の罪が書きちらされていたのであった。」



「XVI 神秘主義における想像力の敗退と実念論」より:

「かれの文章には、ハインリヒ・ゾイゼの戦慄(せんりつ)の抒情もなければ、ロイスブロークの火花ちらすはげしさもない。同じ長さの文章のくりかえし、同じ母音のくりかえしによって組みたてられた『キリストのまねび』は、へたをすれば二重にも三重にも平凡な散文になってしまうところを、まさしくその単調なリズムによって救われているという恰好である。そのリズムは、小雨にけぶる夕暮れどきの海、あるいはまた、秋風のためいきを想わせるのだ。
 『キリストのまねび』の及ぼした影響力には、なにかふしぎなものがある。著者は、あなたを、アウグスティヌスのように、力ないし熱情(エラン)でつかまえるわけではないのだ。聖ベルナールのように、言葉のはなやかさで、あるいは、思想の深さ、ゆたかさで、あなたを魅了するわけでもないのだ。なにか、こう、全般に平板で沈んでいる。いわば、短調なのである。ただ、平和と憩い、静かなあきらめに満ちた予感となぐさめを語りかけている。「わたしは、この世の生がいやになった」、そう、かれはいっている。ところが、そういっている、この逃避者の言葉こそが、他のだれの言葉にもまして、生きるうえの助けとなりえたのだ。
 あらゆる時代の疲れた人びとのために書かれたこの書物は、はげしい神秘主義の生みだしたものとのあいだに、ひとつの共通点をもっている。つまり、この書物においてもまた、想像力は、可能なかぎり押えられ、まばゆいシンボルの多彩な外衣(がいい)は、ぬぎすてられているのである。だからこそ、『キリストのまねび』は、ひとつの文化期にしばりつけられることがなかったのである。ちょうど、すべてにして一なるものの恍惚(こうこつ)の観想と同様、『キリストのまねび』は、あらゆる文化から離れている。ある特定の文化期に属するものではないのだ。だからこそ、この書物は、二千版にも達したのであり、だからこそ、従来、著者はだれか、成立年代はいつかとの疑問が盛んな議論を呼んだのであり、だからこそ、その論争が、実に三世紀間の幅をもつ推定年代のひらきを生んだというのもふしぎではないのである。トマス・ア・ケンピスは、いたずらに「知られぬことを愛せ」といったのではなかったのだ。」



堀米庸三「ホイジンガの人と作品」より:

「学生時代の全期間を通していっさい新聞をよまなかった。芸術家は、かれやその仲間にとって半神のごとき存在であり、エドガー・アラン・ポー、R・L・スティーヴンソン、ダンテ・ガブリエル・ロゼッティに耽溺(たんでき)した。このころの心的状況を述べながら、ホイジンガは語っている。「二十歳(はたち)の終りまで、私はいやしがたい空想家で、また白昼夢にとらわれる人間であった。医学科の友人たちが実習をやっているとき、私は、夕方またかれらといっしょになるまでのあいだ、たいがいは独(ひと)りでどこかしら町の外にさまよいでた。こんな散歩のおり、私はきまって一種の軽い恍惚(こうこつ)状態に陥った。それは想い出しても名づけようのないものだし、まして叙述できるものでもない」。」






























































ブルクハルト 『イタリア・ルネサンスの文化』 柴田治三郎 訳 (世界の名著 45)

「ブルクハルトは、過去の文化に隠れ家を見いだしたが、現在は信ぜず、未来にはどうしても希望をかけることのできない悲観論者であった。」
(柴田治三郎 「歴史家ブルクハルトの人と思想」 より)


『世界の名著 45
ブルクハルト』
イタリア・ルネサンスの文化
責任編集: 柴田治三郎


中央公論社
昭和41年12月10日 初版印刷
昭和41年12月20日 初版発行
590p 口絵(カラー/モノクロ)2葉
17.6×12.8cm 
丸背クロス装上製本 貼函
本体ビニールカバー
函プラカバー
定価480円
装幀: 中林洋子



図版(モノクロ)多数。地図2点。


ブルクハルト イタリアルネサンスの文化 01


帯裏文:

「世界史上、ルネサンスほど燦然たる人間個性を謳い上げて感動的な諸世紀はない。十九世紀最高の歴史家ブルクハルトは、イタリア・ルネサンスの国家・社会・芸術・宗教などその文化の全貌を精細に描出して、鋭く二十世紀文明の状況を透察する。平明な新訳と豊富な図版による全訳決定版!」


目次:

歴史家ブルクハルトの人と思想 (柴田治三郎)
 ブルクハルトの生活と著作
 ブルクハルトの思想の形成
 ブルクハルトの歴史認識
 本書の特質
 本書の成立と受容
 現代とブルクハルト
 後記

イタリア・ルネサンスの文化 一試論
 Ⅰ 芸術作品としての国家
  序論
  十四世紀の専制君主
  十五世紀の専制君主
  群小専制君主
  比較的大きな諸君侯
  専制政治への対抗者
  共和国
  十四世紀以降の外交政策
  芸術作品としての戦争
  教皇権とその危険
  愛国者のイタリア
 Ⅱ 個人の発展
  イタリア国家と個人
  人格の完成
  近代的名声
  近代的な嘲笑と機知
 Ⅲ 古代の復活
  前置き
  廃墟の都市ローマ
  古代の著作者
  十四世紀の人文主義
  大学および学校
  人文主義の促進者
  古代の再生、書簡文
  ラテン語の演説
  ラテン語の論文と歴史
  教養の一般的なラテン化
  新ラテン語詩
  十六世紀における人文主義者の没落
 Ⅳ 世界と人間の発見
  イタリア人の旅行
  イタリアにおける自然科学
  風景美の発見
  人間の発見
  詩における精神的描写
  伝記文学
  国民と都市の性格描写
  人間の外面の描写
  動的な生活の描写
 Ⅴ 社交と祝祭
  身分の平等化
  生活の外面的洗練
  社交の基礎としての言語
  高級な社交形式
  完全な社交人
  婦人の地位
  家庭
  祝祭
 Ⅵ 風俗と宗教
  道徳性
  日常生活における宗教
  宗教とルネサンスの精神
  古代的迷信と近代的迷信のもつれあい
  信仰一般の動揺

年譜
索引



ブルクハルト イタリアルネサンスの文化 02



◆本書より◆


「Ⅰ 芸術作品としての国家」より:

「ジョヴァン・マリーアもまた、その犬どもで有名である。犬といっても猟犬ではなくて、人間を引き裂くようにしこまれた動物であり、その呼び名は、皇帝ヴァレンティニアヌス一世の熊(くま)たちの名前のように、われわれに伝えられている。一四〇九年五月、戦争がまだつづいているあいだに、飢えた民衆が路上でジョヴァンに向かって、「平和(パーチェ)! 平和(パーチェ)!」と叫ぶと、ジョヴァンは傭兵(ようへい)を切りこませ、二百人の人間を殺した。それ以後は、平和(パーチェ)と戦争(グエラ)の語を発することを禁じ、犯す者は絞首刑に処した。司祭すら、「われらに平和を与えたまえ」のかわりに、「平安を(トランクィルリタス)」と言うように、指示された。」

「むかしある市――シエーナのことだという――の市民たちが、その市を敵の圧迫から解放してくれた将軍をもっていた。市民たちは毎日、どのようにして将軍をねぎらったらよいか評議した。そして、かれらがたとえ将軍を市の支配者にしたとしても、かれらの力で与えうる報酬は十分というわけにゆかないと判断した。とうとう一人の市民が立ちあがって、「将軍を殺し、そのうえで市の聖者としてあがめようではないか」と言った。そこで将軍は、ローマの元老院がロムルスをあつかったとほぼ同様に、あつかわれたという。
 じっさい傭兵隊長は、だれよりも自分の雇用主に、用心しなければならなかった。かれらは戦いに成功すれば危険視されて、ロベルト・マラテスタが、教皇シクストゥス四世のために戦って勝利を得た〔一四八二年〕直後消されたのと同様に、処理された。」

「警護の十分な専制君主を捕えることは、儀式ばった教会まいり以外の場所では、ほとんど不可能だったし、さらに、君侯の一門全部は他の機会では寄り集まることがなかった。そこで、ファブリアーノ市民はその暴君一族キャヴェリを、荘厳ミサのあいだに、しかもクレドの「そして人間となりたもう」という呼びかけを合図に殺害した〔一四三五年〕。ミラノでは、ジョヴァン・マリーア・ヴィスコンティ公が聖ゴッタルド教会の入口で〔一四一二年〕、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ公は聖ステーファノ教会の中で殺された〔一四七六年〕。ロドヴィーコ・モーロはある時〔一四八四年〕、夫を失った公妃ボーナの一味の短剣を、わずかに、聖アンブロージウス教会に刺客が予期していたのとちがった入口からはいることによって、のがれた。
 そのさいかれらとしては、かくべつ不敬のつもりはなかった。ガレアッツォの刺客は、行為の前にその教会の聖壇に祈りをささげ、そこで最初のミサまで聴いた。」



「Ⅱ 個人の発展」より:

「才知ゆたかな亡命者たちの中に発展した世界主義(コスモポリテイスム)は、個人主義の一つの最高段階である。すでに述べたように、ダンテは、イタリアの言語と文化に、一つの新しい故郷を見いだすのであるが、しかしそれどころか、「私の故郷はおよそ世界である」と言っている。――そして不名誉な条件のもとに、フィレンツェへの帰国が申し出された時、次のような返事を書いている。
 「私はどこにいても、太陽や星の光が眺められないでしょうか。どこにいても、もっとも高貴な真理について、瞑想(めいそう)することができないでしょうか。そのためわざわざ名声を捨て、屈辱にあまんじて、故郷の市と市民の前に姿を現わすまでもなく、パンにこと欠くことはさらさらありません」
 さらに芸術家たちもまた、昂然(こうぜん)たる反抗をもって、土地の強制からの自由を強調する。」



「Ⅲ 古代の復活」より:

「一四八五年四月十八日に、次のようなことが起こった。古代ローマの少女の、ふしぎなくらい美しい、しかもよく保存された死体が発見されたといううわさがひろまったのである。カエキリア・メテラの墓の外側の、アッピア街道にそった聖マリーア・ヌオヴァ修道院の地所内で、古代の墓標を掘りおこしていたロンバルディアの石工たちが、「クラウディウスの娘ユリア」という銘があると称する大理石の石棺を見つけた。」
「ロンバルディアの石工たちは、死体の装飾や副葬品として石棺に入れてあった財宝と宝石類をもって、ただちに姿を消した。死体は防腐剤を塗られて、いかにもみずみずしく、今死んだばかりの十五歳の少女のようで、今にも動き出しそうに見えた。さらに、目と口をなかば開いて、まったくまだ生きているような色つやだとさえ言われた。
 人々はそれを、カピトールの丘のコンセルヴァトーリ宮殿に移した。そしてそこへ向かって、それを見るための、まったくの順礼が始まった。それを写しとろうとする人も、たくさん集まった。
 「じっさいそれは、口でも筆でも言い表わされないほど、美しかった。そしてそれを話したり書いたりしても、自分の目で見ない者には信じられないであろう」
 しかしそれはインノケンティウス八世の命令で、夜のうちにピンチアーナ門の外の、ある秘密の場所に、埋められなければならなかった。コンセルヴァトーリ宮殿の大広間には、からの石棺だけが残っていた。」
「この事件で人の心を動かすのは、事実そのものではなくて、人々がついにここで現実に目の前に見ていると信じた古代の肉体が、現在生きているすべてのものよりもどうしても立派なはずだと、かたく思いこんでいたということである。
 そのあいだにも古代ローマの客観的な知識が、発掘によって増大した。」



「Ⅳ 世界と人間の発見」より:

「しかし十五世紀の末にはすでに、あちらこちらの王侯の中庭に、身分相応の贅沢(ぜいたく)として、本物の動物園があった。「馬、犬、らば、はいたかその他の鳥、宮廷道化師、歌手および異国の動物は、主君の贅沢の一部である」と、マタラッツォは言っている。ナポリの動物園は、フェランテ王の治世に、なかんずくバグダッドの当時の君主からの贈り物たる一頭のきりんと一頭のしま馬をもっていたらしい。
 フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、五百金、いな一千金をもって購(あがな)われた馬や、高価なイギリス犬のみならず、東洋全体から集められた多数の豹を所有していた。北ヨーロッパから捜し集めさせた猟禽(りょうきん)の飼育に、月々三千金を費やした。ポルトガルのマヌエル大王は、自分が教皇レオ十世に一頭の象と一頭の犀(さい)を贈った時、どんな効果があるものか、よく知っていた。そうこうするうちに、科学的な動物学の基礎が、植物学の基礎と同様に、すでに築かれていた。」



「Ⅴ 社交と祝祭」より:

「ヴェネツィアの祝祭では、馬車のかわりに舟遊びが、ふしぎな、幻想的な壮麗さを展開した。一四九一年フェラーラの公妃たちを迎えるため漕(こ)ぎ出された豪華船は、まったくおとぎ話めいた見ものとして、われわれに描写される。
 その船の先触れをするのは、派手な衣装をつけた若者を乗り組ませ、毛氈(もうせん)と花綱で飾られた無数の船である。あたりには神々の持物をもった霊たちが、宙づり仕掛けに乗って飛びかっていた。はるか下にはトリトンやニンフの姿をした他の霊がむらがっていた。いたるところに歌と芳香があり、金糸で縫いとりした旗がはためいていた。やがて豪華船の後にはあらゆる種類の軽舟の群れがつづき、一マイル先までも海面がもはや見えないくらいであった。
 その他の祝祭のうちでは、前にすでにあげた無言劇のほかに、五十人のたくましい少女たちのボート競漕が、目新しいものとしてとくにとりあげる値打ちがある。十六世紀には、貴族は祝祭挙行のために特別な団体に分かれていた。そしてその主な出し物は、船にのせた何か巨大な装置であった。たとえば一五四一年、センピテルニ(永遠なるものたちの意)の祭りには、大運河をまるい「宇宙」が通り、それのあけっぱなしの内部でははなやかな舞踏会が行なわれていた。
 謝肉祭も、この地では、舞踏会や行列やあらゆる種類の催し物で有名だった。」



「Ⅵ 風俗と宗教」より:

「イタリアは、魔神については中世のすべての国民と同じ民間の見解で満たされていた。神はあらゆる階級の悪霊に、世界と人間生活の個々の部分にたいして、しばしば大きく破壊作用を及ぼすのを許すのだと、人々は信じて疑わなかった。ただ人々がこれにつけた唯一の条件は、魔神が誘惑者になって近づく時、人間はすくなくとも自由意志をもってこれに抵抗することができる、ということであった。イタリアでは、とくに自然現象の魔神的要素が民衆の口にのぼって、詩的な偉大さをもつようになる。
 一三三三年に起こったアルノ川流域の大洪水の前夜、ヴァロンブローザの上部に住む聖なる隠者たちの一人が、その小房ですさまじい物音を聞き、十字を切って、戸口に出ると、武器をたずさえた黒衣の恐ろしい騎者たちが疾駆して通り過ぎるのを見た。隠者が呪文を唱えると、騎者の一人が立ちどまって、「われわれは、これから行って、神がお許しになるならば、フィレンツェ市を、その犯した罪のために、水浸しにするのです」と説明した。
 われわれはこれを、ほとんど同じころにヴェネツィアで起こった幻像〔一三四〇年〕と、比較することができる。それをもとにしてヴェネツィア派の巨匠の一人、おそらくジョルジョーネが、あのふしぎな絵を製作した。すあんわち、魔神を満載したガレー船が鳥のような速さで嵐の潟を疾走し、罪の深い島の町を滅ぼしにゆく、しかしついに、一人のまずしい水夫の小舟にこっそり乗りこんでいた三人の聖者が、呪文をもって魔物たちとその船を水底に沈めてしまった。」



「歴史家ブルクハルトの人と思想」(柴田治三郎)より:

「ブルクハルトの直観体験は、静態的であり具象的である。(中略)かれは歴史を、(中略)安定した規則性として、直観しうる同一のもの、恒常のもの、類型的なもの、たえず反復するもの、として見る。そして、直観することによって、歴史の中に発展ではなく、反復を見いだす。それゆえ、ヘーゲルのように人類の進歩を信じる歴史哲学者たちとは、まったく違った考え方をする。」

「かれは早くから、個々人の価値を確信していた。個々人、すなわち価値のある個々人には、思考と行動において、その自由な発展に、国家を楯(たて)にとって強制の加えられることがあってはならない。個性の自律的な発展こそが、真の文化に通ずる唯一のものである。――この思想をブルクハルトは晩年まで堅持した。」

「ブルクハルトは、すでに五十歳になってから「遁世(とんせい)者」グリルパルツァーの戯曲、自伝その他あらゆる種類の記録を読み、そのように隠遁(いんとん)が後世にとってどんなに有用なものになりうるかということに、「驚きをもって」気づいた。」

「かれは静的なものを直観する資質によって、変化の中でひとしくとどまるもの、反復するもの、類型的なものに目を向け、(中略)種々の異なった発現形式の背後に、その文化の特別な精神、いつも変えられているだけで実は同じ声を聞かせる精神を、探り出す。」

「静的な画像を得ようとするブルクハルトの努力は、いわば没時間的な「視点」において、歴史的に考えられたことや欲せられたことの流れを、せきとめる。」

「ブルクハルトは、歴史を本質的に静止の相において眺めるので、事物の現われ方や人々の考え方の歴史的な発展のことは、あまり気にかけない。(中略)現実には非常に多様な部分と段階から成りたっているものを、統一的な、対象的な全体として、総括し把握する。そのため、時には意識的に単純化することもある。イタリア・ルネサンスの発展史的経過は、かれの叙述では、最初からほとんど重きをなさないのである。」

「かれは、たえず移り変わる現象の中に、類型的なもの、本質的なもの、不変恒常の特性を見いだそうとするのである。」

「ブルクハルトは、(中略)歴史の中の普遍的なもの、永遠なものを読みとろうとする。

  移ろってゆくものすべては
  一つの比喩(ひゆ)にすぎない

と歌った(『ファウスト』第二部の終わり)ゲーテとおなじく、ブルクハルトは、経験と実在を、永遠なるものの証左と見るのである。」

「ブルクハルトは、過去の文化に隠れ家を見いだしたが、現在は信ぜず、未来にはどうしても希望をかけることのできない悲観論者であった。」
































































































アントーニオ・パオルッチ  『シニョレッリ』  芳野明 訳 (イタリア・ルネサンスの巨匠たち)

アントーニオ・パオルッチ 
『シニョレッリ』 
芳野明 訳
 
イタリア・ルネサンスの巨匠たち 19 神聖な構図と運動の表現

東京書籍
1995年11月28日 第1版第1刷発行
80p
28×21cm 並装 カバー
定価2,000円(本体1,942円)


Antonio Paolucci: LUCA SIGNORELLI, 1990 (I grandi maestri dell'arte)
図版92点。


シニョレッリ 01


カバーそで文:

「ルカ・シニョレッリ(コルトーナ1450―1523年)
イタリア中部ウンブリア地方のコルトーナに生まれ、15世紀後半この地方を中心に活躍。ピエロ・デッラ・フランチェスカの弟子と考えられている。光の滲み渡る静謐なピエロの空間表現と、フィレンツェ派ポライウォーロやヴェロッキオの解剖学的な人体とダイナミックな運動表現の影響を受ける。代表作はモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院の大壁画連作《聖ベネディクトゥス伝》とオルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂の《黙示録》連作である。とくに後者の多種多様なポーズを見せる裸体の群像表現は圧倒的である。」



目次:

初期の作品
モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院の連作画
オルヴィエートのサン・ブリツィオ礼拝堂
晩年の衰退

主要文献




◆本書より◆


シニョレッリ 02


「洗礼者聖ヨハネの誕生」(パリ、ルーヴル美術館)。


シニョレッリ 03


「聖セバスティアヌスの殉教(部分)」(チッタ・ディ・カステッロ、市立絵画館)。


シニョレッリ 04


「聖ベネディクトゥスがスピアコの地を離れたことで喜んでいた司祭フィオレンツォを神が罰する(部分)」(モンテ・オリヴェート(シエナ)、修道院)。


シニョレッリ 05


「修道院の外でものを食べて会則を破った2人の修道僧を叱責する(部分)」(モンテ・オリヴェート(シエナ)、修道院)。


「この偉大な写実画家は、鋭い、同時に詩的な注意力を発揮して、2人の僧が2人の美しい女中の給仕でいかにも満足そうに会則違反の正餐をとっている安宿の内部を描写している。修道僧たちを歓待しているこの食堂はまさにイタリア風のもので、広くて暗い。夏の暑さを避けようと扉は半ば閉じられ、その扉のあいだには青年のシルエットのようなぼんやりした姿がある。」


シニョレッリ 07


「肉体の復活(部分)」(オルヴィエート大聖堂)。


シニョレッリ 10


「地獄へ落ちる人々(部分)」(オルヴィエート大聖堂)より。


シニョレッリ 08


「地獄落ち(部分)」(オルヴィエート大聖堂)。


シニョレッリ 09


「ダンテ・アリギエーリ」(オルヴィエート大聖堂)。






















































































高階秀爾 『ルネッサンス夜話 ― 近代の黎明に生きた人びと』

高階秀爾 
『ルネッサンス夜話
― 近代の黎明に生きた人びと』


平凡社
昭和54年6月29日 初版第1刷発行
昭和54年9月25日 初版第5刷発行
238p
20×15.4cm 角背紙装上製本 カバー
定価1,500円
造本: 中垣信夫



本書「あとがき」より:

「本書の第一章から第七章までは、もと、「ルネッサンス夜話」の標題のもとに、『月刊百科』昭和五〇年五月号から同五一年一二月号まで連載された。また第八章の「人相学――四性論と動物類推」は、『みづゑ』昭和三五年五月から九月まで、「デューラーと人相学」の標題で発表されたものである。いずれも、本書に纏めるにあたって、若干の補筆を施してある。最終章「ルネッサンスの女たち」は、本書のための書き下しである。」


図版(モノクロ)多数。


高階秀爾 ルネッサンス夜話 01


帯文:

「中世から
近代への曲り角、
激動の
ルネッサンスを
めぐる歴史夜話
†――第一章
フィレンツェに君臨した
メディチ家の資産は
今に換算して何億?
†――第四章
延々四時間にわたる
傭兵隊同士の〈激闘〉で
死者はたった一人
†――第七章 第八章
盛んだった占星術と
人相学
†――第九章
〈理想の女性〉はやはり
ブロンドだった」



目次:

1 メディチ家の金脈と人脈
2 一市民の日記
3 フランス病かナポリ病か
4 マルスの休息
5 傭兵隊から常備軍へ
6 学者たちの世界
7 占星術
8 人相学――四性論と動物類推
9 ルネッサンスの女たち

参考文献
あとがき



高階秀爾 ルネッサンス夜話 02



◆本書より◆


「学者たちの世界」より:

「これまでにもしばしば引き合いに出して来たレオナルド・ブルーニの例で言うなら、著述家としての彼の業績は、すでに触れたアリストテレスの数多くの翻訳や主著『フィレンツェ史』のほか、きわめてジャーナリスティックな『対話篇』や(中略)ダンテなどの偉人の伝記、軍事論、演説集などに及んでいる。そして、そのような幅の広さが、ブルーニにとって望ましいものと考えられていたことは、彼自身の手になるダンテの伝記が、『神曲』の詩人をまさしくそのような「万能の人」として描き出しているという事実からも、明らかである。
 事実、デニス・ヘイ教授は、(中略)学問がもっぱら聖職者たちの専売特許であった一四世紀においては、ダンテは、世俗の人でありながら学問にも造詣の深いいささか風変りな存在と考えられていたのに対し、ブルーニの伝記では、詩人、哲学者であるのみならず、さらに家庭人としても市民としても完全な理想的人物とされていることを指摘して、そこにトレチェントとクァトロチェントの社会風土の差を見ているが、その見方は、たしかに当っていると言ってよいであろう。その上、ブルーニは、ダンテの生涯を語りながら、時に応じて、人間の生き方について、自分の意見を勝手に述べている。ここらあたり、ルネッサンスの人びとは、本を書くにあたっても、まことに奔放自在と言ってよい。すなわち、ブルーニは、ダンテが若い頃から文学に興味を持っていたのみならず、その他の「自由学芸」も広く修め、その上「勉学のためにひとり閉じこもるようなこともなければ、世間から離れることもなかった」と言って、次のように語っているのである。

  「序でにここで、勉学にいそしむ者は、孤独と余暇のなかに身を隠して努力しなければならないなどと考える多くの無知な人びとがいかに誤っているかについて、一言述べておきたい。私の体験から言えば、人間同士の交際を避けて密に自分だけ引きこもっているような人で、三文字でもきちんと知っている人には出会ったこともない。偉大で気高い精神は、そのような制限は何も必要とはしないのだ……」

もちろん、この一節は、ダンテの生涯とはもはや何の関係もない。学問はいったい何のためにするのかということについての、ブルーニの考え方が、ここにはっきりと顔を出しているのである。同じような思想を、ブルーニはまた、別のところで、「偉大な哲学者は今や偉大な指導者に席を譲らなければならない」という言い方でも述べている。
 ブルーニのこのような思想が、決して彼ひとりのものではなく、一五世紀前半のフィレンツェの人文主義者たちに共通のものであったことは、たとえば前にも触れたアルベルティの『家庭論』のなかで、人間にとって大切なことは何もしないで考えることではなく、仕事であり、行動であると述べられていることからも明らかであろう。学問とか思想というものは、それまでは、文字通り「世間から身を離して」自分の世界に閉じこもっていた修道士や聖職者たちのものであった。しかし今や、政治家でも、商人でも、あるいは傭兵隊長でも、実際に「仕事」をし、「行動」する人びとが、その故に優れた人間であると考えられるようになった。学者たちの場合も、単に知識を所有しているだけでは何にもならず、それが実践されてこそ価値があるという思想が支配的になって来たのである。」



「人相学――四性論と動物類推」より:

「イタリアのネオ・プラトニズムは、言うまでもなくフィレンツェの優れた人文主義者マルシリオ・フィチーノによって大成され、ルネッサンス期の芸術活動にも見逃すことのできない深い影響を与えているが、彼自身憂欝質に属していたフィチーノは、その『人生論』の中で「知識人は何故憂欝質になるか」を論じ、芸術の霊感源であるあのプラトンの「神の狂気」を黒胆汁の作用と結びつけたのである。このようにして、フィチーノが言う通り、「哲学においても、国の政治においても、または詩や芸術の領域においても、すべて真に傑出した人々は皆憂欝質である」という公理が成立した。この考えはただちに当時の人文主義者、芸術家たちの間に拡まり、後世にも長く伝えられた。たとえば、一七世紀英国の詩人ミルトンは、イタリア語をそのまま題名にした長詩、Il Penseroso (沈思の人)の中で、

  いと神々しい「憂欝」よ、
  その聖なる相貌はあまりに強く輝き
  人の眼を眩ませるので、
  われわれの弱い視力のために
  深い智慧の色、黒で顔を覆う……

と歌っている。つまりここでも「憂欝」は、プラトンの「神々しい狂気」にも比すべき「いと神々しい」ものと考えられているのである。」
「ミルトンの詩におけるように、憂欝質が Penseroso と結びつくのは、これまた極めて普通のことであった。デューラーの「憂欝の女性」も、多くの手業の道具を前にしながら、膝の上に肘をついた左手に頭をもたせかけて、じっと考えこんでいる。この姿態は、瞑想にふける人のいわば古典的なポーズで、デューラーの木版画《男たちの入浴》の中の憂欝質の男もまったく同じポーズをしていたが、さらに有名な例では、ミケランジェロの Penseroso (メディチ家の墓)や、ロダンの《考える人》など、数多く挙げられる。
 ということは、デューラーの《メレンコリア》の姿勢が決して偶然のものではなく、瞑想、すなわち行動の拒否、ないしは行動の不能をことさら強調しようという意図にもとづいたものであることをはっきりと物語っている。」
「ここでわれわれは、フィチーノの説をさらに体系づけたもう一人の人文主義者アグリッパ・フォン・ネッテスハイムの『神秘哲学論』(一五〇九年)をひもとかねばならない。アグリッパはその中で、憂欝質の優れた特性は、人間の三つの能力、即ち想像力、知性、精神のいずれかを通って表われるとし、それぞれ、芸術家、哲学者、神学者の活動に相当すると考えた。そして、この三者は単に並列的な関係にあるのではなく、段階的な関係にあり、最後の精神の段階に至って、神の世界に最も近くなると説いた。このような思想的背景が明らかになれば、《メレンコリア・Ⅰ》の謎も今や自ら明瞭であろう。彼女は「憂欝の芸術家」でありながら、より高い段階を求めて芸術を顧みない。彼女の目指すものは、芸術をも越えたより高い神の世界である。しかしその神の世界は、ここでは達し得ない。そのためには、第二の段階、第三の段階を経なければならない。このように解して初めて、蝙蝠の背中の「Ⅰ」の数字の意味も明らかとなるであろう。それは四性論のひとつとしての憂欝質を示すものではなく、最も優れた「神々しい」気質としてのメレンコリアの、第一段階ということを表わしているのである。恐らくデューラーは、この後に、第二、第三のメレンコリアを描くつもりであったのだろう、もしその意図が実現されていたとしたら……、だがそれは遂に実現されなかった。」





こちらもご参照ください:

高階秀爾 『ルネッサンスの光と闇 ― 芸術と精神風土』 (中公文庫)



























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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