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高橋康也 『道化の文学』 (中公新書)

「ルネサンスの輝かしい「道化の文学」が、いわば下部構造として、エリザベス朝のベドラムや「トム・オ・ベドラム」に対するような社会的寛容を踏まえていたとすれば、狂気に対する社会的態度が大きく変り、《fool》の複合体が分解したとき、「道化の文学」の存立もまた危うくなるのは必然的であろう。もし本書のヒーローである道化たちが十七世紀後半に生き返ったとしたら、まちがいなく一網打尽、「大いなる閉じ込め」によって監禁されたにちがいない。彼らはもはや「道化」としての存在を認められず、「狂人」「貧困者」「無用者」の烙印を押されて、経済的・社会的・文化的に隔離されなければならなかっただろう。」
(高橋康也 『道化の文学』 より)


高橋康也 
『道化の文学
― ルネサンスの栄光』
 
中公新書 458 


中央公論社 
昭和52年2月25日 初版
昭和57年10月15日 3版
iii 248p 
新書判 並装 ビニールカバー
定価500円 
装幀: 白井晟一



本文中に図版(モノクロ)51点、章扉図版(モノクロ)6点。



高橋康也 道化の文学



帯文:

「危機の時代を生きる道化たちの群像、魅力尽きぬその生と死」


帯裏:

「中世以来の豊かな腐葉土の上に、ルネサンスの天才たちは道化文学の黄金時代を花開かせた。賢と愚、理性と狂気、破壊と創造、優しさと残酷――あらゆる両義的価値に二股かけそして引き裂かれる道化こそ、過渡の時代相を映す典型であった。世界に対する人間の認識構造の転換を視野におさめて、さまざまなる道化とその変貌を、エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、セルバンテスの作品のなかに入念に読み込む意欲的試み。」


目次:

プロローグ――文学以前
 ソクラテスと道化
 多義性と栄光
 祭りと阿呆
 船と鏡

Ⅰ エラスムス――あるいはユマニストとしての道化
 迷宮と合せ鏡
 時間と空間
 外面と内面
 市場と文体
 風刺と自画自讃
 マリアとソクラテス
 道化と殉教

Ⅱ ラブレー――あるいは豊饒の道化
 エラスムスとラブレー
 本名とフランス語
 哲人と戦争
 酒と言葉
 酒甕と豊饒角
 棍棒と筆
 道化と結婚
 骰子と狂人
 サラマンデルと霊草

Ⅲ シェイクスピア――あるいは変貌する道化
 道化と道化
 日時計と腹時計
 老人と父親
 道徳劇と歴史劇
 歴史劇と書くこと
 試金石と結婚
 祝祭と陰影
 王子と王子
 もどきともどき
 阿呆と芝居
 国王と道化
 道化と狂人
 道化とお姫様

Ⅳ セルバンテス――あるいは鏡の国の道化
 問題的と非問題的
 「シニフィアン」と「シニフィエ」
 ヤセとデブ
 実像と虚像
 書くことと行動すること
 読むことと小説
 鏡と鏡

エピローグ――文学以後
 ベドラムと一般施療院
 過渡期と典型
 道化とピカロ

あとがき
参考文献




◆本書より◆


「プロローグ」より:

「史上最大の賢者の一人を道化呼ばわりするとは、それこそ「道化(たわけ)」たふるまいといわれるかもしれない。もちろん、ソクラテスのすべてが道化の条件を満たしているというのではない。ただ、いくつかの重要な側面において、彼が道化の資格をそなえていると考えらえるのである。」
「彼の生きかたをさらに内面まで立ち入ってみれば、彼のもつ深いレベルでの道化性がますます明らかになる。すなわち、矛盾対立した要素を同時に孕(はら)んだ道化独特の多義的な緊張が、この哲人によって鮮かに体現されているのである。」
「ソクラテスの「たえざる冗談」と「道化ぶり」も、同様に、おそろしく真剣なものを蔵していた。「賢者」を自称するソフィストたちの横行するアテネで、「お前よりも賢い者は誰もいない」というデルポイの神託を受けた彼は、どうしても信じられず、「賢者」たちを訪ねて、神託の反証を得ようとする。だが問答するうちに、彼は相手が何も知らない愚者、しかも愚者であることを自覚しない愚者であることを見出す。そして自分は少なくともおのれが愚者であることを知っているがゆえに「賢者」なのだ、と悟る。「愚」と「賢」の価値基準を逆転させるこの方法を、ふつうソクラテス的アイロニーとか産婆術とか呼ぶが、のちに本書の本論でくわしく見るとおり、これまたすぐれて道化的な方法なのである。」
「ソクラテスの生きかたが道化的な側面をもっていたとして、その死にかたはどうであろうか。脱獄をすすめるクリトンを逆に論破して、法律に従い従容(しょうよう)として毒人参をあおって死んでゆくソクラテスは、道化と呼ぶには、あまりに英雄的であり、(中略)いささか恰好よすぎると思われる。一つの主義思想に命を賭けてコミットし、これに殉ずるのは、道化の道ではない。臨機応変、はっきりいえば無責任に、ここと思えばまたあちらと二つの立場を使い分けて、とにかく生きのびようとするのが道化なのである。「たとえ不正な目にあっても、不正の仕返しをしてはならない」という絶対的モラルによる脱獄拒否は、道化には思いもよらぬ正面切った論理であり、一方、「市民と国家の間には法(ノモス)を忠実に守るという約束が結ばれている」という契約思想による国法遵守も、「法」をくぐることを身上とする道化とは対蹠的な立場であると言わなければならない。」
「しかしそれにもかかわらず、「道化ソクラテス」という命題を完全に撤回する必要はない。(中略)そして彼の死にも、たとえそれが思想的殉教であるにせよ、やはり道化の宿命と一脈通じるものがなくはない。というのは、道化もまた、臨機応変の才覚によって生きのびようとする意志にかかわらず、しばしば一種の殉教をとげるからである。もちろん、道化を「殉教者」と呼ぶのは大げさであって、文化人類学的な「犠牲羊(スケープゴート)」という呼称がよりふさわしいだろう。侏儒やせむしといった肉体的異形者である道化は、一方では「厄除(やくよ)け」のまじない(マスコット)として神聖視されると同時に、他方では、悪態をつくことによって共同体の罪を一身に背負い、追放されるのだ。中世の五月祭のモリス踊りや謝肉祭(カーニバル)の儀式に活躍した道化は、獣の皮をまとい、顔を黒く塗っていたが、この外貌は人間のサチュロス的半獣性を表わすとともに、道化が古代祭儀の犠牲の末裔であることを示す名残りであると推測される。
 異形の姿をもって出現して、市民たちの日常的感覚を脅やかし、機知と悪態と笑いによって「賢」と「愚」の価値規準をくつがえし、共同体の慣習と秩序を攪乱し活性化したあげくに、やがて「法(ノモス)」によって追放される――道化がしばしば(いつもではないが)示すこのパターンをソクラテスにも見出すことは、あながち牽強付会ではあるまい。事実、ギリシア古代のこの「哲学的道化」の名前とイメージは、後代の「文学的道化」たちによって、偉大な先達としてなんどとなく喚起されることになる。」
「ところで、本書の主題はそれらの「文学的道化」たちである。道化の社会史的発達を辿ったり、あるいはその文化人類学的構造を分析したりするのは、当面の目的ではない。(中略)われわれの主題は、ルネサンスを中心として、第一級の文学的道化像のいくつかを少していねいに鑑賞することにある。」



「Ⅰ エラスムス」より:

「道化の文学的黄金時代はエラスムスとともに幕をひらく。「ユマニストたちの王」とも「ヨーロッパで最も博識な賢者」とも称されたこの碩学こそは、まことに偉大な愚者であり、道化であった。そしてたぐい稀な知性を駆使した彼の代表作『痴愚神礼讃」こそは、かつて阿呆・道化に捧げられた最高の讃辞の一つなのである。」
「痴愚女神にしゃべらせる――これは厳密にはエラスムスの独創というより、当時深い根をもっていた民衆的伝統の巧みな応用である。まえに触れた「阿呆祭」が教会から追放されたとき、その中心的行事であったおどけた説教は、町の広場のにわか説教壇や、小屋がけの劇場や、学校の建物などに場所を移して、「おどけ説教劇(セルモン・ジョワユー)」という新しいジャンルに転身した。正式のミサの説教のパロディとしての性格がさらに俗化すると、世態人情をとらえて面白く語るのを主眼とした「独白劇(モノローグ・ドラマティック)」になる。これにはまた流浪の学僧や芸人が祭礼の日などに演じていた歌入りの物語(引用者注:「歌入りの物語」に傍点)の伝統も流れこんでいるかもしれない。いずれにせよ、わが国の語り物の狂言にも似た話芸が民衆芸能として親しまれていたということである。」
「彼女が求める新しい痴愚はどうやらキリスト教的にとらえられなければならない種類のものらしいのである。かくして『痴愚神礼讃』六十三節以降、旧約新約あわせて聖書の引用があいつぎ、それらを「痴愚」の主題にひきつけて新しく読み直すという作業が展開することになる。」
「とりわけ、キリスト教的痴愚を説いた偉大な者はパウロであって、彼の片言隻句は慎重に解読される必要があると痴愚神は言う。たとえば「私は誰にもまして狂者だから、狂った者のように語る」(『コリント後書』)とは、(中略)「あの人たちはキリストに仕える者だが、この私もそうなのだ、いや私の方があの人たち以上にそうなのだ」という意味である。「私は神によって語っているのではない、愚かな者として語っているのだ」(同)とか、「私たちはキリストゆえに愚かな者となった」(『コリント前書』)とか、「あなたがたのうち、みずから知者だと思っている者は、知者となるために愚か者となりなさい」(同)といったパウロの言葉は、痴愚神の考えでは、ルカの伝える「禍いなるかな、君たち律法学者、パリサイ人よ」(その意味は「賢人よ、君たちに禍いあれ」である)というキリストの言葉に劣らぬ重さをもっている。
 そういえば、女性、漁夫、動物でいえば驢馬といった愚かなものを愛し給うたのはキリスト御自身なのだ、と痴愚神は言う。いや、キリストはみずから愚かな「子羊」と呼ばれることを喜び給い、さらにいえば(中略)人間として現われ給うたその「受肉」の神秘において、「いわば痴愚狂気をみずからもまとわれた」のである。」
「キリストが愚者狂人だとすれば、キリスト者はキリストにまねびて痴愚と狂気をめざさなければならない道理であろう。ここまでくれば、痴愚神が語ろうとしている「新しい痴愚」とは、「信仰」そのものにほかならないことは明らかである。「生涯全体にわたって、肉体的物象から離れ、霊的で不可見な永劫のものへと飛躍して」ゆこうとする「敬虔な人間」は、「凡俗の人間」よりも深い錯乱狂気にとらえられている、と彼女はいう。」
「敬虔な人びとにとっての最高の褒賞は、プラトンが『パイドロス』で語った「恋する者の狂乱」にも似た一種の錯乱である。ちょうど恋する者が「自分から脱け出し」て相手のなかへ溶けこむほど幸福になるように、敬虔な人の魂にとって「肉体からのがれ出」て、「至高の善(スムム・ボーヌム)」(神)に引き寄せられること以外には、幸福はない。われを忘れ、自分が自分でなくなるという錯乱が、ここでは神秘的なエクスタシス(脱魂・恍惚)の経験となる。「肉体(フュシス)」の次元では「癲癇(エピレプシー)」とされるものが、「魂(プシュケ)」の次元では聖なる「神憑き(テオレプシー)」なのである。いうまでもなく、敬虔な人が稀に味わうこの「福楽感」は、この世からあの世へ移って初めて完璧なものになるはずの窮極的な「痴愚狂気(モリア)」の前触れにほかならない……。
 と痴愚神の演説が高遠な結論に近づいたところで、ちょっとした問題が生じる。すなわち、いま引用した「痴愚狂気(モリア)」という語が「マリア」となっている刊本が作者生前から流布していたという事実があり、これを単なる誤植と見ることもむろんできるが、ここにエラスムスの大胆巧妙ないたずらを看破する説もあるのである。忙しく働く姉マルタと、キリストの足元に坐り《なくてはならぬ唯ひとつのもの》を選びとった怠け者の妹マリアの話(「ルカ伝」一〇章)を踏まえて、エラスムスはここでマリアの《聖なる痴愚》を暗示したかったのではないか。そのために、彼はわざと原稿に罠を仕掛け、この地口遊びに植字工と読者をまきこんだのではないか……。
 偶然の誤植か故意の地口か、いずれにせよ、このくだりの切迫した口調はもう一人のマリアを喚起せずにはおかない。聖なる痴愚に恍惚としている娘と、慈悲の聖母と、二人のマリアの像が重なった瞬間、あたかも痴愚神(モリア)の口をついて《聖なるマリアよ、われらのために祈りたまえ!》というアヴェ・マリアの祈りが発せられたかのような錯覚に、われわれは襲われるかもしれない。さらにその錯覚の中で、エラスムスが唱えたといわれる有名な祈り、「聖なるソクラテスよ、われらのために祈りたまえ!」がこだまするかもしれない。」









こちらもご参照ください:

高橋康也 『ノンセンス大全』
J・ホイジンガ 『エラスムス』 宮崎信彦 訳 (筑摩叢書)












































































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石鍋真澄 編訳 『カラヴァッジョ伝記集』 (平凡社ライブラリー)

「ミラノで画家の修業をしたカラヴァッジョがローマに出て、西洋美術史に大きな影響を与える革新的な作品を生み出したのは、一〇年あまりの短い期間であった。一六〇〇年にコンタレッリ礼拝堂の《聖マタイ伝》を完成させると、カラヴァッジョは一躍有名になり、画壇の寵児のようになった。しかし、それとともに警察裁判沙汰が増えていった。自ら事件を起こしたり、あるいは他の者の事件に巻き込まれたりして、少なからぬ犯罪記録を残しているのである。その点でも稀な天才である。」
(石鍋真澄 「カラヴァッジョ犯科帳」 より)


石鍋真澄 編訳 
『カラヴァッジョ伝記集』
 
平凡社ライブラリー 838


平凡社 
2016年3月10日 初版第1刷 
237p 
B6変型判(16.0cm) 
並装 カバー 
定価1,300円(税別) 
装幀: 中垣信夫 
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル 
カバー図版: カラヴァッジョ《降誕》(部分)


「本書は平凡社ライブラリーのオリジナルである。」



本書「はじめに」より:

「本書は、(中略)カラヴァッジョを研究するうえで基本資料となる、同時代の三人の著者による三篇の伝記と、ローマ以外で書かれたその他の三篇の伝記、そしてカラヴァッジョの犯罪資料などを邦訳して、読者に提供しようとするものである。」
「それぞれの伝記や資料の前に、作者や資料に関するごく簡単な解説を付して理解の助けとした。そして最後に、「カラヴァッジョの真実」という、資料から見る人間カラヴァッジョに関する小論を掲載する。」



巻頭にカラヴァッジョ作品図版(モノクロ)52点(35頁)。章扉図版(モノクロ)計10点。「カラヴァッジョの真実」に図版(モノクロ)6点。



カラヴァッジョ伝記集



帯文:

「伝説と真実
複数の伝奇、裁判記録、パトロンの書簡、さらにはオリジナル翻案の「犯科帳」等々、画家に関する歴史的資料を一冊に集成。謎多き巨匠の生涯を知るための必読書。
西洋美術史・バロック」



帯背:

「一級資料」


目次:

凡例
はじめに

ジュリオ・マンチーニ「カラヴァッジョ伝」
 ――『絵画に関する諸考察』(一六二〇頃)より
ジョヴァンニ・バリオーネ「カラヴァッジョ伝」
 ――『画家・彫刻家・建築家列伝』(一六四二)より
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ「カラヴァッジョ伝」
 ――『近代画家・彫刻家・建築家列伝』(一六七二)より
カレル・ファン・マンデル「現在ローマで活躍する他のイタリア画家伝」
 ――『絵画の書』(一六〇四)より
ヨアキム・フォン・ザンドラルト「カラヴァッジョ伝」
 ――『ドイツ・アカデミー』第一巻(一六七五)より
フランチェスコ・スジンノ「画家ミケラニョロ・モリージ・ダ・カラヴァッジョ伝」(抜粋)
 ――『メッシーナ画家伝』(一七二四)より

カラヴァッジョ犯科帳 (石鍋真澄)

バリオーネ裁判の記録(抜粋)
ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニの書簡(一六二〇年代)

カラヴァッジョの真実 (石鍋真澄)
 Ⅰ 神話の形成
 Ⅱ カラヴァjッジョの真実

カラヴァッジョ年譜
参考文献
編訳者あとがき




◆本書より◆


ジョヴァンニ・バリオーネ「カラヴァッジョ伝」より:

「ミケラニョロ・アメリージは皮肉屋で尊大な男だった。時として、古今のすべての画家に対して、いかに高名な画家であろうと、悪口を浴びせかけた。」
「ミケラニョロは、その過剰な大胆さのために、いささか持て余し者だった。(中略)彼の周囲には、彼と同じような無頼の輩がしばしば出入りしていた。」



ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ「カラヴァッジョ伝」より:

「それ以降、彼は自分の天性に従って描くことに没頭した。そして古代の優れた彫刻やラファエッロの有名な作品には見向きもせずに、むしろそれらを軽蔑して、ただ自然のみを彼の絵筆の対象としたのである。(中略)彼は偶然通りかかったジプシー女を呼び止めて、宿屋に連れていくと、彼女のようなエジプト女がよくやるように運命を占う仕草で彼女を描いた。」

「ところでカラヴァッジョ――彼はすでに生まれ故郷の名にちなんで、誰からもこう呼ばれていた――は、導入しつつあった彩色法のために、日増しに名が知られるようになっていった。それは、(中略)肉体に立体感を与えるために黒色を多用し、強烈な陰影を強調したものであった。そしてこの制作方法に傾倒したので、いかなる人物像も太陽が照る戸外には出さず、閉め切った部屋の暗闇のなかに人物を描き出す手法を見出した。すなわち、光源を高い位置にとって、そこから光が人体の主要部分に垂直に下りてくるようにするとともに、残りの部分は暗闇のなかに残すことで、結果的に、明暗の強い対比によって絵に力強さを与えるという方法である。当時ローマにいた画家たちはこの新しい画法に大いに心を奪われ、ことに若い画家たちは彼のまわりに集まり、(中略)競ってカラヴァッジョに追随した。」

「しかしながら、カラヴァッジョはこうした絵画制作をもってしても、その落着きのない性格を改めることはできなかった。一日のうち何時間か仕事をすると、腰に剣を帯びて町に現れた。彼はさながら剣客気取りで、どんな職業の人にも見えたが、画家にはとうてい見えなかった。」

「さらに彼は、自分はモデルに忠実に描いているので、一筆たりとも自分のものは作れない、それは自分のものではなく、自然のものである、と公言していた。そして彼はあらゆる教則を軽蔑して、技巧に束縛されないことが最高の技量であると考えていた。」

「われわれはまた、彼の日頃の振舞いや身なりについても書き留めずにはいられない。彼は上品なヴェルヴェットや最高級の服地を着用して、わが身を飾り立てていた。とはいえ、一度その衣服を身につけると、ボロボロになって脱ぎ捨てるまで、それを着続けたのである。また彼は身体を清潔にすることにまったく無頓着であった。そしてまた何年間も、ある肖像画のカンヴァスの上で、つまり朝夕それをテーブルクロス代わりにして食事をしていた。」

「多くの者が、自然から描くという彼の手法を模倣した。それゆえ、彼らは自然主義者と呼ばれたのである。」



ヨアキム・フォン・ザンドラルト「カラヴァッジョ伝」より:

「この作品によって、カラヴァッジョは再び通りに出て自由な人間として振る舞う許可を得ることに成功した。すると彼はすぐにこの許可を利用して、彼の若い仲間、たいていはふんぞり返った、騒々しい連中といっしょになった。画家や兵士の彼らは、「恐れもなく、望みもなく(nec spe, nec metu)」をモットーに暮らすような者たちだった。」


フランチェスコ・スジンノ「画家ミケラニョロ・モリージ・ダ・カラヴァッジョ伝」(抜粋)より:

「彼は向こう見ずで争い事が多かったが、最悪だったのは、ほとんど信仰心をもたないことだった。ある日、ある貴族たちとマドンナ・デル・ピレーロ聖堂に入ったが、一団のなかでもっとも礼儀正しい者が前に出て聖水を差し向けた。すると彼はどういう役に立つのかと問い、その男が小罪を浄めるためだと答えると、必要ない! 私の罪はみな大罪だから、と言ったのである。」
「そのうえカラヴァッジョは空想的で、落着きがなく、生活にほとんど無頓着で、しばしば常に携えていた短剣とともに服を着たまま寝床に入った。(中略)馬鹿か狂人としかいいようがなかった。いつも黒犬を連れ、その犬を馴らしていろいろな芸をさせ、彼はそれを大いに楽しんだ。」



「カラヴァッジョ犯科帳」より:

「夜一一時頃、剣と短剣を持っていたカラヴァッジョは、キアヴィカ・デル・ブッファロ通り(中略)で、警官に剣の携帯許可証の提示を求められた。カラヴァッジョが許可証を提示したので、警官が了解し「おやすみなさい」と言うと、「ティ・オ・イン・クーロ」(「ざまあみろ、バカ野郎」といった意味)などと侮辱する言葉を吐き、逮捕された。」


「バリオーネ裁判の記録 2 カラヴァッジョ尋問調書」より:

「(独言)
 「この話をまだ繰り返さなければならないんだろうか」」



「カラヴァッジョの真実」より:

「カラヴァッジョの素描は一点も伝えられていない。彼は素描を積み重ね、それで画面を構成していくという、従来の制作プロセスでは絵画の表現力、創造性の発露が失われてしまうということに、本能的に気づいていたにちがいない。だから、彼は独特の方法でカンヴァスに直描きした。」
「こうしたカラヴァッジョ作品は素描を美術の基本、制作プロセスの根幹と考えるルネサンスの美学、そしてアカデミーの理論に反するものであった。」








こちらもご参照ください:

石鍋真澄 『聖母の都市シエナ ― 中世イタリアの都市国家と美術』
『チェッリーニ自伝 ― フィレンツェ彫金師一代記 (上)』 古賀弘人 訳 (岩波文庫)
ジェローラモ・カルダーノ 『カルダーノ自伝 』 清瀬卓・澤井繁男 訳 (平凡社ライブラリー)
『デューラー 自伝と書簡』 前川誠郎 訳 (岩波文庫)
アンリ・フォシヨン 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』 原章二 訳










































































カンパネッラ 『太陽の都・詩篇』 坂本鉄男 訳 (古典文庫)

「つまり、彼らはこの世の再生、いや恐らくこの世の終りを待っているのです。」
(カンパネッラ 「太陽の都」 より)


カンパネッラ 
『太陽の都・詩篇』 
坂本鉄男 訳
 
古典文庫


現代思潮社 
1984年7月20日 第4刷発行
185p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円


Tommaso Campanella
La Cittá del Sole
poesie



本書奥付には第1刷発行年月日(現代思潮新社サイトによれば1967年9月1日)の記載がありません。



カンパネッラ 太陽の都



カバー裏文:

「夢と情熱で透視する理想社会!
ルネサンス期の哲学僧カンパネッラが、
教皇を首長とし、生産財の国有化と
結婚管理などに基づく理想社会の
イメージを展開した、
近世ユートピア思想の源。」



目次:

太陽の都
訳註

詩篇

解説




◆本書より◆


「太陽の都」より:

「その広い平原の中に一つの丘がそびえております。都の大部分はその丘の上に建てられているのですが、都をめぐる幾重もの城壁は、丘の麓のそと遠くまで拡がっています。都は直径二マイル以上で、周囲は七マイルあります。だが、この都は丘の斜面に作られているので、平地よりもずっと多くの家が建っているのです。
 都はそれぞれ違った惑星の名前がついた非常に大きな七つの環状地帯からできています。人々が、これらの地区の間を往来するために、東西南北四本の道路と四つの門があります。これは、もし一番外側の環状地帯の城壁が占領されたとしても、第二の環状地帯を占領するのはもっと大へんだし、それ以後のものになればなるほど、占領するのにさらに苦労しなければならない、つまり、都を征服するためには、七回も占領をくり返さなければならないように都ができていることを意味しています。だが、私の考えでは、第一の環状地帯を占領することさえできないのではないでしょうか。城壁は、中に土が詰められたどっしりしたもので、とりで、塔、大砲を備え、外側には壕がめぐらされていますから。」

「彼らには、一人の神官君主がおり、「太陽(ソーレ)」と呼んでいますが、これはわれわれの言葉でいえば「形而上学者」のことです。」
「彼には三人の補佐役的高官がいます。この三人は「ポン」、「シン」、「モル」と呼ばれそれぞれ「権力」、「知識」、「愛」を意味しています。」
「「知識」はすべての学問について記したただ一冊の本を持ち、これをピュタゴラスとその弟子たちのような方法で全市民に読んで聞かせます。また、城壁の内外壁全部と、とりでの上にもあらゆる学問を絵で描かせました。
 神殿の外壁と、神官が説教をするとき声が散らないように垂らすカーテンには、あらゆる星が順序よく描かれており、それぞれ三行の韻文で説明されています。
 第一の城壁の内側には、エウクレイデスやアルキメデスが書き残したものより多い数学の図式が、その定義や定理と共に描かれています。外壁には世界地図と、あらゆる地方の地図がそれぞれの慣習、風俗、法律などの説明と共に描かれているほか、各国語のアルファベットがこの都の住民のアルファベットと並べて書かれています。
 第二の城壁の内側には、ありとあらゆる宝石、普通の石、鉱石、金属などが標本と図とで示され、それぞれ二行の韻文で説明が書かれています。外側の壁には、あらゆる種類の湖沼、海洋、河川が描かれ、ぶどう酒、油、酒類の説明があって、その効果や原産地や特質が述べられています。そして百年、三百年もたった各種の酒類の入った長頸のビンが並び、これらでほとんどすべての病気を治します。
 第三の城壁の内側には、世界中のあらゆる草木が描かれると共に、とりでの上の素焼の鉢にはその実物が植えられており、原産地や効用の説明のほか、それらの草木と星、金属、人体各部との類似、および薬としての使用法が説明されています。外側の壁には、海洋、湖沼、河川に住むあらゆる魚類がそれらの性質、生棲・繁殖・成長の方法、人間にとっての効用、天地や地上の諸物との形態上の類似、自然の産物や人工の産物との形態上の類似などと共に示されています。実際、私は本物とそっくりな形をした「司教」、「鎖」、「釘」、「星」などと呼ばれる魚類を見たときはびっくりしました。また、雲丹(うに)や面貝やその他知るに値するすべてのものが、驚くほど巧みに描かれ説明されているのです。
 第四の城壁の内側には、あらゆる種類の鳥類が描かれ、それらの性質、大きさ、習性などが説明されていますが、ここでは「不死鳥(フェニックス)」は全く実在の鳥として扱われています。壁の外側には、すべての種類の爬虫類、蛇、竜、うじ虫、昆虫、蝿、虻その他が、その特徴、毒性、効用などと共に描かれていますが、その数はわれわれが知っているものよりずっと多いのです。
 第五の城壁の内側には、全く驚くほどたくさんのあらゆる地上の動物が描かれており、われわれはその千分の一も知っていません。」
「第六の城壁の内側には、すべての種類の技術とそれを発明した人、世界各地でのその様々な使い方が描かれています。外側の壁には、立法者、学問の創始者、武器の発明家のすべてが描かれています。(中略)子供たちは十歳になるまでに絵を通じて遊びながらにすべての学問を習得してしまうのです。」

「ここの種族は元来インドからやって来たのでして、モゴール人やその他の略奪者、暴君たちの暴虐破壊から逃れてきた賢者たちなのです。そこで、彼らは理想的な方法で共同生活をすることにしたわけです。(中略)すべてのものは共有になっており、必要な物の配分は役人の手にゆだねられています。こうして、食糧のほか学問や栄誉やいろいろな娯楽なども共有で、決して何物も個人の所有にはできないようになっています。
 彼らによると、すべて所有観念というものは、自己の家を持ち自分の妻と子供を持つことから生じ、ここから利己主義が生まれるのです。」

「人々の名前は思いつきで付けられるのではなく、古代ローマ人たちがやっていたように、各人が持つ外見上の特徴により「形而上学者」によって付けられます。こうして「美男」と呼ばれる者、「大鼻」、「大足」、「やぶにらみ」、「でぶ」などと呼ばれる者もいるわけですが、やがて彼らが職業や戦争などで非凡な腕前を見せるようになると、その職業に応じて「大画伯」、「黄金のような画伯」、「卓越せる画伯」、「堂々たる画伯」などの姓が付け加えられ、「黄金のようなでぶ」などと呼ばれるのです。またその行為からも「強いでぶ」、「抜け目のないでぶ」、「勝利者のでぶ」、「偉大なでぶ」、「すぐれたでぶ」などの姓が、または征服した敵の名から「アフリカの」、「アジアの」、「トスカーナの」などの姓が付けられ、マンフレーディ、トルテリオに打ち勝ったために、「マンフレーディ」、「トルテリオ」などの姓が付けられる者もおります。」

「ここの人たちは、日中および町の中では全員白い着物をきていますが、夜や町の外では、絹や毛の赤い着物をきるのです。黒い色は物のカスとして嫌われているため、黒を好む日本人はここの人たちから憎まれています。」

「彼らは、二つの物質的原理を考えています。すなわち、太陽は父で、大地は母で、空気は濁った天、火は太陽より生じ、海は太陽により液体となった大地の汗であって、血が魂と肉体を結びつけているように、それが空気と大地を結びつけている地球は一匹の巨大な獣で、われわれ人間は人体に巣を喰う寄生虫のように、その獣の中にいるのである。」



「詩篇」より:

「六 世界とその部分について

世界は大きくしかも完全なる生き物、
神の御姿(みすがた)にして、神を讃え、神に似たるもの。
われらは不完全なる虫にして、いやしき生き物、
われらは世界の体内に巣喰いて生活(いき)るもの。

われらが世界の愛と智を知らざる如く、
わが腹中の虫もわれを知らんと努めず、
ただわれに害を与えんとするのみ。
されば、いざ大いなる尊敬の念を持つべし。

巨大なる宇宙の中の大きな生き物たる
地球に住めるわれらは、われらが体に住み
われらに害をなす虱(しらみ)に同じ。

おごれる人々よ、われと共に目を上げて
あらゆる存在の如何に貴きかを計るべし、
かくて、汝らは自己の属せるところを知るべし。」

「このソネットのよまれた正確な年は判明しておらず、恐らく一六〇二年から三年の間と考えられている。この詩にもカンパネッラの哲学の重要な根源の一つである汎感覚論が見られ、地球も星も宇宙も全て感覚を有するものであり、その中に住む人間が如何に微小なるものであるかを教え、人間の慢心をいましめたものである。」






こちらもご参照ください:

D・P・ウォーカー 『ルネサンスの魔術思想』 田口清一 訳 (ヴァールブルク・コレクション)
Frances Yates 『Giordano Bruno and the Hermetic Tradition』
シラノ・ド・ベルジュラック 『日月両世界旅行記 第二部』 有永弘人 訳 (岩波文庫)






































『The Prayer Book of Michelino da Besozzo』

「When Longhi wrote about the Morgan prayer book, he characterized Michelino as a Watteau of the International Style - an artist with a faint but eloquent reticence, a delicate quality of courtly melancholy.」
(Colin Eisler 「Introduction」 より)


『The Prayer Book of
Michelino da Besozzo』

Introduction by Colin Eisler
Legends by Patricia Corbett and Colin Eisler


George Braziller, New York
147pp, 18.5x13.3cm, hardcover (clothbound), dust jacket
Reproduced from the Illuminated Manuscript (M 944) belonging to The Pierpont Morgan Library in New York
Printed in Switzerland by Imprimeries Reunies
Miniatures photographed by Charles Passela
Book design by Rita Grasso



本書には発行年月日の記載がありませんが、元版(貼函入)は1981年、新装版(本書、カバー装、本体は元版と同じです)は1995年の刊行です。



prayer book of michelino da besozzo 01



本書は1410年頃(ウィキペディアによると1420年以降、モルガン・ライブラリーのサイトによると1430年頃)に作成された装飾写本『ミケリーノ・ダ・ベソッツォの祈祷書』(ニューヨーク、モルガン・ライブラリー所蔵)の内容を92点の原寸大カラー図版(含ゴールド)と序文・図版解説で紹介する本です。装飾頭文字(initial)を含むボーダー(縁取り)装飾付き文字ページ図版47点(うち頭文字にキリスト磔刑図が描き込まれた「historiated initial」を含むもの1点)、ボーダーのない文字だけのページ図版23点、フルページ装飾画図版22点。元は収録されている47の祈祷文すべてに装飾画が付されていたようですが残りの25点は現存しません。ボーダー装飾(および聖人画背景)は各々一種類の花(根がついているのが特徴的です)で統一されています。
装飾画とボーダーの大部分を手がけたと推定されるミケリーノ・ダ・ベソッツォは15世紀前半に活動したイタリアの「国際ゴシック様式」の画家で、フレスコ画、祭壇画、装飾写本、ステンドグラスなどを作成、そして個人的に興味深いのは1449年にルネ・ダンジューの妻イザベルに自作の「playing cards」(タロット)を贈ったとあることですが、それも現存しないようなので残念です。



prayer book of michelino da besozzo 03



深緑色ビロード装。手触りがたいへんよいです。



prayer book of michelino da besozzo 09



Contents:

Acknowledgments (C.E.)
Introduction (Colin Eisler)
Selected Bibiography

Plates and Legends
 The Nativity, December 25 (fols. 2v-3)
 Circumcision, January 1 (fol. 5)
 The Adoration of the Magi, January 6 (fols. 6v-7v)
 Saint Anthony, January 17 (fols. 8v-9)
 St. Agnes, January 21 (fol. 10) [border page]
 The Purification of the Virgin, February 2 (fols. 11v-12v)
 Saint Blaise, February 3 (fols. 14v-15v)
 The Annunciation, March 25 (fols. 16v-17v)
 Christ Washing the Feet of the Apostles, Thursday of Holy Week (fos. 19v-20v)
 Christ Bearing the Cross, Good Friday (?) (fol. 21) [border page]
 Crucifixation, Good Friday (?) (fol. 22) [border page]
 The Entombment, Saturday of Easter Week (fols. 24v-25v)
 The Resurrection, Easter Sunday (fols. 26v-27)
 St. George of Cappadocia, April 23 (fol. 29)
 Saint Philip and Saint James Minor, May 1 (fols. 30v-31v)
 The Finding of the True Cross, May 3 (fols. 33v-34v)
 The Ascension, Forty days after Easter (fols. 35v-36)
 Pentecost, Fifty Days after Easter (fol. 37)
 Holy Trinity, First Sunday after Pentecost (fols. 39v-40v)
 Corpus Christi, Thursday after Trinity Sunday (fols. 42-42v) [border page]
 St. Anthony of Padua, May 10 (fol. 44) [border page]
 St. John the Baptist, June 24 (fol. 45) [border page]
 Saint Peter, June 29 (fols. 46v-47v)
 Saint Paul, June 30 (fols, 49v-50v)
 The Visitation, July 2 (fols. 52v-53)
 Mary Magdalen, July 22 (fol. 54) [border page]
 Saint James the Apostle, July 25 (fols. 56v-57)
 St. Christopher, July 25 (fols. 58-58v) [border page]
 Assumption, August 15 (fols. 59-59v) [border page]
 St. Louis of Toulouse, August 19 (fols. 61-61v) [border page]
 St. Louis, King of France, August 25 (fols. 62-62v) [border page]
 St. Augustine of Hippo, August 28 (fols. 63-63v) [border page]
 Birth of Virgin, September 8 (fols. 65-65v) [border page]
 St. Nicholas of Tolentino, September 10 (fols. 67-67v) [border page]
 Exaltation of the Cross, September 14 (fol. 70) [border page]
 St. Francis of Assisi, September 17 (?) (fol. 72) [border page]
 Saint Gall, October 16 (fols. 73v-74v)
 Saint Luke, October 18 (fols. 75v-76)
 All Saints, November 1 (fol. 78) [border page]
 Saint Martin, November 11 (fols. 80v-81)
 Presentation of the Virgin, November 21 (fol. 82) [border page]
 St. Ambrose, December 7 (fol. 85) [border page]
 Saint Catherine, November 25 (fols. 83v-84v)
 Immaculate Conception, December 8 (fol. 87) [border page]
 Saint Lucy, December 13 (fols. 89v-90v)
 St. John the Evangelist, December 27 (fol. 91-91v) [border page]
 St. Monica, May 4 (fol. 93) [border page]




◆本書より◆



prayer book of michelino da besozzo 02



聖アントニウス(記念日は1月17日)。
左手には杖と本、右手には銀の鈴(悪魔除け)を持っています。



prayer book of michelino da besozzo 06



prayer book of michelino da besozzo 06b



マリアのエリサベト訪問(7月2日)。
マリアはイエス(キリスト)のお母さん、その従姉エリサベトは洗礼者ヨハネのお母さんです。二人とも身籠っています。



prayer book of michelino da besozzo 05



聖十字架の発見(3月3日)。
聖ヘレナ(コンスタンティヌス一世の母)がエルサレムでキリスト磔刑に使われた十字架を発見する場面ですが、ヘレナが十字架の在処を知るヘブライ人ユダを火と井戸を指さして脅迫する場面(教えなければ火炙りにすると脅し、涸れ井戸に七日間閉じ込めた)と、聖十字架を含めて三つの十字架が掘り出される場面が同一画面に描かれています。



prayer book of michelino da besozzo 07



prayer book of michelino da besozzo 07b



福音史家ルカ(10月18日)。
聖ルカは最初のイコン画家であるとみなされているので、聖母子像を描く姿で描かれています。



prayer book of michelino da besozzo 08



聖ルチア(記念日は12月13日)。
聖ルチアは両眼をえぐり取られて殉教したのでアトリビュートとしてお皿(プレート)に盛られた目玉が描かれることが多いですが、本書はたいへんエレガントで洗練された(ファッションプレート的なといってもよいです)装飾写本なので、目玉ではなくランプが描かれています。

シラクサのルチア(ウィキペディア)






こちらもご参照ください:

ヤコブス・デ・ウォラギネ 『黄金伝説 1』 前田敬作・今村孝 訳
Millard Meiss and Edith W. Kirsch 『The Visconti Hours』











































 




礒山雅 『マタイ受難曲』


礒山雅 
『マタイ受難曲』
Johann Sebastian Bach: Matthäus-Passion


東京書籍 
1994年10月31日 第1刷発行
2009年8月10日 第10刷発行
492p+57p 口絵(カラー)4p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,200円(税別)
ブックデザイン: 東京書籍AD課 金子裕
表紙: 舟越保武作「十字架上のキリスト」(1960年)



いそやま・ただし。
本文中図版(モノクロ)・譜例多数。


礒山雅 マタイ受難曲 01


礒山雅 マタイ受難曲 02


帯文:

「イエスに寄せるいたましい思い、
内なる罪への悔悛――
バッハの音楽の襞(ひだ)へと分け入る、
画期的な作品研究」



帯背:

「バッハのメッセージ
に迫る」



帯裏:

「私は、構想の雄大さと親しみやすさ、人間的な問題意識の鋭さにおいて、《マタイ受難曲》こそバッハの最高傑作であると思っている。
この作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、単に音楽であることをはるかに超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。それはわれわれをいったん深淵へと投げ込み、ゆさぶり、ゆるがしたあげく、すがすがしい新生の喜びへと、解き放ってくれる。研究者としての私にとって、《マタイ》はいつも、大きな目標として、頭の上にあった。
――「はじめに」より」



目次:

はじめに

序論
 第Ⅰ章 受難と受難曲の歴史――バッハまで
  受難と十字架
  イエスの活動と死
  福音書の受難記事
  四つの福音書
  朗誦される受難記事
  多声化の始まり
  ルネサンスの応唱風受難曲
  ルネサンスの通作受難曲
  宗教改革初期のルター派受難曲
  応唱風受難曲のバロックにおける発展
  オラトリオ受難曲の成立と発展
  一八世紀初めのライプツィヒにおける受難曲
 第Ⅱ章 《マタイ受難曲》の資料と作曲年代
  バッハの《マルコ受難曲》
  《ルカ受難曲》をめぐって
  《ヴァイマル受難曲》
  《ヨハネ受難曲》の変遷
  《マタイ受難曲》の資料――自筆総譜
  オリジナル・パート譜
  初稿を伝える『アルトニコル筆写譜』
  《マタイ受難曲》の作曲年代――修正された通説
  リフキンの新説
  初演時の《マタイ受難曲》
  《ケーテン侯のための追悼音楽》との関係
 第Ⅲ章 ピカンダーによる自由詩
  ピカンダーの役割
  二つのキャラクター
  歌詞の構成
  詩人ピカンダー
  ピカンダーの評価
 第Ⅳ章 歌詞のルーツを探って
  自由詩の背後にあるもの
  ルター派神学とバッハ
  八一冊の神学書コレクション
  蔵書を開いて
  コレクションの内容
  ミュラーとランバッハ
  蔵書研究の問題点
 第Ⅴ章 受け継がれるコラールの伝統
  聴き手に訴えるコラール
  コラールの誕生
  《マタイ受難曲》におけるコラール
  ゲールハルトの受難コラール
  和声化されるコラール

本論
 第Ⅰ章 花婿が、小羊のように――冒頭合唱曲の世界 〈第1曲〉
  大胆な導入
  花婿のたとえ
  雅歌のメッセージ
  小羊の婚姻
  コラール
  導入部の分析
  応答する合唱楽節
 第Ⅱ章 受難の預言 〈第2曲―第4曲b〉
  聖書場面の始まり
  通奏低音と「光背」
  コラールの介入
  祭司たちの謀略
 第Ⅲ章 香油を注ぐ女 〈第4曲c―第6曲〉
  ベタニアにて
  香油を注いだのは誰か
  マグダラのマリア
  もう一人のマリア
  福音書記者の調和
  バッハの聖書場面
  注がれる涙
  愛ゆえに
  目に見える歌詞の表現
  感情を扱うやさしさ
  ダ・カーポ・アリア
 第Ⅳ章 血を流すイエスの心 〈第7曲―第8曲〉
  密告者の出現
  血を流すのは誰か
  母なるイエス
  痛ましさの表現
  ロ短調の使用
  いくつかの演奏
 第Ⅴ章 最後の晩餐 〈第9曲―第13曲〉
  過越祭の喜び
  裏切りの告知
  ラビよ、私ですか?
  パンとぶどう酒の意味するもの
  涙の海で味わう喜び
  神学論争に代わるアリア
 第Ⅵ章 オリーブ山にて 〈第14曲―第17曲〉
  バッハはイエスの十字架?
  復活の預言
  受難コラールの介入
  ホ長調の役割
  つまずきの預言
  受難コラールの再現
 第Ⅶ章 ゲツセマネの園の苦悩 〈第18曲―第25曲〉
  悲しみの始まり
  雷の子らの野心
  痛ましいおののき
  イエスのもとでの目覚め
  ヤコブのはしご
  ひれ伏し、祈るイエス
  苦い杯
  眠る弟子たち
 第Ⅷ章 捕縛 〈第26曲―第29曲〉
  ユダの接吻
  ヨハネ福音書の対応箇所
  二重唱に合唱が加わって
  このタイミングでこそ
  争わぬイエス
  大コラール楽曲の導入
  整然とした構成
  復活を見据えて
 第Ⅸ章 イエスを探す美女 〈第30曲―第37曲〉
  対話する美女たち
  疑問文がアリアに
  大祭司邸での審問
  苦しい証言
  沈黙するイエス
  四音符の表現力
  引き出された瀆神の言葉
 第Ⅹ章 明暗を分けた悔い改め 〈第38曲―第42曲〉
   〔その一〕 ペトロの否認
  浮かび上がるペトロの姿
  三つの応答
  良心を目覚めさせる鶏鳴
  まなざしの溶かす涙
  アリアへの視点
  隠された受難コラール
  コラールによる意味づけ
   〔その二〕 ユダの自殺
  後悔するユダ
  明るいアリアの侵入
  「私」とは誰か
  放蕩息子としてのユダ解釈
  ユダの復権
  ランバッハのユダ論
 第Ⅺ章 流れ下る愛 〈第43曲―第49曲〉
  「心臓部」の仮説
  血の畑の由来
  王の称号をめぐる対話
  受難コラールのヴァリエーション
  バラバを!
  驚くべき刑罰
  良き行いの数々
  清らかな愛
  愛の表象のルーツ
  愛とは何か
 第Ⅻ章 血にまみれた十字架 〈第50曲―第58曲〉
  血の報復
  鞭打ち
  内面化される鞭打ち
  着想の源泉
  ユダヤ人の王様
  血と傷にまみれた御頭
  十字架の道行
  甘美なる十字架
  ゴルゴタへ
  私は神の子だ
 第XIII章 イエスの死 〈第59曲―第63曲b〉
  鳴り響く弔鐘
  手を広げるイエス
  覆う暗闇
  消えた光背
  詩篇の引用?
  ルター正統派の立場
  なぜ対訳か
  追悼のコラール
  地震の描き方
  地震の数象徴
  神の子の認識
  浮かび上がる十字架
  I・N・R・Iの銘
  天変地異の語ること
  ランバッハの天変地異論
 第XIV章 おのが心への埋葬 〈第63曲c―第68曲〉
  たたずむ女性たち
  夕暮れ、涼しい時
  そよぐオリーブの葉
  おのが心を墓として
  キリスト哀悼の情景
  悩める良心の憩い

補章 レコード/CDによる演奏の歴史
 1―37
 【補遺1】 本書を出版後二〇〇〇年までに国内発売された全曲盤
 【補遺2】 二〇〇〇~〇七年に国内発売された全曲版と、〇七年末時点で入手できるDVD

あとがき

バッハの神学蔵書一覧
《マタイ受難曲》パート譜一覧
《マタイ受難曲》の数象徴に関するマルティーン・ヤンゼンの説
バッハ以前の主な《マタイ受難曲》
文献目録
人名索引
《マタイ受難曲》対訳



礒山雅 マタイ受難曲 03



◆本書より◆


「第Ⅰ章 花婿が、小羊のように――冒頭合唱曲の世界」より:

では、音楽を見よう。冒頭には、一六小節の序奏が置かれている。われわれは、テキストが語り出されるのに先立って、ゴルゴタへ向けてのイエスの一行の、重い歩みを聴く。調性はホ短調であり、行進の基礎となるのは、八分の一二拍子のリズムである。ホ短調という調性は、教会旋法のフリギア調(ミを音階の主音とする旋法)の流れをくむものであるが、バッハと同時代の音楽理論家、ヨーハン・マッテゾンは、その特徴を次のように規定している。「ホ短調に楽しげな要素を与えることは、たとえそれを望んで試みたとしても、ほとんどむずかしいだろう。ホ短調は、非常に考え込み、深く沈み、悄然(しょうぜん)とし、悲しげな状態を作り出すのが常であるからである。だがそれは、人がなお慰めを期待しうる程度のものである。――キルヒャーに言わせると、これは憂愁と苦痛に適した調である。またこれは、ルチアーヌスによれば激しい性質を、グラレアーヌスによれば悲嘆にくれた性質を備えている。」(一七一三年にハンブルクで出版された『新設のオルケストラ』から、山下道子訳)。
 もちろん、バッハがこれと同じ感じ方をしていたかどうかはわからない。しかし、この受難曲の中心的な調性がホ短調であり、それが受難の基調を表現していることは、確かである。主音となるホ音(ドイツ音名E)は、まず通奏低音パートで、五小節にわたってえんえんと保続される。第6小節に至るとそれは一転して力強く身を起こすような上行の歩みを見せ、一三度上行して、ハ音(C)へと達する。このハ音はすなわち、受難曲が最後に到達する、ハ短調の主音にほかならない。このEを大地=この世(Erde)の象徴、Cをキリスト(Christus)の象徴とする杉山好氏の解釈は、一考に値するものだろう。
 この間、上声部には、重荷をひきずりながらはい登ろうとするかのような音型が出る。」



「補章 レコード/CDによる演奏の歴史」より:

「以上の演奏のどれをよしとされ、どれを鑑賞されるかは、もちろん読者の自由である。(中略)しかし興味のある読者のために、私の個人的な推薦盤を、最後にあげておきたい。観点を変えたベストを三つ選ぶとすれば、私は、歴史的演奏の中からリヒターの旧盤を、大オーケストラ型の演奏からショルティを、古楽器グループの録音からレオンハルトをとる。マウエルスベルガー、ガーディナー、ヘレヴェッヘも候補になるだろう。その中からさらに一つを選んで読者にお薦めするとすれば、流行の古楽器演奏に親しむ意味でも、私はレオンハルト盤がいいと思う。」


礒山雅 マタイ受難曲 04




こちらもご参照ください:

今谷和徳 『ルネサンスの音楽家たち Ⅰ』
J・シャイエ 『魔笛 ― 秘教オペラ』 高橋英郎/藤井康生 訳
『名作オペラ ブックス 26 ベルク ヴォツェック』
ジョスリン・ゴドウィン 『キルヒャーの世界図鑑』 川島昭夫 訳













































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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