藤本康雄 『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』 (SD選書)

藤本康雄 
『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』
 
SD選書 72 

鹿島出版会
昭和47年10月30日 発行
223p
四六判 並装 機械函
定価780円
装幀: 田辺輝男



本書はヤフオクで350円(+送料164円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。
「アルバム」図版66点、参考図版79点。図版はすべてモノクロです。


藤本康雄 ヴィラールドオヌクールの画帖 01


目次:

はじめに

ヴィラール・ド・オヌクールのアルバムについて
 アルバムの体裁
 アルバムの作者と年代
 アルバムの沿革

ヴィラール・ド・オヌクールのアルバム
 図版一~一〇
 ペリカン、みみずく、かささぎ。
  一二使徒像、サロメ。
  戦士、カタツムリ。
  十字架のキリスト。
  十字架。
  傲慢と謙譲。
  クマ、白鳥。
  教会の勝利像。
  永久運動装置。
  木の葉模様の顔と迫石。
 図版一一~二〇
  古代祭壇。
  時計の家とドラゴン図案。
  朗読台。
  バッタ、ネコ、ザリガニ、シャルトルの迷路。
  十字架祭壇飾り。
  騎士闘争図。
  さいころばくち、手あぶり器、タンタラスの盃。
  ランの塔平面。
  同立面。
  聖母子図とランスの窓。
 図版二一~三〇
  キリスト像、ドラゴン。
  祭壇と裸の男。
  婦人像。
  王侯と司教像。
  王と随臣達。
  キリスト降架図。
  タカ狩りの男女。
  力士、カンブレ平面。
  創作平面、モー平面。
  床舗装とシャルトルのバラ窓。
 図版三一~四〇
  ローザンヌのバラ窓。
  栄光のキリスト。
  ヴォーセル平面図と伏せる人物。
  木造小屋組と手提げ灯。
  鬚男とポルトレィチュール。
  ポルトレィチュールの各種。
  石工、測量技術。
  要石の割り出し法、その他。
 図版四一~五〇
  石工技術。
  運命の輪。
  二人の裸の男。
  各種機械。
  床組。
  うずくまる男、騎士図。
  ライオンの調教。
  ライオン。
  王侯図。
  使徒と兵士。
 図版五一~六四
  オウム、楽師と犬。
  闘獅士。
  殉教図。
  長いす図案と使徒。
  使徒と予言者。
  キリスト受難図。
  長いすの唐草模様。
  クラミスの男。
  トレビュシェ。
  ランス祭室立面。
  同身廊立面。
  同柱断面。
  同後陣飛梁部断面。
  脱毛膏薬と花色保存法。

おわりに
付記




◆本書より◆


「はじめに」より:

「北フランスもベルギーとの国境にほど近い所に、カンブレという町がある。そこの静かな住宅街の一角、小さい公園の片隅に、木々に囲まれてひっそりと一つの石像が立っている。ものさびた石の台座に刻まれた銘は、こう読める。

ヴィラール・ド・オヌクール
一二三〇年から一二四六年にかけて建てられた、ノートル・ダム大聖堂旧内陣の建築家。

(中略)しかし、像の人物の名は、カンブレ大聖堂の建築家としてよりも、ゴシック建築に関するかの有名なアルバム(スケッチブック・画帖)の作者として、知る人の心をとらえるのである。
ヴィラール・ド・オヌクールのアルバム。それは、綴じ合わされた三三葉の羊皮紙からなる手書き本で、現在、パリの国立図書館に保存されている。各葉の表・裏六六面にはさまざまな図柄が描かれ、随所に文字が書き記される。人物像や動物画、建物の平・立面から、家具や道具、からくり・機械装置に至るまで、図柄の内容は多岐にわたる。それらはすべて、何らかの意味で、中世の建築ならびに建築家の技術に関するものであり、その点、これ程まとまった記録は他に類例を見ない。特に、当時の建築家自身の手になる記録では、現存する唯一最古の資料として、重要視されているのである。」
「今回、本書にアルバムの全図版を収録し、注釈を施して内容の概説を試みることとなった。」



「ヴィラール・ド・オヌクールのアルバム」より:

「以下に示す各図版の順序は、原本の通りになっている。もとの感じを少しでもよく伝えるために、各葉の表・裏の関係も原本に合わせてある。(中略)図版の縦・横の長さは、実物を約三分の二程度に縮めたものに相当する。」


藤本康雄 ヴィラールドオヌクールの画帖 07


「一四a バッタあるいはイナゴ
胸や腹の部分が実際の通りでなく、頭部に耳がつくなど、仮想的な要素が強い。バッタやイナゴは、帰依した異教徒のシンボルとされる。黙示録にも異教徒の大軍として出て来る。

一四b 猫
眉や後肢が不自然だが、ヴィラールの描く動物画の中では、かなり実際に近いものの一つである。」

「一四c ハエあるいはアブ

一四d トンボ

一四e ザリガニ
腹部の節の数が多過ぎる(実際は尾を入れて七節)。しかし全体にかなり写実的である。悪魔の化身、南海に住む怪物として、しばしば描かれた。」

「一四g 迷路(ラビリント)
シャルトル大聖堂の床に、大理石でモザイクされているものを写したと見られている。」
「迷路はアミアンやランスの大聖堂にも見られる。中世の人々は、これをキリストが登ったカルヴァリオの道になぞらえて、祈りを捧げながら膝で辿ったのである。」



藤本康雄 ヴィラールドオヌクールの画帖 02


「三八a 逆卍型に図案化された、四人の石工
たがねを持ち、金槌を振り上げた四人の石工が、十文字に組み合わされて描かれる。片膝を地につき、一方の膝を立て、反対側の人物の足先を刻んでいる形である。互いに隣りの人物と片足ずつを共有しているので、脚は全部で四本しかない。この種の回転模様は、中世を通じてさかんに行なわれ、ヴォールト要石の彫刻や、ミニアチュールの飾り字に用いられた。

三八b 頭部を共有する三匹の魚
円弧三角形の頭を中心に、これを共有して、三方に拡がって魚の形が描かれる。前図柄と同様の用い方をされた図案であろう。やや手法は異なるが、ウサギをあしらった三つ巴模様を、ローザンヌ大聖堂に残るヴォールト要石に見ることができる。」



藤本康雄 ヴィラールドオヌクールの画帖 06


「四三c 木の葉模様の顔」
「異教徒を示すものとして、ヴォールトの要石などに刻まれたことはすでに述べた。」



藤本康雄 ヴィラールドオヌクールの画帖 03


「四四a 自動のこぎり」
「四四b 大弓」
「四四c 錘による時計装置」
「四四d ウィンチ」
「四四e ワシと時計装置」
「ワシの外形と、内部の仕掛けが同じ図に示されている。ワシの首の中に一本の縦軸があり、これに紐が巻きつけられている。紐の一端は、横の滑車を介して錘に結ばれ、他端は、尾の部分にある滑車を経て、鳥の体外に導かれていると見える。紐の操作で、ワシの頭の部分が回転するのである。」



藤本康雄 ヴィラールドオヌクールの画帖 04


「四八a ライオン」
「四八b ヤマアラシ」



藤本康雄 ヴィラールドオヌクールの画帖 05


「図版五五」
「二人の人物立像、使徒と予言者」




本書「おわりに」より:

「アルバムは、一三世紀の建築家があらゆるものに関心を持っていたことを示している。(中略)ヴィラール達は、さまざまな分野に通ずる技能・識見を持ち、全的な人格でもって、中世という総合の時代の建築創造に当たったのである。
彼らは、まず設計家だった。聖堂の平面を考え、立面を匠み、構造を決定した。その準備にモデルプランを集め、仲間と討論をかわして、理想的な計画を立てたのである。工事に際しては、測角器や、相似三角形を用いての測量に当たり、敷地に縄張りを施す現場技師となった。石工長として、スケアを用い、迫石、要石、迫持受け等の割り出し法を心得ていた。同時に、小屋組を考え、短材で床組を工夫するなど、大工長としての役割をも果たした。ステンドグラスやトレサリー、その他の建築の部分から、家具調度の部品に至るまでの意匠をこらす、デザイナーでもあった。また、常にすぐれた彫刻家、画家として、神、聖者、人物、動物、その他、あらゆるものの下絵を描き、その造形を追求した。その際、ポルトレィチュールと称し、単純な幾何図形を用いてする略画、転写、拡大比例の方法を採用したのである。一方、土木技師として架橋法を案じたり、機械技術者として、起重機や自動のこぎり、大型投石器、大弓などを工夫し、また、時計装置、その他さまざまなからくりを考案した。そして、最後には、脱毛膏薬や水薬の製法、生花の保存法まで考えているのである。
このように、ヴィラール達の技術・能力は、およそものを作るという仕事の、ほとんど全分野に及んでいるといってもよい。」

「すなわち彼ら中世の建築家達は、すべてを彼らが「至高」とするものへ向けて、描き、作り、考えたのであろうということである。(中略)より「すぐれて美しいもの」は、彼らにとって、感動であり、理想だった。この「至高」への志向、それが、彼らの技術を進めた「向上心」だったと思われるのである。」

「ここには明らかに中世があるはずなのだ。至高を求め、しかも現実に徹し、社会にあって個人を自覚し、伝統を保ちつつ、自由に創造する。独善と協調、高貴と卑俗、機械と手仕事、そして神と人間。すべてが渾然一体となって生き生きと動いていたであろう、ゴシックの世界が、ここに。」





ヴィラール・ド・オヌクール(ウィキペディア)
























































































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ジョン・ラウデン 『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』 益田朋幸 訳 (岩波 世界の美術)

ジョン・ラウデン 
『初期キリスト教美術・
ビザンティン美術』 
益田朋幸 訳
 
岩波 世界の美術
 
岩波書店
2000年11月28日 第1刷発行
447p
21.8×16cm 
並装(フランス表紙)
定価4,400円+税

栞 (訳者のことば)



横組。図版多数。


ラウデン 初期キリスト教美術 ビザンティン美術 01


目次:



イコノクラスム以前の美術
1 神と救済 キリスト教美術の形成
2 皇帝と聖者 コンスタンティノポリスと東方世界
3 異教徒と銀行家 ラヴェンナと西方世界

イコノクラスム
4 イコンか偶像か? 聖像論争

イコノクラスム以後の美術
5 正統と革新 ビザンテイン美術 860―960年頃
6 聖なる空間 聖堂装飾 960―1100年頃
7 聖なる書物 写本挿絵 976―1100年頃

ビザンティン美術の拡散
8 認識と受容 12世紀イタリアの美術
9 危機と持続 コンスタンティノポリス略奪
10 時代の終わり? コンスタンティノポリス奪還と陥落 1261―1453年

用語解説
後期ローマ、ビザンティン帝国の皇帝
年表
地図
参考文献
索引
謝辞




◆本書より◆


「4 イコンか偶像か?」より:

「726年から843年にかけて、ビザンティン帝国はイコノクラスム(聖像論争/聖像破壊運動)と呼ばれる神学論争に巻きこまれる。(中略)聖像論争は、とくに画像を礼拝に用いることの可否にかかわった。(中略)この論争が西洋美術の発展に与えた影響は深い。美術の役割について、これほど長く真摯な議論を行った文化や社会は、他には見当たらないのである。」
「イコノクラスムという言葉は、ギリシア語の eikon (イコン/像)と klato (壊すこと)に由来し、美術作品の意図的な破壊を意味する。」
「宗教美術の誤った用法について、キリスト教はユダヤ教から受け継いだ激しい反感をもっている。これは神がモーセに与えた命令にもとづく。「あなたはいかなる像もつくってはならない……あなたはそれら[偶像]に向かってひれ伏したり、それらの仕えたりしてはならない」(出エジプト記、20:4―5)。「偶像」という語(ギリシア後 eidolon)は、「イコン」と同様「像」という原義を持っているが、その含むところは完全に否定的である。偶像は聖書のなかで、偽の神々の像として非難された。偶像にひざまずく者(偶像崇拝者/異教徒)は、だから偽りの神々に従うのである。異教徒は偶像をもつが、キリスト教徒はそうではない。イコン破壊者がとった原則論からすれば、キリスト教徒は像を拝むことによって偶像崇拝者となり、神はそのことを喜び給わない。そこから逃れる唯一の方策は、罪を犯す原因となったもの、すなわちイコン(=偶像)をとりのぞくことである。美術を糾弾する人々以外に、イコンを燃やしてしまう過激派(イコン虐殺者)もいた。この時代、美術を用いることに反対する人につけられた呼称は「イコノマコス」(イコンと闘う者)であった。その一方で、イコンを愛する者(イコノフィロス)や、イコンに仕える者(イコノドゥロス)もいて、彼らはキリスト教美術の伝統を支持する雄弁な議論の数々を結集した。」

「イコノクラスムに関するビザンティン時代の文献を読む際には、いつも注意しなければならない。われわれの手に残されているのは、勝利したイコン擁護派が公表することを欲した事件であり、その見方なのである。(中略)イコン破壊派によってどれだけたくさんのイコン擁護派が殉教したか、という身の毛もよだつような話の数々は、ほとんどが後世の脚色である。しかしそれがあったことも事実で、美術支持の演説をすることがきわめて危険であった時期はたしかに存在した。たとえばテオファニスの『年代記続編』にある、修道士にして画家ラザロスの話が大筋で真実を語っていることを疑う理由はない。
  暴君[皇帝テオフィロス、在位 829―42年]が定めたところによれば、聖像画家は殺される。生きたいと願うなら、[聖像に]唾を吐き、何か汚いものであるかのように地面に投げ捨て、足蹴にする限り、身の安全が保証される。皇帝は、当時画技に著名であった修道士ラザロスを弾圧することを決意した……皇帝は画家に厳しい拷問を加え、ラザロスの血と肉はなくなって死んだと広く信じられた。
  ラザロスが牢獄で息を吹き返し、彼の技をもってふたたび聖者の姿を板に描き始めたと聞くと、[皇帝は]赤く焼けた鉄板をラザロスの両掌に押し当てるよう命じた。こうして彼の肉は、火で焼けただれた……ラザロスが死の床にあると聞くと、[テオフィロスは]女帝[テオドラ]のとりなしを容れて、画家を牢獄から解き放った……
  [重傷であるにもかかわらず、ラザロスは絵を描くことをやめなかった]。
  暴君が死に[842年]、真の信仰がふたたび輝くと[843年のイコノクラスム最終解除]、神の人イエス・キリストの像を青銅[カルキ]門に掲げたのは、他ならぬこのラザロスであった。
 たとえ画家が拷問を逃れたとしても、ここに画像の合法的な使用に関して言外の意味を読みとらなければならない。787年、ニケアでのイコン擁護派公会議は少なくとも理論上、画家が注文の要求するところを解釈して作品をつくることと、その注文の正当性を区別している。つまりは作品が、教会活動の伝統に正しく就いているかどうかが重要であった。その帰結はこうなる。宗教美術は、少なくともその内容、図像学は、ある限界を越えて変更されてはならない。宗教図像は、それが何を表わすかわからなければ意味をなさないのである。
 この規則秩序から逸脱するものは認められないだろう。イコン擁護派の先頭に立ったストゥディオス修道院長テオドロス(826年没)は、ある師父(テオドゥロスあるいはテオドロスという名)に書き送っている。
  申し立てによれば、あなたは、窓に天使がキリストのように磔にされる様を描き、またキリストも天使も歳をとった姿であったといいます。あなたは教会の伝統からはずれた奇異なことをし、その振舞いは神にではなく敵[=悪魔]に鼓吹されたのだというのです。これまで長いことこんな奇妙な主題は、神に霊感を受けた聖父の誰によっても与えられてこなかったというのに。
 イコノクラスム打倒後も、宗教美術の内容は厳格に管理されなければならないという思想は、根本にありつづけた。しかし(中略)、ニケア宣言は画家の自由をある程度制限したけれど、けっして同一規格を強いる拘束衣のようなものではなかったのである。」



ラウテン 初期キリスト教美術 ビザンティン美術 02


「アギア・ソフィア大聖堂のモザイク 
イスタンブール 
〈大天使〉 
867年頃」



ラウテン 初期キリスト教美術 ビザンティン美術 03


「『コキノバフォスのヤコボスの聖母マリア讃詞集』 
1130―50年頃
ローマ ヴァティカン図書館
〈受胎告知〉」



「受胎告知」の図像表現自体は定型どおりですが、たくさんの天使たちが飛び回る様子を付け加えたあたりが新機軸であったと本書の解説にあります。







































































































馬杉宗夫 『大聖堂のコスモロジー』 (講談社現代新書)

「しかし、天に向かって伸びようとする垂直的方向性を持つ大聖堂には、円という自己完結的な要素バラ窓は、相反する要素であった。」
(馬杉宗夫 『大聖堂のコスモロジー』 より)


馬杉宗夫 
『大聖堂のコスモロジー
― 中世の聖なる空間を読む』 

講談社現代新書 1120

講談社 
1992年10月20日 第1刷発行
213p 
新書判 並装 カバー 
定価600円(本体583円)
装幀: 杉浦康平+赤崎正一
カバー: シャルトル大聖堂



本書「序」より:

「教会堂建築は、いわゆる人が住むための空間ではない。それは、人々が祈り、聖なる儀式の行われる空間である。教会堂といえども、多くの種類があるし、その機能によって、それぞれの形態も異なってくる。それと同時に、教会堂建築の形態や空間には、それぞれ象徴的意味が隠されている。」
「本書の目的は、教会堂建築をその起源から問い直し、一三世紀の大聖堂(カテドラル)に至るまでの歴史をみながら、結局は大聖堂(カテドラル)として実現された空間の意味や象徴性を探ることである。ヨーロッパ教会堂建築の基本的見方や、教会堂を飾る彫刻や絵画に表現されている象徴性を説き明かすことが、主なる課題である。」
「本書の骨格になっているのは、数年前、あるカルチャー・センターで「象徴としての建築――中世教会堂の見方」という題目で、一〇回程講演した時のテキストである。」



本文中図版(モノクロ)多数。


馬杉宗夫 大聖堂のコスモロジー 01


カバー文:

「そびえ立つ尖塔、内部に広がる一大空間。中世ヨーロッパのキリスト教信仰の深まりの中、刻まれ、組み上げられた石の構造物は神の国を表出する。ロマネスク、ゴシックを中心に美しき大聖堂に込められた意味を読む。」


カバーそで文:

「シャルトル大聖堂――聖母マリアの宮殿――ゴシックの建築家たちは、
鉄筋や鉄骨を使うことなく、白い石を営々と積み重ねることにより、
前人未到の高みを築きあげた。大聖堂は、石の物質性から解き放たれ、
精神的高みに達するかのように、地上に奇跡のごとく建っているのである。
三五・五五メートルの高さに達したうす暗い空間の中に、えもいわれぬ多彩色の震動が伝わってくる。
シャルトルほど素晴しいステンドグラスを持つ大聖堂はほかにない。
それは、質、量、両面で、最高のステンドグラスの輝きにみたされている。
それらは、太陽の動きや雲の動きとともに、微妙な色彩の変化を見せる。
これほどまでに感動的空間があろうか。巨大なパイプオルガンの音が
堂内に響きわたる時、それは多彩色の光の震動と呼応し、われわれの心をゆさぶる。
神を信じない者すらその存在を信じたくなるような空間が、
ここで演出されているのである。――本書より」



目次:


第一章 教会堂の起源とその誕生
 1 教会堂の二つの類型――バシリカ形式と集中式
  永遠の都ローマの聖堂
  バシリカ式聖堂
  古都ラヴェンナのバシリカ聖堂とその装飾――モザイク画
  集中式教会堂
  集中式教会堂の内部装飾――ガラ・プラチディア
  洗礼堂の場合
  教会堂の起源――矩形と円形の象徴性
 2 キリストの肉体としての教会堂
  平面図(プラン)の見方
 3 方位の象徴性
  東に向いて祈る
  西は死の象徴
 4 鐘楼と塔の出現
  ギリシア・ローマには塔がない
  中世の塔が象徴するもの
第二章 修道院建築――ロマネスクの世界
 1 修道院組織の成立
  聖ベネディクトゥスと修道院運動
  修道院建築の全体――フォントネーの場合
  回廊の空間
 2 「神の国」の実現
  修道院付属聖堂
  穹窿の変化
 3 天国への門
  ロマネスク扉口彫刻の誕生
  ティンパヌムのキリスト像
 4 クリュニー派とシトー派
  俗なるものと聖なるもの、両派の美意識
  フォントネー――シトー派の聖堂
  ヴェズレー――クリュニー派の聖堂
第三章 大聖堂(カテドラル)の成立――大聖堂で表現されているもの
 1 光の美学の誕生とゴシック大聖堂
  サン・ドニ修道院長シュジェール
  ゴシック建築の三つの技術的要素
  ゴシック建築の展開――高さと光を求めて
 2 大聖堂の時代
  大聖堂(カテドラル)とは
  聖母マリア崇拝の高まり
  シャルトル大聖堂――聖母マリアの宮殿
  聖母マリアの衣――聖遺物崇拝
 3 シャルトル大聖堂の三つの扉口とバラ窓
  「神の国」実現のために
  西正面扉口彫刻
  北袖廊扉口――聖母戴冠
  南袖廊扉口――最後の審判
 4 バラ窓、その意味と象徴性
  バラ窓の出現
  バラ窓=反ゴシック的要素の採用
  シャルトル大聖堂の三つのバラ窓
  三つのバラ窓の意味と象徴性
 5 ゴシック建築とスコラ哲学――ゴシック大聖堂の変遷
  ラン大聖堂――水平線と垂直線の葛藤
  壁面構成(エレベーション)
  盛期ゴシックへの発展――壁面構成
  ゴシック建築におけるスコラ哲学的発想
  バラ窓に見るスコラ哲学的解決法
 6 宇宙像としての大聖堂
  アミヤン大聖堂――世界の鏡
  扉口彫刻――石の百科全書、世界の鏡
  「宇宙の鏡」「世界の鏡」
  「歴史の鏡」
  「科学の鏡」――月々の仕事
  「道徳の鏡」
 7 《王のギャラリー》の問題
  パリ・ノートル・ダム大聖堂
  《王のギャラリー》の彫刻とその発見
  《王のギャラリー》の意味
  王権と教会権の共存一致
 8 迷宮(ラビリントス)の意味――中世の建築家たち
  ランス大聖堂
  迷宮(ラビリントス)の出現
  迷宮の意味――建築家たちへの賛辞
  中世の建築家たち
あとがき




◆本書より◆


「大聖堂の時代」より:

「ゴシック大聖堂がヨーロッパ中で建造されはじめた一二世紀後半には、聖母マリア崇拝の高まりをみた。それを称揚していったのは、厳格な戒律を課したシトー派の聖ベルナルドゥスであった。しかし、中世史家ジャン・マルカールによれば、聖母崇拝は、一二世紀初頭以来、ノルマンディ地方やブルターニュ地方方面からフランスに入ってきたアイルランド系の信仰だったという。その真偽はともかくとし、聖母マリア崇拝と呼応して、ヨーロッパ中に大聖堂が林立しはじめるのである。実際、大聖堂のほとんどはこの聖母マリア(仏語でノートル・ダム)に捧げられている。
 聖母マリアの「神の母(テオトコス)」としての神性が認められたのは、四三一年のエフェソスの宗教会議であった。それ以前にも、アフリカの北岸から東方地域全般にわたるキリスト教徒の間で、その考えは根づいていた。」
「大聖堂の出現とその発展は、聖母崇拝の高まりと、その伝播の歴史といってよいのである。」
「当時、フランスにおける聖母崇拝の中心地は、シャルトル大聖堂であった。というのは、この大聖堂は、聖母マリアが生前に着ていたという衣の聖遺物を持っていたからである。」
「それは(中略)、八七六年、禿頭王シャルル(カール)によりシャルトル大聖堂に献上されたのである。キリスト教化される以前からドリュイド教礼拝の中心地であったシャルトルは、それ以来、「聖母マリアの衣」を持つ大聖堂として、巡礼者を集めるようになった。」
「「聖母マリアの衣」は白い布であり、現在大聖堂の東端にあるサン・ピア礼拝堂に安置されている。八月一五日の聖母マリアの被昇天祭には、これを持ち出し、街中を聖行列する。」
「有名な聖遺物は、しばしば、大聖堂建造のための資金集めとして、地方巡回に出ることもあった。ラン大聖堂が、一一一二年に火災にあった時、消失をまぬがれた「聖母マリアの肌衣の断片」、キリスト受難の時に用いられた海綿や十字架の一部などの聖遺物を持って、二回まで巡回に出(二回目はイギリスにまで行っている)、大聖堂再建に十分な資金を集めて帰ったという。
 シャルトルの「聖母マリアの衣」も、大聖堂再建の時同様に大きな力となった。というのは、一一九四年六月一〇日の夜から一一日の朝にかけての大火は、シャルトル大聖堂の西正面部を残して、ほとんどすべてを焼きつくしたのである。(中略)ところが、大聖堂とともに焼失したと思われていた「聖母マリアの衣」の聖遺物は、クリプトに安置されていたため焼失をまぬがれたのである。
 悲しみの気持は、歓喜と大聖堂再建の情熱に変わっていった。人々は、今や、聖母自身が、古い聖堂を破壊することをお許しになったのだと信じた。なぜなら、「聖母マリアさまは、彼女の栄光のために、新しい、より美しい聖堂をお望みになっていたからである」。大聖堂再建中の一二一〇年頃書かれた『聖なるマリアの奇跡』の中で、語られている物語である。」
「人々は私財を投げうち、新しいより壮麗な「マリアの宮殿」再建のためにかけつけた。」



「バラ窓、その意味と象徴性」より:

「サン・ドニ修道院という権威(フランス王家の埋葬教会)によって創造されたバラ窓は、次の世代の大聖堂に積極的に採用されていった。それと同時に、バラ窓を身廊の幅いっぱいに大きくしたいという願望が、徐々に強くなっていった。」
「しかし、天に向かって伸びようとする垂直的方向性を持つ大聖堂には、円という自己完結的な要素バラ窓は、相反する要素であった。あえていえば、ゴシック精神に反する要素といえる。実際、垂直的上昇感をいちばん求めたドイツ・ゴシック建築や、水平線と垂直線の二つの方向性の調和を求めているイギリス・ゴシック建築には、バラ窓は採用されていない。ところが、北欧的ゴシック建築を拒否した南欧イタリアでは、積極的に円という要素を西正面にとり入れている。いかに円という要素が南欧的な性格を持つものであるかがわかるのである。
 ゴシック大聖堂が最も華やかに開花したフランスの建築家たちは、この反ゴシック的要素ともいえる円形のバラ窓を、扉口上部に積極的に採用し、それを調和させようと努力している。」
「こうしたフランス・ゴシック建築家たちの態度の中に、美術史家パノフスキーは、中世スコラ哲学者の発想法を見た。すなわち、一つの論題があればそれに相矛盾する反論題を出し、それに解決を与えていく中世スコラ哲学者たちの弁証法ともいえる論理の発展の仕方が、バラ窓という反ゴシック的要素を、あえて大聖堂に採用し、それを調和させようとするゴシック建築家の態度にも見られるのである。(中略)ゴシック時代の美意識は、「種々異なったものの調和」(トマス・アクィナス)にあったのである。」





こちらもご参照下さい:

アーウィン・パノフスキー 『ゴシック建築とスコラ学』 前川道郎 訳 (ちくま学芸文庫)






































柳宗玄 『秘境のキリスト教美術』 (岩波新書)

「暗さは人間に恐怖を与えるが、また人間の心を騒がしい現世から引離して、音のない深い孤独の淵へ引き込む。暗黒の墓室に閉籠った聖アントニオスの例に倣うまでもなく、修道士たちはこの暗さと静けさとを必要としたに違いない。」
(柳宗玄 『秘境のキリスト教美術』 より)


柳宗玄 
『秘境のキリスト教美術』
 
岩波新書 青 661/E 63 

岩波書店
1967年11月20日 第1刷発行
1986年5月10日 第4刷発行
v 208p 口絵(モノクロ)2p
新書判 並装 カバー
定価480円



巻頭に地図1点。本文中図版(モノクロ)多数。


柳宗玄 秘境のキリスト教美術 01


カバーそで文:

「荒涼としてひろがる岩山と谷の中に、肉体の欲求を捨ててひたすら純粋な魂の生活に入ろうとした修道僧たちの聖堂が眠る。著者は、千数百年の昔トルコやヨーロッパの秘境につくられた数々の聖堂を訪ね、そこに描かれた壁画や図像にじかに触れた。その体験をもとにした本書は、読者を秘境へいざないつつ宗教美術とは何かを明らかにする。」


目次:

生と死の狭間にて
砂漠の隠修士たち
秘境カッパドキヤ
洞窟の修行生活
壁画と修道士
抽象画の意味するもの
洞窟聖堂の人像
空中の修道者
聖山アトス
ヴァトペディにて
聖母大祝日の夜
霧深き聖人の島
北方の抽象芸術
ベネディクト派の美論
フォントネーの森にて

あとがき (1967年10月)
 補記 (1980年8月)




◆本書より◆


「砂漠の隠修士たち」より:

「水が、高きから低きに就くように、人間は住み易い場所へ豊かな土地へと移ってゆくものだ。それは生物一般の本性である。ところが修道士は逆流する。貧しい土地へ、きびしい自然へと移ってゆく。これは、他の生物には見られない、人間特有の現象である。いやそれは、非人間的ともいうべき行動かもしれない。そしてこの種の非人間的人間は、単にキリスト教社会に止らず、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥ教など、いろいろな宗教の社会にもいたのである。
 この異常な現象、人間特有の現象は、考えようによってはそれこそ人間的なのかもしれぬ。安楽な生活を求める欲求は、人間的というよりは、むしろ生物的である。動物的であり、あるいは植物的である。それは生物の本能に発するものだ。そして人間の大部分は、たしかにただの生物である。しかし一部の人間は、そのような生物的生命のはかなさを自覚し、生物の域を離脱しようとする。パンだけで生きることに満足しない。それはある意味で生物たることの否定であり、また生物としての人間の否定である。物質の、有限なるものの、否定である。かくて彼は、生物的環境を、俗界を、放棄する。生活するに安易な自然から、脱出する。赴くところは死の世界でないとすれば、死の一歩手前の世界である。」
「ヨーロッパ語の moine (仏)、monk (英)、Mönch (独)などは、いずれもギリシャ語の monos から出ており、これは「一人住む者」、「孤独な人」を意味する。彼は、社会から離れ俗世から身を隠した脱出者なのである。」
「いかなる社会にも、脱出者はある。無法者、敗者、奴隷、迫害される者……。しかし修道士はそのような消極的な脱出者ではない。積極的にある場所に自ら進んで赴くのである。彼は苦しみから逃れるために脱出するのではない。むしろ自ら苦しみを求めて、砂漠や荒野に入るのである。」

「最初の修道士――というよりは隠者――は、エジプトに現われた。」

「この種の隠修士は、次第にその数を増したがそのうちの一人、アレクサンドリヤの人マカリオス(幸いなる者の意、三〇〇頃―三九一)の修行ぶりは、まさに超人的である。彼の弟子パラディオス(中略)の遺した記録には次のような文章が見える。
 「ある日、マカリオスがその独房で坐っていると、一匹の蚊が飛んできて彼を刺した。彼は痛みを感じてそれを叩き潰した。しかし彼はすぐに、仕返しのために蚊を潰したことを悔い、セテの沼地に六ヵ月の間裸体のまま止る決意をした。そこは人気のない広大な場所で、雀蜂ほどもある大きい蚊がおり、その針は猪の皮をさえ刺し貫くほどだった。彼が独房へ戻ったときは、その蚊のために姿が変り果ててしまい、誰もが彼は癩病にかかったのだと思ったほどで、声によってやっとそれが聖マカリオスだと知れた次第である。」」
「マカリオスはさらに、(中略)七年間なま物だけを食し、三年間信じられぬほどの量しかパンを食べず、二十日間眠らず、四十日間完全に断食して同じ場所で声も出さず動きもせず(ただし生理的必要の場合は別――と伝記の筆者はていねいに書き加えている)、また同じ日数の間、多少趣きを変えて、日曜日になまのキャベツの葉を数枚食べるだけにした……という。」



「壁画と修道士」より:

「キリスト教徒は、古代風の図像や様式を少しずつキリスト教的に変質させようとする。しかし、キリストの肉体は仮のものではないかとか、肉体は悪ではないか(グノースィス派、マニ派など)といった疑問が起っているとき、キリストの姿が直接に描かれないのは当然である。こうしてキリストは記号(頭文字の組合せ、十字架など)、あるいは具象的象徴(魚、羊、葡萄樹、羊飼いなど)によって表現される。福音書の場面も描かれるが、描写は極めて簡単で、キリストの姿は幻のようにしか描かれない。」


「抽象画の意味するもの」より:

「カロリング朝以前の西洋では、抽象的装飾的感覚が支配し、地中海方面で発達した人像の芸術は、ほとんど支配力をもたなかった。人像がたとえ姿を見せるとしても、それは抽象的な形態の原理によって極度に作り変えられてしまっている。
 カロリング朝における人間主義は、その時代の美術のすべてを支配したのではない。この時代には、地中海的な人像芸術の原理が、北方的抽象芸術の原理と共存していたのである。しかしもしカロルス大帝が地中海の古代文明の復興を試みなかったら、西洋のキリスト教美術は、回教美術と同様、人間像を否定した抽象芸術ないし装飾芸術の方向に進んで行ったことだろう。
 そうならなかったことは幸いなことだ、と人は言う。そしてカロリング朝の古代復興を賞め讃える。しかしそれは一面的な見方のように思われる。事実はこのカロリング朝の芸術においてさえ、抽象主義芸術、人間像否定の芸術が強力に残っていたのだ。そしてそれは次第に滅び去って行ったのではなくて、ロマネスク時代にまで強力に残り、この時代の芸術様式の形成に大きい役割を演じたのである。」



柳宗玄 秘境のキリスト教美術 02


「空中の修道者」より:

「シリヤは東方に海原のような広大な砂漠をもち、それによってメソポタミヤからイランへと繋がっている。五世紀には、この地方の教会は、エジプトのコプト教会とともにキリスト単性説の立場をとって、ビザンティン教会と縁を絶った。(中略)ここで、エジプトとは異なったさまざまの修行形式が発達したのである。
 そのうちとくに目立つものは柱上修行である。修道士は、エジプトの修道士が人の住む町や村を逃れて砂漠に入ったのとは異なって、地上に立つ柱の上にのぼり、そこを修行の場とするのである。彼は柱上のごく狭い台の上に身を置くのだが、地上の人々よりは多少とも天に近付き、無限に広い空間の中にあって神と会話をする。そこでは、彼に慕い寄る人がいかに数多く集まろうと、彼は常にその孤独を乱されることはないのだ。
 最初のそして最も代表的な柱上修行者は聖スィメオンである。」
「スィメオンは、三八九年にシリヤと北隣キリキヤの国境のニコポリス近くの村で生まれ、最初は羊飼いをしていたが、やがて、アレッポ西北にあるテレダ修道院に入った。しかし共住の生活も長く続かず、彼は涸れた井戸の中へ入り、あるいは山麓の小屋に籠って四十日間の断食を行い、さらには山頂に石垣を巡らしてその中に籠り、自らの足を鉄鎖で岩に繋ぐなどして、隠修の行を続けたという。しかし最後には石柱の頂に上って、そこで修行することを始めた。
 この修行形式は、すでにシリヤの異教にあり、シリヤのヒエラポリスの町では、女神アタルガティスを崇めるために、祭司が男根を象った高さ五二メートルもある巨大な柱の頂に上がって一週間止ったという。」
「聖スィメオンの上った最初の柱は、たいして天に近くはなく、高さ五メートルほどだった。それが六メートルになり一一メートルになり、最後に彼が死を迎えるまで止ったカラート・セマーンの柱は高さ二五メートルにも達したという。その柱の頂に、ちょうど身を横たえられる程度の四メートル平方の台が載っていて、落ちるのを防ぐためにそれに欄干が巡らされていた。そこに彼は、あるいは祈りあるいは礼拝をして一日中立ち続け、しかもそれも、片足だけで立っていたという。そして夜になっても、両手を天にさし上げたままで、眼もつぶらず、休もうともせず、祈り続けた、と伝えられる。
 そういった状態で、聖人の足はしびれ、傷や潰瘍に蔽われ、腐り、「彼の体から無数のうじ虫が這い出して足元に落ち、足元から柱に、柱から地に落ちるのだった。地上では、聖人に奉仕し、そしてそれらのことすべてを書き記したアントニオスなる若者が、聖人の命令に従って、地に落ちたうじ虫を拾い集め、それを柱の上に投げ返した。スィメオンはそれをまた傷口に戻して、『神が汝らに与えたものをp食べよ』といった。」
「彼は四五九年に柱上で死んだが、その柱上修行は計二十七年に及んだ。」
「彼の生前、すでに彼の修行に倣う者が出はじめた。アンティオキヤ生まれの修道士ダニエルは、彼に見倣ってコンスタンティノポリスの附近で柱上修行をはじめたという。それを見た近衛士官なるティトウスは、腋の下に綱をくぐらせて宙吊りになったまま地に足をつけない、新しい苦行法を考え出したという。
 七世紀に入って著名な柱上修行者が二人出た。一人は聖スィメオン二世で、彼は七歳にしてすでにアンティオキヤの附近の山中に籠り、幼少にして早くも柱上修行を始めた。一時は彼を取巻く群集が多く集まりすぎたため、そこを逃れて十年間山中に籠り、三十歳にしてまた柱上に戻り、七十五歳に死ぬまでそこに止ったという。もう一人の柱上修行者は、非j利いアリピオスで、彼は小アジヤ黒海沿岸のポントゥス地方なるハドリヤノポリスで二十九年の間柱上に止った。」
「柱上修行者は、さらに東はメソポタミヤ、西は小アジヤ西海岸からギリシャ方面に至る広域に現われた。十世紀のある記録によると、ゲトセマニには百人の柱上修行者が一人の長を中心にして集まったという。林のように立ち並ぶ百本の柱の上に一人ずつ人間が乗って修行するさまは、さぞ異様な風景であったに違いない。その後も柱上修行者は少なくとも十二世紀までは各地に見られ、ギリシャのアトス山では、十六世紀に至ってなおいたという。」

「それは石柱に似てしからず、巨大な垂直の岩塊である。その頂点は水平の小さい台地になっていて、そこに一人の修行者ならぬ一つの修道院が載っている。(中略)これが、ギリシャ中部のテッサリヤ地方に残る天下の奇勝、タ・メテオーラ・モナスティリヤつまり空中の修道院である。」
「私はここでふと、私たちが宗教美術と考えてきたものにある種の疑問めいたものを感じる。宗教美術とはいったい何なのか。それは、祈り、礼拝し、修行する人間のために造られた空間であり、空間の装飾であり、そこに置かれるものである。いいかえれば、形態や色彩による空間の聖化なのだ。」
「さて、メテオーラ修道院の美とは何か。それは何ゆえに聖なる印象を与えるか。今日辛うじて生き残っている修道士たちはともかく、かつてこの土地を修行の地として選び、そこに修道院を建立した人々、かつてその修道院を知り、そこに入った人々、そしてそこで一生を終った人々は、この巨岩の頂に載る修道院を、どのように思っていたのであろうか。(中略)ここでは美術はほとんど問題ではない。自然が、あの巨岩の柱が、アルファでありオメガであるのだ。」
「私たちは、宗教美術史以外に、それをも包容する別の歴史を考えなければならないのではないか。人間の作り出した芸術だけでなく、さらに彼の選び出した自然を加えた歴史である。彼がある種の自然を選んでそこに自分を置くということは、ある種の建物を造りそれをある種の絵で飾る、というのと同様に、彼の創造なのである。そういう意味での創造の歴史というものが当然あってしかるべきではないか。
 従来の宗教美術史の立場からすれば、メテオーラ修道院は、巨岩の上に乗っているあの建物の部分だけが問題なのである。ところが、あの聖堂やその内部の壁画などは、ここでは全く小さい問題なのであって、ここでは、それらが絶壁に囲まれた巨岩に載っているということに、そしてまた、その巨岩そのものに、問題のすべてがあるように思われるのである。」



「聖山アトス」より:

「変り種は、一人のアメリカ人修道士である。これは私がアトス山で人に聞いた話であるが、彼はまだ学生のとき、この聖山を訪問して心を打たれ、そのまま黒衣の人となって山に止り、今なお修行を続けているという。これはいささか物語的である。(中略)ここでは、現実そのものが、いわば伝説的なのだ。ここは現代であると同時に中世なのだ。」


柳宗玄 秘境のキリスト教美術 03


「ヴァトペディにて」より:

「要するにヴァトペディの聖堂は、老いることなく、それが造られた中世当初の姿を、おそらくそのまま今日に伝えているのだ。何年に一度かは知らない、絶えず塗り直されてきたのだ。古色の出る余地もなく、絶えず「現在のもの」として保存されてきたのだ。ここでは中世は遠い過去の夢ではない。それは生きた現在なのだ。というよりは、アトス山では中世と現代という異なった歴史概念はないのだ。」
「この二千年以来、俗界の政治地図がどのように塗り変えられてこようと、国家や民族のどのような諍いがあろうと、そういうことは、問題ではないのだ。」
















































































































柳宗玄 『西洋の誕生』 

「要するに人間の形はない。動物はいない。(中略)これは要するに抽象一色の世界である。それを支配しているものは、組紐文である。三条の線によって構成された平たい紐が、曲線を描いてうねりながら作り出す文様の世界である。」
「ともかくここでは、まったく執拗に、組紐文がすべてを支配している。十字架を構成し、アーチを描き、そして隙間があるとそこに進出してそこを満たす。(中略)また初めも終りもない。」

(柳宗玄 『西洋の誕生』 より)


柳宗玄 
『西洋の誕生』


新潮社
昭和46年10月25日 印刷
昭和46年10月30日 発行
293p(うち図版40p) 
索引vii 口絵1葉 
四六判 丸背布装上製本
本体カバー 機械函
定価1,000円
写真: 著者現地撮影



本書「あとがき」より:

「本書は、一九六九年、「藝術新潮」に一年間(但し十一月を除く)連載したものに、多少加筆訂正したものである。上梓に当り、「水に生きるもの」、「死者の舟・生者の舟」および「羊の国にて」の三章は、新たに書き足した。」


カラー口絵1点、別丁モノクロ図版52点、本文中図版(著者によるカット)18点。
新潮社の美術書シリーズ。他には岡本太郎『美の呪力』、高橋巌『ヨーロッパの闇と光』などが出ていました。


柳宗玄 西洋の誕生 01


帯文:

「アイルランド、小アジヤの秘境からヨーロッパ中枢のロマネスクまで、異教的母胎からの西洋美術誕生の息吹きを追い続けて綴る力強いヒューマニズムの書。」


帯裏:

「われわれの知る西洋の歴史は果して真実を伝えているか。
 正統派によって正統派のために書き残された従来の歴史に疑問をなげ、その周辺にさまよう恨み深き異端の亡霊を、眼と魂と足とで追い続けてきた美術史家が、今に残る様々な造形的遺物や日常的な慣習・逸話をとおして、歴史の檜舞台に甦えらせた生きた人間の歴史。」



柳宗玄 西洋の誕生 02


目次:

まえがき
太陽神キリスト
聖樹より十字架へ
幻の「木の文化」
生命の泉
水に生きるもの
死者の舟・生者の舟
羊の国にて
巨石の伝統
山岳信仰の流れ
十字文の世界
謎の組紐文
聖母の誕生
古代彫刻の終焉
不肖の像
あとがき

索引
 聖書引用
 主題・事項
 主要地名・人名



柳宗玄 西洋の誕生 03


「口絵: 生命の樹と鳥 壁画 1200年前後 北イタリヤ・アクイレイヤ大聖堂の地下聖堂。生命の樹は、実を垂らした椰子の樹で、幹にはさらに唐草がからまっている。リボンを首に巻きつけた鳥は、ササン・ペルシヤ系。乾燥した砂漠地帯に発した楽園のイメージ。」


柳宗玄 西洋の誕生 04



◆本書より◆


「まえがき」より:

「西洋の学者は、西洋の形成という問題を扱うとき、いかにして西洋が、西洋以前(古代地中海文明およびケルト・ゲルマン文明)、および西洋以外(オリエントないしアジヤ文明)と異なるものとして成立したかという点を強調しようとする。西洋の形成の中心的契機をなしたと思われる新興のキリスト教に関しても、それがいかに従来の宗教(西アジヤ、近東、エジプト、北欧などの)を超克したものであるかという点に問題点を置く。それは当然であろうが、そのために西洋ないしキリスト教が、非西洋世界や異教に負うた多くのものを無視ないし軽視することがあってはならないのである。私は、(中略)西洋の誕生が、いかに多くのものを、外の世界に負うていたかということを、少していねいに見てゆきたいと思う。(中略)西洋という概念、キリスト教という概念は、長い年月を経て形を成してゆき、後世の史家がそれを認定したものなのであって、形成期においては、西洋は東洋(ないし東方)と交錯し、キリスト教は異教を下積みとして築きあげられたものなのである。」


「聖樹より十字架へ」より:

「ここで注意したいのは、西洋の中世美術における植物文の地位である。西洋の美術史家は、近世以降の古典主義的ヒューマニスムの伝統に従い、意識すると否とにかかわらず、美術史を人間表現の歴史と解し、ほとんど常に人間像を歴史的に追うことで満足してきた。ところが事実は、或る時代には人間像は従であり、あるいは積極的に否定されさえしたのである。そのような時代の美術を扱うときは、当然、主の位置を占める主題を探り出し、その本質を極めることをしなくてはならない。(中略)本質的な主題というものをそれぞれの時代に探るつもりでカロリング朝美術、ロマネスク美術などを見直すとき、通説に反して植物が極めて重要な位置を占めていることがわかるであろう。」


「幻の「木の文化」より:

「歴史を記述するとき、文字によって書き遺された過去の記録(古文書、金石文など)、現存する遺物(発掘品から建造物に至る)などが主な史料として用いられることは周知のことである。(中略)しかし実はこれらの歴史は一般の人が思っている以上に、曖昧なあるいは偏(かたよ)った部分が多いのではなかろうか。
 たとえば日本の歴史にしても、文字のなかった時代――古墳時代まで――に関しては、はなはだ心もとないものである。(中略)しかし濃霧に包まれたような「先史」という領域に置きざりにされた時代にも、絢爛(けんらん)たる文化や歴史劇が繰り拡げられていたかもしれないのである。」
「転じて西洋を見ると、やはり文字をもたなかったために(中略)歴史の中で極度に軽視されてきた一時代がある。ケルト人の時代がこれである。
 ケルト文化は、周知のように紀元前千年頃(異説あり)から中部ヨーロッパに出現し(いわゆるハルシュタット文化)、前五百年頃から次第にヨーロッパ全域に広く根を張り(ラ・テーヌ文化)、西はブリテン島、イベリヤ半島(中略)から東はバルカン半島、南ロシヤから小アジヤ(中略)にまでの広域に伸び拡がった文化である。ケルト人(一民族ではなく多数の民族の構成体)は、末期にアイルランド方面に現われたオガム文字(五、六世紀)など特殊な例を除き、一般的に文字をもたなかった。従ってその歴史は、前六世紀以降のギリシャおよびローマの著述家たちによって、間接的にそしておそらく多かれ少なかれ偏った見方によって、伝えられてきたにすぎない。(中略)歴史学が次第に科学性を強めるにつれて、不確かなものは排除されてゆき、こうしてケルト文明は歴史から疎外されてしまったのである。これは、一般に文字をもたぬ(または文字がまだ解読されぬ)文化の辿る運命なのである。それがいかに豊かなものであろうとも。」

「ところで、耐久性のある素材を用いたために今日にまで遺った(中略)品々の他に、耐久性のない素材――木、皮、布など――による重要な芸術の分野があったのではないか。とくに私は、ギリシャ・ローマの「石の文化」に対して「木の文化」とでも称すべきものがあったのではないかと想像する。それは今はほとんど痕跡を残さないが、少なくとも形成期の西洋文化において重要な役割を演じたに違いなく、その投影が中世美術――とくに建築――において認められるのではないか。
 「ゴール人」(ケルト時代のガリヤ――今のフランス――の住民)を書いたレジーヌ・ペルヌー(中略)はケルト時代の森の役割について次のように言う。「歴史家、経済学者、社会学者などが、人間は耕作した土地にのみ居住しうると考えて、人口の算定基準を耕地面積に置くのは、誤りではなかろうか。今日のわれわれは、森の生活、森の中の生活がどういうものであるかをもう忘れてしまっている。(中略)われわれにとっては、森は砂漠である。ところがケルト時代そしてそれに続く中世の全時代には、森はヌリスィエール(養い育てる者)であった。人々は森に植林し、森を回り、それを愛した。木を伐っても伐り絶やしはしなかった。聖樹の信仰は、樹木への愛情と樹木に捧げられた敬虔の情とをわれわれに示すものである。それは、数千年も生き続けた森林を見境もなしに荒し回った北アメリカの商人たちとはまったく正反対の態度である。これらの商人は森の資源を売り払い、競って森つまり土地を荒廃させ、また森の獲物を殺戮(さつりく)(インディアンのことは言うをまたず)したのだ。(中略)森が次第に消滅して破局的な荒廃にまで至った例をわれわれの国の中に求めることができる。例えば高プロヴァンス地方などは、かつては非常に繁栄していた地域で、裕福で人口も多かったのだが、今はもう荒廃してしまった(中略)。以上のような森の消滅は、軍事的な理由(艦船の建造)、工業的な理由(冶金工業から炭坑の組織的開発にいたる)に主として由るものである……」」
「こうしてケルトの木の文化の遺品はほどんど消えてしまったのだが、ヨーロッパの中正にそれがどれだけ痕跡を残しているだろうか。」

「思うに、ケルト的感覚は、早くからヨーロッパの地に根を下ろし、土着のものとなっていたのである。それは、金属および石を材料とするラ・テーヌ期の人像(中略)によって知られるが、(中略)おそらく木彫は盛んに行われたのであろう。その伝統が、ロマネスク時代に入って聖母子像や磔刑像に甦ったものと思われる。」



「生命の泉」より:

「水というものは、本来それ自体は定まった形をもたぬものである。(中略)この摑みようのない「水」を、とくに西洋中世と限らずそれぞれの時代や社会がどう表わしたかは興味ある問題である。」
「最も単純な水の形は、ジグザグの線を幾つか重ねたものである。」
「水の形として極めて幻想的なのは、一種のひねり紐文である。毛糸の太い丸い輪を伸ばして一ひねり二ひねりしたような形である。(中略)聖樹の根本にこの種の「水」を表わした例は他にもササン・ペルシャに多く、テヘラン美術館にあるストゥッコ浮彫には、鹿がこの「水」を飲んでいる例もある。」



柳宗玄 西洋の誕生 05


「水に生きるもの」より:

「魚がキリストの象徴であることは、一般に次のように説明されている。つまり、魚を意味するギリシャ語「イクトウス」の綴りを構成する文字が、「イエスス・クリストス・テウ・ウィオス・ソテール」つまり「イエスス・キリスト、神(の)、子、救い主」なる五語の頭文字だけを繋いだものと一致し、従って、魚はキリストの象徴だというのである。
 しかし魚を神聖視するのは、キリスト教に始まったことではない。古きバビロンにはオアンネスなる魚神(半人半魚)がいて文化を開いたと伝えられる。」
「とくにシリヤではアタルガティス神(豊饒の女神)に関連して、魚を聖なるものとして崇める習慣が拡がっていた。魚と鳩がこの女神に供えられた。アタルガティスは、ときには半人半魚の姿で表わされた。伝えによると彼女は湖に落ちて魚に助けられたといい、別の伝えでは、魚そのものに変じたという。アタルガティスの神殿には魚を入れておくプールがあった。(中略)このシリヤの女神の信仰はさらにエジプトからギリシャ各地にまで拡がったようである。」



「十字文の世界」より:

「十字文も、(中略)本来は太陽の象徴から生れたものらしい。その最も古い形は、単純な十字よりもむしろ前述のスワスティカ(まんじ)であり、あるいは円環に組み入れた十字(一種の車輪文とも解しうる)である。この両者は本来同一のものかもしれない。(中略)この両者はいずれも回転する太陽と解釈することが可能である。
 スワスティカは本来「幸福な生」を意味するサンスクリット語が語源であり、おそらく西アジヤあたりが起源で、東はインドから日本にまで拡がり、西は小アジヤから地中海、エトルリヤ、ケルト・ゲルマンに拡がり、キリスト教社会でも初期のカタコンベ(中略)からアイルランドの十字架、メロヴィング朝の装身具、貨幣、さらには祭壇彫刻にまで用いられ、それがロマネスク時代まで続く(中略)。これらは十字文と組合せになりあるいは十字文と同じ意味で単独で用いられている。つまりスワスティカというおそらく紀元前数千年にも遡る異教の聖なる印が、かなり長期にわたってそのままキリスト教に利用されたわけである。」



「謎の組紐文」より:

「オーストリヤの南部山岳地帯ケルンテンのグルクに近いザンクト・ペーターなる村の教会で、私は興味ある浮彫を最近見かけた。」
「三条の線より成る組紐文で塡められた十字架を中心とし、その左右には、上方に螺旋文、下方のかなり広い空間には回転しながら次々と進んでゆく線条文が刻まれている。」
「要するに人間の形はない。動物はいない。(中略)これは要するに抽象一色の世界である。それを支配しているものは、組紐文である。三条の線によって構成された平たい紐が、曲線を描いてうねりながら作り出す文様の世界である。」
「ともかくここでは、まったく執拗に、組紐文がすべてを支配している。十字架を構成し、アーチを描き、そして隙間があるとそこに進出してそこを満たす。(中略)また初めも終りもない。」


























































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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